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第36号
祖山学院50周年記念号
日蓮聖人御帰倉より身延御入山まで 日蓮聖人に於ける遊徳的次元(後篇) 日蓮聖人に於ける「願」の研究 法華経解釈に於ける吉蔵の法雲批判 女人成仏一変成男子について− 法華経に現れた神通 仏教保育の基本問題 釈尊の敬慶に思う 華北農村の家族制について 中国に於ける近代革命思想の発達と清朝の滅亡 について ヘミングウェイに見る生と死なるもの 祖山学院回顧録 松木本興 室住一妙 上田本風 里見泰穂 望月海淑 長谷川義浩 秋山智孝 猪俣康光 町田是正 ] 12 29 43 68 79 87 99 106 堀 一男121 大森 林 孝138 絆139 是身延山短期大学学会
日蓮聖人は、久遠の本師釈迦牟尼仏の本弟子として、沸季末法に於ける法華経弘通を以て根本使命として居られ、 遣使還告・塔中別付唱導の上首として、貞応元年︵一二一三︶二月十六日︵大陽暦四月六日︶法華経有縁の国たる日本国 に応生。建長五年四月二十八日、︵一二五三、大陽暦六月二日︶立教開宗、留難重挫の御化導に終始せられたる中、文 永十一年︵一二七四︶三月佐渡より鎌倉に帰られ、五月十二日鎌倉を御出発上ハ月十七H﹁かりそめ﹂の庵室成りて入 山なされ、弘安五年︵二一八二︶十月﹁いかなる主上女院の御意なりといえども山の内を出てまじき﹂身延を発足され て十月十三日︵大陽暦十一月二十一日︶池上に御入滅せらる上迄の御生涯を。幼年期⋮貞応元年一三三l天福元年三一 三一宝月十二日。修養期⋮天福元年五月l建長五年四月。伝道期:立教開宗I御入滅迄:と三分し。更に伝道期を、 序分⋮鎌倉期、正宗分⋮佐渡期、流通分⋮身延期の三時期に区分する事は自他共許の班であるが。正宗分の佐波期中 に於いて序・正・流通の三時区分を示す事は姉崎正治博士の著﹁法華経の行者日蓮﹂の中に主として文永九年︵一二 七一一︶の開目妙を中心として生死一大事血脈抄、草木成仏口訣、阿仏房御沓、佐波御杏、得受職人功徳法門等の人開 顕を示せる時期を序分とし、次で文永十年︵一二七三︶四月二十五日の観心本尊抄を中心として、二月十五日の法華綴 内証仏法血脈、妙法曼茶羅供養事、五月十七日の諸法実相抄、全月の如説修行抄、閨五月十一日の顕仏未来記等の主
日蓮聖人御帰倉より身延御入山まで
松木本興
、 (1 )’二九一通’一三一五頁 これに見るも足かけ二十二年間に於ける鎌倉︵修養期の戒体義をも含めて︶佐渡期合して一四一邇八○八頁の御妙 判に対して、生活環境の相異も勿論あるが前後九ヶ年間に二九一通二二五頁に及ぶ御遺文を拝し得る事は注意しな くてはならない。聖人の教義・宗要の所謂本化別頭の教観の顕すべきは己に佐渡に於いてなされて居るから身延に於 ける御指示は法華経の生活化にあられた、即ち生活と宗教の面こ對する那醐砿多、Dでらる〆、 即ち生活と宗教の面に関する部類が多いのであるが、 ’二九一通’一 として法開顕の時期を正宗分中の正宗となし。更に文永十年後半に当る七月八日︵大陽暦八月二十八日︶本尊始顕を中 心として七月六日の富木殿御返事、八月三日の波木井三郎殿御返事、当体義抄、翌十一年正月の訶資誇法滅罪抄、全 十四日の法華行者値難事、二月十五日の授職沸頂口伝抄等御選述の時期を流通分とする。是は正宗分中の三時期であ って身延期は御一代中に於ける総流通分である。之は私見であるが上行菩薩日蓮聖人が釈尊の本弟子として、末法五 濁闘課の時に於ける法華経弘通を使命とし給ふより考へて、過去遠々劫以来現在の修養期迄を序分とし、立教開宗よ り佐渡期の終迄を正宗とし、此の正宗中に留難に週はる典度に開顕し給へる別頭の大法を結束して末代に流布せしむ ぺく其の中心拠点としての根本道場を莫定せられたのが総流通分たる身延期と拝する事は出来ないだろうか。 cc●■9●●●●GQ6■■●。●●■CGO●●●●■●●●。●・CO●●■●ゅ■●、G●0●●●●e■●●●●●。●●ゆe●。■●●。。●C●CD◆■Oeゆ●■。●●●●●■■も。●0●●●申●●■口昏GOO■血■ 今試みに昭和定本日蓮聖人遺文一・二巻に収められた御遺文に依るに
序分l雛倉期l建長五年金︶l文永八年十月︵鋤︶i九十一通︵含戒体義︶
一一四三通’八○八頁 正宗分l佐渡期1文永八年罰︶寺泊御謹l全十一年四月弱︶未篤天聴御諜’五十一通 流通分l身延期l文永十一年五月︵卵︶l弘安五年寂︶︵一四四富木殿御番’四三四波木井殿御遮 I (2)此の身延へ龍山せんとする御心持はいつ頃起されたものか、 始めは身延と限定せず、かって御遊学の当時、親しく見聞せられた伝教大師の比叡山、弘法大師の高野山にも劣ら ざる山中に身を隠さんとの御心持はいつ頃から起されたのか。これについては今更ら事新らしくいふ迄もなく巳に先 師・先輩の人等の云ひつくせる如く、文永十年一月二十八日の最蓮房への祈祷経送収︵昭六八九︶に依るに。 御山舗ノ御志シノ事凡そ末法折伏の行に背くといへども病者にて御座候上、天下の災・国土の難・強盛に候はん時、 我が身につみ知り候はざらんより外は、いかに申候とも国主信ぜられまじく候へば日蓮尚寵居の志候。まして御分 たとへ のさこそ候はんずらめ。仮使山谷に寵居候とも、御病も平愈して便宜もよく候はr身命を捨て弘通せしめ給ふく と、示されて居る。文永九年二月の頃、日蓮聖人の教に帰し、四月八日妙法の本円戒を授かってからは益々信解増進 した最蓮房が、恐らく新春の挨拶に托して、私も末法々華経の行者として折伏弘通に従事すべきであるが病身の故に 人里離れた山谷に所して法華経を修行したいと思ふが、といふお伺ひに対しての御返事であって。山寵といふ事は末 法折伏弘通の行には背くが病者では到底堪へ得ない事でありましょう。日蓮でさへ、予想外の事でもない限り、いか に日蓮が申しても北条幕布が信じようとは思へないので何処か山の中へ這入らうと思ふて居る。況やお前さんとして は無理ない事と思ふ。との意味で、最蓮房の山篭の意志あるに托して御自分のお心持を示されたもので、法華経の行 者として今生になすべき事を成し終ったら山林に籠居すべしとは己に文永十年早春に決意せられて居たのである。 更に此の御遺文と照合して拝すべきは、建治元年七月十二日の高橋入道殿御返事︵昭一○八八︶で 真言宗と申す宗が、うるわしき日本の大なる兇咀の悪法なり。弘法大師と慈覚大師此事にまどいて、此の国を亡さ Iし0 (3)
たこ んとするなり。設ひ二年三年にやぶるべき国なりとも、真言師に祈らする程ならば一年半年に此国せめらるぺしと こ加ほど 申し聞かせ候き。たすけんがために申すを此程あだまるLなれば、ゆりて候し時さどのくにより、いかなる山中海 辺にもまぎれ入るぺかりしかども、此事をいま一度平ノ左衛門に申しきかせて、日本国にせめのこされん衆生をた すけんが為にのぼりて侯き。又申しきかせ候ひし後は、かまくらに有るべきならねば足にまかせていでし程に云云 と、一年前鎌倉を離れし当時を追懐して居られるが﹁ゆりて候し時さどの国より、いかなる山中海辺にもまぎれ入る ぺかりしかどもいま一度平ノ左衛門に申しきかせて﹂と述べられて居られる所から推するに、入山舗居は佐渡在島中 からの予定の事であったと思はれる。種々御振舞御書︵昭九七九︶撰時抄︵昭一○五三︶光日房御書︵昭二五五︶報恩 抄︵昭二三九︶下山御消息︵昭二一三五︶等の御文を拝するに、三諫容れられざるが故に世を遁る。の意が強調せられ て居るが、﹁三諫﹂とは儒教的行為に托せられたもので、法華経の行者としては第二義的な行為であり、よしや世法 即仏法の御主義に依るものとしても、第三誠に其の御主張の容・不容をかけられたとは思はれず、﹁我が身につみ知 り候はざらんより外は、いかに申し候とも国主信ぜられまじく候へば日蓮尚徹居の志候﹂とは、佐波以来変らぬ型人 の御心持であったので、﹁上下共に用ひさりげに有る上、本より存知せり、刷恩を報ぜんが為に三度までは諫暁すべ し。用ひずば山林に身を隠さんと思ひし也。︵昭二一三五下山御消息︶で、正宗より流通に移る結前生後として御化道 に一シのけじめをつけられたのが第三諫であって軽視する事は許されないが、これに成功?しなかったから遁世を決 めたのでなく、成功するなどとは本より考へず、世上日蓮聖人は政治に失敗し失望落騰の結果山に入られたといふが 如きは皮相な考へとしか思はれぬ。﹁いま一度平ノ左衛門に申し聞かして﹂の用件をすますと同時に龍山の心仕度に かLられたのではあるまいか。 (4)
