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19世紀中葉におけるイギリスの 植民地経費政策 西 山

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220  

− 42−・  

19世紀中葉におけるイギリスの   植民地経費政策  

西  山   郎  

I   

19世紀中葉匿おける植民地政策をめぐる重要な論点のひとつに植民地経費問   題があった。このことは,イギリス帝国史・植民地政策史の研究者が夙に・指摘  

しているところである。たとえば,ポーデルセン氏。氏は別稿においてみたよ  

(1)  

う紅19世紀中葉の植民地政策を植民地分離主義と規定し,その政策推進の中心   的グルー・プをマンチェスター派とみる。そして,「マンチ・ェスター・派把.おいて   植民地帝国維持紅反対して非常に.強く主張された論義は.,その経費であり,と  

(2)  

りわけ帝国国庫紅.よって負担されている植民地軍事費の分担金であった。」と   し,植民地経費削減の過程についてごく簡単紅ふれている。すなわち,1862年   に麿民地防衛費に関する決議が議会でおこなわれ,「この政策に・もとづいて,本  

(8) 国政府は帝国軍隊を植民地より漸次引き揚げた。」   

植民地経費問題は,植民地政策論争の焦点のひとつであると同時に・,自由主   義時代のイギリスの国家経費政策をめぐる焦点のひとつでもあると考えられ  

る。別言すれば,それほ,自由主義時代の経費政策の特質をうきぼりに.する   重要な手掛りをあたえてくれるであろう。ところが,この問題はイギリス財政   史研究の専門家に.よって本格的紅とりあげられたことはこれまでなかったとい  

(1)西山一郎:「イギリス19姐紀申真紅おける植民地政策のこ側面に・ついて−スカイラ    ー=ポーデルセy説の検討を中心紅して」,『香川大学経済論技』第40巻第5号,昭和42    年12月,35〜47真。  

(2)Bodelsen,C.A.,Studiesin Mid−Victorian Zmberialism,Copenhagen,192    4.p.釦.最近ではプラク・y氏が「彼等〔自由貿易主義者〕は,できるだけ早く植民地    が本国より分離されるのを目撃することを希望し庭。その理由の一部は,それが予算庭  たいする負担に.なっているということであった……」(BI・OWn,M.B.巨4抒紺・拍吋働小    alism,London,Melbourz)e,Toronto,etC.,1963.p.53い)とのべている。  

(3)Bodels餌,C。A.,¢♪.c才子.,p.81.   

(2)

19世紀中葉におけるイギリスの植民地経費政策   −43−  

221  

(4)  

ってよかろう。その点で,イギリス帝国史研究者たちの指摘は貴重である。  

たしかに,マンチェ.スタ一派が植民地経費の削減を重要視し,それを強く主張   したことは事実であり,植民地駐屯軍の撤収により植民地経費が減少していっ   たことは現実である。しかし,彼等の分析は基本的な点において誤謬を犯して   いるように思われる。   

ポーデルセン民らは,マンチェスタ、−・派にあってほ植民地経費負担が植民地  

(5) 放棄の論拠であったとする。すなわち,植民地経費問題が植民地放棄論に収敷  

くてゆくのである。しかし,マンチェスター脈は植民地放棄の論拠として植民   地経費をとりあげたのであろうか。そのように.は思えない。1例としてマンチ   ェスタr派のと.n−ム(Hume,J.)をあげる。彼ほ.1849年の植民地経費を含   む植民地改革問題を論じた演説の末尾において「最後に,誰もわれわれがわが   植民地との関係を切断すべきであると願望しているなどといって私を責めない  

(6) ように.希望する。」とのべ,植民地放棄の意図なきを開明にしている○  

(7)  スカイラー教授ほ「帝国駐屯軍の撤収」と題する1葦において植民地経費問  

題を最も詳しく究明しているが,その基本的立場はポーデルヤン氏と同様であ   る。教授ほ,最もドラスティックに駐屯軍の撤収をおこなったグラッドストン  

(4)管見にふれた財政史の分野に・おいては,バクストン氏が1869〜71年における第1次グ    テッドストソ政府による植民地駐屯軍の撤収についてふれてこいるだけである。Cf・Bux−   

ton,S FilLaT,CC altd Po[itics,A H(sfori(0[SttL(11・]7S3−18S5,Lor)don,1888・   

Vol.ⅠⅠ巾 pp.62〜64.  

(5)わが国の神谷不二氏も,マンチ.ェスター派の植民地分離論の論拠と}て植民地側の保    護関税制度の採用とともに,植民地防衛費の本国にたいする負担が大きいということを    あげる。すなわち「植民地がその近接諸国や土着人種との間に惹起しうぺき武力的粉争    の危険性は,本国をそれに捲込む虞れなしとせず,この点紅おいても植民地は軍事的に   

本国を弱化せしめる存在であるとせられたが,より大なる問題は,植民地防衛費の本国   

に斉らす財政的負担であった。」(神谷不ニ:「小英国主義(2・完)」,『国際法外交雑法』   

第54巻第6号,昭和30年12月,56貢。傍点原文のまま。)また,近藤申一成も植民地軍事   

経費がマンチよスタ一派の植民地放棄論の「重要な支柱」(近藤申叫:「小イギリス主義   

−その実体と幻影−−」,『拓殖大学論集』算37号,昭和39年2月,76真。)であるとす   

る。  

(6)3月吻ざαrd,CIV.971.加ne26,1849。  

(7)SchuyleI,R.L.The Fal[¢fthe O[d Co[oT,ia[Sl・S(ぐm,A SttLd.J・in Bri   

ダ㌢・ββTrαdβJ77クーヱβ7(),London,NewYoI・k,ToIOntO,1945,pp・205〜233り他に 

植民地経費を論じた文献のみあたらない今日,本稿もこの書物紅大いに負うている○   

(3)

欝41巻 第3号   222 

−44 −  

政府の政策を分析し,その撤収を「植民地紅たいする全ての責任を母国から解  

(8) 放し,そして帝国の解体を早めるための政府側の願望の明白な証拠」と理解し  

ている。しかし,グラッドストンが帝国解体論者,植民地放棄論者でないこと  

(9)  

ほ,すで軋ナッブランド氏によって明らかにされている。したがって,私は,  

植民地経費問題を植民地放棄に結びつけるのは誤りであると考える。本稿のひ   とつの課題は,羊の点を実証し通説的見解を批判することにある。   

ところで,これまでの研究では植民地経費削減のプロセスが充分に解明され   て:いるとはいいがたい。たしかにポーデルセン氏の指摘するように,1862年に  植民地経費の本国負担の軽減の決議がおこなわれ,植民地経費は削減されてい  

った。しかし,そもそもそれがいかなる意図でおこなわれたかについては上述   のように凝問点があるうえに,どういうプロセスでマンチ・ェスター・派の主張が   議会を通過していったのかについても説得的な説明がなされていない○ したが   って,政府の見解とマンチ.ェスター派など鱒批判グループの主張とを検討しな   がら,植民地経費削減のプロセスを明らかにすることが不可欠の仕事となる○   

そして,その検討を経てのち植民地経費政策のもつ意味を自由主義時代の国   家経費政策のなかに位置づける必要がある。これこそが窮局の課題である。  

ⅠⅠ  

植民地経費の本国負担の軽減,その効率的支出の要求は19世紀初頭よりあっ   た。1812年の英米戦争の結果,カナダ植民地の防衛費負担が非常に重くなっ   た。つまり,ケベック(Quebec),ハリファックス(Halifax)その地の要塞   に多額の支出がなされたのである。そのため,1817年の庶民院の財政委員会   ほ,植民地防衛費のより効率的な支出方法を見出すべきだとした0降って−18∂4   年紅は,植民地軍事費に.関する特別凄員会が設置された。同委員会は,植民地   軍事費の全ての部門に・おいて最大の節約がおこなわれるべきだとし,軍隊と経  

I  

(8=甘摘.,p.232.  

