竹 下 義 人 一枚摺資料瞥見 ﹁ 梅園披露 ﹂ ︿

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道々も此木這てやむめのはな    蓼太︵﹃蓼太句集﹄︶ けふも又美人にせまし梅屋敷    野英︵﹃三韓人﹄︶     梅屋敷 さす傘の江戸は梅見も群にける   道彦︵﹃蔦本集﹄︶蒲田の梅屋敷については︑後に敷地は縮小されたものの︑大田区立の﹁聖跡蒲田梅屋敷公園﹂として今日に至り︑また︑向島の百花園は︑東京都立の﹁向島百花園﹂として︑現在も多く

の人々に親しまれている︒いずれもその起源は個人の庭園で

あった︒さらに神社の境内の梅として︑亀戸天満宮などは先の三箇所

に劣らず有名だった︒そのほか︑しかるべき文献にあたれば︑

それぞれの時代にあって名の知れた梅園・梅林のあったことは容易にわかる︒

たとえば︑明治の情報として︑平出鏗二郎は﹁梅見﹂の見出

しのもとに次のように記してい

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る︒日長閑ならざれば︑桜狩の時には比すべくもあらざれど︑ キーワード梅園・明治維新・大名屋敷・桑茶政策・一枚摺

︻要  旨︼

本稿は﹁梅園披露﹂と題された明治時代の成立と推定される一枚摺資料︵筆者架蔵︶の内容紹介を目的とし︑付記に示した

ように共同研究の成果物の一つとして公表するものである︒

*近世後期の江戸における代表的な梅の名所といえば︑臥龍梅

で有名な亀戸の梅屋敷︑ついで蒲田の梅屋敷︑さらには造園当初に多くの梅の木が植えられ︑新梅屋敷と呼ばれて評判をとっ

た向島の百花園などがあげられるだろ

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う︒最初の亀戸の梅屋敷は︑明治末年に廃園となったが︑その景観は錦絵などに描かれ︑当時の様子を今にうかがい知ることが

できるし︑次のような発句も残されてい

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る︒    臥竜梅

竹 下 義 人 一枚摺資料瞥見梅園披露 ﹂ ︿

資料紹介

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江戸城の周縁には旗本屋敷をはじめ︑上屋敷・中屋敷・下屋敷

などの大名屋敷が数多く点在しており︑そうした屋敷のなかに

は大小の庭園を構えるところがたくさんあった︒江戸時代後半

には︑そうした庭園を中心に︑また︑民間の植物を愛好する人々

の間で園芸熱が高まり︑いわゆるガーデニングの流行という社会現象もみられ

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た︒

いささか前置きが長くなったが︑以下︑この大名屋敷内の庭園に関連した一資料として︑﹁梅園披露﹂と題された一枚摺を紹介していくことにしたい︒当該資料は︑︿図A﹀に示した通りの木版の一枚摺である︒後述する考証によって︑明治時代の摺物と推定できる一枚であ

る︒大きさは約

19・ 2× 25・

0㎝︒四箇所に虫損が認められる

ものの︑判読に支障はない︒前半がいわゆる梅園への招待状の体裁をとり︑後半には現地までの案内地図を掲載している︒そ

の地図内には当地までの道順が朱線で示されているという念の入れようである︒

まず︑前半部の招待状に相当する文章は次の通り︵適宜に濁点︑振り仮名︑句読点を付した︶︒

     梅園披露開花分明の時至れば︑今を春へとうぐひすの初音の里の古跡にもとづき︑さゝ鳴のさゝやか

なる梅園をひらき︑此地はもと東の比叡の御成道

にて︑彼旧邸の跡なれど︑今は神田の五軒町︑庭の

ふるびを其侭に︑若木を植足し︑茶亭を設け︑一輪づゝに暖く開ける花に︑諸君子達仰せ合され 所々の梅園に杖を曳く客少からず︒最も著しきは亀戸の臥龍梅にして︑次いで小村井の江東梅園︑木下川の梅園︑向島の百花園︑遠くは大森の八景園︑蒲田の梅園︑小向井の梅園等︑近郊に有名なるものなり︒なかんづく臥龍梅は亀戸神社の東北四町許にありて︑園の名を清香園といふ︑︿中略﹀江東梅園︑木下川の梅園等これより遠からざれば︑遊客これを巡覧し︑向島の百花園にさへ廻はりて︑一日の良遊をなすも多かり︒百花園には寿星梅名あり︒されば初卯詣・妙義詣︑さては梅見と︑歳の始めより三月の中頃

