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「遥拝隊長」の周辺 : 戦時下の井伏を視座として

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まず、素朴な疑問から始めたい。﹁遥拝隊長﹂(﹃展望﹄、昭和二 五年二月)において、作者・井伏鱒二は、作中に語り出されてきた 現実に対して、結局のところ、どのような態度をとっているので あろうか。素朴な疑問とは、作中現実に対する作者の姿勢や何加 ということである。 ( 1 ) この点について、相原和邦氏は、1応、次のように述べている. むしろ、作者は、登場人物に下駄を預けて相互批判的言辞を 語らせるのみで、作家としての追求に筆を進めず、混在した 要素のそれぞれを人間模様として投げ出して見せるに止まっ ているように思われる。 ﹁ し か し ﹂ と 氏 は 言 う 。 しかし、ここで作者は、そのような複眼的視点に立っている ように見えて、その実、相互の立場の徹底的対決をすり抜け て、結局のところ、村人たちの価値観に依拠し、これによっ て事態を収拾していっている点に問題があるのだ。 と、作者の基本的立場が﹁村人たちの価値観﹂に収赦してしまい、 ﹁作者は、村人の意識の中にある問題点に恐らく気づいているだ ろう﹂にもかかわらず、それを徹底的に追究しないところに不満 を洩らしている。 しかし、相原氏が﹁読み様によっては﹂との限定のことばを用 いつつも'村人たちの立場もまた相対化されうるといい、相原氏 ( 2 ) 以後に﹁遥拝隊長﹂の構造を論じた白石喜彦氏も﹁村人たちがつ くりあげた結果がそのまま村人への批判としてかえってくる、と いう、円環が閉じる構造をこの作品は持っている﹂と指摘すると13

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ころに、井伏文学における﹁遥拝隊長﹂の特筆すべき点があるよ うに、私には思われる。 井伏の価値観・人生態度の根底に、観念的跳ね上がりを嫌い、 具体的な現実の中に生きる生活者の平衡感覚とでもよばれるもの があることは、しばしば指摘されてきた。この﹁逢拝隊長﹂の場 合にも、それは、相原氏のことばを借りれば、﹁村人の温情主義﹂ や﹁伝統的な日常性に根ざした﹂村人たちの態度に見出すことが で き よ う 。 ところが、そうであるにもかかわらず、この﹁遥拝隊長﹂には、 一定の留保条件を付される場合でも、それを相対化する構造が看 取されるわけである。 ( 3 ) ﹁遥拝隊長﹂発表直後の高見順の、 これはちょっと楓刺小説みたいだが、井伏さんとしては諷 刺小説を書くつもりで書いたわけじゃないんだろうと思いま す。井伏さんとしては、今迄の井伏さんのものを続けていな がらへ期せずしてこういうものができた、かなり辛疎な魂刺 小説が出来たというところでしょう。そういう謁刺小説であ るところが面白い。今迄の井伏さんにはホロ苦さというもの はあったかもしれないけれど、こういう痛烈さはなかった。 それが今度は出て来たんじゃないかな。(傍点、引用者) という発言は、このような、従来の井伏の価値基盤のありようと'1 4 作品としての﹁遥拝隊長﹂との微妙な相違に逸早く着目したもの であろう。高見は、ここで、﹁今迄の井伏さん﹂との相違を﹁期せ ずして﹂とつなげているのだが、果たして、簡単に﹁期せずして﹂ と言い切ってよいのであろうか。 ( 4 ▼ 東郷克美氏は、初期作品から﹁遥拝隊長﹂までを、 初期には現実の矛盾をあきらめて、笑いや詠嘆のうちに、こま かしていたのが、﹁造拝隊長﹂においては現実と対峠し、そ れをたじろぐことなく見据えているといったところがある。 に至る、﹁拝情詩人から散文作家へのコース﹂として解明しよう としている。東郷氏は、井伏の作家的成熟という問題設定の上に、 作品に現われた井伏の現実認識のありようを跡づけるわけだが、 本稿では、もう一つ別の視点から、必ずしも﹁期せずして﹂では ない、﹁遥拝隊長﹂への到達を明らかにしたいと思う。それは、 昭和の日本の社会に生きて戦争に関わった一人の人間としての問 題であり、そのことをいかに文学に反映し文学の場で考えたかと いう作家としての問題である。これを、私は、井伏の内側から解 明してみたい。本稿は、そのための一つの仮説である。 二

