ら﹃死出の道艸﹄がジャーナリトとしての視点で書かれた文で
あることを考察した︒また︑同じく死刑となった者たちの獄中手記を引き合いにすることによって︑新たな﹃死出の道艸﹄観
を提示した︒
はじめに
天皇︑太皇太后︑皇太后︑皇后︑皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス右は︑一九〇八︵明治四一︶年に施行された大逆罪︵刑法七三条︶の条文である︒戦後︑GHQの指示により七三条を含
めた七六条までの不敬罪︑大逆罪に関する条項は一九四七︵昭和二二︶年に廃止されるが︑この刑が初めて執行されたのがい
わゆる﹁大逆事件﹂である︒一九一〇︵明治四三︶年︑幸徳秋水
のフレームアップがあり︑秋水を中心とする社会主義者︑無政府主義者が天皇暗殺を計画したとして次々と検挙された︒公判
は一人の証人も呼ばれず︑公開されずに行われた︒翌年の裁判 キーワード管野須賀子・﹃死出の道艸﹄・大逆事件・ジャーナ
リズム・明治三〇年代
要 旨
本稿は︑一九一一︵明治四四︶年︑﹁大逆事件﹂において死刑
に処された一二名の内︑ただ一人の女性︑管野須賀子が判決後
から死刑執行の前日までを獄中で執筆した﹃死出の道艸﹄を取
り上げた︒先行研究では﹃死出の道艸﹄は﹁日記﹂︑﹁遺書﹂︑﹁懺悔の記録﹂︑文学的作品に匹敵する﹁ノン・フィクション﹂の﹁白鳥の歌﹂などと評されている︒だが︑女性ジャーナリストの先駆的存在でもあった須賀子はその生涯を閉じるまでジャーナリ
ストであり︑﹃死出の道艸﹄はジャーナリスト管野須賀子とし
て残した文ではないかと考えた︒そこで︑明治三〇年代の
ジャーナリズムの側面を捉えると共に須賀子のジャーナリスト
の思想を導き出し︑その上で﹃死出の道艸﹄に付された序文か
稲 本 貴 美 子 管野須賀子 ﹃ 死出 の 道艸 ﹄ から 見 えるジャーナリズム ︿論文﹀
また︑清水卯之助の﹃管野須賀子の生涯︱記者・クリスチャ
ン・革命家﹄︵和泉書院︑二〇〇二年六月︶は未完となったが︑大逆事件に至るまでの須賀子の生い立ちと記者︑クリスチャ
ン︑革命家としての活動︑功績を実証している︒特に寒村との結婚後に移住した東京での清水が考える須賀子像は︑新聞記者活動は﹁暮らしのメド
﹂を立てるためであって︑﹁社会主義運動 2
の日々が恋し
従事することを望んでいたとし︑須賀子の評価も思想的活動に ﹂いと思い︑実際には記者よりは社会主義運動に 3
あると述べている︒関口すみ子﹃管野スガ再考︱婦人矯風会から大逆事件へ︱﹄
︵白澤社︑二〇一四年四月︶は︑これまでの﹁﹃妖婦﹄︱︱妖術
で男を蕩す女﹂と﹁革命家﹂という二極化する表象の﹁直接の起源を特定
﹂し︑須賀子が﹁新聞記者︑婦人矯風会の活動家︑そ 4
して社会主義者であるとするならば︑いかなる経緯で﹃大逆﹄事件の被告︵ないしは﹃革命家﹄︶﹃管野スガ﹄にいたるのか
告への性急な変化に疑義を抱き︑﹃牟婁新聞﹄記者時代を手掛 探ろうとしている︒特に﹃牟婁新聞﹄記者時代から大逆事件被 ﹂を 5
かりに︑大逆事件予審調書は須賀子の供述ではないと確信︑大逆事件の裏に迫ろうとしている︒最後に田中伸尚の﹃飾らず︑偽らず︑欺かず︱管野須賀子と伊藤野枝︱﹄︵岩波書店︑二〇一六年一〇月︶は︑﹃大阪朝報﹄時代の第五回博覧会における芸妓舞踏反対キャンペーンに焦点
を当て︑須賀子の女性解放を求める精神の原点は﹁性を商品化
して生きている﹂女性の存在が﹁女性の人権侵害の要因
須賀子が理解したからだとしている︒須賀子の書いた小説﹁露 ﹂だと 6 は大審院での一審のみで終審し︑大逆罪で二四名に死刑︑二名
に有期懲役の判決が下る︒後︑明治天皇の﹁仁慈﹂により二四名の内の一二名は無期懲役に減刑されたが︑処刑された一二名
の死刑囚の一人が管野須賀子である︒過去の研究では大逆事件の紅一点であるせいか︑あるいは須賀子のかつての夫である荒畑寒村の﹃寒村自伝﹄︵板垣書店︑一九四七年︶をもとに論じたものが多いせいか︑須賀子には﹁妖婦﹂としてのイメージが定着していたが︑獄中手記﹃死出の道艸﹄が一九四七︵昭和二二︶年︑神崎清に発見され︑日の目を見︑清水卯之助の編集による﹃管野須賀子全集﹄︵弘隆社︑一〜二巻
は一九八四年一一月︑三巻は一九八四年一二月︶が出されると再考され︑須賀子の姿が明らかになってきた︒これらの研究は須賀子を︑女性解放を求めた女性ジャーナリストの先駆的存在
であったと認めてはいるが︑﹃大阪朝報﹄﹃牟婁新聞﹄﹃毎日電報﹄
の記者を経て︑社会主義へと接近し︑大逆事件へと辿る活動の実態から実像を結ぼうとする︒例えば︑大谷渡﹃管野スガと石上露子﹄︵東方出版︑一九八九年五月︶は︑過去の研究が﹁宇田川の妾的存在だったとして︑
そういう境遇への自己嫌悪からキリスト教︑さらには社会主義
