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arises why Leon III divided only the Carabisianoi. The reason can be traced in the situation of the war against the Arabs. In his time, the Arab army

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(1)

論 文  オ リ エ ン ト45-1(2002):18-36

最 後 の

海 の 軍 人 皇 帝 」

―レ

オン3世 とビザンツ艦隊

Emperor

Leon

III and

the Byzantine

Fleet:

The Last "Soldier Emperor of the Sea"

小 林 功

KOBAYASHI Isao

ABSTRACT

Byzantine emperor Leon III (717-741) is well known as the

emperor who introduced the official policy of Iconoclasm, and who was

successful in repulsing the Arab raids which had started since the first half

of the seventh century. At the fact that he was a Strategos (Chief General) of

the theme (Byzantine land army) of the Anatolikon before he became an

emperor, modern scholars have often regarded him as a soldier emperor.

Once we examine his career in detail, however, we notice that his

experi-ence as a soldier or general is quite limited. Nevertheless, it can be pointed

out that Leon III had a close relation with the fleet. For when he

command-ed the Byzantine army during the second Arab siege of Constantinople

(717-718), he took a direct command

over the fleet, not the land army.

Therefore, in this paper, I will analyze the relation between Leon III and

the Byzantine fleet.

The Byzantine fleet was strengthened in the middle of the seventh

cen-tury in order to counter the Arab fleet, which became offensive in the

Mediterranean

Sea at that time. During the seventh century, there were

two Byzantine fleets in the Mediterranean

Sea: one was the Carabisianoi,

which had a control of the eastern Mediterranean,

and the other was the

Sicilian fleet controlling the central Mediterranean.

During the reign of the Leon III, the Carabisianoi were divided. One

rea-son for the division was that the Carabisianoi, as well as the theme of the

Opsikion, raised a number of rebellions against the emperors. Although it

had posed more serious threat

to the Byzantine

throne, the theme of

Opsikion was not divided during the reign of the Leon III. So the question

*富 山大学 人 文 学部 講 師

(2)

arises why Leon III divided only the Carabisianoi.

The reason can be traced in the situation of the war against the Arabs. In

his time, the Arab army was raiding the Asia Minor almost every year.

Under such a situation, it was impossible to divide the Opsikion. However,

the action of the Arab fleet was stagnant in the eastern

Mediterranean.

This is why Leon III was able to divide the Carabisianoi.

In the central Mediterranean,

the Sicilian fleet fought against the Arab

fleet, which was based in North Africa (Ifrigiyah), which was conquered by

the Arabs at the end of seventh century. The Arab fleet of Ifrigiyah

barrag-ed Sicily and Sardinia during the reign of Leon III, though this attack was

far from successful and received a counterattack

by the Byzantine fleet of

Sicily, for the Sicilian fleet was strengthened especially in the 730s. Toward

the end of his reign, the Sicilian fleet came to overwhelm the Arab fleet in

the central Mediterranean.

In this way, the time of Leon III saw the Byzantine fleet gain a notable

victory over the Arab fleet. Leon III himself had a great interest

in the

Byzantine fleet. It was one of the main policies of the Byzantine emperors

in the seventh century to put more importance on the role of the fleet.

Tak-ing in consideration

that he was the last emperor who took over that

policy, we can call appropriately Leon III the last "soldier emperor of the

sea."

1.は じ め に レ オ ン3世(在 位717-741年)。 歴 代 の ビ ザ ン ツ 皇 帝 の 中 で も,特 に 著 名 な 人 物 で あ る 。 彼 が ビ ザ ン ツ 史 に 大 き な 足 跡 を残 し て い る理 由 は い くつ か 挙 げ ら れ る。 ま ず 第 一 に あ げ ら れ る の は,彼 が お そ ら く726年 に 開 始 し た 聖 像 画 崇 拝 弾 圧 の 政 策, い わ ゆ る イ コ ノ ク ラ ス ム で あ る 。 第 二 に,ビ ザ ン ツ 帝 国 の 政 治 不 安 を収 拾 し, 秩 序 を 回 復 した 皇 帝 と して も特 記 さ れ る べ き存 在 で あ る。7世 紀 末 以 来 レオ ン 3世 が 即 位 す る ま で の 約20年 もの 間,ビ ザ ン ツ 帝 国 の 政 情 は 大 き く混 乱 して い た 。 レ オ ン3世 は 即 位 す る 前,テ マ ・ア ナ ト リ コ ン の ス トラ テ ー ゴ ス(テ マ 長 官)の 職 に あ っ た が,テ マ ・ア ル メ ニ ア コ ン の ス ト ラ テ ー ゴ ス で あ っ た ア ル タ バ ス ドス と同 盟 し て 安 定 し た 政 権 を 作 り上 げ,帝 国 内 の 混 乱 を 収 拾 し た の で

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あ る 。 そ して 最 後 に,当 時 絶 頂 期 を 迎 え て い た ア ラ ブ との 戦 争 に よ っ て も,レ オ ン 3世 は 後 世 に 名 を 残 して い る。 彼 は 即 位 直 後 の 第2次 コ ンス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 包 囲(717-718年)の 陣 頭 指 揮 を と り,ア ラ ブ 軍 を コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル か ら 撃 退 す る こ と に 成 功 した 。 ま た 治 世 末,740年 の ア ク ロ イ ノ ン に お け る戦 勝 も, ア ラ ブ に 対 す る軍 事 的 な 成 功 を示 す もの と して,従 来 か ら注 目 さ れ て き た 。 こ う した 軍 事 面 で の 成 功 や,彼 が 即 位 前 に ア ナ ト リ コ ン の ス ト ラ テ ー ゴ ス で あ っ た こ と か ら,レ オ ン3世 は 有 能 な 軍 人 で あ っ た と い う イ メ ー ジ が 強 い 。 だ が,彼 の 経 歴 を分 析 す る と,こ の 「有 能 な 軍 人 」 と い う イ メ ー ジ と は い く ぶ ん 異 な る レ オ ン3世 像 が 浮 か び 上 が っ て く る 。 レ オ ン3世 の 経 歴 と し て 現 在 認 め られ て い る の は,9世 紀 の 年 代 記 作 者 テ オ フ ァ ネ ス の 記 述 で あ る。 テ オ フ ァ ネ ス に よ る と,レ オ ン は ユ ス テ ィ ニ ア ノ ス2世(在 位685-695,705-711年) に よ っ て 取 り立 て られ,コ ー カ サ ス 地 方 へ 派 遣 さ れ て い る 。 こ の 派 遣 は コ ー カ サ ス 諸 国 との 外 交 交 渉 と い う 印 象 が 強 い 。 そ の 後 レ オ ン は ア ナ ス タ シ オ ス2世 (在位713-715年)に よ っ て ア ナ ト リ コ ン の ス トラ テ ー ゴ ス に 任 命 さ れ る 。そ し て 当 時 コ ンス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 攻 略 を め ざ し て 小 ア ジ ア に侵 入 しつ つ あ っ た ア ラ ブ 軍 と対 峙 す る 。 だ が こ の 時 も交 渉 に よ っ て,レ オ ン は ア ラ ブ 軍 と の 全 面 衝 突 を 巧 み に 回 避 す る 。そ して テ オ ドシ オ ス3世(在 位715-717年)に 反 旗 を 翻 し た 際 も,最 終 的 に は 交 渉 に よ っ て コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル に 無 血 入 場 し,即 位 し て い る 。 第2次 コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 包 囲 の 後,レ オ ン3世 が 自 ら軍 を 率 い る こ と は ほ と ん どな くな る 。 わ ず か に ア ク ロ イ ノ ン の 戦 い の 際 に,レ オ ン3世 も 息 子 の コ ン ス タ ン テ ィ ノ ス5世(在 位741-775年)と と も に 自 ら小 ア ジ ア に進 出 し て い る 。 だ が ア ク ロ イ ノ ン の 戦 い が 起 き た の は レ オ ン3世 の 最 晩 年 で あ り,す で

に高 齢 だ っ た と思 わ れ る レオ ン3世 が 実 際の 戦 い で どれ,ほどの役 割 を果 たす こ

とが で きた か に は疑 問符 が つ く。

この よ うな レオ ン3世 の 経歴 か ら,彼 が きわめ て有 能 な戦 略 家 で あ り,外 交

交渉 の場 にお い て卓 抜 した才 能 を発 揮 した こ とは明 らか とな る。 だが反 面,こ

れ らの情 報 か らで は現 実 の戦 い の 際の 彼 の指 揮 能 力 につ いて判 断 がで きな い こ

とも確 かで あ る。

レオ ン3世 の軍 事 的 才 能 を推 しは か る こ との で きるほ とん ど唯一 の例 が,第

20

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2次 コ ンス タ ンテ ィノ ープ ル 包 囲 で あ る。 先 述 した よ うに彼 は 防衛 戦 の 陣頭 指