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太平洋戦争に傾斜してゆく時代状況に対して、井伏が緊張感を 覚え、微妙にそのような動向に疑問を示し始めるのは、昭和一五 年頃のことである。具体的には、﹁多甚古村﹂(昭和一四年二月∼七 月、各誌に分散発表。昭和一四年七月、河出書房から﹃駐在日記多甚古 村﹄として刊)と﹁多甚古村補遺﹂(昭和l五年一月-三月、各誌に分 散発表。昭和一五年五月、河出書房刊﹃鶴鵡﹄に収録)との断層に、そ の一つの徴表を見ることができるように思う。これについては、 ( 5 ) すでに別稿で論じたので、今は詳しく触れないが、逆の言い方を すれば'﹁多甚古村﹂以前には、井伏は、時代状況やそれを導い た国家権力との緊張を欠いていたように見受けられるのである。 十五年戦争との呼称が用いられるとはいえ、戦争が実感されて くるのは、昭和一二年七月の虚構橋事件以来の﹁支那事変﹂であ ろう。その﹁支那事変﹂勃発後の随筆集﹃山川草木﹄(雄風館書房、 ( 6 ) 昭和一二年九月)の﹁序﹂に、井伏は、次のように記している。 支那と戦端がひらかれてゐる。出征戦士を駅頭に見送る万 歳の声が、南の風の吹く日には家にゐてもよくきこえて来る。 私は補充兵役陸軍蛸重特務兵である。一個の兵たるべき資格 を与へられてゐる。いつ出征することになるかわからない。 書いたものは今のうちにまとめておく必要がある。(略) 今日防空演習がある。慌しい気持で校正を終った。 果たして﹁補充兵役陸軍蛸壷特務兵﹂が﹁1個の兵たるべき資格﹂ として自慢できるものであるか否かや、それを書いた井伏の含意 はしばらくおくとして、﹁支那事変﹂が始まった直後の慌しい雰 囲気と、﹁出征すること﹂への井伏の不安を垣間見ることができ よ う 。 いくぶん狼狙気味な右の文章にあるのは、あたかも自然の災害 を予告されたかのような井伏の姿勢であり、戦争という変事に対 して、それを対象化して把握してみようとする趣きは、すこしも ここにはない。そしてへまた、太平洋戦争開戦時の感想に見受け られる、開戦を仰々しく受けとめて何らかの決意表明をすること に対する嫌悪も、ここにはないのである。比較のために、昭和1 ( 7 ) 六年1二月八日の井伏の感想を次に引用してみよう。 かうなるやうになったと思ふ。もう少し早-発てばよかっ た。風邪をひいて頭が重いせゐかショックといふやうなもの は 余 り 感 じ な か っ た 。 ( 傍 点 、 引 用 者 ) ﹁本暁(八日)六時遂に目英米は戦闘状態に入った。これに対し て各人各様の感想を持たれたことと思ひここに集めて特輯した﹂ という記事のなかで、﹁風邪をひいて頑が垂いせゐか﹂とブッキ ラ棒にいなす井伏の態度には、輸送船上の、一人首を傾げて不気 ( 8 ) 嫌そうに写っている記念写真の姿と相侯って、開戦の感想といっ1 5

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た空々しいものに対する懐蔦たるものが感じられる。これと比較 してみると、日中全面戦争となった﹁支那事変﹂勃発に対する井 伏の感想には'まだ、﹁開戦にあたっての決意表明﹂といったも のに近い、何ほどかの仰々しさがある。現実に戦争に引き込まれ て、南方に向かっている輸送船上にある時の感想が、内地にいて 戦争を現実に体験する可能性しかない時点のそれと違っているの は当然であるが、単にそういう状況だけの相違ではなくへこの間 の四年余の時間が井伏にそういう違いをもたらしたと考えられる のである。いずれにもせよ、﹁支那事変﹂時点での井伏の身構え には、後年のものと比較すれば、一種の不徹底があったように思 わ れ る 。 とはいえ井伏が、﹁支那事変﹂という一つの大状況をそのもの として考えるのではなく、それに関わる身辺の小状況-友人・ 知人・そして自らの﹁出征﹂-において捉えようとしたのは、 評価されてよいだろう。