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<シンポジウム>エストニア現代史をめぐる論争

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<シンポジウム>エストニア現代史をめぐる論争

著者

メルテルスマン オラフ

雑誌名

関学西洋史論集

32

ページ

7-12

発行年

2009-03-26

URL

http://hdl.handle.net/10236/12875

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エ ス ト ニ ア現代史 を め く

る論争

オ ラ フ ・ メ ル テ ル ス マ ン

エ ス ト ニ ア現代史、 特に1939年から53年の歴史はしば しば、 幅広い論争的話題につ いて議論す る機会 を政治家や ジ ャーナ リ ス ト に与 え てお り、 それ ら が感情的重石 と な っ て、 今日のロ シア と エ ス ト ニ ア と の関係に影響 を及ぼ し て い る。 それ ら の論点は多 く の神話 と 伝説、 明白 な捏造 を含んでお り 、 なかにはま じ めな歴史家 によ っ て し ば し ば 引用 さ れる も の も あ る。 現代史 を め ぐ る論争は双方の社会 を巻き 込んでお り、 一見 し た と こ ろ では、 それ ら の事件 を め ぐ る 「 エ ス ト ニ ア的」 解釈 と 「 ロ シア的」 解釈が存 在 す る かのよ う な印象 が強 い。 異 な る記憶 の文化 が一 役買 っ て い る よ う に も 思 え る。 し か し実際は、 学問的研究の場では架橋不能なほどの対立が存在す るわけではな い。 われわれがこ こ で扱 う のは、 歴史 を め く゛る対立 で あ っ て、 専門的歴史家 のあ いだ の対 立 で は な い。 も ち ろ ん、 そ れほ ど質 の高 く な い無名 の歴史家 のな か には、 ジ ヤー ナ リ ス テ イ ツク な文書 で論争 に加 わ る者 も い る し、 議論 を 沸騰 さ せ る た めに政府 に雇 われ、 金 を受 け 取 る者 も 時 に は い る。 こ の論争 のな かで、 も っ と も 重要 な論点 は どのよ う な も の な のだ ろ う か。 単 な る列挙 に と どま る か も し れな いが、 以下 の諸点 を挙 げ る こ と が で き る だ ろ う 。 ①1934年に確立 し た戦間期権威主義体制の性格 こ の体制 は、 どのよ う に権威主義的 な い し 独裁的 だ っ た のだ ろ う か。 フ ァ シ ス ト 体 制 に近 く 、 ド イ ツ寄 り の も の と し て特徴づけ ら れ る場合 も あ る。 こ の点は、 エ ス ト ニ アが1940年8月 に ソ連邦 に自発的に加入 し た と 主張す る場合に、 重要 な側面 を なす も ので あ る。 他方、 エ ス ト ニ アで民主主義の放棄 さ れた のは1940年 ではな く 、 それに先 立つ 6 年前のこ と で あ っ た。 権威主義体制 を矮小化 し よ う と す る傾向 も存在する。

②1939年と1940年の事件

ソ連期 と は異な り 、 独 ソ不可侵条約秘密議定書の存在が否定 さ れる こ と は、 今では もはやない。 だが、 1939年のソ連軍部隊の進駐 と 1940年のソ連邦への併合は、 引き 続 き 論争 の的 と な っ て い る。 歴史家 と し て 私は、 エ ス ト ニ ア と ロ シアの文書館にあ る既

