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本山美彦

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Academic year: 2021

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(1)

中世西ヨーロッパの内生的貨幣

本山美彦

Abstract

This paper, devoted to late Mr. Yasuhiko Hakui who was a excellent scholar in the field of monetary theory and history, intends to succeed to his scholarly achievement of endogenous money. Throughout the eco- nomic history, money has been created inside economic process, not been injected from outside. Various financial instruments other than cash have covered defict of money itself. Exchange letter and giro were those kinds of instruments. In many cases money itself was controlled by official power whilst other instruments belonged to privare sectors.

And conflicts between public and private money promoted financial sys- tem. This article tends to illustrate that point by analizing the exchange letter and giro in medieval western Europe.

Keywords: money, exchange letter, medieval western Europe

はじめに

貨幣は,経済過程の内部で創造されるものであって,経済過程の外部から 注入されるものではないと言うのが,レーの持論であった(Wray[1990],

p.24)。長崎大学経済学部講師であった故伯井春彦氏の貨幣理解も基本的に はレーのこの視点を踏襲するものであった。氏の研究生活は,貨幣内生説を 実証すると言う点にあった。この1点に氏はすべての研究生活を凝縮させて いた。この論理に関心のない人には,氏のこだわりが奇人のそれに見えたか

(2)

経 営 と 経 済

も知れない。しかし,そのこだわりは,氏が研究者として本物であることを 示すものである。氏の姿勢は,マックス・ウェーバーが『職業としての学問』

で賞揚した研究者の資質を体現するものであった。

私がレーの存在を知ったのも伯井氏からの教示による。本論文は,伯井氏 ならこう書くであろうと想像しながら執筆したものであるが,私は,これを 伯井氏との共同作業であると思っている。氏の経済学者としての能力を私は 非常に高く評価していた。氏の一途な性格は,周囲に多大の迷惑をかけたが,

その余りにも熱い思いは,自らの生命をも焼き切ってしまうほど強烈なもの であった。尋常でない高い能力をもっている天才肌の人によくありがちなこ

となのだが,氏の人間関係の作り方はまことに不細工なものであった。氏を 評価していながら,氏のあまりにも激しい性格に辞易して氏から立ち去った 人も多かった。自らが招1,,¥た孤独と寂家の中にあって,私は氏にとっての最 後の砦であっただろうと思う。長崎大学に氏を紹介した私は,長崎大学の皆 様方に対して,氏がかけていた迷惑の大きさに心の中で詫びていた。それで も,いつか開花するであろう大輪の花を見てくだされば,氏を許してくださ るであろうとの勝手な思い込みの下に,それこそ,必死の思いで私は氏との 共同研究を続けてきた。結果的には,長崎大学になんらのご,恩返しもできぬ まま,氏の早過ぎる逝去に遭ってしまった。紙上をお借りして長崎大学の皆 様方に心よりお詫びしたい。貴重な機関誌の紙面を私に提供してくださった

ことにも感謝している。

しかし,氏の死顔には考えられるかぎりの高貴な品格が惨み出ていた。そ れがすべてを物語っている。氏の人生は高貴で真撃な学究姿勢で貫かれてい た。卑しさが平気で悶歩する現代にあって,真塾な彼岸の氏が,いつまでも 私の背中を見つめているであろうと,私は氏を想いつつ襟を正している。死

1 0

日前に病床の氏を見舞ったとき,氏は末期ガンの激痛に耐えながら 時間以上も,以下私が書く内容の論旨を,言葉を慎重に選びながら私に語っ た。さぞかし,辛く悔しかったであろう。どこの誰が,ポッカリと口を開け

(3)

ている暗い死の洞窟に入ることに怯えながら,自分が進めてきた研究のエッ センスを先生の前で説明しようとするであろうか。氏の思いを少しでも言葉 にすべく,氏を文を通して生き返らせるべく,私は涙にくれながらこの文章 を書いた。この文章を伯井泰彦氏に捧げるのは勿論であるが,子に先立たれ た悲しさと孤独に耐えておられる氏のご母堂にも捧げたい。ご母堂の気品の あるお姿は,さすがに伯井氏のお母様だと私を感動させた。孤独に耐えて生 きてくださいとのメッセージをご母堂に伝えたく,そしてまた,伯井氏がや り遂げられなかった仕事を私が継承したいとの思いで,私は本稿を執筆した。

貨幣は,経済活動をファイナンスするために,経済過程の内部から創出さ れるものである。それは,過去から現代まで連なる一貫したメカニズムであ った。金融の発達段階に応じて,信用供与システムが,有効に機能してきた のである。権力が,自らの鋳造権を行使して貨幣を創造するのは当然である が,権力から離れた経済過程の中からも貨幣は創造されてきた。預かってい る金額以上に自行宛小切手によって貸し付け,その小切手が預金として自行 に還流するとき,その銀行は事実上,貨幣を創造したことになる。しかし,

貨幣創造の力をもつのは,銀行だけではない。振替機能をもつあらゆる金融 機関・金融手段が貨幣創造力をもつのである。

貨幣が経済過程に外部から注入されるのではなく,経済過程の内部から創 出されると言う考え方を「貨幣内生説」と言うが,貨幣を経済過程の内部に 生み出す過程を促進させるのは,国家権力と民間との貨幣創出をめぐる対抗 関係であった。権力が押し付けてくるいいかげんな貨幣を忌避して,民間は,

独自の貨幣を生み出す。権力はそれに抗することができず,民間のシステム を受容する代わりにそれをコントロールしようとする。そのコントロールを 嫌った民間がまた新しい貨幣関係を創り出す。これは,古代から現代までを 貫く権力と市場との間で繰り広げられた貨幣システムの展開の一般的な様相 であった。貨幣とは,

I

権力と市場の間」で成立‑展開するものである。本 稿は,この大きなテーマを具体化する方策の lっとして,貨幣内生説を支持

(4)

