智山声明の「理趣経」と「五悔」から見る中曲旋法について(我妻)
智山声明の「理趣経」と「五悔」から見る中曲旋法について
我 妻 龍 聲
抄録 本考察では特に智山声明の「理趣経」と「五悔」を中心に中曲旋法を考察した。考察の結果、中曲旋法には平調中曲旋法と黄鐘中曲旋法がある。平調中曲旋法は反音旋のみで構成され黄鐘中曲旋法は反音旋と唯呂旋で構成される。平調中曲旋法は平調調の同調間の呂律の交代で構成され黄鐘中曲旋法は黄鐘調の同調間の呂律の交代と一越唯呂旋で構成される。平調中曲旋法は平調反音曲と呼ばれ黄鐘中曲旋法が「黄鐘中曲」と呼ばれていると考える。黄鐘中曲旋法は反音曲でいえば一越反音曲であると考える。以下、中曲旋法について詳しく述べる。
一、はじめに
前稿では中曲旋法について述べたが前稿は中曲旋法全般の考察が目的で「理趣経勧請」と「両界勧請」についてはあまり詳しく考察できなかった。本考察では魚山が中曲と規定する「理趣経」と「両界勧請」の特に「五悔」についてもう少し詳しく中曲旋法を考察してみたい。
岩原諦信師は中曲成立以前の声明を「輸入時代における諸声明」として図にまとめている (1)。その図によれば呂双調は「三礼」、「中唄」、「如来唄」、「五悔」、「九方便」、「四智梵語」、「心略梵語」、「不動梵語」、「四方讃」。律盤涉調は「梵音」、「三条錫杖」。律平調は「四智漢語」、「心略漢語」、「仏讃」、「文殊讃」、「吉慶漢語」、「吉慶梵語」、「四波羅蜜」。呂反一越調は「散華」、「云何唄」、「出家唄」である。この頃の声明曲はほとんどが呂か律で僅かに「唄」、「散華」のみが一越反音
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曲である。この様に諸讃はほとんど唐から輸入された曲で旋法は呂律である。中曲は寛朝僧正が作曲した「理趣経」以降、日本で作曲された曲を指すとされている。「勧請」の独特の節回しは訓読の「アクセント系の中曲」の声明にのみ見られ諸讃には見られない。諸讃の博士や節回しが中曲の影響を受けていないという事は中曲が一番最後に成立した声明曲である事を意味すると考える。
大山公淳師は真源師の記述を挙げて「理趣経勧請」、「廻向」、「両界勧請」、「五大願」、「仏名」、「教化」、「三十二相」、「乞戒声明」を中曲としている (2)。魚山や『大典』では更に「諸祭文」、「諸表白」も中曲と規定する。智山声明には「三十二相」、「乞戒声明」はないから「理趣経勧請」、「廻向」、「両界勧請」、「五大願」、「仏名」、「教化」、「諸祭文」、「諸表白」が中曲でそれ以外は中曲とは呼ばない。しかし前稿で述べた通り中曲を旋法でいうならばまた別である (3)。『略頌文』の中曲に関する記述は「勧請中曲黄鐘調」、「胎界調曲如金剛」、「乃至勧請亦如是」、「理趣勧請亦復同」、「廻向黄鐘半呂律」、「仏名黄鐘曲者律」、「乃至教化亦如是」の七箇所である (4)。『略頌文』では「理趣経勧請」、「両界勧請」、「廻向」、「仏名」、「教化」が中曲である。その内の「勧請中曲黄鐘調」と「廻向黄鐘半呂律」の記述から中曲イコール黄鐘調イコール半呂律という事になる。中曲と半呂律が同義である事は『正徳版』に「頌云、回向黄鐘半呂律といえり。中曲なり (5)」という記述から明白であり「回向」と「勧請」の本博士がまったく同類である事からも疑う余地はない。また、『声明私案記』に「回向等は両界の勧請の如きなり (6)」とある事から「両界勧請」も半呂律である。つまり中曲と半呂律は同義である。「理趣経勧請」と「両界勧請」と「回向」は中曲で半呂律である。半呂律とは半呂半律を七言頌に収めるため半呂律としたのだろう。古来、中曲という言葉はあるが明確な旋律構造は多くは示されていない。中曲とは何か。半呂半律とは何か。何故、黄鐘なのか。前稿に引き続き本考察では「理趣経」、「五悔」を中心にその旋律構造から考えてみたい。
本考察では宮をドとして取り扱うがCという訳ではない。便宜上、洋楽の音階、音高も用いるが邦楽と洋楽の音程と音高は厳密には違うのであくまで目安である。特に初重、二重、三重をことわらない時は二重である。特に呂角、律角をことわらない時は律角である。由里などの節回しの装飾音は旋律構造には含めない。同調とは同じ音名の宮を持つ音