揮 を とっ て ア ラブ軍 の撃 退 に成功 して い る。 だ が こ の際 注 意 すべ き点 が あ る。

それ は,彼 の指 導 力 が発 揮 され た の は,首 都 近 海 に お け る戦 い,す な わ ち海 戦

だ った こ とで あ る。彼 は ア ラブ艦 隊 に繰 り返 して大 きな打 撃 を与 えて,ア ラブ

軍 の 補 給 路 を 断 つ こ と に 成 功 した 。 他 方 陸 上 に お い て は 守 り を 固 め る の み で, レ オ ン3世 は ア ラ ブ の 陸 上 兵 力 と正 面 か ら戦 お う と は し な か っ た 。 ア ラ ブ の 陸 上 兵 力 と 直 接 戦 っ た の は レオ ン3世 の 要 請 に よ っ て 南 下 して き た ブ ル ガ リ ア 軍 だ っ た 。 こ こ で も,レ オ ン3世 の 外 交 交 渉 が 大 き な 意 味 を 持 っ て い る。 こ の コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 包 囲 に つ い て の 報 告 か ら は,レ オ ン3世 の 行 動 に加 え て 明 ら か に な る 点 が も う一 つ あ る。 ビ ザ ン ッ 艦 隊 の 活 発 な 活 動 で あ る 。 コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 包 囲 の 際 だ け で は な い 。 彼 の 時 代,ビ ザ ン ツ 艦 隊 は シ リア ・エ ジ プ ト沿 岸 部 で 活 発 な 活 動 を行 っ て シ リア ・エ ジ プ ト に大 き な ダ メ ー ジ を与 え た 。 ま た ビ ザ ン ツ 艦 隊 は 東 部 地 中 海 の み な らず,イ タ リア 方 面 で も活 動 して い る 。 そ れ に 加 え て 後 述 す る よ う に レオ ン3世 時 代 に は,テ マ ・キ ビ ュ ラ イ オ タ イ の 設 置 に 代 表 さ れ る よ う に,ビ ザ ン ツ艦 隊 の 構 成 に 大 き な 変 更 が 加 え ら れ て い る 。 か つ て レ オ ン3世 は,小 ア ジ ア の テ マ ・ア ナ ト リ コ ンの 分 割 を

実 行 した皇 帝 で あ る とされ て きた。 だ が近 年,こ の説 は ほぼ否 定 され てお り,

陸 の テ マ に対 す る改変 は コ ンス タ ンテ ィノ ス5世 の時 代 を待 た な け れ ば な らな

い とす る見 解 が 通説 とな って い る。 つ ま りレオ ン3世 時 代 の大 規 模 な制 度上 の

変 更 は,艦 隊 に対 しての み行 われ たの で あ る。

この よ うに,レ オ ン3世 は艦 隊 や そ れ に付 随 す る制 度 な どの 問題 に深 く関与

した皇 帝 で あ る こ とが確 認 で き る。 だ が これ まで,レ オ ン3世 と艦 隊 との 関係

に大 きな注 意 が 払 わ れ る こ とは ほ とん どな か った 。 それ は レオ ン3世 に関連 す

る研 究 が イ コ ノ ク ラス ムや そ れ に付 随 す る問題(ロ ーマ 教皇 との 関係 な ど)を

中心 と して,進 め られ て い るか らで あ る。 軍 事 面 に 関係 す る研 究 が 全 く行 われ

て い な いわ け で はな い が,そ れ も中心 は小 ア ジア に お け る陸上 兵 力 に関 す る も

の で あ る 。 無 論,艦 隊 に 関 す る 問 題 が 完 全 に 看 過 さ れ て き た わ け で は な い 。 古 く はJ.B. ビ ュ ア リが,レ オ ン3世 や そ の 後 継 者 が 政 治 的 理 由 か ら ビ ザ ン ツ 艦 隊 を 弱 体 化 させ た と指 摘 し て い る 。ビ ュ ア リの 見 解 は そ の 後A.R.ル イ ス やH.ア ル ヴ ェ レ ー ル ら に よ っ て 修 正 が 加 え られ ,レ オ ン3世 時 代 に は ビザ ンツ艦 隊 の 弱体 化 は

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確 認 で き な い こ と が 明 ら か に な っ た 。 と は 言 え,こ れ ら の 研 究 の 目 的 は ビ ザ ン ツ 帝 国 に お け る 艦 隊 の 展 開 に 関 す る概 観 で,レ オ ン3世 時 代 の ビ ザ ン ッ艦 隊 に 関 して 踏 み 込 ん だ 議 論 を行 っ て い る わ け で は な い 。 よ り具 体 的 な 問 題 に 関 して は,テ マ ・キ ビ ュ ラ イ オ タ イ の 成 立 時 期 に 関 す るM.グ リ ゴ リ ウ ー=ヨ ア ニ ド ゥ ー の 研 究 や,テ マ ・キ ビ ュ ラ イ オ タ イ の 名 前 の 由来 に 関 す るP.A.ヤ ン ノ プ ー ロ ス の 考 察,そ し てA.G.C.サ ヴ ィ デ ス に よ る,ビ ザ ン ツ 艦 隊 に 関 係 す る 人 物 の プ

ロ ソ ポグ ラフ ィー な どが あ る。 だ が これ ら も レオ ン3世 時代 の 艦 隊 の 動 向 に焦

点 を 当 てた もの で はな い 。要 す る に現在 まで,艦 隊 との 関係 に着 目 して レオ ン

3世 の 治 世 を分 析 した 研 究 は ほ とん どな い。

レオ ン3世 は どの よ う に艦 隊 を利 用 して い こ う と して い たの か。 そ して レオ

ン3世 の時代 の ビザ ン ツ帝 国 に お いて,海 上 兵 力 は どの よう な意 味 を持 っ て い

た の か。 これ らの点 の 解 明 が本 稿 の 課題 とな る。 また 旧稿 で 指 摘 した よ うに,

7世 紀 の ビザ ンツ 帝国 は海上 兵 力 を巧 み に利 用 す る こ とに よ っ て,ア ラブ との

戦 い を有 利 にす す め よ う と して い た。 ゆえ に本 稿 で は,こ う した政策 が レオ ン

3世 の時 代 に どの よう に継承 され たの か とい う点 を も念 頭 に置 いて,検 討 を行

って い くこ とにな る。

II.ビ ザ ンツ帝 国の艦 隊(7-8世

紀 初 頭)

本 章 で は レオ ン3世 が即 位 す る までの ビザ ンツ艦 隊 の展 開 につ い て概観 を行

う。

7世 紀初 頭 まで は,ビ ザ ン ッ帝 国 は本格 的 な艦 隊 を常備 して はい な か った 。

これ は,一 時 期 を除 い て地 中海 に大 きな脅威 が存在 しな か っ たか らで あ る。7

世 紀 前 半 のサ サ ン朝 ペル シ ア との戦 争 に際 して も,サ サ ン朝 が 地 中海 に本格 的

な艦 隊 を投 入 しなか った こ と もあ り,ビ ザ ンツ帝 国 も艦 隊 を積極 的 に活 用 しよ

う とは しな か っ た。

ビザ ンツ帝 国 が地 中海 にお い て艦 隊 を活 用 して い くよ うに な るの は630年 代

以 降 で あ る。 ヤル ム ー ク 河畔 の戦 い な どで シ リアの 喪 失 が決 定 的 にな った後 も,

カ イ サ レ イ ア や ア ス カ ロ ン と い っ た 沿 岸 部 の 諸 都 市 は 抵 抗 を 続 け て い た 。 周 囲 か ら孤 立 状 態 に な りな が ら も こ れ ら の 都 市 が 抵 抗 を継 続 で き た の は,地 中 海 か らの 後 方 補 給 が 続 い て い た か ら に ほ か な らな い 。 す な わ ち,ビ ザ ン ツ 帝 国 が シ リア 近 海 に艦 船 を送 っ て い た の で あ る。 ま た ヘ ラ ク レ イ オ ス(在 位610-641年)

