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宗教的世界国家の問題 : 存在の探究(その4)

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Academic year: 2021

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(1)Title. 宗教的世界国家の問題 : 存在の探究(その4). Author(s). 上岡, 宏. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 42(2): *1-16. Issue Date. 1992-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4230. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 ( 第 一部A)第四二巻 第二号 平成四年二月. 宗教的世界国家 の問題. 岡. 宏. 我 々 の住 む現実 世界 は 一つの大 きな構造 を持 って いる。 それ は道. から キリ スト教 が、富 裕 な商 人 や王侯貴 族 の専有 だ った初期 仏 教 か. う いう階 級が多数 派を形成 す る に つれ て、 民族 宗教 だ った ユダ ヤ教. 死 の恐怖 と不安 の救済者 だ けだと いう よう な状態 にな って いた。 そ. ー ー 存 在 の探 究 ( そ の 4)ー ー・. 上. な農業 生 産力 を背景 に盛 んな商業 貿 易 を行 って、 人 々は豊 かさを満. 具的連 関 と人倫的関係 から成 る独特 の構造 で、存 在 者 とし て の我 々. ら大乗 仏教 が、 こ の ベルト地帯 の東 西 に出 現し た のであ る。尤 も こ. 喫 し ており、欠 け て いる のは絶 え間 な い戦 乱 によ って彼 らを脅 かす. を常 に条件 づ け て いる存在様式 であ る。 ただ我 々は、 それが 具体 的. の 二 つの宗 教 は、世界性 を 獲得 し た時 のそ の地域 の状 況 が異 な って いた為 に、 そ の後 の歩 みは大 分違 うも の にな った。前 者 は世界 国家. に. にど のよう な仕方 で現実 を規定 し て いる のか簡 単 には捉 え る ことが. ロー マ帝 国 の国教 とし て輝 かし いスター トを切 った の に、後 者 は同. め. 出 来 な い。現代 の錯綜 す る現象 の中 から本質 的 なも のを取 り出 す の は極 め て困難 だ から であ る。 こ のた め我 々は、 も っと端 的 に本質的. じ. な も のが露 呈し て いる古 代 世界 に目 を向 け て、何 が当時 の人類 にと. じ頃 イ ンド世界を統 一し たグ プ タ朝 が ヒ ンズ ー教を支持 した為 、 む. は. って基 本条件 だ った か探 究 す る必要 に迫 られ た。 そ の結 果 よう やく、. こう した点 を考 え ると、同 じ世界宗 教 と い っても、 そ こから展開. し ろ東 アジ ア全域 に拡 散 す る結 果 にな った から であ る。. れ た のであ る。 ここま で来 れば 、我 々は いよ いよ現代 世界 に何 ら か. 幾 つか の事象 が それぞれ の歴史 的 世界特有 の条 件 とし て明 ら かにさ の仕方 で連 な って いる紀 元後 の世界 に、本格 的 に足を踏 み入れ る べ. した歴史 は決 し て同列 に論 じるわ け には ゆ かな いだ ろう。 た だ我 々 は、先 の第 三論文 で宗教概 念 の図式性 を考 察 した際 、 こうし た多 様. に幕 をあ げた。特 に、地中 海沿岸地域 から中 東 を経 てイ ンド ・中 国. す で に述 べて来 たよう に、紀 元後 の世界 は いわ ゆ る世界宗 教 と共. 考 察 可能 であ り、 それぞれ の地域 の歴史 はそ の変 様 形態 とし て 一般. 態 とし ては如 何 に違 って いよう とも、存 在 構造 とし ては同 じ概 念 で. 性 は 一定 の枠組 の中 で位置 づ けう る ことを示 し てお いた。従 って事. き であ ろう。. ま で、緯度差 にし て十 五度 前後 の幅 で広 が る ベ ルト地帯 では、充 分.

(3) . . 宏. 上 岡. 性 の中 に組 み入 れ ることが でき るはず であ る。 世界史 の中 で、宗 教 が主要 な役割 を演 じ て いた時 代 と地域 は、少 くとも紀 元後 の世界 で は、殆 ど そ の八割 を占 め て いる。産業 革命前 後 から中 心的役割 を別 のも の に譲 った地 域 も あ る に せよ、今 日 な お そ れ が無視 でき な い 国 々は実 に広 い範 囲 にわた って いる のであ る。 それ故 、我 々は これ から暫 く の間 、 こ の概 念装 置 によ って歴史 的世界 の再構成 に携 わ る こと にな る。本 論 以後、幾 つか の論 文 はそ の多 様 な形態 のそ れぞれ の地 域 で の検 証 に費 や され る であ ろう。 と ころ で主 題 が こ こま で絞 られ てく ると、今度 はど こから考察 を 開始 し たら よ いかと いう ことが問 題 にな るが、経 済基盤 にせよ教養 の水 準 にせよ、世 界宗教 を受容 でき る段 階 に達 し て いた地域 は先述 のベ ルト地帯 に限 られ る のだ から、当然 そ こが最初 にな る べきだ ろ う。 ただ し、 これら の考察 は相 当 の分量 を要 す る ので、 この 一篇 に は納 まり切 れな いから、 ここでは以前 から の流 れ から い っても、 ロ ー マ帝 国 から出 発す る こと にした い。 キリ スト教 が公認 され てから の ロー マ帝 国 は、首都 を東方 へ遷 し て更 に東 を望 み、 ア レキ サ ンダ. 二. 、 人倫 の 本論 の考察 は な るほど ロー マ帝 国 から始 めら れ るけ れども に及ば 問 題 とし てそ の構造を考 え る限 り、 どう し ても イ スラ ム世 界 から中 ざ るを えな い。 な にし ろこ の地域 は、 ア フリ カ の地中 海 沿 岸 り入 れ 東 ま で、物 質 的 な基盤 は そ のままな の に、宗 教 だ けが そ っく 替 って い る の で あ る。. 性 喪失 に それ故 、本 論 の後半 は、 ビザ ンチ ン ・ロー マ帝 国 の世 界 、 そ の世 代 って登場 し て来 たイ スラ ム教 とは 一体 ど んな宗 教 な の か れ る。 た 界宗 教化 は ど ん な形 で進 んだ のかを考察 す る こと に費 や さ と キ こう だ、考察 の対 象 が ここま で我 々 の身近 な も の にな ってく る 廿 社会 の 一 し た イ スラ ム世 界 の歴史性 の分析 は、 それ自 体 す で に現 代” め て我 々 つの構造把 握 に つなが ってく るだ ろう。 つま り、 ここで 細w. 直接適 は、過去から得 て来た具体的な存在構造 の様式を現実世 界ハに. 味 では、 こ の シ リーズ が目指 し て来 た現実 世界 の存在 開-照明. ー大帝 国時代 の領 土 の東端 ま でを、彼 ら の世界 空 間 とし て視界 に入. ルに近 づく 最 初 の例 にな るはず であ る。. に なるわ 用 し て、 そ の存 在開 示を促 す と いう仕事 に手 を そめ る こ し- , も、現 け であ る。 イ ス ラム世界 は我 々 にと って異質 の世界 だ と LVて な 隣 人の 一 代 の世界空 間 に お いては 一つの共同 現存 在 であ り、大 切 」 綱的意味 仔高嶺 人 であ る。 我 々 はその世界 が いかな るも ので、 どん な{ L 初 め て具 を担 って いる か問 う こと によ って、 そ の引 き受 け の問 題 キー て う いう意 体 的 に吟味 す る必要 に迫 られ るだ ろう。本 論 の後半 は、 サ の、 ゴ,. れ て いた。従 って本論 の前半 では、 こ の世界空 間 を 一つの単位 とし て、先 の第 二論 文 で登場した世界 国家 の構 造 展開 の問題 を、 そ の完. ロー マ帝国 の衰亡 の問題. 感 じを持 ユー ラ シア大 陸 を地 図 で眺 め て いると、我 々は不思 議歌 わa ながら世 つことがあ る 。 それは か つてア レキサ ンダ T大 王が短 甜浦田瓶 の東 西 肝恥世 界 界帝 国を築 いた時 の、 そ の東端 に当 るイ ンダ ス河 が、 mm. H. 結 と終 煮 の面 で考察 す る こと にしよう 。 し かしながら我 々 の探究 は、 こ の終蔦 を以 て世界 国家 の考察 の終 りとす るわけ には ゆ かな いだ ろう。何故 な ら文字 ど おり の意味 で旧 世界 と呼び う る こ の世界空間 は、 ロー マ帝 国 が地方 国家 の 一つに転 落 し てしま ったあ と、殆 どそ の四分 の三が イ スラム化 し、 以後今 日 ま で、政治的 分 裂 こそあ る にせよ、宗教 的結束 と いう点 では依然 と し て世界 国家 の形 を保 って来 て いるから であ る。 こ の点 から いえば 、.

