• 検索結果がありません。

世界の中から、世界を眺める ―ベルクソンと西田幾多郎における生成の連続性と非連続性―

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "世界の中から、世界を眺める ―ベルクソンと西田幾多郎における生成の連続性と非連続性―"

Copied!
27
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

世界の中から、世界を眺める

―ベルクソンと西田幾多郎における

生成の連続性と非連続性―

愛知県立大学

 長谷川 暁 人

1.はじめに  西田幾多郎はベルクソンから大きな影響を受けている。西田がベルクソ ンを本格的に読み始めたのは『善の研究』(1911)以降だが、この時期の 西田にはベルクソンの純粋持続概念に対する好意的な評価や解釈が多くみ られる。一方で、『自覚に於ける直観と反省』(1917)などの中期の著作 において、西田はベルクソンへの批判を強めていくことになる。そうした ベルクソン批判の論点のいくつかは、後期の『無の自覚的限定』(1932) においても保持されている。自覚、場所から働くものへと移行していくこ の時期の西田に何があったのか。そして、その批判はベルクソンに妥当す るのだろうか。  他方でベルクソンは『意識の直接与件』(1889)において純粋持続論を 打ち立てて以降、『物質と記憶』(1896)、『創造的進化』(1907)と、一貫 した持続の理論のもとに、次第に世界そのものの生成について語るように なる。  本論では、西田とベルクソンの思想的な背景を突き合わせながら、両者 における生成の理論を比較する。まずは初期西田の純粋経験論と、ベルク ソンの純粋持続説の類似点と相違点を探る。その後、西田がベルクソンか ら離れる契機となった自覚の論理を確認し、そこから生まれるベルクソン 批判について概観する。最後に、こうしたベルクソンに対する批判を、ベ ルクソン哲学において内在的に乗り越えられるかを検討する。

(2)

2.西田幾多郎における純粋経験 2-1.純粋経験とはどのような経験か  西田は『善の研究』において、純粋経験を以下のように定義している。 経験するといふのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実 に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といって居る者も其実は何 等かの思想を交へて居るから、毫も思慮分別を加へない、真に経験其儘の状態を いふのである。例へば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、 我が之を感じて居るとかいふやうな考のないのみならず、此色、此音は何である といふ判断すら加はらない前をいふのである。それで純粋経験は直接経験と同一 である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其 対象とが全く合一している1 ここでは、まだ「私という主体がその対象(客体)を認識している」とい う判断が生まれる以前の、経験そのまま=直接経験の状態が純粋経験であ ると語られている2。こうした直接経験の状態は、おそらくほとんどの人 にとっては事後的にすら自覚されないまま過ぎていくようなものであろ う。だが、次のような純粋経験が継続する場面を想定してみよう。 純粋経験の現在は、現在に就て考ふる時、已に現在にあらずといふやうな思想上 の現在ではない。意識上の事実としての現在には、いくらかの時間的継続がなけ ればならぬ。即ち意識の焦点がいつでも現在となるのである。それで、純粋経験 の範囲は自ら注意の範囲と一致してくる。併し余は此の範囲は必ずしも一注意の 下にかぎらぬと思ふ。我々は少しの思想も交へず、主客未分の状態に注意を転じ て行くことができるのである。例へば一生懸命に断岸を攀づる場合の如き、音楽 1 西田(2003), p. 9. 2 例えば小坂国継は次のような例を挙げている。「例えば、道を歩いていて、思いがけなく野 辺に咲く花を見、「アッ!」と驚きの言葉を発したその瞬間の状態が純粋経験である。その 瞬間においては自分と花は一体になっていて両者の区別はない。ただ一つの事実があるだ けである。しかるに、そこに反省的思惟が働いて、「私が花を見ている」とか、「その花は 月見草である」とかいった判断が生ずると、私と花、主観と客観が分離してくる。純粋経 験とは、このような思慮や分別の加わる以前の、意識の統一的状態のことである」、小坂 (2002), p. 93.

(3)

家が熟練した曲を奏する時の如き、全く知覚の連続といつても良い。又動物の本 能的動作にも必ずかくの如き精神状態が伴うて居るのだろう3 このように、純粋経験における「現在」は幅を持ちうるものであり、深い 注意のもとに、主客の統一が保たれることもある。  しかし、いずれにしてもこのような原初的な純粋経験=直接経験の段階 で経験が完結することはない。私たちの純粋経験には必然的に反省的な判 断が介入してくるからである4 それで、如何なる意識があつても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつで も純粋経験である、即ち単に事実である。之に反し、この統一が破れた時、即ち 他との関係に入つた時、意味を生じ判断を生ずるのである。我々に直接に現はれ 来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いて来るので、之が現在意識の一部と 結合し一部と衝突し、此処に純粋経験の状態が分析せられ破壊せられるやうにな る。意味とか判断とかいふものはこの不統一の状態である5 このように、主観と客観の対立が明確になり、そこに意味や判断が生じて くると、純粋経験の統一性は破られることになる。反省的思惟によって、 自己と対象が切り分けられ、意識に不統一がもたらされるのである。  とはいえ、こうした反省的な契機を経て、意識は再び合一した状態へと 至ることができる。それは、いわば意識の理想的な合一状態であり、優れ た芸術家や、深い洞察を得た宗教家などが至りうる境地である。こうした 状態は知的直観の純粋経験と呼ばれる。 3 西田、前掲書、pp. 10-11. 4 例えば、初生児の意識などもこうした原初的な純粋経験の一つであると言える。こうした 例については、ウィリアム・ジェイムズの純粋経験論との関連を指摘することができるだ ろう。「意識は決して心理学者の所謂単一なる精神的要素の結合より成つたものではなく、 元来一の体系を成したものである。初生児の意識の如きは明暗の別すら、さだかならざる 混沌たる統一であらう。此の中より多様なる種々の意識状態が分化発展し来るのである」 西田、同書、pp. 11-12. 5 西田、同書、p. 14.

