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談話室-香川大学学術情報リポジトリ

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169 談 話 室

「大学」VS.「Universitat」

Voth,Heinz Matthias

日独辞典を引いて「大学」という語を調 べると,「Universitat」という語を見出すこ とができる。確かに,これらの教育機関を 表現する「大学」と「Univer’Sit5t」の二つ の語に共通することは,学校で−・般的な知 識を得た若者に,職業生活への前段階とし て広い教養を与えることである。この‘点か ら,「大学」の「Universitat」への翻訳が正 しいかのような印象を与える。しかし,小 規模の「大学」の教養課程にいる学生が, 辞典の「Universitat_,という語の意味に対 して疑問を抱くことになる。もっとも,教 養の内容及び水準に対して疑いをはさむつ もりは毛頭ない。「Universit凱」には,本来 教養部は存在しないものである。このよう に,「大学」と「Universitat」の二語ほ,そ の意味内容に一・致する点がある反面,異な る点もあり,それが様々の誤解を生むこと になる。西ドイツと日本の教育制度の内容 及び機能にほ,様々の相違点があるため, 西ドイツの教育制度につき概説する。しか し,既に,「西ドイツの教育制度」を概説す る,と表現すること自体が,私を窮地に追 い込むことになる。すなわち,西ドイツは, 10州から成る連邦共和国であるため,教育 政策は,一国としてではなく,各州の権限 事項として行われる。もっとも,教育に閑 する大枠は,文部大臣会議(Kulturminster− konferenz)において決定される。このよう な各州の独自の教育政策につき,社会民主 党が与党であるハンブルグ州とキリスト教 社会同盟が与党であるバイエルン州の相違 点を挙げて説明することにする。 以下,ハンブルグ州の教育庁の資料(図 1)を用いて説明する。(以下,学年次は基 礎学校の第1学年から通算した学年で表示 する。)通常,子供が10歳で4年間の基礎 学校(Grundschule)を卒業する時点で,両 親ほ,4つの−・般学校模型の中から,その 子に適した学校を選択しなければならな い。すなわち,6年間の「基幹学校」(Haupt・ SChule)もしくは「実科学校」(Realschule), 9年間の「ギムナジウム」(Gymnasium)又 ほ,これら3つを統合した「統合学校」 (Gesamtschule)の中から選択するのであ る。「ギムナジウム」又は「統合学校」の上 級段階として第11学年ないし第13学年を 修了して卒業した場合,生徒は大学入学資 格(Abitur,Hochschulreife)を取得する ことができる。基幹学校及び実科学校を卒 業した場合には,それぞれ基幹学校修了資 格(Hauptschulabschlu6)又は中等教育修 了資格を取得することになる。1968年に西 ドイツでは,試験恐怖症に悩む生徒及び晩

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Voth,HeinzMatthias 170 学校制度 要とする職業に就こうとする老は,統合学 校又はギムナジウムを卒業するであろう。 ドイツでは,日本と異なり,伝統的に手工 業者の社会的地位が比較的高く評価されて い忌:)従って,子供に何が何でもギムナジ ウム及び大学を卒業させようとする「野望」 を抱く両親の数はそう多くない,と言えよ う。 以下の統計は,1986年における各州での 異なる学校類型に通学する第8学軌こ在学 生徒の割合を示すものである。 図2 この表から明らかなように,社会民主党 を与党とするベルリン,ブレーメン及び/\ ソブルグの州と同格の諸都市,そして最近 まで社会民主党を与党としていたヘッセソ 州でのギムナジウムと統合学校に通学する 生徒の割合の高さが目立づ≡) ドイツ連邦共和国全体では,生徒の3分 の2強が第10学年を修了後,企業内教育 (LehTe)を始める。職業訓練の大半が「ドゥ アル・システム(DualesSystem,ニ元体 系)」に依っている。すなわち,これは現場 における実地訓練及び国立職業学校におけ る理論的教育から成る制度である。企業内 訓練は,伝統的に「従弟」制度と言われ, その期間は職業によって異なり,通常2年 から3年半かかる。職業訓練の修了試験は 経済界の自治機関(商工会議所一 Handelskammer−,手工業会議所− Handwerkskammer−)により課される。 公認訓練職業として,ほほ450の職種が 存在する。現実には,若者の男子の60%, そして女子の50%がこれらの公認訓練職 業の中から20の人気職業を選ぶという傾 向がある。(図4参照) 修了試験に合格した野心のある若者に 企業内教育、職業 学校、専門学校 基 礎 学 校 4年間 (図1) 成型の生徒にチャンスを与えるために,入 学試験が廃止された。その結果,基礎学校 修了後の進路を両親だけが決定するかのよ うな印象を与え.るが,実際には,これら4 類巨型 の学校 にお け る 指針段階 (Beobachtungsstufe又はOrientierungs・ Stufe)としての第5・6学年において,子 供の才能を勘案し,子供,両親及び教師に より熟慮され,進路が決定されるのである。 例えば,手に職をつけたい者は,ギムナジ ウムで時間を浪費するよりも基幹学校か実 科学校を卒業するであろう。これに対して, 抽象的な問題を楽しみ,大学卒業資格を必

