兄 玉 洋 一
L き 苦闘係の慧史料富とめて︑内警芸西寄るうち︑私はふと墓専売農芸芳局矢野絶望長の好意により︑ 欝国富部三野琴翁所蔵支昏に於いて︑久芸左衛門以前の斯学同好者霊の史料に接することが墨た︒勿論塩類粛顔の 豊科 探索に於いて︑其の予備的鱒典を提供するものは先ず今白﹁大差塩警雷﹂塞げねばなら宗︑私の変に掲げよう 与るところのものは︑同軍﹁冨沢﹂の部には見習れない︑墓の専年代以前の震度料を賢しっゝ︑内海の南詰
窄︑雷と備前両国の民間伝歎を吟警づゝ︑間警変貌のうち墓くの墓を苧雷の﹁冨沢﹂に局限して省察批判し 芸たい︒此の小笠か学界に寄与するところありとせば︑そは全く︑′鹿田翰脳慧︑堀田嘩産着翁︑三野髄儲︑田和和票︑片
芸大質︑三等太郎氏の心からなる協力の賜物であり忘著の翳よく為し讐ところではない︒記して慧を苧る︒ l︑研 尭 対.象
︵ィ︶∵養田の所在 香川県綾歌離松山村北雷撃毒草警浦
︵こ 帝屋浜の概観
﹂...﹂・こゝ旨永専売公社東研安局片井接街慧の編者に宛てたる腎信を警て︑その塀況と将来を考え︑
歴史研究を塀在に直結させて見よう︒︑〜 高屋濃艶田の現状と将卒 窮二十五巻撃三尊 近世瀬戸内海澄田の研究︵史料琴
− 誇敗因高屋浜の場合 − 草六
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ー︑土 地二利 用 状 況
馬屋浜塩田は香川県下に顔存の塩田中濃青めものであり︑且つ小数の地童が所有して小作せしめていた関係上他の墟田の如
㌢専業城田でほなく農療との兼業であり︑ズ当り平均描かん場面積は○︑一三六障で近接す各総社浜○︑︑九二ハ隋︑金山浜
0︑壱○廿障︑明治浜〇二ハ八七隔等に比較すると著しく其の荘営単位が低く︑従って各人が所有するかん水窪の敷地濫多く
の面積を占めているため︑感面辟に対し掻かん地面積が少くなっているので此のかん水盛を盤理統合するならば余地を生じ採
かん咄としく利用すかことが椚来る︒文従来採かんほ入浜合攻式にょっていたが︑現在は斜面流下式︑枝篠架式等濃縮装置に よる掻かん注が採用されつゝあり︑かん水蜜の上︑旧金屋跡等釈少な場所忙も設備することが田来るトため︑寧蝿を利用活用す るに至り馬屋浜鯨田に於ても昭和こ十八年讐︑三山○叫陪︑ニ十九年度○︑ノ二八〇五陪︑合聖︑致九〇六障の浪絹設備を
なし︑墟四九六屯の増産計画を樹てゝいるから此の設備が完成すれば遊休地も少くな資しとであろう︒
壷守田部長は枝篠栗式研究の構成であり︑テストケースとして高屋浜の発語期して待つべきものがあろう︒壷着筆
︑立 地 条 件
入浜式塩田ほ地盤に海水が浸透し毛細管現象により上昇した溢水が撒砂面にて末端して薄塩するので︑この件用を最適にす
るように塩田の︑倖置︑ノ鞄盤の苗低︑構造等を撰訳築造し且つ鵜原海水を苗入するよう設備されでいる︒表に優艮塩田は周囲
を溢水にて取囲んだ浮島わ形をなしているのが理想的である︒嵩屋浜も築造当時は浮島の理想型であつたものと思われるが永
年の問に上流より流下せる土砂により海面が耀育てられ同園が陸棚となつたゝめ現在は直蛮海に面した箇所はなく満潮に放て
北側の入川及び冤南面の胃溢川が海水にて充される程圧であり︑籍海川の流水にょり常に溢水は稀薄となるの冨無量入港水
の潰淀も僚下する恐れがある0文西側は水田に壊している為淡水浸透の危険もあるので今日の☆地条件としてほ勝れていると は言い難い︒それ敵入川及商港川の淡味をなし換厚海水の量入並に淡水の影響を除く等改良すべきであ篭二十八年度以後に
ほ汲漁を行う計画を樹てると共に下流の松ケ消耗が指定持となり竣珠され︑干潮時にも二準の水深となるので現在よりは敵地
憺
五七 近世瀬戸内海塩田の研究
的条件ほ改善されるであろう︒
更に現在は茶気利用式裂癒正よれ鳥為浪厚かん水採取に努力する結果拓かん日数も少いが︑日下真峯式製塩を行うべく工功
の建設を行っているから︑.これが完成操業するに至れぼ採破か危水塊匪も低下し得る結果採かん日数の増加により生産嵩も向
上するであろう︒
雪小倖よ埠自作への持換による生産高の向上
従来本塩田は極小敷地主により所有され殆ど小作であつたが二十大卒八月全面的に貞作に転換せるため労働澄欲の向上︑設
備の改章等により生産嵩は著しく増加するも・のと思われる︒
︑
東研究は口抑採集を史削確究により補綴修汀し得た山背例であり︑経済史に於ける特殊な一方法の嘩起である︒
三︑序 説
