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Capability Approach as Justice and Education for Persons with Disabilities

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正義論としてのケイパビリティ・アプローチと障害者の教育

荒川 智*

(2015 年 11 月 18 日受理)

Capability Approach as Justice and Education for Persons with Disabilities

Satoshi ARAKAWA*

(Received November18, 2015)

Abstract

  In this paper I examined how far Capability Approach has the effectiveness for education for persons with disabilities through research on J. Rawls, A. Sen and M.C. Nussbaum.

Rawls excluded persons with disabilities from his theory of justice. I think, as if he includes them into his theory, justice as fairness, especially the difference principle does not have effectivity for education for persons with disabilities.

  Sen and Nussbaum take up the issues of disabilities in their theories, but it needs to be much examined whether their theories also have effectivities for persons with severest disabilities.

はじめに

 筆者はこの間,ケイパビリティ・アプローチに着目して,特別支援教育やインクルーシブ教育へ の適用を模索してが(1),センの『正義のアイデア』やヌスバウムの『正義のフロンティア』の書 名が端的に示すように,ケイパビリティ・アプローチはロールズの正義論を批判的に継承 ・ 発展さ せたものでもある。

 今日,様々な角度から正義や倫理が論じられるが,ロールズ正義論の意義を踏まえつつ,その限 界を克服する上でのケイパビリティ・アプローチの有効性に対する期待は高い。

 例えば神島は,「グローバル化のなかで紡がれてきた正義論の展開を,コスモポリタニズムとケ イパビリティ・アプローチによって再構成することを通じて,グローバル化時代における正義論の

茨城大学教育学部障害児教育教室(〒310-8512 水戸市文京2-1-1; Laboratory of Education for Children with Disabilities, College of Education, Ibaraki University, Mito 310-8512 Japan)

*

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思想的系譜」を整理している(神島,p.10)。

 神島は,ロールズ正義論を構成する三つの要素,すなわち「空間」「評価基準」「道徳的基礎」に 着目し,ロールズが国内社会の利益のみを扱っていること,「基本財の平等をもってしても実質的 自由の平等は達成されない」こと,「交渉力の乏しい行為主体の利益が等閑視されてしまう」こと というロールズの限界を指摘し(神島,p.11),ポッゲのコスモポリタニズム,およびセンとヌス バウムのケイパビリティ・アプローチを統合させることを試みている。障害者問題に引きつけるな らば,神島のいう正義論を構成する三つの要素のうち,「評価基準」と「道徳的基礎」は特に重要 である。

 また馬淵は,グローバルな貧困問題をテーマに,「先進国と呼ばれる豊かな国に暮らしながら世 界の貧困問題を放置することは,果たして倫理的に許されるのか」という「深刻で根源的な問いに 答え」るため,「参照することが欠かせない立場―功利主義,カント主義,消極的義務論,権利理 論,ケイパビリティ・アプローチ―を選び出し」,「世界的な貧困問題について蓄積されてきた倫理 学的理論を整理」している(馬淵,p.10)。ここに名前は挙がっていないが,「第4章 地球規模の 格差原理―ロールズとその批判者たち」でロールズ正義論も取りあげられ,また,「ケイパビリティ・

アプローチは,ケイパビリティの拡大(=自由の拡大―筆者注)という発想を開発援助の基本に据 える」ことで「貧困問題の解決を支える」としている(馬淵,p.185-186)。

 ところで筆者は,ケイパビリティ・アプローチがインクルーシブ教育に親和的であるとする欧米 の論者を取り上げてきたが,ロールズ正義論を参照しながら教育の正義論を取り上げた宮寺の次の 指摘は重要である。

 「普遍性の名の下での多様性の包摂は,何をもって普遍性とするかという規範的検討を欠くとき,

容易に「他者」を排除する多数者の論理に転化してしまう。」(宮寺,p.7)

 「教育に関して正義の原理が求めるのは,(どのように教育するかではなく―筆者注)教育機会の 実質的な平等を保障する制度を確立」することである(宮寺,p.12)。奨学金などの教育機会の不 平等の補償策がなされても,「親と家族に起因する不平等は,子どもが異なる親のもとに,異なる 才能を授かって生まれる以上,原理的には解消しない」(宮寺,p.13)。逆に極端な平等策は,家族 制度の解体につながったり,遺伝子操作をすることになりかねない。「正義の原理が求められるのは,

こうした,当人に責任のない生得的格差が固定されることと,平等主義の画一的な適用により均質 な環境をつくり出すことのどちらもが,「道徳的に受け入れがたい」不合理として斥けられるとき である。」(宮寺,p.14)

 筆者はこれまで,ロールズの正義論を,ケイパビリティ・アプローチにとって批判的継承の対象 として参照する程度であったが,本稿ではロールズ正義論にも向き合って,その限界は十分に意識 しつつ,ケイパビリティ・アプローチをさらに理論的に補強する可能性を探りながら,障害者の教 育やインクルージョンの理論との関係を検討したい。

1.公正としての正義からケイパビリティ・アプローチへ

(1)ロールズ正義論の限界

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 最初に確認しておかなければならないのは,ロールズ正義論が障害者問題を埒外にしていること である。

 「(正義論は)全員の身体的ニーズおよび心理的諸能力が〔極端なばらつきのない〕通常の範囲に 収まっていると想定するつもりなので,ヘルスケア(保健医療)や知的能力の〔特別なニーズとそ の扱いをめぐる〕もろもろの問いは生じない。」「こうした困難な諸事例を考察しはじめると,正義 論の埒外に及ぶような問題を早計に招き寄せてしまうばかりでなく,私たちの道徳上の識別能力ま でをも動転させかねない。」「自分たちとは隔たっていながらその運命が憐憫と不安を掻き立てる人 びとのことを,配慮せざるを得なくなるからである。」「正義の一番目の問題はあくまでも,社会の 日々の運営に能動的に参画しつつ,生涯を通じて(直接的あるいは間接的に)仲間と共生・連携す る人びと相互の諸関係を扱う」のである,と(ロールズ,p.131-132)。

