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Vol.65 , No.1(2016)053壬生 泰紀「〈無量寿経〉における釈尊観の変遷――〈悲華経〉を手掛かりとして――」

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(1)

2.〈無量寿経〉所説の釈尊観 

2.1. 釈尊自讃の教説 〈無量寿経〉の最古訳『大阿弥陀経』「五悪段」中に,釈 尊が自らの事績を自讃する一節(以下,「釈尊自讃の教説」とする)がある. 佛告阿逸菩薩等.「若曹於是世,能自制心正意,身不作惡者,是爲大德善.都有一輩,爲 八方上下最無有比.所以者何? 八方上下無央數佛國中,諸天・人民,皆自然作善,不 大爲惡,易敎化.今我於是世間作佛.爲於五惡・五痛・五燒之中作佛,爲最劇.敎語人 民,令縱捨五惡,令去五痛,令去五燒之中,降化其心,令持五善,得其福德・度世・長 壽・泥洹之道.」(T. 12, no. 362, 313b26–c4) 冒頭,釈尊がいる世間(娑婆世界)とその他の仏国土とで得られる功徳の多少が対 比的に示される(波線部).そして,釈尊は,善行をなし難い五濁の世で自身が仏 となったことを述べ,それはきわめて困難なことであるとし,さらには,そこで 人々を教化し,最終的に涅槃に至らせたことを弟子たちに告げる(下線部).この ように釈尊は娑婆世界で仏となった自らのことを高く評価するのである.同様の 文言は『平等覚経』(T. 12, no. 361, 295b20–27)や『無量寿経』(T. 12, no. 360, 275c17– 24)にも説かれるが,『無量寿如来会』(『大宝積経』巻 17・巻 18: T. 11, no. 310. 5),『荘 厳経』(T. 12, no. 363),梵本,蔵訳には説かれない(cf. 香川本: 320–321). さて,この文言は撰述に問題のある「五悪段」の中にあらわれるため,釈尊自 讃の教説が『大阿弥陀経』,『平等覚経』,『無量寿経』の原典には存在していなかっ た可能性がある.しかし,すでに注目されている(能仁 2011)ように,同趣旨の 文言が〈阿弥陀経〉にも確認できる(e.g., S.Sukh., 93.14–94.8).ただし,『無量寿経』 の「五悪段」は『平等覚経』のものを整文した可能性が高いため,本来,上記の 文言が原典には存在していなかったかもしれない(cf. 色井 1978: 267–269).いずれ にせよ,以上のことは,阿弥陀信仰の展開において,釈尊の事績を重要視する流 れが確かに存在したことを意味するものといえる. 2.2. 娑婆世界と諸仏国土との対比 先の引用文で娑婆世界で行う善行は他の仏 国土で行うよりも多くの功徳が得られると説く.それは他の仏国土にいる衆生は 自ずと悪をなさずに善をなし,教化しやすいからであるとする.これに類する文 言がもう一箇所ある.それは『大阿弥陀経』の「五悪段」中にあり,先のものよ りも少し後に位置する(T. 12, no. 362, 315c14–25).ここでも娑婆世界とその他の仏 国土とでは,前者で善をなした方が功徳の多いことが示される.その理由として, 前者には悪をなすものが多く,善をなすものが少なく,一方の後者はその反対で あることが述べられる.この対比において阿弥陀仏の国土が引き合いに出されて 〈無量寿経〉における釈尊観の変遷(壬 生) (195)

〈無量寿経〉における釈尊観の変遷

――〈悲華経〉を手掛かりとして――

壬 生 泰 紀

0.はじめに 阿弥陀信仰が中核をなす〈無量寿経〉

1)には,単に阿弥陀仏のみ を讃歎するのではなく,釈尊をも讃歎する異本が存在する.〈無量寿経〉の最古訳 『大阿弥陀経』(T. 12, no. 362)では,悪世で仏となり,衆生を教化した釈尊を釈尊 自らが評価している.しかし,このような内容は後代の〈無量寿経〉諸異本には 見られない.ここに〈無量寿経〉の思想的展開における釈尊観の変遷が看取され る.一方,4 世紀頃に成立したとされる〈悲華経〉2)は,阿弥陀,観世音,大勢 至,阿閦といった名の知れた仏・菩薩の浄土思想に言及しながらも,最終的に五 濁の世で成仏し衆生救済を決意する海済婆羅門(釈尊の本生)を「大悲をもつも の」と讃え,釈尊を諸仏中でも最上位に位置づける経典である.初期の〈無量寿 経〉と〈悲華経〉とが共通して釈尊を称揚するのは注目に値する.しかし,〈無量 寿経〉と〈悲華経〉に見られる釈尊観について検討を加えたものは数少ない3)

