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『沖縄県史 各論編6 『沖縄戦』 : 刊行記念シンポジウム『沖縄戦』を語る: 沖縄地域学リポジトリ

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-Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(41): 89-118

Issue Date

2018-03-23

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/23835

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『沖縄県史 各論編6 沖縄戦』

刊行記念シンポジウム『沖縄戦』を語る

基調講演:吉浜 忍・林 博史、パネラー:川満 彰・古賀 徳子・普天間朝佳・吉川 由紀 コーディネーター:高良 倉吉 編集:城間 良昭・納富 香織・中村 春菜 本稿は『沖縄県史 各論編 6 沖縄戦』(以下『県史沖縄戦』とする)刊行を記念して 2017 年 5 月 28 日に沖縄県立博物館・美術館3階講堂で行われたシンポジウムの報告である。掲載にあたっては、読 みやすいように事務局で見だしを付した。なお、本シンポジウムの第1部については、「沖縄県生涯学 習情報プラザ」HPで映像を公開している。

1.概要

シンポジウムは2部構成となっており、第1部が吉浜忍・林博史両氏による基調講演、第2部はコー ディネーターに高良倉吉氏を迎え、川満彰氏、古賀徳子氏、普天間朝佳氏、吉川由紀氏の各執筆者に パネリストとして各自の執筆項目に関連する発表をしていただいた。 ◎発表者および発表内容 【第1部 基調講演】  『県史沖縄戦』刊行の意義①―取り組みと成果    吉浜 忍(沖縄国際大学教授・新沖縄県史編集専門部会〔沖縄戦〕部会長)  『県史沖縄戦』刊行の意義②―研究成果の到達点    林 博史(関東学院大学教授・新沖縄県史編集専門部会〔沖縄戦〕委員) 【第2部 パネルディスカッション「沖縄戦研究の最前線と今後の展望」】 コーディネーター:高良倉吉(琉球大学名誉教授・新沖縄県史編集委員)  ・川満 彰:「秘密戦」「御真影奉護隊」(名護市教育委員会文化課市史編さん係嘱託員)  ・古賀徳子:「戦場の軍病院」「日本軍慰安所」で伝えたいこと(ひめゆり平和祈念資料館学芸員)  ・普天間朝佳:「学徒隊」で描きたかったこと(ひめゆり平和祈念資料館副館長)  ・吉川由紀:「戦時撃沈船舶」「ハンセン病者の沖縄戦」―沖縄戦の“周辺”で起きていたこと― (沖縄国際大学非常勤講師)

Speaker: YOSHIHAMA Shinobu, HAYASHI Hirofumi, KAWAMITSU Akira, KOGA Noriko, FUTENMA Choukei,

YOSHIKAWA Yuki and TAKARA Kurayoshi, Edit by SHIROMA Yoshiaki, NOTOMI Kaori and NAKAMURA Haruna:

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2.第1部 基調講演

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吉浜 忍「

『県史沖縄戦』刊行の意義①―取り組みと成果」

1)

旧県史から新県史へ

皆さんこんにちは。吉浜です。よろしくお願いします。まず、はじめに、本書の末尾には沖縄戦の日々 を記録した詳細年表が掲載されています。これを踏まえて紹介します。ちょうどこの場所(那覇新都心) は、当時米軍がシュガーローフという地名をつけており、激戦区の一つでした。ちょうど 72 年前の今 日(5 月 28 日)は、米軍がこの一帯を占領しており、司令部のあった首里城に最接近している頃です。 そんな中、この激戦区及び周辺にいた銘苅・天久・真嘉比の住民は、72 年前の今頃もまた、雨が降り 地面がぬかるむ中を南部の方へ避難していったのだろうと思います。 本書『県史沖縄戦』の刊行の取り組みは、1963 年から始まった「旧県史」にさかのぼります。その 中でも 1971 年に刊行された沖縄本島の証言を採録した『沖縄戦記録 9』、1974 年に刊行された宮古・ 八重山及び沖縄本島周辺の離島の証言を採録した『沖縄戦記録 10』、この 2 冊の取り組みが大きな意 味を持ちます。この 2 冊が刊行されていなかったら、本書は今の形では出せていなかったと思います。 1972 年、ちょうど高校の教員として久米島に赴任していた時に、この『沖縄戦記録 10』を編さんす るために職員が聞き取り調査にやってきました。当時は「えぇ、こんなことするんだ」と驚きました。 20 名もの久米島住民を殺害したという鹿山問題で島全体が沸騰していた頃でした。この沖縄戦の記録 を残すという作業は素晴らしいと思い、早速私もこの年に自分の生徒に「両親の沖縄戦体験を聞き取 りしてきなさい」という課題も与えました。この時期の聞き取りには、沖縄戦当時 30 ~ 50 代の体験 が記録でき、なかには村の幹部や区長など、沖縄戦に関わった人々の記録も取ることができたのです。 この時期の住民証言が記録されなければ、本書の刊行もなかっただろうなと、改めて思うのです。 さて、旧県史シリーズが刊行された後、新県史編さん計画がスタートするわけですが、真っ先に『沖 縄戦』を刊行しようという話が持ち上がりました。沖縄戦は当初全4巻刊行する予定でした。私はこ の「新県史」の編集委員も担っていたのですが、その翌年には高校から、史料編集室へ異動という形 でこの『県史沖縄戦』の担当になったのです。ところが 1 巻目の『沖縄戦への道』の刊行に取り組ん でいる中で、執筆者の原稿が研究水準のレベルに達していない、論文的な記述が多く難解である、そ の上に編集業務の遅れ等の問題がありました。また 1995 年当時は、沖縄戦研究の裾野が広がっておら ず、研究が熟していなかったこともありました。そこで、『県史沖縄戦』としての刊行を断念し、代わ りに提出された原稿を研究叢書の『沖縄戦研究Ⅰ』『沖縄戦研究Ⅱ』として刊行しました。苦渋の選択 でした。それから 20 年経って『県史沖縄戦』を刊行しましたが、この間、「資料編を出すこと」も決 定しました。沖縄戦関係の資料はないのではなく、あるけれども散在している状態でした。ちょうど 沖縄県公文書館が建設され、ワシントンにある多くの米軍関係の資料が集められました。同時に、当 時の防衛庁に沖縄戦関係の資料が存在するということで全てマイクロ撮影をし、沖縄に持って帰って きました。ただ、私はこの収集資料以外にもまだ存在するのではないかと思い、防衛庁に何度も通っ た結果、他にも続々と出てきました。このように、日米軍関係の資料もだいぶ集まり、1997 年に『米

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国新聞にみる沖縄戦報道』、2001 年に『アイスバーグ作戦(和訳編)』を資料編として刊行することが できました。特に日本軍関係の資料集めには、相当苦労しました。膨大な資料を収集するのに 7 カ年 という歳月がかかりました。これだけ膨大だけれども、残っていたのは1%程度なんです。資料のほ とんどが焼却処分されています。ただ、「陣中日誌」という部隊の日誌が残っており、資料編に掲載す るか否かは考えあぐねましたが、その日誌の中にも命令書や住民への供出命令や球軍会報(いわゆる、 「沖縄語を使う者はスパイと見做す」など)もあるし、飛行場建設に何名徴用したかといった記録も確 認できたので掲載することにしました。これらの陣中日誌も含め、2012 年に『沖縄県史 資料編 23  沖縄戦日本軍史料』が刊行されました。同年には、この資料編刊行の成果も踏まえながら、部会で各 論編の内容の論議が本格的に開始されました。以後、1 会議当り 3 時間の計 20 回に及ぶ部会で、構成案・ 執筆者の選定・用語の検討・原稿の監修などを行い、刊行の運びとなりました。

