目 次 はじめに 1.市民アクセス/市民メディアの何が問題か (1)政治とビジネスに侵食される通信・放送空間 (2)〈3つの位相〉への視点 2.市民アクセスの歴史と現段階 (1)古典的「言論の公共圏」と放送の公共圏 (2)1960∼70年代 北米:公民権運動とパブリッ ク・アクセス (3)1980年代 西欧:市民放送の開始と電波再編 (4)90年代以降 民主化と新たな多様性保障 3.カナダのパブリック・アクセス制度のリアリティ (1)多文化主義社会と先住民の放送局 (2)コミュニティへの番組開放 (3)カナダ的文化の創出 (以下次号予定) 4.アクセス権論の地平 ∼実践的研究と理論的研究∼ 5.日本の市民放送の地平と課題 6.当事者の表現,コミュニケーションの恢復 はじめに あるコミュニティとその成員が,自由に言 論・表現活動ができるかどうか,その時代の有 用な情報資源・コミュニケーション資源や言 論・表現のフォーラムに自分の言葉でアクセス し,相互理解と平等・公平な対話によって,基 本的な自己決定と相互理解/共生の合意形成の 権利を行使できるかどうかが,市民社会におけ
市民アクセスの地平(上)
―失われた表現とコミュニケーションの恢復を求めて―
津田 正夫
* 日本では総合的なコミュニケーション政策が存在しない中で,放送・電波資源は,政府や巨大通 信・放送企業,デジタル革命に新たに参入するビッグ・ビジネスに握られてきた。さらに近年,グロ ーバリズムがコミュニティ生活圏や文化的空間を破壊しようとしている。市民によるパブリック・フ ォーラムへのアクセスの権利とフォーラム再構築が大切な課題といえるが,中でも放送に対する現代 のパブリック・アクセス権はどのようにして形成され,現在どこまで実現してきたのかを検証する。 具体的には,第1にパブリック・アクセスに関する歴史段階を整理し,第2にもっとも多様で示唆に 富むカナダのアクセスモデルを検討する。第3にこれらに関する研究が何を明らかにしたのかを概観 し,第4に日本での諸課題の検討をすすめて,最後に言論・表現の当事者性について考察する。 キーワード:パブリック・アクセス・チャンネル,アクセス権,海賊放送,カナダモデル, 多文化主義 *立命館大学産業社会学部教授る民主主義の基本的な条件であると考えられ る。そのような視点からすると,近年の,市民 によるコミュニケーション資源/空間へのアク セス権,パブリック・フォーラムとしての放送 公共圏へのアクセス権はどのように考えられ, 実現してきたのだろうか。 この小論では,市民社会における〈視聴者/ 市民〉と〈放送メディア〉との関係における諸 課題のうち,メディアや放送公共圏への市民ア クセス運動の到達地平,コミュニケーションの 恢復の諸課題について考えていきたい。具体的 には,第1にいわゆるパブリック・アクセス (一般市民が放送などのマスメディアの企画・ 制作に主体的に参加すること)に関するこれま での歴史段階を整理しながら,放送公共圏への 市民アクセスの歩みを明らかにしていこうとす る。第2に各地の市民アクセスのケースから, もっとも多様で示唆に富むアクセス制度をもつ 「カナダにおける市民アクセス」の実態と課題 を,現状分析のモデルとして検討する。第3に これらに関する実証研究と理論研究で,何がど こまで明らかになったのかを概観し,第4に日 本での諸課題を明らかにするとともに,第5に 言論・表現の当事者性について考察していきた いと思う。(3点目以降は次稿に述べたい。) またパブリック・アクセス制度を日本での現 実的な課題として捉えるために,つぎの〈3つ の位相〉への視点を意識しておきたいと思う。 第1は「〈新しいメディア主体=表現する市民〉 はどのように存在するか」という表現主体の位 相への視点であり,第2に,「放送への市民の 参加は可能か」「市民セクターは放送公共圏を 作ることができるか」という直接的枠組みの位 相への視点である。第3に,「市民を主体とし た新しい社会コミュニケーション・システムは どのように構想され,政策化されるべきか」と いう総合的な社会システムの位相への視点であ る。 1.市民アクセス/市民メディアの何が問題か (1)政治とビジネスに侵食される通信・放送 空間 近年,通信技術は加速度的に進化し,放送と 通信の融合と商品化が急速に進んだ。特に日本 では,通信・放送メディアをふくめた総合的な コミュニケーション政策が存在しない中で1), 放送資源・電波資源は,一方で通信官僚や政治 家ら国家と通信・放送行政によって,他方で空 前の利益をあげる特権的な巨大通信・放送企業 と,上からの参入をねらうビッグ・ビジネスに 握られてきた。ニュー・メディア,マルチ・メ ディア,ハイビジョン,IT革命という言葉が 流行したと思えば,デジタル化,コンテンツ・ ビジネスといった断片的なテクノロジーや政策 に,放送,通信,メーカーなどの業界,自治体 や教育産業などが一喜一憂してきた。さらにア メリカを中心とする利己的なグローバリズムが 「自由市場」を叫びながら,ネットワークぐる み“コンテンツ”を売買し,国境を越えて文化 的な空間を根こそぎ地ならししようとしてい る。その裏側では,生活・労働・文化を共有し てきた各種のコミュニティや公共空間が消滅し ている2)。 メディア側の公共性もまた激しく変貌してい る。2001年の「9・11」事件以降,“公共放送” の報道姿勢が日米の権力の言説に偏り,イラク 戦争報道に典型的に見られるように政府情報に 依存する姿勢を強めてきたこと3),また「日本 テレビ視聴率操作事件」や「NHK受信料使い
こみ事件」4)など放送局という公共空間で働く 職員による事件の多発が目立つ。〈政治/ビジ ネス〉と〈放送公共圏〉との相互依存や深い癒 着が進行しているのであり,さらに読売新聞の 「憲法改正試案」や,武力攻撃事態法にともな う国民保護法制でのNHKの「指定公共機関化」 受けいれ方針5)に現れているように,主流メデ ィア全体が「公正で客観的な報道」や「ジャー ナリズム」といった社会的機能や役割分担をは るかに超えて,自ら政治空間の主体であろうと する構造変化をとげてきた。 他方,研究分野においても,こうした世界政 治/経済システムの「新たな帝国化」「グロー バル化」や,それに寄り添う巨大メディアネッ トワークの実態に対し,市民社会にふさわしい 有効な分析・政策化がほとんどできていないと いう現実がある。 私は,公共放送局とされているNHKで長年 働きながら,放送が次第に「政治」と「ビジネ ス」に侵食されてくる有様を痛切に体験してき た。「みなさまのNHK」として不断に宣伝さ れる公共放送としての社会的な責任,つまり 「誰もが平等に受信できること」,「放送内容が 公正・公平であること」,「権力を監視・批判す るジャーナリズムであること」,「言論・表現の 多様性が保障されていること」などの公共性基 準は,明らかに崩れつつある。他方,放送事業 の仕組みの公共性に関して,「放送制度が多元 的であること」,「経営が民主的であること」, 「スポンサーや企業広告ではなく公共料金で維 持されていること」「すべての社会成員の言 論・表現のフォーラムであること」などの規範 が崩れつつあるのではないかという疑問も大き くなってきている。 (3)〈3つの位相〉への視点 他方,「〈新しいメディア主体=表現する市民〉 はどのように存在するか」,「放送への市民の参 加は可能か」,「市民を主体とした新しい社会コ ミュニケーション・システムはどのように構想 され,政策化されるべきか」という〈3つの位 相〉への視点を意識しておきたいと述べたが, 多少,付け加えておきたい。 