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文化大革命期の中国における サッカーと政治思想に関する研究 『球迷日記(サッカーファンの日記)』を手がかりに

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原 著

文化大革命期の中国における

サッカーと政治思想に関する研究

『球迷日駘(サッカーファンの日記)』を手がかりに  

李  晋寧(北海道大学大学院教育学院)

“Liu Qi’s Football Fan’s Diary:Football and Political Thought

in the Era of the Cultural Revolution in China.”

LI Jinning

(Hokkaido University, Graduate School of Education)

Abstract

People in China experienced unprecedented confusion under the directed political ideology, power and class struggle in the decade of the so-called ‘Proletarian Cultural Revolution’ during 1966 and 1976. The violence that occurred during the Cultural Revolution left a deep shadow on the development of sports activities such as football. This paper will explore Liu Qi’s Football Fan’s Diary (1966-1998) as a primary source and use it in an analysis of a new sport history that considers the political sensitivities of the era.

The contents of Football Fan’s Diary describe the transition of the circumstances of football from prior to the Cultural Revolution to changes that occurred following it. In particular, the ‘Proletarian Class Strife’ slogan, ‘Friendship First, Competition Second’, caused social confusion. The diary provides an excellent account of the characteristics and significance of the relationship between football and politics of the era.

To put an emphasis upon competitive and entertaining aspects in football was not encouraged in the era. As a result, football was partly separated from the nature of sports as a play. Football was forced to be a tool through physical education to adapt to the political purpose of implementing the proletarian revolution.

Under the standardized authoritative value and belief brought by the Cultural Revolution, the democratic value of sports was suppressed, which eventually caused the delay in the development of football as modern sports with a ‘play theory’ in China.

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はじめに

1 )研究の目的と方法 1949年に共産党政権が樹立し、中華人民共和国 が成立したが、サッカーを行うためのスポーツ施 設や設備、人材は乏しい状態であった。共産党政 府にとって「新中国」1)を経済的に発展させるこ とは不可欠の任務であった。しかし、人民の虚弱 な身体的資質は経済発展に見合うものではなかっ たため、毛沢東らは体育政策により、人民の体質 を増強する必要があると考え、1952年に「身体運 動を発展させ、人民の体質を増強させよう2)」と いう政令を出した。 しかし、1966年から十年に渡って続いた無産階 級文化大革命(以下文化大革命)の時代の政治的 風潮、政治思想路線、権力闘争、階級闘争によっ て、中国社会全体は混乱に陥り、暴力にまみれた 中国はスポーツの発展に深い影を落とした。 スポーツの領域も文化大革命によって様々な変 化を被った。こうした時代背景の下で、サッカー はいかに展開されたのか、どのような歴史的特徴 を持つものであったのか、どのようなイデオロ ギー及び政治思想に支配されたのか、加えて、民 衆の側もどのようにサッカーを受容したのか。い ずれもスポーツ文化、スポーツ史の視点に基づい て学術的に研究する価値がある重要な問いであ る。 こうした課題に答えるためには、まず、中国に おけるスポーツの歴史的研究を全般的に概観して おく必要がある。スポーツ文化と歴史に関する研 究の中で最も権威的であるとされている学術雑誌 『体育文史』(2000年に『体育文化導刊』3)に名称 変更)が1983年に創刊されたことにより、スポー ツ史、スポーツ文化研究が始まったが、研究の中 心は主に中国古代スポーツ史、近代スポーツ史、 少数民族スポーツ史に傾斜していた。創刊当初文 化大革命という政治的混乱期のスポーツを対象と してサッカーの発展と文化大革命の影響に注目す る研究はほとんど存在しなかった。政治的に敏感 な時代を対象とするため、研究それ自体も時の政 治的圧力に敏感にならざるを得なかったと考えら れる。国際的な研究動向を見渡せば、文化大革命 期の研究は確実に存在したが、スポーツに注目し た研究については、Fan HongとLu Zhouxiang 以外、殆どなされてきていない4)。なぜ文化大革 命期の研究が少ないのか、その理由は基本的に三 つの事柄に起因している。まず、文化大革命期に 対する研究は政治的な敏感さを伴うため、過度に 文化大革命について掘り起こし、政治的に結論づ けることは中国では決して良いことではないと考 えられてきた。研究者の間では、政治的に敏感な ことを探究しすぎると、政治的忠誠心を疑われる というジレンマがあった。加えて、文化大革命期 に残されたスポーツに関する詳細な記事、一次史 料は極めて乏しくなっていた5)。例えば、中国人 民体育出版社から年次出版の『体育文件選編』6) には、1966年から1972年までのスポーツ文献、議 事記録、決議書はほとんど公開されていない。ま た、これまでの文化大革命期のスポーツ、体育に 関する研究は基本的に『新体育』、『体育報』7)と いった同時代の新聞や雑誌に基づいて行われ、文 学、日記、風刺漫画、ポスター、口述記録、その 他の歴史資料として扱うに相応しい資料が研究対 象の外に置かれてきた。更に、海外における中国 人以外の研究者は文化大革命に対する詳細な認識 が十分ではなかったことにも起因していた。この ことは、政治問題や現代社会における深刻な問題 を扱う研究を行う上で、基礎的な方法論を欠いて いたことを示している8)。以上のように、様々な 現実的な問題が存在しているため、中国文化大革 命期のスポーツを扱う研究は困難さを抱えたまま である。 これらの方法論上の問題を解決するには、文化 大革命期の歴史に埋もれた様々な形式の一次史料 を幅広く探索し、収集し、深く探究する必要があ る。そうした史料渉猟によって、歴史的、科学的 に分析された成果は、文化大革命に対する認識を 補足するだけでなく、タブー視されていた政治的 敏感性に切り込み、文化大革命期のスポーツ史を 顕在化することにつながろう。本稿が扱う『サッ

