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真宗研究7号 009上田義文「「宗学論」覚えがき――仏教学方法論として――」

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Academic year: 2021

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﹁ 宗 学 論 L 覚 え が き 七 O

﹁宗学

一 一 珊 ﹂

| | 仏 教 学 方 法 論 と し て 1 1 1

本 年 度 真 宗 連 合 学 会 で の 研 究 発 表 を 求 め ら れ た が 、 発 表 す る に 足 げ む よ う な 研 究 も な い の で 平 素 抱 い て い る 問 題 を 提 一 小 し て み よ ウ と 考 え た υ 仏 教 学 と は ど う い う 学 問 で あ る へ き か 、 宗 学 と は ど ん な 学 問 か 、 と い う 問 題 で あ ゐ 。 こ れ を 本 格 的 な 宗 学 論 あ る い は 仏 教 学 方 法 論 と し て 学 界 に 問 う ほ ど の 準 備 も で き て い な い し 、 そ れ 在 い く ら か で も 補 う 勉 強 を す お 余 絡 も な い ま ま 現 在 考 え て い る だ け の こ と を 、 限 ら れ た 紙 数 の 範 閉 で 述 べ て 、 本 格 的 な 宗 学 論 の た め の 覚 え が き と し た 。 大 方 の 御 批 判 を 頂 け れ ば 仕 合 せ と 思 う 。 今日仏教には宗学と呼ばれている学問がある。ぞれが仏教の各宗のすべてにあるのか、 それとも一部の宗派にしか ないのかということも確かめていないのであるが、少くとも若干の宗派にはそれがある。この宗学は、要するに仏教に ついての学問であるという意味で仏教学の中に含まれると考えることができるであろう。宗学は仏教学の中の一つの 分利であるのか、それとも仏教学の外にあってそれと並ぶ学問であるのか、 あるいは宗学は結局仏教学そのものにほ か な ら な い か 、 というようなことも、今日では十分はっきりしていることがらではないように見受けられる。これら

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の小で、仏教学と宗学とを別個の学問とする考え方が現にあることは事実である。今日の仏教学と宗学との別は、 か つての余乗と宗乗という医別を継承したものと見るならば、宗学は仏教学の外にあってそれと並ぶ別箇の学問である ということになるであろう。 かく考えた場合の宗学と仏教学︵余乗の意味ではない︶とは、 研究の対象が呉る 1 i 前者は自宗を対象とし、後者は自宗を除く他のすべての仏教を対象とする 1 i というだけではなく、研究の方法も異 るよ、つに思われる。宗学は自宗の信仰あるいは覚証を立場とし、信仰の学問的反省あるいは般若の理性的展開ともい うべきものであるのに対して、仏教学は信仰や覚証の理性的展開なのではなくて、 言語学や歴史学などと同じように 単なる理性の立場に立っているわけである。宗学はいわば信仰あるいは般若が自己から出て自己に還る運動であって、 その問にたとえ他宗の信仰や覚証左研究することがあっても、それは自己の信仰あるいは党証の立場からそれらを見 るのであるが、仏教学は理性が、信仰あるいは覚証の思想的・心理的・芸術的等の表現を研究するのである Q 今日仏 教学と呼ばれている研究の内容は誠に種々雑多であって、 言語学的、歴史的、哲学的、文学的、社会学的、 心理学的 等さまざまの研究が包含せられているが、 その大部分は単に理性の立場での研究であって、 はっきりと自分の信仰あ るいは党証に立ち、信仰あるいは般若の学問的反省という方法を厳密につらぬいているものは稀れであるように思わ れ る υ 今日仏教学と呼ばれている研究の大部分は結局一言語学、歴史学、哲学、文学、 あ る い は 社 会 学 、 心理学等に含 まれてしまうものであって、それらの学聞がその研究対象の範囲を仏教と呼ばれている現象にまで拡げてきたと考え て よ い も の が 多 い 。 この点からいえば仏教学は結局言語学、歴史学、哲学等々に解消してしまうと考えることができ る u もしこれらの諸学に解消してしまうことのできない独自の仏教学が成立し得るとするなら、それは仏教の信仰あ るいは党証に立って仏教とは何かを明かにするものでなくてはならないであろう。 このような学問の性格は従来の宗 学がすでにもっているものであろうと考えられる。 ただ従来の宗学は研究の対象を狭く自宗に限定して仏教の全体あ ﹁ 宗 学 論 L 覚えがき 七