経 営 と 経 済

する一例を得るばく,古代・中世の為替手形・振替制度が見せた,権力から はみ出る様相を叙述したものである。

古代の為替手形と中世の振替

銀行に貨幣創造力が備わっていることはいまでは広く認められていること であるが,銀行以外にも貨幣創造力があると言うことは,以外に認識されて いない。貨幣創造は,近代銀行の誕生よりはるか以前から繰り返されていた。

事実,古代イスラム社会の手形振出制度や中世西ヨーロッパの振替

( g i r o )

制度などは,貨幣創造力をもっていた。

為替手形は

8

世紀にすでにイスラム社会で使用されていた。ヨーロッパ には,

1 3

世紀にイスラム社会の為替手形制度が導入された

(Wray

[1

9 9 0 J

, 

p . 2 4 ) 。

手持現金に不足をきたしても,商人は為替手形を振り出して財貨を購入で きていた。手形には,財貨を転売した後に特定の貨幣で支払う日時と場所が 明記されていた。貨幣が特定されていたのは,手形を介在させる交換のほと んどが遠隔地交易であり,財貨が転売される場所が外国であるということも あって,為替手形の引受人(債権者)は,債務者が転売する相手先の外国貨 幣で引き受けるしかなかったのである。為替手形の振出人(債務者)は,約 定日に利子として,より多くの貨幣額を支払わねばならず,為替手形の額面 価格は,購入した財貨の価額よりもつねに大きかった。

手形を引き受けて外国貨幣を受け取った債権者は,その貨幣を自国貨幣に 転換するか,他への支払に使用しなければならなかったが,そのさい,受領 した外国貨幣を対価に自らも為替手形を振り出す場合が多かった。手形の連 鎖で各種通貨の交換が可能となっていた。為替手形は,外国通貨の輸送,自 国通貨との交換,地金流通の必要性を取り除くだけでなく,譲渡可能なもの でもあった。そして,最初の貸し手は,特定の日時と場所で支払の受け取り を受動的に待つよりも,最初の債務者から受け取った手形を原資にして,為

(5)

替手形をその前に売り出すこともできた。セカンダリー・マーケット(流通 市場)が発展するにつれて,手形は次第に交換手段および債務の支払手段と

して用いられるようになった。

為替手形は,現実の貨幣を介在させずに,信用の連鎖、のみで財貨の売買を 可能にした。その意味において,為替手形は貨幣創造力をもつものであった。

それは,近代銀行制度が誕生する段階よりはるか以前の段階であっても,貨 幣創造メカニズムが存在していたことを示すものに他ならなかった。

経済過程の内部から貨幣が創造されると言うメカニズムの存在は,金融取 引に対して厳しい制限を科していた中世イスラム社会にも見られる。イスラ ム法が徴利を禁止していたのは,特定の人聞に貨幣が集積され,それが貸付 の独占に至ることが危倶されていたからである

( U d o v i t c h[ 1 9 7 9 J

, 

p . 2 5 9 )

イスラム法の下では,預金者は預金金利を稼得することも,手数料を取られ ることもありえなかった。預金を受け入れた人は誰でも,保護管理の義務を もち,要求あり次第,預金者に返還しなければならなかった。したがって,

預金を受け入れ,それを利付きで貸し付けるような金融仲介機関が発展する ことは不可能だった。しかし,そうした厳しい規制下にありながら,市場活 動が停滞するようなことはなかった。早くも 8世紀の末には,さまざまなタ イプの信用の手段が発達し,商人たちは信用ベースで財貨を売買できていた からである

( U d o v i t c h[

1

9 7 9 J

, 

p . 2 6 0 )

そうした信用技術のlつに,

I

信用パートナーシップ」と言うものがあった。

それは,信用に基づいて財貨の購入・売却を行うべく,パートナ一間で相互 に融通しあうと言う仕組みであった。徴利が公的に禁止されていたイスラム 社会にあって,このシステムではこっそりと利子が取られていた。公然、と明 確な形で利子を取ることはもとより許されていなかったが,取引価格の中に,

利子的なものをリスク対価と言う形でこっそりと忍び込ませることは暗黙裡 に了承されていた。利子は禁止されていたが,リスクをカバーすることにつ いては許されていたのである。財貨への支払を即時にするのではなく,時間

(6)

経 営 と 経 済

をおいて後日に支払う場合は,後日払い価格を即時払い価格よりも高く設定 することも許されていた。即時払いに比べて,後日払L、はリスクを伴うから である。パートナーシップは,信用に基づく商品の入手を可能にしたが,そ れは後日,より高い価格で売却することを期待したもので,それでもって彼 らは債務を償還し利潤を保持することができた。即時払い価格と後日払い価 格との差は, リスクの大きさを表すものとして許容されていた。それは暗黙 裡の利子であった

CUdovitch[

1

9 7 9 J

, 

p . 2 6 3 )

スフタジャ

( s u f t a j a s )

と呼ばれる為替手形が,そうした後日払いの手段 として広範に使用されていた。著名な商人によって振り出された手形は,商 業のみならず政府の徴税人への支払にも使用できた

CUdovitch[

1

9 7 9

 ]

p .   2 7 0 )

。それらは少額債務を決済するための近代的小切手とほとんど同じよう な機能として使用されていた。商人の多くは,両替,信用状の振出,預金受 入,支払のための手形交換所の開設,小切手振出可能勘定の設定,当座貸越 の許容,現金支払の代わりとしての約束手形の受入れ,等々の銀行的業務を 営んでいた。こうして,彼らは,預金者預金の貸付が禁じられて場合ですら,

