分身諸仏は見宝塔品において初めて現われるが、それら 分身諸仏は現に十方世界にあって説法しつつあるものとさ れている。分身とは釈尊が神通力によって化作した仏であ り、釈尊と全く同形の仏であるが、釈尊と異なる点が一つ ある。それは、釈尊は分身に対して命令を発する地位にあ り、分身は釈尊の命令を受ける地位にある、ということで ある。同時に存在する諸仏に於て命令をするものとされる ものとの格差が生じたのは見宝塔品が初めてである。釈尊 の命令は白毫の一光を放つという形をとって発せられ、こ の命令に従って分身諸仏は還って一処に集まるのであるが ﹁還る﹂ことが命令によって行われた以上、﹁往く﹂こと も命令によって行われたと見るべく、分身諸仏は釈尊によ って化作され、十方世界に派過されたと見るべきであろ う。この派遮の時期は見宝塔品以前法師品以後であり、そ の派遣の叙述は省略されたと見るべきであろう。 見宝塔品以前の説相に従えば、十方世界には分身諸仏が
久遠本仏と諸仏との関係
村野宣忠
派遣される以前に既に現在諸仏が居られる。分身諸仏の派 過によって十方世界の諸仏は増員されたのか。分身諸仏と 現在諸仏との関係如何。 これらの問題を解決するに当って、十方世界は有限であ るか無限であるかを先ず考える必要がある。見宝塔品に ﹁仏白毫の一光を放ちたもうに、東方五百万億那由佗恒河 沙等の国土を見たてまつる﹂とあるが、これは﹁東方にあ る無限の世界のうち見えたのは五百万億那由佗恒河沙等の 国土だけであって、その先にある国土は見えなかった﹂と いう意味ではなく、﹁東方には五百万億那由佗恒河沙等の 国土があり、それが全部見えた﹂という意味であろう。数 の表現は如何に大きくとも、十方世界の国土の数は有限で あると見るべきであろう。一国土には一仏しか存在しな い。唯我一人能為救謹の句の成立する所以である。十方世 界の各国土には既に現在諸仏の一仏が居られる。余仏の入 る余裕はない筈である。しかるに実際において分身諸仏は 十方世界に到って説法された。これは如何にして可能であ ったか。 化作は創造ではない。法師品の﹁化の四衆﹂は仏が創造 した四衆という意味ではなく、現実に存在する四衆が仏に 化作されたという自覚を持った場合の呼称と見るべきであろう。これと同様に、分身詣仏とは現在諸仏が﹁私達は釈 尊の分身である﹂と宣言した場合の呼称と見るべきであろ う。分身諸仏は現在諸仏と別個の存在ではなく、現在諸仏 と全同である。釈尊が分身を化作したということは、釈尊 が﹁私は現在諸仏の本仏である﹂と宣言したことを意味す るものであり、これは叉同時に、現在諸仏が﹁私達は釈尊 の分身である﹂と宣言したことを意味するものでもある。 本仏という概念は空間的に現在諸仏を統一したものとして 既に見宝塔励に現われていると見るべきであろう。 多宝如来はその誓願にも不拘法華経を説かれた日月灯明 仏や大通智勝仏を讃歎されなかった。その理由はこれらの 諸仏はその出世当時の現在諸仏の本仏であることを宣言さ れなかったからであると見るべきであろう。釈尊が現在諸 仏の本仏たることを宣言された時多宝如来は初めて出現し て釈尊を讃歎された。讃歎はその仏の所説が真実であるこ とを認めた時初めて可能である、真実であるか否か不明の まま讃歎するものはいない。﹁証明を作して讃めて善哉と いわん﹂という場合の証明は讃歎の一部を存するものであ る。事務的に発行される証明書に使用される証明には讃歎 の意味は伴わない。讃歎という語があれば証明という語が なくとも証明が含まれている。 多宝如来は﹁この経を聴かんがための故に﹂﹁法華経を 説くを聞かんがための故に﹂﹁来至せり﹂とあり、﹁証明 のために﹂とはない。多宝如来の証明は法華経の真実性に 不可欠のものではない。釈尊が十方現在の諸仏の本仏であ るという真理は多宝如来の証明がなくとも微動だもしな い。ただし一般大衆にとっては、多宝如来という過去仏が 現在仏である釈尊を讃歎したことは釈尊の本仏としての資 格に客観性が与えられたものと受取られたであろう。この 限りにおいて多宝如来の出現は効果があったといえよう。 しかしこの効果はそれ以上には出なかった。釈尊の次の課 題は過去仏を統一することにあった。そのためには多宝如 来の存在はむしろ障害ですらあった。寿量品において多宝 如来の存在が完全に無視されているのはこのためである。 一尊四士説はこの寿量品の説相に論拠を求めようとするも のであり、一塔両尊四土説は寿量品の前後の諸品の説相に 論拠を求めようとするものである。 ︵以下略︶ (131)
日蓮上人の宗教はいかなる宗教であるかの問いに対して 古来多くの見解がある。端的には宗教である以上、知識に よる理解はいかなる方法によるにしてもその周辺を廻るだ けで核心に至ることはできないのは当然であり、やはり ﹁以信得入﹂でなければならないであろう。しかしこの信 による体験が、盲目の信であり、他からの理解も追体験も 全く閉ざされているとすれば、それはもはや文化的宗教と 認めることはできない。宗教が、万人に開かれたものであ るならば、普遍性をもつ知識から理解への道が開かれてい るとすべきであろう。しかし知識による宗教の理解は方向 づけであって核心に至るにはそれを否定的に超越する信に よる体認でなければならない。 この試論はかかる方向づけの試みの一つであり、価値論 の立場から巨視的な方法で行なおうとしたものである。 価値の観点といっても、現在あらゆる価値を網羅した完 全な価値表をわれわれはもっていない。絶対的に正確な時
宗教における価値の問題
芹沢寛哉
計の作製が困難である以上に客観的に完全な価値表の作製 は原理的に困難であるが、われわれは、生活し行為をして いる限り必ず価値観を予想している。日蓮聖人の場合も、 善悪、正邪、方便、真実など価値観を離れては論じ得ない のであり、その宗教の理想も最高の価値の実現であると考 へられる所から、何を最高の価値とされていただろうかを 考へることによって、その宗教理解に近づくことができる だろう。 ここでは一指標として現在比較的知られている、M・シ エーラーの価値表を取り上げてみた。シエーラーは五つの 標識をもって諸なの価値を測定し価値序列を定めた。それ によると、1、物質的有用価値及快適価値、2、生命価値 3、精神的価値︵真、正義、美など︶4、宗教的価値︵聖︶ である。1から4に至るほど高い価値であり、またより基 礎的、目的的である。1から3までは価値の相対的段階で あるが、4の宗教価値は絶対的である。聖の価値は、3以 下の俗的価値とは異質であって﹁無﹂によって媒介される。 同じく宗教的聖価値も宗教として実現する場合二つの側 面があり、それは宗教の二類型に対応する。それは1、神 秘的宗教2、予言者的宗教である。神秘的宗教は霊魂の 救済を最高の目的とするもので、そのために役立つ手段はいづれも容認される。現実から理想へ、周辺から中心へと 上昇的に進む、従って寛容的でありその用うる言語も象徴 的である。聖界と俗界は区別され此岸と彼岸は異った世界 である。 これに対して予言者的宗教は、宣布宗教とも云うことが できるように、教を宣布することが最高の使命である。従 ってその教以外は認めることができないから、不寛容であ る。その言語も、意味さえ同じであれば表現は手段である から何でもよいというのでなく、言語はそのまま実体であ り、言語と実体とを切りはなすことはできない。