はじめに 筆者のこれまでの検討で、明治中期から昭和戦前期にかけての茶の 湯の世界では、産業界ではライバルと目され厳しい競争関係にあった 四大財閥の枠を越えた濃密な交流が浮かび上がった ︵1 ︶ 。事実 、一代 で四大財閥の一角に安田財閥を築き上げた安田善次郎︵松翁︶と幕府 や諸藩の為替用達を務めた近世期から続く特権的な豪商を前身とした 三井財閥の中核に位置する三井物産社長の三井八郎次郎 ︵松籟︶が 、 明治三五年︵一九〇二︶一月に安田善次郎の別邸で開かれた和敬会新 年茶会に際し田舎家前で並んでいる写真が残されている。なお、安田 善次郎 ﹃松翁茶会記﹄では 、当日は三井銀行総長の三井高保 ︵華精︶ も参加する予定であったが、感冒で欠席したと記されている ︵2︶ 。 また、 ﹃藤原銀次郎回顧八十年﹄によれば、新聞業界でライバル紙と して鎬を削った大阪朝日新聞社長村山龍平︵香雪︶と大阪毎日新聞社 長本山彦一 ︵松陰︶ は、 両社に用紙を納入していた王子製紙社長であっ た藤原銀次郎︵暁雲︶の計らいで後に今日庵老分となった谷川茂次郎 ︵茂庵︶の京都大原の茶室で同席し 、その後 、村山は本山を兵庫県御 影の本邸での茶会に招いている ︵3 ︶ 。なお 、村山龍平は明治三六年に 大阪の実業家たちが結成した浪速風流十八会と明治四一年から﹃篠園 会々記集﹄が残されている篠園会のメンバーでもあった ︵4︶ 。 根津嘉一郎︵青山︶も例外ではない。例えば、日本麦酒鉱泉社長の 根津と ﹁ ビール王﹂ といわれた大日本麦酒社長であった馬越恭平 ︵化生︶ は、明治後期から昭和戦前期にかけてのビール業界で、愛知県半田で 操業していた丸三麦酒をめぐる対立を発端とする﹁ビール戦争﹂とい われた様に、永年にわたり激しい販売競争を展開した。この商売敵と しての対立は馬越が死去する昭和八年 ︵一九三三︶ ま で続いた ︵5︶ 。 ﹃ 根 津翁伝﹄は、鉄道同志会に属していた京王電気軌道社長の井上篤太郎 が語る二人の商売敵振りを伝える鉄道同志会後の宴会席上におい互の ビールをけなし合つているエピソードを紹介している ︵6︶ 。 しかし、高橋義雄︵箒庵︶の一連の﹁茶会記﹂によれば、根津と馬 越の二人は 、 高橋 、野崎広太 ︵ 幻庵︶ 、 益田孝 ︵鈍翁︶らが開いた茶 会では度々同席しており、時には、亭主としてお互いを茶客として茶 会に招いてさえいる ︵7 ︶ 。これに加えて 、近代数寄者の社会文化事業 として名高い高野山金剛峰寺霊宝舘建設事業に関わって、根津と馬越 はともに発起人総代に名前を連ね、霊宝舘の建設場所選定のための高 野山への調査旅行に際しては同行し、さらに、上棟式や落慶式にもと 根津嘉一郎の茶界ネットワーク 三一
根津嘉一郎の茶界ネットワーク
齋
藤
康
彦
三二 もに列席しているという ︵8︶ 、驚嘆すべき事実が明かとなった。 さらに、明治中期から昭和前期にかけて甲州財閥の﹁牙城﹂であっ た東京電灯を舞台とする昭和初年における経営再建過程で、永年にわ たって若尾逸平ー民造ー璋八と若尾一族を中心に甲州財閥が掌握して いた役員人事に介入してきた三井財閥を代表するかたちで東京電灯に 乗り込んできた藤原銀次郎と根津嘉一郎は重役会の席上では激しく対 立し、昭和二年︵一九二七︶に二人同時に東京電灯の取締役を退任す るという ﹁東電騒動﹂ と 呼ばれる事態を惹き起こしている ︵9︶ 。その後、 東京電灯では若尾璋八が昭和五年六月に社長を辞任する事態に追い込 まれた。ところが若尾璋八社長追い落とし騒動の真っ只中の同年五月 に根津は東京白金にあった藤原邸の暁雲庵における初風炉の茶席に招 かれ正客を務めている ︵ 10︶。なお 、同席者は高橋義雄 、岩原謙三 、正 力松太郎、川部太郎であった。そして翌六月には、今度は根津が藤原 夫妻を根津本邸の ﹁ 青山夜話会﹂に招いている ︵ 11︶。同席者は高橋義 雄、 大橋新太郎︵松翁︶ 、 仰木敬一郎︵魯堂︶夫妻、 山澄力太郎であっ た。この時は藤原が正客を務め、根津も、 今夕は小間にて初風炉の一会を催す筈であつたが、余りの暑さに 俄に趣向を一変して聊か書院茶の真似事を試むる次第なれば、拙 者もお相伴致すべく、諸君も篤と打寛いで一夕を過されたし ︵ 12︶ と 、挨拶している 。時はまさに ﹁東電騒動﹂の最終局面にあった 。 これまでの経緯を考えて一般的にみれば﹁不倶戴天﹂の間柄といって よいはずである。根津の発言を受けて記録者である高橋は、 会心の茶友相会して今夕の如く打寛いで一夕の驩を尽すのは、是 れぞ我が茶事の本旨で、彼の手本本位で窮屈にのみ立振舞ふを能 事と思ひ作すは所謂形式茶家流の僻事である。乃ち今夕の接客法 は時と場合に相応した至妙の茶略と思はれたが、相客諸君も定め て同感であつたらうと思ふ ︵ 13︶ と、 ﹁我が茶事の本旨﹂と賛辞を惜しまない。なお、高橋は﹁此程東 電問題につき留女役を勤めて日夜多忙を極めたる根津青山翁は、其為 め今年の初風炉茶会を台なしに為し終るならんと茶友が気遣ひたるに も似ず 、頓て首尾克く其役目を果すや﹂と紹介している ︵ 14︶。高橋は 根津と藤原の置かれた立場が十分に分かっていたのである。高橋のい う﹁会心の茶友相会し⋮打寛いで﹂という表現は、根津と藤原の実業 世界だけの活動を見ていたのでは決して想像できない状況である。 これだけではない、大正一二年︵一九二三︶の関東大震災によって 大きな被害を受けた東京電灯を経営的にさらに追い詰めることになる ﹁電力戦﹂を挑んだ側の東邦電力社長の松永安左エ門 ︵耳庵︶や 、 若 尾璋八退陣後に東京電灯の社長となった小林一三︵逸翁︶などとも根 津嘉一郎は茶席で同席しているのである ︵ 15︶。 以上の記述でも明らかな様に、実業家根津嘉一郎を取り巻く従来か らの﹁資本系列﹂ 、﹁ 取引関係﹂ 、﹁競争者﹂といった経済的な要素では全 く捉えられない茶の湯を媒介としたネットワークが存在したのであ る。そこで本稿は、近代数寄者根津嘉一郎を中核とするお茶人のネッ トワークの総体像を明らかにするところに課題を設定する。 具体的な分析検討の前に、本稿で使用するデータベース構築 の作業 手順を説明しておきたい 。第一段階として一三冊の ﹁茶会記﹂ ︵ 16︶ に 記載された根津嘉一郎が主催した自会と、根津が招かれて出席した他 会をすべて書き上げる 。第二段階として 、根津の自会ごとの茶客の 、 根津が出席した他会では亭主や根津と同席した茶客の名前や肩書きを 記入した人名簿を作成する。 この作業によって確認できた根津が関係した茶会は一三三回であっ た。また、根津が自会に招いた茶客の延べ数は三二三人、茶客として 山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度