へ接近していったと解釈してきた﹂ことを批判し︑﹁宇田川と師弟関係にあった管野が︑宇田川の思想的影響のもとに廃娼論︑女権拡張論を唱え︑キリスト教さらには社会主義へと接近
﹂ 1
したのだとしている︒そして︑その生い立ちからジャーナリス
トを経て︑大阪婦人矯風会︑キリスト教︑そして社会主義へと傾倒していく実像を捉える︒
子の姿を捉えることができる︒それならば︑﹃死出の道艸﹄も︑一ジャーナリストとして今起こっていることを記録し︑発信し
たいと書き残した文と考えられないだろうか︒本稿では︑明治三〇年代のジャーナリズムを背景とした須賀子のジャーナリズムの思想を導き出し︑﹃死出の道艸﹄の序文
を考察︑また︑同時に発見された死刑囚の獄中手記とを対比す
ることで︑新たな﹃死出の道艸﹄観を提示したい︒
一.ジャーナリストとしての須賀子
管野須賀子は一八八一︵明治一四︶年六月七日︑現在の大阪市北区天満二丁目︶に︑父義秀と母のぶの長女として生まれ︑
﹁すが﹂と名付けられた︒幼少時の須賀子は父の鉱山事業が成功し︑裕福に何不自由なく育つ︒一八九一︵明治二四︶年︑天神橋筋の滝川小学校を卒業した須賀子は︑盈進高等小学校に入学するが︑母の死を機に同校を中退︒その上︑父の事業が破綻
し︑一家は四国︑九州の各地へと引っ越しを繰り返す︒一八九六︵明治二九︶年︑須賀子は大分県大野郡竹田町の竹田尋常小学校内の補習科に入学し︑同校を卒業するが︑今度は兄
と祖母を相次いで亡くし︑またもや学問が途切れてしまう︒し
かし︑そのような苦境にも諦めることなく︑一八九八︵明治三一︶年︑須賀子は東京へ単身渡り︑赤十字社の看護婦見習い
として修学している︒だが︑半年後の修学半ばにして︑雑貨商
の小宮福太郎と結婚し︑小宮姓となっている︒
︵一︶新聞記者として
では︑なぜ須賀子は新聞記者になったのだろうか︒明治三十 子﹂では︑主人公露子が﹁忠孝思想こそ︑家制度の中で女性を虐げる根源﹂で︑﹁女性を縛る原点
子の継母は身近にいた﹁性を商品化して生きている﹂女性と言 買い手となり︑収入の手段のためか内縁関係で継母となる須賀 田中は︑露子は須賀子だと論じている︒確かに︑須賀子の父が ﹂であると気づいていくが︑ 7
える︒そして︑社会主義︑無政府主義の道から大逆事件へと向
かったのは妹を結核で亡くした孤独感とまた自身も同じ病に侵
されたことが転機だと述べている︒さらに︑女性解放は社会革命の先にあり︑国家の思想弾圧の﹁犠牲﹂の後に﹁復活﹂があり︑
﹁それがやがて解放と自由を実現する社会主義︑無政府主義の広まりにつながっていく
﹂と信じたからこそ死をも厭わなかっ 8
たとしている︒
﹃死出の道艸﹄は︑大逆罪で死刑判決が下った日の一九一一
︵明治四四︶年一月一八日から死刑前日の二四日までを綴った須賀子の遺稿である︒神崎清は﹃死出の道艸﹄を﹁解題﹂︵﹃明治文學全集
最後をかざる﹃白鳥の歌 中で文学的作品に匹敵する﹁ノン・フィクション﹂の﹁人生の 96 明治記録文學集﹄筑摩書房昭和四十二年九月︶の
記﹂であり︑﹁鮮烈に浮上して来る須賀子の﹃懺悔﹄意識﹂と﹁罪 一九八八年三月︶の中で︑﹃死出の道艸﹄は﹁遺書ともいえる日 志は﹁管野須賀子遺構﹃死出の道艸﹄考﹂︵﹃明治大学教養論集﹄ ﹄﹂であると述べている︒また︑吉田悦 9
の意識﹂を著した﹁懺悔の記録
﹂と評している︒ 10
しかしながら︑須賀子の書いた記事︑小説には︑女性解放︑反戦︑社会革命︑ジャーナリズム批判と様々な思想の側面が見
える︒また︑それらをメディアに載せて発信しようとする須賀
婚している︒
﹃大阪朝報﹄は︑大衆紙をリードする﹃萬朝報﹄の流れを汲み︑永江為政が大阪で創業︑一九〇二︵明治三五︶年七月一日に創刊した日刊新聞である︒七月三一日の﹃大阪朝報﹄には須賀子
が採用に至る経緯がこのように掲載されている︒文海が新聞記者希望の須賀子を伴って大阪朝報社に来訪したが︑永江は︑記者は﹁婦人に不適當なる職業
無い 須賀子から永江宛に﹁男子のする丈の事は女子にも出来ぬ筈は ﹂だと断ろうとする︒ところが︑ 13
﹂という思いを認めた書簡と︑経歴とは別に提出したルポ 14
ルタージュと小説を見て考えを変え︑正式に社員採用した︒こ
のように﹃大阪朝報﹄への入社のきっかけとしては文海の紹介
ではあるが︑採用されたのは須賀子が評価されたからである︒須賀子は永江に能力を認められるだけでなく︑信頼もされて
いた︒一九〇三︵明治三六︶年一月︑永江は二二歳の須賀子を三面主任に抜擢し︑かつ一九〇三︵明治三六︶年三月から七月末まで大阪市天王寺今宮で行われる第五回博覧会の特派員に任命︑派遣している︒
その間︑須賀子が特に力を注いだのは博覧会集客のために催
される大阪四大花街の芸者による﹁浪花おどり﹂のイベントを中止することであった︒ただ中止すべきと声をあげるだけでな
く︑﹁女子美術学校︑或いは女子技芸学校でも設立されたなら
ば︑幾多の殖産的の女史を養成して︑我々婦人社会のみならず︑我が大阪市︑否︑我日本国の為にも︑是程利益ある