俗世界を 去って聖の世界へ行くことが目的ではなく聖の世界を俗の 世界へ実現するのであるから聖俗は一つの世界である。聖 俗一元は、両者的無原則な妥協ではなく聖を俗に及ぼす強 い信と意志が要請される。 一般にキリスト教や回教は後者であり、仏教は前者であ るというように、宗教学的な観方がなされているけれども 日蓮聖人の宗教がかかる類型的解釈で尽きるものでないこ とは勿論であろう。 日蓮聖人の遺文から現はれる諸徴標の多くは予言者的宗 教のそれである。例えば ﹁一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし﹂︵報 恩抄︶は宣布であり、﹁天晴れぬれば地明らかなり、法華 を識るものは世法を得べきか﹂︵本尊抄︶は聖俗一世界で ある。﹁夫摂受折伏と申す法門は水火の如し⋮﹂︵開目抄︶ は不寛容であり、﹁釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の 五字に具定す﹂︵本尊抄︶は、象徴に非ず、実体なること を示している。 神秘的宗教における上昇的実存の方向は、尚ほ論理的で あり、従って迩門的と云うことができるならば、予言者的 宗教の下降的実存の方向は実践的であり本凹的であると云 へるだろう。 日蓮聖人の宗教をこのような観点から類型的に予言者的 宗教だと規定することで、問題は解決するであろうか。こ の観点から、御遺文全体を読み返して、教学を再編成する ことは理論的には可能であろうが、それでは尚一面的理解 に過ぎないであろうか、そのとき仏教的性格はどうなるか 本論では、このような価値の観点から聖人の宗教は予言者 的宗教の性格が優位であることを認めながらも、尚ほこれ らの観点からのみでは尽すことの出来ないものを見出すこ とによって、更に探究を進めなければならない旨を喚起し たかったのである。 (133)
かってルースベネデクトはその著で日本を恥の文化、米 国を罪の文化と言った。たしかにそういう面は一般に強い
①②
が、勝れた思想家聖徳太子や親驚上人は罪意識の強い方で あった。では日蓮聖人︵以下敬称略︶は如何。 始め日蓮の絶対帰依をささげた法華経の人身観を見ると 二つある。一は六道輪廻の衆生、罪の衆生という概念であ る。︵方便、寿量両品︶二は願生の春属というか菩薩が仏 使として衆生と現れる考え方である。︵法師品︶日蓮の生 涯を一瞥すると、清澄開宗より三九才安国論奉呈まで、罪 については経典の説明である。四十才伊東流罪後、始めて 自身に言及し﹁日蓮は身に戒行なく・・・﹂﹁是程の卑賎無戒 の者⋮﹂﹁某は愚療の凡夫血肉の身⋮﹂︵二三五頁︶と言 っている。しかし世間的な道徳的罪意識はない。又信者に 対しては小虫を殺した者も餓悔がないと地獄におちると倣 悔を教えている。︵二五五頁︶四三才、小松原法難後、南 条七郎に対し、﹁十悪は日日にをかし、五逆をぱおかさざ日蓮聖人の罪の意識について
窪田哲城
れども五逆に似たる罪又日日におかす。又十悪五逆にすぎ たる誇法は人毎にこれあり﹂︵三二一頁︶と悪業の罪ふか い事を言っている。だがその反面﹁日本第一の法華経の行 者﹂との自負もあった。 文永八年九月十二日、幕府は日通を突如とらえて竜口に 首をはねようとした。その二日後、富木氏に﹁度之失にあ たりて重罪をけしてこそ仏にもなり候はんずれば、我と苦 行をいたす事は心ゆへなり﹂︵五○三頁︶と過去世の重罪 を消すためわざわざ法難にあって苦しむのだと言ってい る。では過去世の重罪とは何かというと、法華誹誘の罪だ という。即ち十月五日、大田氏に浬梁経を引き﹁転重軽受﹂ だと説かれている。佐渡へ流される本土最後の寺泊御書で 富木氏に法華経勧持品色読の法悦を語った。 佐渡第一信で日蓮は再び富木氏に先便をさし﹁推量候ら む巳に眼前也﹂と自身が仏使上行なる事を賠示した。佐渡 四カ月後、開目紗をかき六回も七回も﹁我身法華経の行者 にあらざるか﹂と内省し、その上で菩薩の大悲代受苦をと いた。その内省の極から﹁日本第一に富める者﹂との法悦 境に住した。ここでも法難重畳は﹁過去の重罪の今生の護 法に招き出せるなるべし﹂︵六○三頁︶と言っている。つ いで佐渡御書で﹁我今度の御勘気は世間の失一分もなし﹂︵六一四頁︶とカッパした。即ち過去世の誹誇正法の罪意 識はつよいが、現世の道徳的罪意識はほとんどない。では 世間的道徳に対してどうかというと例えば波木井三郎に ﹁貴辺は武士の家の仁昼夜殺生の悪人﹂︵七四九頁︶と決 して否定していない。 文永十一年、日蓮五三才の時ゆるされて鎌倉にかえりつ いで身延にかくれた。身延は地頭が信者であり、鎌倉I佐 渡とちがって生命の危険はなかった。そのせいか佐渡期の ような﹁我身法華経の行者にあらざるか﹂という絶対絶命 の叫びはない。身延期九ヵ年の御書は量としてはそれ以前 よりも多いのに、ふしぎに日蓮自身の罪について言及した ものは少い。 ある時は﹁一閻浮提第一の聖人﹂︵八四三・九六五頁︶ と云い、﹁日蓮は日本国の人々の父母・主君・明師﹂︵九 九六・一○一八・一三三一頁︶と言ったが、それは﹁釈迦 仏の御使﹂としての言葉であった。だから逆に言えば﹁日 蓮は無戒の比丘﹂︵一二○・二六五・一八五四頁︶﹁天 下第一の僻人﹂︵一三○八頁︶、﹁日蓮は凡夫﹂︵一六○ 九頁︶との謙虚さもあった。その謙虚さの中から﹁世間の 失一分もなし﹂と倣慢にも象える断言は法華信仰を絶対と し、法師品の仏使の自覚からであった。 世間の失一分もなしと言った日蓮がその反面、師親追慕、 夫婦相愛、報恩感謝、餓悔、罪障消滅等の徳目を強調して いるのも身延期の特色であろう。︵これは鎌倉、佐渡期は 法難迫害の連統のため説く閑がなかった︶ ともかくも親駕上人は道徳的罪意識の強いのに対し、日 蓮聖人は深い内省のもと誹誇正法という宗教的罪意識を強 調された。この様にみてくると、罪の概念は違うが、深い 罪意識のもと内省の生涯をおくられた思想家が過去の日本 におられたのである。 ︹註︺ ①十七条憲法第十条﹁共足凡夫耳﹂ ②正像末和讃。愚禿悲歎。 ﹁無漸無槐のこの身﹂﹁小慈小悲もなき身﹂﹁蛇蝿好詐の 心﹂﹁好詐ももはし身﹂と自らの罪業深重をなげいた。 ︵これは要約で説明不十分であるが、千葉敬愛経済大学 ﹁現代科学論投﹂に全文を掲絞す。︶ ﹁妙正物語﹂については、仮名草子のジャンルに於て略
妙正物語について
岡田栄照