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カーファンの日記』は歴史に埋もれた重要な時代 を反映する文化大革命期のスポーツ、サッカーの 発展と変化について述べられた重要な一次史料の 一つであると考えられる。 『サッカーファンの日記』(中国語:《球迷日駘》) という書は中国人の作家である劉斉によって書か れた。2015年に出版された作品『サッカーと風刺 漫画』(中国語:《足球与漫画》安徽文芸出版社、 2015)の中に含まれているものである。『サッカー ファンの日記』として復刻された部分は文化大革 命期を含む、1964年から1998年の時期に著者自身 がサッカー試合に参加、観戦するなどして書かれ た日記である。その内容は文化大革命期の著者本 人が経験したサッカー事情、個人の経歴、社会環 境、政治情勢を反映している。また、ユーモアと 諷刺的な記述手法を用いてサッカーと社会批評が 叙述されているという点で新規性があり、これま での研究ではみられなかった市民の視線を有して いる。 以下にこの日記を分析する際の 3 つの視角を示 す。 1 . 文化大革命以前と文化大革命期のサッカー活 動の実態はいかに変化したか。サッカー場の 利用状況及びサッカー試合、大会の進行状況 に注目する。また、文化大革命期のエリート スポーツ禁令の下で、エリートサッカー選手 たちはなおサッカーを行うことが可能であっ たか。 2 . 文化大革命以前と文化大革命期では、民衆の 政治思想と関心にどのような変化があった か。どのような表現が伴ったのか。著者は サッカーファンを自称しているが、文化大革 命により、サッカーへの態度はどのように変 化したか。 3 . 文化大革命後期のサッカー試合は何のために 展開されたのか。文化大革命期に樹立された スポーツの国家的方策と国家により掲げられ たスローガンはサッカー活動の実態と合致し たのか。 なお、むすびでは、Fan Hongが1999年の研究 の中で文化大革命期の中国体育は「すべてが悪 かったわけではない(Not All Bad)」9)と述べ、 文化大革命後期に生じた「スポーツ熱」10)と関連 づけていることについて以下の点から検証する。 果たして、文化大革命はサッカーの発展に影響を 与えたと言えるのであろうか。政治目的から乖離 した文化としてのサッカーの醍醐味は受容された のか。文化大革命期のサッカーの実態はどのよう なものであったのか。この時代のサッカーについ て、Fan Hongが論じた他のスポーツ種目と同様 の結論(「すべてが悪かったわけではない」)にあ てはめることが適切か。文化大革命期のスポーツ 史に関する認識を新たな視点からより詳細に論述 したいと考える。 2 ) 著者と『球迷日雵(サッカーファンの日記)』 について 劉斉は、中国遼寧省瀋陽11) 出身の作家であり、 1951年に生まれた。1968年に中学を卒業し、文化 大革命期は中学生として「上山下鄕」12)活動に参 加し、労働教育を受けた。その後、瀋陽市扇風機 工場に就職し、工場の新聞編集員を担当した。 1982年には遼寧大学大学院で修士課程を修了して いる。また、『現代作家評論(中国語:当代作家 評論)』の雑誌編集委員、遼寧省作家協会書記処 書記、中華文学基金会文学部主任を務めるなど、 中国文学界への貢献がある。加えて、1989年から アメリカデューク大学の客員研究員をつとめ、中 米基金会(USCF)高級顧問の経験も有する国際 的な人材である。 加えて、『新民晩報』、『雑文選刊』、『南方週末』 といった定期刊行物の発行者でもあった。1977年 から文筆活動による作品を発表し始め、1986年中 国作家協会に加入した。著作には『劉斉散文╄ 書』(三卷本:《缕洋㡅算命》、《小葱大ꐗ》、《球迷 日駘》)があり、『球迷日駘(サッカーファンの日 記)』はこの 3 巻本の最後の巻に収められている。 彼はサッカーファンであり、自ら風刺漫画も描 き、その腕前は秀逸であった。なお、本研究が 扱う『サッカーファンの日記』(中国語《球迷日

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駘》)は中国北京の群言出版社より、1998年10月 1 日に出版されたものである。しかしながら、その 中に含まれている日記は1964年から1998年当時に 記されたものの復刻である。日記には、刊行され た当時の1998年頃に加えられたと思われるコメン トが注釈として添えられているため、日記が書か れた頃の叙述と出版当時に書き加えられた箇所を 明確に区別することが可能である。そのため、当 時、記すことができなかった内容や時代背景に関 する注釈が加えられているという点で、この日記 の史料的価値を高めるものがある。 日記が書き始められた1964年は、著者の小学生 時代にあたる。そして、文化大革命期、改革開放 時代の30年以上に渡る日記の中で、サッカー試合 に参加し、観戦したことやサッカーニュースへの 批評が記録されている。こうしたサッカーの発展 状況と中国社会をユーモアのある口語体で表現 し、自らが経験したサッカーに関することを民衆 の視点から記録したというのが本書の特徴である と言える。 日記を出版した経緯について、著者、劉斉氏は 次のように語っている。北京群言出版社責任編集 員、雑文家呉忠実氏に「1998年のフランスワール ドカップの前に、サッカーに関する雑文や小説を 刊行してほしい13)」と依頼され、自らが記してい た30年分以上の日記の中にサッカーに関する内容 があることがわかり、これを『サッカーファンの 日記』の書名で出版した。 また、作者は序章において次のように述べてい る。日記を書く際、当時の政治的社会環境に配慮 し、自らの言葉使いに十分に注意していた。ま ず、「敢えて革命のことを多く書いた。そうする ことで将来[誰かに日記を読まれたときに]政治 的に正しくない者だと言われずに済む14)」と考え たからであるという。このような表現から、中国 共産党に忠誠心を示すために、作者が言葉を選ん でいたことがわかる。階級闘争が重視された時代 において「反体制的」な言葉を慎み15)、政治問題 を誘発しないように作者は十分に留意していた。 更に、文化大革命期に書かれたものを、今の時代 の読者たちに分かりやすく伝えるため、日記を編 集し出版する前に、かつて書いた日記の下に詳細 な注釈と解説を書き加えて、区別している16)。 以下に当時の時代背景を補足しながら、日記の 分析結果について述べ、方法論として示した観点 から考察を行う。

1 .

文化大革命期以前と革命前期の

サッカーの発展状態

中華人民共和国が成立されてから文化大革命ま で、中国のサッカーの発展は紆余曲折を経た。全 国レベルのサッカー大会は1951年から始まった。 1951年の大会に参加した 8 チームの中から30人の 代表選手が選ばれ、中国ナショナルチームが結成 された。選手たちは中国サッカー発展の中心的存 在となった。毛沢東は「身体運動を発展させ、人 民の体質を増強させよう」という体育指導思想を 公布していたが、競技レベルの中国サッカーの発 展は促進できないままであった。1951年の国際親 善試合では、中国ナショナルチームは 1 対17で チェコに敗北し、 1 対 9 でブルガリアにも負けた。 1952年の国際親善試合では 7 回戦を通じて 1 回引 き分け、6 回敗北した。しかし、1953年から、中 国サッカーは発展の契機を迎えた。各省市チーム

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が生まれ、有能な人材が発掘され、スタジアムの 建設も進んだ17)。一方、外国の先進的な経験を学 ぶために、外国とのサッカーに関する交流、選手 と監督の留学派遣(旧ソ連、ハンガリー)の機会 が増した18)。1955年に成立した中国サッカー協会 の指導と管理の下で全国サッカー大会の規模は更 に成長する。1956年の全国サッカー大会に参加し たチーム数は166に上った19)。試合制度の確立と 競技力の革新によって、中国ナショナルチームの 国際試合の成績は改善された。50年代末、中国ナ ショナルチームはアジアの強豪チームに勝てるよ うになり、東ヨーロッパのトップクラブとほぼ 同じ水準になった20)。この時期、中国サッカーの 競技レベルは、一つの頂点を迎えたと言われてい た。 しかしながら、「大躍進運動」21) の失敗により、 中国は「三年間の困難期」22)を迎えた。国家財政 の緊縮によって、サッカーの発展を支える経済力 が落ち込み、サッカー事業も影響をうけて全国大 会の規模は縮小された。結果、1961年の国際試合 には参加できなくなった。 1963年の経済の回復によって、中国サッカーナ ショナルチームは再び国際試合に出場したが、数 年間のトレーニング不足と選手の怪我により、ベ トナムで主催された社会主義国サッカー大会では 11チーム中、第10位の成績であった23) 。この失敗 を反省し、将来のサッカーの発展と競技力の向上 のため、1964年 2 月北京で、国家体育委員会、共 青団中央24)、全国総工会25)と国家教育部部門は 「全国サッカー訓練工作会議」を主催した。会議 では中華人民共和国が成立して以来14年間のサッ カー事業を総括し、民衆サッカーの基礎建設、青 少年育成、省市サッカーチームのトレーニングと 政治思想、サッカー試合制度の問題について議論 した。そして、「大いにサッカーを発展させて、 迅速に技術水準を高めることに関する決定」26)が 国家体育委員会から公表された。 劉斉の日記はこうした時期の1964年 5 月から記 録されている。劉斉は文化大革命の直前の時代の サッカーの発展状態について、以下のように述べ ている。 1964年 6 月 3 日 「昨日、担任の先生は私たちに今日全国サッカー 甲級リーグ戦を観戦するように言った。私たちは 嬉しかった。 … 試合の場所は瀋陽市第二中学 であった。 甲級リーグ戦が始まる前に少年サッ カー試合の決勝戦があった。第二十九中学対第 三十六中学の試合であった。結果は第二十九中学 が 5 対 1 で勝った。… リーグ戦の結果は 2 対 0 で天津チームが上海工人チームに勝った」( 9 頁)。 この日記の下には、この出来事を解説するための コメントが以下のように添えられている。 著者の注釈:「サッカー試合の場所は瀋陽市第二 中学のサッカー場だった。第二中学には正規のサッ カー場があった。しかし、スタンドがなかったの で、生徒は先生の指揮の下でクラスごとに地面に 座り、観戦していた。後ろに座っていた生徒は 時々よく見えなかったから、立ち上がって見たの で、先生に叱られた。その時は文化大革命の二年 前だったから、教師にはまだ威厳があった。… 」 (10−11頁) この時期には、青少年のサッカー試合と専門選 手のサッカーリーグ戦の両方が同じ場所で開催さ れていたことがわかる。「甲級リーグ戦が始まる 前に少年サッカー試合の決勝戦があった」との叙 述から、同じサッカー場で少年サッカー試合と サッカー専門選手の全国リーグ戦が引き続き行わ れていたことが分かる。このことは、当時、青少 年のサッカー選手の育成を通じてサッカーへの興 味の普及が構想されていたことを意味していよ う。また、文化大革命以前の学校は青少年のため のサッカー試合を開催できる場所であり、かつ専 門選手の全国リーグ戦を行った場所でもあったこ とが分かる。青少年のサッカー活動は重視され、 それなりの規模を伴っていた。次のような叙述も