 格差原理が能動的市民に当てはまらなければ,障害,病気も含めた一般事例にも役立たないとい うのが理由とされているが,そのこと自体が,ヌスバウムは「正義の観点からしてすでに問題」と している(ヌスバウム,p.22)。

 ヌスバウムは契約論的立場にそもそもの問題があるとしているが(これについては,荒川(2014) で紹介),それ以上の問題が次の論述から見いだせる。

 「カースト制は社会を別個の生物学的個体群に分割する傾向にあるが,他方で<開かれた社会>

は遺伝的に多様性が最高度に拡大することを推奨する。加えて,優生学の政策を(多かれ少なかれ 明示的に)採用することもできる。」「優生学にまつわる種々の疑問」はここでは置いておくとしな がら,原初状態における契約当事者は,「選好する人生計画を追い求める事を可能にする最優良の 遺伝的素質を子孫のために確保してやりたいと望む」だろうし,それは先行世代の義務でもある。「少 なくとも生来の能力の一般的水準を維持し,重大な諸欠陥の拡散を防止する為の方策を講じるべき なのである」と(ロールズ,p.144-145)。

 『正義論』が出された1970年代初頭の議論だとしても差別的であるが,後の改訂版でもその記 述があるのは納得しがたい。少なくとも障害者権利条約が160カ国で批准された今日,障害者を 理論の対象に加えても「道徳上の識別能力までをも動転させ」「憐憫と不安を掻き立てる」といっ たロールズの心配は,無用のはずである。そうしたことを踏まえた上で,ロールズ正義論にはどの ような積極的な意義を見いだせるのだろうか。

(2)教育における正義

 よく知られているように,ロールズ正義論は「公正としての正義」として論じられ,そこでは「正 の概念が善の概念に対して優先権をもっている」(ロールズ,p.44)。正義の二原理,すなわち平等 な自由の保障および機会均等と格差原理については,『正義論』のなかで修正を重ね,最終的な定 義は以下のような記述になっている。:

第一原理

 「各人は,平等な基本的諸自由の最も広範な全システムに対する対等な権利を保持すべきである。

ただし最も広範な全システムといっても〔無制限なものではなく〕すべての人の自由の同様〔に広

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範〕な体系と両立可能なものでなければならない。」

第二原理

 「経済的不平等は次の二条件を充たすように編成されなければならない

(a)そうした不平等が,正義にかなった貯蓄原理と首尾一貫しつつ,最も不遇な人びとの最大 の便益に資するように。

(b)公正な機会の均等の諸条件のもとで,全員に開かれている職務や地位に付帯する〔ものだ けに不平等をとどめるべき〕ように。(ロールズ,p.402-403):

 格差原理とは第二原理の(a)であり,ここでいう「最も不遇な人びと」として,生まれた家族・

階級,自然本性的な才能や資産,人生の運や巡り合わせの三種類の主要な偶然性において恵まれな い人を想定している(ロールズ,p.144)。また「貯蓄原理」というのは,世代間の正義の問題で,「各 世代は正義にかなった貯蓄原理に従って,後続する諸世代に貢献すると共に先行する諸世代から〔貯 蓄された諸資源〕を受け取る。」としている(ロールズ,p.384)。

 こうした正義論は,教育に対してどのような意義を持つのか,また何を乗り越える必要があるの か。

 宮寺によれば,正義の原理は「教育の自由を保障し,善さの基準の多様性を擁護するためにこそ 立てられる」。ロールズは,「秩序だった社会の市民は同一の正の原理」に従うのに対し,何が善で あるかは人によって多様であり,「善の構想におけるこの多様性はそれ自体善いもの」であるとし ている(ロールズ,p.588)。正義の原理からはどれが最善かは導かれない。したがって,何が善い 教育かについての価値観は多様であるので,ロールズは家族内の教育に正義の原理を適用しない。

しかしこうした公私の領域区分は,教育格差を善の多様性の名の下に自己責任に帰す可能性もある

(宮寺,p.14)。

 他方でロールズは,家族も社会の基礎構造の一部だとしている。家族内での女性や子どもの不当 な差別は許されないのであり,家族も人的資源供給と徳性の涵養による基礎構造の再生産の場であ る。であれば,家族にも正義の原則を適用すべきではないか。しかしどう育てるかに対しては適用 しない(宮寺,p.15)。つまり,「「正義」のなで問われるべきなのはさまざまな家族をどのように して平等を扱うか」ということなのである(宮寺,p.16)(2)

 宮寺によれば,ロールズは「後期,すなわち1980年代後半以降には「正」についても「多元主 義の事実」を認めざるを得なくなり,正義にはもはや客観的な判定者の地位を与え」なくなるのだ が,正義の複数性は排除できないとしても,それでも既成事実を「ふたたび議論に付し,それの正 当化を求めるさいの規範的地平として,(正義は)なお機能しうる」としている(宮寺,p.23)。

(3)格差原理の有効性

 では,正義の二原理,とりわけ格差問題は,果たして障害者問題や障害者教育問題に適用できる か,どのように有効なのだろうか。

 ロールズは,格差原理が,矯正主義のような親の経済力や生まれつきの才能などに関する「偶然 性の隔たり」を平等の方向へと矯正することまでは要求しないが,最も恵まれない人びとのための

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教育に諸資源を配分すべきだと主張する。なぜなら,「教育の価値は,経済の効率や社会〔全体〕

の福祉という観点のみから評価されるべきではない」。「自分が帰属する社会の文化の享受および社 会の運営への参画を可能にし,それを通じて各個人におのれの価値に関する確固とした感覚を与え るという役割」をもつからである。「格差原理と矯正主義とは同一ではないけれども,前者は後者 の意図するところの一部を達成する」のである(ロールズ,p.135-136)。