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の 治 世 末 期 か ら コ ン ス タ ン ス2世(在 位641-668年)の 治 世 初 期 に は,同 じ く ア ラ ブ の 攻 撃 に さ ら さ れ て い た エ ジ プ トへ 派 遣 さ れ る艦 隊 が 準 備 さ れ,実 際 に645 年 に エ ジ プ トに 派 遣 さ れ て い る。 こ れ に対 し て ア ラ ブ は,640年 代 末 に シ リア 総 督 の ム ア ー ウ ィ ア の も と,艦 隊 を建 設 して 地 中 海 に 進 出 した 。そ して ム ア ー ウ ィ ア が カ リ フ と な っ た660年 代 以 降,ア ラ ブ 艦 隊 は ム ア ー ウ ィ ア の ビ ザ ン ツ 帝 国 攻 略 作 戦 で 大 き な 役 割 を 果 た し て い く。 ア ラ ブ 艦 隊 は 地 中 海 の み な らず エ ー ゲ 海 の 奥 深 くに まで 侵 入 し,674-78年 の 第1次 コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 包 囲 の 際 も,ア ラ ブ 艦 隊 は 攻 撃 軍 の 中 核 と して コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル を 激 し く攻 撃 し た 。 コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 攻 撃 の 失 敗 後 も,ア ラ ブ 艦 隊 は679-680年 に 一 時 ロ ー ドス 島 を 制 圧 す る な ど,活 発 な 活 動 を続 け て い た 。 ム ア ー ウ ィ ア の 時 代,ア ラ ブ 軍 の 攻 撃 の 主 力 は,小 ア ジ ア に 攻 撃 を 行 う 陸 上 兵 力 よ り,艦 隊 だ っ た と言 っ て も過 言 で は な い 。 こ れ に 対 して ビ ザ ン ツ 帝 国 も 強 力 な艦 隊 を も っ て ア ラ ブ 艦 隊 に 対 抗 した 。 東 部 地 中 海 域 の ビ ザ ン ツ 艦 隊 は7世 紀 後 半,コ ンス タ ン テ ィ ノ ス4世(在 位668-685年)の 時 代 に な る と カ ラ ビ シ ア ノ イ の 名 称 で い くつ か の 資 料 に 言 及 さ れ る よ う に な る。 カ ラ ビ シ ア ノ イ の 成 立 に 関 して は い くつ か の 考 察 が 行 わ れ て い る が, 6世 紀 に 設 置 さ れ たQuaestura Exercitusの 残 存 部 分 を コ ンス タ ン ス2世 が 再

編 成 して 成立 した とす る見 解 が最 も説 得 力 に富 む 。 カ ラ ビシ ア ノ イ は恐 ら くサ

モ ス 島 を拠 点 と して,シ

リア ・エ ジプ ト方面 か ら襲 来 す るア ラブ 艦 隊 とエ ーゲ

海 ・東 部地 中海 海 域 で 直接 対 峙 して い た。

カ ラ ビ シア ノ イ は中 部地 中海 方 面 に も活 動範 囲 を広 げ て い る。697年には カル

タ ゴ救 援 の た め,カ ラ ビ シ ア ノ イ が 派 遣 され て い る。 ま た710年 に は,コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル を 訪 問 す る ロ ー マ 教 皇 コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス(在 位708-715年)の 送 迎 の た め,カ ラ ビ シ ア ノ イ が 出 動 し て い る。 さ ら に9世 紀 に 成 立 した 『ゲ オ ル ギ オ ス 年 代 記 』 な ど に よ る と,皇 帝 位 に つ く前 の レ オ ン3世 も南 イ タ リ ア に 艦 隊 を率 い て 派 遣 さ れ て い るが,こ れ もカ ラ ビ シ ア ノ イ だ ろ う 。 一 方 中 部 ・西 部 地 中 海 方 面 で は,コ ン ス タ ン ス2世 に よ っ て シ チ リア 島 を根 拠 と す る 艦 隊 が 設 置 さ れ た 。 旧稿 で 指 摘 して い る よ う に,こ の 艦 隊 は カ ル タ ゴ を 中 心 とす る,北 ア フ リカ に な お 残 され て い た ビ ザ ン ツ 帝 国 領 を後 方 か ら支 援

す る役 割 を果 た して いた 。 シ チ リア 島 は,7世

紀 末 にテマ とな る。 そ してカル

タ ゴ陥落(698年)後

は北 ア フ リカ の ア ラブ に対 峙 す る最 前 線 基地 と しての性 格

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を持 つ よ う に な っ て い く。 以 上 要 す る に,7世 紀 の ア ラ ブ の 勃 興 以 降,ビ ザ ン ツ 帝 国 は地 中 海 で 艦 隊 を 対 ア ラ ブ 戦 争 に 活 用 す る よ う に な っ た 。 だ が ム ア ー ウ ィ ア の も と,ア ラ ブ も艦 隊 を 設 置 して 地 中 海 に 進 出 して くる と,ビ ザ ン ツ 帝 国 と ア ラ ブ は 地 中 海 で も激 しい 戦 い を繰 り広 げ る よ う に な っ た 。 そ して8世 紀 初 頭 ま で に,カ ラ ビ シ ア ノ イ と シ チ リア 島 の 艦 隊 が,東 部 地 中 海 と 中 部 地 中 海 で そ れ,それ ア ラ ブ 艦 隊 に 対 峙 す る 体 制 を と る よ う に な っ て い た 。 III.レ オ ン3世 と艦 隊=エ ー ゲ 海 ・東 部 地 中 海 本 章 で は,レ オ ン3世 時 代 の エ ー ゲ 海 ・東 部 地 中 海 方 面 の 状 況 を 概 観 し た上 で,こ の 地 域 を管 轄 し て い た 艦 隊 の 動 向 に つ い て 分 析 を行 う。 ム ア ー ウ ィ ア の 没 後 ア ラ ブ で は 内 戦 が 起 き,し ば ら く国 情 が 混 乱 す る 。 だ が ア ブ ド ・ア ル ・マ リ ク(在 位685-705年)に よ っ て 内戦 が 収 拾 さ れ る と,再 び ビ ザ ン ツ 帝 国 へ の 攻 撃 が 再 開 さ れ る。ア ラ ブ の 攻 勢 は ワ リー ド1世(在 位705-715 年)の 時 代 に も 続 い た 。 こ の7世 紀 末 か ら の ア ラ ブ の 攻 勢 は,ム ア ー ウ ィ ア の 時 代 と は 異 な っ て,小 ア ジ ア に 侵 入 す る 陸 上 兵 力 が 中 心 とな っ て い た 。640年 代 以 降 ビ ザ ン ツ 帝 国 は 小 ア ジ ア 東 部 国 境 で の ア ラ ブ の 攻 勢 を 食 い 止 め る こ と に 一 応 成 功 して い た 。 だ が695年 の ユ ス テ ィニ ア ノ ス2世 の 失 脚 以 降 ビ ザ ン ツ 帝 国 の 政 治 は 大 き く混 乱 し た 。 そ の た め 小 ア ジ ア の 防 衛 シ ス テ ム は 一 時 的 に 混 乱 し, 特 に710年 代 の ア ラ ブ の 攻 勢 を 助 け る結 果 とな っ て し ま っ て い た 。こ う し た 動 き の 結 果 が,第2次 コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 包 囲 で あ っ た 。 そ の 一 方 で ア ラ ブ 艦 隊 の 活 動 は ム ア ー ウ ィ ア 時 代 と は 異 な っ て,補 給 活 動 な どの 補 助 的 な 役 割 が 中 心 と な っ て い た 。715年 に ア ラ ブ 艦 隊 は 建 艦 に 必 要 な 木 材 を 奪 う た め,小 ア ジ ア 南 岸 部 に 接 近 して き て い る 。 こ れ は,コ ンス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 攻 撃 の た め の 艦 隊 の 建 設 が,そ の 実 行 の 直 前 ま で 遅 れ て い た こ と を示 唆 して い る。 第1次 包 囲 の 際 に,ビ ザ ン ツ 艦 隊 に 先 ん じ て ア ラ ブ 艦 隊 が 装 備 し て

い た可 能性 が 指摘 され て い る 「ギ リシア の火 」 も,第2次

包 囲の 際 の ア ラブ 艦

隊 は装備 して いな か っ た よ うで あ る。 こ れ も,第1次

包 囲 と第2次 包 囲 との ア

ラブ艦 隊 の位 置づ け の違 い を示 して い る。

東 部地 中海 域 にお け るア ラブ 艦 隊 の活 動 が 消極 的 に なっ た こ と もあ り,カ ラ

ビ シア ノ イ は攻 勢 に転 じる こ とが 可 能 に な った。 すで に7世 紀 か ら,ビ ザ ンッ

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艦 隊 は シ リア ・エ ジプ トの 沿 岸 部 を攻 撃 ・略 奪 して い た。 同様 の 攻 撃 はア ナ ス

タ シオ ス2世 時代 に も行 われ,さ

らに レオ ン3世 時 代 に も繰 り返 して 行 わ れ て

い る 。9世 紀 の あ る ア ラ ブ 資 料 に よ る と,ヒ シ ャ ー ム(在 位724-743年)時 代 に ビ ザ ン ツ 軍 が シ リア の ヒ ム ス 地 方 に上 陸 した と い う報 告 が 伝 わ っ た 際 に は,シ

