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小林 多喜二伝‑ 多喜二 と小樽‑ 一
小樽移住 か ら小学校卒業 まで
倉 田
目 次
第 1部 小樽移住か ら高商卒業 まで 序文
第 1章 少年時代 1 秋 田 2 安藤 昌益
3 小林多喜二 はなぜ小樽 に きたか 4 小樽 へ
5 多喜二住居跡標柱 6 小樽
7 小樽 に来 た人 8 石川啄木 9 小学校時代 1 0 姉 の進学
1 1 進学
付録 1
1 多喜二 と小樽 の歴史年表 ( 1 ) 2 秋 田対小樽
3 最近 の出版物, そ して『 全集』以後
稔
28 人 文 研 究 第 8 6 輯
序文
下記 の文 は, い ま企 てている小林多喜二 の伝記,小樽時代,全体 の序文で ある。 ただ し本稿 で は紙数 の関係上,第 1部第 1章 だけにせ ざるをえない。
それ は全体 の数%にす ぎない。従 って, この序文で書かれていることは, ま だ実現 されて はいない。 それ に また,「6 小樽」は, トル ソーで もある。小 林多喜二 の生涯 は,彼が年 を経 るに従 って面 白 くなる。本稿 で はそれ ゆえ,
まだその面 白い時代 で はないので,残念である。
この著述 は,小林多喜二 の,主 に小樽時代 の伝記的研究である。
小樽時代 に限 ったの は,多喜二 の伝記 について はすでに,全般的 に取 り扱 っ た立派 な研究があるか らである。手塚英孝 『 小林多喜二』新 日本新書 (また は,氏 の著作集第 3 巻,新 日本 出版)が, それである。 この手塚 の伝記 は, 多喜二 に関 して現在最 もよい伝記 とされている。 しか し, この伝記 は,小樽 時代 について はまだ十分で はない。 それゆえ手塚伝記 は是非補 っておかなけ れ ばな らない。小樽 に住 んでいる者 としての一種 の義務 である。とい うのは, 手塚 の伝記 はかな り多 くの点で誤 りがあるか らである。 また彼が利用 してい ない多喜二 の知人 ・友人 の思 い出の収集が まだある。特 に手塚 の書 には,小 樽高商 の友人 たちの回想がほ とん ど利用 されていない。その上,「 多喜二 の小樽 時代 は重要 」( 1 )である。手塚 自身 も,「 小樽時代 の小林多喜二 の研究 をふかめ てゆ くこ とも,北海道 の研究者 に期待 され ることであ る 。」( 2 )と書 いてい る。
秋 田時代 と東京時代 について は,本書で はほ とん ど書かないつ もりである。
手塚伝記が それ をよ く書 いてあるか らである
。次 に私 は,い くつか伝記叙述 の上 で改善 しようと思 った。一 つ は方法 につい てである。 第二 には,多喜二その人 についての扱 いである。つま り小林多喜二 は
(1)小林三吉氏談。
(2) 『 北方文芸 』1 9 6 8 年 3 月 ,6 6 ペ ー ジ
小林多喜二伝一 多喜二と小樽‑ 29 聖人君子 で はないのであって,まず彼 を,一人 の人間 として見 ようとす る。一 人 の人間 として見 ることによってむ しろ逆 に,本 当の偉 さが分か るであろう 。
1 秋 田
小林多喜二 は,1 903 年 ( 明治 36 年)1 0 月 1 3日に,秋 田県北秋 田郡下川沿村 川 口に生 まれた
(3)。
彼が生 まれ る以前 の大 きな事件 は日清戦争 ( 1 894 年)であ り。 日本人 はこ れ を きっか けに して,従来立派 な国 と思 っていた中国 を蔑視 し始 めた し,翠 国主義的 になっていった。明治政府 の富国強兵政策が効奏 したのである。 そ して 日本で は産業革命が この ころ成立 した とされ る
(4)。 そj lに この 日清戦争 を きっか けに して, 日本 は台湾 を占領 し,帝国主義的 にな りはじめていた。