の根津を招いた亭主は延べ四九人、さらに、根津と他会で同席した茶 客は延べ二〇三人が判明した。ちなみに、根津に招かれた茶客の実人 数は九二人、根津を招いた亭主のそれは三四人、相席した茶客は八九 人である。確認できた登場人物の全てへの言及は不可能であり、 また、 その必要もないだろう。ここでは根津と近代数寄者との関わりに焦点 を当てて検討を進めていく。 第一節 根津青山の招客 万延元年︵一八六〇︶生まれで近代数寄者としては第三世代に属す る根津嘉一郎は 、 周知のように大正 七年 ︵一九一八︶ 一 一 月 に 東 京 青 山 の 本 邸 で ﹁ 初 陣 茶 会 ﹂ を 開 催 し、東京を中心と す る 東 都 の 茶 界 にデビューした 。 そ の 後 、 最 後 と なった昭和一四年 ︵一九三九︶一二 月の ﹁歳暮茶会﹂ までに、細かくカ ウントすると六八 回の自会の開催が 確認されている。もちろん、 ﹁茶会記﹂などの記録で判明した茶会のみ であることはいうまでもない。 第1表は、根津嘉一郎が亭主としての開催した茶会に招かれた茶客 を出席回数ごとに集計したものである。実人数は九二人にのぼる。参 考までに茶会への出席が三回以上の三九人の茶客は名前を書き上げて おいた ︵ 17︶。なお、道具商にはアステリクスが付してある。 この一方で、茶客の三分の一強に当たる三六人は根津が開催した茶 会への一回のみの参席者であり 、五七 ・ 六パーセントが二回以下の茶 客である。判明している根津の自会が六八回であったと考えると、こ れらの六割近い茶客は根津の茶会への頻繁な出席者とはいいにくい状 況にある ︵ 18︶。逆にいえば第1表で名前の挙がっている三九人が根津 の自会の茶客の中核部分を形成していた。ちなみに、根津が開いた自 会で正客が判明するのは三九会である。うち一八会で高橋義雄は正客 を務めている。これに次ぐのが益田孝の七回であり、さらに、馬越恭 平と畠山一清の二回が続く。なお、正客を一回務めたのは一〇人を数 える ︵ 19︶。これらの数値は高橋義雄の ﹁ 茶会記﹂をデータソースとし ている影響を割り引いて考えなければならないが、根津嘉一郎の茶の 湯の﹁後見人﹂としての高橋の立場を雄弁に示しており、近代数寄者 のリーダーとしての益田孝や馬越恭平の貫禄を示すものであろう。 根津嘉一郎が開いた茶会への出席回数では 、高橋義雄の三八回が 一二回である山澄力太郎︵掬水︶らの二位以下に大きく水を空けてい る。判明した全茶会数の六八回を基礎に考えても、高橋は根津の自会 の五五 ・ 九パーセントに出席している計算になる 。言い換えれば 、根 津が開いた茶会の半分に高橋は出席しているのである。しかも高橋の 言葉を借りれば、常に連会の初日に呼ばれていたという。データソー スとして使用した高橋の﹁茶会記﹂の記載内容に起因すると考えられ 三三 根津嘉一郎の茶界ネットワーク 回数 人数 回 人 38 1 高橋箒庵 12 1 *山澄力太郎 11 4 加藤正治 近藤滋弥 畠山一清 藤原銀次郎 9 1 野崎広太 8 4 益田 孝 岩原謙三 松永安左エ門 *八田富三郎 7 2 塩原又策 *越沢太助 6 2 前山久吉 大橋新太郎 5 8 栗山善四郎 大野準一 田中親美 田中平八 馬越恭平 三輪善兵衛 *梅沢安蔵 *伊丹信太郎 4 5 仰木敬一郎 池田成彬 原 富太郎 益田多喜 磯野良吉 3 11 杉本九八郎 小倉常吉 団 琢磨 加藤正義 小林一三 菊本直次郎 式守宣利 加藤澄子 *戸田音一 *川部利吉 *山澄力蔵 2 17 1 36 合計 92 *=道具商 (第1表)根津嘉一郎の茶客集計
三四 る点も軽視できないが、根津の茶の湯の﹁後見人﹂といわれていた高 橋の根津の茶の湯世界での存在の大きさを改めて示す数値ではある。 第二位には一二回の山澄力太郎が立ち 、加藤正治 ︵犀水︶ 、近藤滋 弥︵其日庵︶ 、畠山一清︵即翁︶ 、藤原銀次郎の四人が一一回で第三位 に位置する。これら第一位から第三位に並ぶ上位六人で根津の自会に 出席した延べ客数の三割を占めている。これらの人々と茶の湯を通じ た緊密な交流をうかがえるだろう。特に、藤原が東京電灯を舞台に根 津と激しく対立したことはすでに述べてあるが、お茶会を通じた二人 の結び付きは強かったという隠された側面が改めて浮かび上がってき たのには驚かされる。 高橋義雄や近藤滋弥の二人は根津嘉一郎と同じく近代数寄者の第三 世代であるが、加藤正治、畠山一清、藤原銀次郎は一世代下がった第 四世代に属する 。松永安左エ門 ︵八回︶ 、塩原又策 ︵禾日庵 、七回︶ なども第四世代であり、この世代は昭和一五年︵一九四〇︶一月の根 津嘉一郎の没後、特に、昭和戦後段階になると最後の近代数寄者とし て東京を中心とした東都の茶界で活動した人々である。 ちなみに、第1表で生没年が不明な杉本九八郎と道具商を除いた近 代数寄者の世代区分を試みると、根津嘉一郎の﹁初陣茶会﹂が大正七 年一一月︵一九一八︶ということもあって、さすがに第一世代のお茶 人の名前はないものの 、加藤正義 ︵ 欽堂︶ 、 野崎広太 、馬越恭平 、 益 田孝の四人は第二世代に属する。根津嘉一郎と同じ第三世代は、すで に名前が挙がっている高橋義雄や近藤滋弥らに加えて、 磯野良吉︵丹庵︶ 、池田成彬、岩原謙三︵謙庵︶ 、仰木敬一郎︵魯 堂︶ 、小倉常吉、菊本直次郎、団琢磨︵狸山︶ 、原富太郎︵三渓︶ 、 益田多喜︵無塵庵︶ 、前山久吉︵観空庵︶ と、全部で一二人を数える。ここで近代数寄者の第二世代の人数は 四人と少なく、また、最も多い野崎広太でさえも九回と根津の自会へ の出席が一〇回未満であることは、第二世代の死去や高齢化の影響と も考えられる。これに対して、昭和期以降に台頭し、根津の没後から 戦後段階にかけての時期に茶界を形成する第四世代は上記の五人の他 に、 大野準一︵鈍阿︶ 、 加藤澄子、 小林一三︵逸翁︶ 、 式守宣利︵蝸牛︶ 、 田中親美、田中平八、 三輪善兵衛 と、 全部で一二人にのぼる。