リア の広 範 な地 域 がパ ニ ック に陥 った とい う。 これ は ビザ ン ツ艦 隊 に よ るシ リ

ア沿 岸 部 の攻 撃 が シ リア沿 岸 部 に とっ て大 きな,そ

して恒 常 的 な 脅 威 とな っ て

い た こ と を示 唆 して い る。 実 際 シ リア沿 岸 部 の都 市 は ウマ イア朝 時代 に ビザ ン

ツ艦 隊 の攻 撃 に よ って 多 くが 破 壊 され,歴 代 カ リフ に よって 要塞 都 市 と して再

建 さ れ た こ とが,多 くの ム ス リム 資 料 か ら も確 認 で き る 。 ウ マ イ ア 朝 は 陸 上 で は 第2次 コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 包 囲 の 失 敗 後 も,特 に ヒ シ ャ ー ム 時 代 に は 毎 年 の よ う に 小 ア ジ ア に 侵 入 を 繰 り返 し て お り,727年 の よ う に コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル に もほ ど近 い ニ カ イ ア ま で 迫 る こ と もあ っ た 。 だ が 海 上 で は,ア ラ ブ は艦 隊 を 対 ビ ザ ン ツ 戦 争 に積 極 的 に利 用 しな くな っ て い

た 。 ビザ ン ツ艦 隊の 攻 撃 に対 して も,ア ラブ は基 本 的 に は沿 岸部 の 警戒 と防衛

体 制 の強 化 で対 応 す る。 ム ア ー ウ ィア 時代 とは異 な っ て,ア ラブ艦 隊 は東 地 中

海 で は ビザ ン ッ艦 隊 に対 して完 全 に守 勢 に 回 る。 そ の ため レオ ン3世 時 代 に は,

東 地 中海 で は ビザ ンッ艦 隊 に優 位 な状 況 が現 出 して い た。 こ う した状 況 は,最

終 的 には747年 の キプ ロス 島沖 の 海戦 での勝 利 で決 定 的 に な っ て い く。

一 方

,カ ラ ビ シア ノ イ は7世 紀 末 ∼8世 紀 初 頭 の ビザ ン ツ帝 国 の政 情 が 混 乱

した時期 に,政 情 の混 乱 の 大 きな要 素 に もな って い た。 す な わ ち この時 期,カ

ラ ビ シア ノ イ は陸 の テマ で あ るオプ シキ オ ン とと もに,政 権 交代 を リー ドす る

役 割 を繰 り返 して 演 じて い た。 テマ ・オプ シ キオ ンが政 権 交代 に果 た した役割

に関 して は既 に い くつ もの考 察 が あ るが,カ ラ ビ シア ノ イ もこの 時期 は陸 上 に

お け るオ プ シ キオ ン と同様,海 上 にお け る中央 軍 的 な役 割 を持 って い た。 この

よ うなカ ラ ビ シ ア ノイ の地 位 や,帝 国 東 方領 域 にお け る唯 一 の海 上 兵 力 とい う

こ と も相俟 っ て,カ ラ ビシ ア ノイ は反 乱勃 発 の大 きな要 因 とな って い た。 そ し

て この よ うな 国 内の 混乱 は,対 ア ラブ 戦 争 に も大 きな影 を落 と して い た。

ゆ え に皇 帝位 につ い た レオ ン3世 に は,自 己の政 権 の 安 定化 の た め,そ して

対 ア ラブ戦 争 の体 制 を再 確 立 す るため,オ プ シ キオ ン とカ ラ ビ シア ノ イ に対 し

て何 らか の 方策 を講 じる緊 急 の 必要 性 が あ っ た。 そ してオ プ シ キ オ ンに対 して

は,盟 友 で あ る ア ル タバ ス ドス を オ プ シ キ オ ン の コ メ ス に任 じ る こ とで 対 処 し

(9)

た 。 こ れ は レ オ ン3世 の 没 後,ア ル タバ ス ドス と コ ン ス タ ン テ ィ ノ ス5世 が 帝 位 を 巡 っ て 激 し く争 う こ と に な る こ とか ら も 明 らか な よ う に,問 題 の 根 本 的 な 解 決 に は な ら な か っ た 。 だ が 少 な く と も レ オ ン3世 の 時 代 に は,こ の 方 策 に よ っ て オ プ シ キ オ ン は719年 以 降 反 乱 に 関 与 しな くな る。 一 方 カ ラ ビ シ ア ノ イ に対 して レ オ ン3世 が と っ た 方 策 は ,カ ラ ビ シア ノイ の 分 割 で あ っ た 。 カ ラ ビ シ ア ノ イ の 存 在 が 資 料 上 確 認 で き る下 限 は,先 述 し た710 年 の,教 皇 コ ン ス タ ン テ ィ ヌ ス の 送 迎 の 際 で あ る 。他 方732年 に は カ ラ ビ シ ア ノ イ が 分 割 さ れ,て成 立 した テ マ ・キ ビ ュ ラ イ オ タ イ の ス トラ テ ー ゴ ス が 言 及 さ れ る 。す な わ ち カ ラ ビ シ ア ノ イ は710-732年 の 間 に 分 割 さ れ た こ と に な る が,レ オ ン3世 の 即 位 ま で 帝 国 が 混 乱 状 態 に あ っ た こ と を 考 慮 す る と,カ ラ ビ シ ア ノ イ が 分 割 され た の は レ オ ン3世 時 代 で あ る と考 え て よ い だ ろ う。 こ の 間,726/7年 に ヘ ラ ス と キ ク ラ デ ス で 反 乱 が 起 き,艦 隊 が コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル を攻 撃 す

るが 失敗 に終 わ って い る。 この うち キ ク ラデ ス は カ ラ ビシ ア ノ イの 管轄 区域 内

と な る が,こ の 時 点 で カ ラ ビ シ ア ノ イ が 分 割 され て い た か は 明 確 に は わ か ら な い 。

カ ラ ビシ ア ノ イが分 割 され た 理 由 と して は,ア ラブ の攻 勢 に効 果 的 に対 処 で

き な か っ た か ら とい う説 明 も可 能 だ が,こ れ だ け を 理 由 と し て 分 割 が 行 わ れ た と は 考 え に く い 。 先 述 し た よ う に ア ラ ブ 艦 隊 の 活 動 は既 に 停 滞 して お り,大 き な 脅 威 で は な く な っ て い た か ら で あ る 。 む し ろ 分 割 の 要 因 と して 第 一群に あ げ る べ き は,カ ラ ビ シ ア ノ イ が オ プ シ キ オ ン と 同 様,政 情 を不 安 定 化 させ る 大 き な 要 因 とな っ て い た 点 で あ る 。 だ が,こ れ で も説 明 は不 十 分 で あ る 。 な ぜ な ら, 同 じ く皇 帝 に と っ て の 脅 威 で あ っ た オ プ シ キ オ ン が,レ オ ン3世 時 代 に は 分 割 さ れ て い な い か らで あ る。 カ ラ ビ シ ア ノ イ は な ぜ,オ プ シ キ・オ ン に 対 す る ア ル タ バ ス ドス の よ う な,信 頼 で き る 人 物 に 委 ね る と い う 方 策 で は な く,分 割 策 が と ら れ た の だ ろ うか 。 こ の 理 由 は,先 述 した 当 時 の 対 ア ラ ブ 戦 の 状 況 か ら 説 明 で き る 。 第2次 コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 包 囲 の 後 も,ア ラ ブ の 陸 上 兵 力 は 連 年 の よ う に 小 ア ジ ア に 侵 入 し て い た 。 この よ う な 状 況 下 で は,オ プ シ キ オ ン の 分 割 を 行 う こ と は で き な か っ た 。 オ プ シ キ オ ン,ア ナ ト リ コ ン,ア ル メ ニ ア コ ン,ト ラ ケ シ オ ン と い う4つ の 陸 の テ マ に よ る小 ア ジ ア の 防 衛 シ ス テ ム は7世 紀 以 来 有 効 に 機 能 し て お り,R.-J.リ ー リエ らが 指 摘 し て い る よ う に,テ マ の 分 割 は 小 ア ジ ア の 軍 事 ・

(10)