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知の文書か ら得 ら れる解釈の方向性は一 つ し かあ り え な い、 と 付け加え るべき で あ ろ う。 1939年の ソ連軍部隊進駐は、 ソ連邦がすで にポーラ ン ド東部 に侵攻 し た後の恫喝 と 脅威の結果で あ っ た。 1940年夏 には、 ソ連によ る二度日 の最後通牒が発せ ら れた し、 駐留兵士数の増大は、 実際上、 軍事占領であ っ た。 ソ連に友好的 な傀儡政権が樹立 さ れ、 1940年 8 月の併合は民意に反 し て生 じ た ものであ った。 重要なのは、 1939年から 41年 の事件 だ け で はな か っ た。 エ ス ト ニ ア側は1991年 ま で 継続 さ れ る ソ ヴ イ エ ト に よ る占領 と 捉え、 モ スク ワ側は 「下 か ら の革命」 ない し 自発的加入 と い う 古 い神話 を し ば し ば利用 す る が、 こ れ ら に対 し て われわれは、 双方 の解釈 を その政治的文 脈の中 で 見 な け れば な ら な い。 ③ ド イ ツ に よ る 占領、 対独協力、 ホ ロ コ ー ス ト 1941年 か ら44年 にかけ て エ ス ト ニ アは ド イ ツ に占領 さ れた。 居残 っ て い た ほ と ん ど すべて のユ ダヤ人 が こ の時期 に殺害 さ れ、 地域住民 がこ れに手 を貸 し た。 こ の事実 に は疑 う 余地はない し、 エ ス ト ニ ア人の歴史家 と 特別国際委員会がこ の件について調査 を実施 し て い る。 ロ シア側は、 戦後 の ス タ ー リ ン主義的迫害 の広が り を ど う にか正当 化 す る た めに、 対 ナチ協力 やホ ロ コ ー ス ト 関与 を利用 し て い る。 ド イ ツ人 がバル ト 諸 国におけ る 「自然発生的ポ グロ ム」 に着火す るこ と を望んでいたこ と は、 「行動部隊」 報告書か ら判明 し て い る。 だが実際にはエ ス ト ニ ア で は、 こ れは発生 し な か っ た。 多 く のエ ス ト ニ ア人 は [対 ナチ協力 を ] 「 よ り 小 さ な悪」 だ と 論 じ て い る。 迫害の規模 は、 ス タ ー リ ンの も と よ り ヒ ト ラ ーの も と のほ う が小 さ か っ た の だ が、 だ か ら と い っ て、 武装 S S に属 し て闘 っ たエ ス ト ニ ア人 を 「自由の闘士」 と みなすこ と がで き る だ ろ う か。 こ の件 は、 な お論争中 で あ る。 ④戦争終結一解放か再占領か エ ス ト ニ ア人に と って1944年の赤軍到来は、 1991年ま で継続 さ れる ソ連によ る二度 日 の占領 の始 ま り と 見 な さ れて い る。 ス タ ー リ ン期 には過剰 な テ ロ ルが行使 さ れた。 実際、 1944年か ら45年にかけての15 ヶ月間にわた って、 最大級の粛清の波が発生 し た。 ス タ ー リ ン期の政治的理由によ る逮捕の 4 分の 1 以上がこ の時期に起こ っ たので あ る。 他方、 ロ シア側に と っ て1944年は、 ナチ ス占領か ら のエ ス ト ニ アの解放 を画 す る年 で あ っ た。 ⑤ ス タ ー リ ンの テ ロ ル ス タ ー リ ンがエ ス ト ニ アで行使 し た手段には迫害、 粛清、 拷問、 無実の人 々の逮捕、