1.先行研究概観 

従来より〈無量寿経〉と〈悲華経〉との比較研究は度々なさ れてきた(cf. 石上 2010).これらの成果によって〈悲華経〉は〈無量寿経〉を前提 として成立したことが学界の定説となった.その一方で〈悲華経〉が〈無量寿経〉 に与えた影響については,これまでほとんど議論されてこなかった.しかし,近 年,石上和敬氏によって興味深い見解が公表された.同氏は,〈無量寿経〉の初期 から後期への展開において中間に位置する現存しない〈無量寿経〉,すなわち「中 期無量寿経」というものを措定し,それをもとにして〈悲華経〉が成立したので はないか,という仮説を立てた(石上 2013: 250–259).これにより,これまでの研 究とは逆方向の,つまり,〈無量寿経〉の思想的展開を考察するにあたって〈悲華 経〉を含めて検討する必要性が出てきた. そこで,本稿では,〈悲華経〉所説の釈尊観を手掛かりとして,〈無量寿経〉の 思想的展開において釈尊観が変遷するに至った要因を探りたい. (194) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月

(2)

2.〈無量寿経〉所説の釈尊観 

2.1. 釈尊自讃の教説 〈無量寿経〉の最古訳『大阿弥陀経』「五悪段」中に,釈 尊が自らの事績を自讃する一節(以下,「釈尊自讃の教説」とする)がある. 佛告阿逸菩薩等.「若曹於是世,能自制心正意,身不作惡者,是爲大德善.都有一輩,爲 八方上下最無有比.所以者何? 八方上下無央數佛國中,諸天・人民,皆自然作善,不 大爲惡,易敎化.今我於是世間作佛.爲於五惡・五痛・五燒之中作佛,爲最劇.敎語人 民,令縱捨五惡,令去五痛,令去五燒之中,降化其心,令持五善,得其福德・度世・長 壽・泥洹之道.」(T. 12, no. 362, 313b26–c4) 冒頭,釈尊がいる世間(娑婆世界)とその他の仏国土とで得られる功徳の多少が対 比的に示される(波線部).そして,釈尊は,善行をなし難い五濁の世で自身が仏 となったことを述べ,それはきわめて困難なことであるとし,さらには,そこで 人々を教化し,最終的に涅槃に至らせたことを弟子たちに告げる(下線部).この ように釈尊は娑婆世界で仏となった自らのことを高く評価するのである.同様の 文言は『平等覚経』(T. 12, no. 361, 295b20–27)や『無量寿経』(T. 12, no. 360, 275c17– 24)にも説かれるが,『無量寿如来会』(『大宝積経』巻 17・巻 18: T. 11, no. 310. 5),『荘 厳経』(T. 12, no. 363),梵本,蔵訳には説かれない(cf. 香川本: 320–321). さて,この文言は撰述に問題のある「五悪段」の中にあらわれるため,釈尊自 讃の教説が『大阿弥陀経』,『平等覚経』,『無量寿経』の原典には存在していなかっ た可能性がある.しかし,すでに注目されている(能仁 2011)ように,同趣旨の 文言が〈阿弥陀経〉にも確認できる(e.g., S.Sukh., 93.14–94.8).ただし,『無量寿経』 の「五悪段」は『平等覚経』のものを整文した可能性が高いため,本来,上記の 文言が原典には存在していなかったかもしれない(cf. 色井 1978: 267–269).いずれ にせよ,以上のことは,阿弥陀信仰の展開において,釈尊の事績を重要視する流 れが確かに存在したことを意味するものといえる. 2.2. 娑婆世界と諸仏国土との対比 先の引用文で娑婆世界で行う善行は他の仏 国土で行うよりも多くの功徳が得られると説く.それは他の仏国土にいる衆生は 自ずと悪をなさずに善をなし,教化しやすいからであるとする.これに類する文 言がもう一箇所ある.それは『大阿弥陀経』の「五悪段」中にあり,先のものよ りも少し後に位置する(T. 12, no. 362, 315c14–25).ここでも娑婆世界とその他の仏 国土とでは,前者で善をなした方が功徳の多いことが示される.その理由として, 前者には悪をなすものが多く,善をなすものが少なく,一方の後者はその反対で あることが述べられる.この対比において阿弥陀仏の国土が引き合いに出されて