防 衛 シ ス テム の 弱体 化 に直 結 す るか らで あ る。 つ ま りア ラブ が な お 間 断 な く攻

撃 を続 け て いた レオ ン3世 時代 の小 ア ジア で は,オ プ シ キオ ンの軍 事 力 を細 分

化 す る とい う選択 は不 可 能 だ った。

そ れ に対 して,海 上 で はム ア ー ウ ィアの没 後 ア ラブ 艦 隊 の 活動 は停 滞 した。

さ らに 第2次 コ ンス タ ンテ ィ ノープ ル 包 囲 で ア ラ ブ艦 隊 は大 きな打 撃 を受 け る。

レオ ン3世 時 代 には,東 部 地 中海 域 で は陸上 とは異 な って ビザ ンツ の優 位 が確

立 して お り,ア ラブ艦 隊の 脅 威 は過 去 の もの とな っ て いた 。 こ う した状 況 で は

内政 の不 安 定 要 因 と もな り うる,カ ラ ビ シア ノ イ を維 持 して お く必 要 性 は もは

や なか った。 カ ラ ビ シア ノ イ を分 割 して艦 隊 を細 分 化 して も,弱 体 化 した ア ラ

ブ 艦 隊 に充分 対 応 で き る よ うにな っ て いた か らで あ る。 要 す るに カ ラ ビ シ ア ノ

イ に対 して は,オ プ シキ オ ンに対 して とは異 な っ て,反 乱 や 陰謀 に対 す る本 質

的 な対 応 が 可能 な状 況 が生 まれ て い た。

カ ラ ビ シア ノ イの分 割 の結 果,小 ア ジア 南 岸部 に テマ ・キ ビュ ラ イオ タ イが,

そ してエ ー ゲ海 か らマ ル マ ラ海 に コル ポス,エ ー ゲ海,ド デ カ ネ ソ スの3ド

ル ンガ リオ ス管 区が 設 置 され る。 これ らの うち,テ マ ・キ ビュ ラ イオ タイ が最

も規 模 が 大 きか っ た。 これ は シ リア ・エ ジプ トの ア ラブ艦 隊 と直 接 対 峙 す る と

い う地 理 的 要 因 ゆ えで あ る。 他 方3ド

ゥル ンガ リオス 管 区 の艦 隊 は キ ビ ュ ライ

オ タ イ に比 べ て小 規 模 な もので あっ た。 コ ンス タ ンテ ィ ノープ ル に近接 す る地

域 に大 規 模 な艦 隊が 不在 とな る ため,政 治 の不 安定 要 因 の 除去 に もつ な が っ た

だ ろ う。

以上 要 す る に,7世

紀 以来 帝 国 の東 方 領 域 唯一 の艦 隊 で あ った カ ラ ビシ ア ノ

イ は,レ オ ン3世 の時 代 に4分 割 され た。 この要 因 と して は,7世

紀末 以 来 カ

ラ ビシ ア ノ イが政 権 交 代 に際 して 主導 的 な役 割 を果 たす こ とが 繰 り返 され,内

政 の不 安 定 要 因 とな っ てい た こ とに加 えて,ム ア ー ウ ィア の時代 とは異 な って

海上 で の ア ラブ艦 隊 の活 動 が停 滞 す る よう にな っ た ため,艦 隊 を細分 化 して も

海上 か らの ア ラブ の 脅威 に対 応 可 能 に な った こ とが 挙 げ られ る。 カ ラ ビシア ノ

イ と同 じ く内政 の不 安 定 要 因 だ った オプ シキ オ ンに対 す る方策 との違 い は,陸

上 と海 上 にお け る対 ア ラブ戦 の状 況 の違 い を反 映 して い た ので あ る。

IV.レ

オ ン3世 と艦 隊:シ チ リア

コ ンス タ ンス2世 が支 配 の拠 点 と して以 降,シ チ リア 島 は帝 国 西 方部 にお け

(11)

る 拠 点 と して 重 視 さ れ て き た 。 シ チ リア は7世 紀 末 に テ マ に 再 編 さ れ る が,そ の ス ト ラ テ ー ゴ ス は早 い 時 期 か らバ ト リキ オ ス の 爵 位 を持 つ 人 物 が 派 遣 さ れ る こ とが 多 い 。 同 時 代 の ス トラ テ ー ゴ ス の 大 半 が バ ト リキ オ ス よ り地 位 の 低 い ヒ ュ パ トス や ス パ タ リオ ス の 爵 位 を持 っ た 人 々 で あ っ た こ と を考 え る と,シ チ リ

アが 中央 政 府 か ら も重視 され て いた地 点 だ っ た こ とが確 認 で きる。

その 一 方,6世

紀 以来 ビザ ン ツ帝 国 の イ タ リア支 配 の 中心 で あ った ラヴ ェ ン

ナ の地 位 は低 下 し,730年 代 まで に は ラ ヴ ェ ンナ 総督 に よ るイ タ リア 北 中 部 支

配 は事 実上 崩 壊 した。 その 直 接 の きっ か け とな っ た の は720年 代 の イ タ リア に

お け る課 税 強化 の決 定 で あ る。 この決 定 に対 して教 皇 を始 め とす るイ タ リア の

人 々が 反抗 し,そ の 結 果 イ タ リア北 中 部 に お け る ラヴ ェンナ 総 督 の権 威 は 完全

に失 墜 し た 。ま た732年 頃 に は ラ ン ゴバ ル ド王 の リ ュ ー トプ ラ ン ド(在 位712-744 年)に よ っ て ラ ヴ ェ ン ナ 自体 が 一 時 ラ ン ゴバ ル ド王 国 に 制 圧 さ れ る事 件 も起 き て い る 。 そ れ に 伴 い,帝 国 の 西 方 領 域 に お け る シ チ リ ア 島 の 地 位 は さ ら に 高 ま っ て い く。732/33年 頃 に レオ ン3世 は 南 イ タ リア ・シ チ リア ・イ リ リク ム の 教 会 管 轄 権 を ロ ー マ か ら コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル に 移 管 す る。 こ れ はTh.F.X.ノ ー ブ ル が 指 摘 して い る よ う に,イ タ リア 北 中 部 に お け る 実 効 支 配 を あ き らめ,シ チ

リア ・南 イ タ リア に お け る権 益 の維 持 を 目的 と した措 置 と理解 で きる。

この よう に,レ オ ン3世 時 代 に シチ リア 島 は ラヴ ェンナ に代 わ る ビザ ンツ 帝

国 の西 方 の 中心 と しての地 位 を確 立 した。 その た め,シ チ リア 島の維 持 は 帝 国

に とっ て も重 要 な課 題 とな っ た。 この 時期,イ

タ リア南 部 や シ チ リア 島 内部 に

は,シ チ リア 島 の ビザ ンツ支 配 を脅 か す ような 強大 な勢 力 は存 在 して い な か っ

た 。 そ の た め シ チ リ ア 島 に お い て も,そ の 支 配 の 脅 威 とな る存 在 は,第 一 に ア ラ ブ で あ っ た 。 698年 に カ ル タ ゴ を 制 圧 した ア ラ ブ は,700年 に チ ュ ニ ス 市 を 建 設 し,チ ュ ニ ス を拠 点 とす る新 た な 艦 隊 の 建 設 に着 手 し た 。 こ の 艦 隊 は 中 部 ・西 部 地 中 海 域

で す ぐに活 発 な 活動 を開始 し,第2次

コ ンス タ ンテ ィノープ ル 包 囲 に も艦 隊 を

派 遣 して い る 。 先 述 し た よ う に,8世 紀 に は教 皇 コ ンス タ ン テ ィヌ ス の コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 訪 問 や レオ ン の 南 イ タ リ ア 遠 征,そ して732年 の キ ビ ュ ラ イ オ タ イ艦 隊 の イ タ リア 派 遣 な ど,カ ラ ビ シ ア ノ イ ・キ ビ ュ ラ イ オ タ イ艦 隊 の イ タ リ ア に お け る

(12)

活 動 が繰 り返 して確 認 で きる。 これ は,本 来 東 部 地 中海 方面 を管 轄 して い る カ

ラ ビ シア ノ イ ・キ ビ ュ ライ オ タ イ艦 隊 の活 動 区 域 が,イ タ リア半 島周 辺 に まで

及 んで いた こ とを示 す 。 そ して これ は 同時 に,シ チ リア の艦 隊 が イ タ リア半 島

本 土 にお け る軍 事 行 動 には直 接 に は関 与 して い なか った こ とを示 唆 す る。 す な

わ ち シチ リア艦 隊 は,イ フ リー キー ヤ(北 ア フ リカ)の ア ラブ 艦 隊 との 対 峙 に

忙 殺 され て い た可 能 性 が 高 い。

イ フ リー キ ーヤ 艦 隊 は720年 代 か ら730年 代 にか けて最 も活 発 に活 動 し,シ チ

リア 島や サ ル デ ィニ ア島 を中心 に,ビ ザ ンツ帝 国 の 西 方領 域 に活 発 な攻 撃 ・略

奪 を行 っ た 。特 に728年 に は イ フ リー キ ー ヤ 艦 隊 は シ チ リア の 中 心 都 市 で あ る シ ラ ク サ を 攻 撃 し,「 バ ト リ キ オ ス 」 を捕 え た とい う。 シ ラ ク サ は739年 に もア ラ