多喜二が生 まれた年 には, 日本 はロシア と戦争 をしようとね らっていた。
一方, この年 は,幸徳秋水 たちが平民社 を括成 して, 『 平民新聞』を出 し,活 躍 した ころであった。彼 らは非戦 を論 じた。そ して治安警察法が,1 900 年 に すでに公布 されていた。
多喜二が生 まれた翌年,1 904 年 に, 日露戦争が行 われた。緒戦 の勝利 で 日 本 中で提灯行列が続 いた。人々 は好戦的 となった。国債が応募 させ られ,物 価 はあが り,消費 の緊縮政策が とられ た。地租が重 くな り,農民 はいっそう 勤勉 に働 かね ばな らなかった。
明治 37 年 に,与謝野晶子が 「 君死 にた まふ ことなかれ」を F 明星』に出 し たの も, 日露戦争中であった。翌 38 年 ( 1 905 年) 1 月に 『 平民新聞吊ま廃刊 さ せ られ, それ以後,平民社 は 『 直言』 を機関誌 とした
(5)0小林家 は,初 めは旅館 と農業であったが,多喜二 の生 まれ るころは農民で あった。父 は小林末松 ( 1 865‑1 924) ,母 はセキ ( 1 873‑1 961) , 旧姓木村 であ
(3 )手塚英孝 U ' 小林多喜二』上,新 日本出版 1 9 7 4 年 ( 以下,手塚 と略す) (4 )山田盛太郎 『日本資本主義分析 , l岩波書店O
(5) 『日本の歴史, n27 小学館
3( フ 人 文 研 究 第 8 6 輯
る。父 は,本,小説 と芝居が好 きで,背が高 く,や さしい人 であった。母 は 明治 1 9 年 に,隣村釈迦 内か ら 1 3歳 で嫁 に きた。時 に夫 は 21 歳 であった。セ キ は,働 き者 で丈夫 で愛情深 い人 だった。東北 の娘 たちの多 くが身売 りされ ていた時代 であった。
大地主 を 1 0 町歩以上 の土地所有者 とすれ ば,秋 田県 は,大地主地帯 であっ た ( 6) 。
多喜二 には,多喜郎 ( 1 895‑1 907)とい う 8 歳上 の兄がいた。 だか ら多喜二 は,名前か ら分 か るように次男であった。 また姉 チマ ( 1 900‑ )がいた。
秋 田時代 には,チマの前 に 1 899 年 に,ヤエが生 まれたが,す ぐ亡 くなった ( 7) 。 だか ら正確 にいえば, チマ も次女である。 日本で はこの ころ乳児死亡率が高 かった
(8)。 さて この家で は秋 田時代 には,妹 ツギ ( 1 907‑ )が生 まれた。
その後 また多喜二 の弟妹が生 まれ るのであるが, それ は秋 田時代 で はな く, 小樽時代 の ことである 。
この家族 には,継祖母 ツネ ( 1 826‑1 904) が いた。彼女 は,多喜二 の祖父多 吉即 の妻 となったが,多喜二 とは血 がつなが って はいない。 その人 は,や さ しい椅麗 な人 だったが,彼が生 まれて 1年後 に亡 くなったので,多喜二 はほ とん どその人 を知 っていない。
この当時 の小林家族 の状況 は,長編小説 になるはずだった多喜二 の 『 転形 期 の人々』 の [ 第]二 [ 章]で,少 しフィクシ ョンが混 じっているが,描 か れた。 だが家 は,実際 は , 8 反歩 ばか りの自作 に,わずかな小作 を兼ねた農 家であった( 9 ) 。これ を多喜二本人 は,貧 しい農家 としているが,また他 の研究 者 もそ う考 えているが, それ ほ ど貧 しいわ けで もない。
(6 )明治 21 年に,土地所有者総数にしめる 1 0 町歩以上の所有者の比率 は,い くつ かの不明の道 ・県を除 き,秋田県は3. 8 4%で,全国最高である。
(7) 『 小林多喜二研究』解放社 ( 日本図書センターの復刻版)
