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飯田女子短期大学紀要第 35 集,1-25,2018 言象学的文法論における動詞とト アウト <τὸ αὐτό> 清水茂 雄 Zeitwort in der Logo-phenomenologischen Grammatik und <τὸ αὐτό> Shigeo SHIMIZU Zusammen

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Academic year: 2021

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(1)

序  論  エレア学派のパルメニデスの『自然につい て』という詩的断片の中に次のような言葉が ある.  τὸ γὰρ αὐτὸ νοεῖν ἐστίν τε καὶ εἶναι1)  これは,通例,次のように訳される.  D訳:「なぜなら,思考すること<νοεῖν> と有ること<εἶναι>とは同じもの<τὸ αὐτό> であるから」  これに対して,ハイデガーは,次のように 解釈する.  「そこからこの箴言<Spruch>が始まる, 謎の語であるト・アウト<τὸ αὐτό>,つまり, 同じものは,もはや先に置かれた述語ではな く,根底に存する主語であり,担い,支える ものである.」2)  つまり,D訳では,τὸ αὐτό(ト・アウト: 同じもの,以下,ギリシア語で示す)が「先 に置かれた」述語として(・・と・・とは同3 じもの3 3 3 である)理解されているのに対して, そうではなく,むしろ,それは主語(「同じ もの」という意味の主語)と見なされるべき であると主張されているのである.したがっ て,このハイデガーの解釈に従うなら,上の パルメニデスの言葉は,次のように訳される.

言象学的文法論における動詞とト・アウト <τὸ αὐτό>

清 水 茂 雄

Zeitwort in der Logo-phenomenologischen Grammatik und <τὸ αὐτό>

Shigeo S

HIMIZU Zusammenfassung:  Das Wort <τὸ αὐτό> im Parmenidesspruch <τὸ γὰρ αὐτὸ νοεῖν ἐστίν τε καὶ εἶναι> ist  nach der Auslegung Heideggers das Rätselwort. In dieser Abhandlung sich zeigt  das Wort <τὸ αὐτό> als das Zeitwort in der logo-phenomenologischen Grammatik.  In dieser Abhandlung werden die logo-phenomenologische Grammatik und das  Zeitwort zuerst bestimmt. Der Parmenidesspruch wird nach der Bestimmung des  Zeitwortes ausgelegt.

  In  der  Abhandlung 《Zeitwort  in  der  logo-phenomenologischen  Grammatik  und  Ἐνέργεια》 zeigte ich, daß Aristotelesche ἐνέργεια das Zeitwort ist. Der Zusammenhang  zwischen dem <τὸ αὐτό> und der <ἐνέργεια> muß daher klargemacht werden.  Und die Beziehung zwischen Geschichtlichkeit und dem Zeitwort wird auch in dieser  Abhandlung erörtert, um das Wesen des Zusammenhangs zu begreifen.

(die Kursivschrift bezeichnet die der logo-phenomenologischen Grammatik angehörende  Sache)

Key words:Parmenides(パルメニデス),ト・アウト(τὸ αὐτό),言象学的文法論(die  logo-phenomenologische Grammatik),動詞(Zeitwort),歴史性(Geschichtlichkeit), 古事記(kojiki)

(2)

 H訳:「なぜなら,同じものが思考するこ とであり,有ることであるから」  このような解釈がどうして可能になるか を,ハイデガーは,『モイラ<Moira>』とい う論文において示している.そして,『モイラ』 における諸考察の終わり近くで,それら諸考 察の全体をまとめるように,次のようなこと が語られている.  「パルメニデスが,もしも,τὸ αὐτό,同 じものという謎の言葉の中で沈黙する謎に満 ちたものの遠さの中へと思索しなかったなら ば,二重一体性<Zwiefalt>の運命に順応す るかの思索の始まりの早期における思索者で はなかったろう.この語の中には思索に値 するものが蔵されていて,それは,我々に, それ自身を,思索の「有る」への関係とし て,二重一体性の開蔵の意味での「有る」の 真理として,二重一体性の渡さないこと<μὴ ἐόν>として,現前するものの<τὰ ἐόντα, τὰ δοκοῦντα>優勢において,思考するように と与える.」3)  このハイデガーの言葉から,我々は,τὸ αὐτόという語が「謎の言葉」であり,その 語の中に「沈黙する謎に満ちたもの」,「思索 に値するもの」が「蔵されている」ことを教 えられる.また,「謎に満ちたもの」には「遠さ」 があることもそこでは明らかにされている. τὸ αὐτόは,或る遠くまで伸びている謎の道 のようなものと受け取られ得るのである.  ゆえに,「謎に満ちた」,「思索に値するもの」 を「蔵している」,τὸ αὐτόとはそもそも何で あるかは,どこまでも「謎」になっているの である.少なくとも,ハイデガーの思索の境 位から解釈される限り,そのようになってい るのである.  本論文において,このような「謎に満ちた」 τὸ αὐτόが結局何であるか3 3 3 3 3 3 3 が明らかにされる. それは,言象学的文法論における動詞である と答えられるのである.τὸ αὐτόとは動詞で ある.ここから,なぜ,それが,「謎に満ちた」 ものとなり,また,ハイデガーの立場からは, 上記のようなこととして把握されるのかとい うことが明らかになるのである.さらに,本 論文では,「モイラ」をめぐって,歴史につ3 3 3 3 いて根本的考察をするための基礎となる「時」3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 の本質について3 3 3 3 3 3 3 の論究をする.  以下,斜体表示の語句は,それが言象学的 文法に属することがらであることを表す.た とえば,動詞は,言象学的文法における品詞3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 としての3 3 3 3 「動詞」を意味する. 本  論 §1 言象学的文法論と動詞  言象学的文法論とはどのようなことである か,また,動詞はその文法においてどのよう なことがらであるかを簡潔に説明する4)  キリスト教の聖書の『ヨハネによる福音書』 の冒頭に,「始原に(太初に)言葉があった」 と言われている.  そのような始原的言葉は,「言う」とは裏 腹に「言う」.このようにして最初に「言わ れた」「言う」を(原形)不定詞<Sagen>と 名付ける(『古事記』:アメノミナカヌシノ神) ことにする5)「言う」とは裏腹に「言う」を「言 う」不定詞は,「裏腹に言う」のであるから, 「虚-言」である.「裏腹に」とは,そのこと とは反対的にという意味であるが,単に「言 わない<Nichtsagen>」ということではなく, 「虚-言」的に「言う」ということである6) 不定詞は直接的に3 3 3 3 「言う」のではなく,裏腹3 3 3 3 に3 「言う」のであるから,間接伝達する言葉 であり,また,間接伝達論的である.   伝 達<mitteilung>は,「 分 か ち 合 う こ と <mitteilen>」であるので,不定詞は,間接 伝達して,「言う」とは裏腹なことを「分か ち合おう」としているのである.こうした秘 密の分かち合いのための前段階が不定詞には 「必要」である.なぜ,「前段階」を不定詞は 要求するのかというと,間接伝達は,間接的 に為されるのが「好ましい」からである.不