◆●●■■凸●●cee●●O●CO●e●。●●●申●0●●●巳●●●●●●■●●甲。④C■、●。。●●、■●●●●●。●●■■、●●●●●●●。●●●●●●■●●●●●●●句●●申■●●●●甲。●●Q●申■0。●● 一 ○ ● 画 我等が本師釈迦牟尼如来は在世八年之間折伏し給ひ、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年。今日蓮は二十余 年の間権理を破す。其間の大難数を知らず。仏の九横の難に及ぶか及ばざるかは知らず。恐らくは天台伝教も日蓮が 如く大難に値ひ給ひし事なし。︵如説修行鍵昭七三六︶。︵聖人御難事、昭一六七一同意︶と示し給ふ如く、建長開宗以 来﹁両度の御勘気、遠国に流罪せられ、竜口の頚の座、頭の疵等、其外悪口せられ、弟子等を流罪せられ、寵に入れ られ、檀那の所領を取られ、御内を出されし、是等の大難には竜樹天台伝教も争でか及び給ふべき。︵前引如説修行 妙速文︶と御自ら述べ給ふ如く留難重畳の二十余年であられ、然も伊豆も佐渡も他動的に流罪の身としての遷居であ ったが、此度鎌倉を離れるといふ事は、自ら選び給ふ自動的行為であられた。従って是を発表し給ふや。﹁今山林に 世を遮れ、道を進まんと思ひしに、人々のことば様々なりしかども、芳々存ずる旨ありしに依って当国当山に入りて 己に七年の春秋を送る。︵四条金吾殿御返事、昭一八○○︶と、身延へ入られて七年目の弘安三年十月八日に述べら れて居るが、﹁人々の語様々なりしかども労々存ずる旨あり﹂との御文意は、鎌倉をお去りになるなら私の方へと、 下総の富木、富士山麓上野の南条、伊豆に土地を有して居たらしい四条金吾、武蔵の池上、甲斐の南部等の諸氏の招 諦があったと古来伝へられて居るが当然の事と思はれる、﹁労々存ずる旨﹂とは高橘入逆殿御返耶を拝した凱持から すれば、日蓮が行った為に迷惑をかけてはならないので、それを避けようといふ御心持ではなかったか、それと比叡 ・間野に劣らない深山が欲しい、そういふ御気持で、甲斐大井ノ庄の生れである日興上人並に今諏訪の久本房等の勧 めで甲斐の国へと志されたものと思はれる。 ●●●■●●①●●●●●、●白●●。●●●●■●申●CO●●●●●。●●申●、由0s4●●●●●0日。●●●●。。■●。●●G●●●OG■■●。■●●●●合●■●●■●●●Q●●e■●●●●。●●e●●■●● (5 )
京都に居らる上三木浄達君が身延在学中、日蓮聖人の歩まれた鎌倉から身延への御足跡の霊場を特に昭和十二年五 月十二日鎌倉を発ち草鮭に身を托して参拝し其の紀行文を棲神と身延教報︵昭和十年十月号︶へ投稿された事がある。 惜しむらくは六月二十四日鎌倉発全二十九日身延着の日程を選んで頂くと気候なり山野の景色が日蓮聖人のお歩きに なられた頃に近かったのではないかと今にして思ふのは欲が深過ぎる上に、六日ならで八日九日の菖蒲といふところ か。更に古いものとしては、高祖年譜孜異︵日蓮宗全書中日蓮上人伝記集所収︶あり、別頭統紀七之巻の此の間の記 事は再考を要すべきものあるを見る。御遺文に けかち︵飢渇︶申スばかりなし。米一合もうらず。がし︵餓死︶しぬべし。此御房たちもみなかへして但一人候 くし。このよしを御房たちにもかたりさせ給へ。 十二日さかわ︵酒輪︶、十三日たけのした、十四日くるまがへし︵車返︶、十五日ををみや︵大宮︶、十六日なん ぶ︵南部︶、十七日このところ︵波木井郷︶。︵富木殿御書、文永十一年五月十七日、昭八○九︶ と、先づ道中を通じての食綴の困難を述べ、次で行程を示されて居るが、お課きになった順序から云へば、行程が先 きで、道中の困難は般後に添諜されたものではないかと惟はれる。此の行程については、三木君の紀行文に﹁宿から 宿への道程が略十里内外で、極めて自然の一日︵行︶程の距離である。﹂と郡て居らるくが鎌倉を出られてから六日 間何等左顧右肘することなく粗十里づっを歩まれて波木井郷に着かれて居る点から見て、波木井の郷主南部六郎実長 公を頼りとして鎌倉を出られた事が合点出来る。﹁十二日酒輪﹂の輪は現在は匂につくる。日蓮聖人は、別頭統紀巻 七に依るに、興・向・頂・持・心の五弟子及び久本房、熊王四郎は荷宰領として、七名を随へられて十一百鎌倉を出 発せられ、同夜は酒輪河畔の地蔵堂に泊し︵現在小田原市酒匂法船寺は其の霊跡︶、翌十三日は道を足柄路にとり、 (6)
同夜は駿東郡竹ノ下鈴木繁八の家に宿、弘安五年九月十四日亦此に宿す子孫尚存すといふと年譜孜異は記して居る が、三木君の記に依ると子孫も文献も無いといふて居る。小田原藩の弾圧に累せられた為といふ。加藤清正が小田原 征伐の時此の地に来り、一堂を建て入御霊跡を顕彰し後慶応年間本門法華宗の日宥師が復興して自ら開山となったの が現在の常唱院であるといふ。十四日の車返といふのは、沼津三枚橋の近くに在ったと伝へる三枚橋道場に御一泊な されといふ。十五日大宮といふについて、別頭統紀は、十三日車返に止、駿州富士郡大宮ノ庄野中村に由井氏五郎入 道なる者あり日興の旧識なり。日興これに通ず入道出で迎へ大に喜ぶ、十四日由井入道が家に入る。入道受戒得法 す、後に高祖の木像を造て之を崇め宅を捨て興に授けて寺となす。興曼茶羅を図して之を記す今の妙覚山大泉寺是れ なり云云といふに依れば、十三日の竹ノ下を抹消して車返となし、十四日に由井入道宅とし。十五日を同じく大宮ノ 庄柏酒に泊すといふは何ふした事か。若し柏酒に泊したとすれば、由井入道宅は御立寄り程度ではないか、十六日の 内房の本成寺も御一泊といふ事になって居るが︵統紀︶年譜に﹁十六日内房に憩ふ一老尼あって雄を供す﹂といふの が無難ではなからうか。伝ふる所内房四詠︵聖人・西行・日遠上人・草山元政和尚︶なるものあるも、筆者には歌道 はわからないが、富木殿御書に﹁十五日ををみや、十六日なんぶ﹂といふ御文に依れば内房に御少憩で世にいふ所の 御掛錫の霊場であるまいか。姉崎博士が﹁十六日は南部郷内房で信者の家に泊し﹂といふて居るが、内房は南部郷で はない。﹁十六日なんぶ﹂と富木書に記されて居るのは現在の山梨県南巨摩郡南部町南部の地で内房は静岡県庵原郡 に属して居る。南部は南部六郎実長公︵俗称波木井公︶の父源光行此の地を領し南部氏と称してから子孫皆南部氏を 姓とするに至ったので現に此に城趾と屋敷跡を存して居るが、其の系譜を見るに、
清和重l燕親王書和重美筆︶l茎宍菫と号し、始めて鑿を翌︶1滴仲l蕊I頼信14