自己負債(自己宛手形)の発行で,事実上の貸付を行っていたのである

(Udovitch  [ 1 9 7 9 J

, 

p . 2 7

1)。それは,もう立派な貨幣経済であった1)。

)ところが,不思議なことに,中世アラビア語には,銀行,銀行業,貨幣に当たる言葉 がない。銀行業務は商業活動に限定され,信用関係も商人と顧客たちとの人格的関係に 基づく狭いサークル内にとどまり,社会一般を包含するものではなかったからであると 言うのが,ウドヴィッチの解釈である。「経済活動の規模は必然、的に無数の小さなサーク ルに制約されていた。より大きく,より凝集力のある構造へ拡大する可能性は,経済生 活が営まれる比較的狭陸な社会的ベースによって排除されていた

J ( U d o v i t c h  [ 1 9 7 9   , ]

p . 2 7 3 )

。こうして銀行業の発展と組織化もまた制限されたと言うのであるが,この解釈 は釈然、としない。船乗りシンドパッドの冒険談にあるように,そしてまた,バグダード などの人口

1 0 0

万人を超える巨大都市(西ヨーロッパではせいぜい

2

万人規模でしかなか った)をいくつももっていた中世アラビア世界で,経済活動があまりにも微細であった と言う解釈には,どうしても無理がある。おそらくは,銀行,貨幣を指す用語がなかっ たのは,実体的にそうしたものがなかったと言うよりも,実在はするが,そうしたもの に対する宗教的な憎悪によって言葉が使われなかったのであろうと見なす方が自然、なよ うに思われる。

(7)

金貨,銀貨と言ったいわゆる現金の不足,つまり商品貨幣量の不足が経済 活動を制約するようなことは,近代の銀行制度ができるはるか以前ですらな かった。つねに信用が必要支払手段を賄っていた。信用は,商人たちの名声 に依存するものであった。当然,名声の高い商人は十分の支払手段を調達で きた。

ある金匠が,自分は銀行券発行残高に対して少額の準備を保有するだけで よいのではないかと気づいたところに貨幣創造が発生するのだ, と言う通説 は,イスラム社会には適用できない。そこでは,金融仲介機能が法によって 禁じられていたからである。それでも,イスラム社会で貨幣が創造されてい たと言う点が重要である

( W r a y

[1

9 9 0 J

, 

p . 3 0 )

中世西ヨーロッパでも,近代的な銀行制度が発達していない段階でも,貨 幣創造があった。振替制度

( g i r o )

の普及がそれを可能にした。振替制度と は,取引契約を交わしているメンバーの誰かが振り出した信用手段を,交換 手段および支払手段として他のメンバーが受け取ると言う合意の下で成立し たものであり,仲間内の支払組織であった

( W r a y[ 1 9 9 0 J

, 

p . 2 5 )

1 4

世紀英国の羊毛貿易に関係する為替手形の流通がその好例である。英国 の羊毛輸出商(ステイプラー)がフランドルの羊毛輸入商(ドレイパー)に 羊毛を売る。そのさい,売却額の

3

分の

l

は即刻現金で,残り

3

分の

2

はフ ランドルのドレイパーが振り出すロンドン払い為替手形で受け取ると言う契 約が交わされる。フランドルのドレイパーは自己の振り出した為替手形をロ ンドンで償還しなければならないが,これは, ドレイパーがフランドルから ロンドンに財貨を輸出し,その売却益の中から支払うことによって完結する。

つまり,フランドルからの輸入財貨がロンドンの定期市で売却されて後,ロ ンドンのステイプラーは最終的に支払を受けることになる。ステイプラー自 身も,通常は為替手形を振り出して生産者から羊毛を購入していたので,今 度は,フランドル商人からの入金で自分の手形を償還することができること になる。こうして,為替手形を介在させることによって,スコットランドの

(8)

経 営 と 経 済

羊毛生産者からロンドンの羊毛輸出商へ,そしてフランドルの羊毛輸入商へ と,羊毛を移動させる回路ができた。この回路が機能するためには,自己と 反対方向の回路,すなわちフランドルからロンドンへの別の財貨の回路の存 在を必要とした。ただし,振り出された為替手形は,広範な市場性をもつも のではなく,特定のステイプラーとドレイパ一間にのみ通用するものであっ た。つまり,当事者間でのみ通用する振替制度であった。イスラム社会で発 達していた譲渡可能な為替手形のシステムほどではないにしても,中世西 ヨーロッパの振替制度もまた,貨幣創造機能をもっていたのである

(Munro

[ 1 9 7 9 J

, 

p p . 1 9 1 ‑ 9 5 ) 。

ちなみに,後に発達する近代の銀行業務と言っても,それは革命的に新し いものではなく,古代イスラムと中世西ヨーロッパですでに一般的となって いた為替手形システムと振替制度を車の両輪にしたものである。銀行の機能 は,ロンパート業務と振替業務の

2

つで特徴づけられるが

( K n a p p[ 1 9 2 4 J

, 

p . 1 2 9 .

邦訳,

1 7 7

ページ),預貸業務であるロンパート業務は,後日の貨幣 の支払約束と引き換えに,銀行が現時点で貨幣を提供することであり,通常 は,為替手形の割引か,売却見込みのある特定種類の財貨への前貸しと言う,

いずれかの形態を取る。割引とは,銀行は額面よりも低い価格で手形を買い 取ることで利子を稼得し,後者のケースでは貸付に対して明示的に利子率が 課される。その意味で,業務内容は為替手形システムを基礎としていたと言 える。

振替制度は,債権者と債務者の間で貨幣を移転させるために,両者の銀行 勘定が使用される。銀行勘定は,また,保証の役割も担う。為替手形が裏書 され,それが振替制度を通じて,広範に流通するようになる。自行の顧客が,

自行銀行券を,他銀行の他口座への振込用として受領してくれるなら,銀行 業務は大きく拡大する。自行銀行券(銀行の債務)の発行によって,ロンパー ト業務を活発にさせ,そのことによる利益を増やすことができる。割引業務 の量も,法貨の数量に縛られなくなる

( K n a p p

[1

9 2 4 J

, 

p . 3 1 .