まず第1に「〈新しいメディア主体=表現す る市民〉はどのように存在するか」,言いかえ れば「市民セクターはどのように自ら放送公共 圏を作ることができるか」という位相での問題 意識というのは,諸外国でパブリック・アクセ スを拓いてきた〈民族的・文化的な多様性〉を もつさまざまな社会階層やコミュニティの表現 運動,また〈急進的な民主化要求〉をかかげる 社会運動の存在や広がりが,日本において,主 流メディアを動かす現実性を持ちえていないと いう現実を踏まえてのことである。日本の市民 セクターの主体的力量から考えて,コミュニケ ーション資源の獲得やコミュニケーション・シ ステムの構築は現実に可能か?さらに日本人の 自己表現の習慣や社会アピールの行動様式が, 欧米よりはかなり“ひかえめ”であり,既存の テレビネットワーク市場と闘いながら表現空間 を形成してゆく積極性に乏しい点をどう評価す るか?市民セクターの自己表現や社会的アピー ルの行動がどのように変容してゆくのか?が大 きな関心事である6)。 第2に「放送への市民の参加は可能か」とい うのは,営利セクターと非営利セクターの協働 についての直接現実的な問題に関してである。 現代社会が〈国家(行政)〉〈市場(営利)〉〈市 民(非営利)〉の3つのセクターから成り立っ ており,その中間にさまざまな公共圏があると
仮定する。NHKを除く日本の放送企業もまた 市場セクターの中にあって,一般市民は電波資 源から遠ざけられているが,電波資源そのもの は公共財であり,市場の中にあっても電波法, 放送法などの規制を受けている。NHKは民間 放送/商業放送よりさらに公共性が強い。それ だけに,公共財である電波への「放送への市民 の参加,市民アクセス」は諸外国で実現してい るように,原理的には可能であるはずだ。しか し現実には,商品・サービスの宣伝媒体となっ ているテレビネットワーク(特に全国地上波) の既得権を公共性原理を優先して規制してゆく ことはかなりむずかしい。放送への市民の参加 は,どのような理論・制度によって,どこまで 可能だろうか。 テレビネットワーク自体が,経営上の要請か らであれ,社会的責任の立場からであれ,地域 コミュニティなど市民セクターとの共同作業を 試みてきた例も少なくはない。阪神淡路大震災 後の神戸の地域ジャーナリズム,基地問題など での沖縄の地域ジャーナリズムでの“パブリッ ク・ジャーナリズム”が典型的だ。こうした例 を参照しつつ,市民セクターからの発信の思想 とそのメディア戦略は何か,表現方法や技術は どのように入手できるのか,市民セクターは地 域ジャーナリズムと共同してゆけるかなど,課 題は大きい。地域の放送メディアにおいて〈市 場(営利)〉と〈市民(非営利)〉の2つのセク ターの協働が可能かどうか,どのように可能か という視点が不可欠である。 3点目はさらに抽象的な位相ではあるが, 「市民を主体とした新しい社会コミュニケーシ ョン・システムは社会全体の中でどのように構 想され,政策化されるべきか」というのは,社 会システム上の基本的な政治的・文化的課題で ある。携帯電話やコンピュータテクノロジーは 極度に発達しているものの,これまでになく個 人個人がばらばらになり,悪意に満ちたメール が飛び交い,コミュニケーション不全による争 いや虐待事件,社会各層のコミュニケーショ ン・ギャップが広がっている。市民を主体とし た社会的コミュニケーションの全体政策が存在 しない中で,総合的・有機的なコミュニケーシ ョンの政策,さらに「表現/理解/合意の公共 圏」や「市民社会にふさわしいメディア政策」 は,〈国家〉〈市場〉〈市民〉のどのセクターが, どのような協働のもとに創りあげてゆくのか, その政策や公共圏運営に責任を負う職業人や専 門家を,〈行政〉〈メディア〉〈視聴者・市民・ NPO〉〈教育・研究〉がどう育ててゆくのか, その基本的理念と目標の創出がいま緊急に問わ れている。 2.市民アクセスの歴史と現段階 (1)古典的「言論の公共圏」と放送の公共圏 イギリスでの清教徒革命の勝利(1649)とそ れにつづくライセンス・アクトの撤廃(1695) により信教・出版の自由(プレスの自由)が認 められ,これを出発点に「言論の自由市場の論 理」は古典的な自由主義の根拠となる。その後, アメリカ・独立革命のヴァージニア州の憲法 (1776)に,またフランス革命と人権宣言(1789) などに,信教の自由,プレスの自由,言論・表 現の自由が明文化され「言論の公共圏(パブリ ック・フォーラム)」が成立した。フランス大 革命テルミドール期には,初めて「反論権法」 が提唱されたという7)。 しかし,産業資本・金融資本が巨大化してい った19世紀後半,マスメディアをふくむ主要な
社会システムも産業化され,農民,労働者,都 市市民からますます遠いものになった。20世紀 に入ると,無線・有線の電話で音楽やニュース を発信するビジネスが実用化される。第一次世 界大戦後商用化された電波による放送メディア は,周波数帯の割り当て・監理を必要とし,独 占的で広範な影響力をもつため,当初から政治 権力やビジネスとは不可分だった。特に商業化 が早かったアメリカでは,1926年に全国ネット ワークNBC,28年にCBSとが設立され,34 年にはこれらを監理する連邦通信法や通信委員 会ができる。新聞に比べると,放送は出発点か ら権力を監視する機能,言論・表現の公共圏と しての性格が弱かったといえる。 その後日本でも諸外国でも,ニュース取材の 権利やリソースをめぐって,ラジオは新聞社の 強い圧迫や制限を受けたものの,速報性におけ る圧倒的な優位によって,確実に受信者を増や していった。第二次大戦では,イギリス・ソ連 など連合国側でも,ドイツをはじめ枢軸国側で も,映画とならんでラジオシステムは,国家や 民族単位での政治的啓蒙,宣伝・扇動,謀略の ためのメディアになっていった。 ラジオは公共性を基調としながらも,一般的 には市民・労働者・農民のものではなかった が,ラジオへの民衆参加の可能性に注目した人 たちもいた。ファシズムの台頭に抵抗するドイ ツの劇作家ベルトルト・ブレヒトは,大規模な コミュニケーション装置としての機能に着目し て,民衆に対して「ラジオへの参加」を呼びか けたと言われる8)。全国ネットワークはしだい に政治宣伝や娯楽,広告のツールになってゆく が,地域の小出力のラジオ局はコミュニティに 開放されていたとも言う9)。ラジオは戦争やイ デオロギー宣伝の道具にされる一方,イエロー ペーパーとならんで俗悪な娯楽媒体としての側 面が社会的非難を浴びるようになる。多くのマ スメディアは,ハーバーマスの言葉で言えば 「組織された利害団体の広報活動」と「消費的 公共圏」になりさがってしまった。 こうした独占的なマスメディアによる野放し の商業主義やスキャンダリズムに対して,戦後, シカゴ大学名誉総長ロバート・M・ハッチンス を委員長とした「プレスの自由委員会一般報告 書」(1947)は,社会におけるプレスの役割は 増大しているにもかかわらず,メディア大企業 間での市場競争がなくなりプレスに参加できる 人々は少なくなっていること,プレスによって 被害を受けた人々の反論権を認めるべきである こと,新しい独立機関によるなんらかの規制が 必要であることなど,「マスメディアの社会的 責任」を指摘した10)。独占禁止法など政府の力 を使ってでも「プレス市場への参入の権利」, 「反論の権利」などを保障するよう,強く警告 したのである。メディアの公共性回復を求める こうした声は年々強まっていった。これに対し マスメディアは,修正憲法第1条に保障された 「言論(プレス)の自由」が侵されるとして, 一斉に反発した。 各国が極秘に実験放送を続けていたテレビが 実用化され始めるのは,1950年代である。テレ ビ事業には,新聞・ラジオ・映画が蓄積した資 本や技術,取材網が不可欠であり,またラジオ とはけた違いの設備や機材,伝送回路を必要と する。また60年の大統領選挙のテレビ討論によ ってケネディがニクソンに勝利したという“伝 説”に象徴されるように,リアルタイム映像に よるテレビの臨場感は,政治的な影響力も強い。 誕生からテレビには巨大な資本や権力がからみ つき,市民社会の圏外に成立していったともい