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階で他調とは違う音名の宮を持つ音階である。平調と双調は音高と音階が紛らわしいので念のため音階は平調調、双調調と表記する事がある。「理趣経」には「調声」と「中性院」があるが魚山や『大典』では「理趣経」といえば「調声」を指す。「唄」には「三礼如来唄」、「長曲如来唄」、「云何唄」、或いは「云何唄」と同曲の「出家唄」があるが本考察で「唄」、「散華」とした場合の「唄」は「云何唄」を指す。「発音」には(ホットン)と(ハツオン)の二つの意味がある。旋律と旋法はできるだけ区別した。一応、旋律はメロディーで旋法は旋律構造のつもりである。本考察は智山声明に限る。紙面の都合上、前稿、前々稿で述べた内容と重複する内容は必要と思われる所以外はなるべく省略した。旋律構造の詳細については前稿 (7)、前々稿 (8)を参照されたい。本考察の目的は「半呂半律、半律半呂の中曲」の考察で「アクセント系の中曲」の考察にはあまり触れない。
二、 『大典』の「理趣経」
先ずは『大典』に記載する「理趣経」の記述を現行の旋律に比して考察する。『大典』に次の記述がある。
問う。この経を博士にて読誦するを古来調声と云い、または中曲と云うは如何。答う。調声とは或る人云う。一経の内に種々の調子を替えて読む故に調声と云うと。また中曲三昧と云うは最初に約するが即ち勧請は黄鐘調にして半呂半律なり。故に中曲と云う。問う。頌文に亦復同とは何ぞや。答う。上の金剛界の勧請及び胎蔵界の勧請の頌に勧請中曲黄鐘調(金)、乃至勧請亦如是(胎)と云う。これを受けて亦復同と云うなり。さて、頌文によって見れば帰命の発音は黄鐘調の宮なり。これ黄鐘に高低あり。高きは甚だ高し。もし金堂等の如き大伽藍にて聴者数千万の時に非ざれば不可能なり。また、低き黄鐘なればこれまた甚だ低し。故に声を若く軽く云うことまた困難なり。これにより吾が新義には古来伝えて帰命の発音は先ず平調位に出し来たれるなり。平調は黄鐘調の徴の音なり。これについて吾が師仰せあり。去る明治九年冬、新潟中教院、開院式のみぎり、師、調声を勤めり。当時、同市県官貴縉、及び各宗僧侶、老若男女数千万人の群参あり。師、この時、調声の本調子、即ち黄鐘調を以て発音とせり。
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その時までは聴衆、喧囂(かまびすしい)なりしところ一時に水を打つし如く鎮静して何れも感歎せざるなしと。しかるに法要の後、他山の内に彼は調子はずれなりと評せし人もありしと。師いわく。彼らは未だ黄鐘の五音を心得ざるに依ると慨歎して常に物語りありしなり。
頌文の地音とは勧請を除く別号の大楽以下を指して云う。また新義には増法楽より一位高くこれを唱え、尋ねて大楽の別号の調子も神仙位にこれを唱う。當流には強いてこの頌文に拘混せずなり。乞う、これを知るべし (9)。
黄鐘五音律音階は宮黄鐘(A)、商盤涉(B)、角一越(D)、徴平調(E)、羽下無(F♯)、一越五音唯呂音階(一越五音律音階)は宮一越(D)、商平調(E)、角双調(G)、徴黄鐘(A)、羽盤涉(B)である。前稿で述べ通り律音階と唯呂音階は同じで共に徴調である )(1
(。
【図一】 黄鐘五音律音階 商 宮 羽 徴 角 商 宮 盤 鸞 黄 鳧 双 下 勝 平 断 一 上 神 盤 鸞 黄 一越五音唯呂音階 羽 徴 角 商 宮 (一越五音律音階)
この文では「理趣経勧請」の発音の宮は徴と扱う。「平調は黄鐘調の徴の音なり」とあり十二律の当位では平調(E)を徴に持つ音階は黄鐘音階だからこれは黄鐘調である。しばらく旋律はこの平調(E)の徴を中心に旋回する。徴が旋法の主音である。全体的に博士もほぼ当位である。その後、「弘法大師増法楽」の「増」の博士で転調する。「増」の博士は同じ徴の表記でもそれまでの徴よりも音は四度高い。この音はA、つまり黄鐘である。黄鐘を徴に持つ音階は一越音階だから一越調への転調である。これは前稿で述べた唯呂旋から反音旋へ変わる一越反音 )((
(とは逆で、今度は博士は変
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わらず音高が変わる黄鐘調と一越調の反音旋から唯呂旋への転調になる。『大典』では「別号」の「大楽金剛不空眞實三摩耶経」で一越唯呂に転調するとしているが実際の旋律では「増」で転調している。この一越唯呂旋は唯呂旋では珍しく律旋同様に高く華やかである。『大典』では「已下一位高し。黄鐘の本調子に入る )(1