邦訳,

1 8 0 ‑ 8 1  

(9)

ページ)。銀行券が広く受領されるにつれて,振替制度の規模は増大し,銀 行の拡張能力は高まる。いずれにせよ,近代銀行の貨幣創造力の基礎は,為 替手形システムと振替制度を基礎にしたものであることがここで確認でき

2 ) 。

2  中世の地金不足と代替的信用

古代,中世でも,私的に運用される信用手段は,結構豊富に存在していた。

外国貿易のための商品調達,貴族の消費,農民への種子貸与等々の分野で,

消費者貸付が広く利用されていた。信用の供給者は,神殿,私的商人,地主,

王の国庫が主たるものであった。貸付は,穀物,貨幣,その他の財貨の自ら の準備を基礎とするものであり,他から預かった資金を別の人に貸し付ける と言う意味においての金融仲介は稀であった。古代の地中海世界では,貸付 利子率は,通常,

20"‑'30%

の範囲に収まっていた。それは,地代に準じて決 定されていたように見える

( V V r a y [ 1 9 9 0 J

, 

p . 3 0 )

。一般的には,外国交易 を活発に営む社会ほど,金融手段の発展水準は高かった

( G o l d s m i t h

[1

9 8 7 J

, 

p p .

1l

‑ 1 4 ) 。

古代ローマの貨幣は,基本的に金属貨幣であった。金貨銀貨が法貨,銅貨 は補助貨であった。しかし,金属貨幣はつねに不足していた。不足分の多く は皮質で対応していた。ディオクレティアヌス時代

( 2 8 4 " ‑ ' 3 0 5

年)になると,

同額の額面の硬貨の金含有量は,ネロ時代

( 5 4 " ‑ ' 6 8

年)の

1 3 0

分も

H

こまで低

)クナップには,銀行券が振替制度の発展形態であることの認識があった。銀行は,自 行の銀行券で貸し付け,自行の銀行券を預金として受け入れると言う金融仲介機関とな る。銀行の顧客が,銀行との債務決済に銀行券を使用できるようになると,振替制度の メンバー聞の債務も,銀行券に置き換え始める。こうして,信用連鎖の中心に銀行券が 置かれることになる。そうなれば,銀行は,その他のほとんどの債務が通過しなければ ならない頂点となる。しかも,振替制度のメンバーの外部でも銀行券が広範な流通性を もつようになる。この傾向を促進させるべく,国家が積極的に振替制度の一員となり,

振替内部のすべての私的負債を,銀行券に代替させるプロセスを後押しすると言うので ある

(Knapp[

1

9 2 4 J

, 

p . 1 3 5 .邦訳, 1 8 5 ‑ 8 6

ページ)。

(10)

1 0  

経 首 と 経 済

下していた。鋳造権は皇帝の独占であった。造幣料は25%前後であった。

古代ローマは,壮大な農業社会であり,けっして商業社会ではなかった。

ほとんどの生産は,市場取引によるものではなく,ましてや,私的な契約は 稀であった。外国貿易も,地金のフローを通じてファイナンスされていた。

帝国の貿易収支は赤字基調であったが,それは,植民地が帝国に貢納する金 によってファイナンスされていた。政府支出はおそらく国民生産の

5 %

を超 えることはなく,関税,公有地の地代,植民地からの貢納によって支えられ ていた。古代ローマもギリシャも大量の信用関係は必要としていなかった。

紀元

4 7 6

年に西ローマ帝国が滅びた後,生じた封建的生産様式は,対内的に はますます貨幣を必要としない体制であった。しかし,それでも,貨幣的お よび金融的諸関係が消滅してしまうことはなかった。封建制度の時代でも,

対外関係は存在していたし,対外関係にとって貨幣は必要だったからである。

金融機関は封建制度の期間,

1 0 0 0

年にわたって存続した

( V V r a y[ 1 9 9 0 J

, 

p .   3 2 ) 。

西ヨーロッパの近世になっても,最大の支払手段である地金は,恒常的に 不足がちであった。とりわけ,鉱山の落盤事故が多発した

1 4

世紀には,西ヨー ロッパ中で多数の鉱山が放棄された

( D a y

[1

9 8 7 J

, 

p . 3 3 )  

1 3 2 5 " ‑ ' 5 0

年の期 間の全ヨーロッパの地金準備総額は,

2 0 0 0

トンと推計されているが,これが

1 4 5 0 " ‑ ' 7 5

年にはわずか

1 0 0 0

トンにまで下落した

( D a y

[1

9 8 7 J

, 

p . 6 0 )  

0 しか し,商業が窒息していた古代から中世にかけての時代と異なり,中世末から 商業が活発に復興し始めていた。したがって,鋳貨不足は中世以前と違って 深刻であった

3 )

。鋳貨の慢性的不足と購買力の不十分な状態に直面して,政 府は銅を加えることで皮質を試みようとしたが,皮質は簡単に見破られて,

鋳貨の購買力は名目価値で決まったのではなく,実際の銀内容で決まるよう になるまで信用低下が著しかった

( L o p e z

[1

9 7 9 J

, 

p . 1 8 )

。このことは,私

)イングランドでは,

1 3 7 0

年から

1 4 6 9

年までの

1 0 0 0

年間の硬貨鋳造数は,

1 2 7 0

年から

1 3 6 9

年までの

1 0 0 0

年間の鋳造数と同じであったが,内在価値は

40%

も低下し,実質的に は鋳貨不足は深刻なものであったと言う

( 1 1 u n r o[ 1 9 7 9 J

, 

p p . 1 8 1 ‑ 8 2 )

(11)

的に発行された負債が,ギャップを埋め流通を促進すべく必然的に求められ たことを意味している。

中世末から近世初期にかけて,様々の私的信用手段が,頻繁に用いられる ようになっていた。

1 3

世紀には西ヨーロッパは「為替手形を再発見し」

( B r a u d e l  

[1

9 7 3 J

, 

p . 3 5 9 )