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ある。 6 月 5 日 「サッカーを発展させるため、学校は四五年級の サッカーリーグ戦を開催することにした。私は自 分のクラスのサッカーチームの一員なので、力を 尽くしてトレーニングしないといけない。」(11頁) 6 月 7 日 「今日は学校でサッカーの試合を観戦した。アイ スクリームを四つ買ったので、たくさんのお金を 払った。家に戻ると、雷鋒さんの倹約な生活を思 い出して、恥ずかしく感じた。これからは贅沢し てはいけない。お金は正しく使うべき。」(12頁) いずれも学校はサッカーを行うことができる場 所であったことを示している。1964年サッカーの 発展状況を総括して議論した「全国サッカー訓練 工作会議」では、これからのサッカー運動の発展 を目指す指導綱領として、『大いにサッカーを発 展させて、迅速に技術水準を高めることに関する 決定』が公布された。その綱領の中に四つの課題 が設定されていた27)。 1 民衆がサッカー活動を展開し、青少年選手 のトレーニングを増強させること。 2 サッカーチームの政治思想と強化に重点を 置くこと 3 全国大会制度を刷新すること 4 サッカーにおけるリーダーシップを増大す ること 更に、課題 1 に対して具体的な方策があった。 1964年 6 月 1 日共青団中央、教育部、国家体委28) が『少年サッカーを発展させることに関する連合 通知』を公表した。その中に、青少年に対して サッカーを奨励することと指導方法が明確に掲示 されていた。すなわち、 1 サッカーは徳育、智育、体育方面で少年た ちを鍛えるよい方法であるから、サッカー を発展させるべきである。 2 自ら志願することは原則であるが、積極的 に推薦することも必要である。 3 倹約の精神で練習用の機器や場所の問題を 解決すること。 4 選手の育成に力を入れること。 5 活動の発展のために、共青団中央、教育 部、国家体委は今後、少年サッカーリーグ 戦を組織すること。 これらの方策を受け、6 月から著者劉斉が通っ ていた小学校では直ちに『男子少年の中でサッ カー活動を行うことに関する聯合通知』に従い、 四五年級のサッカーリーグ戦を開催することに なった。著者劉斉も学校のサッカーリーグ戦の試 合に出場できるようになった。このように、サッ カーの発展を求める政策の公表は確実に青少年た ちのサッカーへの興味を普及させることを促して いた。また、次のような一文もある。 11月26日 「体育活動の便利のため、我が校は運動場にある 木を取り除くことにした。…」 (20頁) 日記の下に補足するための著者の注釈があった。 著者の注釈:「木を除くのは全区サッカー試合の ためであった。こうすることで、サッカー場も拡 大できた。… サッカーの試合がないときに、サッカーに関する 本を読んだ。ハンガリーの『サッカー理論』を読 んだが、他にサッカーに関する内容が書かれてい る本は極めて少なかった。… 1965年の春、全区(瀋陽市瀋河区)小学校サッカー リーグで優勝した。(王監督もとても喜んだ)… その後、自分は全国甲級リーグ戦で遼寧チームの 少年キャティーを担当できた。そして、遼寧チー ムのファンになった。… 1965年夏に、中学入試が終わった後、瀋陽市小学

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校サッカーリーグ戦に参加した。 試合は瀋陽市の四つの区の各優勝者の中で瀋陽市 の優勝者を決めるものであった。 私の学校の対戦相手は和平区の優勝者、朝鮮族小 学校であったが、結果は 0 対 2 で負けた。もうこ れから一緒にサッカーをやるチャンスがないかも しれないと意識した学校の仲間たち、みんなは誰 も何も言えずに静寂な悲しみを味わっていた。監 督の王先生は私たちに「機会があれば、学校に戻っ てきてくれ」と言って別れを告げた。」 (26-27頁) 以上の日記は、1964年から全国甲級リーグ戦と 青少年の学校リーグ戦ともに都市部では盛んで あったことが分かる。特に、学校の中に組織され たクラス対抗試合があり、小学校及び中学校対抗 試合が存在していたことが示されている。 しかし、文化大革命期のサッカーの記述は一転 する。小学校のサッカー場などの施設利用状況は 以下のように変容した。 1969年 9 月 3 日 「午後、私たちは龍湾小学校でサッカーをやっ た。随分長い間、誰もそこでサッカーをやらな かったので、草が長くなっていた。家畜はそこで 草を食べていた。青空に雲が浮かんでいて、南の 河は日射しの下でキラキラしていた。河の両岸で 水稲が黄色になり、高粱は赤くなる。見渡す限り 青い山がある。サッカーは大体一年ぶりだったか ら、上手にできなかったかもしれない。かつて、 瀋陽の大きなサッカー場でガンガンサッカーを やっていた私達は、今“牧場”でやっている。本 当に面白いよね。」(28頁) この日記は、文化大革命期の1969年に著者が 「上山下鄕」29) 運動に参加した頃に書かれている。 「五・一二命令」30)によって全国のスポーツ活動 が中止されたため、数年前にはサッカーが盛んで あった小学校のサッカー場では「長い間に誰でも そこでサッカーをやらなかったので、草が長く たった」と表現されている。「かつて瀋陽の大き なサッカー場でガンガンサッカーをやっていた私 達は、今「牧場」でやっている。本当に面白いよ ね」という表現は、施設が整備されずに放置され たことに対する落胆を示していよう。「面白いよ ね」という表現は、諷刺修辞法であり、サッカー 場がなくなった現状に対する不満になすすべかな いことへの皮肉である。 しかし、重要な気づきがある。文化大革命期で は、「五・一二命令」により、スポーツに禁令が 敷かれたと考えられてきたが、実際には国家及び 各省市の直接管理下にあったスポーツ活動が停止 されただけであったことがわかる。文化大革命期 の1969年頃の民間人による自発的なスポーツ活 動、サッカー活動が存在していたか否かというこ とについてこれまでの中国スポーツ史研究、中国 サッカー史研究において言及されたことはない。 しかし、以下の日記は、「五・一二命令」として 出されたスポーツ禁令にもかかわらず、サッカー 試合が開催され、禁令は地域の人々が組織的な試 合を自発的に行うことを阻止するには至っていな かった事例を示している。 10月 2 日 「朝ごはんを食べた後、友たちと一緒に写真館に 行った。戻る時第二十中学を通りすぎた。そこで はサッカー試合が行われていた。遼寧チーム対気 圧機工場チーム。倪 継徳(ゲイ ケイドク)は 相変わらずうまかった。試合結果は、3 対 2 で遼 寧チームが勝った。」(34頁) 日記の下に次のような著者の注釈があった。 著者の注釈:「気圧機工場は国有企業である。 その時従業員はおよそ3000人ぐらいであった。し かし、遼寧省の人口は2800万人。サッカーのレベ ルは3000人から選ばれた11人にすぎなかった。… 1966年以来、私は遼寧チームの試合を見るのはも