﹂ことはな 15
いと︑女性の育成を進言し︑女性の社会的向上は日本社会の財産になると述べている︒このように女性の社会進出が社会に大 年代の新聞は大衆化し︑女子教育の制度が整い︑女性の識字率
が向上したことから読者層が変わってきていた︒また︑須賀子
が上京してから大阪に戻るまで︵一八九八年〜一九〇二年︶の東京では︑婦人記者の先駆者たちが出現している︒一八九九︵明治三二︶年には大沢豊子が﹃時事新報﹄に記者と
して入社し︑紙面で紹介されている︒また︑一九〇一︵明治三四︶年︑﹃毎日新聞﹄では松本英子が入社︑足尾鉱毒による公害の被害地を訪ね︑﹃鉱毒地の惨状﹄というルポを五九回にわ
たって連載している︒また︑﹃大阪毎日新聞﹄では︑岸本りう子が記者として採用され︑一九〇〇︵明治三三︶年一二月二〇日から三一日まで女性記者で初め
11
て新聞小説を連載している︒
なお︑当時の東京の新聞普及率から考えて須賀子の婚家でも新聞を取っていたと考えられ︑商売より読書が好きな須賀
子な 12
らば積極的に取材記事や新聞小説を読み︑婦人記者の存在を目
にしていたに違いない︒女性でも自立できる医療に従事したい
と一七歳で思い至った須賀子が︑明治半ばのまだ女性の専門的
な職業が少ない時に︑学歴が重視されず︑実力で勝負できる小説家︑あるいは新聞記者に目を付けたことは十分あり得る︒
ところで︑須賀子が記者︑小説家の職に就くことができたの
は宇田川文海に師事したことがきっかけである︒文海は︑﹃大阪日日新聞﹄﹃朝日新聞﹄﹃大阪毎日新聞﹄などの関西文壇で活躍する記者︑小説家である︒一九〇二︵明治三五︶年一月︑父
が中風に罹り︑看病することを理由に実家に戻った須賀子は︑弟正雄が師事していた文海の許で文学を学ぶ︒その後︑七月に
は﹃大阪朝報﹄の記者に採用され︑婚家には戻らず︑八月に離
五月まで﹃牟婁新聞﹄代理編集長の席に就く︒
﹃牟婁新聞﹄時代の須賀子が情熱を傾けたのは和歌山に許可
された公娼設置廃止を巡る女性問題であり︑置娼派の﹃熊野実業新聞﹄との論争である︒須賀子は廃娼という絞り込んだ視点
で論じるのではなく︑﹁男女均しく神の子である以上︑︵中略︶同じ人として世に立たなければならない﹂と男女同権を公言し
ている︒その上で﹁女子自身が︑総てに男子と匹敵する丈の︑実力を養成しなければ成らないので︑婦人に関する問題はすべ
て婦人自身が解決し処理して行く丈の力が必要
﹂であり︑教育 18
の男女格差が女性問題の本質なのだと迫っている︒柴庵が﹃牟婁新聞﹄に戻ると須賀子は帰京︑荒畑寒村と結婚
し︑一九〇六︵明治三九︶年十二月︑東京で﹃毎日電報﹄の職を得る︒そこで社会部記者となった須賀子の記事は︑これまでの
ような激しいまでの女性解放論はなりをひそめ︑婦人訪問やル
ポなどの記事ばかりとなっている︒そして︑一九〇八︵明治四一︶年に起こった赤旗事件で須賀子が検挙され︵後︑無罪釈放︶︑﹃毎日電報﹄を解雇される︒最後に﹃自由思想﹄において須賀子がどのような思想のもと
に筆をとっていたのかを確認したい︒﹃自由思想﹄は幸徳秋水
と須賀子で創刊した新聞形態の機関紙である︒第一号は︑当初六頁で発行予定だったが︑許可がおりず︑四頁にして発行する︒続く第二号でも﹁女子解放論に健筆を揮
発行となったが︑﹃大阪朝報﹄時代から変わらず訴え続けてき 廉で須賀子が換金入獄する︒結局︑﹃自由思想﹄は二号までの 動するが︑両号共に即発禁となる︒しかも︑秘密裡に頒布した ﹂い︑発行に向けて活 19 きな経済効果となるということをこの時代から堂々と述べてい
ることは驚くべきことである︒
また︑須賀子は以前より﹁政治問題に或いは社会問題に︑あ
らゆる総ての会合は原より︑秘密々々と何事を成すにも無くて叶わぬ秘密会合なるものにさへ︵中略︶醜業婦の侍席する是等
の会合を怪まない
﹂と︑当時の政界と遊郭が深くつながってい 16
ることに疑問を持てと呼びかけている︒もともと須賀子には永江に送った書簡にもあるように男子にできることは女子にもで
きるという考えがあり︑女子の教育制度が整ってきたからには今のような状況が許されるはずもなく︑女性であっても政治や社会問題の会合に戦力として参画する日が来ると先見していた
のではないだろうか︒さらに工女虐待の記事には﹁人権に重ん
ずるの念が少なく︑殊に女性に対する観念の誤れる
﹂とあるよ 17
うに女性軽視や男尊女卑についての考えも述べている︒このよ
うに須賀子にとって女性の社会的向上は重要な問題と課題だっ
たと考えられる︒
﹃牟婁新聞﹄の社外記者となるのは﹃大阪朝報﹄が廃刊した二年半後の一九〇五︵明治三八︶年十月︑須賀子二五歳の時であ
る︒﹃牟婁新聞﹄は一九〇〇︵明治三三︶年に紀州田辺の住職で
もある毛利柴庵によって創刊された新聞である︒その頃︑柴庵
は官吏侮辱罪で入獄を免れない状況となり︑留守中の編集につ
