盟
欝
售
英
詩
飜
譯
史 概
説
(
海 齲
以前)
大 和 資 雄正
英
詩
國譯
の創威
ε生長
、.讃美
歌
≦唱歌
讃
美
歌
史
の績密
な研
究
は徳
川時代 に潮
るべ きで 、 そ の結
果恐
ら く、勝麟
太
郎や中 島廣足
より前に・ 西洋詩
の國語 韻女
譯が あ
つ た こごを證明
するで あ らう
。現行
「 さんびか諺序
文 に 「明治
七 年(
i874 )の こ ろ長崎
な るダ ッ チ・ リブ广 ム ド及 び メ ソ ヂス トの 兩 ミッ シ# ン の 、協
同 し て讃
美
歌
の 小集
を公 に したるあ り」 ミあるカこの小
集
を 見る こミが 出來
ない の は遺撚
であ る 。其
後 萌治
二 十一年五月
に新撰讃美歌 (
植村
正久
、奥
野 昌綱
、 松 出 高 吉 〉、 三 十四年に古 今聖歌集
、 三 十六年
に現行
の讃
美歌第
一編
が 出た。明
治
七年謬
の面影
は見
られないが、 そ の傳統
の成果
か ら英詩
の講歌
ぶ りを 見 よ う .Lead
,kindly
Light
, amid the encirclinggloom
,
Lead
Thou
me on ;The
nightis
dark
, andI
amfar
from
home
,
Lead
Thou
me on・ 〔John
Henry
Newman
.)「 み め ぐみ ある光 よ。 縫は
暮
れ 1わがいへ は
遠
し . さ び しきや み の なか に迷へ る わ れ を みちび きた まへ 。」
(現行
1
・22L古今爨歌
329
・) これは後
に有萌
調ご いはれ
て ゐ る詩行
の走 り方
である。GOd
movesin
a mysterious wayHi
$wonders toperform
;
He
plants
his
f
・ ・t
・tepsin
the sea ,And
rides upon the storm . (Wiiliam
Cowper
.)
「
騨
は風
に乘
b
波
をあ
ゆむ
。嘲
治tr
−一一年 版噺 撰讃美歌.には・みめぐみ あ る光よ か こ め る くらきなか1
こもわれを導け 夜 は くら く 家は遠し われをみちびきた まへ 」 (第頁六 十 三 )
94
大
和
責
雄
みわ ざをあ らは
す海
は ひ ろ し。 j(現行 L21g ・ 古今貍歌 243 ・ 新撰 4L ) 此
譯
は第
二節
以後
に な ろ ミ愈
々 原 意 を雛 れて盆 3 まつい 。Cowper
の讃 美
歌
は この外
に も邦 譯讃 美歌
に探
用されて ゐ る。邦譯
さんぴか は何
人の手 に成
つ た か制 明 しないが 明治
十 九年の委
員に は 松山、奧野
、植 村
三氏
の ほ か に宮
川經
輝
、 田村初太郎
、瀬
川淺等
の 諸氏
が あ り、現行
さん ぴか の方
は、 別 所梅
之 助、湯
谷瑳
一郎 、 三輪源造
、 和 田秀
豊
、嚶
井 成明
、藤本 罅
吉ら諸 氏 に伍 して4
羽 湯淺
吉郎 氏 (i858 −一一) も初 期の委
員 に列
して ゐ る.湯淺
氏 の譯
した ものは $ れで ある か不 昵 なが ら、聖書
か ら壇 桝 し た 彼 の創
作詩
か ら も、 その流麗
さが覗
は れ る。 一例
をあ
げる :ARd
Ehud
put
forth
his
left
hand
, andtook
the
dagger
from
his
rightthigh, and thrust
it
into
his
belly
:and thehaft
als◎
wen と
{n after the
b1ade
, (ノ
ke
・Yge
∫ ,3
:2エf
£)「 あはや エ ホ デはた 手(ゆで ん )もて 、 右の
腰
よ り みつ るぎをぬ くよε 見しが
はや王の
胸板
ふ か く刺
し逋
し鋩
(
ミ寒
)
脊(
埀ら)
にあ まりける。」 ( 『十 二 の石 壕 一n 四。)こ の作は
聖
書の記述
ミ不 即不離
の鬩
療
を保 ちつ つ 、膸
分 奔 放な想像
を も表 現
して明治 初年
の 名作
ε稱
せ られ、讃
美歌飜
譯 者の うち最
も傑
れた詩
才 を代表
する。 上例
は ただ飜案
の手腕
を示 す
た めの見本
で 、此 俸
ミ して は寧
ろ 不 出來 な部 分で ある。「十 二 の屑 塚」は嗣治
十八 年に 出版 された 。疆澤 鍮吉作
厂 世界 國盡
し似 來
の低
調 な唱歌
は 、 十 四年伊澤
修二編
「 小學 唱歌
丿が出て面
目を改め た。 十七 年三月
發行
の 「 小學唱 歌第
三篇
」 の第
七十 八「 菊」俗
穩 「庭
