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伊藤 公雄

1)

変容する現代スポーツと男性性

1)京都産業大学 抄 録 近代スポーツは男性主導で発展した。しかし、ジェンダー平等への大きな歴史的社会的展開は、 現在、近代スポーツそのものの変容を生み出している。 本論文では、まずイヴァン・イリイチらによる全近代社会における地域的・文化的多様性を帯び たヴァナキュラーなジェンダー構造が、産業社会の登場によって、ある均質的な方向(イヴァン・ イリイチのいう「経済セックス」)へと水路づけられた経過を概観する。その上で、イングランドに おいて誕生した近代スポーツが、ヨーロッパに特有なヴァナキュラーなジェンダー構図の上に、産 業社会の生み出したジェンダー構造が結合するなかで成立した可能性についてふれる。また、この ことは逆に、ヨーロッパ以外の伝統スポーツにおけるジェンダー構図の多様性を示唆していること を指摘する。 ノルベルト・エリアスの指摘が明らかにしているように、近代スポーツは、暴力の規制を伴って 発展した。他方で、近代国民軍は、近代スポーツを基礎とした身体の規律・訓練の徹底をともなっ て発展した。そこには、戦争とスポーツとの密接な関わりとともに、男性同盟という特異な同性間 の結合形態を見出すことができる。ここから、男性たちのスポーツシーンに今なお見出しうる、ホ モセクシュアリティとは異なるが、(イヴ・セジウイックのいう)ホモソーシャリティといったレベ ルを超えた強い(ともに生死をともにすることで生まれるような)結合といった課題が浮上してく るだろう(これを、ホモエロティシズムと呼びたい)。 1970 年代以後、急速に拡大したジェンダー平等の動きは、従来の男性主導の社会の根本的変化 を生み出しつつある。産業構造の変容や価値観の変化は、従来の男性のヘゲモニーを食い破りつつ ある。その結果、剥奪感の男性化現象さえ可視化されつつある。こうした社会変容は、近代男性主 導社会の象徴であったスポーツの世界においても、さまざまな病理現象をうみだしつつある。いわ ゆる中毒性を帯びた悪しき男性性という課題が、スポーツの世界においても大きな課題になってい るのは、そのためだろう。 現代スポーツの変容を男性性という視座から再検討することは、近代スポーツの総括をするため の必須の作業であるとともに、スポーツの今後を展望するためにも重要な視点といえるだろう。 キーワード:近代スポーツ、ジェンダー 、男性・男性性、剥奪感の男性化

■特集:「男性性」からみたスポーツの現在

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Changing Contemporary Sports and

Men & Masculinities

ITO Kimio

1)

1) Kyoto Sangyo University

Abstract

The modern sports have developed under the masculine hegemony. But now historical and social change toward gender equal world is making the transformation of sports.

In this paper I would like to overview the historical process from vernacular gender structures in pre-modern societies to homogeneous trend (birth of “ecomomic sex” by Ivan Illich) through the development of modern industries. And I will point out that the modern sports born in England were established through the close ties between the specific European vernacular gender structure and the modern gender structure in industry society. In the same time I want to show the diversity of gender structures in the non-European traditional sports.

As Norbert Elias pointed out, the modern sports developed with regulation of violence. On the other hand modern national armies were established through physical training and disciplines originated in modern sports. We can find the close relations among the modern sports and modern wars. The modern national armies brought about a kind of “male league” that united men tightly. Here I want to propose the concept “ homo-erotic relation” among solders and/or male sport athletes that makes extraordinary strong male-ties including sharing death drives . This ties are not homo-sexual ones nor homo-social relations (by Eve Sedgiwick)

Since 1970s we are facing world gender equal tides and the male-dominant societies fundamentally have changed. The changes of industrial structures and value systems have destroyed male-hegemony in the various fields. And now we are facing so-called “Masculinization of Deprivation”. These social changes are producing some social pathological phenomena in the sports scenes. These years we confronted with “ toxic masculinity “ in the sports world as the symbolic fields of male-dominant world.

We have to re-examine the contemporary sports from the viewpoints of men & masculinities studies , to analyze the modern sports totally and to prospect the future of sports.