(8 )少 し新 しい時代であるが,大正 5 から9 年に,乳児死亡率 は人口 1, 0 0 0 人に 2 3. 6 人であって,近代 日本史上最高であった。
(9 )手塚 8 ページ。
小林多喜二伝‑ 多喜二 と小樽‑ 31
父 には慶義 ( 1 8 5 9 ‑ 1 9 3 1 ) という兄がいた。だか ら彼 は,多喜二 には伯父に あたる。 この伯父 は, もちろん小林家の跡継 ぎであったが,相場 あるいは事 業 に失敗 して,多額 の負債 を負い,秋田の小林家没落 の原因を作 った。伯父 は東京 に も出た。事業失敗 を回復するはずのの裁判で も負 けて,彼 は小林家 の田畑の大部分 を失 った。 そして農家 を,弟つ まり多喜二の父 に任せて,東 京か ら 1 8 9 3 年 に小樽 に出て きた。
初 め小樽でその日暮 しをしていた伯父 は,潮見台で開墾百姓 を始 めた。 そ の長男幸蔵 を靴屋奉公 に出 したが,幸蔵 は 1 9 0 1 年 にそこを止 め,石原 とい う パ ン屋の徒弟 になった。彼 は主人 の影響で,明治 3 4 年 ころ,ヤソ[ キ リス ト 教] になった。幸蔵 は勤勉 だった。 そして後年,多喜二 にや さしかった。
慶義 と幸蔵 は,小樽 の稲穂町の石原の店 を譲 り受 けて,独立 し,パ ン屋小 林三 ツ星 [ みつぼし]堂 を開業 した。 これが彼 らの幸運 の始 まりだった。 し
か し 1 9 0 4 ( 明治 3 7 ) 年 5 月の小樽大火で,店 も類焼 した。 この明治 3 7 年の大 火で は,色内 ( ‑小棒市内の中心の地域)は全滅 した。小樽 の中心街 の 2, 4 8 1 戸が焼 けたのだった。 だがその直後 に,彼 ら父子 は,潮見台 にパ ン工場 を建
てた。 これが うま くいったのだった。 そ して新富町に移 って,パ ン工場 と店 を開いた。さらにお りか らの日露戦争 ( 1 9 0 4 ‑ 0 5 ) による戦争景気で,伯父 は小 樽で地歩 を築 き,商売人 として成功 した。人 を 3 0 人 も使 った。この店 は,小樽 で最 も有名 なパ ン屋 とな り,儲 った。 その大 きな理由は,小樽 の軍艦 に食パ ンを大量 に売 った ことであった。日本軍隊が小樽か ら出航 していたのだった。
慶義 の妻,つ まり伯父の妻 ツルが,成金風 を吹か して秋田に きて,小樽 の 自慢 をし,若 い者 を小樽 にさそっている様子が, フィクションであろうが, 小説 『 健』に書かれている。慶義 には,長男幸蔵 に加 えて,次男俊二がいた。
こうして成功 した伯父 は,弟夫婦 に小樽へ くるようにすすめていた。
多喜二の兄の多喜郎 は,秋田で小学校 を終 えた。よ く勉強がで きた らしく, 絵 も上手 だった。伯父が彼 を上級の学校へ入れ ようと勧 めた。父 も, これか
らは学問 をした方が よい と思 って,その気 になった。伯父が帰郷 したさい,
多喜郎 は 1人で,伯父 とともに ,1 9 0 7 年 5 月に,小樽へやって きた。 この兄
32 人 文 研 究 第 8 6 輯
とは,多喜二 は 3 歳 の時 に別 れたのだか ら,多喜二 は,兄 をおぼ ろげに しか 知 っていない。 だが,小説 『 健 』(1 0 ) の中で, 自分 の体験 を重ね合わせなが ら, 兄 の小樽行 きとその後 の ことを書 いている。
しか しこの年 1 9 0 7 年,多喜郎 は,伯父の世話 になって学校 に通 っているう ち,数 ヵ月後 , 9 月末,急性腹膜炎で危篤 になった。両親 は秋 田か らはせつ けて, 1 週間看病 したが, その甲斐 もな く,多喜郎 はな くなった。両親が き てか ら 1 週間後 であ り ,1 0 月 5 日だった。父母 の悲 しみ は,はか り知れなか っ た。多喜二 の小説 『 健』で は,主人公が父母恋 しさ と学校 が嫌 になった こと で,故郷 の秋 田に帰 って しまうのであるが, だか らそれ は創作 である。
