一 、 は じ め に 人 口 減 少 に 伴 う 少 子 高 齢 化 、 東 京 一 極 集 中 及 び 大 規 模 小 売 業 の 地 方 進 出 の 加 速 化 な ど に よ る 地 域 経 済 の 低 迷 は 、 地 域 の 国 民 生 活 に 疲 弊 感 を も た ら し て い る と い わ れ て 久 し い 。 政 府 は 、 平 成 二 六 年 ( 二 〇 一 四 ) 九 月 よ り 「 地 方 創 生 」 を 掲 げ 、 地 域 活 性 化 の た め 、 あ ら ゆ る 分 野 、 多 方 面 に わ た る 施 策 を 展 開 さ せ て い る 。 こ の よ う な な か で 、 平 成 三 〇 年 ( 二 〇 一 八 ) は 、 明 治 元 年 ( 一 八 六 八 ) か ら 起 算 し て 一 五 〇 年 が 経 過 し た 節 目 の 年 で あ る と し て 、「 明 治 以 降 の 歩 み を 次 世 代 に 遺 す こ と や 、 明 治 の 精 神 に 学 び 、 日 本 の 強 み を 再 認 識 す る こ と 」 を 目 的 に 、 内 閣 官 房 に 「 明 治 一 五 〇 年 関 連 施 策 推 進 室 」 が 設 置 さ れ 、 倒 幕 に 貢 献 し た 地 域 ( 1 ) を は じ め 、 全 国 各 地 で 明 治 一 五 〇 年 関 連 イ ベ ン ト が 多 く 企 画 ( 2 ) ・ 運 営 さ れ た ( 3 ) 。 イ ベ ン ト は 「 明 治 一 五 〇 年 」「 明 治 維 新 一 五 〇 周 年 」「 幕 末 維 新 一 五 〇 周 年 」「 幕 末 明 治 一 五 〇 年 」 な ど の 見 出 し が 多 く 使 わ れ た 。 一 方 、 東 北 地 方 の 自 治 体 で は 「 戊 辰 戦 争 一 五 〇 周 年 」 と い う 見 出 し が 多 く 、 内 閣 官 房 の 明 治 一 五 〇 年 関 連 に 登 録 し な い イ ベ ン ト が 多 く 存 在 し た 。 特 に 佐 幕 の 立 場 に 立 た さ れ た 会 津 藩 の 会 津 若 松 市 で は 「 戊 辰 一 五 〇 周 年 記 念 事 業 」 が 展 開 さ れ 、 イ ベ ン ト の 見 出 し や シ ン ボ ル マ ー ク に も 「 戊 辰 一 五 〇 周 年 」 を 使 用 し 、「 明 治 一 五 〇 年 ( 4 ) 」 と い う 見 出 し は 一 切 使 わ れ な か っ た 。 同 年 一 〇 月 二 七 日 に は 「 戊 辰 一 五 〇 周 年 ・ 会 津 若 松 市 民 憲 章 制 定 五 〇 周 年 記 念 式 典 」 が 催 さ れ た ( 5 ) 。 式 典 の な か で は 、 戊 辰 戦 争 を 偲 ぶ 小 松 獅 子 保 存 会 に よ る 彼 岸 獅 子 ( 6 ) が 舞 わ れ 、 ま た 、「 若 松 第 一 幼 稚 園 」 の 園 児 に よ る 「 白 虎 隊 剣 舞 」 と 「 娘 じ ょ う し 子 隊 剣 舞 」 が 披 露 さ れ た ( 7 ) 。 一 五 〇 年 前 に 故 郷 で 起 こ っ た 戊 辰 戦 争 の 出 来 事 を 想 起 す る 剣 舞 ( 8 ) を 五 歳 前 後 の 園 児 が 見 事 に 演 じ た 。 幼 児 教 育 に 故 郷 の 歴 史 が 色 濃 く 反 映 さ れ て お り 、 若 松 幼 稚 園 の 教 育 の 姿 勢 が 現 れ て い た 一 面 で あ っ た 。 若 松 幼 稚 園 は 、 会 津 若 松 市 内 に 第 一 幼 稚 園 、 第 二 幼 稚 園 、 第 三 幼 稚 園 が あ り 、 現 在 、 そ れ ぞ れ が 「 認 定 こ ど も 園 ( 9 ) 」 と し て そ の 役 割 を 担 っ て い る 。 若 松 幼 稚 園 ( 現 若 松 第 一 幼 稚 園 ) の 創 設 は 、 明 治 二 六 年 ( 一 八 九 三 ) 四 月 で あ り 、明 治 二 七 年 ( 一 八 九 四 ) に 第 一 分 園 ( 現 若 松 第 二 幼 稚 園 ) が 開 園 、 明 治 三 八 年 ( 一 九 〇 五 ) に 第 二 分 園 ( 現
幼児教育・女子教育の先駆者海老名リンの生涯
―若松幼稚園の創設からみる地域文化―
遠
藤
由紀子
若 松 第 三 幼 稚 園 ) が 開 園 し て い る 。 明 治 三 八 年 ( 一 九 〇 五 ) の 日 本 全 体 の 幼 稚 園 数 を 調 べ る と 、 三 一 三 園 ( 国 公 立 一 八 一 、 私 立 一 三 二 ) が 開 園 し て い た が ( 前 村 二 〇 一 二 : 三 二 頁 )、 当 時 の 福 島 県 内 に は 六 園 の 幼 稚 園 の み の 開 園 と な っ て い る 。 そ の う ち 、 会 津 地 方 が 五 園 ( 他 に 坂 下 幼 稚 園 )(1 ( 、 喜 多 方 幼 稚 園 )(( ( ) を 占 め 、幼 児 教 育 の 先 駆 的 な 地 域 で あ っ た こ と が 分 か る 。 な ぜ 、 会 津 地 方 で は 幼 稚 園 の 創 設 が 早 か っ た の だ ろ う か 。 二 、 海 老 名 リ ン に 関 す る こ れ ま で の 研 究 若 松 幼 稚 園 を 創 設 し た の は 、 海 老 名 リ ン ( 生 没 一 八 四 八 ~ 一 九 〇 九 年 ) で あ る ( 写 真 1 )。 リ ン に つ い て は 、 一 九 七 〇 年 代 ま で は 自 治 体 史 ( 地 方 史 )(1 ( ) の 一 部 に 会 津 地 方 の 教 育 者 と し て 簡 単 に 生 涯 が 紹 介 さ れ て い た の み で あ っ た 。 そ れ が 、 昭 和 五 五 年 ( 一 九 八 〇 ) に 放 送 さ れ た N H K の 大 河 ド ラ マ 『 獅 子 の 時 代 )(1 ( 』 の 放 送 を き っ か け に 、 リ ン に つ い て 書 か れ る 書 籍 が 急 激 に 増 え る 。 例 え ば 、 小 林 喜 成 )(1 ( 、 小 島 一 男 )(1 ( 、 川 島 信 夫 )(1 ( 、 加 藤 光 子 )(1 ( 、 玉 川 芳 男 )(1 ( な ど が 筆 を 執 っ た が 、 こ れ ら は 主 に 経 歴 を な ぞ る 伝 記 で あ っ た 。 昭 和 五 六 年 ( 一 九 八 一 ) に は 児 童 向 け の 書 籍 に も 紹 介 さ れ た )(1 ( 。 リ ン の 功 績 を 分 析 し た 研 究 論 文 は 数 少 な い な か 、 武 田 房 子 )11 ( は リ ン の 姿 勢 を 「 横 井 小 楠 を 中 心 と し た 豪 農 民 権 の 流 れ を く む 徳 富 一 族 の 女 た ち 」( 武 田 一 九 七 七 : 九 頁 ) と 比 較 し 、「 ( リ ン は ) 当 時 の 女 や 子 供 の 地 位 の 低 さ を 理 性 で 受 け 止 め る 余 裕 が あ っ た 。」 ( 武 田 一 九 七 七 : 九 頁 ) と 考 察 し 、 中 村 と し )1( ( は 、 矯 風 会 と リ ン の 思 想 を 比 較 し 、 矯 風 会 の 世 界 観 が リ ン に 育 た な か っ た と 分 析 し 、「 旧 会 津 藩 の 枠 か ら 一 歩 も 出 ら れ な か っ た 。」 ( 中 村 一 九 八 二 : 四 七 頁 ) と 結 論 づ け た 。 そ の 後 、 一 九 九 〇 年 代 に な る に つ れ 、 リ ン に 関 す る 研 究 や 書 籍 の 刊 行 は 落 ち 着 き を み せ た )11 ( 。 そ の よ う な な か 、 玉 川 芳 男 が 平 成 一 二 年 ( 二 〇 〇 〇 ) に 『 海 老 名 季 昌 ・ リ ン の 日 誌 』( 歴 史 春 秋 社 ) を 刊 行 し た 。 リ ン の 夫 季 すえ 昌 まさ ( 生 没 一 八 四 三 ~ 一 九 一 四 年 ) は 、 出 生 か ら 会 津 戦 争 で 家 老 を 務 め る ま で の 体 験 記 録 を 日 誌 と し て 残 し て お り 、 そ れ を 『 海 老 名 季 昌 の 日 誌 』( 松 尾 直 氏 所 蔵 ) と し 、 全 文 が 翻 刻 さ れ た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 八 ~ 八 一 頁 )。 ま た 、 リ ン は 、 自 叙 伝 日 誌 と 幼 稚 園 及 び 女 学 校 開 設 の 経 緯 を 書 い た 日 誌 を 三 冊 残 し て い る 。 表 紙 に は 『 明 治 三 三 年 旧 八 月 二 一 日 昔 の 事 種 々 思 い 出 し こ れ ま で な が ら え て こ そ は 神 の 恵 の 大 な る 事 と も 知 る 事 ど も よ り 古 き 昔 の 事 そ の あ ら ま し 』( 以 降 、『 リ ン 写真1:リンの肖像『若松幼稚園 創立百周年記念誌』19 頁より転用
の 日 誌 A 』) と 表 記 す る )、 『 明 治 二 六 年 四 月 四 日 幼 稚 園 開 時 よ り の あ ら ま し の 日 誌 』( 以 降 、『 リ ン の 日 誌 B 』 と 表 記 す る )、 『 明 治 二 六 年 七 月 一 二 日 女 学 校 創 立 際 よ り の 日 誌 あ ら ま し 』( 以 降 、『 リ ン の 日 誌 C 』 と 表 記 す る )( 若 松 幼 稚 園 所 蔵 ) と あ り 、 こ れ ら も 全 文 が 翻 刻 さ れ た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 四 六 ~ 一 八 六 頁 )。 玉 川 が 翻 刻 に 二 〇 年 を 費 や し た 労 作 で あ る 。 こ れ ま で リ ン の 伝 記 は 多 く 書 か れ て い る が 、 ど れ も 読 み 物 に 留 ま る こ と が 多 か っ た )11 ( 。 ま た 、 夫 季 昌 の 生 涯 を も 併 記 し た 研 究 は 玉 川 の 研 究 以 外 は な か っ た 。 本 論 文 で は 、 玉 川 が 翻 刻 し た 『 海 老 名 季 昌 の 日 誌 』、 『 リ ン の 日 誌 A 』、 『 リ ン の 日 誌 B 』、 『 リ ン の 日 誌 C 』 を 改 め て 見 直 し 、 リ ン 及 び 季 昌 の 履 歴 や 考 え を 整 理 ・ 精 査 し 、 会 津 地 方 の 近 代 以 降 )11 ( の 人 材 育 成 の 基 礎 を 形 成 す る 幼 児 教 育 に つ い て 、 特 に 海 老 名 リ ン が 若 松 幼 稚 園 を 創 設 に 至 っ た 経 緯 を 考 察 し 、 そ れ に 伴 う 女 子 教 育 、 そ し て 現 在 の 地 域 文 化 へ の 影 響 ま た は 貢 献 を 明 ら か に す る こ と を 目 的 と す る 。 