(9)西山一郎:前掲稿,47景。   

(4)

19世紀中葉に.おけるイギリスの植民地経費政策   −45−  

223  

(10) 費の若干の削減を勧告した。   

他方,カナダ植民地においてほ1837年に自治を要求する人民の反乱が起り,  

(11)  

その結果1889年に肩名な「ダラム報告」が作成された。ホイッグ先の急進派グ   ラム郷は,その報告書において上・下カナ・ダの合同と責任政府の許与を勧告し   た。そして,植民地の内政事項についてほ植民地人に.よって−選出された立法議   会に責任をおう植民地政府に委任し,政府組織法・外交・貿易・国有地処ねの  

4項目についてはイギリス本国にこ.れを留保するとした。したがって責任政府   といっても地方政府としての権限にすぎなかったが,本国に・一方的に従属させ   るというこれまでの政策とは大幅にことなり植民地自治の原則が打出された0   しかし,責任政府の許与が完全な独立紅つながると考えたイギリス政府は,カ   ナ・ダへの責任政府の許与を躊躇した。そこで,まず1840年に上・下カナダを統  

−・し,単一・議会を開設せしめた。その後急進派がカナダ政界より追放された。  

そこでイギリス政肝は責任政府を許与しても安全であると確信し1848年に自治  

を許。  

t   

このような植民地自治の原則の提唱とカナダへの責任政府の許与というよう   な新しい植民地政策の動向に,これまで単独行動をとって.し、た植民地経費削減   の要求が結びつけられる時がきた。これが1840年代末より1850年代はじめにか  

(18) けての植民地経費削減運動であった。それは19世紀中葉払おける植民地経費削  

減論争の3つのエポックのうちの第1のエポックをなす0そして第1の・エポッ   クの検討が本節と次節の課題となる。本節においては,植民地経費削減を要求   した側の主題をみ,次節檻やいてそれ軋たいする政府の反論と両者の見解の内   的関連を究明する。  

(10)Schuyler,R.L.,Ob.cii.,pp.208〜209.  

仕1)グラム報告については,さしあたりKeitb,A・B.edハ,5β加ゎd5♪β¢Cゐβざα〝♂伽c〟桝β−   

nisonBritish Colo7iialPolic.γ1763−1917,LondonINewYorkITorontbI1948・   

pp.、113〜172..をみよ。  

(12)Enc.yclobaediaBriiannica,Vol.4,Chicago,London,Toronto etc・,1963・p・   

740 

㈹ マコピィ氏は,これを「1848〜52年の『層民地改革』運動」(Maccoby,Sり助gJ≠∫ゐ   

丘αdgcαJオざ∽ヱββ2〜∫β52,Londorl,1935一.p.358.)と呼んでいる。   

(5)

224   

第41巻 第3弓  

− 46 −−  

この時期において植民地経費削減を主張したグループは三つあった。第1   は,クェィクフィ−ルド(Wakefield,E.G.)の流れをくむ,「植民地改革論者  

(ColonialReformer)」たちであり,その代表的論客はモー・ルズワー・ス(Mo−  

1esworth,Sir W…)であった。第2は,いわゆるマンチェスター派であり,そ   れほコプデン(Cobden,R.),ヒ.コ.−ムに代表される。第3はピー・ル(Peel,  

Sir R.)に,率いられたいわゆる「ピール派(Peelites)」であり,グラッドス   トン(Gladstone,W.E.)がそのス掛−クスマンであった。この三派を,さしあ   たり「植民地改革グル−プ」と名称すれば,このグループの中心論客はモール   ズワー・スであった。   

モールズワーー・スほ1848年の庶民院紅おいて自らの主張を簡潔に.説明する。「第   1に,植民地経費は帝国の利益を競わずに.削減しうるということ。欝2紅,植   民地政策の体系と統治ほ,植民地に.とってより経済的でありより点い統治で   あるよう紅修正されうるということ。そして最後に,これらの改革によって植   民地の資源は開発されるであろうし,それらはイギリス帝国紅とってより有用   に.なるであろうし,住民はイギリス帝国に.より一層引つけられるであろうとい  

(14) うこと。」彼め主張は,植民地経費の本国負担の軽減と植民地自決権の拡大に  

ょってイギリス帝国の発展をはかろうとするものであった。その主張をより辞  

しく見よう0   

その前に.ひ・とつ注意しておく事がある。それは,モールズワ−スが植民地制   度の改革という場合の植民地とは大体においてイ■正式の植民地(colonies,prO−  

(1さ)(1¢) pe工・1ysocall申)」,「セーロッパ人がふえ,繁殖することが予想される植民地」  

であり,いわゆる移住植民地と称されるものであった。具体的に」は,北アメリ   カのカナダ植民地,西インド諸島,プァン・ディ⊥メンズ・ランド(Van Die・  

(17)  

men,s Land)を除くオーストラレーンア植民地,南アフリカ植民地である○ し   n亜 3助〝∫αrd,C.816.July25,1鋸8.  

個㈹ 3月α紹ざαγ・♂,CVIII.570.Feb川む・y8,1850.また,モ▲−ルズワ−スはこの植民    地を「其の植民地(true colonies)」(3Hansard,CXV.1337,1401.AprillO;1851・)   

ともよんでいる。  

椚)J勃■d.,1372.   

(6)

19世紀中葉に.おけるイギリスの植民地経費政策   −47−  

225  

たがって,インドは勿論,汐プラルタル(Gibraltar),マルタ(Malta)などの軍   事基地植民地は含まれていない。これは,コプデン,グラッドストンらに.も共   通の見解である。   

モールズワ・−・スは,これらの移住植民地におけるイギリスの行政は重大な欠   陥をもっておりうまくいっていないと政府の植民地政策を批判する。彼は,上  

・上カナダ間の民族戦争,西インドに=おける砂糖価格の下落に.よるプランターー   の滅亡,南アフリカに.おけるカフィル戦争,メ■−・ストラリアの流刑囚植民地の   存在,ニ.ユー・ジー  (エ8) ランドにおけるマオリ族との戦争などをあげ,「■今日の植  

民地政策の最も顕著な結果が戦争,反乱,くりかえされる困窮,不満そして膨  

(19) 大な経費であることは明白であります。」と断言する。そのために,イギリス  

帝国の基礎はおぴやかされており,なんらかの改革が早急に.おこなわれる必要   がある。モールズワ−スによれば,このような植民地の窮状ほ,植民地行政の   方法が惑いためではなく,植民地制度そのものが誤っているためである。つま   り,植民地の実情に.うとい植民地省官僚が植民地の作成する全ての法律を否認   しうる裁定権(arbitrary power)をもち,植民地の内政軋干渉するためである。  

彼は「植民地省の首脳は政府の交代ごとに,変る。彼等ほ不在の支配者(absentee   I・ule工・S)であります。彼等は植民地の状況についての目に・よる経験をひとつもも  

っていない。一 彼らは常紅植民地に.関して−は二次的なそして不完全な情報紅   たよらざるをえません。それ故,彼らは山般的に感知であります0いや無知よ  

(20)  

り悪く,彼らは山般的紅植民地問題について誤った情報をえている。」と手厳   しく批判する。   

このような植民地行政を改めるため紅モールズワL−−スは,イギリス帝国の統  

(21)  

−を達成するために.不可欠の「帝国統治権(impef・ialpowers)」とそれ以外の  

「植民地統治権(localpowers)」とを分離せよという。つまり「私の意味すると   ころは,われわれが植,民地の人たち軋総ての植属地統治権を委任し,彼らの地方  

ug)3Ltansard,CIV.372.Apri116,1849.3月〃〝Sard,CVI.944.June26,1849.  