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う三年ぶりだったので、ワクワクしていた。… 倪 継徳選手は中国の有名なサッカー選手、監督 であった。彼はナショナルチームに入ったことが あって、私の幼い頃のアイドルだった。…以前の 遼寧チームの試合では、スタンドで応援するしか なかったが、今回とても近くで観戦できるように なった。私は更に彼と握手した。… あの日の試合は、遼寧チーム歴史上で最も無名な 試合かもしれない。観衆は何十人しかいなかっ た。ポスターもなかったし、ゴールネットもなかっ た。サイドフラグもなかったし、白いサイドライ ンを描く人たちもいなかった。自発的なサッカー 試合だった。悩みが多すぎて、サッカーにムズム ズしていたから、集まってサッカーを楽しむだけ だ。どうしたら憂いを癒せるのか、ただサッカー をやるだけだ。サッカーをやり始めると、どんな 悩みてもすぐに忘れてしまう。気圧機工場は昔瀋 陽市工鉱試合のチャンピオンであったが、遼寧 チームとの試合で 2 点は取れないに違いない。3 対 2 の試合結果は文化大革命期サッカーチームのト レーニングがほとんどなかったから競技水準が落 ちたことの証である。…私は倪 継徳選手が中国 サッカー史上最も強い選手の一人だとずっと思っ ている。チャンスがあれば、世界的有名な選手に なれるかもしれない。残念ながら、間違った時代 に生まれてきたため、そうなれなかった。この試 合を見ると、『三国志演義』(『三国志』の小説版) の後半を思い出して、悲しくなってしまう。英雄 たちは年をとったから、その栄光はやがてわずか になり、消えていきそうだ。」(34−37頁) この日記と著者の注釈から、文化大革命前期に は、政治運動が優先して、サッカー大会などの組 織的なスポーツ活動は停止されたが、民間の自発 的なサッカー試合は強制的に排除されなかったこ とがわかる。遼寧省チームの選手たちは自発的に サッカー試合に出場していた。しかし、気圧機工 場のチームが遼寧省の代表チームと同じレベルで あるはずはなかったにもかかわらず、得点差がわ ずかであったことは、スポーツの管理機構および エリートスポーツシステムの崩壊により、省市 サッカーチームのトレーニングレベルと競技力が 低下していたことを示している。 こうした状況は、中国国務院の報告書にも見ら れた。『国務院 1973年全国体育工作会議紀要 国 発[1973]22号』32)には、「積極的に大衆スポー ツを発展させると同時に、選手スポーツチームの 建設にも力を入れて、今の後退している状況を改 善するべき」と言及されている。こうした表現は 文化大革命によってエリートスポーツが相対的に 後退していることを政府が認識していたことを示 していよう。 以上をまとめる。成年選手の全国サッカーリー グ戦、サッカー大会と青少年サッカー大会は重視 されていた。青少年サッカー選手が育成され、青 少年の間でサッカーへの関心と興味が増してい た。中学校のサッカー場で全国サッカーリーグ戦 と青少年サッカー大会両方が開催されていた。成 人サッカーと青少年サッカーを結びつけることに より、著者のようなサッカーファンが増加し、 サッカーというスポーツが普及していった。ま た、1964年に中国国務院体育部はサッカーの後進 していた状況を反省し、具体的な改善方策を公表 した。『大いにサッカー運動を発展させて、迅速 に技術水準を高めることに関する決定』では、 サッカーは「国家の栄光」、「国家の体育発展水準 は民族の体質が強いか否かを判断するシンボル」、 「政治的な任務」であり、「サッカーの競技力の 低さは、国家の国際的な地位を下げてしまう」こ とがサッカーを発展させる理由とされた。つま り、サッカーの発展は国家の威信とかかわるた め、この時代のサッカーは中国のナショナリズム によって構築され、中国のナショナリズムを後押 しするものとして奨励されていたと言える。 その後、文化大革命のスポーツ禁令の下で、 1972年までに中国のサッカーの発展は一時停滞し た。階級闘争のため、サッカー試合や大会などを 組織する余裕がなくなった。スポーツ活動を管理 と支援する体育部門も政治闘争活動により改造さ れたので、文化大革命以前と同じようにサッカー 33)

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活動を組織できる人的資源が乏しくなり、国家及 び各省、市レベルの組織されたサッカー活動1972 年までに停滞したが、民衆、サッカー団体、元 サッカーチームのメンバーにより自発的なサッ カー試合などの活動は展開されていた。よって、 サッカー試合の観戦、サッカー活動への参加機会 は確かに少なくなったが、完全にサッカーと絶縁 した状態ではなかったと言える。数年間の停滞は 劉斉のように文化大革命以前に既にサッカーに対 して興味があった人のサッカーへの情熱を奪うこ とができなかった。とはいえ、省市レベルのサッ カーチームの解散、多くの監督・選手が解任さ れ、思想改造のための強制労働に従事させられる ことにより、サッカーの育成システムが崩れてし まったことも事実であった33)。

2 .

文化大革命期の民衆の政治思想と

サッカー

日記には、サッカーと中国の人民の側の政治思 想の関係も反映されている。周知のように、中国 では、政治思想の動向は文化大革命期前後に強く 中国人民の命運に関与した。政治思想における正 しさとは、中国共産党への忠誠心を意味し、中華 人民共和国の成立以来強調され続けている。あら ゆる階級の人々、どのような領域に携わる人々 も、政治思想について共産党の中央から注視され ている。スポーツ領域もその例外ではなかった。 文化大革命期の直前から今日まで、各省市のアマ チュアチームから中国ナショナルチームに至るま で「政治思想の学習」は極めて重視されていた34)。 「政治思想の学習」によって、スポーツ選手たち は社会主義の思想を習得し、中国共産党のリー ダーシップを承認するようになる。さらに、特に オリンピック大会に出場可能なレベルの優れたス ポーツ選手にとって、国家と人民の経済力によっ て自らが育てられたことを実感し、国家の栄光と 人民の期待に応えるために力を尽くす必要がある と考えるようになる。「国家への感謝」、「人民のた めに努力する」という考え方がオリンピック大会 の「金メダル熱」を通じて、中国体育領域で合理 化されていた。しかしながら、Lu Zhouxiang、 Fan Hong著、Sports and Nationalism in China (Routledge, 2013)によると、近年のスポーツ 選手たちは、自発的に「国家への感謝を口にしな い」と述べている35)。そこで、日記の内容に記録 された文化大革命期前後の人民の政治思想の特徴 を以下で分析する。 1960年代から中国と旧ソ連の国際関係は悪化し た。中国共産党は旧ソ連の政治路線に反対し、 「ソ連修正主義」36)と名づけた。中国全土で中国 共産党の指導的思想を支持して、旧ソ連の「資本 主義の一部の手段を使って社会主義を修正する」 修正主義思想を反革命思想、社会主義の基礎を揺 らがすものと考えた。その後、中国の人民も中国 共産党のリーダーシップの下で、修正主義を批判 するようになった。この点について、劉斉は次の ように記している。 1964年 5 月 1 日 「弟と一緒に瀋陽人民運動場に体育ショー(運動 会)を見に行った。街中のあちこちに赤い旗とス ローガンが見られる。人々は新しい服を着ている ので、やはりフルシチョフの話、「中国では、五 人のうち一人しかズボンを持ってない」は間違っ ている。つまり、修正主義者たちは我々の威信を なくすために我々に関する嘘を吹聴した。私は必 ず最大限の努力を行い、将来の我が国を立派に建 設しようと思う。」( 7 頁) しかし、日記の下には次のような注釈があった。 著者の注釈:「体育ショーの最後は、みんなが 大好きなサッカー試合である。なぜならば、第一 に、瀋陽市にはサッカーファンが多く、民衆の利 益に適うからである。第二に、サッカー試合によっ てリーダー(政府のリーダー)も忙しい仕事から 解放される。それはリーダーの利益に適う。 人々は新しい服を着るのは経済的に不可能であっ た。日記に人々は新しい服を着ていると書いたの