Key words: modern sports, gender, men and masculinity, masculinization of deprivation

■ Japan Journal of Sport Sociology 27-2(2019)

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身体を使用する近代スポーツにとって、ジェ ンダー問題は一種の「鬼門」だったと思う。ジ ェンダー平等の声がいくら広がっても、近代ス ポーツにとって、男女(オス・メス)の生物学 的・身体的性差は、ある意味決定的な要因とし て把握されてきたからだ。 近代スポーツの初期段階において、女性たち のスポーツ参加が、徹底的に排除されてきたこ とはよく知られている。事実、近代オリンピッ クは、その誕生の時から女性の排除を原則とし てきた。現在はほぼ男女同数ある男女別競技種 目において、女性競技の数が男性競技数の半 分になったのは 1976 年のモントリオール大会 であり、女子マラソンが正式種目になったのは 1984 年のロスアンジェルス大会であったこと を振り返れば、近代社会の発展の中で、スポー ツでの領域の女性排除が顕著であったことは明 らかだろう[伊藤,2001 他]。 もちろん、女性排除の仕組みは、1970 年代 に至るまで、世界中のほとんどすべての社会領 域で構造化されてきたことは否定できない。し かし、なかでもスポーツ領域は、男女の生物学 的・身体的性差にきわめて敏感だったため、男 女の壁は根強く維持され続けてきたことも事実 だろう。誰でも思いつくことだが「スポーツは、 ジェンダー分断が重要なものであり続けてい ることを確認できる主要な分野」[Benett et. al., 2010=2017: 405]なのだ。 実際、いまだにスポーツ競技のほとんどは男 女の性別に基づいて行われており、男女混合型 の競技スポーツは増加しつつあるとは言え、ま だ少数派だ(生物学的・身体的に男女の性差が 平均的に存在していることを否定するつもりは ない。しかし、この問題をどう考えていくかは、 今後のスポーツの未来と深くかかわる課題であ ることも事実だろう)。 近代スポーツの女性排除の構造が存在してき たということは、逆に言えば、近代スポーツは、 登場の初期段階から「男のもの」というジェン ダーが刻印されてきたともいえる。その意味で、 近代スポーツを考えることは、そのまま近代の 男性性を問うことでもある。 しかし、男性性とスポーツという視座からの 研究は、1970 年代から深化した国際的なジェ ンダー研究の流れのなかでは、やや遅れて発 展した。おそらく最初にまとまった男性とス ポーツ論は、サボらの編集によるスポーツに おける男性アイデンティティ論[Sabo, D., and Runfola, R.(eds.), 1980]だっただろう。さらに、 1980 年代後半からこの動きに加わったメスナ ー[Messner, M., 1992]の研究などがあげられ るべきだろう。と同時に、本稿でも何度か言 及することになるエリアスとダニングの著作 [Elias, N. and Dunnning. E, 1986=1995] に も ふ れる必要があるだろう。特に、「機能的民主化、 男女平等というグローバルな勢力に対する労働 者階級の反作用」(「訳者あとがき」)としてフ ーリガン男性を分析したエリアスの考察は、現 代社会におけるスポーツと男性性をめぐる分析 として、きわめて重要だろう。 おそらく日本では、1996 年の日本スポーツ 社会学会主催の国際会議での伊藤[1998]の 報告を嚆矢とし、スポーツとジェンダー学会へ とつながる研究グループによる『スポーツ・ジ ェンダー学への招待』[飯田・井谷編,2004] などで、男性とスポーツが論じられ、それ以後、 日本のスポーツ社会学の分野でも、男性性の視 点からの研究が増加しつつある。 付け加えれば、現時点での男性とスポーツに ついて研究は、先述したサボとメスナーにマッ ケイを加えた 3 人の編集による『男性性、ジ ェンダー関係とスポーツ』[McKay, J., Messner, M.A. and Sabo, D. 2000]がよくまとまった成果 といえるだろう。

