• 検索結果がありません。

中華人民共和国成立直後の江蘇省における識字教育に関する一考察 -なぜ識字教育は大衆運動となったのか-

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "中華人民共和国成立直後の江蘇省における識字教育に関する一考察 -なぜ識字教育は大衆運動となったのか-"

Copied!
13
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

中華人民共和国成立直後の江蘇省における識字教育に関する一考察

-なぜ識字教育は大衆運動となったのか-

万 静嫻(早稲田大学大学院・院生) はじめに 清末から中華民国期にかけての近代中国社会において、義務教育の普及が立ち遅れる中で、大 衆に対する文字リテラシーの普及は長年にわたる大きな課題であった。そのため、1929 年、国民 政府は「識字運動宣伝計画大綱」を発布して各地で民衆教育館を開設し、識字教育を推進した。 同時に、晏陽初(1893-1990)や梁漱溟(1893-1988)などの知識人が主導し、1930 年代に展開 された農村改良運動(郷村建設)においても、識字教育は大きなウェイトを占めることになった。 しかし、国民政府や知識人の積極的な識字教育の推進とは対照的に、一般民衆の反応は鈍かった。 農村での地域開発に取り組んだ梁漱溟は、「知識人は満腔の熱血を灑いで郷村建設」に取り組んだ が、「農民から歓迎されなかった」1と自らの実践を反省しつつ述懐している。 中国の著名な社会学者である費孝通(1910-2005)は、流動性が極めて低い農村社会では、必 要な情報は口頭で直接に伝えられるため、文字という間接的な道具は農民の生活に必要性が無か ったことをかつて指摘した 2。即ち、文字を拒否した農民は愚かなのではなく、都市居住者のよ うには識字が必要とされる環境に置かれていなかったといえよう。 一方、1949 年の中華人民共和国成立後、中国共産党は新たな社会秩序の確立を図り、共産党政 権が依拠する大衆的基盤である労働者・農民の政治的自覚を高めるため、彼らへの教育の重要性 を提起した 3。とりわけ、人口の多い農民に対する識字教育は「農民解放運動における一つの政 治任務」とされ、第一次全国教育工作会議(1949 年 12 月開催)において、1951 年から全国規 模の識字教育を展開することが提言された 4。その結果、1957 年までに、2797 万人以上の民衆 が識字者となった 5。教育が全体的に立ち遅れていたという社会的背景にもかかわらず、識字教 育は大衆運動となり、多くの成果を挙げたのである。戸部健(2015)も解放後の天津における社 会教育について論じる中で、この時期、今まで読み書きのできない労働者、農民までが積極的に 国家の主導する識字教育運動や宣伝に参加するようになり、「未曾有の大きな変化」が生まれたこ とを指摘している 6。こうした大きな変革によって、中国の歴史において初めて「マス・リテラ シーの時代」が到来したともいえる7。 それでは、中華人民共和国成立前に、日常生活の中では識字に対する必要性のない圧倒的多数 の農民たちが、成立後に、なぜ積極的に識字教育に参加しようとしたのであろうか。その要因は 何であったのか。また、中核を担ったのは、どういった層なのか。さらに、50 年代の中国におい ては、識字教育に取り組むための必要な資金が不足し 、学習環境の整備が困難という一連の問題 が生じていた8。このような状況下で識字教育はいかにして展開できたのであろうか。 本稿では、大衆運動と言われる1950 年代の識字教育をめぐって、史料の検討及び、当時の識 字教育運動に参加した農民たちへの半構造化インタビュー調査により、当事者であった学習者及 び民衆教師(以下、民師とする)の立場から、識字教育が大衆運動となったメカニズムを解明し

(2)