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談 話 室 171 州 基礎学校 実科学校 ギムナジウム 統合学校 そ の他 バーデソ=ウユ ルチンペィノレク 393% 31。6% 269% 11% 11% バ イ エ ル ン 431% 31−3% 250% 04% 02% ベ ル リ ー ン 166% 21一9% 326% 287% 02% ブ レ ー メ ン 281% 333% 290% 90% 06% ハ ン ブ ル グ 200% 25−8% 344% 185% 13% ヘ ッ セ ソ 240% 291% 317% 152% ニーダーザクセン 374% 348% 249% 26% 0。4% ノルトライソ=ウェ ストファーレン′ 398% 254% 291% 53% 甘4% ラインライト=

プフ ァル ツ 47小5%

230% 28小0% 14% 0小1% ザ ー ル ラ イ ト 45.5% 242% 26一6% 31% 0小6% シュレースゲイヒ= ホルシュタイソ 376% 355% 253% 10% 05% ドイ ツ連邦

共和国平均 380%

292% 276% 47% 05% (図2) 年),496%(1986年)がこの職業課程を 選択したという事実に職業教育課笹が魅力 的であることが反映されている。 ギムナジウムで教育を受ける決心をした 生徒ほ,第10学年修了までかなりの数の必 修科目を勉強しなくてはならない。しかし, 外国語科目の場合,いろんな外国語の中か ら選択することが可能である。ほとんどの は,種々の補習教育機関及び専門学校が存 在する。これらの学校卒業後,例えば,親 方(マイスタ、−)検定審査合格証もしくは 技師の資格,または大学入学資格を得るこ とができる。80年代の半ばに,大学を卒業 した人に出世の見込みがあるとは限らない ことが判って,ギムナジウムを卒業して大 学入学資格を得た若者のはば45%(1985 月 火 水 木 金 土 ラ テ ン語 ドイ ツ語 地 理 音 楽 体 育 ハソブルグ 英 語 英 語 ラ テ ン語 ド イ ツ語 体 で は 歴 史 ラ テ ン語 ドイ ツ語 ラ テ ン語 英 休校日 数 学 数 学 歴 史 生 物 学 地 理 ド イ ツ語 美 術 数 学 英 語 生 物 学 水 泳 美 術 音 楽 数 学 (図3)

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Voth,HeinzMatthias 172 ることができる。最近では,日本語を習う こともできる。しかし,第5学年に英語の 代わりにラテン語かフランス語を選択した 場合,第7学年から第2外国語として英語 を履修しなければならず,第9学年から第 3外国語を選択しなければならない。上述 図3に7年生の時間割を例示した。 生徒は第5学年から英語を履修するととも に,第7学年から第2外国語を選択しなく てはならない。大半はフランス語かラテン ■こ 語を選択するが,学校によって,ロシア語 やスペイン語を選択することもできる。第 9学年から第3外国語としてイタリア語, ギリシャ語又はアラビア語などから選択す 最も多い訓練職業 職 業 名 職 業 名 % 1店員 2 美容師 3 食料品加工店販売店員 4 事務員 5 医師助手 6 工場事務員 7 小売店店員 8 歯科医助手 9 銀行員 10 卸商・貿易事務 11事務助手 12 税務・経済コンサルダント助手 13 弁護士・公証人助手 14 手工業における事務員 15 家政 16 弁雷士助手 17 薬局助手 18 管理事務職員 19 製図 20 フロリスト 1自動華整備エ 2 電気エ 3 機械エ 4 大工 5 左官 6 塗装・漆エ 7 ガス・水道エ 8 卸売・貿易事務 9 製パン 10 工具制作 11エ貞 12 銀行員 13 工場機械エ 14 会社事務員 15 肉屋 16 セントラル・ヒ−ティソク及び空調工 17 コ ック 18 農業 19 小売商事務員 20 販売員 2 6 4 2 9 5 2 2 1 2 8 8 0 7 7 7 5 3 3 2 0 9 6 6 5 5 4 4 4 3 2 2 2 1 1 1 1 1 1 1 1 4 6 4 1 7 4 2 7 3 1 1 1 1 1 9 7 7 7 6 5 8 5 4 4 3 3 3 2 2 2 2 2 2 2 1 1 1 1 1 1 合 計 77 5 合 計 58 7 全訓練職業 1000 全訓練職業 100 O 「トイノの実情・ベルテンスマン出版グループ,ギュークースロ㌧−・1984年」による。 (図4) 1授業時間ほ45分であり,一週の29授 業時間ほ,トイブ語,英語,ラテン語,数 学が4時間ずつ,体育・水泳が3時間,歴 史,美術,地理,生物学,音楽が2時間ず つ,からなる。第10学年修了後,生徒は多 数の選択科目の中から自分の時間割表を編 成しなくてはならない。第12学生の場合, 例えば,フランス語,ドイツ語は5時間ず