ジェンダー概念再考

本稿が対象とする近代スポーツの来歴と未来 を男性性という視座から考察するためには、近 代社会におけるジェンダー構造の特殊性という

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議論から始める必要があると思う。というのも、 近代的なジェンダーの構図は、明らかに多様な 形で展開されている前近代社会のそれとは異な ったある均質な傾向をもったものだからだ。 ここで、改めて、ジェンダー概念の位置付け、 特に近代社会におけるジェンダー構造の特徴に ついて振り返ってみよう。 そもそも「ジェンダー」は、もともと言語学 分野の用語であった。たとえばヨーロッパの言 語には今でも「女性名詞」「男性名詞」「中性名 詞」などがある。言語におけるこうした「性別」 表現が「ジェンダー」という概念で分析されて きたのだ。 しかし、なぜ西欧の言語の多くに、こうした 「ジェンダー」(男性名詞、女性名詞、中性名詞 など)が見られるのだろう。その背景には、人 間による世界認識の問題が控えていると考えら れる[伊藤,2003 など]。世界の認識のため には、分類が必要だ。なかでも二項対立の図式 は、ある意味で世界認識の基本的方法である。 この二項対立図式に男女という対抗図式が重な ってきたと考えられるのだ。 たとえばブルデュは、彼の初期の北アフリカ におけるカビル族研究のなかで、彼ら彼女らの 世界認識が基本的に二項対立図式の組み合わせ でできあがっており、男女の二項は、こうした 世界図式の基本的な構成要素になっているとい う[Bourdieu, 1980=2001]。 欧米の研究をまたずとも、東洋の古代以後の 文化をみれば、世界の男女の二項図式が存在し ていたことに気づかされるだろう。陰陽の図式 である。大韓民国の国旗にも描かれている陰陽 の世界図式において、陰は女性、陽が男性を示 すことは周知のことだろう。 ただし、こうした世界の二項図式分類におけ る男女の配置は、必ずしも普遍的に共通してい るわけではない。ブルデュは、カビル族におい て昼は男性の時間、夜は女性の時間に割り振ら れている、と分析しているが、北米のネイテイ ーブ・アメリカンであるホピ族は、昼は女性の 時間、夜は男性の時間に配分されているという [伊藤,2003 など]。つまり、男女の二項を基 礎にした世界認識図式は、世界中に見られるが、 男女の「配置」は、文化によって異なるし、多 様性をもっているということだ。 イリイチとヴァナキュラーな ジェンダー こうした男女を基盤とする二項図式に基づく 世界像という視点を強調した論者の一人として イヴァン・イリイチをあげる必要があるだろう (イリイチの前近代に戻れというような主張に はとても賛成できないが、その視座はジェンダ ーを考えるとき、きわめて有効だろうと思う)。 彼もまた、男女という二項図式は、かつて人々 の共有する世界像の内に組み込まれていたと考 察した。イリイチは、この二項図式に基づく形 で、男女の相互に補完的な関係が、世界中で成 立していたと考えたのだ(もちろん、現時点で 見れば、この図式そのものが、男女のセグリゲ ーションを含む、性による社会を分断する構図 であると言う見方もできる)。つまり、男女そ れぞれの役割は異なるが相互の補完関係で全体 として共同体の生活=民衆世界が成立していた と考えたのである。 すでに述べたように、図式のあり方は、地域 によって、また時代によって変化する。イリイ チは、それぞれの地域の固有の生活に根ざした ジェンダーの様相を、ヴァナキュラーなジェン ダーと呼んだ。地域的な特性は多様であるが、 男女という二項図式と両者の相互補完の関係は ほとんどの前近代社会で見いだせるというのが イリイチの議論である。 近代産業社会の成立が、多様でありつつも男 女の二項図式=相互補完の関係を形成してきた ヴァナキュラーなジェンダー構造を破壊した、 とイリイチはとらえたのだ。つまり、男女とい う相互に補完的なジェンダー関係のない世界の 登場である。