の千草
」はThGmas
MOQre
のZ
伽Last
・1
?ose “f
・∫Ummerの
飜
案
で介
なほ歌
はれて ゐ る。2
,Dilettanti
の譯詩
外 山 正一 、
矢
田 部 良 吉、井
上哲
≡欠郎
同撰
「 新 體詩
抄 」初
編
は明
治十 五年 (1882)
七月
刊行
され た。奥 附
に は 六月
二 十 七 貝板 灌
碑願、 七月
二 十 一 日板権
免許
、 八月
出板
ごあ
る。哲
學 者 、異
軒
居
士井
上傅
士は序
丈 に 「 程子1
ヨ、英 詩
飜
譯 史漑
説
95
古人 之詩
、如
今 之歌
曲、 鵬 聞里 童 稚、 皆習聞
之、 而知其
設. 故 能興起」 ・・. 且 夫泰
西之詩
、隨
世而變
。故
今 之詩
、 用 今之語
、周
到精 緻
、使
人 翫 讀不倦
。」云
々 ε あり、 「 用 今 之語
、周
到精 緻
.で ある の に 、漢
文で序
文 を書
い て ゐ る矛 盾は 、 この壯 な 意 圖ご拙
劣 な作 品 εの間に も見 え る. 爾 今 居士矢 田部
理學博
士 も同機
の趣旨
を逋
べ 、 「傾者
同志
一二名
ト相
謀
リ我邦人
ノ從
來 夲常
ノ語
テ用 ヒ テ詩歌
ヲ作 ル コ ト少
ナ キ ヲ嘆
ジ 西洋
ノ風
二模 倣
シ テー種
新 體 ノ詩
テ作 リ出 セ リ。 但 シ今成ル 所ハ 西詩
ノ譯 二 係ル モ ノ多 シ.云
々 ε いつ て ゐ る遞 り、大
部分は英詩
の飜
譯であ
る。 印 ち外 山 ・ 山 仙士の 「兵士
歸
郷の詩
J(
Robert
Bioomfield
’sSoldieVs
ffome
:1, 「
輕騎 兵 進 撃の詩」
(
Tennyson
’s α ¢ 80f !加Ligytt
BnS
.ade)
,「
人
生の詩
」 (Longfellow
,
s
Psalm
of
Ltfe
)s 「悲歌
」(
Charles
Kingsley
’sThree
Fishers
丿 , 「高信
ウル ゼ ー の詩
、 (from
Shakespeare
’ sffenry
U7U
.、, 「 ハ ム レ , ト中の 一段」等
、井
上異
軒
の「 玉 の緒の歌
」 (x4 ・Psa
!m “f
Ltj
/e) ,矢
田部 爾 今居士の 「英
國 海軍の詩
」(
Campbell
’ sI
’Te
i’lfa
・“itters
・f
万・顧 ‘〃 !), 「墳
上怒懐
の詩
、 (Gray
’ sElegy
JV7n
’lteXtin
a 伽 ”!ワ α ” τ !ヒ
yσ ”の , 「 船 將 の歌
J (TennySon
’ s /?evenge ), 「 ハ ム レ 。 ト中の一段
J等がpq
十頁餘
の詩集
の大 部分 を占めて ゐ る。 譯詩
に根
當 の苦
心 を した こ ご は 、 同 じ原詩
を二 人で研究 的
に試
み て ゐるの で も解 る。例
へ ば “APsalm
ofL 漉 ” を ・ 山 ε巽軒
ミが譯 して ゐるが 、Tell
me no 亡,
in
mournful numl )ers ,
Life
is
but
an emptydream
!For
the soulis
dead
tha亡slumbers ,And
things are l)ot what they seem .を ・ 山は 「そ も
靈魂
の眠
るの は死
ぬ ε いふ べき
もの ぞか し 。人
の 一生夢
なりごあは れ なふ しで うたふ な よ。 眠 らに や
夢
は 見 ぬ もの ぞ 此 世 の 事は何
事 も夢
Σ お もへ さ さにあ らす J 」 ミ譯
し てゐる のに封 し て、 巽軒
は 「 余 ノ作
ル所
略・二君
二 同 ジ 。 但 ・二 君 ハ韻
テ踏
マ ズ 。余
ハ試
二 韻 ヲ 踏 ムa 是 レ差 ナ リ、云 々i
い つ て、 ・ 山の よ りは原意 に 皀P
した譯 を掲
け 、 「玉 の緒
の歌
」ミ題 して ゐ る。 曰 く、 「 眠 る心 は死ね る な り、 見ゆ る形はお ぼ ろ96
大
禰
資
雄
な り。 あす
を も知
らぬ我命
あ は れ はか な き夢
ぞか しなさ ミ
あ
は れ に いふ は惡 し。 」 これは後
に 目本詩
は押 韻 す べき
か 否か につ いて 論爭
を生
か る源
εなつf
。・ 出の 譯
詩
で は “Half
alea
欝 e ・half
aleague
” の 「一里
牟な り一里 掌y 並 び て進
む一里
4
≧ 、 死 地に乘
り入 る 六百
騎 、 將は掛
れの命 下 す.が有名
であ
るが、矢 田部
爾今
の “Ye
Mar
霊ners ・f
E
・gl
&nd !!