 前述したように,ロールズは障害者を念頭には置いていないのであるが,この論理自体は障害者 教育にも有効な根拠をもたらしうる。

宮寺は上記のロールズと同じような論理で,「教育の公正」について,「「公正」とは,自然的,生 得的な不平等の解消を当人と過程の自己努力だけに委ねず,社会が連帯して担うべき責務としてい く規範的原則であ」り,正義の原理は「交換の正義」にとどまらず「個人の善き生き方の自由な追 求を平等に保障していく」道徳的な価値原理であるとする。そして「仮に,実益に釣り合う分だけ 負担をすればよいということにすれば,公費の負担は大幅に節減され,障害児教育は限界費用が限 界収益と重なる最適水準で供給すればよいことになろう」と述べている(宮寺,p.116-117)。

 さらに,「教育を単に「能力に応じて」分配するだけでは,個人間に自然的 ・ 生得的不平等と,

階層間に経済的 ・ 文化的格差が現に存在する以上,不平等の要因を上乗せするだけで,分配原理と して適正とはいえない」。「能力と環境の差異を教育の初期条件とせずに,環境条件の過酷さゆえに 能力の自由な展開をみずから閉ざしてしまうことのないように,潜在的な能力の開発に政策的に取 り組んでいく」ことが「教育の公正」の名の下に要求されるという。「教育の外部効果」論は,財 務当局の説得の論理として有効だが,これに頼りすぎると,「教育に対する社会の責任を効果の出 やすい部分に局限」されてしまう(宮寺,p.119)。社会の便益と安定を超える「正義の原理に従っ て計画化される限りで,社会の基礎構造に位置を占めることができ」るのである(宮寺,p.122)。

 ロールズ正義論をこのように展開させれば,障害者教育にも大きな利点をもたらしそうなのであ るが。しかし・・・。

 再びロールズの格差原理に戻ろう。

 要するに自由は第一原理に,平等は第一原理の平等の理念と機会均等に,友愛は格差原理に対応 するのだが,格差原理こそ社会正義における友愛の根本的な意義を表現しているとする(ロールズ,

p.143)。

 しかしロールズは,「第一原理が第二原理に先行するという逐次的順序に従って配列」する

(p.85)。一般的には自由を最優先させることへの批判がなされることが多いが,それはさておき,

格差原理が教育における不正義をどこまで是正することができるだろうか。

 今日では,経済格差と学力格差の相関が広く認められている。強引に格差原理を学力論に適用す ると,次のようになるだろうか。

“(とりわけ経済的理由で)最も底辺にある者の学力向上に資する場合に,教育上の諸々の格差が承 認される。”

 底辺層の学力の底上げを図ることは,ある意味で正当である。しかし,今日の状況ではかえって 格差の拡大につながらないだろうか。

 最近,ピケティが資本主義の下での経済格差の必然的拡大を実証したことが話題になった。水野

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によれば,(格差原理が提唱された―筆者)1970年代前半まではまだ,所得の再配分による生活水 準の全般的な上昇が見られたが,それ以降は資本主義的な「地理的・物的フロンティア」がなくなり,

「電子・金融空間」が支配するようになる。そして今日では「「地理的・物的空間(実物投資空間)」

からも「電子・金融空間」からも利潤を上げることができなくなって」いて,長期低金利時代の中 で大多数の中間層を没落させ,一部に富は集中し,格差が拡大していくのである(水野,p.4)。

 要するに今日の社会・経済構造の下では,「最も不遇の人びとの便益」になるような経済施策が とられても,最底辺層の水準がわずかに向上するだけで,中間層がその次に不遇な人びとへと没落 することを防げず,かえってそれを正当化することになりかねないのではないか。

 それは以前より「フタコブラクダ現象」といわれてきた学力格差・二極化の問題にも跳ね返って こよう。最底辺層の学力をわずかに向上させれば,一部のグローバル・エリートを最重視し,次の 層を地域貢献予備軍として位置づけ,その他は流動的な労働層としての基礎・基本の知識技能と態 度を身につけさせるという,教育の階層化と学力格差の拡大を正当化することになってしまわない か。

 では,さらに強引に,ロールズが論外にしている障害者の教育に格差原理を適用するとどうなる のだろうか。

“心身の能力の最も制限を受けた者の発達に資する場合に,教育上の諸々の格差が承認される。”

 

 最も重い障害のある者の教育の切り捨てを許さないという意味では,正当であるともいえる。し かし,便益を受ける対象はどこまでに設定されるのであろうか。障害の種類 ・ 程度による格差を許 容してよいのか。中・軽度の障害のある者も含むのか。いや,特別なニーズのある者すべてを含む のか。正義の第二原理には機会均等もあるので,そうした疑問は解消されると言われるかもしれな いが,形式的な機会均等は,障害者の教育においては一層の問題を生じさせるかもしれない。それ を防ぐ施策を格差原理は真にもたらすであろうか。

 ロールズは,『正義論』の改訂版への序文で,「自由かつ平等な市民たちが世代を越えて協働する 公正なシステムとして社会を捉える場合,格差原理は〔福祉国家が目指すような最低限度の生活水 準の保障ではなく〕互恵性(助け合い)もしくは相互性の原理と同じものになる」と述べている(ロー

ルズ,xviii)。文章だけを見ると,すべての人の学力保証,発達保障のための公的責任を後退させ,

相互扶助論に転化しかねない。

 一方,『正義論』の終盤で,自由の最優先を前提にしつつも,正義の「二原理は〔第二原理に即して〕

全員の便益となる限りで貢献への見返り免での不平等を許容する」という叙述が見られる(ロール

ズ,p.716)。「全員の」というのは筆が滑ったのか,真意はよく分からないが,最も不遇な人に便

益の付与の対象を限定するよりも正義に適うように思われる。もちろん,功利主義的に総効用や平 均効用を上げればよいということではない。大多数がわずかな便益を得て,一部の人に圧倒的に多 くの便益が行くようでは,不正義である。逆に格差を縮小して全員にわずかな便益を,というのも,