,これらが

1 1 3

世紀後半における地中海と北欧と のあいだの多量の商品貿易をファイナンスした

J (Day [

1

9 8 7 J

, 

p . 1 7 3 )  

1 5  

世紀に入ると,為替手形は裏書されて流通するようになっていた

( B r a u d e l

9 7 3 J

p . 3 5 9 ) o   1 4

世紀の末までに債務証書

O e t t e r so b l i g a t o r y )

が譲渡可 能になっていたから,私的に振り出された債務は支払手段として流通するこ とができた。

1 4 3 7

年にはロンドン市裁判所が,正規の為替手形の移転可能性 と全額支払に対する持参人の法的請求権とを承認した

( 1 1 u n r o [ 1 9 7 9 J

, 

p .   2 1 5 )

。完全な割引制度

( f u l ld i s c o u n  t i n g )

1 8

世紀まで認知されなかったが,

早くも

1 5 3 6

年 に は ア ン ト ワ ー プ の 定 期 市 で 債 務 証 書 の 割 引 が 存 在 し た

( 1 1 u n r o  

[1

9 7 9 J

, 

p . 2 1 5 )

。金匠たちは

1 6

世紀半ばには,預託された金に対 して銀行券を発行していた。

1 6 6 6

年までに金匠たちは

1 2 0

万ポンド・スター リングを発行していた。ヴェネチアでは

1 5

世紀以来,銀行は償還可能手形

( r e d e e m a b l e  n o t e s )

を発行していた。この地では,銀行券も

1 6 6 0

年代にな ると発行されるようになっていた

( B r a u d e l

[1

9 7 3 J

, 

p . 3 6 0 )

鋳貨不足が慢性化していた中世において,絶対的な貨幣不足を避けること ができたのは,信用,それも債務の譲渡形態の信用が存在していたからであ った。その場合,建前的には徴利禁止法が障害となるはずであった。しかし,

ある研究によれば,この法律に抵触して問題にされるような取引はほとんど なかった。 1383~

1 6 0 0

年の期間のヘイヴァリングの法廷

( t h eHavering  c o u r t s )

で見るかぎり,高利に関する法廷訴訟は記録されていないと言う

( 1 1 c I n t o s h  

[1

9 8 8 J ,  p . 5 6 6 ) 。

もともと,徴利禁止については,教皇レオ

9

世のときの

1 0 4 9

年,ランス教 会会議

( t h eC o u n c i l  o f   Reims)

1

聖職者も俗人も高利貸しであっては

(12)

1 2  

経 営 と 経 済

ならぬ

J( L o p e z  

[1

9 7 9 J

, 

p

.4)とされたことを指している。そのさい,利 子とは,

I

貸付に対して,特別かつ専一的に固定され,あらかじめ,規定さ れた何らかの収益」と見なされていた

( 1 1 u n r o[ 1 9 7 9 J

, 

p . 1 7 0 )

。一見,厳 しそうな規定であるが,特別に決められたものでなく,あらかじめ決められ たものでもなく,固定された大きさではなくつねに不安定な変動するもので あれば,なんらかの取引の結果,たまたま収益が上がっただけのことである と言う了解が教会との間でできれば,その収益は利子でないと言う判断が許 されていた。その典型は為替レートであった。ある国の貨幣で貸し付け,返 済は別の国の貨幣で受け取ると言う形態を取る為替手形であれば,実勢の為 替レートと契約の為替レートとのズレが貸付者に事実上の利子をもたらすこ とができる。たとえば,貸付に使用した X貨幣と返済に当たって要求される

Y

貨幣との聞の交換比率が,貸付時の契約が

1 0 0:  1 1 0

であり,その後の返済 時の実勢が

1 0 0:  1 0 0

になったとしても,債務者は,契約通り

1 0 0:  1 1 0

の交換 比率を遵守しなければならない,つまり,返済者は実勢よりもより多くの Y 貨幣を債権者に返済しなければならない。これは,貸付者が得ることのでき る収益であり,利子であると判断されても仕方のないものである。しかし,

貸付者からすれば,たまたま,契約時よりも実勢の

Y

貨幣が

X

貨幣に対して レート高になったから,収益が上がったのであって,逆に実勢レートが契約 レートよりも Y貨幣が低くなれば,貸付者は,返済時に実勢よりもわずかの

Y

貨幣を受け取ることになり,為替差損を被ると言う抗弁を行うことができ る。つまり,為替レート変動の結果として収益が上がったり,差損が発生し たりするのである。したがって,為替手形の取組で得た収益は利子ではない

と言うことになる

4 )

)いずれにせよ,為替手形は利子をこっそり忍び込ませるのに都合のよい手段であった。

為替手形が人気を博したのは,負債が確定していたこと,他の契約に比して,硬貨の船 積みを必要とせずに国際支払ができると言う便宜さがあったからである

(Munro

[1

9 7 9   , ]

p . 1 7 2  ;  Day 

[1

9 8 7 J

, 

p . 1 4 4 )

(13)

しかし,中世の世界におけるこの種の弁明は詑弁である。異種通貨の交換 レートが市場のみで排他的に決まるはずはなかった。両替業務,為替業務は,

イタリア・ロンバルト人たちの独占的業務であり,日々の為替レートは彼ら の事実上の専横権下で決定されていた。後の開明君主たちが,相次いでロー マ教会から離脱したのも,ローマによる

1 0

分の

l

税を集金するイタリア商人 を排除する意味もあった。

3  為替手形と中世イタリア商人

中世西ヨーロッパの銀行業は,イタリアの両替商から発展したものである。

たとえば,

1 2 ' " ' ‑ '  1 3

世紀のルッカの両替業者たちは,ルッカの鋳貨で外国の鋳 貨を買い,その外国鋳貨で、対顧客貸出を行っていた

( B l o m q u i s t

[1

9 7 9 J

, 

p .   6 0 )