(」としている。ここでの本調子とは黄鐘調(黄鐘音階)の事ではなく絶対音高の黄鐘(A)を指している。ここでは旋法の主音という意味である。音階は黄鐘を徴に持つ一越音階(一越調)である。「調」や「調子」という言葉の概念が区々で混同があるが「調」や「調子」を音階の主音と旋法の主音の二つの意味に使っている。『大典』に「頌に一越唯呂と。大楽の博士は徴なる故に一越の徴は黄鐘調なり )(1
(」とある。一越の徴は黄鐘とあるから一越音階で黄鐘調とは黄鐘の調子といった様な旋法の主音の意味である。「増」で一越調に転調したまま一越調を引き継ぐ。ここでの黄鐘調も音階ではなく旋法の主音という意味である。ここまでの記述から智山声明の「理趣経勧請」の「黄鐘中曲」とは黄鐘音階と一越音階の旋律である事が分かる。瑜伽能化ががっかりしたのは折角発音から平調(E)ではなく黄鐘(A)で出したのにという事だと考える。「増法楽から大楽の別号の調子も一位高く神仙位に唱える」とある。別号とは「大楽金剛不空眞實三摩耶経」の事で「理趣経」の具名である。黄鐘(A)で発音して更に「増法楽」から神仙(C)に上がるとするか。神仙(C)は瑜伽能化の音階論では最高音から二番目の音であり )(1
(かなり高い音である。現行では絶対音高はともかくとにかく高目に唱えると理解すれば良いか。確かに「理趣経」の実唱は全体的に黄鐘(A)を神仙(C)くらいに高目に移調するが如く唱えている様である。朝勤行で高目に唱えるのは神仙まで唱える如き影響によるものか。実際の旋法は前述の「増」で「已下一位高し。黄鐘の本調子に入る」と「頌に一越唯呂と。大楽の博士は徴なる故に一越の徴は黄鐘調なり」の記述通りの黄鐘調(黄鐘音階)から一越調(一越音階)への転調になっている。ただし、この場合の一位は隣り合う階名ではなくテトラコルドの一位を指し四度である。
以下、「段々の頭」は宮商角の三音旋律で博士はすべて当位である。唯呂音階と律音階はどちらも角にファ(律角)を使うドレファソラの徴調で同じ音階である。「段々の頭」は珍しく律音階で宮角が核音に、その内、宮が主音に働き
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商角間の直接の進行がある前々稿で述べた呂音階商旋法とは違う特殊な旋法で印象も他とは少し違う。「頌文の地音とは勧請を除く別号の大楽以下を指して云う」とあるから智山声明では「地音」と「段々の頭」は同じとの解釈である。従ってこの二つは音階も旋法も同じとして扱う。「地音」は「段々の頭」と同様の旋律と思えば良い。現行の様に「地音」を無博士にするのであれば宮音か商音くらいが丁度良いか。『正徳版』には
これに付いて理趣経の地を短声に読めども呂一なるを中曲と皆云うなり。名目大いに相違せり。一越に読むを中曲と云えば黄鐘なり )(1
(。とあり一越呂も黄鐘中曲としている。つまり一越の「地音」も中曲である。ここまでを整理すれば「理趣経」は「勧請」は黄鐘律音階で始まり「増法楽」で一越唯呂音階(一越律音階)に反音して「段々の頭」と「地音」も一越唯呂音階(一越律音階)のままで「善哉」、「合殺」に至る。
次に盤涉調に反音する。『大典』に ○讃歎偈は盤涉調なり。故に宮(盤)、商(上一)、角(平)、徴(下)、羽(鳧黄)なり。
○古本に云う。善の商をば手言の宮に(一越)出すべきや。一越の宮と盤涉の商とは笛の六穴にして同位なりと。師云わく。これは盤の商は上と一との二うる中の揚商の一と同位なりとの為に言う )(1
(。魚山と『大典』に少し誤解があるが『正徳版』では「手言」の終止音は宮である。この宮が一越ならば「金剛手言」はまだ一越調である。一越調の「金剛手言」から盤涉調の「善哉」に移るという事である。『略頌』の通り「金剛手言」から盤涉調にするなら『大典』の博士の様に「金剛手言」の「言」は商であるべきだがこの場合はどちらでも大きな問題はない。これは一越調から盤涉調への移り方を示す羽反音(曲中反)と同じ原理である。笛の六とは七孔の笛の一越を指す )(1
(。一越(D)は一越調では宮で盤涉調では揚商である。六穴というと誤解があるかも知れないが六が即、一越(D)音という訳ではない。六だけ押さえるのではなく押さえ方の奏法名である。リコーダーと同じで大概、穴を一つだけ押さえてもダメである。盤涉七音律音階の商には上無と一越の二つがあり、その中、揚商の一越と同位としている。つま