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内容構成について

本書の第五部の構成については、「これらの項目は沖縄戦そのものとは関係ないだろう」と思われ る方もいらっしゃるかもしれませんが、これらの項目こそが「沖縄戦」なんです。沖縄戦というのは、 沖縄戦が起こった時期だけで完結したら困る。戦後どう語られたのか、そしてどう継承できるのかと いった問題意識が重要だと考え、第五部を盛り込みました。 次に、本書が刊行されるまでどういう流れや研究があったのか、見てみましょう。先に述べた県や 市町村自治体においても証言の採録が進み、史資料も集まってきました。これらを元に、沖縄戦の実 相や諸相を研究する若手研究者も育ち、また沖縄戦関連の研究書も増えてきました。戦後、沖縄戦に 関連する本は刊行されていますが、そのほとんどが元日本軍人による回想録がほとんどで、住民視点 の研究書や住民による著書というのはほとんどありませんでした。ところが、『沖縄戦記録 9・10』が 発刊されると研究の視点が大きく変わります。これを契機に沖縄戦研究を編む自治体、証言を採録す る自治体が増えていきました。これらの成果を踏まえて、37 名の執筆者による 72 節にわたる本書が 刊行されました。 本書の編集にあたっては、用語の使い方についても議論を重ねました。その一つが「沖縄守備隊」 ではなく「第三十二軍」という名称を使用することです。当時は「沖縄守備隊」という言葉は使われ ていませんでしたし、「沖縄守備隊」という用語の妥当性も議論しました。もう一つが「収容所」とい う用語でした。これまで民間人の収容所も捕虜収容所としていたり、軍人軍属の収容所を難民収容所 としていたり、用語がバラバラでした。そこで、民間人が入っている収容所は「民間人収容所」とし、 軍人軍属が入っているのは「捕虜収容所」としました。

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地域の沖縄戦-「第二部 沖縄戦の経過と特徴」について

第二部と第五部を中心に本書を紹介します。まず、第二部「沖縄戦の経過と特徴」を設定した理由 についてですが、沖縄戦というのは、地域によって様々な特徴があり、同じ状況ではなかったという ことです。私は今、大学で教えていますが、ほとんどの大学生は「沖縄戦=摩文仁」だと思っています。 そこで、私は彼らに説明するんです。「それでは、あなたの地域では戦争はなかったのですか」と必ず 問いかけます。大学生でもこういう状況ですから、本書ではしっかりと地域の沖縄戦を書き入れ、多

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様な沖縄戦像というのを描こうと努めました。第三十二軍の管轄下にあった奄美諸島の戦争について も言及しています。沖縄本島中部を例に取り上げてみましょう。4 月 1 日に沖縄本島中部の北谷・読 谷に上陸した米軍は 3 日には本島中部の東海岸に達します。上陸地に近い地域は、4 月上旬にはもう“戦 後”になっています。一方で、同じ沖縄本島中部の宜野湾市嘉数はまだ戦闘中です。こうして、同じ 沖縄本島中部の戦争でも、同じ時期に「戦時」と「戦後」が同居しているのです。 那覇の戦争についてですが、現在の那覇市は戦後に合併されています。戦前は那覇市・首里市・真 和志村・小禄村の 4 市村がありました。その中でも旧那覇市は十・十空襲で 9 割が壊滅したため、他 地域へ移動せざるを得ませんでした。地域によっては米軍に土地が収容されていたり、インフラ整備 が整っていなかったりと戦後の帰市・帰村の時期もバラバラです。こういった現那覇市の戦争も地域 によって異なることを描きました。 北部の戦争については、若者に北部の戦争について訪ねると「北部に戦争はあったの」とびっくり しますが、「戦争」というのは、なにも“ドンパチ”の戦闘だけではありません。北部では、敗残兵に よる住民虐殺や食料強奪、遊撃隊いわゆる護郷隊の問題、また北部を中心に収容所建設が展開されて いきますが、様々なことが起こっていました。こういう問題についても明らかにしています。 また久米島では鹿山部隊による住民虐殺が起こっています。この虐殺は、日本軍の組織的戦闘が終 了したとされる 6 月 23 日以降、米軍が久米島に上陸した 6 月 26 日以降に発生しています。なぜ鹿山 部隊は住民を虐殺したのか、この問題についても言及しました。 渡名喜島や粟 あ ぐ に 国島の戦争については、これまでほとんど明らかにされていません。今回調べていく 中で、渡名喜島の戦争で象徴的だったのは、住民は戦時中ソテツを食べていたということでした。な ぜソテツを食べていたのか。それは、那覇に住んでいた渡名喜島出身者が十・十空襲で島に戻り一気 に人口が膨れあがり、食料を消費するスピードが早まったこと、それに加えて村の船が米軍によって 撃沈され沖縄本島からの食料輸送ができなくなり、島での自給自足生活を余儀なくされたということ でした。日本軍はいなくても、食糧難に陥る、これが渡名喜島の沖縄戦なんです。 また、粟国島について、これまでの沖縄戦についての記述にも問題がありました。『粟国村誌』には 「約四万人の米兵が粟国島に上陸した」とあります。こんな小さな島にそんなに多くの米兵が上陸した のかと驚き、改めて米軍の資料を調査し直したのです。すると、粟国島に上陸したのは 1,000 名を超 える米兵であったと考えられることが分かりました。本書でこの数字の違いについて訂正しない限り、 村誌の情報のみが一人歩きしてしまいます。粟国島も渡名喜島と同様、孤立して食糧難に陥っていま した。 宮古の戦争も、やはり食糧問題が大きかった。宮古では、住民5万人に対して、日本兵 3 万人がい ました。これが食糧難に陥った大きな要因でした。八重山の戦争は、なんといっても戦争マラリアが 大きな問題でした。 大東諸島の戦争についても、あまりよく分かっていませんでした。南北大東島・沖大東島(ラサ 島)と三つの島から成り立っていますが、大東諸島の戦争を一言で表すと、住民よりも兵隊が多かった、 ということです。沖縄の最も東に位置する大東諸島に、大本営が一個連隊と海軍を送り込むというこ

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とは、それだけ重視していたということです。 どの地域・どの島に日本兵がいたのか、兵士等が地域・島にいることによって、住民はどうなった のかと考えることが大切です。このように、地域によって、島々によって沖縄戦の特徴や展開が異な るということを、この第二部で書き表しています。

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「第五部 沖縄戦の戦後処理と記憶・継承」について

第五部は、一見すると「沖縄戦と関連するのか」と思われる人もいるかもしれませんが、沖縄戦を 沖縄戦で終わらせてはいけないと強く思います。そのため、第五部は多くの節を設けています。沖縄 戦終結から 72 年経過したからこそ、設けられた項目です。 1946 年~ 2015 年に出版された沖縄戦に関連する研究書・小説・手記・絵本など(研究論文は除く) をまとめました。この 70 年間で出版されたのは総計 1,236 冊でした。この『県史沖縄戦』は、これら 出版物の成果が反映されています。 沖縄戦の出版物は、1950 年代には旧軍人による手記や軍の作戦に関する書籍がほとんどでしたが、 1971 年『沖縄県史9』・1974 年『沖縄県史 10』の住民証言が刊行されてからは、住民視点の書籍が多 く出始めました。○○周年だったり、ウワイスーコー(沖縄戦戦没者 33 回忌)だったりという記念と なる年に多く出版されています。特に目立つのは、沖縄戦終結 50 周年に当たる年で平和の礎が建立さ れた 1995 年です。この年は、72 冊もの書籍が出版されています。このようなグラフからもみて分か るとおり、沖縄戦は沖縄戦のみで完結しておらず、その後も続いているのです。沖縄の戦後で何かが 起こる時には、必ず沖縄戦が想起されています。 第五部では、沖縄戦がどう語られ、認識され、記録されたか、「沖縄戦」は現在進行形であるという 理由から設けられたともいえます。戦時中から米軍は基地建設をしています。現在の基地問題につな がります。基地建設によって消えた村は多いです。未だに、自分たちの村に帰れない人びとがいます。 不発弾の項目を見ても未だに沖縄戦は終わっていないと感じるはずです。援護法について、援護法で の沖縄戦認識には問題があります。遺骨収集もまだ終わっていない、いったいいつ完了するのでしょ うか。沖縄戦を学校現場ではどう伝えているのか、継承しているのか。あるいは博物館・資料館では どう沖縄戦を伝えているのか。地域での沖縄戦の継承はどうなっているのか、地域独自の継承の取り 組みというのもここから見て取れるはずです。 『沖縄戦記録9・10』の住民証言が刊行されたからこそ、この『県史沖縄戦』もできたといえるでしょ う。当時は、確かに「住民の戦争体験を記録として発刊してよいのか」といった編集内部の声もあっ たようです。時を同じくして、東京大空襲の住民証言が出されました。オーラルヒストリーが大切だ という動きが始まったんですね。 戦争体験者で自分で文章を書ける人はいますが、書けない人もいます。その記録をどうするのか。 その人が亡くなると記憶は消えてしまいます。『沖縄戦記録9・10』は、戦時中に 50 代だった人の体 験や当時区長だった人や兵事主任といって防衛隊や軍人を徴集する係だった人の話も記録されていま す。現在ではもう記録することができない人びとの体験です。現在でも、いくつかの市町村で地域の 沖縄戦の資料を刊行するために、地域の方々へ聞き取り調査もしています。