(7)此の南部家は実継︵地引御書に、次郎どのらの御公達といふは此の彦次郎実継公を指す︶公以来政光公に至るまで 累世南朝に忠節を尽し悲想なる絵巻を展開したのであるが、元中九年即ち北朝明徳三年︵一三九二︶後亀山天皇将軍 義満と和を結ばれて京都に入り嵯峨大覚寺に届し、三種の神器を後小松天皇に譲り落飾して後旭山院と称された。此 の時南朝の臣にして降伏する者多く敵する者は滅亡する有様であった中に政光公は嫡家南部守行︵森岡南部氏︶が足 利義満の密命を帯しての勧誘にも応ぜず、二君に仕ふるを恥ずとして甲州波木井郷等の領地を捨て、南朝より賜りた る奥州八戸に退いて孤忠を守り爾後子孫其の節を守り今日に及んで居る。日通聖人の時代には此の南部の地も波木井 南部家の支配下にあって嫡家南部氏の屋敷だけが残って居たのではないか。聖人は此の地の大日山妙楽寺へ泊され、 寺主宗を改めて延寿山妙浄寺といふ、境内に現に御硯水の井戸を存す。十七日横根︵桜清水の井あり寺を実教寺とい ふ︶相又に粟飯の霊場大石山正慶寺があるが、果して聖人が現在の相又河畔の正慶寺の所を通られたものか疑問であ る。正慶寺は粟飯を聖人に供養した史正左衛門の妻後の妙了日仏尼が現在の処に建てたのかも知れないが、聖人は横 蒻学司 浅光︵所罷三郎﹀I義 (8)
根から榧ノ木峠を通られ、中山の尾根伝ひに現在の梅平に出られて南部家の館に入られたものと思はれる。波木井城 即ち梅平城に関しては、享保四年︵一七一九昭和三十七年より二四三年前︶八月八日、八戸若狭守の使者として西村吉左 衛門が遠野発足、江戸を経て同二十六日身延に若し、二十七・八両日本山参拝、二十九日山本坊の案内で梅平へ趣き、 実長公御屋敷旧跡、お城、実長公墓所、等に詣で、南部に行き、御城山、嫡家屋敷跡等を視察し、録商を記して波木 井郷二百石、南部六郷の録高として本郷六百石、塩沢二百石、成鳥四百石、大和二百五十石、中野三百五十五石、南 部四百五十石等と記して居る。︵西村文番南部家文書二一︶又字夫方平太夫が八戸南部家の御代拝として身延へ使し た記録も南部家文書に収められて居る。 実長公は彦三郎世人三郎と呼ぶ故に後六郎と称すといふ。聖人の御賜番の中に、甲斐国南部六郎三郎殿御返事とい ふのは新旧両名を併称したものだろう。 聖人が中山尾根伝いに梅平の南部家に入られたとすれば、逵嶋の聖人と実長公との誰山の契約は何ふなるかといふ に霊山の契約は髄にあったと思ふ、又無くてはならない事だが五月十七日ではなくして六月十日前後か、或は六月十 七日開開会の当日ではなかったかと考へざるを得ない。南部から身延へは略二里であるから、十七日の午後は割合に 早く南部家に着かれた聖人は、早速無を執って手紙を書かれたのが前引の窟木殿御香であるが、前引の連文に いまださだまらずといえども、たいし︵大旨︶はこの山中心中に叶て候へば、しばらくは候はんずらむ。結句は一 人になて日本国に流浪すべきみ︵身︶にて候。又たちとどまるみ︵身︶ならばけさん︵見参︶に入候くし。 恐々謹言 十七日
日蓮花押
(9)と、述べられて居るが。十七日此の波木井の郷へ着きましたが、未だ何ふなるかわかりませんが、大体此の山中が気 に入りましたので当分は居る事になりましょうが、つまるところは一人法師になって日本中を流浪する様な事になり ましょうが、此所に永く留る様な事になりましたら、お目にか上りましょう。といふ御文意と拝する。鎌倉出発の当 初から身延山を永住の地と定めて居られたのなら、其の身延の地波木井郷へ到狩せられたのに﹁いまださだまらずと いえども﹂といふ御言菜は無い筈である。甲州は山深い処と聞くから、兎に角甲州へ行って見様、甲州には南部氏が 居らる上から一往南部氏を頼り、南部家に着いてから後々の事は考へ様として、毎日略十里宛を歩かれてまつしぐら に波木井郷まで来られて、南部の舗から眺めた身延の山は実に衆附らしいので﹁大旨は此の山中心中に叶一・遥候へば、 しばらくは候はんずらむ﹂といふ感懐になられたものと忠はれる。だから五月十七日は身延入山でもなく、当時の道 ぱざ室 筋から勘へて逢島迄実長公が出迎えたとは思はれない。一ヶ月後にお這入りになった御庵室は、岩の間松の下に造ら れた。屋根は萱ぶき四壁は木の皮をはいだ物を張りつけた三間四面十二本の柱といふかりそめの半作の御庵室といえ ば聞えはいひが山小屋が、五月十七日霊山の契約があって約一ヶ月費して建てられたものとは思はれない。実長公は 先さに挙げた波木井郷と南部六郷丈でも二千四百五十石の財を持ち、其外小田・船原・相又・福士・緒根等の領地と 広大な山林を有し、八ヶ岳山麓にも領地が有ったと思はれるのに、一ヶ月を要して仮半作の小屋しか出来なかったと はおかしい。説教師が、庵室造営には一ヶ月を要するだらう、其の間を利川して甲州を遊化したといふのは訂正しな くてはならないだらう。﹁しばらくは﹂と記された通り、一週間程は南部舘に洲在されて、五月二十四日、扶桑沙門 日蓮述之として発表されたのが法華取要抄であるが、関本恩師は甲州遊化中の作ではないかといはれ、或師は鎌倉で
ときどの
(10)にLごみり 御述作波木井郷で発表といふて居るが今は南部舘として置く。そして二十五日頃波木井を発ち、土地を求めて、西郡 ひ齢しごうり 筋から信州路に入り、踵を返して東郡を経て約二週間、やはり身延以上の処はない、身延こそ法華経の道場建立の地 として峨も応しい山だとして、再び梅平の舗に草職を脱がれたのは六月十日頃ではないか。此の甲州御遊化について 御遮文に一言も書かれて居らないし、信蝋すべき古文書もないので単なる伝説に過ぎない、と一蹴する人も居るが、 伝説も荒唐無稽なものは勿論不可だが、史実と照合して信じ得る伝説は尊重すべきだと忠ふ。 再び聖人を迎へた南部実長は何んなに喜ばれた事であらう。早速地を相し、聖人の御指示のまLに庵室造営に着手 し、その梅平への帰るさに現在の総門の辺りから身延の山を振り返りこLに瀧山の契約があったのを弘安五年十月七 日の波木井殿御番は五月十七日の事としたものだらうが、実長公としては五月十七日自分の館に犯人をお迎えした時 に身延山寄進を心中に誓って居た事であらう。因みに南部家文書中の西村吉左衛門覚諜に次で、日補︵身延山第三十 四世︶書状が収録されて居るが、それに依ると身延山十三里︵六丁一里・九丁一里が三十六丁一里に非ず︶四方の山 岡入の外に大城山・相又山・赤沢山の桧の用木を身延山の用木として実長公より御寄附になり、後穴山梅雪南部家の 旧価を領有する時もこれには手を触れず、家康の代になり下役人等が之を奪取すべしと主張せるも江戸公儀之を許さ ず、身延山の大堂、或は修補等にも右三山の用木にて建つ云云といふ。尚実長公身延寄進状は聖人滅後永化年間にな って居るが、これは後々の為に文書として残されたもので御寄進の事実は型人御入山当初であらう。 (11)
H蓮聖人の御一代、六十年、前半は人間的凡常性に発誕、正常性における疑惑が、いよいよ三徳・四恩のめざめに 杣耶かけ、すべて伝統情実を超えて、叡智的究明に没頭。人倫普遍の道徳次元を、さらに上求菩提に志向し、世界教 学の究明を経て、本仏久遠常住の自覚と信仰が確立したのである。そこから降って歴史教学の追究と批判から、末法 法滅の時、誇法亡国の現実を見出す。こ上に現実の身に仏知見を開いてこそ始めて、時代社会も救はれ、自然界の変 本誌前号にも、ちょっとふれたが、はじめ今の標題で、日本仏教学会年報︵昭和冊六年第什七号︶に前箭を発表 し、次にこの前提内容を一般的本誌前号に﹁道徳的次元の問題﹂叙べた。今回のは、前篇につrく、結論的なもので、 論述の便宜上、多少重複してをることを御諒察願う。なほ、志ある人には、以上三篇併読の上、何分の高評を乞いた いと念う。
日蓮聖人に於ける道徳的次元︵後篇︶
は 一 し が き室住妙