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﹁ 宗 学 論 L 覚えがき 七 るいはそれ以外の範囲にまで及ばなかったという嫌いがあり、宗学と仏教学とのちがいを研究対象のちがい 1 1 宗学 は自宗のみで仏教学は自宗以外の仏教ーーと考えていたかのようである。 こういう宗学の考え方に対応していわゆる 仏教学の方にも、宗学とのちがいを単に対象のちがいと考え、方法のちがいと考えていないものが見受けられる。 し かしもし他の諸学とはちがう独立の学問として成立する仏教学が、仏教の信仰あるいは覚証の学問的自己反省とでも いうべきものであるとすれば、 それは宗学と呼ばれている学問が本来目指しているものではないであろうか。各宗の 祖師たちにおいては、自己の宗とするところのものが仏教そのもの乃至仏教の真髄なのであって、 それを除いてほか に仏教があるとは考えられていなかったと思われる。道一克にとっては禅は仏教の中の一派なのではなくて仏法そのも のであり、法然・親驚にとっては念仏が真実の仏法であった G 正法眼蔵に見られ、親鷺の著作に見られるように、仏 教の重要な諸問題が禅の、 または念仏の、立場から見られ解かれているのである。こういう意味で宗学の目指してい るものは仏教学と呼ばれて然るべきであると考えられる Q そしてこのような仏教学こそが固有の意味における、すな わち他の諸学に解消してしまわない、仏教学であろう。 とれが真の意味での仏教学であるという立場からすれば、仏 教の一言語学的、歴史的、哲学的等の諸研究は、仏教学としてはこれの補助学であると見倣され得るであろうじ そこで、仏教学には二つの立場が区別せられるであろう。 一つは仏教の信仰や覚証に立つのではなくて単に理性に 立つものであって、仏教の言語学的、原史的、哲学的その他の研究の立場である Q ζ の研究では研究者自身の立場と 研究の対象とは無関係であり得る ν たとえば念仏の信仰を有しないものも法然・親饗の伝一記・思想等を研究すること ができるし、念仏の信仰をもっているものが小乗仏教︵たとえば倶舎宗︶の研究をすることができるのは、 キリスト 教徒が小采仏教の研究ができるのと同じである。こういう研究も仏教学と呼ばれることは可能であろう。このような 仏教学は、研究の対象となっている仏教の真理に奉仕することを日的としているものではないことはもとより、 し、 台、

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なる仏教の真理にも奉仕することを目的としないで成立する。このような研究の意義は仏教に役立つということにあ るのではなくて、それぞれの学問的真理に奉仕することにある υ この削究は対象を仏教に選んでいるだけであって、 学問としては言語学、 時 間 史 学 、 哲 学 等 々 C あるから、厳常にいえばこれは仏教学ではないということもできるであろ