(135)述的説明がみられるにすぎなかったが、藤井学氏が岡山史 学九号に履名草紙と法藷宗l妙正物語について﹂と題 し、この物語の梗概へ数種の版本、登場人物、成立事情、 史的背景、思想内容について分析考証され、さらに思想大 系五七に於てその全文は収録され註釈解説されるに及び広 く江湖に知られることとなった。私は藤井氏の論及されな かった点について若干の問題を提起してみよう。 伝教大師のいはく﹁浅は、やすく、ふかきはかたしと は、釈迦のしよはんなり。あさきをさってふかきにつく は、丈夫のこころなり。幼稚の者のために、金銀珠玉を さしをきて、竹馬草鶏をあたふ。まったく父母の本意に あらず。しばらく養育方便の為なり﹂と釈し給ふ。 この出典は秀句下︵伝全三・二七三・浅易深難釈迦所判去 浅就深丈夫之心也︶であり、日蓮遺文に於ては三種教相、 秀句十勝紗、釈迦一代五時継図、法華大綱紗に引用される。 法華大綱妙に限り﹁されば伝教大師秀句褒美前代政道成段 当時成敗依恋爾前諸経可成今経怨敵幼稚の者の為には閣金 銀珠玉与竹馬草鶏全非父母本意且為養育方便也﹂という章 節が象とめられるが秀句にこの章節を検出することはでき ない。 止観五云、﹁若此度此国におゐて、妙法を信ぜずんば、 いづれの国、いつの生におゐて、此経典にあわんや﹂と あり。 とあるが、止観五乃至全巻を通じてこの章句をみとめるこ とはできない。 されば伝教大師、守護章にいはく、﹁師は針のごとく、 弟子と旦那糸のごとし。師おつれば、弟子おつ。弟子お つれば旦那又おつ﹂となり。 この出典は.切学人不可信受所以者何其師所堕弟子亦堕 棚那亦堕金口明説呼呼不可不慎哉﹂︵伝全二・三六四、三 六五︶であるが、針と糸の比喰はみえない。 日蓮遺文に於ては曾谷二郎入道殿御報、身延山御書、一 代五時図に引用せられ、金網集︵浄土宗見聞集下・法華経 之事︶にみられる。 藤井氏は﹁この物語成立の上限は、日典妙覚寺住持就任 の永禄九年と思われ、またその下限は、日紹が妙覚寺門流 に対し決定的対立態度をとる慶長四年と推考されよう⋮﹂ と推定されたが、この点に関し私見を加えてみる。主人公 妙正︵寺西新之亟正成︶の改宗はその子善九郎臨終の際に 蓮昌寺日紹によってなされ、・日紹は善九郎受法の師日典に ついで重要な役割を演じている。日紹は教蔵日生が蓮昌寺 から・本寺へ晋山した天正十五年に日生の後住として蓮昌
寺の法灯を継承し、文禄二年妙顕寺へ晋山するまで蓮昌寺 に在住している。この物語は談義本の一種として、妙覚寺 門流の教義を広宣流布することを目的意識として成立した 。○ ものと考えられる内容︵但楽受持大乗経典、乃至不受余経 一偶の強調︶、文禄四年の日紹の動向が反映されていない ことなどから、備前法華の実態にあかるい僧侶の誰かを原 作者として考え得る可能性から類推して、成立の下限を文 禄二年頃とする方がよいのではないだろうか。 主人公の出身地﹁備前の中村﹂を現在の山陽町西仲︵通 称中村︶としているが、これについては確証はなく、また 備前に中村と称せられる地名は十数ヶ所存在するのであっ て、また歴史的事実から物語が創作されるとは限らない故 ●● に推定する作業自体があまり意味がない。主人公の寺西正 ● 成、正行にしても、西方浄土信仰と楠公父子の説話を加味 していることが考えられることから寺西氏の存在を実証し ようとすることは無理であろう。 ○ . 妙正は正直捨方便、妙善は後生善処に由来すると考えら れるので、主人公父子の実在とは無関係であり、虚構に於 ける技法の一手段と解するのが至当ではなかろうか。 主人公妙正父子の忌日を父を九月十八日とし、子を八月 十八日とすることは、消極的ながら観音信仰を包摂してい ることが察知せられる。この件については﹁選集抄巻七第 七下野国刀弥川無相房事﹂にぷられる説話が参考になる。 ﹁堺の薬王寺の住持日りやうと申聖人﹂について考えて 承ると刊本によっては日梁とあり堺の経王寺の薬草院日梁 ︵天正十年六月十一日寂︶ではないかと考えられるが、確 証はない。 謡曲・狂言・道行文からの借用は極めて巧妙であり例が 多く、﹁鳥羽に恋塚、秋の山⋮﹂は仮名草子恨の介上に ﹁鳥羽の恋塚、秋の山﹂と同じであり、人口によく贈灸し た名文句が多数引用されているが、この点については、当 日配布の五枚の詳細な資料によって大体その全貌を把握で きるのではないかと考えている次第である。 旧訳﹁諸法の実相とは所謂諸法如是相如是性如是体如是 力如是作如是因如是縁如是果如是報如是本末究寛等﹂ 新訳﹁諸法は何ぞや云何んぞや何の如きや如何なる相あ
方便品十如是にっ
浦いて
上芳武
(137)りや如何なる自性ありや﹂ 釈尊当時文字なく、学問の主力は記憶暗調の口伝であっ た。自利利他自覚殉他令二法久住一のための仏大慈悲で仏滅 後四回に及ぶ結集会議が開かれたとは法苑珠林の説で、第 一は釈尊在世の如き表現、第二は滅後の結集準備、第三は 仏滅後で龍樹の智度論説と全同、第四は仏滅百年後の結集 長たる大迦葉が百五六十歳の長寿であった一事も日本古事 記時代の帝寿と対比し異とするに足らず、仏滅後七百年出 世の龍樹百二十歳以上の長寿者は今もある。十如是は大哲 龍樹の大智度論に論及されているのだから、西紀四○六年 羅什訳は名訳である。 新訳の﹁何ぞや如何ぞや﹂は如是体如是作如是力と判じ 得る程度で、以下は如是相如是性である。 仏滅九百年無着世親二兄弟出現後程なく印人スリャソマ 三蔵に師事した印人羅什が、師命を奉じ、西域亀妓国大臣 羅炎の子たる羅什は、隣国挑秦に越境の機を待ちつつ漢語 を学ぶ内彼我戦勃発、捕虜の身も賓客の待遇と変り、勅命 を受け、長安の都で法華経始め七十四部三百八十余巻を漢 訳した仏典は、羅什訳といっても什個人の悟達から梵文の 一節と意味を漢語で述べ、長安屈指の多数文人筆記後互い に脈文を示し、妓後羅什の総合印可によって訳文が旧訳の 如く決定した次第で、羅什は雛訳長を務めたのである。 羅什の悟りから出た漢訳文を多数文人が修飾した名漢文 は、数字等の誇張は梵文以上であっても不思議はない。不 思議といえば、スリャソマ三蔵が、この経東方の小国に縁 ありと、愛弟子羅什を摩頂激励したその並をならぬ念願で ある。羅什の死は西暦四百十三年だから、四百四年から九 年足らずの大事業で、インド人たる語力と大死一番の悟達 力、及び屈指の多数文人を集めた国家的事業の賜である。 明治の新訳は五如是に過ぎない理由について、私案であ るが、同座の弟子にも聞き洩らし異聞忘却等あっても、文 字完成後不完全記録は重宝視されず、読調されないままに ネパールの如き高原乾燥地帯が、保存に適したために二千 数百年間保存されていたものと判断すべきであろう。 この十如是はカント哲学の十二の範購に当るが究寛等の ない先天的思惟の形式である。すべて万物万有にそなはる 相性体力作因縁果報と究寛等の上に如是があるために十如 是となるのである。 新訳法華経は今から約七十年前、インドの東北ヒマラヤ 山脈の南側に東西に細長いネ・︿1ル国で、発見された梵本 法華経を大谷大学教授南条博士と、泉教授が和訳された経 典である。
一見して明かに、聖徳太子以来伝教大師日蓮聖人われわ れ弟子信徒が聖視精読している旧約妙法蓮華経の要品たる 方便品十如是実相段に劣り、両教授訳とを対比すれば、上 半も重要であるが、更に下半の科学的な因縁果報と科学哲 学実践的な最後如是本末究寛等が、ネパール発見の梵本に 欠除している現実を知ったわれわれは、羅什の旧約に真価 を再確認し、断じて迷はないのである。 諸法実相段の難解な理由原因は﹁法﹂の一字を、単に法 則規範の如く主観的思考の形式とのみ判断する所にある。 われ等は初から天台日蓮両師の指導によって、諸法を万有 と理解し、相を色形、性を物心二体の温度声音意志の有無 によって生物と無生物を区別している。天台智者大師は十 如是の判釈において、体力作縁は義色心に通ずとあるも、 私は﹁性﹂をも加え、性体力作縁は色心に通ずと改むくき であると主張する者である。薬物の性状は薬局法に詳記さ れ、固形体も温度の高低によって液体気体の三体に変化す る万物流転の科学的仏教真理は水の承に限らない水を電気 分解すれば水素と酸素に分離し、イオン化して楴電する。 本末の本は相、末は報、要するに差別の九如是が、究寛 終局において平等な気体と心霊の波動には中心があっても 平和な状態では何処に中心があるか不明である。 然るに鼬風発生は、空気の回転運動を起こす非常事態と なれば、自然その中心に眼という無風に近い静かな簡所を 生じて移動する。都もその眼の中に入って、平穏無事な鼬 風の通過を待った経験は過去の如く将来にもある。 心霊中の個霊に対し人の死後年忌仏事が行はれる風習は 我念のない人為の定めであるから保存されている。 聖人は精神思想の混乱した非常時に出現した中心、鼬風 の眼であって、無我万徳の持主である。今や古聖人孔子が 中国に批判を受けつつあるが、鵬教は君主に仕える吏道を 説いた教で、仏教の如く王道を説いた教ではない。 羅什や聖徳太子、伝教大師は王師であり、日蓮聖人は王 道とその他の人倫を説き、立正安国論以後十一通御書によ って、未だ国の大事が起らぬ内に、大蒙古の来襲を予言さ れ、時の政府幕府に対して、邪宗を禁じ迫害に屈せず三度 の国諫をされた。後に北条鮫明寺も法華に帰正したが、日 本天皇は国及び国民の代表中で国会開閉院式のほか国事十 項のご任務が憲法に定められてある。平等の中にも秩序が 定まり、平和が保たれるのである。 (139)
