梶 川 信 行 教科書 の 中 の 万葉歌 ︱ 額田王 の 歌 を 読 む︱

12  Download (0)

Full text

(1)

右は︑近江大津宮を都とした時代の額田王の歌である︒﹁天

皇﹂とは︑天智天皇︵六二六〜六七一︶のこと︒また﹁蒲生野﹂

とは︑現在の滋賀県東近江市一帯︒琵琶湖の東側の丘陵地だが︑

同市内の名神高速八日市インターより東の八風街道沿いという

説︵足利健亮﹃地図から読む歴史﹄講談社学術文庫・二○一二︶ が︑説得力に富む︒しかし︑その遺構や文字資料が出て来るこ

とは︑ほとんど期待できない︒したがって︑将来的にも︑この

説で決まりということはないだろう︒旧近江国蒲生郡のどこか

だが 不詳

︑とでも

うしかあるまい

︒﹃

日本書紀

﹄によれば

天智七年︵六六八︶五月五日︑天智天皇一行は︑その蒲生野に

出かけた︒右の歌は︑そこで披露されたものだったと考えられ

る︒ ︿研究へのいざない﹀万葉歌を読む

24

梶 川 信 行 教科書万葉歌額田王 む︱

   天皇︑蒲 生野に遊 猟する時 に︑額 田 王 の作る歌 茜 草指 す   紫 野 行 き   標 野 行 き

野 守 は見 ずや

君 が袖振る    

︵巻一・二○︶

(2)

の服の色︑皆冠の色に随ひ︑各髻華を着せり︒則ち大徳・

小徳は並に金を用ゐ︑大仁・小仁は仾の尾を用ゐ︑大礼よ

り以下は鳥の尾を用ゐたり︒

とする記事である︒﹁菟田野﹂は現在の奈良県宇陀市菟田野で︑

標高三五○メートル前後の山あいに広がる小さな町である︒推

古天皇

が都

とした 豊浦宮

奈良県高市郡明日香村豊浦

︶から

一二〜三キロ東にあたる︒

右には﹁諸臣の服の色︑皆冠の色に随ひ﹂とされている︒八

世紀の規程だが︑養老の衣服令では︑﹁深き紫の衣﹂は一品の

親王の礼服であった︒皇太子の礼服は﹁黄丹﹂︑すなわち紅色

を帯びた梔子色︵井上光貞ほか﹃律令︿日本思想大系

﹀ ﹄岩波書

店・一九七六︶だが︑﹁深き紫の紗の褶﹂︑すなわち紫の帯を着

用した︒官位制度の変遷によって多少の違いはあるものの︑七︑

八世紀

において

紫は

一貫 して 高貴

な人が

着用 するものだっ

た︒

また﹁髻華

﹂は

髪飾りのこと︒身分に応じて﹁金

﹂ ﹁ 仾の尾

﹂ ﹁

の尾﹂を用いたとされている︒天智七年の薬猟でも︑そこに集

う宮廷人たちは華やかに着飾っていたことだろう︒蒲生野の遊

猟は︑宮廷あげての晴れやかな行楽行事であったということが

窺える︒

その中で﹁君﹂と呼ばれたのは︑誰だったのか︒額田の歌が

詠まれた後︑皇太子の答える歌が披露されたので︑結果として

大海人皇子︵後の天武天皇︶のことになったとする説がある︵伊

藤博﹃萬葉集の歌人と作品上﹄塙書房・一九七五

︶ ︒当該歌

は﹁

る歌﹂ではなく︑﹁作る歌﹂とされている︒誰かに贈られたもの この五月五日の遊猟は一般に︑薬猟と呼ばれる︒強壮剤とし

て鹿の袋角︵若角︶を取ることを目的とした狩猟である︒その

一方で︑薬草も採取されたと言われる︒原文を尊重して﹁茜草﹂

としたが︑その表記が額田王自身の筆遣いを反映しているか否

かは不明である︒しかし︑それは薬猟で採取された薬草の中に

アカネがあったことを示していよう︒利尿・強壮・解熱剤とし

ての 薬効

が知

られる

︵ 島尾永康

中国化学史

朝倉書店

一九九五︶が︑アカネはまさに根が赤く︑染料としても利用さ

れた︒﹁

紫野

﹂は

︑ムラサキの

群生 している

野の意

︒ムラサキも

その名の通り︑紫色の染料として利用されたが︑古代紫と呼ば

れる赤味を帯びた紫色である︒﹁茜草指す紫﹂とは︑そうした

色のことだが︑聖徳太子の冠位十二階や養老の衣服令では︑高

貴な人のみが着用を許された︒また︑ムラサキには解熱・解毒

などの薬効もある︵島尾永康﹃中国化学史﹄︶︒これも︑この時

に摘まれた薬草であろう︒

﹁標野

﹂は

︑縄などを張って立入禁止にした野のこと︒﹁紫野﹂

の言い換えである︒当日は︑高貴な人たちがそこを散策した︒

当然︑警備の兵士たちが厳重に警戒していたはずだが︑歌の表

現として︑彼らを﹁野守﹂と呼んだのであろう︒これについて

はかつて︑天皇をはじめとする宮廷人たちを暗示しているとす

る説もあった︒

薬猟の最初の記録は︑﹃日本書紀

﹄の

推古天皇十九年︵六一一︶

五月条に見える︒

  夏五月五日に︑菟田野に薬猟す︒︵中略︶是の日に︑諸臣

(3)