える。 そうした環境の中で,市民が少しづつテレビ の厚い壁に風穴を開けるようになる過程では, 大まかに三つの飛躍的な歴史段階をあげること ができよう。第一期は,1960年代後半から70年 代前半,公民権運動を梃子に北米を中心にパブ リック・アクセスがひろがった時期。第二期は, 80年代半ば,世界でケーブルテレビや衛星放送 の実用化が進み,西ヨーロッパ各国では民間放 送の一部として「市民放送」が制度化され,ま たカナダやオーストラリアの多文化主義政策に 典型的に見られるように少数民族の放送参加が はじまった時期。さらに90年代末から現在にか けての第三期は,韓国・台湾などでも民主化に よって放送への市民参加が進み,ヨーロッパ各 国でもデジタル化の中で,一層の市民放送の制 度化が進展しているといっていいだろう。以下, 放送公共圏への市民のアクセス権成立の過程 や,アクセス運動の到達地平を概観していきた い。 ところで,近代市民革命による言論・表現の 自由(市場)や言論公共圏の成立と「構造転換」, メディアや放送公共圏と国家/市民の関係につ いてはすでに理論的には多くの著述がある11) 。 ここでは第二次大戦後,さまざまな形で権利を 獲得していった市民からのアクセス運動の歴史 と論理を,段階的に概観してみたい。(この歴 史段階が直線的に進展してきたものではないこ とは明らかだが,紙数と力量から記述が単純化 されがちであることを懸念する。) (2)1960∼70年代 北米:公民権運動とパブ リック・アクセス ① カナダ「変革への挑戦」プロジェクトの教 訓 20世紀初頭,映画が世界に広がると,多くの 国が映画やドキュメンタリーを政治宣伝や社会 政策に利用しようとした。革命ソビエトやイギ リスでの映画運動や理論には優れたものも少な くなかった。多くの国で,国家による宣伝や啓 蒙フィルムが作られていったが12),カナダでは さまざまな試行錯誤をくりかえしながら,民衆 の参加による社会派ドキュメンタリー映画の分 野が拓かれていったことは注目に値する。 1939年,カナダ政府はイギリスから招聘した ドキュメンタリー映画制作者ジョン・グリアス ンを理事にして国立映画庁(National Film Board:NFB)を設立する。グリアスンらは, 広い国土に多くの民族がばらばらに分布すると いうカナダの状況で,国家としてのアイデンテ ィティを確立するためには,どのようなコミュ ニケーションの方法が有効であるかを調査し た。映画に政治宣伝や商業主義的な機能だけで はなく,社会を組織する役割を期待したのであ る。1966年,市民と政府間の対話を促進し,貧 困とのたたかいに映画を利用するために,NF Bは農業省,先住民問題・北部開発省,労働省 な ど と の 共 同 プ ロ ジ ェ ク ト 「 変 革 へ の 挑 戦 (Challenge for Change)」をたちあげ13),映画 を通してコミュニティを再生しようとした。さ らに68年,NFBはジョージ・ストーニーを 「変革への挑戦」プロジェクト客員理事に迎え た。ストーニーは後に“パブリック・アクセス の父”と呼ばれるようになったアメリカ人映画 ジャーナリストで,ニューディール期にコミュ ニティ・テレビ運動のリーダーとして革新政策 を進めた農業安定局の南東部地域情報準局長で もあった。彼は,新聞記事・写真・ラジオ・公 開集会などを通じて農業安定局と住民との協働 政策をすすめていたからである。他方,ハロル
ド・イニスやマーシャル・マクルーハンら,カ ナダのメディア理論家も,映像制作者や教師た ちに映像のもつ可能性について,さまざまな影 響を与えていた14)。 「変革への挑戦」は,大小さまざまなコミュ ニティ再生プロジェクトを試みた。フランシ ス・ベリガンらによれば,その大半は必ずしも 成功したとはいえない15)。しかし,貴重な成功 例や教訓もあった。教訓の一つは,北東沿岸の 崩壊寸前のコミュニティ,フォーゴ島での“実 験”である。フォーゴ島は人口5,000人の小さ なコミュニティで,漁業の衰退によって人口の 半分以上が生活保護を受けており,政府は全住 民の移転を検討していた。NFBは各地で試み たように,現地のドキュメンタリー制作と上映 によって,島民に自分たちの置かれた危機的な 状況を理解させ,コミュニティ再生の行動を起 こすよう自覚をうながそうとした。しかしNF Bが作った“芸術的”作品を人々に見せて啓蒙 するだけでは,島民たちの自己組織化を喚起す ることはできず,狙いは挫折する。新たな制作 チームのリーダーであるコリン・ローは,“芸 術家”であるという特権を放棄し,コミュニテ ィのメンバーに撮影の題材や現場の選定に助言 をもらったり,撮影,編集,上映にも彼らの同 意を得るようにした。こうして『漁師たちの会 合』『クリス・カッブの歌』『フォーゴ島の子ど もたち』『ビリー・クレインは出ていく』など の作品が作られた16)。さまざまな試行錯誤の結 果,映画の企画から上映まで,島の住民たち自 身のイニシアティブによる素朴な方法と共同製 作によって,島全体がようやく組織化され,孤 立した人々の間に対話が生まれた。魚の加工場 協同組合ができ,漁船の建造や高校の再建も進 んで,コミュニティはよみがえった。政府はフ ォーゴ島の移転計画を断念した。 アルバータ州ローズデール村でのプロジェク トの成功例,その他の多くの地域での失敗例や 教訓からも,住民自身が映像の企画から撮影, 編集,上映にいたるまで,製作全体に参加する ことこそが,対話の復活や地域再建の鍵である ことが証明されていった。またこの時期,60年 代末に登場したソニーの携帯型ビデオカメラ 「ポータパック」は,映像制作に画期的な柔軟 性,機動性をもたらした。 ② アメリカのパブリック・アクセスの成立 現在では一千以上もの市民制作テレビのチャ ンネルを持っているアメリカでのパブリック・ アクセス制度も,簡単に生まれたわけではな い。 二つの世界大戦,それに続く冷戦,「言論の 自由」の国アメリカでの“赤狩り”の嵐などは, かつての牧歌的な言論・表現の自由空間を消滅 させてしまった。マスメディアは政治的な話題 をさけ,もっぱらショー・ビジネスに力を入れ, 市民はもはやマスメディアに意見を反映させる ことはできなかった。こうした状況に対して, ハッチンス委員会が「マスメディアの社会的責 任」や「行政権力によるプレス市場への参入, 反論の権利の実現」などを主張したのは前述し たとおりである。放送の監理・規制にあたる連 邦通信委員会(Federal Communications Com-mission:FCC)は,多くの係争を解決して行 く中で,旧無線法や通信法に示された「平等機 会」や「平等時間」の公平概念を発展させた規 則や裁決を出したが,1949年,放送業界に対し 「公共の利益のために放送免許保有者が放送施 設を開放し,総合的なフェアネス(公正)に基 づいて業務をおこなうことを要求する」という