Q 他の一つの立場は仏教に役立つものであり、 その点でキリスト教の州予と川じ性格をもっている。この立場はいら おう二つの聞にわけて考えるのが理解に便利であろう 今これを同町としよう。 同は自分の信仰あるいは佐一祉の依り 所となっている祖師の著述や祖師の所依の経典の意味するところを、第一の立場で行われる言語学的、歴史的等の諸 研究を取入れることなしに、明らかにするもの。これは結局において明治期までの宗乗乃至宗学と同じ性格のもので あ る 。 制は第一の立場における諸研究を考慮の中に入れるというだけでなく、 むしろそれとの対決をとおして信仰あ るいは党証を明らかにするもの。同は これまで仏教が伝播してきた伝統の範囲の中だけで研究をすすめるのに対し て、伽は、これまで︵西洋文明と出会うまで︶仏教が全く知らなかった西洋文明との出会いを軸として研究をすすめ る υ 党語・パlリ語・チベット語・その他の一言語の研究を基礎とする経典の一﹁原典批評 L ゃ 、 一切経を釈迦一代の問 の所説と考えないで何百年もの長い年月の聞に次第に成立したものと考える﹁経典成立史﹂従って経典の思想を釈迦 一人の考えたものと見ないで歴史的に生成し発達したものと考える﹁仏教思想史しなどの諸研究は、 同の立場では全 く知られないものである。これらの研究は、東洋の伝統の中にはなかった向洋文明の最大の特色の一つである科学的 な考え方と仏教というものとが結びついたところに初めて成立したものである。 だから似の立場は押しつめていえば、 仏教というものが科学的考え方といかに対決するか 1 1 どの点までそれを取入れ、 そ れ と 結 合 し 、 どの点でそれから 自己を区別し、それに対して自己の特性を発揮するかーーということを一課題としているといってもよいであろう υ ﹁宗学論﹂覚えがき 七

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﹁宗学論﹂覚えがき 七 回 今これを少し具体的に考えてみるために親驚の場合に例をとってみよう。われわれが原典批評という知識をもった 上で考えると、法蔵菩薩の本願の数が諸本によってさまざまであって、 四 十 八 願 説 は 、 その中の一種にすぎないこと ゃ、第十八願の文が党本・チベット訳・漢訳の間で必ずしも全同でない点があるなどのことが、改めて問題となるで あろう。文献学的研究は諸形の中でどれが原型であるかを推定し、 それが変化して行った跡を明らかにすることにつ とめる c そういう研究の結果は親驚の述べていることと必ずしも一致しないであろう。 また、史実という観念がつよ く人びとを捉えた今日では、釈迦は歴史的実在であるが阿弥陀仏はそうではないと考えられ、 阿弥陀仏は釈迦の覚り の内容を人格化したものにほかならないと考えられるようになった。 こういう考えからすれば、歎異紗第三章の﹁弥 陀の本願まことにおわしまさぱ釈尊の説教点言なるべならず。仏説まことにおわしまさば善導の御釈虚一言したまうベ からず。云々﹂という言葉は奇異にひびくにちがいない。歴史的な考え方からすれば、弥陀という思想は釈迦の悟りと いう事実の上に成立したものにほかならないから、弥陀は釈迦が在って初めて考えられる。しかるに歎異紗の立場では、 釈迦の説教の真実性の根拠が弥陀の本願におかれている。弥陀がまずあって、 その本願というものが考えられるので あり、その本願が成立して初めてそれをひとに説くことが可能となるのであり、 ここに説教する人としての釈尊とい う存在があり得る。この立場からすれば弥陀←釈迦←善導という順序になるが、歴史的見方に立てば釈迦←弥陀とい う順序になる。このように歴史的考え方と歎異紗の考え方とは逆である ω 親驚の信仰の立場に立つ第二の立場の仏教 学は歴史的見方にいかに対処するか、 という問題のあることがここでよくわかる。また大乗経典︵無量寿経︶が釈迎 よりも数百年の後代に成立したとする経典成立史も釈迦弥陀二尊一致とする親驚の見方と喰いちがう。あるいは世親 の浄土論における五念門の行を法蔵菩薩の行と解するのは親驚個人の見解であって、 世親における意味は一般菩薩の 行であったという見方︵歴史的立場での見方︶や、経典や祖師たちの文を引用しながら、それに独特の訓点を附けて