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つ,歴史,社会科,地質学,数学,化学ほ 3時間ずつ,及び体育2時間等,合わせて 一週33時間、毛ある。選択科目は,外国語以 外,生物学,物理,情報科学,音楽,地理 及び宗教学などである。この生徒がドイツ 語及びフランス語の5、時間講座を選択して いるのは,精神科学に興味を抱いているか らである。これに対して,自然科学に興味 を抱いている生徒の場合,例えば,前例と は逆に,数学や化学などの5時間講座を選 択し,ドイツ語とフラソス語の3時間講座 を選択するであろう。 上述の西ドイツの教育事情から,日本の 小規模の大学とドイツの「UniversitAt」の 教育制度の中の機能の差異が明らかにな る。つまり西ドイyの「Universitat」は, いろいろな種類の職業教育機関としくの制 度的役割を担っている。若者が大学の教育 を選択した時点で,目標とした職業に必要 な知識を習得しようと思っている。日本の 大学と違って,例えば,法学部の学生の目 標ほ,検事,裁判官又は弁護士などとして 活躍することである。 在学期間は普通ほ4年が最短であるが, ほとんどの学生が5年間在学する。もっと 長い期間も,専門によっては珍しくない。 このような長い在学期間の理由としては, 例えば,転学部や留学あるいは他の大学へ 転学することなどがある。ドイツには私立 大学はない。しかも,大学間にはランク付 けほないが,それぞれの大学に特に有名な 学部があったり−・定の分野で有名な教授が いたりするので,例えば,法学部生がハン ブルグ大学で国際法を勉強して,法哲学の 勉強を深めるためにハイデルベルグ大学へ 転学し,その後さらにミュソへソ大学で有 名な教授の憲法についての講義を履修し 話 室 173 て,ハンブルグ大学へ帰って卒業するとい うようなことがある。学生が大学へ入学す

る平均年齢は,男子では21感:’女子では

19歳であり,その時点ですでに自分の進路 を決定しており,大人として,大学教育は もはや親の莫任としてではなく,本人自ら 責任を負うもの,と考えられている。従っ て,学生は自らの烹任において,学部によ って定められた必修科目の履修後,専門に 関する様々なゼミナールや講義などから選 択履修して,専門分野を決定することがで きる。他方,情緒不安定な性格で自信の無 い学生ほ,方向が定まらなくなるという危 険性も存在する。 大学での勉強の財政的実情は日本と異な る。学費を納める必要はないが,学期の始 めにほぼ80マルク(約5,600円)の登録費 を支払わなければならない。その他の費用 として毎月およそ70マルク(約4,900円) の健康保険料が必要である。西ドイツの青 年ほ,18歳で成年になることから,大学が 父母の家と同じ都市にあっても,両親から 独立して生活するという傾向がある。この 希望を適えるためには,毎月およそ800マ ルク(約56,000円)の生活費を・調達しなけ ればならない。しかしながら,この「自由 の代償」(PreisderFreiheit)が通常は両親 の負担になるということほ当然である。両 親の所得に応じた国家による奨学金の無利 子貸付制度がある。この奨学金ほ毎学期の 学業成績の結果によっては,その支給が取 り消されることもある。 英語の「SChool」又はドイ ツ語の 「Schule」という語の由来はギリシャ語の 「∑ズ0入軌(スホレー)である。これのもと もとの意味ほ「暇,余暇」であり,時代の 流れとともに「利潤追求のためでなく勉強