いて交流のあった平民社の堺利彦に相談していた︒堺は︑﹃大阪朝報﹄廃刊後︑大阪矯風会で活動していた須賀子との出会い
があり︑堺が柴庵に須賀子を推薦したと考えられている︒そし
て︑須賀子は紀州田辺に赴任︑そこで一九〇六︵明治三九︶年
督教新聞﹄と改題し︑週刊で発行するようになった︒文海も執筆者の一人である︒また︑﹃みちのとも﹄は文海が編集に携わ
る天理教が発行する機関誌である︒
﹃リッチ﹄は芸妓であった継母によっていじめられる少女︑
﹃みなし子﹄は他の女を連れてくると夫に言われ︑離縁された女性︑﹃噫この子﹄は結婚前に子ができるが認知されないまま男が亡くなる女性が描かれる︒何れも封建的な男性やその家族
に理不尽な扱いを受ける女性が主人公である︒中でも﹃みなし子﹄は︑あらゆる手段を講じて妻にした葉子を夫が一年余で飽
き︑離縁する話である︒葉子は離縁後の十五夜に淀川へ身投げ
するが︑神学博士に助けられ︑受洗し︑伝道学校に入る︒後日︑小樽巡廻伝道中の葉子のもとに偶然流浪していた元夫が葉子の説教を聞き︑人知れず手紙と後妻との子を置いて去る︒手紙に
は過去の日々の悔悟︑事業の破綻︑治る見込みのない病に侵さ
れていること︑子の教育を願うと書いてあり︑葉子は子を引き取る︒このように須賀子は︑葉子が神と共に生きる道を自らの意思で選び︑強く生きる姿を描くことで女性の自立を説く︒
また︑﹃日本魂﹄は戦争に行く息子を病に臥せっている父親
が見送る際の別れの瞬間を描いている︒﹃小軍人﹄は日本と露西亜に分かれて戦争ごっこをする子供たちを書いている︒主人公︑寛の父は露西亜語の教師︑叔父は露西亜駐在公使だったこ
とから︑寛は子供たちから露西亜側の大将になれと言われる︒
﹃最後の夢﹄は二時間交代で仮寝中の戦艦の兵士が恋人の夢を見た後に敵艦が現れ︑戦死する物語である︒特に﹃絶交﹄は少女二人が日露戦争について論争する話であ た女性解放を﹁自由・平等・博愛﹂という社会主義の立場から訴え︑筆でもって闘い︑発信し続けようする須賀子の姿がうか
がえる︒ ︵二︶小説家として冒頭で述べた通り︑大谷渡︑清水卯之助︑関口すみ子︑田中伸尚は須賀子を女性ジャーナリストの先駆的存在であると認め
ている︒しかし︑それらの論は︑﹃大阪朝報﹄廃刊後から須賀子が﹃牟婁新聞﹄代理編集長となるまでの二年半を大阪矯風会
での活動に携わり︑﹃毎日電報﹄離職後は社会主義に傾倒して
いることから︑須賀子がジャーナリストのキャリアを失い︑活動家となったと捉えている面がある︒だが︑実際には須賀子は
﹃大阪朝報﹄が廃刊すると小説を書き︑﹃毎日電報﹄退職後は秋水と共に﹃自由思想﹄を立ち上げるなど︑その後もメディアに文章を載せており︑発信することを諦めたとは思えない︒
﹃牟婁新聞﹄代理編集長になるまでの期間で発表した須賀子
の小説には︑﹃リッチ﹄︵﹃みちのとも﹄明治三六年五月号︶︑
﹃狂?﹄︵﹃みちのとも﹄明治三六年六月号︶︑﹃みなし子﹄︵﹃基督教世界﹄明治三六年九月︶︑﹃絶交﹄︵﹃基督教世界﹄明治三六年一〇月︶︑﹃愛の力﹄︵﹃みちのとも﹄明治三六年一〇月号︶︑﹃噫
この子﹄︵﹃みちのとも﹄明治三七年二月号︶︑﹃日本魂﹄︵﹃みち
のとも﹄明治三七年三月号︶︑﹃小軍人﹄︵﹃みちのとも﹄明治三七年四月号︶︑﹃最後の夢﹄︵﹃みちのとも﹄明治三七年七月号︶
がある︒﹃基督教世界﹄は﹃基督教新聞﹄の前身であり︑新聞の形態を
とる機関紙である︒一九〇三︵明治三六︶年の大阪移転後に﹃基
二.﹁署名﹂について
須賀子のジャーナリストとしての信条︑覚悟は署名からも捉
えることができる︒一八七五︵明治八︶年に定められた新聞紙条例の第八条には記事に住所︑姓名を著さなければ罰金︑懲役を科す︑とある︒八年後︑改正され︑当条文は削除されるが︑新聞紙条例は新聞撲滅法と揶揄されるように政府の新聞への締め付けは強化され
る︒以降︑新聞紙条例は更に緩和したと認知されているが︑実際には﹃毎日新聞﹄の松本英子は﹁みどり子﹂の筆名で書いたル
ポ﹃鉱毒地の惨状﹄の記事内で政府を攻撃したせいか警察の取調べを受け︑逃げるように渡米する︒また︑須賀子が﹃大阪朝報﹄
に採用される三年前の一八九九︵明治三二︶年四月に﹃報知新聞﹄の取材記者となる羽仁もと子は︑筆名に﹁星川清子﹂を用
いながら︑署名記事は﹁同郷の高僧西有穆山に取材した半生の物語を一〇回ばかり連載したもの
子が﹃大阪朝報﹄三面主任となった同時期に時事新報社の記者 ﹂だけである︒さらに︑須賀 22
となった大沢豊子は︑﹁理想の婦人﹂というインタビュー記事
を談話形式で連載しているが︑﹁署名記事がほとんどない
﹂よ 23
うだ︒そのような社会的情勢の中で︑須賀子は自身の観点︑正義感
を曲げず︑恐れずに記事︑小説を書き︑そのほとんどに署名を付している︒署名はその内容に責任を持って読者に提示してい