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は、修正主義に反対していることを示すために大 袈裟に書いたのである。」( 8 頁) また、先に言及した龍湾小学校でサッカーを 行ったことを書いた日記のあとに次のような注釈 が添えられている。 著者の注釈:「翌日の日記のせいで、また気分が 悪くなった。公社の広報により、ベトナムのリー ダー胡志民氏が亡くなった。… 文化大革命期 に、中国と仲が良かった国は少ない。ベトナムは その中の一つであった。だから 9 月 4 日の日記で は「我々が永遠に忘れないのは、中国人民はベト ナム人民の友たちであるということであり、中国 領土はベトナム反米の後方であった」と書いた 」 (28−29頁)。 「あの頃、私が関心を持っていた戦争は二つあっ た。一つはベトナム戦争であり、もう一つは珍宝 島(中ソ国境線)であった。ベトナムは遠すぎる が、珍宝島は近かった。ソ連のT62タンク(戦 車)は風より早くてすぐにここに駆けつけるかも しれない。だから、農具を捨てたい。まずい食べ 物にもうんざりしていた。ロケット・ランチャー を持って戦いたいと本気で思っていた。せめて、 爆薬を持って行かせてくれ。世論でも、サッカー ファンたちは戦いが好きだと言われている。私は そういう話には一理あると思った。もちろん、自 分は民衆と戦う勇気がなかったが、ソ連修正主義 と戦いたいと思っていた。本音を言うと、戦争を 契機として利用してでも良いから、「上山下鄕」の 辛さを終らせたいと思っていたのだ。… 」(30− 31頁) 更に、 1969年 9 月26日 1969年 9 月27日 「午前中家で「防核洞」(核弾を防止するための 避難穴)を作る作業に参加した…」(33頁) 著者の注釈:「その間、両親は農村で労働改造 されていたので、家に帰る機会が少なかった。… 「防核洞」は地下で穴を掘って、꧇筋コンクリー ト構築するものであった。それを作る作業につい て、家々から人力を出さないといけなかったが、 報酬はもらえなかった。作業に参加した人は経験 が足りなかったり、もしくは運が悪かったりし て、落盤によって死亡する事件がよくあった。社 会的出身が低い人(階級的)の場合は火葬で終わ るが、社会的出自が良い人なら追悼会で追憶され る。その恨みについて、「全部ソ連修正主義のせい だ」と言い返せるかもしれない。「防核洞」は今も 存在している。今ではその大部分は地下の商業施 設や、ホテル、カラオケなどに改造されたかもし れない。今、カラオケで恋の曲を地下の穴から流 せば、あの硬い防核洞のコンクリートも多少柔ら かくなるかもしれない。」(33頁) 以上の日記のいずれも文化大革命期に中国民衆 にとって「帝国主義、修正主義、反革命者」に対 抗する政治思想がかなり支配的であったことを示 している。修正主義に反対する考えは文化大革命 以前にすでに民衆の側に存在していたが、文化大 革命期には、反帝国主義と共に中国ナショナリズ ムを形成した37)。「街中で戦争に備えよ」と書い たスローガンや「防核洞の建設」は1969年の中ソ 珍宝島戦闘後、中国の民衆が全国規模の戦争を極 めて重視している様子を反映している。 「今日は瀋陽に帰った。…街中のあちこちに「ア メリカ帝国主義とソ連修正主義を打倒せよ!」 「戦争に備えよ」などのスローガンが見られた。 民兵たちは新しい銃を拭っていた。もしソ連修正 主義が我々を侵略したら、時代から与えられた使 命を全うして、世界中の「帝国主義、修正主義、 反革命者」を全滅させよう。」(32頁)

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すなわち、文化大革命期は、資本主義思想への 反対と、旧ソ連との外交関係の悪化による外的脅 威が増大された時期といえる。「反帝国主義」と 「反修正主義」の思想は外的脅威の増大に伴って 共存し、その時代の民衆の思想と生活状態に影響 を与えたと考えられる。 また、文化大革命は封建的文化、資本主義文化 の双方を批判し、新しい社会主義文化を創生しよ うという政治・社会・思想・文化上の改革運動で あったが、これにより 1 億人近くの人々が何らか の損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞 をもたらした。「階級闘争を綱領にする」38)とい う政治思想に支配されて、中国の民衆は外的脅威 に対抗することを準備しながら、中国の内部のい わゆる反革命分子とも戦う準備をしていた。当時 は、市場経済などの資本主義諸国の手段や政策を 使って社会主義中国を改善しようという思想を 持っている人々が「修正主義者」もしくは「走資 派」39)と呼ばれ、中国共産党が統制する社会に強 く批判された。文化大革命が進むと、多くの「走 資派」と呼ばれた人が停職処分を受け、逮捕され て、農村や工場で強制労働を強いられ、思想を改 造させられた。資本主義、帝国主義と修正主義批 判によって、国内では資本家、地主などの資産階 級と分類された人が「資本主義の道にたどってい る」傾向があると強く批判された。その結果、資 産階級の人が無産階級(主に工人、農民、兵士) の生活を送ることで、思想改造を受けることに なった。その過程の中で、自分の「罪」を認識で きなかった者、「過ち」を認めなかった者、錯誤 した思想を堅持する者はひどく迫害されて、死亡 した事件も頻繁に見られた。政治思想や生活様式 に問題があった政府の幹部と公務員たちに向けた 「五七幹部学校」が農村で成立し、認識を改造す るための強制労働と社会主義思想への忠誠をもた らす政治思想学習が行われた。資本階級にかかわ ると疑われた者は、自分の職場を離れて、工場や 農村で無産階級革命思想を学びに行くしかなかっ た。教育方面にも大きな変化があった。試験とい うものはエリートを育てる方法であり、資産階級 の思想に近いという理由で批判され、停止させら れた40)。その代わりに、青少年たちも農村と工場 に送られ、そこで農業や工業のなどの体力労働お よび毛沢東思想、マルクス主義などの正しい政治 思想を強制させられた。いわゆる「上山下郷」運 動に参加させられ、無産階級の教育を受けた。そ れにより、無産階級革命という階級闘争のための 新しい戦力となり、無産階級が政治的に高い地位 を維持できるという信念を植え付けられた。 著者劉斉は1969年頃「上山下郷」運動に参加し た。日記の中に「防核洞」を作る作業に関する内 容があり、「出自の良い人」(無産階級、主に工人、 農民、兵士家庭から)と「出自の悪い人」(資産 階級、主に資本家、商人、地主家庭から)では待 遇の差別が極めて大きかったと綴っている。 外的脅威と内的動乱が共存した時代に、サッ カーファンであった著者はサッカーに対してどの ような態度をとったのか。著者は遼寧チームと気 圧機工場チームの試合について書いた日記の下の 注釈の中に、次のように記している。挿絵も自ら 描いたものであった。 著者の注釈:「どうしたら憂いを癒せるのか、た だサッカーがあるのみだ。サッカーをやり始める 「何以解䘧,唯有足球」(中国語):どうしたら憂いを癒 せるのか、ただサッカーがあるのみだ。 出典:曹操『短歌行』 「何以解䘧,惟有杜康。」(どう したらこの憂いを解くことができようか、ただ酒があ るのみだ(杜康:酒を発明した伝説上の人物、転じて 酒の異称) 41)