声 明 「 フ ェ ア ネ ス ・ ド ク ト リ ン ( F a i r n e s s Doctrine)」を出した。60年代から70年代へか けて,このフェアネス・ドクトリンを武器とし て,「市民がマスメディアへアクセスする権利」 は劇的な展開をとげていった17)。その中心的な 力となったのは,人種的・社会的な少数派(マ イノリティ)たちによる公民権運動のたたかい である。 代表的な例では,64年から5年間にわたって 連合キリスト教会の黒人指導者エヴァレット・ バーカーが指導したWLBT事件がある。この 事件は,ミシシッピー州ジャクソンのテレビ局 WLBTが,アフリカ系アメリカ人に対して 「ヘイト・ショー」と呼ばれるひどい差別・攻 撃の番組をつづけるかぎり放送免許の更新を拒 否せよと,アフリカ系の住民諸団体がFCCに 訴えたものだ。悪質な放送内容の数多くの証拠 を提出し,バーカーたちは最終的に勝利した。 この判決は,動かすことのできない既得権のよ うに考えられてきた放送免許に対し,「公益義 務の不履行を理由とする取り消し」を現実化さ せたこと,視聴者団体や市民団体に放送運営の 当事者資格を認めたことなどに画期的な意味が あったと評価された。この判決に刺激されて70 年から71年にかけて,アフリカン,ネイティブ, ヒスパニック,少数の白人人種,中国人,女性 などのマイノリティたちが,FCCに対して数 十件もの放送免許への異議申し立てをおこなっ たという。 さらに「放送へのアクセス権」を有名にした のは,1969年の「レッド・ライオン事件」判決 である。この事件は,ペンシルバニア州「レッ ド・ライオン・ラジオ放送局(WGCB)」が 右翼的な宗教団体が提供する「ヘイト・ショー」 で,作家フレッド・クックの著作物を共産主義 的だと非難したことに対して,クックが無料で の反論の放送をFCCに求めたものである。F CCはフェアネス・ドクトリンの「個人攻撃の ルール」に照らして反論放送を行なうよう裁定 し,レッド・ライオン局との間で裁判になった。 高裁でも連邦最高裁でもクックが勝つことにな ったのだが,最高裁の多数意見を代表してホワ イト裁判官は,「最も大切なのは視聴者の権利 であって,放送事業者の権利ではない。(中略) 本件において決定的なのは適切なアクセスを受 ける公衆の権利である」とのべて,「知る権利」 や「言論の自由」を付託された放送局の権利よ りも,主体である視聴者の言論・表現の自由の 権利が優先することを宣言した18)。 反論の権利が合憲であるとされる一方,「意 見広告,論説広告の自由」をめぐっていくつか の裁判が提起された。大ネットワ−クCBSの 系列でニューヨークにある放送局WCBSの煙 草広告に対して,全米的な広がりをみせていた 消費者運動のリーダーのひとりである法律家ジ ョン・バンザフは,67年に反論放送を求め,翌 年勝利した。このほかにも次第に広がる訴えに 対して,FCCの判断は揺れ動くが,控訴裁判 所は「意見広告は知る権利を保障する重要な機 会である」という見解をとった19)。そしてこれ らの判決がその後の市民のメディア・アクセス への大きな画期をなした。さまざまな市民団体 が,大企業の一方的な商品広告への反論広告運 動や,ニクソン政権のベトナム・カンボジア侵 攻への反論を目的とする「意見広告」「論説広 告」放送のための時間を買う運動を起こしてい った。つまりレッド・ライオン事件は,結果的 に意見広告の自由を呼び起こすことになり,公 衆が自分の意見のための放送時間を買うことに つながっていったといえる。
一方で「メディアへのアクセス権」に理論的 根拠を与えたのは,ジェローム・A・バロンが 67年に発表した「マスメディアへのアクセス権 修正憲法第1条の新しい解釈」である20)。バロ ンは,市民は自分たちの意見を述べるためにマ スメディアへのアクセス権をもつ。このメディ アへのアクセス権は「修正憲法第1条」のなか に必然的に含まれているが,現在の「思想の自 由市場」はコミュニケーション産業における独 占によって脅かされていると指摘した。マスメ ディアへのアクセスが可能な放送事業者は言 論・表現の自由という憲法上の保護が与えられ るのに対し,アクセスを求める人々に対して 「メディアは憲法によって選ぶ自由を与えられ ている」と拒むのは,修正1条を口実に修正1 条の本質を否定することだと主張し,裁判,立 法,行政措置の三つの規制策を提案した。バロ ンの思想はマスメディアから遠ざけられた人々 に大きな勇気をあたえたが,既存のテレビ界は, 市民団体によるフェアネス・ドクトリン要求の “乱発”が続けば,争点となるような番組を作 ることを避けるようになり,アクセス権の保障 を強めることはFCCによる検閲につながるも のであると,反対の姿勢を崩さなかった。 しかし,73年に民主党が提起した事件では 「反論広告」は認められず,FCCと最高裁は, 放送事業者が「知る権利」に答えるべき公共的 な役割と,ジャーナリズムとして独自に主張す る権利の均衡が重要であるとして,一般的なア クセス権を認めず,妥協的な見解に次第に傾い ていくことになる21)。フェアネス・ドクトリン は1987年に,レーガン政権のもとで廃止され た。 ③ パブリック・アクセスの定着 1971年,ボストンの公共放送局WGBHで, 地元の団体ならどんなグループでも無料で放送 できる30分番組『キャッチ44』が開発・放送さ れ,サンフランシスコやニューヨークの公共放 送でも同じような試みがなされた。これら地上 波でのパブリック・アクセス番組は,長続きせ ずに終わったものの,市民によるテレビ番組制 作の先駆けとして大きな意味をもったといえよ う。『キャッチ44』はイギリスにも影響をあた え,公共放送BBCでのパブリック・アクセス 番組『オープン・ドア』や,NHKの“視聴者 制作”番組『あなたのスタジオ』の開発につな がったといわれる。 「変革への挑戦」プロジェクトにかかわった 後アメリカに帰ったジョージ・ストーニーは, 71年ニューヨーク大学オルターナティブ・メデ ィアセンター(AMC)や,地域メディア連合 を設立した。AMCは全国にオルガナイザーを 派遣し,各地の学校,図書館,医療健康センタ ーなどでのアクセス・センター設立を支援す る。76年,その活動は全国的な組織に受け継が れ,現在の市民放送の全国組織「コミュニテ ィ・メディア連合(Alliance for Community
Media:ACM)」に発展した22)。ACMは現在, 地域での組織活動,番組の交流,パブリック・ アクセスを巡る法的な環境整備など,アクセス 権の拡大活動を進めている23)。 1970年代に入ると,難視聴対策でのケーブル テレビの技術が実用化される。ケーブルテレビ は,再送信以外に多くのチャンネルを活用する ことができるため,大きなビジネス媒体になっ て既存の地上波を脅かすようになることを怖 れ,FCCや巨大ネットワークはケーブル会社 に強い規制をかけていた。しかし72年,FCC
は,ケーブルを活用することで増大するアクセ ス権の要求にこたえ,同時に多チャンネル化が 新しいビジネス・チャンスをもたらすと考え, ケーブルの公益性を見なおした。その結果,全 米上位100都市で,契約数3500以上のケーブル テレビのオペレーター(事業者)に,コミュニ ティでの3種類の「アクセス・チャンネル」を 設 け る よ う 指 示 し た 。 市 民 制 作 チ ャ ン ネ ル (Public Access Channel:PAC),教育関連チャ ンネル(Educational Access Channel),自治体 チャンネル(Governmental Access Channel)で ある。市民・住民からの持ちこみ番組は,先着 順,無差別に放送することにし,「アクセスセ ンター」を設けてカメラやスタジオなど制作施 設を開放し,市民・住民に対する制作トレーニ ングサービスを義務付けた。これが現在のパブ リック・アクセス制度の原形である。 その後,「PACはオペレーターの義務でな くコミュニティの権利である」との最高裁判決 や(79年),包括的なケーブル通信政策法(84 年)などを経て,パブリック・アクセス制度が ととのってきた。現在,全米でおよそ2500の地 域アクセス・チャンネルがあり,その内の約半 分がPACであるといわれる。