るという標であり︑それはまた一ジャーナリストとしての須賀子の覚悟が込められていると言っていいだろう︒ る︒日清戦争で兄を亡くした少女︑泉が﹁あんな思ひをして折角取つた遼東半島﹂を取られるのは悔しく︑兄の死を無駄にし
たくないと開戦を主張する︒しかし︑牧師の娘︑小山は﹁有望
な人が多勢死なくちゃならず
﹂と非戦︑平和を論じる︒そのよ 20
うな小山に泉が絶交を言い渡す︒その時︑号外の声が聞こえて
くる︒反戦を強く主張する作品ではないが︑個々の戦争観の違
いを認め︑戦争についてもう一度深く考え直す必要があると気
づかされる話である︒以下の小説ではジャーナリズムを批判している︒﹃狂?﹄で
は名高い病院長に出世した江藤桂介に嫉妬する医師仲間が江藤
に言い寄る芸妓君勇を知り︑新聞記者に袖の下を使って︑江藤
と君勇の虚偽の記事を書かせる︒また﹃みなし子﹄では︑子と一緒に帰阪した葉子に対して捏造報道する悪徳新聞を描く︒さ
らに﹃絶交﹄でも︑開戦しなければどんな辱めを受けるかと新聞に出ていると言う泉に︑非戦派の小山は新聞が真実だけを報
じているわけではないと反論する︒これら小説の中で須賀子
は︑ジャーナリズムの本質を問い︑またジャーナリズムに流さ
れる世論を批判する︒
このように須賀子は小説の題材に時事問題︑社会批判などを扱っている︒これは須賀子が小説を教育︑啓蒙する機能として用いることで︑社会的な変革を期待し︑公に伝える機会と捉え
ていたと考えられる︒﹁ジャーナリズム﹂を﹁時事的な事実や問題の報道・評論を社会に伝達する活動
賀子の小説は一つのジャーナリズムであり︑須賀子はジャーナ ﹂と定義するならば︑須 21
リストとして小説を書いたと言える︒
また︑﹁一切の虚偽と虚飾を斥けて赤裸々に管野須賀子を書く﹂
と︑本文でも﹁管野須賀子を書く﹂と記している︒これらから
﹃死出の道艸﹄は個人の文︑素の須賀子の文ではなく︑ジャー
ナリスト﹁管野須賀子﹂の文と結論付けることが可能だ︒
三.さまざまな手記のなかで
人民社の金庫の中に大逆事件被告の獄中手記があるという情報がもたらされ︑一九四七︵昭和二二︶年七月に人民社を訪れ
た神崎清は︑﹃死出の道艸﹄と共に幸徳秋水の﹃死刑の前﹄︑新村忠雄の﹃獄中日記﹄︑森近運平﹃回顧三十年﹄︑奥宮健之﹃公判廷ニ於ケル辯論概記﹄︑大石誠之助﹃獄中にて聖書を讀んだ感想﹄を発見する︒それらは日記や自叙伝的なもので︑各々の心情を綴っているが︑何れの手記も須賀子ほど冷静な視点で事件を克明に語ってはいない︒森近︑奥宮の手記には無実を信じていたとあり︑裁判を冷静
に振り返ることはできなかったと考えられるため︑他三名の手記をみていきたい︒
まず新村の手記は一月一二日から始まる︒二四名に大逆罪で死刑判決が下った一八日には︑﹁之れは前持つて知れて居つた事だ﹂とあり︑死刑を覚悟していたことがわかる︒また︑一一時に﹁自分や秋水や大石外三名は一人一臺の馬車﹂に乗せる厳重体制で移送され︑一時過ぎに入った法廷には﹁傍聴者が充満
し︵中略︶記者席も充ちて居つた︒辯護士も揃つて居﹂たと記
されている︒さらに︑﹁二十四名は死刑に處す﹂という声を聞き︑
﹁坂本・峰尾・崎久保・古川・奥宮等の諸氏の顔は青かつた︒ 因みに︑須賀子のもともとの名は判決時の戸籍名﹁管野スガ﹂
ではなく︑くさかんむりの﹁菅﹂に︑平仮名の﹁すが﹂である︒森長英三郎によれば一八九七︵明治三〇︶年九月の戸籍移転に伴い︑たけかんむりの﹁管野﹂に︑一八九五︵明治二八︶年大分県転籍時に﹁スガ﹂に変え
24
たとされている︒
﹃管野須賀子全集﹄に掲載の署名記事には戸籍名は見られず︑
﹁須賀子﹂が九五回︑﹁幽月女史﹂が六二回︑﹁幽月女﹂が三二回︑
﹁幽月﹂が二六回︑﹁管野須賀子﹂が二〇回︑﹁幽﹂が五回︑﹁S生﹂
が二回︑﹁月﹂が二回︑﹁管野幽月﹂︑﹁大分子﹂︑﹁KS﹂︑﹁エス﹂︑
﹁エス生﹂︑﹁管野幽月女﹂︑﹁しらぎく﹂︑﹁白菊女﹂︑﹁草官女﹂︑﹁S子﹂がそれぞれ一回と︑一八種の筆名が確認できる︒一番多い
のは﹁須賀子﹂である︒戸籍名﹁管野﹂を使っているものもある
が︑﹁すが﹂︑あるいは﹁スガ﹂と記したものはない︒しかし︑大逆事件訴訟記録の聴取書には戸籍名の﹁管野スガ﹂の署名が
ある︒これは公的書類であり︑筆名︑雅号などは使えないこと
から戸籍名で署名したことが理解できる︒が︑戸籍名を使わな
くなったり︑変えたわけではないことがわかる︒
これらを鑑み︑﹃死出の道艸﹄の序文を見ると
死刑の宣告を受けし今日より絞首臺に上るまでの己れを飾 らず 僞らず自ら欺かず極めて卒直に記し置かんとするものこれ 明治四十四年一月十八日
須 賀 子
と﹁須賀子﹂の署名がある︒﹁己れを飾らず偽らず自ら欺かず﹂ 25
とありながら本名でなく︑﹁須賀子﹂と署名しているのである︒
全く何の憂愁もないわけではない︒二三日の明け方に︑蒼空に同時に浮かんでいる三分程欠けた太陽と月を見て︑国に大凶変