2 安 藤 昌益
小林多喜二 は,秋 田県の今 の大館市 に生 まれた。
さて この大館市 には ,1 8 世紀 に,大思想家がいた。安藤 昌益である。徳川 封建制 の時代 に生 まれた不世 出の大思想家,安藤 昌益 は ,1 7 0 3 年 ( 元禄 1 6 年) 秋 田に生 まれた。遅 くとも 1 7 4 4 年 には,八戸 に住 んでいた。彼 は医者であっ
た。 そ して多方面 の学問 に精通 していた。主著 は 『自然真営道』である (ll) 。 1 7 5 8 年 ( 宝暦 8 年)に,昌益 は,今 の大館市 の二井 田に ,7 月頃移住 した。
そ して 1 7 6 2 年 ( 宝暦 1 2 年) 1 0 月 1 4 日に,彼 はその地 で病没 した。たった 4 年 であったが, 昌益 は大館 で生活 したのである。
彼 は,孔子批判 を し,農奴制 を許せない。農民階級 を尊敬 し,武士 ・僧侶 を認 めない。直接農耕 ( ‑直耕) に携わ ることを,人間の唯一 の健全 な自然 な営み と見 る。封建 日本 の中で,国際的 に も通用す る思想家 であ り,最 も徹 底 した民主主義的思想家 であった( 1 2 ) 。昌益 は, 自分 の思想 の意味 をよ く知 っ ていたので,信頼 す る弟子 に しかその思想 を伝 えなかった。そのため,「 忘れ
( 1 0 )『 小林多喜二全集』新 日本出版社 ( 以下,『 全集』 と略す)第 1巻。
( ll) 岩波文庫にあり。
( 1 2 ) 『 安藤昌益全集』農文協
小林多喜二伝一 多喜二と小樽‑ 33 られた思想家 」( 1 3) になったのである。
近代 日本 になって彼 を初 めて発見 し,広 めたの は,狩野亨吉博士である( 1 4 ) 。 1 908 年 に彼 の短 い紹介文 「 大思想家 あ り」が出た。 1 928 年 に論文 「 安藤 昌益」
が岩波講座 『 世界思潮』 に載 った( 1 5 ) 。
さて多喜二 は安藤 昌益 を知 っていただろうか。 この後者 の論文 を多喜二 は 見 て知 ったか もしれない。だが,彼 の書 き物 には出て こないので, 分か らない。
こうして大館市 は, はか らず も, 日本史 に 2 人 の大人物 を,つ ま り 1人 を 受 け入れて, 1人 を送 りだ したのである。
3 小林 多喜二 は なぜ 小樽 に来 たか
小林家族 は,伯父 の勧 めで秋 田か ら小樽へ引 っ越 した。 こうして小林多喜 二 は,満 4 歳 と 2 カ月の ころ,家族 とともに小樽 に来 た。1 907 年 ( 明治 40 年) 1 2 月の ことであった。
秋 田か ら引 っ越 して きたの は,父,母,姉 チマ,多喜二,生 まれて 1 歳 に まだな らない妹 ツギの 5 人 である。継祖母 と兄 は,すで に述べ たように,亡 くなっていた。姉 チマ は,数 え年で 8 歳 で,小学校 の 1 年生 であった。
多喜二 の秋 田時代 に,すでに日露戦争 ( 1 904‑ 05 年)が行 われ, この頃 は日 本で は重工業が伸 びていた( 1 6 ) 。 日露戦争 によって, 日本 は南樺太 をロシアか
ら割譲 し,朝鮮 の支配権 をロシアか ら奪 った。興味深 い ことに, 日露両国代 表 の国境劃定会議が,小樽 の 日本郵船株式会社小樽支店 (17) で,明治 39 年 に行 われた。
この小林家族 が小樽 に来 た理 由 は, い くつかあ る。
( 13) ハーバー ト・ノーマン 『 忘れられた思想家』岩波書店 ( 1 4 ) 青江舜二郎 『 狩野亨吉の生涯』中公文庫 1 9 8 7 年 ( 1 5 ) 『 狩野亨書道文集』岩波書店