多くの支持を得にくい。便益を学力保証に読み替えても同様である。

 公正としての正義の原理に,以上のような限界や問題点を見出した上で,それを乗り越える正義 論として,ケイパビリティ・アプローチに改めて注目することとする(4)

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2.ロールズ正義論の発展形としてのケイパビリティ・アプローチ

(1)ロールズ批判からケイパビリティへ

 ケイパビリティ・アプローチは公正としての正義をどのように批判的に継承しているのか。これ については前稿(荒川,2014)でも触れているので,できるだけ重複を避けながら概観する。

 ケイパビリティ・アプローチをデンマークの特別なニーズをもつ青年の教育の問題に適用する ことを試みたケールセンは,センもヌスバウムもロールズの公正としての正義や基本財の考え を承認しているとしている(ただし,基本財に基づく正当化された不平等の考えを批判するが。

Kjeldsen, p.76)。

 確かにセンは,「公正の要求という観点から正義を見なければならないというロールズの基本的 なアイデア」は,「正義の理解に本質的かつ最も重要な例である」ことを認める(セン,p.101)。

その一方で,センは正義の二原理に対し「私は懐疑的」であるとも述べている(セン,p.106)自 由に「完全な無制限の優先権を与えるのは言い過ぎ」であるし,格差原理は「基本財を良い暮らし に変換する能力は人によってかなり多様であることを考慮せず,人々が持っている機会を人々が保 有する手段のみによって判断」するからである(セン,p.117-118)5

 センは,ロールズが正義に関わる「実践理性の客観性」や「正義の感覚」と「善の感覚」につい ての「道徳的力」について指摘することを評価するが(セン,p.113~114),「正義の追求は,部分 的には行動パターンの漸進的形成の問題であると考える相当な理由がある」とし,「ロールズのア プローチは,正義の原理を実際の人々の行動と組み合わせるという,社会正義の実践理性の中心に ある大きく多面的な仕事を,公式による大胆な単純化によって行っている」(セン,p.121-p.122) として,そもそもの原初状態の想定に疑問を呈す。

 センによれば,ロールズは完全に公正な取り決め,つまり「公正な制度」に注目し,そのための 仮想的な社会契約を構想しているが(セン,p.12),正義論が焦点を当てるべきは「社会が実際に 実現したこと」,すなわち公正な社会であり,しかもそれは「完全に公正な世界」ではなく,明ら かな不正義を取り除くことである。

 人びとの暮らしに着目するなら,「成し遂げた様々な出来事だけでなく,」様々なタイプの暮らし の中から実際に選択するという自由にも関心を持たなければならない」(セン,p.54)。

 かくして正義論の焦点は,基本財から,財を機能に転換する能力 ・ 可能性(自由)としてのケイ パビリティに移ることとなる。ディベロプメントは経済的発展だけでなく,人間的な自由の拡大と 捉えられる。ただし,神島はセンには他者のケイパビリティ空間と両立するケイパビリティ空間 の大きさをどう決めるのかという問題が残ると指摘している(神島,p.140)。

(2)ケイパビリティのリストと閾値

 ヌスバウムの中心的ケイパビリティの10のリストと閾値の概念は,すでに多くの文献で取り上 げられ,筆者も触れてきたが(荒川2013),「閾値以下では,市民たちは真に人間的な機能をえら

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れない」として「ケイパビリティの閾値よりも上に上げるという観点」を彼女は強調する(ヌスバ ウム,p.85)。

 ヌスバウムも,自らの理論をロールズや「現代の契約アプローチはケイパビリティ・アプローチ の近親者」「同盟者」であり,対比されるべきは功利主義アプローチであるとする(ヌスバウム,p.85)。

 ロールズが資源(所得と富)に焦点を当てることは,資源を機能に変換する能力の多様性という 観点から,既にセンが批判しているところである。それについてヌスバウムは,「センのロールズ 批判は,もし私たちがそうした非対称性を考慮に入れるような仕方で足りない量を埋め合わせるこ とができるならば,所得と富は本当に重要なものの適切な代替物になるであろうことを示唆する」

のだが,「所得と富に焦点を合わせることについて,ケイパビリティ・アプローチはより根本的な 批判をなし得る。社会によって分配される諸々の基本善が複数であり単一ではないこと,そして それらがどのような単一の量的基準によっても約分できないこと」が重要であると(ヌスバウム,

p.191-192),さらに踏み込むことを求めている。

 ロールズが,「功利主義は多様な善のあいだのトレードオフにコミットしているがゆえに,政治 的・宗教的自由を十分に保護できない」と批判するのと同様に(ヌスバウム,p.87),「ある領域に おける不足は,人々にほかのケイパビリティを大量に与えるだけでは穴埋めしえない。このことが,

妥当なトレードオフの種類を制限し,またゆえに量的な費用対便益分析の適用性を限界づけるので ある」(ヌスバウム,p.192)。中心的なケイパビリティが全ての人の基本的権原であり,代替不可 能なのである。ロールズは「関連性のある重要な資源が諸個人に分配できるものであることを示唆」

するが,「資源に対するニーズの多様性を主張すること」では不十分であり,センはこの点を議論 していない。「車いすの人に十分なお金を与え」るだけでは不十分で,スロープやエレベーターな どの「公共空間の再設計は損傷のある人々の尊厳と自尊にとって不可欠」であり,「問うべき重要 な問いは,損傷のある諸個人がどれだけお金を持っているかでなく,実際に何をすることができて 何になることができるのかである」(ヌスバウム,p.193-194)7

 こうした考察を経て,中心的ケイパビリティのリストと閾値の観念が提起される。

3.ケイパビリティ・アプローチが克服すべき課題

(1)リスト化と閾値を巡って

 ヌスバウムによれば「ケイパビリティ・アプローチは基本的な権原に関する政治的見解」であり(ヌ スバウム,p.179),「基本的社会正義はそのリストの観点から定義されるから」「どんなに暫定的で 変更可能なものであろうとも,採用する必要がある。」「そのようなリストを創ることを渋っている センには,ケイパビリティの観念を用いて社会正義の理論の輪郭を示すのは困難である。」(ヌスバ ウム,p.192)6