。貸付は国内の農民たちに対しでも硬貨でなされ,彼らはそれで種籾や 農具を買い,穀物やワインなどの現物で返済を行ったと言う記録もある

( B l o m q u i s t  

[1

9 7 9 J ,  p p . 6 3 ‑ 6 4 ) 。

1 3

世紀中葉までには,両替業者たちは,銀行移転を通じた債務清算を促進 すべく,相互に勘定を保持し始めた

( B l o m q u i s t

[1

9 7 9 J

, 

p . 6 7 )

。貸付はし ばしば預金者に当座貸越を提供することでなされた。つまりこの頃までには,

両替業者によって銀行機能が完備させられたと見なすことができる。

1 4

世紀 のイタリアの主要な港湾都市では,銀行が振替勘定を提供し,これが顧客間 の勘定の決済に使われ,銀行は金融仲介機関として機能しつつ預金貸付を行 っていた

(Day[

1

9 8 7 J

, 

p . 2 )

1 3

世紀のイタリアの外国貿易は,マーチャント・パンカーのパートナーシ ップによって営まれていた

( B l o m q u i s t

[1

9 7 9 J

, 

p . 6 8 )

。たとえば,ルッカ のマーチャント・バンカーは,シャンパーニュの

6

つの定期市に絹を送り,

lレッカ向けの産物を買い入れていた。ルッカのこのマーチャント・バンカー の貿易業務が為替手形を進化させた。為替の買い手はルッカで資金を払い込 み,シャンパーニュの定期市の 1つでルッカで払い込んだ額と等しい額のプ

(14)

1 4  

経 営 と 経 済

ロヴァンスの貨幣で返済されることを約束した公証手段

( n o t a r i a li n s t r u

ment)

を,売り手すなわち受取人

( t h et a k e r )

から受け取っていた

( B l o m ‑ q u i s t l   [ 9 7 9 J

, 

p . 7

I)。為替の買い手が貸し手,売り手が借り手であり,

I

い手の資本に対する利子が,変動する為替レートに内部化されていた」

( B l o m q u i s t  [

1

9 7 9 J ,  p .  7  4 ) 。

1 3 ' " " 1 4

世紀のイタリア商人たちは,積極的に英国王室に貸し付けていた。

彼らは英国の羊毛輸出にも関与し,英国王室のために大陸で支払を行なって いた。英国はイタリア商人からの王室への貸付によって対外戦争を遂行でき ていたのである。イタリア商人たちは,百年戦争(1

3 3 8 ' " "1 4 5 3

年)の勃発時

1338

1 2

5000

ポ ン ド ・ ス タ ー リ ン グ 超 の 貸 付 を 行 っ て い た

( P r e s t w i c h  [

1

9 7 9 J ,  p . 7 9 ) 。

英国王室は,ほとんどの場合,イタリア商人からの借入を踏み倒した。対 国家貸付は高い利率でなされていたが,返済されることは稀であったために,

イタリア商人たちは英国王室への貸付そのものからは利益を得ることはなか った。にもかかわらず,イタリア商人たちが英国王室貸付を継続したのは,

英国人が大量の短期資金をイタリアのマーチャント・バンカーに預けていた からである

( P r e s t w i c h[

1

9 7 9 J

, 

p . 9 6 )

それだけでなく,イタリアのマーチャント・バンカーたちが,英国との取 引に積極的であったのは,英国王室が厳しく英国硬貨を禁止していたことに より,自分たちの発効する為替手形の販路が広がったからである。英国王室 は,外国硬貨とポンド・スターリングとの両替に厳しい統制を維持していた。

これは,英国からの地金輸出を防ぎ,贋造硬貨や悪貨の輸入を禁ずるためで あった。このために国内銀行業務は,英国では,ルッカのようには,硬貨の 両替からは発展できなかった

( P r e s t w i c h[

1

9 7 9 J

, 

p . 9 9 )  

0 彼らは英国でポぐ ンドを受け入れ,パリではリーヴル・トゥルノワを引き渡した

( P r e s t w i c h

[1

9 7 9 J

, 

p . 9 7 )

。イタリア商人たちは,また,英国の関税を担保とした英国 王室への貸付を行っていた

( P r e s t w i c h[ 1 9 7 9 J

, 

p . 1 0 3 )

。つまり,イタリア

(15)

商人たちは,英国の金融システムの硬直性の間隙を突く形で,あらゆる信用 のファシリティを提供したのである

( P r e s t w i c h[

1

9 7 9 J

, 

p . 1 0 4 )   5 )

。事実,

英国内のあらゆる取引が現金(硬貨)ではなく,信用で遂行されていたと言 っても言い過ぎ、ではなかった。債務が商人の勘定で最終的に決済されるまで,

数カ月,あるいは数年間にもわたって持ち越されると言う商習慣があった

(M c I n t o s h  [

1

9 8 8 J ,  p . 5 6 0 ) 。

イタリア諸都市では,個人に徴税を請け負わせていた。膨大な資金を市当 局が必要とする場合には,将来の徴税権を売却することで歳入を先取りする ことも頻繁に行われた。

1 1 6 4

年,ヴェネチア共和国が,将来の税収に対して 銀行から前貸しを受けたと言う記録がある

( V V r a y[ 1 9 9 0 J

, 

p . 3 8 )

。同じく ヴェネチアのサン・ジョルジョ銀行

( t h eBank o f  S t  G e o r g e )

1 5

世紀半 ばに市債を貨幣化し,

1 6 1 9

年創立の「振替銀行J (Banco d

e l  G i r o )

は,と くに政府に資金調達することを主たる機能にしていた。この銀行は,政府の 債券を買い取り,負債を発行することで,政府支出をファイナンスすべくヴ ェネチアで創設されたものである。これらの負債は法貨と宣言され,受取を 拒むことはできなかった