なお、 益田多喜は益田孝の夫人であり、 加藤澄子は日本郵船社長の加藤正義の子息で東大教授加藤正治の夫人 である。根津嘉一郎の自会における茶客との交流範囲は、茶客数が拮 抗している様に第三世代と第四世代を中心に第二世代から第四世代へ と横断的に広がっている。別の表現をするならば根津嘉一郎は近代数 寄者の第三世代と第四世代の橋渡しをする立場にあった。 名前の挙がっている三九人の社会的地位を確認すると、 五 九 ・ 〇パー セントに当たる二三人が実業家で、八人が道具商であった。根津嘉一 郎の自会における茶客は圧倒的に実業家によって占められていたこと が判明する。なお、栗山善四郎は東京で江戸時代から続く会席料理の 高級料亭八百善の主人であった。大野準一は岐阜県から上京して最初 は東京品川御殿山の益田孝本邸の敷地内に築窯し、後に根津の目黒区 上目黒の所有地に築窯して鈍阿焼を製作した陶芸家であった。田中親 美は日本美術研究家で、近代数寄者の社会文化事業として名高い厳島 神社平家納経副本作成事業を一手に引き受けた。また、式守宣利は相 撲膏本舗の四代目で、明治四二年︵一九〇九︶に設立された東京茶道 協会の運営にも関わった。なお、塩原又策はその弟子である ︵ 20︶。 道具商では近代数寄者の第二世代との交流が深かった梅沢安蔵︵鶴 叟、五回︶ 、 川部利吉︵二回︶ 、山澄力蔵︵宗澄、二回︶が顔を出して 山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度
いるが、 彼らの後継者である山澄力太郎︵一二回︶ 、 伊丹信太郎︵五回︶ らが上位に進出し、道具商の世界でも世代交代が進行していることが 読み取れる。なお、川部利吉の子息川部太郎は第1表には登場しない が、根津家に出入りする道具商として根津の自会の参謀役的な役回り を担い、しばしば根津に代わって薄茶席で代点を行っている ︵ 21︶。 以上の分析は、茶会への出席回数を指標とする亭主根津嘉一郎との 交流の頻度からみた亭主と茶客との関わりが中心であった。次に、そ れを踏まえて根津が開催した茶会における同席回数という指標によっ て茶客同士の結び付きの強弱をもみておきたい。第1図は今回のデー タベースで根津の茶会への出席回数が三回以上であった三九人の茶客 の同席回数をカウントしたものである。 配列は五十音順である。 な お、 強調のために三回以上はイタリックボルドー体で表示しておいた。 第1図の左上にある池田成彬、磯野良吉、伊丹信太郎、岩原謙三の 四人を例に図の見方を説明しておきたい 。 まず 、池田成彬 、 磯野良 吉 、 伊丹信太郎の三人がそれぞれにクロスした箇所が空白であるの は、データソースとした﹁茶会記﹂の記事によれば、この三人の根津 が開いた茶会での同席は皆無であったことを示している。一方、岩原 と池田、岩原と磯野がクロスした箇所の数値の2は、岩原は根津の茶 会で池田や磯野と二回同席している状況を示している。ただ、三人が 同じ茶席で顔を会わせたかどうかについては、第1図からは判明しな い ︵ 22︶。 最も多くの茶客と同席しているのは根津嘉一郎の自会への出席回数 が三八回と飛び抜けて多かった高橋義雄であり、 第1図では加藤澄子、 小林一三、式守宣利、杉本九八郎の四人を除いた三四人の茶客と根津 の茶会で相席している。これに次ぐのが、藤原銀次郎と山澄力太郎の 二人である。道具商である山澄力太郎は根津の多くの茶会にお詰めと 三五 根津嘉一郎の茶界ネットワーク 池 田 成 彬 磯 野 良 吉 伊 丹 信 太 郎 岩 原 謙 三 梅 沢 安 蔵 仰 木 敬 一 郎 大 野 準 一 大 橋 新 太 郎 小 倉 常 吉 加 藤 正 治 加 藤 澄 子 加 藤 正 義 川 部 利 吉 菊 本 直 次 郎 栗 山 善 四 郎 越 沢 太 助 小 林 一 三 近 藤 滋 弥 塩 原 又 策 式 守 宣 利 杉 本 九 八 郎 高 橋 義 雄 田 中 親 美 田 中 平 八 団 琢 磨 戸 田 音 一 野 崎 広 太 畠 山 一 清 八 田 富 三 郎 原 富 太 郎 藤 原 銀 次 郎 前 山 久 吉 馬 越 恭 平 益 田 孝 益 田 多 喜 松 永 安 左 エ 門 三 輪 善 兵 衛 山 澄 力 太 郎 山 澄 宗 澄 池田成彬 ; 2 1 1 3 1 1 1 2 1 1 1 磯野良吉 ; 2 1 1 4 2 1 伊丹信太郎 ; 1 1 1 1 1 1 2 2 3 1 1 1 1 1 1 1 1 岩原謙三 ; 7 1 2 4 1 1 1 3 2 梅沢安蔵 ; 1 1 2 2 3 2 1 3 2 仰木敬一郎 ; 1 1 1 1 2 4 1 1 1 1 3 大野準一 ; 1 1 1 1 1 3 1 1 1 大橋新太郎 ; 1 1 1 5 1 1 2 4 1 1 1 1 3 小倉常吉 ; 1 1 2 3 1 2 2 1 1 加藤正治 ; 3 1 2 5 1 8 4 5 1 1 2 2 1 2 2 3 加藤澄子 ; 2 3 1 加藤正義 ; 1 2 1 1 1 1 1 川部利吉 ; 3 1 1 1 1 菊本直次郎 ; 1 1 1 3 1 1 1 1 1 栗山善四郎 ; 1 1 1 1 1 1 1 3 1 越沢太助 ; 1 3 1 1 1 1 2 2 1 2 小林一三 ; 1 1 1 1 2 近藤滋弥 ; 2 9 2 2 1 2 2 1 2 3 3 5 塩原又策 ; 1 6 1 2 1 3 1 1 1 2 式守宣利 ; 3 3 2 2 1 杉本九八郎 ; 2 3 2 高橋義雄 ; 3 5 2 2 3 2 7 2 8 5 5 3 3 2 1 7 2 田中親美 ; 1 1 1 1 2 田中平八 ; 2 1 2 2 2 3 団 琢磨 ; 1 1 1 1 戸田音一 ; 1 野崎広太 ; 2 1 1 7 1 1 2 畠山一清 ; 1 2 4 3 4 八田富三郎 ; 2 2 1 原 富太郎 ; 1 2 2 1 2 藤原銀次郎 ; 1 2 1 2 5 1 4 1 前山久吉 ; 1 1 馬越恭平 ; 1 1 益田 孝 ; 1 1 益田多喜 ; 松永安左エ門 ; 3 4 三輪善兵衛 ; 1 山澄力太郎 ; 山澄宗澄 ; (第1図)根津の茶客の同席回数 根津の茶会3回以上出席者のみ