(4)

モツァルトは楽譜を作る場合に、長き譜にても、画や立像のやうに、その全体を 直視することができたといふ。単に数量的に拡大せられるのではなく、性質的に 深遠となるのである。例へば我々の愛に由りて彼我合一の直覚を得ることができ る、宗教家の直覚の如きはその極致に達したものであらう6 知的直観といへば主観的作用の様に聞えるのであるが、その実は主客を超越した 状態である、主客の対立は寧ろ此の統一に由りて成立するといつてよい、芸術の 神来の如きものは皆此境に達するのである7 2-2.純粋経験の諸段階  ここで、上記の三つの経験の関係性が問われなければならないだろう。 直接経験=原初的な純粋経験と反省的思惟、そして知的直観はどのような 関係にあるのだろうか。  西田は、意識はそもそも分化し発展していくのが通常のあり方なのだと 考える。そして、そうした意識の発展の諸段階が、直接経験であったり、 反省的思惟であったり、あるいは知的直観であったりするというのである。 我々の意識の原始的状態又は発達せる意識でもその直接の状態は、いつでも純粋 経験の状態であることは誰しも許す所であらう。反省的思惟の作用は次位的に之 より生じた者である。然らば何故に此の如き作用が生ずるのであるかといふに、 前にいつた様に意識は元来一の体系である、自ら己を発展完成するのがその自然 の状態である、而もその発展の行路に於て種々なる体系の矛盾衝突が起つてくる、 反省的思惟はこの場合に現はれるのである8 意識はその本性として分化発展していくものであり、そこには先に挙げた ような典型的な三つの諸段階が見出される。そこでは、直接経験や知的直 観のような主客合一を実現している状態だけでなく、統一を破るものとし て導入されている反省的思惟さえもが純粋経験の一部とみなされる。 6 西田、同書、p. 34. 7 西田、同書、p. 35. 8 西田、同書、pp. 20-21.

(5)

それで、如何なる意識があつても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつで も純粋経験である、即ち単に事実である。之に反し、この統一が破れた時、即ち 他との関係に入つた時、意味を生じ判断を生ずるのである。我々に直接に現はれ 来る純粋経験に対し、すぐ過去の意識が働いて来るので、之が現在意識の一部と 結合し一部と衝突し、此処に純粋経験の状態が分析せられ破壊せられるやうにな る。意味とか判断とかいふものはこの不統一の状態である。併しこの統一、不統 一といふことも、よく考へて見ると畢竟程度の差である、全然統一せる意識もな ければ、全然不統一なる意識もなからう。凡ての意識は体系的発展である9 先に述べた経験の三つの段階は、一つの意識の体系的な発展・分化の過程 であり、そしてそれらは厳密な切り分けができるものではなく、程度の差 によって推移していくものである。そのように考えれば、私たちの意識は そのすべての段階において純粋経験と呼ぶことも可能になる。 純粋経験はかく自ら差別相を具へた者とすれば、之に加へられる意味或は判断とい ふのは如何なる者であらうか、又之と純粋経験との関係は如何であらう。普通では 純粋経験が客観的実在に結合せられる時、意味を生じ、判断の形をなすといふ。併 し純粋経験説の立脚地より見れば、我々は純粋経験の範囲外に出ることはできぬ10 されば純粋経験の事実は我々の思想のアルファであり又オメガである。要するに思 惟は大なる意識体験の発展実現する過程にすぎない、若し大なる意識統一に住して 之を見れば、思惟といふのも大なる一直覚の上に於ける波瀾にすぎぬのである11 原初的な純粋経験の統一状態を破る反省的思惟ですら、知的直観に至るた めの不可欠な契機であると捉えれば、一種の純粋経験なのである。  しかし、純粋経験の統一的な意識状態を規定しておきながら、それと反 するような状態すらも広義の純粋経験に組み込んでしまうことは、実際上 9 西田、同書、p. 14. 10 西田、同書、p. 14. 11 西田、同書、p. 21.「併し一面より見て斯の如く矛盾衝突するものも、他面より見れば直に 一層大なる体系的発展の端緒である」。も参照。cf. 西田、同書、pp. 20-21

(6)

それらの区別を意味のないものにしてしまうのではないだろうか。当然起 こりうるこうした批判に対し、西田は『思索と体験』の「高橋(里美)文 学士の拙書『善の研究』に対する批評に答う」において応答している。西 田はここでも同様に、「統一の弱きものは弱いながらに、其の強いものは 強いが儘に、それぞれの統一の程度を有しつつ同じく純粋経験であると云 つてよいと思ふ12」という形で、広義の純粋経験と狭義の純粋経験という 枠組みを使い分けることでこの区別を保持することができると考えていた ようである。  小坂はこの純粋経験の三段階を次のようにまとめている。 こうして純粋経験は三つの段階ないし意味を有することになる。 (1)まず、それは意識の原初的ないし直接的な統一状態である。これは純粋経験 の最初の定義である。 (2)次に、それは意識の分化・発展の側面をも意味する。これは純粋経験の分裂 態であるが、広義において純粋経験と呼ばれる。 (3)さらに、それは理想的な意識の統一的状態である。これは究極的な純粋経験 である13 純粋経験の最初の段階は、意識の原初的な、あるいは直接的な統一状態を 指す。意味や判断が生じる以前の刹那の認識、あるいは知覚の連続のよう な対象との合一状態、または初生児の意識などはこうした直接経験の状態 にある。そして、意識がその本性に従って分化発展することで、主客が分 離し、判断が生じる。ここに反省的思惟の段階がある。しかし、これもま た大いなる統一への不可欠な契機であり、統一が弱いながらに広義の純粋 経験に含まれる。そして最後に、知的直観のような意識の統一状態が置か れる。これは理想的な主客の合一状態であり、限られた芸術家や宗教家が 達することのできる境地である。 12 西田、同書、p. 241. 13 小坂(1991), p. 26.

(7)

2-3.西田における純粋経験の存在論的拡張  西田における純粋経験の三つの相についての記述を見れば分かるよう に、こうした純粋経験は意識の推移の様相を記したものであり、心理的な 意味合いが強いように思われる。西田自身もそのことを自覚しつつ、『善 の研究』の新版では次のように述懐している。 今日から見れば、此書の立場は意識の立場であり、心理主義的とも考へられるだ ろう。然非難せられても致方はない。併し此書を書いた時代に於ても、私の考の 奥底に潜むものは単にそれだけのものでなかったと思ふ14 西田は純粋経験を出発点として自らの思索を展開したが、それは単に一個 人の禅体験を報告したものではない。『善の研究』をよく読めば、西田が この純粋経験を存在論的な概念として拡張しようと試みていることが分か る。そして、そのように西田が純粋経験を拡大することは、この理論自体 に対する必然的な要請でもある。なぜなら、純粋経験を個人の内面に閉じ 込めたまま、意識経験として世界全体を捉えるということは、すなわち独 我論に陥ることに他ならないからである。 かくの如き難問の一は、若し意識現象をのみ実在とするならば、世界は凡て自己 の観念であるといふ独知論に陥るではないか。又はさなくとも、各自の意識が互 いに独立の実在であるならば、いかにして其間の関係を説明することができるか といふことである。併し意識は必ず誰かの意識でなければならぬといふのは、単 に意識には必ず統一がなければならぬといふの意にすぎない。若しこれ以上に所 有者がなければならぬとの考ならば、そは明に独断である15 純粋経験の記述は心理的な場面から始まっている。しかし、それは決して 個人の内部に限定されるものではない。むしろ西田は、「個人あって経験 あるのではなく、経験あって個人あるのである。個人的経験とは経験の中 14 西田、前掲書、p. 3. 15 西田、同書、p. 46.