仕切 3肋%ざαγd,CIV.372〜373。ApI−il16,1849.  

捌 3HqTIsaTd,CVm.574FebIuary8,1850  

但1)「帝国統治権」の具体的内容は,Jみよ■d.,577〜576.に.列挙されている。   

(7)

226  

′第41巻 第3号   

ー4β−  

的業務に.関する法律は1、かなるものでも通過させる資格を彼らに・与えるぺきで   あるということである。したがって−,われわれは植民地立法部の総ての法律を   否認する現在の裁定権を植民地省より奪い,帝国統治権に.関する問題に嵐民地  

(22) 省の権能を限定すべきであるということを意味します。」こうすることに・よっ  

て,植民地の不満ほ解消し,植民地ほイギリス帝国に.より強く結合される0    以上のようにモールズワ−スは,イギリス帝国の危械を回避するために植民   地に.たいする自治権の付与を説く。そして自治権の付与は,またイギリス本国   の植民地経費負担軽減の根拠にもなる。彼は,植民地経費削減の目的は租税の   軽減にあることをいう。「ある種の好ましくない租税は廃止すべきであるとい   うのが社会のさまざまな階級の間の強い希望である。それらを廃止するため  

(23) 紅,できるなら国家経費が削減されるぺきであるという大きな期待がある。」  

そして,国家経費の大幅な削減がおこなえるのは植民地経費においでであり,  

植民地経費を削減するもっとも効果的な方法は自治植民地のイギリス駐屯軍の   撤収である。すなわち,1846〜47年の植民地経費は3,500,000ボンドであり,  

このうち500,000ポンドが民事費で,残り8,000,000ポンドが植民地防衛のため   の陸軍費である。後者のうち,2,600,000ポンドが北アメリカ,西インド諸島,  

カ・−ストラレL−レア,南アフリカの「真の植民地」のための軍事経費なのであ  

る。   

モールズワースはこの軍事費は多すぎるという占′なぜなら,それは,1849年   のこれら植民地へのイギリスの輸出額と比校するとポンドあたり8シ′リング6  

(94) ぺンスに.ひとしく,また同年の植民地の歳入金額に相当する。さらに.,イギリ  

スの植民地であったアメリカ合衆国への輸出額ほ,年2,600,000ボンドの陸軍   費を資している移住植民地に.たいする輸出額の2倍であること,アメリカ合衆  

㈹。抽d.,576.  

幽 3月α〝ざαrd,CXV.1364.ApI■illO,1851.  

銅 前年には,1848年の植民地軍事費4,000,000ポンドとそれら植民地への1844年の輸出    額9,000,000ボンドとを比較し,軍事費は輸出額1ポンドにつき9シ′リングの勘定紅な   

るとして「わが植民地貿易の大部分は,植民地紅おける軍隊の経費をまかなうために.送   

られる商品よりなる。」(3肋形ぶαr♂,C.820.July25,1848.)とモ−ルズワースはいう。   

(8)

227   19世紀中葉に.おけるイギリスの植民地経費政策   −49−  

国の外交費は年わずか10,000ポンドであることが力説される。要するに利益の   ぁりに.は,費用をかけすぎているということが指摘され,「この経費の大部分  

( =さ1  

ほ不必要である,あるいは窮局的には不必要たらしめられうるであろう。」と   いうことが主張される。なぜなら,それらの植民地は自治権を付与され,代議   制度をもちうるからである。イギリスは,植民地の防衛をおこなってやっても   植民地議会の同意なしに」は植民地より租税をとりたて−,その経費をまかなうこ  

とはできない。したがって,そのような植民地は,自らの収入で防衛費をまか  

(26)  

なうべきだとする。   

そこで,モールズワー・スほ植民地軍事費の負担に.ついて−の3つの原則を提示   する。第1は,自治植民地の国内の安寧維持のための軍事経費は植民地自身の   負担に.よるというもの。すなわち「其の植民地転ぉいては,それが自治を獲得  

した後にほいかなる軍隊も原住民との戦争又は国内の平和と安寧の維持のため  

(27)  

には連合王国の経費で維持すべきではない。」しかし,植民地は,楓民地関係   以外の軍事費ほ負担しなくてよい。すなわち,第2原則は,「イギリス帝国が   外国の主権者と交戦するか,又ほ.交戦しそうになった時に偲,その時の植民地  

(包8)  

防衛のための軍隊の経費は,帝国政府によってまかなわれるぺきである。」欝3   に.は「帝国の目的のために,真の植民地の境界内に設置されている要塞又は海  

、ノ 軍基地紅守備隊を駐屯させるのが適している場合に.は,その守備隊の経費ほ同  

(29)  

じく帝国歳入に.よりまかなわれるぺきである。」要するに.,イギリス帝国の防   衛費と自治植民地自身のそれとを区分し,後者を植民地に負担させること,異   体的に.ほ自治植民地からイギリス駐屯軍を撤収し植民地の自衛に.まかせるヱと   である。   

この原則を適用すれば,モーール 

メリカ植民地に.おいて400,000ポンド,西インド植民地払おいて250,000ポンド   の軍事費の節約が可能となる。又,ニェ.−・・ジーランド,南アフリカ植民地に  

堤5)3助〝.Sα7・d,CXV.1372.ApI−illO,1851  価)ルノd,1373  

併願姫劫」沌摘.,1377.   

(9)

228   第41巻 第3号   

ーー 5〃 −  

自治を付与する場合,これまたその原則の適用に.よって550,000ポンドの経費の   節約が可能となる。さらに民事費について−も軍事費の原則を援用すると,130,  

(30)  

000ボンドの節約がおこなわれる。   

かくしてモー・ルズワースほ,移住植民地にたいする自治権の付与・拡大を槙   杵にして植民地の不平不満を解消すると同時にイギリス本国の植民地経費負担  

(31)  

の軽減をはかろうという−・石二鳥の提案をしたのである。   

マンチェスター・派のコプデンも同様な考えを披渡する。彼は,まず「この国   の経費のうちでかなりな削減をわれわれ〔議会〕がおこなえる唯一の方法は植民  

く82)  

地の軍事および属事サ−ダイスの項目を削減することによってである。」との   ぺ,その目的ほ.インフレ一打ヨンやパニックに.あっても消失することのない  

し33)  

「恒儒的な剰余金」をつくることである。勿論,この剰余金は,すでに・明らか  

(鋸) に・したようにイギリス垂木主義の発展にとって阻害となる租税の減税にふりむ   けられるのである。   

植民地経費の削減については,植民地駐屯軍の撤収を強調し,1851年4月に  は「植民地に守備隊をおくことがこれまでほ愚行であったとすると,今やそれ  

(祁)  

は全くの気違いざたに.なった。」という。勿論,コプデンも総ての植民地の駐   屯軍を問題に.しているわけではない。汐プラルタルとかマルタのような軍事基  

(36)  

地に.ついては「われわれは守備隊を維持しなければならない。」とする。しか   し,オーストラリア,ニュ.−・ジーランド,  ケープなどについては「イングラ  

(調.乃拍.,1399〜1400.  