( 16) 三井は,室蘭に日本製鋼所をこの年に設立 した。
( 1 7 ) 明治 3 9 年建造された。英国風ルネッサンス様式。その後,市立博物館 となっ
た。現在,旧日本郵船 とされている。
34 人 文 研 究 第 86 輯
第 1 の理 由 は,農家 として当時小林家 が没落 していたか らで ある,とい う。
第 2 の理 由 は,父が長 い激 しい労働 で, もう農業 に耐 え られ そ うもないほ ど心臓 を悪 くしていたか らで あ る。
第 3 は,前述 の伯 父 の存在 で あ る。 この伯 父が小林 家族 に小樽 へ来 るよう に誘 っていた。
最後 に,長男多喜郎 の ことで あ る。すで に述 べ た ように ,1907 年 に,彼 は 小樽 で危篤 になった。父母 は秋 田か ら小樽 へや って きて,死 ぬ最後 の 1 週 間, 彼 の看病 を した。父母 が小樽 を実際 に見 た ことで,移住 して も安 心 だ とい う 気持 ちが生 まれ た。 なお これ に加 えて,両親 が,亡 くなった長男 の地 にいて や りたい とい う気持 ちが生 じた と,三浦綾子 は推定 してい る( 1 8 ) 0
小林家 が秋 田 を去 る状況 について,母 セキ は,江 口換
(19)に話 した こ とが あ る。 「 立 派 に立 ち振舞 い もした し,大 ぜ いの人 が村 はずれ まで見送 って くれ
た 。」(20)
こうして多喜二 の一家 は,青函連絡船 と,函館 か らの汽車 に乗 って, はる ばる小樽 へや って きたので あ る。
小林三吾氏夫人 は,若竹 町 の小林家 に,毎年少 しで あ るが小作米 が来 てい た と,言 う ( 21) 。秋 田時代 の小林 家 は, 自作兼小作 で あった( 2 2 ) 。だか ら,小作 は辞 めたが, 自作地 は誰 か に小作 に出 し, そのため,小作米が送 られて きた ので あ る。
こうい うわ けで,小林 家 は,秋 田 を引 き揚 げて来 たので あ り,普通 の引越 しを したo多喜二 が,小説 『 転形期 の人 々』( 2 3 )の中で,一家 をあげて夜逃 げを
( 1 8) 三浦綾子 『 母』新潮社 1 9 92 年
( 1 9)( 1 887‑1 97 5) 。 日本 プロレタリア作家同盟中央執行委員長になった。多喜二 は その中央委員や書記長になったわけである。江口の作品に,『 わが文学半生記 』
『 たたかいの作家同盟記』 ( 新 日本出版社)などがある。
( 20) 『 民主文学 』1 98 8 年 2 月 ,1 3 4 ページ ( 21 ) 小林三吾氏,同夫人へのインタヴューより。
( 2 2) 手塚,上 , 8 ページ。
( 2 3) 『 全 集』第 4 巻
小林多喜二伝‑ 多喜二 と小樽 35
した家族 を書いたのは,話 の上の ことであ り, フィクシ ョンにす ぎない。一 般 に多喜二の小説 は,モデルがあるように思われているが,現実 と小説 とは
区別す る必要がある。
以上のようなわけで,小林多喜二 の一家 は小樽へ出て きたのであるが, ほ かに大 きな状況的原因がある。 それ は,当時の北海道移住熱である。東北 ・ 北陸 を中心 に,北海道へ行 けばなん とかなるという風潮があった。北海道の 中心地小樽 は,明治 4 0 年 ころは,人 口 9 万,戸数 1万 4 千,近代的港 を持つ 商業都市であった。小樽 を中心 とす る北海道が,本州の農民 を経済生活 の点 で引 き付 けたのである。小林家族 の移住 もその大 きな流れの一滴である。 そ の上,同年の函館 の大火で,函館か ら小樽 に移住 して きた人 も多かった( 2 3 a ) 0