三 、 幼 児 教 育 施 設 の 萌 芽 ド イ ツ の 教 育 学 者 フ レ ー ベ ル ( Friedrich Froebel 、 生 没 一 七 八 二 ~ 一 八 五 二 年 ) は 、 一 八 三 七 年 に 北 ハ ル ツ に あ る ブ ラ ン ケ ン ブ ル ク に 就 学 前 の 幼 児 教 育 施 設 と し て Kindergarten ( 子 ど も の 庭 ) を 創 設 し た 。 す で に イ ギ リ ス で は Infant school が 創 設 さ れ て い た が 、 こ れ は 働 く 母 親 の た め の 託 児 施 設 で 、現 在 の 保 育 園 の 源 流 に あ た る 。 Kindergarten は 、 八 年 後 に 資 金 不 足 や 政 府 の 無 理 解 に よ っ て 存 在 が 否 定 さ れ る が 、 フ レ ー ベ ル 主 義 の 教 育 方 式 は イ ギ リ ス 、 オ ラ ン ダ 、 ア メ リ カ で 導 入 さ れ 、 母 国 以 上 に さ か ん に な り 、 成 功 を 収 め て い っ た ( 東 京 都 公 文 書 館 編 一 九 六 六 : 一 頁 )。 日 本 で は 、 明 治 八 年 ( 一 八 七 五 ) に 近 藤 真 琴 )11 ( が 著 し た 『 子 育 の 巻 』 に 「 キ ン ダ ー ガ ル テ ン 」 や 「 イ ン フ ァ ン ト ス ク ー ル 」 が 紹 介 さ れ た 。 海 軍 軍 人 の 近 藤 は 、 明 治 六 大 教 育 家 の 一 人 で あ る 。 明 治 九 年 ( 一 八 九 六 ) に は 、 日 本 最 初 の 幼 稚 園 と し て 東 京 女 子 師 範 学 校 附 属 幼 稚 園 ( 現 お 茶 の 水 女 子 大 学 附 属 幼 稚 園 ) が 創 設 さ れ た 。 明 治 一 二 年 ( 一 八 九 九 ) に 教 育 令 が 制 定 さ れ 、 幼 稚 園 が 文 部 卿 の 監 督 下 に 入 る と 、 翌 年 、 東 京 の 櫻 井 女 学 校 )11 ( を 創 設 し た 櫻 井 ち か ( 智 嘉 )11 ( ) に よ り 私 立 幼 稚 園 が 創 設 さ れ た 。 会 津 地 方 が あ る 福 島 県 で は 、 県 内 初 の 幼 稚 園 と し て 、 明 治 一 八 年 ( 一 八 八 五 ) に 公 立 の 福 島 町 立 福 島 幼 稚 園 が 創 設 さ れ た 。 幼 児 の 初 め て の 体 験 や 健 や か な 成 長 を 促 す 場 所 と し て 、 個 々 の 子 ど も の 家 庭 と 共 に 幼 稚 園 が 含 ま れ る よ う に な っ た の も 近 代 の ひ と つ の 象 徴 で あ る 。 会 津 地 方 に 初 め て の 幼 稚 園 と し て 若 松 幼 稚 園 を 創 設 し た の は 、 海 老 名 リ ン で あ る が 、 リ ン の 同 世 代 の 会 津 の 女 性 )11 ( に は 、 山 川 二 葉 ( 生 没 一 八 四 四 ~ 一 九 〇 九 年 、 東 京 女 子 師 範 学 校 教 諭 ・ 舎 監 )、 新 島 八 重 ( 生 没 一 八 四 五 ~ 一 九 三 二 年 、 同 志 社 を 創 立 し た 新 島 襄 の 妻 、 自 身 も 同 志 社 女 学 校 で 教 鞭 を と る )が お り 、い ず れ も 女 子 教 育 に 携 わ っ て い る 。 リ ン は 、 慶 応 元 年 ( 一 八 六 五 ) に 会 津 藩 士 海 老 名 季 昌 と 結
婚 し 、 夫 や 家 に 従 順 な 半 生 を 生 き て い た 。 先 に 述 べ た よ う に 、 若 松 幼 稚 園 の 開 園 ( 甲 賀 町 、 現 会 津 若 松 市 相 生 町 ) は 、 明 治 二 六 年 ( 一 八 九 三 ) 四 月 の こ と で 、 園 児 八 名 か ら 始 ま り 、 五 月 に 一 五 名 、 六 月 に 二 二 名 と 増 え 、 つ い に は 四 二 名 ま で に な っ た ( 若 松 幼 稚 園 編 一 九 九 三 : 一 五 七 頁 )。 同 年 四 月 八 日 発 行 の 『 女 学 雑 誌 )11 ( 』( 三 四 一 号 ) を み る と 、 若 松 幼 稚 園 が 「 予 かね て よ り 計 画 な り し 該 園 は 、 い よ い よ 本 月 四 日 よ り 開 業 し 、 園 児 も 相 応 の 申 込 あ り 、 地 方 の 評 判 よ ろ し き 様 に 見 受 け ら れ る 。 束 そくしゅう 脩 ( 入 学 金 ) 三 〇 銭 月 謝 二 〇 銭 に し て 、 其 休 日 夏 期 に 少 く し て 、 冬 期 に 多 き は 、 地 方 の 情 態 を 斟 しんし ゃ く 酌 し た る も の と 知 ら る る 。」 と 、 会 津 の 冬 事 情 と 併 せ て 紹 介 さ れ て お り 、 注 目 さ れ て い た こ と が 分 か る 。 翌 年 に は 、 第 一 分 園 ( 現 若 松 第 二 幼 稚 園 ) が 開 園 し た )11 ( 。 明 治 二 八 年 ( 一 八 九 五 ) 当 時 の 保 育 内 容 は 「 説 話 、 行 儀 、 手 技 、 唱 歌 、 遊 戯 」 で あ り 、 保 育 の 流 れ は 、 登 園 、 挨 拶 、 整 列 、 遊 戯 室 ( 唱 歌 ) で あ っ た ( 前 村 二 〇 一 二 : 五 二 頁 )。 リ ン は 週 二 、三 回 の 指 導 を し 、 自 ら 教 材 研 究 に 取 り 組 ん で い た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 八 三 頁 )。 ( 写 真 2 ) 特 に 、 若 松 幼 稚 園 で 実 践 さ れ た 幼 児 教 育 は 、 フ レ ー ベ ル 主 義 の 「 恩 物 」 中 心 で あ っ た 。「 神 よ り の 真 に 尊 く あ り が た き 賜 物 」 と い う 意 味 が 込 め ら れ た 「 恩 物 」 と は 、 教 育 遊 具 の こ と を 指 す 。 幼 児 の 創 造 衝 動 や 創 造 力 を 伸 ば し 、 そ の 完 全 な 発 達 を 助 け る 理 想 的 な 遊 具 と さ れ た 。「 恩 物 」 に は 、 青 ・ 緑 ・ 黄 ・ 橙 ・ 紅 ・ 紫 の 六 色 の 球 や 毬 、 立 方 体 や 直 方 体 の 積 み 木 、 木 の 棒 、 豆 や 小 石 の 粒 な ど の 十 種 類 と 、 穴 あ け 、 砂 、 粘 土 な ど の 手 技 十 種 類 の 計 二 十 種 類 が あ っ た ( 関 編 一 八 九 九 )。 一 地 方 の 幼 稚 園 な が ら 、 当 時 最 先 端 の 幼 児 教 育 )1( ( が 取 り 入 れ ら れ て い た 。 こ の よ う な 若 松 幼 稚 園 の 創 設 に 至 る ま で の リ ン 及 び 夫 季 昌 の 履 歴 を 次 に 整 理 し て み る 。 写真2:リンが作成した教材の一例(若松幼稚園所蔵) ① ② ③ ④
四 、 海 老 名 リ ン と 夫 季 昌 の 幕 末 期 慶 応 二 年 ( 一 八 六 六 )、 フ ラ ン ス よ り 参 加 推 薦 さ れ た パ リ 万 国 博 覧 会 ( 一 八 六 七 年 開 催 ) へ の 主 席 全 権 大 使 に 、 一 五 代 将 軍 徳 川 慶 喜 の 名 代 と し て 徳 川 昭 武 )11 ( が 任 命 さ れ 、 二 四 名 が 随 行 し て い る 。 杉 浦 譲 ( 幕 僚 )、 高 松 凌 雲 ( 医 師 )、 渋 沢 栄 一 ( 実 業 家 ) な ど が 名 を 連 ね た 一 行 で あ っ た が 、 留 学 生 と し て 会 津 藩 士 が 二 名 参 加 し 、 そ の 一 人 が 海 老 名 季 昌 で あ っ た 。 リ ン の 夫 は 、 非 凡 な 青 年 時 代 を 送 っ て い る 。 幕 末 期 の 記 録 は 『 海 老 名 季 昌 の 日 誌 』 に 多 く の 出 来 事 ・ 事 件 が 記 さ れ て い る の で 、 主 に 季 昌 の 履 歴 を 整 理 し な が ら 、 リ ン と 関 連 付 け て 辿 っ て い く 。 リ ン は 、 嘉 永 二 年 ( 一 八 四 九 )、 会 津 藩 士 日 向 新 介 、 ま つ の 次 女 と し て 生 ま れ た 。『 リ ン の 日 誌 A 』 に よ る と 、 生 家 は 小 田 垣 )11 ( で 、 幼 名 は モ ト と い い 、兄 弟 は 数 人 い た ら し い が 、成 長 し た の は 三 人 で あ っ た 。六 歳 よ り 、父 に つ い て 習 字 や 和 歌 を 習 い 、一 二 歳 か ら 一 五 歳 ま で 、 近 所 の 神 尾 鉄 之 直 の 母 ふ さ 子 に 裁 縫 を 教 わ っ た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 四 六 頁 )。 季 昌 は 、 天 保 一 四 年 ( 一 八 四 三 ) に 会 津 藩 士 海 老 名 季 すえ 久 ひさ の 長 子 と し て 天 寧 寺 町 に 生 ま れ た 。当 時 の 海 老 名 家 は 相 州 警 備 担 当 で あ っ た 。 藩 の 決 ま り で 常 詰 で な い 者 に は 郭 内 に 士 家 を 与 え ら れ な か っ た の で 、 出 生 地 は 郭 外 で あ っ た が 、 翌 年 、 父 季 久 が 御 目 付 役 と な り 、 郭 内 の 米 代 四 ノ 丁 に あ る 屋 敷 )11 ( を 拝 領 し た 。『 海 老 名 季 昌 の 日 誌 』 に は 、 五 歳 の 時 「 初 め て 真 向 か い の 山 本 様 に お 頼 み く だ さ れ 、 学 問 を 始 め ま し た 。」 ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 八 頁 ) と あ る 。 こ れ は 、 砲 術 師 範 の 山 本 覚 馬 )11 ( の こ と で 、 季 昌 よ り 一 五 歳 年 上 の 覚 馬 が 江 戸 に 出 て 佐 久 間 象 山 の 塾 に 入 る 前 年 の 出 来 事 で あ っ た 。 