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と、 どんな悩みてもすぐに忘れてしまう。」(36頁) 挿絵は以下のことを意味している。サッカー シャツを着ているダチョウは自分の頭をサッカー ボールに埋め込んでいる。ダチョウは追われると 頭を砂の中に埋めて安心すると言われている。現 実の悩みと危険を避けたいので、唯一サッカーを やると憂いを忘れると著者が強く感じたことが描 かれている。この挿絵は書物のカバーデザインに も描かれており、著者が本日記を通じて、もっと も表現したかったことに他ならない。 また、著者が述べた「憂い」とは何か。1969年 9 月 3 日の日記の下には次のような注釈が添えら れている。 著者の注釈:「私は1968年 9 月から遼寧省北部の 開原県に行き、「上山下鄕」運動に参加した。悩み もなく、のんびりと暮らせるわけではなかった。 仕事が辛かったし、食べ物がまずかったし、希望 もなかった。すごくホームシックになった。夜寝 ようとした時もノミに噛まれて体にブツブツがで きた。しかし、サッカーをやり始めると、心地よ くなって、周りの景色もよく見えるようになっ た。」(29頁) 「憂い」とは「上山下郷」生活の辛さと、外的 脅威と内的動乱が共存していた時局への不安感に 基づくものだと考えられる。先にも述べたよう に、辛い生活を終わらせるため、著者は「戦争さ えやりたい」、「軍隊に入りたい」という考えさえ 抱いていた。著者は辛く苦しい農村での労働生活 よりも、命がなくなる可能性がある戦争の方がま しだと思っていたことが分かる。このような表現 は、朝鮮戦争以来、より声高になった中国ナショ ナリズムへの反映であり、辛い「上山下郷」運動 への反感でもあった。朝鮮戦争に中国人民解放軍 は参戦し、 中国の威信と誇りを回復した一方で42)、 その威信と誇りの高まりに伴って、中国共産党と 中国人民はさらに高い国際地位を求めて、「大躍 進運動」43)として工業を振興し、鋼鉄を精錬する 活動を展開した。その際に、「超英赶美(英国と アメリカ合衆国を超える)」というスローガンが 掲げられた。「大躍進」運動は結局失敗したが、 中国人民には外国と戦う勇気がまだ残っていた。 著者が書いた日記の注釈、「戦争を契機として利 用し、上山下郷運動の辛さを終わらせたい」には 戦争への恐怖が感じられない。中国人民の間で高 揚したナショナリズムが外国との戦争を駆り立て ていたことを示していよう。

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文化大革命後期(1972-1976)に

おけるサッカー活動の展開の意義

文化大革命後期になると状況は一変する。1972 年、中華人民共和国国務院総理周恩来の提唱の下 で、全国球技動会が再開された。その開催された 運動会の中にサッカー試合も含まれていた。体育 活動とスポーツが組織されなかった文化大革命期 に何故運動会が開催されるようになったのか。そ の原因は毛沢東による「体育を発展させ、人民の 体力素質を高める」という体育方針であった。こ の体育方針が公表された20周年を機に全国範囲で 国民にとって大事な体育方針を記念する必要があ ると判断された44)。こうして、中国のサッカー活 動は毛沢東の体育方針を記念することを契機にし て再開された。 1972年から、サッカー活動が再開されたことに よって、各省、市のサッカーチームが迅速に再建 されて、サッカーのトレーニングシステムも回復 された。1973年から中国の全国青年サッカー大会 と全国少年サッカー大会も再開された。そして、 1974年中国はアジアサッカー連盟に復帰して、ア ジアカップに参加した。1975年には全国体育大会 でサッカー試合が再開された。国内のサッカー大 会において試合が復活しただけではなく、外国と の試合も行われた。しかし、1977年までは中華人 民共和国と外交関係を持っていた国々は基本的に 社会主義諸国とアフリカ諸国だけであった。中国 はそれらの国々と友好関係を求めるために、「卓 球外交」の成功を受けて45)、スポーツを外交手段 として利用するようになり、スポーツの交流を促

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進した46)。サッカーもその一つであった。1972年 から1976年までは、中国ナショナルチーム、各省 市チームは他国と友好関係を促進するために、 ヨーロッパの社会主義諸国とアジア、アフリカの 第三世界に所属した国のサッカーチームと多くの 親善試合を行った。さらに、外交のために、中国 のサッカーチームは外国のサッカーチームを交流 訪問した。例えば1973年 1 月には、中国ナショナ ルチームはギニア、セネガル、イラクとクウェー トを訪問し、サッカーの親善試合を行った47)。社 会主義諸国に加え、アジア、アフリカのサッカー の技術レベルが低い第三世界の外国への派遣もよ く行っていた48)。 1971年以後、サッカーは、他のスポーツ種目と 同じように外交手段として再開された。それには 「友好第一、競技第二(中国語:友騲第一,比鰨 第二)」という体育方針が伴っていた49)。試合の 成績ではなく、友好関係を第一にすることを意味 し、サッカーは中国と社会主義諸国の国民精神と 友好促進するための媒介として政治的に利用され た。 更に、「友好第一、競技第二」は中国体育の指 導的思想となり、社会主義中国の特有の社会主義 無産階級の体育価値観を形成していた。社会主義 中国の「友好」を中心にしたサッカーを展開すれ ば、資本主義諸国のスポーツ思想の「勝利至上主 義(中国語:ꨬ吙主▃)」50)に対し、強く反対の 意思を表明できる。文化大革命期のキーワード は階級闘争である。スポーツと体育の領域で、 「友好第一、競技第二」という社会主義無産階級 体育価値観を確立し、資本主義諸国の「勝利至上 主義」を批判することで、無産階級、社会主義を 堅持し、資産階級と資本主義に反対することがで きた。文化大革命後期にスポーツ場面で強調され た言葉は「階級闘争は綱領だ(中国語:以ꮕ绣斗 争╬绮)」、「無産階級は政治的に高い地位を持つ (中国語:无☋ꮕ绣政治挂䉚)」51)、「体育は工農 の体育である」52)であった。こうして共産党政府 は、サッカーのようなスポーツ活動を通じて、 人々に「政治的に正しい」社会主義の体育価値観 と団体主義の観念及び階級闘争を堅持する革命思 想を学ばせ、資本主義スポーツの価値観と対立す る社会主義の「友好第一、競技第二」の良さを強 調して、人民の自らの共産主義制度と思想への忠 誠心を育成しようとした。それゆえ、サッカーな どのスポーツ運動を展開する目的はやはり階級闘 争の準備であったと言える。 この点について、日記ではどのように表現され たのか、1973年 7 月16日の日記には次のように叙 述されている。 1973年 7 月16日 「本日の午後、毛沢東主席が再び揚子江で水泳し たことの七周年を記念するため、瀋陽市体育場で サッカー試合を行う予定だった。遼寧チーム対部 隊連隊(全軍サッカー試合の優勝者)。この試合 は今年まで瀋陽市で一番素晴らしいサッカー試合 なので、ワクワクしていた。… 試合が開始する前に見に行こうと思っていたが、 課長に「まだ仕事がある。会議に参加してくださ い」言われた。結局体育場に着いたのはすでに試 合の後半だった。体育場の外に自転車と車がたく さんあって、人が多すぎて体育場に入れなかっ た。私は他の多くの人と同じように、木を登って 木の上で試合を観戦した。試合結果は遼寧が 4 対 1 で勝った…」(42−44頁) 日記の下に次のような著者の注釈があった。 著者の注釈:「試合の結果を見ると実に嬉しかっ た。4 年前に遼寧チームはある工場の試合ではギ リギリ 3 対 2 で勝ったが、今度の相手はとっても 強かったけどうまく勝った。四年が経って水準が 回復したようだ。」(44−45頁) この日の日記は文化大革命期にサッカーが行わ れていたこと、特に試合が「毛沢東主席が再び揚 子江で水泳したことの七周年を記念するため」53) ために行われていたことを示している。毛沢東主