までは︑亀戸辺の音信のみなれば︑春の賑はひはこの辺よ

り起る心地すめり︒また大森・蒲田・小向井辺を周覧して︑一日の清遊を試むるもあれば︑遠くは汽車の便を藉りて︑杉田の梅林・水戸の常磐公園に遊ぶも少からず︒右の記事は︑明治三〇年代頃のことを伝えているとみてよか

ろうが︑このほかにも︑ことさらに名所などと呼ばれなくても地元・周辺住民などから贔屓にされていたその土地ならではの梅見の場所など︑いくらでもあったはずである︒

ともかく︑如上の梅の名所に桜の名所を加えたならば︑江戸・東京とその近郊では︑梅から桜へ︑寒暖の推移を経ながら春本番を迎えるまで︑順次に花見を楽しむことができたということ

になる︒

さて︑前述したような梅の名所があった一方で︑大名庭園の

ことも忘れてはならない︒それも小石川後楽園︑旧芝離宮恩賜庭園︑六義園︑清澄庭園などの都立庭園として現代に残るよう

な規模の大きな屋敷のそればかりを指していうわけではない︒

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に西側には︑現存する妻恋神社へと通じる﹁妻戀坂﹂が記され

てある︒かくして地図上の位置関係は明瞭にとらえられ︑現代

の地図とも容易に重ねてみることができる︒資料中の﹁彼旧邸の跡﹂については後述するとして︑先に﹁今

は神田の五軒町﹂という五軒町について確認しておこう︒

この町名の五軒というのは︑いうまでもなく︑大名屋敷の戸数に由来するわけだが︑その経緯については︑次に引用する千代田区が用意した町内の資料が簡潔に説いてくれている︒それ

は地下鉄銀座線の末広町駅の

4番出口を出たところに設置され

ている標柱で︑﹁五軒町﹂の町名由来板︵以下︑標柱と記す︶で

ある︒その全文を引いておく︒

      五軒町   江戸時代︑この界隈には︑上総久留里藩黒田家上屋敷︑下野黒羽藩大関家上屋敷︑安房勝山藩酒井家上屋敷︑播磨林田藩建部家上屋敷︑信濃上田藩松平家下屋敷と︑五

つの大名屋敷が並んでいました︒﹁五軒町﹂と呼ばれてい

たのはそのためです︒

   明治維新のとき︑政府によってこれらの屋敷は召し上げ

られ︑桑や茶の植え付け地となりました︒明治五年

︵一八七二︶︑この地は神田五軒町と名付けられ︑人家が立

ち並ぶようになります︒明治三十年代には︑てんぷらの名店や寄席などができ︑町はおおいに賑わいました︒

   明治四十四年︵一九一一︶︑町名は神田が外されいった

ん五軒町となりましたが︑昭和二十二年︵一九四七︶に神田区と麹町区が合併して千代田区になると︑ふたたび神 御見物に︑朱引の筋を道しるべ︑梅の栞とおぼし

たまひて御来車の程ふして冀ふ︒一読して梅園のお披露目を目的とした招待状であることは了解できよう︒発案者や差出人などは記載がないために不明だ

が︑本紙には三つ折りにした痕跡が認められることから︑当初

は袋などに入れて配られたものかと推測できる︒したがって発信元などの情報はそちらに示されていた可能性がある︒招待状としての要点は︑神田の五軒町の大名屋敷跡地に﹁初音の里﹂と称する梅園を開いたので︑皆さんお誘い合わせの上︑