季 昌 は 、 褒 め ら れ る の が 嬉 し く 学 問 に 励 ん だ 。 が 、 あ る 日 、 儒 教 の 経 書 で あ る 『 孝 経 』 を 開 い た と こ ろ 、 気 を 失 っ て 倒 れ た ら し く 、「 学 問 は い や だ と 思 い ま し た 」( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 八 頁 ) と い う 逸 話 が 残 る 。 嘉 永 四 年 ( 一 八 五 一 )、 父 季 久 が 江 戸 湾 警 備 の た め 、 藩 よ り 上 総 国 ( 現 千 葉 県 ) 富 津 の 軍 事 奉 行 添 役 を 命 じ ら れ 、 一 家 も 転 居 し た 。 季 昌 は 富 津 に あ る 日 新 館 分 校 に 入 学 、 種 子 島 流 の 砲 術 の 門 に も 入 っ た 。 翌 年 、 松 平 容 かた 保 もり が 会 津 藩 主 に 就 任 し 、 房 総 警 備 を 巡 視 し た 際 に は 、 台 場 で 砲 術 を 披 露 し 、 御 酒 を 頂 載 し て い る 。 ペ リ ー 来 航 の 際 に は 、 緋 の 陣 羽 織 を そ ろ え て 本 陣 に 詰 め た 。 少 し 体 の 弱 か っ た 季 昌 で あ る が 、 書 学 、 刀 術 、 馬 術 、 弓 術 に 励 み 、 免 許 皆 伝 と な る ま で 鍛 錬 し た 少 年 時 代 を 送 っ た こ と が 『 海 老 名 季 昌 の 日 誌 』 に は 詳 細 に 記 録 さ れ て い る ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 八 ~ 一 二 頁 )。 会 津 藩 は 、蝦 夷 地 に 所 領 を 与 え ら れ て い た )11 ( 。 万 延 元 年 ( 一 八 六 〇 ) 二 月 、 父 季 久 は 、 蝦 夷 地 の 所 領 に て 、 常 詰 の 御 軍 事 奉 行 を 命 じ ら れ た 。 同 年 一 一 月 に 季 昌 も 大 砲 打 手 と し て 警 備 の 本 拠 地 で あ る 箱 館 郊 外 の 戸 へ 切 きり 地 ち ( 渡 島 半 島 の 南 端 、 現 北 海 道 北 斗 市 ) に 移 り 住 ん だ 。 文 久 二 年 ( 一 八 六 二 ) に は 、 北 蝦 夷 地 ( 樺 太 ) の 警 備 並 び に 探 査 の 命 令 を 藩 よ り 受 け 、 父 と 樺 太 ま で の 探 査 旅 行 を 決 行 し た 。『 海 老 名 季 昌 の 日 誌 』 に は 同 年 四 月 か ら 九 月 ま で の 探 査 の 旅 程 が 詳 細 に 残 っ て
い る ( 行 程 は 、 戸 切 地 か ら 白 しら 老 おい 、 石 いし 狩 かり 、 海 路 で 留 る 萌 もい 、 手 て 塩 しお 、 宗 そう 谷 や に 寄 港 し な が ら 、 樺 太 に 渡 っ た 。 途 中 、 大 嵐 や 白 夜 を 体 験 し た り 、 麻 疹 に 罹 っ た り 、 ロ シ ア 人 に も 遭 遇 し た )。 そ の 後 、 父 は 標 し べ つ 津 陣 屋 の 建 設 に 関 す る 不 祥 事 の 責 任 を と り 退 任 と な っ た 。季 昌 は 家 督 を 継 ぎ 、 一 時 会 津 に 戻 っ た が 、 元 治 元 年 ( 一 八 六 四 ) 六 月 、 京 都 勤 番 を 命 じ ら れ る ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 二 ~ 二 二 頁 )。 ( 参 考 と し て 、 地 図 1 を 付 記 す る ) そ の 直 後 、 禁 門 の 変 が 勃 発 し 、 季 昌 は 大 砲 打 手 を 命 じ ら れ た 。『 海 老 名 季 昌 の 日 誌 』 に は 「 銃 業 は ほ ぼ や っ た こ と が あ る が 、 武 士 の 業 で は な い 。」 と 役 を 辞 し た と あ る 。 し か し 、 す ぐ に 銃 で な け れ ば 負 け る と 思 い 、借 り に い く と 「 頑 固 で 役 を 辞 め た の に 、ど う 思 う の か 。」 と い わ れ 「 何 と も 思 っ て い な い 。 業 は お そ ら く は 下 劣 で す 。 今 は 機 に 臨 ん で 銃 を 用 い よ う と し て い る だ け で す 。」 と 答 え て い る 。( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 二 二 ~ 二 七 頁 )。 李 昌 の 臨 機 応 変 に 行 動 し た 姿 が 読 み 取 れ る 。 一 方 、『 リ ン の 日 誌 A 』 に よ る と 、 リ ン は 一 二 歳 の と き 、 植 田 家 に 気 に 入 ら れ 、 九 歳 年 上 の 会 津 藩 士 植 田 啓 助 と 婚 約 を 交 わ し て い た 。 二 年 後 、 啓 助 が 亡 く な り 、 弟 の 啓 次 郎 に 据 え 直 し と な る が 、 結 局 一 五 歳 で 日 向 家 に 帰 っ て き た 。リ ン を 嫁 に 欲 し い と い う 家 は 多 く 、 す ぐ に 加 藤 辰 之 助 よ り 縁 談 の 申 し 込 み が あ り 、 同 じ く 海 老 名 家 よ り も 申 し 込 み が あ っ た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 四 六 頁 )。 日 向 家 で ど の よ う な 話 し 合 い が あ っ た か 知 る 由 も な い が 、 慶 応 元 (参考)地図1(『海老名李昌、リンの日記』18 頁より転用)
年 ( 一 八 六 五 ) 一 〇 月 、 リ ン は 海 老 名 家 に 嫁 ぐ こ と に な っ た 。 リ ン は 一 六 歳 、 季 昌 は 二 二 歳 で あ っ た 。 翌 年 七 月 、 季 昌 は 京 都 常 詰 大 砲 組 組 頭 を 命 じ ら れ た 。 リ ン は 会 津 で 留 守 を 預 か る こ と に な っ た が 、 前 述 し た よ う に 、 季 昌 に は パ リ 万 国 博 覧 会 へ の 随 行 員 と し て 、 会 津 藩 士 横 山 主 ち か ら 税 と 共 に 欧 州 へ の 渡 航 の 命 が 下 っ た 。 季 昌 の 身 分 は 留 学 生 で 、『 海 老 名 季 昌 の 日 誌 』 に 見 聞 記 が 残 っ て い る ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 二 七 ~ 七 二 頁 )。 玉 川 は 見 聞 記 を 「 フ ラ ン ス 遊 学 旅 行 」「 万 国 博 覧 会 の 見 聞 」「 フ ラ ン ス の 形 勢 」「 フ ラ ン ス 見 聞 」 「 各 国 巡 歴 」「 帰 国 」 に 分 け て 翻 刻 し て い る よ う に 、 欧 州 ま で の 各 国 の 様 子 や 欧 州 の 社 会 情 勢 や 習 慣 な ど 、季 昌 は 詳 細 に 書 き 残 し て い る 。 一 行 は 、 慶 応 二 年 ( 一 八 六 六 ) 一 二 月 、 フ ラ ン ス 客 船 ア ル フ ェ ー 号 に 乗 船 し 横 浜 を 出 港 し 、 上 海 、 香 港 、 サ イ ゴ ン ( ホ ー チ ミ ン )、 シ ン ガ ポ ー ル 、 セ イ ロ ン に 寄 港 し な が ら ス エ ズ に 到 着 し 、 蒸 気 車 に 乗 り 換 え 、 ト ル コ ( オ ス マ ン 帝 国 )、 カ イ ロ 、 ア レ ク サ ン ド リ ア を 経 て 、 再 び 船 に 乗 り マ ル セ イ ユ に 着 き 、 こ こ か ら 馬 車 で リ ヨ ン を 経 て 、 よ う や く 六 十 日 間 の 行 程 で パ リ に 到 着 し て い る 。 香 港 で は ガ ス 灯 や 五 階 建 の 建 物 に 驚 き 、サ イ ゴ ン で は 芭 蕉 の 実 ( バ ナ ナ ) を 食 し 、 炎 暑 の セ イ ロ ン で 氷 を 食 べ た り し た 。 カ イ ロ で は 三 千 年 前 の 宝 物 を 見 物 し 、 マ ル セ イ ユ で は 多 く の 軍 艦 、 八 階 建 て の 建 物 に 驚 い た と あ る 。 現 地 の 外 国 人 に と っ て も 季 昌 た ち は 珍 し か っ た よ う で 、 和 服 を 着 て 歩 け ば 、人 垣 で 進 む こ と が で き な い 時 も あ っ た 程 と 記 し て い る 。 パ リ で は 、 樺 太 の 日 露 国 境 談 判 の た め 派 遣 さ れ た 外 国 奉 行 小 出 秀 実 に 随 行 し て い た 会 津 藩 士 山 川 大 蔵 ( の ち 浩 )、 田 中 茂 手 木 に 対 面 し て い る 。そ の 後 、万 国 博 覧 会 を 見 聞 し 、五 か 月 間 の 欧 州 遊 学 旅 行( ス イ ス 、 イ タ リ ア 、 ギ リ シ ャ 、 エ ジ プ ト 、 オ ー ス ト リ ア 、 ロ シ ア 、 オ ラ ン ダ 、 ベ ル ギ ー 、 ド イ ツ 、 イ ギ リ ス な ど ) に 出 か け 、 異 国 の 文 化 や 習 慣 を 体 験 し た 。 パ リ に 戻 っ た の は 、 慶 応 三 年 ( 一 八 六 七 ) 一 〇 月 下 旬 で 、 一 一 月 に 帰 国 の 途 に つ い た 。 幕 末 期 の 季 昌 は 、 貴 重 な 経 験 を 積 み 重 ね た こ と が 分 か る 。 一 方 の リ ン は 、 新 婚 早 々 に 夫 が 不 在 と な り 、 二 年 以 上 夫 の 留 守 を 預 か り な が ら 、 嫁 ぎ 先 で 過 ご し て い た 。 五 、 戊 辰 戦 争 か ら 斗 南 藩 移 住 、 そ し て 上 京 へ 季 昌 は 、 慶 応 三 年 ( 一 八 六 七 ) 一 二 月 、 横 浜 港 に 帰 港 す る と 、 す ぐ に 上 洛 の 命 が 下 り 、 大 晦 日 に 大 砲 組 組 頭 役 へ 復 帰 と な っ た 。 翌 年 一 月 三 日 、 鳥 羽 伏 見 の 戦 い が 勃 発 し た 。 季 昌 は 伏 見 の 薩 摩 邸 を 攻 撃 し 、 鳥 羽 が 敗 戦 と の 報 が 入 る と 駆 け つ け 、 酒 樽 に 砂 を 詰 め た 胸 壁 を 作 っ て 戦 い に 挑 ん だ 。 一 時 勝 利 し た も の の 、 結 局 は 隊 の 三 分 の 二 の 兵 力 を 失 い 、 自 身 は 右 足 を 負 傷 し て し ま う 。 大 坂 に 送 ら れ 、 大 坂 城 で 治 療 を 受 け て い る 時 、 徳 川 慶 喜 、 松 平 容 保 ら が 夜 陰 に 城 か ら 脱 出 す る と い う 騒 動 が 勃 発 し た 。多 く の 会 津 藩 士 が 不 安 に 襲 わ れ る な か 、 季 昌 も ま た 動 揺 し 、 涙 が 落 ち る の も 堪 え ら れ な か っ た と 『 海 老 名 季 昌 の 日 誌 』 で は 回 想 し て い る 。 そ の 後 、 組 頭 御 免 を 願 い 出 て 江 戸 で 療 治 。 二 月 、 よ う や く 会 津 に 戻 り 、 リ ン や 家 族 と 念 願 の 対 面 を 果 た し た 。 三 月 に な り 、 軍 事 奉 行 添 役 仮 役 、 御 前 奉 行 を 拝 命 し た ( 玉 川