 同じように神島は,「センが「基本的ケイパビリティ」の内容を固定してこなかったことは,ロー ルズが<基本財>の内容を固定したことと比較すると特異」だと断ずる(神島,p.12)。

 センへの批判は,ケイパビリティ・アプローチとは異なる立場からもなされ,例えば神島によれ ば,コスモポリタニストとしてロールズの正義論を国際社会に適用させようとしたポッゲ(Thomas

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Winfried Menko Pogge, 1953~)は,センに対して,個人差への配慮は聞こえはよいが,ケイパビ リティについての政治的合意はできそうにないと述べる。社会全体の富の分配の際に,「個人間の すべての差異に起因する条件上の不利を補償することは,政治の場では極めて困難」だというので ある(神島,p.123~p.124)。しかしヌスバウムのリストについては,「資源主義の社会正義の基 準をつくりあげてゆく上で有用な発見的なリスト」だと評価している。ヌスバウムも,ポッゲの理 論がケイパビリティ・アプローチに収斂する可能性を述べている(神島,p.129)8

 センがリスト化に消極的なのは,よく選択の自由を束縛しかねないと考えるからだと言われる。

例えば大石は,ヌスバウムよりもセンのとらえ方の方が,「個人の多様性だけでなく,世界各地の 文化的多様性の相違に対しても,寛容であ」り,また「時代のニーズの可変性に対しても対応でき る」としている(大石,p.169)。また池本は,「センにとって,リストを提示することは「先験主 義」であり,必要のないものである」と説明している(セン,訳者解説,p.590)。一方神島による と,センが,多様な国家 ・ 社会がある中で,対象となる社会の「マジョリティが既に達成している 諸機能から遡って,そうした機能を達成するために必要であると考えられるケイパビリティを推察」

するからだとしている(神島,p.163)。決して基本的ケイパビリティが文化毎に異なるというミス リーディングをしてはならない(神島,p.168)。しかし近年センはリスト化に歩み寄りを見せてお り,それは,センが経済的分析だけでなく政治的分析目的でもケイパビリティ・アプローチを用い 始めていることの表れであるとしている(神島,p.171)。しかしケイパビリティの「ウェイトづけ」

にはなお慎重のようであるが(セン,p.350)。

 一方,ヌスバウムへの批判もある。馬淵は,西洋的価値観を普遍主義の名で強制する「道徳的帝 国主義」であるとか(馬淵,p.209),例えばリストの3と10に表れるように「西洋中心主義」で あるという批判もある(馬淵,p.213)。神島も,ヌスバウムのリスト項目が,特定の善の産物であり,

それを強制するパターナリズムの危険を憂慮したり(神島,p.197),西洋の高学歴女性の価値観に 基づいた高尚なもので,とくに自然との共生は必要かといった疑問を紹介している(神島,p.198)。

神島自身も,ヌスバウムのリストは多元主義者をも納得させるような説得力を持たせる必要がある としている(神島p.13)。なお,センもヌスバウムを「アリストテレス的卓越主義」と評している(神 島,p.191)。

 筆者はさらに別の観点から,疑問を提示したい。

 ヌスバウムは社会政策の課題(したがってリストの項目)は機能でなくケイパビリティであるこ とを強調する。神島の説明によれば,それは「各国の憲法を通じて人びとに保障されるべきものを 示している」。すなわち,実際に機能に転換するかしないかは個人の選択に委ねられるのである。

例えば①生命については,安楽死の選択も可である。⑥実践理性については,専業主婦の選択も可 であるし,⑦連帯についても,孤独の選択も可である。⑩環境のコントロールも,投票に行かない のも可である(神島,p.194)。たしかにヌスバウムは,「実際の機能が公共政策の適切な達成目標 であるのは,自尊と尊厳の領域だけだと私は考えている。」そこだけは「原則として市民たちに選 択肢を与えるべきではない」としている(ヌスバウム,p.199)。

 しかし,安楽死の問題は別にして,リストの「閾値以下では,市民たちは真に人間的な機能をえ られない」とするのであれば,閾値はすべての人に保障すべきであり,「する ・ しない」の自由選

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択に委ねて本当によいのであろうか。確かに選択を認めないとするのは,特定の機能(生活スタイ ル)を強制することにつながり,ケイパビリティ・アプローチから逸脱することになろう。しかし どのように閾値に達するのか,複数の選択肢があって,その中からどれか一つは選ばれるべきもの なのではないか。それがまた,機能とケイパビリティの明確な区別につながるようにも思える9。  なお参考として,機能とケイパビリティの関係については,ケールセンによるモデルを若干修正 したものを,以下に示す。

(2)子どもと知的障害者の除外の特異性

 前稿(荒川,2014)でも取り上げたが,ヌスバウムは,機能ではなくケイパビリティを政策課 題として位置づけるが,子どもと知的障害者については,機能が重要であるとしている。例えば教 育に関しては,「子どもが学校に行くことができる」というケイパビリティ(選択)ではく,「学校 に行っている」という機能の保障が課題だということになる(神島,p.216)。たしかに「たとえ知 的障害の子どもが,自分の生得的能力を発達させない,あるいは内的ケイパビリティを涵養しない 状況に満足しているとしても,それを受け入れることは,尊厳なく人を扱うのに等しいと,ヌスバ ウムは論じている」(Kjeldsen,p.104)。しかし,果たして子どもや知的障害者は機能重視でいい のだろうか。

 ケールセンはこの点について次のように論じている。

 「もし知的障害のある若者が,そうした調整がなされないままに(価値づける理由なく「強制さ れた選択」のような形で―筆者注),個別教育を通して,まずまずの家で一人で生活する能力を学び,