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高 木 文 夫 174 (2)前述した指針段階修了後,進路が確定 したと言えるのは第8年である。 (3)これらの州の生徒が特別賢く,かつ教 師が平均以上に熱心だという推論は正確 でないということほないが,他の解釈も 成り立ち得る。つまり,社会民主党ほイ デオロギー上の理由で統合学校制度を特 に促進したとも言われているのである。 これらの州でのギムナジウムの生徒の占 める割合が,他の州に比し,高いことに ついては,野党の言によれば,社会民主 党がその政権担当の効用を広く一・般大衆 に誇示するために教育水準を下げた,と されている。すなわち,それ以前にはギ ムナジウムむこ進学できなかった層を取り 込むために入学者数を増加させて,それ を可能にしたと,考えられているのであ る。 (4)西トイツの男子にほ18革から一般兵 役義務が存在する。 や討論のために使う時間」又は「勉強や討 論が行われる場所」という意味に変わって きたのである。こういう暇潰しを上流階級 だけが楽しめたのは当然であるが,現代の 日本と西ドイツの学生は,いかなる大きな 特権を持っているのかを自覚しているので あろうか。すなわち,語の本来の意味に立 ち返れば,飲み込んだ知識を消化するため に必要なのは,「暇」なのである。大学を合 理化して在学期間を短縮するよう努力す る,政党や文部省において文教政策に従事 する老こそが少しギリシャ語を学ぶ時間を 都合すべきなのでほなかろうか。 (注) (1)それは,神聖ローマ帝国の時代に,商 人と職人の自治による皇帝の直轄都市が 存在したことに由来するものである。

集中授業を担当して

高 木 文 夫 今年度前期にドイノ語教室でほ授業改革 の一つとして,再履修学生用の授業,いわ ゆるZクラスの一つを夏期休暇中に「集中 形式」で行うことにした。それを筆者が担 当することになったので,その結果と将来 の見込みとを感想をまじえて,ここに記し てみたいと思う。 まず,授業のデータを述べよう。「集中授 業」に当てた科目は「ドイツ語IZa」である。 この科目は二年生以上で,前年以前の同じ 「ドイツ語Ia(初級文法前半)」を受講と 試験の結果不合格だったものや受講が最後 まで続かないで,脱落した結果単位未習得 のものが受ける授業である。対象学部は全 学,すなわち教育・法・経済・農の四学部 全部の二年生以上が履修にやって来る。今 回実際に授業をしたのは夏期休暇もおわり ごろの8月29日から9月5日までの一週 間余りであるが,この時期の設定に際し, 考慮したのは,休みの最初には四国地区の インカレがあることから,まず休みの終わ りにした。ついで,夏休み最後の週は専門 学部で集中講義や実習があるので,時期を 少し早めた。ただし,山般教育でほ体育突

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談 技のやはり集中授業があるが,それには他 の時期にも開講されているものもあるの で,考慮しなかった。結果として,体育実 で、 技や専門科目の都合で受講できなかった学 生もいる−もちろん,この実態は完全に 捕捉できないが,個人的に筆者のところへ 釆た学生の話から,多少のことは推測でき る。ただ,さまざまな理由−一般教育主 体の下級生とは違って,専門課程に進んだ 学生たちの事情は彼らそれぞれに実に多様 である−で,「ドイツ語IZa」の集中授業 を受講できない学生のためには同じ「ドイ ツ語IZa」が定時にも開かれているので,ほ ぼ問題はない。また,この授業の受講申し 込み,および手続きほすでに5月初めに締 め切ったが,この時点で受講頑望老は57名 であった。Lかし,実際に授業に出て釆た のは全員ではなく,39名が授業期間全体を 通して出席した。「幽霊学生」がいるのはよ くあることだが,その理由としては,定時 の授業と掛け持ちして,そちらの方をメイ ン丹こして,こちらを「保険」にしたり,ま た「夏休みにはやっばりいやだ」とか「バ イトに忙しくて」など別の理由から,授業 には顔を出さなかったものと思われる。た だ,−・回出席した学生ほ,−㌧人の脱落者を 除いて,全員ほほ出席した。 授業ほ次表のような時間割りで行った。 この時間割りはプリントにして,−一回目の 授業で配付した。 話 室 175 月 火 水 木 金 月 ▽ ▽ ▽ ▼ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▼ ▽ ▽ ▽ ▽ 〔Ⅰ・n・ⅠⅠⅠは校時を表す〕 全授業時間数は試験を入れて30時間に なるようにしてある。小テスト(▽)ほ毎 日必ず前日に習ったことが身についたかを 確認するために行い,9月1日㈹の第】・校 時にはそれまでの全体について中間試験を 行った。小テストおよび中間試験は教科書 で学習したことを直接的に問うものだった が,9月5日囲)の最終試験はそれまでに授 業で出て釆たさまざまなドイツ語の表現を 使って,文法的な正確さも追求して,日本 文をドイツ語で表現してみるというものに した。このような試験はドイツ語の総合的 な学力を調べるのに適していると考えてい る。学生にはこのような試験を最後にする ことほ知らせてあるので,少なくとも9月 3,4日に準備可能であるはずだった。ま たこの授業の評価については,これらの試 験(小テストを含む)すべてを合算して, さらに宿題の提出状況を加味して行った が,それは授業中に学生に周知してあった。 時間割りを組む際に最も考慮したのほ.一 日に100分授業を三回(いわゆる三コマ) を割り当てるので,学生にとって過重な負 担にならないようにするということであ る。授業の時間割りは上記のような枠組み であるが,実際にほ定時の授業でほ必ず始 業と終業の時刻が気になるものだが,受講 学生ほともかく午後2時40分まではこの 授業に出ることを余儀なくされているの 記号のそれぞれの意味は, ▽⇒ 通常授業 ▽・▼ ⇒ 試験 である。