ていくものとする。 1.先行研究 中華人民共和国成立以降の識字教育に関する先行研究としては、浅井加葉子の『当代中国掃盲 考察』(1999)があるが、同書は 1949 年から 1970 年代末にかけての約 30 年間における識字教 育の政策や内容、成果を系統的に検討した先駆的な著書である9。また馬雲は、1949 年から 2007 年にかけての識字教育の歴史的変遷を5 段階に分けて考察し、50 年代の識字教育に対して「健全 なスタート」という肯定的な評価を与えた10。これらの研究ではマクロの視点から識字教育に関 する政策と体制を論じ、その教育の内容と方法を概説的に明らかにした。 しかし、いかに民衆を動員して参加させるのか、実際にどのような問題に直面してそれをどう 解決したのか、というミクロの視点からの識字教育の実態に対する検討は不十分であった。また、 従来の研究は識字教育の行政施策とその展開に重きを置いたものであり、質的調査によって識字 教育の実態を解明する研究は、管見の限りではほとんど蓄積がない。そのため、本稿では中華人 民共和国成立直後の識字教育参加者(学習者、民師[3.2 (1)で後述])の実際の経験に耳を傾ける ことにより、識字教育の歴史のリアリティを再現するとともに、いまだ不安定な状況にあった共 産党政権の勢力基盤の確立に重要な役割を果たしていく識字教育を通じての大衆動員のありよう を、検証していきたい。 2.研究調査地域の選択と研究方法 本稿は、江蘇省を研究対象地域とする。それは以下のような理由による。第一に、国民党政権 の首都南京を擁する江蘇省は、民国時期に社会教育および基礎教育が他の地域より進んでおり、 中華人民共和国成立後も識字教育を積極的に推進したことである。他の地域より成果も顕著で資 料も充実しており、識字教育の実態を明らかにすることが期待できると考える。第二に、江蘇省 は、新解放区(抗日戦争終了後に共産党によって樹立された地域。河南、安徽、江蘇にまたがる 豫皖蘇解放区など)に属しており、旧解放区(抗日戦争中に樹立された地域。陝西、甘粛、寧夏 にまたがる陝甘寧辺区など)より識字教育運動は完成した状態で展開し、識字教育展開のメカニ ズムもより明確化できると考えるからである。旧解放区は一般的に山間の僻地であり、識字教育 に利用できる資源が限られていたため、その発展は必ずしも十分とは言えない。第三に、江蘇省 の識字教育は1950 年代に行われたこともあり、まだ経験者の語りを収集することができるとい う点も指摘しておきたい。 本稿では、研究手法として、史料の検討とインタビュー調査の2 つを用いた。史料としては、 主に江蘇省檔案館が所蔵する50 年代の行政文書と、50 年代に出版された『江蘇教育』などの雑 誌に掲載された識字教育に関する事例・報告を検討し、江蘇省で行われた識字教育の社会的背景 と全体状況などを把握する。また、インタビュー調査では、50 年代の識字教育の経験者を対象と して、半構造化インタビューを実施した(江蘇省連雲港市・塩城市・宿遷市、2019 年 3 月と 2019 年9 月の 2 回)。12 名のインタビュー調査協力者の属性は、以下の通りである(f は学習者とし て参加し、後に民師になった)。

(3)

表1 インタビュー調査対象者の属性 性別 出生年 参加時期 立場 性別 出生年 参加時期 立場 性別 出生年 参加時期 立場 a 男 1933 年 1956 年 学習者 e 女 1943 年 1952 年 学習者 i 男 1936 年 1950 年 民師 b 男 1935 年 1955 年 学習者 f 女 1935 年 1951~58 年 学→民 j 男 1941 年 1957~58 年 民師 c 女 1940 年 1956~58 年 学習者 g 男 1945 年 1957 年 民師 k 男 1940 年 1957~58 年 民師 d 男 1936 年 1952~55 年 学習者 h 女 1937 年 1956 年 民師 l 男 1928 年 1951~58 年 民師 3.研究結果 本稿はインタビュー調査のデータを文字化してセグメント化し、それに対応する幾つかのコー ドをつけた。分析の結果は表2-1 と表 2-2 に示したように、学習者インタビューと民師インタビ ューに分け、9 個のコードを抽出し、焦点的コーディングを行った。以下、焦点的コーディング を中心にして論じ、農民たちはなぜ新中国成立後に一転して積極的に識字教育に参加しようとし たのか、中核を担った民師とはどういう存在であったのか、識字教育はいかにして展開できたの か、という3 つの問題を解明したい。 表2-1 学習者インタビュー内容のコーディング ①階級 ②参加のきっかけ ③宣伝・動員の内容 ④学習場所 ⑤学習内容 貧農 中農 中農 以上 宣伝前 自発 宣伝後 自発 宣伝後 強制 政治的正当 性の主張 農業生産に 有利 畑 識字班 民校 日常 生活 農業 生産 政治 関連 a ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ b ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ c ○ ○ ○ ○ ○ ○ d ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ e ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ f ○ ○ ○ ○ ○ ○ 表2-2 民師インタビュー内容のコーディング ⑥階級 ⑦無償労働の理由 ⑧教授場所 ⑨教授内容 貧農 中農 中農 以上 新社会 の建設 社会的役割 の実現 畑 識字班 民校 日常生活 農業生産 政治関連 f ○ ○ ○ ○ ○ g ○ ○ ○ ○ ○ ○ h ○ ○ ○ ○ ○ ○ i ○ ○ ○ ○ ○ ○ j ○ ○ ○ ○ ○ k ○ ○ ○ ○ ○ ○ l ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○

(4)