ブ艦 隊 の攻 撃 を受 け て い る。

だ が全 体 と して,シ チ リア ・サ ル デ ィニ ア 島 に対 す るイ フ リー キー ヤ艦 隊 の

攻 撃 は大 きな成 果 を収 め た とは言 い難 い 。 イ フ リー キー ヤ艦 隊 は シチ リア 島 の

制 圧 を 目指 して い た ものの,人 的資 源 が 不足 して い た こ と もあ って そ の 目標 を

達 成 す る こ とはで きず,局 地 的 ・一 時 的 な成 功 を積 み上 げ たの み で あ った 。 ま

た ビ ザ ン ッ 艦 隊 に よ る反 撃 も激 し く,特 に730年 代 に 入 る と一 時 的 な 成 功 も ほ と ん ど 得 ら れ な く な っ て い く。730年 代 に は シ チ リア 島 や サ ル デ ィ ニ ア 島 は735年 の サ ル デ ィ ニ ア 島 を例 外 と して,大 き な 被 害 を受 け る こ とが な くな る 。 こ れ は, 特 に730年 代 に 入 っ て か ら シ チ リア の ビザ ン ツ 艦 隊 の 補 強 が 進 ん で,イ フ リー キ ー ヤ 艦 隊 の 攻 撃 に 効 果 的 に 対 処 す る こ とが 可 能 に な っ た こ と を 示 して い る。 そ し て740年 代 以 降,イ フ リー キ ー ヤ 艦 隊 の 活 動 は停 滞 を 余 儀 な く さ れ る 。イ フ リ ー キ ー ヤ で740年 に 原 住 民 の ベ ル ベ ル 人 に よ る 大 反 乱 が 勃 発 し,長 期 にわ た っ て

混 乱 が続 いた か らで あ る。

以上 要 す る に,コ ンス タ ンス2世 の時 代 以来,ビ ザ ンツ 帝国 の 西 方領 域 にお

い て シ チ リア 島 の持 つ 重要 性 は高 くな っ てい た。 そ して レオ ン3世 の 時代 に は,

完 全 に政 治 的 意義 を喪 失 した ラヴ ェ ンナ に代 わ る帝 国 の西 方 支 配 の 中心 と して,

そ して8世 紀初 頭 以 来 活 発 な活 動 を続 け るイ フ リー キー ヤ艦 隊 に対 抗 す る拠 点

と して,そ の 重 要性 が さ らに高 まっ て い た。 レオ ン3世 の時 代 は,コ

ンス タ ン

ス2世 時 代 以 来 の シチ リア重 視 戦 略,換 言 す れ ば帝 国 西 方領 域 の 支 配体 制再 編

が 完 結 した時期 と言 え る。 こ う した状 況 下,シ チ リア艦 隊 もイ フ リー キ ーヤ艦

隊 に対 峙 す るた め,レ オ ン3世 に よっ て強 化 が進 め られ,特 に730年 代 以 降 はイ

(13)

フ リー キー ヤ艦 隊 の活 動 を摯 肘 す るこ とに成 功 して い く。 イ フ リー キ ー ヤ で反

乱 が起 きた こ と に も助 け られ,ビ ザ ンツ帝 国 は中部 地 中海 域 で もア ラブ に対 す

る優 位 を確 立 して い くので あ る。

V.お

わ り に

レオ ン3世 。 小 ア ジ ア を基 盤 とす る陸 の軍 人,と い うイ メ ー ジが 強 い が,実

際 に はカ ラ ビ シア ノ イ の分 割 に代 表 され る よう に,艦 隊 や 海 に関係 す る政 策 や,

シチ リア な ど帝 国 の 西 方領 域 に対 す る政 策 に深 く関与 した 皇 帝 で あ っ た。

こ う した政 策 は,基 本 的 に は先行 す る7世 紀 の 諸皇 帝 の政 策 を踏 襲 した もの

で あ る。小 ア ジ ア半 島 に お け る防衛 戦 略 と同様,地

中海 にお け る艦 隊 の積 極 的

活 用 とい う戦 略 は,ヘ ラ ク レイ オ ス時 代 の末 期 か らコ ンス タ ンス2世 時 代 にか

け て成 立 した もの で あ る。 カ ラ ビ シア ノ イの 分 割 も,こ の基 本線 を逸 脱 す る も

の で はな い。 西 方 領域 に お け る シチ リア 島重 視 の傾 向 も,コ ンス タ ン ス2世 の

方策 を継承 した もの で あ る。

旧稿 で分 析 した コ ンス タ ンス2世 に代 表 され る よ うに,7世

紀 の諸 皇 帝 は海

上 兵 力 を積 極 的 に利 用 して ア ラブ に対 抗 しよ う と して いた 。7世 紀 か ら8世 紀

前半 にか けて の諸 皇 帝 は,い わ ば 「

海 の軍 人 皇 帝」 とで も表 現 で きる よ うな政

策 を指 向 して い た。 ローマ ∼ ビザ ンツ 帝 国の 歴 史 の 中で,こ の よう に艦 隊 を重

視 し,海 上 兵 力 を積極 的 に利 用 した 時代 は他 には な い。上 述 したヘ ラ ク レイ オ

ス や コ ンス タ ンス2世 以外 で も,コ ンス タ ン テ ィノ ス4世 は 自 ら艦 隊 の指 揮 を

行 い,シ チ リア に 足 を踏 み 入 れ て い る。 ユ ス テ ィ ニ ア ノ ス2世 も艦 隊 を各 地 に 派 遣 し て い る し,ア ナ ス タ シ オ ス2世 も ま た,艦 隊 の 強 化 や 利 用 に 意 を注 い で い る 。 そ して レ オ ン3世 も,「 海 の 軍 人 皇 帝 」 の 一 人 に 数 え る こ とが で き る 。か つ て ビ ュ ア リが 艦 隊 の 弱 体 化 を 促 した と見 な した カ ラ ビ シ ア ノ イ分 割 も,当 時 の 東 部 地 中 海 域 の 状 況 に則 し た 現 実 的 な 政 策 で あ り,艦 隊 弱 体 化 の メ ル ク マ ー ル と見 な す の は 正 し くな い 。 さ ら に ビ ュ ア リ は,シ チ リア 島 に お け る ビザ ン ッ 艦 隊 の 動 向 を も見 逃 して し ま っ て い る。 こ れ に 対 して コ ンス タ ン テ ィ ノ ス5世 以 降 の 諸 皇 帝 は,基 本 的 に は 陸 上 兵 力 を 重 視 し,陸 上 兵 力 を もっ て 周 囲 の 脅 威 に 対 抗 す る 方 途 を 指 向 した 。 小 ア ジ ア 東 部 や バ ル カ ン 半 島 に 連 年 の よ う に 陸 の テ マ 軍 な ど を 率 い て 出 兵 し た コ ン ス タ ン テ ィ ノ ス5世 が そ の 典 型 的 な 例 で あ る。 そ して コ ン ス タ ン テ ィ ノ ス5世 以 降

(14)

の 諸 皇 帝 は,ニ ケ フ ォ ロ ス1世(在 位802-811年)を 除 く と,地 中 海 や 艦 隊 に 対 して 関 心 が 低 か っ た 。 皇 帝 が 自 ら艦 隊 を指 揮 す る こ と もな くな る 。 こ れ が9世 紀 の ク レ タ ・シ チ リ ア 島 の 喪 失 と,そ の 結 果 と し て の ム ス リム の 地 中 海 支 配 の 遠 因 に つ な が っ た こ と は 否 定 で き な い 。 陸 上 で は,ビ ザ ン ツ 帝 国 は レ オ ン3世 の 時 代 も な お,ア ラ ブ と激 し い 戦 い を 続 け ね ば な ら な か っ た 。 だ が 地 中 海 で は,レ オ ン3世 の 時 代 に は ア ラ ブ に対 し て 優 位 な 状 況 が 生 まれ て い た 。 そ し て こ の 地 中 海 こ そ が,イ タ リ ア 半 島 か ら コ ー カ サ ス 地 方 ま で 東 西 に 広 が る 帝 国 を 結 び つ け る 動 脈 で あ り,結 節 点 で も あ っ た 。 そ れ ゆ え ビ ザ ン ツ 艦 隊 は,帝 国 の 統 合,そ して 存 続 を保 証 す る 存 在 だ っ た と も言 え る 。7世 紀 以 降,レ オ ン3世 に い た る 諸 皇 帝 は,ビ ザ ン ツ 帝 国 に と っ て 地 中 海,そ して 艦 隊 の 持 つ 重 要 性 を 正 確 に 認 識 して い た 。 レ オ ン3世 は,「 海 の 軍 人 皇 帝 」 の 系 譜 に 連 な る最 後 の 皇 帝 だ っ た の で あ る 。 注 (1)Cf.中 谷功 治 「テマ 反 乱 とビザ ンツ 帝国― 『テマ=シ ス テム 』の展 開― 」『西洋 史 学 』 144(1986),22-40(以 下,中 谷(1986)と 略),27-29.

(2)Theophanes Confessor, Chronographia, Leipzig,1883-5(以 下,Theophanesと 略), 395-398;Nikephorus, Breviarum Historicum, Washington D. C.,1990(以 下,Nike-phorusと 略),122-124.

(3)

Theophanes, 411.

(4)

Theophanes, 391-395.

(5)

Ibid., 395.

(6)

Ibid., 386-390.