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大量強制移住、 大量殺害、 民族浄化、 民間人に対す る犯罪が含ま れた。 一般に、 ロ シ ア側公式機関 も ス タ ー リ ン主義の犯罪性は否定 し て いな い。 それ らは、 記憶の文化 と ナ シ ョ ナル ・ ア イ デ ン テ イ テ イ の中 核的 な事 柄 と な っ た し 、 特 に大 量強制 移 住は そ う で あ っ た。 テ ロ ルの規模は論争中 で あ り 、 犯人 を追跡すべき か ど う か と い う 問題 も あ る。 ス タ ー リ ン的 な殺戮者 と 大量強制移住の組織者はエ ス ト ニ アで訴追 さ れ う る し、 何件かの有罪判決がすで に下 さ れた。 他方、 その人物がロ シア側で 「反 フ ァ シス ト 抵 抗者」 と 呼ば れ る場合 があ っ た。 ⑥記念碑その他の記憶の場 エ ス ト ニ ア では多 く の墓地やほ と ん どすべて の街で、 ド イ ツか ら の解放者の記念碑 や、 そ れ以 外 に も ソ ヴ イ エ ト 的 意味 を は ら ん だ記念碑が見 ら れ る。 そ の絶対数 の多 さ を考 え る と 、 ス タ ー リ ン主義 の犠牲者 や ド イ ツ側 に与 し た人 々が自分 た ち の記念 の場 を要求 し、 ソ ウ' ィ ェ ト 的記念碑が除去 さ れるのは、 了解可能なこ と で ある。 こ う し た 文脈のなかで、 おおやけ の場で過熱化 し た諍 いが始ま り 、 エ ス ト ニ ア人 と ロ シア人 と のあ いだ の衝突 さ え生 じ て、 警察 し か手 を つけ ら れな いほ どの場合が時折見 ら れた。 そ の一例は、 一年 にわた っ て継続 し た タ リ ンの ソ ヴ イ エ ト 記念碑 [ ブロ ンズの兵士像] についての論議で あ る。 エ ス ト ニ ア政府が2007年 4 月 に記念碑 を移動 さ せる意図 をは っ き り 示 し た際には、 示威行動がエ ス カ レ ー ト し、 タ リ ン旧市街で の二日間にわた る暴 動 にま で お よ んだ。 すで に その第一夜 に政府は記念碑 を撤去 し て、 それを軍人墓地に 再建す る こ と を最終決定 し て いた。 歴史的 な神話 ・ 伝説 ・ 捏造はいかに し てエ ス ト ニ ア現代史に入 り 込んだのだ ろ う か。 第一 に、 伝説 と 神話は歴史におけ る ナ シ ョ ナルな語 り につ き も のの構成要素で あ る。 エ ス ト ニ ア で は、 ナ シ ョ ナル な語 り 以 外 の さ ら な る要素 が原因 に な っ て い る。 文 書館 文書それ自体が、 必要な史料批判 を抜き に読んだ場合、 その一つの理由 と な る。 神話 と 伝説が存在す る も う 一 つ の理由は研究史 に あ る。 当初か ら ソ ヴイ エ ト は、 メ デ ィ ア その他の刊行物のなかで事件 と その展開の表象 を操作 し て き た。 ドイ ツ占領期には、 ソ ヴ イ エ ト 支配の初年 につ いて の書物が 『エ ス ト ニ ア人民の苦難の年』 と い う タ イ ト ルの も と 刊行 さ れた。 バル ト 諸国の亡命歴史家 た ちは、 母国 に い る ソ ヴ イ エ ト 化 さ れ た同僚 と 比べて、 少 な く と も現代史 については有利 な立場 にあ っ た し、 情報 も十分に 与 え ら れて いた。 し か し、 彼 ら も ま た あ る程度神話や伝説 を振 り ま いた。 亡命歴史家 は英語や ド イ ツ語で多 く 出版 し たので、 西欧で影響力 を持つ よ う にな った。 1980年代 末以 降は、 エ ス ト ニ ア語 の歴史書 が戦争 と ス タ ー リ ン時代 を広 く 扱 う よ う に な っ た。