三六 して出席していたのであろう。 高橋義雄と藤原銀次郎や山澄力太郎との間には同席した客数に一〇 人以上の差がある。これは高橋義雄の﹁茶会記﹂をデータソースとし ている点を念頭に置かねばならないが 、近代数寄者としての高橋の ネットワークの広さを示すものであろう。ただ、今回構築した根津の 自会のデータベースによれば、高橋と小林一三とは根津が開催した茶 会ではたまたま同席が確認できなかった。しかし、小林一三﹃雅俗山 荘漫筆﹄第二集によれば昭和七年五月二〇日 ︵ 23︶、 ま た、 高橋義雄﹃昭 和茶道記﹄では昭和一一年五月二七日 ︵ 24︶ の二回 、いずれも東京の 小林邸にあった弦月庵を茶席とする小林の茶会に根津と高橋は一緒に 招かれていることが確認できる。 三 人は茶席を共にしているのである。 根津嘉一郎の茶席で高橋義雄と同席した回数が最も多いのは近藤滋 弥の九回であり、これに八回の岩原謙三、加藤正治、藤原銀次郎の三 人が続く。また、茶匠であり道具商でもあった八田富三郎︵円斎︶と 道具商であった山澄力太郎は根津の茶会で高橋と七回同席している。 第四世代では、藤原銀次郎が同席者数では二三人で首位に立ち、近 代数寄者では松永安左エ門 ︵五回︶ 、 大橋新太郎 ︵ 松翁 、四回︶と藤 原の同席が目に付き、道具商の山澄力太郎とも四回同席している。ま た、畠山一清が一九人と同席し、加藤正治と五回、松永安左エ門と四 回と顔を会わせ 、道具商の山澄力太郎とも四回同席している 。さら に、加藤正治も一九人と同席し、近藤滋弥や畠山一清と五回相席して いる。これら名前の挙がっている茶客が根津嘉一郎の茶会の常連とな ろうか。 一方、第二世代、第三世代では野崎広太は益田孝と根津嘉一郎の茶 会で七回同席している。ただ、益田孝は岩原謙三や道具商の梅沢安蔵 と三回同席しているものの、同席者数は全部で一三人と少なく、高齢 の故かかつてのような勢いはみられない。 以上の検討で明らかになった諸点を確認するために作成したのが第 2図である。ここでは煩雑さを軽減するのに相席回数四回で切ったた めに登場人物は一八人に減少した。 そ れでも第2図からは越沢太助 ︵宗 見︶を除いた根津の茶会に六回以上出席した一四人を確認でき、根津 の茶客の中核的な部分はすべて把握できていると考えられる。もちろ ん、表示できていない三回以下の人々との繋がり、さらには、第2図 の外縁には根津の茶客のネットワークが広がっているのである。 人名を結ぶ罫線は相席の、数値は 回数を示している。例えば、高橋義 雄と藤原銀次郎を結ぶ罫線と数値 は、高橋と藤原は根津の茶会で八回 相席し、藤原銀次郎は松永安左エ門 と五回同席していることを示してい る。ただ、実際のところ高橋義雄は 根津嘉一郎の茶会で松永安左エ門と 二回同席しているが、簡略化によっ て第2図では表示されていない。同 様な事例は、野崎広太や益田孝と高 橋義雄との三回の同席でもみられ る。詳しくは第1図を参照してほし い。 第2図では、高橋義雄の周りを藤 原銀次郎らのお茶人一二人が囲繞し ており、高橋が根津嘉一郎の茶客の 中心に位置付けられることが改めて 山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 ࢚ (第2図)根津嘉一郎の茶客の相関
明らかになった。この一方で、益田孝は根津嘉一郎の茶会において野 崎広太と七回同席しているものの、野崎広太と岩原謙三を経由してよ うやく高橋義雄に連なる位置に立っている。実際は、高橋と三回同席 しているのだが、第2図では落ちている。前掲した第1図においても 益田孝との同席者は一三人と少なかった。 益田の比重の著しい低下は、 第四世代の台頭、言い換えれば、近代数寄者の世代交代を象徴してい るであろう。ちなみに、益田は昭和一三年一二月に没する。 第2図で高橋義雄の右側に展開する加藤正治、近藤滋弥、山澄力太 郎らの三人はさらにウイングを広げ第四世代の中心となる畠山一清や 松永安左エ門ともネットワークを広げている。やがて彼らが根津嘉一 郎没後の東都茶界のリーダーとなっていくのである。 ところで一三冊の﹁茶会記﹂による根津嘉一郎の招いた茶客の検討 を通じて、 ﹁根津コンツエルン﹂を形成した傘下企業の役員の名前は全 く登場しない。根津の茶客の悉皆的なデータ分析ではないので断定的 にはいえないものの、 岩 原謙三、 団琢磨、 藤原銀次郎、 馬 越恭平といっ た三井財閥系企業の多数の社員を強引ともいえる方法で茶の湯の世界 へ誘った益田孝とは大きく異なっている ︵ 25︶。根津はビジネスの世界 と趣味世界における公私のけじめがハッキリしていたのであろう。 第二節 茶客根津嘉一郎 次ぎに根津嘉一郎の他会への出席状況について検討したい。 まず、根津を茶会に招いた亭主の検討からはじめたい。第2表は根 津を茶会に招いた亭主の一覧であり、亭主の個人名が不明である名古 屋市の敬和会を除き、三三人の亭主名をすべて表示しておいた。 しかし 、全体の五四 ・ 五パーセントにあたる一八人は根津を一回し か 自 ら の 茶 会 に 招 い て お ら ず 、 複 数 回 招 い て い る 一 五 人 が 根 津 の 出 席 し た 他 茶 の 中核部分を形成していた亭主 グループであるといえるだろ う 。 だが 、一回の招待とはい え近藤滋弥 、塩原又策 、 野崎 広太、 藤 田平太郎、 益 田英作、 松 永 安 左 エ 門 な ど 数 多 く の 著名な近代数寄者の名前を発 見できる 。根津の茶の湯の広 範な広がりを示しているだろ う。 ここでも高橋義雄が一一回 で首位に立ち 、第二位の馬越 恭平や益田孝の四回を大きく 引き離している 。ちなみに根津が出席した他会の一六 ・ 九パーセント を占めている計算になる。根津の他会への出席状況の検討による新た な発見は 、根津の茶客としては顔を出さなかった三井守之助 ︵泰山︶ が三回で第三位に、井上馨︵世外︶が二回で第四位に顔を出している 点である。ただし、 三 井守之助や井上馨は今回データソースとした ﹁茶 会記﹂の記述によれば根津の開いた茶会には一度も出席したことがな い。第四世代では小林一三が三回、畠山一清が二回根津を茶会に招い ている。ところで道具商で根津をお茶会に招いているのは、すべて一 回の梅沢安蔵、越沢太助、春海敏、三尾邦三、吉田五郎三郎の五人に 過ぎず、根津の茶客となったケースと比較すると道具商の比重が低い 三七 根津嘉一郎の茶界ネットワーク 回数 人数 回 人 11 1 高橋義雄 4 2 馬越恭平 益田 孝 3 3 三井守之助 小林一三 前山久吉 2 9 藤原銀次郎 原 富太郎 井上 馨 畠山一清 田中平八 住友吉左衛門 加藤正治 大谷尊由 岩原謙三 1 19 松永安左エ門 石黒伝六 益田英作 素谷篤爾 川崎 克 大橋新太郎 藤田平太郎 近藤滋弥 益田多喜 塩原又策 野崎広太 栗山善四郎 山本 勤 *越沢太助 *吉田五郎三郎 *梅沢安蔵 *三尾邦三 *春海敏 敬和会 計 34 *=道具商 (第2表)根津嘉一郎を招いた亭主集計