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高 木 文 夫 ればならないことだった。しかし,これほ 逆の言い方もできる。すなわち,この期問 は他の雑事を放って,授業のことだけに掛 かっていればいいのであり,それに徹すれ ばこそ,毎日,第四校時をその日の試験の 採点(翌日に必ず返した)と翌日の試験問 題の作成とその他授業の準備に専心するこ とができた。 この種の授業ではふつう一号期間かけて 授業する内容を短期間に済ませることが必 須だが,その為には教材の内容が問題とな る。定時のドイツ語初級の授業はどのよう に進められているだろうか。初級文法の場 合,ふつう 176 で,校時の切れ目は考える必要はなく,学 生の疲労状況を見て,適宜休憩を取ること ができたぜ従って,一・日のおよその割り振 りを,まず前日の授業で習ったことを確か める小テスト,最低30分はかかる。そこで 一・旦軽く休憩し,気分転換をする。成績評 価にかかる小テストでひとまず目を覚まし てもらって,次に本格的にその日の授業に 取り掛かるというわけである。それを10時 少し前から11時半ころまで。冷房がきいた 外国語自習室が使用数重なので,LLの機 械を使って,ヒアリソグや発音練習も間に 挟む。コンソール台にいれば,どの学生が 練習を一生懸命し,どの学生がさばってい るかは−L目でわかり,さらに座るブースが 指定されて,氏名がすべて確認されている ので,学生のほうは気が抜けない。(ちなみ に期間中冷房がきき過ぎた日もあって,う っかり寝ていたら,風邪を引いてしまいそ うなこともあった。)文法の練習が終わると 後ほ時間が来るまでビデオにより,ドイツ の事情について勉強する。ビデオはNHK で放送した「報道特集」で西ドイツと日本 を比較したものを用いたが,気分転換にな ったのか,少し目先が変わったのか,学生 には好評だった。機械的にドイツ語を詰め 込むよりは,このような言葉の文化的背景 について学生に視覚的に見せることで,学 生のドイツ語の学習意欲をそそることは 色々と報賃されている。ビデオせ見終わる と一時間近く昼休みをとって,午後はまた 教科書や録音テープを使った学習を時間の 終わりまでする。こんな感じの毎日が続い て最終試験の日でようやく学生も教師もこ の授業から解放される。 この授業で大変なのほ学生も教師もー・定 期間だけドイノ語の授業に「集中」しなけ 文法事項を説明する ム 」 練習問題をやらせる 正解かどうか確認する という順番で進む。①から(診までを一・回に やるか,<のところで切って,ニ回に分け てやるか,教師により,色々であろう。も し予習を課すのであれば,後老のように二 回に分けるはうが効果的と言える。問題は 予習にどれくらいの時間がかかるかという ことである。定時の場合什・週間という期間 が長すぎることを除けば,予習のための時 間はあるだろうし,他の科目の授業とのや りくりをすれば,そのための時間はとれる だろう(もっとも学生ほかなりの強制力が ないかぎり,ごく一部の例外を除いて自分 からほやろうとしない)。単語数が多くて, 辞書を引くだけでもかなりの時間がかかる のほこのような「集中授業」には適しない。 従って,単語数ほ限定することがまず肝要