鋸 この趣旨を最も明白に表現したものは,1851年4月の庶民院に彼が提出した動議であ    る。すなわち「本院の見解は,軍事基地又は流刑囚植民地のための経費を除く植民地の   

ための現在の民事および軍事の経費負担を,できるだけすみやかにこの国よりのぞく手    段がとられるぺきであるということ。そして,同時紅植民地・一軍事基地でも流刑囚植    民地でもない−の住民に植民地自治(localself−gOVeInment)のための十分な権能を    与え,現行の軍事占領からは不可避である彼等の内政にたいするあの帝国的干渉から彼    等を解放することが当を得ているということ。」(J∂柑.,1407.・)  

侍2)朗)∫鋸故,1440.  

伽 西山一郎:「『自由貿易的経費膨脹』政策(2・完)」,『香川大学経済論葦』第39巻第    4号,昭和41年10月,59貫。  

85)3HansaY・d,CXV。1441.Apri110,1851.  

鯛抑㈹ 3月お〝ざαγd,CII.1228.FebIuaI■y26,1849.   

(10)

229   19世紀中葉におけるイギリスの植民地経費政策   −5J−   

ンドの人々がこ.れらの植民地の軍隊(establishments)を維持するために課税さ  

(37) れるのほ条理にあわない」と主張し,「彼ら〔移住植民地〕は,自らの防衛と自  

らの統治のために必要な軍隊(establishments)を自分自身で維持しなければな  

(S8) らない」という。そして,その理由としては,ひとつは,植民地が自治権をも  

ちイギリスがそれに課税しえないということである。すなわち「ゎれわれは彼   らに.課税しえない,われわれは彼らをして国産にたいする貢納をおこなわしめ  

(39)  

ることができない。それ故に,彼らほ自分の経費を支払うのが正しい。」もう   ひとつの理由としては,自由貿易の採用によって植民地市場の独占の必要が今   日なくなったということであり,「われわれほ植民地の経費を負担するに.際し  

(40)  

て以前紅用いられた口実を除去してしまった。」という。要するにコプデソほ  

(41)  

自治を与・える代償として自前で防衛せよというのであった。   

つぎに,ピール派に属し,ゐちに最もドラスティックな植民地駐屯軍の撤収   を遂行したグラッドストンの主張をみよう。1850年までに.「真の植民地改革論  

(42) 者」になったといわれる彼は,1840年代後半より1850年代前単に.かけての時期  

に生涯の植民地政策観を形成した。グラッドストンは,1849年の庶民院におい   て自らの主張を明快にのぺる。すなわち「私ほ;健全な植民地政策はこの国か   ら植民地を分離しないように.することであるとかたく信じています。しかし,  

帝国国庫からの多額の出費がその関係を強化したり永続化したりするものであ  

(43) るとは考えません。」とのべ,植民地経費の削減を主張する9そして,彼は18引  

年のカフィル戦争に.関する論議に.率いて植民地経費の増加の抑制を説き,「大   CS9)3Hansard,CXV.,1441.Apri110,1851.  

朋」槻■♂.,1442 

㈱1849年12月のブラッドフォ・−ド(BIadfoId)における演説でいわく,「諸君〔植民地人〕が    必要とする最大限の自治をあたえよう。しかし,イングランドの人々を代表していうので   

あるが,諸君はこの〔植民地〕政府の費用を支払わなければならない一諸君は諸君自身    の軍隊の費用を支払わなけれはならない,諸君自身の役人の費用を支払わなければなら    ない,諸君自身の教会施設の費用を支払わなければならない。」(MoI■ell,W.P.,β再≠ねカ   

ColonialPolic.yin the Age qf.PeelandRussell,1966(NewImpression),Lor)don,   

p.488.)  

(42)Knaplund,Pり G[ads!oNC aNd BTitGLIL,sIwl♪erioZ Polic)・,London,1927.p.   

63.  

㈹ 3月勿矧併・d,CIV.354.ApI■il16,1849.   

(11)

第41巻 第3号   230  

−52−  

衆を圧迫する租税負担をできるだけ軽減すること以上の義務は本院に課せられ  

(44) ていない。」と植民地経費の増加による増税の回避を強調する。   

グラッドストンは,植民地と本国の関係について−ほ.従来の中央集権的な植民   地行政を不合理なもの誤っているものと考えた。そして,1848年までに,自治  

(4∂)  

こそが植民地問題の唯一・の解決策であるという結論に達した。1851年にほ.,多   くの政治家が植民地を子供のように取扱うのが正しいと考え/ている−サーなわ   ら,最初長い衣服を着せ,つぎに.短い衣服を着せ,それから歩くことを教え,  

なかなか自由にしてやらない−とのべ,それは全く誤っているとする。「わ   れわれが本当紅自由紅してやりたいのなら,植民地を自由にしなければならな  

(46)  

い。」とのべ,ケープ植民地にたいして直ちに植民地の内政を執行する「全く  

(47)     (48) の自由.」「絶対的責任.」を付与せよという。そして,ケ−プ植民地にたいする「絶  

対的普任」には,カフィル戦争の処理の責任も含まれていた。かくして,グラ   ッドストンも植民地に自治を付与し植民地の内政経費を自前に.させることを狙   っていたといえよう。  

ⅠⅠⅠ  

以上のような植民地改革グループの改革に.たいして当時の第1次ラッセル政   府はどういう態度をとったか。ラッセル政府は,モールズワ「スの提案を植民   地放棄を策するものと断定する。ラッセル(Russell,LordJ・)首相ほ,モ−ル  

ズワL−・スの提案を単なる植民地経署節約の問題とみずに「それほ事実上わが  

〔植民地〕政策の方向が帝国の維持をめざすか解体をめざすかの問題でありま  

(49)  

す。」という。   

植民地相紅代り,首相をしのぐ弁舌をふるうホクズ(Hawes,B・)植民地省次   官は1851年の庶属院に.おいて−「尊敬する男爵〔モールズワL−ス〕は,軍事基地が   存在し軍事経費を支出しているわれわれの現在保持しているそれらの植民地を  

(44)3Hansard,CXVr.265。ApIil15,1851..  

㈹〕伽aplund,Pり〃♪。C∠f.,p.15  

仏錮Ⅵ㈹ 3月お〝.ざαrd,CXVIl.268.ApIil15,1851.  

舶)3肋〝5αグd,CXV.1444.ApIillO,1851.   