を載せる教科書と︑それに答えた皇太子︵大海人皇子︶の歌を

一緒に教材としている教科書とである︒

たとえば︑三省堂

の﹃

高等学校国語総合古典編

﹄ ︵ 308︶

︑ 天皇︑蒲生野にみ狩りする時に︑額田王の作る歌 額田王

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

 ︵巻一・二〇︶

という形である︒教科書名は皆似通っているので︑以下︑原則

として出版社名と教科書番号で示すが︑明治書院︵

318・ 320︶と

筑摩書房︵

322・ 323︶

が︑

額田王の歌のみで教材としている︒

一方︑東京書籍︵

302︶ は

︑ 天皇の蒲生野に遊猟し給ひし時に︑額田王の作りし

20あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る

︵巻一  雑歌︶

皇太子の答へし御歌

21紫のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも

︵巻一  雑歌︶

という

二首

構成 される

︒ 同様

に︑

東京書籍

304︶ ・ 三省堂

306・ 307︶ ・

教育出版︵

310︶ ・

数研出版︵

316・ 317︶ ・

桐原書店︵

330・ 331︶

教科書が︑﹁皇太子

﹂の

歌とともに教材化している︒

こうした違いによって︑いったい何が変わるのか︒それは︑

額田の歌単独で成り立つ世界であったものが︑皇太子の歌を並

べることで︑贈答歌のような形になったということである︒そ

して︑答える歌をなす場合︑先行する歌にどのように応ずるか︑ ではない︒確かに︑その蓋然性は高いものと考えられる︒

この時は狩衣であろうから︑その﹁袖﹂の色は定かでない︒

しかし︑冠の色に合わせていたのならば︑紫であった可能性も

あろう︒いずれにせよ︑その﹁袖﹂は鮮やかな色で︑ひときわ

目を引くものだったに違いあるまい︒

﹁袖振る﹂は︑﹃万葉集﹄に多くの用例が見られる︒一般に招

魂の呪術であったとされるが︑ここでは求愛の所作である︒相

手の魂をこちらに引き寄せようと言うのだ︒

以上を踏まえ︑一首をやや過剰な口語訳の形で説明すれば︑

次のようになろう︒茜色に彩られたような鮮やかな紫︑その染

料となるムラサキの群生する野を︑私額田が多くの宮廷人とと

もに散策し︑一般人の立入禁止とされた野を散策しております

と︑野の番人が見ないでしょうか︑あなたが目に立つ色の袖を

振り︑私に求愛なさっているのを︑いいえ︑きっと見ています

よ︑というほどの意︒宮廷こぞっての行楽行事の中で︑人目も

憚らず︑大胆に求愛する﹁君﹂をたしなめた一首だったという

ことになる︒

現在︑高等学校では﹁国語総合﹂が必修だが︑その教科書は

九社から二三種類刊行されている︒そのうち︑当該歌を教材と

しているのは︑七社一四種類

︒ ﹃

万葉集﹄では︑﹁多摩川に  さ

らす手作り﹂︵三三七三︶という東歌の九社一七種類に次いで︑

第二位の採択数である︒

その扱い方は︑大きく分けて二通りである︒額田王の歌のみ

(4)