(12)〆 なほ、こ&に、なぜ実証を要するのか。それも殊に、献身性を条件とするのか。という必然的関連について、もつ とつっ込んで考えたい。 後半生㈲鎌倉中心の伝導、自覚の献身的実践。 前半生立教開宗に至る、叡智的自覚。 ロ佐渡在島期.献身的実践による実証。︵開顕・現実的超現実的︶ 伺身延期.実証開顕に本づく永遠の使命︵願業・歴史的超歴史的︶ 幼少時の疑問のうち懐かれていた立正安国の理念は、いよいよ明かになり、理想への主体性が誕生したのである。 後半生は、たしかに、この主体的行動である。また、即身成仏、自体の実証でもある。凡そ自覚者の行動は、ごく 向然に、自発自展するのであらうが、今の我々にとっては、その間に、周到な用意・配慮があり、非常な決意の段階 があったと見てもよいであらう。こLに多少の吟味を加える所以である。 そこで、前半生を自覚、後半生を実証と、大きく規定づけるとして、こ入にいう実証は必ず、献身的実践が条件で ある。おほよそ、献身性の閃き徹るところ、個々の事象は、大きな明証となって、いばゆる刀法す典んで実証するで あろう。即ち一代の経々、三国の論釈悉く、法花経行者の日記文神となる。 異を調整する道も開かれよう。 仮りに表示せば、 一 一 (13)
もともと、聖人の三・四才のごく幼少以来にめばえた宗教的社会的関心は、漸次いな急激に熟成して、ついに自爆 のような十二才出家に至った。﹁日本第一の智者たらしめ玉へ’一とは、個人的好奇心や功利栄達の為めではなく、全 く公共的道義性にあった。二十年の叡智的究明の原動力ともなり、﹁我れ日本の柱とならん、我れ日本の眼目となら ん℃我れ日本の大船とならん等と誓いし願、やぶるべからず﹂とは、たしかに表裏をなしている。﹁本卜願を立シ﹂ ︵昭和定本六○この四字は、如上の伝記的事実とをよく表明している。幼少発心已来の念願は、自発自展的に献身の 行動以外にはあり得ない。︿是一︶ また仏教の真実を究明するに、専ら﹁経文を詮とせん﹂とのお態度から、締文と道理とから結論づけられた自覚 ︵自解仏乗︶こそ、今はた愛第三の現証を要求している。文・理・事の三証の弁証法的展開の要諦といへよう。その 現証は無論、生命がけのものでなくてはならぬ。︵是二︶ 次に自覚といはれるもの、多くは観念的独善的たるを免れぬ。今は、世の万人をも自覚させようと働きかけること によって、具体的公共的に実証されよう。︷是三︶ 仏知見・一念三千という仏の内証は尊いとはしても、それが外にはたらいて、効用を現はさないならば、曠中の錦 同様。万人の評価はとまれ、本誓の大慈悲は白昼の現実にはたらくべきである。︿是四︶ そのはたらくこと、実証するのは、献身性にまつべきこと、同時にその生命も同様に、尊いことを実証する。︵是五︶ 観念的自覚とはいへ、それは一仏乗の内証であり、三徳四恩を真に知り得た境地である。真に恩徳を感知するもの は、同時に、報ぜずにはをれない。進んで生命をさ上げて報謝せんとする。そもそも報へずにすむ恩徳はあり得まい が、報謝を要求しない恩徳なればこそまた、感知するものが自発的に報謝のために、献身する所以であらう。献身的 (14)
そのとき、閃くものは、五綱という世界観的体系である。 ﹁夫れ仏法をひろめんとをもはんものは、必ず五義を存して、正法をひるむべし。 五義とは、一者教、二者機、三者時、四者圃、五者仏法流布の前後。﹂︵二六三︶ 仏教を正統に弘めて、人々を真実に活かさうとするには、まづ﹁第一者、如来一代、五十年の説教は、大小・権実。 臭ノ。 仏知見・仏の御内証というものは、とても測庇できるものでもなく、評価など畏れ多い。しかし尊い極みとして、 之を信じ、持ち、之がために働き、力のかぎり、生命をさ上げるということは、みなそれぞれ尊い。経文には、如説 修行とも、随義如実説とも斯人行世間ともある。これらにみる、仏の内証・絲説・随義・如実説・行世間との五重の つながりは、なほ吟味されねばならぬ。ともかく、日蓮聖人の佐渡に到り藩かれた早々の御消息には、上述六条以上 の深い覚悟を、開教当初に決断されたことが物語られている。 ﹁本より、学文し候ことは、仏教をきはめて、仏になり、恩ある人を、たすけんと思う◎仏になる道は、必ず、身命 をすつるほどの事ありてこそ、仏になり候らめ、とをしはからる。﹂︵五一○︶ 報恩の者こそ真に恩を感じ徳を知った者といへよう。棄恩入無為真実報恩者の句は、勝義に於て、そこまで解されね ぱなるまい。︿是六︶ 次に、あの自覚の高さから、この現実の海に、腿り込まうとされた聖人の、︺ての決断における基調について考えよ 一 一 一 (15)
客体的にその環境的時間・空間︵時・国︶ これらを体系として、如実に照了し掌握すべきこと。 第三に、﹁仏法流布の先後を知るべし﹂とは、まづ淀く考へれば、いつでもどこでも、現実とは生き生きと流れゆ く時代社会である。そこにはすでに、遠く昔から教というものが、陰に陽に作用し来っている。新たに教を弘めよう とするには、まづ従来の社会的宗教の健全度、病的症状・病因原等の診断が必要であらう。 ゆえに仏法だからとて、た蟹一方的に独善的に与へてはならぬ。これまで流れ行はれてきた教の在り方、効果︵功 罪︶をよく清算し、さらによりすぐれた薬法により、みんなを無上道に入らしめ、速かに仏身を成就することを得せ しむべきである。まことに穏健中正にして現実に徹した理想主我である。 l我々は自覚という言莱を使っているが、那実、自分のことすら、えたいの知れぬ自迩識に外ならぬ。まして他人 の顔色を見、行動をとかく評判しっ典、永年つき相うていてもなかなか心底はつかみえず、信頼されもせぬ。お互が はるかな前生の業障をせ負ひ、複雑な因縁にまとはれて、底しれぬ深淵から操られている機械のようであり乍ら、ま た微妙な反応を示す。﹁智慧第一の舎利弗すら、なほ機を知らず、何に呪んや、末代の凡師、機を知り難し﹂まして や、これら群衆の形成する伝統的社会や、それが時々刻々に器流していく時代に対しては、なほさらのこと。ゆえに ﹁仏眼をか︵借︶って時機をかんがへよ・ 次にいう、機・時・国とは、世間の現実的構造、次にいう、機・時・国と峰 顕密の差別あり﹂と。即ち全一仏教の体系を、正確に認識すべきこと。 主体的に人間性情︵機︶ (16)
生命を賭して、必 lこの誇法とは、 分攻究を要しよう。
如日月光明能除諸幽冥斯人行世間能滅衆生闇教無量菩薩雛党住一乗と
正しく、仏知見の行者でなくてはならぬ道理である。 ﹁仏法は体なり。世法は影なり。体曲れば影斜なり。﹂ まことに、真理こそ永遠普遍に妥当するもの、生殺与奪盛衰興亡の道理である。かうした宇宙を貫く真理を悟った 仏。その仏が、みんなを仏と成さうという教のうちの真実の経の精神・知見から照らし見たならば、三国二千年、い かに諸経諸宗の異端邪説誤謬が、それからそれへと紛糾し、その非違誇法が昂じ、積架し来って、破仏・破国の因縁 となり、今や国土人民挙げて危急にあえいでいる。 生命を賭して、為すべきは、この誇法の一凶を禁ずることに在る。 lこの誇法とは、﹁法を誇る﹂罪、たしかに重い罪には違いなからうが、宗学上いかに亜視されねばならぬか、充 仏日を用︵も︶って と仰せられ、経文には っ て 一般に法というとき、たr理法という限りでは、無記的に考えられる。だが、その理に違背することは、無記的に ﹁仏法とは道理なり。﹂ ﹁天晴地明識法花者可得世法歎。﹂ 国土をてらせ。﹂︵一○○五︶ 四 (17)﹁︵諸宗の人師︶等の仏眼のごとくなる人、猶此文にまどへり。何二呪ャ、盲眼の︽︶とくなる当世の学者群、勝劣を 弁フベしや。黒白②﹂とくあきらかに、須弥・芥子の君﹂とくなる勝劣なをまどへり。いはんや虚空の︸﹂とくなる理に 迷ハざるべしや。教の浅深をしらざれば、理の浅深弁フものなし。﹂︵五八八︶ ﹁夫一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり。又習学すべきもの一あり、所謂緋外内これなり﹂︵五三五︶ という世界教学の理論的浅深勝劣の対決について、要約し来れば、仏教と仏教以外の逝徳・宗教ふくめて、内外相対 とし、仏教内にも小大・権実の机対・勝劣浅深があり得る。その間岐も肝心な点は、条理として、上勝より下劣を判 し責むるは当然である。当然なだけに、勝劣顛倒し、下を以て上を尅する反逆の重罪はもとより、勝劣雑乱し等同視 するも、誇法の重罪に属する。これらの関係を表示せば、