お立ち寄りください︒ついては︑地図を付し︑そこに朱でもっ

て梅園までの道筋を示したので︑それを頼りにお出かけくださ

い︑というものである︒ここにいう梅園とは︑もともとあった大名屋敷内の庭を引き継いだもので︑新たに若木を植え足し︑茶亭を設けるなどして造園したものという︒後半に併載される案内地図には︑この庭園の箇所に﹁初音の里  梅屋敷﹂と記さ

れてある︒以下︑本資料をめぐって︑具体的にいくつかの考証を加える

ことで︑資料的意義を明らかにしていきたいと思う︒

まず︑この資料の文章中から直接現在地を同定する手掛かり

になりそうな文言を拾ってみると︑﹁東の比叡の御成道にて彼旧邸の跡﹂と﹁今は神田の五軒町﹂の二つがその有力な候補と

なろう︒

そこであらためて︑後半部の案内地図をみる︒東西南北がそ

れぞれ明示され︑東側に東叡山寛永寺へと続く道路︑つまり﹁東

の比叡の御成道﹂に相当する﹁上野御成道﹂が確認でき︑さら

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とは容易ではなかった︒それだけ急激な人口減がこの江戸・東京の中心地に与えた影響は大きかった︒桑茶政策は明治に入っ

て︑荒廃が進む一方だった武家屋敷の跡地利用の一環として試

みられたものだったが︑この政策は第四代東京府知事由利公正

によって︑明治四年に廃止されている︒短期間とはいえ︑﹁明治六年三月の調査では︑桑茶現存地は一〇二万五〇〇〇坪あ

り︑千代田区のぶんとしては︑紀尾井町の三万六五三三坪︑一番町︑上二番町︑三番町︑土手三番町︑五番町が二五〇〇坪︑富士見町が四〇〇〇坪などという数字が残されてい

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る﹂と説か

れてもいる︒ここには五軒町への言及はみられないが︑桑茶政策そのものは結果からみれば失敗に終わっている︒以上の事実関係については︑武家地や庭園の崩壊した実態を同時代の眼で見聞した造園研究者小沢圭次郎によって詳細に記された文献が残されている

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ここであらためて︑町名の由来ともなった五つの大名屋敷

を︑招待状に付された案内地図︿図B﹀と︑江戸時代の切絵

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図︿図C﹀とを比較しながら確認してみよう︒

  最初の東側の二軒は北から南へ︑①﹁上総久留里藩黒田家上屋敷﹂︵譜代  三万石︶②﹁安房勝山藩酒井家上屋敷﹂︵譜代  一万二千石︶ と並び︑ついで北から南へ三軒あって︑③﹁下野黒羽藩大関家上屋敷﹂︵外様  一万八千石︶④﹁信濃上田藩松平家下屋敷﹂︵譜代  五万三千石︶⑤﹁播磨林田藩建部家上屋敷﹂︵外様  一万石︶

と並んでいる︒ 田五軒町に戻ります︒そして︑昭和三十九年︵一九六四︶︑住居表示の実施にともなって外神田六丁目となりました︒神田五軒町々会  冒頭部分は︑五軒町の由来を説いた文章で︑上総久留里藩黒田家上屋敷︑下野黒羽藩大関家上屋敷︑安房勝山藩酒井家上屋敷︑播磨林田藩建部家上屋敷︑信濃上田藩松平家下屋敷の五つ

の大名屋敷の名があげられている︒地名については︑標柱の説明文中でも指摘があったように︑明治五年︵一八七二︶に﹁神田五軒町﹂と名付けられている︒江戸時代︑この地域は﹁下谷﹂と呼ばれており︑﹁神田五軒町﹂は

この武家地に付けられた新しい町名であっ

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た︒ところが︑明治四十四年に﹁五軒町﹂となり︑昭和二十二年に再び﹁神田五軒町﹂

に戻るという経緯がある︒すると︑本資料の招待状に書かれて

ある﹁今は神田の五軒町﹂という曖昧な表現は︑明治五年頃の

ものなのか︑それとも明治四十四年に﹁神田﹂の文字が外れた頃のものなのか︑にわかには判断できないことになる︒内容に徴して明治前期頃の資料ではないかと推察するが︑ここは精査