(Day[

1

9 8 7 J

, 

p . 1 5 3 )

。ジェノアでは政府債務は 私的な債権者によって買い取られ,彼らは次第に政府に対して実質的な統制 権を獲得し,

I

国家そのものよりも強力で,尊厳をもち,かつ耐久力のある 国家債権者たちの自律的組織」の発展につながった

(Day[

1

9 8

7] 

p . 1 5 6 )

確かにジェノアでは市の債務は流動化されて,通貨同様に自由に流通し,支 払手段として機能していたのである

( V V r a y[ 1 9 9 0 J

, 

p . 3 8 )

1 3

から

1 4

世紀にかけて,イタリア諸都市は,軍事目的のためにコンドッテ ィエリ(

C o n d o t t i e r

i)と呼ばれる職業的私設軍隊を傭うようになっていた。

)実際,英国における銀行業の発展は遅速であった。エリザベス朝(1 558~1603年)と 言う遅い時期でさえ,完全な銀行や政府債券は存在しなかったし,英国人による短期信 用は消費者債務,運転資金の小口前貸し,王室貸付に限られていた

C G o l d s m i t h

[1

9 8 7 J

, 

p .   1 8 6 )

(16)

1 6  

経 営 と 経 済

軍事支出は,政府の総支出の 3分の liP ら 3分の 2~こ相当するものであった。メ ディチ家のフィレンツェでは

1 4 2 1

年から

1 4 3 0

年の期間だけで,軍事支出が政 府の歳入総額の

2

倍におよんだ

( G o l d s m i t h

9 8 7 J

p p . 1 6 4

2 4 9 ) o   1 4 0 8

年の ジェノアの市債は,その年のジェノアの海上貿易総額のおよそ

4

倍に相当す る規模であり,その大部分はヴェネチアとの戦争中に累積したものであった

( D a y  

[1

9 8 7 J

, 

p . 1 5 8 ) 。

スペインでも同様であった。オランダにおける叛乱鎮圧のためにスペイン 王室が支出した額は,年間

2 0 0

万から

3 0 0

万金クラウンあったが,これは,交 易の最盛期のオランダ政府の年間歳入を凌ぐものとなった。イタリアで大規 模な軍事作戦のなかった期間は,

1 6

世紀にはわずか

2 5

年間,

1 7

世紀には

2 1

間しかなかった

J( W r a y  

[1

9 9 0 J

, 

p . 3 8 )

。英国でも,

1 5 8 5

年以降のエリザベ ス朝の軍事支出は,政府総支出の

5

分の

4

に相当していた

( G o l d s m i t h

[1

9 8 7 J

, 

p . 1 9 3 )

。このように莫大な戦費が,銀行からの借入でまかなわれていたので ある。

上述のごとく,英国王室は,イタリア商人からの膨大な借入を頻繁に踏み 倒した。にもかかわらず,イタリア商人たちが英国王室への貸出を継続した のは,王室が彼らに土地の譲渡,税免除,民間の債務不履行者に対する制裁 権,宮廷での厚遇と言った種々の特権を王室から付与されていたこともあっ

( P r e s t w i c h [ 1 9 7 9  J ,  p . 9 1 ) 。

中世西ヨーロッパの王室の相次ぐ軍事行動による財政難,銀行からの借入 制約の強まりと言った事情から重金主義が生まれたのは当然、の流れであった

( W r a y   [ 1 9 9 0 J

, 

p . 4 1 )

。それは,新たな金銀資源を発見しようと言う衝動 や,その結果としての両アメリカ大陸の植民地化競争を促した。王室は,と りわけ地金輸出を防がなければならなかった。このことが,イタリア商人た ちへの王室の憎悪を醸し出した。イタリアの商人たちが,貿易のために貿易 手形を多用し,それら手形の仕組みが地金の国外流出を助長しているのでは なし、かとの疑念が次第に西ヨーロッパ,とくに英国の王室に大きくなり,銀

(17)

行業におけるイタリア拝外主義が生まれるようになったのである

(Wray

[1

9 9 0

 ]

p . 4 2 ) 。

1 3 4 0

年,英国王室は,羊毛輸出業者たちに貴金属の形態での納税を強制し た。輸出業者たちは,英国産羊毛の買い手であるフランドル人が地金輸出を 禁じられているので納税は不可能だと返答し,この税金は撤回された。

1 4 2 9

年にも王室は同じ行動を起こした。王室は,羊毛輸出業者たちに,販売の3 分の lを貴金属で英国造幣所に持ち込むよう要求した。英国の羊毛輸出業者 たちは,為替手形の利用を制限することは輸出市場を破壊すると反対し,こ の法律も

1 4 7 0

年代に撤廃されることになった。さらに,イングランドで営業 をしている輸入業者たちは,財貨よりも地金を輸出したのだと王室は外国の 輸入業者たちを非難し,

1 5 3 0

年代に為替手形が再び制限された。当時,ロン ドン市長だったリチヤード・グレシャムが,貿易のために商人たちは為替と 戻し為替

(exchaugnesan r e c h a u n g e s )

を必要としているので,そうした為 替手形の制限は,貿易を中断させてしまうとして商人たちのために調停を行 い,国王ヘンリー8世(1

5 0 9 " ‑ '1547

年)に対して制限を撤廃させたと言う

(~unro

[ 1 9 7 9 J

, 

p . 2 0 9 ) 。

財政難に苦しむ王室は,激しい勢いで硬貨の皮質に依拠した。

1 2 0 0

年の英 国ポンドは純銀3

2 4

ク申ラムを含んでいたが,

1 6 0 0

年までには

1 1 2

グラムに下落 していた。同様に8

0 0

年から

1 6 0 0

年まで,フランスの貨幣単位は

3 9 0

グラムか ら1

1

グラムへ,ミラノの貨幣単位は3

9 0

グラムから4

. 9

グラムへ,ヴェネチア の貨幣単位は3

9 0

グラムから

3 . 5

グラムへと下落している

( C i p o l l a

[1

9 8 0 J

, 

p . 2 0 1 ) o  1 5 0 0

年から

1 6 2 0

年の間に多数のヨーロッパ諸国で,平均物価水準が

300%

から

400%

上昇したと言う

( C i p o l l a[

1

9 8 0 J

, 

p . 2 2 7 )