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よく知られたようにマルクス主義フェミニズ ムは、近代産業社会は、男女の関係を「男性= 生産労働=「公的」領域の担い手=有償労働者」、 「女性=(家事・育児・介護などのケア役割を 担う労働力の)再生産労働=「私的」領域の担 い手=無償労働」へと組み替えたと指摘した。 イリイチは、マルクス主義フェミニズムと連動 しつつも、この問題を「経済セックス」という 独自の用語で分析しようとした。つまり、男女 の相補的二項図式を保ちつつ、地域的・文化的 に多様性をもっていた男女の関係が、産業化の なかで生産労働を担う男性と、家事・育児など いわゆるシャドーワークを担う女性へとある意 味「画一化」されてしまったというのだ。産業 化にともなう経済のコントロールの下に、男女 の多様な分割=相補的な関係が、「同じ方向」 に均質化されたというわけだ。 ヨーロッパ文化のなかの スポーツとジェンダー こうした近代(産業)化は、当然、近代スポ ーツにも強い影響を与えた。と同時に、こうし た男性主導の形で誕生し、発展した近代スポー ツが、ヨーロッパ文化というヴァナキュラーな 要素を刻印していたことにも目配りする必要が あるだろう。というのも、古代ギリシアから中 世を経て、近代に至るヨーロッパ地域における 「遊び」ないし「スポーツ」には、他の文化・ 文明と比べて「男性性」の要素が強くみられる からだ。 ギリシアの各都市の間で展開された古代オリ ンピックが、市民権をもった男性のみの参加が 許され、女性を完全に排除してきたことは、こ れまで強調されてきた。男性市民によって担わ れたオリンピック競技は「軍事的な動機と運動 選手としての動機が合致することは、ほとんど のギリシア人にとって、男らしさといえば活動 的な身体であることを保証するものであった」 [Guttmann, 1996=1998: 25]のだ。 エリアスによれば、イギリスでスポーツと いう言葉が誕生したのは、16 世紀頃。フラン ス語の「遊び disport」を起源として、「肉体の 行使が重要な役割を果たす娯楽の特殊な形態」 として発展したのだという[Elias & Dunnning, 1986=1995: 217]。 中世期以後のヨーロッパのスポーツにおける フットボールの発展形態をみれば、貴族階級に よるセレモニー的なものから、民衆による村対 抗のものまで、各地で盛んに展開されたいたこ とがよくわかる。周知のように、中世から近世 にかけてのフットボールは、時に激しい暴力を ともなった、男性たちによる集団戦として行わ れてきた。エリアスやダリングらが強調するよ うに、イギリスをはじめ、ヨーロッパにおい て発展した伝統スポーツの多くは、男性によ る暴力的な闘いをともなった、集団的対抗の スタイル=「模倣的戦争」[Elias & Dunnning, 1986=1995: 239]が主流であったのだ。 伝統スポーツの中のジェンダー しかし、前近代以前の多様なジェンダー構造 をもった文化(ヴァナキュラーなジェンダーに 依拠する文化)の存在は、ヨーロッパ文化に特 徴的な、男性を中心にした競争、闘争といった 「荒々しさ」の表現とスポーツのかかわりとは 異なる要素を持っていたと考えられる。たとえ ば日本の蹴鞠はその一例かもしれない。蹴球の 中国からの日本への移入は 7 世紀のこととい われる。ただし、中国での蹴球はすでに対抗の 集団競技であり、今でいうゴールのような場所 にめがけて球を蹴り込むことで勝敗が決められ ていたという。しかし、それが日本に入ってく ると、競争=闘争的な要素はほとんどなくなり、 むしろ個人のパフォーマンス重視の形へと転換 されたといわれる[伊藤,2009]。 実際、ヨーロッパ文化以外の地域のスポーツ を見ると女性の参加が見られるものも少なくな い。たとえば、東アジアや東南アジア地域の綱

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引きには、男女の対抗のものが存在しているし、 「朝鮮半島と日本にあっては、実際に男女が対 抗する以外に、男綱、女綱と称する二本の綱を 用意し、これを一本に結びあわせて引き合う スタイルまでが考案された」[稲垣他,1996: 90]といわれる(ここにも、先述したイリイ チのいう男女の相補性をともなう宇宙像が関係 していることも指摘しておく必要があるだろ う)。 稲 垣 ら の 編 集 に よ る『 ス ポ ー ツ の 歴 史 』 [1996]をみれば、ヨーロッパ以外の地域には、 女性の参加するスポーツや遊戯がそれなりに存 在していることがよくわかる。相撲やレスリン グに代表される一対一の格闘技においても、ア マゾンのカマユラ族の女性の相撲[同書:64] や日本の羽子板や朝鮮など、女性の対抗スポー ツも見られる。そもそも、日本における相撲の 記述は『日本書紀』における雄略天皇による女 性同士の相撲(男性の相撲を真似て女性たちに 取り組みをさせたというものではあるが)であ ることも忘れてはならない。 また寒川恒夫監修『21 世紀の伝統スポーツ』 において、K・プランチャードも、北米のネイ テイーブ・アメリカンの人々やオセアニアのア ボリジニのスポーツの中には、近代スポーツに みられるような男性だけに限定された形態でな く、男女混合で行われるものや、男女対抗のも のも数多く存在していることを指摘している [寒川監修,1995]。 スポーツ人類学者の松波健四郎によれば、ヒ ンドゥー教の古武術タングタをめぐって「タン グタは極めて男性的な武芸ではあるが、メイ テイ族は男性だけのものに留めず、女性たち にもその武芸を開放してきた」[松波,2016: 126]という。その背景に、松波は古代ギリシ アと古代インドの肉体文化の見方の違いがある のだという。「古代ギリシアの如く、裸体(肉体) の美について考えた地においては、やはり激し いレスリング、ボクシング、パンクラチオンと いった格闘技を初め、熟練技術を必要とする様 ざまなスポーツを発展させる。一方、古代イン ドのように、仮面であるとか、その仮面に似合 う衣装にこだわる地域では、残念ながらスポー ツ的なエネルギーを発散させる肉体活動はそれ ほど見られない。その代わり、宗教的な文化、 それに付随する重厚な哲学を生み出し、内面で ある精神の発達を促してきたといえようか」[松 波,2016:135]。 この視点から、彼はメイテイ族のタングタへ の女性の参加を「その理由は、単に技術だけを 身に纏う武術にあらず、人間的修養の価値を 認めて」いた点に求めている[松波,2016: 126]。 われわれはスポーツの男性性や模擬戦闘性に しばしば注目しがちだ。しかし、広く比較文化 的にスポーツや遊戯の歴史をみるとき、こうし た視座は、ややヨーロッパのスポーツの視点に 縛られたものであるのかもしれないとも思う。 そうであれば、われわれにとってのスポーツ、 すなわち近代スポーツそのものが、ヨーロッパ・ スポーツのスタイルの影響を色濃く受けている ことも見えてくるように思う。 近代スポーツとヨーロッパの覇権 その意味で、われわれは、近代スポーツのも つ文化的・歴史的特性(ヨーロッパ起源の競争 的で時に暴力性をともなった、しばしば集団に よる対抗戦という形式)にもっと目をむける必 要があるのかもしれない。 しかも、そこには、「男性による」と付け加 える必要があるのだろう。他の地域に比べて、 歴史的に男性主導の文化の根深いヨーロッパに おいて近代スポーツが発展したこと、しかも、 それが、ヨーロッパにおける近代産業社会の発 達とともに生まれ発展してきたことは、近代ス ポーツをきわめて強く規定したといえるだろ う。 まさに、「近代産業社会を導いた男性原理は、 専門分化・効率性・生産性重視といった傾向を