(8)

において限られし経験の特殊なる一小範囲に過ぎない16」と述べる。個人 的経験とはこの世界全体の本来的なあり方であって、それ自体が存在論的 な概念なのである。この唯一の実在である純粋経験から、個人の経験が生 まれてくる。  西田はこのような、存在論的な概念としての純粋経験を規定し、それを 「統一的或者」や「潜勢力」といった名称で表現する。つまり、ここでは 普遍的な存在者としての純粋経験がまずあって、そこから個々の意識が生 まれてくるのだということである。  西田は「意識の体系といふのは凡ての有機物のやうに、統一的或者が秩 序的に分化発展し、其全体を実現するのである17」と述べる。こうした個 人的意識、個人的経験の背後に普遍的な意識を措定する西田の哲学は、根 本的な意味において唯心論的(汎経験論)であると言える。 我々は普通に思惟に由りて一般的なる者を知り、経験に由りて個体的なる者を知 ると思うて居る。併し個体を離れて一般的なる者があるのではない、真に一般的 なる者は個体的実現の背後に於ける潜勢力である、個体の中にありて之を発展せ しむる力である、例へば植物の種子の如き者である18 普通の知覚が単に受働的と考へられて居る様に、知的直観も亦単に受働的観照の 状態と考へられて居る。併し真の知的直観とは純粋経験に於ける統一作用其者で ある、生命の捕捉である、即ち技術の骨の如き者一層深く云へば美術の精神の如 き者がそれである。例へば画家の興来り筆自ら動く様に複雑なる作用の背後に統 一的或者が働いて居る。その変化は無意識の変化ではない、一つの物の発展完成 である19 小坂は、先述した純粋経験の三つの過程、すなわち(1)原初的な純粋経 験=直接経験、(2)反省的思惟、(3)知的直観に加え、それらの背後にあ 16 西田、同書、p. 24. 17 西田、同書、pp. 12-13. 18 西田、同書、p. 22. 19 西田、同書、p. 35.

(9)

る(4)普遍的意識の存在を指摘している。 それは、前述したように、さしあたりは(一)主観と客観の未分離の統一的な意 識状態、いいかえれば直接的経験の状態と規定されている。つぎに、(二)それは 不断の活動であって、自己分化をとおしてより大なる統一的状態へ発展していく と考えられている。そして、このような分裂的な意識状態も一種の純粋経験と考 えられている。さらには、(三)このような発展の究極に考えられる意識の理想的 な統一的状態が真の意味での純粋経験と考えられている。そして最後に、(四)意 識のこのような展開過程の全体がまた一つの純粋経験と考えられている。/(一) は感覚や知覚の段階であり、(二)は反省的思惟の諸段階であり、(三)は知的直 観の段階であり、(四)は普遍的意識である20 このような統一的或者や潜勢力などと呼ばれる普遍的な意識を根源的な実 在として措定するならば、そこからどのようにして個人の意識や経験、そ してまた物質世界が構成されるのかが問われてくることになる。西田は、 それらのものはこの根源的な一者から派生した複数の見方なのだと語る。 之まで論じた所に由つて見ると、我々が自然と名づけて居る所の者も、精神とい つて居る所の者も、全く種類を異にした二種の実在ではない。つまり同一実在を 見る見方の相違に由つて起る区別である21 実在は唯一つあるのみであつて、其見方の異なるに由りて種々の形を呈するのであ る。自然といへば全然我々の主観より独立した客観的実在であると考へられて居る、 併し厳密に言へば、斯の如き自然は抽象的概念であつて決して真の実在ではない。 自然の本体はやはり未だ主客の分れざる直接経験の事実であるのである22 こうして、純粋経験は単に個人の内面に止まるものではなく、むしろ普遍 的意識という形で、個人の経験そのものを成立させる根拠として経験のす 20 小坂(2002), p. 103. 21 西田、前掲書、p. 78. 22 西田、同書、p. 67.

(10)

べての段階の背後に控えているのだと主張されることになる。そうした普 遍的意識こそが本来的な、そして唯一の実在であり、そこから個人の意識 や物質的世界が分化してくるのである。それはこの世界そのものが持つ潜 勢力、つまり潜在的な力であり、それ自体もやはり純粋経験として、分化・ 発展する傾向を持つものだと言える。西田は、全体がまず含蓄的に現れ、 そしてそれが分化・発展することで個々の経験が成立すると語る。 独立自全なる真実在の成立する方式を考へて見ると、皆同一の形式に由つて成立 するのである。即ち次の如き形式に由るのである。先ず全体が含蓄的 implicit に現 はれる、それより其内容が分化発展する、而して此の分化発展が終つた時実在の 全体が実現せられ完成せられるのである23 西田が純粋経験の根本として、こうした非人称的な普遍的意識を想定して いたことは見逃されてはならない点である。『善の研究』は確かにある意 味では意識の立場であるが、その意識は個人の内部ではなく、普遍的一般 的なものとして実在の根本に置かれている。それゆえ、純粋経験は心理主 義的なものではありえないのである。 3.ベルクソンにおける純粋持続 3-1.純粋持続とはどのような概念か  ここで、西田との比較を行なうために、ベルクソンの純粋持続について 考えてみたい。ベルクソンは『意識の直接与件』において、純粋持続(durée pure)を次のように定義する。

La durée toute pure est la forme que prend la succession de nos états de conscience quand notre moi se laisse vivre, quand il s abstient d établir une séparation entre l état présent et les états antérieurs. (DI67)

純粋な持続とは意識の流れそのものであり、一切の区切りを持たない連続

(11)

である。純粋な持続においては、人は自らの意識そのものを生きることに なる。しかしそれは平板な流れではなく、豊かな質的差異を有した継起 (succession)である。