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原作とはらがう読み方を親驚がしたということなど、 い、ずれも同じ性質の問題を字んでいる u すなわむここには照性 の立場に立つ歴史的見方と信仰の立場での見方とが出会って、両者の喰いちがいが顕れているのである。用性は学問 的 真 理 ︵ 今 の 場 合 は 歴 史 的 真 理 ︶ を 見 る り しかし親機は宗教的呉川止を見る ω 宗教的真理を問う立場からすれば、本願が 真実であるから釈迦の説法もまことである。無量寿経が真実の経であるのは、本願の真実がそこにおいて人間に而ら れていゐからであって、その経が釈迦によって説かれたから真実なのではない ここでは説き手が誰であろかが川回 なのではなくて、本願の真実がいかなるものであるかが問題なのである。第一の立場での学問的研究︵たとえば経典 成立史︶によって現存の無量寿経が釈迦より他の後人の手で脅かれたものであると言われでも、それによって本聞の 真実は真実でなくなるのではない。 キリスト教の場合には、 キリストは神の子であって一般の人間とは卵、たり、神と 同質であって人間とは呉質であるから、 キリストが語ったということが真実性そ意味するであろう。 しかし釈迦は一 般の人間と本質を同じうしており、他の人間も覚者となれば釈迦とちがわない。他の覚者の言葉も釈迦の一一一日葉と川様 に真実である キリスト教やイスラム教では神の一言葉を記した根本聖典︵バイブルやコ l ラン︶は唯一つであるのに、 大乗仏教では仏説たる経が後から後からと何百年間にも互って現れたという世界の宗教史にも稀れな現象も、川じ根 拠にもとづく。小乗仏教とちがう大乗仏教の特色たる多仏思想もこれと関連している。また法蔵菩薩の本闘が、もと の形では四十八願であったかそれとも五十一願乃至一一十四願であったかということも、同じ性質の問題であわ、 1J

り に無量寿経の最古形が一一十四願となっていたことが文献学的に証明されたとしても、 それによって親饗が四十八願に ついて語った本願の真実性が消滅するわけではない。 また親驚が世親の浄土論における五念門の行を法蔵菩薩の行と 解 し 、 あるいは善導の散善義の﹁不得外現賢善精進之相内懐虚仮﹂という文に独自の訓点を施して原作とふりがう読み 方をしたということも、第一の立場︵歴史的見方︶から見る場合と第二の立場︵信に立つ仏教学︶から見る場合とで ﹁ 宗 学 論 ﹂ 覚 え が き 七 五

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﹁宗学論﹂覚えがき 七 六 は、見方が全く異ってくる。 たとえば望月信享博士は﹁略述浄土教理史﹂の中で親驚の思想について次のように述べ て い る ﹁総体において彼れの教義は、独断的気風を帯び、極めて大胆に、極めて傍若無人に組み立てられた。即ち経に於 て正依傍依を論ぜず、釈に於て祖と非祖とを問わず.自己の所立に合するものは之を用い、合せざるものは捨てて顧 み な い 。 のみならずそれら経釈の文句を曲読し曲解し、 又一句一文を断取して、 その前後の意味などに事も貧著しな し、 ︵ 中 略 ︶ 善 導 も 、 法 然 も 、 彼 れ の 前 に は 何 等 の 一 証 権 も な い の ﹂ との叙述には若干感情的なものの混入が見られると思うが、そういうものを除いて考えると、 ζ の叙述は大体にお いて思想史的事実を正しく指摘していると号一宮ノボへきであろう。すなわち親驚の引文は、経論釈の中から自己の所立に 合するもののみを取出してきているのであり、 その読み方も必ずしも原作のとおりではない。思想史家の任務はこう いう思想史的事実の指摘とともに、 その意味の解明にあると思われる。歴史的見方にとっては親驚の見解のちがい生 明らかにすることに重要な意義がある。 しかし信仰の立場にとってはそういうものは大きな意義をなさず、却って表 面的なちがいにも拘らず、 そとにどのようによく本願の真実が諮られているかを明らかにする点に重要な意義がある。 望月博士は思想史家の立場で親驚の見解がちがうという事実を解釈して寸由読曲解しであるとし、態度が﹁総じて傍 若無人 L であるとされた。この解釈は思想史︵浄土教理史︶の立場から行われたものであるが、 そ う と す れ ば 、