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談 である。そして文法事項の並べ方に飛躍が ないこと,語彙の展開に無理がないこと ‥「集中授業」に適した教材を選ぶには 定時以上に気を配らねばならない。そのよ うな条件に適していると判断できた教科書 を実際に使ったのだが,授業を終えてみる とこれは「集中授業」だから特に気をつけ たが,元々定時の授業にも当てはまること ではなかったかと考えるようになった。と いうのは通常のいわゆる「文法の教科書」 には文法事項に合っていさえすればよしと するような例文が,他の例文との関わりな しに,しかも暗記して役に立つようなこと が将来のドイツ語学習に.あるかどうか疑わ しいものがまま見られるからである。「文法 の授業」と言えども,実際のドイツ語の世 界にほありえないような例文を押しもっけら れては学習者はたまったものではない。単 語数が限られていて,しかもそれが文法事 項の進展にともない少しずつ形を変えなが ら登場し,しかも表現に無理がなければ, 学習者にとってこんなに楽なことはない。 ひとつひとつ確実にステップを踏めほ,確 実に上の段階に上がれるからである。教材 や授業の進め方がこのようなものであれ は,「集中形式」でもドイツ語の初級文法の 授業が可能である。 授業の最後に学生に感想を記述式で書か せた。学生の感想は中には教師に媚を売る ような調子のものも少なくないのが通例だ が,それでも傾聴すべき意見も中にはある。 学生の感想ほ概ね「集中授業」に肯定的で, この形式を継続することを希望するものが 大半であった。その理由としては,「他の授 業と重ならなくて良かった」,「毎日試験が あったほうが授業に行く気になってよい」, 「尭童期間で単位が出るのがよい」,「この科 話 室 177 目だけを集中的に勉強するので頭に入りや すい」,「前の授業の内容を忘れることが少 ない」,「キャンパスの都合で普通の授業は とりにくい」…1などがあった。 従来より外国語の習得は−・定期間集中的 に行うと効果が上がると言われている。現 行のカリキュラムのように,100分授業を 週二回で済ませること,しかもそのこ回も それぞれ別個に行われていることには批判 が弓削、。しかし,その改善は,特に非常勤 講師の都合などから,遅々として進まない。 それでも,「集中授業」の経験から初級文法 の場合でも,通常の「定時」の授業で現行 の枠内でささやかな改善もできるのではと 思えることもあった。たとえば,週二回の 授業の相互の関連を強めることはもちろ ん,遇∵・回でもその授業の間隔の間にでき るだけ自習一課題を与えてでも−させ るような体制を整えること,自習の内容も ひたすら悪戦苦闘して予習させるのではな く,次につながる復習などをさせること, 小テストの繰り返し,定期試験だけでなく, 授業全体で成績の評価をすることなどであ る。これらはすでに一・部のドイツ語教師の 間では行われていることなので,いまさら 特記することもはばかられるがあえてここ に記したい。さらに,このように.定時の授 業を進めて,内容を豊富にしていくと,「集 中形式」でできることとの対比が明らかに なり,ドイツ語の初級の場合学生のそれま での学習畳が圧倒的に少ないために,「集中 形式」の乱用は危険なものとなるだろう。 筆名ほ今度のケー・スほ現段階ではあくまで も「再履修クラス」に行うものとして考え ている。そうでない場合には一層の検討が 必要であろう。

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山 田 178

合宿共同授業で考えたこと

山 田

えよう。この5日間に行われた講義の内容 であるが,大別すれば, ① 我国で比較的情報の少ない異文化圏 の実相に関わるもの ② 国際化現象を「理解」という観点か ら捉えなおし異質なものに対する洞察 のすべを論じたもの ③ 我々に身近な,学術分野における交 流協力に見受けられる問題点 等が取り上げられた。「国際化」という従来 の学問の狭い枠では律しきれぬ複合的テー・ マに.対して,些末な事実の羅列で対処しよ うとしても,かえって事の本質を見きわめ 難くするものであるが,そういった意味か らもテーマ②に関する講義が幾つか設定さ れたのは大変葡効であったといえよう。聴 講生の反応ほ圧倒的にテーマ①に属する−・ 連の講義に対して好意的であったようでほ あるが。 この講習会でほ講師も他の先生方の講義 に参加する習わしであると申し渡され,我 が身を省みて気分が重かったがそれでも幾 つか聴講させて戴いた。講義でほ世界各地, 殊に我々にとって日頃ともすれは情報の少 ない地域であるアジアの,そしてアフリカ からの人々の息吹きが感じられる内容の報 告がなされた。一血コマだけの短い講義時間 なので各講師ともその構成にはいたく心を 配られた様であるが,日頃筆者が関わって いる分野と異なる地点での人々の営為に新 中国・四国地区共同合宿授業に参加した 関係で編集子よりこの行事のあり方につい ての感想を求められた。今後同セミナーの 運営を円滑に行う上での提言をして欲しい との事だったように思う。ペレストロイカ とは,筆者の専攻するロシア語で,各種の 改革を意味するが,最近では現ソヴィェト 政権もこれが一・筋縄ではゆかぬことを悟り 始めたやに聞くが如く,すでに運用されて いる合理的であるとされるシステムをドラ スティ ックに改めるなどということは気の 重くなる仕事である。あまり不都合が生じ さえしなけれほ目をつぶりたいのが人情と いうものであろう。共同合宿授業が曲がり なりにも無事に終了した今,この事で何か を申し述べるとすれば,この際,セミナー で筆者どもに課せられた課題がその道営方 法との関わりで,どれほど学生諸君に理解 されたかを些かでも検証しておくことほそ れなりの意味があろう。 本年度のセミナ㍉・−−・での連続講義のメイン テーマは「国際社会一過去・現在・未来 −」であった。聞くところによれば,こ の1・2年,このテーマが定着していると いう。我国が急激な経済成長を遂げて,海 外との関係が−・層緊密になるに従い相手国 との各種の摩擦が深刻化してきており,教 育の場でも帰国子女の教育など実態の様相 が複雑化してきたこうした問題に対処でき る体制が求められるまでになった現れと苫