三八 ように思える。 全部で三三人を数える亭主のうちで二三人は東京を中心とした東都 のお茶人である。しかし、根津嘉一郎は大阪府の小林一三、藤田平太 郎︵江雪︶ 、 春 海敏、 住 友吉左衛門︵春翠︶ 、 京都府の大谷尊由︵心斎︶ 、 石川県金沢市の石黒伝六、越沢太助、素谷篤爾、三重県の川崎克︵克 堂︶など各地の茶会に招かれており、根津の茶界のネットワークは広 く全国に及んでいるといってよい。 なお、構築したデータベースによれば、根津が招かれた茶会で最初 に正客を務めたのは大正一一年一〇月に益田孝が小田原の掃雲台で開 いた﹁貧僧茶会﹂である。相客は高橋義雄、前山久吉、川部太郎、岡 崎弥太郎であった。初座の正客は高橋義雄が務めたが、後座では根津 と正客を交代している ︵ 26︶。この時は初座での炭手前は省略され 、 後 入の最初に器物が陳列されていた。これについて高橋は拝見上最も簡 便なる方法と述べてはいるが 、正客交代の理由は何も書いていない 。 その後、一一月二四日に住友吉左衛門の京都の鹿ヶ谷別邸での﹁口切 茶会﹂に森川勘一郎や岡崎弥太郎と相席したときは﹁茶会記﹂の冒頭 に名前があり 、正客を務めたと考えられる ︵ 27︶。また 、翌一二年一二 月の敬和会茶会では ﹁正客﹂と記されている ︵ 28︶。高橋義雄の ﹁茶会 記﹂に﹁正客﹂と明記されのは大正一三年六月に京都の西本願寺で大 谷尊由が開いた ﹁飛雲閣剣仲忌﹂ ︵ 29︶ である。ちなみに、 同 席者は高橋、 仁寿生命保険社長の下郷伝平、 松風嘉定、 服部七兵衛であった。なお、 同茶会以降ではほとんどの茶会で根津が正客を務めている。 次ぎに第3表を使用して根津嘉一郎が招かれた茶会での根津との同 席状況を検討したい 。全部で九〇人を数えるが 、六一 ・ 一パーセント の五五人は一回のみの同席で親密とはいえない。参考までに二回以上 の三五人は名前を書き上げておいた。なお、道具商にはアステリクス が付してある。 ここでも高橋義雄が二七回で首位に立っているが、第二位には二〇 回の川部太郎が位置している。川部は根津嘉一郎家に出入りする道具 商であり、 根 津が茶会を開くに当たって ﹁ 参謀役﹂ としての役割を担っ ており、根津の自会ではたびたび代点を行っていることはすでに述べ てある。恐らくは、お詰めの役回りでの同席であろうと考えられる。 上位陣には高橋義雄をはじめ野崎広太、益田孝、馬越恭平といった 近代数寄者や、川部太郎、山澄力蔵といった著名な道具商の名前が並 んでいる 。また 、根津の他会への出席が益田孝本邸で開かれた明治 四一年︵一九〇八︶一二月の﹁観寿翁邸新茶室﹂に遡るために、同席 者の中に近代数寄者第一 世代の安田善次郎 ︵ 松翁、 二回︶や第二世代の石黒 忠悳 ︵况翁、 二回︶ といっ た十六羅漢と呼ばれた和 敬会発足当初からのメン バーの名前が見出せる 。 さらに、 三井高保 ︵三回︶ 、 森川勘一郎 ︵如春、 三 回︶ 、 益 田 英 作 ︵ 紅 艶 、 二 回 ︶ なども 、 これまでの検討 ではあまり名前が登場し なかったが 、近代数寄者 としては名高い存在であ る 。 道具商である五回の 山澄力蔵 ︵宗澄︶は山澄 山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 回数 人数 回 人 27 1 高橋義雄 20 1 *川部太郎 7 2 野崎広太 益田 孝 6 1 馬越恭平 5 1 *山澄力蔵 4 5 岩原謙三 仰木敬一郎 藤原銀次郎 田中親美 団 琢磨 3 9 松永安左エ門 福井菊三郎 三井守之助 三井高保 近藤滋弥 森川勘一郎 *伊丹信太郎 *岡崎弥太郎 *越沢太助 2 15 原 富太郎 藤田平太郎 加藤正義 益田英作 加藤正治 安田善次郎 杉本九八郎 高橋達雄 古筆了任 石黒忠悳 吉倉惣左 *山澄力太郎 *服部七兵衛 *梅沢安蔵 *伊丹元七 1 55 合計 90 *=道具商 (第3表)根津と茶会同席茶客
力太郎︵二回︶の祖父であり、 伊 丹信太郎︵三 回︶は伊丹元七 ︵二回︶の二代目である 。彼 等は代を嗣いで根津家に出入りしていた道具 商である。 次ぎに 、第3図を使用して根津嘉一郎の自 会と同様に茶客同士の相席状況を確認してお きたい 。ここでは煩雑になるが同席数が二回 以上者は三五人をすべて表示した 。図の見方 は第1図と同様である 。なお 、改めていうま でもないが 、ここでの同席者には必ず根津も 入っている 。 例えば 、図の左上の伊丹信太郎 と梅沢安蔵は一回同席しているが、このことは伊丹信太郎と梅沢安蔵 は根津と茶席での一回の相席を意味する。ちなみに、その茶会は﹃茶 会漫録﹄が伝える大正一〇年一一月二一日に京都洛北の光悦会に参加 する東都のお茶人を招いた大阪の藤田平太郎︵江雪︶の芦庵で開かれ た﹁芦庵残茶会﹂である。なお、他の同席者は馬越恭平と記録者であ る野崎広太であり、五客であった ︵ 30︶。 第3図でも高橋義雄が群を抜いており、二五人と同席している。な お、川部太郎と高橋とは一三回も同席している。ちなみに、根津嘉一 郎の他会への出席回数は六六回であり、そのうちの二割で、根津、高 橋、川部の三人は顔を会わせている勘定になる。言い換えれば、高橋 からみると根津と同席した茶会の半分に川部がおり、 川 部からすれば、 二〇回にのぼる根津との茶会での同席回数の三分の二を高橋と相席し たことになる。 