二 〇 〇 〇 : 七 二 ~ 七 七 頁 )。 白 河 の 地 は 東 北 の 咽 喉 で 軍 事 的 に 重 要 な 場 所 で あ っ た 。 白 河 口 守 備 の 総 督 は 西 郷 頼 母 、 副 総 督 は 横 山 主 税 ( 季 昌 と 欧 州 遊 学 を 共 に す る )、 軍 事 奉 行 は 父 季 久 が 務 め た 。 五 月 、 旧 幕 府 軍 は 白 河 ・ 小 峰 城 の 攻 防 戦 に 敗 戦 し 、横 山 は 討 死 、父 は 責 任 を と っ て 自 刃 と な っ た 。『 リ ン の 日 誌 A 』 に 、 リ ン は 隠 居 の 身 で あ っ た 義 父 の 死 を 「 悲 し い 事 は 筆 で 書 く こ と が で き ま せ ん 」 と 記 し て い る ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 四 七 頁 )。 戦 火 は 、 二 本 松 の 攻 防 を 経 て 、 会 津 の 地 に 迫 っ て き た 。 季 昌 は 七 月 に 若 年 寄 、 八 月 に 家 老 を 命 じ ら れ 、 籠 城 戦 と な る と 、 城 内 西 出 丸 の 防 備 を 任 さ れ る こ と に な っ た 。 『 リ ン の 日 誌 A 』 に は 、 会 津 戦 争 の こ と が 細 か く 記 さ れ て い る 。 同 年 八 月 二 三 日 、 新 政 府 軍 が 城 下 に 迫 り 、 リ ン が 籠 城 の た め の 入 城 の 合 図 で あ る 早 鐘 を 聞 い た の は 、 戦 い で 負 傷 し た 実 父 日 向 新 介 の 見 舞 い に 行 っ て い た 時 で あ っ た 。 急 ぎ 帰 り 、城 門 に 辿 り つ い た と き は 、 城 の 門 は 閉 ま っ た 後 で 、 失 意 の ま ま 、 会 津 高 田 に 逃 れ る 。 敵 が 近 く ま で 来 た と 聞 き 、 紋 付 き の 着 物 を 着 て 、 薙 刀 を 持 っ て 門 前 に 出 た 。 結 局 、 敵 は 横 道 に 行 っ た が 「 人 命 の 惜 し い こ と は 忘 れ て い た 」 と 回 想 す る 。 そ の 後 、 自 刃 し よ う と 、 祖 母 や 母 と 円 陣 を 組 み 懐 剣 を 取 っ た と き 、 お 抱 え 絵 師 の 星 暁 村 に 「 城 は 落 ち ま せ ん 、 余 り 御 早 ま り し て は い け ま せ ん 」 と い わ れ 、 思 い 留 ま っ た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 四 八 頁 ) と 記 し て い る 。 九 月 の 会 津 開 城 後 、 季 昌 は 猪 苗 代 で 謹 慎 を 命 じ ら れ 、 一 二 月 に は 、 細 川 邸 ( 熊 本 藩 下 屋 敷 、 現 港 区 高 輪 ) へ 身 柄 を 預 け ら れ た 。 翌 年 一 一 月 、 会 津 藩 は 下 北 半 島 付 近 に 斗 南 藩 と し て 再 興 ・ 移 封 が 決 ま り 、 会 津 藩 士 一 万 七 千 人 が 移 住 す る と 、 リ ン も 一 家 と 共 に 斗 南 藩 の 三 戸 へ 移 住 し た 。「 南 部 で は 山 に 桑 の 葉 を 摘 み 、 か ま す に 入 れ て 背 負 っ て き て 、 そ れ を 昔 の 四 百 文 に 売 り 、 こ れ で 今 日 の 暮 ら し の 助 け と し ま し た 。 薪 な ど も 日 々 取 り 、 米 つ き 、 木 割 り 等 を し て 、 実 に 実 に こ の 苦 し み は 忘 れ る 事 は で き ま せ ん 。」 と 悲 惨 な 日 々 を『 リ ン の 日 誌 A 』 に 回 想 し て い る 。 売 る も の が な い と き は 、 帯 の 端 を 切 り 、 き ん ち ゃ く を 縫 っ て 売 っ た と き も あ っ た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 四 九 頁 )。 季 昌 は 、 前 田 邸 ( 加 賀 藩 下 屋 敷 、 現 板 橋 区 加 賀 ) に 預 か り 替 え 後 、 明 治 四 年 ( 一 八 七 一 ) 一 一 月 、 斗 南 の 地 に 帰 宅 を 許 さ れ 、 翌 年 一 月 に 赦 免 と な っ た 。 す ぐ に 青 森 県 庁 授 産 係 、三 戸 支 庁 詰 ( 月 給 四 〇 円 ) に 就 く が 、 同 年 一 〇 月 に 職 を 辞 し 、 一 家 は 青 森 よ り 上 京 し た 。 季 昌 は 漢 学 教 授 、 リ ン は 裁 縫 を し て 、 月 々 七 、八 円 の わ ず か な お 金 で 生 計 を 立 て る こ と に な っ た 。 弟 を 学 校 に 出 し 、 実 父 新 介 の 砲 弾 四 個 の 摘 出 手 術 、 そ し て 元 家 老 の 海 老 名 家 に 援 助 を 求 め に や っ て く る 旧 会 津 藩 士 の 世 話 な ど で 出 費 が 多 く 、 厳 し い 生 活 が 続 い た が 、 明 治 八 年 ( 一 八 七 五 ) 一 月 、 警 視 庁 へ 出 仕 ( 月 給 一 二 円 ) す る こ と が 決 ま っ た ( 若 松 幼 稚 園 編 一 九 九 三 : 二 一 頁 )。 明 治 九 年 ( 一 八 七 六 ) 八 月 、 新 た な 山 形 県 が 設 置 さ れ 、 鶴 岡 県 令 で あ っ た 三 島 通 みち 庸 つね が )11 ( 山 形 県 令 と な っ た 。 季 昌 は 鶴 岡 へ 警 部 と し て 着 任 す る 。 こ こ で 、 欧 州 視 察 経 験 の あ る 元 家 老 と い う 経 歴 を も つ 季 昌
は 、三 島 か ら 知 遇 を 得 る こ と に な り 、山 形 県 西 村 山 郡 長( 月 給 四 〇 円 ) や 山 形 県 二 等 属 庶 務 課 長 に 抜 擢 さ れ た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 四 二 頁 )。 明 治 一 五 年 ( 一 八 八 二 ) 一 月 、 三 島 が 福 島 県 令 を 兼 任 す る と ( 同 年 七 月 に 専 任 )、 季 昌 は 福 島 県 一 等 属 庶 務 課 長 と し て 三 島 と 行 動 を 共 に し た 。 こ の 時 、 会 津 三 方 道 路 の 建 設 工 事 に 反 発 し た 自 由 党 員 ・ 河 野 広 中 の 福 島 事 件 が 起 こ る 。 季 昌 は 、 喜 多 方 市 塩 川 の 弾 正 ヶ 原 に 集 結 し た 人 々 の 解 散 説 諭 に 努 め 、 自 由 党 員 一 斉 逮 捕 に あ た り 三 島 の 代 行 を 務 め る 。 し か し 、 厳 し さ に 欠 く 季 昌 は 、 時 の 郡 長 や 警 部 よ り 手 ぬ る さ を 誹 謗 さ れ た 。 事 件 後 、 季 昌 は 信 夫 郡 長 ( 月 給 六 五 円 )、 北 会 津 郡 長 、石 川 ・ 東 白 川 郡 長 を 歴 任 し た( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 四 二 頁 )。 リ ン は 郡 長 夫 人 と し て 、 常 に 夫 に 寄 り 添 い 支 え て い た 。 明 治 一 五 年 ( 一 八 八 二 ) 四 月 に は 、 長 女 元 子 が 誕 生 し た 。 季 昌 四 〇 歳 、 リ ン 三 四 歳 で 、 結 婚 一 七 年 目 で あ っ た 。 明 治 一 八 年 (一 八 八 五) 、 三 島 が 警 視 総 監 に 就 任 す る と 、翌 年 、 季 昌 は 三 島 に 請 わ れ て 警 視 庁 用 途 課 長 と な り 、 一 家 で 再 び 上 京 と な っ た ( 若 松 幼 稚 園 編 一 九 九 三 : 二 一 頁 )。 東 京 で の 生 活 が 始 ま る と 、 明 治 学 院 の 創 設 に 取 り 組 ん で い た 会 津 藩 出 身 の 井 深 梶 之 助 )11 ( の 妻 勢 喜 子 )11 ( と リ ン は 親 し く す る よ う に な る 。 季 昌 と 梶 之 助 は 旧 知 の 仲 で あ っ た 。 梶 之 助 は 、 明 治 六 年 ( 一 八 七 六 ) に 受 洗 し て お り 、 勢 喜 子 も ま た キ リ ス ト 教 徒 で あ っ た 。 そ し て 、 リ ン は 井 深 家 と 付 き 合 う う ち に キ リ ス ト 教 に 傾 倒 し て い き 、 明 治 二 一 年 ( 一 八 八 八 ) 三 月 三 日 、 東 京 赤 坂 に あ る 霊 南 坂 教 会 )11 ( で 同 志 社 出 身 の 綱 島 佳 吉 よ り 洗 礼 を 受 け た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 五 〇 頁 )。 三 九 歳 で あ っ た 。( 写 真 3 ) 六 、 矯 風 会 入 会 と 東 京 で の 幼 稚 園 の 経 営 南 北 戦 争 ( 一 八 六 一 ~ 一 八 六 五 年 ) 後 、 ア メ リ カ 中 西 部 の オ ハ イ オ 州 で 禁 酒 運 動 が 始 ま り 、 明 治 一 六 年 ( 一 八 八 三 ) に 万 国 キ リ ス ト 教 婦 人 矯 き ょ う 風 ふう 会 かい が 設 立 さ れ た 。 三 年 後 に 遊 説 委 員 が 来 日 し 、 こ の 演 説 を 聞 い て い た 矢 島 楫 かじ 子 こ が )1( ( 中 心 と な り 、 明 治 一 九 年 ( 一 八 八 六 ) 一 二 月 に 東 京 日 本 橋 教 会 で 会 員 五 六 名 の 「 東 京 婦 人 矯 風 会 」 が 結 成 さ れ る 。 禁 酒 禁 煙 、 一 夫 一 妻 制 確 立 、 廃 娼 活 動 を 柱 と し た ( 守 谷 一 九 二 三 )。 霊 南 坂 教 会 で 洗 礼 を 受 け た リ ン は 、 教 会 執 事 や 日 曜 学 校 教 師 を 務 め る よ う に な っ た 。 ま た 同 じ 頃 、 勢 喜 子 の 影 響 で 矯 風 会 に 入 会 し た 。 矯 風 会 は 、 明 治 二 二 年 ( 一 八 八 九 ) 六 月 に は 、 一 夫 一 妻 の 建 白 書 の 署 名 八 百 余 名 分 を 集 め 、 元 老 院 に 提 出 す る な ど 、 際 立 っ た 活 動 写真3: 霊南坂教会(東京都港区赤坂) 2016 年4月3日著者撮影