3.1 学習者に対する動員(焦点的コーディング①②③) 1949 年、江蘇省の小学校就学率は 21.5%にとどまっていた11。農村社会であった当時の中国 では、民衆が最初から自発的に教育を受けるのは難しかった。インタビューでは「6 歳から農作 業に従事した」〔a〕、「女性は勉強する必要がなかった」〔g〕などの理由があげられていた。農村の経 済活動及び旧習と学校教育とは、一種の対立関係が存在し、生活の中で教育が必要とされてはい なかったのである。そのため、1952 年に行われた全国非識字一掃工作座談会では識字教育を「緊 要かつ重大な政治任務」と定め、「あらゆる形式で民衆の思想を啓発し、普遍的かつ深く思想動員 を実施する」12と要求しており、識字教育の参加は行政側の宣伝に強く依拠していた。具体的な 宣伝の内容を見ていこう。 (1)政治的側面からの識字教育の必要性:新・旧社会の革新としての識字教育 識字教育が全国に展開された1951 年以前、共産党政権の指導下で土地改革、反革命鎮圧運動 などの社会運動は、すでに全国規模で行われていた。これらの運動では、解放前の「憶苦思甜」 (過去の苦労を思い出し、現在の幸せを大事にする)という動員手段が用いられた。旧社会で搾 取された農民たちは「憶苦思甜」を通じて、精神的に覚醒し、新社会の新しい主人公とされた。 識字教育の過程においても「憶苦思甜」に代表される動員手段が用いられた。農民は旧社会の地 主階級による民衆への搾取収奪とともに教育の権利が奪われたことを告発することで、新社会で の識字教育への参加は正当性があることを認識した。 「昔、私たちのような貧農は過酷な労働をして収穫した米を地主に毎年納め、生活は苦しか った。もちろん読み書きもできなかった。共産党が来てから、民衆は教育を受ける機会が得 られた。ちゃんと勉強をしないと、毛主席に申し訳が立たない」〔a〕 「共産党のおかげで、私たちのような貧しい者が翻身[後述]して、土地も手に入れた。そ して石炭や灯油を用意して私たちに識字教育への参加を呼びかけた。考えてみろ、昔、私た ちは教育を受ける機会があったのかと……」〔c〕 金野純(2008)は中華人民共和国における動員を人々の生活や価値観が変化する過程であると 捉え、とりわけ共産党政権の階級闘争観が大衆動員の中に反映されたことを指摘している14。イ ンタビューの中では、新・旧社会、農民と地主という二項対立的思考、即ち階級闘争観も常に窺 えた。旧社会は「暗く苦しい」、批判すべき対象であった一方、新社会は「明るく素晴らしい」、 全面的に受け入れるべき存在であった。旧社会において一般民衆とは縁がない教育も、新社会の 主人公になるための必要な一環として認識されていた。しかし、このように登場した識字教育に 対する必要性は民衆の実生活に依拠するのではなく、階級闘争観に貫かれた大衆動員によって外 在的に付与されたものであったのではないか。旧社会で「私たち(農民)は教育を受ける機会が なかった」〔a,c〕からこそ、新社会で識字教育を受ける必要があるというように、識字教育が新社 会の象徴として意味づけられたのである。 すなわち、農民は「憶苦思甜」で識字教育が正当な権利であることを受容した後、更に自分の

(5)

意欲が醸成され、識字教育へ参加する自発性が喚起された。もともと外在的に付与された識字教 育の意義を農民たちが内面化し、「教育を受ける機会」を得たことの喜びを自らの言葉で語ってい ることに注目したい。 (2)経済的側面からの識字教育の必要性:「生産」向上と関連した識字教育 農業で生計を立てる農民たちにとって、土地は生存の基本である。「郷村社会の第一次大規模改 造」15と認識された土地改革は、1950 年の秋から共産党の指導下で計画的に各新解放区で行われ、 1951 年 3 月、江蘇省の土地改革は基本的に完成した16。土地改革前に、江蘇省の農村部では土 地所有の深刻な不均等が見られ、人口の半数を占めた貧農は一人当たりの耕地は0.6 畝に過ぎな かった。土地改革後、江蘇省では土地が中農・貧農へ再分配され、貧農の1 人あたりの耕地は 2.2 畝前後となった17。自分で生活に必要な耕地量を持つことにより、農民は新社会の主人公として の気構えで積極的に経済建設に取り込んだ。また、読み書きができないと経済の発展も限られる ため、第一次全国農民業余教育会議(1954 年)では、「識字教育で農民の文化水準を高めること は労働生産性の向上にとって重要な条件である」18と明言し、農業生産の推進と関連して識字教 育の宣伝を行った。 「隊長は識字教育を宣伝するため、わざと県が所有したトラクターを借りて私たちに見せた。 初めて本物のトラクターを見た私たちは非常に興奮し、集まって騒いだ。隊長は読み書きが できないと、このような機械が村にあっても使えないといい、識字教育の必要性を説いた。 確かに、いくら高級な機械があっても字が読めないと部品の使い方もわからないし、もった いない。村の発展はできないと思った」〔b〕 歴史学者である李放春は、土地改革の集団記憶においては、「翻身」(社会の主人公となる)と 「生産」は最も頻繁に使用されていた単語であると指摘した19。この2 つの単語は民衆の日常生 活と交錯し、その時代共通の歴史的記憶となった。インタビューの語りから、「翻身」と「生産」 という共通の歴史的記憶において、識字教育もその一躍を担っていることがわかる。従来、自分 の土地の耕作だけに専念してきた農民は「新社会の主人公」となり土地を手に入れたので(「翻身」 の実現)、次に効率的に「生産」することに着目した。共産党政権の積極的な宣伝により、将来へ 向けての新技術が生み出す高効率生産へのイメージを実現するため教育が必要であるという認識 も、農民に定着できた。 必然的に、農民は「識字教育への参加で読み書きができれば、トラクターが使えて村の発展に も有利である」と思い、生産量の向上に識字教育が必要だと考えるようになった。つまり、当時 の農村社会では、「翻身」した農民の本願である「生産」向上へ導く重要な手段として、識字教育 の必要性が認識されたのであった。そして、共産党政権の宣伝・動員に応じて、数多くの農民た ち、とりわけ土地改革に土地を手にいれた中農・貧農層が自発的に識字教育に参加していく。こ うして、民衆は単に上からの指示に従うだけでなく、その価値観を内面化し自ら積極的に識字教 育運動に参加していくのであった。