一、 、
修方等餓
彰慧思
識大品
開法華経
講大智度
説次第禅
講一浄
講金光明
天台大師行蹟・撰述対照表智者大師別伝続高僧伝十七
︵正・卿P皿︶︵正・卿P認︶
智者行蹟智者行蹟
得普門品得普門品
行蹟
門品
天台大師の撰述乃至説述と称せられているものは現在四初期天台文献について
若杉見
経名門論題経伝心 識次講 代 説智 禅度 浄 識 名門論 経 南岳思禅師伝撰ff '
・ 内 V55典述3塁箪
嘗 能 十部百八十巻も数えられるのであるが、これらの中で比較 的古い成立と考えられる典籍と天台の伝記との関係を些か 考究し、卑見を述べたいと思う。 天台の著作乃至伝記についての古い記録は章安の別伝、 道宣の統高と内典録、更には伝教の台州録である。 これらを一覧にしたのが次の表である。 釈論疏二十巻台州録
55
︵正・妬P噸︶撰述
観音品義一巻 観音品義疏二巻 金光明経玄義一巻 金光明経疏三巻 次表参照 欠 次表参照 次表参照 存・正・調 存・正・鋤 存存 ● ● TFTF ● ● 3434 欠 術方等餓法
聴無量寿
聴法華
道具一分奉弥勒
口授観心論
著浄名経疏
授菩薩戒
授菩薩戒
講仁王般若
講仁王般若
開釈論
作観音餓法
方等俄法
聴無量寿
令唱法華経題
遊具一奉弥勒
口授観心論
金光明慨
造浄名疏
授菩薩戒
授戒
誰仁王
講仁王経
講智論
作観音餓法
般舟証相行法観心論
請観音行法 般舟三昧行法一巻 雑観行一巻 五方便義一巻 円教六即義 観心釈一切経義一巻 釈一切経義一巻 阿弥陀経疏一巻 観無量寿経疏一巻 弥勒成仏経疏五巻 観心論一巻 金光明餓法一巻 菩薩戒経義記二巻 仁王般若経疏四巻 請観音経疏一巻 国清百録所収 欠 欠 存・正・仰 欠 欠 欠 存存 ● ● rJF ● ● 3737 次表参照 国情百録所収 存・正・媚 欠 存・正・鋤 存・正・詔 存・正・弱 国清百録︵正・妬︶所収 (141)二、天台大師親撰対照表 智者大師別伝
覚意三昧一巻
六妙門一巻
法界次第章門三巻小止観一巻
法華三昧行法一巻次第禅門三十巻
七学人具一巻 七方便具一巻 一二三身義一巻 観心調十二部法一巻 如来寿量義 金剛般若経疏一巻 口決禅法一巻 禅門要略一巻 禅門章一巻 釈十如是義一巻 大方等行法 内典録記載の大方等行法は方等餓法か方等三昧行法であろうが未詳 方等三昧行法とすれば存・正・“ 統高僧伝 修禅法? 禅法小法六覚離華止罷
意唐
大筒三観婁妙三,
十 二三 録 巻昧巻巻門昧台州録
覚意三昧一巻 修禅六妙門一巻 法界次第三巻 小止観二巻 妙法蓮華経餓法一巻 禅文修証十巻 欠 欠 欠存写本
欠 存・正・詔 存・正・媚 存・統蔵二四ノー 存・統蔵二四ノー 欠 存存存存存存 . . ・ ・ ・ ・ 伽 正正正正正正 ● ● ● ● ● ● 464646464646第一表は最上段に別伝によって、天台の幼時からの信仰 や経典の講述、或は臨終の様子等を時間を追って書き、そ の下にそれと対応ゅる統高を、内典録、台州録からはそれ に対応する説述を拾い上げ、あてはめてみた。 ここで注目したいのは天台の経の注釈である。この中金 剛般若経疏を除き、残りの十一部についてみると、その何 れもが、天台の伝記における講説や信仰に何らかのかかわ りを有しているものであることが判る。天台説といわれる 注疏は天台の伝記を基として作られたものであることが知 られ、又金剛般若経疏は伝記と何の関係もなく、内容上か 法華︵文句︶︵疏︶ 浄名経疏二十八巻
前玄十巻
止観十巻
法華玄十巻
後玄六巻
止観門? 法華疏? 後四三四前維法悉
窪華
玄教観埋玄璽疏
六 十十十 巻義義義巻巻巻法華玄十巻
円頓止観十巻
ら疑問視されて来たが、異色なものであることが判る。 第二表は天台の親撰対照表であるが、之は前記の文献以 外に章安の私記縁起等や、国消百録によって補い、作って ゑた。この表を見ると、天台の親撰は八部、又親撰に準ず べきものは四部となり、四悉担義のみ欠本で、他は現存し ている。但し、現存しているものが当時のものであるか、 又果して天台の真の親撰であるか疑問の残るところであ る。 妙法蓮華経玄義十巻存・正・銘 欠摩訶止観十巻存・正・拓
妙法蓮華経文句疏十巻存・正・拠窪錘郵誰嶬蝿註本 存・統蔵二七ノ五 欠・国清百録による 欠三観義二巻存・統蔵二四ノー
︵ママ︶四教儀十二巻存・正・妬
維摩経玄疏六巻存・正・鍋・国清百録による
(143)山川智応博士箸、本門本尊唯一精義と大曼茶羅本尊御図 式要義の中、文永十年七月八日御顕発の御本尊に教、証両 式があるとの説でありますが、証の総帰命式は明治八年に 焼失した御真蹟があったことは周知のことでありますが、 教の四聖帰命式は、田中智学先生、山川博士が村上国信氏 の伝持曼茶羅は御真蹟を転写したものであるとの説であり ますが、私は是れを否定するものであります。先づ次の二 点から論じます。 H四聖帰命式曼茶羅は御真蹟があって、それを正しく 模写されているのか、現在のやうに御真蹟の写真集のない 時代に、何人かが二、三幅の御真蹟を拝して別意があって 顕わしたのか、 口教義法門上、義学上総帰命式と四聖帰命式を同時に 顕発されねばならないものか。 ㈲に就いて立正安国会の御本尊写真集と村上国信氏伝 持曼茶羅を比較いたしますと。村上国信氏伝持曼茶羅は、
佐渡始顕本尊の教証両式
早瀬公人
四聖と先師の南無が弘安式で、中尊南無妙法蓮華経の経の 字が弘安式、不動、愛染の梵字が弘安式︵如意宝珠︶御花 押が、バン字、ポロン字でない叉御名﹁日蓮﹂と同じ処へ 顕示されている、御座配は他に例がない。 以上からして村上国信氏曼茶羅は、文永式の転写のもの ではないので御真蹟の転写でないと断ずるものでありま す。 口に就いての顕正の次第 大聖人は開宗乃至一生を通じての唱導である依法不依人 と文証理証現証とを以て一切の諸宗見を破折する鉄槌とせ られています。叡山最後の御自覚は自己が本化上行菩薩で あることでありますが、経証を歴て大事な法門を顕示され ております。 御法門次第は、慧、定、戒と拝察いたします。佐渡已前 は、慧即ち題目の御法門で、佐渡流罪によって、文証は寺 泊御書と勧持品二十行の偶を身読あそばされました。 理証に於いては開目抄生死一大事血脈抄と法華宗内証仏 法血脈抄で内証真実を以ては釈尊上行菩薩を高祖と為し奉 るのみとて内相承を明して、付属の任を定めさせたまひ、 文証、理証を実証あそばされたので、当身の大事たる観心 本尊抄を顕発されて、それから三月後の文永十年七月八日に、本仏果海の法界と末法衆生界との連絡を付ける為め、 教法の一念三千、在世脱益、八品儀相の始顕本尊を御図 顕あそばされたのであると信ずるものであります。