(一面、消極的なこゐ態度も、﹁暴支鷹懲﹂ から﹁大東亜共栄圏﹂に至る戦争目的のスローガンに踊った人々 がいる限り、貴重だといわなければならない。) (9) ﹁一九三七年の感想-青柳瑞穂君の出征﹂(﹃新潮﹄、昭和一二 年1二月)において、一歳下の知友・青柳瑞穂の出征のことを記し て い る 。 けふは十月十六日だが、今日までのところ今年は画期的に1 6 せはしない気持であった。文学的にこの結果がどう現はれる ものか、それを待つ気持もまたせはしない。感想はまとまら ママ ない。無理にまとめても無役である。いま私が、こんなにせ はしなくしてゐるには理由がある。来たる(五文字分空自)、 私の親しい友人青柳瑞穂が出征する。けふはこれからその歓 送会に出席する。青柳君が戦地でいかなる働らきをするかま たいかなる武勲を現はすか、私はそれを案じる気持でいっぱ いである。すなはち静こころなき心地である。 この文章末尾に青柳の﹁活躍﹂を祈る紋切型の挨拶があるものの、 その﹁出征﹂や﹁事変﹂とは無縁で程遠い﹁日ごろ詩をつくり志 を養ふかたはら古美術を愛好する﹂青柳の行状に、主眼が置かれ て い る 。 この﹃新潮﹄十二月号の巻頭特集﹁一九三七年の感想﹂には' 中野重治・井伏・荒木親・石川達三・坪田譲治・新田潤・岡本か の子・高見順・真船豊・島木健作・森山啓・林房雄・阿部知二 (掲載順)ら'当時の若手・中堅どころが稿を寄せている。話題 をその年の自分の文学関係の仕事にほぼ絞ろうとしている中野・ 高見・島木ら三人の転向者(中野の感想も、﹁戦争﹂に触れているが、 復 元 不 可 能 な 伏 字 部 分 が 三 個 所 あ る 。 中 野 文 も 全 体 の 流 れ か ら す れ ば 、 ﹁ 戦

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争 ﹂ が 話 題 の 中 心 で は な い の で 、 高 見 ・ 島 木 と 並 べ て お く ) を 除 い て 、 時を得顔で威勢のよい林以外、﹁今度の事変﹂に狼狽して、いか に文学の場を守るべきか'どのように身を処すべきか、といった 途惑いを見せている。そうしたなかで、﹁せはしない気持﹂とは いうものの、それが友人の出征という身近な生活圏の出来事とし て受けとめられていて、林流の大言壮語や殊勝らしい文学の不安 云々に走らない井伏の文章は目立っている。 このような井伏の態度は、戦争に関連する題材を随筆に載り上 げても変わらない。﹃蛍合戦﹄<新選随筆感想叢書>(金星堂、 昭和一四年九月)中、﹁杉並区清水町﹂﹁友人安行君の性格﹂﹁事 ( S ) 変余話﹂\﹁隣邦人について﹂﹁ニュース映画﹂の五編(一二〇ペ ージ∼一五一ページ)は、<﹁事変﹂関係編>と称してよいもので あって、その意図もあるためにここにまとめて置かれているよう である。いずれも、井伏が身近に接した人々の姿を捉えたもので あって、出征中の知人や中国大陸にいる知人を気遣ったり(﹁友 人安行君の性格﹂﹁事変余話﹂﹁ニュース映画﹂)、町内から次々に出 征してゆく人々や残された家族のことを記したり(﹁杉並区清水里)、 ﹁支那蕎麦屋のコック﹂-中国人-たちの異体的な姿に触れて、 かれらの素朴な愛国心や一応は﹁親日家になりたての支那人と見 なすこと﹂のできる様子に言い及んでいる(﹁隣邦人について﹂)。 これらを見ても明らかなように、井伏は、﹁支那事変﹂を、かれ の日常生活の圏内に及んだ出来事を通して捉えるという姿勢を保 っているのである。 その出発以来、何らかの概念装置によって大状況を構造化して 捉え、そこから自己の位置を測定することを、井伏はむしろ拒否 してきた。その姿勢は、﹁支那事変﹂に至っても不変であり、か れの発想の根はかれの小状況の範囲を出ようとはしない。 しかしながら、問題なのは、このことを逆にすれば、かれの生 活圏という小状況の向こうにあるものが、ともすれば見えてこな いことである。換言すれば、ある一つの小状況が、大きな時代の 文脈の中でどのように位置付けられるか、ということに対する目 を持てないことである。 13 ﹁郷里風土記-広島﹂(﹃文芸﹄、昭和1三年三月)という井伏の 文章がある。題名どおりに井伏の故郷を語ったものであるのだが、 気掛かりなのは、必ずしもそこに要しないはずの、次のような一 節が挿入されていることである。 しかし今度の戦争では、この地方の壮丁は××隊に所属して 難攻不落といほれてゐた××鎖を攻め落した。険阻な山上の 敵に向かひ勇敢に突撃し、各友軍の作戦を有利に導いた手柄 はたいしたものであった。堂々たる武勲である。戦争のとき17