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まとめ

本書はこういった先行研究や住民証言の収集といった成果の上になりたって刊行となりましたが、 それでも「沖縄戦の全てが詰まっている」とはいえません。例えば、沖縄戦で亡くなった人数は未だ に分かりません。これは一大プロジェクトとしてチームを組んで取り組まなければ絶対にできないこ とだと思います。これこそ、国の責任でやってほしいなと思います。 現段階での最新の研究成果を集めたものが、本書です。72 節という多岐にわたる項目は、それだけ 沖縄戦の実相はいろんな角度から見ていかなければならないということなんです。一面的には沖縄戦 は語ることはできません。 繰り返しになりますが、沖縄戦研究はこれで終わりではありません。今後、期待していることは、 沖縄県公文書館に今膨大な米軍資料が集まっています。今後、これらの資料をどう使い、どう研究し ていくのか。新しい視点で新しい研究が生まれてくるだろうと思います。 本書の各執筆者には、次の 3 つの視点で描いてもらいました。①最新の「沖縄戦」研究の成果をふ まえて論述する、②県史・市町村字史の蓄積と成果をふまえて論述する、③住民視点、証言を大事に して論述する。この中でも最も大事にしたいのは、③の住民視点でした。そして、可能な限り住民証 言を入れるよう、各執筆者にお願いしました。 皆さん、もう本書はお手元にあるでしょうか。かなり重い本ですが、その重たさの中には、こういっ た想いも込められています。まだお読みでない方は、ぜひ今後じっくりお読みいただきたいなと思い ます。ありがとうございました。

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林 博史「

『県史沖縄戦』

 刊行の意義②―研究成果の到達点」

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沖縄戦研究の状況と新県史-民衆(住民)の視点からの調査研究

皆さんこんにちは。ご紹介いただきました林です。私は 2005 年から沖縄県史沖縄戦の編集委員・部 会委員をつとめ、もう 12 年になりました。私は神戸生まれ・神戸育ち、大学からはずっと東京ですの で、私はずっと沖縄の外から沖縄を見てきました。 初めて沖縄に来たのは、復帰前の家族旅行でした。その時に、健児之塔の後ろにあるガマの火炎放 射器の焼いた黒い跡を見たことが、強烈に印象に残っています。実際に沖縄戦研究に取り組み始めた のは 1985 年です。私の大学院の先生が「沖縄戦を考える会(東京)」を作り、先生に頼まれて事務局 長を務めました。きっかけは、沖縄は本土のために犠牲になったのだから、本土の人間がきちんと沖 縄戦について研究・調査しなければダメだろうという思いでした。沖縄戦研究といえば、それまでは 沖縄の人たちだけが沖縄内部から研究に取り組むというものだったのです。 私の沖縄戦研究の出発点は旧『沖縄県史9・10』でした。この合わせて 2,000 頁以上にわたる 2 巻 を読み終えた時、もう何も言葉がありませんでした。皆さんも、沖縄戦の研究を始めるならこの 2 冊 から読むべきです。自分の持っているあらゆる言葉が薄っぺらすぎて、何も言えない状態で、とても 読書感想文なんて書けません。そこから私の研究は始まっています。 『沖縄戦記録9・10』以降、県内の市町村史で、随分多くの体験者の証言があつめられています。 そして、今定着している「沖縄戦」のイメージは、80 年代に沖縄戦研究者が次々と本を出したことで「住

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民の視点からの沖縄戦像」が出来上がったと思います。読谷のチビチリガマの住民自決が掘り起こさ れたのも 80 年代ですし、沖縄の方の体験だけでなく、朝鮮人軍夫として朝鮮半島から連れてこられた 人たちや、慰安婦にさせられた女性たちの体験というのも、この 80 年代に明らかにされてきています。 「沖縄戦」や「米軍基地問題」等を含めてそこから学習していこうという、おそらく現在の平和ガイド につながる“観光コースではない沖縄”という戦跡巡りなどもこの時期からスタートしています。なお、 先述した「沖縄戦を考える会(東京)」で、私自身が沖縄戦研究を始めたのも 1980 年代からです。 このようなことから、沖縄戦研究において 1980 年代というのは歴史に残る非常に重要な時期だとい えるでしょう。その後も、市町村史が次々と出されて、実に多くの方々の貴重な証言が採られています。 そうした中で沖縄戦に関する「ハンセン病」、「障がい者」、「戦争マラリア」、「心の傷」についての研 究も進められるようになったと言っていいと思います。その他、資料にあるように様々な分野での調査・ 研究が進んでいます。ですから「住民の視点」という場合でも、当然「住民」というのは決して一枚 岩ではないので、これも年齢によって、たとえば小さな子どもなのか、それとも十代で軍に動員され るような世代なのか、大人でも高齢者であるか、あるいは男女の違いによっても体験は違うと思いま す。そこで何らかの障がいを負っている人かどうかによっても随分違いがあります。 また、住民だけでなくて、軍人も様々な人がいて体験も異にしています。当然、日本の軍人は加害 者という側面がありますが、彼ら自身も沖縄という所で、死ぬことを余儀なくされる、つまり捕虜に なることを許されない訳ですから、彼ら自身もまさに「命を捨てさせられる」状況に追いこめられました。 米軍の方も、アメリカ軍人の「心の傷」の問題が非常に深刻であったことも現在では分かっています。 ですから、民間人も様々ですし、軍人にも一面には加害に荷担していると同時に、一方で被害者でも あるという多様な側面があるということがいろいろな形で明らかにされてきました。 ただ、1980 年代にこのように沖縄戦研究の全体をまとめるような成果が随分出されたと思います が、その後、いろいろな調査、たくさんの証言が集められているにもかかわらず、それを全体として まとめた著作はほとんどありませんでした。せっかくの貴重な研究成果をなんとか活かしたいと思い、 2001 年に『沖縄戦と民衆』という本を出しました。そのとき、既に出ていた総ての市町村史を読みま した。字誌も手に入るものは全部読み、ともかく一冊の本『沖縄戦と民衆』にまとめました。その後、 県史に関わるようになり、『資料編 23 沖縄戦 日本軍史料』の刊行にたずさわりました。 沖縄の皆さんが、証言が出来ないような苦労の中で蓄積され、その後の世代が受け継ぎながら積み 重ねてきたものの一つの集大成が、今回の『県史沖縄戦』だと思っています。 編さんにあたっては共同作業で、出来るだけ住民証言を組み込んだつもりです。各執筆者が努力さ れたということもありますが、表には出ませんが、事務局の皆さんがともかく市町村史を丁寧に調べ て、「この証言はこの場面でつかえるのでは」等と提案をいただいて、それをどんどん盛り込んでいます。 ですから、今回の『県史沖縄戦』は、それぞれの項目に執筆者名が書いてありますが、実質的には執 筆者プラス事務局の皆さんでつくりあげた共同作業です。また、日本軍の史料も随分盛り込んでいま すしアメリカ軍の史料も可能な範囲で盛り込んでいます。 今後の研究の課題にもなりますが、1950 年代の援護行政に関わる資料が、沖縄県公文書館でも公開