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鮮さを覚え,異文化に関する視点が実に多 様にあることを実感せざるをえないセミナ ーであった○夢蘭の方々のご苦労も大変な ものであったと思うが,聴講生は本年度の セミナーをどの様に受けとめたであろう か。 ある学生は「自分の体験から国内にいて も地方対地方という異文化経験を言葉や習 慣に関して味わった」と述懐し,またある 学生は「今や日本人,外国人という区別が 意味を持つ時代ではなく,我々は寛大な心 で世界に目を向けなければならない状況に あると認識するまでになった」と述べてい る。前者の如き心情はこの「合宿」を相互 理解の−いつのモデルと捉える多くの学生に 共通したアナロジーとなっていたように思 うが,民族性の違いを認識の対象にカーえて 「他老」なるものの理解を深めることが求 められた本セミナーの主旨からすれば,問 題の所在の整理をもう一度踏み込んで,し っかりしておくことが肝要であろうか。こ の辺りに「共鳴しあえる部分を共鳴させる ことは難しいことではない。異質のものへ の拘りこそが理解の第一・歩となろう」と鳥 取大の北村氏をして慨嘆させた原因がある のかも知れぬと思ったことである。またこ の短時間に「仏のみ心」まで悟ってしまっ た君には,後はひたすらその実践に精進す るよう期待したいものである。とかく我々 日本島民は,国際社会で生ずることを他人 と他人との関わりという観点から捉え直 し,正しい価値判断ができる知識と経験が ありさえすればその場で生ずる事態に全う に対処できる筈であるといった楽観的な態 度に陥りがちである。、、外国人から日本語の 「文法上の性」について質問されて返答が できなかった′′ り,あまつさえ、、漢字につ 話 室 179 いて誤った知識を教えて,その人からたい へん憤慨され′′た経験をお持ちの方には, お気持ちをお察し申し上げるより方法がな いのである。 隣のことが気になって仕方のない我々の 悲しいさがを今更云々されても,そう一・朝 一夕に改める術も持たない訳だが,参加者 の中に「外国で日本人は日本人同士で固ま る傾向があるがこの合宿でも見事にそうし た傾向がでていた。」と椰検出来るまでに学 習成果を披露する老もあった反面,「この合 宿であまり先生や他校の学生と交流ができ ず残念だった。相互理解という意味では我 国も自分のことを知らせる努力が必要だと 感じたし,我々ももっと日本について知る 必要があると思う。」と正しい視点に立ちつ つも,その反面合宿交流を国際化概念に結 びつけてしまう短絡的思考も見受けられ問 題の板の深さを目の当たりにした次第であ る。「外国人とお互いに理解し合うことも, 自国の人々と理解し合うということも,結 局は同じではないか」と自分に言い聞かせ てみてもそれは異文化間題からの逃避に過 ぎず,事態は一向に解決しないのである。 本来,人は皆個性を持つ存在なのであって, ここは問題の本質をそうした個体差に輝小 化してよいものかどうか,もうそろそろこ の種の、、うかつさ′′を返上してもよい頃だ と思うのだが。尤も,このように申したか らといって,暑い盛りに参加を申し出た異 文化受容に熱意ある受講生を責めることに 繋げるつもりはなく,寧ろこの辺りにこの テー・マに対するセミナー・運営上の限界のよ うなものを感じている次第である。本年度 の中国・四国地区国立大学−般教育研究会 では「国際化の意識は学生の間でも年々高 まっており,彼らは外国でのホームステイ