一九六八年一月七日号〜三月九日号︶も︑里中満智子のマンガ

﹃天上の虹︿持統天皇物語

﹀ ﹄ ︵

講談社コミックス・一九八三〜二

○一五︶に登場する額田王も︑類まれな美女だとされている︒

額田は美女だったとするこうした後世のイメージは︑主にこの

歌から生まれたものである︵拙著﹃創られた万葉の歌人  額田

王﹄塙書房・二○○○︶︒

それほど素敵なあなたを憎く思っていたなら︑あなたは人妻

なのだから

私が恋

したりするものですか

︑ 本当

に憎

からず

思っているのですよ︑という一首である︒大胆な求愛をたしな

めた額田の歌に対して︑たしなめられたところで︑恋するのを

やめられるわけがない

︑と

えている

︒ 熱烈

恋歌 であると

言ってよい︒

額田のことを﹁妹

﹂と

呼び︑﹁人妻﹂としている︒それもあっ

て︑﹁国語総合

﹂の

教科書の脚注等

の﹁

額田王

﹂に

関する解説は︑

以下のようなものである︒

  生没年未詳︒鏡王の娘︒大海人皇子との間に皇女を産み︑

後に天智天皇に召されたという︒︵東京書籍

302・ 304︶

  生没年未詳︒万葉第一期の女流歌人︒初め大海人皇子の寵

愛を受け︑十市皇女を産んだ︒︵三省堂

306・ 307︶

  万葉第一期の代表的歌人︒大海人皇子の妻となり︑後︑皇

子の兄天智天皇に仕えた︒︵教育出版

310︶

  生没年未詳︒万葉初期の女流歌人︒大海人皇子との間に皇

女を生み︑後に天智天皇に仕えたという︒︵大修館

312︶

  ︵生没年未詳︶万葉第一期の女流歌人︒天智・天武両天皇

から愛されたという︒︵数研出版

316・

317︶ ということを学ぶことができる点が︑前者との違いである︒

とは言え︑初期万葉の贈答歌では︑男の歌に対して女が露骨

に拒否するような形で答えるのが普通である︒女歌に対して男

が答えるこの形は︑必ずしも一般的な姿とは言えない︒また︑

﹁憎くあらば﹂と仮定し︑﹁人妻ゆゑに﹂と理由を述べ︑﹁我恋ひ

めやも﹂と反語の形で結論を述べるこの歌は︑やや理屈っぽい

拙稿

額田王論││蒲生野

の歌

をどう

むか

││

﹂ ﹃ 語文

九一輯・一九九五︶︒こうした歌も例外的である︒したがって︑

この二首を学習したところで︑﹃万葉集﹄の贈答歌一般の理解

には繋がらない︒

やや 先走 ってしまったが

︑ 皇太子

の歌の方を

説明 しておこ

う︒﹁紫の﹂の原文は︑﹁紫草能﹂とされている︒こちらも皇太子

自身の表記か否かは不明だが︑﹃万葉集﹄巻一の編者が︑その

表記に薬草のムラサキを意識していたことは確実であろう︒も

ちろん︑額田の歌の﹁茜草﹂を受けた表記であろう︒しかし︑

一首の意味としては薬草のムラサキではなく︑高貴な色の意︒

﹁にほふ﹂は﹁①赤く色づく︒a花が美しい色に咲き︑葉がも

みじする︒︵中略

︶b

他のもの︵土・花など︶の色が映り染まる︒

︵中略︶②美しい色彩に輝く︑美しくつややかである﹂︵﹃時代別

国語大辞典  上代編﹄三省堂・一九六七︶の意︒ここでは高貴

な紫色に﹁にほへる妹﹂だと言うのだから︑その気品があたか

も照り映えるかのようなあなた︑ということ︒女性に対する最

大限の賛辞にほかならない︒

たとえば井上靖の小説﹃額田女王

﹄ ︵

初出は﹃サンデー毎日﹄

(5)