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され始めています。その中に実は貴重な資料がたくさん入っています。援護資料の中では沖縄戦当時 の村長さんだとか、区長・役場職員などが、50 年代に多く証言をしています。この方たちの証言は今 はもう聞くことはできませんが、そういう資料が実はたくさんあるわけです。執筆がある程度終わっ てからそういう資料を集めてきたので、可能な範囲で入れています。旧県史は地元沖縄の方たちで作っ たと言っていいと思うのですが、今回の県史は、項目の三分の一ぐらいは本土出身者が書いています。 これは非常にいいことです。「沖縄戦」というのは、沖縄が本土に犠牲にされているわけですから、本 土の人間がもっと関心を持ち、共同作業をするということは非常に重要なことだと思っています。 そして、いま、沖縄戦研究は、世代交代が進んでいます。今回の県史の中でも、これは個人的な意 見ですが、中堅 ・ 若手研究者は本当に力作を書いてくれています。明らかに沖縄戦の研究というのは 世代交代をしたと思います。今、最前線でやっているのは中堅 ・ 若手で、その最前線の先頭を走って いる方々、この後の2部のパネラー4人は、そういう人たちであると思います。そういう意味で、今 回の『県史沖縄戦』は、沖縄戦研究は新しい世代が担っている、そういうことを示す画期になるので はないかと思います。

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第一・三・四部の構成

次に本書の一部 ・ 三部 ・ 四部についてコメントをします。まず第一部は「沖縄戦への道」ですが、 沖縄が戦場にされていく過程が描かれています。特に、沖縄の人びとが軍人として、あるいは民間人 として、様々な形で戦場に巻き込まれて、動員されていくそのプロセスを丁寧に説明しています。 この間、研究をしながら私が危惧していることは、一部の行政・警察の人間を美化するような動き があるということです。軍だけではこれだけ徹底して沖縄の人を戦場に動員することは、絶対にでき ません。あらゆる行政組織、特に警察、学校といった組織がフルに動かないと、戦争というのは絶対 できません。そのことを考える手がかりとしてしっかりと事実を書いていると思いますから、主観で はなく、それぞれの人々がどういう役割を果たしたのか、ということを客観的に考える素材にしてい ただきたいと思っています。 第三部は、「障がい者」「ハンセン病者」の問題、あるいは軍事動員されたといってもいろいろな方々 がいます。軍人として召集された方、あるいは、防衛隊員として召集された方、防衛隊員も軍人ですが。 あるいは学徒隊だとか、それから当然官公庁の人たちも動員されていきます。これらの人々がどのよ うにして動員されたかについても、丁寧に書いています。いろんなポジションの人々が、どういう体 験をしたのかということも書いてあります。丁寧にフォローをしているつもりです。また、民間人だ けでなく、アメリカ軍人や、朝鮮半島から連れてこられた人々など、様々な人々の沖縄戦体験を描い ています。 第四部は「沖縄戦の諸相」ということで、沖縄戦の様々な側面、たとえば、軍病院の全体的なこと を描いた研究は案外ありません。そもそも軍の病院とは、どのような仕組みで、全体はどうだったの かということも本書ではきちんとまとめられています。 それから、昨年『名護市史 本編 3 名護・やんばるの沖縄戦』が出ました。これでヤンバルの沖 縄戦研究は一気に進んだというほどの画期的な業績であると思います。今回の『県史沖縄戦』でも、

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その成果の一部分が反映されています。北部の沖縄戦についても、従来はなかなか注目されなかった こともきちんと位置づけて取り上げられています。 また、今回の県史で初めて発表した成果が「戦時撃沈船舶」のデータです。対馬丸だけではなく、 多くの船が沈められています。従来使われている「戦時撃沈船舶」のデータは、かなり問題が多く、 執筆担当者が資料を徹底して調べ、今回の『県史沖縄戦』に載せています。「戦時撃沈船舶」を扱うと すれば、今回の県史が最新のデータになります。

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強制された「集団自決」と「強制集団死」

次に、「集団自決」「強制集団死」をめぐる問題についてふれます。いろいろなメディアや本でも、「集 団自決」を使うのか、「強制集団死」を使うのかについて、いろいろ議論になっているのはご存知だと 思います。今回の県史では、両方の言葉を併記して叙述しています。ただし、執筆者によってはいず れかを使うこともあると思いますが、県史では、併記するということで統一してあります。「強制集団 死」ということばを使われる方々の考え方は、資料にもあるとおり「自決とは自ら死を選ぶことであり、 軍人は自決するが、民間人は自決しない。このことは国のために自ら殉じたという殉国思想、あるい は、援護法に示される靖国思想を示すものであり、『強制集団死』あるいは『強制された集団死』とい う表記を使うべきである」とポイントをまとめてみました。一方、「集団自決」という言葉を使う人々は、 「日本軍に殺された状況とは違って、『死ぬ』しか選択肢がないと思い込まされ、あるいは死ぬことを 受け入れされており、大人たちにとっては『自決』という形、あるいは肉親に自分を殺してくれと頼 むことをとらざるを得ないような状況に追いつめられた、子どもたちも直接的には日本軍の手によっ てではなく、肉親によって殺されるという形をとった。そうした、強いられた自発性(下嶋)を示す うえで『集団自決』という言葉を使う」という観点から議論されています。今回の沖縄戦専門部会では、 現状をふまえ、とりあえず併記しようということになりました。 この問題に対して、これまでどんな研究がなされてきたのかを資料に載せました。どちらの言葉を 取るにしても、「殉国美談」ではない、決して住民がお国のために自ら命を捧げたものではないこと を、住民の視点から捉えようとしているという点では共通しており、そこに違いはないと思っています。 私自身は「強制された集団自決」という言葉を使いますが、この問題の主な研究書をあげてみました。 宮城晴美さん、私自身の本、下嶋哲郎さん。屋嘉比収さんは「集団自殺」という言葉も使っておられます。 この問題について正面から取り組んだ研究は「集団自決」を使う論者だけです。 「強制された集団死」という用語を使って、この問題を正面から取り上げた研究は、これまでにな いと思います。つまり、自分たちで死ぬしかないと思い込まされているのは、生きようとしたが日本 軍に殺されたのとは違う、本当に重みがある言葉で、なぜそのように死ぬまで追いつめられたのかと いうことを分析しなければなりません。ここに挙げた本は、いずれもそういう研究をしている、深く 掘り下げようとした研究だと思っています。私もこの項目を担当するにあたって、依拠できる研究は「集 団自決」の観点からのものしかありませんでした。「強制集団死」という観点からの分析はされていま せん。今後、その観点からどういう分析が可能なのか、「集団自決」では捉えられなかったことをどう 捉えるのかという議論をしてもらえれば、この議論はもっと発展していくと思います。

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今回の県史では、非常に細かい出典や根拠を挙げています。何を根拠に記述しているのか、また、 参考文献も挙げていますので、物足りないという方は、そこを手がかりに調べていただければと思い ます。