を し て い た 。 こ の よ う な 矯 風 会 で の 活 動 を 始 め た リ ン は 、 他 の 会 員 か ら 刺 激 を 受 け 、 女 性 の 権 利 や 教 育 に つ い て 考 え る 機 会 が 多 く な っ て い っ た と 思 わ れ る 。 特 に 、『 リ ン の 日 誌 B 』 に は 、「 信 愛 す る 友 人 湯 浅 初 子 姉 」( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 八 四 頁 ) と い う 書 き 方 が み ら れ る よ う に 、 矯 風 会 の 中 心 で あ る 湯 浅 初 子 (11 ( と リ ン は 親 し く な っ た よ う で あ る 。 同 年 一 二 月 発 行 の 『 女 学 雑 誌 』( 一 九 三 号 ) を み る と 、 矯 風 会 が 日 本 橋 教 会 で 年 会 を 開 き 、 役 員 選 挙 を し た 記 事 が あ り 、 会 頭 に 当 選 し た の は 「 矢 島 か マ マ ぢ 子 」、 会 計 委 員 に は 「 海 老 名 り ん 子 」 と あ っ た 。 入 会 間 も な い リ ン が 役 員 に 就 任 し て い た 。 ち な み に 、他 の 役 員 に は 、 「 湯 浅 は つ 」「 井 深 せ き 」 と 並 び 、「 荻 野 ぎ ん 」( 吟 子 、最 初 の 女 性 医 師 )、 「 佐 々 木 と よ 」( 佐 々 城 豊 寿 、 女 権 運 動 家 ) な ど 、 著 名 な 女 性 が 名 を 連 ね て い る 。 ま た 、「 巌 本 か し 」 の 名 前 も み ら れ る 。『 女 学 雑 誌 』 の 編 集 者 巌 本 善 治 (11 ( の 妻 で 会 津 出 身 の 筆 名 「 若 松 賤 子 (11 ( 」 の こ と で あ る 。 フ ェ リ ス の 教 壇 に 立 っ て い た 賤 子 は 、 こ の 年 七 月 に 結 婚 し 、 矯 風 会 の 通 訳 を 勤 め て い た 。 役 員 で あ る 同 郷 の 二 人 が 言 葉 を 交 わ し た か は 記 録 に な い が 、 お 互 い を 知 っ て い た の は 現 実 で あ ろ う (11 ( 。 と こ ろ で 、 リ ン は 結 婚 か ら 上 京 ま で 二 〇 年 間 の 専 業 主 婦 で あ り 、 苦 難 を 経 て 、「 経 済 的 に も 社 会 的 に も 恵 ま れ た 郡 長 夫 人 」( 武 田 一 九 八 二 : 六 頁 ) と し て 過 ご し て い た 。 そ の せ い か 、 夫 季 昌 は 外 の 世 界 に 没 頭 し て い く リ ン を 好 ま し く 思 っ て い な か っ た よ う で あ る 。 『 リ ン の 日 誌 A 』 に は 「 耶 蘇 教 に ば か り 掛 り 内 の 事 を 怠 り お る か ら 出 て 行 け 」「 い く ら 申 し て も 行 か な い な ら ば 自 分 が 出 て 行 く 」 と 、 離 婚 寸 前 の 騒 動 に な っ た と い う 逸 話 が あ る 。 そ の 時 、七 、八 歳 に な っ た 娘 元 子 が 「 二 人 が 睦 ま じ く 、 何 処 へ も 行 か ず に う ち に い て く だ さ い 。」 と 泣 き な が ら 父 に す が り つ き 、 季 昌 も 娘 の 姿 に 「 行 か ぬ 、 行 か ぬ 」 と 折 れ て ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 五 〇 頁 )、 家 の 平 穏 は 保 た れ た と 書 か れ て い る 。 『 海 老 名 季 昌 の 日 誌 』 の 欧 州 の 見 聞 記 を 読 む と 、 季 昌 は 、 訪 れ た 国 の 地 理 や 気 候 、 産 業 だ け で は な く 、「 日 本 で は 大 毒 を 消 す 方 法 を 家 伝 に す る が 、 西 洋 人 は 良 法 な ら 諸 人 に 知 ら せ れ ば い い と 考 え る 」、 「 人 が 発 明 す る こ と を 大 い に 勧 め る 」( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 四 八 頁 ) な ど 、 異 国 文 化 の 風 習 や 習 慣 、 気 質 を 柔 軟 に 理 解 し よ う と し た 多 く の 記 録 を 残 し て い る が 、 キ リ ス ト 教 や 妻 が 外 で 働 く こ と に 対 し て 、 こ の 時 は 理 解 あ る 夫 で は な か っ た よ う で あ る 。 そ の よ う な 時 で あ る が 、 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 一 )、 榎 坂 幼 稚 園 (11 ( を 経 営 し て い た 湯 浅 初 子 が 京 都 に 転 居 す る こ と と な り 、 自 身 が 経 営 す る 榎 坂 幼 稚 園 を 引 き 受 け な い か と 勧 誘 さ れ た 。『 リ ン の 日 誌 B 』 に は 「 幼 稚 園 は 故 郷 に も 必 要 で あ る と 感 じ で お り ま し た の で 、 大 胆 に も 引 受 、 故 郷 に 開 く 事 を 決 意 し た 」( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 八 四 頁 ) と 記 さ れ て い る 。 リ ン は 「 大 胆 に も 」 引 き 受 け る こ と に な る が 、 実 は 幼 稚 園 を ど の よ う に 引 き 継 い だ か は 、 詳 し く 分 か っ て い な い 。 『 リ ン の 日 誌 B 』 に は 「 都 合 で 場 所 を 改 め 、 麻 布 仲 町 九 番 地 に 設
立 し た 」「 初 子 姉 の 厚 意 で 机 そ の 他 恩 物 等 は 無 代 価 で 譲 り 受 け た 」 「 保 母 に ひ き だ て る 子 を 頼 ん だ 」( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 八 四 頁 ) と あ り 、 リ ン に 関 す る 文 献 に は 「 リ ン は 譲 り 受 け た 榎 坂 幼 稚 園 を 芝 麻 布 に 移 し 、 共 立 幼 稚 園 と し て 発 足 し た 。」 ( 加 藤 一 九 八 二 : 四 四 頁 )、 「 芝 麻 布 に 共 立 幼 稚 園 を 設 立 」( 小 島 一 九 九 一 : 一 五 三 頁 )、 「 場 所 を 麻 布 仲 町 に 移 し 、 芝 麻 布 共 立 幼 稚 園 と 改 め 開 設 す る が 、 手 間 取 っ た た め 園 児 四 名 の 出 発 と な り 、保 母 に は 疋 田 輝 子 ( 勝 海 舟 の 孫 ) を 雇 っ た 。」 ( 若 松 幼 稚 園 編 一 九 九 三 : 二 三 頁 )、 な ど と と あ る 。 東 京 都 港 区 三 田 図 書 館 が 刊 行 し た 『 近 代 沿 革 図 集 』 を 調 べ る と 、 当 該 地 は 「 麻 布 仲 ノ 町 」「 麻 布 仲 之 町 」「 麻 布 仲 町 」( 現 在 の 港 区 六 本 木 三 丁 目 、幕 末 は 武 家 地 (11 ( )と 、時 期 に よ り 表 記 が 異 な っ た よ う だ が 、 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 一 ) 当 時 の 地 図 は 存 在 し な か っ た 。 そ こ で 、 例 え ば 、 明 治 二 九 年 ( 一 八 九 六 ) 当 時 の 麻 布 仲 町 九 番 地 を み る と 、 す で に 幼 稚 園 は な く 、 向 か い の 一 一 番 地 に 「 倚 松 園 女 塾 」( 明 治 二 七 年 開 塾 、 奇 婦 人 と 呼 ば れ た 園 輝 子 が 塾 長 )、 そ の 隣 の 二 〇 番 地 に 「 麻 布 幼 稚 園 (11 ( 」 が あ り 、 教 育 施 設 が 密 集 し て い る 場 所 で は あ っ た こ と は 分 か っ た 。 多 く の 文 献 に 記 録 さ れ て い る 「 共 立 幼 稚 園 」 ま た は 「 芝 麻 布 共 立 幼 稚 園 」 を 調 べ る と 、 明 治 一 七 年 ( 一 八 八 四 ) 九 月 三 〇 日 開 設 で 、 出 願 人 は 富 田 鉄 之 助( 日 本 銀 行 副 総 裁 )、 子 安 峻( 読 売 新 聞 初 代 社 長 )、 山 東 一 郎 ( 神 奈 川 県 大 参 事 ) で 、 園 長 は 近 藤 濱 (11 ( と な っ て お り ( 東 京 都 公 文 書 館 編 一 九 六 六 : 七 七 頁 )、 異 な る 幼 稚 園 で あ っ た 。 こ れ に つ い て 、 本 論 文 と 同 じ よ う に 、 リ ン と 「 共 立 幼 稚 園 」「 芝 麻 布 共 立 幼 稚 園 」 の 関 係 に 疑 問 を 呈 し た 『 福 島 県 教 育 史 』 に は 、「 こ の 幼 稚 園 で 保 母 と し て 働 い た の で な か ろ う か 。」 ( 福 島 県 教 育 セ ン タ ー 編 一 九 七 二 : 四 三 一 頁 ) と 記 さ れ て お り 、 前 村 論 文 に も 「 園 名 に つ い て は 謎 が 残 っ た ま ま で あ る 。」 ( 前 村 二 〇 一 二 : 五 一 頁 ) と 指 摘 さ れ る に 止 ま っ て い る 。 本 論 文 で は 、『 近 代 沿 革 図 集 』 よ り 幼 稚 園 の 場 所 を 調 べ た が 、 幼 稚 園 創 設 年 の 地 図 の 保 存 も し く は 存 在 と 、 記 載 が な か っ た の で 、 結 論 が 導 き 出 せ な か っ た 。 リ ン が 「 芝 麻 布 共 立 幼 稚 園 を 創 設 し た 」 と 初 め に 示 し た 文 献 の 所 在 、 そ の 背 景 は 何 か を 含 め )11 ( 、 再 追 跡 が 必 要 で あ る 。 引 き 継 い だ 幼 稚 園 の 経 営 は 赤 字 で あ っ た こ と は 確 か で 、『 リ ン の 日 誌 B 』 に は 、 生 徒 は 一 二 、三 名 で 、 明 治 二 四 年 ( 一 八 九 一 ) 以 降 に 「 人 見 米 子 (1( ( 」 に 幼 稚 園 を 譲 っ た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 八 四 頁 ) と あ る 。 そ の 後 、 リ ン は 、 明 治 二 四 年 ( 一 八 九 一 ) 末 頃 か ら 、 近 藤 濱 が 経 営 す る 幼 稚 園 保 姆 練 習 所 )11 ( へ 通 っ 写真4: 保母免許取得状(若松幼稚園所蔵)