A外←小・権・実’三
理の広狭浅深順逆の厳しさは、いはゆる氷教家よりは、科学者の方が、知性的に厳粛に自覚して、之を尊重し、い よいよ深い探求に奉仕している。道徳をふくめた教法なるものは、如上の理法の上に立ち、人類の良心に根ざしたr けに、一種の権威をみな認めている。但しその権威が、いかなる本質をもち、或はどの程度に偽装を凝らしたものか は、叡智的自覚とともに之は献身的実践・客体の時代社会の現実との対決実証に俟っより外はなからう。 仏教こそ、無上・甚深・微妙の法といはれるのは諸法実相の理法の甚深に徹し、而も因果功徳の理想の高貴に達し たところからの体系を窓味する。 もその果報は免れぬ。B小←権・実’二
(18)爾前づりにこそをぼうれ。 又、但ダ在世計ならば、さもあるべきに、滅後に居せる論師・人師、多くは爾前づりにこそ候へ・かう法花経は信 じがたさ上、世もやうやく末になれば、聖賢やうやくかくれ、迷者はやうやく多。世間の浅き事、猫あやまりやす し。何況、出世の深法、慨なかるぺしや。積子・方広が聰敏なりし、猶を大小飛維峰あやまてり。無垢・摩沓が利根 なりし、権実二教を弁へず。正法一千年の内、在世も近、月氏の内なりし、すでにかくの如し、呪、戸那・日本等、 国もへだて、音もかばれり。人の根も純なり。寿命も、あさし。貧膜痴も倍増せり。仏世を去てとし久し・仏経みなあや ﹁されば、八箇年の経は四十余年の経々に相違せりというとも、先判後判の中には、後半につくべしというとも、猫 スハ法花経ノ行者也。而レドモ必ズ身命ヲ喪ハンカ﹂︵二四五︶ ヲ顕サ・ハ身命定メテ喪ハンカ。..⋮此等ノ本文ヲ見レ・ハ、三類ノ敵人ヲ顕ハサズン・ハ、法花経ノ行者二非ズ。之ヲ顕 ﹁当世ハ後五百歳二当しり。日蓮、仏語ノ実否ヲ勘ルー三類ノ敵人之し有り。之ヲ隠サ◇ハ、法花絲ノ行者二非ズ。之 てこ十四種。 これらが、仏教史上、三国二千年を経歴し、各自の宗謂に偏執して、誇業を増長し来り、俗衆・道門・階聖の三類 の噌上慢、上下を風脈している。 ﹁無眼の者、一眼の者、邪見の者は、末法の始の三類を兄ルペからず。一分の仏眼を得る者、此をしるべし。﹂ A・B。Cの三類、六種の劣謂勝見︵下尅上︶の誇法あり、勝劣等同見にわたせば、十二種を数へ、人・法に約し
C権←実’一
︵五九七︶ (19)﹁予、少量タリト雌モ、 子、一仏ノ子ト生レテ、 救国というが、 仏の御使である。 悪逆に随者は爪上士、仏法によて悪道に堕者、十方の土、俗より僧、女より尼、多く悪道に随くし﹂︵五五五︶ 誇法者恒河沙、正法者一二の小石と記をき給。千年五百年に一人なんども正法の者ありがたがらん。世間の罪に依て、 まれり。誰の智解か直かるくき。仏浬桑経に記云、末法には正法の者爪上ノ土、誇法者十方土とみへぬ。法滅尽経に云 ︵ことに日本国において、伝教大師以後を︶ ﹁又、其後やうやく世をとろへ、人の智あさくなるほどに、天台の深義は習うしないぬ。他宗の執心は強盛なるほど に.やうやく六宗七宗に、天台宗をとされて、よわりゆくかのゆへに、結句は六宗七宗等にもをよばぬ、いうにかい なき禅宗・浄土宗にをとされて、始は檀那やうやく、かの邪宗にうつる。結句は、天台宗の碩徳と仰がる人々、みな をちゆきて、彼の邪宗をたすく。 さるほどに、六宗八宗の田畠所領みなたをされ、正法失せはてぬ。天照大神正八幡山王等諸の守護の諸大善神も、 法味をなめざるか、国中を去り給かの故に、悪鬼便を得て、国すでに破れなんとす。﹂︵五四二︶ よって救国のため、この一凶を禁するために、身を献げて起たざるを得ぬ。 一国一民族のためのみではない。三界を我が所有とし、生けるもの一切を吾が愛子とする仏、その 五 恭クモ大乗ヲ学ス。蒼蝿、験尾二附シテ万里ヲ渡り、碧薙、松頭二懸リテ千尋ヲ延ブ。弟 つか 諸経ノ玉二事フ。何ゾ仏法ノ衰微ヲ見テ心情ノ衰惜ヲ起サザランャ。﹂︵一二九︶ (20)
込む難事は当然である。 聖人もやはり、人の壷 人の子 ことに、仏は末法法滅、濁悪誇法、随獄必定の時機をあはれみ玉ひ、特別の方図を案じ企てたまう。 それは全仏教挙げての誇法、三類の強敵をあらはし、責むるとともに、破邪即顕正、一切衆生成仏の直道、︵若信 蒋諦倶成仏道︶の秘法を与へようとする。その秘法とは法花本門の玄題である。この法の発動により、諸宗の人法と もに折伏し、元品の無明を撃発する当処、必成の妙種を下し得る。一国の立正安国は、ひいては四海帰妙、娑婆即寂 光の実現も、この受持一行に在る。 I迩門正宗の開顕の後、﹁法師宝塔二事起り、涌出寿量二事顕レ神力嘱累二事党ル﹂Iまづ三仏来集の虚空会 上、迩化を止めて本化を召し、自ら本地の久成を顕はして三世益物を明し、未来のために是好良薬今留在此・遣使還 告という。ねんごろに過去不軽の垂範を引き、遠く将来、末法の広布を十大神力を現じて象徴したまう。こ上に結要 別付をうけた如来使・唱導師・斯人行世間の斯人とは誰であらう。自らひそかに、それに擬するとせば、火中にとび 九︶より外はない覚悟。 ﹁余、善比丘ノ身タラ 善比丘ノ身タラズ 之二対しては、 若シ能ク駈遣シ呵責シ挙処セ・ハ、是し我弟子、真ノ声聞ナリト。﹂ ﹁若善比丘ノ法ヲ壊ル者ヲ見テ、置テ、呵責シ駈逝シ挙処セズン・ハ、当二知ルベシ、是ノ人ハ仏法ノ中ノ怨ナリト。 つLしんで逝詔を拝せば、 ト錐モ、仏法中怨ノ責ヲ遁レンガ為メニ、唯ダ、大綱ヲ撮ツテ粗ボー端ヲ示スノミ﹂︵一二 である。云うべきか、黙止するか、とつをいつ、いかになやまれたか。このときの決断には (21)
少くも凡そ次の四つのすじがあったかと思う。 一、幼少出家のときの初志。二、虚空蔵菩薩への誓状。三、輪回。四、仏勅。 第一・二について、幼少、父母の掌中に在った比、物心のついてからの災禍や世間の恐しさはかなさから、自然と 弥陀の名号を称へたこと、いさ典かの事あっての疑惑、漸くそれからそれへと、この現実の社会剛家の逝徳と、政治 と宗教、人生と信仰等の重大な問題的展開は、全く大地六種に震動錯裂するところ、地上の草木人畜の一切が、加倒 崩壊し去る如くであった。どうしても究明せずにはをれない。真実の道を求めずにはをれなくて出家したのだ。出家 したからには、この問題解決のため、﹁日本第一の智者たらしめ玉へ﹂と祈った。虚空蔵菩薩への誓状に何とある。 いや自分は何と誓うたのか。﹁又法門によりては設い王のせめなりともはrかるくからず何に呪んや其已下の人々を や父母師兄等の教訓なりとも用ふぺからず人の信不信は知らずありのま上に申すべしと﹂︵一二八四︶今に至って、 とかく鍔跨するは菩薩にすまない。父母の恩愛に背いて出家し、師匠の恩義のもとに修学し来り、その恩恵犠牲のみ のった賜が、この正智であり、覚悟なのではないか。 第三・四について。今生という今生、永恒の岐路の一線なのである。﹁此に日蓮案云、世すでに末代に入てこ百余 年、辺土に生をうぐ。其上、下賎、其上、貧道の身なり。輪回六趣の間には、人天の大王と生れて、万民をなびかす 瓢、大風の小木の枝を吹がごとくせし時も仏にならず。大小乗経の外凡・内凡の大菩薩と修シあがり、一劫二劫、無 最劫を経て、菩薩の行を立テ、すでに不退に入りぬぺかりし時も、強盛の悪縁にをとされて、仏にもならず、しら ︷ハ (22)