此の小策が問題とする近世高屋浜の概観を知るために︑こゝ忙序説的に﹁大日本塩柴全車こ ︵第三編︶所収﹁坂
出塩務局林田管内高屋洪ノ部﹂ ︵第草︑塩菜ノ沿革︶を掲げてみることゝする︒
﹃高屋浜創業ハ果シテ何時頃ナリジャ旧度数逸シテ今之レヲ微スルニ由ナキモ大留記中−二明和九年ノ洪水ニテ数カ所切込浜
一円荒浜トくナリ塩屋﹁統渡也ヲ離レ難渋シ居り﹂云々卜恵ルニ依り是レヲ見レ入明和年間三嬰姦肇シ居リタルコト頃ナシ
亦安政二年八月車齢上口上卜題女ル雷坊中十四番等置ノ文字散見スルニ依テ之レヲ見レバ当時テ於ケル金屋数ハ十四紆前以上
l;テ現時′十紆前l姦スレ.ハ紗クトモ四壁馴以⊥′多数ヲ有シ衣裳タル松山ノ海辺ガ如何二塩焚ク金屋ノ煙ヲ申讐遍ラセ
シカヲ想起スルニ雑カラス而シテ其′釜靂へ督蓉孟秋冬/四季焚キ通シナリシアトハ左ノ鹿記干依テ之ヲ知ルベ′シ
﹁近頃ハ海事ノ寄洲年々相増ジ其止深部八郎コリ旧坂浜北苧一円新開築宰l相成り傍以テ西浜ノ分ハ塩附相済琴冬︵休浜岡 第ヤ吏巻 第三者 五八
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棟一−相成﹂
♪ 亦当時二於テハ冤浜田浜′区別有リタルコト旧記1岬散見セルそ現時二於テハ其区別ヲ存セガ然レ典甥時ノ穐形ヨリ之ヲ推セ
バ威二︑二︑三︑四︑五︑大︑七︵配詣製頭㍍嫌を︶ノ六釜屋ハ西準;テ八︑山○︑三︑三﹁′四釜屋ハ常浜二隣セ
ルモノ蠍而シテ是等′召浜ハ当時皆松環焚カリシモ天保十四年ヨリ石炭焚トナリシコト是レ亦旧記/証スル所ナリ日ク
苫屋浜′童ハ以前ヨリ仙円松喋琴;塩百姓共戯々白分仕込居中候処天保十四卯年ヨリ石茨焚御願車上僻処断′過少被仰
何浜藁由精仕騒在候宥石炭ノ童ハ遠国ヨリ大給横顔候重工付仕切方塩百姓共自力ニ雛壇来無鍵盤問屋引受仕込方位呉嘱横
車川俣へ共闘屋童モ俄カニ仕込万引受供萄甚ダ差安供二村其段御厨申上御金蔵御役所ヨリ拾貫目壱カ月七朱ノ利附ニラ拝
借被仰付仕入方仕居中候処御得′通り弘化四未年七月稀成ル大風−妄林田村培醍切込云々
軍靂レ︵石盤′買入方二潮音政ヨリ相当ノ助力ヲ与へテ之レガ奨励ヲ為シ暦タルコト明ナリ筒石茨買込′外三食料貸与′
事庶モ左記魯文闇二依りテ溺知スル革ヲ碍可シ
車齢上目上
山 二大愛三十石也
00 右ハ馬屋浜韓百姓共二当暮為夫喰正琴二ア例年ノ過少御僚機下嘱棟琴悶候五歩′利息ヲ加へ来巳十月代嬰一テ元利共無滞返納
可仕石′通り御貸被下供横車厨候
文政二年十一月一一十八日
語項串手形′軍
一大麦三十二重斎斗
代銀七貢二十日
石ハ滞琴浜垢百姓共当芯為大境宇多浄御蔵所三ア御摂取下憶二管領申贋英冥正二御座候為後日仇テ如件
五九 近世減戸内幕城田の研究
嵩置浜垢組頭 曽 兵 衛
御蛤 役所 利 ′ 三 郎
石工依レハ現時′由製造人即チ当時ノ由百姓共ハ琴冬/如キ袈垢寡少ノ時期二於テ︵当時ノ御蔵所ヨリ年々麦ヲ代銀ニテ借
用シ最盛期ヲ倹テ返納シ年々此例ヲ追ヘルモノ︑如シ聖.7旧捗時代二於ケル斯学膚対スル務政ノ仙般ヲ知ルニ足ルヘシ亦当
時二於テ塩製造人卜密接/関係ヲ有スル︵歯間屋一;テ製塩ノ全部︵琴ア鯨開国ノ宇ヲ攣ア販売セラレタリ而シテ此塩問屋
ハ依然連綿トシテ営業シ塩専売法冥施枝ハ置屋全浜′辞退管麗人トナリ茶年︵明治邦九年︶三月以降ハ金浜全部ノ製造八ト
ナリ以テ今日二至レリ﹄
とある︒杜撰ではあるが︑明治三十八・九年当時の変革期の作とんては︑これ以上の研究ほ望めなかつたのであ
ろう︒只玄に哉目すべきは︑文化︒文政時代になると︑石衣の買入虹庶民宍喰の賑出に夫々名目をつけて︑いかに
藩閥の財政資本が高利凍資本への変質を余儀なくされたか︑叉その場明な転換の故に松平薄が他藩に比して裕福で
あり待たかの一・つの証左を知りうるのである︒産業近代化の黎明を明治変革よりも︑文化・文政に遡らさせて考慮
し︑前期的金融資本の確立靭を今少しくひきあげて見いだそうとする平素の私のさゝやかな見解もこゝに伏在するC
四︑三野随蒸文書の史料偲値
右岸説に掲げる欄仮名史料は︑随翁に従えば︑殆ど同家より出て散供せる.激発史料であるという︒然も明治三十
八・九年頃の該地方史料蒐鼻祖当意は著し㌔鮮卑閏編述の叡智にかけていたという︒私は今其の当否を間鞄卜しよ
うとするのではなく︑何はともあれ其の快を補いたく思う︒
三野家は先兵生駒象の家臣であるが︑二山草堂別記に従えば︑﹁畢孤十七年生駒高俊除封の後藩臣三野与義輝門此 第十五巻∴第一二号
文化十四年十二月 六〇