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り一越は一越音階では宮であり盤涉音階では揚商である。音が変わらないのなら何も転調の必要はないのではと思うが羽反音(曲中反)には宮を商に変える効果があり、その結果、実際の旋律の主音の商音と博士が一致して分かり易い。羽反音は一越調(D)から盤涉調(B)に転調するというよりも博士を一位高く表記する。即ち宮を商に変える働きがある。前稿では「理論の曲中反」と述べたが曲中反には実際の旋律よりも博士の表記上に於いて重要な機能がある。この羽反音により旋律は同一音階で「地音」も「善哉」、「合殺」も博士は当位となる。ただし厳密には揚商だと宮商間が短三度になる。現行では宮商間は長二度でなくては旋律に不都合が生じるのでこの揚商は商と扱う。『大典』の記述では「善哉」は盤涉調だが以下、実唱音について観察する。
現行では「金剛手言」の「手言」は張り上げる様に唱え本博士では唱えていないので一越音階の宮音は「如来復説一切有情加持」の終音の宮から採る。『大典』の記述では「手言」の宮と「善哉」の発音の商が同音だから一越から盤涉への反音とする。しかし現行の旋律でこの宮音と「善哉」の発音の商音が同音で良いかと聞いたとしたらそれで良いと答える人は少ないだろう。実唱では「善哉」の発音の商音は「有情加持」の終音の宮音より一位(この場合は長二度)高い。つまり「有情加持」の宮はDだから「善哉」の発音の商はEである。E(平調)は一越音階の当位では商だから「善哉」も一越音階となり音階としての転調はない。「善哉」、「合殺」で一越調律旋に変わり後は商、徴、三重宮が主音の一越調の前稿で述べた反音旋になる。つまり実際の現行の旋律は音階上では「段々の頭」、「地音」、「善哉」、「合殺」はすべて一越調(一越音階)になる。現行の「善哉」、「合殺」は本博士ではなく「中性院」の博士で唱えている。「中性院」の「合殺」は揚徴(徴♯)を含む陰旋律になっている。「善哉」の商は一越調の宮のDではなく商のEだから音譜がなくただ音だけならこれは転調である。一越(D)から平調(E)へ主音が変わるから現代音楽ではDからEへの転調とするだろう。これは一越調から平調調への転調である。確かに「善哉」で曲の印象も変わる。しかし「善哉」の起止の博士が宮であればそうなるのだが商だから博士上は一越音階は変わらず音階上では転調とは言えない。しいて言えば一越唯呂旋から一越律旋への反音だが唯呂音階と律音階は同じ音階である。しかし「地音」から「善哉」、「合殺」への移
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行は核音が宮、角から商、徴、三重宮へ変わるので旋法が変わる重要な反音である。このまま「善哉」、「合殺」の本博士は反音旋で終止する。
続く「回向」の本博士は魚山では「勧請」とまったく同じ旋律系統を示すが『大典』では現行の『法要次第』の博士と同じである。魚山の「回向」と『大典』、『法要次第』の「回向」を区別するために魚山の「回向」は「回向」、『大典』と『法要次第』の「回向」は「拾い回向」とする。「拾い回向」とは「回向」の省略形で上の二文字のみを拾って読むという意味だろう。「拾い回向」の旋律は「我等所修」と「同一性故入阿字」の博士の宮を商に置き換えれば概ね当位でありこれも一越唯呂音階(一越律音階)である。つまり「理趣経」の現行の旋律では転調は発音から「弘法大師増法楽」の「増」での黄鐘調から一越調の転調の一箇所のみで全曲を通して音階上は黄鐘調と一越調の二つで構成されていると思われる。しかしながら現行では「金剛手言」は「手言」を張り上げる様に唱えるから音程を特定するのは難しい。やはり「金剛手言」以下は記述通り盤涉調への反音としておく。厳密にいうと揚商だから盤涉♯調、つまり神仙調だろうか。
次に博士と節回しについて観察する。「拾い回向」の博士に 【図二】『正徳版 )(1
(』
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はよく徴に片由が付く。「両界勧請」も同様である。徴に片由二つや片由合は唯呂曲の「三礼如来唄」、「唱礼」や一越反音曲の「唄」、「散華」の唯呂旋の箇所や律曲の「吉慶梵語」などにも見られるが徴に片由一つは中曲独特の節回しの特徴である。それに準じて「勧請句」の徴に片由一つが付く「中性院理趣経」も中曲といって良いと考える。また、『大典』に
第二、三、四句の中に古魚山等に皆博士あり。如何。師云。仙師の記に云う。昔、長回向の時にこれを唱う )(1
(。とある。「勧請」の「長廻向」に対して【図二】の様に第二句「無染無著真理趣」、第三句「生生値遇無相教」、第四句「世世持誦不忘念」を徴に由里一つで休止する短縮形の手入れは智山版では既に『天和版 )11