があると語っている夢を見ている︒また︑首謀した者以外を助
けてくれるならどんな残酷な刑も喜んで受けると吐露してい
る︒このように心情を率直に表し︑しかし︑命を惜しむという
よりは巻添えにした人たちを助けることができない不甲斐なさ
や︑信念を貫くことができないこと︑日本の未来を愁えている︒
ジャーナリストでもあった秋水は︑判決後から死刑直前まで
の心情と︑﹁問題は實に何時如何にして死ぬかに在る﹂と死生観を語り︑﹁私が如何にして重罪を犯したのである乎︵中略︶︒百年の後ち︑誰か或いは私に代つて言ふかも知れぬ︒孰れにし
ても死刑其者は何でもない﹂と死刑への覚悟と同時に罪刑の是非を問うている︒しかしながら︑自ら答えを出すのでなく︑百年後に委ねている︒かつ︑秋水は死刑となった歴史上の人物に
は﹁賢哲あり忠臣あり學者あり詩人あり愛国者・改革者も﹂あ
ると挙げ︑極悪や重罪だから死刑となるのでないと自身の名聞
を意識し︑革命家たちの光栄を述べてい
28
る︒このように秋水は
ジャーナリストでなく︑﹁革命家﹂として死ぬことを望んだと考える︒反対に須賀子は︑﹁人が私を見る価値如何などはどうでもよ﹂
く︑﹁私は虚僞を憎む﹂﹁私自身を欺かずに生を終わればよい﹂
とあるように自身の信条︑正義感を貫こうとしている︒また︑秋水がその罪状について否認的に考えているのに対して︑須賀子は事件を﹁検事の手によつて作られた陰謀﹂だと断じ︑過去
の座談で話題となった政治の不満を事件に結びつけたのだと事 大石と実兄は赤かつた﹂と他者の顔色を見る余裕もあり︑須賀子が﹁サイナラ﹂と言う声を﹁悲しく壮ましく而力づよ﹂かった
と感じている
︒このように新村は裁判の中で見たこと︑感じた 26
こと︑思ったことを簡潔に綴っている︒同じ日について︑須賀子も異常な程の厳重警戒だったと述べ
ている︒また︑主文を聞いた二六人の相被告の心境も推し量っ
ている︒ただそれだけでなく︑通常とは逆に︑裁判長は一時間以上かけて判決理由である判決文を読み︑その後に︑主文であ
る死刑の宣告をしたと指摘する︒判決文もいかに無謀で︑事実
を歪曲し︑七三条に結び付けるよう謀った内容だったかと臆す
ることなく記している︒さらに須賀子は事件の原因は﹁殷鑑遠
からず赤旗事件にあり﹂と事件の因果まで言及している︒現在
では赤旗事件を発端に政府による社会主義者への締め付けが厳
しくなり︑一気に壊滅に追い込もうと謀略を巡らしたことは知
られているが︑須賀子は当時からそれを見抜いていたと考えら
れる︒大石の手記は︑一月六日︑一八日︑二三日の日付がある︒一八日には︑﹁人間は誰でも必然死ぬべき時に死ぬのであつて︑
それ以上は一瞬間も生き得るものではない﹂と死生を諦念し︑
﹁悟りが開けた﹂と記している︒だが︑二三日には﹁自分の悟り
と自分の要求﹂にすき間のある﹁寂しき悟り﹂でしかないと認
めてい
27
る︒大石は︑悟りと要求のすき間が埋まらない内に死に
ゆくことに︑最後の最後まで不条理さを愁えていたように見え
る︒一方︑須賀子も﹁感情の器である普通の人間﹂であると認め︑
りと同志への思いやりに溢れた美しい文章である
勧善懲悪の﹁総じて甘い結構﹂︑﹁人物像に陰影がなく喰い足り 値を認めている︒最近では︑竹内栄美子が須賀子の書く小説を ﹂と文学的価 32
ない﹂と論じながら﹃死出の道艸﹄から見えてくる文学的要素
と共に﹁権力の無法や暴戻の糾弾は︑このような純粋な正義の念を根底に自己実現の代替であった犠牲と表裏の情熱
﹂によっ 33
て表されるとして︑幼稚な正義感と一蹴せず再評価すべきと述
べている︒確かにタイトルにも文学的意味があるように思われる︒死に赴くまでの心情を綴った手記に素直にタイトルを付ければ﹁死出の道﹂︑あるいは﹁死出への道﹂で良い︒秋水の﹃死刑の前﹄
のように︒が︑須賀子は﹁道艸﹂とした︒須賀子は︑最後の公判で
我等は畢竟此世界の大思潮︑大潮流に先駆けて汪洋たる大海に船出し︑不幸にして暗礁に破れたに外ならない︒然し乍らこの犠牲は︑何人かの必ずや踏まなければならない階梯である︒破船・難船︑其数を重ねて初めて新航路は完全
に開かれるのである︒理想の彼岸に達し得るのである
と陳述したとある︒死を迎えて後に叶うであろう目的のためで
あれば絞首台に上ることさえも﹁道艸﹂に過ぎないという意味
であろうか︒直接的に﹁目的﹂とせず︑﹁理想の彼岸に達し得る﹂
と表現し︑死刑を﹁破船・難船﹂という言葉に置き換えている︒
このようにタイトルや表現は一遍の小説のようであり︑文学的側面を見出すことは可能である︒
では︑個人的な﹁日記﹂︑﹁記録﹂︑私的な﹁文書﹂という位置 件の真相を追求する︒その上︑恩赦による減刑を国内外に対し
て温情と威光を見せつけるためであると︑政府のあざとさ︑狡猾さを指摘し︑なお戦ってみせようとする気概が見える︒
四.﹃死出の道艸﹄の記録性と文学性