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地に来りて鴇田築迫し旧藩政時化より堆政所愚問屋として連綿今日に及べり﹂としている︒寛永十七年は.ぷ右締門 ︵ l︶ 栄寛はその墓石から逼箪すると﹂声十二才となるが︑その長兄三野四郎五静門栄政忙関しては他家の文嘗に於いても
︵2︶ 立証し褐た︒松原朗三氏文書に従うと︑寛永二草庵月五日︑三周四郎左得門︑疋田右近連署︑松原女雪に宛たる雫
状に﹁寒川郡志安浦正俊様為御意塩浜被成分去年造肴年嵩御赦免之由︑従当年年買埠百五拾俵三相定供﹂とあり哀
聖 同文書八月廿九日とせる条に︑﹁薄田北山下軸之俵貿和恵壁之塩浜新︼−被成虔由可有御苅候潜年中囁八拾五俵
可有御出倣下期ハしぼ︑巧かや︑つゝじ︑うまめ迄﹂とあり︑新下苅を許可する条件として揺八十五俵の納入が
家老四郎左衛門め意図によつて決定されている︒拘に塩と三野象の因縁ほ古い︒高松港記原典に従うと︑冤摩五年
︵3︶ 乙亥﹁農歳山田郡酉凋元村亥浜塩田合成﹂と記されてあるけれども︑更に遡つて寛永年問聖二野家は塩柴に署員し
ている︒三土樽悪が﹁故老云薮蚊鹿田以莞摩中高松藤主鯨稜公所寒渇兎為囁犬而不問高屋塩田之凄硬宝申何ヤ﹂と ヽヽヽ 慨歎するのも無理からぬところである︒序説に見える﹁利三郎﹂も﹁宇多津浜塩庄屋兼帯高屋浜短詩屋利三郎﹂或
ヽヽヽ は﹁坂出浜塩慢屋兼帯高堕浜短慮哀利三郎﹂として︑文化︒文政頃の同象文軍に散見し︑現当主喝翁の祖父に当る
という︒後出政和︵甲︶︒︵乙︶︒︵丙︶等の翠保︑宝暦頃の賓に同家の遠祖が見いだされるのみならザ︑文政から天
保にかけて﹁阿野郡北坂出村浜方絵代選定方ニ付上願賓写﹂ ﹁同省浜取捨テ中た方歎願書写﹂ ﹁坂出洪水門水吐キ
ツネ歎願書写﹂ ﹁坂出屋内浜塩百姓ヨリ前借金取立猶予方及宇多津浜荒地上納金免除上願寄写﹂等の請願雫に・ほ苓
く奥晋加判し︑同象が坂出・宇多津方面由義竺帯の塩政所として︑塩の生魔と取引に深く関与せるあとが立証され
・る︒
繕 ︵1︶ ☆証資料として商家の墓石に﹁元信院童公衆源居士﹂寛文サニ子年十旦二日とあるが︑童公とは同家罪図瓜よれば享
さしく号裔唐門で洩り︑敬ほ牝の年九十三才をもつて北高屋村に於て摂している︒昏竃循門栄電は四郎完積門栄致の弟
六一 近耽輝声内海晩田の研究
︵3︶ ﹁石松雷﹂の原稿を≡野髄翁は所蔵されている︒笠誉れによる︒
五︑本 文 姦の誓が其の研究対象を何故北墓﹁払ケ滴﹂にと旨かへまず其の嘩由を述べたい︒津苧畏・塀防釈 放十河川位置の変毒の易的要因により︑雷そのものは年代羞るに従い絶えずその地形を変えるのが通則で ぁる︒警苦初斯の新しき塩田の莞は︑新田の開墾に随伴するものが多く︑鍬えば︑三田尻雷の開発ほその 叢で あるが︑この事は稿姦めて述べるであろう︒高屋浜の警私は必ずしも浮島であるとは肯定し得ない︒喜 第十五巻 第一三尊 である︒栄政の慧は宏望若槻警に﹁月山宗円居士﹂として残っている◇羞簡門は生駒薄遠国除後伊予へほ 行か
ず︑雷に来り笥若につとめた︒宏城引渡に富合えるは︑叢の子孫2衰の軍であり︑筏は此の芸時の 大洲︑今治︑西条三溶童の共同推挙により松山評に仕えた︒
︵2︶三野四郎左循門栄政が生駒渾の要職たることを立証しうる文撃として香川県否郡平井和琴雷讐氏文欝 ぁる︒寛永年間のものが多い︒かゝる寛永年廟の保詩杯︑賢伐捺慧の四国に於誓文警他に求めると次の如きも
のが見即される︒︵阿波藩民政資料下琴二会こ風車軍 揆
勝浦部八多村鰯掴 て当山林農莞年護やし暦之粂猶以覚以後他郷妄禁書宗妄を初蒜伐宗教誓相背老於有之膵 忽可 為曲解僻村革かや苅儲所之者はくるしかるましき者也 寛永三年六月三日
忠 鍼 ⑳
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の始源の構造分析が史料に制約せられて不可能なまゝに︑﹁松ヶ浦﹂は三野象文寄︒癖東口紳・塩田釜星の廣励等の■
姦点から綜合して︑多小の変準はあつたにせよ︑比牧的徳川中期の相貌を温存し七いる事が何よりも先ず研究意欲
をそゝる対象となる︒殊に挽誠面に於いて日本鯨田特有の後進性の強さ︑少くとも一九正二年頃迄非産業革命的襲
由の極めて漉き践浮を掬しっゞけた一典型と見えたからである︒仙九五〇年変を分殴忠孝して︑此の頃迄程日本塩
田が採鹸面に封壌性を残し︑煎衆面にネれ以後程近代化を躍進させたものはあるまい︒まさに世界塩発見上の幣
色である︒大型!アクターによる撒砂・撒潮︒頻砂・沼井入れ・荒地場破り作琴小型トラククーにょる起し演.