(6)

3.2 識字教育の中核を担った民師(焦点的コーディング⑥⑦) ところで、識字教育には学習者としての参加する者がいた一方、教える側の民師として識字教 育に参加した中農・貧農も少なくなかった。彼らの力量は識字教育の展開・存続に大きな役割を 果たしていく。 (1)民師の参加 識字率が低い当時、誰が識字教師になるのかは大きな問題となった。1950 年、教育部部長であ った馬叙倫は「地域のあらゆる読み書きのできる者を動員し、民師として識字教育に参加させる。 即ち、識字教育においては「以民教民、能者為師」(民を持って民を教え、能力あるものを師にす る)」という方針を策定した20。この政策に応じ各地では「誰でも先生であり、生徒である」(江 蘇省溧陽県)という方針を定め、「多くの字を読める者が少し字を読める者に教え、少し字を読め る者が読み書きのできない者に教える」(宜興県)と提唱することになった21。そして、地域の学 校教員、在校生や、読み書きができる農民たちは積極的に識字教育に参加した。江蘇省文教委員 会によれば、当時の江蘇省の識字教育においては、専任教員はおよそ8000 人で、民師は 10 万人 以上いた(1953 年報告)22。政府の行政資料には、民師の階級成分は記録されていないが、民師 として識字教育に参加した7 名のインタビュー対象者は全員中農・貧農であった。そのため、中 農・貧農層が実際には、民師の基幹であったと推測できる。 (2)民師の無償労働の理由 民師は専任教員とは違い、ほぼ報酬なしで読み書きを教えた。1956 年、江蘇省教育庁は、「掃 盲(識字教育)は大衆的な識字運動であり、読み書きを教えることは識字者にとって光栄な任務 である。報酬を強調し、合作社に負担をかけるのは良くない」23と規定した。民師であるインタ ビュー対象者も「当時は報酬を求めなかった」と言い、ボランティアで読み書きを教えた。確か に多くの民師が本業を持ち、無償でも生活には支障がない。しかしそれだけの理由で関与したと は考えられない。識字者たちはなぜ余暇を利用し、民師として無償で読み書きを教えたのだろう か。ここでは民師の意識の面から検討したい。 まず、前述のように、1949 年から 1953 年の間、中国では一連の大衆運動が展開される中で、 地主の圧迫から解放された社会の底辺の農民たちは、「新社会」に対する使命感を持つようになっ た。1951 年の『蘇南日報』は、土地改革後の江陰県における「翻身農民的学習」という記事を掲 載し、農民たちの社会時事に対する関心を描写した。農民である卞隣才は「国民党も地主階級も 私たちを国事から遠ざけ、私たちも地主に農産物を納めるのに精一杯で、国事に関心を持つ気も なかった。現在、私たちは共産党の指導下で翻身して国家の主人公となった。私たちが国事に関 心を持たなければ誰がするのか?地主階級が持つのか?」24と危機感を述べている。当時の中農・ 貧農の間には「社会の主人公」意識が根付いており、民師の中でも国のために教えるという、社 会に対する強い使命感が窺える。 「解放前に飢饉はよくあって、冬になると村民の多くは家を離れ、他所へ食を求めた。近所

(7)