(7)

Ibid., 390.

(8)レ オ ン3世 の 生 年 に つ い て は 明 確 に は わ か ら な い が,675-685年 頃 と思 わ れ る 。cf. St. Gero, Byzantine Iconoclasm during the Reign of Leo III: with particular attention to

the oriental sources, Louvain,1973,28-29(note17).

(9)9世 紀 初 頭 の コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 総 主 教 ニ ケ フ ォ ロ ス に よ っ て 著 され た 『簡 約 歴 史 』 に よ る と,レ オ ン3世 は 自 ら 艦 隊 に 乗 船 し て ア ラ ブ 艦 隊 と 戦 っ て い る 。 Nikephorus,122. (10)例 え ば ゲ オ ル グ ・オ ス ト ロ ゴ ル ス キ ー(和 田 廣 訳)『 ビ ザ ン ツ 帝 国 史 』恒 文 社,2001, 214. (11)か つ て レ オ ン3世 に よ っ て ア ナ ト リ コ ン か ら分 割 し て 成 立 し た と さ れ て い た テ マ ・ トラ ケ シ オ ン は,現 在 は7世 紀 か ら存 在 して い た とす る主 張 が 定 説 と な っ て い る。 中 谷

(15)

(1986),33-34..

(12)レ オ ン3世 時 代 の ビ ザ ン ツ 軍 の 動 向 に ふ れ て い る 研 究 と して は,R.-J.Lilie,Die

byzantinische Reaktion auf die Ausbreitung der Araber: Studien zur Strukturwandlung

des byzantinisches Staates im 7 and 8. Jhd, Munchen, 1976; A. R. Santoro, Byzantium

and the Arabs during the Isaurian Period 717-802 A. D., Ph. D. Thesis (Rutgers

Uni-versity), 1978; Cl. Staples, The Military Policy of Leo III and Constantine V and its

Effect on Arab-Byzantine Warfare on the Taurus Border, 715-775 A. D., Ph. M.

Thesis(UniversityofManitoba),1994.な ど が あ る 。

(13) J. B. Bury, "The Naval Power of the Roman Empire : In relation to the western

Provinces, from the 7th to the 9th century," in Centenario della nascita di Michel

Amari Vol II,, Palermo, 1910, 21-34.

(14) A. R. Lewis, Naval Power and Trade in the Mediterranean A. D. 500-1100,

Princeton, 1951; H. Ahrweiler, Byzance et la mer: la marine de guerre, la politique et

les institutions mayitimes de Byzance aux VIIe-XVe siecles, Paris,1966.(以 下, Ahrweilerと 略)

(15)

11 (1982), 201-221; P. A. Yannopoulos,

"Cibyrra et Cibyrreotes

," Byzantion 61-2 (1991), 520-529; A. G. C. Savvides, "The

Secular Prosopography

of the Byzantine maritime Theme of

Carabisians/Cibyr-raeots," BS 59 (1998), 24-45.

(16)拙 稿 「コ ン ス タ ン ス ニ 世 の シ チ リ ア 進 出 ― 七 世 紀 中 盤 の ビ ザ ン ツ 帝 国 と 中 部 地 中 海― 」 『史 林 』81-5(1998),144-164. (17)カ イ サ レ イ ア や ア ス カ ロ ン が ア ラ ブ 軍 に よ っ て 制 圧 さ れ る の は640年 の こ と で あ る 。 (18)バ ラ ー ズ リー(花 田 宇 秋 訳)「 バ ラ ー ズ リー 著 『諸 国 征 服 史 』-12-」 『明 治 学 院 論 叢 』 506(1992),59-88,79.;L. Caetani, Annali dell'Islam vol. VII, Milano,1914,103-105. (19)前 掲 拙 稿,第 二 章 。

(20) L. I. Conrad,

"The

Conquest of Arwad: A Source-Critical

Study in the

Historiography of the Early Medieval Near East," in Av. Cameron & L. I. Conrad

(eds.), The Byzantine and Early Islamic Near East vol. I: Problems in the Literary

Source material, Princeton, 1992, 317-401, 378.

(21) H. Antoniadis-Bibicou, Etudes d'Histoire Maritime de Byzance: a propos du

"Theme des Caravisiens", Paris

, 1966; Ahrweiler, 19-31.

(22) M. F. Hendy, Studies in the Byzantine Monetary Economy c. 300-1450, Cambridge,

1985, 650-653; J. F. Haldon, Byzantium in the Seventh Century: the Transformation of

a Culture, Cambridge, 19972, 217; id, Warfare, State and Society in the Byzantine World

565-1204,London,1999(以 下,Haldon(1999)と 略),74. 32

(16)

(23) Cf. A. Pertusi (ed.), De Thematibus, Vatican, 1952, ch. XVI.サ モ ス 島 に 根 拠 を 置 く 艦 隊 に つ い て は 注(50)も 参 照 の こ と 。 な お,こ の 時 期 の ビ ザ ン ツ 艦 隊 の 構 成 や 軍 事 力 な ど に 関 し て は 資 料 が な く,不 明 な 点 が 多 い 。

(24) Theophanes,370.

(25) L. Duchesne (ed.), Le Liber Pontificalis vol. 1, Paris, 1981(以 下,Liber Pontificalis と 略),390.

(26) Georgius Monachus, Chronicon, Leipzig, 1904, 737; Ps. -Johannes Damascenus,

Epistula ad Theophilum Imperatorem de sanctis et venerandis imaginibus, in PG 95, col.

357.な お レ オ ン3世 の こ の 経 歴 は 『テ オ フ ァ ネ ス 年 代 記 』 の 報 告 と は 矛 盾 して お り,無 視 さ れ る こ とが 多 い 。 こ の 問 題 に つ い て は 稿 を 改 め て 検 討 す る 予 定 で あ る 。 (27)前 掲 拙 稿,第 三 ・四 章 。 (28)前 掲 拙 稿,147. (29)Theophanes,385.こ の 時 期,レ バ ノ ン な ど 古 代 に 豊 富 な 木 材 資 源 を 供 給 して い た 地 域 で は 森 林 が ほ ぼ 消 滅 して お り,ア ラ ブ は 建 艦 の た め の 木 材 の 調 達 に 苦 し め ら れ て い た 。

(30) D. Olster, "Theodosius Grammaticus and the Arab Siege of674-78,"BS56(1995), 23-28.

(31)こ う し た 攻 撃 は ム ア ー ウ ィア 時 代 か ら繰 り返 し て 行 わ れ た が,特 に ア ラ ブ が 内 戦 で 混 乱 して い た680年 代 に 激 し く行 わ れ た 。

(32) Paulus Diaconus, Historia Langobardorum, MGH SRG, Hannover,1878,228.

(33)エ ジ プ トは720年,739年 に ビ ザ ン ツ 艦 隊 の 攻 撃 を 受 け,736年 に も恐 ら く攻 撃 が 行 わ れ て い る 。E. W. Brooks, "The relations between the empire and Egypt from a new Arabic source,"BZ22(1913),381-391,383.シ リア は よ り恒 常 的 な ビ ザ ン ツ艦 隊 の 脅 威

に さ ら さ れ て い た 。718/19年 の ラ オ デ ィ ケ イ ア の よ う に 都 市 が 破 壊 さ れ る こ と も あ っ た 。バ ラ ー ズ リ ー(花 田 宇 秋 訳)「 バ ラ ー ズ リ ー 著 『諸 国 征 服 史 』 一7一」 『明 治 学 院 論 叢 』 458(1990),171-237,222.ア ク ロ イ ノ ン の 戦 い の 直 後 に も,ビ ザ ン ツ艦 隊 が シ リア の 沿 岸 部 を 攻 撃 し て い る 。The History of al-Tabari vol. 26; Albany, 1989,169.;Kh. Y. Blankinship, The End of the Jihad State: The reign of Hisham Ibn'Abd al-Malik and

the Collapse of the Umayyads, Albany,1994(以 下,Blankinshipと 略),170.

(34) Conrad, op. cit., 339.

(35) Cf. G. le Strange (ed.), Palestine under the Moslems: a description of Syria and'the

Holy Land from A. D. 650 to 1500, Translated from the works of the Medieval Arab

Geographers, Boston,1890,348(ト リポ リ),400-401(ア ス カ ロ ン),530(ピ エ リ ア の セ レ ウ キ ア).

(36)Theophanes,405-406.;Nikephorus,130.

(37)ブ ラ ン キ ン シ ッ プ が 指 摘 し て い る よ う に,艦 隊 を利 用 しな く な っ た た め に ア ラ ブ の コ ン ス タ ン テ ィ ノ ー プ ル 攻 略 は 事 実 上 不 可 能 に な り,727年 の よ う な例 外 は あ る もの の,

(17)

対 ア ラ ブ 戦 は レ オ ン3世 時 代 に 徐 々 に 辺 境 部 で の 局 地 戦 へ と収 縮 さ れ て い く。Blankin-ship,105-106.