爬砂●砂寄せ作菜等の諮問勉は見別の機会に論ずるであろうが︑甥在高屋浜は経営面税︼七︑三正三五ヘクタール
を五七組合員転よつて支え︑・多数は蓋菜との廃業で行い︑採鹸面に於ける多分の後進性を保有しっゞける一範例と
して考えて見たい︒かくて真夏の最盛期には山象の婦女子︑子供迄もが全員官金出勤している全豪稼動兼農形態・
であるb併も︑最近︵唱和二七年六月︶の統計では︑かゝる老朽田にも拘らず︑四・五・六三ケ月分平均〝阿当倉
庫高四五・九壌をあげ︑高松局管内では山軍軍勢竺入会社三個人合計囲経営形態申堵二股位を示している︒
尤牒これは最近斜蘭流→式︑枚篠米式等の濃縮装置による挽鹸設像の出来た理由もあり︑更意惑面に於ける披術 の進歩も考えられるであろう︒山九四九年製櫨高二︑〇四七麹︑一九五〇年越境高二︑≡七大砲︑山九空年製塩
高三∵五大三越の進歩菰を示している現状でおる︒︑軋がり笹就いて︑同三ケ年次の統計を追うと︑四︑六三石よ
り丑︑≡三八石へ︑更に五︑四十石へと若干の漸増振を示している︒
高屋浜は事保十三年から準事四年にかけて︑上浜三町四反壱整ハ歩︑中浜式町九戻入畝拾五歩︑下浜童町三度式
雲歩計畝て町五菜畝九渉︵宗鑑㌔恥訓批旭照射七歩︶の面積を有し︵亀甲︶︑富八年ともなればそ牒 順道幅から推せば︑竃浜七町七尿壱影廿七歩に新浜三勘考反三畝歩を併せて︑戯〆拾町八反四朗廿七歩となつてい
六三 近惟城戸内海塩田の研究
\/
第二十五巻第三尊 大四
る︵史料丙︶︒筆者の計坪によれば︑芦前髪藩他聞横は事保拾三年︵壱二八年︶四九名分一反五融廿二︒六
歩︑宝潜入年︵一七五入年︶六四名分ふ反六融廿八・草歩︑完五二年五七名分○︑三〇四四ヘクタールである︒常
に承も興味深きは︑表︒二警五警六番︒七番と八番・=せ茸︒十二番⁚→三番との問に見える鹸水帝哀び軍
産の配澄であるが︑かゝる配澄柿造は久米恵左衛門以前の旧式盲浜でなければ恐らく其の斯例を見ないであろう◇
︑︐︵1︶ 史料︵乙︶は宝膚式申年五月﹁備前国児島郡蒜村侍兵衛出入蒜﹂とて赤崎村の船舶業者であり協仲買をなせ
る停兵衛が讃岐国阿野郡坂出村惣兵衛・北高産材弐八以下八十人を相手どつて︑宝永以後の塩残釣合九拾六貫首七
拾九匁去の遅速訴訟を些戸車行所に持出し︑馨の賢所忘撃警姓等が却って勝警なれる陛繹を克明匹 記録せるものである︒
経 ︵1人此処にいう田入とほ︑
れば猶明瞭となる︒
帯下軒華之事
当領内新浜村川口崖忠平階 書雷即那瑠
︵マ︑︶ 若者額越中守江戸昏扶持遠州蒜毒神明票数諾冨囁穿御蒜宗韓御欝警候宗二付崇宗貫 ヽヽ 着地者共申訳可仕局後冒依両軸件
相槙国洞賀 文政≡辰茂吉屑丁八日 もんちやく︑訴訟蒜判沙汰という意味であろう︒次の赤穂市御崎︑田淵新品民文習を見
疎 越 中 守 内
松 柴 草左確門 ⑳
北 村 与石街門 ⑳
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御当香御央中
此の史料︵乙︶記線門外不出のまゝに︑高屋浜敵中心とする北綾歌方面一帯に塩々なる伝説を生じ︑高屋浜子話中 オンザキ め御前信仰・滝官竜燈院団体詣の風習さえ生じた︒難解の史料は漸く読みくだし得て後に掲げること・ゝし︑まず日
比御前社参と滝宮参りの伝説を採集することゝする︒
︶ 畠
虜伽神髄・日此御前神社を馬屋墟療神社に迎え甥在に及んでいる︒浜子ほ毎月全員必ず御前神社へ巡拝する風習となつていた▼
が︑今日では年参りとして年中回塩笥組合員全員参拝しているという︒
五江戸くじの期間︑馬屋の塩百姓は滝宮神社︵電燈陵︶ へ日参せるも︑英後月参りとなり︑現在は毎年一回陰麿八月八日浜子 ︵
全員が打連れ︑国体社蓼をしている︒ ヽ▼ノ′ ∵
㈲近世擬声内港塩田の研究
‖ = = いい.い1日ト ⁚ = .ト.1■トトL∵打トド‖トトりト一打い∵‖いい ●lいlし
首尾浜は日比の封﹃叫団剣劇と塩の売買契約をし︵離新報㌫摘︶其年雨多く塩の生産すくなき上に壁防決放し︑墟田悉く
破損︑契約の貯蔵鰍も流失t︑修繕の力もなく数年間体鐸吼ため契約を完全に履行し得ず︑遂に匹戸引u︵裁判︶となつた︒
江戸引uは現松山村高屋田淵其八︵赤穂の落人と伝う︶の遠祖六郎石衛門が十大才の時︑元助︵家督大潤︶が援助者として
江戸くじに行き勝訴となつた︒︹伝説に六郎石衛門は扇子に要点野きを認めていた為理路峯然とし言葉にくるいなく挙行より
質せられて槍を賜わり︑今に此の槍同家の家宝として存するという︺