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今後の課題

今後の課題ですが、一点目、ご承知のように、体験者からの聞き取りは、最後のチャンスになりました。 当時大人だった方々からの聞き取りは、ほとんど不可能となりました。これは、市町村史・字誌もそ うなのですが、既に『沖縄戦編』を出した自治体もあると思いますが、「もう自分たちは出したからい いや」ではなくて、出した自治体も含めて、もう一度可能な限り聞き取りをしていただきたいと思い ます。沖縄県全体で組織的にやる必要があると思います。十年後にはもうできなくなってしまいます。 是非やるべきだろうと思います。 二点目として、いろいろなメディアが、新聞 ・ テレビなどでも証言を集めていると思いますが、果 たしてそれが全体のものとして共有されているか、メディアが持っているのはなかなか使いにくい、 共有しにくい。これまで集めた証言を含めて、沖縄全体で共有できるような仕組みづくりを早急に作 る必要があると思います。これは、沖縄県が率先してやっていただけると一番いいと思います。差し迫っ た課題だと思います。 三点目、先ほど少しふれましたが、援護行政の文書があります。県の公文書館には、県の文書が、 市町村の文書はそれぞれの自治体が保管していると思います。これは、プライバシーの問題があるので、 なかなか見せてくれなかったり、個人名が伏せられると何の文書か分からなくなる。しかし、沖縄戦 の実態を明らかにするのに、非常に貴重な資料です。沖縄にある資料ですから、なんとか活用できる ように考えていただければと思います。 四点目、これまでの沖縄戦研究の成果で、足りなかった点、至らなかった点が見えてきました。た とえばアメリカ軍が作った沖縄の基地がどのように使われたのか、今回の県史では全くふれていませ ん。私は、米軍基地を担当しましたので、どの様に基地が建設されていったのか、どの様に住民が排 除されたのかは書きました。しかし、その基地がどのように使われたのか、今回の県史には、その点 が抜け落ちています。 たとえば、沖縄の飛行場から、日本軍の特攻機を迎え撃ったり、地上の米軍を支援する作戦は当然 行っていますが、奄美群島に対する空爆を 5 月 13 日から始めています。九州に対する空爆は、5 月 17 日から始めています。まだ首里が陥落する前です。余りにも早いので、私は愕然としました、それを知っ たのも今年になってからでした。これは全く県史に反映されていません。その後、沖縄の基地から本 土空襲をずっとやっているのです。明らかに無差別爆撃、民間人と分かっていても攻撃をしています。 沖縄戦のなかで作られた基地がどうやって使われたのか、この点は全く空白です。これは緊急に取り 組まなければならない課題だと思っています。 それから、沖縄の人々の外地での戦争体験です。沖縄の摩文仁にある平和の礎には、沖縄の外で亡 くなった方々の名前も刻銘されています。沖縄の外で、沖縄の人がどういう体験をしたのか、どう戦 争に関わったのかということが、実は落ちてしまっている。『沖縄県史』のシリーズには、「近代編」、「沖

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縄戦編」に続いて「現代編」がこれから出ることになっています。そうすると、そこの部分は落ちた ままになる。そこを意識して「戦犯裁判」の項目を執筆しました。沖縄の出身者がアジア、中国、東 南アジアでどの様に戦犯になったのかということも少し書いています。沖縄戦というのは、15 年戦争 の最後の戦争です。それまでの 15 年の戦争の中で、沖縄の人がどのように関わったのかということを 明らかにする必要があります。当然サイパンでも沖縄の出身者がたくさん亡くなっています。このよ うな点は、今回『県史沖縄戦』ができたことによって見えてきた課題だろうと思っています。 沖縄戦は、個々のテーマではまだまだやるべきことがあります。若い世代の方々には、沖縄戦が 全て解明されていて、わからないことはないと思わず、まだまだやるべきことがあると認識していた だきたい。今申し上げた、本土空襲も沖縄の人の外での戦争の件も、実は私が気がついた訳ではなく、 若手の研究者に教えられたものです。私自身が若手に刺激されながら研究している。そういう意味では、 沖縄戦研究の最先端を担っているのはまさに中堅・若手です。今回の『県史沖縄戦』は、これまでの 集大成であるとともに、新しい研究の担い手が表舞台に登場してきたといえるのではないかと思います。

3.第2部 パネルディスカッション「沖縄戦研究の最前線と今後の展望」

コーディネーター:高良倉吉 ご紹介にあずかりました、コーディネーターを務めます高良倉吉です。よろしくお願いします。第 1 部の基調講演を受け、第 2 部は「沖縄戦研究の最前線と今後の展望」について話し合っていきたい と思います。まず、第 1 部でも何度も取り上げられていました『沖縄県史9・10』ですが、この本は 米軍統治下の 1954 年に史料の収集整理を始め 1965 年に「旧県史」と呼ばれる『沖縄県史シリーズ』 が順次刊行されていきました。全部で 24 巻あり、うち沖縄戦に関連するものは全部で 3 冊、その中で も『沖縄県史9・10』が 1971 年、1974 年に発刊されています。この 2 冊は、住民の目線で沖縄戦を捉 えるという基礎を作った本です。あれから四十数年の月日が経ち、市町村でも住民証言の採録が行わ れたり、日米軍の様々な資料が発見・収集され、戦争遺跡に関する調査・研究も進んできました。こ ういった蓄積があり、今回この『県史沖縄戦』が発刊される運びとなりました。 この『県史沖縄戦』は 800 頁を超える大作です。私はこの本を読み終わるのに 3 日ほどかかりまし た。「沖縄戦研究はこの段階まで来たのか」と圧倒されました。問題は、この新しい知見や視点、問題 提起をどのように県民で、国民で、世界にどう共有し伝えていくのかということだと思います。それを、 本日会場の皆様と共有していきたいと思います。 それでは、まず4名のパネリストの方々に 15 分ずつ発表していただきます。次にフロアーにいらっ しゃる2名の執筆者からコメントをいただきます。そして、聴衆の皆さんの中から質問を受け付けます。 最後に総括討論を行います。 それでは、パネリストの皆さんの発表をお願いします。

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川満 彰:

「秘密戦」

「御真影奉護隊」

皆さんこんにちは。ご紹介にあずかりました川満です。私は、「沖縄本島北部の沖縄戦」「やんばる 疎開」「御真影奉護隊」「秘密戦」の 4 項目を執筆いたしました。今日は「秘密戦」と「御真影奉護隊」