のお年寄りは体力も気力もすっかり衰えてしまい、這って食べ物を探したが、泥を食べて死 んでしまった……餓死は珍しくなかった。新中国成立後、村の姿は変化しつつあり、私も社 会のために何かをしたかった。この気持ちは、今のあなたたちにわかってもらうのは難しい かもしれない」〔l〕 「7 歳の時に学校に通い始めた。同級生の多くは私よりかなり年長だった。彼らを見て、こ の新社会で共産党は良い行いをしている、自分は読み書きができるのに、なぜ人に教えない のかと思った」〔g〕 今回インタビューした民師は、全員中農・貧農であり、幼い頃、極端に苦しい生活であった。 新旧社会の交代の中で、土地を得て生活状況が改善されたというのが、彼らの共通の述懐である。 それゆえ、人口の多くを占める中農・貧農はl が語った通り「上の政策があれば、ほとんどみな 動き出す」ほど、当時の中国社会に賛同し、社会的利益と個人的利益を同一視するようになった。 また、以下のように、識字教育を通して社会的役割を与えられ、認められ、自己効用感を覚える ようになった事例もある。 「女性を識字教育に参加させるため、子ども連れの参加も大丈夫だった。ある日、急に雨が 降り出した。私はランプを持ちながら子どもを抱っこして学習者をそれぞれの村まで送った。 ある学習者が非常に感動して「いつも優しくしてくれてありがとう。これからも先生に恥じ ないようしっかり勉強する」と私に言った。私は全身ずぶ濡れだったが、感動が止まらなか った。帰宅した私を見て、親は難儀なことと思ったが、私は一日の成果を楽しんでいた。そ うした私を親は理解できないと感じた」〔h〕 「父が亡くなった後、家には私一人となった。昼は農業生産に従事して夜は識字教育を担当 した。ある日、豆と鶏が盗まれた。それを知った学習者たちがお見舞いに来て、損害を補償 しようとしてくれた。お金を受けとりはしなかったが、彼らが私のことを気にかけてくれて いることがわかった。人は他人に親切にし、奉仕してこそ、他の人から親切にしてもらうこ とができると思った」〔f〕 旧社会は土地・財産を多く所有する地主や郷紳などが「支配する」立場であり、それに対して 社会的地位が低い中農・貧農が「支配される」立場であった。このような中農・貧農たちは、社 会的に認められる機会が少なかった。とくにh、f のような女性たちは、家庭に閉じ込められ、更 に難しくなる。それ故、h、f、の語りからは、他人に教えるという社会的役割が与えられたこと で、他者から承認を得て、初めて自己実現を体験したことが窺える。いわば、マズローの5 つの 欲求モデル(生理的・安全・社会的・承認・自己実現の欲求)25でいえば、承認欲求、さらに自 己実現欲求までが満たされるようになったのではないか。このような形を持たない「報酬」によ って、民師の生きがいややりがいが生み出され、識字運動が大衆運動として展開していったと考 えることができる。

(8)

3.3 識字教育の展開(焦点的コーディング④⑤⑧⑨) 識字教育の宣伝・動員によって、より多くの農民たちが識字教育に参加しようとした。しかし、 長年困窮を極めた中国では教育の発展も極めて低い水準にあり、識字教育をいかにして継続でき るのかが大きな問題となった。ここでは、当時の識字教育の展開がいかに保障されたのかを検討 したい。 (1)生産と教育の両立:学習場所と学習時間の制定 識字教育の主な対象となった村の青壮年層は、政府の呼びかけに応じて識字教育に参加しよう とした。しかし、農作業に従事しなければならないという現実問題があったため、学習と生産の バランスをとる必要があった。江蘇省文教委員会の「1953 年以来の非識字一掃工作状況及び今後 の工作意見の報告」の中では、「生産を中心とするという原則違反を防止するため、識字教育の学 習活動は生産状況に応じて多種多様な方式で展開し、学習時間は生産状況と季節変化に応じて調 整する」と規定された26。また、『江蘇教育』においても、「大勝郷民校は学習と生産の矛盾を解 決した」27や「民校教師の農業生産を軽視することを是正する」28などの文章が掲載され、識字 教育は普段の農業生産を妨げないように展開するという前提が見られる。つまり、学校教育のよ うに一日中教室で、一斉授業として行うことはできなかった。ここでは、当時の識字教育はいっ たいどのような場所と時間を選んで展開されたのかを確認したい。 表3 識字教育の展開状況 場所 時間 人数 場所 時間 人数 a 民校:小学校 19 時から 2h 150 名前後 g 識字班:倉庫や台所 夕食後 1h 20 名前後 b 民校:小学校 19 時から 2h 200 名前後 h 民校:小学校 19 時から 2h 200 名前後 c 識字班:民家 13 時から 20 名前後 i 識字班:民家の庭 昼食後1h 10 名前後 d 畑 農作業の休憩 10 名前後 j 識字班:民家 体育授業 10 名前後 e 識字班:民家 19 時から 10 名前後 k 畑 農作業の休憩 10 名前後 f 識字班:民家 19 時から 2h 20 名前後 l 畑 民校:小学校 農作業の休憩 19 時から 2h 10 名前後 100 名前後 インタビューの語りによると識字教育は農業に従事する時間以外の隙間時間を利用して行われ た。場所は主に畑(生産隊が運営)、識字班(村が運営)、民校(小中学校付設)という3 つの種 類があり、いずれも農民たちの日常生活に便利なところで、昼食後や夕食後、休憩の時間を利用 して行い、一定の柔軟性があると考えられる。以下では畑、識字班、民校で実施された識字教育 をそれぞれ検討する。 ① 生産と学習の両立を図るため、識字教育は直接に農作業現場の畑で行った。インタビュー対 象者d、k、l の 3 人はそこでの学習を経験した。d は「毎朝小さな黒板を持って、ご近所と共 に農作業をした。途中で 30 分ぐらいの休憩時間が入った。識字教育はこの時間を利用して行 われた」と語った。農業生産と学習の両立を確保したのである。 ② 識字班は村の中で農民たちの集まりやすいところで行われ、参加者が最も多かった。学習時

(9)