(12)

19世紀中葉におけるイギリスの植民地経費政策   −53−  

231  

放棄するよう議会に計画的に提案した○何故なら,わが軍隊の撤収ほそのよう  

(50)  

な政策の現実的宣言であるからであります。」という。植民地にたいする自治   制度の導入・拡大の結果,植民地は帝国の干渉から解放された0さらに帝国の   駐屯軍が撤収するようになると植民地とほ通商上の取引以外の関係は残されな  

くなる。・そうなると,他の列強が植民地を入札し(bid foI),′支配下におく。  

「それ故,尊敬する紳士の政策の結果ほ.−−−こういうのは誇張ではないのであ   るが一明白にわが植民地帝国のはるかに大きい部分を放棄することになるで   あろう。私は,この国の政治家や,商人あるいは貿易業者がそのような政策を  

(51)  

採用する用意ほないと信じています。」ホクズ次官ほ.きっぱりと拒否の態度を   表明する。また,多数の議員たちも,ある議員ののべたよう紅モーノレズワース   の提案を「植民地が無用であ り,そ・れが放棄されるのが早ければ早いはど点い  

(62)  

というのが自由貿易派のお気入りの理論である。」というように受取っていた   と思われる。   

モールズワースの提案を植民地放棄論と理解する政府が,それ紅反論して植   民地の価値の大きさとそ・の守護を力説するのは当然の成行である。ラッセル首   相ほ,植民地をもつのは価値がないという有力な見解に反論するとして植民地   守護の2つの根拠なるものを示す。第1は,植民地の維持が「われわれの義  

(83) 務」であるということ。すなわち,イギリスが未開の植民地を開発し文明化す  

る仲介者であるという自負である。ニ,コ.−・汐−ランドやアフリカのナタール  

(Natal)にはイギリス人が教化した原住民がいるがイギリスがそれらの植民地   を放棄すると彼等はもとの野蛮状態に.逆もどりし,ヨーロッパ人に反抗し戦争  

(84)  

をおこすようになるという。これは,植、民地の維持によってイギリスの文明,  

醐.抽dり1405 

(51)J∂柑.,1408..1849年にモ−ルズワースは上述のような植民地制度改革のための特別委    員会の設置を提案したが,それに.たいしてもホクズ次官は「今夜の尊敬する紳士の演説    は,事実上植民地の全面放棄に賛成したものである。」(3肋〝∫〃′・d,CIV..9飢.加ne    26,1849り)と断言している。  

(52)3且狐潤・d,CIV.368.ApIil16,1849∴  

63)3肋〝ざαγd,CVIIT.洪5いFebI・uary8,1850 

(5亜 j職d.,544〜546.   

(13)

232   第41巻 第3号   

・−54−  

(55) 制度,宗教の影響力を流布しようとするものである。欝2は実益の方であり,植  

民地が世界貿易の根拠地となり,貿易の安全を保障するということである。ラッ   セル首相ほ,もし植民地を放棄すれば戦時にそれが敵国の基地となり「世界中  

(朗) の諸君の貿易ほ阻止され分断されるであろう」という。   

さらに.,ホクズ次官は1849年の庶民院で植民地の守護を力説していわく,「私   は,植民地帝国が母国に大きな利益をもたらしていると信じています。そして   私は,その帝国がそこなわれるのを決してみたくない。・・植民地は血と情の   絆によって結びつけられたわが同輩であります。・・いそして私ほ,単なる欲得   づくの考えからこの国の立法府が,祖先が獲得し名奮と正義と寛大さでもっ  

て,すなわち母国と植民地紅等しく利益になるように守護するようわれわれに   残したあの帝国を弱体化したり減少したりすることに賛成する日の決してこな  

(57) いことを希望します。」   

その結果,モールズワースらの植民地改革グループの提案は議会を通過しな   かった。たとえば,植民地経費の削減と植包地自治の拡大を審議する委員会の   設置を提案した1849年のモールズワー・スの動議ほ,賛成89票(ここに.ほ,アタ  

リー(Adderley,C.B.),ブライト(Bright,J.),コプデン,グラシドス  

(68)  

らの名前がみえる),反対163票で否決された。   

ところで,モールズワースらのグループと政府とは根本的に対立していたの   であろうか。私のみるところでは,基本的な問題においてほ両者の和書ほ一激  

していたように思える。そのことを次に実証する。まず第1に.,ラッセル政府  

個 植民地相グレイ(GI・ey,LoI・d)は1850年の覚え書きに「イギリス女王の権威は,現在    地上の広範な地域の平和と秩序を維持する最も有力な手段であり,また数百万の人類に 

キリスト教と文明の恩恵を分ち与えるのに役立っている。」(MoIⅠ・ell,W..P.,〃♪小C払,   

p.522.)と記している。  

伽)3月お〝∫αγd,CXV.1446りApI・illO,1851小モレル氏紅よればグレイ植民相もイギリ    ス帝国の維持をラッセル首相と同じく実益と義務との両側面より考えていた(MorI■ell,   

W小P.,Ob。Cit.,p.522.)。Cf.ibid.,p。208。(ラッセルのグレイ宛て手紙)  

67)3Hansard,CIV.352.April16,1849.  

闇 3月お乃ざαγd,CVI小1002〜1004..Tu丑e、26,1849 

(14)

19世紀中葉におけるイギリスの植民地経費政策   −55−  

233  

は,モー・ルズワー・スらが植民地の放棄を意図していると批判するが,果してそ   うであろうか。頭目の吏−ルズワースはどうか。彼の提案の出発点は現行の植   民地制度が誤っているということであり,そのために帝国の安定がおびやかさ  

(59)  

れ「さしせまった危機」にあるということであった。そういう認識にたって   彼は帝国の解体ではなく,安定をとりもどし団結を強化するために改革を提案  

したのである。したがって,彼は植民地放棄論について「私はそのような意見  

(8n)  

がたかまるのを残念に思う。」のとべ,「私はその帝国のいかなる部分の放棄を  

(61) も提案いたしません。」と断言する。また,マンチェスタ「派のヒ1ユ・−ム議員  

も,植民地経費負担の軽減と植民地行政改善のための自治制の付与を説くと同   時に「こういうことを私はのぺるけれども,私が植民地を放棄することを望ん   でいるなどとは決して考えないようにお願いする。それら〔植民地〕が正しく運  

(62)  

営されるならばそれらは少しも重荷でないと考えているからであります0」と   明快にのぺている。すなわち,従来のような多額の経費を必要としない安上り   の植民地経営を希望しキのである○   

通説では植民地放棄論者として■著名なアブデンも,その考えはと.ヒ.−・ムと同   じである。彼は,当時においですでに.誤解されていたらしく1843年の庶民院に   ぉいて反論をおこないながら自らの真意を説明する。「私ほ,その事〔植民地問   題〕に関して大きな誤解が諸君〔反対党〕の間に流布しているものと檜ずる。私   ほ,自分が採用しようとして‥いるコー・スに・ついて誤解されるのをこのまない0   私は,反対党の尊敬する紳士諸君の誰よりも植民地の維持に賛成なのである0   私は,営んなと同じくイギリス民族が地球上に広がるぺきことを熱望してい   る。そして−、私は正しい運営制度の下に.おける植民地が移民自身に・とってと同  

(6さ)  

様紅母国に.とってもためになると信じています。」そして,彼ほ植民地駐屯軍  

(5g)乃材.,966.  