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強くもっていた」し、それは、グットマンが指 摘したように「近代スポーツに特徴的な専門 家、組織化、計量化、抽象化、合理化の傾向や、 それと密接に結びつく競争原理、達成原理、記 録主義の強調など」の「近代産業社会の男性 性原理」を色濃く帯びていたのである[伊藤, 1998]。 実際、近代オリンピックの創唱物であるピエ ール・ド・クーベルタンの次のような発言は、 近代スポーツが「男のもの」であることを明言 しているように思われる。 「精粋であるだけで満足ではありません。その 精粋は騎士性を伴っていなければなりません。 騎士はとりわけ『戦友』であり、勇敢で勢力あ ふれる男たちであります。騎士性は、元々結構 力のある素朴な友情の帯よりももっと強い帯を 結んでいます。…それは、力に対して力で抗す る心であり、またそのために騎士的に熱烈な 試合を願う心であります」[ド・クーベルタン, 1935]。 と同時に、エリアスが指摘してきたように、 スポーツの歴史的発展が、暴力の規制と抑制と ともに展開してきたことも押さえておく必要が あるだろう。国家による暴力の独占のもとで、 スポーツにおける「暴力」はルールに縛られ、 規制されることになったのである(もちろん、 フーリガン現象のように、そこから「溢れ出る」 暴力性を近代スポーツが内包していたことも踏 まえての上のことだが)。 戦争とスポーツ 近代スポーツと暴力の問題を考えるとき、ス ポーツと戦争=戦闘行為との類似性に目をむけ る必要もあるだろう。 「兵士がけっして一人でないと同じく、どのよ うなスポーツ選手も試合に個人としては挑みは しない。…両者は、一方で大隊、連隊、軍隊、 他方はチーム、クラブ、地方、国という集団と 一体をなしている」[Corbin, A. and Vigarello, G.