が必要なところでもあり︑とりあえず本資料の成立は明治五年以降︑明治時代年中とみておくことにしたい︒

ついで︑第二段落の説明文中にみえる﹁桑と茶の植え付け地

と﹂した事実については︑時の第二代東京府知事の大木喬任の建言によって︑明治二年︵一八六八︶八月に布告された桑茶政策

のことを指している︒明治維新を契機に武家地が上地される 6

にともない︑住人だった大名たちがこぞって屋敷を引き払って国元へ帰っていったのだから︑その跡地や建物の荒廃を防ぐこ

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御やしき﹂に相当している︒さらに土地の面積の割合から按分

すると⑤﹁播磨林田藩建部家上屋敷﹂の敷地内にこの梅園が属

していたと断定してよかろう︒つまり︑招待状では明記されて

いなかった﹁彼旧邸の跡﹂の﹁旧邸﹂とは︑ここの建部家上屋敷

を指していると結論づけることができる︒

なお︑案内地図には朱線で道順が示され︑この梅屋敷には東・南の二箇所に出入り口が設けられていることもわかる︒東側に

は﹁茶ノ木稲荷社﹂がある︒この土地に茶が植え付けられた頃

に祭られたものだろうか︒この稲荷については傍証が得られて

いない︒本資料自体は︑先述したように︑明治年間に作成・配付されたものと推測されるのだが︑﹁茶ノ木稲荷社﹂の実在を確認できるような明治時代の地図には巡りあっていない︒

くりかえしになるが︑前出の標柱にも記されていたように︑明治維新を契機に︑大名屋敷が政府に召し上げられ︑同時に屋敷内の庭園も荒廃が進んでいった︒その土地の多くは桑や茶の植え付け地となった︒本資料の屋敷跡もその例外ではなかった

ということになろう︒また︑梅園として再生された土地はとも

かく︑五軒町を構成していたほかの屋敷や土地がどうなったの

かは知るよしもない︒こうした周辺の屋敷の変遷などが具体的

に解明できれば︑招待状の成立年代については︑もう少し正確

に見極められるかもしれない︒本資料における梅園の公開と

は︑ささやかな営為でしかなかったと思われるが︑何よりも︑

この時代に大名屋敷の跡地を利用して作庭し︑梅見を共に楽し

もうと呼びかけたというその余裕ある精神に驚かされる︒残念

ながら︑現時点ではその後のことを伝えるような関連資料に恵 切絵図によると︑﹁松平伊賀守﹂と記された④﹁信濃上田藩松平家下屋敷﹂だけが目立って狭小で︑ほかの敷地の三分の一程度しかないようにみえる︒そもそも切絵図は︑実測図ではない

ので︑一応の目安としてとらえておけばよかろう︒次に︑案内地図に戻ると︑①﹁上総久留里藩黒田家上屋敷﹂は︑

﹁元黒田様御やしき﹂とあって確認できるが︑切絵図の③・④

にあたる位置には﹁五軒町﹂と記されるだけで︑屋敷名は省か

れている︒もはやここに屋敷名が記されてあっても意味がない

と判断されたのかもしれない︒案内地図にはこのような便宜上

の省略があるにしても︑切絵図の位置関係から判断すれば︑各屋敷の配置はこの案内地図においても正しく把握することがで

きる︒先の標柱の説明文にもあったように︑この場所は︑昭和三十九年︵一九六四︶に定められた住居表示により︑千代田区外神田六丁目となる︒南側に面した道路は蔵前橋通りで︑北側