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定詞がそのまま直接現れて間接伝達するの は,間接伝達にはふさわしくなく,或る前段 階を介して,間接的に顕われ出て来るのが 「好ましい」のである.不定詞が言われるた めには,媒介というようなことが要求される のである.本祭りの前に前夜祭が催されるこ とが「好ましい」と,本祭りは判断するので ある.こうして,不定詞の「前に<vor>」と いう文法事項が不定詞から呼び出されるので ある.これが原初に言象する前置詞である. 不定詞にとって「好ましい」こととして呼び 出された「(言う)前に」ということは,空 間的な「前」というより,「以前」という意 味をもつ「前に」である.そこでは,まだな3 3 3 お3 不定詞が「言われ」ない3 3 ということが起き ているのであり,その中に或る意味の「未来」 が起きている.しかし,そのような「前に」 は,不定詞にとっては,「以前(前もって)」 のことであり,「すでに終わったこと」であ る.こうして,不定詞の「前に」ということ は,原初的に,「時」的性格をもつ.「前に」 は,不定詞の「前もって」として文法的意味 をもつ「時制<Tempus>」となるのである. それによって,不定詞は,未来時制になるこ とができ,それによって,不定詞は,過去時 制になることができるのである.しかし,こ のような「時制」は,不定詞の前夜祭として 本祭り「のための」という本性をもつのであ るから,「時」的性格のこのような言象的出 現は,不定詞を熟させる<zeitigen>ためにあ るのである.「時制」を使って不定詞は,自 身を間接的な仕方で3 3 3 3 3 3 3 「言おう」とするのであ る.歴史性<Geschichtlichkeit>が「時」と関 係するのは,このような根本的関係に拠る.  こうして,不定詞の「前に」ということが 起きるが,このような「前」は,すでに所与 として有るものではなく,はじめて3 3 3 3 起きたこ と,はじめて3 3 3 3 命名されて現れてきた言(コ ト)である.それは言象であり,不定詞との 関係において成立する不定詞から由来する言 象として文法的なことである.不定詞の「前」 は,不定詞3 3 3 の3 「前」であるが,「前」が言象 すると,これから3 3 3 3 不定詞に成る3 3 ということが 起こる.ここでの「成る」もまた所与のも の,すでに既存しているのではなく,はじめ3 3 3 て3 起きた「成る」である.不定詞へ「成る」 ことを <Sagen>werden と表す7).これは, 一応,(ドイツ語文法では)未来形になって いるが,すでに述べたように,この未来は, 不定詞からすれば,すでに終わったこと,以 前のことである.それは不定詞からは,「こ うあったらよいのに」ということから起きた ことであるから,その意味では,それは,不 定詞の希求法であり,あるいは,仮定法の形 をしている.したがって,<Sagen>werden は,不定詞3 3 3 の方から3 3 3 3 は,その仮定法として, <Sagen>würdeである.  不定詞の「前」,すなわち,前置詞のvorは, したがって,仮定法であり,接続法である(不 定詞へのムスビとしての接続法:タカミムス ヒノ神).接続法は,不定詞側から見てそう なっているのである.しかし,接続法内部で は,その関係は見えなくなっている.仮定法 であることがその内部では知られなくなって いる.こうして,接続法内部において,それ 自身は,不定詞へ成ることとなり,これは上 で示されたように,<Sagen>werdenである. これが助動詞である.  助動詞の本性は,不定詞に「成る」ことで  あるが,このことは,上で示されたように, 不定詞との関係から遠ざかることでもある (遠ざかる方向に文法諸事項が起こる:カミ ムスヒノ神).<Sagen>werdenにはこのよ うに二つの方向性が存する.一方に,不定 詞へという方向(未来または時制:アメノ トコタチノ神),他方に,不定詞から離れる という方向.このうち,不定詞から離れる 方向に,新たな文法事項が言象する(「生成 <Werden>」の芽:ウマシアシカビヒコヂノ 神).基本的に,不定詞から離れる方向には,

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不定詞を見失うということが起こり,これ は,文法的ではなくなる文法事項が成立する ということになるのである(不定詞とそれか ら由来することがらとの関係が文法的という ことであるので).しかし,このことは,或 る中間領域を通して起こるのであり,この中 間領域は,Werden(Werden)と表される (イザナミ・イザナギ).不定詞を見失うと いっても,助動詞内部では,まだ不定詞に成 るという方向をもっているのであり,その限 り,そこには,文法性が残っている.こちら がWerden(イザナミ)で表される.括弧内 のWerden(イザナギ)は,不定詞との関係 を見失って,文法性を失くしたという面を表 す.助動詞が助動詞ではなくなりつつあると いう中間領域がWerden(Werden)である. 括弧内のWerdenは,助動詞から言象し現れ たそれとは別の文法事項を意味し,これが動 詞<Zeit-wort>(イザナギの左の目から生ま れた:アマテラス大御神)である8) §2 「有る」と「動詞・する」   前 節 で 説 明 さ れ た よ う に,動詞は, 言 象学的文法論における中間領域,Werden (Werden)の括弧内のWerden(なる:英語 のbe-come)において起きて来る文法事項で あるが,それは,文法性を失ったという文法 事項なのである.つまり,動詞は,文法領 域(論理領域と言象領域という区分に従うな ら,言象領域)の全体を背後にしてこちらへ とやって来た文法事項である.ゆえに,動詞 は,その本性によって,自らの背後になった 自らの由来根底を忘却する可能性を本質的に もっている.かくして,動詞は動詞となる. 動詞となった動詞は,忘却された側を必然的 にもち,これに対立するという必然的関係に 立つことになる.その忘却された方は,動詞 (となった動詞)にとっては,「無」となって いるのである.かくして,動詞自身は,「無」 に必然的に対立することになり,「有る」と いう動詞となる.このようにして,動詞はそ の文法的本質によって,自身の文法的由来根 底を忘却して,「無」に対して,「有る」とい う動詞となるのである.ゆえに,一般に,「有 る」は動詞であり,「無」は動詞ではない.  動詞は,それの背後に退いたものとの関係 にある.その「背後に退いたもの」は,言象 領域と言える.動詞の由来根拠となっている, その言象領域を動詞は去ってきたのである. そして,単に「去った」のではなく,そのこ とを動詞は忘却するのであり,したがって, 背後に退いた言象領域は動詞にとって「無」 となるのである.ゆえに,前節で説明された 不定詞から動詞に至るまでの言象学的文法論 は,「無」の奥の消息であり(『古事記』:タ カマノハラ),したがって,そこで語られて いたことは,「虚-言」的内容でなければなら ない(神話性をもつ可能性).なぜなら,「無」 が,すなわち,「有る」ではないことが,語 られるからである.逆に,もし,「無」の内 実が語られる場合,そこで語られる言葉が  「虚-言」的でないならば,その言葉は嘘を, 虚言(偽り)を語っているのである.言象学 的文法論は,「有る」に対立する,「無」の奥 の真相なのである.  このようにして,動詞は「有る」という動 詞に変わる.動詞が「有る」に変わるまでの こうした文法上のプロセスは,上で示された ように,「有る」に属することではない.こ のプロセスは,「言象に根ざす外へ」という 動向と見なすことができる.つまり,動詞は, 文法的には,言象領域が奥へ退くことで,そ こからそれの「外へ」と出てきたこととして 受け取られるのである.ここで言われる「外 へ」ないしは「外」は,文法的なことがらと 見なければならない.このような意味の「外 へ」と出てきたところの動詞は,言象性を後 ろにして,そこから去っているのであるか ら,少なくとも,「(言象的に)言う」ことを しているのではないことは明らかである.動