日比の代表者は馬屋浜に偽わられたとして大いに憤慨し︑契約金入金の託として置き入れの水田︵霜田︶は松浦寺に寄附し︑
高屋時人に対し怨の言葉を残し︑松山河港岸属がへり︵崇徳上皇の伝説地︶にて自殺せりと云う︒
江戸くじの後裔屋浜八は火寧難に浸い︑又六郎石衛門及び元助山家は不健康勝にて病人続椚︑文具常者も出た︒之ほ訂此の
代表者が高屋に狐狸を多く放ちたる巣なりとし︑甘此の氏子になれば︑此の難も救われると信じ︑対岸アツ︵阿津︶の八幡宮︒ 御 番 所
㊦
日比御前御社及び濁官給りの樽設
袈二手五巻 琴三尊 六大
−以上置屋浜にて浜子より採録せるまゝの腰礪資料であるが︑常置攻撃協同組合三野寿太郎氏の協力によるー
庶民に伝わる口碑伝承ほ︑ときに僻陳の山間・漁村であればある穣︑呪術・怨訴・吾凶の非合理性を含み︑jら
忙年代を経るに従って歪曲深作もされゆくことであろう︒此の点︑史料そ凋ものは偽文嘗に非ずして正解される眠
り現実の証拠をわれわれに示してくれる︒拘に歴虜豪が時に狂喜して其の発見を宰ぶのも無理からぬところである︒
しかし︑史料採究に専念して省み︑失望することは︑史料曝存は多くの場合︑喋薄着に都合よきもののみが残る慣
凪が甚だ鳴きことこれである︒如何なる史料を︑如何に駆使判断するかは︑歴史象に果せられたる光栄ある賛務と
ほ言うものゝ︑残るべくして残らなかつた史料︑保存薯に不都合な変料︑焼亡流失せる史料に対する認識︑価値判
断の問題は︑近代歴史象に果せられた重要なる省察の二誹克たるを失わないであろう︒
そこで本文に取上る問題は︑従来伏せられていた三野豪の史寄を城見することにより︑塩浜に残る約百五十牛
島藷胱緊‰謂摘恥鍋と︶からの鹿足口碑の確からしさ︑滞一㌃海を挟んで南北間樺︑琴誓の側か
らする問題への近接︑塩魔神社め棟札・英他項石︒碑銘研究等の補助労作による応援等により︑所謂﹁民間伝承﹂
への歴史科学的肉辞であり︑其の荒唐無稽さな失奏する㌢えに︑よつて生れる庶民心理の動き︑徳川後半期に於け
る塩百姓の困窮さと︑其の袖乞物繋いにすら出るという百姓への頗過失賠償背任畠荷の無理︑天災による契約物品
の襲失︑高利貸盟本の暴威︑築外公平に行われた奉行所の裁判等を静かに省察して見たい︒史料︵乙︶▼が更に添御
免毅の新七き研究資料ともなれば筆者望外の車せである︒
先ず伝説︵こに就いての検討であるが︑日比打製とは阿津であり︑甥泰児島市赤崎の阿波でぁる︒既に平繁 シオナス から窒町にかけて﹁囁生﹂の地として栄え︑硯凄の陸地で人家水田の敷地となれる処に︑中世の塩田跡と思われる
処があり︑阿津にほ既曙元録前後赤穂より機術者としでの鯨百姓が来任していたという︒岡山県での伝承採録ほ後
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に詳記するであろう︒後出史料︵乙︶を熟読すれば判る如く︑鯨の売眉契約は箆永年間であり︑辰の年の伝承は誤
りである︒兎も角︑宝永年問に既に︑綾歌郡北高屋一帯に塩官があり︑塩百姓のいた寄は史牲によつて立証し得るq
﹁埠防釈放し塩田悉く破損︑契約の貯蔵鴇も流失﹂したとは︑恐らく窯永四年十月四日の大地震む指すのであろうq
これは史料︵乙︶に明記されている︒
伝説設由︵︶の﹁六郎右街門﹂の件であるが︑これは聾者が≡野緩翁訪問の節仝然承り得なかつた部分であ
竜併し︑綾歌那松山柑大字高屋芋粥東︑高屋神社摂社塩軍神社の頗礼によると︑既に元緑巳十四年≡月﹁革帯興
溜磯大明神御朴二字天下太平国士索昌﹂の姦に︑本願頭﹁六郎右門﹂組頭﹁辰次兵衛﹂が見え︑更に﹁阿津鴇船主
串止宿﹂の見えることは︑事保廿一丙辰年の﹁政所田淵大風兵術﹂の名と共に注眉すべきであり︑伝説のコハ郎石
碑門﹂の名は史料︵乙︶のうちにも見える︒史料を通観すれば︑六郎右衛門一人の功絞と賛任でもなきようであり
平次郎嘉右街門の名も見え︑勉代としての鯨政所・役佐吹兵衛は三野豪の遠祖であ†被告側の代表者格でもあ牒︒
宝暦式年申四月九月訴訟人伝兵衛が敗訴とな.り︑赤疇村の利兵衛を証人として被告側に差入れた一札﹁冤永年申♂
塊代前銀滞都合九拾四貰九百七拾冒四分人数八拾壱人⊥南柏滞候−蕗去十兄中寺社御車行 菅山因幡守様に御願中
上御題琶相附双方御評定所江罷出及御吟味倣肇:⁝私義不埼之旨御吟味二而被仰麒之遭難相立健三付⁝⊥には︑
其宛名に︑鴇政所左次兵衛︑与頸吾兵衛︑間違六郎右街門︑惣浜百姓衆申が明記されており︑此の件に開し敢て≡
野・田淵両氏対立の襲もなく︑此の時の政所と問屋に明確の一線を劃しうることであろう︒私は寧ろ此の出入一件