我等程の小力の者、須弥山はなぐとも、我等程の無通の者、乾草を負て劫火にはやけずとも、我等程の無智の者、 恒沙の経々をよみをぼうとも、法花経は一句一偶も、末代に持チがたしととかる$は、これなるべし。 今度、強盛の菩提心ををこして、退転せじと願しぬ。﹂︵五五六︶ なほこれに関しては、秋元妙︵一七三五︶参照。 ず、大通結縁の第三類の在世をもたれたるか。久遠五百の退転して、今に来れるか。 ︵過去の世に、たまたま縁あって、︶法花経を行ぜし程に、世間の悪縁・王難・外道の難、小乗経の難なんどは忍び し程に、権大乗・実大乗を極めたるやうなる道紳・菩導・法然等がごとくなる、悪魔の身に入たる者、︵それらが︶ 法花経をつよくほめあげ︵てをいて︶、機をあながち︵ことさらにわざと︶下し、理深解微と立て・未有一人得者千 中無一等とすかししものに、無量生が間、恒河沙の度、すかされて、権経に堕チぬ。権経より小乗経に堕チぬ。外道 外典に堕ぬ。結句は悪道に堕チけりと、深ク此をしれり。 日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。 これを一言も、申し出すならば、父母兄弟師匠国主の王難必ズ来ルベし。 いわずば、慈悲なきに似たりと思惟するに、法花経浬梁等に、此二辺を合セ見るに、いわずば、今生は率なくと も、後生は必、無間地獄に堕くし。いうならば、三障四魔、必ズ競上起るべしとしンぬ。 二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は、退転すべくは、一度に思止むべし。 Lばら と且く、やすらいし程に﹂・・⋮.︵こふに仏勅が閃いたのである。︶ ﹁宝塔品の六難九易これなり。 (23)
経文にはこの六難九易の前に三ケの仏勅がある。 ﹁釈迦・多宝・十方分身の諸仏の来集は、なに心ぞ。令法久住故来至此等云々。三仏の未来に、法花経を弘めて、未 来の一切の仏子に、あたえんとおぼしめす御心の中をすいするに、父母の一子の大昔に値フを見るよりも、強盛にこ そみへたるを、法然いたわしともおもはで⋮⋮﹂︵六八八︶ と以下、一切衆生の大慈大悲の師父を足蹴にされた痛憤のお言葉がつrくのも、四格言強折の所以も一面は、かう した高次元の恩愛正義感から発していることは、誰でも肯き得よう。 また、叡山の大講堂に於いて、多勢の碩徳学匠を前に、天台宗の時代教学を痛破されたとも、﹁人の信不信は知ら ず、ありのま上に申すべしと誓状を立てしゆへに﹂︵二一八四︶とある。﹁此を申さば、必ズ日蓮が命と成ルベしと 存知せしかども、虚空蔵菩薩の御恩を報ぜんがため、建長五年四月廿八日安豚国.:⋮。其後二十余年が間、退転なく いはゆる世間の正直者で、恩義を弁へい、信義を践まい者はあり得まいが、生命を賭けても守り、報ひょうとする ところに、正直一徹の尊さがある。但しこの信義の義、恩義の義の次元を決するのが、教法の至極、一仏乗の知見で ある。﹁日本国に日蓮一人計りこそ、世間・出世、正直者にては候へ。﹂︵四五五︶その徹底した正直者なればこそ、 一乗の仏知見から信義を践み、知恩即報恩、全生命を賭ける事点に立つのである。﹁日本国の一切衆生﹂をせ負う柱 となり、﹁盲目をひらける功徳﹂と、﹁無間地獄の道をふさぐ﹂..⋮・娑婆即寂光に到る大船ともなる、そういう﹁日 申﹂︵二三四︶ともある。 七 (24)
蓮が慈悲の広大﹂かどうかは、たぽ献身的実践にかかっている。 さて、その後の献身的実践の事歴は、万人周知の御聖伝の如く、波測万丈の生涯、四大法難公私無数の迫啓。I︲ それらが、何を物語るか、いかに証明されるかは、次の実証性に入る。 こ典でいう実証性とは、三証のうち現証のことだが、いはゆる︵世にはやる︶現証利益のそれとは違う。自分の立 場や主張を飾るため、ともすると、対手を眩惑さすため、蝿々しく現実的事象のいくつかを寄せ集めてみせつけるも のとは全く似ても似つかぬ、体験的自覚的な世界・事象をいう。悩吹けば蹴る、そういう呼応の論理・動反動の成果 醤へば、科学的実験には、凡そ斯く斯くという理論的予想が計測されている。それが理論に本づく技術的操作によ って、一々の経過が如実に、関連するかぎりの諸系列にも及びつL、予想の合不、過不及にまで展開する。 理の体系的展開の一環が、事の体系的世界に於いて、呼吸し・呼応していく。︾てういう現象を正当に記述し計測し 吟味し論証するのを実証性という。 真実は、事理の全一体系からのみ、証明され得るであらう。 である。 今、聖人の開宗時の自覚とその決意のうちに、要を撮れば、全一仏教・正統性・真実性・妙法五字の四項が、聖人 八 九 (25)
の販命献身によって、いかに己心に社会に国家に自然界に、光披し反映したか。そのま上、全宇宙万有が、本有の尊 形となって仰がれる。そういう実証ではなからうか。 今ついでに、科学的実験証明の例を借りる。 A、公認の立場・公理・法則等 B、新しい命題 C、非正統・非真実性への破折︵五網の規模による︶ D、三類の敵︵迫害︶と即身成仏の行者 E、実験者・観察者・証明者を兼ねた宗祖聖人 F、弟子檀那等及将来の道心あらん人々。 BA今F EDC , 、 、 、 、 、 、 究党の真実性・妙法五字 世界教学・仏教等の公理・正統性 之に聖人の場合を当て典みると、 第三者︵科学界・学璃︶ 実験者︵AIDに黄任がある︶ 成果︵過程の現象・結果に及ぶ︶ 実験過程 (26)
観心本尊抄は、実証された即身成仏に本づくA・B・C。Dの内面連関、体験の教学的吟味と証明である。ことに Eの形而上的使命者の系譜である。 こLにいう本尊とは、体験的結晶の表現であるといひたい。四恩三徳の知恩は報恩へと行出し、報恩即感恩へと証 入する。そういう法界に呼吸する観心の本尊の世界である。故に﹁今本時の裟婆世界云々﹂と仰せられる。 枇時抄、自らの実存を歴史的に省み、確めてそこに、歴史の宇市的意味をも実証されたもの、 椛恩抄、恩師道蒋御腸の逝去に供へられたもの、自らの実存を恩徳性に要約した結晶。 全く我々と同じ凡常人が、素朴に健全に伸びた。それだけに深刻な大疑を懐き、克明に精進した。たr正直一徹、 至誠を以て貫いた人、恩に感じ恩を知り恩を報ずるを以て終始した。そういう人と想はれる。教学的にはいろいろや た日什上人を見る。 観心本尊抄は、幸 を除した書。聖人滅後百年、天台宗の学匠玄妙僧都が、偶然この書をよみ、名声も地位もすて、老躯を挺して改衣し 開目抄は、正しく、AlEの実験記録であり、観察者・証明者ともなって、実験者を、﹁法花経行者日蓮﹂と証印 立正安国論は大規模な実験構想の書。 今こ&に、ごく概要を述べる便宜に著作の五大部を借りる。 十
むすび
(27)これ孝子元政上人が至孝の大聖を讃味し奉ったもの、結句の﹁別有風教⋮父母﹂とは、個人私情のそれに拘らぬ、 広大無辺報恩の至誠を具象した一句とみるとき、別有の別は、とりわけてと訓みたい。そういうつもりで、この小論 の結辞にお借りさせていたrく。 ↑のプ︽︾0 その能く持つの持ち方を修行するが本門の戒壇なのである。常寂光土とはいつもそこに一挙に現われる全宇宙なので る。四海万邦にとって、その大恩徳慈念の命題が本門題目、全世界みんなともどもに、我も持ち人にも持たしめる。 実報恩者こそ仏である。三千が一念に具すとは、恩を知ること、一念が三千に施すのが恩を報ずるの義であると信ず かましいものがあらうが、斯の人の血肉に流れている法門は、卒直にいへば、徹臓した知恩者が真の菩薩であり、真 吾済一日豈二労ヲ辞センャ 若シ惹海ヲ研ツテ鴻業ヲ記サバ 須弥ヲ聚メテ兎毫ト為サント欲ス 別二風教ノ追慕スペキァリ 父母ヲ贈望シテ斯ノ高キー砂ル 宗祖九年猶ホ苦ヲ忍ブ 終二霊山深キ処二向テ逃ル 自ラ湯錐二投シテ群毛ヲ極フ (28)