間は統一されず、昼食後や夕食後の30 分から 2 時間の間であった。場所は、j が地域の空き家 や牛小屋、g が工場の倉庫や民家の台所、e が机のある民家とそれぞれ異なる場所で識字班に 参加した。 ③ 民校での学習は夜で地域の小中学校の校舎で展開し、地域によっては「夜校」と呼ばれるこ ともあった。1 回の参加者が 100 人前後、学習時間も比較的に長くて夜の 19 時から 2 時間で の実施が多く、一定規模を持つ教育活動である。民校は次のような状況であった。「民校に入る と、百余名の農民たちは教科書や鉛筆を持って座っている。青年は朝鮮、国際連合など流行の 言葉を勉強している。女性は本を黙読したり、声を出さずに暗唱したりしている。高齢者は先 生の授業を待っている。互いに邪魔をすることなく、多くは自発的に勉強している。従来、地 主の場所で誰も寄り付こうとしなかったところが、農民の文化翻身教室となった」29のである。 参加者が多かった民校での識字教育は自主性の高いグループ学習を導入し、農民たちはある程 度の自主学習ができるようになっていたことが窺える。 (2)農民たちの生活と関わる教育内容 前述の通り、識字教育の宣伝・動員と場所・時間の選択は、農民たちの日常的な生活世界と強 く関連して展開されたと考える。同様に、識字教育の内容は「単なる農民に読み書きを学ばせる のみならず、教育内容の実用性を考慮し、生産教育・政治教育の内容も含めるべきである」30と 政府から規定された。 当時の民校で用いられていた教科書であった『民校識字課本』31は 36 の単語を主にして、読 み書きを教えた(表 4 参照)。その内容は①名前、日用品などの日常生活に関する単語、②化学 肥料、農産品、農道具などの農業生産に関する単語、③合作社、工分(互助組や合作社などの合 作組織で個人の労働量を評価する点数)などの政治政策に関する単語という3 種類に分けること ができる。また、経費が限られていたため、教科書を持っていたのは民校で学習する者のみであ った。畑・識字班で行われた識字教育の内容は民師に依拠していたが、インタビューから、その 内容は『民校識字課本』と同じように、日常生活、農業生産と政治政策の3 種類があったことが わかる。 表4 識字教育の内容 民校:『民校識字課本』 畑・識字班 日常 生活 早起、姓名、家、我們的村、刷鍋洗碗、做飯、請医生、 新衣裳、開窓和洗衣、収条、欠条、過新年 鍋碗瓢盆、床、凳子、桌子、椅子、油塩醬醋、剪刀棍棒、 百家姓、ローマ数字 農業 生産 做工種地、労働、斗升斤両、丈尺寸、棗梨柿、種樹、瓜 豆、菜園、棉花和花生、牛和驢、多上糞、認栗子 玉米、小麦、高粱、稲子、穀子、大米、豬馬牛羊、鶏鴨 鵝,猫狗兔、犁钯、水車、平車、農薬 政治 政策 工農互助、国家、互助組、婦女、青年、団結起来、英雄 模範、翻身、土地証、共産党、東方紅 工人、農民、解放軍、共産党好、抗美援朝、算公分 表 4 に示したように、単語の中では、「鍋、碗、瓢(杓)、盆(湯おけ)」など複雑な字もあっ た。即ち、識字教育は学校教育のような簡単な字から入って複雑な字を教えていくような教育的

(10)

配慮を持って展開されるよりは、むしろ教育内容の実用性を重視していた。 ところで、その中には、政治政策関連の農民たちの生活から乖離しているように感じる内容、 例えば、「工農互助」や「抗美援朝」などの単語もある。実際には、当時、土地改革や互助組運動、 またその後に展開された人民公社運動を通して、農民たちの生活と政治は密接に繋がっていたの である。例えば、互助組の導入以降、農民たちは集団で農作業に従事し、自分の工分(労働点数) を計算して報酬を算定する必要があった。そのため、識字教育の中ではローマ数字や工分の計算 などの内容もあり、学んだことを実生活に生かすことができた。 「彼ら学習者にとって、実用的に必要なのは、例えば、自分の名前や、家族の人数、仕事の 量と相応な工分、どのくらいの食糧をもらえるのか、どのくらいお金を貯めているのか、な どであった。これがわかれば、自分で生産隊の布告を理解できる。人は徐々に立ち遅れた状 態から脱却することができた」〔g〕 このように中華人民共和国成立直後の識字教育の内容は農民たちの実生活や農業生産、そして 利害と直接に結びつき、学習者のより強い学習意欲を引き起こしたと考えられる。 ブラジルの教育学者であるパウロ・フレイレは、識字教育において、農民が置かれている現実 の条件を無視し、日常生活から切り離れた無意味な対象を暗記する機能主義的なリテラシーは、 多くの農民にとって意味がないとしている32。フレイレの識字理論に依拠すれば、50 年代の江蘇 省における識字運動は、農民の置かれた状況に確実に存在する「事実の現実的かつ具体的な文脈」 の中で、農民に「真の知識」を教えたために、農民が読み書きの必要性を認識するようになった と考えることができよう。 そして、日常的な場面における学習者と民師とのコミュニケーションによる識字教育によって、 生産の言葉と政治の言葉が身体化されていった。こうして、初めて 50 年代の江蘇省における識 字教育は大衆運動となりえたのであり、マス・リテラシーの時代が到来し、中国共産党の政権基 盤を強固なものとすることができたのである。 終わりに 中華人民共和国成立直後の中国では、新政権の主人公とされた労働者、農民が政権の基盤を支 える層としての力量を身につけるため、識字教育は重要な課題となった。本稿は中国 50 年代の 識字教育はいかにして大衆運動となったのか、識字学習者及び民師という当事者の視点からその メカニズムを究明することを課題として設定した。 清末から中華民国時期にかけて、識字教育に対する模索は国民党政権下、あるいは郷村建設運 動など既に多くあった。しかし郷土社会では、識字の必要性がなかったため、農民の識字教育に 対する反応は鈍かった。 そのため、中華人民共和国成立直後に、識字教育の必要性を農民に認識させるのは喫緊の課題 であり、これは共産党政権側の宣伝・動員に大きく頼っていた。この宣伝は二つの点に焦点化さ れていた。第一に、政治的側面から、識字教育は「新社会の主人公」となった農民たちの文化翻