のように︑その説明も相似形である︒

そもそも﹁はじめ大海人皇子に婚い﹂と言うのは︑﹃日本書紀﹄

天武天皇二年︵六七三︶正月条の︑次の記事に基づいている︒

  天皇︑初め鏡王の女額田姫王を娶りて︑十市皇女を生む︒

これは︑天武の后妃とその子たちに関する記事だが︑この﹁初

め﹂は︑多くの妃たちの中で最初に﹁娶﹂られたのが額田だと

いう意味である︒ところが︑茂吉のように誤解した形が︑今も

そのまま教科書に受け継がれている︒

しかし現在︑蒲生野の歌は宴席歌だとする説がすっかり定着

している︒額田の歌のみでも︑皇太子の歌とともに教材化して

も︑右の解説では︑現在の通説と乖離していることに違いはな

い︒教師用の指導書には︑一様に宴席歌という説明が見られる

ものの︑どの教科書も︑その記述自体から︑それらを宴席歌と

して読み取ることはできない︒﹁万葉第一期﹂あるいは﹁初期﹂

という説明も多くの教科書に見られるが︑その代表が道ならぬ

恋の歌だと言うのでは︑あまりにも﹁教科書的﹂ではないよう

に思われる︒

確かに︑初期万葉に位置づけられる作者の中では︑歌数から

言っても︑その活躍の姿から見ても︑額田

が﹁

代表的女流歌人﹂

だという評価は間違いではない︒しかし︑通常一○首前後で構

成される単元の中で︑当該歌を初期万葉の代表として教えるこ

とが︑はたして適当なことなのかどうか︒それは疑問とせざる

を得ない︒

中には大修館︵

312・

313︶のように︑

額田王   生没年未詳︒初期万葉を代表する女流歌人︒初め大海人皇

子に寵愛され︑後に天智天皇に仕えたらしい︒

︵筑摩書房

322・ 323︶

  生没年未詳︒七世紀後半︑大海人皇子︵のちの天武天皇︶

と結婚︑のち天智天皇に召されたともいう︒

︵第一学習社

325・ 326︶

  生没年未詳︒天武・天智両天皇に愛されたといわれる︒力

強く明るい歌を詠む︒﹁万葉集﹂を代表する女流歌人の一

人︒︵桐原書店

330・ 331︶

ほとんど異口同音の説明だが︑かつて大海人の妻だった額田

が︑今は天智の妻となっていると言う︒つまり︑とりわけ皇太

子の歌

とともに

せている

教科書

は︑

皇太子

の道

ならぬ 求愛

に︑

当惑 する 額田

の姿を読み取

らせようとしていることにな

る︒世間に流布する︑天智と大海人という二人の貴公子の間で

愛の葛藤に翻弄された美女といったイメージである︒しかし︑

それは近代になってから特に喧伝されたものにほかならない

︵拙著﹃創られた万葉の歌人  額田王

﹄︶ ︒

たとえば︑斎藤茂吉

の﹃

万葉秀歌上

﹄ ︵

岩波書店・一九三八

︶ ︒

昭和以降︑もっとも読まれた万葉歌の解説書である︒その解説

には︑

  額田王ははじめ大海人皇子に婚い十市皇女を生んだが︑後

天智天皇に召されて宮中に侍していた︒この歌は︑そうい

う関係にある時のものである︒

と記されている︒﹁国語総合﹂の二三種類の教科書で教材とさ

れた万葉歌の八割ほどが茂吉の﹃万葉秀歌﹄と一致するが︑右

(6)

それでは︑蒲生野の歌

を﹁

国語総合

﹂の

教材とするなら︑いっ

たい何をどう教えるべきなのか︒筆者は︑指導書の説明に合わ

せ︑教科書の紙面でも︑宴席歌であるということを前面に出し

た形にすべきだと考えている︒

現在︑多くの教科書は︑天智と大海人という二人の貴公子の

間で︑愛の葛藤に翻弄された美女といった︑古い額田王像を前

提としているように見える︒そうした額田王像は︑とりわけ近

代の享受史の中で︑アララギ派の歌人たちを中心に形成された

ものであったことが明らかである︵拙著﹃創られた万葉の歌人 額田王﹄︶︒しかも︑それは宴席歌とする指導書の説明と齟齬

している︒一部に︑蒲生野の歌は額田と大海人の実作ではなく︑

後人 によって

伝承 されたものとする

見方 もあった

︵ 三浦佑之

額田王

蒲生野

犬養孝編

万葉

風土

歌人

雄山閣

一九九一︶が︑やはり宴席歌とする通説は揺らいでいないと見

てよい︵神野富一﹁蒲生野贈答歌﹂神野志隆光ほか編﹃セミナー

万葉集の歌人と作品  第一巻﹄和泉書院・一九九九

︶ ︒

もちろん︑現行の教科書とまったく違った形で﹃万葉集﹄を

教材化するならば︑話は別である︒文学史的な知識を教授する

ことを中心とした﹃万葉集﹄ではなく︑あくまでも高等学校に

おける和歌の学習の導入として︑音数律の心地よさに親しむこ

とを目的とするならば︑それにふさわしい歌を選ぶこともでき

る︵

拙稿﹁音読する﹃万葉集

﹄ ﹂梶川信行編﹃おかしいぞ!国語

教科書  古すぎる万葉集の読み方﹄笠間書院・二○一六

︶ ︒

熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出で

な︵巻一︑八︶

という

歌を

教材 としているものもある

︵ 第一学習社

325・ 326︶ ︒

二社四種類の教科書である︒初期万葉の特色を学ぶための教材

としては︑こちらを取り上げた方が適当ではないかとも思われ

る︒

右は︑天皇の船がこれから熟田津︵愛媛県松山市近くの港︶

出航 しようとする

時の歌で︑

額田

天皇 になり

わってう

たったものだとする見方が通説である︒もともと口誦されたも

のだったと見られるが︑﹁潮もかなひぬ﹂の﹁も﹂は︑ほかにも

﹁かなひぬ﹂︵適当な状態になった︶もののあることを暗示して

いる︒つまり︑﹁月も﹂﹁潮も﹂﹁風も﹂であろうが︑これは最良

の船出を言挙げした歌である︒公的な場において︑理想的な状

態であることを言挙げするのは︑いかにも初期万葉的な発想で

ある︒

多くの教科書は四期区分説という古い学説︵澤瀉久孝・森本

治吉﹃作者類別年代順  萬葉集﹄芸林社・一九三二

︶に

基づき︑

文学史的に構成されている︒したがって︑額田は﹁万葉第一期

の女流歌人

﹂ ︵

三省堂

306・

307︶であるという説明も見られる︒

確かに︑額田はその時期の歌人である︒七世紀後半において︑

古代国家の成熟過程の中で︑公の場における儀礼的な歌が必要

とされるようになった︒そこから額田のような﹁宮廷歌人﹂と

言えるような存在が登場したのだ︒そういう形で文学史的に学

習するならば︑やはり﹁熟田津に﹂の歌の方が適当であるよう

に思われる︒

(7)