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勇 ラブの使徒」たりえた。今日決して経済的 に豊かではない東欧諸国で開催される文化 セミナーはこうした先人達の迫訓に従った 文化に対する地道で偉大な投資であると言 えよう。 異文化の交流は本来摩擦から始まること を率直に認め,その前提に立って,むしろ 日頃から自国の文化の紹介に対する労を厭 わぬ姿勢は欧州の,それも小国の人達に求 められる切実な生活の知恵なのである。其 の国際化とは人が人に対して心を開ききる ことだとするなら,日本人ほ.とかく以心伝 心という考え方に傾き易いので,異質な文 化的背景を待った人達に接すると問題の所 在を確認するだけで手間取ってしまう。目 下,何にも増して心のペレストロイカを求 められているソ連の人達の様に。 今回セミナーに参加した若者は幸いにも そうした問題の原点に触れたのだから,持 ち前の思考の柔軟さを発揮して欲しいもの である。 我々が他老との意志疎通をはかる場合, 有力な手段は言葉であり,相手が外国人な ら双方が理解できる媒介言語が必要とな る。外国語教育の目的の一つはこの情報伝 達の媒介手段としての言語運用能力を高め ることにある。ところで最近,米国で学ぶ 我国の若者の中に現地での生活に挫折して 心身ともに疲れはてている者が急増してい るとの報告をよく耳にする。アメリカで学 ぶことを決意した位だから,人種差別や彼 らのyeS,nOをはっきりさせる気質などは 覚悟の上であろう。してみると,これは彼 らが母国で言葉の問題をどの様に考えてい たかを物語っているとは言えないだろう か。ある程度の水準を維持していないこと には相手の事を考える余裕も生まれないで 山 田 180 や会話中心の語学を希望する割にほ,自ら 外国の事をそれほど知ろうとはせず,日本 にいる外国A留学生との交流も避けがちで ある」という事が話し合われたとのことで ある。(一・般教育研究No.34)学生の現状が然 りであるとするなら,まだ救いがあるとい うものであろう。その意気込みを・買わぬ手 はない。 元釆,本セミナーは日頃個々の大学では 聴講できない,−・般教育ならでほの時代の 波を鋭敏に反映した,狭い専門性を越えた 学問の復権を求めるテー・マを軸にカリキュ ラムが編成されてきたように承知してい る。そのような意味合いで計画される本セ ミナーで,「国際化」というテーマを掲げる のに,参加者が日本人講師や学生だけとい うのも如何なものであろうか。もし各大学 が受け入れている留学生が僅かながらも, 何らかの形でセミナーに参加していたら, またそうした、、講師′′が助言を与えれば講 義の後で持たれた討論会の活性化がおおい に計れたように思う。それが取るに足らぬ 程の交流であったとしても,各種の情報交 換によって,例えばドイツに留学された教 官の何やら難しかった、、西欧の硬質な個人 主義に依存しない現在の日本の経済的発展 は西欧型産業社会とは異なるイデーのもと に成し遂げられた′′ なる指摘の真意に万分 の一・たりとも迫れた様に思われるのであ る。 小生は講義でギリシャ正教の宣教師キリ ルとメトディーの事績の,我々が置かれた 立場から眺めた今日的意義を考えてみた。 彼らほその語学力もさることながら,当時 のヨーロッパの政治情勢を正しく把握した 複眼的思考に袈打ちされた強かさでスラブ の人心を掴み,彼らの文化を掘り起こし「ス

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話 室 あろう。世間の人は語学の先生ではない。 どの世界でも同じであるが,学校というと ころほモラトリ才ムを許してくれる環鄭こ ある。ロシアの作家よろしく、、私の大学は 浮世だ′′ と決め込むならそれなりの覚悟が いる。米国では移民を受け入れるだけのコ ンセンサスはあるが,それがための条件も 又厳しい。移住してきたばかりの学生が, 『自分の英語がお国の母語靴でつらい』と 移住先の大学のクラスでこばすはどだ。こ こには異国の市民権に侯って母語を厭わな ければならぬ悲鳴が響く。国際化とは大変 手間のかかる知的作業であるらしい。セミ ナーに参加したある学生は「今回の講義で 相手の立場を考え理解しようとす努力する 181 と共に積極的に自己表現もしながら,人間 としてのつきあいをすることが国際社会に おいて相互層解を深めるのに必要だと感じ た。考えてみればこれは日常生活における 人づきあいにも通ずるはずだ」と講義を振 り返ったが,これを全うに実現する作業は, 我々にとってことはど左様に容易ではな い。その先々に経験を群まねばならない事 柄が多々現れよう。 異質な文化の共存を認めた上での共同社 会の成立。 セミナーを振り返って何と骨の折れる宿 題を戴いたことかというのが偽らざる実感 である。

参照

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