発達するとしても,それはケイパビリティとはならないであろう。彼女は依然として自分で生きる 真の自由を持たないであろう。自分で生きることを学ぶことは,しばしば特別なニーズのある若者

(11)

の訓練計画のひとつの要素である。」

 「言い換えれば,真の自由となるには,もし彼女が仲間と保護的な家で暮らすことを好むのであ れば,彼女は一人で生きないことを選択できるようになるべきである。」(Kjeldsen, p.91)  ケールセンは,「様々な生き方の間で選択する個人の自由」「その機会を利用することを選ぼうと なかろうと,実際にできること」というセンのケイパビリティの概念を知的障害者にも適用しよう とする。しかし機能とケイパビリティの関係は複雑であり,また子どもや知的障害者が複雑な選択 ができないのも事実であるので,機能でもってウェルビーイングを評価することをしばしば賢明に 思わせるのだが,だからこそ,達成する自由と実際の達成の両方を結びつけ分析する必要であると している(Kjeldsen, p.94)。

 たしかに不就学という選択はないかもしれない。しかし,不登校の子どもの学校外での学習やイ ンターナショナル ・ スクールへの就学の選択肢はあってよいし,すでにある。また,学校に行くと しても,どのような学校に行くか,どのような指導を受けたいか,そうした選択能力は子ども期に 全くないのではなく,発達していくものなのである。十分な選択能力が備わっていない段階では,

親が代わって選択の自由を行使することになる。知的障害児・者についても同様である。

 少なくとも教育の長期的な過程で,徐々に機能からケイパビリティへ焦点をシフトしていくこと が必要ではないか。

 ところで神島は,ヌスバウムのリストの特徴として「人間性」と「普遍性」,すなわち新生児が 潜在的に持っている,より高度なケイパビリティを発達させ,他者と交流するために必要な能力と,

階級や文脈を超えていることを挙げている(神島,p.196)。ならばそれは重度の障害者にも当ては められなければならない。ヌスバウム自身,彼らに別のリストや閾値を設けるべきではないとして いる(ヌスバウム,p.219)。

 しかし「閾値以下では,市民たちは真に人間的な機能をえられない」とした場合,各リストの閾 値への到達が困難な重度障害者も存在する。そのことは,重度障害者がいつまでたっても人間らし い存在として認められないことにつながる危険もある。

 事実,ヌスバウムはアリストテレスとマルクスから「人間の本質」を考察するが,話す能力のあ る政治的動物としての人間は,生と不正,善と悪の区別ができる動物であり,考え,知覚し,愛着 を持つ(潜在的)可能性がなければ人間は単なる創造物にすぎず,人間らしい生とはならないとす る。従ってヌスバウムは,植物状態の人間を,ヒトではあるが人間らしい生とは見なさない。キー ルセンは,これをヌスバウムの「二枚舌」と批判する(Kjeldsen, p.124)。「非人間的存在は人間と しては排除されるだけでなく,社会における市民としての役割もこれによって無視される。」そう した人は「すべての市民に当てはまる中心的人間的ケイパビリティの同じリストへの権原を持つべ きではないと」されてしまう(Kjeldsen, p.125)

 ヌスバウムは,障害の問題を除外するロールズを批判したが,同じ批判は自分に跳ね返ってくる かもしれない。植物状態とまではいかなくても,寝たきりで,働きかけへの反応を見いだしにくい 最重度の障害者を,同じように正義論の対象外に置くことにならないだろうか。

 またセンも,「正義は・・・普遍的な広がりを持たなければならず,一部の人々の問題や苦境だ けに適用され,その他の人々を排除するようなものであってはならない」としているが(セン,

p.183),この場合も最重度の障害者が排除されることは決してないと言い切れるのだろうか。

(12)

 この問題は非常にデリケートであり,実際には答えを出すのは難しい。ただ,一つの考え方とし て,ケイパビリティの閾値を,厳密な到達目標としてだけ捉えるのではなく,ある種の方向目標と して捉えることで光が見えてこないだろうか。閾値を何をもって測定するのかということ自体が容 易ではないことであるが,測定される到達ラインとは別の視点が求められていると思われる10

おわりに 正義論からみた統合教育とインクルージョン

 格差原理をそのまま障害者教育に適用すると,むしろ通常教育とパラレルな既存の(かつての)

特殊教育制度を正当化することになるのかもしれない。障害や特別なニーズのある子どもの発達や 学力向上に一定程度資するなら,学力格差の拡大は許容されると言うことになるのだろうか。ある いは,現実には格差が拡大する中で,学力の高い層を除いた部分にそうした子どもたちを「統合す る」ことを促進することになるのだろうか。

 インクルーシブ教育は,すべての子どものニーズの多様性の尊重と学習への参加の保障が重要な 原理である。それには学習の協同性が鍵となる。それが成り立つためには何が必要かを考える際に,

宮寺によるアメリカにおける白人と黒人の統合教育や犬山市の教育改革の検討が興味深い。

 アメリカでは,障害のある子どものメインストリーミングに先立って,白人と黒人の統合政策が 展開された。しかし統合学校への白人の抵抗は強く,大都市中心部の統合学校は事実上分離学校に なっていく(宮寺,p.166)。「統合」の原理を考える際に,「全員もれなく同じ学校に入れさせるこ とまでは求め」るのではなく(私立学校も許容),善き生き方の自由な追求を平等に保障するこの 社会の成り立ちと矛盾しない形でしか,「統合」の理念はこんにち正当性を持ち得ない」。統合をい つまでも公立学校の存在理由にするのは限界であり,「価値多元的社会の持続可能な理念として再 規定」する必要がある,と宮寺は論じる(宮寺,p.131)11