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でも普段の気風は現はれるものだといふことだが、田舎のお となしい恥かしがり屋の百姓がナポレオンの精兵よりも目ざ ましい働らきをしたことは、世人はこれを見て何を想像する だらう。日ごろは畦路をのそりのそり歩き、おぢいさんの代 に借りた三円の借金が弘へなくてびくびくしてゐる百姓にも、 激しい精神が蘇るものだといふことを想像してもらひたい。 私の郷里出身の兵隊は他の連隊の兵隊にくら、へ、見劣りする やうなことは決してなかった。念のために弁じておく次第で あ る 。 たしかに、今まで述べてきたような身近な小状況からの発想がこ こにも見られる。しかし、そのような発想が戦争そのものを疑わ ず、ただ郷土部隊の活躍ぶりを手放しで、郷土自慢の材料にする ところに至れば、その中状況主義の限界も露呈された、といわざ るをえない。毎朝三時間もかけて新聞を読み、地図に記しをつけ て日中両軍の様子を想像することを日課にしているという﹁生活 ( 1 ⋮ ) のルポルタァジュ﹂(﹃月刊文章﹄、昭和l二年10月)と並んで、杉 ( 1 3 ) 浦明平氏の﹁かれには戦争製造人の意図を見ぬく明とさらにそれ とたたかう果敢さが欠けていたのである﹂という辛錬な評言を甘 受しなければならないものがへこの﹁郷里風土記-広島﹂の1 節には認められるのである。 小状況に限定する限り、そこに大状況の持つ矛盾が灰見えたと18 しても、小状況のなかでは解消されえないものとして、圏外に遠 去けられる。そこでは、大状況を対象化する視点を働かせること が、抑制されてしまっているのである。そうした小状況を樫にし た逆転がなされないとき、﹁支那事変﹂がどのような戦争である かは無論問われないし、動員された知友や残された家族への気遣 いは見せても'それはそれだけのものである。それのみならず、 日常圏内からの発想であるにしても、郷土部隊の活躍を自慢のタ ネとする姿勢には、素朴なナショナリズムに変じてしまう危険性 なし、とはできないのである。これが、﹁遥拝隊長﹂中の'﹁隣 組内に将校が帰って来ると鼻が高い﹂といった村人の意識と通じ 合うものであることも、ここで指摘しておこう。 ここに、戦争という大状況を捉える方途を持たず、その実態が どのようなものであったかを知らされる機会を奪われていたへい わゆる<銃後>の庶民の意識の一つがあるへといってよいだろう。 国家権力が巧みに取り込み操作しようとしていたとしても、かれ らのこのような意識が﹁聖戦﹂を支えたことも、疑いようのない 事実といわなければならないのである。 しかし、井伏は、意溝橋事件後しばらくは右に触れた危うさを見 せていたが、﹁多甚古村補遺﹂(昭和一五年)の頃から、国家権力や

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時代状況との緊張感を持ち始める。そしてへ昭和一六年末以降の 一年間の徴用体験が、それを決定的にする、と考えられるのであ る。ただしへそれは、あくまでも、小状況の中に見出される戦争 や時代の被害者たちの姿を描くものであり、﹁花の町﹂(﹃東京日 日新聞﹄・﹃大阪毎日新聞﹄、昭和一七年八月一七日∼一〇月七日)のよ うな、小状況のなかに露骨に現われた支配=被支配の関係を描き えた作品はむしろ例外に近い(﹁花の町﹂の場合、支配-被支配の関 係が日常的な次元でも明瞭になる日本語普及工作を一つの題材にしている ため、小状況を描きながらも、その向こうにある大状況を捉えることが可 m: 能だったのである)。