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詞は,「言う」ことをしているのではないが, 「している」のである.ここに,原初的に3 3 3 3 「す る」ということが文法的な仕方で定義され出 現してくるのである.このような原初に定義 された「する」を,ここでは,「動詞・する」 というように表しておきたい.「言う」とい うこと,すなわち,言象からそれの「外へ」 出て来て,動詞は「動詞・する」のである.  仏教には十二因縁の法というものが知られ ている.その法は,なぜ,人間存在は「苦」 の世界に来たのか(なぜ,生きることは苦な のか)ということを因果関係にしたがって説 示するものである.それは,次のように始ま る.「無明・行・識・・・(以下省略)」.仏教 は,人生の苦の究極的原因を「無明」と見て  いる。「無明」とは,言象学的文法論的に理 解されるならば,動詞がその文法由来性を忘 却することであり,言象領域が「無」になる こと,それに対して無知無明になることであ る.そして,ここが注目されることである が,そうした「無明」の次に「行」が起こる と説かれているのである.言象学的文法論的 に,「動詞・する」が,つまり,原初的な「す る」が起こることとのある種の一致ないしは 類似がここに見られる.「識」とは,深い意 味で「知る」ことであり,言象学的文法論的 には,後で説明されるように,「動詞・する」 がνοεῖνの働きを「する」ことと見なされよう. もちろん,このような「ある種の一致」から 両者がまったく同一であると見るのは早計で ある.なぜなら,仏教は,文法論ではないか らである.「有る」,そして,「する」が動詞 であるという疑いえない事実が言象学的文法 論では問題なのである.しかし,そのような 慎重さを要しながらも,ここに見られる「一 致」は,注目に値すると言えよう.  「動詞・する」は,動詞の固有の文法的機 能と見ることができる.それは「有る」とい う動詞に動詞が変わるまでに動詞が「してい ること」である.ゆえに,動詞は「している」 ことになる.そして,その「していること」 が,すべての3 3 3 3 「する」の原初的定義になって いるのである.動詞が「している」が,「する」 の境<terminus>となっている(「言う」と 「する」の境目が存するという意味),それの 終端<determinatio>になっているのである. 動詞が「している」ことが,「する」の発端 であり,終端である.これが,アリストテレ スが語らんとしたἐνέργεια(エネルゲイア: 一般には「現実態」と訳される)である9)  たとえば,家を造っている過程においては, 家はできていない.しかし,もし,家が建て られつつあることとその家がすでに建て終え ていることとが一つになっている場合がある とすれば,それが,ἐνέργειαであるとアリ ストテレスは説明している(実際には,アリ ストテレスは「見る」とか「思惟する」がそ うしたものであると説いている).ところが, 上で定義された「動詞・する」は,原初的に そのようなアリストテレスの説明に適ってい るのである.なぜなら,動詞は,言象領域を 去って出現してきた文法状態として,もはや 「言う」ではなく,それとは別のことを「し ている」のでなければならない.「している」 が始めてここに生ずるのである.そして,こ れが「する」ということの定義になるのであ る.このような「する」の定義が出てきたこ とは,それが単に発端になり,そこから他の いろいろな「する」が派生するという意味を もつだけではなく,その発端がすべての「す る」を満たし,完全なものとなっていること をも意味する.その意味でこの原初に現れた 「する」は,「している」と同時に「し終えた」 のである.そして,このようになっているこ とは,ἐνέργειαのアリストテレスによる説 明と一致する.ἐνέργειαとは何か,その定 義は,「動詞・する」である.  「有る」という動詞は,このような動詞の「し ている」ことを「知らない」.なぜなら,「有 る」という動詞は,動詞であることを忘却し

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たことであるからである.しかるに,「有る」 という動詞の奥には,動詞が「している」こ とが潜在しているのでなければならない.「有 る」という動詞の奥にἐνέργειαが隠されて いることになる.このことを「知る」ことは, 「動詞・する」ことではないであろうか.な ぜなら,「知る」ことも「する」ことであろ うから.しかし,そのことを「言う」ことは, 動詞が出て来るとともに後退した言象が「言 い」始めるようになることなのではないだろ うか.  こうして,「有る」という動詞の奥に隠れ ていた「動詞・する」がそれとして顕れるよ うになることは,動詞が「している」こと, ἐνέργειαが明かされることなのである.そ して,「有る」ということと「知る」(「有る」 が動詞であると知るようになること,つまり, 思考すること)ということがここでは別々の ことではなく,相互に関わり合うことが必然 となるのである.「知る」の奥深くに動詞3 3 が3 「している」はずなのである. §3 νοεῖνとεἶναι  前節で,「有る」という動詞と「知る」こ ととが,或る特別の関係にある3 3 3 3 3 3 3 3 ことが明らか にされた.前者が,冒頭で引用されたパル メニデスの言葉におけるεἶναιであり,後者 がνοεῖνなのである.したがって,あのパル メニデスの言葉は,D訳のように「νοεῖνと εἶναιとは同じものである」と訳されること は適切ではないことになる.その訳では,今, 上で明らかにされた本質的内容がまったく汲 まれないことになる.そもそも,それでは何 を言っているのか分からないことになり,し たがって,さまざまな解釈が用意されねばな らないことになる(ハイデガーは,そうした 様々な解釈の内,代表的な解釈を『モイラ』 の中で取り上げている).νοεῖνとεἶναιの両 者の奥深くに「動詞」が存しているというこ とがパルメニデスの言葉の中で語られている のである.「有る」という動詞は,元々は, 動詞であり,νοεῖνはそのような動詞が「有 る」の奥からその真実の意味を明らかにしよ うと「する」こと,つまり,「動詞・する」 ことであるということが語られなければなら ない唯一のことであり,パルメニデスはこの ことをかの箴言のなかで言おうとしているの である.「同じもの」,すなわち,動詞が「有 る」という動詞となっていて,また,それが νοεῖνでもある,このことが,その言葉で語 られているのである(H訳の真相).しかし, パルメニデスは,τὸ αὐτό(同じもの)と言っ ているのであり,それを動詞であると表立っ て,はっきりと言わない.どうしてなのか.  なぜ,パルメニデスはτὸ αὐτόと言って, 動詞と言わなかったのか.それは,動詞であ るが故にと答える他ないのである.というの も,動詞は,言象領域が後退するとともにそ こから去ってこちらへと出て来た文法事項で あり,したがって,動詞と言い得るには,言 象学的文法論の領野ないしは視座が先行的に 開かれていなければならないからである.し かし,そのような領野が開かれることは,後 で詳しく説明されるように,歴史的な3 3 3 3 できご とであり,単に思考上のことがらではないの である.「有る」という動詞の真相を動詞と 言い得るには,「時」の制約があるのである. では,動詞と「時」とはどのような関係にあ り,また,そこにどのような「制約」がある のだろうか.以下,このことを明らかにした い. §4 動詞と「時」  「時」は,言象学的文法論的にはどのよう なものと見るべきであるか.  すでに§1において,時制について説明さ れていた.不定詞は,前置詞<vor>を「前もっ て」置くのが「好ましい」として,「以前」 を仮定したのであった.ここに,仮定法ない しは接続法としての<Sagen>würdeが言象す

