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メリメと中世再認識 : メリメの合理主義に関する一考察

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(1)

メリメと中世再認識 : メリメの合理主義に関する

一考察

著者

宮内 達夫

雑誌名

年報・フランス研究

18

ページ

66-83

発行年

1984-12-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/9125

(2)

66

メ リメ と中世再 認識

一― メ リメの合理主義に関す る一考察 ――

序 メ リメの文学はいかに も明晰であ る。それは

,現

実 を理性 に よって分析 し再 構成す る 明晰 さであ って

,

そ こには曖昧 な ところが 見 られ ないのであ る。 た だ

,こ

の明晰 さは

,

メ リメと読者に共通の論理を前提 としていると思 う。それ ヤま「 フランス語は明晰 な言語であ る。」とい う命題 を成立 させてい るの と同 じ論 理 だ と考 え られ る。その意味で メ リメは模範的 な フランス語で書 いた と言 え よ う。 これは また フランスの 伝統 とされ る 合理主義 とも関連 して くる 問題 であ る。 メ リメは ロマ ン主義運動 の最盛期 に成人 し

,自

らも ロマ ン主義 の闘士 とし て文壇 に入 った。 しか し

,も

しロマ ン主義が脱理性 に対す る指 向だけを意味す るな らば

,メ

リメを ロマ ン主義者 と呼ぶ ことはで きないだろ う。 メ リメは ロマ ン主義 の時代にあ って も合理主義者であ りつづけた。そ して メ リメに対す る評 価 は

,こ

の合理主義 の解釈に左右 され ると思 えるのであ る。 メ リメの文学は後世に大 きな影響 を与 えなか った。そ して メ リメ自身 も新 し い文学 の流れを理解 しなか った。 この事実は メ リメが合理主義者であることと 無縁 ではない。 メ リメは 1830年 に スタンダール宛の 手紙 で『 赤 と黒』につい て許)

Il y a dans le caractere de Julien des traits atroces dont tout le monde sent 夫 達 内 宮

(3)

メ リメと中世再認識 67 la v6rit6, mais qui font horreuro Le but de l'art n'est pas de inontrer ce c6t6 de la nature humaine.(C.G.Volo l pp.83-84)

と言 つている。また

,晩

年の1869年には

,

フロベールを,

La grande tendance est a chercher le petit en tout, a produire le bizarre au lieu du beau. et le sale au lieu du naturele Lisez,〔 ¨.〕 le dernier roman de

l[. Flaubert, ot il y a partout du talent, mais qui,〔 ¨.〕 s'est jet6 dans cette

mer d'iniquit6s。 (C.G.Volo XIV p。 69つ

と断 じ

,ボ

ー ド レ ー ル に つ い て は,

Baudelaire 6tait fou! Il est mort a l'h6pital aprёs avoir fait des vers .¨ qui

n'avaient d'autre m6rite que d'etre contraire aux moeurs。

(Co G.Vol.XIV

p。 531) と手厳 しい。以上 の言葉 に見 られ る よ うに

,メ

リメは人間の持つ暗い部分 を描 こ うとす る文学 を否定 し続けている。 しか し筆者は メ リメの不 明を咎め よ うと い うのではない。 この ことは メ リメの合理主義 の内容 と関連 していると考 え ら れ るのであ る。 ところで

,

この合理主義は

,

ロマ ン主義運動 の大 きなテーマのひ とつであ っ た中世 の再認識 において重要 な役割 を果 した。1834年 に歴史記念建造物総監督 官 とな った メ リメは

,中

世美術を神秘性や宗教性 に よってではな く

,合

理性に よって評価す るために努力 したのであ る。 この分野での活動 には メ リメの合理 主義 の特徴が最 も明確 に表われてい る。本論 において

,筆

者は

,メ

リメの この 面 での研究の第一歩 として

,歴

史記念建造物総監督官 とい う役職創設 の背景 を 概 観 し

,つ

いで

,

メ リメの Essαグsπr J'αだんル “″π rθ rθιぼ θαSθ ごπ πり “ ′″ 夕αrガεαιグδr′πθπ″θπ

F″

ηε′

0と

ぃ ぅ論文 を検討す ることで

,

メ リメの合 理主義的 中世解釈 の基本的 な性格 を明 らかに してみたい と思 う。

(4)

68 メリメと中世再認識

歴 史 記 念 建 造 物 総 監 督 官 (Inspecteur g6n6rd des Monuments Hsto五

ques)創

設 の背 景③ 十九世紀 フランスの ロマ ン主義者達 は

,彼

らの文 明の起源を古典古代 にでは な く中世 に 求め よ うとした。 祖 国の過去を 目の当 りに したい と 願 ったのであ る。歴史への関心 は十九世紀前半 の時代精神の表現であ った。 しか し