 犬山市が進めた「教え合い」「学び合い」の改革も,子どもの家庭での学習時間が増えるなどの 成果をもたらしたものの,家庭の不平等な文化的背景が絡み,一部の「教え合わない」「学び合わ ない」子を生み出してしまった。「平等化をすすめる改革が,改革の趣旨に乗れない子どもをつく り出し,排除してしまうと言うパラドックス」は,「家庭の教育資源が,公共空間で共有されるこ との困難」さを示しているという(宮寺,p.178)。自由な学校選択と教育機会の平等という「「自 由か平等かの難問に公平な視座から調整する議論が必要」があり,宮寺はロールズの「分配/配 分の区分論に着目して」,「教育にかかわる財源や資源を人びとに分割していく」(すなわち「分け 合うこと」と「割り振ること」)際の正義(分配の正義と配分の正義)を検討する(宮寺,p.170)。

宮寺によれば,統合学校も,「「教え合い」と「学び合い」によるすべての子どもの学びの保障」も,

「親たちの双務性の承認なしには進展しない」。双務性とは相互の責務遂行であり,権利論の範疇に は収まらず,親たちの「互恵的な権利と義務」論とでもいうべき研究分野を要請している」という

(p.166)。「双務性の承認は,なんらかの社会構想を契機として取り付けられていくものである。そ

れがないまま,「学力向上」という目標でのみ教育改革が推進されていくと,効用の奪い合いが起 こるのは避けがたい」(p.179)。多くの親が,子どもの属する学習組織について,平等より自由を 選ぶようになっている今日(p.164),「親たちの双務性の承認のうえに,平等な教育機会の実質は 維持される」のである(p.166)。

(13)

 では分配原理の準拠枠は何か,例えばインクルージョンはそれに値するか,今後の課題であるが,

学力向上や費用対効果が強調される中でのインクルーシブ教育の推進が困難を抱えている状況を考 えるとき,宮寺の提起は,かつての統合教育を超えるインクルーシブ教育の検討にも通じるものが ある。

 ヌスバウムが肯定するかどうかは分からないが,ケイパビリティ・アプローチに基づけば,価値 ある学び方の選択の自由が認められるべきである。しかし,宮寺の考察を参考にするなら,各人に とっての価値ある学び方が独りよがりのわがままや,本人や保護者の利害の対立を生じさせないよ うにするには,価値ある学び方の共同化も必要となろう。

 その際に,再びロールズの「「アリストテレス的原理」の随伴効果」に着目したい。それによれば,

能力の行使による喜びは,「私たちの行うことが他の人びとの賞賛を誘い,また彼らに喜びを与え る場合にのみ,彼らはそうした努力を価値づける傾向」がある。こうした条件は優れた能力のあ る人に限られず,「アリストテレス的原理の適用のされ方はつねに個人に相対的であり,それゆえ その人の生来の資産や特殊な状況に相対的なもの」である(ロールズ,p.579)。ただこの随伴効果 が表れるには,仲間が本人の努力を確証・肯定する「利害関心が共有された共同体が少なくともひ とつは各人に存在せねばならない」(p.580)12

 インクルーシブ教育において「学習の共同体」(community of learning)あるいは協同的な学び が強調される。強引であることを承知しつつ,こうした記述を宮寺のいう双務性とも絡めながら,

インクルーシブ教育に引きつけることはできないだろうか。

 価値ある学びの共同化については,ハーバーマスのコミュニケーション的理論を介在させる可能 性についても検討したい。センによれば,ロールズは「理性的な人」の特定について,その「客観 的な基準が公共的討議を生き残りそうな者と一致するかどうかについての興味深い議論」を展開し ているが,ハーバーマスは,そうした人の特定より,手続き的なルートに焦点を当てており,「私には,

ハーバーマスの論点は強力であり,彼が行ったカテゴリー上の区別が正しいように見える」と述べ ている(セン,p.86)。

 さらには,近年のセンの「ケイパビリティへの権原としての人権」(権利要求の中での重要なも のとしての人権)という概念(神島,p.171)が,障害者権利条約の条文を考える上で,どのよう な示唆を与えるのかについても(とくにインクルージョンや合理的配慮に関わって),今後の検討 課題としたい。

(1)これについては最後の<文献>を参照されたい。

(2)ロールズの正義論を教育理論に応用しようとする教育哲学者として,例えば「ブリックハウスは,子ども の間にみられる教育機会の不平等が,家族がおかれている境遇だけでなく,家族がした選択によってもも たらされたのであれば,正義に反する」という考え方を紹介している(宮寺,p.19)。

(3)宮寺はより平等主義的立場から正義論を再構成しようとしていると思われる。それに対し児嶋は,ロール ズの機会の平等構想が「長らく平等主義的に捉えられてきた」事を批判し(児島,p.41),資源の優先的分 配も,同じレースのハンディキャップではなく「将来的に文化の享受や社会参加を可能にするという点に

(14)

こそ求められる」としている。ただ,ロールズが「メリトクラシーの積極面を一歩進めて自然的 ・ 社会的 偶発性の双方を影響を視野に入れ,自由の制限要因の除去を通し,各人に対して別の生涯の見通しやその 可能性を開こうとするものだと理解できる」(児島,p.43)というのは,ややCA に即した理解になってい る感がある。

(4)ところでロールズは,まずは「社会的基本財を大別すると,権利,自由,機会,所得及び富」としつつ(ロー ルズ,p.124),後述で「おそらく最も重要な基本財は自尊である」と加えている(ロールズ,p.577)。自 尊,もしくは自己肯定感は,「自分自身に価値があるという感覚」(おのれの人生計画は,遂行するに値す るという揺るぎない確信)と,「自分の能力の範囲内にある限り,己の意図が実現できるという自己の才 能に対する信頼」を含んでいる。そのうち自己に価値があるという感覚は,「合理的な人生計画を持って いること,とりわけアリストテレス的原理を充たす計画を持っていること」と,「私たちの人格と行為が,

私たちと同様に尊重されている他の人びとによって正しく認識されかつ確証・肯定されていること,およ び私たちが他者との交流を享受していることを見いだすこと」という状況を特徴付けるとしている(p.578)。