Tha
亡gua
・d
鰹 Ωat …veseas ” の
譯
、 「 イ ギ リ ス國
の海岸
を固
く守
れ る水兵
よ:は更
に よい 。 樹今
居
士譯
のEXegy
は此集
隨
一 の作であ ら う。「 出々 か すみい りあひの
鐘
は な りつ つ 野の牛
は 徐に歩
み歸 り行
く耕 す
人 もうち疲
れ や うや く去りて余
ひi
りた そが れ時 に
殘
りけり四
方
を望め は夕暮
の 景色
はい ε 曹物
寂 し 唯 この 時に聞
ゆ るは飛
び去 る蟲
の朋
の 言遠
き牧 揚
のねや につ く羊の鈴の
鳴
る響
獪 其外
に常春籐(
つ)
しげ き塔
に宿
れ る梟の近 よ る入 を す か し見て
我集に
寇
を なす もの ミ訴へ ん ごや 月 に
瞞
くい ε
哀
れに も聲
すなりか しこ に は楡 又 こ こ に
あ ら らぎの木 ぞ生
茂
る其
下蔭
に うつ高
く苔
む す土 の覆 ひ た ろ壙
に埋
もれ この村 の右 人
長
く郭眼
る。 ” 斯 く「 山々 かすみ」 f’ 四方 を望 めば」 「苔
むす: な♂稍
」餘
計 な語
が這
入 り、 ‘The
ル7麗η
8
加ノガ” 加 爵 slOwly o’er theiea
’ を 「野の牛
はそぞろに歩
み鐡
り
行
く」 だ けでは物足
らす 、 ‘sole2nn stRlneSs ,’ ‘
The
mop2’
n80wl ,’ ‘
her
ancient so/
ilany
ietg ’n, ’ ‘ 塑 &88
‘〆elms , , ‘The
n”de
forefathers
, な♂ の 諸語
は遠慮
な く無観
されて は 居 るが、 これは七五調 を整
へ る た め止
む を得
ない こ ε で 、 碌 な英
熬 字 引 も無
かつ た當
時 ミ して は 立派
な業績
で あつ た。 な ほ、 爾 今居
士 は「 船將 o
)詩
」の結
句
に長
歌
古 膿に な らつ て、「 さ りミ も見 え ぬ
波
の 上 に淨
べ る鴎
二 つ 三 つ 四つ 。」 ε七五調
を 七 七調で結
んで ゐ る。 これは後の新 體詩
の結
びの型
になつ た。爾 今居士 は 七 五 調 に
固 着
しすぎ
た。 ‘To
be
, or notto
be
’ の 二人の譯
を 比較 す
れば明
かで ある。外 li
レ山
は此後 自由詩形
で佳
い詩
をか い た。英 詩
飜
譯
史
漑
設
97
「 なが
ら
ふ べ きか但 し叉存
ふべき
に…lii
“’るか爰
が
思案
の しさ ころ ぞ. .t .」 (爾 今)
「
死
ぬ るがま しか生 くるが増
か思
案
を するはこ こぞか し・」(
・ 山)
概
して「新體
詩
抄」の缺
點 は・俗 語
を唐
突 に用ゐて調 和 を破
る に ある・ 即 ち rか せが
に や な らぬ男
の身」ε か 「そ り や靈魂
の こ ε な らす」ご か 「 功 を 立て ねば
な らぬ そ よ」等
々愛嬌
がす
ぎる。併
し彼
らがdilettanti
で あり なが ら明治
詩
壇
を生み出 し得
た の は ・ 時勢
だ けの賜
で なく
て彼等
の熱
心 の 力 に も因
る.三
搏
士の ほか人 類學
の坪井
正五郎 博
士も
「西詩
和譯
」 を發 表
し たミ傳
へ られる. 此 等の學 者の ほ か ・ 今迄誰
か らもそ の 名譯 轜 認識
され なか つ た女流
小詩
人 がゐる。後
に 「 小公子.で有 名に なつ た若松 賤子 (巖
本善治
夫 人 ) である。明治
二 十年 (
i887)
二月
五 日發 行
の 「女
學 雜 誌」第
五 十號
にAde
−laide
A
.Procter
’sOoublin8
・ffearf
の全諢
が載
つ て ゐ るが、
Where
are the swaUowsfled
P
Frozen
anddead
,Perchance
upOn somebleak
and stormy shore .「
雲
井
はるか に ミ ぴ去
り しつ
ば
めのゆ くへ いつ く そε 問へ ば答
へ て沖
つ な み寄
せて は かへ すす さ まじの
浦
に こ ごへ て果つ る らめ 。 J 三傅
士 に比
べ て遜色
が ないE
..ころで は ない。 同年
二月
十二 日發行
の 同誌
第
五 十 一號
か ら三號
にわ た り、 同じProcter
女史
のA
?VTew
jfother
五十
餘節
を彼女
は全譯
して ゐ る。 最 初の一
節
をあ けて そ の 流麗 精 確な譯詩
風
を示 さう。Iwas
with mylady
when shedied
:Iit
was whoguided
her
weakhand
For
ablessing
on eachlittle
head
,Laid
her
baby
by
her
onthe
bed
,Heard
the
wQrdsthey
could not understand .「
(
歌
の體
は姆 が物語
る さ ま に寫
したる な り。 讀 む人推
し玉 へ98
大
和
資
雄
(一) う
せ た まびたるはは
ぎ
み のな よ は きお ん手
もち そへ て 、
それ
S
もわか ぬわ こた
ち
をこご ほぎ まぜ し
臨終
の み こε うけ しは わ らは な り。 」明 治
二 十 一年十二月
十 五 日發行
の「女
學 雑 誌」に は論
文の末 にT
・Otway
の詩行
が 引用 されて ゐ る。巌 本
善
治
の執筆
になる もの で あ ら う。The