他の近代数寄者では田中親美、団琢磨、益田孝、三井守之助が一三 人と同席しており、三井守之助、田中親美、団琢磨らは茶会への出席 三九 根津嘉一郎の茶界ネットワーク 石 黒 忠 悳 伊 丹 信 太 郎 伊 丹 元 七 岩 原 謙 三 梅 沢 安 蔵 仰 木 敬 一 郎 岡 崎 弥 太 郎 加 藤 正 治 加 藤 正 義 川 部 太 郎 吉 倉 惣 左 越 沢 太 助 古 筆 了 任 近 藤 滋 弥 杉 本 九 八 郎 高 橋 義 雄 高 橋 達 雄 田 中 親 美 団 琢 磨 野 崎 広 太 原 富 太 郎 服 部 七 兵 衛 福 井 菊 三 郎 藤 田 平 太 郎 藤 原 銀 次 郎 馬 越 恭 平 益 田 孝 益 田 英 作 松 永 安 左 エ 門 三 井 高 保 三 井 守 之 助 森 川 勘 一 郎 安 田 善 次 郎 山 澄 力 太 郎 山 澄 力 蔵 石黒忠悳 X 1 1 1 1 2 1 伊丹信太郎 X 1 1 1 1 1 伊丹元七 X 1 1 1 2 岩原謙三 X 1 1 1 1 1 1 梅沢安蔵 X 1 1 1 1 1 仰木敬一郎 X 1 3 1 1 2 2 2 岡崎弥太郎 X 2 2 加藤正治 X 1 2 1 1 1 加藤正義 X 1 1 2 1 1 1 川部太郎 X 1 2 1 13 2 2 1 1 1 1 1 2 1 吉倉惣左 X 2 2 越沢太助 X 3 1 1 古筆了任 X 1 1 1 近藤滋弥 X 1 1 1 1 杉本九八郎 X 1 1 高橋義雄 X 2 2 2 4 2 1 2 1 2 3 4 1 1 2 1 高橋達雄 X 田中親美 X 1 1 1 1 1 1 1 団 琢磨 X 1 1 1 1 1 2 1 1 2 野崎広太 X 1 2 3 2 原 富太郎 X 1 1 1 1 服部七兵衛 X 福井菊三郎 X 1 1 1 1 藤田平太郎 X 1 1 1 2 藤原銀次郎 X 1 1 馬越恭平 X 2 1 1 益田 孝 X 1 2 1 3 益田英作 X 1 松永安左エ門 X 三井高保 X 三井守之助 X 1 1 森川勘一郎 X 安田善次郎 X 1 山澄力太郎 X 山澄力蔵 X (第3図)根津と同席した茶客の相関 (第4図)根津嘉一郎と同席者の相関
四〇 頻度に比べると交流の範囲が広いことが浮かび上がってくる。顔合わ せの頻度では、高橋義雄と野崎広太、高橋義雄と益田孝の顔合わせが 各四回、高橋義雄と越沢太助、高橋義雄と馬越恭平、益田孝と野崎広 太、 益田孝と山澄力蔵、 仰木敬一郎と川部太郎との相席が三回あった。 彼等が根津嘉一郎の参席した茶会の常連といってよいだろう。 以上の検討で明らかになった根津との同席者の相関を示したのが第 4図である。ここでは煩雑さを軽減するために相席回数三回で切った ために登場人物は八人に減少した 。図の見方は第2図と同様である 。 ただ、 第3図に登場した茶人同士は二回まで相席回数を示しておいた。 第4図からは根津嘉一郎を取り巻く茶界の人脈が一層鮮明になっ た。新たに述べるまでもないが、高橋義雄を中核とする益田孝、野崎 広太、馬越恭平らの近代数寄者のネットワークがそれであり、その周 縁に川部太郎、越沢太助、山澄力蔵らの道具商が位置するのである。 第三節 茶友の社会的地位 社会経済史研究を専門とする筆者にとり、根津嘉一郎を囲んだ近代 数寄者たちの社会的な存在形態は是非とも知りたい情報である。第4 表は前掲した第1表∼第3表で捕捉された根津を招いた亭主、根津の 茶客、根津との茶席での同席者の各データと﹃日本紳士録﹄との突き 合わせで判明した根津の茶友であった実業家たちの社会的な地位であ る。ここでは専ら簡略化のために関係する企業は各自一社にとどめた 山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 亭主 茶客 同席 氏名 号 三 11 38 28 高橋義雄 箒庵 王子製紙専務T 井 4 6 7 益田 孝 鈍翁 三井物産社男爵 系 4 5 6 馬越恭平 化生 大日本麦酒社 実 3 6 1 前山久吉 観空庵 浜松銀行頭取 業 3 3 小林一三 逸翁 阪神急行電鉄社 家 3 3 三井守之助 泰山 三井物産社 2 11 4 藤原銀次郎 暁雲 王子製紙社 2 8 4 岩原謙三 謙庵 芝浦製作所社 1 9 7 野崎広太 幻庵 中外商業新報社主 1 1 1 益田英作 紅艶 多門天商店主 4 池田成彬 三井㈴常務理事 3 4 団 琢磨 狸山 三井㈴理事長、男爵 3 1 菊本直次郎 三井銀行専務T 2 3 福井菊三郎 庵 三井㈴常務理事 1 1 有賀長文 三井信託代表 1 金塚仙四郎 三井銀行K 1 倉知誠夫 三越会長 3 三井高保 華精 三井銀行社 1 朝吹英二 柴庵 鐘淵紡績専務T 1 端 善次郎 松月老 東京モスリン専務T 1 三井八郎次郎 松籟 三井㈴業務執行社員、男爵 1 北村七郎 三井㈴参与 1 牧田 環 三井㈴理事 1 間島与喜 東京海上火災保険T 非 2 11 1 畠山一清 即翁 荏原製作所社 三 2 4 2 原 富太郎 三渓 横浜興信銀行頭取 井 2 3 1 田中平八 城山 田中銀行頭取 系 1 11 3 近藤滋弥 其日庵 三光紡績社男爵 実 1 7 1 塩原又策 禾日庵 三共代表 業 1 6 1 大橋新太郎 松庵 博文館主 家 1 5 3 松永安左エ門 耳庵 東邦電力社 5 1 三輪善兵衛 丸見屋商店主 3 2 加藤正義 欽堂 日本郵船社男爵 3 1 小倉常吉 小倉石油社 2 1 吉田丹左衛門 楓軒 旭生命保険T 2 1 津村重舎 津村順天堂社 1 1 大倉喜七郎 聴松 大倉組頭取男爵 1 1 安田善助 安田保善無限社員 3 式守宣利 蝸牛 薬種商 2 木村久寿弥太 三菱㈾総理事 2 結城豊太郎 安田銀行副頭取 1 竹内専之助 寒翠 洋織物卸売商 1 大河内正敏 理化学研究所所長伯爵 1 高田釜吉 高田商会代表 2 安田善次郎 松翁 安田銀行顧問 2 杉本九八郎 山丸商会常務T 1 浅田正文 日本郵船専務T 1 瓜生 震 百里 麒麟麦酒T 1 近藤廉平 其日庵 日本郵船社男爵 1 正力松太郎 読売新聞社 1 原 邦造 愛国生命保険社 1 毛利五郎 日英水電会長男爵 地 2 住友吉左衛門 春翠 住友銀行頭取男爵 方 1 2 藤田平太郎 江雪 藤田組社男爵 実 1 石黒伝六 希清庵 北陸鉄道会長 業 4 1 磯野良吉 丹庵 日本舎密製造社 家 2 1 森川勘一郎 如春庵 豪農 1 1 西脇済三郎 西脇銀行頭取 1 1 松風嘉定 松風工芸社 1 1 岡谷清治郎 真愛 愛知銀行T 2 糟屋徹三郎 半醒子 干鰯問屋 2 高松定一 即是 堀川貯蓄銀行T 1 野村徳七 得庵 野村銀行T 1 下郷伝平 仁寿生命保険社 1 原田二郎 鴻池銀行専務T (第4表)実業家茶人の存在形態 (回) 社=社長、T=取締役、K=監査役