﹁定﹂ の御法門と拝察いたします、然るに本尊抄に﹁此等の仏を ば正像に造り画けども、未だ寿量の仏ましまさず、末法に 来入して、始めて此の仏像出現せしむ可き欺﹂と、仰せの 末法の﹁用﹂行法の一念三千の御本尊を図顕あそばされる には、本尊抄に﹁今の自界叛逆、西海侵逼の二難を指すな り、此の時地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為りて 一閻浮提第一の本尊を此の国に立つべし﹂と仰せの﹁西海 侵逼の難は文永十一年十月で時期ととのはず、﹁此の国に 立つべし﹂の日本国との因縁本国土妙が、御自身の本地顕 発が未だ次第しないために、顕正の次第がととのはない、 そこで大聖人は、文証、理証で予言された聖者であらせら れることは実証されたが、本化上行菩薩としての知見を通 して予言する聖者であらせられなければなりません。 文応元年七月十六日の立正安国論の第一国諌で、念仏、 禅を捨て法華経に帰依せずんぱ自界叛逆の難と佗国侵逼の 難となるとの予言をされています。又文永八年九月の第二 国諌に、百日、一年、三年、七年と仰せられて、塚原三昧 堂到着から百日目の文永九年二月十一日に北条一門による 自界叛逆の難が起り第一国諌より満十四年余、第二国諌よ り満三年余、文永十一年四月の第三国諫より満六ヶ月余で 蒙古来襲の佗国侵逼の難が適中し、本化上行菩薩として、 現証が定まって、先の、文証、理証、現証と三証具足した ので、文永十一年十二月露堂とと自己が本化上行菩薩であ ると本地顕発の御本尊を図顕されて、やがて本国土妙の功 徳を顕はす神秘なる日本国の本地を顕発されたのが、始顕 本尊已来天部に、天照太神、八幡大菩薩とあったのを、南 無天照八幡等諸仏、と本地垂迩でなし仏教上無上真理の体 現として顕はされています。そこで本尊抄の御文が具足し たので、中尊南無妙法蓮華経﹁本果妙﹂の下へ国土世間と して、天照太神、八幡大菩薩﹁本国土妙﹂と、地涌千界﹁大 聖人﹂﹁本因妙﹂が出現されて、本門の釈尊の脇士となっ て﹁此の場合の脇士は本尊の仏徳を表はし、化導を扶け、 用務を弁ずる侍聖﹂その脇士は能具、能行であらせられま す。ゆへに此の顕正の次第が、御図顕の次第と一致してお ります。以上からして、村上国信氏伝持曼茶羅のような四 聖帰命式を、文永十年七月八日には御顕発がないと領解す るものです。 (145)
日蓮聖人における死者追善の行儀が、聖人滅後どのよう に受け継がれ、展開していったか、これをひもとく意味で 白蓮阿闇梨日興と中山法華経寺第三世日祐を中心として検 討を加えて承ようとするものである。 日興の教線が在地民衆へ浸透していく段階において、従 来からの宗教儀礼を包摂していっている一面がある。在地 性を濃くもった日興の宗教活動が、すでに日蓮聖人在世中 に桑られる﹁追善仏事﹂の影響を受け転用していることは このことを物語るものと考えられる。ではこの点について 日興の﹁曼茶羅脇書﹂をとり挙げて染たい。 この僅茶羅脇書によると、本来は授法の意味をもち、礼 拝の対象たる日蓮聖人の曼茶羅を、日興は忌日にあたって これを書写し授与している。例えば嘉元三年︵一三○五︶ 五月四日の曼茶羅脇書を承ると、三十五日︵五七日︶の追 善行たる曼茶羅の書写によって、武士であり朝敵でもある
日蓮聖人滅後における追善供養
の動向と展開
松村寿巌
伴野出羽三郎、大野弥六の後生の成仏を保証するというの である。さらに同年六月二十一日の製茶羅脇書にも、﹁大 妙比丘尼に之を授与す、十三年□口相当り、価て供養を遂 げ畢ぬ﹂と書している。この外に、一周忌・三回忌・三十 三回忌などの忌日に書写している愛茶羅が少なからずゑい 出される。このことは受茶羅を書写し、授与することが追 善仏事の一つの形態として大きくクローズアップされてき たことを物語っている。なお回忌について以上のほかにも 日興の書状に、二七日・三七日・十三回忌も多く含まれ、 このことは日蓮聖人の﹁十仏事﹂より、日興の﹁十三仏事﹂ へとの回忌数の増加が顕著にゑられる。さらに日興の書状 によると、故尼御前の十三年、追善の﹁仏事料﹂として、 白米一俵・いも一駄・用途︵銭︶三貫の他、三十六種にも およぶ品物を受領している。これはその一例で、他の回忌 の仏事においても同様である。このことは追善仏事の際の 供物は種類といい、内容といい、いずれも豊富となってい ることである。また﹁仏御鵬料﹂﹁御霊供料﹂﹁盆料﹂﹁彼 岸御仏料﹂﹁五月御節供料﹂との名称も表われ、いずれも 銭や品物をたむけていることである。 これらのことは日興にとって死者追善の行儀は、経済的 一面からも甚だ重要な場であったことが推察される。なお日興におけるこのような動向は、聖人の場合とは微妙に変 化しながらも、聖人における死者追善行の延長線上に展開 したものとも考えられるところである。 中山法華経寺の在地定着は、為政者︵千葉氏︶の権力を 背景に各地領主を通じて広く在地民衆までも法華宗徒とし て糾合していく方策がとられた。ではこのような在地の宗 教的状況において、追善仏事はいかなる位置を占めていた のであろうか、日蓮宗の信仰が在地の支配体制と関係して くる段階ともなると、いままでとは違った意味あいが、追 善仏事において浮き出ている。この点について、元徳三年 ︵一三三二九月四日、下総の在地領主千葉胤貞の日祐へ の譲状をひもとくと、つぎの三点が判明する。e所領の 寄進という経済的裏付けによる寺基の確立であり、◎法 華経寺を中心とした千葉氏一族の信仰統一でもある。e 中でも﹁天長地久の御祈瀞﹂すなわち現世の祈であり﹁胤 貞の後生菩提を訪う﹂という追善行の要請を打出したもの であった。日祐はこれに応じて、弟子日尊へもつぎのよう に申し付けている。﹁天下泰平御祈祷、且可し被し懸一胤貞等 子孫現当所願心一者也。﹂と命じて千葉氏の現当を祈ってい るのである。 なお胤貞の日祐に対する寄進のトータルは千田庄・八幡 庄をはじめとする所領の中から、四十五町歩にものぼり、 中山法華経寺の寺基の確立へ多大なる促進をうながすバッ クボーンとなったものと考えられる。 しかしこれらのことは、胤貞をはじめとする千葉氏代々 の菩提を弔うということが絶対的条件として要請されてい るのである。具体的には、現実の体制の維持であり、かつ 法華信仰による精神的支柱を与えることでの領内の統一で あり、より強固な支配体制の強化である。さらにはこの体 制が来世までも続いていくことの願望の肯定をうながした ものである。一方、中山法華経寺は為政者の消長によって 寺運が著しく動揺をきたさぬよう祈り願ったのである。 日蓮聖人において追善供養は、檀越との最初の機縁たる ものとしてではなく、師檀関係の伸張という意味において 展開されているが、聖人面授の弟子も居なくなり、支配権 力と結びつく段階ともなると、次第に経済的要因をも含象 ながら、追善供養は布教上の重要な尖兵としての機能を備 えてきている。つまり、一つの伝導方策として賑化されて きたものであった。︵註略︶ (147)
︵一︶日蓮宗では古来より﹁神天上﹂ということを主張し 日蓮聖人もまた力説されている。その拠となるものは、文 応元年述作の﹃立正安国論﹄に教示されている。 キ
ス二二テヲリシテワ
世皆背し正人悉帰し悪。故善神捨レ国而相去聖人辞し所而 ラ 不し還。︵定遺P邪lP麺︶ ノカナリ カハンルニ ニシテ 夫四経文朗。万人誰疑。而盲瞥之輩迷惑之人妄信二邪ワヘヲ一↓