〈無量寿経〉における釈尊観の変遷

――〈悲華経〉を手掛かりとして――

壬 生 泰 紀

0.はじめに 阿弥陀信仰が中核をなす〈無量寿経〉

1)には,単に阿弥陀仏のみ を讃歎するのではなく,釈尊をも讃歎する異本が存在する.〈無量寿経〉の最古訳 『大阿弥陀経』(T. 12, no. 362)では,悪世で仏となり,衆生を教化した釈尊を釈尊 自らが評価している.しかし,このような内容は後代の〈無量寿経〉諸異本には 見られない.ここに〈無量寿経〉の思想的展開における釈尊観の変遷が看取され る.一方,4 世紀頃に成立したとされる〈悲華経〉2)は,阿弥陀,観世音,大勢 至,阿閦といった名の知れた仏・菩薩の浄土思想に言及しながらも,最終的に五 濁の世で成仏し衆生救済を決意する海済婆羅門(釈尊の本生)を「大悲をもつも の」と讃え,釈尊を諸仏中でも最上位に位置づける経典である.初期の〈無量寿 経〉と〈悲華経〉とが共通して釈尊を称揚するのは注目に値する.しかし,〈無量 寿経〉と〈悲華経〉に見られる釈尊観について検討を加えたものは数少ない3)

1.先行研究概観 

従来より〈無量寿経〉と〈悲華経〉との比較研究は度々なさ れてきた(cf. 石上 2010).これらの成果によって〈悲華経〉は〈無量寿経〉を前提 として成立したことが学界の定説となった.その一方で〈悲華経〉が〈無量寿経〉 に与えた影響については,これまでほとんど議論されてこなかった.しかし,近 年,石上和敬氏によって興味深い見解が公表された.同氏は,〈無量寿経〉の初期 から後期への展開において中間に位置する現存しない〈無量寿経〉,すなわち「中 期無量寿経」というものを措定し,それをもとにして〈悲華経〉が成立したので はないか,という仮説を立てた(石上 2013: 250–259).これにより,これまでの研 究とは逆方向の,つまり,〈無量寿経〉の思想的展開を考察するにあたって〈悲華 経〉を含めて検討する必要性が出てきた. そこで,本稿では,〈悲華経〉所説の釈尊観を手掛かりとして,〈無量寿経〉の 思想的展開において釈尊観が変遷するに至った要因を探りたい.

(3)

の教説,② 娑婆世界と諸仏国土との対比,③ 誓願によって五濁を選び取る菩薩を 整理して表にすると以下の通りである.〈無量寿経〉の初期には,釈尊を称讃する 記述や,娑婆世界と諸仏国土の対比的な教説が見られる.一方,『無量寿経』以降 になると,それらの教説はなくなり,釈尊のように誓願にもとづき五濁を選び取 る菩薩が例外的に認められるようになるのである. 『大阿弥陀経』『平等覚経』『無量寿経』『無量寿如来会』 梵本 蔵訳 『荘厳経』 ① 〇 〇 △ × × × × ② 〇 〇 △ × × × × ③ × × 〇 〇 〇 〇 × ※『無量寿経』の場合,① と ② は原典になかった可能性が高いので “△”  とした.

3.〈悲華経〉所説の釈尊観 

3.1. 穢土を選び取る菩薩と浄土を選び取る菩薩 〈悲華経〉は娑婆世界で仏と なった釈尊を称揚する目的のもと誕生した経典である.そのため,娑婆世界であ る穢土を選び取った釈尊と浄土を選び取った阿弥陀仏などの名の知れた仏・菩薩 とが対比的に説示される.たとえば,〈悲華経〉では,不浄なる仏国土(穢土)を 選び取った菩薩を「大悲をそなえた菩薩」(mahākaruṇāsamanvāgatās bodhisattvās)とし (KP., 180.5–9),反対の清浄なる仏国土(浄土)を選び取った菩薩を「憐愍を捨てた

菩薩」(utsṛṣṭakṛpās bodhisattvās)とする(KP., 305.17–306.6).また,第 III 章の冒頭で 寂意菩薩の「なぜ世尊は五濁を離れた清浄なる仏国土を選び取らないのか?」と いう旨の質問に対して釈尊は,菩薩が清浄なる仏国土と不浄なる仏国土を選び取 るのは「誓願によって」(praṇidhānavaśena)であるとし,自身も誓願によって不浄 なる仏国土に生まれたと述べ,そのような不浄なる仏国土を選び取るのは大悲を そなえているからであると答える(KP., 51.1–52.5).このように,釈尊や彼を軌範 とする菩薩たちは〈悲華経〉では高く評価されるのである. それでは清浄なる仏国土を選び取るものは誰かというと,それは第 IV 章に説 かれる離諍王や王子などである.彼らはそれぞれ阿弥陀,観世音,大勢至,阿閦 などの仏・菩薩となり,みな清浄なる仏国土を選び取るものとして描かれる.そ の一番目に阿弥陀仏の本生である離諍王の物語が置かれている.そこで,離諍王 は清浄なる仏国土を選び取り,将来,阿弥陀仏となると授記され,その国土が安 楽(極楽)世界と呼ばれることが説かれる(KP., 112.12–116.18).この後,観世音, 大勢至,阿閦なども清浄なる仏国土を選び取っていくのである. 〈無量寿経〉における釈尊観の変遷(壬 生) (197) いる.この文言も『平等覚経』(T. 12, no. 361, 297c19–298a2)と『無量寿経』(T. 12, no. 360, 277c1–9)には確認できるが,『無量寿経』の場合は先と同様,原典にはな い可能性が高い.そして,残りの 4 本には以上の文言はない(cf. 香川本: 336–337). ただ,宮崎展昌氏の報告によると,文殊系の経典群(〈文殊仏国土功徳荘厳経〉,〈阿 闍世王経〉など)や〈維摩経〉にも,他の仏国土よりも娑婆世界の方が得られる功 徳や衆生利益が多いことを説く文言が確認されるのである(Miyazaki 2016).この ことから,他の仏国土よりも娑婆世界で得られる功徳の方が多いことは当時の諸 大乗経典の中である程度共有されていたと考えられる.したがって,初期の〈無 量寿経〉に見られる以上の文言のすべてが漢訳時の加筆ではなく,原典にも同趣 旨の内容が存在していた可能性は十分にあるといえる. 2.3. 誓願によって五濁を選び取る菩薩 『無量寿経』以降の諸異本には釈尊観と 関わる注目すべき記述が存在する.梵本では次のように説かれる.