それ以外では、どのようなシステムの中で、 戦争や時代の犠牲者が生まれるのか、という広がりの中で作中の 状況を位置づけることはなされず、ひたすらへかれらの姿を写し 出すことになっているのである。さらに、徴用中のことに関して 付け加えれば、井伏には、シンガポールの住民たちが井伏と同じ ように戦争の被害者であり、同じように生活の根拠を危うくされ ている存在だという認識はあるのだが、その被害者という共通認 識がかえって妨げとなったためか、井伏自身も陸軍宣伝班員とし ては戦争の加担者であるという意識は、少な-とも当時の作品を 見る限りでは希薄であったように思われる。 このようにして、危うく足下を取られそうな気配を見せはする が、井伏は体勢を立て直すのである。しかし、大状況を遠去けた ことによって、﹁一人の庶民として﹂右に触れた危うさの中に井 伏がいたことも間違いない。小状況に固執することが、戦争協力 の御題目を井伏に唱えさせず、またその体勢回復の武器となった 代わりに、右に見てきたような限界をも持たせたわけである。そ れが、後になって井伏に苦い認識を抱かせたのでありへそして、 そのことが﹁遥拝隊長﹂に至るための必要な階梯だったように思 われるのである。 三 ﹁遥拝隊長﹂の舞台は、二つに分かれている。狂気の発作によ って、部落に一騒ぎ起こす元陸軍中尉・岡崎悠一の、部落から見 た過去と現在を語り、その発作騒ぎを描いた﹁当村大字笹山部落﹂ の舞台と、悠一の傷を負った顛末が明らかにされるマレーの戦場 の 舞 台 と で あ る 。 このように二つの舞台に分ければ、﹁遥拝隊長﹂が、戦後に書 かれた井伏作品の内の二つの流れの上に成立していることがわか る。すなわち、復員者たちの姿やかれらのもたらした家庭悲劇を 題材にした作品-﹁橋本崖﹂(﹃世界﹄へ昭和二一年二月)﹁山峡 風物誌﹂(﹃改造﹄、昭和二三年三月)﹁復員者の噂﹂(﹃社会﹄、昭和19

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二三年六月)-<復員者もの>の系譜と、井伏自身の徴用体験を 綴った随筆群-﹁悪夢﹂(﹃文壇﹄、昭和二二年一二月)﹁私の万年 筆 ﹂ ( ﹃ 文 芸 読 物 ﹄ ' 昭 和 二 三 年 一 二 月 ) ﹁ 懐 中 電 気 ﹂ ( ﹃ 新 小 説 ﹄ 、 昭 和二四年四月)﹁パパイヤ﹂(﹃文芸往来﹄、昭和二四年六月)-<徴 用体験もの>の系譜という、二つの流れを﹁遥拝隊長﹂以前に見 出すことができる。 一先ずは、この二つの流れの合流したところに﹁遥拝隊長﹂が 成立し、そして、井伏の新しい試みもあった、といえる。しかし、 単に、<復員者もの>と<徴用体験もの>との接合に、﹁遥拝隊 長﹂がそれまでの作品を越えるものがある、とだけ考えられるの ではない。﹁遥拝隊長﹂にあっては、各々の舞台においても<復 員者もの>や<徴用体験もの>から1歩進んでいるように思われ る の で あ る 。 ﹁当村大字笹山部落﹂を舞台とする部分は、さらに'大雑把に 叙述のスタイルから、悠一の惹き起こす騒動が滑稽味を帯びて描 き出される部分と、その悠一の部落内でのありようが語られる部 分との二つに分けられる。前者、悠一の発作の場面はもっぱら滑 稽な場面として描写されるのに対して、後者へ﹁当村大字笹山部 落﹂の内側にある視点から、あたかも噂話をするかのように語り 出される部分は、悠一の身に沿って痛ましいかれとその母親の姿 を照射してくる。このような、場面描写と、説明の役割を果たす 語りとの連鎖によって、﹁当村大字笹山部落﹂の舞台は形成され ているわけである。 井伏は、従来、その小説作法において、場面場面を切り取り、 その切り取られた場面のなかで終始しようとする傾向を強く持っ ていた。その方法によって、ある限定された場面での人間の善良 さや悲嘆を写し出すことができ、人生の断面を切り取る深味を見 せることができたとしても、それらを歴史的広がりや社会的広が りの高みから捉えることは、おのずから困難にならざるをえなか った。