の不忍通りへ連絡する南北に走る二本の大通りに挟まれた区画

である︒蔵前橋通りを東に進めば地下鉄銀座線の末広町駅に行

き当たり︑北に進めば不忍池に突き当たる︒そういう区域であ

る︒

ここから資料の文中にいう﹁彼旧邸の跡﹂を確認していこう︒先述の情報をもとに︑再び︑江戸時代の切絵図を参照し︑さら

に招待状の﹁梅園披露﹂に付された案内地図とを重ねてみると︑五つの大名屋敷のうち︑②﹁安房勝山藩酒井家上屋敷﹂と⑤﹁播磨林田藩建部家上屋敷﹂の区画が案内地図の場所に該当するこ

とがわかる︒案内地図では︑②は﹁元酒井様﹂︑⑤は﹁元建部様

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まれないこともあって︑梅園としては短命に終わったものと想像するしかない︒

その後の同地千代田区外神田六丁目の様子は︑時代の流れと

ともに目まぐるしく変化し︑今日では通りに面した側はオフィ

スビルが建ち並ぶ︒その裏側の路地のたたずまいにわずかに昔日を思わせる雰囲気が感じられなくもない︒が︑それとて昭和

も半ばの小さな民家が蝟集していた頃の町並みともまったく異

なる様相を呈している︒いうまでもなくそうした大きな変化は

この土地だけにみられたものではない︒それは東京という都市

の成長・変貌と同一歩調をとってきたことの結果でもある︒思

い起こせば江戸市中は大火に見舞われるたびに再生を繰り返し

てきた︒江戸が東京になっても事情はほとんど変わらない︒関東大震災や東京大空襲を経てきたこと︑その後の高度経済成長

やバブル経済などの影響などによっても︑都市の様相を大きく変えてきた︒本資料に関係する過去の痕跡を現時点ではほとん

ど実地検証できないのも至極当然のなりゆきというべきか︒以上︑片々たる資料にもとづく不十分な報告とはいえ︑明治時代の東京で︑大名屋敷跡地に﹁初音の里  梅屋敷﹂などと呼

ばれるような梅見の場所が新たに設けられ︑公開されていた事実が具体的な資料をともなって確認できたことは︑興味深いこ

とであった︒明治時代の梅園をめぐるささやかなトピックスを提供するものとしてここに紹介しておく次第である︒

注︵

Ⅰ・Ⅱ﹄︵ものと人間の文化史 1︶梅に関する文化史的な通史を記した文献に︑有岡利幸﹃梅

92  法政大学出版局平成

11年︶ がある︒

2︶﹃古典俳文学大系﹄︵集英社︶のネットワーク版﹁日本文学 Web図書館﹂の検索による︒

 3︶﹃東京風俗志﹄下︵ちくま学芸文庫平成

房︑明治 12年︶︒初版は冨山 35年刊︵下巻︶︒

4︶棚橋正博﹃江戸の道楽﹄︵講談社選書メチエ

161  平成

11年︶︒

 5︶鈴木理生﹃千代田区の歴史﹄︵名著出版昭和

53年︶︒

6︶鈴木博之﹃都市へ﹄︵日本の近代

  10中央公論新社平成

11

年︶︑松山恵﹃都市空間の明治維新︱江戸から東京への大転換﹄

︵ちくま新書  平成

30年︶︒

7︶注︵

5︶に同じ︒

 8︶小沢圭次郎﹁明治庭園記﹂﹃明治園芸史﹄︵有明書房昭和

50 年  大正

4年初版の復刻版︶所収︒

 9︶江戸切絵図﹁東都下谷繪圖﹂︵尾張屋清七嘉永

国会図書館デジタルアーカイブによる︒ 4年︶︑国立

﹇付記﹈  本稿は︑千代田区が公募した﹁千代田学﹂に関する区内大学等の事業提案制度により採択された共同研究﹁WebGISを用い

た千代田ヴァーチャル時空散歩アプリの構築﹂︵研究代表者 田中ゆかり︶にもとづく研究成果の一部を公表すべく成稿し

たものである︒なお︑明治以降の地図情報については︑日本大学文理学部地理学科の関根智子氏から種々のご教示を賜っ

た︒ここに記して御礼申しあげる︒

︵たけした  よしと︑本学教授︶

(7)

︿A﹀︿B﹀

(8)

︿C﹀

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