tasmin khalu punar Ānanda! buddhakṣetre ye bodhisattvāḥ pratyājātāḥ sarve te ’virahitā buddhadarśanena dharmaśravaṇenāvinipātadharmāṇo yāvad bodhiparyantaṃ. sarve ca te tata upādāya na jātv ajātismarā bhaviṣyanti, sthāpayitvā tathārūpeṣu kalpasaṃkṣobheṣu ye pūrvasthānapraṇihitāḥ pañcasu kaṣāyeṣu vartamāneṣu yadā buddhānāṃ bhagavatāṃ loke prādurbhāvo bhavati tad yathāpi nāma mamaitarhi.(L.Sukh., 59.20–60.2)

さらに,実に,アーナンダよ! かの仏国土に生まれた菩薩たちは,すべて,仏を見る ことと教えを聞くことから離れず,さとりの極致にいたるまで,〔悪趣に〕堕ちることの ないものである.また,彼らは,すべて,それより後,前世の記憶をもたないことは決 してない.〔ただし,〕たとえば,私が今〔この世間に出現している〕ように,仏・世尊 たちが世間に出現するときに五濁が起こっているような濁乱したカルパに〔住すること を〕,前世に誓願として立てたものたちを除く. 以上は阿弥陀仏の国土にいる菩薩に関する記述の一つとして説示される.ここで, 阿弥陀仏国土の菩薩は二度と悪趣に堕ちることはないとしながらも,その中には 釈尊のように五濁の世をあえて選び取る菩薩が例外的にいることが示される.そ して,彼らは濁世に住したいと前世に誓願を立てた菩薩であるとする(下線部). 『無量寿経』(T. 12, no. 360, 273c1–3),『無量寿如来会』(T. 11, no. 310. 5, 98c4–6),蔵訳 (Tib.L.Sukh., 167.3–168.4)にも同趣旨の記述が確認されるが,先行する『大阿弥陀 経』や『平等覚経』には見られない(cf. 香川本: 280–281). このように『無量寿経』以降の諸異本には共通して,釈尊のように誓願によっ て五濁を選び取る菩薩が阿弥陀仏国土の例外的な菩薩として登場するのである4) 2.4. 釈尊観の変遷 これまで見てきた〈無量寿経〉所説の釈尊観,① 釈尊自讃 (196) 〈無量寿経〉における釈尊観の変遷(壬 生)

(4)

の教説,② 娑婆世界と諸仏国土との対比,③ 誓願によって五濁を選び取る菩薩を 整理して表にすると以下の通りである.〈無量寿経〉の初期には,釈尊を称讃する 記述や,娑婆世界と諸仏国土の対比的な教説が見られる.一方,『無量寿経』以降 になると,それらの教説はなくなり,釈尊のように誓願にもとづき五濁を選び取 る菩薩が例外的に認められるようになるのである. 『大阿弥陀経』『平等覚経』『無量寿経』『無量寿如来会』 梵本 蔵訳 『荘厳経』 ① 〇 〇 △ × × × × ② 〇 〇 △ × × × × ③ × × 〇 〇 〇 〇 × ※『無量寿経』の場合,① と ② は原典になかった可能性が高いので “△”  とした.