(eds.) 2011=2016: 382]という指摘は、戦争と スポーツの連動性を指摘していて興味深い。 実際、戦争とスポーツはほとんど裏表の関係 をもっているとさえいえる。 「精神のコントロール(冷静さ)、身体の制御(規 律的精神)、意志による支配(決断力)、利他的 ないし連帯的精神(自己犠牲)、合目的な感覚 (集団の勝利)というのは、必然的に軍隊のな かの兵、都市の市民、一家の長の父親のことを 考えさせる。彼らは勇気を女たちの恐れや涙に 対置し、規律的精神を発揮して女たちの動転や 混乱を回避し、決断力を示すことで娘や妻たち に必要とされている温和さとは別の能力を発揮 し、勝利に対する欲求から母や姉妹の見せる従 順さを拒むのである」[Corbin, A. and Vigarello, G. (eds.) 2011=2016: 386]。 ナポレオンの生み出した「国民軍」、さらに 20 世紀の二つの世界大戦は、スポーツを通じ た肉体訓練と戦争を強い絆で結びつけることに なった。いわば、スポーツを通じた「男性同盟」 の結成、さらにそこから「戦士共同体」を生み 出すという流れは、スポーツを通じて暴力の抑 制を進めてきたはずの近代社会のもう一つの側 面といえるだろう。 と同時に、この「男性同盟」現象を、現代ス ポーツを読み解くときのひとつの視座として考 えることもできる。現代の男性スポーツに見ら れる、男性同士のキスや抱擁のシーンは、どこ かこうした「戦士共同体」を彷彿させるからだ。 男性同士の結合をめぐる議論において、セジ ウイックのホモソーシャリティ概念の重要性は 落とすことはできないだろう。彼女は、文学の 分析を通じて、近代の男性の中に、ホモセクシ ュアルとは異なる奇妙な強い結合を見出したの だ。つまり、女性嫌悪とホモフォビアを軸にし た男性同士の同性間の強い絆という視座を見出 したのである。この観点は、近代社会における 女性排除と「男性同盟」のありようを分析する 上で、きわめて重要なものだといえるだろう。 しかし、このホモソーシャリティ概念では掬

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いきれない男性同士の強い結合があるように思 われる。その代表例が、「戦士共同体」である。 ここでは、戦士たちは、ホモセクシュアルとは 異なる、しかし同時に、ホモソーシャルという ような「弱い」結合でもない、強い絆を表明し ているのである。 たとえば、第一次対戦中の男性兵士間の強い 結合を、彼らの書いた詩から考察したマーク・ リリーは、異性愛男性兵士のなかにも、きわめ て強い同性への配慮と(性的ともいえるような) 結合への欲求を見出している[Lilly, 1993]。 伊藤[1998]は、この課題を、かつて、モ ッセの概念を踏まえて、スポーツにおける「ホ モエロティシズム」という視点から考察したこ とがある。しかし、ここで引用したモッセの議 論は、実はかなり不十分な整理しかされていな い(モッセは、セジウイックのホモソーシャル 概念を知らなかったように思われる)。ホモソ ーシャルともホモセクシュアルとも異なる、い わば「タナトス」(死への希求)の共有をベー スにした男性の絆という観点は、男性同盟、戦 士共同体という視座からのスポーツ分析に、今 後とも活かすことのできる視座ではないだろう か[伊藤,2003 など]。 現代社会と男性性のゆらぎ しかし、第二次大戦後の(一応は平和な)世 界は、こうした「男性同盟」や「戦士共同体」 を突き崩しつつある。その意味でも、エリアス が早い段階で指摘してきたように、現代社会に おける社会変容、特にジェンダーをめぐる布置 変容が、男性に大きなジレンマを生み出してき たことに、スポーツという視座から再度注目す る必要があるだろう。この動きは、男性主導の 近代スポーツの根幹にも深い影響をあたえつつ あるからだ。 1970 年前後に本格的に開始された産業構造 の変容は、労働におけるジェンダー構造に大き な変化を迫ることになった。 それまでの労働集約型の工業社会=製造業中 心社会において、妊娠・出産の機能をもたない 男性たちは、「計算のできる」(つまり出産前後 の休業を組み入れる必要のない)労働力であっ た。産業革命の直後は重要な労働力であった女 性と子どもは、やがて生産労働の場からはずさ れ、女性は、労働力の再生産労働=家庭におけ る家事・育児・介護労働者に、子どもたちは学 校制度のもとで次世代労働力としてトレーニン グを受ける存在として労働現場から排除される ことになったのだ。平均的に筋力や瞬発力が女 性よりまさる男性たちの身体が、製造業にむい ていたということもあるだろう。 しかし、1970 年代以後拡大していった情報 やサービスを軸にした産業の拡大は、男性中心 の労働集約型の産業の仕組みを根本的に変容さ せることになった。コンピュータで制御できる 時代に「男性の筋力や瞬発力」はそれほど必要 ではない。また、サービスや情報産業の拡大 は、それまでむしろ「生産労働」の場から切り 離されて来た女性たちの経験が、有力な新たな 「資源」さえ形作ることになった。「男」たちは、 現代の情報・サービスを軸とする社会の中で、 男というジェンダーだけで「優位性」を保てる 状況からの離脱を要求され始めたのだ。 さらに、1960 年代後半のあらゆる人間の「人 権」を認めようという理念の広がりは、人種差 別や障がい者差別、年齢差別や外国人差別・先 住民差別などあらゆる差別撤廃の動きを深化さ せた。なかでも「世界最大の人権問題」として 戦後位置付けられてきた女性の人権への配慮 は、大きく広がりをみせた。 こうした人類史的ともいえる変化が、経済の 発展した諸国を襲ったのは、すでにのべたよう 1970 年代初頭のことだった。繰り返すが、女 性の権利の擁護という声は、この時期以後、国 際的に急速に拡大したのである。 国連が、本格的に性差別撤廃に取り組みを開 始したのは 1975 年の「国際女性年」とそれに 続く「国連女性の 10 年」のプロジェクトの展