(11)

身の一環であること、第二に、経済的側面という農民の本能的側面から、現代知識と生産を関連 付け識字が必要なこと、以上に集約されていた。こうして、識字教育は新社会の象徴として意味 づけられた。共産党政権の指導下で耕地を持ち始めた農民たちは、政府の宣伝により、自分の生 活とこれまで隔絶していた識字教育を受け入れ、新社会の新しい主人公としての気負いをもって 積極的に識字教育に取り組むこととなった。 金野純は著書『中国社会と大衆動員』の中で、中国の動員には一般的な意味での動員とは異な り、上から強制と従属のほかに下からの参加も見られると指摘し、それを「情緒の動員化」と定 義している13。すなわち、動員の際、民衆は単に上からの指示に従うだけでなく、その価値観を 内面化し自ら積極的に参加したのである。識字教育の宣伝・動員にも解放前の苦労を思い出し、 現在の幸せを確認するなどの心情に訴える動員手段が用いられ、農民たちの意欲を醸成させ、識 字教育参加への自発性を喚起した。 一方、識字率が極めて低い当時は、識字教師の不足が大きな問題となった。共産党政権は「読 み書きを教えることは識字者にとって光栄な任務である」と提唱し、識字者の参加を呼びかけた。 こうして民師になった人々は中農・貧農層を中核としており、新社会に対する強い使命感を持ち 始め、無償で読み書きを教えた。民師の語りからは、彼らが共産党の識字教育の理念を内面化し、 教師の役割を担うことで、社会的役割を与えられ、自己効用感を感じるようになったことが窺え る。いわば目に見えない「報酬」により、民師が充実感や満足感を得て、識字教育の中核を担う ことになり、彼らの力量が識字教育の展開・存続に大きな役割を果たしていく。 また、識字教育は畑、識字班、民校という、農民たちに身近なところで展開され、教育内容に 関しては、実生活と関わる用語が中心であった。日常的な場面における識字教育によって、政治、 生産の言語の身体化が行われたともいえる。 つまり、当時の識字教育は①農民たちの行動を導く共産党政権の宣伝、②外在的に付与された 識字教育理念の内面化、③農民の生活世界における政治及び生産の言語の獲得と表出、以上の 3 点が農民と民師との相互交流によって展開され、これにより大衆運動として拡大し、識字運動へ と継続が保証されたのではなかろうか。 本稿は 50 年代の識字教育に焦点を当てて議論を行った。今後の課題としては、江蘇省に焦点 を当てて定点観測をしながら、大躍進期や文化大革命、そして改革開放期以降の歴史段階の中で、 識字教育はどのような経緯をたどるのか、地域における政策と教育展開のメカニズムを継続的に 検証したい。 注: 1 梁漱溟『郷村建設理論』,中華書局,2018 年(初版:1937 年),368 頁。 2 費孝通『郷土中国』,上海人民出版社,2006 年(初版:1947 年),9-16 頁。 3 銭俊瑞「為提高工農的文化水平,満足工農幹部的文化要求而奮闘」,『新華月報』,人民出版社, 1951 年 6 月号,409 頁。 4 温克敏「関於農民業余教育的問題」,『教育通訊』,1951 年第 6 巻第 1 期,13 頁。 5 中国教育年鑑編輯部『中国教育年鑑』,中国大百科全書出版社,1984 年,125 頁。

(12)