3.〈悲華経〉所説の釈尊観 

3.1. 穢土を選び取る菩薩と浄土を選び取る菩薩 〈悲華経〉は娑婆世界で仏と なった釈尊を称揚する目的のもと誕生した経典である.そのため,娑婆世界であ る穢土を選び取った釈尊と浄土を選び取った阿弥陀仏などの名の知れた仏・菩薩 とが対比的に説示される.たとえば,〈悲華経〉では,不浄なる仏国土(穢土)を 選び取った菩薩を「大悲をそなえた菩薩」(mahākaruṇāsamanvāgatās bodhisattvās)とし (KP., 180.5–9),反対の清浄なる仏国土(浄土)を選び取った菩薩を「憐愍を捨てた

菩薩」(utsṛṣṭakṛpās bodhisattvās)とする(KP., 305.17–306.6).また,第 III 章の冒頭で 寂意菩薩の「なぜ世尊は五濁を離れた清浄なる仏国土を選び取らないのか?」と いう旨の質問に対して釈尊は,菩薩が清浄なる仏国土と不浄なる仏国土を選び取 るのは「誓願によって」(praṇidhānavaśena)であるとし,自身も誓願によって不浄 なる仏国土に生まれたと述べ,そのような不浄なる仏国土を選び取るのは大悲を そなえているからであると答える(KP., 51.1–52.5).このように,釈尊や彼を軌範 とする菩薩たちは〈悲華経〉では高く評価されるのである. それでは清浄なる仏国土を選び取るものは誰かというと,それは第 IV 章に説 かれる離諍王や王子などである.彼らはそれぞれ阿弥陀,観世音,大勢至,阿閦 などの仏・菩薩となり,みな清浄なる仏国土を選び取るものとして描かれる.そ の一番目に阿弥陀仏の本生である離諍王の物語が置かれている.そこで,離諍王 は清浄なる仏国土を選び取り,将来,阿弥陀仏となると授記され,その国土が安 楽(極楽)世界と呼ばれることが説かれる(KP., 112.12–116.18).この後,観世音, 大勢至,阿閦なども清浄なる仏国土を選び取っていくのである. いる.この文言も『平等覚経』(T. 12, no. 361, 297c19–298a2)と『無量寿経』(T. 12, no. 360, 277c1–9)には確認できるが,『無量寿経』の場合は先と同様,原典にはな い可能性が高い.そして,残りの 4 本には以上の文言はない(cf. 香川本: 336–337). ただ,宮崎展昌氏の報告によると,文殊系の経典群(〈文殊仏国土功徳荘厳経〉,〈阿 闍世王経〉など)や〈維摩経〉にも,他の仏国土よりも娑婆世界の方が得られる功 徳や衆生利益が多いことを説く文言が確認されるのである(Miyazaki 2016).この ことから,他の仏国土よりも娑婆世界で得られる功徳の方が多いことは当時の諸 大乗経典の中である程度共有されていたと考えられる.したがって,初期の〈無 量寿経〉に見られる以上の文言のすべてが漢訳時の加筆ではなく,原典にも同趣 旨の内容が存在していた可能性は十分にあるといえる. 2.3. 誓願によって五濁を選び取る菩薩 『無量寿経』以降の諸異本には釈尊観と 関わる注目すべき記述が存在する.梵本では次のように説かれる.

tasmin khalu punar Ānanda! buddhakṣetre ye bodhisattvāḥ pratyājātāḥ sarve te ’virahitā buddhadarśanena dharmaśravaṇenāvinipātadharmāṇo yāvad bodhiparyantaṃ. sarve ca te tata upādāya na jātv ajātismarā bhaviṣyanti, sthāpayitvā tathārūpeṣu kalpasaṃkṣobheṣu ye pūrvasthānapraṇihitāḥ pañcasu kaṣāyeṣu vartamāneṣu yadā buddhānāṃ bhagavatāṃ loke prādurbhāvo bhavati tad yathāpi nāma mamaitarhi.(L.Sukh., 59.20–60.2)

さらに,実に,アーナンダよ! かの仏国土に生まれた菩薩たちは,すべて,仏を見る ことと教えを聞くことから離れず,さとりの極致にいたるまで,〔悪趣に〕堕ちることの ないものである.また,彼らは,すべて,それより後,前世の記憶をもたないことは決 してない.〔ただし,〕たとえば,私が今〔この世間に出現している〕ように,仏・世尊 たちが世間に出現するときに五濁が起こっているような濁乱したカルパに〔住すること を〕,前世に誓願として立てたものたちを除く. 以上は阿弥陀仏の国土にいる菩薩に関する記述の一つとして説示される.ここで, 阿弥陀仏国土の菩薩は二度と悪趣に堕ちることはないとしながらも,その中には 釈尊のように五濁の世をあえて選び取る菩薩が例外的にいることが示される.そ して,彼らは濁世に住したいと前世に誓願を立てた菩薩であるとする(下線部). 『無量寿経』(T. 12, no. 360, 273c1–3),『無量寿如来会』(T. 11, no. 310. 5, 98c4–6),蔵訳 (Tib.L.Sukh., 167.3–168.4)にも同趣旨の記述が確認されるが,先行する『大阿弥陀 経』や『平等覚経』には見られない(cf. 香川本: 280–281). このように『無量寿経』以降の諸異本には共通して,釈尊のように誓願によっ て五濁を選び取る菩薩が阿弥陀仏国土の例外的な菩薩として登場するのである4) 2.4. 釈尊観の変遷 これまで見てきた〈無量寿経〉所説の釈尊観,① 釈尊自讃