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開であった。「平等・開発・平和」を掛け声と するこの動きは、開発途上国の性差別問題の克 服とともに、経済の発展した諸国での性差別撤 廃の動きと連動して展開された。 剥奪感の男性化 Masculinization of Deprivation 第二次世界大戦後、特に、1970 年代以後の ジェンダー平等のこのような動きは、近代的な ジェンダー構造に大きなヒビを入れた。しかし、 多くの男性は、いまだに「男性性」の自己証明 を、さまざまな場で求め続けている。 こうした近代社会の男性性を、「優越指向」(他 者と競争し勝たなければならないという心理的 傾向)、「所有指向」(たくさんのモノを所有し 管理しなければならないという心理的傾向)、 「権力指向」(他者に自分の意志をおしつけられ なければならないという心理的傾向)という 3 つの指標で分析しようと思う。 男性同士の間でも、この 3 つの指向性をめ ぐる激しいゲームが続けられてきた。ただし、 男性同士のゲームにおいては、男性たちはすべ て勝利者になれるわけではない。だから、男性 同士のゲームにおいては、「負け」を認めるこ ともできる。しかし、このゲームが女性との間 で生じたときはどうなるだろう。それは、しば しば絶対に負けられないゲームになってしまい がちなのだ。 「男たるもの、女には知的にも精神的にも肉体 的にも優越していなければならない」。「男は女 を所有物としてモノのように管理できるくらい でないと一人前ではない」。「男は女に自分の意 志を押し付けられるくらいでないといけない」。 男性たちのスポーツ文化にも馴染みの深い、こ うした「男性性」の要素は、多くの問題を生み 出している。DV やセクシュアル・ハラスメン トなどの性にかかわる暴力の背景には、こうし た男性たちの無自覚な「男は女性に対して支配 的でなければならない」という思いこみにひと つの原因があるからだ。 しかし、単に支配的な性へのこだわりだけが 性的暴力の原因ではない。むしろそこには、男 性の女性への過剰な「依存」という要素も潜 んでいると思うからだ。アメリカの DV のケー スで、妻を殴りながら「I love you」と叫ぶ男 性の事例をよく聞く。これはたぶん「Love me, please」なのだろうと思う。女性とは、「自分を どこまでも包み込んで癒してくれるべき存在で ある」(たとえ殺されても)とでもいっていい ような「甘え」がそこには透けて見えるのであ る。 1970 年代以後の社会変容は、こうした男性 の女性に対する「支配と依存」の構図を壊し始 めた。その結果として、いわば「剥奪感の男性 化 masculinization of deprivation」[伊藤,2018] とでもいうべき事態が世界中の男性を襲ってい るのではないかと思われる。 この用語は、「貧困の女性化 feminaization of poverty」から思いついたものだ。開発途上国 の経済発展は、その一方で貧困や格差を拡大さ せた。しかもその「しわよせ」が女性にのしか かっているという状況を示した言葉だ。この状 況はまだ続いているし、日本の非正規女性の割 合の増加などをみれば、日本社会でも生まれて いるともいえる。しかし、もうひとつの性であ る男性たちも、かつて維持していた経済力の喪 失や、家庭や職場、地域社会で「何か奪われて いる」ような思いに、無自覚にとりつかれてい るのではないか。社会の変化、時代の変容に対 応できないまま、いいようのない「不満」や「不 安感」を多くの男性が抱き始めているように思 われるのだ。 トクシック(中毒性を帯びた有害な) 男性性という課題 こうした「剥奪感の男性化」とでもいえる状 況の下で、さまざまな社会的な病理現象が国際 的にも生じつつある。たとえば、ここ 10 数年、