「アリストテレス的原理」とは,学習や活動の動機づけに関する原理のひとつで,「自分の能力を行使する とき,さまざまな種類の快や喜びが生じる」こと,そして「より楽しい活動やより望ましく持続的な快は,

より複雑な鑑識を伴う,より優れた能力の行使から生じる」ということである(ロールズ,p.561)。

   ヌスバウムは,自尊が最も重要としながら,だれが不遇かの測定に関し,「自尊を無視し,所得と富だけ で社会的地位を測っている」と批判するのだが(ヌスバウム,p.134),またロールズ自身は障害者を念頭 に置いていないとはいえ,障害のある子どもや青年の自尊感情,自己肯定感,ひいては彼らにとっての価 値ある生の正当性や客観性,普遍性(気まぐれや独りよがりでないこと)を考察する上で,とくに「アリ ストテレス的原理」は参考にできるのではないだろうか。

(5)ロールズも「功利主義は諸個人の間の差異を真剣に受け止めていない」と指摘しているが(ロールズ,p.39),

センからみれば財への着目では明らかに不十分ということであろう。

(6)権原や閾値の概念と似た立場として,シュー(Shue, Henry)の「基本権」の主張がある。シューによ れば,優先されるべきは消極的権利(自由権)でも積極的権利(社会権)でもなく基本権である。基本権 とは身体的安全の権利,生存権,そして二つの自由権(参加の自由と移動の自由)が挙げられ,非基本権 に対する基本権の優先がなされるべきである(馬淵,p.159)。彼は格差原理が「基底線」を提示しないこ とを批判する(馬淵,p.145)。「基本権の立場は,生の基底線を提示しその保障を要求する立場」なのであ る(馬淵,p.166)。

(7)宮寺は,ディベロップメントが自由の拡大であるとするセンの考えに関係して,次のように指摘している。

「人の自由は,自分の能力を自立的,自発的に使うようにうながすだけでは得られない。その人も気がつ いていない潜在的な選択肢をふくめて,希望の描き方を豊にしていくことが重要で,それが「開発」の真 意である。」

   「(ケイパビリティ・アプローチは)人が自発的に選択する進路のほかに,人が選択すべきもっと豊かな 生き方があることを示し,その可能性は誰にでも平等に開かれているとする。」

   「センとヌスバウムの発想は,先に見たロールズのように,社会の共有材をどのように公正に分配するか という「分配論」よりも,いっそう内面的な問題に分け入り,人間の能力の開発から,公正な社会を展望 するのである。」(宮寺,p.49)

(8)馬淵によれば,ポッゲは貧困を加害として捉え,積極的義務論ではなく加害を避ける消極的義務論の枠組

(15)

みで国際的な援助を論じている(馬淵,pp.88-)。

(9)実際にリストの項目はケイパビリティではなく,機能だと理解されることもあり,センも明確に両者を区 別していないような記述が初期には診られる(荒川,2010)。神島も「貧困が深刻な諸国における複利の 分析において,センは「機能」と「ケイパビリティ」を事実上区別していない」としている(神島,p.153)。

(10)なお,ケイパビリティの測定に関して,ケールセンは,何が測定され,経験的に再構成されるべきなのか,

ケイパビリティを測定可能にする必要があると論じ(Kjeldsen, p.105),そのために,ケイパビリティ・ア プローチをブルデュー社会学のハビタス,フィールド,文化資本,象徴的暴力などの概念と結合させるこ とを提唱している(Kjeldsen, pp.107-)。

(11)統一的な教育内容をすべての子に伝える場の必要は求めるのではなく,「さまざまな人種や階層が持ち込 む多様な価値が,相互に影響を及ぼし合い,そのなかから新たな市民性が生み出されるようにするための,

「手続き的価値」を用意する場」を求めるプリングのコモン・スクール論を紹介している。(宮寺,p.132)

(12)ロールズ,セン,ヌスバウムの3人がしばしば参照するアリストテレスの『ニコマコス倫理学』は,す でに善や正義に関する議論の枠組みが示されている。しかしアリストテレス自身は障害者については冷淡 だったとされる。これについては今後の課題である。

引用文献

・荒川智(2010)「潜在能アプローチと特別支援教育」『茨城大学教育学部紀要(教育科学)』第59号,pp.161-175。

・荒川智(2012)「特別支援教育におけるESDの展望とケイパビリティ・アプローチ」『茨城大学教育学部紀要

(教育科学)』第61号,pp.217-227。

・荒川智・越野和之(2013)『インクルーシブ教育の本質を探る』全障研出版。

・荒川智「ケイパビリティ・アプローチとインクルーシブ教育―M.ヌスバウムの提起をめぐって―『茨城大学 教育学に紀要(教育総合)』増刊号(2014),pp.265-281。

・神島裕子『ポスト・ロールズの正義論』(2015)ミネルヴァ書房。

・Christian Christrup Kjeldsen, Capabilities and Special Needs. (2014) Verlag Dr. Kovac.

・児島博紀「ロールズのメリトクラシー批判―機会の平等論の転換に向けて―」『教育学研究』(2015)第82 巻第1号,pp.36-47。

・馬淵浩二『貧困の倫理学』(2015)平凡社新書。

・水野和夫『資本主義の周縁と歴史の危機』(2014)集英社新書。

・宮寺晃夫『教育の正義論』(2014)勁草書房。

・M.C.ヌスバウム著,神島裕子訳『正義のフロンティア 障碍者・外国人・動物という境界を越えて』(2012)

法政大学出版。

・大石りら「アマルティア・セン 人と思想」,セン著,大石訳『貧困の克服』2002年,集英社,pp.151-179。

・ジョン・ロールズ著,川本隆史他訳 『正義論(改訂版)』(2010)紀伊國屋書店。

・アマルティア・セン著,池本幸生訳『正義のアイデア』(2011)明石書店。

参照

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