(5)

1)本稿では,〈 〉で括った経典名は梵本,蔵訳,諸漢訳のもとになった種々の原本を 総称する経典名として用いる.なお,〈無量寿経〉の完本は計 7 本が現存し,それらは, 『大阿弥陀経』→『平等覚経』→『無量寿経』→『無量寿如来会』→梵本・蔵訳(・『荘 厳経』)の順で成立したと考えられる.   2)〈悲華経〉には,梵本,蔵訳,漢訳の 『悲華経』(T. 3, no. 157)と『大乗悲分陀利経』(T. 3, no. 158)の計 4 つの完本が現存す る.本稿では,紙幅の関係上,梵本の頁数のみを挙げる.   3)〈無量寿経〉や〈阿 弥陀経〉に見られる釈尊信仰が〈悲華経〉の釈尊信仰や穢土成仏説と関係するのではな いかとの指摘をした色井秀譲氏の論考がある(色井 1978: 119–123, 378–380).また,〈悲 華経〉,〈阿弥陀経〉,〈無量寿経〉に見られる釈尊観を扱った研究として吹田隆道氏の論 考がある(吹田 2006).ただ,両者ともに〈無量寿経〉における釈尊観の変遷について論 じたものではない.   4)このような菩薩は〈無量寿経〉所説の一生補処の位をとら ない菩薩を想起させるが,そこでは誓願によって五濁の世を選び取ることには言及して いないため,厳密には異なるといえる(cf. 香川本: 122–123, 274–275).    〈一次文献(略号)〉

KP.: Karuṇāpuṇḍarīka (in vol. II of Karuṇāpuṇḍarīka, ed. Isshi Yamada [London: School of

Oriental and African Studies, University of London, 1968]). L.Sukh.: Sukhāvatīvyūha [Larger] (藤田宏達校訂『梵文無量寿経・梵文阿弥陀経』法蔵館,2011,1–80). S.Sukh.:

Sukhāvatīvyūha [Smaller] (藤田宏達校訂『梵文無量寿経・梵文阿弥陀経』法蔵館,2011,

81–94). Tib.L.Sukh.: ’Phags pa ’od dpag med kyi bkod pa zhes bya ba theg pa chen po’i mdo (佛教大学総合研究所「浄土教の総合的研究」研究班編『蔵訳無量寿経異本校合表(稿 本)』佛教大学総合研究所,1999). 香川本: 香川孝雄編著『無量寿経の諸本対照研究』 永田文昌堂,1984. 

〈二次文献〉

Miyazaki Tenshō. 2016. “Highly Effective Practices in the Sahā World: Similar Accounts Found in Four ‘Mañjuśrī Sutras’ and Other Mahāyāna Sutras.”『印仏研』64 (3): 1171–1177. 石上和敬 2010「〈悲華経〉の先行研究概観」『武蔵野大学仏教文化研究所紀要』26: 1–42. ――― 2013「浄土と穢土――〈悲華経〉概観――」高崎直道監修,桂紹隆他編『仏と浄 土 大乗仏典 II』シリーズ大乗仏教 5,春秋社,239–269. 色井秀譲 1978『浄土念仏源流考――大無量寿経とその周辺――』百華苑. 能仁正顕 2011「五悪段は中国撰述か」『印仏研』60 (1): 1–11. 吹田隆道 2006「二尊のあわれみ――浄土経典に見る釈迦牟尼讃歎の文学構造――」『仏教 文化研究』50: 1–17. 〈キーワード〉 無量寿経,悲華経,阿弥陀仏,釈尊,浄土,穢土,五濁 (龍谷大学非常勤講師) 〈無量寿経〉における釈尊観の変遷(壬 生) (199) 3.2. 四法懈怠の菩薩と四法精進の菩薩 穢土と浄土とを対比する態度が顕著なの が,第 IV 章の終盤に位置する,「四法懈怠」(catvāri kuśīdavastūni)と「四法精進」 (catvāri ārabdhavīryavastūni)という 2 種の菩薩のあり方に関する教説である(KP., 310.16–311.17).そこでは,まず「四法懈怠」とは,① 清浄なる仏国土を選び取り, ② 清浄なる意向をもつ衆生に対して仏事をなし,③ 声聞・縁覚の二乗の教えを説 かず,④ 長寿の仏となることを願う菩薩のことをいう.この菩薩は「花のよう」 と呼ばれるが,「白蓮華のよう」や「大士」とは呼ばれないのである.ここで挙げ られる項目が先にふれた離諍王の物語で彼の選び取った仏国土の描写と重なるこ とから,明らかに阿弥陀仏を意図しているといえる.一方,「四法精進」とは,① 不浄なる仏国土を選び取り,② 不浄なる意向をもつ衆生に対して仏事をなし,③ 声聞・縁覚の二乗の教えを説き,④ 長寿でも短命でもない仏となることを願う菩 薩のことを指す.この菩薩は「白蓮華のよう」や「菩薩大士」と呼ばれるのであ る.その代表例として,釈尊の本生である海済婆羅門が挙げられ,諸仏が不浄な る仏国土や衆生を選び取った彼を讃歎し,「大悲をもつもの」(Mahākāruṇikas)と名 付けたことが説示される(KP., 311.17–312.10). 以上,〈悲華経〉は,自らの誓願によって五濁の不浄なる仏国土を選び取り,そ こにいる不浄なる意向をもつ衆生を教化する釈尊を称揚し,高く評価するのであ る.この点は先に見た初期の〈無量寿経〉の釈尊観と共通しているといえる.