(4) . 宗教的世界国家の問題. し て、 そ こから東 はササ ン朝 ペ ルシ ャが支配 した のだ が、し かし ペ. 思 え るから であ る。実 際 には ロー マ帝 国 が メソポ タ ミア以西を領有. はあ るが、我 々 のこれま での観点 から す ると、 それら は構 造 的完 結. 大移動 と か、 イ スラ ム侵攻 など の外 的 なも の に帰 せられ て いる ので. 方 国家 に転 落 し てしま った。 そ の理由 は、 一般 にはゲ ル マン民族 の. と ころが この世 界 国家 は、 キリ スト教 公認 から 五百年も し な い内 に、 そ の領 土ば かり か世界性 ま でも失 い、ビザ ンチ ン帝 国 と いう地. を分 け る境 界線 とし て、 そ の後 の歴史 に長 く尾 を ひ いて いたよう に. ルシ ャ領 の東端 も や はりイ ンダ ス河 を越 え る こと はな か った。後 に. を破壊 し終 篇 せし め る本 質的 な原 因 にはなら な い。 となれば どうし. ても、 こ の問題 は用 具的連関 構造 とし ての経済基盤 と、人 倫 的関 係. ぼ千 年 にわ た って領有 し た時 はさす が に境界線 も消 えた かと見 えた が、 それは統治 した王朝 だ け の話 であ って、全人 口 の七割 を占 め る. とし て の宗教 の問 題 から追 ってみるし かな いだ ろう。. イ スラム教 が登場 し てイ ンダ ス河 を大 きく越 え、 イ ンド亜大 陸 を ほ. ヒ ンズ ー教徒 は改宗 せず 、 イ ンダ ス河 はや はり限界 であ った 。 現象. 土 にはまだ農耕 生 活 さえ知 らな い民族 が居 た のだ ろう か。 と ん でも. ロー マ帝 国 とは、 一体全体 ど んな世界 だ った のだ ろう か。 そ の領. と にかくそ こから西 は ア レキ サ ンダ ー以来 、 可能 的 には常 に 一つの. な い。 ロー マの属領 であ る限 り、辺境 の蛮族 や遊牧 民を防 ぐ た め の. とし て見 れば実 に不思議 な こ の境界線 に ついては後 で考 え るとし て、 世界空間 だ った のであ る。. 後 は軍事 的 勝者 が統 一国家 を築 いたと いう のが、 そ こで描 き出 され. きた国が まず 拾頭 し、 やが て覇権 争 いから戦 乱 の時 代 が始 ま り、最. を基軸 とす る自 給自 足的小 国家 群 の中 から、商品経済 に方 針転換 で. を た ど って ロー マ帝 国 と いう世界国家 の出 現 に つなが った かに つい て、 これを構造連関 の展開 と いう観 点 から考察 し て来 た。農耕 生活. 拡大 と共 に出 世 したり都会 生活者 にな ったりした為 に、次第 に地 主. イタリ ア の農 地 は、 そこから兵士 とし て出 て行 った農 民 が 、版図 の. 方 が有 利 な のであ る。 か って都市 国家時代 の ロー マの食糧 を支 え た. あ った。食糧 はそ こから手 に入 る のだ から、土 地 の名産 を産 出 す る. 通商 貿 易 が 可能 だ った から であ る。 な にしろ エジプ トは穀 倉地 帯 で. さ て 、 我 々 は こ れ ま で 、 ギ リ シ ャ ・ポ リ ス の発 展 が ど う いう 経 過. た展開 の図式 であ った。 やが てこ の帝 国 はキリ スト教 を公認 し、 そ. 貴族 に買 いとら れ て大荘 園 にな って いた。 そ こで貴族 はも っと有 利. 防塞 や砦 があり、領内 では生活 必需 品 もぜ いたく品も買 え た のであ る。 そ の土地 の農業 が それ程水 準が高 か った から ではな い。域内 の. の教 え に帰依 し た皇帝 が全 て の教徒 を支配 す る体制 を作 った時 、 誰. 結 し閉 じ てしま った世界国家 は、 それ自体 永遠 であ り、数千 年 の寿. え た わけ であ る。青銅 器時 代 の エジプ トと の類比 で言 えば 、 こ の完. が いかな る権 限 で世界 を統 治 す る かと いう最後 の問題 にも決着 が つ いた。前 六世紀 頃 から始 ま った展開 は、 こう し てよう やく完 結 を迎. であ る限 り都 会的生 活 が出来 た のであ る。. の頃 ま では、 北 はイギ リ ス南部 や ベ ルギ ー の辺 りま で、 ロー マ領内. スなど の属領統治官 も同様 であ った。だ から、少 く とも 五賢 帝 時代. 栽培技 術 や製造技 術 はギ リ シ ャ人奴 隷を頼 り にした と いう。 フラ ン. り かえた。労働 力 は征 服地 から連 れ て来 た奴 隷 によ ってま かな い、. な産業 を考 え、 ワイ ンや オリーブ油 や毛織物 のため の原料 生産 に切. 命 を保 って当 然 のはず であ った。 ササ ン朝 ペ ルシ ャと接 し て いた と. し かしな が ら、 こう した産業 構造 は今 も昔 も景気 の動向 に左 右 さ. は いえ、軍事 的対決 なら 一度 は負 け ても領土 を回復 す る余地 はあ る のだ から、世界性 そ のも のを失 う はず はな か った のであ る。. 三.

(5) . 宏. 岡. 上. に市民権 を与 え る代 り、小作 人 とし て土地 に縛 り つけ、移動 を禁ず. 面目 に穀物 のタネを播 き、本来 の形 から出直 す し かな い。解 放奴 隷. た。 こう し た混乱 を収 拾 す る には、結 局 もう 一度荒廃 し た農 地 に真. 称 す る者 も出 て来 て、 あ ち こち で掠奪戦闘 が行 わ れ る程 にな って来. ゲ ル マン人を傭 兵 とし て抱 え るよう にな ってく る。 属領各地 も同様 で、統治官 が現地徴 募 の兵 によ って大 軍 団を作 り、中 には皇帝 を倦. 隷 の反乱 も、今 や自 力 で防衛 せざ るをえ な いから、有 力地主貴族 は. 者 が出 てきた。 こうな ると治安 も悪くな り、昔 から頻 発 し て いた奴. 手 不足 にな り、 さら に伝染病 にや られた りし て、 いわば倒産 す る業. の製 品 に圧 さ れて輸 出 力 が鈍 ってきた上、版 図 に限界 が来 て奴 隷 入. され てしま っては、 も はや商 品 は捌 けず、食 糧 も 入手 できな い。 し. れば 、 必要 な食 糧 は いくら でも手 に入 った が、 穀倉地 帯 から切 り離. ては、先 述 した よう に、 ワイ ンやオリ ーブ 油 や毛織物 を生産 し て い. 糧 輸 入 に頼 れなく な った こと であ った。 か つて の商業 経済 圏 にお い. フラ ン ス、 さら にイギ リ ス南 部 ま で広 が る地域 が、 旧世界 から の食. こと ではな い。重 要 な のはむし ろ、 こ の分断 によ ってイタリ アから. 経済 圏 への復 帰 もあ り えな いこと ではな か った から であ る。領 土 の. 教 化 し、教会 の下 に結集 させ る ことが 可能 性 とし て残 って いる限 り、. れ で世界性 を失 った のだ ろう か。勿論 そんな ことは な い。 異 民族 を. 辺を除 けば 、 イ タリ アは経 済的 に孤 立 し てし ま った のであ る。 では 一体 、 こ の こと は何 を意味 す る のだ ろう か。 ロー マ帝 国 は こ. 四. る法律 を作 って、事 実 上農 奴 制 に近 い政治 を始 めた のは三世紀中 葉. かも これだ け高 緯度 の地方 では、 小麦 な ど の穀 類 を作 る農業 は、 同. れ る。 三世紀 に近 づく と、 イタ リ ア のワイ ンや毛織物 は フラ ン ス産. の こ と だ った と 言 わ れ て い る 。 いわ ゆ る コ ロー ヌ ス制 度 が そ れ で あ. 時 代 の日本 の稲 作 と同様 、余 剰生産力 がな いにひと し か った。. の寒村 に戻 ってし まう のであ る。 それ でもそ の経済 圏 が機能 し て い. リ アなど で上 が る はず もな い。換 金作物 で失 敗 し てしま えば 、 ただ. よう に、当時 の農業 技 術 では エジプ ト に匹敵 す る程 の生産 量が イタ. 起 こ って いた のは非常 に興味 深 いこと であ る。緯度 を考 えれば分 る. に遷都 す る以前 のイタ リ ア で、膝 元 の農村 に既 にこ のような変 化 が. ロー マ帝 国 の経済 問題 を考 え る場合 、 まだ コンスタ ンチ ノープ ル. 向 上 さ せ て目前 の経済 圏 を形成 し、十 四世紀 頃 から のし上 ってく る. ら改 め て再開 す る こと にな った。 それは、結 果的 には農業 生産 力 を. 化 し た フラ ンスな ど と同様 に、連 関構造 の展開 を余 剰食糧 の問題 か. 謎 はす ぐ に解 け る。 イ タリ ア の大 部分 は、 これ以後 、都市 が廃 漉 と. れ る のだが、目 前 の農 業 生産力 が ど の程度 だ った かを知 れば 、 そ の. 落 差 が余 り に大 き いので、 歴史 の連続性 を信 じる人 は ひど く悩 ま さ. 西 ヨー ロッパ の歴史 は、 ロー マ時代 の繁栄 とゲ ル マン侵住 以後 の. 一時 的喪 失 はど の世界 国家 にも起 こりう る のであ り、別 に致命 的 な. った 。. れば 、遷都 以後 でも 不景気 な り に都市 と農 村 の共存 が保 てた であ ろ. 西 ヨー ロッパ に、 イ タリ アが先導者 とし て加 わ る効 果 を持 った ので. では、東 に遷都 し たビザ ンチ ン ・ロー マ帝 国 の経 済基盤 はどうだ. あ る。. スの西征 でイタ リ ア全 土 が 一度 は帝 国領 に戻 ったも のの、 この地域. った ろう か。 こちら は極 め て順 調 であ った。ゲ ル マン侵 入以後 イ タ. う が、 そ のあ と にゴー ト族 や フ ン族 が襲 って来 て経 済 圏が分断 され. が旧 に復 す る こと は不可能 で、北半 分 が ラ ンゴ バ ルド のも のにな っ. リ ア以西 の領土 は失 った が、帝 国 の領土 は現在 の ルー マニアを含 む. てしま っては最 早 お手 上げ であ った。 六世紀 の中 葉 に ユステ ィア ヌ. に つな が り え た ロー マ周 て か ら は 、 海 上 ル ー ト で東 ロー マと わ ず か・.