Mother
,
in
her
o缶ce ,holds
the
Key
Of
・the
・S
・u1 ;andit
is
, wh ・ stamps the
C
・in
Of
Character
, and makes the
being
, who wouldbe
aSavage
But
for
her
gentle
cares , aChristian
Man
;Then
Crown
her
Queen
o’ theworld
・「 母 は
靈魂
の鍵
を所
持せ り、 品 質の印
を打
つ は母・、野
人 を變
へ て義人
S
すろ亦 母 なり。如 此母 こ そ 全 世 界の女 皇
た る冠 を戴
くべ き なれ . 」Yenice
Preserwed
,The
OiPhan
の二名
作 を遺
した薄 幸
の 劇詩
人の名が、既
に 此頃
我 國に紹介
されて ゐ た こεは興 味深 い。3
・ 譯詩
の純 化The
lamp
mustbe
replenish ’d
,
but
eventhen
It
wil1 notburn
solong
asI
must watch :My
slumbers _if
l
slumber − are not sleep ,But
a continuance of endur 正ng thought ,NVhich
then1
can resist not :in
myheart
There
is
a vigil, andthese
eyesbut
c1Qse
TQ
IQok
within . 「 ミ も し火
に油
をば
い まひε た び そへ て む されさ毅 い ぬ るまで た もた むミ も思は す我
ねむ るεは いへ まこ ミ の ねむり な らホ深
き思
のた めに は絶えす くる し め られてむ
ね は 時計
の ;’ NC くひ ま な く うちさわ ぎ わがふ さぎ し眼
は うちにむか ひて あけ り。」Byron
, SMTanfred
の第
一幕最初 の獨 白は、斯
く譯 されて明
治二 十 二年
八月
「國民
の友
.の夏期附録
「於
母影
、に現
れた。 「於
母影
」所 載の + 八篇
は鴫
外
、直
文、通 泰、 君子 、瓊
次
郎 らの新聲
赴(
SSS
・)同人の作で、 上掲の譯
詩
英
詩
飜
譯
史
漑
言
竟99
が
鵠
外
の作
で ある こεは確
か であ
る・ こ の譯詩
の特徴
は明治
のSS
詩
・ 否 ・ 全新齷詩
に初
めて内
在的律
動 を注
ぎ 入 れた 一點
にある。從來
の宗 敦 的
な 成は常
識
的
な鑄
型の外
殻
を破
つ て・純
粹
に抒
情的
な表現
を見 出 したの で あ る. この内在的
律
動 に共
鳴
し得
る敏 感
な青年
は・ 此譯詩
に各 自の内
な る も のを醒
された。北村透
谷が この 「v ン フ レ・ ドJにさ の位
慾
激
したか を、 島 崎藤
村氏
は明
治
二 + 八年
「亡
友
反
占帳
・ (女學
雜誌No
・415
〕に紹 介
して ゐ る. この頃
譯了
され た聖書
の詩篇
も立振
な もの であつ た .松山高吉
、井
深梶
之助
諸氏
の筆
ε傳
へ られて ゐ る 。 山 田美
妙
・宮 崎湖
處子 らの詩
人 も英詩
に譯筆
を染
め た。 明 治二十四 年に出た美妙齋
の 「青年
唱歌集
」 には、Caml
> −bell
,s
lord
Ullin
’s∠Daugltter
の補
譯 が ある。A
chieftain to theHighlands
bound
,
Cries
,‘‘
BQa
亡man ,
dQ
nottarry
!And
I
’11
give
亡hee
a silverpound
To
row us o’er theferry
.”一 ‘‘Now
who
be
ye
, would crossL
hgyle
,This
dark
and stormy wa 亡er?”‘‘
Oh
,1
’ m the chiefofUlva ’ sisle
,And
亡his
Lord
Ullin
,sdaughter
.一And
fast
bef
(〕reher
fa
亡her
’s men
Three
days
we ’vefled
toge 亡her
,For
shouldhe
find
usin
亡he
glen
,My
blood
would stain 亡he
heather
...「 苫量の か き を
打
ち た た き、「 や よ、 わた し も り、
渡
守、 ざ くε く船
をい だ して よ。
こりや
獪
豫は で わ た し守
、 しろがねあま た取 らせんJE 言へ ば うちよ り
人
の聲
、 「 あや し、 御身は何
もの ぞ〜 か か る夜 をさへ
厭
は すに
こ こわ た らむ ミ の た まふ か
PJ
「 さな り。
あ
や しき者
なら
す。吾はあるばの島の圭
これは あ りん
の
姫
の君、 一昨
日姫
ε諸共 に まi
ひそ め た る た びころ も 、 呼吸
つ きあへ す
忽
び來
つ 。 認 め られ な ぱこ ろ されん。 ・.・」 原 作が原作
ゆ ゑ、 譯詩
も亦
低 調 を晃 れ ないが、Charles
Mackay
の 短唱
の1◎o
大
和
資
雄
譯 詩
「言葉
に盡
せぬ こ ころ籠
め て薔薇
をお く りて それ ε知 らす」 は佳い 。 二 十六年
に詩
集
を出 した宮 崎 湖
處子 はMrs
・Hemans
’CasaOianca
,Long
−fellow
’ s 乃 物8