Bref, la pure durée pourrait bien n être qu une succession de changements qualitatifs qui se fondent, qui se pénètrent, sans contours précis, sans aucune tendance à s extérioriser les uns par rapport aux autres, sans aucune parenté avec nombre : ce serait l hétérogénéité pure. (DI70) 純粋な持続というのはいわば途切れることのないメロディ(mélodie)の ようなものである。ベルクソンは、持続の内ではメロディの継起的な楽音 がそうなるように、諸感覚は相互に有機化されると語る(DI70)。つまり、 意識というものが発展していくためには純粋持続は単なる連続であるだけ ではなく、その内に変化をも内包していなくてはならないのである。

Le sentiment lui-même est en être qui vit, qui se développe, qui change par conséquent sans cesse ; sinon, on ne comprendrait pas qu il nous acheminât peu à peu à une résolution : notre résolution serait immédiatement prise. (DI88)

こうしたベルクソンの純粋持続の概念は、個人における本来的な心理生活 という面で西田の純粋経験と酷似していると言えるだろう。ただし、ベル クソンはこうした持続に西田のような段階を設けていない。ここでも持続 は純粋経験と同じように、自らの心理生活と不即不離の意識生活であって、 反省的思惟とは相容れないものである。実際、ベルクソンはこうした自ら の持続に立ち戻っている意識状態を「moi fondamental(根底的自我)」 (DI85)や「moi premier(第一の自我)」(DI151)などと呼ぶ一方で、外 的な社会生活に意識的に適応する意識状態を「moi qui aperçoit des états distincts(区別ある諸状態を認める自我)」(DI92)や「moi superficiel(表 層的な自我)」(DI83)などと呼んでいるのである。だから、日常的な意 識生活において、反省的思惟は確かに純粋持続と「phénomène d endosmose

(12)

(内方浸透現象)」(DI73)と呼ぶものに似た交流を持つことになるのだが、 ベルクソンはそれをさらに大なる意識統一のための契機としては捉えてい ない。つまり、ベルクソンにおいては自らの内に立ち返ることが重要であっ て、直接経験と知的直観の間に質的な差異を認めていないのである。 3-2.純粋持続の存在論的拡張  ベルクソンにおいても、『意識の直接与件』では純粋持続は個人の内面 的な意識生活を思わせる記述が目立った。しかし、ベルクソンもまた、こ の純粋持続を単なる個人的な経験とはみなしていない。続く著書『物質と 記憶』においては、この持続の蓄積が語られることになる。『意識の直接 与件』で語られた持続は、それ自体がメロディのような一連の継起である と定義されていたが、その過去や未来といった時間の幅については言及さ れていなかった。また、純粋持続は個人的な内面生活において捉えられる べき本来的な形態であるかのように語られていた。しかし、持続は本来的 に時間的なものであり、そこに過去や未来といった一連の幅が生じること は必然的な成り行きである。

On chercherait vainement, en effet, à caractériser le souvenir d un état passé si l on ne commençait par définir la marque concrète, acceptée par la conscience, de la réalité présente. Qu est-ce, pour moi, que le moment présent ? Le propre du temps est de s écouler ; le temps déjà écoulé est le passé, et nous appelons présent l instant où il s écoule. (MM280) こうして、持続の蓄積は記憶と呼ばれることになる。では、この記憶はど こに保存されるのだろうか。普通、人は記憶は脳細胞の内に、あるいは脳 細胞同士の何らかの連携の内に保存される、と考える。しかしベルクソン はそのような考え方に異を唱える。純粋持続とは非物質的な、事物のよう な空間的な区切りを持たない意識の流動そのものであった。ならばその蓄 積である記憶が物質性を帯びるはずがない。ベルクソンにおいては、過去 のそれ自体の「survivance(残存)」(MM290)は疑いえない事実である。

(13)

この点についてドゥルーズは脳は物質の諸状態でしかなく、他方で記憶は 主体性の側にあるのだから、この両者を混同することは不合理であるとし、 記憶はそれ自体で保存されると述べる。

C est donc en soi que le souvenir se conserve24.

そして、このように記憶が物質の内に保存されないのであれば、そうした 記憶と物質の関連が問われることになる。ここでベルクソンは、物質界の 内にも持続を見出す、という形で両者の調停を企てる。

Ce n est pas la nôtre, assurément ; mais ce n est pas davantage cette durée impersonnelle et homogène, la même pour tout et pous tous, qui s écoulerait, indifférent et vide, en dehors de ce qui dure. (MM342)

意識存在の持続およびその蓄積である記憶と、物質界とはどのように連関 しているのか。ここでベルクソンは、純粋持続の一元論の立場に身を置き、 持続のリズムの差異、あるいは緊張と弛緩の度合いという形で存在者の全 体を説明しようと試みる。

En réalité, il n y a pas un rythme unique de la durée ; on peut imaginer biens des rythmes différents, qui, plus lents ou plus rapides, mesureraient le degré de tension ou de relâchement des consciences, et, par là, fixeraient leurs places respectives dans la série des êtres. (MM342)

持続は、その緊張した、あるいは収縮したレベルにおいては意識という形 を取り、一方でその緩和した、あるいは弛緩したレベルにおいては物質と いう形を取る。ドゥルーズはこのことを以下のように簡潔に表現している。

La durée n est que le degré le plus contracté de la matière, la matière est le degré le plus

(14)

détendu de la durée25. こうして、持続(記憶)と物質は持続の差異によって仲介される。そして、 これによって西田の普遍的意識とベルクソンの純粋記憶の理論はそのどち らも存在論的な拡張を経て、この世界の根本原理として規定されることに なる。ここまでの記述を見る限り、西田の『善の研究』における純粋経験 論はベルクソンの純粋持続と深く相通じるものがあることがわかる。 4.西田のベルクソン批判 4-1.西田哲学の発展の必然性  1911 年の『善の研究』では、西田は自らの禅体験を通じて得た着想を 純粋経験として理論化したのだが、自らの内部へと立ち返りそれを直接的 に把握する、という出発点はベルクソンの純粋持続論と通じるものであっ た。西田はこの著書の執筆以後、本格的にベルクソンを読み始めるのだが、 1915 年の『思索と体験』ではそのベルクソンへの深い共感がうかがわれる。 例えば、「ベルグソンが真に直接なる意識状態を内面的持続としたように、 我々に直接なる主客合一の純粋経験においては我々の意識は活動的発展的 であるのである」26という記述からは、西田が依然として自らの純粋経験 説を保持し、それをベルクソンの純粋持続と重ね合わせていることがわか る。また、「純粋持続は緊張 étendre であるということができる。既にこれ を緊張であるとすれば、緊張には程度の差がある訳である、緊張の他面に は弛緩 détendre がなければならぬ」27という一節からは、西田がベルクソ ンの『物質と記憶』を読み、持続の緊張と弛緩という形で物質をも包摂し たその存在論に対し好意的な評価を与えていることがわかる。  しかし、西田は次第に自らの純粋経験説に満足がいかなくなり、それと 同時にベルクソンからも離れていくことになる。それは、純粋経験に反省 的思惟を含む諸段階があることと深く関係している。純粋経験は内的に捉 25 ibid., p. 94. 26 西田(2003), p. 243. 27 西田、同書、p. 265.