毎週2万時間以 上制作される市民番組は,NBC,CBSなど の主要ネットワークが制作する番組を合計した よりも多い24)。 パブリック・アクセスの番組は大まかに次の ようなジャンルに分けられる。第一に各種団体 や個人の告知板的な番組。二つ目は作家やアー ティストたちの作品。三つ目はコミュニティへ の理解を求めたり,社会的な問題提起などであ る。日本と違って宗教団体の放送も自由である。 コミュニティには,例えば同性愛,環境保護, 中絶反対など同じ文化をもつという意味でのコ ミュニティを指す場合と,移民の出身や居住地 域を指す場合がある。それぞれの自慢の料理や 踊り,就職情報を伝えあうなど,市民チャンネ ルは賑やかで混然としている。こうした市民制 作の拠点であるアクセスセンターの運営主体 は,主としてケーブル事業者35%,NPOが26 %,自治体が20%,教育機関が12%だという25)。 運営の財源は,主としてケーブル事業者に対す る地域独占税があてられている。 (3)1980年代 西欧:市民放送の開始と電波 再編 ① 合法化された海賊放送 西ヨーロッパ,カナダ,オーストラリアなど では,現在,先住民や移民をふくめた市民の放 送局や放送番組制作は広く制度化されている が,こうした制度が開花したのは80年代半ば以 降である。80年代半ばに西ヨーロッパ各国で 「市民の放送参加」への大きなうねりが生まれ た要因はさまざまだが,一言でいえば,多民 族・多文化の国や地域で,マイノリティとして 発言できなかった人たちが,政治的・経済的・ 文化的に公平な制度を求めてきた運動の結果だ といえよう。アメリカでマイノリティの公民権 運動から市民放送が生まれたように,ヨーロッ パでも基本的な事情は同様だ。 それぞれの地域や民族が,固有の伝統,宗教, 言語や文化をもつヨーロッパでは,伝統的に公 共性への関心が強かった。互いの利害や考え方 を表現し,理解しあい,合意を得る場として, 議会,公園,パブなど,公共の言論・表現空間 が営まれてきた。新しい技術として生まれたラ ジオやテレビも,第一義的に公共的地位を与え られてきた。ヨーロッパでは電波監理の主体が 国(フランスなど)であったり,独立行政機関
(イギリス,オランダ,ドイツなど)であった りはするが,ほとんどの国で,80年代半ばまで 商業放送は存在せず,放送制度は,地上波を中 心にした公共放送や官営的な放送以外はなかっ た。公共放送の中に,宗教,民族,階級,文化 などが異なる多様な社会構成層の意見が反映さ れることが長い間の常識であり,「放送は社会 の鏡」といわれてきた。残存する宗教や階級制 度の保守性,ファシズムからの教訓,東西冷戦 への対応,アメリカからの刺激的な文化商品の はげしい流入などが,ヨーロッパ全体で,商業 放送に対して慎重な姿勢をとらせてきた。実際 には,伝統的で大きな宗教団体や労働団体,利 益団体だけが,こうした公共放送に参加する権 利を得ていたのである。 しかし,冷戦構造など旧い戦後体制の崩壊や 流動化,政治・経済・社会的枠組みの全欧州的 な再編・統合,単一のEU市場へ向かっての統 合がすすむにつれ,移民や難民が増加する。旧 植民地であるアフリカ,カリブ,アジア,東欧 などからの移民が急増し,それにともなって失 業や住居確保の問題が深刻化してきた。旧来の 文化装置である「公共放送」にあきたらなくな った人々は,70年代からラジオやテレビをも使 って,各地で無免許の海賊放送を始めていった。 生活・経済の問題だけでなく,原発,環境,ジ ェンダー,ネオナチなどの社会問題や,独自の 文化・芸術表現,若い世代の表現の要求なども, 新たなパブリック・フォーラムを求める切実な 動機になっていった。 80年代になると衛星やケーブルなどの技術が 飛躍的に進展し,また世界的に資本の流動化, 規制緩和の動きが広がる。テレビ・ネットワー クのみならず,映画やアニメーションなどの “ソフト”“コンテンツ”の取引やヨーロッパへ の流入も盛んになり,放送・通信をふくむ経済 の再編も進展する。多チャンネル化がすすみ, 視聴者,スポンサーのニーズが強いアメリカ映 画やスポーツやアニメなどの商業放送を許可せ ざるをえなくなる中で,西ヨーロッパ各国の電 波監理当局は巧みな放送政策をとった。衛星や ケーブルで商業放送を「民間放送」として許可 する一方,無許可だった市民・住民の海賊放送 を,一定のルールのもとに民間放送の一種の 「市民放送」として合法化したのである。免許 は非営利の登録団体(アソシエーション)など 責任ある組織に与えられた。 ② EUの電気通信市場政策 87年にいたって,EC(現EU)は単一の 「欧州電気通信市場政策」を発表した。これま できわめて多様であった放送制度においても, 各国・地域の独自性を尊重しながらも,共通の ガイドラインを定めるべく作業がはじまった。 冷戦の終結がこれに拍車をかけた。 1994年,プラハでのEU閣僚会議では,放送 が多くの人々にとって主要な情報の供給源であ るという前提のもとで,「公共放送の情報提供 責任」「資金調達」「政治的中立と公共説明責任」 「新しい技術へのアクセス」の四つの分野にわ たる「公共放送の将来に関する決議」が採択さ れた。欧州人権保護条約第10条に保障されてい るように,ヨーロッパのすべての市民は情報と 知識を受ける権利があることを根拠に,「ヨー ロッパの公共放送を公明正大で多元性のある編 集方針にゆだねること」,「過去を振り返り国家 の文化的遺産に目を向ける必要性と同時に,民 族的少数派の視聴者のニーズに応え,文化的に 革新的であること」を求め,9項目の宣言を決 議している26)。
(1)番組を通じて公共のすべてのメンバーに, 判断の基準と,すべての個人・グループ・コミ ュニティの社会的な結合や統合のための要素 を提供する。特にいかなる文化的,性的,宗教 的,人種的差別も排除しなければならない。 (2)できるかぎり幅広い意見や見解が表現でき る公共の議論の場を提供する。 (3)不偏不党のニュース,情報,コメントを放 送する。 (4)倫理的・質的に高い基準をみたし,市場の 力に屈して質の追求を犠牲にすることのない 多元的で,革新的,しかも多様性に富んだ番 組を提供する。 (5)民族的少数派のニーズに応えつつも,幅広 い公共の利益のための番組スケジュールおよ びサービスを開発・組織する。 (6)相互理解と寛容を強化し,民族の多様性と 多文化的な社会を振興する目的を持ちなが ら,社会におけるさまざまな哲学的思想や宗 教的信仰を反映する。 (7)番組編成を通じて,国家とヨーロッパの文 化的遺産の多様性の評価や伝播・普及に積極 的に貢献する。 (8)提供された番組,特に長編映画,ドラマそ の他のクリエイティブな作品のかなりの割合 が,オリジナルの製作であることを確保し, 独立系のプロデューサーを使い映画部門と協 力する必要があることを認識する。 (9)商業放送が通常,提供しないような番組サ ービスも提供して,視聴者に幅広い選択を与 える。 放送の公共性の基準として,公正な情報提供, 公共の議論の場の提供,公平なニュース,多様 性の確保,少数民族の利益と全体のバランス, 思想・宗教の反映,文化的遺産の普及,独立系 のプロデューサーによるオリジナルな番組制 作,商業放送から排除された文化の提供,など を求めるものだ。 ③ ドイツ・オランダ・フランスの市民放送 ヨーロッパ各国の市民放送の成立と現況につ いては別稿で報告しているので27),ここでは概 観するにとどめる。 オランダでは,地上波は長らくオランダ放送 協会(Nederlandse Omroep Stichting:NOS) によって運営されてきた。伝統的に「社会の柱」 と呼ばれてきた多様な宗教・労働・文化団体が ユニークな放送団体NOSを結成し,それぞれ 会員数に応じて放送時間と予算が配分されてき た。