β1
厩 ∫耀 助 ,Wordsworth
’ s 晩 σπ &獅 を ・ いつれ も七
五調で譯
して ゐる。彼
は又民 友祗
の 十二 文豪
に 「ラ ル ズ オ ル ス 」を書
いた 。 「我
等 七 人」の最後
の節
を あげ てお か う。『二 人は死ね り 、 今 は な し、
そ の なき
魂
は天つ 國』ご、云
へ さ甲斐
な し童女 鶴 )
は前の こε くに
答
ふ な り、『 否
E
よ我等
七人(
な た 絵り)
』ミ。 彼 の「歸省
」に もThomas
Moore
の小曲
の 譯が あ る。最
初
に逋べ た湯
淺
孚月
は明治
二 十 六年「國民
の友
」の 新 年附
録
に 「天地初
發 」を發表
した 。 これは譯詩
で は ない が、 調子 の高
い散
文は韻
文に移
し得
られ る こ ミを證
する箇
所 もある 。 聖書
ミ比 較
して見よ う。And
God
said :一‘‘Let
therebe
孟ight
:” and there wasiight
.And
God
saw the
light
, thatit
wasgood
: andGod
divided
theIight
from
thedarkness
.And
God
called theligh
亡Day
, and thedarkness
He
calledNight
.And
the cvening and the morning were thefirst
day
.「 エ ロ ヒ ム の
紳
宣 まは く 、光
あれよミ 然な りぬ。光
ε暗 εわ か るれ ば 光は畫
ミ名け られ、 暗は寝 εぞ名 け ら る。此新 しき光 をば
よ しミ
親給
ふ エ ロ ヒ ム の神
の創
造 (鳶
ざ)
の美
なるかな。
夕
あり朝
ありは じ めの 日。 」 當時 、 大 西
操
山博士 は 此詩
を 「 趣 向に於
いて は我 國
の歌
にて破
天荒
ε存
候 大體 に於い て 申分 な し」ε評 した Σ傳
へ られ る。明治
二 + 六年(
1893)
は また「 文 學界
.創 刊の年、明治
文 學史
に 一時期を劃
する年で ある。 同人の中で戸 川 殘 花 氏 に は譯詩
が あ り さ うに思はれ る。李 田禿 木 氏の
W
.S
.Landor
’slmaginarpt
Conversalion
か らの抄譯
は譯文εい ふ よ り も
寧
ろ譯詩
である。Dante
.When
you
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世 の女 (
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の 「 マ ン フ tr ッ ド」に共感
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詩
人の影響
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人の在留
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二十年 代の 若々 し い我
國に幾
分の影 響
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1879 )一篇
の ため・知
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名であつ たSir
Edwin
Arnold
が・
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Daily
ク厩 野 妙々誌の遖
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留 して ゐ た。明治
二 + 護年高
橋 五郎浅譯
の ザ 佛 陀の敏誨
」、 属年木 村亮
吉氏譯の 「 亜 細 亜迺
光」、 岡 じ詩
の高
田牛峰 博
士の抄 譯(
明治
二 十 五年)
等は薪
る事 情
に觸發
されて現 れ
丸 もの で ある. 此詩
人 の三人 旨の夫 入はH
本人
で あつ た。5
・譯詩
の瞥
及 、緯
化
せ る譯
詩
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述 の こ ミ く少數
の共 感者
を深 く動か す だけ で 、 廣 く行
はれるこεがない。逆
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よりは寧
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化
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素
を具鮪せ る喞 ち低調な)
作 品
である こミが
多
い。 大 和 田建樹
の 「歐
米 名歌詩集
J三卷 も遺憾
なが らこの部 類に屬 す
ろa鹽
井雨
江の 「 湖上 の美人
」は商
品S
して員
論 まれた もの で は な く、 「 去年
の原稿
は拙
けれ ば醸
り捨
て蔽 に譁
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くに εまれ か くまれ號 稿
した」程
「隨
分苦
心 を盡
した」譯詩
で あ .るが
・ その結
果は大い に普
及 した。 爾著
いつれ も明治
:+七 年(