(15)

えられた、直に経験された意識である。しかし、その純粋経験がさらに知 的直観へと高まっていくためには、反省的思惟という停止、あるいは純粋 経験の否定がなければならない。そうした段階をも含め、純粋経験は弁証 法的に発展していくのである。  このように、反省的思惟をも純粋経験の一部として取り込んだ西田が純 粋経験全体について語るためには、それらを統一するさらに大なる視点が 必要になる。そこで、普遍的意識という、より高次の概念が提示されるこ とになる。  だが、この普遍的意識とはどのようなものだろうか。それは個人がそこ に立ち、全体を語ることができるようなものなのだろうか。『善の研究』 ではまだ、潜勢力や統一的或者とも呼ばれるこの普遍的意識は具体的に論 じられるまでに至っていない。 4-2.自覚という概念  普遍的意識のようなより統一的な視点に立つことの可否について、西田 は少なくとも『善の研究』や『思索の体験』の時期においてはそれほど問 題としていなかったようである。  西田がこの問題に向き合うのは 1917 年の『自覚における直観と反省』 以降である。この著書において、西田は自らの立場をより理論的に整備し 直すことになる。『善の研究』においては、厳密な意識状態の統一である 原初的な直接経験と、宗教家の直覚や芸術の神来のような知的直観、そし てそれらの間に置かれる反省的思惟が三つの段階を成していた。西田はこ こで、純粋経験の否定である反省的思惟をも包摂し、統一・不統一の程度 の差も許容するようなものとして普遍的意識を置き、この全体をあらため て純粋経験という名で括った。しかし、このような態度は普遍的思惟とい う高次の概念の曖昧さと、その認識可能性についての疑義を呼び起こすこ とになる。そこで西田はフィヒテの事行の概念を借りつつ、「現今のカン ト学派とベルグソンを深き根底から結合する」28ことを試みることになる。 28 西田(2004), p. 3.

(16)

すなわち、ベルクソン的な純粋持続の概念を、カント学派、特にリッケル トのような理論的な分析を経た上で、事行の概念でもってまとめあげよう というのである。『善の研究』では個別の存在者である自身の純粋経験を 出発点としていた西田は、ここでは全体を構成する高次の存在から理論的 に説明しようと試みることになる。西田はこの著書において「直観といふ のは、主客の未だ分れない、知るものと知られるものと一つである、現実 その儘な、不断進行の意識である」29と述べる。西田はこの書において、 原初的な純粋経験と知的直観の両者を直観という名で呼び直している。そ して、「反省といふのは、この進行の外に立つて、翻つて之を見た意識で ある」30とも呼んでいる。この反省は、『善の研究』で述べられた反省的思 惟にあたる。この両者がどのように統合されるのか。それは自覚において である。 余は我々にこの二つのものの内面的関係を明にするものは我々の自覚であると思 ふ。自覚に於ては、自己が自己の作用を対象として、之を反省すると共に、かく反 省するといふことが直に自己発展の作用である、かくして無限に進むのである31 この自覚は『善の研究』での普遍的意識にあたる概念である。しかし、こ れらの概念はただ名称が置き換えられただけではない。反省はこの書では 明確に純粋経験の外側にあると述べられている。そしてまた、普遍的意識 は直観と反省が可能になる土台として考えられている。すなわち、西田は この書においては純粋経験から出発するのではなく、自覚から出発しよう としているのである。  こうして、直観と反省という相対立する二つの契機を明確に提示した上 で、それらをさらに大きな視点で包含するという自覚の概念こそが、西田 がフィヒテの事行から学んだことだった。純粋経験を全体として捉えるた めには、純粋経験を包括する視点がなければならない。しかし、純粋経験 29 西田、同書、p. 13. 30 西田、同書、p. 13. 31 西田、同書、p. 13.

(17)

そのものは内側からの自己反省、すなわち自覚においてのみ捉えられうる。 このように、内にありながら外でもあるような自覚という立場がこの時期 の西田がよって立つものであった。西田は、この自覚という立場からベル クソンの純粋持続の概念に対し批判を加えていくことになる。 4-3.西田のベルクソン批判の要点  西田は直観と反省を包摂する自覚という立場から、生成を考える。 自覚に於ては「我が我を知る」といふことは即ち「我がある」といふことであって、 「我がある」といふことは即ち「我が我を知る」といふことである。「我が我を知る」 といふことは「我が我を維持する」ことで、即ち「我が存在する」ことである、 何となれば我が我を知らざる我は我といふことができないのである32 ここで、自覚による統一と、そこからの無限の内面的発展を西田は「真の 創造的進化」33であると語る。この創造的進化という用語は当然ベルクソ ンの著書を意識してのものであるが、なぜこうした自覚による統一を西田 は真の創造的進化と呼ぶのだろうか。  ベルクソンは自らの哲学の根本に、終始一貫して持続を置いていた。そ れは三冊目の主著『創造的進化』でも同じである。この著書では生成の問 題が語られることになる。すなわち、3-2 で示したように、この世界は持 続の緊張である精神と弛緩である物質によって説明されるのだが、それら はどのような時間的経緯と過程によって生まれてくるのか、という問いで ある。もはや、物質にも薄められた形で持続が浸透していることが語られ た以上、持続の継起は物質界(monde matériel)においても争いえぬ事実 である(EC502)。つまり、弛緩したレベルであるとはいえ、物質界にお いても持続が存在しているのであって、端的に言って「L univers dure(宇 宙は持続する)」(EC503)のである。  そのように持続の一元論が再確認された上で、『創造的進化』では非物 32 西田、同書、p. 51. 33 西田、同書、p. 52.