,同

じ過 去 に対 してで も

,

立場 が変ればその 持つ意味 もおのず と 変 って こざるを 得 な い。 フランス革命の敗者であ る貴族達 に とって中世は栄光の時代であ り

,中

世 崇 拝 と革命への憎悪 は表裏の如 きものであ った。一方

,勝

者であ るブル ジ ョワ は 自分達 の政治上

,経

済上 の権利 の 由来を中世 に求め よ うとしたのであ る。 フ ラ ンス ロマ ン主義 におけ る中世 の意味を理解す るためには

,

この両側面 とも重 要 であ るが

,本

論 では主 に ブル ジ ョフ自由主義者 の中世観を検討す る。 革命 当時破壊 の対 象 とな った古文化財 の保護を要 求す る声 は

,中

世趣味 の普 及 とともに高 まってい った。 ウォル ター・ ス コッ ト流の歴史小説が流行 し

,歴

史 趣味が広 まってゆ くと

,祖

国の過去の栄光

,英

雄達 の思 い出を刻み

,昔

の ま まの フランスの風土に溶け込 んだ中世の教会堂や古城の美を賞讃す る

,

とい う 評 価 の方式が生 まれた。

Taylor男

爵 の yoyαgθ s rοπαη″Jσ “ ιs α 夕J″ιοrθ sσπ′s グαη

s

ι'αηεルηπθ

F″

πεθ に載 った リ トグラフは

,

その よ うな 趣味に 視覚的

な満足 を与 えたのであ る。 これ と並行 して

,Alexandre LenOir,O Alexandre

de LabOrdeそ

して

Ardsse de Caumont等

に よる

,学

術的 な中世美術への ア プ ローチ もあ った。そ して シャ トーブ リヤ ンや ユ ゴーは

,反

ヴァンダ リス ム の論陣を張 っていた。

1830年 の七月革命で 自由主義者達が権力の座 に着 くと

,国

が古文化財の保護 に本格的 に介入す る。学者や文学者の努力に よって再認識 されつつあ った中世 文 化財 の保護事業は

,体

制 イデオ ロギ ー とな った 自由主義 に とって も

,革

命 と

(5)

メリメと中世再認識

69

伝統 の調和 とい う主張 の格好 の宣伝 の場 であ った。 ギ ゾーは1830年10月 21日付 の国王宛 の報告書の中で

,歴

史記念建造物総監督官 とい う官職 の創設 を進言 し てい る。そ こに述べ られてい るこの監督官の任務の主な ものは

,フ

ランス全国 の巡察

,記

念建造物 の実地調査

,関

連す る古文書 な どの所 在 の確認

,各

自治体 の保護事業の指導

,各

地方 の研究者 との接触 お よび通信員

correspondantの

人選

,通

信員制度 の確立 に よる古文化財 リス トの作製への参与 な どであ った。

0

この提案は承認 され

,1830年

10月に

Ludovic Vitetが

初代総監督官に就任 し, メ リメは1834年5月に

Vitetの

後任 として この職 に就 く。 ロマ ン主義運動が華 々 しく展開 された1820年 代に青春時代を過 ごした メ リメ は

,De16cluzeの

サ ロンの友人達や

,

グローブ紙 の論客達か ら影響 を受け る。

0

周知 の ごと くメ リメが Lθ rんぁノγιごι Cιαtt Gα χα

Jを

発表 して好評 を博 した のは De16cluzeの サ ロンにおいてであ った し

,前

述 の Vitetも ギ ゾーもグロ ーブ紙 に寄稿 していた。 この時の人脈が歴史記念建造物総監督官 メ リメを生ん だ のであ る。 そ して

,

革命 と伝統 の調和 を求め る 中庸主義

,

歴史への強 い関 心

,感

傷 を嫌 い理性 を重視す る態度 な どが

,自

由主義者達 の共有す る精神であ り

,そ

れが また メ リメの思想の特徴で もあ る と同時 に古文化財保護実践 の為 の 指針 ともな った。 1830年 の革命後次 々 と政府 の要職 に就いてい った 自由主義者の友人達 と同様 に

,法

学士 の資格 を持 っていた メ リメも1831年2月に官職 を得 る。

0そ

して メ リメの総監督官任命が

Le Moniteur Un市

erselに発表 され たのは1834年5月

17日であ り

,同

年 の7月31日に メ リメは早 くも第一 回調査旅行 に出かけ るので あ る。就任 当時

,中

世美術 に関 してはほ とん ど素人 に近 い状態であ った メ リメ は

,

このニ ケ月半程 の間に必要最小限の知識 を身につけたのであ る。画家であ り教育者であ る父 と

,や

は り絵 の心得があ り広 い教養を身につけていた母に よ って

,一

人息子 として大切 に育て られた メ リメは

,美

術史 の研究 に必要 な美意

(6)

70

メリメと中世再認識 識 と求知心 を ご く自然 に身につけていた。家庭環境の安定 に由来す る内面 の安 定 は メ リメの性格 の特徴 のひ とつだが

,こ

の性格が彼を支 えて

,古

文化財保護 とい う困難 な任務を冷静かつ勤勉 に遂行す る よ うに させたのであ る。③ メ リメは任務遂行 に必要 な専門的知識を得 るために

,前

任者

Vitetの

指導 と助言を仰 いだ り

,英

国人 の友人

SuttOn Sharpに

,こ

の分野で当時先進 国で あ った イギ リスの研究書を送 って くれ るよ うに頼 んだ りしてい る。 また

,

フラ ンスで発表 されていた中世美術の研究書 も読んでいるが

,そ

のなかにはおそ ら く

, Arcisse de CaumOntの

」 「 Js″οグrθ ごθZ'αだんJたε′α rθ ″Jなグθπsθ θιπグJグ‐ ″αグ″ もあ った。 この

de Caumont宛

の手紙 の中には

,メ

リメの古文化財保護 思 想の出発点を示す言葉が見受け られ る。 《Les r6parateurs sont peut一etre aussi dangereux que les destructeurs.(Co G.Volo l p.289)》 これはユ ゴー が『 ノー トル

=ダ

ム0ド・ パ リ』 の「 ノー トル

=ダ

ム」 の章で展開す る議論 と も呼応 してお り

,革

命時 の古文化財破壊 を憂 える

,

とい う段階か ら一歩進 んだ 中世美術認識 を示 してい る。 ユ ゴーの場合

,古

典主義 的建 築美学批判を鮮 明に 打 出 した華麗 な中世讃歌 とな ってい るが

,そ

れ に比べて メ リメは

,そ

の よ うな 華 やか さはない ものの

,正

しい修復保存実践 のために

,実

証的 な研究に よる正 確 な中世美術理解 を確立 しよ うとす るのであ る。 中世美術研究 の専門的学問的 な成果を理解把握 し

,そ

れを専門外の人 々に伝 え世論を啓蒙す る

,

とい ういわ ゆ る vulgarisateurと しての役割 を メ リメが引 き受け るのであ る。歴史記念建 造 物総監督官 の任務は中世美術 に対す る役人