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席の水泳を記念するためにサッカー試合を行った ということは、サッカーの再開はサッカーのため ではなく、1971年の毛沢東の「体育を発展させ、 人民の体力素質を高める」という体育方針が公表 された20周年を記念する目的であったことを意味 している54)。毛沢東は「体育を発展させ、人民の 体力素質を高める」と「友好第一、競技第二」など の体育に関する重要な方針を公表したので、その 時代に中国の体育思想と民族の精神を構築した人 と見なされた。よって、「水泳を記念するための サッカー試合」は、社会主義の体育価値観を創出 する毛沢東の体育に関する精神が民衆に対して重 視されたことを意味している。つまり、中国共産 党の基本的な綱領は「階級闘争は綱領だ」である ので、毛沢東の水泳を記念することで、民衆たち が政治指導者のリーダーシップを尊敬し、中国共 産党の階級闘争方針を堅持し、中国共産党の統制 と地位を肯定し、中国共産党への忠誠心を強化す ることにつながった。「毛沢東主席が再び揚子江 で水泳したことの七周年を記念するため」のサッ カー試合は、その時代のスポーツの発展と普及に 役に立ったと考えられてきた55)。Lu Zhouxiang とFan Hongが述べているように、文化大革命後 期に「スポーツ熱(sports crazy)」56)が発生した 原因は毛沢東の指導力と、毛沢東のスポーツへの 関心と体育思想と密接に関係していたと考えられ る。 さらに、国家体委体育文史工作委員会により、 1993年 6 月に出版された中国のサッカー史を記録 した権威的な文書『中国サッカー運動史』は、 「新中国」のサッカーの発展の特徴として「国家 および政治指導者のサッカー発展に対する重視と 関心は、中国サッカーが発展する重要な前提で ある」とまとめている57)。文化大革命後期にサッ カーが活用される意義はただ外交手段及び階級闘 争への備えだけではなく、民衆が政治指導者の リーダーシップを尊敬し、中国共産党の統制と地 位を肯定し、政治的な忠誠心を示しながら、社会 主義の体育価値観の樹立とその民族精神に対する 尊敬を表すことも含められていたと言える。

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「友好第一、競技第二」について

先に述べたように、「友好第一、競技第二」と いう体育思想は文化大革命期に社会主義の体育的 価値観として資本主義スポーツ思想の「勝利至上 主義」に対抗する中国特有の体育精神となった。 しかし、実際にはスポーツ競技において「友好第 一」の思想を強調すると、競争の精神が薄れてし まうのは事実である。 1972年 9 月14日下の日記には、まず、劉斉が文 化大革命期の1972年に瀋陽市の工場に就職したこ とが示され、その日の職場環境について述べた後 に、1975年12月16日の日記には「友好第一」につ いて興味深い記載が見られる。 1972年 9 月14日 「共産党政府は私に通信報道の仕事を与えた。私 はマルクスレーニンの思想を学習し、革命的な世 界観を確立しなければならない。更に、人民のた めに文章を書く能力を鍛えしなければならない。 … (41頁) 1972年 9 月14日 「工場で働いている私は毎日身の回りのたくさん のことに影響されて、教育を受けている。… (41−42頁) 著者の注釈:「今日の日記は革命的なものであ る。私は、上山下鄕運動の参加者からニュース報 道員になった。農村から瀋陽に戻って、工場で労 働者としてしばらく勤めた後に、私は工場宣伝部 門に転職し、ニュース報道や工場新聞を編集する 仕事を担任した。今、サッカーファンの日記を出 版できたのはある意味この仕事のおかけである。」 (42頁) この日記と注釈から、劉斉は共産党に管理され た工場の新聞部に転職したことが分かる。つま

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り、彼は共産党と人民に感謝と忠誠を表し、新聞 部の文章を書くことを通じて、社会主義思想の啓 発と普及に従事する職についたことになる。さら に、1975年12月16日の日記及び注釈の中で、劉斉 が「友好第一」をどのように捉えていたのかを示 す興味深い記述が残されている。その日、工場の サッカー試合が行われた。しかし、この試合は通 常のサッカー試合ではなく、冬の公園にある凍っ た湖の上に、「氷の塊」をボールにみたてて行っ た「氷上サッカー」であった。サッカー試合とい うより実際に労働の休憩時間に労働者と幹部たち が気分転換を得るための遊戯であった。 1975年12月16日 日記の下には以下のような著者の注釈が添えられ ている。 著者の注釈:この試合について、私は企画者で あり、参加者でもあった。そして、新聞部の記者 として文章を書いた。その時代、文章には「意 義」を加えたくなるものである。しかし、当座の ところ「意義」を文章の中身に加えないことにし た。但し、忘れないために一応意義を示して、い つか書き直すときにその「意義」を使う予定であっ た。(56−57頁) この注釈は以下のことを意味している。スポー ツに関する文章を書く場合、必ず「友好第一」と いった当時の政治思想や無産階級の体育精神=意 義などを示さなければならなかった。文化大革命 期のスポーツ、スポーツの娯楽機能よりも、階級 闘争と外交といった政治に関わった効用が優先さ れていた。その時代の最も権威的な体育雑誌、 『新体育』には、1973年から1976年の文章の中で 「友好第一、競技第二」の意味と必要性が解説さ れている。「友好は競技より重要」、「観衆たちは 政治意識を持って観戦するべき」、「競技とメダル はエリートを育てる資本主義思想に関わったので 反対されるべき」、「体育は労働者、農民、兵士た めの体育である」といったことが常に議論されて いた。したがって、スポーツについての文章、報 道、記事及び詩歌も「友好第一」、「無産階級ため の体育」といった政治思想にかかわることが優先 して書かれていた。要するに、スポーツに関する 文章は、その時代の政治用語から乖離できない状 態であった。 サッカーを行う際もこうした政治的「意義」を 「一体何のゲームだろう。こんなに人を集めた。 一体どんなコートだろう。こんなに平滑で キラキラしている。 一体どんな選手だろう。こんなに聡明で勇 敢な。 一体どんなボールだろう。壊れたらすぐに 代替できて、交換できるものが山ほどあっ た。 冬の瀋陽青年湖の氷上で、我々の工場の労働者と 幹部たちがサッカー試合を行った。ボールはサッ カーボールではなかった、氷の塊であった。ゴー ルは凍っていた土であった。労働の休憩時間にな ると、観戦者がどんどん集まって増えていった。 ‘俺にパスしてくれ!’ ‘二対一だ、シュートだ!’ ‘よし、決めた!’ 氷上で歩くことさえも難しかった。走ることもも ちろんなかなかできなかった。皆つい転んで倒れ てしまい、たくさんの笑いが起きた。 ‘ほら、またゴールを決めた!’ ‘決めたわけではないだろう、ポストを蹴飛ばし ただけだ。’ 加えて、この文章を書く際に忘れてはいけないこ とをここ記しておきたい: 「友好第一」は十分に反映されていた。 困難を恐れない精神が一番重要であった。 倹約が一番重要であった。 労働と生産にうまく適合していた。…」(55−56 頁)