(18)

質的な持続が物質としての側面を獲得する過程が、生物の進化を例として 語られる。ベルクソンにとって、進化とは運動であり、同時に創造なので ある。それは非物質的な実在としてまだ潜在的な状態にある持続が、物質 としての性格を備えたもう一つの実在として現働化する過程として描かれ る。ドゥルーズが述べるように、潜在的(virtuel)なものは現働的(actuel) なものに対立する34のである。そうした潜在的な持続がそれ自身の有する 力によって自らを物質の内に現働化させる力を、ベルクソンは「élan(飛 躍)」(EC583)と呼ぶ。そして、進化に際して有機体が実現する生命の飛 躍(élan vital)は、いわば破裂する榴弾のように生命体の物質的形態を変 容させながら現働化する内在的な力そのもである。

Le mouvement évolutif serait chose simple, nous aurions vite fait d en déterminer la direction, si la vie décrivait une trajectoire unique, comparable à celle d un boulet plein lancé par un canon. Mais nous avons affaire ici à un obus qui a tout de suite éclaté un fragments, lesquels, étant eux-mêmes des espèces d obus, ont éclaté à leur tour en fragments destinés à éclater encore, et ainsi de suite pendant fort longtemps. (EC578) ここでは進化の運動は創造の運動そのもの、破裂し様々な方向へ飛散しな がら現働化する潜在的な力として描かれている。進化の歴史とは、そうし た榴弾の軌跡を事後的に追ったものに過ぎない。つまり、進化とはあらか じめ到達点となる目的が示されているものではなく、生命が障害を乗り越 え、その現働化された身体を変容させる過程なのである。  これがベルクソンの生成のライトモチーフである。つまり、最初に潜在 的な持続があった。それは実在ではあっても形を持たず、内的なエネルギー として満ちていた。そして、そのエネルギーは自らを現働化させ、物質と して宇宙の中で位置を占めるようになったのである。潜在的なものは現働 化する傾向を持っており、潜在的な記憶は現働化し現在に働きかける。こ うして、生成というものが一貫したプロセスとして提示されるのである。

(19)

 ベルクソンにおける生成とは、潜在的な持続が物質へと現働化していく 流れの中にあるものであり、この世界全体の生成というレベルで考えた場 合、そこには前進しかない。しかし、自覚においてはそうではない。「ベ ルグソンの云ふ様に我々の意識が流転して一瞬前の過去にも還ることがで きないものとするならば、厳密なる意味に於て後の意識が前の意識を映す といふことは不可能である」35と西田は考える。つまり、自覚という形に おいて直観と反省が包摂されるためには、前進と同時に後退がなくてはな らない。  西田は、ベルクソンの潜在的なものの現働化という基本的なアイデアに は反意を示さない。 我々の身体とは持続の横断面たる物質界の上に投げられた記憶の形である。緊張 の裏面に弛緩を含み、前者が純粋記憶即ち精神の方面であり、後者が物質の方面 である、前者は時間であり後者は空間である。「過去は自ら彼自身を保存す」とい ふ様に、己自身を維持して進む純粋持続の尖端が現在であって、そこに空間があり、 物体界がある36 だが、緊張と弛緩という概念によって統一を見た持続が、一方的に、また 直線的に自らを現働化していく、という生成のモデルに対しては批判の手 を緩めない。 ベルグソンは純粋時間は繰り返すことができぬといふが、繰り返すことができな いといふのは、その根柢に時間を超越する或物がある故でなければならぬ。氏は 時間の考に捕はれて変化を超越する統一の方面を見逃して居る様である37  ベルクソンの存在論的枠組みでは、普遍的な構図として潜在的なものの 現働化が提示されている。そこでは、個人やその身体、記憶、死というも 35 西田、前掲書、p. 72. 36 西田、同書、p. 169. 37 西田、同書、p. 169.

(20)

のが、あくまで連続の中の一部として見出される。すなわち、純粋持続そ のものは途切れのない永遠としてその連続性を担保されているのである。 これに対し西田は、ベルクソンが『物質と記憶』で提示した逆円錐を引き 合いに出し、「ベルグソンは一瞬の過去にも返ることができぬと云ふが、 我々が時間を超越して円錐形の広き底面に返ることができればできる程、 そこに大なる創造があるのである。創造するといふのは却って深く自己の 根柢に返ることであると考へることもできる」38と語る。  ベルクソンは『物質と記憶』において、記憶がいかにして現実の知覚に 影響を及ぼすのかを円錐図によって説明する(MM302)。この図において 円錐 SAB はある人物(仮に私とする)の記憶の全体を表す。そのうちで 底面 AB はこれまでの意識の持続の全体を蓄積し続け、無限に広がり続け ている。頂点 S は知覚が成立する私の身体である。平面 P は世界につい ての私の現実的表象を意味し、S と P の接触点が現在となる。そして、実 際の場面では私は現在の注意や過去への想起の程度によって A B の様々 な段階(A B など)を取るはずである。過去そのものである記憶とはも ちろん持続の積み重ねであり、意識の来歴に等しい。もちろんこの水準が 異なれば、私たちは異なる意識状態を取ることになる。例えば S に近い 状態では、まったく純粋な現在に生き、刺激に対してそれを引き延ばす即 座の反応で応じるような「implusif(衝4 動の人4 4 4)」(MM294)となる。それは 「automate conscient(意識を持つ自動人 形)」(MM296)のようなものである。 この水準における私たちはほとんど思 考を差し挟む余地もなく、目の前の現 実に対応しようとする。すなわち習慣 的行動にまったく身を委ねているので ある。逆に AB に近い水準の状態では、 そこに生きる楽しみのために過去に生 38 西田、同書、p. 206.

(21)