,知

識人を含む一般 の無知 との闘 いであ った。 もっ とも中世美術への関心が高 ま り

,そ

の研究が盛んになることがそのまま 正 しい修復 に結びつ くわ けではない。 メ リメの言わ ん とす る ところは

,生

半可 な知識 に よる修復が最 も危険だ とい うことであ る。だか らメ リメは

,古

文化財 の保護事業は国が主導 し

,専

門家 の手 に よって慎重 に行 うべ きだ と考 える。や

(7)

メ リメと中世再認識 セより

de CaumOnt

ンこメ リメは「 訂う。(9)

J'ai demand6 que toutes les r6parations, projet6es pour les monuments his‐ toriques, fussent sounlises au cOnseil des batilnents civils avant d'etre mises

a ex6cution。 (Co G.Volo I Pe 289)

le COnseil des Badments civils(公 共建 築評議会

)は

その建築家 スタ ッフを

ローマの

1'Acad6mie de Franceの

寄宿生 (ロ ーマ大賞を受けた学生

)か

採 用 してお り

,

当時 としては建築の専門家 を擁す る行政部門であ った。(0メ リ メの文化財保護 の基本方針は

,国

に よる管理 と

,専

門の技術者 に よる修復作業 の実践であ った。メ リメは この二つの方針にあ くまで忠実であった。だか ら,後

に な って le conseil des Batiments civils公 認の建築家が

,古

典主義的建 築理 論 に基 づいた教育を受けてお り

,中

世建 築の専門家 として不適格だ と判断す る と,メ リメは上述 の基本姿勢を貫 き

,V6zelayの

Madeleine寺

院 の修復工事 に Violet―le一

Ducを

抜櫂す る。Violet―le―

Ducが

中世建築 の科学的理論的研究を,

古典主義建築理論 に批判的 な観点に立 って行 い

,フ

ランス建築美学 の革新 を成 し遂げた ことは有名だが

,そ

の源流には メ リメの文化財保護思想に表現 されて い る よ うな 自由主義的 ロマ ン主義 と共通す る合理的精神があ ったのであ る。 メ リメは1860年 まで歴史記念建造物総監督官の職にあ り

,十

九世紀 フランス におけ る中世再認識 と古文化財の保護に貢献 した。 メ リメの仕事の内容を大別 す る と二 つあ る。ひ とつは

,実

際 の修復事業 とその実行 の為 の中央関係諸官庁 お よび地方 自治体 との折衝 であ る。そ こには

,メ

リメの古文化財保護思想が具 体 的 な形 で表われ ていると思 えるのだが

,政

府 内の報告書等が一次資料 になる ので

,

その検討は我 々に とって容易 とは 言 えない。

0メ

リメの仕事の第二 は, 第一 の仕事を有利 に進 め る とい う戦略的 な 目的 も持 った

,中

世美術の啓蒙書の 執 筆

,刊

行であ る。 この方面 での メ リメの業績 に関 しては,Pierre Josserand がEιαルs sαr ιas αr″sグαπり′π′″ と題 して

FlammariOn社

か ら, また,

(8)

メ リメと中世再認識

調査旅行記をPierre一

Marie Auzasが

Nοιθ

sル

物 αg′Sと してまとめ

,メ

メ没後百年を記念 して

Hachette社

か ら刊行 した現行版があるので

,そ

の概要 を知 ることができる。

我 々が本論次章以下検討す る Essαグsπr J'αだんιJ“″″″r′Jながθαsθ αα πのθπ

′gθ 夕αrガεπJグarθπιη′θη F″αηεθ lま Josserand の解説ンこよる と, la Soci6t6

de l'Histoire de France刊 行 の L'Annuaire histOrique pour l'ann6e 1838 に収録 され て1837年

RenOuard社

か ら出版 され た とい うことであ る。また Parturierの 編集 した メ リメの書簡集の年表には1837年5月脱稿 とあ る。とす る とこの論文 は メ リメのオ ーヴェル ニュ地方調査旅行 (1837年5月25日か ら同年 8月18日まで

)以

前 に書かれ た ことになる。それ までに メ リメは

,監

督官就任 の年1834年 に南部地方

,翌

35年 に西部地方

,36年

に アルザス地方 と三度 の調査 旅行 を済 ませてお り

,Nο

″θ

s♂

ππυりαgθ ごαηs Jθ 臨aJごθ Jα

F″

ηει (1835 年7月

)と

Nοたsグ'αηυのαダ 激zηs′0“′s″ ル ια

F″

ηει (1836年10月

)を

発表 してい る。⑫ この論文に

,我

々は

,

メ リメの中世美術

,

特 に中世宗教建築 に関す る1837年 の段階での基本的 な考 え方 を見 ることがで きるのであ る。 Ⅱ。 中 世 建 築 の 再 評 価 と メ リメの合 理 主 義 メ リメは, Essαグsαr J'αだんルθε′π″ ″JなルαSθ ごπ πονθπ′gθ′αr″グσαJグδra― πθη″′η Frαηεθの中で

,フ

ランスとい う国の形成を十世紀末つま リカペー朝 の成立時 とするギ ゾーの言葉を引用 し

,フ

ランス国民史の始 ま りとフランス最 初の国民的建築様式であるロマネスク様式の誕生 とを重ね合せる。 ローマ帝国 の滅亡後長い間低迷状態にあった建築芸術が

,経

済的

,社

会的

9技

術的条件の 成熟 した十一世紀に再興 した。ただ この ロマネスク様式は

,単

なるローマ建築 の模倣ではな く

,東

ローマ帝国やサ ラセン帝国の建築

,時

代や風土

,国

民特有

(9)