かれの発想の根にある小状況主義に似合うように、ある場 面を描きはしても、それを大状況のなかに投げ入れてその位置を 明らかにする、ということをしなかったのである。つまり、個人 の持つ善悪(それも限られた場でのそれ)は見えても、井伏の従来の 方法では、それを相対化する契機は見出せないのである。この事 情は<復員者もの>でも同様であり、そこでは戦争の犠牲者とし ての復員者たちやその家族の姿が描き出されはしても、それを歴 史的・社会的文脈から照らし出そうとする視点はない。 それに対して、﹁遥拝隊長﹂においては、そういう場面限定に よる小状況主義から抜け出ようとしているように考えられる。 もちろんへその最大の試みは、一作品のうちに、戦場と敗戦後 20

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の村との両者を描いて、時間的にも空間的にも二重構造を持たせ、 場面どうしを対比させるという、﹁遥拝隊長﹂の構成にある。そ して、それだけではなくへ﹁当村大字笹山部落﹂の舞台では、悠 一の狂気を抱えこんで見事に対処する村人が、l方では、かつて、 そういう悠一を作り出すのに加担していたことが説明的語りによ って明らかにされるのである。場面を措くことの積み重ねでは捉 え難い要素を、このような説明的語りを作中に配することで、従 来の井伏が持たなかった視点が﹁遥拝隊長﹂には提示されてくる わ け で あ る 。 こういう視点が得られるためには、やはり、井伏に親しく見え てくるものが小状況に過ぎなかったとしても、それを大状況のな かに位置づけようとする意識を措定しなければならないであろう。 井伏は、戦後、﹁かんざし﹂と﹁星空﹂の二作を単行本﹃かん ざし﹄(近代出版社、昭和二四年二月)に収めるにあたって、次のよ うに﹁あとがき﹂で述べている。 いづれも事変中に書いたもので、それに大戦中に発売され てゐたものである。いま加筆訂正を終ってみて、事変前に 書いたものよりも今日の風潮には更らに縁遠いやうな印象で ある。時勢に翻弄されてゐた証拠だらう。(傍点、引用者) 戦前版と詳細に比較できる機会を持てなかったので確定的な物言 いは避けるが'瞥見した限りでは、さほどの相違があるようには 田心われない。井伏の言は、作品全体の趣きを指しているとも解釈 できるのであるが、それにしても、井伏が自作を顧みて﹁事変中﹂ の風潮に影響されていた-﹁時勢に翻弄されてゐた﹂と意識して いる点に、私は注目したい。井伏自身がかれの意志には全く無関 係に徴用されたことは、歴史に翻弄されたことだ、といってよい だろう。この徴用体験を軽んじるつもりはないが(かれが何と考え よ う と 、 陸 軍 宣 伝 班 員 と し て の か れ の 任 務 は 日 本 軍 支 配 を 円 滑 化 す る と い う加害者の側にあったのだから)、作家としての存在を考えれば、自 らの作品を評する右のことばは、重要な意味合いを持っているよ うに思われる。徴用そのものに井伏の意志が働-余地は皆無であ ったとしても、かれ自らの意志と責任においてなされたはずの創 作活動も﹁時勢に翻弄されてゐた﹂と、井伏は認識しているので ある。完全に受身では成立しないはずの創作にまで、﹁事変中﹂ の風潮の影響を受けていたと自省する井伏は'かつて時代状況の 中にいたし、また、今もいる自己を認識せざるをえなかったので はないだろうか。 ﹁遥拝隊長﹂発表の前年すなわち﹃かんざし﹄刊行の年に書か れた﹁普門院さん﹂(﹃改造文芸﹄、昭和二四年五月)には、個人の意 識はともあれ、歴史の中である一つの役割を担ってしまった人間2