(38)Cf.バ ラ ー ズ リー(花 田 宇 秋 訳)「 バ ラ ー ズ リ ー 著 『諸 国 征 服 史 』-9-」 『明 治 学 院 論 叢 』473(1991),51-93,70;Kh. Athamina, "Some Administrative, Military and Socio-Political Aspects of Early Muslim Egypt," in Ya. Lev (ed.), War&Society in the East-ern Mediterranean,7魏 一15魏Centuries, Leiden,1997,101-113,103.沿 岸 部 の 人 口 が 減 少 し た た め,ペ ル シ ア や イ ン ドな ど か ら住 民 め 強 制 移 住 策 も と ら れ て い る 。例 え ば バ ラ ー ズ リー(花 田 宇 秋 訳)「 バ ラ ー ズ リー 著 『諸 国 征 服 史 』 一7一」,191.

(39)Theophanes,424. (40)中 谷(1986),27-28.

(41)W. E. Kaegi Jr., Byzantine Military Unrest471-843: an Interpretation, Arnster-dam, 1981, 186-208; J. F. Haldon, Byzantine. Praetorians, Bonn,1984;中 谷(1986). (42)テ マ ・オ プ シ キ オ ン の み は 長 官 の 職 名 が ス ト ラ テ ー ゴ ス で は な く コ メ ス と さ れ て い た 。 (43)Theophanes,410. (44)7世 紀 末 に カ ラ ビ シ ア ノ イ か ら独 立 し た とす る見 解(Haldon(1999),77)や,レ ォ ン3世 治 世 末 ∼ コ ン ス タ ン テ ィ ノ ス5世 治 世 初 期 に 成 立 し た と す る見 解( op.cit.)も あ る 。だ が ハ ル ド ン は そ の 論 拠 を 何 ら示 し て い な い 。 ま た グ リ ゴ リウ ー=ヨ ア ニ ドゥ ー は,698年 の キ ビ ュ ラ イ オ タ イ の ドゥ ル ン ガ リオ ス や732年 の ス ト ラ テ ー ゴ ス を テ マ ・ア ナ ト リ コ ン の 下 僚 と 結 論 づ け て い る が,陸 の テ マ の,し か も 小 部 隊 の 指 揮 官 に な ぜ ア フ リ カ や イ タ リ ア 遠 征 の 大 艦 隊 が 委 ね られ た の か,説 得 力 の あ る説 明 が で きて い な い 。

(45) Theophanes, 405; Nikephorus, 128-130.

(46) Cf. E. Malamut, Les Iles de l'Empire Byzantin VIIIe-XIIe siecles, Paris, 1988,

304-306.

(47)Ahrweiler,25-26.ア ル ヴ ェ レ ー ル 自 身 もカ ラ ビ シ ア ノ イ 分 割 の 要 因 と し て は,カ ラ ビ シ ア ノ イ が 反 乱 を 起 こ す 危 険 性 の 回 避 と い う 理 由 の 方 を 重 視 し て い る 。Ibid.,26-31. (48)中 谷(1986),34.;R.-J. Lilie, "Araber und Themen. Zum EinfluB der arabischen

Expansion auf die byzantinische Militarorganisation,"

in Av. Cameron (ed.), The

Byzantine and Early Islamic Near East III: States, Resources and Armies, Princeton,

1995, 425-460, 446.

(49)コ ン ス タ ン テ ィ ノ ス5世 は テ マ ・オ プ シ キ オ ン の 分 割 を実 行 す るが,そ れ は 彼 の 時 代 に は ム ス リム(ア ッバ ー ス 朝)の 軍 事 的 圧 力 が 弱 ま っ て い た か ら で もあ っ た 。 (50)拙 稿 「ニ ケ フ ォ ロ ス ー 世 の 対 ス ク ラ ヴ ィ ニ ア 移 住 政 策 一 九 世 紀 初 頭 の ビ ザ ン ツ 帝 国,バ ル カ ン 半 島,地 中 海 一 」 『西 洋 史 学 』181(1996),1-16,1H2.な お8世 紀 初 頭 ∼ 前 半 に サ モ ス 島 を 根 拠 とす る艦 隊(テ マ?)が 短 期 間 存 在 し て い た 可 能 性 が,印 章 資 料 の 分 析 か ら提 起 さ れ て い る 。J. Nesbitt and N. Oikonomides(eds), Catalogue of Byzantine

(18)

seals at Dumbarton Oaks and in the Fogg Museum of Art vol. 2: South of the Balkans,

the Islands, South of Asia Minor, Washington D. C., 1994, 134-135, 150-151.

(51) F. Winkelmann, Byzantinischen Rang- and Amterstruktur im 8. and 9.

Jahrhun-dert, Berlin, 1985, 84-90.

(52) Theophanes, 404; Liber Pontificalis, 403.; Th. F. X. Noble, The Republic of St.

Peter: the Birth of the Papal State, 680-825; Philadelphia,1984,28-34.Cf.中 谷 功 治 「イ コ ノ ク ラ ス ム の 時 代 に つ い て 一 八 世 紀 の ビ ザ ン ツー 」『待 兼 山 論 叢 』史 学 篇26(1992),63-87,68.

(53)先 に 紹 介 し た732年 の キ ビ ュ ラ イ オ タ イ の ス ト ラ テ ー ゴ ス は,艦 隊 の イ タ リ ア 派 遣 との 関 連 で 言 及 さ れ る 。こ の732年 の イ タ リア へ の 艦 隊 派 遣 は,ラ ン ゴバ ル ド に 制 圧 さ れ た ラ ヴ ェ ン ナ の 奪 回 の た め 派 遣 さ れ た 可 能 性 が 高 い 。O. Bertolini, "Quale fu il vero obbiettivo assegnato in Italia da Leone III'Isaurico' all'Armata di Manes, Stratego dei Cibyrreoti?" BF2(1967),15-49.

(54)Theophanes,410;F. Dolger, Regesten, no.301.た だ し こ の 措 置 を756年 と す る 見 解 も あ る 。Cf. I. Rochow, Byzanz im 8. Jahrhundert in der Sicht des Theophanes, Berlin, 1991,133.

(55)Noble, op. cit,39-40.レ オ ン3世 は イ タ リア 北 中 部 で は 教 皇 と の 同 盟 関 係 を 維 持 す る こ と に よ っ て 皇 帝 の 権 威 を 維 持 す る戦 略 へ と転 換 し た 。

(56)ナ ポ リ な ど 南 イ タ リア の 諸 都 市 は レオ ン3世 時 代 を 通 じて 親 ビ ザ ン ツ 的 だ っ た 。竹 部 隆 昌 「8-9世 紀 イ タ リア に お け る教 皇 裁 治 権 と ビ ザ ン ツ 帝 国 」『西 洋 史 学 』191(1998),

1-21,5.

(57) M. A. Ageil, Naval Policy and the Rise of the Fleet of Ifriqiyyah from the 1st to 3d Centuries A. H. (7th to 9th Centuries A. D. ), Ph. D. Thesis (The University of Michi-gan),1985(以 下,Ageilと 略),87-157. (58)Theophanes,397;Nikephorus,122. (59)724年 か ら736年 ま で は 毎 年,サ ル デ ィ ニ ア 島 か シ チ リア 島(あ る い は そ の 両 方)に 艦 隊 が 送 ら れ て い る 。Ageil,159-173.;Blankinship,139-140,165,193-195.732年 の キ ビ ュ ラ イ オ タ イ 艦 隊 の イ タ リア 派 遣 の 時 期 は,イ フ リー キ ー ヤ の ア ラ ブ 艦 隊 の 活 動 が 最 も 活 発 な 時 期 と一群致 し て い る 。 (60)Blankinship,139-140. (61)Ageil,173. (62)ア ラ ブ 艦 隊 は720年 代 に も,725年 の シ チ リア 遠 征 の よ う に 大 き な 被 害 を 出 して い る 時 が あ る 。Blankinship,139. (63)Blankinship,194-195;Ageil,172. (64)Blankinship,195;Ageil,173. (65)Blankinship,203-218;Agei1,175-179.740年 に もイ フ リー キ ー ヤ 艦 隊 の シ チ リ ア 遠 征 が 行 わ れ て い る が,反 乱 勃 発 の た め に 帰 還 を 余 儀 な く さ れ て い る 。

(19)

(66)そ の 後752年 に シ チ リ ア 島 な ど を イ フ リ ー キ ー ヤ 艦 隊 が 攻 撃 し て い る が,成 果 は あ が っ て い な い 。Ageil,180-181;E. Eickhoff, Seekrieg und Seepolitik zwischen Islam und Abendland: Das Mittelmeer unter byzantinischer arabischer Hegemonie(650-1040), Berlin,1966,38-39.

(67)Theophanes,352. (68)前 掲 拙 稿 参 照 。

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