(6) . 宗教的世界国家の問題. 水 準 だ ったが、 西 ロー マ時代 に始 めた半 農奴的 な コ ロー ヌ ス制度 が. と裁 判 を統裁 し軍 団 の指 揮 に当 って いた。 バ ルカ ン地方 の農業 は低. 守 領 な ど に区 分 さ れ て いた。 そし て いず れも総督 が派遣 され、収 税. 沿岸 全域 に及 ん で いたし、 それ ぞれ の土地 は皇帝領 ・元老 院 領 ・太. ど無 関係だ った と言 ってよ いだ ろう。軍 事面 を含 め ても決 定 的 な徴. であ った。 とす れば 、帝 国 の終寿 にと って用具的連 関 構造 の面 は殆. いれば、宗 教 的世界 国家 は いず れ そ のう ち領土 回復 に成功 す るはず. 失 ったとは いえ、 ロー マ教皇 が健在 でゲ ル マン諸族 の教化 が進 ん で. そ の経済基盤 に関 す る限 り、 まさ に完 壁 であ った。領 土 の西半 分 を. 以上 から分 かるよう に、 ビザ ンチ ン ・ロー マ帝 国 の連関 構造 は、. ソポ タ ミア に進 出 し て来 た こと であ る。. ここでも施 行 され て、南 下 す る後 発民族 に少 しづ つ領土が削 ら れ て. 候 は見出 せな いのであ る。 イ スラ ム勢 力 の侵 入 によ って、 シリ アと. バ ルカ ン半 島 から、 ト ル コ ・シリアを経 て エジプ トま で の東 地中 海. いたも のの、統治 体制 は安定 し て いた。 そ の理由 は いう ま でも な く、. では 一体 、 ビザ ンチ ン ・ロー マ帝 国 は何 故衰 えた のだ ろう か。 現. 共 に穀倉地 帯 の エジプ トを失 った のは七世紀中 葉 であ るが、 バ ルカ. 象 とし て見 れば、外 から の攻 撃 が帝 国 の領土 を奪 い取 った為 に、 国. この帝 国 の首 都 が通商貿 易 圏 の 一大中 心地 だ った から であ る。 も と. し かも ここは キリ スト教 の中 心地 であ る。祈 蔵 用品を中心 と した金. 内 政 治 が少 しづ つ歪 ん でき て、十 二世紀 以降 は手 に負 えな く な った. も と この地 域 は、古 典古 代 のギ リ シ ャの壷 に象徴 され るよう に、 ワ. 細 工品 や象 牙細 工 の他 、 ガラ ス器、 じ ゅうた ん、 七宝焼な ど 工芸 品. と いう ことも否定 できな いが、 そ こま で追 い つめられ る前 な ら、打. ン地域の農業改革などが成功して、帝国は八世紀から十 一世紀中葉. がど んど ん輸 出 され、周辺 国 の銀貨鋳 造 ま で請負 って いた のであ る。. つ手 はあ った はず であ る。実 際、 七世紀初 め に エジプ トを ササ ン朝. ま で、 マケド ニア王朝 下 でむしろ繁 栄 を続 けた程 であ った。 衰 亡 の. 輸入品も香料\毛皮 ・真珠 を はじめとし て、塩 や密 ロウや各 種 原料. ペルシ ャに取 ら れた時 は、帝 国 の軍 隊 はた ちま ち それを取 り返 し た. イ ンや オリ十ブ油 を始 めとす る物 産 の集積 地 であ ったが、帝 国 の中. から穀物 ま で多種多 様 であ り、香料 な どは ここを中継 し てさら に西. 心が こちら に移 ってから は、 ペ ルシ ャ経由 で入 ってく る珍 奇 な品物. へ輸 出 された。 こう した繁 栄 は通商 ルート に沿 って帝 国領 の各地 に. のであ り、少 し時間 を おけば 、 それ から間も なく イ スラム勢 力 に奪. 兆 しが覆 い難 く な った のは、援軍依頼 の代償 とし てヴ ェネ ツ ィア共. 及び 、 ロード ス、 キプ ロス、 ベイ ルートなど に空前 の盛況 を も たら. われた シリ アや エジプ トだ って、相手 の疲 れた頃を狙 って反撃 でき. のせ いもあ って、 すば ら し い産業 が続 々発展 した。特 に爆 発 的 な効. し て いた。 香料 な どイ ンド原産 品 の交 易 ルートは、 ペ ルシ ャ領 のメ. た かもし れな いのであ る。 と ころが、帝 国 にはそれが不可能 であ っ. 和国 に海上特権 を譲 り、 セ ルジ ュク ・ト ル コに小 アジ アを奪 わ れた. ソポ タ ミ アを経由 す るも のと紅海 ルー ト の二 つがあ ったが、前者 の. た。 なぜな ら、旧領 土 のキリ スト教徒 は数 世代 を経 る間 に殆 ど イ ス. 果を持 った のは、六世紀 に東 から伝 わ った養 蚕技術 であ る。 絹織物. 方 が近道 だ ったも の の、両国 の間 にはしば しば戦争 が起 った ので、. も、 そ この住 民 は最 早 元 へは戻 ラ ム化 し てしま い、 領土 を 回復 し てr. 十 一世紀末 以後 だ った のであ る。. 紅海 ルー トも そ の都 度重 要 にな って いた。注目す べきは、 こ の紅 海. り そ う に な か った か ら で あ る 。. 産業 は国家 の専売 事業 となり、東 西 の王侯貴族 の垂漣 の的 にな った。. 沿岸 で商 人 と し て の実 力を つけた アラビ ア人 が、次第 に北 上 し て メ. 五.

(7) . . 宏. 岡 上. って いた かを思 い出 せば 、容 易 に理解 でき るだ ろう。 ロー マ帝 国 が. こ のことが何 を意 味 す る かは、世 界国家 の概 念 がど んな内容 を持. 教 た るキリ スト教 の方 にあ った ら し いと いう こと であ った。 歴史 的. 一時的 な領土喪 失 など衰 亡 の主 因 た りえず、 原因 は むし ろ帝 国 の国. し かし そ こで明 ら か にな った のは、豊 かな地中海 型経済 圏 の中 では、. 六. 世界 国家 とし て完 結 し て いると いえ る のは、 そ の視界 に入 って いる. 下 に入 った から と い って、 そう簡 単 に改宗 す ると は思 えな い。例 え. こう いう状態 なら ロー マ帝 国 は理念 の上 で世界 国家 であ り えた。 だ が イ スラム教 の出 現 は、 そ の可能 性を完全 に消 し てし ま った。 つま. や キリ スト教徒 は居 た の であ る。実質 的 な統 治 こそ出来 な く ても、. ト教徒 が いたし、 イ スラ ム出 現以前 のアラビ ア半島 にも ユダ ヤ教徒. て実 際、 サ サ ン朝 ペルシ ャの領土内 には、迫 害 されな が らも キリ ス. ければ ならな いが、 それ は次 の節 にゆず るとし て、 ここ ではまず 初. 調 べて みる必要 があ るだ ろう。勿 論 イ スラ ム教 の側 からも考 察 しな. た。 一体 どう し てそんな こと にな った のだ ろう か。 この謎 を解 く に は、 や はり どう し てもビザ ンチ ン帝 国 のキリ スト教 が辿 った歩 みを. であ る。 と ころが中東 から西 アジ ア にかけ て の 一帯 ではそれが起 っ. 改宗 な らば とも かく、 世界宗 教 でそれが起 る のはむ し ろ稀 な方 な の. ば イ スラム支配 下 に入 った ス ペイ ンにせよ、十 五世 紀 以後 のギ リ シ ャにせよ、結 局 は自 分 た ち の宗教 を守 ったよう に、 土俗宗 教 から の. に見 れば 、 あ る民族 が武力 で征 圧 さ れ て宗 教 を異 にす る権 力 の支配. 世界空 間 の中 の全 ての民族 が、皇 帝 と同 じ キリ スト教 に帰 依 し て い て、皇帝 は神 と子 と聖霊 の名 にお いて彼 ら を支 配 す ると いう ことが、. り ロー マ帝 国 は、 旧領土 のキリ スト教徒 を失 う と同時 に世界性 も失 い、逆 に孤 立し始 め た のであ る。. 期 キリ スト教 の歴史 を要約 的 に振 り返 り、 そ こから ど んな問題が出. 可能 態 とし てであ れ成 立 し て いる限 り で のことだ から であ る。 そし. し かも、帝 国 の孤 立化 はそれば かり ではな か った。商業 経 済 圏 か. ら いえば 、 ビザ ンチ ン ・ロー マ帝 国 の衰 亡 は、領土 を失 った ことよ. 新 たな宗 教的 世界国家 を築 き つ つあ った から であ る。 こう し た点 か. 中 心 に結束 し、ゲ ル マン諸 族 を改宗 し て、皇 帝 の力 の及ば ぬ地域 に. は エジプ ト へと手 を広げ て い って、 まず各 地 の同胞 を教化 し たが、. 共 にイ スラ エルで教会 を開 き、 続 いて シリ アから小 アジ ア ヘ、或 い. 熱 烈 な布 教 活動 によ って急 速 に広 ま った。彼 ら は共 同生 活 を営 む と. 周 知 のよう に、 キリ スト教 は イ エスが処刑 され た後 、弟 子 たち の. て来 た か、 順 に考 え てみること にし よう。. りも宗 教的 孤 立化 の方 に、 そ の主 要 な原因 が求 めら れ る べき であ ろ. パウ ロが加 わ ってから は 一挙 に布 教範 囲 がギ リ シ ャ世 界 に広 が った。. ら分断 されたイタ リ ア以 西 のキリ スト教徒 が旧首 都 の ロー マ教会 を. う。 一体 どう し て、 コンスタ ンチ ノープ ルのキリ スト教 は普遍 性 を. } つ0. しば 不当 な迫 害 を 受けた。ネ ロ皇 帝 の暴虐 は その典 型 と いえ るだ ろ. ので、最初 は不穏 な秘密 団体 だ と誤解 され やす く、何 かあ るとしば. も 及 んだ。 ただ し この段 階 では西 へ行 く ほど信者 の数 は少 な か った. 失 った のか。残 る問 題 は そ こ に絞 ら れ てく る のであ る。. ギ リ シ ャ人 とキ リ スト教 の問題. 彼 ら は各 地 で会衆 を教 化 し、教 会 を造 り、 す べての階 級 を超 越 し た 信者 の共同体 を次 々に増 や し て い った。布教 活動 はやが て ロー マに. 口. これま で我 々は、 ロー マ帝 国 の終 蕎 がど のよう な構 造的破 綻 によ っても たらされた のか、 主 とし て用具連 関 の面 から検 討 し て来 た。.