著しい皮貨に対抗するために,商人たちは以前にも増して為替手形や相互 の振替勘定を利用するようになった。

1 6 1 9

年,ハンブルク振替銀行

( t h eHamburg g i r o  bank)

は,銀行マルク

( t h e  mark b a n c o )

と呼ばれる計算単位を使用し,国家の貨幣単位,ターレ

(18)

1 8  

経 営 と 経 済

ルに対抗して使用することになった

( K n a p p[ 1 9 2 4 J

, 

p p . 1 4 4 ‑ 4 9 .

邦訳,

2 0 2  

‑ 7

ページ)

0 1 7

世紀の初め,ジェノア人たちは金価値に連動する安定的な計 算単位,スクード・ディ・マルコ

( s c u d od i   m a r c o )

を創造した

(Day

[1

9 8 7 J ,  p . 1 4 8 ) 6 ) 。

この程度の証拠を列挙するだけでは不十分であることは重々承知している ものの,多くの研究者が,市場向け生産が一般化する以前の前資本主義時代 でもすでに私的な信用手段が国家貨幣または商品貨幣を代替していたことの 無数の証拠を発掘しているのである。そうした社会における信用は,生産で はなく,交易に傾斜したものであった。前資本主義的な社会では,貨幣と信 用が時間を超えて購買力を移転させ,交換を「円滑にさせる」機能を十二分

)当時の激しい物価騰貴は,言われているほどには,貨幣過多からくる超過需要ではな かった。物価が上昇したのは,毘貨が内包する金属量で値付けされたからである。

こうした毘貨が生じるのは,貨幣が地金価値で秤量される段階から,計数貨幣化した 段階においてである。つまり,計算貨幣が一般化した段階,つまり,毘貨をこっそりと 額面で通用させようとして流通に紛れ込こませることが可能になった段階で,日芝貨が意 味をもっ。つぎの晦渋かつ屈折したケインズの叙述は単純にこのことを言っているにす

ぎない。

「硬貨が地金の一定量にすぎなかったとき,その刻印は品位を確認し量目を表示する かも知れないが,硬貨は地金価値抜きでは流通しないだろう。こうした初歩的段階にお いては, ~芝質と言う手段は利用できない。契約の発展とともに計算貨幣と言う概念が出 現するまでは,そして国家によって発行される硬貨が法貨としての特性を獲得し,この 計算貨幣で算定された債務の法的な解除としての強制通用力を享受するまでは,それは 現れえないのである。われわれが理解する意味で貨幣が人間の諸制度に入ってくるのは,

この段階なのである

J (Keynes [

1

9 8 2 J

, 

vo

1.

2 8

, 

p . 2 2 6 )

フォリーはドイツのハイパーインフレーションをほとんど同様の論法で論じている。

「物価は金マルク,ないしポンドまたはギルダー,すなわち金価値と緊密な関連を保持 した通貨で設定されており,紙幣マルク物価は,マルクと外為市場で決まる金通貨との 聞の為替の実勢市場レートで金物価を乗じて計算された

J ( F o l e y  [

1

9 8 3   , ] p . 1 6 )

(19)

にはたしていたのである

(Wray

[1

9 9 0 J

, 

p . 3 7 )

おわりに

近代国家は,租税支払やその他の国家との取引に銀行負債を受け入れ,振 替制度の一員となっている。国家が振替制度に参加するようになれば,銀行 負債は一般的に受領される支払手段となる。この時点で銀行券は,銀行相互,

対顧客との取引においてだけでなく,国家との取引においてもまた有用なも のとなる。これは,国家が民間で開発されていた貨幣システムの軍門に下っ たことを意味するが,他方では,このことが国家の租税歳入引上能力を拡張 する手段を国家に与える。国家が介在する以前には,銀行券なり振替制度は 仲間内でのみ通用するもので,銀行振替制度の時外にいた市民たちには関係 のないものであった。しかし,国家が銀行券を受け入れ,振替制度を積極的 に利用するようになってからは,銀行券は広く市民に受け入れられるように なる。彼らもまた銀行券を国家の要求を満たすために使用できるようになっ たからである。国家に対して債務をもっ人々は,たとえ自分自身は振替銀行 に何の関わりももたなくとも,国家に対する自分たちの関係によって振替制 度の成員となるわけである。

国家が振替制度の頂点に立つとき,その権力は高まる。そう言う状況を創 り出すべく,国家は,自己の負債が銀行の負債よりも選好されるように市民 を誘導する。国家は自己の権力を振るえる国家賃幣への私的債務の交換性を 要求する。これは長いプロセスであるが,最初に中央銀行を通じる準備の単 独集中化

( am o n o ‑ r e s e r v e  s y s t e m )

が必要になる。そのとき,国家は銀行 の負債を受け入れることで銀行の発展に弾みを与えるが,交換性を強制する ことで銀行に制限を課すことができる。その交換性は,国家貨幣の価値を保 証する手段でもある。国家はまた私的な銀行券を排除することによって銀行 を制限するから,中央銀行券だけが通貨として振る舞うことになる。このこ とは要求払い預金に依拠するシステムへの動きを促すことになるが,この要

(20)

2 0  

経 営 と 経 済

求払い預金に対しては中央銀行に準備が保有されることになる。国家はまた 債務を貨幣化するために預金銀行を利用し,中央銀行券の交換性を強めて有 無を言わせぬ法貨に仕立て上げる。貨幣を理解するには,この理路を整理す

ることである。

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