小林家が来遺 した明治 4 0 年末 に,全道の人 口は ,1 3 9 万 7 9 人 ( 2 5 万 9, 6 6 2 戸)であった。この年の北海道への移住人 口は ,7 万 9, 7 3 7 人 ( 2 万 1, 1 4 2 戸) である。北海道への移住者 は,明治 3 3 年か ら 4 2 年 までの 1 0 年間の平均 を, 県別 にとると,
富山県 (1位) 6, 2 3 3 人, 新潟県 ( 2 位) 5, 5 4 0 人, 石川県 ( 3 位) 5, 0 4 7 人, 青森県 ( 4 位) 4 , 6 0 8 人, 秋田県 ( 5 位) 4, 3 2 7 人,
となる。これに ,4 千人余 の宮城県 ,3 千人弱の福井県,山形県,岩手県, が続いている( 2 4 ) 。秋田県 は 5 番 目である。
当時,日本の人 口は 5 千万人である 。1 9 0 9 年 には,地主 は 1 6 万 9 千人,自作 農 6 6 万人, 小作農 は 3 0 9 万 8 千人,であった。これ ら小作農 は,農業 だ けで は 生活がで きず,出稼 ぎや 日雇いをする者が多かった。 例 えば,第 2 位 の新潟県 で は ,1 91 3 年 ( 大正 2 )には 5 0% ,翌 1 9 1 4 年 には 7 7 % が出稼 ぎであった
(25)。 ( 2 3 a ) 石川啄木 「 小樽のかたみ 」 ( 『 石川啄木全集』第 8 巻)
( 2 4 ) 片山敬次 『 北海道移民史』北海教育評論社 1 9 3 4 年。
( 2 5 ) 『日本の歴史 』 6 ホルプ社
36 人 文 研 究 第 8 6 時
4 小樽へ
小林一家 は,秋 田か ら小樽 に移住 して来 た。 まず伯 父の家 に落 ち着 いて, 1 9 0 8 年 の正月 を過 ごしてか ら,一家 は小樽 区若竹町 に住 んだ。まだ小樽 は区 制であった。 そ こは伯父の隠居所 であった。 ここはまだ未開で殺伐 としてい た。海 がせ ま り小高 い山がせ り出 していた。
一家 はしか し,築港工事 のために, ここを 2 度移転 している。最後が若竹 町 1 8 番地 である。
家 は 2 部屋 の平屋 であった。 ここで,伯父 の三塁パ ン店 の支店 を開 いた。
パ ン屋 の支店 といって も,ささやかな もので,駄菓子屋 に近か った。パ ンと, 自家製 の餅 の類 を売 るのであった。多喜二 は後 に小説で,駄菓子屋 を何 回か 描 くのだが,それ はこのためである。
父 は,朝暗 い うちか ら起 きて,折 り箱 を背負い,わ らじを履 き,小樽 の中 央寄 りにある新富 町の,伯父の製パ ン工場 に,パ ンの仕入れ に行 った。伯父 の家 に店が あったoそ して工場 もあ り,それ は,軍御用達であった。したが っ て店 はあ ま り必要がない ( 26) ,あるい は重要 さは少 なかった。つ ま り工場 の商 売 の方が大 きいのであった。父 は, この工場 に仕入れ にいったのであ ろう。
多喜二評伝で は, よ く,店 と言われ るが,工場 である。
当時,三塁 のパ ン屋 で売 っている代用パ ン ( 金時豆が入 っている)が有名 で,近 くにある小樽 中学 の生徒が さかんに買 って食べていた
(27 ) 。
さて父 は,早朝 まで に帰 って来 て,出が けの労働者や学生 ( 近 くに水産学 校 があった) に自分 の店 で売 った。昼 には,土工 たちに浜 までパ ンを売 りに 行 った。 だが彼 らの家 は,小樽 の南端 にあ り,周 りは貧民が多か ったか ら, 大 きな商 いにはな らなかった。 こうして小林一家 は,秋 田か らわ ざわ ざ小樽
に出て きたのだが,決 して豊か にはな らなか った。
( 26) 小樽文学館の木ノ内氏の説。
( 27) 田中孝手紙 より。ただし建て前では,学校では買いぐらいを禁止 していた。