メリメと中世再認識

73

の趣味 な どの影響 を総合 し

,さ

らにはそれ 自体が神学思想 の表現で もあ った中 世独 自の建 築様式 なのだ

,と

い うのが メ リメの主張であ る。つ ま リロマネス ク 様式 は過去か ら学びそれを現代 に生かす ことに よって生れた

,と

考 えるのであ る。 この よ うな過去 に対す る態度 には

,革

命 と伝統 の調和 をめ ざす 自由主義 の 歴史観を見 ることがで きる。 またその根底 にあ る十九世紀的 な歴史感覚は

,歴

史研究 と実用性 を結 びつけ よ うとす るものであ り

,そ

れが

,た

とえば建築にお け る過去の様 々な様式 の再興 とい った現象を引 き起 こしたのではなか ろ うか。 ところで

,

この よ うに歴史的に位置づけ られた中世建築を

,メ

リメは感性 に よってではな く理性 に よって評価 しよ うとす る。 これ は理性 を重んず る古典主 義建 築理論 にやは り理性 を持 って対 抗す る

,つ

ま り

,古

典古代 の建 築 の合理性 を認め る と同時に中世建築 の合理性を も評価す る とい う立場 である。 この見地 か らメ リメは中世建築に古代建築 と同等 の評価 を与 える。そ して メ リメの この 論文 の主要 なテ ーマであ る ロマネス ク様式 とゴシ ック様式 の比較

,そ

の変遷過 程 の記述 において

,中

世建 築の合理性 に光を当て るのであ る。 ロマ ン主義時代の中世趣味の流行に よって中世建築への関心が高 まっていた とはいえ

,一

般 にはそれは まだ趣味 の域 に とどまっていた。 また

,古

典主義, 合理主義 の伝統 が支 配的であ った フランスでは

,中

世建 築は非合理的 な もので あ るが故 に醜 い ものであ り従 って価値 のない ものだ と見なす傾 向が強か った よ うに思われ る。後年 メ リメは

,ス

タ ンダールの中世建築嫌 い

,ル

ネサ ンス好み を指摘 し,そ こにあ る中世建築 に対す る態度 は,ロマネス ク様式 とゴシ ック様式 の内的法則を理解せず アプ リオ リに美醜 の判断 を下す ものだ と批判 してい る。

0

この傾 向に対立す る ロマ ン主義的中世美術崇拝は感覚的 な ものであ ったが

,メ

リメは合理的か否か とい うことと美醜 の問題 とを切 り離す ことで

,独

自の中世 建 築評価 の基準を提 出 したのであ る。 この メ リメの態度 には

,本

質的 には古典 主義的教養に支 え られた美意識 を持 ちなが ら

,そ

の美意識 と一見相反す る中世

(10)

74 メ リメと中世再認識 建 築 の再評価 と取組 まなければな らない とい う葛藤が見 られ る と思 う。 この葛 藤 は

,

ロマ ン主義運動 の中にあ って も生命力を失わ ない合理主義 に内在す るも の であろ う。 もし合理主義 とい うものがいわゆ るブル ジ ョフイデオ ロギーの核 を なす ものであ り

,ま

た フランス国民史 の確立が十九世紀 フランスの ブル ジ ョ フジーに とって重要 な意味を持つな らば

,中

世建築の合理的解釈は 自由主義者 メ リメに とって是非 とも果 さなければな らない使命であ った。中世建築が無知 や 気紛れ の産物ではな く

,そ

の根底 に正確 な知識 に裏づけ られ た合理的精神が 存在す る ことを示す必要 があ ったのであ り

,そ

れ以外の方法で

,中

世建築に対 す る評価 を古典古代の建築 と同等 あ るいはそれ以上 に引 き上げ得た として も, メ リメに とってはあ ま り意味 のない ことだ ったのではなかろ うか。 もっ とも

,本

論 で検討 中の論文 を メ リメは よ り具体的で限定 され た 目的 を持 って書 いた。その最大 の ものは

,少

な くとも様式 の識別がで きる くらい までに 一般 の中世建築に対す る理解を深め ることであ った。それは

,メ

リメ自身が歴 史 記念建造物総監督官 としての 任務を 遂行す るために も 不可欠 な 知識 であ っ た 。① しか しなが ら

,

この識別 のために メ リメが 当初参考 に していたであろ う

de Caumontな

どの研究 には

,1837年

の この論文執筆時にはすでにそれが充分 に合理的でない との理 由で不満を持 っていた よ うだ。藤本康 雄氏 は次の よ うに 言 って この メ リメの論文 を フランス中世建築研究史 の中に 位置 づけて お られ る。「 メ リメの論文 は 〔中略〕コーモ ン等 の考古学的研究 と

,

ヴィオ レ・ ル・ デ ュ ック等 の実践建築学的研究 との中間の美術史的立場 に よって

,前

者 の補遺, 後 者 の誘導 の役割 を果 した と見 られ るのであ る。」ω この考古学的研究 とは

,メ

リメが,

.¨certains d6tails, dans lesquels plusieurs antiquaires ont fait r6sider toute

la dif6rence entre le style byzantin et celui qui a succ6d6 et que l'on nomlne

(11)

メリメと中世再認識

75

と細部重視を批判 しているよ うな

,建

物 の細部 の比較 に よる様式 の分類整理 の 方 法 であ った と想像 され る。それ に対 して メ リメは

,様

式 の生命が細部 にでは な くその内的法則 にあ るとす る。細部 に関 してはその多 くを先行す る建 築様式 か ら継承 し

,そ

れ を新 しい原理 に基づいて再構成す る ことで新 しい様式が生れ る のであ る。 メ リメに とって重要 なのは

,そ

の よ うな形での様式 の確立 を成 し 遂 げたのは中世 の建 築家 の合理的精神だ とい うことなのであ る。

.中

世建築 の合理主義的解釈

ロマネス ク様式 とゴシ ツク様式 とい う細部 において共通す るところの多い建 築 様式 を容易に識別で きるのは

,こ

の二 つ の建築様式が明確 に異な った構成原 理 に従 ってい るか らであ る。

Je me Suis propos6 ... de montrer comlnent les deux styles, byzantin et gothique, 。。。 se confondent pour ainsi dire insensiblement a leur pOint de transition....1'art nouveau emprunta tous ses 616ments a l'art qui le pr6c6da, et le changement d'un seul principe sumt pour d6guiser ces emprunts,

et pour for】mer d'une masse de lnat6riaux 6trangers un ensemble harmonieux

et revetu d'un caractё re original.(Essai. p. 10)