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の姿が描かれている。井伏が論晦したかたちであっても時代の流 鋭湖蟻感に反応してきていることに、最近、殊に注目する論があ るが、単に、向こうから﹁時勢﹂がやってきて'﹁御神火﹂(﹃﹁ ども朝由﹄、昭和一八年六月一三日∼八月l日)に描かれた三宅島噴火 と同じように、人間を﹁翻弄﹂すると見るだけでなく、その﹁時 勢﹂にいつしか個々の人間も乗ぜられ、知らず識らず﹁時勢﹂を 担ってゆくといった、井伏の苦い認識をその淵源に置いて'その ような論も理解されると思われる。 そして、そのような苦い認識を強いられた井伏を措定して、は じめて、﹁遥拝隊長﹂において、各々相対化される人間たちの姿 が括かれていることも、納得できるのではないだろうか。 しかし、また、井伏は、先に私が小状況主義とよんだものも捨 てようとはしていない。それが、村人たちの人間の厚みを肯定的 に措かせもし、さらに悠一の戦場における所業を上田元曹長に語 らせる、ということになって現われている、と考えてよいだろう。 四 井伏は、<徴用体験もの>の中で、いかに下らない軍人や軍人 まがいの人間によって、井伏たちが右往左往させられ'辞易させ られたかを語っている。そして、その体験は繰り返し語られ、後 年﹁徴用中のこと﹂(﹃海﹄、昭和五二年九月∼昭和五五年一月)のよ うな長大なものを生み出すに至っている。しかし、これら随筆と いうジャンルで生まの事実を綴るところでは、もっぱら災厄を被 るかれの体験が話題となりへそうした災厄を与える側を造形しよ うとはしていない。突然、何かの災難に見舞われたかのような、 かれの困惑が中心となっているのである。 事実の次元に属することがらを述べる随筆では右のようにいえ るのだが、これが虚構の世界となると'たとえば﹁佐助﹂(﹃改 造﹄、昭和二一年五月。﹃人間﹄、昭和二1年六月)のように'役人ど も の い る 川 中 の 島 -波 高 島 -を 一 瞬 に し て 水 没 さ せ る と い う 激しさを露わにする。また、﹁普門院さん﹂においては、歴史資 料に依拠しているとはいえ、個人のなした行為を糾問する厳しさ を見せるのである。 生まの事実を語る随筆では、虚構作品にあるような悪をなした 者に対する糾問の苛烈さはないし、また、相手を否定しようとす る露骨な筆遣いは見られない。しかし、虚構の世界にかれの情念 が解放されたとき、右に述べたような激しさと厳しさとを示す。 このような厳しい姿勢が、﹁遥拝隊長﹂においてはマレIの戦場 を舞台とした部分に現われている。ここには、虚構の中におのれ の情念を解放するという、事実と虚構に関わる周知の図式がある 22

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のだが、それ以上に注目したいのが、その虚構の中での情念の内 実 で あ る 。 権力を振り時流に乗った﹁滅私奉公の権化﹂がいかに周囲の者 に迷惑であり、挙句の果てに無意味な死をもたらしたか、がここ に描かれている。そこには、個の持つ悪に対する憎悪があろう。 ﹁当村大字笹山部落﹂の舞台で村人の持つ善が措かれているのと は対照的に、遥拝隊長・岡崎悠一という個の持つ歪みが、一個の 許し難い悪として描出されるのである。時代という大状況によっ て免責することを許さず、個の行為の責任を厳し-追及しようと する井伏の怒りが、このような悠一に対する井伏の態度には控え ている、と考えなければならないであろう。 マイナス存在としての悠一に対して、悠一の母が、それ以外に 生きようのなかったものとして、最も憐れみを込めて描かれてい るのには、実は、悠一に対する憎悪の代償として井伏が彼女をそ う描いたとも想定できるわけである。もちろん、悠一の母の姿に は、権力のシステムに乗ぜられて、悠一的存在を生んでしまい、 結局はそれを抱えて生きなければならない庶民たちへの﹁丸勘の 同情﹂が込められている。その悠一の母にあるのは、大状況を見 通すことのできなかった者-それは戦時下の日本人のほとんど がそうであったし、井伏もそこには含まれていよう-のどうし ようもない悲惨さである。 このような地点にまで至る﹁遥拝隊長﹂は、井伏文学の傑作と しなければならないであろう。そのためには、小状況に依存して 作品を書-ところ﹁それは、井伏の認識の元型でもある-を 越えて、そこに、さらに、大状況への視点をも含み込むという、 いわば複眼の獲得が必要だったのである。しかし、忘れてはなら ないのは、井伏が小状況における人間の倫理を問わないでは済ま さないことである。