(』から見られ『正保版 )1(
(』にはない。この徴に由里一つは『法要次第』では「マワス 色ユの如し」とあるが本博士では片由の表記に似ている。中曲の特徴の一つである徴に片由一つはこの博士から派生したものか。『大典』には色ユとは「此の由、仙師は色ユと、即ち伽陀由に似たり )11
(」とあり「常楽会」の由里に似ているとする。この博士は何れも短縮形の休止の箇所に現れる休止形である。一方、徴に片由一つは中曲独特の博士で「五悔」、「祭文」、「表白」などの中曲諸曲にも良く使われる。現行の「理趣経」(調声)は本博士で唱えない所が多い。「勧請」は概ね本博士だが短縮形で『正徳版』には短縮の箇所の「色ユの如し」を片由同様の博士で指示している。「別号」と「段々の頭」は本博士だが「地音」は無博士に唱える。「善哉」、「合殺」は頭のみ本博士に唱えて助は「中性院」の博士で唱える。「拾い回向」は頭は本博士の短縮形で助は二字ずつ徴に片由一つで唱え、「同一性故入阿字」は本博士に唱える。
また、【図三】の様に「中性院理趣経」「善哉」の発音の「哉」は『大典』の本博士では回しの四ッ由合となっているがこれは上向きに回す中曲系の回由と考えられる。「ア」で二回回し「イ」に変わって二回回す。布施浄慧化主猊下が講伝所上座阿闍梨だった頃に親しく教えて頂いた節はどうもその様に聞こえる。最初の回由は少し長く博士で回由の数 【図三】『声明大典 )11
(』
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に含めないから「ア」で一度回して「イ」に変わり二度回す回しの四ッ由合である。通常、朝勤行などで唱える「善哉」の発音の「哉」は片由の五ッ由合となる。智山声明に五ッ由合という言葉はないからこれは初心に教える簡略形と考える。この箇所は元講伝所阿闍梨の小島佑雄先生は回しの突由と仰っていた。総じて回由はあまりはっきりはやらずのどの奥で回すので初心には分かりにくい。
ここで添加句の「合殺」について考えて見る。『大典』に ここに合殺の語源を明らかにする説あり。運敞僧正の谷響集第三に云う。合殺を以て梵語となすは、(よって出る)合殺の名の所を知ること無き由に、みだりに臆度推鑿して妄説あることを致して云い足らざるのみ。それ合殺の名はもと楽家より出たり。いわく唐の舞楽まさに闋 おえんとする時に合殺の名あり。蓋し唐の名を取って以て梵楽に名づく。梵楽の儀、則ち読経行道す唱首、隊を引き諸衆属して而も和す。それまさに曲調を終えんとすを名づけて合殺となす。殺が音は薩散なり。まことにおもんみれば真言教は唐代にはじめて来朝す。故に唐言を以て梵曲の名となす。本朝の祖師、唐に入って学習す。故に伝えて今までに至ってこの名目あるなり。唐の崔令欽の教坊記に云う。宜春院にまた工拙あって必ず尤もなる者を撰んで首尾となす。首は既に隊を引き衆の目を属するところなり。故に能者をもちいる。楽まさに闋えんとするに稍々として隊を失す。餘の二十ばかりの人、舞曲を終える。これを合殺という。尤も快健ならんことを要す。更に能者をもちいる所以なり )11
(。とあり「合殺」は楽家から出た言葉で曲調を終えんとすを名づけて合殺となすとしている。齋藤茂氏註訳の『教坊記・北里志』に以下の文がある )11
(。
開元十一年、(玄宗は)初めて聖寿楽 (1)を作った。(内人や搊弾家などの)女性たちに五つの方角の色 (2)の衣を着せて、これを歌い舞わせた。宜春院の女性たちは、一日教えれば、それで出演させられるまでになったが、搊弾家だけは、一月以上かかってもきちんとできなかった。歌舞の当日になって、天子はみずから叱咤激励して、「上手にやりなさい。この三郎 (3)に恥をかかせてはなりませんよ」と言われた。そして、宜春院の者を舞の列の首尾 (4)に配し、搊弾家
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を列の間に置いて、その舞の手ぶりを真似させた。宜春院の者にもやはり上手下手があるので、とくにすぐれた者を選んで首尾にあてた。先頭は舞の隊列を率いるので、みんなの目が集まるから、それで上手な者を当てる必要がある。音楽が終わりに近づくと、だんだんと演じる者の隊列が少なくなって (5)、二十数名が残る。舞曲が終わるときを「合殺 (6)」と言い、とりわけきびきびと舞うことが要められるので、より一層上手な者を(列の後尾に)当てる必要があるのである。