仏陀出世の目的は、その究極に於て一切の大衆を救済すると云う大願を、成就せしめる為のものに他かならないと されている。仏教が﹁願﹂の宗教であると云はれる理由も、又これに依るものとも考えられる。従って、仏陀の正法 を継承し弘通された日蓮聖人に於ても、其の生涯は、此の﹁願﹂を達成せしめるために、挺身されたものであると云 って、敢えて過言ではないであらう。 蒜し然らば、宗祖は仏陀の﹁願﹂をどのように受継ぎ、また其の願を如何に﹁行﹂の面で実践されたであらうか。 蓋し此の問題は、宗祖の教学を特色づける根本の一つとして、深意を持つものと考えられるのである。これより本問 題に就いて、その一端を考えてみようと思う。 先ず仏教に於ては、小乗・大乗に依り﹁自度の願﹂と﹁他度の願﹂にわかれて、各経典群には無数の願行が説か
日蓮聖人に於ける﹁願﹂の研究
一一 ■■■■■上田本昌
(29)れ、それぞれ其の特色を有しているが、此等諸願の究極は、大乗の諸経典に於て一応共通の﹁総願﹂と称されている ﹁四弘誓願﹂に在るのではないかと思われる。宗祖も此の願について﹁法華真言勝劣事﹂及び﹁小乗大乗分別紗﹂等 其の他の御書に於て、四弘誓願を満足成就するにあらざれば、衆生の成仏も叶はずと主張しておられるのであって、 又これを身延の二祖佐渡阿闇梨日向上人の﹁御誠聞番﹂に依って見るに、其の巻末に四弘哲願に対する宗祖の誰義内 それに依れば、四弘の中の衆生無辺誓願度は応身、頬悩無辺誓願断は報身、法門無尽誓願智は智法身、無上菩提誓 願証は理法身なりとして、仏陀の三身説を用いているのであり、これは興味ある配当として考えられるのである。此 の四弘に就いては、初の一は化他の願であり、後の三は一応自行の為の願であって、﹁所詮は衆生無辺舞願度をもつ ① て肝要となす。﹂ことを明らかにし、四弘に於ける中心の所在を指示しておられる。これは宗祖にとって、﹁仏使﹂ としての立場から考え、衆生済度を以て第一とすることは当然の説であったらうと思われる。更に同書では四弘の ﹁弘﹂についての意義を、﹁所謂上行所伝の南無妙法蓮華経﹂に在るとし、弘通の法を明確にしている。これに就い ては法華経を中心とする宗祖の主体的立場からするとき、必然的に法華経を選び、其の法を広布するための舞願にほ ② かならない、と解釈せられたものであろうと考えられる。故に﹁所詮秤願と云ふは題目弘通の秤願也。﹂と識じてい る。此の説は四弘の解釈として見たとき、一見飛踊があるようにも見られるが、然し宗祖自身の信仰的意志と、それ に依って得た内証自覚と、更に実践的思惟による法の体験とに依って、真実であると是認されるに及んで、始めて述 べられるに至ったものであらう。従って、 ③ 今末法二入テ法華経ノ行者ハ四弘能所感応ノ即身成仏ノ四弘也云云。 容が詳述されている。 (30)
宗祖の生涯に於て、願を中心として見たとき、最初に思い浮ぶことは、幼少にして清澄山に登り、道菩房について ⑥ 出家得度し、彼の智慧と慈悲を施与すると云う虚空蔵菩薩に﹁日本第一の智者となし給cと結界参籠して必死に立 応vと云う言葉には、法華経の色読体験が意味されてをるのであって、宗机にとり深遠な意義を抱いておられたもの と云い、﹁上行菩薩の四弘響願も此の文なり、深く是れを思案すべし﹂とも述べておられるのである。此の場合八感 ④ ではないかと考えられるのである。また﹁法華経の心は能所一体なり﹂とも説かれているが、先きの能所感応と云 い、此の能所一体と云うも、共に以信代慧の信行に関して、ニューアンスをもった語と云えよう。 然して、大乗に一応共通な総願とざ云はれている四弘の一般的研究は、既に先師に依ってなされている処である が、就中、塩田義遜博士の説に依れば、長阿含第八の散陀那経に早くも菩薩の四弘の思想が発芽してをり、小乗自度 の四諦が、大乗の四弘の基本となっていることを、本業瑠瑞経に依って明らかにし、更に心地観経等に依って四弘の ⑤ 具体的成立過程を考証されているので、此処では其の間の考察を省略し、直に水祖自身の四弘観にふれつ上、願の内 容を探ってみようとするものである。 そこで、斯うした宗祖の四弘に対する講義は、晩年身延山に於ておこなわれたものであり、願の一部的解説であっ て総てを意味するものではない。それ以前、鎌倉・佐渡の両時代にあっては、どのような願に対する考え方を持って おられたであらうか、また宗祖自身は如何なる立願をされたのであらうか、と云う問題から、逐次四弘に及んで行き たいと思う。 三 (31)
願せられたことである。青年学徒として又一求道者としての立場から、これは一応自度の願であるとみなして、四弘 の中では第三の﹁法門無尽誓願智﹂に配することの出来る願である、とみることが出来うるであらう。此の願につい ては、﹁善無畏三蔵紗﹂及び﹁清澄寺大衆中﹂にくわしいが、所調、当時一般に流布していた真言・天台を始め八宗 十宗と云はれる諸宗について、就中、盛んであった浄土信仰に対し、一つの大いなる疑問を持ち、これに対する解答 を得んものとして、諸経典の深理を修学されたのである。 当時の宗祖は、今生に於て即身に成仏をうることの中に、人生の意義を感じておられたのであり、浄土の往生信仰 が隆盛していたにもか典わらず、是れに疑いを抱かれたのである。所謂、宗教的根本の信に関する問題解決の為であ り、これは仏智による以外に解答をうることが出来なかったからである。即ち、﹁実乗の一善﹂を選択するために、 日本第一の智者たらんことを発願されたのであって、爾来、建長五年︵一二五三︶清澄寺に於て立教されるに至るま で、二十余年に亘り、ひたすら学行に精進されたのであって、其の結果は、 ⑦ 日本国の八宗竝に禅宗・念仏宗等の大綱粗何ひ侍りぬ。 と述べられている如くである。更に諸経諭及び諸宗の失を弁えることの出来たのは、虚空蔵菩薩の利生に依るもので あるとしている。是に依って思うに、仏法を習い極めることによって、仏陀の真実教を把握し、邪見の宗旨を正して 国家・社会を救い﹁人々をたすくる﹂ための発願であると云うのであってみれば、其の根底に於てただ単に自度のみ に中心を置く、小乗的願とは大きなへだたりの在ることを知ると同時に、そこには又必然的に他度の願たる衆生済度 と、基本に於てつながりを持った立願であると思えるのである。 次に宗祖は、﹁守護国家論﹂及び﹁立正安国論﹂を中心として、天変地天の災害、竝に内乱外冠の国難について国 (32)
家を守護しようとする﹁国土救済の願﹂を立てられたことである。
ハノれぷフノブハニヘハデーシピ
所詮天下泰平国土安穏君臣所し楽土民所し思也。夫国依レ法而昌法因し人而貴。国亡
リテヲクッヲ⑧
セハヲ力キムブカキヤス