(8) . 宗教的世界国家の問題. を集 め ること にも な った。 三世紀 に入 った頃 は、 す で に信者 は ロー. れ は時 に 一般 人 の驚 きと感 動 を誘 って、 心 の救 済 を願 う人 々 の関 心. れるよう にな って来 た。迫 害 され殉教 す る者 の数 も多 か ったが、 そ. 貧者や病者 の世話も必要にな って専従者が置かれ、責任者が定めら. 数 は増 え て来 て、地域毎 に次第 に教会組 織 が整 え られ、教会 に来 る. 間 に孤立 す ると い った傾向 が出 て来 た。 エジプ ト の コプ ト派、 シリ. ンドリ アでも異端 とし て退 けら れた教説 の方 に支持 が集 ま り、長 い. 会議 はそ の後 も数 回開 催 され たが、 ビザ ンチ ンの宮 廷 でも ア レキサ. 統 一見解 に承服 し な い人 々が少 く な いと いう結 果 にな った のであ る。. と ころが苦労 し て統 一し た のに、 そう した政 治解 決 的 な匂 いのす る. では困 る ので全教会 の統 一解 釈 を、 と いう のが会議 の目的 であ った。. の攻撃 に対抗 す る為 にし た ことな のだ が、護教側 の理論 が バラ バラ. マ帝 国領 の至 る所 に存 在 し、多数 派 とま では いかな いま でも、政 治. ア のネ ストリウ ス派 など、 異端 と判定 されたまま少 数 派 と し て各地. それ でも 二・ 世 紀 に入 ると、迫害 は根絶 さ れな か ったも のの信者 の. 的 に無 視 できな い存 在 にな って いた。 と いう のも、教会 は ほぼ属州. へ流 れ て い ったも のも少 く な い。 公会議 の見解 に従 い、細 か い教義. 第 二 の問題 は、世界宗教 が 一つの地 域 で国教 とし て定着 す ると、. 毎に大都市 の教会が地方教会を統括する体制が自然に出来て いて、. と いわ れ て いる。 とりあ えず は皇帝権力 の 一元化 のた め の戦 いでキ. 必 然的 に排棄 した土着宗 教 の役割 を担 う こと にな ると いう 、 あ の図. 論 争 は捨 象 し て、聖書 に即 し て実 践的 にキリ スト信 者 のあ り方 を指. リ スト教徒 の援助 が必 要だ ったと いう のが本 筋 で、皇帝自身 の受洗. 式 性 の問題 であ った。ギ リ シ ャ人 は大昔 からゼ ウ スを頂点 とす る神 話 的神 々を敬 って来 た。女神 アテナを始 め、優美 な彫像 を作 って、. イ タ リ ア ・フ ラ ン ス地 域 の中 心 は ロー マ教 会 、 小 ア ジ ア は ア ン テ ィ. は臨終 の時 であ った。 だ が キリ スト教 は こ の時勝 った のであ る。. 親 し みを こめて拝 ん で来 た。神 託 に頼 り、犠 牲 を奉げ 、収 穫 を感謝. 導 し てゆく方針 を と った のは ロー マ教会 だ け であ った。 い つのま に. さ て、 こうし てキリ スト教 は ロー マ帝 国 の国教 とし て輝 かし い第. し てバ ッカ ス神 と共 に酔 い痴 れたりも した。 キリ スト教 が全 住 民 の. オ キ ア教会 、 エジ プ ト は ア レキサ ンドリ ア教会 と い った よう に、信. 一歩 を踏 み出 し たわ け であ るが、同時 に内 訂 し て いた問題 も姿 をあ. 信仰 す べき宗教 とし てさだ めら れると、 こうしたギ リ シ ャ人 はどう. 者 集 団内 で の上意 下達 が可能 にな って いた から であ る。 それゆえ 四. ら わ し てきた。 これ は主 に二 つの側 面 に分 けら れるが、後 にイ スラ. し ても例 えば アテナ の代 り に聖 母 マリ アを拝 むと いう形を とらず に. か、全 キリ スト教徒 の最高指 導者 であ る筈 のビザ ンチ ンに いる皇帝 は、最 も正統を以 て自負 す る ロー マ教 会 の指 導者 に制肘 を う け る素. ム教 に押 し流 されたト ル コや エジプ ト の弱 さを考慮 に入 れ ると、実 に興味 深 い内 容 を学 ん で いる。 そ の第 一は、 よく知 られ て いるあ の. いら れな い。 し かも 眼 に見 え る姿 が ほし い。 かく て極 く自 然 に、彼. 世紀 に コンスタ ンチ ヌ、 ス帝 が キリ スト教 に入信 し、 ロー マ帝 国 の迫. ニカイ ア公会 議 の顛末 であ る。父な る神 と子 イ エスの関 係を 一神 教. ら は聖画像 を拝 み供物 を捧げ て祈 ると いう習慣 を作 り出 し 、 イ エス. 地 が でき て いた のであ る。. の原 理的枠組 の中 でどう解 釈 す るか、 イ エス ・キリ ストは神 か人 か. 様 だ け では足りな い気 分 で使徒 や殉 教者 など聖人 の絵 を沢 山抱 え る. 害 が ようやく終 った のは、必ず しも皇帝 の回心 だ けが理由 ではな い. と い った問 題 で、ギ リ シ ャ哲学 的教養 の中 で生 き てきた教 父た ちが. よ う にな った のであ る。偶 像 を作 って礼拝 し てはなら ぬと いう モー. 1) (. 各 地 で様 々な 理論 を提 示し て いた。 いず れも 反 キリ スト教的哲学 者. 七.

(9) . . 宏. 上 岡. そ の膝 元 の コン スタ ンチ ノープ ルで信者 を束 ね るビザ ンチ ン教会 の. スト教 に帰依 し て全 て の信者 を統 括 す る最高 の存在 とな ってから は、. どが そ の代表 的 なも のであ った。 と ころが 一方 、 ロー マ皇帝 が キリ. ロー マ教 会 と か ア レ キ サ ン ド リ ア や ア ン テ ィ オ キ ア 、 エ ル サ レ ム な. 代 から の伝 統 を誇 る大教会 があ って、 周辺地方 教会 を束 ね て いた。. 既 に述 べたよう に、教会 組織 は帝 国内 の拠点都 市 にそれぞ れ使徒 時. 来 た のは、蛮族 侵 入 の始 ま った 五世紀 に入 って以後 のこと であ る。. どな か った はず だ から であ る。 それら が次第 に深刻 な問 題 にな って. 教義 論争 で教会 が勢力 争 いを した り、偶像崇 拝 を各 めた りす る暇 な. 紀末 ま では、 遷都 と東 西 ロー マの分割 統 治 に伴 う諸問 題 で手 一杯 で、. 問 題 は、最初 はそれ ほど深刻 ではな か った であ ろう。 な にし ろ四世. し かしながら、 キリ スト教公認 から間 も な く姿 を現 し た これら の. 統文化 の色 彩 が鮮 や かな ので特 に目立 つのであ る。. 化 はど こ でも多少 は見 ら れ るが、 ギ リ シ ャの場合 は、基盤 をな す伝. ると彼 らが考 えた であ ろう ことは充 分想 像 が つく。世界宗教 の土着. ゼ の戒 め にも か かわらず であ った。彫像 は いけな いが絵 なら許 さ れ. と拡 張 に向 けら れ ても 不思議 はな か った。事実 六世紀 の前半 は、 そ. 問題 はな か った。 だ から暫 く の間 は、 歴代皇 帝 の関心 が領土 の回復. るとも言 えた から であ る。教皇 と皇帝 の間 に亀 裂 が 入ら ぬ限 り何 も. げ ており、 か つての大 ロー マ帝 国 を思 えば 、 そ の復活 が行 われ て い. 教皇 はゲ ル マン民族 の教化 に努 め て着 々と西 ヨー ロッパ に地歩 を広. こう した展開 は、勿論 ビザ ンチ ン側 にと っても好 まし いこと では な か った であ ろう。 し かし特 に危 機感 を持 つ程 のこと でも な か った。. 味 す る教 皇 の称号 を皇帝 に認 めさ せた のは そ の時 だ と いわ れ て いる。. るよう にな って いた。 ロー マ大 司教 が全教徒 の父あ る いは司祭 を意. 教義 論 争 の裁 定 を下 し てから は、名実 とも に皇帝 の権 威 に対抗 でき. 的 な統 治者 の役 目 も果 し ており、 五世紀 中葉 のカ ルケド ン公会議 で. で荒 らさ れた イタ リ アでは、 ロー マ教会 は民生 保護 など の面 で実質. 含 め て西方諸 教会 の支持 を受 け て来 た。後 発 のビザ ンチ ン教 会 が皇 帝 の権威 を ふり かざ し ても素直 に従 う わ け には ゆ かな い。蛮 族 侵 入. 時代 から、 ロー マ教会 はそれを主張 し て、北 ア フリ カ のカ ルタゴも. のも当 然 であ る。 す でにず っと以前 、 つま りまだ迫 害 を受 け て いた. トリ ック の位 置 を真 に保持 しう る のは ロー マ以外 にな いと主 張 す る. 八. 総主 教 が、昔 から いわ れ て来 た全 教 会 の統 一体制 す なわ ちカト ルー. では、 一体 い つ頃 から世界性 を失 う よう な事態 が始 ま った のだ ろ. う し た戦 さ に明 け暮 れ て いた のであ る。. 上、形式的 には当然 で、だ から こそ教義 問題 で教会毎 に見解 が異 っ. う か。 そ れはや はり七世紀 のイ スラ ム出 現 から であ ろう。 ただし、. ( カトリ ック) を代表 す る位 置 に立 った。政 教 一致 の帝 国 であ る以 た場合 は調停 や裁定 に当 り、従 わ ぬ者 には異端判決 や破 門 を宣告 し. イ スラ ム軍 がシ リ アや エジプ トを占 領 し て、 さら に コン スタ ンチノ. 刻 にな って来 た のは、 こ の宗教 が偶 像崇 拝 を厳禁 し て いることを知 り、 キリ スト教 も本来 はそうだ った のだ と改 め て気 づ かされた時 で. たりも した のであ る。 と ころが どう し ても こ の体制 にな じめ ぬ勢 力. あ った。 占 領 下 のキリ スト教徒 は必ず しも改宗 を迫 ら れ て いるわけ. ープ ルを包 囲 した時 にすぐ そうな った と いう のではな い。問題 が深. ア の教会 より新 し いが、何 と い っても帝 国 の首都 に出来 た教会 で、. ではな か ったが、偶 像崇拝 に関 す る限 り、彼 ら はイ スラ ム の教 えを. があ った。 そ の筆頭 が ロー マ教会 であ る。. 伝 承 の上 ではイ エスの筆頭 の弟 子 ペテ ロが最 初 の司教 だっ た と いわ. ロー マ教会 は、成 立 した順 番 で いえば エルサ レムや ア ンテ ィオ キ. れ て いる教会 であ った。全 て の教会 を束 ね ると いう意 味 でなら、 力.