(1)聖寿楽
『通典』巻一四六や『旧唐書』巻二九、
音楽志などによれば、これは則天武后朝に作られた楽舞で、百四十人の舞女が金剛の冠をかぶり、五色の衣を着て、舞の列によって字を作り、「聖超千古、道泰百王、皇帝万歳、宝祚弥昌」の十六字を次々に描き出すものであったという。ただし、『新唐書』巻二二、礼楽志には、玄宗が作ったと記されており、ここもそのように受けとれる。おそらく、まったく別のものを作ったというのではなく、武后の時の楽舞に大きく手を加えたということだろう。
(2)五つの方角
東西南北と中央で、順に青赤白黒黄の五色。
(3)三郎 玄宗は睿宗の第三子である。
が配されるのが通常であった。先頭を舞頭、最後を舞尾、舞末とも呼んだ。 ( 4)首尾ここに記されるように、舞の隊列の先頭と最後は重要な位置であるので、ともに一流の舞い手 ともに、列の先から舞ながら退場してゆくことを表すと解釈した。 ( 5)だんだんと原文は「稍稍失隊」であり、「失隊」の意味がはっきりしないが、曲が終わりに近づくと (6)合殺 殺は煞とも書き、曲などのしめくくりを意味する。二字で結びの意であろう。宜春院とは芸のすぐれた妓女のみを集めた教習所である )11
(。おそらく運敞能化はこの原文を引用したと考える。運敞能化の仰せは「合殺」の語源は『教坊記』にあり舞楽の曲などの締めくくりを意味する。現代日本の舞楽でも終曲直前に舞人は舞台から去って行く様である。『密教大辞典』にも同文を載せ次の様に結んでいる。
智山学報第六十九輯 理趣経に合殺を加えたるは弘法大師または眞然なりとの説あれども何らの根拠なし。蓋し中曲行道の発達に伴い添加せられたるものか )11
(。「合殺」の添加句の理由は他にもあるかも知れないがこの文では「合殺」は中曲行道のために添加されたとしている。以上の文より中曲の元々の目的は法要に舞楽の要素、つまり演劇の要素を取り入れたものと考えられる。『大典』には「合殺」と同じく「回向」も添加された様な記述がある。
問う、合殺と回向とは誰人の加えたるものか。答う。古来不明なり。但し四句の初めと終わりの二句のみは大師の秘蔵記に見えたり )11
(。舞楽について田辺尚雄氏は次の様に述べている。
楽曲を大中小に区別する。その本来の区別は舞人の多少による )11
(。よく中曲は小曲、中曲、大曲に由来すると言われるが一理あるか。それならば舞楽としての中曲と旋法としての半呂半律は元々別のものだった事になる。しかしそれでは大山公淳師が
「中曲は大曲、
中曲、小曲という中の曲にて短声という注の如く大曲小曲の間とする」と朱註した声明本も見える。けれどいうように大小の中曲にしては呂律の中曲にならない )11
(。と述べる様に旋法としての中曲の答えにはならない。やはり旋法としての中曲は呂律に求めるべきだろう。「合殺」が中曲のために添加され作曲されたのであれば「合殺」も中曲と言って良いと考える。「合殺」が中曲であれば一連の「善哉」もそれに準じて中曲であると考える。つまり「理趣経」はすべて中曲であると考える。更に「合殺」について『密教大辞典』には
合殺の名義につき、一説に殺は六の梵語なり。六を合わせて十二とする故に合殺と名ずく。これ晝夜二六時中不退の念仏を表す )1(
(。とある。合殺は六を合わせて十二とする。昔は時刻を十二支で数える。一刻は二時間だから午前が六刻、午後が六刻で
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午前と午後を合わせれば一日は十二刻となる。つまり二六時中とは午前と午後を合わせた一日中の不退の念仏を表すとしている。また、『大典』には
問う。合殺とは如何。答う。興教大師孝養集下に云う。合殺せよ合殺せよ。合殺とは弥陀の名号なりと )11
(。とある。この二つの記述から合殺とは念仏であり阿弥陀の名号である。『大典』に
合殺とは名号の事にて則ち六字の名号なり。然るに今の毘盧舎那佛は五字名号なり。また、四座講法則などには南無釈迦牟尼佛の七字名号なり。これらもみな合殺と呼ぶことは合殺は名号の異名なれば随宜転用せんものか )11