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当初、 歴史の 「空白」 が探究 さ れるはずであ った。 民族主義的雰囲気が繰 り 広げ られ、 著者 た ちが 「 犠牲者競争」 に参入 す る場合 も あ る。 新 し い ナ シ ョ ナルな メ タ の語 り を 確立 し よ う と努力する出版物 も存在 し たが、 1990年代中頃以降は質的水準が上昇 し て い る。 構築主義的批判は脇に置 く と し て も、 エ ス ト ニ アの研究史はこ こ で検討 し て い る時期 の扱い につ い て、 かな り 改善 さ れて き た。 政治は時代 の影響 を う け る も のだ が、 こ れ も ま た エ ス ト ニ ア ー ロ シア間 の歴史論争 に独自の役割 をはた し て い る。 こ の分野では問題は、 歴史学 よ り はむ し ろ道具化 さ れ た歴史政策であ る。 ロ シアの場合、 第二次世界大戦の勝利神話 と ソ ヴイエ ト 史の積極 的側面 を前面 に押 し 出す こ と が、 アイ デ ンテ イ テ イ育成 に と っ て重要で あ る。 他方、 エ ス ト ニ ア は独白 の見方 を促進 す る のに き わめて成功 し た。 社会 も忘 れて はな ら な い だ ろ う 。 ロ シ ア語話者 マ イ ノ リ テ ィ は、 さ ま ざま の政治 ア ク タ ー に よ っ て道具化 さ れ て き た よ う に思われる。 し か し、 人 々は自身 の記憶 と 歴史理解 を も つ も ので あ る。 各 人 そ れぞれの見方 が神話 と 伝説 と の組 み合 わせや敵 のイ メ ー ジ を も た ら す が、 われわ れはま た、 歴史 を も っ と多 様に見 た い と い う 要求 に も出 く わす。 若い世代は年長世代 と は異な り 、 後者よ り 鷹揚な見方 を持つ場合がよ く あ る。 さ ら に、 ソ ヴイエ ト 支配が 終結 し たのはや っ と 1991年 のこ と で あ っ て、 その記憶は第二次世界大戦のそれと 比較 し て、 なお生々 し い。 エ ス ト ニ ア現代史論争は、 メ デ ィ アやイ ンタ ーネ ッ ト に も分岐 し て生 じ て い る。 ロ シア の ホ ー ムペ ー ジの い く つ かは、 「正 し い」 見方 を 表現 す る た めの国家 支援 を受 け て い る。 近年 では、 例えばニ ュ ー ス配信 「 レ グヌ ム」 (www.regnum.ru/) が、 「 エ ス ト ニ ア の戦争 記念 碑」 あ る いは 「 エ ス ト ニ ア ・ ラ ト ヴ イ ア ・ リ ト ア ニ ア に お け る フ ァ シ ス ト 的態度」 と 題 し た フ ァ イ ル を公表 し た。 こ れ ら の フ ァ イ ル を読 む と 、 エ ス ト ニ ア そ の他 のバル ト 諸国 が プ ロ パ ガ ン ダ的攻撃 のや り 玉 に さ れた こ と が理 解 さ れ る。 タ リ ン の記 念 碑撤去 の可 否 が議 論 さ れ た 際 に ロ シ ア下 院 は、 「 フ ァ シ ズ ムの プ ロ パ ガ ンダ」 を支援 し て い る と し て エ ス ト ニ ア当局 を非難 し た。 ロ シアの新聞雑誌では、 一部 ジ ャ ー ナ リ ス ト がロ シア語話者 マイ ノ リ テ ィ の命運 を歴史論争 に関連づけ、 エ ス ト ニ アは民主主義国家 か ど う か を問 いかけ た。 一般向け記事の中 で ロ シア の歴史家 レ オニ ー ド ・ ムレ ーチ ンは、 バル ト 諸国 に対 す る ロ シア の態度 を こ う 特徴づけ て い る。 「 バル ト 三 国 は小 さ く う ら びれた ほ と ん ど フ ァ シ ス ト 国家 で あ り 、 ロ シ ア を憎 み 『外 国人』 [ ロ シア語話者住民] を二級階級だ と 宣言 し て い る。 率直 に言お う。 バル ト 諸 国は、 三 つ の理由か ら愛 さ れな い。 第一 に、 彼 らは真 っ先 に ソ連 を去 っ た。 『恩知 ら ず ! 』 第二 に、 彼 らは自分 た ち を西側の一部 だ と 考 え て、 慌て て ヨ ーロ ッパ連合 と N A T O に加盟 し よ う と し た。 『敵 に加勢 す る のか ! 』 第三 に、 彼 ら は 『占領』 期間 に