︵痛み悲しむ心

︶ ﹁

締緒を展べき﹂︵鬱屈した心を解き放つ︶には

脚注が付されている︒

当該歌の場合は︑

  紀に曰はく︑﹁天皇の七年丁卯の夏五月五日︑蒲生野に縦

䉍す︒時に︑大皇弟・諸王・内臣また群臣︑皆悉従ふ﹂と

いふ︒

という﹁紀

﹂ ︵

日本書紀

︶を

引用した左注である︒もちろん︑ル

ビと脚注は必要だが︑家持の歌の左注と比べ︑決して難しいも

のではあるまい︒必ずしも皇太子の歌を載せる必要はないとは

思うものの︑それを載せるならば︑なおさらこの左注が必要で

はないかと思われる︒

ここには﹁五月五日﹂とされているが︑﹃日本書紀

﹄は

日付を

干支で示すのが原則である︒ところが︑わざわざ﹁五月五日﹂

としているのは︑その日が中国由来の端午節だからである︒そ

れは特別な日の行事であり︑﹁群臣︑皆悉従ふ﹂という︑宮廷

あげての催しであった︒遊猟の日の暮に宴席が設けられ︑獲物

の肉を食し︑酒に酔ったということは︑﹃懐風藻﹄に載る大津

皇子

の﹁

五言遊猟一首

﹂と

題した詩にも見える︒﹃書紀

﹄の

推古

十九年の記事などをも踏まえ︑右のような事情を脚注で示す必

要もあろう︒

﹁皇太弟﹂が大海人のことだとする注もつけなければならな

い点が︑やや煩瑣かも知れないが︑たとえば︑

  遊猟  宮廷の人々が華やかに着飾って行なわれた五月五日

恒例の行楽行事︒宴席も設けられた︒

とでも説明しておく︒それならば︑蒲生野の歌の生まれた背景 とは言え︑蒲生野の歌を通説に基づいて教えるならば︑やや

レベルの高い教材となることは避けられない︒﹁国語総合﹂の

場合︑教科書会社の多くは︑レベルを変えて複数の教科書を出

しているが︑一年生が履修する﹁国語総合﹂ではなく︑選択科

目の﹁古典B﹂で扱った方が適切かも知れない︒以下︑やや高

いレベルの教科書を前提として考えてみたいと思う︒

どの教科であれ︑教科書は最新の研究成果を無視するもので

あってはならない︒しかも︑蒲生野の歌が宴席歌であるという

ことは︑決して新しい説ではない︒教科書に載せてもまったく

問題ない程度に︑十分に定着し︑成熟した学説である︒

また︑七︑八世紀の奈良盆地とその周辺において︑宴席は歌

という文化を育んだ重要な母胎であった︵拙著﹃万葉集の読み

方  天平の宴席歌﹄翰林書房・二○一三︶︒とりわけ社交の歌は︑

宴席という場なくして︑豊かな文化に育つことはなかったであ

ろう︒蒲生野の歌を︑その早い時期の精華と位置づけ︑高校生

に教えることは︑決して不都合ではあるまい︒

それでは︑宴席歌として教えるためには︑どういう形で教材

化すればいいのか︒一つには︑ややスペースを取ることになる

が︑左注も載せて︑脚注でその説明をすることも必要だと考え

ている︒左注を載せた教材の例としては︑大伴家持の﹁うらう

らに﹂の歌︵巻十九・四二九二︶がある︵東京書籍

302・ 304︶ ︒

春日遅々として䍉䍆まさに啼く︒悽惆の意︑歌にあらざれ

ば撥ひ難きのみ︒すなはちこの歌を作り︑もちて締緒を展

べき︒

という左注である︒当然だが︑﹁䍉䍆﹂︵うぐいす︶﹁悽惆の意﹂

(8)