(10) . 宗教的世界国家の問題. た の で あ る。. いだ と いう声 は、次第 にう ねり とな って皇帝 の耳 元 へ押 し寄 せ て来. 認 めず には いられな か った。 聖画像 ( イ コン)を礼拝 す るのは間違. 占 領地 のキリ スト教徒 は か つて の異端審 決 に続 く今度 の事 件 で再び. 全 世 界 の教会を 統 一す る地位 に立 った。 そし て これと は対 照的 に、. ら ロー マ教皇 は カトリ ック ( 普 遍 ) キリ スト教 の資 格 を明確 にし、. ば かり か、 は っきり対 抗 す る姿勢 を打 ち出 した のであ る。支持 した. ら イ スラ ム軍 を逃 れ てイタ リ ア に来 て いたギ リ シ ャ系難 民も反対 し た。 し かも ロー マ教皇 ま でが これ に反対 し、頑 とし て命令 を聞 かぬ. となが ら膝 元 のギ リ シ ャ人 がまず 反対 し た。 さら にア フリ カなど か. に当時 の皇帝 が聖 画像 廃棄 令 を発布 し た こと で始 ま った。当 然 のこ. 綻 に つなが った のは実 にこ の時 であ る。事 件 は 八世紀 ( 七 二六年). でも例 えば テ ッサ ロニケ の教会 を訪 れれば 、 ひ っきり なし に人 々が. よ って再び 民族 の宗教 とし て登 場 す る。 イ コンは健 在 であ り 、今 日. ル コ支 配 下 でもギ リ シ ャ正教 は根 強く生 き残 り、十 九世紀 の独立 に. 領土 を削 り取 ら れ て十 五世紀 には亡び た のであ るが、 オ ス マン ・ト. 性 は失 なわ れた。 以後 こ の国 は地方国家 とし て暫 く繁栄 し、 次第 に. あ る。少 く とも我 々 の観点 からす る限 り、 こ の時点 で帝 国 から世界. ビザ ンチ ン ・ロー マ帝 国 が世界国家 の資 格 を失 った のは この 時 で. 切 り捨 てられ、 ついにイ スラ ム化 の波 に呑 み込 まれた のであ る。. のは、 既 に以前 から異端 と され て いた シリ アや エジプ ト のネ ストリ. や って来 て祈 りを奉げ る姿 を見 る ことが出来 る。 それ は、 世界性喪. 我 々が先 に述 べた ような、 あ の 二 つの問題 が抜 き差 し ならな い破. ウ ス派 や単性論者ば かり であ った。皇 帝 は何度 も命令 を出 し た ので. 姿 な のだ と いえ る であ ろう。. 失 の代 償 とし て手 に入れ たギ リ シャ人 のかけがえ のな い民族宗 教 の. あ るが、抵 抗運動 など で各地 に紛争 が起 り、事態 は悪化 す るば かり であ った。 そ の上、 聖 画像擁 護 理論 ま で登場 し、皇帝 とビザ ンチ ン. 宗 教 から の逸 脱 を公認 したも同然 だ った のであ る。 イ コン ( 聖 画像 ). シ ャ正教会 が正式 に成 立 した のだ が、要 す る にそれ はギ リ シ ャ人 の キリ スト教 は これだ と宣 言 した よう なも のであ った。普 遍的 な世界. 画像礼 拝 を承認 す る方向 で図 ら れ、 九世紀 にはそ の立場 に立 つギ リ. を免 かれな い状態 に追 いこま れた。事態 の収拾 は結 局 八世紀末 に聖. るだ ろう。皇帝 とそ の教会 は、命 令 を強 行 し ても取 り消 し ても孤立. が 一つ に ま と ま って し ま った と いう 点 で 極 め て象 徴 的 だ った と いえ. う主力 教会 の対立 と、 世界宗 教 の土着 化 ・民族化 によ る変 貌 の問題. この事 件 は、 キリ スト教 公認直 後 から内 在 し て いた教義 論争 に伴. った のだと解 す る ことも出来 るだ ろう。 ア レキサ ンダ ー以来 、 イ ン. と いう見方 を す れば 、実 はイ スラム教 が そ の位置 に代替 り と し て座. じ理念 の体 系 で統括 され て いる限 り、 そ こを統治 す る国家 は健 在 だ. ば 、 つまり世界国家 の可能 的空 間 は、宗 教 でも哲学 でも、 一つの同. 運命 に つなが って いたと思 え るから であ る。 し かし別 の見 方 を す れ. 華 麗 な文化 的伝統 を持 つギ リ シ ャに遷都 し た こと自 体 、 や が て来 る. こ の終 寿 には何 かしら偶 然 の要素 が感 じら れ ることも事実 であ ろう。. 挑 戦 に対抗 できな か った から であ る。 ただ、 このよう に見 てく ると、. 世界宗 教 が民族宗 教 に変 貌 した為、 イ スラム教 と いう新 た な宗 教 の. 通 り であ る。何 故 そう な った かと いえば 、人倫的構造 の基幹 であ る. 永遠 の世界 国家 た る べき ロー マ帝 国が終寿 を迎 え た経緯 は以上 の. はまさしくギ リ シ ャ人 のキリ スト教 であ った。最 早 どう試 みても、. ダ ス河以 西 のベ ルト地帯 は、 こ の地域 の人 々す べてにと って 一つの. 教会 は全 く孤立 し てし ま った のであ る。. そ こから民族性を剥ぎ と る事 は不可能 であ った。 そし て、 こ の時 か. 九.