4.おわりに 〈無量寿経〉における釈尊観の変遷について,〈悲華経〉所説の

ものを手掛かりに考察を試みた.その結果,以下の仮説が立てられるであろう. 従来より指摘されているように〈無量寿経〉と〈悲華経〉とは近い関係にある. そして,初期の〈無量寿経〉と〈悲華経〉とは共通して,五濁の世で仏となり, 悪を多くなして教化しにくい衆生を教化する釈尊を評価する.経典の成立史を勘 案すると,〈無量寿経〉の方が先行すると考えられる.したがって,〈悲華経〉の 成立において,〈無量寿経〉の釈尊観がいくぶんか影響した可能性があろう.そう して成立した〈悲華経〉は,阿弥陀仏のような清浄なる仏国土を選び取る菩薩よ りも,釈尊のように五濁の仏国土を選び取る菩薩をすぐれたものとし,大悲をそ なえた菩薩とした.一方の〈無量寿経〉では,後代になると,阿弥陀仏の独自性 が強まり,釈尊を評価する教説は見られなくなる.同時に〈無量寿経〉は,阿弥 陀信仰の対極にある〈悲華経〉ですぐれた菩薩とされる,釈尊のように五濁の仏 国土を選び取る菩薩を阿弥陀仏国土の例外的な存在として取り込んでいった. (198) 〈無量寿経〉における釈尊観の変遷(壬 生)

(6)

1)本稿では,〈 〉で括った経典名は梵本,蔵訳,諸漢訳のもとになった種々の原本を 総称する経典名として用いる.なお,〈無量寿経〉の完本は計 7 本が現存し,それらは, 『大阿弥陀経』→『平等覚経』→『無量寿経』→『無量寿如来会』→梵本・蔵訳(・『荘 厳経』)の順で成立したと考えられる.   2)〈悲華経〉には,梵本,蔵訳,漢訳の 『悲華経』(T. 3, no. 157)と『大乗悲分陀利経』(T. 3, no. 158)の計 4 つの完本が現存す る.本稿では,紙幅の関係上,梵本の頁数のみを挙げる.   3)〈無量寿経〉や〈阿 弥陀経〉に見られる釈尊信仰が〈悲華経〉の釈尊信仰や穢土成仏説と関係するのではな いかとの指摘をした色井秀譲氏の論考がある(色井 1978: 119–123, 378–380).また,〈悲 華経〉,〈阿弥陀経〉,〈無量寿経〉に見られる釈尊観を扱った研究として吹田隆道氏の論 考がある(吹田 2006).ただ,両者ともに〈無量寿経〉における釈尊観の変遷について論 じたものではない.   4)このような菩薩は〈無量寿経〉所説の一生補処の位をとら ない菩薩を想起させるが,そこでは誓願によって五濁の世を選び取ることには言及して いないため,厳密には異なるといえる(cf. 香川本: 122–123, 274–275).    〈一次文献(略号)〉

KP.: Karuṇāpuṇḍarīka (in vol. II of Karuṇāpuṇḍarīka, ed. Isshi Yamada [London: School of

Oriental and African Studies, University of London, 1968]). L.Sukh.: Sukhāvatīvyūha [Larger] (藤田宏達校訂『梵文無量寿経・梵文阿弥陀経』法蔵館,2011,1–80). S.Sukh.:

Sukhāvatīvyūha [Smaller] (藤田宏達校訂『梵文無量寿経・梵文阿弥陀経』法蔵館,2011,

81–94). Tib.L.Sukh.: ’Phags pa ’od dpag med kyi bkod pa zhes bya ba theg pa chen po’i mdo (佛教大学総合研究所「浄土教の総合的研究」研究班編『蔵訳無量寿経異本校合表(稿 本)』佛教大学総合研究所,1999). 香川本: 香川孝雄編著『無量寿経の諸本対照研究』 永田文昌堂,1984. 