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る.すでにそこには未来時制が現われている. しかし,ここでの未来性は,「以前」のこと なのである.過去時制はそのまま未来性をも つ.<Sagen>würdeは,不定詞の方から見て のことであり,当の<Sagen>würdeの内部に おいては,<Sagen>へ「成る」という意味で あり,その意味ではそこは<Sagen>werden である.ここに,助動詞が言象するのであ る.この助動詞は本質的に未来の助動詞であ る.しかし,未来時制は過去時制と同じもの であるから,未来の助動詞は過去時制である ことになる.このことは,次のように表され ることができる.すなわち,助動詞におい て,未来は過去に属している,と.上で示さ れたように,未来も過去もあの「以前」に 依るのであり,「以前」とは,不定詞の「た めに<für>」である.時制自身が,不定詞 の「ために」なるのであり,不定詞へと熟す <zeitigen>ことで,その固有の使命を果たす のである.時制は,過去になって,終えるこ とでその使命を果たす.  助動詞において,不定詞との関係から遠 ざかる可能性が出て来ると,助動詞は,或 る中間領域,すなわち,過渡的領域である Werden(Werden)に推移する.すでにこ こには,動詞の言象が兆すのである.不定詞 との関係から遠ざかることは,過去時制と未 来時制の同一性が成立しなくなることを意 味する.なぜなら,不定詞の「ために」とい う意味で一つになっていた未来と過去が,不 定詞が失われることで,両者の同一性の根底 を見失うからである.不定詞は未来と過去を 結び付けていたのに,ここで,両者を分ける 無根拠となる.それは瞬間となって,未来と 過去を分けるようになるのである.未来と過 去が分かたれ,両者の「間」に瞬間の深淵が 出て来ることと,動詞が言象して来ることは まったく同時であることになる.こうして, 動詞はZeit-wortとなるのである.動詞は過 去と未来の「間」と「ともに」現在するので ある.動詞は,かくして,過去と未来の「間」 に現在する.「時<Zeit>」と動詞とは,不可 分の関係にあるのである.この「不可分」と いうことも,動詞が「有る」という動詞に変 わったところでは,まったく知られない.な ぜなら,その「不可分」性は,上のように, 言象学的文法論的にのみ明かされるからであ る.ゆえに,「有る」という動詞が動詞であ ると言い得ることは,「時」の本質を言うこ とと切り離されず,そのこと自体が「時」的 でなければならないということになる.この ようなことは単に時間の中で起こる出来事 ではなく,「時」そのものが自身を言おうと (Zeit-wortならんと)すること,つまり,歴 史的なことなのである.本来は動詞であるの に,それをτὸ αὐτόと言うこともまた必然的 に歴史的なことであり,「時」そのものが「時」 自身を語るための必然的制約がそこに存する のである.ギリシアという歴史的時代には, そうした制約によって,動詞はτὸ αὐτόと言 われることになっているのである.τὸ αὐτό が動詞であることへ向けて解釈されること も,特定の時代になって歴史的に行われるの である.その場合,そうしたτὸ αὐτόの動詞 へ向けての思索は,必然的に歴史的であると の自覚をもつ.事実,ハイデガーは,そのよ うな解釈を歴史的であると認識していた.  このようにして,τὸ αὐτόと言われること は,歴史的制約性を保有している.それがそ う言われて,動詞とは言われないことは,歴 史的制約によるのであり,ギリシアの時代に そのことが起きなければならなかったのであ る.動詞が「時」そのものであるがゆえに, また,動詞がその文法3 3 由来性を忘却するがゆ3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 えに,3 3 そこに,「時」が「時」として明かさ3 3 3 3 3 3 3 3 3 れることに制約が加えられる3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3のである.この 制約は,動詞がその文法由来性を忘却するこ とに関係するものであり,したがって,「有 る」という動詞に固有な「時」的本質である. すなわち,「有る」という動詞がどれだけ元

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の動詞性を回復するかによって制約性が決ま るのである.どれだけ「有る」が元の自身の 本来の有り方を「思い出す」かにしたがって, 「時」が「時」自身を明かす秩序が出来るこ とになり,その秩序が歴史を画すことになる. 歴史のエポックとは,以上のような意味で の制約,ἐποχή(エポケー:押しとどめるこ と,抑えること)である.動詞がτὸ αὐτόと して,ないしはἐνέργειαとして言われるこ とで,つまり,動詞が動詞として自身を顕わ すことを「押しとどめる」ことによって,ギ リシアの時代が画される.そして,それらが, 動詞的であると,つまり,「時」的に解明さ れることは,別の時代(ゲルマン民族の歴史 性)を画することになるのである.  ゆえに,ギリシアの時代にパルメニデ スのあの言葉ないしはアリストテレスの ἐνέργειαが現われたというのではなく,むし ろ,事態は逆になっていることになる.あの 言葉によって,ないしは,あの言葉を明かす べく,そして,ἐνέργειαを開示すべく,ギ リシアという時代が起きてきたということに なる.その時代に起きた様々な出来事(戦争 や政治的事件など)は,それらによって規定 され,支配されていたということになる.だ が,これ程非常識で転倒した考えは有りえな いであろう.しかし,パルメニデスの言葉の 中に出て来るτὸ αὐτόが,そして,ἐνέργεια が動詞であるとすれば,このような事態に なっていなければならないのである.時代と 哲学との関係についてこのように見た最初の 哲学者がヘーゲルであった.彼は,『哲学史 講義』の中で次のように言う.  「哲学は,精神の全形態の概念であり,全 状態の意識にして精神的本質であり,自らを 思惟する精神として存在する時代の精神であ る.多様な形態を取る全体は,それの自知す る概念である,単純な焦点としての哲学の中 に映るのである.」10)  ここには,まだ,動詞が自身を顕わすこと を抑制しているということが知られていない けれども,「自知する概念」が「時代」の全 体を統御しているという上で示されたような 歴史的本質がすでに認識されているのであ る. §5 「時」の制約  上で明らかにされたように,動詞は,Zeit -wortであり,「時」そのものである.動詞が 現在することで,過去と未来の連続に亀裂が 入り,両者の「間」が出来て,その「間」に 動詞そのものが起きて来る,すなわち,現在 するのである.動詞は助動詞を背後にして言 象して来たのである.助動詞を後ろにした ということは,言象領域が動詞の背後に退 き,そこが忘却されることを引き起こす.こ のことは,また,動詞が動詞であることを見 失うこと,自らの文法由来性を忘却すること を引き起こすのである.こうして成った動詞 の変化が「有る」という動詞,εἶναι,であ る.ゆえに,「有る」という動詞は,動詞自 身の自己忘却態であり,それ自身の由来根拠 との関係(「無」との関係)にある.このこ とは,また,「有る」という動詞の奥に「思 い出すこと」の必然性が存しているというこ とを意味する.「(動詞を)思い出す」ように という要求が「有る」という動詞には隠れて いて,この「思い出す」こととそれを要求す ることは,実は,「動詞・する」からの働き かけなのである.「有る」という動詞の奥か ら一種の呼びかけがされていて,それをする3 3 のは,「動詞・する」である.このような「動 詞・する」が「していること」がνοεῖνであ り,思惟(思考)すること<denken>である. 「有る」という動詞と「思惟すること」とは, こうして,動詞をめぐって相互に関係してい る.この連関をあのパルメニデスの言葉が表 そうとしているのである.  動詞は,しかし,「有る」という動詞の方 からは,それとして顕れることはない.「時」