(11) . 宏. 岡. 上. れば我 々は、今度 はイ スラ ム教を 次 の段 階 の世界 国家 の人倫構造 と. どんな宗 教 によ って であ るう と大 ロー マ帝 国 の後 継者 であ る。 とす. 世界空 間 だ った とす れば 、 そ の大 部分 を同 一理念 で統治 す る国家 は、. 我 々は日常 殆 ど気 づ かな いで いるが、年 鑑 な ど で国別 に公用語 を. 味 だ と いわ れ るが、 ま さ にこ の言葉 に従 う ことを誓 った人 々 によ っ て、 この宗 教 は姿 を あら わし た のであ った。. のアラビ ア語 を民衆 の前 で復 唱 し始 め る。 イ スラ ムと は帰 依者 の意. で マホ メ ットを悶絶 せし め るが、 やが て彼 はそ の命 令 に従 って、神. 一〇. し て、注 目 しな ければ な らな いだ ろう。 一体 それはど んな宗 教 な の. 調 べて みると、 アラビ ア語 を それとす る国が ア フリ カと アジ ア で二. か、世界性 の獲得 はど のよう にし て成 された のか、 そ こから我 々 の 考察 は始 めら れな け れば な らな いのであ る。. 十 余 ヵ国 にのぼり、 人 口の大半 が イ スラ ム教徒 であ る国 が 四十 ヶ国. 近 くあ る こと に改 め て驚 くだ ろう。神 の声 を集 大成 した コー ラ ンは、. とが許 されな い。 学術 文献的 な意味 で の翻訳 す ら最 近 ま で認 めら れ. 神 の言葉 が ア ラビ ア語 であ る故 に、経 典 とし て他 国語 に翻 訳す る こ. イ スラム教 は不思議 な宗 教 であ る。 それは 一人 の中 年 の男性 に突. な か った そう であ る。 イ スラム に改宗 し て生 の声 で神 の言葉 を聞 き. 同 イスラム教と世界性 の問題. 然語 り かけ て来 た神 の声 な のであ る。神 はアラビ ア語 で、最初 は き. か つ理解 す る にはア ラビ ア語 に習熟 す る他 はな い。 こう し てま た た. なま. れぎ れ に叫 び た てるような調 子 で語 り かけ た。最後 の審 判 の日は近. 伴 う ことも なく世 界語 にな って い った のであ る。 キリ スト教 が最初. く間 に、紅海東岸域 の 一民族 の言葉が、宗教以外 の文芸文化遺産を. ^ 3). ゲ ヘナ) が待 って い い、悔 い改 め て私 の言葉 に従 わな け れば 地 獄 (. く のは許 しが た い邪教 信 仰 であ り、 す べての偶 像 は破 壊 しなけ れば. 有 力商 人 が多数 の神 像を彫 み^ アラーを最高神 とし て神像 にぬかず. ラブ人 だ けだ からだ と いう のであ る。 そし て神 はさら に、 メ ッカ の. 情 にも か かわらず 、 ユダ ヤ教徒 や キリ スト教徒 は喧嘩ば かり し て い る。 ア ラビ ア語 で語 る のは、今 や神 の意 志 を実 行 でき る のが汝 ら ア. に マリ アを懐胎 せし めた時 は ヘブ ライ語 を使 ったが、 そ の格 別 な恩. に箱舟 を作 れと命 じ、 モー セに十 戒 を授 け、 イ エスを地 上 に贈 る為. 空 間 は殆 ど砂 漠 か乾燥 した高 原 であ り、 そ こ には雪 を いただく遥 か. スが呆れ る程 の穀倉 地 帯 であ った。 二毛作 ど ころ か、酒灘 設備 のよ ( 4) い所 では 三毛作 す ら行 わ れ て いた。 そし て、 この文 明圏 相互 の間 の. ス河、中 間 に メソポ タ ミアがあ って、前 六世紀 の頃 す でに ヘロド ト. 三 つの文 明 が栄 え た場 所 であ る。 西 にナイ ル ・デ ルタ、束 にイ ンダ. も述 べたよう に、 こ の ベルト地帯 は古 代青銅 文 明 の内 、中 国 を除 く. ど のよう な連 関構 造 にな って いた のだ ろう か。 す で に最 初 の論 文 で. たギ リ シ ャ語 に のり かえ た のとは極 め て対 照的 であ った。 では 一体 、 これ ほど速 や か にイ スラム教 が浸透 した旧世界 と は、. の ヘブ ライ語 から、華 麗 な文化遺産 を持 つ世界語 と し て既 に存 在 し. なら ぬと説 く。 なぜ な ら、彼 ら の いう ア ラー の神 と はま さ に この私. な山岳 地帯 から流 れ出 た水 が地 下水 とな って湧 き出 てく るオ アシ ス. { 2). ると告げ 、 そ の男 マホ メ ット に、 皆 にそれを説 いてまわ れ と命 令 す る。神 の言 葉 は ア ラビ ア語 であ った が、神 は こ の言 葉を使 う 理由 も. であ り、従 って商 人 た ちはとん でも な い過誤を犯 し て いる のだ から. が点在 し て いた。人 々は カ レーズあ る いはカナ ー トと呼ば れる地 下. 述 べた。 私 は、 か つて天 と地 を創 造 し、 アダ ムとイヴを造 り、 ノア. と いう。神 の声 は、最初 期 の啓 示 では脈絡 のな い暗号 のような言 葉.

(12) . 宗教的世界国家の問題. ロー マ帝 国 の東漸 を妨げ た パ ルテ ィア帝 国 も、 それを倒 した ササ ン. 抜 け て去 った と思 う と、. 穀倉 地 帯 には新 し い征服 王朝 が出来 て いた。. えたが、早 くも紀前 二千年 の頃 から北 の騎 馬遊牧 民 に襲 わ れ ては亡 ぶ こと のくり かえし であ った。遊 牧 民が嵐 のよう にオ ア シ スを駆 け. そし む暮 しを し て来 た。穀倉地帯 には神 人 君主 の統治 す る王朝 が栄. 水 道 を作 り、 す で に古 い時代 から オ ア シ スを広げ、農耕 と牧畜 に い. は アラ ー神 が叱責 し たような偶 像崇拝 型 のそ れではな か った ろう か。. いた のか、今 では全 く分 からなく な って いるよう であ るが、 恐 ら く. ペ ルシ ャの下層 民 や オ ア シス農 民 が そ の頃 ど んな土俗宗教 を信 じ て. は本質的 に同 じ であ り、 キリ スト教 も マニ教 も結 局 は拒絶 さ れた。. で非 人格的 な神格 を崇 め る宗 教 だ けが、魂 の救済 を求 め る上流 階 級. を崇 め る世界宗 教 は入 り こめな い。ゾ ロア スタ ー教 のよう に抽 象 的. 先 述 し たビザ ンチ ン帝 国 の産業 は、 キリ スト教 の祈 震 用品 以外 は大. 物 や じ ゅう た ん、 ガ ラ ス器 など当時 最 も高 価 な商 品を産 出 し て いた。. し かも ビザ ンチ ン帝 国 と境 を接 し た頃 のササ ン朝 ペルシ ャは、絹 織. トは こ の世 を去 って いた。 し かし彼 に従 って軍 団を作 り、 ユダ ヤ人. さ に片手 に コー ラ ンを持 つ民族 だ った から であ る。 す でに マホメ ッ. 姿 をあ らわした軍勢 は、 し かし これま でと は様 子が違 って いた。 ま. ルシ ャ帝 国 も、 ついに七世紀 を迎 えた。 ま たし ても砂 漠 の彼 方 から. さて、 こう し て古 代神権 王朝 のまま千 三百年 以上 も眠 って いた ペ. に支持 され るにすぎ な か った。千 年後 のササ ン朝 ペルシ ャでも事情. 朝 ペ ルシ ャも、砂 漠 の彼方 から姿 を 現わし てはまず メソポタ ミ アを. 部 分 は ペ ルシ ャのそれを追 いかけた も のであ り、香 辛料 な ど は戦争. を攻撃 し、 返 す力 でカーバ神 殿 の神 像 を 叩 き こわ し て全 ア ラブ 人 に. 占 拠 し次 に エジプ トを ねら い、 又 一転 し てはイ ンダ ス河 を目指 し た。. で交 易 ルートが閉ざ されると、遠 ま わり の紅海 ルート で品薄 にな る. 結集 を呼び かけた イ スラム集 団 は、彼 が 死 ん でも、 そ の矛 を収 め は. 地 も近 いし、青銅 原料 もあ った。金 属 器 の完 全 な普 及 が実 現 す る に. れば 、 どんな産業 が生 れ ても不思議 はな い。冶金 ・採鉱技 術 の発祥. 道院発祥 の地 と いわ れる程 の敬度 な キリ スト教徒 が多 い地 域 でも、. し、東 に向 ってはイ ンダ ス河 に達 し て いた。 エジプ ト のよ う に、修. 陥 し、続 く半 世紀 の間 にサ マルカ ンド から中 国 の西端 カ シ ュガ ルま で、 八世紀 に入 る頃 には実 に北 ア フリ カを 西進 し て スペイ ンを領有. 、 ポ プ トを し な か った 。 わ ず か 十 年 の間 に シ リ ア 、 .メ ソ タ ミ ア エジ. 程 、 ペルシ ャの影響 が大 き か った のであ る。 こう した経済構造 は、 そ の起 源 から いえば古代ギ リ シ ャよ りもさ. は鉄 器時 代 の到 来 を待 たねば なら な か ったが、鉄製 品特 に武 器 に関. 数 世紀後 にはイ スラ ム教徒 が大部 分 を占 め るよう にな って居 た。 ま. ら に古 い時 代 に遡 れ るだ ろう。非農耕 民を養 う に足 る余 剰食糧 があ. し ては、 この地 域 の方 がギ リ シ ャより起源 が古 いこと はまず間違 い. るで砂 漠 に水 が し みこむよう に、 イ スラ ム改宗 が すす んだ のであ る。. イ スラ ム教 と は 一体 どう いう宗 教 な のだ ろう か。我 々が 用意 し た. な い。従 ってダ リウ ス大 王 のアケ メネ ス朝 ペ ルシアが登 場 し た前 六 る下部構 造 も殆 ど完成 し て いた。欠 け て いた のは、統 治 理念 の問題. 宗 教概 念 の図式性 から いえば 、 これ は明 ら か に ユダ ヤ教 と同系 の民. 不思議 と いう他 はな いであ ろう。. だ け で、 そ の欠如 の故 にこ の地域 はまだ青銅 器時 代 の存 在 構造 にと. 族宗教 であ ろう。 マホメ ットを悶絶 さ せた ような神 の叱責 は決 し て. 世紀 には、 オ ア シ スに都市 国家 が す で にあ り、世界 国家 と呼 ぶ に足. ど ま って いるとされた のであ る。 ペ ルシ ャ大 王 は、 そ の身体 に透 明. 個 人 の魂 の救 済 を主旨 とす るも のでなく、 アラブ 人 の既成 の民族宗. ^ 5). な液 体 が流 れ て いる神 人だ と信 じら れ て いる所 では、 それ以外 の神. 一一.