i894)
の發行
である。IQ2 大
和
資
雄
こ の二 書の
内容
嫡 〜くに先
立 ち、 數 年 前に湖
つ てTennyson
’ sEneclt
Arden
の散
文 譯 を特
筆せね ば な らぬ。 二 十 三 年 一月の女
學 雑 誌 (N
。. isS
)
に始 まり「小設 」欄
に連載
され た もの で、 「 イ ナ ・ ク、 アー デン物語
」Σ ある が 原詩
か ら直
接 に譯 したε思は れる。 「某
女 譯」 Σ い ふ のは 若 松 賤子ら
し い ロ語
文 體である。「
英 國
の海 岸 に繩
壁G
じ
)
の何處
か らε もな く立 列 つ て 來 て途
切 れ た間隙(
8
「e )に一つ の漁 村を な した る處が あります。黄色
い砂の濱邊
か ら向
うを眺め る ミ
狹
い波
止 場の まは り に赤
瓦の家根
が ひミか た まリミ、苔
の蒸 した 古寺が 見え ます。」
(18go )
Tennyson
ξい へ ば忽 ち此詩
に觸 れ ろ我
國の奇態
なEnoch
傳統
は 、蓋
しそ の源
を こ こに發 する の で あ ら う。大 和田建
樹
の 「歐
米 名家詩集
」 に は英 詩
か らの 譯詩
が殆
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いつ て もい い程多
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もない 。内容
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等 の圭ε して抒情
短詩
が收
め られ て ゐ る。 その中
Kingsley
「 三 人の漁 夫.、Gray
「 野寺
の庭
」 なき既
に譯出 された作 もあり、 後 者 「 夕べ を途る鐘の聲
、 ひ び く方
よ り暮
れ そ め て _ 」は爾 今居 士の 「 山々 か すみ入 相の 」よ り拙
い。 原詩
か らひE
“ く離
れて ゐ る こミを寛
恕 するな らば、「 リ ン デン の野 に 日は
落
ちてしつ か に暮る る雪 の
色
、ア イサ ー川の
水
ひ ミ リ闇をや ぶ りて ひび くな り ...」 で始 まる 茄 ゐ躍 跏 漉 π は上 }
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來
の部
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抄」 の俗
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見 す る。「
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風
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).「
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ごろ もきて裝ひ立つ 岡の松 が枝 、
た ぐひな き
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の光
に飾
られ し野
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の樹
...」 (Lowell
).中
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もな く味 も な く老い よ り外になに もな し
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通
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ある の で は な く、單
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た りの選
集
の中
から
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を一 二 行で紹介
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の ε ころ には 「傅詳
なら
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二十年 代 ら
しい 古 さを示
して ゐ る. 爾 この頃
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Union
Readers
第
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譯 「英 詩
和 譯」が
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井
雨
江
の「湖
上 の美
人」も七五調に ε らはれた氣
味 が あるが
、大 和 田建
樹
よ り蓬か に調 子 が高 く、語彙
も豎 富で、 原 作 を あ まり無硯
せ ぬ や う苦心 し、 時に 五七の古調 を交
へ て ゐ るの は佳い .例 へ ば :Tis
・merry , ,tis
n}erry ,in
good
greenwood
,So
blithe
Lady
Ahce
is
singing ;On