〈二次文献〉

Miyazaki Tenshō. 2016. “Highly Effective Practices in the Sahā World: Similar Accounts Found in Four ‘Mañjuśrī Sutras’ and Other Mahāyāna Sutras.”『印仏研』64 (3): 1171–1177. 石上和敬 2010「〈悲華経〉の先行研究概観」『武蔵野大学仏教文化研究所紀要』26: 1–42. ――― 2013「浄土と穢土――〈悲華経〉概観――」高崎直道監修,桂紹隆他編『仏と浄 土 大乗仏典 II』シリーズ大乗仏教 5,春秋社,239–269. 色井秀譲 1978『浄土念仏源流考――大無量寿経とその周辺――』百華苑. 能仁正顕 2011「五悪段は中国撰述か」『印仏研』60 (1): 1–11. 吹田隆道 2006「二尊のあわれみ――浄土経典に見る釈迦牟尼讃歎の文学構造――」『仏教 文化研究』50: 1–17. 〈キーワード〉 無量寿経,悲華経,阿弥陀仏,釈尊,浄土,穢土,五濁 (龍谷大学非常勤講師) 3.2. 四法懈怠の菩薩と四法精進の菩薩 穢土と浄土とを対比する態度が顕著なの が,第 IV 章の終盤に位置する,「四法懈怠」(catvāri kuśīdavastūni)と「四法精進」 (catvāri ārabdhavīryavastūni)という 2 種の菩薩のあり方に関する教説である(KP., 310.16–311.17).そこでは,まず「四法懈怠」とは,① 清浄なる仏国土を選び取り, ② 清浄なる意向をもつ衆生に対して仏事をなし,③ 声聞・縁覚の二乗の教えを説 かず,④ 長寿の仏となることを願う菩薩のことをいう.この菩薩は「花のよう」 と呼ばれるが,「白蓮華のよう」や「大士」とは呼ばれないのである.ここで挙げ られる項目が先にふれた離諍王の物語で彼の選び取った仏国土の描写と重なるこ とから,明らかに阿弥陀仏を意図しているといえる.一方,「四法精進」とは,① 不浄なる仏国土を選び取り,② 不浄なる意向をもつ衆生に対して仏事をなし,③ 声聞・縁覚の二乗の教えを説き,④ 長寿でも短命でもない仏となることを願う菩 薩のことを指す.この菩薩は「白蓮華のよう」や「菩薩大士」と呼ばれるのであ る.その代表例として,釈尊の本生である海済婆羅門が挙げられ,諸仏が不浄な る仏国土や衆生を選び取った彼を讃歎し,「大悲をもつもの」(Mahākāruṇikas)と名 付けたことが説示される(KP., 311.17–312.10). 以上,〈悲華経〉は,自らの誓願によって五濁の不浄なる仏国土を選び取り,そ こにいる不浄なる意向をもつ衆生を教化する釈尊を称揚し,高く評価するのであ る.この点は先に見た初期の〈無量寿経〉の釈尊観と共通しているといえる.

4.おわりに 〈無量寿経〉における釈尊観の変遷について,〈悲華経〉所説の

ものを手掛かりに考察を試みた.その結果,以下の仮説が立てられるであろう. 従来より指摘されているように〈無量寿経〉と〈悲華経〉とは近い関係にある. そして,初期の〈無量寿経〉と〈悲華経〉とは共通して,五濁の世で仏となり, 悪を多くなして教化しにくい衆生を教化する釈尊を評価する.経典の成立史を勘 案すると,〈無量寿経〉の方が先行すると考えられる.したがって,〈悲華経〉の 成立において,〈無量寿経〉の釈尊観がいくぶんか影響した可能性があろう.そう して成立した〈悲華経〉は,阿弥陀仏のような清浄なる仏国土を選び取る菩薩よ りも,釈尊のように五濁の仏国土を選び取る菩薩をすぐれたものとし,大悲をそ なえた菩薩とした.一方の〈無量寿経〉では,後代になると,阿弥陀仏の独自性 が強まり,釈尊を評価する教説は見られなくなる.同時に〈無量寿経〉は,阿弥 陀信仰の対極にある〈悲華経〉ですぐれた菩薩とされる,釈尊のように五濁の仏 国土を選び取る菩薩を阿弥陀仏国土の例外的な存在として取り込んでいった.

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