﹃死出の道艸﹄を神崎清は︑小説家を志した須賀子にとって︑
﹁ノン・フィクション﹂の﹁白鳥の歌﹂となったと評価している
ことから︑文学と捉えていると考えられる︒また︑﹁前の日記
から二︑三の短歌を書き抜いて置かう﹂とあることから﹁一日以来の日記のつづき
志は﹁遺書ともいえる日記﹂︑﹁懺悔の記録﹂と評していること ﹂である獄中日記と位置づけている︒吉田悦 29
から︑やはり個人的な﹁日記﹂︑﹁記録﹂と捉えていると考えら
れる︒関口すみ子は︑﹁全くの冤罪で処刑される人々﹂に対し
て須賀子の苦しみがあり︑﹁この犠牲は決して無意義ではない
のだと言い聞かせて︑乗り越えよう
﹂とするために必要だった 30
と述べている︒しかしながら︑このような﹃死出の道艸﹄観︑
ないしは﹃死出の道艸﹄を私的な文書として位置づけているこ
とに納得できないと思うところがある︒
まずは︑﹃死出の道艸﹄の文学的可能性に触れる︒先の神崎
だけでなく︑森山重雄も﹁自己の姿を一箇の純粋な感受性の透明体に化﹂した他の獄中手記をはるかにしのぐ﹁文学的感動
﹂ 31
を有していると文学として論じている︒江刺昭子は須賀子が書
いた小説﹃おもかげ﹄︵﹃大阪朝報﹄明治三五年七月︶を﹁よくも
まあこんなものをだらだら連載したものだとあきれる﹂と辛辣
に評しているが︑一転︑﹃死出の道艸﹄については﹁権力への怒
る︒また︑これまで述べてきたように須賀子は﹃死出の道艸﹄
の中で︑詳細な裁判内容と共に事件の因果や真相の考えも記し
ている︒それらを勘案すると︑須賀子の﹃死出の道艸﹄執筆動機は︑この事件が未来にとって歴史的意義があると予測した上
で︑ありのままの事実︑懺悔や意義︑思想も含めて文にし︑世
に残すことにあったと考えられる︒
まとめにかえて
これまで見てきた通り︑須賀子のジャーナリストの思想︑意義は︑終始一貫﹁女性解放﹂にあった︒かつ︑須賀子は時代や社会的変化に伴ってあらわれた問題を捉えてきた︒また︑社会主義に関わり︑赤旗事件で検挙された経験などが︑須賀子に多角的な視点から物事を見︑国家・政府︑あるいは政治を疑い︑時代や社会を分析する目をもたらした︒そして物怖じすること
なく批判︑提言する力とジャーナリストとしての強い覚悟を育
てることになったと考える︒このように須賀子はジャーナリス
トとして確実にステップアップしてきたと言っていい︒管見の限り︑これまで﹃死出の道艸﹄は︑須賀子が死刑判決
を受けた当事者であるがゆえか︑文学︑もしくは私的な文とし
て評価されてきた︒新村忠雄︑大石誠之助︑またジャーナリス
トであった幸徳秋水でさえ︑その手記には当事者である心情が綴られている︒しかし︑須賀子は裁判に疑いを持ち︑その内容
を客観的に記し︑また事件を批判的な視点で考え︑真相は権力
にあると明記している︒このように今起こっている事実を当事者でありながら冷静に記すことができたのは須賀子が長年積み づけはどうであろうか︒もちろん日々のできごとを綴っている
ので日記で間違いはない︒堺・為子宛の封緘には﹁元日から獄中日記の様な︑一種の感想録︵中略︶追想︑感想︑懺悔︑希望︑何でも思ひ浮んだまゝを卒直に書いて置きます 何れ御覧に入
れることになりませう
九日の平出修宛にも同内容の封緘を送っている︒これらの書簡 ﹂とあり︑一月三日の吉川守圀宛︑一月 34
にも﹁日記﹂とある︒ところが︑﹁日記﹂は書簡からもわかるよ
うに実は一月一日から始まっている︒だが︑﹃死出の道艸﹄は﹁明治四十四年一月十八日﹂の日付を入れた序文を付し︑改めて一月一八日から書き始めているのである︒さらに︑一九日の本文
に﹁昨日の日記を書いた﹂とあるように︑一九日に一八日ので
きごとを書いたことがわかる︒従って︑﹃死出の道艸﹄は神崎
の指摘する﹁一日以来の日記のつづき﹂ではなく︑その日にあっ
たことをその日に書こうとする個人の備忘録的な日記と言うわ
けでもなく︑意図をもって書き始めたと言える︒また︑順を追っ
て起こっていることを記す目的があったと考えられる︒次に﹁遺書とも言える﹂︑﹁懺悔﹂︑﹁乗り越えるため﹂という観点はどうであろうか︒死刑の前に遺した文書であり︑前述の須賀子が書いた書簡にも﹁懺悔﹂を書くとあることからこれら
も間違いではない︒また︑死刑を﹁意義﹂あることとしなけれ
ば受け入れられないという思いがあったことも納得できる︒し
かし︑鶴見俊輔によるとジャーナリズムとは﹁歴史の中でどう
いった意味を持つのか予測﹂し︑﹁現在おこりつづけるできご
とを︑それらの意味が判定できない状態において︑未来への不安をふくめた期待の次元においてとらえる
﹂記録と述べてい 35
野枝︱﹄︵岩波書店 二〇一六年一〇月︶ 一一二頁
︵
7︶︵
6︶に同じ一一二頁
︵
8︶︵
6︶に同じ一九八頁
︵
9︶神崎清﹁解題﹂︵﹃明治文學全集
96明治記録文學集﹄筑摩書房 昭和四十二年九月︶四〇五頁
︵