デ ーシテ ヲ 説一不し弁二正教一。故天下世上於一諸神衆経一生二捨離之心一 シ テテヲルヲヲテ
シ 無一擁護之志一・個善神聖人捨レ国去レ所。是以悪鬼外道成レ ワスナリヲ 災致し難突。︵定遺P懇︶ すなわち、禅・念仏等の諸宗及び真言の邪法が、法華経 の正法を覆い隠し、諸天善神は法味をなめることができな いため、天にのぼって国の守護を放棄するという善神捨国 註① 思想のことである。 ︵二︶しかし、この神天上思想ははたして善神捨国の一面宗祖直弟間における神天上義の
扱い方について
中条暁秀
性しか持ち合せていないのであろうか。この疑問に対して 日蓮聖人は﹃観心本尊抄﹄に左のように示されている。ノテワチヲテワシヲ
今末法初以レ小打レ大以レ権破レ実東西共失し之天地顛セリノハレテ
セテワ
倒。迩化四依隠不一現前一・諸天棄一箕国一不し守一誰之一.此ノテシニテ
ノヲム七
時地涌菩薩始出一現世一但以二妙法蓮華経五字一令し服二幼 一− 2F︽ 稚一。因誇堕悪必因得益是也。︵定遺P池︶ 日蓮聖人は末法という善神捨国の日本に地涌の菩薩︵本 化弘通者︶が出現して、法華経の真髄たる五字の要法を弘 めるからこそ、守護の善神は還り来たり弘通者を守護する であろうと予定し、確信をいだいているのである。 註② さらに、﹃法門可申抄﹄に示されるが如く、日本の諸神 註、 の中で八幡大菩薩を以て代表させ、その八幡も住む所がな いから天にのぼってしまった。しかし、正法の弘まるのを 見れば当然その弘通者のところへ還帰するであろうとして いる。 そして、日蓮聖人が文永八年九月十二日竜の口の刑場に 赴く途中鶴岡八幡宮の前で、 ス 八幡大菩薩に最後に申べき事あり、とて馬よりさしをり ス て高声に申やう。いかに八幡大菩薩はまことの神か。 ︵定遺P砥︶ と叱姥したいわゆる八幡社頭諌言である。これなども八幡大菩薩の来下を、在社を確信していたゆえの発言であろう と思われる。 註④ そして、のちに弘安三年十一月十四日に社殿を焼いてし まった八幡大菩薩ではあるが、 プ 此大菩薩は宝殿をやきて天にのぼり給とも、法華経の行 ル ミプ
ノニク
者日本国に有ならば其所に栖給くし。法華経第五云諸二ニノノーモスヲ
、謬 天昼夜常為し法故而衛二護之一文。︵定遺P“︶ 1 と述べられ、擁護来下を強く主張しているのである。 つまり、悪世末法の誇法充満の悪国には善神は捨国上天 してしまうが、この時に当って救世の大導師が出て法華正 法を弘めるならば、諸天善神も還帰擁護するであろうとし ているのである。 ︵三︶日蓮聖人の直弟の諸記録中で神天上義について述べ てあるものは少ない。しかし、日蓮聖人滅後最初の教団分 裂をきたした白蓮日興の﹃原殿御返事﹄の三島社参問題よ りその答を見い出したい。 すなわち、南部実長が三島神社に参詣しようとした。日 興は常々、 此国に守護の善神無と云事︵宗全二巻P”︶ と指導していたが、突長が鎌倉在勤中諸弟子から聞いたと ころでは、 ス 諸神此国を守り給尤も可二参詣一候︵宗全二巻Pm︶ と教えられていたので、実長はこの教示を善とし、参詣す るのは誇法罪にならぬであろうと考えた。日興はこの実長 の行為を聞いて、弟子の越後房を使いとして止めさせよう とした。そこで実長は、その当否を民部日向に聞いたので ある。日向は、 守護の善神此国を去と申事は安国論の一篇にて候へども 白蓮阿閣梨外典読に片方を読て至極を不し知者にて候、 ノークス
orス 法華持者参詣せぱ、諸神も彼社壇可二来会一、尤可二参詣一 ︵宗全二巻P、︶ と答えた。おそらく先に述べた鶴岡八幡宮の炎上事件に関 連して教示された﹃諌暁八幡抄﹄の旨をもって、実長の行 為を認めたものと思われる。 日興は捨国面を強調し擁護面を無視し、日向は捨国のこ とは勿論ではあるが、擁護面のあることを忘れてはならぬ 註⑨ という、二つの流れを生じたのである。 註①宮崎英修著﹃日蓮宗の守護神﹄P髄﹃不受不施派の源流と 展開﹄P妬lP鮠 註②定避P唖 註③宮崎英修著﹃日蓮宗の守謹神﹄P的lP卯﹃不受不施派の 4 源流と展開﹄P叩fPw・﹁氏神八幡大菩薩﹂︵定遺P“︶ 1 (149)明和六年十月廿二日三宅
不受不施天明三年十一月十五日御奉書到来、御免流 人ノ内、野州都賀郡東水代村源兵衛伜千吉卜申者相頼、不 受不施二催成候様御諫書差出千吉儀、右諫書御箱訴仕候二 付御吟味ニ相成り、千吉儀︿江戸入牢被仰付、日照儀ハ右 御吟味之上、不届二付、天明五已四月廿四日神宮凡ニテ御 下知被仰渡候。御書付到来神津島へ島替被仰付候 天明五年六月九日神津島へ送ル 下総国印幡郡久能村観久山 4 ﹁日蓮の氏神を諌暁する云云﹂︵定逝P別︶という表現から 1 もうかがえる。 註④史料綜覧P認 註⑤宮崎英修著﹃不受不施派の源流と展開﹄PwlP兜不受流人僧日照
l三宅烏より神津島烏替I
藤崎正幸
潮音寺隠居日照丑五十二才伊谷
三宅島流人在命帳に依ると、日照は明和六年十月廿二日 不受不施の科に依り三宅島流罪、伊谷に配置、天明三年赦 免流人千吉を使って不受不施を箱訴させた。その結果日照 は再犯神津島へ島替、千吉は江戸入牢を申渡されたのが天 明五年六月九日の事である。斯かる一編が発表されたのが 宮崎英修先生著﹁不受不施派の組織と展開﹂に、三宅島常 勝庵過去帖筆者云々の内に指摘発表されている。しかしな がらこれまで島替后の日照の経過・行状等詳かでないので 以下考察を加えたい。 第十八回当教学発表大会に於て﹁明和法難に就て﹂と題 し、史家加川治良氏の一説があるが、今回の発表は全氏の 説とは全く其の論旨を異にしたものである。 潮音寺は千葉県印幡那富里村久能に在り、開基は天正年 間覚正院日永上人によって、真言宗より改宗したと云われ 中山法華経寺の隠居寺で、開創は大同年間と﹁富里村印幡 郡誌﹂に伝えられている。さて日照が如何なる事情から ﹁潮音寺隠居﹂と名乗ったか、且又その前の伝承・文書等 に就き証明するに足る資料は全く皆無である。叉十七年間 三宅島に在る日照に就いても在島経過を裏付ける口伝・伝 承・文書等把握出来得ないのである。さて﹁潮音寺日照﹂は﹁隆賢院日照﹂である。 為法華経始三宅。後神津一一遠流ス。 生国下総国匝嵯中村ノ産也。 文化元甲子年十一月廿一日 先般神津島須賀原流人墓地内に諸不受僧十数基と共に高 さ一、八米五輪塔型の墓碑を確認した。島替後日照は自ら 名付けたと云われる〃峠山〃山中に居住を指定され隣接す る漁業有力者石田伊平の監視下に置かれたと云われる。当 時神津島は全く文盲の地で島民の殆んどは〃読承書き″の 出来る者も無く、子息等に文字を教導し、叉土木治水工事 等即ち飲料に用いる雨水を、竹木を利用して貯水用法など を指導するなど島民の生活に多大な貢献をしたとの伝承が 残されている。島民達も何時か日照の傑出した人格と徳行 に崇敬の念を抱き〃特志を以て帰依する〃様になったと云 われる。現に﹁神津島村史年表﹂の内に﹁三宅島流人僧日 照、神津島島替後同島に大いに文字を広む﹂等と記されて いる。又石田伊平の血縁で、昔の地に在る石田久作氏宅の 過去帳に、廿一日の項﹁子十一月隆賢院日照大徳﹂の名が 記されている。叉全家に保存されている日照上人遺筆・諸 文書を紹介する。 H御申状子時天明四年太歳甲辰二月廿八日
本門法華門人日照
御申状子時天明四年太歳甲辰三月廿八日本門法華門人日照