70年代から80年代にかけて,多くの失業者 や若者たちはNOSにあきたらず,さまざまな 海賊放送をくりひろげた。85年,ケーブルテレ ビが市民に開放され,「オープンカナル(市民 チャンネル)」化が進んだ。アムステルダム地 域の200の市民放送グループをまとめるアムス テ ル ダ ム 圏 域 放 送 協 会 ( Stichting Amster-damse Locale en Regionale Televisie en Radio: SALTO)は,テレビ3波,ラジオ6波を運営 するが,うちテレビ2波,ラジオ5波を,一定 の料金でオープンカナルに使っている。移民テ レビやアーティストの番組の人気が高い。2000 年の放送法改正で受信料は税金化され,各種ア ソシエーションに与えられていた免許はNOS に一本化され,放送制度は中央集権色の濃いも のに変わりつつある。 海賊放送はイタリアから広がったといわれる が28),イタリアの影響を色濃く受けたフランス でも,パリ五月革命(1968)など社会運動の広 がりの中で,「ラジオ・リーブル(自由ラジオ)」 「テレ・リーブル(自由テレビ)」と呼ばれる数
百の海賊放送が行われた。ケーブルや衛星など の普及を背景に,商業放送や市民団体の参加要 求が強まり,ミッテラン大統領就任後の81年, ラジオの民間放送が許可され,市民放送は一時 千局を越えたといわれる。テレビでも80年代末 には海賊放送に免許が与えられ,2000年のコミ ュニケーション法改正で,非営利市民団体(ア ソシアシオン)でも免許をもつようになった。 01年現在,アソシアシオン放送局は全国でおよ そ100局になる。国土が広いフランスでは,ケ ーブルだけでなく地上波でも市民がチャンネル をもつ。パリでは東部の労働者街を中心に, 「テレ・ボカル」など放送免許をもつアソシア シオンが運営する市民テレビ6局が,2001年か らUHF「36チャンネル」を時間帯で分け合っ て放送している。しかし市民放送局の財政はき わめてきびしく不安定だ。パリの街角には市民 の制作番組を“放送”する「カフェ・テレビ」 が20あまりもある。市民テレビ局「テレ・ボカ ル」は,ふだん失業問題や市民の芸術作品など を制作放送しているが,面白い短編などは直接 カフェに持っていき,映像を流しながら客であ る市民たちと直接議論する。明らかに「対話・ 交流する空間」を,テレビ放送網と同等に考え る現代のパブリックフォーラムである。 ドイツでは中世から伝統的に地方分権が強 く,ラジオ放送がはじまった最初から,言論・ 表現の多様性・多元性を確保することが重要な 課題であった。多元性確保は,外部と内部の両 面から制度化されてきた。外部制度としては, 文化・放送に関して連邦が統一政策をもたず, 各州ごとにメディア法を決め,また最高意思決 定機関である放送委員会が,様々な社会階層の 意見を全体として放送に反映させるため多元的 に選出・構成されることになっている。内部制 度としては番組の編成・制作における多元性を 確保し放送の均衡性を保つための番組原則を定 める他,番組制作者に「内部的放送の自由」を 与え,編集綱領によって番組制作者の表現の自 由を制度的に保証してきた29)。戦後はナチスド イツへの反省もあって一層分権化がすすみ,州 ごとにちがうメディア法によって,州が公共放 送を運営してきた。海賊放送で主張を展開する 市民団体は,80年代半ばには60局にもなったが, 84年,最初の「オープンチャンネル」の実験が はじまり,ケーブルで商業放送が許可されると 同時に,海賊放送にも免許が与えられた。これ は01年現在,旧西ドイツを中心に全国で77局に もなる。これとは別に,各地に非営利団体が運 営するラジオ放送があったり,北部のノルトラ イン・ヴェストファーレン州では,46の商業ラ ジオ局すべてに「市民制作の時間」が義務付け られているなど,5種類の市民放送が認められ ている。財源は連邦合同の放送局ZDFの受信 料から2%がオープンチャンネルに配分され る。 国によってさまざまな特徴をもっているもの の,総じてヨーロッパ各国はこれまでの“官製 公共放送”に加えて,主としてケーブルテレビ やラジオを使った多様な市民制作番組を開発す ることで,地域社会の新たなパブリック・フォ ーラムを用意してきたといえるだろう。しかし, 法制度や電波監理の秩序に入ることで,市民セ クターの一部は海賊放送時代のエネルギーを失 いつつあるといえるかもしれない。 (4)90年代以降 民主化と新たな多様性保障 韓国,台湾,オーストラリアなど近隣諸国で も,確実にパブリック・アクセスへの動きが広 がっている。
韓国では80年代なかば以降,政治・社会全体 の急速な民主化と歩調をあわせて,言論の民主 化,新聞・官営放送への批判と改革が進んだ。 公共放送KBSに対しても,市民の受信料不払 い運動(86年),テレビを切ろう運動(93年) などの民主化運動,視聴者参加運動がくりひろ げられた。金大中政権による2000年の放送法の 改正によって,地上波やデジタル衛星放送で市 民アクセス番組が義務づけられ,KBSでは01 年5月から,『開かれたチャンネル』という30 分のパブリック・アクセス番組をはじめるにい たった。02年からはじまったデジタル衛星放送 では,アクセス専門のチャンネル「市民放送 (RTV)」が設けられている。戸主制度への批 判,メディア改革問題,南北統一問題などなど, 韓国のパブリック・アクセス番組は社会問題を 真っ向から扱うものが多い30)。 台湾では,国民党の戒厳令体制のもとで,地 上波は国民党,政府,軍に専有され,さまざま な民主化運動は,ながらくケーブルテレビ(第 四台)を使った海賊放送でその主張を展開して きた。87年の戒厳令の解除,88年の報道管制解 除,93年のケーブルテレビ合法化をへて,その 後急速に政治とメディアの民主化が進んだ。97 年に成立した公共テレビ法では「公平性と客観 性を保つために,公共テレビは社会の市民大衆 および各団体に公平な参加の機会,意見を発表 する機会を与えるべきである」と規定された。 マイノリティ団体の提案が優先的に採用される ルールである。現在台湾各地に,パブリック・ アクセス番組だけでなく,さまざまな社会問題 をスタジオで討論・対話する市民参加番組や, 「コールイン」という電話による番組参加形式 がきわめて盛んだ31)。 国家的に制度化された市民放送とは別に,国 際社会でもマスメディアへのアクセスの権利や コミュニケーションの権利の主張が強くなって きている。植民地からの解放や第三世界の人々 の自立への流れの中で,大国支配の「世界情報 秩序」に対して,「情報の自由(知る権利)」,「メ ディアへのアクセスの自由(知らせる権利)」, 「コミュニケートする権利」の要求などが,世 界のメディアシステムや情報中枢からもっとも 排除されてきた周縁世界から起こってきた。 1948年,国連は「すべて人は意見および表現 の自由を享有する権利を有する。この権利は, 干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由な らびにあらゆる手段により,また国境を越える と否とにかかわりなく,情報および思想を求め, 受け,および伝える自由を含む」という世界人 権宣言(第19条)を採択した。この宣言は,ジ ャン・ダルシー(元世界放送通信機構会長)に よる基本的人権としての「コミュニケートする 権利」の提唱(69年)に発展し,国際的な議論 を呼び起こした。60年代のアジア,アフリカ, 中南米での民族解放運動の発展,中近東諸国の 台頭,ベトナム独立戦争,アメリカの公民権運 動と反戦運動,パリの五月革命と東欧のたたか いなど,途上国のたたかいと先進国内部でのた たかいは,深く連動してダイナミックなうねり をつくりあげていった。 70年代に入ると,途上国の情報の権利を主張 する「新しい世界情報秩序」の論議が国連を主 な舞台にして活発になり,ユネスコ・コミュニ ケーション問題委員会の報告書で「コミュニケ ーションの双方向性,自由な交換,アクセスと 参加の要求」(80年)や,コミュニケーション 資源の再配分が提唱された32)。94年の「子ども の権利条約」では,子どもたちのメディアへの アクセス権が提示され,95年の国連世界女性会