(。とある。六字の名号とは「南無阿弥陀仏」を指し「理趣経」の「合殺」や「常楽会」の「釈迦念仏」なども含めて仏名を繰り返す念仏を合殺としている。「興教大師和讃」に鳥羽法皇と興教大師の親交が見えるが鳥羽法皇の御世は平家に翻弄された時代で政治はあまり良くはなく民衆は仏教に現世利益を求めた時代だったと考える。そういった時代の要請により阿弥陀の浄土念仏信仰が台頭し興教大師も我が宗に阿弥陀の念仏信仰を採り入れたのかも知れないがこういったいきさつは筆者には良く分からない。本考察で言えるのは旋律的な特徴であり「善哉」、「合殺」には「勧請」の節回しの特徴が一つもなく現行の諸讃の節回しと同じであるという事である。「合殺」が阿弥陀の念仏信仰の要請で作曲された添加句であれば作者は念仏信仰が台頭してきた平安末期か鎌倉初期の頃の誰かの可能性も考えられる。果たして平安初期から中期の寛朝僧正期に阿弥陀の念仏信仰はあったのかは分からないが旋律的特徴から「善哉」、「合殺」の作者と「勧請」の作者は別人の可能性も考えられる。
更に「善哉」には平調反音曲の特徴がある。『密教大辞典』に 理趣経に博士を附して読誦する時は、最初の勧請の句は黄鐘調にて半呂半律の中曲、地音は一越調呂曲、金剛手言は盤涉調律曲、善哉等の讃偈は平調律曲(一説には盤涉調律曲)、合殺は呂律交参、廻向は黄鐘中曲なり )11
(。とある。また、『聲實抄』には
一越調宮。唄。散華。唱禮(両界)。理趣経の地。但し金剛手言の四字は盤涉調なり。平調商。理趣経の讃。合殺。
智山学報第六十九輯 私に云う。同じ商なれども善の商には上を付く。大安楽の商には五を付く )11
(。とあり「唄」、「散華」、「唱礼」、「理趣経地音」は一越調、盤涉調は「金剛手言」のみで「善哉」、「合殺」は平調調としている。上とは双調(G)の事で五とは下無(G♭かF♯)の事でともに平調七音律音階の商である。『大典』では「讃歎偈」は盤涉調としているが平調調の説もある。
【図四】『声明大典』
「善哉 )11
(」「四智漢語 )11
(」
「心略漢語 )11
(」「吉慶漢語 )11
(」
智山声明の「理趣経」と「五悔」から見る中曲旋法について(我妻)
「善哉」の「大安楽」の様な休止型、終止形は「四智漢語」の「金剛寶」、「心略漢語」の「無礙」、「吉慶漢語」の「下生時」などの平調反音曲の休止型、終止形の特徴である。更に「善哉」の旋律は初重、二重、三重、つまり宮調、徴調、商調を持つ典型的は反音旋 )11
(の旋律である。「善哉」には呂律の指示があるから実質は反音曲である。「善哉」の宮が盤涉でも構わないが旋法は明らかに平調反音曲である。また、前述の通り実際の旋律では宮が一越の一越調である。この際の宮が盤涉、一越、平調の何れであるかに関わらず旋法が平調反音曲である事から本考察では「善哉」は平調反音曲として扱う。この作者は平調反音曲を知っていたか若しくは自身で作曲している。「善哉」、「合殺」は商で起止する。これは現行の旋律では合理的である。しかしそれが分かっているなら何故「勧請」は宮で起止するのか。つまり商で起止する「善哉」、「合殺」は後から書き替えられた可能性もある。そう考えると現行の「理趣経」は一度に作曲されたのではなく或る程度の期間を掛けて成立した可能性が考えられる。
魚山の規定では宮徴に由里が付く。宮徴が主音という事である。これは唐楽の五度音程によるものと考える。宮、或いは徴で起止する曲は唐から輸入したままの状態を保つ曲であると考える。商羽で始まり商で終止するのは日本で博士を変えた曲である。これは新井弘順師が説く様 )1(
(に呂旋は羽反音で一位高く律で表記されているからだと考える。「勧請」は宮で起止する。これは唐楽の規則を守っている。「理趣経勧請」、「五悔勧請」の発音の「帰命」の「命」の宮に付く三ッ由合は宮の主音を示すものである。「五悔」の「天下法界同利益」の「界」や「菩提無上誓願證」の「上」の宮に付く片由も終止形としての主音を示すものである。つまりこの頃は唐楽の規則を守っている事を意味する。一方、諸讃は概ね商か羽で始まり商で終わる。これは日本声明の独自性を示すものである。輸入声明は博士が書き替えられていると考える。この事が意味するのは「勧請」が最後に作曲された声明曲でこの頃までは唐の音律に忠実であったが、その後、日本声明の独自性により唐から輸入した、現在、反音曲と呼ばれる曲はほとんどが日本声明の博士に書き替えられたと考えられる。律旋の徴は書き換えられずそのままである。結果的に唐楽の宮徴の五度音程から邦楽の商徴の四度音程へ博士は書き替えられた。『大典』では商徴に由里が付くとする )11
(。智山声明では商徴は主音だから博士と旋律が一致する。
智山学報第六十九輯