た 。 直 接 、 近 藤 よ り フ レ ー ベ ル 主 義 の 指 導 を 受 け 、 こ の 研 修 で の 学 び が 若 松 幼 稚 園 の 教 育 方 針 と な っ た 。 一 〇 ヶ 月 後 、 保 姆 の 資 格 を 取 得 し 、 福 島 県 出 身 で 初 め て の 資 格 取 得 者 と な っ た 。( 写 真 4 ) 一 方 、 矯 風 会 で の リ ン は 風 俗 部 長 を 経 て 、 明 治 二 五 年 ( 一 八 九 二 ) 二 月 、 副 会 頭 に 就 任 し た )11 ( 。 同 年 二 月 発 行 の 『 女 学 雑 誌 』( 三 〇 三 号 ) に は 、 結 成 し て す ぐ 解 散 す る 結 社 ・ 集 会 が 多 い な か 、「 臨 機 の 運 動 勇 ま し く 、 絶 え ず 社 会 改 良 、 女 徳 伸 張 の 事 な ど に 力 を 尽 く す 」 と 矯 風 会 を 絶 賛 し て お り 、 闘 病 し て い た 矢 島 楫 子 が 会 頭 に 復 職 し た こ と と 、 「 海 老 名 り ん 子 、副 会 頭 と な り て 、之 に 助 力 せ ら る る こ と な れ り 。」 と 矯 風 会 の 幹部 と な っ た リ ン に 期 待 す る 内 容 と な っ て い た 。 だ が し か し 、 明 治 二 一 年 ( 一 八 八 八 ) 一 〇 月 二 三 日 に 三島 通 庸 が 死 去し て お り 、 明 治 二 五 年 ( 一 八 九 二 ) 九 月 、 夫 季 昌 が 四 九 歳 で 警 視 庁 を 退 職 す る こ と に な り 、同 年 末 に 海 老 名 家 は 会 津 に 帰 郷 す る こ と が 決 ま っ た 。 七 、 故 郷 で の 幼 稚 園 と 女 学 校 の 創 設 『 リ ン の 日 誌 B 』 に よ る と 、 リ ン は 「 三 つ 児 の 魂 百 ま で と い う 大 事 な 人 間 の 基 礎 教 育 、 六 才 ま で の 間 に 性 格 が 形 成 さ れ る と い う 幼 児 の 教 育 こ そ は 、 第 一 に 数 え ら れ る 。 次 で 大 事 な の は そ の 母 を 作 る 女 子 教 育 で あ る 。」 ( 武 田 一 九 八 二 : 一 五 頁 ) と 考 え て い た 。 こ の 思 い の 通 り 、 帰 郷 し た リ ン は 、 次 々 と 行 動 を 起 こ し て い る 。 明 治 二 六 年 ( 一 八 九 三 ) 一 月 二 〇 日 、 リ ン は 会 津 若 松 教 会 )11 ( に 所 属 し 、 若 松 婦 人 会 )11 ( を 結 成 、 同 年 四 月 四 日 に 若 松 幼 稚 園 を 開 園 さ せ た 。 当 時 の 北 会 津 郡 若 松 町 の 人 口 は 二 四 九 六 六 人 ( 戸 数 四 五 一 一 戸 ) で あ っ た ( 若 松 幼 稚 園 編 一 九 七 三 : 五 七 頁 )。 発 足 当 時 の 保 育 料 は 月 一 五 銭 で 地 方 の 私 立 幼 稚 園 と し て も 驚 く ほ ど 低 い 金 額 で あ り 、「 経 済 的 に 苦 し い 家 庭 の 子 ど も に も 幼 児 教 育 の 場 を 与 え た か っ た の だ ろ う 。」 ( 前 村 二 〇 一 二 : 五 二 頁 ) と 指 摘 さ れ て い る 。 資 格 を 持 っ た 保 母 は リ ン 一 名 、 保 母 見 習 い が 一 名 で あ っ た )11 ( 。 そ し て 、 同 年 七 月 一 二 日 に 、 幼 稚 園 の 片 隅 に 生 徒 四 名 を 集 め 、「 若 松 女 学 校 」 を 創 設 さ せ た 。 幼 稚 園 開 園 の わ ず か 三 ヶ 月 後 の 女 学 校 創 設 で あ っ た 。 い つ か ら 女 学 校 の 創 設 を 考 え て い た の か 、『 リ ン の 日 誌 C 』 を み る と 「 明 治 二 一 年 よ り 、 若 松 に 女 学 校 を 設 立 す る 志 を 持 ち ま し た が 、 そ の こ と は 具 体 的 に は ま だ は っ き り し ま せ ん で し た 。」 ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 七 六 頁 ) と あ る 。 こ の 年 は 、 受 洗 と 矯 風 会 入 会 と 重 な る 。 熊 本 の 女 傑 を は じ め 、 多 く の 会 員 よ り 刺 激 を 受 け た の で あ ろ う か 。 明 治 二 三 年 ( 一 八 九 〇 ) 一 〇 月 発 行 の 『 女 学 雑 誌 』( 二 三 五 号 ) を み る と 、 リ ン が 「 若 松 に 私 立 女 学 校 を 創 設 せ ん こ と を 発 起 し 、 其 第 一 着 手 と し て 先 づ 女 文 會 な る も の を 起 し 、假 に 英 和 学 4 4 4 を 教 授 す る 」 た め に 、 同 志 社 女 学 校 の 卒 業 生 の 三 輪 永 を 招 聘 し た と あ る 。「 吾 人 が 彼 地 の 女 学 校 に 賛 成 す る は 尋 常 な ら ず 、 願 は く は 壁 に 書 し て 自 刃 し た る 当 日 の 女 武 魂 、 文 明 の 学 に 一 磨 を 蒙 こう む っ て 新 日 本 貞 烈 の 佳 人 を 化 成 し 、 東 北 の 野 よ り 第 二 世 の 女 丈 夫 奮 々 と し て 起 り 立 ん こ と を
熱 望 す 。」 と 激 し く 期 待 さ れ て い た 。 同 年 一 一 月 三 日 に は 、 芝 公 園 の 能 楽 堂 で 「 若 松 女 学 校 寄 附 能 楽 会 」 を 主 催 し て 学 校 創 設 の 資 金 集 め を 展 開 し て い た 。 し か し 、『 リ ン の 日 誌 C 』 に は 、「 委 員 の 決 議 で 、 二 四 年 五 月 に 中 止 し ま し た 。 こ の 事 を 遺 憾 に 思 い 、 常 に 忘 れ る こ と は あ り ま せ ん で し た 。」 ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 七 六 頁 ) と 英 和 学 を 学 ぶ 会 が 志 半 ば で 中 止 と な っ た 事 が 綴 ら れ て い た 。( 玉 川 論 文 に は 文 学 4 4 会 4 と あ る が 、 誤 植 か 。) ) こ の 苦 い 経 験 が 帰 郷 後 の す ぐ の 行 動 に つ な が っ た ひ と つ で あ ろ う 。 『 リ ン の 日 誌 C 』 に は 簡 単 な 帳 簿 が あ り 、 そ れ を み る と 女 学 校 創 設 に は 五 〇 人 ほ ど の 出 金 の 協 力 者 が あ っ た よ う で あ る 。 な か に は 「 五 年 間 の 約 束 で 五 〇 円 」「 三 年 に わ た り 月 一 円 ず つ 」 な ど と あ り 、 金 額 も 年 限 も 決 ま っ た も の は な か っ た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 七 六 ~ 一 七 七 頁 )。 ま た 、「 夫 季 昌 に 事 業 へ の 協 力 を 願 う か た ち で 」( 武 田 一 九 七 七 : 一 三 頁 ) と の 記 録 も あ り 、 季 昌 の 理 解 が 得 ら れ た よ う で あ る 。 明 治 二 六 年 ( 一 八 九 三 ) 七 月 二 二 日 発 行 の 『 女 学 雑 誌 』( 三 四 九 号 ) に は 「 若 松 女 学 校 創 立 主 マ 旨 マ 」 が 掲 載 さ れ た 。 こ れ を み る と 、 リ ン が 女 子 教 育 を 憂 慮 し 、 女 学 校 を 創 設 す る こ と で の 大 き な 期 待 が 示 さ れ て い る 。 無 冠 の 女 王 と 称 せ ら る る 万 国 禁 酒 会 長 ウ ィ ラ ー ド 嬢 )11 ( 、 曾 かつ て 曰 く 「 一 九 世 紀 に 於 い て 多 く の 発 見 を な し た り と い へ ど も 、 女 性 が 彼 自 身 を 発 見 し た る こ と よ り 大 な る も の な し 」 と 。 嗚 呼 こ れ 何 に よ り て 然 る や 唯 女 子 教 育 の 隆 盛 と な り し こ と 其 原 因 な り と い ふ べ し 。・ ・ ・ ・ ・ ・ 若 松 の 如 き は 県 下 の 大 市 に し て 会 津 尋 常 中 学 校 )11 ( な る 者 あ り て 、 男 性 の 為 に 設 け ら れ た る 既 に 久 し 。 然 る に 未 だ 曾 て 女 子 の た め に 何 等 の 計 画 あ る を 聞 か ず 。 こ れ 実 に 男 性 に 厚 ふ し て 、 女 子 に 薄 し と い ふ べ し 。 豈 あ に 地 方 の 欠 点 な ら ず や 。 此 故 に 我 等 微 な り と い へ ど も 自 ら 力 を 度 る に 暇 あ ら ず し て 、 若 松 女 学 校 な る も の を 興 おこ す 所 ゆ え ん 以 な り 。 