議でも,女性のアクセス権のために各国政府, メディア,NGOがとるべき具体的な行動の指 針が示されるなど,国連は情報/メディアシス テムへのアクセスプランを着実に進めてきた。 一方,新自由主義の旗をかかげたグローバリ ズムは,国連の枠をつきやぶって世界を覆いは じめる。これに対し,草の根レベルでは,「世 界コミュニティ・ラジオ協会(AMARC)」,「世 界キリスト教通信協会(WARC)」,「ラテンア メリカ報道社(ALAI)」,通信社「インター・ プレス・サービス(IPS)」,「進歩的コミュニケ ーション連合(APC)」などが生まれ,先進国 に対抗するメディア・ネットワークを形成して いった。農業や生活環境を破壊されてゆくラテ ンアメリカやアフリカなどでは,次第に反グロ ーバリズムの運動がひろがり,シアトルでの WTO 会議での抗議(99年),ポルト・アレグ レ(ブラジル)での「世界社会フォーラム」の 旗揚げ(2001年)に広がった。ブラジルの「土 地無き農民運動」,フランスからはじまった 「ATTAC」などがよびかけ,経済や貿易,環境, 開発,戦争,労働,貧困,食料,民族問題さま ざまな議題を討議する。通信やメディアの問題 は,3回目のフォーラム以来大きな焦点となり, ジャーナリスト小山帥人氏によれば,15万人が 参加した05年のフォーラムには,4千人以上の ジャーナリストが集まり,「女性のエンパワー メントとコミュニティ・メディア」,「中東のニ ュースをどう西側に反映させるか」,「精神障害 者によって作られるラジオ番組」,「ポルトアレ グレにおけるゲイのコミュニケーション」,「ジ ャーナリストとメディアの責任」など20あまり の分科会が開かれたという。 3.カナダのパブリック・アクセス制度のリア リティ (1)多文化主義社会と先住民の放送局 パブリック・アクセスの成立を概観してみた が,いずれの国々でも,市民放送は政治や社会 システムの変動や改革と密接に結びついて生ま れてきた。またパブリック・アクセスの基本政 策やその媒体は,メジャー資本が権利を握る地 上波ではなく,ラジオやケーブルテレビを中心 に展開されてきた。ところがカナダのアクセス 制度は,メジャーの地上波メディアも含めた放 送体系全体にわたる形で進められている。カナ ダ社会の理念である〈多文化主義〉を,放送制 度にも反映させてゆく中で,有機的・重層的な 市民参加の体系をととのえ,実質的な市民放送 局や市民番組を推進しているのである33)。 たとえば,カナダの真中に位置するウィニペ グ(マニトバ州)のNCI(Native Communi-cations Inc.)も,先住民のFM放送局の一つで ある。NCIはウィニペグを本部に,最北の町 チャーチルまで80のコミュニティに向けて49の 放送局を運営する。FMラジオだけでなく,地 上波・衛星用テレビ番組や印刷メディアも制作 している。北部のイヌイット,クリー,オジブ エ,メティスはじめ多くの先住民の言語で独自 の音楽や文化を紹介する番組,女性専門の番組, 長老が若者に伝える番組などを制作している。 電話での視聴者参加(コールイン)が盛んだ。 NCIの合言葉は「シェアリング・ボイス」。 先住民と,ニューカマーである視聴者・住民と が,互いの「意見」を分かち合うことを意味し ている。NCIは相互コミュニケーションの施 設でもあり,同時に先住民の自己統治の能力を 示す場所でもある。カナダ全体で,こうした先
住民の地上波ラジオはおよそ40局,地上波テレ ビは10数局にもなる。 テレビの全国ネットAPTN(Aboriginal Peoples TV Network)が放送をはじめたのは 1993年。かつてカナダには白人のテレビしかな かった。しかし今,開発と漁業権の問題,選挙 の報道,教育や青少年の犯罪などをめぐって, 先住民たちは白人の視点とは違う,自分自身の 生活や価値観からニュースを取材・制作する。 経営は楽ではないが,最新のスタジオ設備や制 作体制をととのえ,ニュース,ドラマ,料理番 組,アニメーションなど,週30時間の番組を作 り,全国配信する。 (2)コミュニティへの番組開放 多くの国の「市民の放送参加」は,地域メデ ィアであるケーブルテレビを使って,限定的に 行われてきた。メジャーメディアの“聖域”と しての地上波ネットワークや既存のテレビ市場 の権利を侵さない政策である。しかしカナダで の基本的な考え方は,地上波/ケーブル,ラジ オ/テレビ,全国ネットワーク/地域放送,公 共放送/商業放送,といった放送媒体の枠組み, 地域の枠組み,市場の枠組みを超えた電波資源 全体を総合的に配分し,コミュニケーション体 系を再編する形で行なわれている。 一方カナダの放送法では,「公共放送」,「民 間放送」という区分のほかに,独特の「コミュ ニティ放送」という免許の範疇が定められてい るのがユニークだ。どの範疇でも,英仏2ヶ国 語放送の義務化と,多文化主義のためのエスニ シティ放送を規定している。つまりアメリカを 強く意識した対外政策として,〈カナダ的な文 化や番組の保護・振興〉を宣言し,対内政策と しては〈多文化主義〉や〈多様なコミュニティ〉 の振興をすすめている。 地域コミュニティ放送に関する政策は,地上 波政策とケーブル政策に分かれる。大都市の地 上波では周波数競争がはげしく,経営には大き な資金が必要で,市民が番組を制作したり放送 局を経営するのは限界がある。逆に人口がまば らな極北では,電波の波長が長くて遠距離に届 き,また都会ほど市場やスポンサーに縛られな いため,地上波放送局の経営が可能であり,特 にラジオは比較的容易である。そのため地上波 コミュニティ局の免許のほとんどはイヌイッ ト・コミュニティに割り当てられている。一方 都市圏では,一般市民が制作に参加できるのは, 主としてケーブルのコミュニティチャンネルで ある。ケーブルでのコミュニティ放送免許には, 「一般市民が制作するコミュニティ放送免許」 と ,「 多 言 語 ・ 多 文 化 放 送 ( M u l t i c u l t u r a l Channel)免許」の2種類がある。 たとえば西海岸の大手ケーブルであるショ ウ・ケーブルテレビ社が経営する多文化チャン ネルは,バンクーバーの20数カ国のコミュニテ ィグループが約30の言語で放送しており,カナ ダのモザイク文化を象徴するものだ。バンクー バー内外およそ3万人の日系人コミュニティ も,「環太平洋文化交流協会」(Inter Cultural Action Society:ICAS)が中心になって,この チャンネルで『Nikkei TV』を制作してきた。 日本のニュースや話題ではNHKやMXテレビ の協力を得ているほか,多数のボランティアが 週一回30分の番組を作る。コミュニティ・メン バーのインタビューや地域でのイベント,領事 館提供のビデオなどが中心で,エスニックな町 ならではの多彩な料理番組もある。番組経費は, スポンサーからの寄付,会員の会費や助成金で 運営している。