というような課題を設定することもできる︒

この課題のポイントはまず︑句切れを見つけること︒蒲生野

の歌の場合︑本稿の冒頭に掲げたように︑三句と四句で切れる

ことを確認する︒﹃万葉集

﹄の

宴席歌には︑しばしば﹁誦

﹂ ﹁

吟﹂

などと︑うたわれたものであることが明記されているが︑声で

披露された際︑句切れがそのうたわれ方にも影響を与えていた

可能性は高い︒

当該歌の場合︑額田は三句目までを一気に︑朗々と詠みあげ

たことであろう︒それを聴いた宴席の人たちが︑その日の楽し

かった散策の様子を︑心の中で反芻するだろうとの予測のもと

に︒すると額田は︑少し間を置いて︑﹁野守は見ずや﹂と︑声

をひそめるようにして︑突然問いかける︒いきなり方向性が変

わったので︑聴衆はやや戸惑ったに違いない︒いったいどうい

うことなのだろうか︑と︒そう思わせた上で︑また少し間を置

いてから︑徐に﹁君が袖振る﹂とうたい上げた︒蒲生野の宴席

では︑そうした形で聴衆の関心を引きつけつつ︑披露されたこ

とが想定できる︒

なるほど︑額田さんはさすがに達人だ︒私たちが思わず耳を

聳ててしまうような形で︑今日の楽しい行事を一首の恋歌に仕

立て上げて見せた︒そう得心したに違いない︒一同は拍手喝采

を送ったのではないか︒ややレベルの高い学習だが︑このよう

に︑句切れがどのような効果をもたらすのかを考えさせること

ができる︒

とは言え︑筆者はやはり︑蒲生野の歌を取り上げるならば︑

額田の歌だけで十分なのではないかと思う︒初期万葉の歌風の が理解できるのではないかと思われる︒

ところが︑﹁国語総合

﹂の

教科書の中には︑三省堂︵

308︶ や

修館︵

312・

313︶のように︑題詞をすべて省いているものもある︒

しかし︑文学史的な事実を抜きにして︑生徒の自由な鑑賞に任

せるための教材ならば話は別だが︑やはり題詞を含めた形で教

材化しないと︑事実関係が理解できないだろう︒その点で︑現

行の教科書の中には︑どこに軸足を置こうとしているのか︑必

ずしもはっきりしていないように見えるものもある︒

蒲生野の歌の場合で言えば︑本稿の冒頭にも掲げたが︑

天皇︑蒲生野に遊猟する時に︑額田王の作る歌

という題詞である︒訓読の形は準拠したテキストによって多少

異なるものの︑これによって︑天皇が主宰した公的な行事の中

で作られた歌だということが明らかになる︒

また︑左注を載せないならば︑たとえば三省堂︵

306・ 307︶の

ように︑題詞の脚注として︑

み狩り  旧暦五月五日の薬草狩り︒

とでもしておけば︑特別な日の行事の中で披露された歌なのだ

ということが理解できる︒さらに﹁夜には宴が開かれた﹂とい

う説明でもあれば︑当面の歌が宴席の座興として披露されたも

のだということを理解する助けになる︒

学習の手引き等による配慮も必要であろう︒一首一首に配慮

した課題は︑一般的な配当時間からしても無理であろうが︑中

には特定の歌に限定した課題も見られる︒後に触れる山上憶良

の﹁

宴を罷る歌

﹂と

共通の形で︑

宴で披露された歌の表現の特色について話し合おう︒

(9)

らない︒

蒲生野は天皇臨席の宴だが︑中国の﹁畋猟﹂という行事に習

い︑﹁合唱団や楽団︑雑技団までも引き連れた︑宮廷あげての

盛大なイベントだった﹂︵東茂美﹃東アジア万葉新風景﹄西日本

新聞社・二○○○︶と考える研究者すらいる︒そこまでだった

かどうかは別にしても︑宮中晩餐会のような硬いものではある

まい︒行楽行事の夜に行なわれた心弾む宴席だったことは間違

いない︒

しかも︑額田は皇太子妃の一人であり︑王という身分だった︒

﹃日本書紀

﹄に

は﹁

姫王﹂とされているが︑それは七世紀におけ

る天皇の孫から五代目の子孫までに与えられる女子の称号であ

る︒さらには︑若い頃から宮中で︑女帝︵皇極・斉明︶の側近

として仕えて来たばかりでなく︑公式的な場で歌を披露する経

験も積んでいた︵拙著﹃額田王  熟田津の船乗りせむと﹄ミネ

ルヴァ書房・二○○九︶︒その場に臆する額田ではなかった︒

もう一つはタイミング︒宴席の最初に型通りの挨拶をしてい

る段階と︑酒も入り︑座がかなり砕けて来た後では︑ふさわし

い歌は異なる︒したがって︑宴席歌は以下のように分類できる

︵森淳司﹁万葉宴席歌試論﹂五味智英ほか編﹃萬葉集研究  第

十三集﹄塙書房・一九八五

︶ ︒ 1開宴歌︵主客の挨拶︶ A参上歌 B歓迎歌 2称賛歌

A主客祝福 特色は必ずしも︑宴席の贈答歌ではない︒宴席の贈答歌ならば︑

天平期の歌々の方が多様な姿を見せる︵拙著﹃万葉集の読み方 天平の宴席歌

﹄︶ ︒

何を代表的な歌と見るかは議論の分かれる

余地 もあるが

︑ 四期区分説

に基

づいて

歌風

変遷

を見

るなら

ば︑熟田津の歌の方が適切ではないかと思われる︒

それでは︑蒲生野の歌はどう読むべきか︒すでに過剰なほど

の現代語訳は示したが︑﹃万葉集﹄の歌は︑現代語訳をすれば

それで理解できたというものではない︒作者の意図をきちんと

受けとめ︑それが具体的な場の中で︑どのような機能を果たし

得たかということを受けとめた時︑初めて理解できたというこ

とになる︒ここではそれを︑宴席歌という通説に従って考えて

みたいと思う︒

一口に宴席と言っても︑現代の場合︑宮中晩餐会から学生た

ちのサークルの呑み会まで︑さまざまなレベルのものがある︒

それは万葉の時代でも同じである︒﹃万葉集﹄には︑大雪の日︑

平城宮の太上天皇︵元正︶の御在所で︑左大臣以下の官人たち

が︑うち揃って雪掻きの奉仕をしたことに対する褒賞としての

宴席

が見

える

︒そこでは

太上天皇

忠誠

を誓う

儀礼的

歌々

が︑身分秩序に基づいて奏上されている︵巻十七・三九二二〜

三九二六

︶ ︒

一方︑仲間うちの呑み会だからであろうが︑ナン

センスな戯れ歌が披露された宴席もある︵巻十六・三八二四

︶ ︒

当然のことだが︑どのようなメンバーで︑どんな雰囲気の宴席

なのかを判断した上で︑それにふさわしい歌を詠まなければな

(10)