くないし﹂思われる。親驚の読み方が原作とちがっている場合、それが曲読曲解であるというのは、原作の立場にすっ て親驚のよみ方を判定した時に言えることである。 しかし思想史家は原作となっている経論釈の立場とともに親驚の 立場をも思想史的事実として認めねばならない。龍樹・世親も善導・法然も親驚も、 みなそれぞれの歴史的位置にお いて理解しなければならない。品一主導・法然の思想史における意義を明らかにするとともに親驚が原作とちがう読み方

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をしたという思想史的事実はなぜ起ったかを解明しなければならない。それをしようと思うと親日憾の立場を十分に理 解する必要があり、そのためには彼の﹁他力の信﹂ の立場に自らも立たねばならない この信の立場から見るとき は、経論釈はどのように本願の真実と自己の虚仮不実とを語っているかがありありと見える。親鰐の著作は経論釈の そういう文章を取り出して整理したものにほかならない。 このような﹁信の限﹂そもつならば、親問が原作とちがっ た読み方をしたと見えるのは、文章の支出のちがいだけであって、親問は原作者の古川閃

l

l

本願の真実を伝えるとと 1 1 6 を正しく受け取っているということが理解せられあ υ 仏教の思想史は、単なる理性の産物ではなくて、 理性を超 え た 信 あ る い は 一 一 品 か ら 政 れ た も の の 歴 史 で あ る か ら 、 その思想史の十分な解明のためには、信あるいは証の立場に立 つ仏教学︵第二の立場の仏教学︶の助けを借らなければならない。 一つの信あるいは証 1 1 たとえば念仏の信あるい は禅の証ーーに十全に立つ ζ とは一人の生涯をかけても足りない位であるから、 一 人 が そ れ ぞ れ の 信 あ る い は 一 証 の 立 場をすべて自ら経験することは不可能である。どうしてもそれぞれの信あるいは証の立場での仏教学が成立し、それ らの助けを借りて初めて仏教の思想史はほんとうに叙述されることになるであろう。それぞれの信あるいは証につい て理解||自ら体験しないでも体験者の解明から得られる知的理解ーーをもたない者のかいた仏教の思想史的叙述は 皮相な見解しか示すことができず、 しばしばとんでもない見当ちがいをしていて、 そういう思想史では仏教の思想が 歴史の中で展開して行った跡を忠実に正維に示すことは思いもよらないことである。われわれがこういう幼稚な思想 史から免れるためには、第二の立場の仏教学が発展することが必須であると思われる。 また反対に第二の立場の仏教学が第一の立場の研究を取り入れなければならないことも前に見たとおりである。 そ れは、信あるいは証は人において成立し、人は必ずある一つの時代に属し、 一つの社会環境の中に存在するから、信 あるいは証がある一人の人において成立する場合には、信は歴史性をもたざるを得ないからである。仏教が時代とと ﹁宗学論﹂覚えがき 七 七

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﹁宗学論﹂覚えがき 七 A もに変化したという事実は、信あるいは証の歴史性を証している。第二の立場の仏教学は、単に第一の立場の仏教学 を取り入れるというだけでなく、 ひろく自然科学までも含む科学的研究の全体を考慮しなければならないであろう。 このような信あるいは証の学問的自己反省ともいうべき立場の仏教学と、他の諸学と同じ理性の立場に立つ学問的研 究 と し て の 仏 教 学 と 、 これら二つの研究の線が交りながらそれぞれ発展して行くところに仏教学の真の発展が望み得 られるのではないであろうか

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