冊〃薇.,967 

61)3Hansard,C。854.July25,1848小Cf・ibid.,835・  

棉:=勤M如,CVI.970.Ju刀e26,1849・  

臓 3月虎〝gαγ・d,LXX.205.June22,1843.コブデソは,現在の植民地制度がイギリス   

に.とって害悪であり,損失であると批判する。つまり,イギリスは,植民地に課税でき   

(15)

234   第41巻 第3号   

− ∂6−  

を撤収し,植民地自治を付与しても植民地がイギリスより離れていくことはな   いと主張する。「私ほ,植民地と母国との政治的結びつきがだんだん弱くなっ   てこいくにちがいないことを認める。そしでそれが政治的にほはんのささいな結   びつきにしかすぎないであろうこともわかる。しかし,他方,彼等と握手をしょ   うという正しい善意でもって植民地に自治の権利を与えることによって,諸君   は,いかなる政治的なきずなによるよりも通商上および遺徳上においてはるか   に強力にその結びつきを維持するであろう。−・方は剣によるものであり,他方  

(64)  

ほ母国にたいする愛情の強いきずなによるものである。」かくして,コプデン   は駐屯軍という金のかかる方法を批判し,自治の付与と愛情という安価な方法   による植民地の維持を意図したのである。   

グラッドストンは植民地放棄を考えていたか。彼は,すでにみたように「健   全な植民地政策はこの国から植民地を分離しないように.することである」との   づ,植民地放棄の意図なきを明示している。しかし,グラッドストンは移住植  

(65)、 民地が結局独立する運命にあり,そのための方策が必要であると考えた。そし  

て,彼は,植民地が独立するに.あたってもイギリスとの関係を維持しうる形が   のぞましいとし,それは,植民地に自治を許与することであり,そうすること   が植民地を独立した後もイギリスにひきつゆておくこと紅貢献すると考えた。  

いわく「アメリカ合衆国の場合のように流血のさなかにその結びつきが切断   されるのではなく,それが,これらの社会が自治と独立に完全私通合した国紅   なるよう自然なそして皆に認められた成長をしたことから発生し,そして,政   

ないうえに,植属地に対して陸海軍は勿論,学校教師,主教,判事をあたえ,燈台,運    河を建設してやっている。そして,その経費は陸海軍だけで1年につき5,000,000〜   

6,000,pOOポンドにのぼる。ところがそれだけ面倒をみてやら 

は年10,000,000ポンドである。「それは,あたかも商人が1ポンドの値うちの商品どと    紅彼の顧客紅半ポンドをあたえるのとそっくりである。」(J∂≠−d.,210い)要する紅,コプデ    ンは,金を支出する割合には利益のあがらない植民地行政を批判し安上りの植民地政策    を求めたのである。  

(紬 MoIてell,W.P.,0♪.c紘.,p.488‖西山一・郎:「イギリス19世紀中葉における植民地    政策の二側面紅ついて」,『香川大学経済論叢』第40巻第5号,昭和42年12月,46貢もみ    よ。  

(65)Ⅹnaplund,P,.,♂♪.d−f.,p。62.   

(16)

235   19世紀中葉に.おけるイギリスの植民地経費政策   −57−  

治的な結びつきがなくなった後もー・体感が法律および諸制度の類似性と愛情の   親密さとの中に依然として存することを希望する。これこそがイギリスとのい   かなる政治的な療びつきよりもほ.るか紅価値あることをちゅうちょなく申しま  

(88)  

す。」グヲッドストンが植民地に自治権をあたえることほ,ナ・ッブランド氏の正  

(67) 確に指摘するように愚民地を真に独立させるためでほなく,植民地をイギリス  

に間接的に従属させるためであった。   

以上みたように,植民地改革グルー・プが植民地放棄を考えているというラッ   セル政府の非難ほ的はずれであり,誤解である。   

第2の問題は,ラッセル政府がモ−ルズワースらの提案を上述のよう紅.植民   地放棄論であると非難し,自治の付与も植民地経費の削減も考えず,実行しよ  

うとしなかったか否かということである。まず最初に自治権の許与についてみ   よう。ラッセル首相は,1849年の庶民院において「植民地政策に関して本院が   なしうる最良のことほ………植民地の自由を拡大し,そして彼らに自治のより大  

(68)  

きい権限をあたえることである。」とのべ,自治付与の原則を認めて−いる。そ   して:,1848年にほカナ・ダ植民機庭.対して貴任内閣制を許し,絶督が立法議会の   多数党から内閣すなわら行政院を任命することになったのである。但し,政府   は自治権の許与にさいして一・定の条件を考えていた。ホワズ次官はそれを「こ   の国の政策ほ,将来,植民地がそれ〔自治〕を享受し,それを賢明かつ節度をも   って行使するような状態になった時に植民地自治(1ocalself−gOVernment)、を  

(69) 授けるであろう」というように表現している。グレイ植民地相もはぼ同様の  

(70)  

考えであったことがモレル氏に.よって指摘されている。   

つぎに,植民地経費の負担についてほどうか。グレイ植民地相は、「植民地   のための軍事経費はたしかに非常に重い。・…・この経費は大幅に削減されなけ  

(66)3助乃ざα′♂,CIV.355りApI■il16,1849.  

(抑]伽aplund,Pり〃♪..d■≠.,p.61一「彼〔グラッドストン〕ほ今や不満の治療痕および帝国    の統一・維持の手段として自治の許与を助言した。」(∫み昆.,p.165,.)そして,グラッドス   

トンの説く愛惜紅よる帝国の統一・も,要する紅安上りの帝国統一・の方法なのである。  

靭 3助乃5αγ・d,CIV.1002。.Tune26,1849 

(69)3Ha71Sard,CIV.346.Ap【i116,1849.  

(70)MoITell,Wり Pl.,∂♪.dfりp..513.   

(17)

236   第41巻 第3号   

ーββ−  

(71〉  

ればならない。」との、べ,植民地はこれまで以上の額の防衛費を負担すべきであ   ると考えていた。ラッセル首相も,1851年の庶民院において「■陸軍駐屯軍が過大   である若干の植民地があり,そこでは人民自身がどんな内乱をも鎮在し,国内  

(搾) の治安を維持するのにも十分な民兵を備えうるであろう。」と植民地への国内  

防衛の肩がわりを勧める。そして,ラッセル政府は1846年に西インドから2連   隊,1847年にカナダより2連隊をそれぞれ撤収した。また,グレイ植属地相   は,1848年8月に,カフィル戦争を遂行していたケープ植民地にたいして「同  

(乃) 種のいかなる新しい戦争もこの国の経費でおこなうことほできない」と警告し  

た。さらに,1849年にはニ,コ.−・サウス・クェー・ルズの総督に.あて:て,帝国軍隊の   兵営ほ植民地自身によって維持されること,帝国駐屯軍需=/ドニ・−(Sydney)  

とメルボルン(Melbou工・ne)紅周られること,それ以上の必要な軍隊は植民  

(74) 地がその経費を負担することを通告した。そ・して,1851年にほカナダ総督疫あ  

(76)  

てて,ケ−プ植民地にたいすると同様な趣旨の書簡を送っている。   

しかし,注目すべきはグレイのこのような方針もそれが現実紅実行されたケ   ースはごく少いということである。ラッセル首相自身,駐屯軍は直ちに削減す  

(78)  

ることができなこいと考えていた。したがって政府の当時の表むきの考えは,ホ   ウズ次官ののぺたように,政府の政策が将来紅そなえるものセあり「、その目的   は植民地の資源を開発すること,そして結局彼ら自身の統治の経費を全て彼ら  

(77) に.負担させることができるようにすることである。」したがって「いずれそれ  

(指) 〔植民地軍事費〕はかなり削減されるであろうと考えております。」ということ  

であった。要するに.,政府は植民地経費の中心をしめる軍事費の削減と自治権の  

打1)Schuyle【,R.L.,0♪.cLt,p216  

Ⅳ勿 3助〝∫〃rd,CXV..1450.ApI■illO,1851.  