6 戸部健『近代天津の「社会教育」―教育と宣伝のあいだ―』,汲古書院,2015 年。 7 デイヴィド・ヴィンセント『マス・リテラシーの時代―近代ヨーロッパにおける読み書きの普 及と教育』(岩下誠ほか訳),新曜社,2011 年。 8 江蘇省教育庁計画財務処「1955 年省級単位教育支出年度予算及省人委核定通知」,40130010042 (江蘇省檔案館)。 9 浅田加葉子『当代中国掃盲考察』,当代中国出版社,1999 年。 10 馬雲『新中国農村掃盲教育研究』,上海教育出版社,2014 年。 11 江蘇省教育志編纂委員会『江蘇教育大事記』,江蘇教育出版社,1989 年,3 頁。 12 劉英傑『中国教育大事典 1949~1990』,浙江教育出版社,2004 年,1824-1825 頁。 13 金野純『中国社会と大衆動員―毛沢東時代の政治権力と民衆―』,御茶の水書房,2008 年,14 頁。 14 同上,15 頁。 15 呉毅「従革命到後革命」,『学習与探索』,2003 年,36-42 頁。 16 中国蘇南区党委農村工作委員会『蘇南土地改革文献』,1952 年,9 頁。 17 同上,16 頁。 18 董純才「第一次全国農民業余教育会議的総結報告」,『人民教育』,1955 年第 9 期,29 頁。 19 李放春「北方土改中的翻身与生産」,『中国郷村研究』,2005 年,231-292 頁。 20 馬叙倫「関於第一次全国工農教育会議的報告」,『人民教育』,1951 年第 1 期,12-13 頁。 21 江蘇省教育庁弁公室『江蘇省教育工作資料彙編』,1951 年,40130020637(江蘇省檔案館)。 22 江蘇省人民政府文教委員会「掃盲委員会成立和委員名単,1953 年以来掃盲工作情况及今后工作 意見報告」,1954 年,40120020012(江蘇省檔案館)。 23 江蘇省教育庁党組「関於掃盲和幹部教育工作的省委批示及関連文件」,1956 年,40130020416 (江蘇省檔案館)。 24 「翻身農民的学習」,『蘇南日報』,1951 年 1 月 1 日。 25 A.H. マズロー『人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ』(小口忠彦訳),産能大 出版部,1987 年。 26 江蘇省人民政府文教委員会,前掲 22。 27 李廷「大勝郷民校解決了学習和生産中工作的矛盾」,『江蘇教育』,1953 年第 2 期,17-18 頁。 28 周世華「群衆教師要糾正軽視農業生産的思想」,『江蘇教育』,1953 年第 7 期,17-22 頁。 29 蘇南人民行政公署土地改革委員会「土地改革後的蘇南農村」,蘇南新華印刷廠,1951 年。 30 江蘇省教育庁工農教育科『中央及華東関於 1953 年掃盲工作的指示』,40130030201(江蘇省檔 案館)。 31 『民校識字課本』,人民教育出版社,1951 年。 32 パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』(三砂ちづる訳),亜紀書房,2018 年。

(13)

A Study of the Literacy Education in the People’s Republic of China

of Jiangsu Province (1949–1956): Why Literacy Education Became a

Mass Movement

WAN Jingxian (Graduate Student, Waseda University) Abstract:

Immediately after the foundation of the People’s Republic of China, vast rural areas faced the urgent task of reforming the quality of people’s education and enhancing the cultural level of the peasants. In this context, people across the country carried out a massive educational literacy campaign. This paper examines why peasants in the 1950s, who were not considered to be in need of literacy education, were willing to participate and make literacy education a mass movement.

The study attempts to understand the methods of literacy education by analyzing historical material and interviews with participants at the time in Jiangsu province. First, peasants’ participation in literacy education heavily relied on the mobilization of the government. Second, literate middle-class and poor peasants with a sense of duty as the protagonists of the new society, were obliged to teach illiterate peasants to read and write, thus becoming the driving force in literacy education. Lastly, the choice of time, place, and the content of literacy education are all closely associated with the actual life and needs of the peasants, hence ensuring the survival of literacy education.

Key Words:

表 1   インタビュー調査対象者の属性 性別  出生年  参加時期  立場  性別  出生年  参加時期  立場  性別  出生年  参加時期  立場  a  男 1933 年 1956 年  学習者 e  女 1943 年 1952 年  学習者 i  男 1936 年 1950 年  民師  b  男 1935 年 1955 年  学習者 f  女 1935 年 1951~58 年  学→民 j  男 1941 年 1957~58 年  民師  c  女 1940 年 1956~58 年  学習者 g

参照

関連したドキュメント

1、研究の目的 本研究の目的は、開発教育の主体形成の理論的構造を明らかにし、今日の日本における

確かな学力と自立を育む教育の充実 豊かな心と健やかな体を育む教育の充実 学びのセーフティーネットの構築 学校のガバナンスと

青少年にとっての当たり前や常識が大人,特に教育的立場にある保護者や 学校の

仏像に対する知識は、これまでの学校教育では必

  「教育とは,発達しつつある個人のなかに  主観的な文化を展開させようとする文化活動

大学教員養成プログラム(PFFP)に関する動向として、名古屋大学では、高等教育研究センターの

「技術力」と「人間力」を兼ね備えた人材育成に注力し、専門知識や技術の教育によりファシリ

(評議員) 東邦協会 東京大学 石川県 評論家 国粋主義の立場を主張する『日