きているような人間、目下の状態にとって何の利益もないのに記憶が意識 の光へと現れでてくるような人間となり、「rêveur(夢想の人4 4 4 4)」(MM294) となる。それは自己の生活を生きる代わりに夢想に生きるようなものであ る。この水準では私たちは行動から注意を逸らし記憶に沈んで行く。人に よってどのような水準に身を置くかは異なるだろうし、同じ人であっても その場その場で別々の水準に位置することもあるだろう。とはいえ、この それぞれの水準には、私たちの過去が潜在的にすべて与えられている。そ して、この潜在的な記憶が有意なものとして現働化しつつ、S と P の交点 で成立する知覚へと浸透する。  西田はこのベルクソンの逆円錐のうちに、底面から頂点への時間的な縦 の運動と、もう一つ、空間における横の運動を想定している。 すべて一般的なるものが己自身を限定し行くに当つて、即ち自覚的体系の発展に 当つて、我々は二つの方向を区別することができる。一つは一般から特殊に行く 特殊化的方向であり、一つは特殊から特殊に行く同列的広大の方向である。前者 に於て新なる内容を生じ新なる立場に移り行くのであるが、後者に於ては同一の 立場に於て発展し行くのである。ベルグソンの語を以て云へば、前者は純粋持続 の縦線的発展であり、後者は同時存在の平面上に於ける発展ともいふべきであら う。円錐曲線の例によつて云へば、種々の円錐曲線は極限概念に依って互いに移 り行くことのできる一つの連続体である(後略)39 一般者とも言われる普遍的な潜在的持続が、ある具体的ないしは特殊な物 体へと現働化する方向と合わせて、特殊なもののレベルでの移行が考えら れる。円錐の断面は、底面 A B だけではなく、放物線や変曲線を描くよ うに、縦に切断される円錐曲線にもなりうる。すなわち、円錐の底面の背 後に控えている純粋記憶の高みから、現在の身体への前進があるのみでは なく、むしろ頂点から底面へと 源する方向もここで重視されているので ある。それは直線的な一方向の時間の流れではなく、むしろ円環的な形で 行きと戻りが一体化するような循環なのである。 39 西田、同書、p. 173.

(22)

真の純粋持続は一面に於て無限の発展たると共に、一面に於て「永久の今」でな ければならぬ、ベルグソンは後の方面を見逃して居ると思ふ40 この「永久の今」という側面がベルクソンには欠けていると西田は指摘す る。かつて『善の研究』の自らがそうであり、またベルクソンの純粋持続 論がそうであるように、潜在的なものは現働化する無限の発展の中で捉え られる。一方で、『自覚に於ける直観と反省』以降の西田は、それと対応 する静止の状態、空間的な規定をも重視する。こうした西田の態度はその 後も保持され、1932 年の『無の自覚的限定』においても、ベルクソンの 哲学には連続しかない、という批判が繰り返される。 真の生命といふべきものは、ベルグソンの創造的進化といふ如き単に連続的なる 内的発展ではなくして、非連続の連続でなければならぬ。死して生れるといふこ とでなければならぬ。生命の飛躍は断続的でなければならぬ。ベルグソンの生命 には真の死といふものはない。故に彼の哲学に於て空間的限定の根拠が明でない。 真の生命といふのは、唯私の所謂死即生なる絶対面の自己限定としてのみ考へ得 るものでなければならぬ41 非連続の連続、永久の今、これらの用語で西田はベルクソンの純粋持続の 連続性を批判する。個体が生き、死ぬということは、そこに非連続が生ま れるということである。非連続を孕みながら、しかし断続的に続いていく、 そこに非連続の連続がある。ベルクソンのように純粋持続の進展だけを考 えていては、非連続は生まれない。現働化したもの、空間的なもの、身体 をも含めて生命なのである。「かういふ意味に於てベルグソンの生命とい ふ如きものは実在的ではない、身体のない生命である。ベルグソンに於て は身体は生命の道具たるに過ぎない」42と西田は語る。 40 西田、同書、p. 208. 41 西田(2002), pp. 278-279. 42 西田、同書、p. 281.

(23)

4-4.ベルクソン内部から批判に応答する  ここまで西田のベルクソン批判を見てきたが、それは『自覚に於ける直 観と反省』以降に西田が時間的なものと空間的なもの、純粋経験と反省的 思惟、持続と物質といった対応する諸契機に対し、それらを見る、より大 きな立場を、いわば定立と反定立の総合として提示したことに起因する。 これは世界を内側と同時に外側から眺めることである。その視点から見れ ば、純粋経験には連続と同時に断絶があり、非連続がある。このような統 一的な視点がベルクソンには欠けているのだというのが西田の批判の要点 である。  確かにベルクソン哲学は持続の連続性をその根本に置くものであり、そ の限りで持続には停止も断絶もない。だが、ベルクソンは持続のうちに挟 み込まれる停止を考慮していなかったのだろうか。そうではない。ベルク ソンにおいても持続の非連続は想定されている。だがそれは、西田とは多 少異なる形であると言える。  西田が『善の研究』では経験から出発し、『無の自覚的限定』において は統一的な視点である自覚から出発したように、ベルクソンは『意識の直 接与件』では経験から出発し、『物質と記憶』や『創造的進化』では世界 全体の持続から出発したように見える。そして、その全体はいわば潜在的 な力、潜勢力であり、この世界において現働化することで物質となり、身 体を形作る。この点において、西田とベルクソンは非常に似通った存在論 的な世界観、生成観を有していると言えるだろう。だが、西田の自覚がそ の内に純粋経験の連続と反省の非連続を含んでいるのに対し、ベルクソン の純粋持続は存在論的なレベルでは断絶を含んでいないように見える。そ れは、ベルクソンにおいて、物質や身体といった存在が軽視されているよ うに映るからである。  確かに、純粋持続のレベルに限って言えばベルクソン哲学には断絶がな い。純粋持続は連続体そのものであり、ベルクソン哲学に死というものや、 それを担う主体としての個は究極的には存在しない。だが、ベルクソンは そうした存在論を保持しながら、実践においては西田に近い理論を展開し ている。そもそも、『意識の直接与件』においても、私たちの自我(moi)

(24)

にはその本来的な形、すなわち「moi interieur(内的自我)」(DI83)のよ うに意識が緊密に浸透し合う持続状態に加え、「moi superficiel(表層的自 我)」(DI83)のように、明確に区別され、現実的な生を送る意識状態が 想定されていた。また、『物質と記憶』においても、私たちの純粋持続の 蓄積である純粋記憶に加え、私たちの身体が保持する過去である習慣が語 られている。この習慣は身体に備わった運動であり、自動的に演じられる という点で私たちの意識を抹消するものである43。あるいは、『思考と動 くもの』においては、科学(science)には知性の力によって物質を究める こと、形而上学(métaphysique)には精神を探究すること、という役割を 与えている(PM1284)。すなわち、精神や持続を探究する形而上学に対し、 無機の物質を定量的に扱う科学を並置しているのである。これらはみな、 ベルクソンが想定する本来の持続=連続に対し、断絶や非連続性を持ち込 むものである。  しかし、ベルクソンはこうした断絶や非連続性を拒絶し、持続のみを提 示しようとしたわけではない。ベルクソンは表層的自我の実践上の有益性 をよく理解していたし、それらが社会的な生を構成する要件であることを 指摘していた(DI86)。また、ベルクソンは習慣を称揚こそしなかったが、 不断の努力によって習慣を更新すること(EC603)、ある習慣が他の運動 習慣を抑え、そしてそれによって自動性を制御し、意識を自由にすること ができる(EC651)という点にも言及している。そして、科学と形而上学 にも融和の道を用意している。