け劫 MorI・ell,W..P.,け,ぐれ,p.476 

㈲ ′∂紘,さ.490.  

㈹.ほ玖,p.498.グレイは,自らの植民地政策を定式化しているが,それはモ−ルズワ」−   

スの考えとはとんどかわらない(ScbuyleI■,R.L.,¢久C玖,p.220.)。  

㈹ MoIⅠ・ell,W.P.,〃♪.c玖,p..208.  

仰 三=勤蛸血,CIVり346..ApI・′il16,1849小  

㈹)乃緑.,347.   

(18)

237   19世紀中葉におけるイギリスの植民地経費政策   一反9−⊥  

許与にほ賛成だがそれを直ちにそして大幅に実行しょうとは考えてし、なかった   ということである。   

したがって,政府とモールズワ−スらの植民地改革グループとは,植民地の   守護という大目的では−・致しているが,その改革の内容についてほ若干のくい   ちがいがあった。両者のくいちがいはアグリー・議員のいみじくものべたよう   に、「政府が漸次的におこなおうと企図しているところのものを彼等〔植民地改  

(79)  

革グループ〕は直ちに.実行することを提案したということ」である。   

でほ何故政府は漸次的な実施という考え方をとり,モールズワースらの決議   に反対したのか,第1の理由は,植民地駐屯軍撤収のあとの楓民地の防衛体制   に政府として不安があったということである。ホクズ次官隠,駐屯軍を撤収し   て経費削減をおこなう以前に「諸君はその軍隊〔駐屯軍〕を植民地を保護し秩序  

(80) を維持するに多少は有能で十分な軍隊に置きかえなければならない。」といっ  

ている。第2に,自治権を許与した植民地がカナダだけであり,自治を与えると   同時に植民地駐屯軍を撤収するのに.世論としてほ不安感があったということが   考えられる。この点について,西インド植民地を視察してかえり植民地の実情   紅通じていたスタンリー(Stanley,E H・)議員ほ率直にのぺている。「尊敬す   る男爵〔モールズワース〕は,植民地放棄の意図を全面的に.否定されるのはよく   わかる。私はその発言が真実であることを全面的に信頼します。しかし,議案   の結果がその立案者の意図とはしばしばことなることを私は忘れるわけに.はゆ   きません。そして,尊敬する男爵が動議を提案した演 説よりもむしろ動議その   ものをみると,私は植民地省次官である尊敬す−る紳士と同じ結論に.達し,もし可   決されるならこの動議の効果が植民地帝国の全面的放棄に.なるであろうと彼と   ともに信じます。そういう方法に賛成するつもりほ決してありません。私は,  

㈹)3J勤微氾ね,CXVl・1420‖ApI−illO,1851uアタリ−や;,モールズワ・−・スの提案はカ    ナダにたいするグレイ植民地相の書簡において総てみとめられたものではないのかと批    判したのに.たいしてラッセル首相は「しかし,それ〔グレイの示した原則〕は,非常紅慎    重に実施されなければならない。それほ漸次的に実施されなければならない。それは,   

この原則を適用するの紅適当と諸君が考える植民地の状況紅従って時折実施されなけれ    ばならない。」(∫∂≠−d一.,1450.)と答弁している。  

(8O)3Hansard,CIV。347。April16,1849. 

(19)

238  

第41巻 第3号   

−・飢トー  

(81)  

これが世界の歴史における前例のない政治的自殺行為であると信じます。.」   

しかし結局,これらの反対理由が解消するのは時間の問題であった○なぜな   ら基本的な問題についてほ両者が−・致していたからである。したがってスカイ   ラ、一教授のように「グレイト・ブリテンの負担による植民地防衛の制度ほ60年  

(82) 代まではとんど変化なく続けられた。.」というのは事物の表面の魂しかみていな  

い指摘であろう。  

ⅠⅤ  

植民地経費改策の第2のエポックを画する決議が1862年の庶民院に.おいてな   された。それは植民地改革論着であるミルズ(Mills,A.)によって提出された   ものであり,モールズワノー・ヌらの唱えていた植民地自身の防衛は植属地自らで   おこなうということを鱒べたものであった。すなわち,「本院は,帝国の政策   の諸結果から発生する危機紅対処する帝国〔イギ.リス本国〕の救援に対するイギ  

リス帝国の全ての地域の要求を十分に認識しながら,自治の諸権利を行使して   いる植民地は彼ら自身の国内の秩序と安全軋備える主たる責任をとるぺきであ  

(83)  

るという見解である。.」本筋ではこれの成立までの経過とこの原則に.もとづくそ   れ以後の実施をみよう。  

1848〜52年の論争の分析から明らかに.なったように,植民地駐屯軍の撤収は   時間の問題であった。それ以降に.おいて顕著なことは,カナダ以外に自治権を   許与された植民地が続出したことであった。ニ.ユ−・・  ジーランドにおいては   1853年に植民地人の強い要求によって患法がつくられ,自治権が与えられた。  

そして,1856年には憲法が修正され責任内閣制が確立した。オーストラリアに  関してほ1850年にイギリス議会がオーストラリア植民地統治法を成立させた。  

この法律は,各植民地の立法評議会に,与えられた憲法を修正し自らに最も適し   飢)3上甜釦.ざαrd,CXVい1437パApIillO,1851..  

(82)ScbuyleI・,R.L,¢♪=Cよ才..,p.209..  

(83)3Hansard,CLXV.1038.March4,1862..この決議はバクスタ・−(Baxter)議員の   

提出した「および〔自治植民地は〕彼ら自身の対外防衛においても(ィギリ.ス本国を〕援助   

すべきである。」(J∂∠d小,1048..)という追加修正を文末紅加えて成立した。   

(20)

239   19世紀中葉匿おけるイギリスの植民地経費政策   −6J−  

た代議政治を選ぶ自由を認めた。・そして−,1858年にニユー・サウス・ク。㌃−ル   ズは新憲法を採択し,二院制立法府と責任内閣を樹立した。この範にならっ   て,ヴィクトリア,サウス・オーストラリア,タスマニアの三州も責任内閣制  

(84) を発足させた。   

そして−,現行の植民地防衛体制を改革しようという動きが植民地自身の側か   らもうまれた。1856年にニュー・サウス・ウェールズの総督デニソン(Denison,  

SiI・W.)は「植民地の陸軍が結成され組織される形のいかんにかかわらず,母   国と植民地は同率でそ・の経費を負担すること,そして植民地政府ほ戦時平時に  

(85)  

かかわらず軍事力を決定する責任をもつということ」を提案した。しかし,こ   れはイギリスが拒否した。  

1859年にダービー政府ほ,植民地防衛経費負担の原則に.ついて論じるために   植民地省,陸軍省,大蔵省の代表者によって構成される三省委員会をつくった。  

三省委員会が提出した報告書牲,第1に現行の植民地防衛政策が租税面にたい   してほ勿論のこと,本国にいるよりも多くの陸軍を植民地に駐屯させているこ   とに.よって−もイギリス国民に大きな負担を課しているとし,欝2紅.,それは植   民地の自助申精神の発展をさまたげていると批判した○そして,植民地を帝国   上の目的に.よって設置されている軍事基地と主として植民地住民の保護のため   に軍隊が駐屯している植民地とに分け,前者はイギリス本国がその経費を負担   するとしたが,後者に関しては本国が各植民地に.防衛をまかせ防衛経費のうち  

(8¢)  

の一・定割合−2分の1−・を負担するということを勧告した。しかし,これ   は多数意見であり,植民地省はこれに.異議をとなえ少数報告を提出した。しか   し,「イギリスが植民地防衛のために人と金を提供しつづけるということほ不  

(87)  

合理である」という基本原則に.ついては一致していた。  

錮 大野英弓霜:『イギリス史』山川出版社,昭和37年,朗8〜封9,366賞。  

個 ScbuyleI■,R,L.,一・0β.cわ.,p.221.  