四一 が、大きく、三井系財界人、非三井系財界人、地方財界人に三分して 示した。並び順は亭主、茶客、同席者であり、それぞれ回数の多い順 である。全部で六五人を数えるが根津と関わった実業家であった近代 数寄者の存在形態を克明に書き上げた事例はないので参考のために敢 えて掲示しておきたい。ただ、明治四〇年代初頭から昭和一〇年代半 ばまでの三〇年間におよぶ期間であり、明治四四年から一〇年目ごと に﹃日本紳士録﹄を用いており、同一企業であったとしても、必ずし も同時期における役員就任を意味してはいない。 三井系財界人は二四人で非三井系財界人より四人少ないが、根津嘉 一郎を茶客として招いた亭主は一〇人と多く、亭主の半分を占め、三 井系財界人における亭主の出現率は四一 ・ 七 パーセントにも達する 。 試みに特化係数を算出すると三井系財界人の亭主は一 ・ 三六と 、非三 井系の〇 ・ 八 一や地方財界人の〇 ・ 七五を圧倒している。なお、茶客の 特化係数は〇 ・ 九九と三井系財界人の人数とほぼ対応しているが 、同 席者は三井系財界人の八三 ・ 三パーセントの二〇人となり 、特化係数 もわずかであるが一を超えている。これらの数値は高橋義雄や益田孝 といった根津嘉一郎の茶の湯の﹁後見人﹂の存在が大きいことが読み 取れる。事実、三井系財界人の上位には高橋義雄、益田孝、馬越恭平 が並んでいる。なお、亭主として根津嘉一郎を招いた回数では劣るも のの、茶客としての回数では益田孝や馬越恭平を上回っている藤原銀 次郎、岩原謙三、野崎広太らの存在は見逃せない。また、根津を茶客 として招いてはいないものの、三回根津の自会の茶客となり、他会に おいて四回根津と同席している団琢磨 ︵狸山︶ の 昭和七年 ︵ 一九三二︶ 三月の暗殺による死去を想起すると、根津と団琢磨との茶の湯を通し た交流は濃密であったといってよいだろう。 非三井系財界人は二八人と多いが、亭主は七人と少ない。事実、特 化係数は〇 ・ 八一であった 。しかし 、茶客と同席者の特化係数はいず れも一を超えている。これは非三井系財界人は根津を自らの茶会に招 いた亭主は少ないものの、根津が招いた茶客、あるいは根津嘉一郎が 招かれた茶席においての同席者として根津の茶界を形成していたと いってよいだろう 。特に 、亭主として名前の挙がっている畠山一清 、 塩原又策、松永安左エ門といった第四世代が上位に位置していること は、根津が第三世代と第四世代を繋ぐ位置に立っていることを示して いるだろう 。 その一方で 、 加藤正義 ︵欽堂︶ 、吉田丹左衛門 ︵楓軒︶ 、 安田善次郎 ︵松翁︶ 、瓜生震 ︵百里︶といった和敬会の会員であった 近代数寄者との交流もみられる 。これには竹内専之助 ︵寒翠︶ 、浅田 正文、 近 藤廉平 ︵ 其日庵︶ といったお茶人を加えることができるだろう。 地方財界人は一三人であり、亭主も三人を数えるに過ぎない。しか し、住友吉左衛門や藤田平太郎は全国的にみても著名な近代数寄者で あり、 根 津嘉一郎の茶の湯の広がりを象徴している。ただ、 データソー スとした﹁茶会記﹂の残存状態による歪みも軽視できないが、茶客や 同席者でも特化係数は一を下回っている。 第5表は構築した茶会のデータベースから作成した前掲第1表∼第 3表で確認できた道具商である。注意しておきたいのは根津を招いた 亭主、根津の茶客や他会での同席者など茶会を通じた交流を示してい るのであって、具体的にいえば根津に松花堂昭乗筆﹁大津馬図﹂をも たらした春海藤次郎︵一樹庵︶の名前が落ちているように、古美術品 や茶道具類の蒐集に関わった道具商を網羅しているわけではない。 全部で一九人を数えるが、一三人が東京、大阪が四人、京都、金沢 が各一人で、東京が圧倒的に多い。これはデータソースとした﹁茶会 記﹂による偏りと考えられる。 亭主は四人と少ない。茶客では山澄力太郎︵静斎︶の一二回でが首 根津嘉一郎の茶界ネットワーク
山梨大学教育人間科学部紀要 第 十三 巻 二〇一一年度 四二 位に立ち 、茶客が三回 、同席が五回であった父親の山澄力蔵 ︵宗澄︶ とともに二代続けての根津嘉一郎家へ出入りしている道具商である 。 また、根津との同席が一八回と群を抜いている川部太郎︵緑水︶は茶 客として招かれてないが、根津の自会の薄茶席での代点を行っている 根津の茶の湯の﹁参謀﹂的な役割を果たしている。先代の川部利吉は 東京の道具商の古株で根津に﹁花白河蒔絵硯箱﹂をもたらしたことで 知られている。なお、伊丹元七︵元庵︶ー伊丹信太郎︵揚山︶と戸田 弥七︵露朝︶ー戸田音一︵露綏︶も代を嗣いで根津と関わっている。 山澄力太郎と川部太郎の二人に続くのが八田富三郎︵円斎︶と越沢 太助︵宗見︶である。二人とも道具商ではある一方で裏千家流の茶匠 としても知られ、石川県金沢の出身であるところに共通性をもつ。八 田富三郎は亭主とはなっていないが茶客として八回招かれている。一 方 、越沢太助は根津の自会に七回招かれ 、他会で三回同席している 。 根津の最後の自会となった昭和一四年︵一九三九︶一二月の歳暮茶会 は越沢太助の﹁永久訣別の歳暮茶事﹂からうかがうことができる。 土橋嘉兵衛︵無声︶や服部七兵衛︵集翠︶は関西地方の道具商であ り構築したデータベースでは茶会を通じた交流は少ないものの、別に 検討する光悦会では中心的な役割を果たしている。また、大正名器鑑 慰労会では多くの道具商の出席を確認できる。 註 ︵1 ︶ 拙稿 ﹁近代数寄者のネットワークと存在形態ー高橋箒庵 ﹁茶会記﹂ を中心にー﹂ ︵﹃山梨大学教育人間科学部紀要﹄以下﹃紀要﹄と略記する 九巻、二〇〇七年︶ 、拙稿﹁茶の湯の復興と近代数寄者の台頭﹂ ︵﹃紀要﹄ 一〇巻、二〇〇八年︶ 。 ︵2︶ 安田善次郎﹃松翁茶会記﹄ ︵一九二八年︶ 、二六五頁。 ︵3︶ 下田将美﹃藤原銀次郎回顧八十年﹄ ︵講談社、一九四九年︶ 、四四一∼ 四四二頁。 ︵4︶ 拙稿﹁近代数寄者の地域的展開ー関西 ・ 中 京 ・ 金沢﹂ ︵﹃ 紀要﹄一一巻、 二〇一〇年︶ 、三三二頁。 ︵5 ︶ ﹁俺は麦酒を商売としてやつて居るのではない 。馬越との感情上やつ て居るのである﹂と語っていたという︵ ﹃根津翁伝﹄ 、一二四頁︶ 。 ︵6 ︶ 鉄道同志会の会長を初め馬越さんがやつて居り 、根津さんは副会長 をやつて居りましたが 、その鉄道同志会で時々会議をやった後で 、宴 会などよくやった 。月に一回位はやつたと思ふが 、宴会のあるといふ 時には 、馬越さんは自分がやつて居るビール会社のエビスビールをそ 亭主 茶客 同席 屋号 先代 住所 越沢太郎 宗見 1 7 3 金沢 梅沢安蔵 鶴叟 1 5 2 鈴木屋 東京 吉田五郎三郎 梅軒 1 1 水戸幸 吉田幸助 東京 春海 敏 調古庵 1 春海商店 春海藤次郎 大阪 山澄力太郎 静斎 12 1 山澄商店 山澄宗澄 東京 八田富三郎 円斎 8 1 福碌堂 東京 伊丹信太郎 揚山 5 3 大和屋 伊丹元七 東京 山澄力蔵 宗澄 3 5 山澄商店 東京 川部利吉 3 1 川部商店 東京 戸田音一 露綏 3 谷松屋 戸田露朝 大阪 岡崎弥太郎 1 3 多聞店の店員 東京 土橋嘉兵衛 無声 1 1 永昌堂 京都 平松常蔵 如雪 1 1 東京 竹内広太郎 有竹 1 近善商店 東京 川部太郎 緑水 18 川部商店 川部利吉 東京 伊丹元七 元庵 2 大和屋 東京 服部七兵衛 集翠 2 来々堂 大阪 伊丹常蔵 1 大和屋 大和屋の番頭 東京 戸田弥七 露朝 1 谷松屋 戸田露吟 大阪 (第5表)道具商の存在形態 (回)
根津嘉一郎の茶界ネットワーク 四三 の料理屋へ寄附する 。又根津さんも自分のやつてをるビール会杜のユ ニオン ・ビールを寄附する 。 其れを宴会の席に出させるのですが 、こ の二人は会長 、 副会長ですから 、いつも上座の方に並んで坐ります 。 そんな時には 、 根津さんはいつも私を特に隣の席に誘つて据えてくれ ますので 、 私が近くで見てをると 、面白いです 。其れはお酌が間違つ てユニオン ・ビールを馬越さんの所へ持つて往つてお酌をすると 、馬 越さんはこんなビールが飲めるかと言ふし 、又エビス ・ビールを根津 さんにお酌をすると、 ﹃こんなものが飲めるものか。 ﹄と言ふ。隣合つて 坐つてゐて 、お互のビールをけなし合つてをる風景は 、実に面白いも のでしたよ 。馬越さんも 、根津さんも中々負けじ魂で 、 強い人でした から、それは真なものであつたやうです︵四五九頁︶ 。 ︵7 ︶ 根津嘉一郎は馬越恭平の茶会に四回 、一方 、 馬越恭平は根津嘉一郎 の茶会に五回出席している。 ︵8︶ ﹃万象録﹄ 第一巻、 三九〇頁、 ﹃東都茶会記﹄ 第四巻、 一九三∼二一九頁、 ﹃大正茶道記﹄ ︵以下﹃大正﹄と略記する︶第一巻、四六六∼四七二頁。 ︵9 ︶ ﹃根津翁伝﹄によれば 、根津嘉一郎は藤原銀次郎を非難する次のよう な﹁声明書﹂を発表している。 三井家を代表さるゝ藤原氏 ︵銀次郎 :齋藤︶が 、いろいきさつに自 由なる私見を加へ 、しかも其れを無遠慮に発表されて 、反つて世間 の騒ぎを大ならしめ 、殊に日記体のものまで出して 、余程事実と相 違した事柄まで発表されたので 、最早黙視すべきに非ずと考へ 、茲 に昨年来の一切の経過の概略を述べて 、株主はもとより 、広く社会 の疑惑を一掃することにしたのである 。 この発表には一点の虚偽な きはもとより 、寸分の粉飾さへないことを公言して憚らない 。︵五三 ∼七〇頁。 ︶ ︵ 10︶ ﹃昭和茶道記﹄ ︵以下 ﹃昭和﹄ と略記する︶ 第一巻、 五三七∼五四二頁。 ︵ 11︶ ﹃昭和﹄第一巻、五五三∼五五六頁。 ︵ 12︶ ﹃昭和﹄第一巻、五五四頁。 ︵ 13︶ ﹃昭和﹄第一巻、五五五頁。 ︵ 14︶ ﹃昭和﹄第一巻、五五三頁。 ︵ 15︶ 松永安左エ門は根津嘉一郎を自会に一回招き 、根津嘉一郎の茶会に 九回出席している。 また、 小林一三は亭主として三回根津嘉一郎を招き、 茶客として三回根津嘉一郎の茶会に参席している。 ︵ 16︶ 使用した﹁茶会記﹂は、 高橋義雄﹃東都茶会記﹄ ︵一九八九年︶ 、 同﹃大 正茶道記﹄ ︵一九九一年︶ 、 同﹃昭和茶道記﹄ ︵二〇〇二年︶ 、 野 崎広太﹃茶 会漫録﹄ ︵一九二七年︶ 、畠山一清︵即翁︶ ﹃即翁遺墨茶会日記﹄ ︵一九七二 年︶ 、松永安左エ門 ︵耳庵︶ ﹃茶道三年﹄ ︵一九三八年︶ 、同 ﹃茶道春秋﹄ ︵一九四四年︶原富太郎 ︵三渓︶ ﹃一槌庵茶会記﹄ ︵二〇〇六年︶ 、小林 一三︵逸翁︶ ﹃雅俗山荘漫筆﹄ ︵一九三三年︶ 、住友吉左衛門︵春翠︶ ﹃御茶 会記﹄ ︵二〇〇四年︶ 、越 沢太助 ︵宗見︶ ﹃宗見茶話集﹄ ︵一九五〇年︶ 、同 ﹃茶 道聞き書き抄﹄ ︵一九七〇年︶ 、敬和会﹃敬和会茶会記﹄ ︵二〇〇八年︶で ある。 ︵ 17︶ 根津が開催した茶会に二回出席した茶客は次の一七人である 。糟屋 徹三郎 、*川部太郎 、木村久寿弥太 、仰木敬一郎夫人 、塩原又策夫人 、 高松定一 、津村重舎 、福井菊三郎 、 藤谷宗仁 、前田利為 、 松風定定 、 森川勘一郎 、安田善助 、 山内茂樹 、山田保蔵 、 結 城 豊太郎 、 *吉田五 郎三郎︵アクステリアは道具商を示す︶ 。 ︵ 18︶ ただ 、一回のなかには石黒忠悳や益田英作のような近代数寄者 、あ るいは近衛文麿 、徳川家達 、細川護立 、渡辺千冬 、大河内正敏といっ た著名な政治家のいたことも見逃せない。 ︵ 19︶ 正客一回は加藤正治 、藤原銀次郎 、野崎広太 、越沢太助 、原富太郎 、 磯野良吉、団琢磨、小林一三、石黒忠悳、結城豊三郎である。 ︵ 20︶ 東京茶道会 ﹃ 七十五年の歩み 東京茶道会記念史﹄ ︵東京茶道会 、 一九八四年︶ 、四二頁。 ︵ 21︶ 川部太郎は根津嘉一郎の自会での一六回の代点が確認できる。なお、 ﹃大正﹄第二巻によれば 、川部太郎は大正一一年二月に根津嘉一郎本邸 の青山荘無事庵を借用して ﹁初会﹂を開き 、高橋義雄らを招いている ︵七〇∼七五頁︶ 。 ︵ 22︶ 岩原謙三、池田成彬、磯野良吉の三人の同席はなかった。 ︵ 23︶ ﹃雅俗山荘漫筆﹄第二集、三六∼四三頁。 ︵ 24︶ ﹃昭和﹄第二巻、一八〇∼一八五頁。 ︵ 25︶ ﹃私のお茶﹄ 、一六∼二〇頁。 ︵ 26︶ ﹃大正﹄第二巻、二一六∼二一八頁。 ︵ 27︶ ﹁御茶会記 下﹂ 、五〇頁。 ︵ 28︶ ﹃森川如春庵の世界 茶人のまなざし﹄ 、二七〇頁。 ︵ 29︶ ﹃大正﹄第二巻、六四五頁。 ︵ 30︶ ﹃茶会漫録﹄第九集、一一四∼一二三頁。