コミュニティチャンネルの免許局は,放送時 間の60%以上をローカル番組に,なおかつ30% 以上を市民のアクセス番組にあてなければなら ない。市民の番組を支援する制作センターの費 用は,ケーブル会社の拠出金や国の基金によっ ている。ケーブル事業者が自らコミュニティ番 組を制作できない場合は,代わりに市民団体に 免許が与えられる。 (3)カナダ的文化の創出 カナダではかつての宗主国英仏2カ国語が公 用語でもあり,ケベックの分離独立運動を抱え るなど,各州の政治的・文化的主張は多様だ。 加えてヨーロッパ諸国やカリブ地域,近年は中 国はじめアジアから多数の移民を受け入れてき たため,人種的・文化的多様性がますます顕著 になってきた。他方で多くの先住民による権利 回復運動も徐々に強くなってきて,さまざまな 人種的・文化的少数派(エスニシティ)がそれ ぞれの文化的な価値や正当性を主張してきてい る。71年,当時のトルドー首相は,独自の民族 的表現に保護を与え,文化的多様性を基本政策 とする方向性を打ち出した。他方,人口の多く はアメリカとの国境地域に住み,建国の当初か ら政治的にも経済的にも,また映画やテレビ, コマーシャルなどを通して巨大な隣国の影響を 受けてきた。カナダはこうした環境の中で,た えず国家としてのアイデンティティの確保に悩 まされてきたといえる。 80年代に入ると多文化主義社会の建設をめざ すようになり,1982年『権利と自由のカナダ憲 章(Canadian Charter of Rights and Freedom)』 の採択・憲法化,88年には基本理念『多文化主 義法(Multiculturalism Act)』を制定する。放 送においても『カナダの言語・文化的多様性を 反映した放送方針』(85年)で,公用語以外の 第3言語による放送を進める指針を打ち出し, 91年の放送法ではアメリカ製番組の流入対策と して,一定の比率で国内制作番組を放送する 「カナディアン・コンテンツ規制」を定めた。 国の予算で運営するカナダ映画開発協会(現・ テレフィルム・カナダ)や,カナダ放送番組開 発協会が組織され,アメリカ文化に対抗するさ まざまな施策が取られてきた。 やや分かりにくいが,この「カナダ的な文化 や番組(カナディアン・コンテンツ)」とは, 特定の番組内容・形式を指すのではなく,逆に 「多様性こそがカナダ的である」という表現に なっており,この重層的な方針こそが,カナダ の文化・放送政策の特徴的な核心なのである。 ただし,こうした規定はあくまで規制当局で あるカナダ・ラジオ・テレビ・電気通信委員会 (Canadian Radio-Television and Telecommuni-cations Commission:CRTC)による規範であ る。市民制作ルールを守らず,コミュニティチ ャンネルをビジネスに使っていたり,娯楽番組 で埋めているようなケーブル事業者もあり,規 制当局は新しい規則(2002-61規則)をつくっ て規制を強めつつあるのが現状だ。「多文化主 義」の旗を掲げても,アメリカを中心とする怒 涛のような商業文化の流入を受け止め,文化を 越えて共生するというカナダの政策はきわめて 理想主義的なものである。しかし試行錯誤を繰 り返しながらも,多様な文化とコミュニティに 電波を開放してゆこうという基本政策は,徐々 に浸透しつつあるといえるだろう。 注 1) 日本マスコミュニケーション学会2000年度秋 季大会(2000年10月東京経済大学)のワークシ ョップ「放送デジタル化の展望とオーディエン
スの利益」において,パネラーの郵政省N放送 行政課長は「放送行政の仕事は,電波をいかに 公平に放送事業者に割り当てるかであって,オ ーディエンスの利益をはかることではない」と 明言したが,これまで郵政行政では,既得権を もつ事業者と巨大参入企業に電波の割り当てが 優先的に行なわれてきた。 2) グローバル化とそれに関するメディア言説に 対する批判は数多いが,たとえばノーム・チョ ムスキー『グローバリズムは世界を破壊する プロパガンダと民意』(明石書店,2003),や, アルンダティ・ロイ『誇りと抵抗』(集英社新 書,2004)などが,根源的な問題提起を行なっ ている。 3) 「放送を語る会」の調査記録『放送トライアン グル』第10号(2003.10)によれば,03年のイラ ク戦争報道において,TBS,テレビ朝日と比 べ,NHKニュースでは従軍記者レポート,米 軍見解,日本政府見解が圧倒的に多く,逆にイ ラク側見解や,反戦運動の報道が極めて少なく, バランスを失している。また04年,有事の際の 「指定公共機関化」政策に対し,当初民放は協 力を拒否し,NHKは条件付で受けいれること を表明した。 4) 日本テレビ放送網のプロデューサーが視聴率 調査会社「ビデオ・リサーチ」の調査対象世帯 に現金を渡して操作した事件(2003年10月24日 に日本テレビ発表)。さらに同年6月にも別の制 作費還流事件で1億円を隠していた。02年読売 テレビでも同種事件がある。04年7月,NHK プロデューサーが『紅白歌合戦』などを名目に 会計操作で5000万円を着服したことが発覚,ま た北京支局長の多額のカラ出張,営業職員の受 信料着服など多数の不正行為の責任をとる形 で,2005年1月海老沢勝二会長が辞任した。 5) メディア総合研究所『NHKからの回答を受 けて∼指定公共機関をめぐる「NHKに対する 質問」∼』メディア総合研究所,2004。 6) 津田正夫『メディアアクセスとNPO』(リベ ルタ出版,2001)第2部参照。 7) 大石泰彦『フランスのマス・メディア法』現 代人文社,1999,P83∼105。このときは成立し なかったものの,新聞・定期刊行物については 「出版の自由に関する1881年7月29日法」や多 く の 判 例 で 確 定 し , ま た 放 送 で の 反 論 権 は , 1972年の放送法で制度化された。ヨーロッパで は,現在ほとんどの国で「反論権」が制度化さ れている。 8) 野村修・石黒英男編『ベルトルト・ブレヒト の仕事6 ブレヒトの映画・映画論』河出書房 新社,1973,P297。 9) 粉川哲夫編『これが「自由ラジオ」だ』晶文 社,1983,P200。 10) こうした経過は,ウィルバー・シュラム/崎 山正毅訳『マス・コミュニケーションと社会的 責任』(日本放送出版協会,1959)などに詳し い。 11) ユルゲン・ハ−バ−マス/細谷貞雄・山田正 行訳『第2版 公共性の構造転換 市民社会の カテゴリーについての探究』(未来社,1994), 奥平康弘『「表現の自由」を求めて アメリカ における権利獲得の軌跡』(岩波書店,1999), 花田達朗『公共圏という名の社会空間』(木鐸 社,1996),花田『メディアと公共圏のポリテ ィクス』(東京大学出版会,1999),阿部潔『公 共圏とコミュニケーション 批判的研究の新た な地平』(ミネルヴァ書房,1998)など。 12) 谷川義雄『ドキュメンタリー映画の原点 そ の思想と方法』(風涛社,1971)参照。 13) NBFによる『変革への挑戦』などの経緯や
総括は,Ralph Engelman, Public Radio and Television in America: A Political History,(Sage Publications, 1996)Chapter 11 Public Access: The Vision of George Stoney。フランシス・ベリ ガン編1977/鶴木眞監訳『アクセス論』(慶応 通信,1991)に詳しい。 14) Ralph Engelman前掲書,P222∼224。 15) アール・ローゼン,レグ・ハーマン「生涯学 習のためのコミュニティ・メディア」フランシ ス・ベリガン編前掲書。 16) ボイス・リチャードソン(Boyce Richardson) は以下のように総括した。「人々が政府権力と コミュニケーションをとるためのより適切な方 法を確立する。映画制作におけるプロセスの重