と メ リメは言 う。 もし

,

ロマネス ク様式 とゴシック様式 の構成原理比較 に よる 識別法 が確立 で きれ ば

,そ

れ は方法論 の問題 に とどま らず

,無

秩序 な ものあ る い は神秘的 な もの と見なされていた中世建築の独 自の合理的整合性を認識す る 道 を開 くことになろ う。 事実

,中

世 の建築家 は

,あ

る原理 に基づいて建物全体 を構成 したのであ る。 メ リメの説 明を まとめてみ よ う。中世の教会道 の中に入 ると

,そ

れが ロマネス ク様式 な らば solidit6を 印象づけ られ る し

,

ゴシ ック様式 な らば 16gё

ret6を

感 じる。 これ は中世 の建 築家達がその よ うな印象を与 える よ うに意図 し

,

ロマ

(12)

76 メ リメと中世再認識 ネス ク様式は soHdit6,ゴ シック様式 は 16gёret6とい う原理 に よって統一 され てい るか らであ る。 この原理 を実現す るために

,

ロマネス ク様式 においては, 高 さに対 して幅が広 くで きてお り

,壁

は部厚 くさ らに控壁 に よって補強 され, 空 いた部分 よ り詰 まった部分が多 く

,円

柱 も一般 に太 く背が低 くな っていて, 全体 に 水平線が際立 った 印象を与 えている。 一方 ゴシ ック様式 では

,

建物 の 正面が高 くな り

,建

物全体が仰 向性 を示 し

,背

の高い柱は多 くの付け柱に よっ て実際の直径 よ りも細 く見えるよ うにな ってお り

,

ヴォール トはその細 い柱 の 上 に辛 うじて差 しかけてあ るよ うに見え

,窓

は大 き くな り採光が よ くな ってい て

,

垂 直線が強調 され ている。 この よ うに 全体 として著 しく異なった 印象を 見 る者に与 えなが ら

,そ

の細部において多 くの共通性を持つのが

,

ロマネス ク 様式 とゴシ ック様式 なのであ る。 メ リメは以上 の説 明のあ と

,《

En un mot,

chaque trav6e, dans les deux styles, se compose des memes 616ments:

seulement dans l'une le but des architectes a 6t6 1a solidit6; dans l'autre

la 16gёret6.(Essai.p。 46)》 とロマネス ク様式 とゴシ ック様式 の相違 を簡潔か つ 見事に まとめている。 この よ うな様式変遷 の流れの把 え方 には

,人

間は過去か ら様 々な ものを学 び 取 り

,そ

れ を理性 に よってそれぞれ 自分達 の時代 に生か しなが ら自らの歴史 を 創 り出 してゆ くのだ

,

とい う歴史観の反映 を見 ることがで きる。 メ リメはその よ うな歴史観に よって ロマネス ク様式か らゴシ ック様式への移行 を強引に説 明 して しまった

,

とい う感がな くはない。 しか しメ リメの採用 した方法論 はやは り有効だ った と思 う。 ロマネス ク様式 とゴシ ック様式が

,そ

れ ぞれ合理的精神 に裏づけ られ た思索 と実験 の繰 り返 しに よって完成 されてい った こと

,そ

して ゴシ ック様式が ロマネス ク様式か ら多 くの ものを継承 した ことは間違 いないか らであ る。 ところで

,中

世建 築の合理主義的解釈は

,む

ろん メ リメの独創ではな く

,自

(13)

メリメと中世再認識

77

由主義的 ロマ ン主義者達 の共 同作業であ った。革命以前 の過去 と現在 とを結び つ け よ うとす る自由主義者達 の歴史研究は現在への応用 と結びついていたので あ る。 中世建 築その ものの研究 に関 して言 えば

,メ

リメの進 めた方 向の延 長線 上 に,Violet―le一

Ducが

完成 した中世建築解釈があ り

,そ

れ は十九世紀建築理

論 に大 きな影響 を及ぼ したのであ る。Violet―le―

Ducの

理論 は

,こ

こでは詳述

で きないが

,要

す るに中世建築特 に ゴシ ック建築が力学的整合性を持 った構造 体 であ る と証 明 した ものであ る。

0そ

れ は中世建築の 合理主義的解釈を極 限に まで推 し進 めた ものだ った。 メ リメのオ ジー ヴ解釈は この よ うな方 向での中世建築認識 を示唆す る もので あ る。 オ ジー ヴとい って も

,arc bris6と

い う語を併用 していることか らも分 る よ うに

,メ

リメは半円 アーチに対す る尖頭 アーチの意味で この語を用 いてい る。 当時か ら半円 アーチ と尖頭 アーチ とい う形態的 な特徴 を基準 とし

,尖

頭 ア ーチを持つ ものを ゴシ ック様式

,半

円 アーチを持つ ものを ロマネス ク様式 とす る説があ り

,あ

る意味ではそれが通俗化 していた。我 々は

,た

とえば

,ユ

ゴー の Fノ ー トル 。ダム0ド・ パ リ』 の中の「 ノー トル

=ダ

ム」 の章 な どに よって 当時 の尖頭 アーチ解釈を窺 い知 る ことがで きる。それは どち らか とい うと審美 的 な解釈であ って

,メ

リメはそれ に対 して異議 を唱えるのであ る。

Pour nous, 1'ogive est un 616ment d'architecture applicable a plusieurs styles, mais qui n'est caract6ristique d'aucun.〔 ….〕 L'ogive est un moyen, non un

systさme.(Essaio pe 50) 確 か に

,ゴ

シ ック様 式 が半 円 ア ーチを全 く使 わ ない訳 で は ない し

,

ロマ ネ ス ク 様 式 に も尖 頭 ア ーチ の使 用 例 は 見 られ るの で あ る。 そ の意 味 で は この メ リメの 意 見 は正 しい で あ ろ う。 尖 頭 ア ーチ の形 態 的 特 徴 のみ を もって ゴシ ック様 式 を 識 別 す る基 準 とす るのは無 理 だ と思 う。 た だ