等二通、日興聖人・日目聖人・日有聖人・日道聖人等 日興門流諸先師の目安等 口奉謹書日蓮聖人正嫡日興門流御供養言上 卿当家弘通抄天明六年丙午十月十三日朝書隆賢院日照
卿立正安国論寛政十二庚申年五月什三日 七十三歳神津島峠山一一テ日照︵花押︶ 幽読調法華用心抄 ㈲庭訓往来正月六、八日、二月廿三日 ㈹法魂住否、宗魂否再報、天明六年丙午二月十六日 w大白蓮華山大石寺宝蔵略目録 以上の諸文書より隆賢院日照は﹁日興門流﹂不受流人僧 と断ぜざるを得ない。 乍然出山寺が中山法華経寺隠居寺で、その門流の異なる 点に就いての疑念は、往時親族春族等係累に科の及ばぬ様 考慮して偽言を申述べる如き事を知れば抱泥しなくともい いであろう。又匝嵯中村産に就いて鋭意調査するも国事犯 的不受流罪であるため、その資料等は確認不能である。い (151)わんや法難時の事情等においておやである。 流人僧潮音寺日照、三宅より神津へ島替、降賢院日照と して再起、師の動向・行状並不受清僧として忍難弘教の法 悦に三宅・神津両島三十五年苦節を全うし齢七十七歳の生 涯の一片でも確認出来た事を報告するに留めたい。 尚、神津島調査中流人墓地内に於て﹁栄学院日恕元禄 四年四月十日身延武井坊﹂とある石碑を発見した。﹃身 延山史﹄によれば、日恕は延宝七年二月廿一日身延山第三 十世寂遠院日通遷化通師御避言の後董飯高談林先聖一円院 日脱上人晋山に対し反対派御鬮派と紛糾を生じ、依って十 月四日奉行所裁定、反対派十二名は御預け、追放、遠島の 科を受く。この日恕は遠島組の一人であり、武井坊十三世 であることが確認できた。詳細は後考を期す。 行学院日朝︵一四二二’一五○○︶の教学は、教学史の
行学院日朝の研究
l中古天台の影響I
北 川前肇
上で中古天台の影響を受けた理本覚的観心主義と称されて いる。しかし従来中古天台の影響は論じられていながら、 具体的に如何なる流派の相承があったかについて検証され たことはなかった。ここでは、その流派の相承と朝師の思 相教学への影響について報告したいと思う。 朝師は永享十二年︵一四四○︶十九才の頃から約五年間 星野山無量寿寺仏蔵坊、即ち仙波談林で修学した。日蓮教 団全史に仙波遊学の談義所を伝蔵坊︵三○六頁︶と記して いるが、これは仏蔵坊の誤りであろう。仙波の他に足利学 校、真言宗鍾阿寺、京都、奈良、高野山等を歴訪し、俗学 及び八宗十宗に亘る学問を修めた。その学問の広さは一代 五時記・御書見聞等によっても明らかである。中古天台の 影響を考えるとき、仙波での五年間がその中心であろう が比叡山遊学についても考える必要があろう。管見の朝師 著作中に叡山遊学について論述した簡処は存しない。後世 の別頭統紀には登叡を記し、執行博士は日蓮宗教学史で叡 山において四箇年台密を修学したことを述べ、教団全史に も叡山遊学を記している。しかし、これらは如何なる資料 に基づき叡山遊学を記述したのか明確でない。ただ真如院 日住の﹃与中山浄光院書﹄︵宗全十八巻︶に、﹁今度身延 ノ当住山門ヨリ下向候二入一脚見参一真俗物語サスク之イハワニ候力心ニク、御座アルャト申テ候﹂と朝師を讃めてい る文により、叡山に在ったことが窺える。 また朝師当時の教学者の叡山遊学を見ると、真如日住が 二十一才のとき叡山東塔北谷虚空蔵院蔵乗坊の定源の許に ① 笈を負うている。更に平賀日意は仙波へ赴き周防公と称し 朝師と同学であった。その後比叡山東塔西谷の覚林房に居 して定栄と名のり、三年間天台学を修した︵平賀本土寺継 図次第︶・これらのことを考えると、朝師は仙波遊学を終 えて登叡し、叡山も日蓮宗の学僧を受け入れていたことが 窺える。そこで朝師の場合、天台学の受容は関東天台の仙 波と、京天台の比叡山であったと考えられる。 朝師の所持本に見られる中古天台の書は、恵光房流口伝 書の北谷秘典四巻、杉生流の心栄相伝二十五冊、一流相伝 抄四冊、蔵田最種抄、修禅寺相伝私註などが存する。これ らのうちへ一流相伝抄はおそらく仙波で相承したと思われ る。また朝師著作中に見られる流派の相承を整理すると、 慧心流と檀那流の両流が相伝され、特に慧翻両流が分流し て形成された杉生流と恵光房流の相伝が頻度数からいって 最も多く存している。 では朝師の教学に中古天台がどのような影響を与えたか について、顕本論を考察してみたいと思う。 日蓮聖人は﹃開目抄﹄で爾前及び諸大乗経に応身・報身 の顕本はなく、法華経のみ三身の顕本が説かれていると記 されている。特に寿量品で伽耶始成の釈尊が開顕されて、 久遠実成が説示されているのであるから応身顕本が正意で あるといえよう。朝師の開目抄見聞におけるこの文の解釈 を見ると、法華本門には理性の三身法身、修得の三身報身、 化他の三身応身がありや理性の三身法身が本門の色の三身 無作三身の手本となると釈している。またこの無作三身に おいて、﹁一事成無作三身、二始本冥一無作三身、三唯本 無作三身也﹂と述べ、一は始覚の重、二は本覚の重、三は 不覚へ理性、本理の重があり、第三の不覚、本理の法身に よって第二の報身、第二より第一の応身が起こるという。 つまり、根本を不覚に置き、これによって全性起修するこ とを説く法身顕本論である。望月歓厚博士は、本理から始 覚へと次第する顕本論は、顕本論本来の使命に背き、応報 二身の根底としてその本地身を探求するのが報身顕本、応 身顕本の理想であることを指摘されている。 この顕本論の本理←本覚←始覚の榊造に影霧を与えたも のは、恐らく恵光房流の思想があったと思われる。本尊抄私 記に恵光房流の相伝として上述の無作三身の文が記され、 ﹁今︿唯本ノ重ナル・へシ﹂と唯本無作三身の重が述べられ (153)
ているのである。更に宗義に関する口伝書である当家朝口 伝にも同様に恵光房流の義を相伝し、法身の重が説示され ている。畢寛、朝師の顕本論においては恵光房流の影響が あったことが理解されるのである。そしてその法界観を一 瞥すると、不覚、本理を根本の理として事象から超出させ、 その超出させた上で事象を根本理の顕現したものとして肯 すがた 定するのである。即ち現実の事象が真理の生きた相である ことを強調し、事象乃至、事の絶対的肯定、自然主義に陥 るということになるのである。 ①本尊抄見聞 日蓮聖人遺文中、﹁受持﹂の語句の用例は二十有余篇四 十有余箇所に及ぶ。その用例は、引用経論中や他の語句と 並記等、様をであるが、最も注目すべき教義的用例は﹃本 尊抄﹄の、いわゆる﹁受持譲与段﹂である。したがって、 日蓮聖人の受持論を理解するには﹁受持譲与段﹂を中心に
本尊抄末註における受持の概念㈲
庵谷行亨