を研究して意外に判決の公平なるに思いをいたすと共紅︑徳川後半期に於ける高利貸資本への反撥加担と︑その際
民の汝的勝利の一顕著なる例として本件を考へて見たい︒
︵三︶の日比の代未着とほ伝兵衛の使用人であろう︒鯨仲買盗衷豪としての伝兵衛の面目丸潰れによる貿任をとつ
近世瀬戸内海塩田の研究 六七
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大入 ー第二十五巻 第三尊
たものと思われる︒松山村神社明細帳︵塩谷神社所蔵︶によると︑﹁松ヶ浦﹂は既に保元年問崇徳上皇讃岐に遵奉の
朗︑﹁冷が捕まつの浦風ふきよせばしのぴて拾へ旅わすれ見﹂と詠まれ︑延環八年及び充線六閏年三日に︑寛平二
卑麿開墾のものを再開したとある︒近世初期の入浜形式が英傑平安の琶に存した之は直ちに考えられず︑寛平のそ
れ接遇かに信じ難いが︑閏新開なる地名もあることから︑兎織の開墾は樫考えられる︒
緑・宝永年問の新開は他に史料も存するところから一応肯定されてよかろうー
︵四︶の狐独の伝説と符節するものに︑明夜松ヶ浦塩田中筋の北端︵旧∵二・≡︒四・丑︒永・七番の北端︶に相
荷嗣があつて毎年御日朽葉を行つている︒更に︑塩釜神社所蔵明和九壬辰の頗礼に︑﹁車再興稲荷大明神一字御社ト
と半うのが見′える︒具に麒考痙右衛門.虎七・権四郎の名がある︒日比御前神社は宇野四方劇鼻︑日比堀田を眼
下に見おろすところ︑高屋浜子の信仰をあつめている︒論望削的社会に於ける﹁シヤマー仙ズム﹂や呪術の研究ほ・﹁経
済史﹂的省■祭忙一つの軍義をもっと同じく︑日本近世のそれも亦茶葦の窓味をもつであろう︒
︵五︶の高屋浜の滝官信仰は︑答川県綾歌郡滝宮村︑滝雷神社へ旧暦八月八旦鱒屋の塩百姓衆が悉くお詣りし︑御
初穂代りに撃二升な献上する風習を思わせるが︑龍燈院文専﹁縁起録﹂申吟覧永四年高屋訪中参絆の花野草肇が記
録されている外綾川其勝宮司と共同探究するも一切不明である︒江戸くじの期間は.宝暦年問であり︑それよりも童
く慨匿富永の頃より浜子の信仰が始まつていたと見える︒明治六年軍姓﹂摸あり︑沌官と神仏混合の立場にたつ難
燈院建築物は一切焼失した︒竜燈院ほ首義真言宗の苗刺であるが︑八月八日参拝の塩百姓に夫々護摩符を手渡した
という︒旧暦八月八日は既に盛夏の猛作業も了え︑浜子は一応ひと休みという頃′である︒
次虹対岸備前国児島郡︵岡山県南軍関係攻寄と伝承︶の側から吟味をすゝめたい︒
既に備前国児島郡にほ延暦年問より焼塩を業とする庶民あり︑此等いわゆる塩百姓は弱肉強食をことゝする七零
OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
めはき利権収奪の対象となれる有感が見られる︒日本後記延麿十入牢の粂に︑
﹁備前国富︑児島都督性等︑焼軍馬牒︑因儲調濡而今俵桔山野漁急︑公私共之勢琴恭民競争妨筍﹁礪努之家昭栄︑貴窮乏臨せ
弊︑伏望返筍給民勅乗辞退蟄串兼冥利︑富加禁制︑英令変然﹂
とあを︑
寛文︑延窒の頃ともなれば︑内海沿岸各地笹新浜の開墾が為されるが︑延宝七年四月忙︑赤崎村秀ノ鼻より小川
柑牒刈︵鐘︶完㌢繁閑墾窟手㌢れ︑ 牒産漕琶地は琴美作で鳶たとい蒙るが此届からすでに赤崎︵餌摘を︶は箋と開偵深き孟となつ
た︒上記の浜は現在猶児島市赤膝元老朽田の資を掬して﹁小浜︵石浜︶﹂と呼んで活用されている︒此の近辺汐入
川の石垣等蔵築造の鋤き古き石材を使用したあとが見られ︑阿津の此の浜一帯は様式首きものとして其の特色が随
所に見いだされるが ∴旺 阿津の音塩田に就いての伝承及び調査魔録三項を次に掲げることゝする︒
︵1︶ 甥在の陸増で人家や水田敷地になつている処が申嘩の塩田址であろうという︒其の;の証左ほ天禅寺前の田ほこ准
将掘下げれば旧塩田の上層部に当る土が今日猶Hるという︒小︹かゝる現象は高屋の︵三野氏宅附近︶にも見られた︺ ﹁か
まやぐろ﹂の地名も畠営も存している︒甥撃﹂ゝの地下にも塩田将軍の土が吊るといわれる︒﹁塩生﹂浜必要なきまで
に阿津塩田が栄えたとすれば︑その年代は恐らく近世初期であろう︒
︵2︶ 此の地現在の岡浜︵又は小浜︶の築造技術者は赤穂より来た人達といわれる︒顔畏十一年池田河内守は赤穂の城主で
あつて下津井城を管し︵三万二千石︶︑城代をおいているから︑これとの関係も考えられよう︒赤穂・大塩方面から塩技
関係者及び墟百姓の内海各地への移動関係は興味ある一研究テーマを為すと思われるが又別の機会に詳しく触れよう︒