(13) . . 宏. 上 岡. て語 り聞 かせた ユダ ヤ教徒 や キリ スト教徒 の子孫 に、今 度 は アラビ. 多少 関係 があ るとす れば 、 アラー神 が か って モー セやイ エスを通 じ. 解 でき るが、 異民族 を特 に教 化 す る必要 はな か った はず な のであ る。. この偶像破壊の問題に関係づければ、多少は民族宗教 の延長上で理. にアラブ 民族 が商 人 と し て既 に多数 入 り こん で いた と いう事態 を、. 葉 からす れば それほど の必然 性 はな か った。 シリ アや メソポ タ ミア. わ れた はず であ った。 そ の後 の十年 で侵攻 が始 ま った のは、神 の言. にそ の破 壊 が実 施 さ れた以上 は、 民族共 同体 とし て のアラブ 人 は救. アラブ 民族 を最後 の審判 から救 う のが目的 で、 マホメ ット の生存 中. 教を破 壊 せよ と いう も のであ った。従 って初 め の言葉 からす れば 、. 一般 には差 し当 り次 の二 つの いず れ かが考 えら れ ると いう と ころで. 出 て来 てしまう はず な の であ る。 では、論 理的 に い ってど んな可能性 が こ こで考 えら れるだ ろう か。. ア ラブ人 にあ らざ れば 人 にあ らず と いう ことが、 ど うし ても前 面 に. ト のキリ スト教徒 が改宗 し ても、 アラブ 人 の下 でア ラー神 の いわば 「おす そ分 け」 に預 かるだ け にな ってしまう。 民族 宗 教 のまま では、. リ スト教 徒 にも共通 の神 だ と いう点 だけ で、 これ では例 えば エジプ. 民族 を包 み込 む要素 を強 いて探 せば 、 アラー神 は ユダ ヤ教徒 にも キ. う し て世 界性 を持 ち得 た かと いう のが それ であ る。 アラブ 人 以外 の. ブ人 の宗 教 で個 人 の魂 の救済 に関 わ る世界宗 教 でな いとす れば 、 ど. が現 れ て いる こと に我 々は気 づ かされ るだ ろう。 イ スラ ム教 が アラ. 一二. ア語 を通じ て神 の声 を聞 け と迫 っても よ いと いう程度だ った であ ろ. の民族 性 を後退 さ せ る方 向 であ る。 キリ スト教 は こ の仕方 で ユダ ヤ. あ ろう。 一つは アラー神 の教 え は万人 に開 かれ て いると説 いて、 そ. こう した点 から いえば 、彼 ら の侵攻 はな るほど偶 像崇 拝 の民を攻. 0 } つ/. 教 から分離 したが、 イ スラム教 ではどう か。実 は こ の方向 は、 コー. 他方 、 もう 一つの可能 性 と は、遠 大 な話 かも し れ な いが全 て の民. め滅 ぼす と いう大義名 分 もあ ったかも しれな いが、根本 的 には領 土. 族 を何 ら かの仕方 でアラブ化 す る方向 であ る。他 民族 を征 服し た時 、. ラ ンのアラビ ア語 を他 国語 に翻訳 させ る道 に つな が る ので、絶 対 に. った。 そ の上、 両大 国 の戦争 は前 世紀 から間断 な く続 いて いて、 七. 結婚 の相手 を そ の中 から選 んだ ら必ず イ スラ ム に改宗 さ せ る ことを. 的 野心 にあ った と見 てよ いだ ろう。 相手 が 頑強 な らば、無 理 す る必. 世紀 の第 二 ・四半 世紀 には戦力 が大 分低 下 し て いた。 こ のチ ャン ス. 義 務 づけ るならば 、世代 を経 る内 にアラブ人 の血筋 を引 く者 が そ の. 不 可能 な のであ る。 な にし ろ神 は アラビ ア語 で語 る理由 す ら述 べて. を逃 がす手 はな いと いう のが恐らく は動機 だ った であ ろう。事実 エ. 要 も な い程度 の名 分 だ った にちが いな い。 と ころが当時 のシリ アや. ジプ ト侵攻 の時 は、 司令官 はカリ フの許 可が出 な い内 に開戦 に踏 み. 支 配圏 には充 満 す る であ ろう。 この方向 の利点 は、 人種 差別 を 民族. いる のだ から、 万人 に開 く と いう立前 で他言 語 に翻訳 す るな どあ り. 切 った と いわ れ て いる。 軍事的 理由 と領土 的野心 が先 行 し て宗 教 的. 融 合 によ って克 服 し てし まう こと で、些 か強引 だ が、言 語統 一だ っ. エジプ ト は、 ビザ ンチ ンや ロー マの教 会 から異端扱 いされ た キリ ス. 名 分 はあ と から付 け加 えら れたと いう のが実 情 ではな か った ろう か。. て可能 にす る。世 界国家 が最 も望 まし い形 で実 現 す るわ け であ る。. えな いわ け であ る。. と ころで、 イ スラ ム教 の最初 期 の姿 と出 現前後 の社会 構造 を以上. こう見 てく ると、 イ スラ ム教 の世界化 はま さしく後 者 の形 でな さ. ト教徒 が多 く、 ペルシ ャも 一時 ほど ではな いにせよ宗 教 には冷 た か. のよう に整 理 し て みると、 こ こには今 ま で出 会 った こと のな い問題.

(14) . 宗教的世界国家の問題. コー ラ ン のアラビ ア語 が影響 し て いるとは いえ、 公 用語 は国 によ っ. から中央 アジ アを経 て東 に広 が るイ スラ ム世 界 の方 が説 明 できな い。. ブ化 された のではな いかと思 われ る。 ただ し、 こ の方向 だ とイラ ン. 力 で侵 され、改宗 者 が優遇 され る状態 が続 く間 に、 ゆ っくり と アラ. は モ ロッ コま で、 現在 のアラビ ア語 圏 に居 た キリ スト教徒 はまず武. れた のだ と言 え るだ ろう。少 なく とも イ ラ ン ・イラ ク の国境 から西. を支持 し、 アラビ ア語 圏 に吸収 され る ことを拒 否 し た点 であ る。 こ. 少 くとも ペ ルシ ャでは、改宗 し た異民族 た る ペ ルシャ人 が シーア派. の色 合 を強 め て い った と いわ れ て いる。 し かし こ こで注 目 す べき は、. ストを握 った が、同時 に代 々のカリ フは次第 に ペ ルシ ャ伝統 の君主. によ って滅 び る。 以後 ペ ルシ ャ人 は ア ッパー ス朝 政権 下 で重 要 なポ. った時 、 イ スラ ム教徒 の ペ ルシ ャ人 が大挙 し て これ に参加 し た こと. 百年 程続 いた後 で マホメ ット の従 兄弟 の血 を引 く ア ッパー ス朝 が立. そう考 え て みると、 これとよく似 た事 が イ スラ ム世界 にもあ る の. は有 り得 た と思 わ れ るのであ る。. には立 つ。実 際 には彼 ら はそれを しな か った のだ が、可能性 とし て. つな がるわ け ではな いが、相手 の民族 的 閉鎖性 を克 服す る こと の役. こと は免 れた であ ろう。 それは自 分 た ち の宗 派を世界化 す る こと に. 難 し別 派 を立 てて いたとすれば 、少 く ともギ リ シ ャ人 の下風 に立 つ. た ネ ストリ ウ ス派 がギ リ シ ャ正教 の民族性 を偶 像 否定 にから め て非. 聖画像事 件 のよう な場合 であ ろう。例 えば あ の時 、破棄 令 を支持 し. 差別 の解 消 が目的 で、最初 はそれ以上 の狙 いな どな か った はず な の. ャ人 が シー ア派 に加 わ ってウ マイ ヤ朝 打倒 に協 力 し た のは、政 治的. これだ けならば 、 そ の闘争 は ア ラブ 民族宗教内 部 の宗 派対 立 であ っ て、改宗 した ペルシ ャ人 が本来関 知 す ること ではな か った。 ペ ルシ. て のシーア派 は いよ いよ そ の旗 色 を明ら か にした のであ る。 ただし、. の 二代 カリ フが アリ ー の子 フセイ ンを殺 し てから は、 反体 制 派 とし. 奪 した と いう非難 も当然 アラブ 人 の間 から起 った。特 にウ マイ ヤ朝. に替 って遠 い血筋 のウ マイ ヤ朝 が立 った時 、 正統 カリ フの地位 を纂. 真 の指 導者 であ る べきだ と主 張し て いた。従 って暗殺 され た アリー. シーア派 は、周知 のよう に正統 カリ フの四代 目 アリー の血筋 こそ. れ は 一体何 を意味 す る のだ ろう か。. に気 づ くだ ろう。例 の シー ア派 と スン ニ派 の対 立 であ る。前者 は ペ. であ る。. では他 にどんな可能性 が残 って いるだ ろう か。考 えら れ る のは、. て異 な るから であ る。. ルシ ャ人 のイ スラ ム教 とし て有名 だ が、 一体何 があ った のか、 まず. 旨 とした こ の王朝 が、初期 の正統 カリ フの息 子 たちを退 ぞけたり殺. ゆ るウ マイ ヤ朝 が それ であ るが、 せま い意 味 で のア ラブ 民族支 配 を. リ フにな り、 し かも以後世襲制 にな った ことが原 因 であ った。 いわ. 内 か最古参 の仲 間 が選ば れた のに、 五代 目 から は遠 い血筋 の者 が カ. スラ ムを束 ね る為 にカリ フが選出 され た時 、 四代 目 ま では教祖 の身. と いうが、 恐 ら くそれ は ア ッパー ス朝 にな ってから であ ろう。最初 の頃 は、先述 の話 ではな いが、 アラブ 人 にあ らざ れば 人 にあ らず と. って いた。後 にな ってから はゾ ロア スター教 徒 も聖典 の民 に加 えた. し たと言 われ て いる。特 にウ マイ ヤ朝 は苛 烈 で改宗 者 にす ら辛 く当. 応 人 並 の扱 いを した が、 ペ ルシ ャ人 に対 し てはかなり ひど い差別 を. キリ スト教徒 や ユダ ヤ教徒 に対 し ては、 これを聖典 の民 と呼 ん で 一. 周知 のよう にイ スラ ム軍 は、 シリ アや エジ プ トを領土化 した時、. ( 6). そ の辺 から整 理 し て みよう。実 は この対 立 は、 マホ メ ット死後 のイ. した りし た ことが、両派対 立 の源 にな った のであ る。 この王朝 は改 宗 し た異 民族 を本来 のアラブ人 と差別 し て課税 し た為 に反感 を呼び 、. 一三.