いうことも重要である︒

たとえば︑天平二年︵七三一︶正月︑大宰帥︵長官︶大伴旅人

の邸宅で︑官人たちが一堂に会して︑梅花宴が催された︒王羲

之﹁蘭亭集序

﹂の

詩宴の影響に基づく︵契沖﹃萬葉代匠記︹初稿

本︺ ﹄

︶文人たちの宴を意図したものである︒そこでは︑

正月立ち  春の来たらば

かくしこそ  梅を招きつつ  楽しき終へめ︵巻五・八一五︶

という開宴の歌が︑大弐︵次官

︶の

紀男人によって披露された︒

﹁かく﹂とは︑このように︑の意

︒ ﹁

現実の状態を指示しつつ﹂

︵ ﹃

時代別国語大辞典  上代編

﹄︶

使用された︒身体的動作を伴

う語である︒すなわち︑官人たちが一堂に会した状態を︑ある

べき姿として手で指し示しつつ︑正月を迎え︑春が訪れたら︑

毎年このように︑梅を招待して楽しい一日を過ごしましょう︑

と言うのだ︒開宴の歌として︑まことにふさわしい一首である︒

しかし︑旅人の歌には﹁主人﹂と記されている︒この日は客

人たちをもてなす側だった︒そこで大弐の男人が︑風流な宴を

企画した﹁主人﹂に対して敬意と感謝の意を示すために︑まず

このような歌を披露したのだ︒律令制は︑厳然たる身分社会で

ある︒大宰府の主な官人たちが勢揃いしている場で︑身分秩序

を無視することはあり得ない︵拙稿

﹁ ﹃

万葉集

﹄の

宴席を考える

︱︱梅花の宴を通して︱︱﹂﹃語文﹄一四三輯・二○一二

︶ ︒ だ

からこそ︑次官の大弐が帥の旅人に代わって開宴の歌をなした

のだ︒男人は自分の立場をきちんと弁えていたことになる︒

もう一つ︑例を挙げよう︒やはり大宰府での歌だが︑山上憶

良の

宴を罷る歌﹂である︒﹁国語総合

﹂の

教科書にも︑しばし B盛宴称賛

3課題歌︵題詠・属目詠など︶

4状況歌︵依興詠・吉歌披露など︶

5終宴歌︵主客の挨拶︶ A退席歌 B引留歌 C総終歌

もちろん︑すべての宴席がこのように進行したというわけで

はない︒

1の歌だけで終わったことも︑

5の段階になって初め

て歌が披露されたこともあっただろう︒要は︑どんなタイミン

グで披露された歌なのかということをしっかり見極めなければ

ならない︑ということである︒

蒲生野の歌の場合︑

1︑ 2ではあり得ない︒

5でもない︒

3

の属目詠︵景観をうたう︶か︑

4の依興詠︵興によってうたう︶

ということになろう︒酒が入り︑宴酣となり︑座興が求められ

るような雰囲気になって来た頃に披露されたものと見るのが適

当であろう︒

実は︑蒲生野における額田の歌は︑その日見たものを句ごと

に詠み込んだものだとする説がある︵伊藤博﹃萬葉集の歌人と

作品上﹄塙書房・一九七五

︶ ︒﹁

﹂ ︵

薬草

︶ ﹁

紫野﹂︵ムラサキの

群生した野

︶ ﹁

標野

﹂ ︵

立入禁止にした野

︶ ﹁

野守

﹂ ︵

警備の兵士︶

﹁君が袖

﹂ ︵

参会者の華やかな衣裳︶である︒すなわち︑

3の属

目詠であり︑それを危険な恋の歌に仕立てたという点では︑

4

の依興詠である︒

さらには︑その場の中でどんな役割を果たせばいいのか︑と

(11)