人滅仏誰可レ崇。法誰可レ信哉。先祈二国家一須レ立二仏法。一 と述べ、宗祖自身が鎌倉の辻に立って、国土安穏の願を成就せしめる為に、其の基本となる剛家を危機から救う方法 を主張されたのである。即ち、苦なるが故に現実を否定し、浄土を来世に思慕し求めようとする信仰、及び其の信仰 を裏付けとする政治・思想を蟻し、あるがま典の現実界に即して、その中に浄土を迩設しようとする﹁娑婆即寂光の 願﹂を成就せしむくく、身を以て此の願の実現に注がれたのである。これは明らかに他度の願であり、当時先ず実行 せねばならなかったのは、国土を危機から救護することが急務であったのであり、洲ば﹁仏国土建設の願﹂とも云う べき此の願が、始めに立てられたのである。又此の願は単に宗祖初期の立願とするのみではなく、次に述べる衆生済 度の願と同様に、依正二報に亘っての救済の大願であり、所調、立正安国の理念に基ずいたもので生涯を通じて此の 願の実現に資せられたものであると云えよう。即ち、﹁安国論﹂に依れば、仏国土迩設の願を達成せしめる唯一の方 法として、大衆が﹁実乗の一善﹂に帰すべきであることを挙げておられる。 愛に於て、宗祖は自らが法華経の題目を受持信行し、弘通することに依って国土を救済しようとする願から、更に より多くの大衆に向って、法華経を受持せしめ、大衆自身にも広く弘通の道を進ましめようと、せられるに至り、法 華為本の思想に基く政治・文化の発展を目されたのである。所謂、.切大衆済度の願﹂であって、願の対象が﹁国 土﹂から﹁大衆﹂へと、展開して来るのである。これは宗祖が﹁先ず国家を祈りて﹂と云う救国を第一と考えられた ことに依るものであらう。然して此の﹁衆生済度の願﹂は、やがて後に述べる如き八仏使Vとして、また八本化上 (33)⑫ 如二我昔所願一今者巳満足。化二一切衆生一皆令窪入二仏道一。妙覚釈尊我等血肉也。 とあって、何れも仏の本願たる無辺度生の願が、法華経に於て成就されたものとし、因行果徳を備えた題目の受持に 依って、自ずと仏の本願に叶うものとし、其の受持一行を大衆に実践せしむぺく、立教の当初より﹁国土﹂と﹁大 衆﹂の済度を目的とする弘法の誓願が立られたものと考えられるのである。言換れば仏の十界皆成の本願は、其のま とあり、また本尊妙には あらう。 直接つながりを持つものであって、宗祖の場合は、 と云う十界皆成の本願に当るものであると云えよう。此の願は即ち、四弘に於ける初めの﹁衆生無辺誓願度﹂の願と 日蓮は去建長五年四月二十八日より、今弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間、又他事なし。只妙法蓮華経 ⑩ の五字七字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計り也。此即母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲也。 と云はれている﹁諌暁八幡抄﹂の文からするとき、其の一代が此の無辺度生の願に依って貫かれていたことが知れる のであり、前記の仏の本願をそのま上受ついで、八仏使Vの立場から願の実践がなされたものとみることが出来るで 行Vとしての使命に通ずるものであり、従って法華経の教主釈尊が立てたところの
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、うシキノント
ヲシテクヵシクうナルコトキハノノニシメシテワ
我本立二誓願一欲し令一二切衆如し我等無一レ異如二我昔所願一今者已満足化二一切衆生一
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次に右の文を更に徹底せしめている言葉を、開本両妙の中から直接拾って見るに、先ず開目妙には ⑪ 釈迦・諸仏の衆生無辺の総願は皆此経に於て満足す 皆令レ入二仏道一 (34)如上の観点よりするとき、宗祖は本来弘無の願行に出ているのであるから、苦行迫害は問題とせず、其の行動は常 に末法に於ける導師としての使命に燃えて、難を避けることをせず、進んで苦難の道を選び、依正の二法を救うと云 う八本化の誓願Vに立って、連動を展開されたのである。然も此の運動を達成するの道は、本化として付属を受けた 法に依る以外にないことを、明らかにした宗祖は、 日本国に此をしれる者、但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば父母兄弟師匠に国主の王難必来るべし、 L法華経を通して宗祖に依って受継がれ、題目の受持によって﹁国土安穏の願﹂及び﹁無辺度生の願﹂等の所願が成 就されるべく、実践による﹁行﹂がおこなわれたのである、と見ることが出来るのではなからうか。 前述の如く、四弘をもって大乗経典に共通した総願である、と一応言いながらも、此のように法華経を通して四弘 の実践に、八仏使Vと云う立場から終始された点に於て、宗祖の﹁願﹂に於ける意我と、他に見られない特色が在る と云えるであらう。又此の願の実践が、いかに徹底したものであるか、について﹁顕仏未来記﹂では、 ごろノ ノ ノ ントス
日蓮存二此道理一既二十一年也。日来災月来難此両三年之間事既及二死罪一。乃至、
ヲハ︽|カンヲ⑬ ハスルヲ願損し我国主等岐初導し之。
と語っており、そこには此の願の実行にともなって生ずるあらゆる迫害障壁について、これを乗り越えて行く決意 と、其の献身的な跡とが窺えると同時に、仇に対してさえも導きの手をさしのべようとされた、愛摺を越える慈悲の 広大さと願の崇高さが知れるのである。 四 (35)はしら 此の三審で﹁柱﹂と云うのは、﹁日蓮は日本剛の棟梁也。予を失うは日本国の柱柿を倒すなり﹂とある如く、﹁棟 梁﹂と云う語によっても現されている。即ち、国家を負うて立つと云う本願力が窺えるのであり、﹁眼目﹂とは所謂 御目の意を持つものにして、国家を救う中心眼目たるの自覚の現れであるとも考えられる。又﹁大船﹂とは、即ち大 船師・導師の通であるから、此の三哲は国土と大衆を救済すべき、願力と導師と自覚とを明らかにしたものである、 と解することが出来得るのではなからうか。 あらう。 願である。 ・・・・・・・⑮ 誌するところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。 と云う語の中には、鎌倉から佐渡へ至るまでの弘法活動中に加えられた難の甚亜なることを物語るものであり、 本卜願を立ッ、乃至、我レ日本の柱とならむ、我レ日本の眼目とならむ。我レ日本の大船とならむ、等とちかいし ⑯ 願、やぶるべからず。 との三誓は、か上る難に蟹 か上る難に堪 いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経浬梁経等に此二辺を合せ見るに、いわずわ今生は事なくとも、 ⑧ 後生は必無間地獄に堕くし。いうならば三障四魔必競起るべしと知ぬ。二辺の中にはいうべし。 と述て此の間の事状を明かにしている如く、既に三障四魔を覚悟した上での、導師としての慈悲から発している誓願 たることに、疑いはなからうと思える。 か典る宗祖の弘辨と、其の内容及び決意を峨も端的に表明しているのが、佐渡に於て示された﹁開目妙﹂の三大誓 え忍ばれて来た上での、如来使としての自覚を表明されたものとみなすことが出来うるで (36)
更に、此の願行は﹁日蓮が慈悲砿大ならば、南無妙法蓮華経は萬年の外未来までもながるべし。﹂と云い又.天 四海皆帰妙法﹂を標枡する宗祖にとって、凡ての願行は究極に於て八仏陀の慈悲Vにつながるものであると同時に、 八仏陀の本願Vに当るものであると云うことが出来よう。換言すれば、宗祖の秤願は﹁行﹂であり、此の行は﹁慈 悲﹂から発しているものであることが、知れるのであって、此処にまた宗祖の宗教に於ける実践を旨とした﹁事﹂の 木賀的意義を窺うことが出来ると思うのである。 此れは法華経薬草嶮品の、 ⑰ 未し度者令レ度。未し解者令レ解。未し安者令レ安・未二浬鑿者令レ得二浬桑一。 とする菩薩の四誓を宗祖の立場で更に実践的に明確なものとした本願でもあらうと考えられる。即ち、法華経に於け る仏陀の本願は、直に宗祖に依って実践化され、具体化されたものであると思えるのである。宗祖の場合、誓願を立 てると云うことは、頓にそれが実行を伴うものであり、﹁願﹂と﹁行﹂を切り離して見ることは不可能である。所謂 ﹁響願とは題目弘通の意なり。﹂とする宗祖の決断は、法華経に依る八信心為本Vの主体的な体験の中から出たもの として考えられうる。 三大I 騨願’’1本願力I I柱橦l信力..⋮−