小林多喜二伝一 多喜二と小樽‑ 37 一枚 の写真が残 っている。多喜二が 7 歳 で,姉 チマ 10 歳,妹 ツギ 4 歳, と 並んだ, 3 人 の,皆が きれいな着物 を着 て とった写真である。 その裏 にデマ の説明が あ る。「 水産学校 の校長先生 の子供 さんたちの着物 を借 りて,母 が しゃ しんや さんに, 3 人 をうつ して もらった‑‑‑しゃ しんです‑
・‑ 」(28)家族 は水産学校 の校長先生 に親切 にして もらっていた。着物 も買 えなか ったので, 借 りたのであ ろう。他 に,小林家 に親切 に して くれたの は,近所 の医者 の福 原家であった。
当時 の小樽 の情景 について,多喜二 は小説 『 転形期 の人々』の [ 第]1[ 葦]
で,映画の画像 の ように描 いている。
小樽時代 には,三男三吾 ( 1 909‑ )が生 まれた。また,四男多志富が 1913 年 に生 まれたが,す ぐ死亡 した。そ して四女幸 ( ゆ き) ( 1916‑ )が生 まれ
る。
若竹町 は,昔 はアイヌ語 でアッ トマ リ ( 鯨が群が り来 る, とい う意味) と 言われた土地であ り,小樽港 の南端 にあたる古 い漁場 で, 当時 はさび しい漁 夫町だった。店 は,札幌,朝里,熊礁方面か ら小樽 へ通ず る街道 に沿 ってい て,道路 をへだててす ぐ海岸 に面 し,裏手 は,北海道本線 の線路 に接 してい た。小林 の家 は,最初 の他国者 であ り,土地 の人々か ら好奇 の眼で迎 え られ
た ( 29 ) 0
数 カ月後 には小樽港 の第 2 期築港工事,つ ま り南防波堤工事が始 まった。
先ず ,2 万 6 千坪 の埋 め立 て工事が若竹 町の海岸一帯 にわたって着手 された0 土建業者が前面 の山を切 り崩 し爆破 し, ところどころに棒頭がつ く監獄部屋 式 の土工部屋が立 ち, ここに多数 の土二 Lが流れ込 んだ。埋 め立 てが進 むにつ れて,若竹 町 も急速 に変わ って きた。道路 が開かれ,宅地がひ ろが り,商人
も流れ込 み,水産学校が建 ち,築港駅 も竣工 した ( 3 0 ) 。
( 2 8) 『 新潮日本文学アルバム 28 小林多喜二』新潮社 1 9 88 年 ( 2 9) 手塚
( 3 0 ) 手塚
38 人 文 研 究 第 8 6 輯
小林家 は,工事 のためにその後 2 度引 っ越 した。初 めは,若竹町 1 1番地, 次いで 18 番地 である。最初 の小林家 は, 埋 め立 て地 になった ところでないか,
と琴坂氏 は言 う。
さて多喜二 の若竹町の最後 の実家 ( 当時 1 8番地)は,今 は跡形 もない。道 路 が広 げ られて,今 の国道が作 られ たのだが,その際,道路 を広 げるために, 多喜二 の家 の側が全部撤去 されたのである。 そのため,当時 は彼 の家 の前 の 道 は,今 の半分 くらいの広 さであった ( 31) 。 この近 くには,商店が多か った。
多喜二 の姉 ・ 佐藤 ( 小林)チマ さん は言 う。 「 小樽築港駅 か らす ぐの,小樽 寄 り,今度 の戦争で,疎開のために壊 されて,国道 になって しまい ましたが, 最初 はあの家 じゃな くて, あれ は新 し く建 て直 して移 ったんです。借家住 ま
いで , 3 度 くらい移 りました 。」( 32)
1 8 番地 の最後 に落 ち着 くこの家 は,多喜二が庁商 に入 るころには,少 な く ともまだ住 んでいない。島田 は言 う。少 な くて も多喜二が庁商 1年 の半 ば以 後 の ことである。「1度,最後 の家 じゃな くて,その前 に家 に尋ねた ことがあ る。 その時 はまだ築港駅 の埋 立 が で きてな くて,海岸 の石原が あ りま した
多喜二の家 *印 多喜二記念標柱 #印
( 3 1 )石本氏 ( 多喜二の同級生)インタビュー。