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とは何かという問いに答えることによって, 動詞そのものが明かされるのである.かくし て,「有る」と思惟との相互の連関そのものが, 「時」そのものへの探求となっている.その 探求は,誰かが主観的に行うというより,「時」 的にされるのである.「時」が「時」そのも のを明かす或る「時」の中に3 3 3 それが成立する ことになる.「時」が自身を明かすまでの「間」 にそれが成立するのである.ここでは,この ことを「時」の制約と名付けておきたい(こ れは前節で示されたように,動詞が動詞自身 を顕わすことを抑制していることである). 「時」の制約によって,「有る」という動詞と 思惟とが相互に関わり合う場が存するように なるのである.この「場」において,動詞は, まだ謎となっていて(動詞は動詞そのものと して顕われない),しかも,両者の相互関係 の関わり合いを与えている3 3 3 3 3 .動詞が,謎と なってνοεῖνとεἶναιの相互関係を与えている ということがD訳では覆われ,見えなくなる. これに対して,H訳は,このことを表すこと ができるのである. §6 「有る」と現在分詞  動詞は,それ自身の文法由来性を見失って, 「有る」という動詞に変化する.動詞は,す でに示したように,「言象に根ざす外へ」と いう文法的動向でもある.それが,その文法 由来性を見失うということは,「言象に根ざ す外へ」の「言象に根ざす」という面が失わ れて,単に「外へ」ということだけが起きて 来ることを意味する(ラテン語の「存在」を 意味するexsistentiaは,「外へ出て来る」を 意味するexsitereに由来する).「有る」とい う動詞は,このような意味の「外へ」という 文法的意味を基底にしているのである.Zeit -wortとしての動詞は,「時」そのものであっ たから,「外へ」というところでは,そのよ うな「時」自身からそれの「外へ」出ている ことになり,「時」の中に3 3 3 「有る」ことにな る.動詞が「時」の中に「有る」となってい ることは,現在に「有る」ことであり,動詞 の自己派生である.こうして,「有る」とい う動詞は,動詞が部分を分かつこと(ドイツ 語:teilen)である.「有る」という動詞は動 詞への関与(動詞の部分となること=ラテン 語:particeps)である.動詞はその文法的 本性(「外へ」)のゆえに,自己の外へ,名 詞へ向かう傾向性をもつ11).これが現在分詞 <Partizip Präsens>である.ゆえに,「有る」 という動詞は文法的意味的には,現在分詞を その根底にしている.このような基本的な文 法的構造は,ただ,「有る」という動詞にの み固有な構造であり,ハイデガーは,これを Zwiefalt(ここでは「二重一体性」と訳すが, 「二襞」という訳もある)と名付けた.「有る」 という動詞は,もともとは動詞であり,それ 自体,動詞の現在における分詞となっている のである.現在分詞は,動詞の「外へ」に 従った分派態であるが,「動詞の」はその中 では見えなくなる.こうして,それは,「有 る」という動詞の中に潜むそれの分詞的本性 となり,「有る」の分詞,「有るもの<ὄν(オ ン)>」と見なされるのである(以下,ὄνと 表す).現在分詞は,動詞が自身を分与する ことであり,名詞に向かう傾向性であるから, ὄνは,「有るもの3 3 」という名詞的な意味をも つ.「有る」という動詞の意味には分詞性が 必然的に含まれているのである.「有る」が 動詞の自己忘却態であることから,必然的に, Zwiefaltが成立しているのである.かくして, 「有る」という動詞には二つの意味がある. それは,もともとは動詞であるという意味と 今は分詞であるという意味である.この両者 の二重一体性は,その「何故に(二重一体と なったのか)」が動詞3 3 の方から解き明かされ3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 る3 ようになっているのであり,これを「する」 ことが本来的な意味でνοεῖνなのである.

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§7 νοεῖνとὄν  動詞は,その文法由来性を忘却し,その出 所である言象領域を「無」にして,論理領域 の始原としての述語となる,つまり,「有る」 という動詞となる.また,動詞は「時」その ものであるが,文法由来性の忘却によって, 「時」の中に3 3 3 「有る」ようになる.「有る」は, したがって,「時」の中に「有るもの」,ὄν である.ὄνが「有る」ことになる.ὄνと「有る」 とは,このようにして,分かちがたい関係に あり,まさに,その状態は,Zwiefaltである. ここで明らかになることは,「有る」は「時」 そのものではない3 3 ということである.しかし, ここでの「ない」という否定辞は,単なる否 定を意味しない.なぜなら,「時」そのもの ではないということは,動詞がその文法由来 性を忘却したということを意味し,したがっ て,その「ない」は論理的否定ではなく,文 法由来的な意味をもつからである.この「な い」には,「有る」が元々は動詞であるとい うことを言うべしといったような要請が含ま れているのである.文法由来性を忘却しただ けではなく,まさに,そのことを思い出すよ うにという要求が,その「ない」に含まれて いる.かくして,「有る」という動詞は,「時」 の中に「有る」だけではなく,「時」そのも のとの必然的関係性に置かれている.この事 態は,「有る」という動詞の奥で,「動詞」が 働いている3 3 3 3 3 ことと受け取られる.しかも,そ の動詞の働き3 3 は,本質的に文法由来性の働き である.これがすでに示されていた「動詞・ する」である.「有る」の奥で働く「動詞・ する」のその働きが,νοεῖνなのである.ゆ えに,νοεῖνは,「時」の中に「有る」ことを「時」 そのものへと導く働きをする.「ὄνが有る」, すなわち,「有るものが有る」ということを 「時」そのものへと導く仕事をするのである. νοεῖνの固有の仕事は,「ὄνが有る」という ことの内部で為されるのではなく,「ὄνが有 る」というそのことを「時」自身へと導く仕 事なのである.  もちろん,νοεῖνは,「ὄνが有る」という 圏域の内部でも一般に「思考能力」として働 く.しかし,それは,νοεῖνの本来的仕事で3 3 3 3 3 3 はない3 3 3のである.思考をそのような思考能力 と理解することがどれほど蔓延しているかを ここで簡単に見ておくのも無駄ではないであ ろう.  まず,諸学問は,ことごとく,νοεῖνの本 来の仕事を知らない.たとえば,自然科学と いう学問は,自然界に「有るもの」をその対 象にして,それらが何であり,どのように有 るのかというように思考する.社会科学のす べても同様であり,その対象が変わったにす ぎない.思考の法則を探求する論理学も,同 様であり,そこでの思考は,νοεῖν自身の固 有の仕事をしているのではない.νοεῖνを「有 るもの」と見ているにすぎない.  すべての技術もまた,「有るもの」を思考 している.鉄を作るためにはどうしたらよい のかと技術者は思考するのであり,どうした ら,生活を便利にできる道具を発明できるの かと思考する.  実存的に,人は,なぜ生きるのか,あるいは, 私はどのようにして生きるべきか,というよ うな問いをするときも,そこで思考は,かな らずしも,νοεῖν本来の仕事をしているわけ ではなく,自己自身を「有るもの」と見ている.  このように,νοεῖνは,「ὄνが有る」とい うことの圏域内で働き,あの本来固有の仕事 をしていないのである.このことは,驚くべ きことなのである.しかし,アリストテレス は,νοεῖνが本来固有の仕事をしていないこ とに気付いていた.彼は『形而上学』第4巻 第1章で次のように語る.  οὐδεμία γὰρ τῶν ἄλλων ἐπισκοπεῖ καθόλου περὶ τοῦ ὄντος ᾗ ὄν, ἀλλὰ μέρος αὐτοῦ τι ἀποτεμόμεναι περὶ τοῦτο θεωροῦσι τὸ συμβεβηκός, οἷον αἰ μαθηματικαὶ τῶν ἐπιστημῶν.12)