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正de
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「 水
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は身に
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み て樂
しくもある か。 たわや めのア リス はい ε HJ “
樂
しをナにうた ひ
謠
ひつ 。 狛 六の一 むら
蔭
に槇木
の葉の茂
れる下
に リチャー ド の斧の昔 きこ ゆ 。
あはれ あ は れ 緑の森 そ
げに
樂
しか りける。“樹
一般
の 譯 風の見本 ご して最初
の一聯をあけ てお か う、The
stag at evebad
d
釦 nkhis
丘U
,Where
danced
the mQon onMonan
’s riU,
A
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王)his
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, wheD the sunhis
beacon
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,The
deep
−mouth ’d
bloodhound
’sheavy
bay
ReSOunded
up the rQcky way ,And
faint
,
from
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heard
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詩
餘
譯史
概 設 かtt
・・)なが るる谷水
を の みてあ きた る さを しか の 底の か なたの森
の蔭
しげる は し
ば
みその 下に
妻
を こひつ つ ね ぶ るなる夢
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’か な らむ・ あか らひ く日の朝 臼かぴ
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峰
の山の端に か
が
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め い 辞 醜 く 謝 び 謝 びて獄
の出
路 をの ほる聾 す
な 鉱峰 のあ ら しの
末
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のひづめ のお ミすご く
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きこゆな り・ 」 Io5 きこか
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語は ・ か な りScott
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め られ て大正初期
まで 愛讃
さ『れた ニ ミは ・ ゆ ゑ無 きで ない。6
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に遒 詣 深い二 人の學 者によつ て試
み られ た。 泙 内 逍遙
博 士の 「英
詩
文評釋
・(
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二十八年)
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上十吉
の 「英 名
家詩
歌註驛
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で ある。「 註
釋
丿 の 出版
は三 十 一年であるが
、恐 ら
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義録
の や うなも
の の集
成 で、 二十 八 九年頃
か ら詼 第 に現れ た もの であ ら う。註 釋 E
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を あけ る 。You
have
no children, a:ユ
d
you
can nQtguess
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anguish , what Unspeakabledis
亡ressAmothe
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lying
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}}eLady ofShalott
・i
姫は織物を 打棄てつ 姫は機を も打棄 てつ 姫は麟 間 を三 あ しあゆ みつ 唳1く蓮の花 をも見つ 兜 を も勿豸根 を も見つ 姫 はカ メ ロ ッ トを 見わ た し け り 突 然 織 物 ほ翻 参絲は 八散 し て漂ひ ぬ 戞 然 こ して明鏡は まッたた申 よ狛割 れ て け り 天 罰 わが身に くた 姿ぬ ミ シ ャロ 鏑 の姆 ま麟 ぴけ