( 3 2) 『 北方文芸 』1 96 8 年 3 月号 ,48 ペ ー ジ
小林多喜二伝一 多喜二と小樽‑ 39
=・
‑」
(3 3
)最近,琴坂先生 ( 34) が多喜二 のその家 ( 1 8 番地)の詳 しい位置 を調べたので, 紹介 しよう。図 に示 され るように,現在 の国道 5 号 の自動車 の中央線 の際で あ り,かつ,現在 のアパー ト ( 図の左 のアパー ト) の角か ら3 軒 目の家 の前 か ら垂直 にあたる ところである, とい う説 である。
5 多喜 二住 居 跡標 柱
1 9 8 9 年 1 2 月 8 日に,多喜二 の住居跡 を示す標柱が,市立小樽美術館 の手 に よって, JR小樽築港駅か ら西 1 0 0m ,国道 5 号沿いの港側 の歩道 に立て られた。
多喜二 をしのぶ近隣住民 の運動が実 った ものである。 5 月 に 「 多喜二 を偲 ぶ会」 ( 武 田篤朗代表,若竹町会長,元共産党市議)が組織 され ,1 9 8 9 年の第
2定例市議会 に案内板 の設置 を陳情 し, 9月の第 3定例会 で採択 された。
これ を受 けて文学館が標柱 を立 てることに した。場所 の確定 は琴坂先生 に よるものである。建立 にあたって,弟三吾氏,研究者,町内のお年寄 りらに 場所 を確認 し,慎重 を期 した。
住居 のあった ところは,現在,国道 になっている。 だか ら少 しずれて歩道 の上 に立 て られた。 ( 図参照)
標柱 は,1 5c m 角,高 さ 2. 7m で,大 きな白い角柱 であ り,「 小林多喜二住 居跡」 と書 かれ , 2 行 の説明文が横 ( 国道 か ら見 て左側面) にある。
「 線路 を背 に道路沿 いの小 さなパ ン屋/町並 は戦時 中建物疎 開で撤去 され た 。( 35) 縁町の小樽高商 へ はここか ら徒歩 で通学/色 内町の拓銀へ は築港駅 か ら汽車 で通勤 した。」
右横 には , 「( 旧若竹 町 1 8 番地 ) 」 とある。現在 の築港 1 丁 目である 。
( 3 3 ) 『 北方文芸 』1 9 6 8 年 3 月号 ,4 8 ペ ー ジ
( 3 4 ) 琴坂守尚先生O元小樽水産高教諭。小林多喜二の時代の小樽について極めて詳 しい。
( 35) ここで改行。
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自動車道路 か ら見 て裏側 に「 平成元年 12 月 8 日建立
(36)市立小棒文学館」と あ る。
多喜二 の家 は戦時 中 に強制疎 開 に伴 って壊 され,今 で は当時 の面影 は残 っ ていない。 また多喜二 の死後,母 セ キ は朝里 へ行 って住 んだ。
この説明 の中で,多喜二 が 「 小樽 高商 へ は徒歩 で通学」 とあ る。高商 1年 の終 りか ら彼 はここか ら通学 したのだが,汽車通学 で はないか, あるい は少 な くて も汽車 と徒歩 の併 用 だったので はないか。 とい うの は,多喜二 の高商 時代 に武 田進 は,汽車 で通学 してい る多喜二 をよ く見 ていたか らで あ る( 3 7 ) 。 今 で も熱心 な フ アンが各地 か ら来 て, 住居 を訪 ね る人 は後 をたたないのに, それ を示す もの はなに もなか った。さ らに 1992 年,多喜二住居跡 を案 内す る プ レー トが小樽築港駅 につ け られ た。
小樽 に と り, また文学散歩 をす る人 ,観光客 に とって, これで大変 よい記 念 がで きた。今 まで多喜二 に関す る もの は,旭展望台 の小林 多喜二文学碑 と 市立文学館 の多喜二 コーナー だ けで あった ( 3 8 ) 0
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