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つ い て領土的 ・ 財政的要求 を出 し て い る。 それ以外 に も何 も か も が、 ロ シア人がそ こ に い る こ と に不満 を抱 い て い る 結果 な ので あ る。」 ' 2007年 2 月 にモ スク ワでは、 バル ト 諸国によ る歴史告発への対応 を議論す るために、 歴史家 「円卓会議」 が も たれた。 こ のグルー プの結論 と 勧告は示唆的 で あ る。 バル ト 諸国の歴史家は第二次世界大戦史 を書き替え、 ソ連邦 と ロ シア国民に攻撃者の役割 を かぶせ よ う と し て い る、 と い う ので あ る。 ソ ヴ イ エ ト の 「占 領」 と い う 捉 え方 が彼 ら に よ っ て強化 さ れて い る。 ロ シア政府は歴史 を歴史家任せにすべき で はな く 、 「歴史 上の重要問題に たい し て国家 の政治的立場 をは っ き り 」 と 表明すべき で あ る。 独 ソ不 可侵条約は再評価 さ れるべき で あ り、 1989年以降の否定的評価は正 さ れる必要があ る。 バル ト の歴史家の圧倒的多数は国家 に依存 し てお り 、 バル ト 諸国政府によ るエ セ歴史 学的議論 と ロ シ ア系 マ イ ノ リ テ ィ 差別 を支援 し て い る。 言 い た い放題 に さ せ な い た め には、 文 書館への ア ク セ スが制 限 さ れ る べ き で あ る。 バル ト の歴史学研究 に は教条主 義の傾向があ り 、 自分た ちのイ デオロ ギー的世界観に合致 し な い文書 と 事実 を無視 し て いる。 可能性 と し て一 つ あ るのは、 大規模な調査研究 と 出版企画 で あ ろ う。 こ う し た こ と が、 「円卓会議」 によ る提言 だ っ たので あ る 2。 エ ス ト ニ ア歴史委員会 と 歴史家、 エ ス ト ニ アの歴史 と 記憶の政治は、 批判 さ れて も し かたのないよ う な機会 を多 く 提供 し て い る。 全出版物力 方法論的 に妥当 な高い質 を 備 え て い る わけ で は な い。 ロ シア と ロ シア人 が あま り に も 否定的 な光 の当 て方 を さ れ て表現 さ れる こ と も し ば し ば見 ら れる。 し か し、 論争中で ソ ヴ イ エ ト 的捏造 を用い よ う と す る ク レ ム リ ンのや り 口 は、 歴史政治 の機微が よ く 理解 さ れのか ど う か、 そ う し た疑義 を い だ かせ る。 歴史論争中 では政治 と 伝説 を後景 に退かせ るのがよ いだ ろ う。 歴史上の出来事はよ り 多 く の複雑 な も の を は ら ん で お り 、 よ り 多 様 な解釈 を必要 と す る と い う こ と 、 こ の こ と を想起 し てお く のが適切で あ る場合がよ く あ る。 特に、 1940年代と50年代の事件 や展開 を歴史化す る こ と だけが、 歴史 を め ぐ るエ ス ト ニ ア = ロ シア間の論争 にみ ら れ た 「交通封鎖」 を克服す る機会 を提供 し て く れる。 エ ス ト ニ ア と ロ シアの社会 と 政治 家 が近過去 の歴史化 を で き る だけ の成熟 を遂 げて い る か ど う か に よ っ て問題 は異 な っ て く る。 現代史 をめぐ るエ ス ト ニ ア = ロ シア間の対立の場合、 論争は主 と し て政治的 起源 を も つ と 筆者は考 え て い る。 (橋本伸也訳)

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M arch 2007, p 4; Russian original, Rossiia i Pribaltika: v plenu prosh1ogo, 22 M arch 2007, http://rian.ru/analytics/20070322/62433429.html (10.08.07)

Rekomendatsii rossiisk ikh istorikov: “Rossiia i Pribaltika: kompetentnye otvety na istoricheskie

pretenzii limitrofov”, in: IA Regnum, 2 May 2007, http://www.regnum.ru/news/821909.html

(10.08.07) .

参照

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