,

ゴシ ック様 式 において尖 頭 アー チ が多用 され た のは事実 で あ る。 この点 に関 して メ リメは

,

ゴシ ック様 式 の建

(14)

78 メ リメと中世再認識 築家達が尖頭 アーチの機能を よ く理解 していた ことに注 目す る。尖頭 アーチ導 入 の理 由はその実用性 にあ る

,

とい う論 を展開す るのだ。 ここで我 々は

,メ

リ メの説を検討す る前に

,現

代の建 築史家 の説 明を参照 してみ よ う。 「 ゴシ ックでは各種 アーチを用 いたが

,最

も盛んに使用 したのは尖頭 アーチ で

,ス

パ ンよ りも直径の大 きい

2本

の円弧を交差 してつ くられ る。 ロマネス ク で慣用 され た半円 アーチでは起洪点 (アーチや ヴォール トの起点

)か

ら立 ち上 が った視線 は頂点で水平 とな り

,対

向側 の起供点 に導かれ て完結す る。 これ に 対 して尖頭 アーチをた どる視線 は頂点を越 えて さ らに立 ち上 ってゆ くよ うな印 象を与 え られ る。 また この アーチは張 り高 さを 自由にで きるのでスパ ンの異な るアーチを組合せて使用す る場合

,頂

点 の高 さをそろえ られ るとい う利点を持 つ。 さ らに半円アーチに比べて推力が小 さい とい う長所 も理解 されていた よ う だが

,こ

れ はあ ま り重視 され なか った らしい。」。ゆ この解説 にあ る尖頭 アーチの特徴 の うち

,メ

リメは まず「 尖頭 アーチは張 り 高 さを 自由に で きる」 とい う点 を尖頭 アーチの 長所 とす るのであ る。メ リメ の説 明を まとめてみ る と次の よ うにな る。半 円 アーチを用 い る とその アーチの 高 さは アーチをかけ る柱 の間の幅に よって決 って しま う。す る と強度 の点か ら 柱 の間 の幅を狭 くす る必要があ る部分

,た

とえば内陣 の半 円平面部 な どでは, アーチの高 さは他 の部分 よ り低 くなる。高 さを揃 え よ うとす る とアーチは半円 で な くなるわけで

,構

造上 の欠陥が生ず る。 この問題 を解決す るのが尖頭 アー チなのであ る。 メ リメは言 う。

ニノogive remёde a tout, en permettant a la fOis de reproduire des courbes semblables et de conserver la hauteur d6sir6e.(E〕 ssai. P. 52)

この メ リメの説 明は完全 な ものではないか もしれ ないが

,上

の説 明 と比べて見 て もほ とん ど問題が ない と言 って よか ろ う。

(15)

メリメと中世再認識

79

もやは り

,尖

頭 アーチは半 円 アーチ よ りも抗圧 力 とい う点で有利 であ るか ら, 不パ ンの 非常 に大 きい アーチをかけ る ときには 尖頭 アーチが好 んで 用 い られ た

,

と言 うのであ る。 メ リメの主張は一応 当を得た ものだ と思 うが

,た

だ メ リ メが上 の解説 にあ る推 力 とい う概念 を どこまで正確に理解 していたかは定かで はない。 メ リメは この意見を実例を見て確認 したのであろ うが

,ア

ーチの高 さ の問題 の時 とは違 って

,な

ぜ抗圧 力の点で有利 であ るかの説 明がないか らであ る。 また上 の解説 に もあ る よ うに

,中

世 におけ る尖頭 アーチの使用理 由の説 明 においては

,推

力の問題 をあ ま り重要視 で きない とい うことも現在 ではあ る。 もっ ともこの推 力

pouss6eと

い うのは中世建築 の解釈上の大問題であ って, ゴシ ック建築の三大要素 とされ る尖頭 アーチ

,

リブ

0ヴ

ォール ト

,飛

梁 は

,こ

の 推 力の 問 題 の解 決 策 として 建 築 史 家 が 注 目 して きた のである。

0な

かで も

,我

々の 目に もつ きやす く

,ま

た 実 際 に 効 果 的に 機 能 してい るのが 飛 梁

arc―boutantであ る。それ と控壁 contrefortに ついては

,メ

リメも次の よ うに 言及 してい る。

..。 pour soutenir en l'air des votttes a une prOdigieusc hauteur, on dut

augmenter successivement les contreforts; il fallut 6tayer de tous c6t6s, par

des arcs一boutants,ces masses pyra]midiales。 (Essai.p.54)

しか しなが らメ リメは

,こ

の飛梁や控壁 を必要 な ものではあ るが教会堂 の外観 を損 うものだ

,

と考 えている。Violet―le一

Ducが

尖頭 アーチ

,

リブ・ ヴォール

,飛

,控

壁 な どの構造力学的機能を理論的 に解 明 しよ うとし

,ゴ

シ ック建 築 の力学的 に完全 な構造 を理想化 して

,そ

こに機能美 を見たのに比べ る と

,こ

こでの メ リメの ゴシ ック評価 はそれ ほ ど積極的 な もの とは言 えない。尖頭 アー チを πηθ θψδε′ル タな一αJJθ

rと

,半

円 アーチを ηοらJ′ (Essaio P。

52)と

し てい る ことな ども考 え合わせ る と

,メ

リメの美意識 はむ しろ ロマネス ク様式を 好 んでいた よ うに思 えるのだ。 ロマネス クか ゴシ ックか とい う選択 は個人や時

(16)