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についてご報告したいと思います。 まず、「秘密戦」についてお話します。あまり聞き慣れない「秘密戦」とは「宣伝、防諜、遊撃戦、諜報、 諜略を主とし心理的作戦(工作)で内部から破壊する戦略」のことです。沖縄には 1944 年 9 月、陸軍 中野学校出身の村上治夫、岩波寿、広瀬日出生中尉らが小禄飛行場に降り立ちました。その後、計 42 名の陸軍中野学校出身者が沖縄県各地に配置されました。陸軍中野学校とは、特殊任務要員を養成す るための学校ですが、彼らの目的は、日本本土決戦に備え、第三十二軍壊滅後も遊撃戦(ゲリラ戦) を続けるための第三遊撃隊、第四遊撃隊を編制することでした。この「秘密戦」の報告では、この陸 軍中野学校出身者についての報告を中心にしたいと思います。 改めてお話しますが、多くの人は第三十二軍が壊滅=沖縄戦の終了と思われている方もいらっしゃ るかもしれませんが、実際には大本営は第三十二軍が組織的に壊滅した後もゲリラ戦が継続できるよ うに、陸軍中野学校出身者を配置していました。彼らの主な任務は、①遊撃隊の編成、②離島残置諜者、 ③第三十二軍情報班、④大本営特殊勤務隊の4つが挙げられます。①~③には 29 名の要員がそれぞれ 配置され、④は直接大本営から派遣されました。①~③の主な仕事内容は遊撃戦を展開するため、④ 大本営特殊勤務隊は戦況を大本営に伝えるというものでした。そして、第三十二軍が壊滅したあとも、 山中に隠れていて大本営に常に戦況を伝えていく、そういう任務を背負った人たちが、この④大本営 特殊勤務隊です。 この陸軍中野学校出身者らは、中北部のおよそ 1,000 名の少年を中心に「護郷隊」を結成しました。「護 郷隊」は、「15 歳から 18 歳ほどの少年を中心に構成」され、実際には、当時 14 歳だった方もいました。 18 歳の方は、1944 年 11 月からは正規軍として入隊していましたが、護郷隊の中心メンバーは 15 歳か ら 18 歳の少年たちでした。 さて、なぜ護郷隊が中北部を中心に結成されたのか。それは、第三十二軍は米軍が中部から入っ てくるだろうという予測をしており、主な日本軍を南部に配置していました。南部で米軍と戦ってい る最中に、北部の護郷隊が南下して米軍の背後から、挟み撃ち攻撃するという作戦を考えていました。 そのため、護郷隊も兵士として見なされ、正規兵なみの訓練をさせられました。殴る蹴るの訓練は当 たり前でした。この戦闘では、大きな遊撃戦を体験することなく 160 名あまりの少年が亡くなってい ます。それだけの中北部の少年が戦争に動員されて亡くなったということを『県史沖縄戦』に記述す ることができてよかったと思っています。 そして、久米島、伊是名、伊平屋、波照間島には、②離島残置諜者が配置されていました。それ ぞれ離島残置諜者によって住民への対応は異なりますが、波照間島の戦争マラリアがひどかったのは、 一人の離島残置諜者の存在がありました。 第三十二軍は離島残置諜者からの情報収集をしていましたが、彼らとの連絡役は③の第三十二軍に 残った情報班でした。しかし、戦況が悪化してくると日本軍陣地もやられたり、各残置諜報者が連絡 用として使用していた郵便局も爆撃にあったりと連絡する方法がなくなります。そうすると、情報班 のメンバーは、第三十二軍の中で余ってしまい、最後は北部の無線通信が途絶して、情報班は北部と の伝令役となっていきます。爆撃の中を司令部と北部との非常に危険な道を走り2名が連絡係として

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2 名が亡くなります。 最後の大本営特殊勤務隊というのは、北部では剣 つるぎ 隊という名で残っています。あと西表島、石垣 島、宮古島で大本営に沖縄の戦況を常に伝えていく役割をしています。朝日新聞など本土の新聞で 6 月下旬に沖縄が殲滅したということをいち早く知っていたのは、彼らがこの情報を常に大本営に伝え ていたからです。大本営はこの情報を見ながら、次の本土決戦準備をしていくのです。このことからも、 沖縄は大本営特殊勤務隊が配属された時点から「捨て石」だったことがわかります。これらが「秘密戦」 という部分で『県史沖縄戦』に記述した部分です。 次に「御真影奉護隊」についてお話します。この「御真影奉護隊」は、軍隊でもなく、住民の場 面でもなく、ある意味非常に稀な分野になると思います。御真影とは、昭和天皇・皇后の写真のこと です。全国各地では、米軍の空襲が来る度に校長先生や教員たちは、この御真影を焼失から護るため、 担いで右往左往しているのです。当時の文部省からは、まずは御真影を護ること、教育勅語を護ること、 これが一番の校長たちの任務でした。 その次が生徒・児童を護ることだったのです。護る順序が、今考えると信じられない。当時は、真 面目にそれを考えていました。本土では御真影奉護のために壕を掘ったところはありません。空襲が 来ない山間に御真影奉護所を造る。しかし、沖縄本島では地上戦に備えて名護市の奥の大湿帯に御真 影奉護壕を掘って、八重山であれば於茂登岳の山中の白水に、宮古島は野原越に御真影奉護壕を掘っ ていくわけです。当時は男尊女卑がはげしく、沖縄本島や宮古島では、御真影を護った人たちは、男 性教師たちでした。八重山では、ほとんどの男性教師が召集されたことで石垣・登野城両校(石垣島) の女性を含めた職員が交替で毎日当番を担っていました。 沖縄本島の場合は「御真影奉護隊」が結成されます。9 名の校長・教頭で編成され、それ以外にも 志喜屋孝信さんとか、他の先生たちもいました。 その家族も一緒で、総勢 30 数名でした。4 月 7 日には、名護湾に米軍が到着し、早くも大湿帯には 4 月 9 日から 10 日にはすでに来ています。したがって、米軍が 7 日に上陸して 10 日には、この御真 影奉護壕を放置します。放置する際に、明治天皇、大正天皇の写真を焼いて、昭和天皇だけはまだ生 きているからと、写真を抱えて山のなかを 80 日間さまようのです。その間の 30 数名分の食事をどう するかが大きな問題でした。飢餓寸前になりながらも任務を続けました。ところが、6月下旬になる と、南部の情勢がわかってくる。長参謀と牛島司令官が自決して戦略的な戦いは終わったということ で、御真影を山のなかで焼くことになりました。私は、仕事がら高校生たちに、よくこの話をしますが、 高校生たちは、この話を聞いておかしくてゲラゲラ笑います。おかしくてしょうがないという雰囲気 です。1890 年、各地に御真影が来てから 55 年後には、そういうことになっていくわけです。だから、 また 55 年後には笑えない状況になっているかもしれないことを、これまでの歴史の中で見ていってほ しいと思います。 以上のように、御真影の末路は、6 月 30 日には沖縄本島は焼いて、宮古島も石垣島でも焼いています。 ただ、御真影を八重山支庁に運べなかった与那国島とかいくつかのところは、それぞれの場所で焼い たということです。北大東島の国民学校の御真影だけは、6 月 26 日、牛島満司令官が自決をして3日

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後には、小型の潜水艦で、おそらく本土へ渡ったということが資料からみて取れます。御真影は全国 的に奉焼されていますので、北大東島の御真影も本土で焼かれたと思います。 残念ながら、殉職された校長先生がいます。金き ん武国民学校の糸満盛弘校長は、逃げまどいながら御 真影と教育勅語を抱えながら、グラマン機に射撃されて亡くなっています。粟国国民学校の比嘉盛義 校長は、御真影を抱えて沖縄本島に渡るとき行方不明となっています。鳩間国民学校の宇江城正喜校 長は、御真影はなかったが、教育勅語を奉遷中に空襲をうけて亡くなっています。

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古賀徳子:

「戦場の軍病院」

「日本軍慰安所」で伝えたいこと

わたしは、福岡出身で 1990 年、学生の時の夏休みに初めて沖縄に参りました。今日は、沖縄戦の話 をしてくださった体験者の方、いろいろ沖縄戦について教えて下さった方、先輩方がたくさんいらっ しゃって、この緊張感は言葉に言い尽くせないですけど、そういった皆さまに応援していただいてい るという気持ちで、報告させていただきたいと思います。 私は「戦場の軍病院」と「日本軍慰安所」を執筆させていただきました。まず「軍病院」というのは、「陸 軍病院」と「野戦病院」をあわせた意味でタイトルといたしました。「陸軍病院」といえば、戦後すぐに「ひ めゆりの塔」が建立されました。この話は、まだ十代の女子学徒が戦場に動員されて、命を落とした といった戦争の悲劇として知られた訳ですが、それと同時に「陸軍病院」の存在も、戦後間もない頃 から知られています。その後、1989 年に「ひめゆり平和祈念資料館」が開館し、ひめゆりの学徒自身が、 生存者自身が展示資料をつくって、「陸軍病院壕」の実態、生々しい証言をそこで展示をし、語ってい きました。 私も沖縄に初めて来たときに、資料館をみました。そのとき「陸軍病院」というのは、非常に悲惨 な状況だったんだなと、全く沖縄戦についての知識もない私でも、衝撃を受けました。その後、修学 旅行でも平和学習が盛んになってきまして、「陸軍病院」の分室があった糸数壕、それから第 24 師団 の新城分院などでも、平和学習・戦跡学習が行われるようになり、また、南風原町が「陸軍病院壕」 の調査をして保存して活用するという動きをして、地元の住民への聞き取り調査などもさかんに行う ようになりました。 また、「陸軍病院」の軍医だった方、看護婦、衛生兵だった方々が『閃光の中で―沖縄陸軍病院の証言―』 という本を 1992 年に刊行しました。また、重症患者で「陸軍病院第一外科」に入院をしていて、病院 が撤退する際に、青酸カリ入りのミルクを飲まされたが、吐き出してどうにか助かったという、重症 患者だった「岡 おか 襄 じょう 」さんが初めてその証言をするのも 1992 年です。 私も、1994 年から南風原町史編集室の方で嘱託員になりました。これが南風原文化センターの中に あって、また「陸軍病院壕」の保存活動にも取り組んでいるということで、壕のシンポジウムが開催 された時、病院関係者、患者、ひめゆりの生存者のみなさん、陸軍病院の関係者が一堂に会して、証 言をするというような機会、そういった場面も体験することができました。重症患者が撤退のとき青 酸カリを飲まされたという話はずっと知られていたのですが、具体的なことを証言に照らし合わせ、 病院関係者の本部、関係者への聞き取りとあわせて実態解明が進みました。具体的にいいますと、5 月 25 日、撤退命令が出たときに、「陸軍病院」の本部から青酸カリを「第 1 外科」「第 2 外科」「第 3