論集﹄一九八八年三月 10︶吉田悦志﹁管野須賀子遺構﹃死出の道艸﹄考﹂﹃明治大学教養
︵
説を書いたのは岸本が初めて﹂とある︒ 新聞社二〇〇二年二月二九八頁﹁女性記者で新聞の連載小 11︶﹃﹁毎日﹂の3世紀︱新聞が見つめた激流一三〇年﹄上巻毎日
︵
一九七頁︶に﹁私ハ元来読書カ好キテ商売ヲ好マヌ﹂とある︒ 書︵﹃管野須賀子全集第三巻﹄弘隆社一九八四年一二月 12 ︶﹁大逆事件訴訟記録管野スガ聴取書・尋問書﹂第二回聴取
︵
三五年七月三一日号︶ 13︶永江為政﹁宇田川君の紹介﹂︵﹃大阪朝報﹄第二六号・明治
︵
全集第三巻﹄弘隆社一九八四年一二月一四〇頁︶ 14 ︶﹁六月永江為政宛封書﹂︵明治三五年六月︶︵﹃管野須賀子
︵
二四日号︶ 15︶﹁大阪朝婦人慈善会員に申す﹂︵﹃大阪朝報﹄明治三六年二月
︵
日号︶︵﹃管野須賀子全集第一巻﹄弘隆社一九八四年一一月 16︶﹁雑誌と醜業婦﹂︵﹃大阪朝報﹄第四〇号・明治三五年九月九 一一四頁︶
︵
一九八四年一二月一二七頁︶ 三五年九月二八日号︶︵﹃管野須賀子全集第三巻﹄弘隆社 17︶﹁公園と名士︵二︶工女の虐待﹂︵﹃大阪朝報﹄第五八号・明治
︵
年四月二四日号︶︵﹃管野須賀子全集第二巻﹄弘隆社 18︶﹁熊実紙の古水生様に﹂︵﹃牟婁新聞﹄第五八三号・明治三九 上げてきたジャーナリスト経験と︑培ってきたスキルがあった
からこそであり︑また︑真実を明らかにしたい︑世に知らせた
いというジャーナリスト魂を衝き動かされたからだと言える︒以上のことから須賀子は最後までジャーナリストであろうとし
ていたと考えられ︑﹃死出の道艸﹄は記録であり︑ジャーナリ
ズム活動と考えられる︒時を経ても﹃死出の道艸﹄に人々が魂を揺さぶられるのは︑
﹁飾らず偽らず自ら欺かず﹂一人の﹁感情の器である﹂ジャーナ
リスト管野須賀子として︑臆することなく︑自分の言葉で︑毅然と事実を綴り︑また権力に屈することなく原因を解明し︑真相を追求しようとする須賀子の姿が見えるからであろうと考え
る︒最後に︑署名と作品との関係性︑また文学とジャーナリズム
の関係性など︑まだ研究の余地があり︑今後︑さらに追究して
いきたい︒
注︵
四頁 1︶大谷渡﹃管野スガと石上露子﹄東方出版一九八九年五月
︵
命家︵和泉書院二〇〇二年六月一五五頁 2︶清水卯之助﹃管野須賀子の生涯︱記者・クリスチャン・革
︵
3︶︵
2︶に同じ一〇二頁
︵
澤社二〇一四年四月一九頁二〇頁 4︶関口すみ子﹃管野スガ再考婦人矯風会から大逆事件へ﹄白
︵
5︶︵
4︶に同じ一二三頁
︵
6︶田中伸尚の﹃飾らず︑偽らず︑欺かず︱管野須賀子と伊藤
月 八頁
︵
32︶︵
22︶に同じ一四二頁︑一五三頁
︵
頁 月刊二月号﹄︵通巻二六八号︶彷書舎二〇〇八年一月三三 33︶竹内栄美子﹁管野すがを読む︱犠牲・情熱・正義︱﹂﹃彷書
︵
月一七六頁︶ 月四日︶︵﹃管野須賀子全集第三巻﹄弘隆社一九八四年一二 34 ︶﹁一月四日堺利彦・為子宛封緘はがき﹂︵明治四四年一
︵
系一二ジャーナリズムの思想﹄筑摩書房一九七三年三月 35 ︶鶴見俊輔﹁解説ジャーナリズムの思想﹂︵﹃現代日本思想体 二八頁︶
※ 引用に際し︑漢字は一部適宜現行の字体に統一し︑ルビにつ
いても一部省略した︒
※ 本稿は︑四章からなる拙著の卒業論文︵紅野謙介先生指導︶
の第二章︑第三章︑第四章の一部を抜粋し︑大幅に修正︑加筆したものである︒
︵いなもと きみこ︑平成三十年度本学通信教育部卒業生︶ 一九八四年一一月 一二八頁︶
︵
二三六頁︶ ︵﹃管野須賀子全集第二巻﹄弘隆社一九八四年一一月 19︶﹁ぬきが記﹂︵﹃自由思想﹄第一号・明治四二年五月二五日号︶
︵
四七頁︶ 日︶︵﹃管野須賀子全集第三巻﹄弘隆社一九八四年一二月 20︶﹃絶交﹄︵﹃基督教世界﹄第一〇五〇号・明治三六年一〇月八
︵
︵ 21︶﹃日本大百科全書一一﹄小学館一九八六年九月 局一九八五年六月六三 22︶江刺昭子﹃女のくせに︱草分けの女性盤動黙たち﹄文化出版
︵
23︶︵
22 ︶に同じ九六頁
︵
一九六七年三月一三頁 24 ︶森長英三郎﹃風霜五十余年︱大逆事件﹄森長英三郎版
︵
一九八四年一一月二四五頁︶以降︑﹃死出の道艸﹄の引用は 25 ︶﹃死出の道艸﹄︵﹃管野須賀子全集第二巻﹄弘隆社
すべて同書による︒
︵
記﹄世界文庫昭和四十六年十二月一四六〜一四八頁︶ 26︶新村忠雄の﹃獄中日記﹄︵﹃大逆事件記録第一巻新編獄中手
︵
頁・二七二頁︶ 一巻新編獄中手記﹄世界文庫昭和四十六年十二月二七〇 27︶大石誠之助﹃獄中にて聖書を讀んだ感想﹄︵﹃大逆事件記録第
︵
二六〇頁・二六四頁︶ 記﹄世界文庫昭和四十六年十二月四頁・九頁・一八頁・ 28︶幸徳秋水の﹃死刑の前﹄︵﹃大逆事件記録第一巻新編獄中手
︵
29︶︵
9︶に同じ三三四頁
︵
30︶︵
4︶に同じ一九二頁
︵
31=︶森山重雄﹃大逆事件文学作家論﹄三一書房一九八〇年三