現在の小浜は田入も多く凹凸であり︑浜の形が野崎浜よりほ遠かに古く不規律である︒後世大部分改修したがまだ菅
−
六九 近供減戸内海墟田の研究
の面影を残している︒小浜は吉浜であろう︒
︵3︶ 新浜に就いて︒延宝から充棟にかけて︑墟の需要増すや︑秀ノ鼻から小川の萱刈への瞬が逐次開発されたと伝えられ
る.が︑現在の野崎浜の大体は之に入るであろう∵所謂新浜とは向山の東側長方形のものである︒ここにも赤穂技術の侵
入の道路が見られる︒向山の反対側に﹁天禅寺﹂があるが︑此の周辺鴨方全部が舞冨宗であるなかに︑ひとり抗済の禅
宗である︒桑穂武士の開くところというが武家と禅宗との関係から成る程慶腎ける︒更に現在宮山の東側・阿津停関所 ヽヽヽヽ 附近に赤穂井戸という良質の水あく大葦戸がある︒山俗説にすぎないが︑赤穂武士が元轍年間に作ったとの伝えがある︒
此の地方に殿ける塩田は恐らく慶長頃より存したものと思ゎれるが︑地方特産奨励の汲にのつて︑元醸頃より逐次塩浜
を拡張していつたものであろう︒先様十四年春赤穂城下の異変ほ矢賀武士と庶民︑御用商人等との経済関係に変動を生
ぜしめた︒嫡に池田河内以来の関係地たる此の咄︑垢異によき☆地条件と保泣のある逃避地としての発展を約東して︑
威程度晩異は彼等の失鞘救済を為し得たのではあるまいかとも思われる︒赤穂城の築城資金誓役覚ったのも︑塩葦股
入であつたと私は最近考えている︒
今日の赤崎村は児島市赤崎であり︑それ以前ほ磯野町蘇峰︑その前は赤崎村︑森崎であり︑明治以前ほ赤峰村であ
︵1︶ る︒史料︵乙︶に見える表題の﹁赤峰村﹂揉まさしく此の地であるが︑伝兵衛に戯いては今日のところ之を確証づ
ける同時代の岡山県側の古文書は発見されない︒併し︑それは恐らく洲脇姓をもつ﹁富田屋﹂のことであろう︒赤
噛阿津の富田屋は徳川時代より明治十八年頃迄塩︒木材・米・呉服・放物類を取扱える瀬戸内海属指の仲買・船舶
染着であり︑亨保・宝暦年間は同象の全盛斯である︒彼以外他の地に大金を拠出して対岸讃岐の塩までも仲買する・
鎧の豪商は見当らない︒当時の塩仲買は商慣習として毎に二・三回前金を渡して塩を作らさせたものと思われる︒
亜は当時既に讃岐の林田地方に大塩田せ所有し︑寺院も建立していた︒林田は北高屋に隣している処より考えても 無二十五巻 第二一骨
七〇OLIVE 香川大学学術情報リポジトリ
︵2︶ とれは骨きうる顆推である︒琴浦地方に於ける塩田成立の確証は︑東浜元線十四辛巳年︒西浜写保二丁酉年の碑文
︵3︶ に就いて見出し得た︒
註︵1︶赤嶋村は明治十小年の業臥調査賢ると︵椚需錮醐︶︑岡山県備前国璽十八区五票区味野針の次に謡村とあ
hソ︑
﹁兵隊なし僧一人神官男︸人商東十六人 二男十五人医術なし盛男二百九人・女十∵<⁝雑業輿豆十八人︒
女七八 八員絵討三百十八人﹂ というのが見える︒但しこれほ﹁働きうる男女﹂の職欝統計であつて︑児藷を含めたものと思えない︒此の購買が塩田
関係とも考えられ︑農及び商の兼業も考えられる○樽転﹁商﹂は味野の四人に放し︑衰の四倍の十大八ほ注目さるべき
である︒ 更に明治十ユハ年の宙図により戸数の調査をするに︑
ナパタケ 赤峰村 ○茶柑八十四声 α札坂入戸 長畑十六戸釜田九戸○阿津百九十重戸人赤時制総計 三百十二戸︶
味野村 ○本村百五十七戸 ○橋本九十八戸云現在児島市中心市街︶㊥浜′嘗室戸 城七十九戸山由十大声 望戸
五十八戸 石のうち④印は全くの塊療︑○印竺部塩浜にて働くもの・野崎は橋本にある︒
現在此の両村合して四千戸凡そ芳七千入︑其のうち赤崎ほ昭和二十七年九月二十五日の計算では約千戸四千五首八十
人である︒
︵2︶ 冨田畠伝兵衛は洲脇伝兵衛の翠であ萬うし︑豪商苫屋ほ丸亀御坊の屋慧全部を逼きかえへ劇︶の字芙れさ貰と
いう程︑であるが︑こめ縁故の故に明治初期同寺再興のとき︑寄附を傑顧されたるも兎空っH来なかつたと伝えられる
︵ヱ 所在は児島郡琴澗町大字田/口車稲荷︑稲荷社境内に於いてである︒北面花崗岩裂であり︑高さ㌦一四糎︑表面に 上二 遮憮準戸内海塩田の研究
飴二十五巻 第三尊
事 仮 こ 年
︵甲︶ 塩 盗 大 明 神
田丸昔日茶額 詔矧鋸地瑚
とあり︑向つて右横に
毒酎踵媚即諾配管来
と読み得る︒田和床の協力による︒
1﹂ 中浜 五畝式拾壱歩
一中浜 五新治五歩
一中浜 五畝拾式歩
一中浜 五薪歩 一中浜 五畝歩
一中浜 五畝歩 事供給三申年 三 月 阿野郡北帝屋村葦疾検地帳 石碑︵上部狭く荒れており計測不能︶
︵甲︶
伊三郎去〆
安田郎−女七−六郎左衛門ト音右播門