もし、戦時下から戦後にかけての転変のなか で、﹁時勢に翻弄され﹂ることが不可避であり、小状況をつない だ説明的語りによって、それを対象化できるとすれば、井伏の小 状況主義を必ずしも改変させるものではない。このことによって 井伏は、たとえ大状況のなかにあったとしても、それに積極的に 便乗することで無意味な一つの死をもたらした悠一の罪を問いつ めることができ、加えて悠一的存在に対する憎悪を虚構の中に解 放した結果、<徴用体験もの>にはなかった﹁遥拝隊長﹂の苦い 世界を作ることが可能になったのである。そして、戦後の﹁蹄勢﹂ によって生じた浮薄な民主主義青年をも捉えることができたので ある。私が複眼の獲得と述べたのも、そこに理由がある。 このような複眼優得の背景には、以上に述べてきたような、日 中全面戦争以来、苦い自己認識に至る井伏の内心のドラマが措定 23

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できるように、私には思われるのである。井伏ほど直接自己を語 らない作家はいない、といわれる。そういう作家である上に、全 集と称されているものが実は選集であって資料的整備も遅れてい るために、戦時下の井伏の内側をたどろうとする研究は少ないよ うである。本稿では、あえて、井伏の内面のドラマを仮定してみ ようと試みた。日中全面戦争以来の初出誌の判明している戦時下 の文章はへいくつかを除いて、ほぼ通読したつもりであるが、仮 説とは称するもののへこれも、井伏という作家に対しては、わず かに浮かび出たと見えた点と点とを結んで作り上げた、私l個の 虚 像 か も し れ な い 。 -昭 和 五 九 年 1 二 月 1 0 日 1 注1相原和邦﹁﹃遥拝隊長﹄の構造と位置﹂(﹃近代文学試論﹄第 一 〇 号 、 昭 和 四 七 年 九 月 ) 。 注2白石喜彦﹁庶民における意識の不変-﹃遥拝隊長﹄論﹂(﹃井 伏 鱒 二 < 現 代 国 語 研 究 シ リ ー ズ 1 > ﹄ 、 昭 和 五 六 年 五 月 ) 。 注3﹁創作合評<第三五回>﹂(﹃群像﹄、昭和二五年四月)。引 用 は 、 ﹃ 群 像 創 作 合 評 < 二 > ﹄ ( 講 談 社 へ 昭 和 四 五 年 七 月 ) に よ る 。 注4東郷克美﹁井伏鱒二素描-﹃山級魚﹄から﹃遥拝隊長﹄へ﹂ (﹃日本近代文学﹄第五集、昭和四1年二月)。引用は、﹃井伏 鱒二・深沢七郎<日本文学研究資料叢書>﹄(有精堂、昭和五二年 一一月)による。 注5拙稿﹁二つの﹃多甚古村﹄-日中全面戦争下の井伏鱒二﹂ (﹃近代文学試論﹄第二二号、昭和五九年1二月)。 注6引用は、﹃井伏鱒二文学書誌﹄(永田書房、昭和四七年八月) に よ る 。 注7<無題>(﹃南航ニュース﹄第七号、昭和丁六年1二月九日)。 ﹃高見順日記<第7巻>﹄(劾草書房、昭和四〇年九月)に掲載。 注8﹃高見順日記<第一巻>﹄に掲載の写真。説明に、﹁徴用され たビルマ組へマレ-組の作家・画家・新聞記者。昭和1六年1二月 一〇日輸送船あふりか丸船上﹂とある。 注9筑摩書房版﹃井伏鱒二全集<増補版>﹄未収録。 注10﹁杉並区清水町﹂以外は全集未収録。 注目全集未収録。 注1 2全集未収録。 注1 3杉浦明平﹁庶民文学の系譜-井伏鱒二について﹂(﹃午前﹄、 昭和二四年二月)Q引用は'﹃現代日本の作家﹄(未来社、昭和三 1 年 九 月 ) に よ る 。 注14拙稿﹁井伏鱒二・その戦時下抵抗のかたち-﹃花の町﹄を軸に して﹂(﹃近代文学試論﹄第二〇号、昭和五八年六月。﹃井伏鱒二 研究﹄・渓水社・昭和五九年七月に収む)で、論じた。 注15藤本千鶴子﹁井伏鱒二・戦後の歴史小説の警鐘(一)-松川事 件との関係にふれて﹂(前掲﹃近代文学試論﹄第二〇号。﹁井伏鱒二 ・戦後の歴史小説の警鐘-松川事件との関連にふれて﹂として、前 掲﹃井伏鱒二研究﹄に収む)へ島津京子﹁井伏鱒二﹃普門院さん﹄ の方法﹂(﹃甲南国文﹄第三一号、昭和五九年三月)等。 24

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