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簡潔適切
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、 一種
の 自然な律
動、 「 まッ ナニだ 中 よ り割
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、 それ らの特徴
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の 一例
に も見 られ るで あ らう。 「評 釋
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せ られて ゐる.同 じ二 十 八 年に
東
京 専門學校 編輯局
か ら斟 て ゐ る講
義
録
の英女
評
釋
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詩
飜
譯
史
概
説
Io7 は ル ∂・・掀 祕 鞠 ・・ 伽 〆 の二篇撒
め られて ゐ る・前都
阪
田典治
譯で、r うつ く しの 才 ウ パ ル ン や ・ 此の あた りの め でた き村 よ。
こ こに は
健康
も秋
の實
の りも足 りぬ れ は耕す 男
等 も常
に皷 腹
し、笑
める如
き春 け しき もまつい ちはや く訪
れ き た り・往か な ん
S
する夏
の花
も名殘 を しみτ たゆ たひぬ 。 」 ごい ふ調子 であるが 時 々七五調
か ま じつ て ゐ る。 後者 は梗概
Σは い へ 菊 版 i77頁
に わ たる力作で ・散
文譯の重 譯で はあるが詩的
な所 が ある。 坪内博
士 の緒
言に 「 …予 之れ を惜むの あ ま り甞て校 友鶴 田喜一郎 氏 こ共に
千
八百 九十年版
に係る英 人 ’ ク レ ー氏 か散
文 を もて直譯
せ る 『イ リ ア ・ ド』 全篇
を精
讀 し初 學 者の 爲 に その 梗 概 を叙 し其の中 最 も妙(
ミ)なる箇 處
及 び 世に 名高
き燦
々 は 毎 卷本
文 を抄出 し て態 ミ直
譯に近 き譯
文 に うつ し た り. 」云
々 ミある。 二 十二 卷の終
か ら數行
を引 く。 「 わが夫
は ト ロ イ に我
身は シー プ ス に生 れた り き。 故里は變
れ き蓮 命は 同 じ か りけり. 果敢
なき夫婦
の え に し か な。 御身は 此妻
ご稚 皃ミ をふ りすて て 黄泉の 國に逝 き給ふ 。 殘 された る このや もめの身 をい か に せ まし。 一 しほ哀
れ なる は 二 人 が 問の こ の孩 兒の ぞや 。 男親の恩愛 を もえ知 らねば其を
報
ゆる も及はぬ ぞうた て き. よ し戰 揚の災禍
を追
るE
も行取の 辛苦い か な らむ。 父 お は さ ね
ば
世の人
に侮 ら
れ辱
しめ られ斥
け られて其
が莊園
を も奪
は れ な む 。果て は 他 人の袂
に 鎚 りて 辛 う じて其 が唇
を うる ほ す な るべ し 。 」梗概
ご斷
つ て ゐ るの で 、 か な り原文 を端 折つ て ゐるが、 そ れ で も一種の詩
的律
動が脈
打つ てゐ る。 原 文は書 流 しで、行
分 けは無い.以 上の ほか 佐 久 間信
恭
の 厂 英 名家 詩 散女集、附
註釋、 及 び高
橋五郎 氏の 「 短篇詩集
評釋
、 「英 獨詩
文研鑽
」等
もこの時期
に屬
せ しめて よか ら う。iO8
大
和
資
雄
II
. 譯詩
の後
退明
治初 年か ら二 十八年
頃
まで譯詩 (
概
ね英詩
の)が詩
壇
の主流
を な して ゐ たが、 三十年
に藤
村 「若 菓
集
」、 三十二 年 に晩
翠 「天
地有
情.が出て以來
、創
作
詩
が詩
壇
を風
靡
し、譯 詩
は三 十 八年
に 「 海潮 音
」が出
る まで息
を ひそ め て ゐ た. 譯詩
は後退
し て も、英
詩
は藤
晩 兩家
を皷
吹 し、 山縣螽湖
を遖
して 「 文 庫」の若人
らを皷
吹 し、 泣 董有明
二氏 を皷
吹 した。 L註解
つき譯 詩
明治
三十年代
に入つ て嶽來
、今
まで主ミ して會話
や 時文に 力 を注
いで來
た英語
雜誌
が、衣
第
に英 文 學 に も注意 する や うにな り、 且 つ英語英
文學
を專攻 す
る若
い學徒
が漸
く輩
出 して 正純
な英
文 學 を紹介
し始 め た。「
命 運盡 き
ぬれ ば 身
の榮 達
に永 き別れ を告 ぐるな り … 」 これ は明治
三十一年
「英語
世 界 .六月
號に 出て ゐ る無 名氏
の譯
で あるが
、沙
翁
が表
現したCardinal
Wolsey
のpathos
を或 程度
まで傳
へ、 外 山博 士の 「 お さ らば さ らばい ざさ らば
再び曾は ぬ暇
乞
ひ榮
譽
に永 く別 るべ し ..・「 に比 す
れば隔
世の感
が ある。 七 五調 も大
和 田建樹
らに比
べ る ミ原詩
の意義
を損
ね まい ご す る努力が 著 し くなつ た。 例へ ば 、Our
bugles
sang truce,for
the
night −cloudhad
IQwered
,
And
the
sentinel stars set their watchin
the skア ...(
Campbell
:Zhe
Sbldie
〆sDream
・)
「