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 (なぜなら,他の諸学問のどれもὄνとして のὄνについてまったく目を向けず,それの 何らかの部分を切り離して,これについてそ の属性を探求する.たとえば,数学的学問の ように)  ここで「ὄνとしてのὄν<ὄν ᾗ ὄν>」と言 われていることは,現在分詞としてのὄνと いうことなのである.つまり,「ὄνとしての ὄν」を研究対象とする第一哲学以外の他の すべての学問は,Zwiefaltに「目が向かない」 のである.それらの学問の代表が数学的学問 である.つまり,数学によって代表されるす べての学問,それだけではなく,すべての知 の営みは,ことごとく,Zwiefaltに向かわず, したがって,その思考は,νοεῖν固有の働き ではない.現代科学技術と科学的思考が支配 する世界の中では,こうしたアリストテレス の恐るべき思索内容が本当の意味で注目され ることはなくなったのである. §8 モイラについて  この論文の序論で示したように,ハイデ ガーは,パルメニデスのτὸ αὐτόに関する考 察を『モイラ』という題の論文の中で展開し ている.何故,そのような考察をモイラとい う題でまとめたのかについては,その論文に おいて説明されている.それによると,ハイ デガーは,次のパルメニデスの言葉に特に注 目すべきであると考えたからである.それは 次のようなものである.  ἐπεὶ τὸ γε Μοῖρ’ ἐπέδησεν οὖλον ἀκίνητόν τ’ ἔμεναι13)  (というのも,モイラがそれを全体で不動 であることに結び付けたからである)  ここで「それを」とは,「有るもの」,つまり, ὄνを指している.この文の前には,思惟は, 何か「有るもの」がなければ成立できないと いうことが語られている.そして,「有るもの」 の他に何もないということが語られ,この命 題の根拠として上の文が語られているのであ る.しかし,何ゆえ,そのモイラの働きを描 くような文章が「有るもの」の他に何もない という命題の根拠になるのかが明確に理解で きないのである.運命の女神のモイラがこれ これのことをするから,「有るものの他に何 もない」という命題が成立する,これは,一 体,どのように理解すべきなのであろうか.  どうしてここにモイラというような神が登 場するのであろうか.それは,思惟されるこ とではなく,文法に関係することがらである からである.モイラは,運命の女神であるが, それは,「部分,党派,分け前,分け与えら れた運命」を意味するギリシア語のμοῖρα(モ イラ)から由来する.このような意味のモイ ラが文法的意味をもつがゆえに,パルメニデ スは神として表したのである.思惟され得る ことであったなら,単に「部分」とか「分け前」 という語でよかったのであり,わざわざ女神 を登場させるいわれはない.「有るもの」が 文法的な意味での「部分」であることを言う ために,「部分」を意味する女神を必要とし たのである.ὄνの文法的由来を語るには,「部 分」を意味する或る文法事項を要したのであ る.もちろん,それは,上で示されたような 現在分詞に他ならない.ὄνは,動詞の「部分」, 分詞なのである.  ところで,そのような意味のモイラが「有 るものを全体で不動であることに結び付け る」とはどのようなことなのであろうか.  モイラとは,「部分」を意味し,しかも,「部 分」とは文法的連関的な意味での「部分」を 意味するのであった.「部分」が,動詞の「部 分」であるということがここで「文法的連 関」と言われていることである.この「部分」 は,動詞の分け前を持つのであり,文法的に は,それは現在分詞である.しかし,このよ うに動詞の部分となっている現在分詞は,動 詞そのものの現在分詞ではない.動詞は,す でに述べられたように,動詞であることを忘 却するのであり,すなわち,その文法由来性

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を見失うのであり,その限り,動詞は,「有 る」という動詞となるのであり,したがって, 動詞の「部分」である現在分詞もまた,動詞 の現在分詞であることを見失い,「有る」と いう動詞にしてそれの分詞となっているので ある.ὄνは「有る」のであり,「有る」はὄν である.どちらも,実は,もともとは動詞な のである.ゆえに,ハイデガーの言うところ のZwiefaltは,動詞であると言象学的文法論 的に解き明かされる可能性を本質的にもっ ている.ハイデガーは,このことをZwiefalt のentfaltenと言っている.entfaltenとは,畳 んだものを広げることであり,(二つのもの が)一つに畳まれていたZwiefaltを「広げて」, 動詞として解き明かすことなのである.筆者 は,ここでは,entfaltenを「開蔵」と訳すこ とにする.このような意味のentfaltenによっ て,はじめて,「部分」の文法連関性が明か されて,モイラが登場するのである.「部分」 が何の「部分」なのかということが解き明か されるとともにモイラもまた「女神」として 現われるようになる.逆に言うなら,女神モ イラの登場とともに,ὄνは,「有る」との二 重一体性を「開蔵」するようになるのである. しかし,「女神」として登場することは,まだ, 動詞がその本来の姿では顕われていないこと を意味するのであるから,ὄνは,女神モイ ラの登場によって,動詞であると解き明かさ れるまでに至らないのである.しかし,ὄνは, 何らかの仕方で動詞とのつながりに入るので あり,動詞は,そこでは「全体にして不動」 という姿を見せるのである.つまり,女神モ イラは,ὄνと動詞とをἐπέδησεν(結び付け た)のである.ただし,動詞としてではなく, 「全体にして不動なもの」としての何かとし て.「結びつける」とは,女神モイラの登場 によって,ὄνが動詞(ただし,動詞そのも のとしてではなく)と結びつくことを意味す るのである.このことは,パルメニデスの思 索が,単にὄνについての思考であったので はなく,動詞へ向けての思索であったことを 示す.ゆえに,冒頭で引用したハイデガーの 言葉の正当性が裏付けられるのである.すな わち,「パルメニデスが,もしも,τὸ αὐτό, 同じものという謎の言葉の中で沈黙する謎に 満ちたものの遠さの中へと思索しなかったな らば」というハイデガーの見方は,正当で客 観的な理解であったのである.ハイデガーは, パルメニデスが「謎に満ちたものの遠さ」に 足を踏み入れたと見たのであり,このことは, パルメニデスの思索において女神モイラが登 場することと完全に整合的である.当然,τὸ αὐτόという「謎の言葉」が何であるかも明 らかである.τὸ αὐτόは動詞なのである.そ れの「部分」,μοῖραが,女神として,或る 文法的な連関での「部分」として,パルメニ デスの思索の中にやって来るのである.  ところで,女神モイラの登場によって,動 詞はどうして「全体的で不動」と見えている のであろうか.まず,動詞が「全体的」であ ると見えることは当然と言わなければならな い.なぜなら,動詞は「有る」となっていて, すべて3 3 3の3ὄνにとって,つまり,あらゆる「部 分」にとって,「全体」であるからである. しかし,どうして「不動」なのであろうか. 動詞は「時」そのものであって,それ自身は, 「時」の中3 3 にない3 3 .したがって,それは,「時」 の中で変化することはなく,動くことなく, 本質的に「不動」なのである.「全体的で不動」 という言い方は,動詞の本質を構成する二面, つまり,動詞がすべての「有るもの」を始原 的に手中に収めていること,並びに,「時」 そのものであることを表しているのである.  以上のように,何故,パルメニデスは,女 神モイラを登場させたかが言象学的文法論的 に解き明かされた.では,ハイデガーは,そ のことをどのように解したのであろうか.  モイラについて,ハイデガーは,次のよう に語っている.  「パルメニデスは,ἐόν(ὄνを表す)について,