博吉!惣次郎−己点同人−同 人
同人!己よ新 ∧
勘四郎 金物−徳石衛門−市左
G D
AH=18(〉m BG=18 〝 A】∋=95 〝 FI)ニ114,〝
F C=18 〝 D王:=25 〝 DG=35 〝
順次ニハリ紙七新式拾壱歩
順次ニハリ紙 ≡畝拾五歩 街門−童肴荷門
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一上浜′ 壱反三筋甘由歩
︺ 上浜 ヾ壱匡二畝廿四歩
一上浜 壱反四畝廿四歩
一上坂∵′壱鱒二畝甘四歩
⁝上浜 壱反三畝廿四歩
近世輝戸内紛塩田の研究 一中浜 一下浜 一中浜 一中浜 ﹂ ヰ浜 ﹂ 上浜 ﹂ 上 浜 一上浜 ﹂・ぶ浜 一上∵浜 一上浜 一上浜
〟上浜 壱反式薪拍八歩
此新教嘲蕊笠十和見儀一−付猶故国出 廷寧四卯年畝押為致供処三和霊堂−脚何滴ス 壱反歩 五胡歩 五畝歩 五前歩 五箇歩 壱畝拾八歩 四畝廿画歩 大前拾八歩 壱反三畝廿四歩 琶反三畝廿四歩 五覇拾五歩 入朝拾八歩
西音義 岡 与石右 兵衛衛 衛門門
⑳⑳
≡漱十二単 内言放九歩 ゴー畝九歩
同 人
同 人
槍四郎
同▲ 人
文左描門
清次郎
長五郎
菩由即
興.菅
平次郎
積J兵蕾
甚有徳門
同 人
産着癒酪
級友療門
惣 七
銀右衝門 年次彪
染二十五巻/第三尊
山 上浜 壱反三畝せ四歩
一正浜
膚 上漁
一止浜
一中浜
一中浜
山 中浜
一中浜
一中浜
一中浜
一中浜
∵中浜
一中浜
一中浜
一下浜・
一・下浜
一下浜
一下浜
﹈ 下浜 五畝歩 五畝歩 三畝九歩 筍反筍畝甘四歩 壱反式薪拾式歩 壱反壱畝拾五歩 壱反壱畝六歩 壱反式蔚拾式歩 壱反式畝給式歩 大前廿四歩 診畝拾八歩 壱反式新参歩 壱反弐劫歩 琶反参畝拾式歩 琶畝甘心歩 筍反拾式歩 八新大歩
九蘭九歩 七四
伊︼声価
文四郎
≡次郎
鏡石衛門
金 助
勘兵衛
善 ∧
串四郎
市 助
儲左語門
雀†郎
清九郡
叉∧郎
≡ 助
息兵衛
清九郎
甚太郎/
又 ∧
忠兵衛
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近世循戸内海塩田の研究 一下浜 一下浜 一ヰ浜 一正浜 一上浜 ︼ 上 浜 一上浜 一上浜 一中浜 一上浜 一上 浜 一上 浜 ︼ 下浜 一上浜 ∵止浜 二 中浜 一上浜
−下∴浜一下浜 四斬廿四歩 式前拾式歩 三顧三歩 七畝拾式歩 九薪歩 三畝廿四歩 七畝六歩 四顧拾八歩 七新参歩 大胡拾式歩 参畝廿眉歩 五畝甘四歩 三朝九歩 三畝九歩 七畝拾式歩 壱前廿筍歩 壱反三部廿四歩 三畝九歩 衷畝歩
七五 鱒畠鹿 周人 叉四郎 lニ十郎 周 Å 同 人 甚八郎 次郎励 同 人 次郎助 字≡郎 侍lニ郎 甚 七 同 人 次郎助
同 館 同
人 人 七 人
簸二十五巻
一上 浜
一上浜
山 下浜
一下浜
一下︑浜
一中浜
一上浜
一/上浜
一上浜
一上浜
一上浜
一中浜
一上浜
一上浜
一上浜
一中浜
一下浜
一下浜
‰ 中浜 第三尊
宅反廿七歩
七覇拾八歩
三畝九歩
七畝甘壱歩
三畝≡歩
五畝拾五歩 し
九畝拾弐歩
壱反式畝廿壱歩
壱反壱胡式拾壱歩
壱反三散歩
八畝廿四歩
七胡廿七歩
七畝廿壱歩
七前六歩.
五覇甘四歩
四畝廿七歩
九畝十八歩
九畝十八歩
壱反六歩 七六
伺.人
倖四郎
同 人
兵次郎
同 長石衝門
加淵有徳飼
珪石葡門
長石衛円
滑四郎
庄 八
同 人
儒≡偲
串一二郎
叉四郎
同 人
文意衝閏
同 人
会十郎
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一中浜 五畝拾式歩
㌦ 中浜
一上浜︑大前廿壱歩
山 上浜 責離せ七阜少
近世瀬戸内海塩田の研究 劇 中浜 山 中浜
一.中浜J 中浜 〟 中浜 一中 浜 一中浜 一中浜 一中儀 一下浜 一下浜 一下浜 山 下浜 一下浜 一申準 九畝拾玉歩 壱反歩 壱反廿四歩 壱反歩 ﹁.∵..・l 壱反廿四歩 四畝拾八歩 四畝拾八歩 九畝六歩 九蘭六歩 五畝歩 五畝歩 壱反拾五歩 式磁拾式歩 五畝廿七歩 三次.郎 文四郎 ≡次郎 久三郎 同 人 久兵衛 同 人 清次郎 甚右衝円 安四郎 平次郎 同 人 lニ治郎 長五郎 同 人 兵書郎 清次郎 善四郎 清次郎
染二十五巻∴鱒二尊
看之者典韓村政鞄為仕恢以上 上準三呵四反壱畝六歩 ヰ浜式和九反八畝拾五歩 下野壱聖二反式畝六歩 右之通拙者共☆合検地仕供以上
字保拾三申年三片 畝〆七町五反九畝九歩
ハリ拭