㈱J賊♂.,pp.223〜234.  

67)3Hansard,CLXI.1417〜1418.三省委員会の発起人であるピ−ル(Peel,General)   

陸相は「イギリスは外国ゐ文明国および(それよりやや劣るが)手ごわい原住民の侵略   

に対して植民地を防衛する援助をすべきである。しかし,植民地が帝国の目的のために 

維持されている単なる要塞である所以外に.おいては,イギリスほその防衛の総てを遂行   

(21)

240    第41巻 第3号  

一反2 −−  

このような政府の動向をみてことったミルズ議員は,1861年,1859年の三省委  

員会の提出した報告にそって政府が行勤しなかったことを理由に特別委員会の  

(88) 設置を提案した。彼は「自治は必然的に自衛をともなう」とのぺ,植民地軍事  

費削減の重要性を強調した。彼は植民地経費を4,000,000ポンドと見積りこの   うち1,000,000ポンドが削減されると,それは所得税のポンドあたり1シ′リング  

(89)  

の減税か長い間論議されている紙税の廃止かをおこなえるという○   

委員会設置の提案にたいして政府は反対しなかった。パ−・マストン(PalmeI−−  

ston,LoId)首相ほ,植民地駐屯軍増減の問題は一・委員会の仕事ではなく全般  

的外交状況を判断しうる政府の役目であるから委員会が設置されて:もたいした   成果を期待することほ/できないとしながらも「そ・の動議が可決されるぺきであ  

(90)  

るというのが本院の願望のようにみえるので,それに反対はしない。.」とのべ   る。また植民地省次官フォ・−デスキ.ユ.−(Fortescue,C・)もミルズの提案に基   本的な賛意を表明し「結局,′〔植民地〕制度の改善の指針となるぺき原則に関し  

て.・はたいした相違はない。たとえ.ば植民地省の首長である尊敬する友人〔ニ.ユ・−  

カッ.女ル(Newcastle,Dukeof)植民地相〕は,国内の治安維持のための軍事負  

担ほイギリス人の血をひく社会のような場合にはとにかくその植民地に・課する   ぺきであるという閣下で勇敢なる議員(ピール大将)にトよってしかれた原則を   

すべきでほない。…〔植民地〕国内の治安のための軍事経費は植民地の基金(localfu刀ds)   

よりまかなわれるべきである」(Schuyler,R.L.,Ob。Cit.,p.222.)という見解をもっ    ていた。Cf.3月加矧Ⅳ吼 CLVIII..1827..May30,1860.  

但劫 3助乃ざ虎γd,CLXI.1403〜1404.MaICh5,1861 

(89)〃流れ1403.アタリ−は植民地軍事費の削減によって紙税とホップ税が廃止されると    いう(∫∂摘.,1417.)。彼等はいずれ紅しても植民地経費の削減紅よって減税財源をつくろ   

うとしているのである。  

なおこの時期に.は植民地軍事費削減の理由として負担の不公平が存するということが    強調されている。アタリ−ほ,植民地防衛費としてイギリスの納税者が負担してし、る額   

は年4,000,000ポンドに達するのに.くらべ,植民地自身の分担金はその10分の1のわず    か400,000ポンドであり,これは「全く理屈に.あわない事」(3助〝5α′■d,CLVII.1638.   

March30,1860.Cf.3HansaYd,CLV。392.July25,1859.3Hansard,CLXI.  

1401〜1402.MaICb5,1861.)であるとし,「彼等〔植民地〕が陸海軍経費の若干の負担を    し自らの防衛のための人を供出しないという理由は存しない。」(3助〝∫αγd,CLV・396・  

July25,1859。)と主張する。  

00 ′∂摘.,1401.   

(22)

241   19世紀中英紅おけるイギリスの植民地経費政策   −63−  

(91)  

ただちに.受入れる。一」という。かくて.,植民地軍事費の調査特別委員会は成立し   た。   

特別委員会は報告書を提出した。それは,1859年の三省委員会と同様に.植民   地をインドを除外して2種類に分った。欝1は,マルタ,ジブラルタル,香  

港,ラビ.エアン(Labuan),セント・ヘレナ(St.Helena),シュラ・Vオネ(Si・  

erraLeone),西オー・ストラリアなどの植民地であり,それらほ主に帝国政策の   ために設置された陸海軍基地,流刑囚植民地である。そして,それらの防衛費   任と防衛経費は帝国政府が負担する。欝2ほ,「植民地そのもの一」といわれる  

ものであり,それに」は北アメリカ,南アフ.リカ,西インド,セイロン,モータ   タス,ニ.ユー・汐−ランド,西オー・ストラリアを除くオ−・ストラリアが含まれ  

(92)  

る。欝2の植民地匿おける「一軍事防衛の資任と経費ほ,・…主として彼ら自身  

(g3)  

に.帰属すべきである。」と勧告した。そして,ミ.ルズ把.よれば「その委員会に.よ   って審問された証言の全ては,自治政府を享受している植民地が軍事防衛の主  

(94)  

たる責任を負うぺきものであるということ紅同意した。,」   

翌年1862年にしルズは本筋の冒頭にかかげた動議を提出した。彼は,自分の   動議が決して.独創的なものではないことを強調し,動議の趣旨は前年の特別委   員会の−・致した原則を具体化したもの紅外ならないとした。そして,歴史的把  みれば,それはラッセル政府のグレイ植民地相の審簡においですでに公言さ   れており,もっとも有能な植民地総督の1人であるデニソンの急送公文書に.も   魂られる。さらに,この原則は前政府の陸相ピール紅よって−も支持され,現政  

師」賊♂・,1411.  

醐 スカイラ一教授の指摘するように.(Schuyler,R.L.,Ob.、Cii.,p.227.),「植民地そ    のもの」がすなわち自給植民地ではない。そこに.はセイロン,モ−・リタスのように自治   

植民地でないものが含まれている。  

幽 ∫∂オ♂.,226.  

糾)3jね㈲緒川,CLXV.1035.MaICb4,1862.この委員会の証言のなかで注目すべき    は,パーー・マストン政府の蔵相であるグヲッドストンのものである。彼は,1840年代より    の持論をのぺ自治植民地の自衛体制を勧告した。「事情が全く特殊な場合はさておき,   

自らの防衛の通常の任務を主紅負担していない社会咋,真に・あるいは語の全き意味にお   

いて自由な社会とはいえない。自由の権利と自由のための負担は必ず−・諸に・結びついて 

いるものである。」(∫∂g♂..,1045〜1046.)Cf.maplund,P.,〃タ・C払,PP・89〜90・   

参照

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