其 目 的 と す る と こ ろ は 、 徒 に 空 理 に 馳 す る が 如 き こ と を 避 け 勉 め て 、 有 用 の 学 を 授 け 、 良 妻 賢 母 た る に 適 す る の 女 性 を 陶 とう 治 ち し 、 兼 て 地 方 女 子 の 幣 へい 風 ふう を 掃 そう 蕩 とう し 女 性 た る の 品 位 を 進 め 、 東 洋 古 来 の 国 粋 と 西 洋 近 時 の 神 髄 と を 併 せ 有 せ し め ん こ と を 期 す る に あ り 。 願 く は 地 方 に あ る 厳 父 慈 母 諸 君 が 其 の 愛 す る 娘 嬢 を し て 暫 く 学 に 就 か し め 、 以 て 彼 自 身 の 天 賦 の 才 能 地 位 を 発 見 せ し め 、 彼 自 身 の 生 涯 を し て 幸 福 な る も の た ら し め ら れ ん 。 冒 頭 に ウ ィ ラ ー ド を 登 場 さ せ 、 矯 風 会 で 得 た 知 識 が 活 か さ れ て い る こ と が 分 か る 。 男 子 と 比 較 し て 女 子 教 育 が 整 備 さ れ て い な い の は 地 方 の 欠 点 で あ る と 主 張 し 、 良 妻 賢 母 主 義 教 育 )11 ( 、 地 方 の 女 性 の 品 位 を 高 め る こ と が 必 要 で あ る こ と 、 天 賦 の 才 能 ・ 地 位 を 発 見 す る こ と が 自 身 の 幸 福 で あ る と ま と め ら れ た 。 リ ン が 直 接 書 い た 主 旨 か は 確 か め る 術 は な い が 、 女 学 校 創 立 の 中 心 で あ っ た の で 主 旨 文 に 大 き く
関 わ っ た こ と は 確 か で あ ろ う )11 ( 。 力 強 い 女 子 教 育 へ の 意 気 込 み が 感 じ ら れ る 「 創 立 主 旨 」 で あ っ た 。 若 松 女 学 校 の 教 師 に は 、 東 京 に て 月 給 六 円 で 裁 縫 教 師 を し て い た 山 内 く に が 故 郷 の た め と い っ て 、 月 給 三 円 の 報 酬 で 就 任 し た 。 学 校 は 裁 縫 の 裁 板 、 物 差 し 、 は さ み が あ る だ け で あ っ た が 、 す ぐ に 空 き 家 を 借 り 受 け 生 徒 は 三 三 名 ま で 増 え た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 七 八 頁 )。 明 治 二 七 年 ( 一 八 九 四 ) に は 若 松 婦 人 会 か ら 離 れ 、 非 キ リ ス ト 教 主 義 と な る と 同 時 に 、 私 立 若 松 女 子 職 業 学 校 )1( ( を 吸 収 合 併 、 ミ シ ン や 時 計 、 テ ー ブ ル な ど を 高 価 で 引 き 受 け 、 生 徒 数 は 六 三 名 に 増 え た 。 翌 年 に は 会 津 女 学 校 )11 ( と 改 称 し た 。 明 治 三 三 年 ( 一 九 〇 〇 ) に は 、 若 松 市 の 参 事 会 よ り 市 長 宛 に 高 等 女 学 校 に 昇 格 さ せ た い と の 意 向 が 表 明 さ れ 、 一 時 、 具 体 的 な 予 算 が 計 上 さ れ る が 、 こ れ は 机 上 プ ラ ン に 終 わ っ た 。 家 事 都 合 に よ る 退 学 者 も 少 な く な く 、 経 営 は 徐 々 に 困 難 と な っ て い っ た ( 竜 川 一 九 六 六 : 二 七 五 頁 )。 一 方 、 帰 郷 し た 季 昌 は リ ン の 事 業 の 資 金 を 含 め た 援 助 体 制 に 入 り な が ら 、 茶 の 湯 を 楽 し ん で い た )11 ( 。 そ の う ち 、 有 志 の 懇 願 に よ り 、 市 制 施 行 実 現 を 目 指 し 、 明 治 三 〇 年 ( 一 八 九 七 )、 季 昌 は 若 松 町 長 に 就 任 し た 。 二 年 後 、 若 松 市 制 実 施 と な り 、 新 市 長 が 誕 生 す る ま で の 市 長 事 務 取 扱 を 務 め た 。 そ の 後 、 市 参 事 会 員 市 議 、 会 津 や 郡 山 方 面 の 士 族 会 長 と し て 活 躍 し な が ら 、 季 昌 は リ ン を 支 え た ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 八 四 頁 )。 明 治 女 学 校 で 学 ん だ 娘 元 子 は 、 二 本 松 出 身 の 吉 田 磐 生 と 結 婚 し 、 明 治 三 四 年 ( 一 九 〇 一 ) に 珪 治 、 明 治 三 九 年 ( 一 九 〇 六 ) に 幸 子 が 誕 生 し た 。 こ の 頃 、実 母 ま つ 、元 子 が 受 洗 し 、明 治 三 六 年 ( 一 九 〇 三 ) に は 季 昌 も 受 洗 し た 。『 リ ン の 日 誌 A 』 に は 「 夫 季 昌 殿 は 実 に 実 に 並 の 気 質 で は な く 、 中 々 自 分 の 申 す 事 は ど こ ま で も 申 さ れ る 方 で す が 、 神 の 御 恵 み は 夫 の 上 に 加 わ り 、 三 七 年 に 洗 礼 を 受 け る と の 決 心 で 、 兼 子 牧 師 よ り 洗 礼 を 受 け ら れ ま し た 、 実 に 有 難 く 嬉 し く 筆 に も 、 言 葉 に も 言 い 表 す こ と は で き ま せ ん 。 神 に 感 謝 い た し ま す 。 夫 の 行 い も 大 変 変 わ っ て 、 私 も 楽 に な り ま し た 。 私 も 他 人 よ り 行 き 写真5: 明治 34 年・海老名家(『若松幼稚園創立 百周年記念誌』21 頁より転用) 前列一番左がリン、後列右が李昌
届 か な い 者 で す が 、 夫 に し て は 本 当 に 困 苦 を 感 じ て お ら れ た の で し ょ う 」( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 五 一 頁 ) と あ り 、 夫 婦 の 関 係 性 が 垣 間 見 え る 。 そ の う ち 、 磐 生 も 受 洗 し 、 一 家 が キ リ ス ト 教 徒 に な っ た ( 写 真 5 )。 し か し 、 明 治 三 〇 年 頃 に 過 労 で 倒 れ て か ら 体 調 が 悪 い こ と が 多 く 、 や が て 肺 結 核 と 分 か り 、 病 と 闘 い な が ら 事 業 を 続 け た 。 リ ン は 、 明 治 三 七 年 ( 一 九 〇 四 ) に は 愛 国 婦 人 会 幹 事 に 任 命 さ れ 、 日 露 戦 争 後 に 有 功 章 を 授 与 さ れ た 。 こ の 頃 に は 、 肺 結 核 の 転 地 療 法 の た め 、 時 々 京 都 や 明 石 の 病 院 へ 出 か け 、 途 中 、 神 戸 や 大 阪 の 教 会 や 岡 山 の 孤 児 院 、 同 志 社 女 学 校 の 宣 教 師 デ ン ト ン )11 ( を 訪 問 し て い る ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 五 四 ~ 一 五 七 頁 )。 さ ら に 、明 治 三 八 年 ( 一 九 〇 五 ) に は 第 二 分 園 ( 現 若 松 第 三 幼 稚 園 ) を 開 園 さ せ た 。 日 露 戦争 中 で あ っ た 明治 三 八 年 ( 一 九 〇 五 ) 四 月 、 会 津 女 学 校 は 市 に 移 管 さ れ た 。 明 治 三 六 年( 一 九 〇 三 )に 高 等 女 学 校 令 が 制 定 さ れ 、 全 国 的 に 女 子 教 育 制 度 が 整 備 さ れ 始 め て い た 時 期 で あ っ た が 、 移 管 と 当 時 に 校 名 が 「 会 津 女 子 技 芸 学 校 」 と 改 称 さ れ た 。 こ れ は 、 工 業 学 校 や 高 等 小 学 校 補 修 科 で も な く 、 普 通 教 育 で も 実 業 教 育 の 学 校 で も な か っ た た め ( 竜 川 一 九 六 六 : 二 七 六 頁 )、 高 等 女 学 校 へ の 移 行 を 目 指 し て い た リ ン は 落 胆 し た よ う で 、『 リ ン の 日 誌 A 』 に 「 後 悔 は 役 に 立 ち ま せ ん 。 苦 心 し て 作 っ た 女学 校 を つ い つ い 変 え て し ま い ま し た 。」 ( 玉 川 二 〇 〇 〇 : 一 五 五 頁 ) と 悔 い を 綴 っ て い る 。 「 会 津 女 子 技 芸 学 校 」 へ の 転 換 は 、 全 国 的 な 女 子 教 育 の 方 針 と は 逆 行 す る 政 策 で あ っ た 。 市 議 会 の 野 党 も 市 長 へ 反 対 意 見 を 出 し た 写真6: 第一回若松幼稚園卒園生(若松幼稚園創立百周 年記念誌 25 頁より転用) 写真7:若松女子技芸学校(若松幼稚園所蔵) 前列左から4番目がリン