Laissez-leur, au contraire, des objets différents, à la science la matière et à la métaphysique l esprit : comme l esprit et la matière se touchent, métaphysique et science vont pouvoir, tout le long de leur surface commune, s éprouver l une l autre, en attendant que le contact devienne fécondation. (PM1286-7)

ベルクソンが標榜する哲学(philosophie)とは、まさしく形而上学と科学

(25)

との融合であった。

La science et la métaphysique se rejoignent donc dans l intuition. Une philosophie véritablement intuitive réaliserait l union tant désirée de la métaphysique et de la science44. (PM1424) ベルクソンは持続と物質、記憶と身体、連続と非連続を自らの哲学のうち に認め、それらの総合を目指していた。  こうした現働的なレベルで繰り広げられる断絶や非連続は、確かに潜在 的な持続に焦点を合わせる限り、ただの現象的なレベルでの停止であり、 実在する持続そのものに何の影響も及ぼさないように思われる。しかし、 空間、物質、非連続が持続へと 及的に反響し、その往還によって生成が 進んでいくというモデルはベルクソンにも見出すことができる。本来的な 内的自我は、表層的な社会的自我と表裏一体となって自我を構成するので あろうし、習慣を更新し続けるその先には、芸術家の神来のような熟練さ れた身体と精神の統合状態がひらけてくるはずである。そして、哲学は物 質を扱う科学と精神を扱う形而上学を常に対照させながら先へと進むこと で、学問としての完成をみるであろう。  ここには、円錐の底面へと り、持続に触れようとする動きと、円錐の 先端と世界表象との接点において、身体と物質を探究する二つの方向と、 それらの往還がある。ベルクソンにおいてはそれらは相補的に実在を構成 しているのであって、その両者をさらに包摂するような大なる視点が要請 されることはない。非連続は連続の外部に置かれるのではなく、連続と共 に生成に参与している。そして、そうした空間的な規定をも含んで進展し 続ける時間性こそが、ベルクソンの持続なのである。  さらに、こうした精神と物質が重なり合う存在論におけるベルクソンの 直観概念の位置づけも重要である。西田は『善の研究』において、宗教家 44 ベルクソンは、哲学は精神を深めると同時に必然的に物質を扱い、したがって直観に対し てと同様、知性に対しても呼びかける(M1148)とも語っている。

(26)

の直覚や芸術家の神来を知的直観と呼んでいたし、『無の自覚的限定』に おいても、直接経験をも含むこうした主客合一の状態を直観と名付けてい た。しかし、ベルクソンの考える直観は西田のそれとは異なり、存在者同 士の深い共感を意味するものであった。ドゥルーズは、直観とは自らの持 続を使い、自らとは異なる存在者と共感するための方法であり、その運動 である、と語る。

L intuition n est pas la durée même. L intuition est plutôt le mouvement par lequel nous sortons de notre propre durée, par lequel nous nous servons de notre durée pour affirmer et reconnaître immédiatement l existence d autres durées, au-dessus ou au-dessous de nous45. つまりベルクソンにあっては、自覚という形で純粋経験を外側から包摂す る必要はなく、私たちは持続する世界全体の中にあって、その世界全体と 直観によって合致することが可能なのである。それゆえ、西田によるベル クソン批判は、西田哲学の発展の段階で明らかになった西田哲学自身の問 題の反映ではあるが、必ずしもベルクソン哲学に当てはまるものだとは言 えない。ベルクソンの純粋持続は非連続をも流れの中に組み込んでいくよ うな連続性であり、それらを統一する包括的な視点を必要としない、世界 そのものの全体と個が重なり合うような理論なのである。純粋持続のメロ ディは単に流れるだけでなく、その内に休止をも含み、それによってさら に全体を豊かにするような流動なのだと言える。 参考文献 ベルクソンの主要著作からの引用はすべて œuvres(1959), PUF による。各々の著作の タイトルは以下の略号によって表記し、引用に際しては頁数を付記した。

Essai sur les Donnés Immédiates de la Conscience『意識の直接与件』: DI Matière et Mémoire『物質と記憶』 : MM

L’Évolution Créatrice『創造的進化』 : EC

(27)

La Pensée et le Mouvant『思考と動くもの』 : PM また、その他の文献の略号は次の通りである。こちらも引用に際しては略号と頁数を示 した。 Mélanges『論文集』 : M また、西田幾多郎の著作は以下のものを用いた。 西田幾多郎『善の研究』、西田幾多郎全集第一巻、岩波書店、2003. 西田幾多郎『思索と体験』、西田幾多郎全集第一巻、岩波書店、2003. 西田幾多郎『自覚に於ける直観と反省』、西田幾多郎全集第二巻、岩波書店、2004. 西田幾多郎『無の自覚的限定』、西田幾多郎全集第五巻、岩波書店、2002. その他の文献

Deleuze, Gilles, Le Bergsonisme, PUF, 1966.

小坂国継『西田哲学の研究−場所の論理の生成と構造−』、ミネルヴァ書房、1991. 小坂国継『西田幾多郎の思想』、講談社学術文庫、2002.

参照

関連したドキュメント

Pour tout type de poly` edre euclidien pair pos- sible, nous construisons (section 5.4) un complexe poly´ edral pair CAT( − 1), dont les cellules maximales sont de ce type, et dont

Dans la section 3, on montre que pour toute condition initiale dans X , la solution de notre probl`eme converge fortement dans X vers un point d’´equilibre qui d´epend de

Nous montrons une formule explicite qui relie la connexion de Chern du fibr´ e tangent avec la connexion de Levi-Civita ` a l’aide des obstructions g´ eom´ etriques d´ erivant de

異世界(男性) 最凶の支援職【話術士】である俺は世界最強クランを従える 5 やもりちゃん オーバーラップ 100円

手話の世界 手話のイメージ、必要性などを始めに学生に質問した。

生物多様性の損失も著しい。世界の脊椎動物の個体数は、 1970 年から 2014 年まで の間に 60% 減少した。世界の天然林は、 2010 年から 2015 年までに年平均

を体現する世界市民の育成」の下、国連・国際機関職員、外交官、国際 NGO 職員等、

連続デブリ層と下鏡との狭隘ギャップ形成およびギャップ沸騰冷却