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経済の発達した諸国で生じている男性を主体と した「理由なき大量殺人」や「性暴力」、「ハラ スメント」などの続発である。こうした犯罪的 行為の背景には、先にふれた男性性の問題がし ばしば控えている。現代社会で、「(強く、たく ましく、競争に勝つ)男であること」の強い要 請と、その実現不能性の間で、揺れ動く不安定 な男性性が、こうした病理的と言っていいよう な社会現象の背後にある。 近年、近代的な男性性が生み出す不安定性に ついて、トクシック・マスキュリニティ(中毒 性を帯びた有害な男性性)という概念が浮上し つつある。 ニューヨークタイムズの「トクシック・マス キュリニティとは何か」(2019 年 1 月 22 日付) によれば、この「伝統的男性性イデオロギー」 には、以下のような 3 つの行為や信念が控え ているという。つまり「感情の抑制あるいは悩 みの広がり」「表面的なたくましさの維持」「力 の指標としての暴力(いわゆる “タフガイ” 行 為)」である。 問題は、こうしたトクシック・マスキュリニ ティが、スポーツ・シーンにおいてもしばしば 発現しつつあるということだ。 そもそも、この概念は、銃による大量無差別 殺人事件の多発とともに、アメリカ合衆国のプ ロ・アスリートの起こした多くの「事件」が契 機になって広がったものだ。 O・J・シンプソンの事件や、タイガー・ウ ッズをめぐるできごとなど、思い出すだけでも 多数のトクシック・マスキュリニティとスポー ツとのかかわりが見えてくる。特に、NFL や フットボールの世界とこの問題のかかわりにつ いては、すでに多くの言及がなされている。日 本社会においても、ここ数年、男性コーチのレ イプ事件やハラスメント、さらにグルーミング による支配的関係の問題が、大きな話題になっ てきた。 近代的男性性の最も極限的な表象の場である といってもいい近代スポーツの領域が、今や、 男性性をめぐる社会問題の象徴的な「場」にな っているといってもいいだろう。 スポーツと男性性のゆくえ 剥奪感の男性化のなかで、トクシック・マス キュリニティによる暴力や犯罪が多発する時 代、スポーツと男性性をめぐる今後はいかなる 形で展望されるのだろう。  『ザ・ガーディアン』紙で、キルビー・フェ ンウイックは、「フットボールはトクシック・ マスキュリニティを終わらせることができる か、しかし、まずはこのことについて話し会う ことが必要だ」と題した記事で興味深い指摘を している。 ここでは、トクシック・マスキュリニティに よるハラスメントや性暴力の広がりを批判する 女性アスリートたちの声に対して発せられた、 オーストラリア・フットボール・クラブ・ウイ ーメン(AFCW)のカールトン・フットボール・ クラブの男性コーチであるダニエル・ハーフォ ードの次のような発言が引用されている。 「男性性にはトシック・マスキュリニティなん てない。バカなやつのなかに中毒性をおびた有 害な要素があるだけなんだ。君の気持ちはわか るが、男性性と中毒性をもった有害行為をごち ゃまぜにしないでくれ」。 このコラムの筆者は、このハーフォードの発 言を間違った発言だとしつつ、ハーフォードが、 この問題を学び、関与し、理解し、変革の一部 を担おうとしようとしていることは重要だと述 べている。その上で「ハーフォードとその男性 の仲間たちが、女性たちを貶めてきた性差別的 なジョークに対抗しようとすることを想像して ほしい、…スポーツ・ヒーローたちと一緒に、 トクシック・マスキュリニティに挑戦する責任 を果たそうとすることを想像してほしい。彼ら が自分たちの登場の場や影響力を用いて、より 強力に働きかけることを想像してほしい」と、 スポーツ界の男性たちの、この問題への対応に

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期待を告げている。 と同時に、ジェンダーとスポーツの変容が、 トクシック・マスキュリニティの変革にむかっ て地殻変動をもたらしつつあることを、次のよ うに述べている。 「女性スポーツの興隆は、固定的なジェンダー 役割を突き崩しつつ、また、女性の自立と自律 を促進するのに貢献している。そしてこの女性 の自律と自立のふたつは、女性に対する暴力を 測る目安でもある。しかし、この重要な発展は、 同時に、ジェンダー平等という点で、われわれ がまだまだはるか前に向かって進まざるをえな いということでもある」。 このコラムの著者、フェンウイックの視座は、 やや楽観的にすぎるようにも見える。しかし、 変動する現代社会、近代的なジェンダー構造の 崩壊を前に不安定な状況に置かれている男性た ちにとって、自らかかえこんだ「男性性」を振 り返り、見つめ直し、新たな未来を展望すると き、スポーツという近代の男性性の最初の(そ しておそらく最後の)砦であり、男性の暴力の 規制と抑制の重要な場であった、「スポーツ」 という視座から議論することが、重要な意味を 持つことは明らかなことだろう。 【参考文献】

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参照

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