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(現前するものの)現前について,Zwiefalt について語っているのであり,まったく『有る もの』については語っていないのである.」14)  ここで,ハイデガーは,パルメニデスの言 葉がどのような境位で語られているかを指定 しているのである.つまり,パルメニデスは, 単に「有るもの」について思考するというよ うな境位に立っているのではなく,動詞に向 けて思索をする境位(νοεῖνの本来固有の仕 事をすること)に立っているのである.もち ろん,彼もハイデガーも,そこが「動詞」へ 向けての境位であるとはまだ認識していな い.だからこそ,まさに,女神が必要とされ たのである.しかし,それにもかかわらず, 両者ともに動詞へ向けて3 3 3 思索をしているので ある.両者の思索は動詞への途上3 3 にあるので ある.上の引用箇所に続けてハイデガーは, 次のように語る。  「パルメニデスは,モイラ,すなわち,割 り当てること<Zuteilung>の名を挙げてい る.それは,授けて分配し,そのようにし て,Zwiefaltを開蔵するのである.この割り 当てることが,Zwiefaltを送る(与え,そし て,贈る).割り当てることは,自らの中へ と集められた,かくして,開蔵しつつ,現前 するものの現前として現前を送ることであ る.モイラとは,ἐόνの意味で「有る」の運 命<Geschick>である.」15)  ハイデガーは,モイラとは「割り当てるこ と」,Zuteilungと解したのである.そして, ここで言われているZuteilungとは,どのよ うなことかが説明されているのである.簡単 に言うと,Zuteilungとは,Zwiefaltを開蔵す ることであり,同時にZwiefaltを送り与える ことである.では,どうして,この両者が同 一のZuteilungなのかということが問われる ことになる.  Zwiefaltを送ることがZwiefaltの開蔵にな るということは,にわかには理解できぬこと である.しかし,すでに上で解き明かされた ように,ハイデガーならびにパルメニデスの 思索の立ち位置が「動詞への途上」にあると すれば,このようになっていなければならな いのである.それは以下のような理由による.  モイラとは「部分(Teil)」を意味し,し かも,「部分」は,動詞3 3 の3 「部分」として文 法的な意味をもつのであった.動詞は,「外 へ」出て行くことによって,自らを部分に (zu Teil)分かち,分与するのである.これ が本来の意味での(動詞の)Zu-teilungであ る.動詞がこのように部分に自身を分かつ ことは,「有る」という動詞になることであ るとともに,現在分詞となること,つまり, Zwiefaltを「送ること」である.そして,こ うした動詞の分配は,「動詞・する」ことで あり,自身を顕わすこと,Zwiefaltの始原を 解き明かすことでもある.ところで,もし, ここで動詞がまだそれ自身を顕わさない場 合,そこに,女神が必然的に登場するので ある.そのような場合がパルメニデスとハ イデガーの思索の立ち位置である.動詞は 自身を分かつのである.このことによって, Zwiefaltが送り届けられ,また,それがどの ようなことかが解き明かされるのである.こ こでこうした「解き明かし」をハイデガー は,「現前するものの現前を聞き分けてい る 関 係(die vernehmende Beziehung zum  Anwesen des Anwesenden)」16)と表してい る.「聞き分けている<vernehmend>」とは, 動詞が言象に属するために,「聞く」という ことが起きていることを示している.「動詞・ する」が働き出して,Zwiefaltと動詞とを結 びつける働きが起きて来るのである.  このような理由によって,パルメニデスが 女神モイラを登場させることとハイデガーが 女神モイラをZuteilungと解釈することはこ とがらそのものとして完全に合致することに なる.両者ともに動詞そのものをそれとして は捉えていないのである.ゆえに,動詞その ものは,どこまでも,「謎に満ちたもの」と

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見なされることになり,パルメニデスは,そ うした「謎に満ちたもの」の遠さに向けて思 索したとするハイデガーの言葉が根拠のある ものとなるのである.  では,ハイデガーは,「全体的にして不動 なもの」をどのように理解したのであろうか. それは,上ですでに明らかにされたように, 動詞の二つの本質的有り方を指しているので あった.動詞は,「部分」に対しては始原的 根拠として「全体」であり,また,「時」そ のものとして「時」の中にはなく,したがっ て,「不動」である.しかるに,動詞への「途 上」にあるハイデガーの思索的境位では,両 規定が動詞3 3 の3本質規定であるとは認識されて いない.しかし,両規定は,Zwiefaltの規定 ではなく,それが「開蔵」されるようになる と現われ出てくるような規定でなければなら ない.ここのところをハイデガーは次のよう に語る.  「女神モイラは,ἐόνを,つまり,τό γεを Zwiefaltの中へと解き放ったのであり,その ようにしてまさに全体と不動へと結びつけた のである.そして,この両者から,また,こ の両者の中で現前するものの現前が起きて来 るのである.」17)  ここで語られていることは,今上で言象学 的文法論的に解き明かされていたことなので ある.「ἐόνを,つまり,τό γεをZwiefaltの中 へと解き放った」とは,動詞がZwiefaltを送っ ていることを表している.しかし,主語の「動 詞」がまだ知られていないために,ここでは, 「動詞が」ではなく,「女神モイラは」という ことになっているのである.ここで,ἐόνを Zwiefaltへと解き放つ<entbinden>と言われ ていることは,「有るもの」としてのἐόνを「有 る」と「有るもの」の二重一体性へと解き 放つという意味と受け取られる.このような entbindenが,かの動詞とのつながりへとつ なぐ(binden)のである.そして,つなげら れる動詞は動詞として知られず,「全体にし て不動」的なものと見なされるのであり,こ こから,そして,この中でかのZwiefaltが起 きて来るのである(「起きて来る」は,<sich  ereignen>となっていて,これは,ハイデガー の後期哲学の根本語であるEreignisを連想さ せる).ここで注意しなければならないこと は,このようなハイデガーの理解がどこまで も「謎に満ちたものの遠さ」において成立し ているということである.つまり,ハイデガー の思索は,動詞への「途上」にあるというこ と,このことなのである. §9 モイラと歴史性  パルメニデスの箴言のなかに女神モイラが 現われるのは,動詞が動詞そのものとして顕 れてはいないためなのであった.もし,「有 る」という動詞が動詞の派生態であり,その 意味では,現在分詞であるということ,両者 の一体性(つまり,Zwiefalt)が動詞3 3 の3 持ち 分(動詞の分け)であるということが明瞭に なっていたならば,パルメニデスはそう言え ばよいのであって,女神を持ち出す必要はな いのである.しかし,このことは,文法論的 な内容であり,思惟できないこと(「論理領域」 内部には知られていないこと)なのであるか ら,パルメニデスは,どうしても女神を登場 させざるを得なかったのである.一般に,言 象学的文法論的内容が言象学的文法論として3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 語られることが出来ない場合,思惟(思索) は,神なるものを持ち出すことになる(神話 的図式化).たとえば,ハイデガーの哲学に おいて「最後の神<der letzte Gott>」という ことが出て来るのは,彼の思索の中に最後に なってどうしても言象学的文法論と動詞が出 て来なければならないことを示している.し かし,動詞への「途上」にあるハイデガーの 思索圏域内では,その動詞は動詞として言わ れないために,最後の「神」が登場するので ある.究極的な思索であるハイデガーの思索 の中にまだ「神」が登場するのは,おかしい