ることが求められる︒その際︑違う自分を演ずることもある︒

蒲生野の額田は︑危険を承知で言い寄る男のいる魅力的な女性

を演じて見せたのだが︑当時の額田はすでに四十歳を超えてい

た︵

拙著﹃創られた万葉の歌人  額田王

﹄︶ ︒

古今集

﹄の

賀歌で

も︑長寿のお祝いの最初

は﹁

四十の賀﹂であった︒現代で言えば︑

六十五歳以上のお年寄りということになろう︒だからこそ︑危

険な恋の歌を座興としての笑いに変えることができた︒言うな

れば︑老人力をプラスに働かせたのだ︒額田はそれを自覚的に

演じて見せたのであろう︒一座は和やかな雰囲気に包まれたに

違いあるまい︒

高等学校の﹁国語総合﹂の教科書は総じて︑万葉歌を抒情詩

として読ませようとしている︒額田の歌についても︑学習の手

引きなどに﹁作者の心情を話し合おう﹂︵東京書籍

302︶といった

課題が見られる︒生徒たちの自由な鑑賞に委ねようという教材

ならば︑それもありだとは思うのだが︑研究史的に見た場合︑

時代錯誤であるということについては︑すでに指摘したことが

ある︵拙稿﹁万葉歌は抒情詩か︱︱高等学校﹁国語総合

﹂の

葉集﹄︱︱﹂﹃国語と国文学﹄九二巻一一号・二○一五

︶ ︒

蒲生

野の歌も︑その表現から素直に心情を読み取ることが︑必ずし

も正しい理解には繋がらない例の一つである︒

宴席で歌を披露しなければならない時︑どんな歌を披露すれ

ばその場を取り持つことができるのか︒作者は第一に︑それを

考えていたはずである︒その場合︑正直な心情の吐露であるよ ば採

られている

︵ 東京書籍

302・ 304︑ 大修館

312︑ 教育出版

316︑ 317︑明治書院

318︑ 320︑桐原書店

330・ 331︶ が

︑次のような歌である︒

憶良らは  今は罷らむ

子泣くらむ

それその母も  吾を待つらむそ︵巻三・三三七︶

という一首︒これは

5のA︑退席歌にあたる︒﹁らむ﹂を脚韻

のようにしたことがリズム感を生み︑口誦に適した歌である︒

当時︑憶良は七十歳ほどの老人だった︒まさに︑古来稀な高

齢者である︒父親の帰りを待ちわびて泣くような子がいたとは

考えにくい︒

指導書を見ると︑それは﹁愉しき宴の﹃お開き﹄を告げる客

側の﹃挨拶歌﹄﹂だとしている︵東京書籍

302・ 304︶ ︒

老人がこの

ようにうたうところに﹁おかしみ﹂があり︑﹁一座の笑いを誘っ

たもの﹂だと言うのだ︒このように︑どの指導書にも︑社交の

場における潤滑油としての歌であり︑笑いを誘うものだったと

する説明が見られる︒これは現在における通説的な理解である

と言ってよい︒

憶良は座を白けさせないために︑あえてこういう歌を披露し

たのであろう︒若い男が︑こんな歌を残して中座しようものな

ら︑野暮のレッテルを貼られること請け合いだが︑憶良ほどの

老人がこういう歌を披露すれば︑それはユーモアとなる︒若く

てお盛んな老人を演じた憶良に対して︑一座の人々はウソを承

知で︑そんなご事情ならば︑引き止めては申し訳ないですねと︑

和やかな笑いとともに宴はお開きとなったのではないか︒

当然のことだが︑宴席ではその雰囲気に合わせた歌を披露す

(12)

教材としての利用の仕方も必ずしも適切ではない︑ということ

になろう︒

︵かじかわ  のぶゆき︑本学教授︶ りは︑建前上の言語であることの方が多い︒したがって︑その

心情表現は必ずしも作者の本心ではない︒

むしろ︑宴席歌を理解するためには︑何を伝えているかとい

うことよりも︑どんな言葉を用いているか︑ということの方に

注目する必要がある︒蒲生野の額田の歌で言えば︑その日見た

ものを句ごとに詠み込んだ︑という点である︒また︑アカネを

わざわざ﹁茜草

﹂と

表記したことも見逃してはならない︒

筆者 にはかつて

︑ 宴席歌

とはこのようなものだということ

を︑実に鮮やかな形で︑実地に教えられた経験がある︒日本大

学に

赴任 することが

まり

︑ 前任校

退職 する

時の

送別会

あった︒﹁私は夏が嫌いです﹂という言葉とともに︑色紙を手

渡された︒するとそこには︑次のような歌が墨痕鮮やかに認め

られていた︒

  紅葉も桜花もしかじかはたれに一人し偲ぶ雪のしろたへ

作者は︑前衛短歌の雄として知られた塚本邦雄︵一九二○〜

二○○五︶である︒﹁紅葉

﹂ ﹁

桜花

﹂ ﹁

雪﹂

詠み込まれているが︑

確かにそこに夏の景物はない︒紅葉や満開の桜よりも︑雪見の

方がいいという歌だが︑よく見ると︑筆者の名前が詠み込まれ

ている︒本当に夏が嫌いだったのかどうかは︑どうでもいいこ

とだった︒筆者の名を詠み込むことで︑餞の歌とするためには︑

冬をよしとしなければならなかったのだ︒参会者全員が讃嘆の

声をあげたことは︑言うまでもあるまい︒

ともあれ︑蒲生野の額田は何よりも︑宴席を和やかにするこ

とを意図したはずである︒そこを受けとめなければ︑宴席の中

で生き生きと活躍した額田の姿は︑とうてい見えては来ない︒

Figure

Updating...

References

Related subjects :