考察を進めねばならないことは言うまでもない。 しかし、聖人滅後の諸先師による受持の概念を探ること は聖人の受持の概念を理解する一助となるであろう。聖人 在世に近い日蓮門下の受持の解釈は、聖人の受持の概念を 少なからず反映しているのではないかと予想されるし、あ るいはまた、教学史上における受持の概念を明確にするこ とによって、聖人の受持論に取り組む自らの位置も明らか になると思われる。 以上の趣旨のもとに、日蓮聖人の受持論を研究する立場 から、特に﹃本尊抄﹄末註を中心に日蓮教学史上における 受持の概念を考察するものである。 望月歓厚博士著﹃日蓮聖人御遺文維義﹄第三巻には、大 正十一年までの﹃本尊抄﹄の末註として七十三篇が挙げら れている。しかし、掲載に漏れたものも多少あるようで、 これに大正十三年以降のものを加えると、気づいたものだ けでも百篇に及ぶ。この百篇の内、披見し得たものは五十 三篇であるが、その中には﹁受持譲与段﹂の解説の無いも のや、注釈が未完のため﹁受持譲与段﹂に及ばないものが 多少あり、実際に考察の対象になるのは三十有余篇である ︵今回は、都合により江戸中期頃八宝暦年間I西暦一七五 ○年代1祖滅約四七○年V迄とし、以降は次の機会に譲る︶。 なお、ここでは結論のみを示すに留める。詳細について は、﹁日蓮教学研究所紀要﹂創刊号を参照されたい。 聖人滅後から日覚に至るまでの約四七○年間における ﹃本尊抄﹄末註の中から、披見し得たもの二十篇八本尊紗 私見聞︵伝日常︶・同聞書︵伝日弁︶・本尊相伝見聞︵日 意︶・本尊紗見聞︵日朝︶・同見聞︵伝日真︶・同見聞︵日 忠︶・同講談︵日耀︶・同見聞︵日辰︶・同科文︵日辰︶ ・同私記︵日我︶・同註︵日性︶・同私記︵日遠︶・同科 文︵日遠︶・同私記︵日恵︶・同啓蒙︵日誹︶・同和語式 ︵日相︶・同私記︵日尭︶・同拾遺.︵日好︶・同扶老︵日 好︶・同講草︵日覚︶Vを中心に受持の概念を考察した結 果、最も注目されるのは﹁唱題﹂を意味する場合が多いこ とである。日朝・日耀・日辰・日我・日恵・日講・日好等 の注釈がこれに当る。しかし、これらの諸師は明確に受持 即唱題とされるものではなく、﹁受持﹂に他の概念を含む 場合が多い。また、﹁唱題﹂とされる中でも、三業に配さ れることが多く、日朝・日曜・日辰・伝日真等は口業を、 日好は意業を正意とする。﹁受持﹂を能動的概念の中にと らえているのは日忠で、﹁信﹂に立脚した三業受持を主張 している。﹁信﹂を重視するのは、諸師に共通するところ であるが、中でも日忠・日我が特筆すべき存在であろう。 また、﹁受持﹂が他の語句に換言される例は日蓮聖人の遺 文中多く見られるところであるが、この考察では、日意の た ロ も ﹁奉持﹂、伝日真の﹁信受﹂、日我の﹁持つ﹂が挙げられ る。前の二例は﹁唱題﹂を受げており、﹁受持﹂と同義に 用いられていると理解される。 総じて、披見の末註における受持の概念は理的傾向が強 く、能動的概念で用いられていることは少ない。唱題に釈 する多くの用例のほとんどは三業に配分するにとどまり、 もしくは日忠のように三業の受持を論じることはあっても 三業具足の受持を論じることはない。披見の限りでは、少 なくとも江戸中期頃までの日蓮教学史上においては、﹁受 持﹂が重視されることはなかったと言える。﹁受持譲与段﹂ 重視の態度が諸師に見られながら﹁受持﹂について論を深 めることをしなかったのは、教学の流れが﹁受持﹂よりも ﹁談与﹂重視の傾向にあったと考えられるのである。それ は、日朝に代表されるように、日蓮教学が本覚思想の思潮 の中で展開されていったその歴史的事情も大きな要因とな っているであろうと思われる。又、門流分立の原因をなし た教学上の対立なども、主に本迩・権実等の論争として展 開されていったが、それらは教法の論争であって、正面き (155)
って行法を論じるものではなかった。たとえ行法の論争で あっても、それは、摂折等の弘経方法論であったり、ある いは唱題・読諦等の具体的行軌に則したものであり、受持 を直接問題視するものではなかったようである。最も受持 に関係したものとして三業傍正論が挙げられるが、これも 受持そのものを論じるものではない。日蓮教学史上におい て﹁受持﹂が重視されるようになるのはさらに時代が下っ てからのことのようである。もちろん、これは披見に及ん だ限りの﹃本尊抄﹄末註の実例を通しての結論であり、他 の多くの著雷や教団史の流れを通して更に詳細な検討を要 することは言うまでもない。また日蓮聖人の受持の概念と の比較検討なども今後の課題とするところである。 宗祖一期の化導を考える場合、摂折論を抜きにして論ず ることはできない。特に折伏正意の方軌を除いて法華経の
立正安国論・開目抄に引用
された混樂経について
久住謙是
行者日蓮はあり得ない。この観点より、立正安国論・開目 抄の両御書を拝読するとき、前雷は立正安国の理想を標傍 された折伏実践のスタートを示し、後書は折伏弘通に必然 的に惹起する法難、法華色読の結果が本化上行のご自覚に 体達された、言うならば、折伏実践の結実、内鑑を吐露さ れたといえるであろう。 この折伏という積極的実践的弘通を法華経が末法に要請 する法華自成の思想、勧持品偶文の予言と不軽品の行相に 本拠されたことは知られるところである。また、宗祖の浬 藥経引用に認められる依用傾向の一特色としても認知され 看過することのできない問題である。この場合、天台の法 華・浬藥相成の摂折論系譜の日蓮的展開と考えられるので ある。 ここでは、前記両御書の折伏思想に、浬薬経がどのよう に引用され、宗祖の自行化他に援証していったか、管見を 述べてゑたい。 宗祖が、両御書に引用の跡を見、弘通のご生涯に一貫し て依用された浬藥経の文に、︵寿命品︶ シテルヲヲテンハシシ七二ルノハ
﹁若善比丘見一壊し法者一置不一呵責駆遺挙処一当し知是人仏ノノナリシクシシ七︽しカノ
法中怨。若能駆遺呵責挙処是我弟子真声聞也。﹂ がある。この折伏文の依恋を述べられて、此経文にせめられ奉て、日蓮は種種の大難に値といえど も、仏法中怨のいましめを免んために申也。﹂︵阿仏房 尼御前御返事︶ 等と、鯉説されているところであって、浬薬経の折伏文引 用の基本的姿勢が窮えるのではなかろうか。 しかし、両御霊に所引される折伏文は画一ではなく経典 を渉猟された類文に微妙な変化を認める。撰述の時間的推 移・動機・目的・対告などの成立的因由によると共に、法 華色読に伴う行者意識の深まりによる折伏化導の変遷と見 倣される。 立正安国論に引用される浬桑経は、第七番問答に一具し て認められる。 一切大衆所間品・聖行品・梵行品によって誇法の禁施と 断命切断命の論証を説き、寿命品で国王及び四衆への付属 を、金剛身品より三文を出して、護法者の武器執持の許容 と、有徳王覚徳比丘の故事によって護法の行と得果を語る のである。以上の四品について誇法対治の段を結んでい る。次の第八番問答に至って、上述した禁施と断命の二者 択一が行われ、禁施に依る旨が明らかにされ、刀杖を持す とも命を断つべからず、と結論される。 知られるように、立正安国論嫁、立正の主張は終文の数 行に限られ、内容的には破邪にウエイトが置かれている。 誇法の救治是正の具体的結論に導びく浬藥経の折伏文は重 要な責を担っていると言える。国王付属や対治の手段を出 すところは、社会的規制・国主・為政者の威勢力によって 法華経能統一をもたらし、国難の克服を図る上奏の目的・ 諌暁の意図が引用文に顕示されていると考える。 特に、有徳王の護法談は、宗祖撰述御書中稀有の長文引 用であろう。四五六字を敢えて採文し、正法の僧よりむし ろ釈尊の本生諏である国王の謹法の功徳を顕説せしめてい る等から、宗祖における国主と出家・為政と宗教の仏者の サイドにおけるあり様、理想を示されたもので立正安国の 思想の一端を的証していると言える。 これらの引用文は、守護国家論・災難興起由来↑災難対 治紗等に一具した。︿ターンで認められ、初期の折伏実践の 傾向を示すものであろう。 開目抄には、上記の類文は顕われてこない。寿命品・如 来性品・経疏等の文によって、五綱判に示される能弘の師 の折伏逆化が強調され、同じく如来性品・高貴徳王菩薩品 か迦葉菩薩品・泥涯経の四依品等の引用は、三類の強敵、 特に侮聖増上慢の誇法鞍詮顕し、金剛身品・寿命品等によ って、弘教の困難・正法の難信と護法の勧奨を説き、注目 (157)