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大切にしなければならない。しかし、著者の日記 の注釈に、「当座のところ「意義」を文章の中身 に加えないことにした」と記されている。著者 は「「友好第一」が最も十分に反映されたとし、 困難に恐れない精神が最も重要であったとし、倹 約が最も重要であり、労働と生産にうまく結合し た」というような「意義」を文章に加えたが、実 態と結合できなくなっていた。このことは、「友 好第一、競技第二」という政治に関わる「意義」 は、その時代の民衆のサッカーに対する文化的欲 求と完全に一致しなかったことを示している。国 策としては、「友好第一、競技第二」という体育 方針と体育の価値観の確立により、文化大革命期 のサッカーといったスポーツを民衆に普及するこ とを促し、外交などの領域では一定の効果をもた らしたと考えられている。しかし、民衆にとって のサッカーの文化的欲求はそうした政策を決して 重視するものではなかった。 サッカーは近代スポーツとして中国にもたらさ れて以来、「競技」として受容されていた。先の 日記の中の「‘俺にパスしてくれ!’、‘二対一だ、 シュートだ!’、‘よし、決めた!’」などの言葉 は、もちろん勝利を目指してゴールを決めたがっ ていたことを示している。こうした著者の文章は 当時、氷上でサッカーを行った人がサッカーの競 技性から生み出される楽しさを追求していた様子 を表現している。こうした表現は、競技性を通じ た楽しみを追求することが階級闘争を重視するた めのスローガン「友好第一、競技第二」という核 心的な体育思想と結合できなかったことを示して いる。このことから、「友好第一、競技第二」と いう思想は、民衆のサッカー活動の実態とずれて いたことを物語っている。 「友好第一、競技第二」に関してもう一つ重要 な発見がある。1975年、鄧小平が国務院副総理に 就任した時、次のような発言があった:「中国を 発展させるには、毛沢東の三つの支持を綱領と しなければならない」。それは「一、理論を勉強 し、修正主義に反対すること。二、安定と団結を 維持すること。三、国民経済を発展させること」58) そして、「体育政策では、「友好第一、競技第二」 というものを第一の綱領として堅持すること」、 かつ「体育は、技術水準を高めて、いい成績を 狙うほかない」59)というものであった。1976年か ら鄧小平が「無産階級文化大革命を否定してい る」、「資本主義を企んでいる」などの理由で全国 に批判されたときに、体育領域でも批判された。 なぜなら、中華人民共和国共産党党章では、第一 の綱領は「階級闘争は綱領だ」であった。それに もかかわらず、「友好第一、競技第二」を第一の 綱領とするなら、階級闘争の重要性を軽視してい て、社会主義体育と資本主義体育の区別を抹殺し ていると考えられた。つまり、「社会主義の体育 を資本主義の体育に転換しようとしている」60)、 「修正主義と勝利至上主義を企んでいた」61)とさ れて強く批判されたのである。 鄧小平が体育の領域で批判された歴史からわか ることは、第一に、この時代のサッカーなどのス ポーツの目的は既に文化大革命以前のものから変 化していたことである。50年代と60年代初めにお いてスポーツを発展させることは、人民の体質を 増強し、経済建設の需要を満たすためであった。 しかし、文化大革命期には、体育の領域では、ス ポーツを行う上で最も大事なことは「階級闘争は 綱領だ」を承認することであった。「階級闘争は 綱領だ」を承認することで「無産階級の政治思想 と政治地位を確保する」思想を堅持でき、無産階 級と社会主義の立場で資産階級と資本主義に対抗 できる。「友好第一、競技第二」はその時代の社 会主義の体育方針として重視されていたが、「階 級闘争は綱領だ」を承認することがもっと大事で あった。 第二に、サッカーは確実に競技性を持つスポー ツであり、その楽しさは競技性から生み出されて いたとも言える。鄧小平氏が発したように「体育 は、技術水準を高めて、いい成績を狙うほかな い」ということが実際に「友好第一、競技第二」 のスローガンと理念的に矛盾していたと思われ る。「競技を第二」にして、サッカー運動の競技 性を軽視すれば、著者劉斉の日記に見られたよう

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に、人民の文化的欲求に即したサッカー活動の実 態と矛盾しただけでなく、「技術水準を高めて、 いい成績を狙う」ことも結局できなくなる。文化 大革命期に、「友好第一」を堅持してスポーツ外 交の任務を完成するために、サッカーの競技水準 が相対的に低かったチームと試合する際、中国の 各チームはよくわざと相手のチームにゴールを何 点か決めさせられた62)。このような八百長試合が 卓球63)だけではなく、サッカーの間でも横行し ていた。たくさんのナショナルチームレベルの サッカー選手が八百長試合に慣れていたので、 1974年にイランで開催されたアジア大会のサッ カー試合で、中国ナショナルチームの選手たちは 技術的にも心理的にも激しい試合に適応できない 状態になっていた。結局予選で敗退してしまっ た64)。このことは、スポーツにおける友好は、自 律的で自制的なものであり、スポーツにおける自 己表現や自己顕示、個人主義といったことは中国 において抑圧されていたという指摘からもうかが いしることができる65)。それゆえ、「友好第一、 競技第二」の思想と精神がサッカーの実態と適合 できず、これによりサッカーの発展は抑圧されて いたと考えられる。 1972年以後、サッカー試合観戦が人気を博した ことは、政治、外交のためのサッカーが当時の人 民に受容されたことを示している。しかし、日記 の中の氷上サッカーに見られたように、政治的な 動乱の最中であったにもかかわらず、サッカー ファンが政治的効用から離れて、スポーツの遊戯 的本質を楽しんでいたことはひとつの重要な発見 であろう。 たしかに、文化大革命期のサッカーは、競技性 と娯楽機能が十分に重視されず、スポーツの本質 から部分的に切り離れた政治的効用を果たすため の体育活動として、人民に受容された。しかし、 サッカーの競技性とスポーツの本質を楽しむ心理 を持っていたサッカーファンもいた。階級闘争の 理念の下でのサッカーと競技性と娯楽機能を重視 しているサッカーとの矛盾を強く感じていた劉斉 は、「「友好第一」という信念をサッカーの「意 義」として文章の中身に加えたくはなかった」。 それは、新聞部サッカー記者を担当していた著者 劉斉の最も重要な本音であったと言えよう。

むすび

本稿では、三つの視角から、中国の文化大革命 期のサッカー活動と政治思想について、分析を 行った。 第一に、中国文化大革命以前とその最中のサッ カーの発展状況について分析した。『サッカーファ ンの日記』には文化大革命以前の中国サッカーは 盛んに行われていたことが示されている。サッ カー選手が育成され、青少年の間でサッカーへの 関心と興味が増していたことが日記に描かれてい る。加えて、成人サッカーと青少年サッカーを結 びつける大会活動により、サッカーの普及は進ん だと考えられる。1964年には、中国国務院体育部 はサッカーの後進状況を反省し、具体的な改善方 案を公表したが、民衆の趣味(いわゆる人民に とってサッカーというスポーツへの需要が存在し ていたかどうか)については言及しなかった。 サッカーを発展させることは中国の民族的および 国際的な政治的な任務と繋がると考えられていた ため、この時代のサッカーの発展は中国のナショ ナリズムによって構築され、また中国のナショナ リズムを後押しするものとして奨励されていたと 言える。 その後、文化大革命よって、中国のサッカーの 発展は停滞した。階級闘争のため、サッカー試合 や大会などを組織する余裕がなくなったからであ る。加えて、スポーツ活動を管理し、支援する体 育部門も政治闘争活動により改造されたので、文 化大革命以前と同じようにサッカー活動を組織す るための人的資源が乏しくなっていた。但し、国 家及び各省、市レベルの組織されたサッカー活動 は1972年まで行われなかったが、民衆レベルでの サッカー団体、元サッカーチームのメンバーによ る自発的なサッカー試合は行われていた。もっと も、民衆がサッカー試合を観戦するようなサッ カー活動への参加機会は少なくなったが、完全に

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