(15) . . 宏. 岡 上. いう勢 いだ った に違 いな い。 これ では文化的 先進 性 を誇 って来 た ペ. イ スラ ム教 の普 遍 化 におけ る触 媒 の役割 を 果たし た と いえ る の であ. もな くな って いると思 われ る。 そ の限り では、 シー ア派 は図らず も. て、 イ ラクや ヨルダ ンに いる マホメ ット の血筋 の人 々と は何 の関 係. 一四. ルシ ャ人 が我 慢出来 な く な った とし ても不思議 はな い。改宗 した彼. 我 々は これま で、 か つて の ロー マ帝 国 が持 って いた宗 教 的 世界 国. る。. ら は当 然 そ の出 口を探 し て いた こと であ ろう。 一方 、 ウ マイ ヤ朝末 期 に結集 し た シー ア派 ア ラブ 人 は、打倒 に成 功 し ても彼 ら の念 願 を実 現 す る ことは出 来 な か った。何 故 な ら新 た う な ると シー ア派 は政 治的 には半 永久 的 に少数 野党 た るざ るを えな い。 しかし ペ ルシ ャ人 にし て みれば 、実 現可能性 が な いに ひとし い. 家 の構造 は、 人倫体系 の根 幹 が イ スラ ム教 に代 った た め にむ し ろ存. 回 イ スラム世界 の現代的意味 について. 主張 に与 す る こと は、 アラブ 民族 宗 教 に対抗 し て別 派 を立 てる こと. 続 した と いう ことを、 こ の宗 教 の独特 の世界化方式 の吟味 を 通じ て. な ア ッパー ス朝 も 四代 目 カリ フの血筋 ではな か った から であ る。 こ. に つながりう る。 ア ラブ 人 の シー ア派 が純 粋 に歴史 的経過 の面 から. 検 証 し て来 た。 イ スラ ム教 の世界空 間 は、 ア レキサ ンダ ー のそれを. 神学論議 す ら持 ち込 む余 地を そ の中 に見出 した と考 えら れ る のであ る。 それ はま さ に彼 ら が自 分 た ち のイ スラ ム教 を 入手 す るため の唯. 拡 大 し つ つあ る。政 治 的分裂 はあ る にせよ、宗 教的 には現在 も世界. 以外 の旧世 界 が全 部 入 ってしまう ほど大 きなも ので、 し かも今 な お. 同 心 円的 に拡 大 し てアジ アと ア フリ カま で広げ れば 、 イ ンド と中 国. 正統 カリ フ問題 を論ず る のに対 し て、 これ に加 わ った ペ ルシ ャ人 は. 一の方 法 だ った に違 いな い。. さ て、前節 に述 べた よう な経過 を辿 って着実 に世 界化 を 果 たした. 国家 たりう る資格 を保持 し て いる のであ る。 それ故 、我 々は そ のこ. を学 ん で コー ラ ンの言葉 が 理解 でき れば 、遠 いアラビ ア のことな ど. 、 イ スラ ム世界 は、 八世紀 にウ マイ ヤ朝 を倒 した ア ッパー ス朝 が そ ト ル コ族 に握 ら れたり、エジ プ トや イ ラ ン・ の後 実権 を セ ルジ ュク ・. 民族宗 教 とし て出 現 し たイ スラ ム教 が ど のよう にし て世界性 を獲. 意 識 せず に神 の声 を聞 く ことが出来 る。 そ の心 が け で コー ラ ンを朗. ペルシ ャの大守 が独 立 王朝 を称 した り した為 、次第 に衰 え て行 って. と の持 つ意味 を検 討 し て みる必要 があ る。 いず れ本格 的 に考察 しな. 読 す れば 、 アラー の教 えが 万人 に開 かれ て いること は、 誰 にでも理. 得 し た かと いう問題 は、 以上 によ ってそ の解 答 が得 ら れ た と いえ る. 解 できた はず だ から であ る。 イ スラ ム教 は個人的 な回心 によ って帰. 十 三世紀 に滅 び 、 それ以後 統 一王朝 を持 たなくな った。 ア ッパー ス. け れば な らな いが、 と にかく枠組 みだ け でも、 こ こで素描 し ておき. 依 す るより は、 民族 な いし部族 単位 で入信 す る方 が普 通 の形 の宗教. 朝 を亡 ぼした モ ンゴ ル族 のイ ル ・ハン国 が消滅 し てから は、 イ スラ. だ ろう。 ペルシ ャが そう であ れば、 そ の東 の地 域 が アラビ ア語 圏 に. であ るから、 ど の民族 も アラブ 民族 のことなど意識 せず に、 これを. ム世界 はほ ぼ三 つに分 れ、 イラク から ア フリ カ にかけ て のアラビ ア. た い。今 後 の考察 にも参 考 にな る から であ る。. 自 分 たち のも のにす る ことが出 来 た。 東 アジ ア のイ スラム教徒 は大. 語 圏 は オ ス マ ン ・ト ル コ の支 配 下 に、 イ ラ ン は シ ー ア 派 の サ サ ビ ー. 属 さ ぬ こと に何 の不思議 も な い。 世界中 ど の民族 でも、 ア ラビ ア語. 部分 スン ニ派 であ るが、 そ れは最 早 ほとん ど普 遍宗 教 の意味 であ っ.

(16) . 宗教的世界国家の問題. し てしま った。 それが第 二次 世界 大戦 を契 機 に相次 いで独立 し現在. もな いこと であ ろう。 し かし ながら、近代 に入ると拾頭 し て来 た ヨ ー ロッパ勢力 が こ の支配権 を次第 に奪 回し、 そ の大部分 を植 民地化. ル コがギ リ シ ャを領土化 し、東欧 ま で進出 した のは つけ加 えるま で. が これを支配 し て、 いず れも近代 の入 口ま で続 いた。 オ ス マン ・ト. で全 てがま かな えた から であ る。. ら思 い つかな か った。持 ち前 の商 人感覚 と、 死を も恐 れ ぬ勇敢 さと. 類 と性 能 の限界 は、 イ スラム世界 の生 活 システムをず っと規 定 し て いた。彼 ら は蒸気機関 も鉄道 も紡 績機 も発明 し な か った し、 銃砲 す. ド や中 国 西域 ま で広 が ったようなも ので、 そ こで作 ら れ る道 具 の種. 継 いだ ようなも のであ って、 これ以上変 わりよう もな か った のであ る。端 的 に いえば 、古典古 代 のアテナイが開 いた商業 貿 易圏 が イ ン. 朝 の支配下 に入 り、中央 アジ アから イ ンド にかけ ては ムガ ー ル帝 国. に至 って い る こ と は 、 我 々 が よ く 記 憶 し て い る と こ ろ で あ る 。. 基本 的 には農耕 牧畜 いず れも好条 件 にめぐ ま れて食 糧 には苦労 しな. たが、武 器面 でも戦術 面 でも大 きな展開 は起 らな か った のであ る。. 新 たな展開 はもたら さな か った。相当 に好戦的 な誇 り高 い人 々だ っ. の水 準 にあ った にも か かわらず 、 これら の成 果 は用具連関 の構造 に. 学を保存 し、 イ スラ ム神 学 の研究 に役 立 てて いた。 だが、 それほど. わ れ て し ま った ギ リ シ ャ文 化 、 特 にプ ラ ト ン や ア リ ス ト テ レ ス の哲. そ こから科学 を発 展 さ せた分 野 はも とより、 ヨー ロッパ では殆 ど失. 果 を見 せ始 めた。代 数学 や実 験化学 や薬学 な ど、後 に ヨー ロッパが. この超巨大な世界国家は十世紀頃から学問芸術の上で素晴らしい成. の上 ではどんな変 化 が あ った のだ ろう か。 よく知 ら れ て いるよう に、. みれば分 るよう に、皆 で 一緒 に力 を合 せ てと いう側 面 と同 時 に、個. け であ る。. でイ スラ ムでは喜捨 と いう行 為 が、宗 教的徳 行 の内 に数 えら れ るわ. あ るから、能 力差 や貢献 度 による報 酬 と矛盾 す る こともあ る。 そ こ. 務 があ り、貧者 は受 け取 る権 利 があ ると いう ことが、誰 にも当 然 の ことと考 えら れ て いる。 ただ、 こうし た平等 は 一種 の均等 配 分 でも. も のと いう精神 が行 き渡 って おり、富 め る者 は貧者 に分 ち与 え る義. 上 下 や貧富 の差 があ るが、 この原則があ る ので全 て のも のは万人 の. らも同 格だ と いう建前 から成 って いる。 も ちろん世俗的 には身 分 の. ラー の神 の前 では帰依 した人 々全 てが平等 で、預言者 マホ メ ットす. の点 を考 え て みよう。 よく言 われ るよう に、 イ スラム共同 体 は、 ア. では、彼 ら の人倫 の構 造 はどうな って いる のだ ろう か。 最後 にそ. いから、彼 ら は商 業価 値 の高 い品物 の生産 と売 買 で充 分 に潤 って い た。交 通手段 も生産様 式 も本質的 にはそ のまま であ るから時 間 はゆ. 人 の自 由 な判断 や行動 を制限 す ると いう面も当然伴 って いる。実 際、. と ころ で、 こう し た イ スラ ム圏 は千 三百年も の長 い間、用 具連 関. っく り流 れ ており、慌 ただ しくなる のは戦争 の時 ぐら いだ ったわけ. 断食 と か日 に五回 の礼 拝 など は、社 会全体 が それ に合致 し て動 く シ. な いと いう ことを何度 も述 べて来 たが、既 に用具連 関 が完結 し て い. ま で の 一連 の論 文 で、 現実 世界 の構造 は 一度完 結 す ると殆 ど変 わら. し かしながら、 これ は少 しも不思議 な こと ではな い。我 々は これ. ラ ンに基 づ く法体系 で定 められ ており、人 々は勝手 に物 事 の善 悪を. それを容 易 に見聞 でき るだ ろう。 この社会 では、大抵 のこと は コー. 日 でも それ ほど変 って いな い。海外旅 行 が盛 んな最近 では、 誰 も が. ステ ムでな け れば 不可能 であ る。 こう したイ スラ ム独特 の社 会 は今. し かしな がら こう した共 同体 は、村 共同体 や部族 共同体 を考 え て. であ る。. たビザ ンチ ン ・ロー マ帝 国 から、 イ スラム帝 国 は宗 教 以外全 部受 け. 一五.

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