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外科」各課の責任者に届けて、病院の歩ける患者、軍医や看護婦、学徒に撤退を命じ、歩けない患者 には青酸カリを配りなさいと命令をした。そのあとも残置隊という部隊(衛生兵・軍医の一部)を残 して、また重症患者に青酸カリを飲ませる。このように二段構えで、重症患者の処置をしました。青 酸カリを配りなさいという命令を実際に受けたことが、衛生兵や軍医の証言からもわかっています。 もちろんその中でわからないこともたくさんありますけれど、大きくいえば、それだけ重症患者の処 置というのが徹底されたということが、資料を照らし合わせることで見えてきました。 「戦場の軍病院」では、女子学徒の視点での詳細な証言はありますが、「陸軍病院」と「野戦病院」 はどう違うのか。「女子学徒の皆さんは看護婦だったのですか」とよく聞かれますが、看護婦は看護婦、 また学徒は学徒でどのように集められ、教育され、何をしていたのか。また、第 62 師団や第 24 師団 の各野戦病院や分院・分室の状況もできるだけお伝えしたいと思ったのですが、原稿の枚数に限りが あり、足りないところもあったかと思っております。その中でも、とくに重症患者の処置の問題に力 を入れて書きました。そして、それを命じられた軍医や衛生兵がどのように対応したかということを 書いております。 具体的にいうと、青酸カリを溶かして配る。あるいは、クレゾールとかモルヒネといった劇薬を注 射で、重症患者に打つ。銃によって射殺する。手榴弾を渡す。場所によって、様々な方法が取られました。 それを命じられた軍医と衛生兵は、非常に苦悩したことが手記などからわかります。その中で、上官 がその場にいない場合は、青酸カリを捨てたり、無理には飲まさないで枕元に青酸カリを置いていく、 あるいは、手榴弾を置いていく、そんなふうに立ち去る。そのようにして、命令に従わないようにした。 そういう証言もあるわけです。それでもやはり、目の前に上官がいると、命令には公然と逆らうこと はできませんので、直接手を下したという証言も、もちろんあります。そういう中で、負傷兵であっても、 敵の捕虜にならないように処置をする。味方を殺すといった役割、非常に残酷な役割を、陸軍病院の 軍医や衛生兵、ときには看護婦も課せられてしまった。 それでも、両足がないような患者もなんとか病院壕から這って出て、出たところを米軍に捕まって、 生きのびたという証言もあります。もしかしたら助かっていたかもしれない日本兵が、多数は味方に よって殺されたというのが、「軍病院」の大きな特徴になります。 次は、「日本軍慰安所」についてです。これは、1991 年に元慰安婦として初めてキム・ハクスンさ んという方が名乗り出たことがきっかけで、中国、台湾やインドネシア、ベトナム、ミャンマーなど、 日本軍の占領地や戦場で、多数の慰安所がつくられことが国際的な社会問題として知られるように なりました。沖縄ではすでにペ ・ ポンギさんという方が、朝鮮から慰安婦として連れてこられて、沖 縄にずっと住んでいた、ということは報じられていたので、知っている人は知っていました。その後、 浦添市史が 1984 年に、『戦争体験記録』を刊行したときには、浦添だけでも 14 カ所慰安所があったと いうことがわかり、大きな反響を呼びました。そしてさらに大きな関心が集まったのは 1991 年、そし て 92 年に『沖縄―戦争と女性 慰安所マップが語るもの』、通称「慰安所マップ」といわれるものが、 女性史のグループの方々が調査をして、県内に 121 カ所慰安所があったということが発表されたとき です。そんな中で、各市町村史の『沖縄戦編』の調査の中でも、慰安所調査が行われました。私も南

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風原町史の「戦災調査」で関わり、南風原町内に慰安所が 3 カ所あったということを知りました。「照屋」 という字は十・十空襲の翌日に、遊郭があった那覇の「辻」が焼けたので、「辻」の女性たちのジュリ、 アンマー(抱え主)、それから、その家族約 20 人が照屋に来ました。ムラの事務所(ムラヤー)を改 築して、そこを慰安所にしています。慰安所の改築工事をしたのは、軍の部隊で、でき上がった慰安 所には、「球 1616 部隊 照屋慰安所」という看板もありました。そのジュリの人たちは首里や小禄の 出身で、10 代から 25 歳ぐらいだったそうです。たくさんの地域のみなさんが、その状況を知っていて、 証言が詳しく聞けました。 私は、慰安婦の方は、韓国・朝鮮出身の方だと思っていたので、沖縄の人が慰安婦だったことにびっ くりしました。『読谷村史』『玉城村史』などの市町村史でそれぞれ調査が進んでいくと、次々と新し い慰安所が見つかりました。軍が配備された所には、必ず慰安所がつくられる。その部隊が移動する ときは、その慰安所も閉めて、また次の所でつくる、そのようにして慰安所は次々つくられていきま した。本日のレジュメに延べ 144 カ所の慰安所があると書いていますが、143 カ所と訂正させてください。 どうして日本軍は、そんなにたくさんの慰安所をつくったのかというと、一般の沖縄の女性への強 かん予防だということです。日本軍の陣地構築や飛行場建設作業をおこなうとき、県民の協力は不可 欠です。軍人が一般の女性の強かんをすると反発を招く、だから慰安所を利用しなさい、と命令をし ています。また、軍人も作業で疲労困憊していますので、その不満をそらすために慰安所を設置した わけです。 朝鮮や台湾の植民地の女性だけでなく、多くの沖縄の女性が、慰安婦として性被害をうけたという ことは、今まであまり注目されてこなかったので、今回とりあげて来ました。また、ジュリ・芸者さ んというのは、もともと公娼だったことによって、今まで被害者として見なされてこなかったし、見 過ごされてきました。沖縄戦研究の中でも、沖縄の女性たちが、慰安所で性被害をうけたことについて、 あまり認識されていなかったので、そのことについて今回紹介させていただいたことは、良かったです。

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普天間朝佳:

「学徒隊」で描きたかったこと

皆さんこんにちは。ひめゆり平和祈念資料館の普天間です。よろしくお願いします。 まず「ひめゆり平和祈念資料館での全学徒隊の調査・研究の取り組み」、それから「県史沖縄戦で描 きたかったこと」、最後に「残された課題」3つについてお話しさせていただきます。 まず「ひめゆり平和祈念資料館での全学徒隊の調査・研究の取り組み」ですが、「ひめゆり平和祈念 資料館」は、みなさんご存知のように、生き残った人と同窓生がつくって、運営も自ら行っています。「ひ めゆり平和祈念資料館」には、たくさんの皆さんが来館されるのですが、特に、中高生たちにとっては、 同じ十代の戦争体験ということで、開館以来 28 年間、自分たちの問題として考える場になって来たと 思います。 しかしながら、開館の頃から「なぜ『ひめゆり』だけなんですか。」という声が聞こえてきました。 それは私たちも受け止めていて、それから、「ひめゆり学徒隊」の引率教師であった仲宗根政善先生が、 「ひめゆり」だけでなく沖縄戦全学徒のことをみなさんに知ってもらわないといけない、というご発言 をかねがねされていました。そこで、「資料館」の開館十周年の大きな節目に、全学徒のことを取り上

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げようということになり、沖縄で初めて全学徒のことを取り上げた企画展をしました。社会的にも大 きな評価をいただきました。その過程で各学徒隊の同窓会を通じて、調査を依頼したり、資料を提供 していただいたりしました。各学徒隊の方々にも喜んでいただいたのですが、その蓄積が展示となり、 展示の後に出した冊子が『沖縄戦の全学徒隊』ということで、証言だとか、そこで調査したことがま とめられるようになりました。これは、全学徒に関する研究の最初の大きな一歩だったと思います。 特別展がきっかけとなって、全女子学徒のみなさんが、自分たちも戦争について語ろうということ で、「青春を語る会」をつくります。自分たちの青春時代は戦争だったと、戦争を語ることは自分たち の青春を語ることだということで、「語る会」をつくったのです。自分たちで戦跡を回ったり、戦争 体験を語りあったりしていくのですけど、その中で本をつくろうということになります。その本の編 集をするにあたって、私たち「ひめゆり平和祈念資料館」にも協力して欲しいとの依頼がありました。 それで私たちも喜んで協力させていただき、感謝もしてもらったのですが、逆に、私たちも他の女子 学徒について、認識が深まる機会となりました。そのときに出たのが『沖縄戦の全女子学徒隊』とい う本です。 それからその 2 年後に、私たちは「資料館」で『沖縄戦の全学徒隊』を出しました。これは、今までの『特 別展』や『沖縄戦の全女子学徒』の蓄積を基本としているのですが、さらに調査を進めて、特に学徒 隊ごとの概要については、細かくまとめており、これまでの学徒に関する調査 ・ 研究の集大成になる ものではないかと思います。これらの研究・蓄積を土台にして、今回の執筆では、「学徒隊」の項目を 担当させていただきました。 2 つ目に、『県史沖縄戦』で描きたかったことは、今回、学徒の戦争動員について、「精神の戦争動員」 「身体の戦争動員」それから「生活の戦争動員」という 3 つの側面で分けて書きました。それぞれ、同 時的に起こり関連しあっているのですけど、この 3 つの側面から分けて書くことで、それぞれの意味 がよりわかりやすくなり、どういうふうに発展していったのか、そして、それがどういうものにつながっ ていったのかが、よくわかるようになったと思っています。 「精神の戦争動員」に関してですが、ここで一番重要なことは、日本では近代以降教育勅語を中心 とした皇民化教育がおこなわれてきましたが、学徒らが学んだ 1930 年代はさらに強力な皇民化教育・ 愛国心教育がおこなわれたということです。この視点は、とても大事だと思います。これまでの学徒 隊に関するものや沖縄戦に関して書かれたものに、この点について注目したのはなかなかありません でした。その時期におこなわれた皇民化教育・愛国心教育は、後の学徒たちの沖縄戦での状況を強く 規定することになります。学徒たちは沖縄戦に参加するのは当然だと思っていたし、むしろ積極的に 参加していきました。沖縄戦末期になると、住民は米軍に投降していくのですが、学徒はその投降に は加わろうとしないで、岩陰にかくれ逃げ回って、決して捕虜になってはいけない、捕虜になること は日本人として恥だと強く思っていました。学徒たちが捕虜になるのは、怪我をした時とか、あるいは、 壕の中に隠れていて、不意に米兵が現れて、不本意に収容されていくような場合でした。このように 1930 年代の教育が、学徒たちを強く規定していたということを書かせていただきました。 この 1930 年代の皇民化教育・愛国心教育は、もちろん全国でも行われていて、よく沖縄の学徒たち

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は 、 日本人になろうとして戦争に邁進したといわれるけど、実は本土が地上戦になった場合には、本 土の学徒たちも沖縄の学徒と同じように行動したと考えられるのです。調査を進めていくと東海地方 にも学徒隊が結成されたということがあるし、千葉県でも女学生に野戦病院の看護訓練をしたという 事実もあります。これは大事な視点だと思っています。 「沖縄戦の経過と学徒隊」では、各学徒隊の全体像を描こうと心がけました。各学徒隊の生存者が 「戦争体験記」を表しており、その「体験記」はインパクトもリアル感もあるのですが、全体の中でも、 どういった位置づけなのかよくわかりません。それぞれの学徒隊が、沖縄戦の経過の中で、どのよう に動いていったかを示すのは非常に重要なことではないかと考えて、各学徒隊の動き ・ 全体像を描こ うと思いました。それを描くことによって、体験の背景や意味がわかるのではないかと思ったのです。 その方法は、個々の体験記を読んで、共通事項や個別事項を抜き出して、沖縄戦の全体の流れの中に おとしてまとめるという方法を取りました。そういうことが可能になったのも、『旧県史』以降に各学 徒隊の戦記がたくさん出たこと、研究者によるいろいろな研究の蓄積があったという背景があったか らだと思います。 3つめに「各学徒隊の実像への言及」についてです。「実像」の1つめの例として、当時は、生徒 も教師も父母も県の指導者も本当の戦争を知らなかったということです。鉄血勤皇隊が編成されたと きに、集められた学徒隊を前にして、島田知事が「鉄血勤皇隊は、戦闘部隊ではない。部隊の後方に まわり、食糧を増産したりする後方任務だ。」と発言しました。したがって、島田知事も本当の戦争 を知らなかったと思います。もちろん学徒隊を引率した教師たちも、戦争が起こったらどういう事態 になるかを具体的に知っている教師は少なかったのではないかと思います。第二中学校の配属将校は、 ガダルカナル戦の生き残りで、アメリカ軍との戦いを経験しています。彼はなにをやったかというと、 二中は中南部に配属される予定だったのですが、いろいろな理由をつけて、北部の金武に学徒隊を連 れていきました。そこで、食糧もないということで間もなく解散するのですが、このことが結果的に は、学徒隊のたくさんの命を救うことになるのです。彼はアメリカとの戦争を知っていました。しかし、 第三十二軍は、中国戦線からきているので、大半が中国での勝ち戦を体験して沖縄に来ました。その 多くが、アメリカとの戦争を知らなかったのではないかと思います。 よく映画などで男子学徒隊は、爆雷をもって戦車に投げ込んで戦ったということが描かれますが、 丹念に各学徒隊の証言を読み込むと、それは任務としてはなくて、南部撤退後の解散命令のあとに斬 り込み隊として突入した時に行われたものであるということが分かります。華々しく描かれているよ うなことは、男子学徒隊の本来の任務ではなかったのです。 それからもうひとつ、よく学徒は崖から飛び込んだり、最後はたくさん自決したんでしょ、という こともいわれるのですが、実は、自決した例は 2 つしかありません。ひとつは、荒崎海岸でひめゆり の先生と学徒が一緒に自決した例と、師範学校男子部の自決のケースです。もちろん、目撃されてい ないケースもあったかもしれませんが、よくいわれているような戦争の悲惨さを伝えたり、逆に、殉 国美談を強調するために話されることは、証言を丹念に読んでいくと学徒隊の実像ではなかったとい うことがわかりました。では、これで終わります。

参照

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