メ リメと中世再認識 代 の趣味 の問題 で もあろ うが

,こ

こでは ゴシ ック建 築に対す る合理的解釈 の不 徹 底 とも考 え られ

,メ

リメの この論文が中世建築の合理主義的解釈 としては過 渡 的 な ものであ った ことを示す もので もあ る。 とは言 え

,メ

リメが 中世建築の合理性 を評価す る点で先駆者 の一人であ った こ とに変 りはない。最後 に

,十

九世紀的歴史感覚 と結びついた メ リメの合理主 義 の好例であ る ゴシ ック様式の明解 な定義を引用 してお こ う。

■メart gothique parut avec un systё me nouveau: il choisit dans l'architecture romane, s'appropria les 616ments d6ja en usage et les perfectionna tous; il

sut composer un ensemble de ces 616ments et l'on ettt dit qu'il les transformait

en le mettant en oeuvre。 (Essaio p。 53)

時 代的 な制約 はあ ったにせ よ

,合

理主義者 メ リメは中世建 築再認識の運動 にお い て大 きな役割 を果 したのであ る。 十九世紀 は ロマ ン主義 の時代であ る。そ して

,メ

リメは フランス ロマ ン主義 の最盛期 1820年 代に精神形成 を終 えた作家であ った。 ロマ ン主義的精神は メ リ メの思想に少なか らぬ影響力を持 ったのであ る。 しか しメ リメは合理主義者で もあ った。 メ リメが

,特

にその晩年

,新

しい文学 を理解 しなか った理 由のひ と つ にその合理主義的精神があげ られ ると思 う。 この ロマ ン主義 と合理主義 との 関 係は メ リメ研究 において重要 な問題 となろ う。そ して注意すべ きは

,当

然 な が ら

,

ロマ ン主義が合理主義を凌駕 した と単純 に考 え られ ない ことだ。 メ リメ の合理主義 は ブル ジ ョワ自由主義 と密接 につ なが っていた。 メ リメの文学 は, た とえば ロラン・ バル トが ブル ジ ョワ的エ ク リチ ュール として批判 した ものの 典 型であ る と言 え よ う。 ロマ ン主義

,合

理主義

,そ

して ブル ジ ョワイデオ ロギ ーが メ リメの思想 の特徴であ る。 び 結

(17)

メリメと中世再認識

81

これ は

,本

論 で検討 した メ リメの中世建築の合理主義的解釈 の近代性 に端的 に現われ ている ことであ る。中世建築をその内的法則に よって理解す る態度や 構造 力学的 アプ ローチは

,不

充分 な ものであ ったか もしれ ないが

,一

応評価 し て よい と思 う。 もしメ リメの進 んだ方 向に根本的 な問題があ る とすれば

,そ

れ は十九世紀的近代的合理主義 に内在す るものだ と考 え られ る。 もっともこの点 に関 して我 々は まだ結論を出す ことはで きない。解決すべ き疑問点が数多 く残 ってい るのであ る。た とえば

,同

じ合理主義路線だ と思 える新古典主義 との関 係

,

逆 に

,

文学的・ ロマ ン主義的 中世解釈 で あ るいわゆ る廃墟 の 詩学 との関 係

,中

世建築 の合理主義的解釈 と文化財の保護修復 とい う現実的 な問題 との関 係

,

もっ と細小 な ところでは

,

メ リメの ロマネス ク指 向に 現われた よ うな,

Violet―le―

Ducの

合理主義的解釈 との微妙 なずれ

,等

々。 こ うい った様 々な面

か らの この問題 の検討が我 々の今後 の課題 となるであろ う。 メ リメ研究に対す る筆者の基本的 な考 えは

,

ロマ ン主義 と合理主義 は切 り離 す ことがで きない とい うことであ る。それは また十九世紀 とい う時代を考 える 時 に もあては まる と思 う。そ の意味で

,

メ リメと中世の問題

,さ

らに メ リメと 歴史 の問題 は (十九世紀は歴史 の時代で もあ り

,メ

リメ自身い くつかの史伝を 書 くな ど歴史 に強 い関心 を示 してい る

)メ

リメ研究 の重要 な分野であ り

,こ

れ か らの メ リメ研究 は

,文

学者であ る と同時 に

,歴

史家

,美

術史家

,政

治家 であ った メ リメの全体像を

,十

九世紀 とい う時代に位置づけなが ら

,捉

えていか な けれ ばな らない と考 えるのであ る。 注 (1)本論におけるメリメの手紙の弓1用はすべて, PrOser M6rim6e:Cο″γιs夕ο%αα%θι gιπιγαJι,edo Mo Parturier,P.Josserand,J.lLIIallion,Volso I一VI,Paris,Lc

Divan,1941-7;edo Mo Parturier,Vols.VII一 XVII,Toulousc,Privat,1953-64. か らとす る (以下 Co G.と略記 し

,そ

の巻 とペ ージを本文 中に記す)。

(18)

82 メ リメと中世再認識

s%γ ノθs αγιs α

%

協レθノ′% agθ , avertisserrlent de Pierre Josserand, Paris,

Flammarion,1967.に収録 された ものか らとす る(以下 Essai。 と略記 しそのペ ージを本文中に記す)。 なお

,河

出書房新社刊行 の メ リメ全集6に, 藤本康雄氏 に よ る日本語訳が 『 フランス中世宗教建築』 として収録 されてい る。 これ は, その 註

,解

説 とと もに本論作製 のために大 いに参考 とさせて頂 いた。 フランスの古文化財保護事業 とその背景 に関 しては主 に,Paul L6on:二α7づθ αθs y。

%%%″

ιsルα%クαづS,Paris,Picard,1951を参考 に した。 また メ リメとの関係 に ついて「は Prosper M6riln6e: ハb′ιsグιT/οノαgιS, pr6sent6es par Pierre―PIarie Auzas,Paris,Hachette,1971に編者が Pr6faceと して付 した くProsper M6ri‐ m6e lnspecteur g6n6ral des Monuments historiques de France〉 な ど も参照