り 、 リ ン も ま た 当 時 の 佐 治 幸 平 市 長 に 反 対 の 書 翰 を 出 し た り 、 会 津 日 々 新 聞 も 市 長 を 非 難 す る キ ャ ン ペ ー ン を 行 っ た ( 会 津 女 子 高 校 編 一 九 八 八 : 二 〇 頁 ) と い う 。 そ の 後 、 明 治 四 〇 年 ( 一 九 〇 七 ) 一 二 月 の 県 会 で 会 津 高 等 女 学 校 の 創 立 )11 ( が 議 決 さ れ た 。( 写 真 6 ・ 写 真 7 ) 明 治 四 一 年 ( 一 九 〇 八 ) 一 月 に 、 リ ン は 幼 稚 園 園 長 を 娘 元 子 に 譲 る と )11 ( 、 翌 年 四 月 二 〇 日 に 死 去 し た 。 六 〇 歳 で あ っ た 。『 リ ン の 日 誌 A 』 に は 、 同 年 二 月 九 日 ま で の 記 録 が あ り 、 役 職 は 辞 し た も の の 、 死 の 直 前 ま で 幼 稚 園 の 人 事 に 奔 走 し て い た 日 常 で あ っ た 。 リ ン が 亡 く な っ た 十 日 後 の 五 月 一 日 、 宿 願 で あ っ た 会 津 高 等 女 学 校 ( 旧 福 島 県 立 会 津 女 子 高 校 、 現 葵 高 校 ) が 開 校 し た 。 八 、 地 域 文 化 の 振 興 ︱ 結 び に 代 え て ︱ 若 松 女 学 校 の 運 営 は 二 転 三 転 し た が 、 幼 稚 園 は 、 若 松 幼 稚 園 ( 現 若 松 第 一 幼 稚 園 )に 続 き 、第 一 分 園 ( 現 若 松 第 二 幼 稚 園 )、 第 二 分 園 ( 現 若 松 第 三 幼 稚 園 ) が 次 々 と 開 園 し た 。 幼 稚 園 に 通 う よ う に な っ て 「 無 駄 遣 い が な く な っ た 、 間 食を し な く な っ た 、 行儀 が よ く な っ た 、 物 覚 え が よ く な っ た 、 人 見 知 り が な く な っ た 」( 武 田 一 九 七 七 : 一 五 頁 ) と あ り 、 家 庭 と は 異 な る 集 団 生 活 に よ る 幼 児 教 育 の 成 果 は 顕 著 に 現 れ て い た 。 し か し 、 幼 稚 園 は 数 多 く の 引 っ 越 し )11 ( を し て お り 、 経 営 は 決 し て 順 調 満 帆 で は な か っ た こ と も 伺 え る 。 そ の 後 、 昭 和 二 〇 年 ( 一 九 四 五 ) に 就 任 し た 第 一 一 代 玉 川 喜 代 子 園 長 ( 大 正 五 年 ( 一 九 一 六 ) よ り 元 子 園 長 の 勧 め で 奉 職 ) の 時 代 に 大 き く 発 展 し 、 第 一 二 代 玉 川 勇 園 長 を 経 て 、 第 一 三 代 玉 川 芳 男 園 長 は 季 昌 ・ リ ン 夫 妻 を 二 〇 年 近 く か け 詳 細 に 研 究 し た 。 現 在 は 玉 川 祐 嗣 理 事 長 ( 平 成 五 年 ( 一 九 九 三 ) よ り 奉 職 ) が 務 め る 。 写真9: 浄光寺にあるリンの像(福 島県会津若松市宮町、2016 年4月 12 日著者撮影) 写真8: 若松第一幼稚園(福島県会津若松市、 2016 年4月 12 日著者撮影)
玉 川 理 事 長 に 話 を 伺 う と 、 現 在 、 各 幼 稚 園 に 百 名 ほ ど の 園 児 が 通 い 、 遠 足 で は 浄 光 寺 に あ る リ ン の 像 )11 ( に お 参 り し て か ら 鶴 ケ 城 に 出 発 し て い る と い う 。 ま た 、 幼 稚 園 で 「 折 り 紙 」 を 使 っ た 教 育 を 熱 心 に 取 り 入 れ た の が リ ン で 、 リ ン の 指 導 を 受 け た 折 り 紙 作 品 は 、 学 習 院 に 入 学 し て い た 大 韓 帝 国 の 皇 太 子 李 イ 垠 ウン ( 初 代 皇 帝 高 宗 の 七 男 ) が 会 津 を 訪 れ る こ と に な り 、 大 製 作 が 企 画 さ れ 、 明 治 四 二 年 ( 一 九 〇 九 ) 八 月 に 台 覧 と な っ た 。 若 松 第 一 幼 稚 園 に は 、 リ ン が 保 母 た ち と 教 材 研 究 の た め に 折 っ た た く さ ん の 折 り 紙 作 品 が 残 っ て い る 。( 写 真 8 ・ 写 真 9 ・ 写 真 10) 創 立 百 二 十 周 年 に 発 行 さ れ た 記 念 誌 に は 「親 子 四 世 代 ・ 三 世 代 ・ 二 世 代 」 の 通 園 者 が 報 告 さ れ て お り 、 四 世 代 が 通 園 す る 家 庭 か ら ( 昭 和 五 八 年 度 卒 業 生 が )「 剣 舞 を 踊 る こ と が 大 好 き で 、 自 分 な り に 気 持 ち を 込 め て 、 踊 っ て い た よ う に 思 い ま す 。」 ( 若 松 幼 稚 園 編 二 〇 一 三 : 四 七 頁 ) と 寄 稿 し て い た 。 白 虎 隊 剣 舞 の 伝 統 は 古 く 、 昭 和 二 年 ( 一 九 二 七 ) 前 後 に 「 詩 吟 に よ る 剣 舞 を 教 わ っ て 踊 る よ う に な っ た 」 よ う で 、 昭 和 一 〇 年 ( 一 九 三 五 ) に は 近 隣 の 小 学 校 の 運 動 会 や 飯 盛 山 で 踊 っ た 記 録 が 残 る 。 創 立 八 十 周 年 ( 一 九 七 三 年 ) に は 三 園 合 同 運 動 会 に て 男 子 全 員 で 踊 り 、 創 立 九 十 周 年 )11 ( ( 一 九 八 三 年 ) に は 、 三 園 合 同 運 動 会 で 男 子 全 員 は 白 虎 隊 剣 舞 、 女 子 全 員 は 娘 子 隊 剣 舞 を 披 露 す る よ う に な り 、 こ の 年 に 会 津 武 家 屋 敷 )11 ( で も 披 露 さ れ た ( 若 松 幼 稚 園 編 一 九 九 三 : 一 〇 二 頁 )。 こ の よ う に 、 第 一 、 第 二 、 第 三 の 各 幼 稚 園 が 剣 舞 を 幼 児 教 育 に 取 り 入 れ て い る 。 年 間 の 行 事 を み る と 、 剣 舞 は 日 新 館 孔 子 祭 、 会 津 秋 ま つ り 童 子 行 列 帰 陣 式 、 会 津 ま つ り 藩 公 行 列 、 敬 老 会 、 邦 芸 会 な ど 、 地 域 の 行 事 へ 頻 繁 に 参 加 し て い る 。 年 度 に よ り 、「 福 島 県 警 察 発 足 ② 写真 10: 若松幼稚園教職員折り紙作品・明治 42 年に李垠が台覧 (若松幼稚園所蔵) ① ④ ③
三 十 年 記 念 式 典 」「 幼 年 消 防 ク ラ ブ 全 国 大 会 」「 福 島 県 更 生 保 護 大 会 」 な ど 、 単 発 の 地 域 の 行 事 に 招 聘 、 披 露 す る 時 も あ り 、 若 松 幼 稚 園 の 剣 舞 は 伝 統 と 文 化 を 継 承 し 、 地 域 活 性 化 の 重 要 な 役 割 を 果 た し て い る 。 『 リ ン の 日 誌 B 』 に は 、 こ う も 記 し て あ る 。「 身 を も っ て 経 験 し た 戊 辰 の 戦 、 傷 け ら れ た 我 が 故 里 に 、 い と し い こ の 故 里 に 私 は つ く し た い 、 つ く さ な け れ ば な ら な い 。 そ れ は 、 教 育 事 業 で し っ か り し た 人 物 に よ っ て 、 み っ し り 立 て な お し を や っ て も ら わ な け れ ば な ら な い 。」 ( 武 田 一 九 八 二 : 一 五 頁 ) リ ン 及 び 夫 季 昌 の 履 歴 や 考 え を 整 理 し て き た 。季 昌 の 幕 末 期 は 会 津 藩 士 の な か で も 稀 な 経 験 を し て い た 。 そ れ を 支 え て い た の が リ ン で あ り 、 会 津 戦 争 、 斗 南 藩 時 代 に は 過 酷 な 生 活 を 強 い ら れ た 。 季 昌 が 三 島 通 庸 か ら 知 遇 を 得 る と 、 郡 長 夫 人 と し て あ る 程 度 恵 ま れ た 生 活 を 送 る こ と に な っ た が 、 福 島 事 件 で は 夫 が 弾 圧 す る 側 と し て 、 自 由 民 権 運 動 の 情 勢 に 直 面 し た 。 そ の よ う な リ ン の 大 き な 転 機 と な っ た の が 、 上 京 後 の 受 洗 と 矯 風 会 入 会 で あ っ た 。 女 性 の 権 利 や 教 育 を 考 え る 機 会 が 増 え 、 開 明 的 な 女 性 た ち と 交 流 す る こ と で リ ン も 使 命 感 に か ら れ た 。 そ の タ イ ミ ン グ で の 、 東 京 に お け る 幼 稚 園 の 引 き 継 ぎ と 女 文 會 の 企 画 と そ の 失 敗 が よ り 一 層 、 幼 児 教 育 ・ 女 子 教 育 を よ り 深 く 考 え る 材 料 と な っ た の で あ ろ う 。 こ の よ う な 経 緯 が 、 リ ン が 幼 稚 園 と 女 学 校 創 設 を 奮 い 立 た せ た 契 機 で あ り 、 ま さ に 「 女 性 が 彼 自 身 を 発 見 し た 」 か ら な の で あ る 。 ま た 、 初 め は 外 で 働 く 女 性 へ 難 色 を 示 し た 季 昌 で あ っ た が 、 自 身 も 故 郷 に 戻 り 、 妻 リ ン の 事 業 を 支 援 す る よ う に な っ て い っ た 。 前 述 し た よ う に 、 リ ン の 行 動 は ( 良 妻 賢 母 主 義 で あ っ た )「 旧 会 津 藩 の 枠 か ら 一 歩 も 出 ら れ な か っ た 。」 と 中 村 論 文 に は 指 摘 さ れ た が 、 教 育 事 業 の 支 援 や 受 洗 な ど 夫 の 考 え を も 動 か し 、 教 育 の 振 興 に よ っ て 、 女 性 の 解 放 を 目 指 し た と 考 え る と 、 矯 風 会 で の 学 び は リ ン に 浸 透 し た 面 が あ っ た と い え る 。 そ し て 、 同 時 代 を 生 き た 会 津 の 女 性 た ち は 東 京 や 京 都 で の 女 子 教 育 を 展 開 さ せ た が 、 リ ン が 故 郷 に て 人 材 教 育 を 実 現 さ せ た 功 績 は 大 き い 。 リ ン 、 そ し て 季 昌 が 「 大 胆 に も 」 大 き な 第 一 歩 を 踏 み 出 し た き っ か け は 、 戊 辰 戦 争 で 傷 つ い た 故 郷 の 再 生 で あ っ た 。 そ の 人 材 教 育 の 芽 生 え は 、 一 五 〇 年 経 っ た 現 在 で も 地 域 文 化 の 振 興 に 息 づ い て い る 。 会 津 で は 、「 明 治 一 五 〇 年 」 で は な く 、「 戊 辰 一 五 〇 周 年 」 を 記 念 し た よ う に 、 戊 辰 戦 争 の 経 験 は 地 域 文 化 に 色 濃 く 残 る 。 そ の 経 験 が 原 動 力 と な り 、 幼 児 教 育 ・ 女 子 教 育 の 先 駆 的 な 地 域 と な り 、 今 で も 地 域 社 会 に 大 き な 影 響 を 与 え 、 地 域 の 活 性 化 に 繋 が っ て い た 。 地 域 社 会 に 生 き る 人 々 が 自 身 の 歴 史 ・ 風 土 ・ 自 然 を 背 景 に 地 域 振 興 ・ 地 方 創 生 を 考 え 、人 材 育 成 の 教 育 の 基 礎 を 確 立 す る こ と の 重 要 性 を「 先 駆 者 」 海 老 名 リ ン の 生 涯 か ら 学 び 取 る こ と が 出 来 る の で あ る 。 今 後 の 課 題 と し て 、 本 論 文 を 作 成 中 に 多 く の 女 子 教 育 ・ 女 性 教 育 者 や 女 学 校 の つ な が り を 知 る こ と と な っ た 。明 治 期 以 降 の 女 子 教 育 ・ 教 育 界 に つ い て 、 会 津 や 熊 本 、 愛 媛 出 身 者 な ど の 調 査 を 進 め 、 地 域