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と考えるべきではなく,究極的にして徹底的 な思索だからこそ,「最後の神」が現われる のである.そうした思索は,動詞と「動詞・ する」にまで思索を極めたために,動詞が「最 後の神」として現れて来るのである.そもそ も,思索とは,本来的にして究極の行為とし て,「動詞・する」であるからである.「有 る」という動詞がもともとは「動詞である」, と言う3 3 のは,「動詞・する」ことなのである. そして,動詞そのものは「時」そのものであ るのだから,「有る」という動詞を動詞へと 戻す働きとしての思索は,また,「時」自身 が「時」そのものを顕わすことであり,した がって,そうした思索は歴史的3 3 3思索なのであ る.なぜなら,そうした真の意味の思索は, 「時」そのものが働くことであるからである. 人間があれこれと考えることではなく,「時」 自身が為す固有の仕事であるからである.ハ イデガーもまたこのような事情に気づいてい た.パルメニデスの思索内容が歴史的思索で あることを知っていたのである.なぜなら, そこに女神モイラが現われてきているからで ある.  事実,ハイデガーは,彼の立場からモイラ を解釈した後,歴史的思索に言及している. 次のように言われている.  「歴史は Zwiefalt の運命 <Geschick> であ る」18)  ここで,「Zwiefaltの運命」と言われてい ることは,動詞が自身を分け与えることであ る.しかし,「途上にある」思索としてのハ イデガーの思索的視座から見るなら,動詞そ のものがそうしていることがまだ見えてい ないので,「分け与えること」は,単に「送 ること(schicken)」と見なされ,これがか のZwiefaltをもたらすのである.こうして, Zwiefaltを送って来るそのことが歴史である と言われているのである.Zwiefaltを送るこ とは,また,「動詞・する」が働くこと,つ まり,思索がZwiefaltを解き明かすことを「す る」ことなのである.ゆえに,そうした思索は, §5で示された「時」の制約にあり,したがっ て,歴史的思索となる.  こうした歴史の本質についての言及の前 に,ハイデガーは,次の文を差しはさんでい る.  「ところが,Zwiefaltの運命において現前 が単に現われの中へと至り,現前するものが 現象することに至るのである.かの運命は, ZwiefaltをZwiefaltとして引きとどめるので あり,ましてやZwiefaltの開蔵を隠されたま まに引きとどめておくのである.Ἀλήθεια(ア レーテイア:真理)の本質が覆われ隠された ままになる.」19)  ここでは,次のようなことが思索されてい る.  Zwiefaltの運命,つまり,Zwiefaltが動詞 から送られてきたこと,「動詞3 3 の3 分与」とし ての現在分詞と「有る」という動詞の二重一 体性が送られてきたこと,はそれそのものと しては,そのことの中で,明かされるわけで はなく,むしろ,「引きとどめられる」こと になり,その結果,そうしたZwiefaltのゆえ に現前と現前するものとが前面に現れて来 る(現象する)のである.どうしてそうなる かと言えば,動詞そのものが文法事項であり ながら,文法性を失うからである.動詞であ ることが知られなくなるのである.このこと は,ハイデガーの立場から見られるならば3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 , 「Ἀλήθειαの本質が覆われ隠されたまま」に なると言われるのである.では,Ἀλήθειαと は何か.ハイデガーは,歴史性との関連にお3 3 3 3 3 3 3 3 3 いて3 3 ,それを次のように説明している.  「有ると有るもののZwiefaltは,そのような  ものとしては実体のないものへと消えてしま うように見えるが,実は,思索はギリシア の初めよりずっとZwiefaltの開蔵されたもの の内部で動いているのである.ただし,思 索はそれの滞在地をよく考えていないので あり,Zwiefaltの開蔵を思い出すことすらも

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しないのである.ヨーロッパの思索の初めに おいて,Zwiefaltが無くなることが気づかれ ずに起きたのである.しかしながら,そう した無くなることは無となったのではない. Zwiefaltが無くなることはギリシアの思索に 次のような初める仕方を授けるのである.す なわち,有るものの有るの透けることが透け ることとしてそれ自身を隠すという仕方であ る.Zwiefaltが無くなることの隠すことは, Zwiefaltがそこへと離れ落ちて行くかのもの と同様本質的に支配するのである.Zwiefalt はどこへと落ちるのであろうか.忘却の中 へである.忘却の存続する支配することは Λήθη(レーテー:忘却)として隠れる.そ して,Ἀλήθειαは,このΛήθηに次のように してそのまま帰属しているのである,すなわ ち,ΛήθηはἈλήθειαのために自ら身を引き, Ἀλήθειαに純粋な顕わすことを委ねるのであ る.それは,Φύσις(プュシス),Λόγος(ロ ゴス),Ἕν(ヘン)という仕方で顕わすので ある.しかもそこにはなんら隠すことを必要 としないかのように.」20)  この文の中で語られていることは,本来的 には言象学的文法論的なことがらであるが, しかし,言象学的文法論的に眺められている のではなく,それへの途上において見えてい3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 ること3 3 3 なのである.途上において見えて来て いることは,本来的には,言象学的文法論的 に語られるべきことである.それは以下のよ うなことである.  まず,「有るものの有るの透けること<die  Lichtung des Seins des Seienden>」 と は, 「有る」という動詞がもともとは動詞である ということが透けて見えるようになることで ある.動詞がいわば照らす(後述のアマテ ラスのところを見よ)光(Licht)となって, 「有る」という動詞の背後ないしは奥底から 透けて見えるようになる(lichten)のであ る.もちろん,途上にある思索からは,そう したLichtungが動詞3 3 の3 光であるとはまだ知 られていない.そこではまだ動詞そのものが 動詞として顕われ出て来るのではないが,と にかく,「有る」という動詞のもともとの本3 3 3 3 3 3 質が出てこようとしている3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 3 のである(ハイデ ガーはこのような動詞の側からのいわば働き を本質<Wesen>の動詞態であるWesungと いう語で言い表す).しかし,そのようにし て動詞が「有る」という動詞の奥底から姿を 顕わそうとしはじめることは,動詞が文法的 事項である以上,顕わすことではなく3 3 3 3 3 3 3 3 3 ,むし ろ,それ自身を隠すことの顕われ(それ自身 を隠していることが顕われて来る)というこ とにならざるを得ない.なぜなら,動詞が動 詞として自身を顕わすとは,自身の文法由来 性を言うことであるのだから,動詞が途上的 な視界において見られる場合には,それは, 途上的視界の外に去って行くように見えるか らである.このことが,「透けることとして それ自身を隠す」と言われていことである. しかるに,このようになることがZwiefaltの 開蔵ということである.こうして,Zwiefalt の開蔵は自身を隠すことになり,忘却され るのである.本来は動詞として顕われるべ きものは,それ自身を隠すことの透けるこ とであり,このことが,ギリシアの時代に, Φύσις,Λόγος,Ἕνという仕方で現れて来る のである.それ自身を隠すことの透けること, Lichtungが自身を隠すことは,「Ἀλήθειαは, このΛήθηにそのまま帰属している」と言わ れていることである.「有る」という動詞が 動詞であることを動詞の側から言おうとする と,つまり,「動詞・する」が「有る」の奥 で働くようになる(ハイデガーの立場からは Wesungと言われる)と,そのことは,どう しても,このような事態として,途上におけ る視界側から見えるのである.途上側の視界 から「見える」ことは,動詞側からすれば「言 おう」とすることになるのである.この連関 がヘラクレイトスの言うところのΛόγος(ロ ゴス)である.Λόγοςは,λέγειν(言う)に

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