した。

Alexandre Lenoirは中世 の美術品 を蒐集保管 した le d6p6t des Petits― Augus‐ tinsの Garde g6n6alと して中世美術の保存 に貢献 した (Paul L6onの前掲書

pp.68-73参照)。

Robert Bachetは

, メ リメの 父が secr6taireであ った時 に

L'Ecole des Beaux―Artsが couvent des Petits一Augustinsに移転 した ことに 解れて, この中世美術博物館の雰囲気が若 い メ リメに影響 を与 えただろ うと言 つて い る (Robert Bachet:D%Rοπα%ιづsπθα%Sθεο

“αE%クグ'′

ι・ ルfι夕′グzιθ,Paris,

Nouvelles Editions Latines,1958,p。 12参照)。

この ギ ゾーの報告書の一部が Auzasの前掲書

p.8に

引用 されてい る。

メ リ メ の 伝 記 的 事 実 に 関 し て は,Auzas,Bachet等 の 前 掲 書 の 他 に,Pierre

Trahard:二 α ノιπ∽θSSθ グιP,′οs夕θ夕′几fιγづπ ιι,Paris,Champion,1925;Pγ οs夕ιγ

几グιγづ夕γzιθαθ ゴ∂Jイ a F∂J5, Paris, Champion, 1928; Paul ]L6on: 几イιγづ,2oιιιι

sO%ιθπ 夕s,Paris,Presses Universitaires de France,1962;Jean Freusti6:

PγοS夕 θγν ιγづπ ιθ(ゴ∂θJ一ゴ∂7θ),Hachette,1982;Jean Autin:P,′ οs夕θγν ι

'′ づ‐

夕γzιθιεγづυαづπ, αγελιοノοgeιθ, 乃ο,η ,,2ι 0んιづgγι, Paris, Librairie Acad6rnique Perrin,1983。 等 を参照 した。

この年 か ら歴 史記念建造物総監督官が誕生す るまでの間は,メ リメが後年「 《grand vaurien》 で あ った時」 と回想す る時期で あ る (Lettre a Jenny Dacquin,C.G. Vol.HI P。

207参

照)。 なお メ リメが最初 に得 た官職 は chef du bureau du

Secr6tariat g6nttal de la Marine で 凌)る。

この よ うな内面 の安定 とメ リメの文学 との関連 については

,梶

野吉郎氏 の興味深 い 論文が あ る (Kichir6 Kajino: 二αε,′ια″づοηθttιz S′θ

“α

ttαJ θιθttιz Pγ οsクιγ 几グιγづπ ιθ, Tokyo, JiritSu一 shobo, 1980 の 中 の 〈Chapitre prerrlier:Avant la

Litt6rature― Deux Visions du Monde一 〉 彦舞厠a)。 0

(19)

llЭ l10 0う 00 メ リメと中世再認識 83

(9)こ

れ ら二つ の メ リメの主張 は同 じ頃 チエールに宛 てた手紙 に も見 え る(Co G.Vol. IP。 291参照)。

l10 このあた りの ことは

,Paul L6on:ν

′γづ%ιθθJ sο%ιθ%夕s(前掲書)pe 290によ る。 llD ただ

,Paul L6onの

前掲書 な どの 研究書 によって その槻要 をま とめ ることは考 え てい る。 lla 1837年 は メ リメが 二α ttπ%sα'∬J′ι 発表 した年で あ り, この小説 の語 り手で あ る 考 古学者 に調査旅行中の メ リメの姿 を見 ることがで きるで あろ う。 Prosper M6riin6e:ffθ πγづ」Bθノ″θ一NοιθS θ″Sο %υθ%グγs―, in Pογιγα夕s 乃グsιθγづg%ι s θι正ガ′′ιιγαι%γθs,Paris,Calmann― L6vy,p。 186参照。

Lettre a Adrien de JusSieu,Ce Ge Vole p。 315参照。 『 メ リメ全集6』 河 出書房新社

,昭

和54年,p。 529.

引用文 中 メ リメは style byzantinと言 ってい るが, これ は藤本康雄氏の註 に もあ るよ うに (『全集6』 p.452)ロ マネス ク様式 を指 してい る。当時すでに

romanが

用 い られていた よ うだが (メ リメは この論文で

rOmanを

使 うこと もあ る), まだ

用語が統一 されていなか った らしい。

lla violet_le―

Ducに

関 しては以下参照 した。阿部良雄:「歴史 と構造一 ヴォン・

ュック試論

=連

載 I∼ Ⅳ」エ ビステーメー

,朝

日出版社,1978年12月号(I) 年1月号(Ⅱ

);3+4月

号(Ⅲ

);5月

号(Ⅳ)。 鈴木博之:「ヴィオン1ル ・ ク」(『建築の世紀末』晶文社,1977年,pp・ 107-128)。 α⑧ 飯田喜四郎:「ゴシック建築の構造 と空 間」(『世界の建築, ゴシック』

,学

習研究 71L, 1982生F) pp. 99-100。 α

9

飯田喜四郎

,前

掲書 pp.99-102参照。また推力 (横圧力 とも訳 されてい る

)は

, 次のよ うに定義 され る。「 力学的に

,ヴ

ォール トは自ら外に開 こうとす るので

,ヴ

ォール トを支持 してい る両側の壁体や

,大

アーケー ドの柱列などに

,外

側向きの水 平応力を働かせ る。 この力を横圧力とい う。」(神沢栄三氏他共訳のアン リ・ フォシ ョン:『ロマネスクー西欧の芸術1』 鹿島出版会

,昭

和45年 ;同 ;『ゴシックー西欧 の芸術2』 昭和47年

,に

付けられた術語解説の「横圧力」の項

)そ

の他

,阿

部良雄 氏の前掲書の連載I,pp。 232にある 註13にも推力についての言及がある。 一― 関西学院大学非常勤講師一― ´ ァ   79   ツ o   ・9   ユ ル   ・ , 一゛ア

参照

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