反音曲のほとんどは商か羽で始まり商で終わり宮徴では起止しない。ただしこの際の羽は博士上のもので実唱音は徴音である。徴で起止する「三礼如来唄」などの双調唯呂曲や「唄」、「散華」などの一越反音曲や「梵音」、「錫杖」、「吉慶梵語」などの宮で始まる、或いは宮で終わる曲は宮徴の五度音程の唐楽の初期声明の名残であると考える。
ここまでの考察から「理趣経」は音階上は黄鐘調と一越調、或いは黄鐘調と一越調と盤涉調で構成され、旋法上は黄鐘反音旋、一越唯呂旋、平調反音旋で構成されていると考える。「善哉」、「合殺」が平調反音旋なら「金剛手言」が一越調か盤涉調かはどちらでも良い。総合すると「理趣経」は黄鐘反音旋で始まり「弘法大師増法楽」の「増」で一越唯呂旋に移り「金剛手言」、「善哉」、「合殺」で平調反音旋に移り最後に「拾い回向」は記述通り黄鐘反音旋に移ると解釈する。盤涉調は盤涉音階に移るというよりも曲中反で宮を商に変えるために必要と解釈する。
ここで呉音と漢音について考える。「理趣経」は漢音で読誦する。例えば「毘盧遮那佛」なら漢音では「ヒロシャダフ」と読むが「勧請」では「ビルシャナブツ」と読む。これは呉音である。「別号」では「大楽」を「タイラ」と読むから漢音である。「地音」といって良いのか分からないが二段目の頭は「ヒロシャダジョウライ」と読むから漢音である。「善哉」では「金剛」を「キンコウ」と読むから漢音である。「合殺」では「毘盧遮那佛」を「ヒロシャダフ」と読むから漢音である。「拾い回向」では「廻向」を「カイキョウ」ではなく「エコウ」と読むから呉音である。つまり「理趣経」は「勧請」と「拾い回向」は呉音でそれ以外は漢音である。
「五悔」は「一切恭敬敬禮常住三寶」の「一切」を「イッセイ」と読むから漢音である。
「長音」は「帰命頂礼大悲毘盧遮那佛」を「キミョウチョウライダイヒビルシャナブツ」ではなく「キベイテイレイタイヒヒロシャダフ」と読むから漢音である。「勧請」に至って「毘盧遮那佛」を「ヒロシャダフ」ではなく「ビルシャナブツ」と読むから呉音である。「外金剛」の「金剛」を「コンゴウ」と読むから呉音である。「菩提」を「ホウテイ」ではなく「ボダイ」と読むから呉音である。つまり「五悔」は漢音で始まり「勧請」以降は呉音である。因みに金田一氏は「礼仏」について
レコード「真言声明」の中でもっとも奇抜なのは「廻向」という語句で、これを大導師がエコー何々と三回ぐら
智山声明の「理趣経」と「五悔」から見る中曲旋法について(我妻)
いくり返し、最後の「至心廻向」という句だけをクワイキョーと読み分けるところがある。これは〈至心廻向〉という曲は漢音で唱えるため、題名まで漢音読みにするわけで、恐れ入った芸の細かさである )11
(。と述べている。以上の事から「勧請」と「拾い回向」は節回しも読み方も少し特別である。声明では梵讃はサンスクリットの音写だろうから別として漢讃は漢音で唱えられる。前述の『大典』の記述の「故に唐言を以て梵曲の名となす」とある様に唐から輸入の立教開宗当時からあったものは漢音で読むものと考えられる。漢音で読む「理趣経」も同様と考える。それに対し呉音で読む「勧請」や「拾い回向」は後から加えられたと考える。添加句の「合殺」が漢音なのは分からないが「善哉」に準じたと考える。「センザイ」、「カッサツ」の読み自体も漢音である。理趣経では「勧請」と「合殺」と「回向」は添加句と言われている。「理趣経」で中曲と規定されている「勧請」、「回向」は添加句であるから添加句を中曲で作曲した事になる。添加句以外の箇所には読誦経典として何らかの旋律はあったのかも知れない。現在、智山では読誦経典としての「理趣経」は「中性院理趣経」である。中性院だから頼瑜僧正以降とも思われるが金棺相承で「調声」を読んだとも考えにくいので読誦経典としての「理趣経」は興教大師の頃にはあったと考える。「中性院理趣経」は読誦経典としての「理趣経」が最終的に整備されたものだと考える。「調声」にある「合殺」が添加句である事から読誦経典としての「中性院理趣経」には「調声」の影響があると考える。
そもそも「理趣経」(調声)とは何の目的で作曲されたのか。二箇法要のためだろうか。しかし「理趣経」には「回向」があるので「至心回向」や「回向方便」にあまり必要性を感じない。同様に「散華」にも「普回向」がある。二箇とは「唄」、「散華」の事だが伝法潅頂の三昧耶戒法要では庭讃は別として「唄」、「散華」、「對揚」のみで竪儀の前講法要では「唄」と「散華」のみであり必ずしも「理趣経」は必要としない。例えば前後讃を三讃唱えれば頭人は次の讃を出す時に鉢を両膝の横に置き金剛合掌で頭を出す。これは畳文化のものと考える。一方、「散華」助音で立座する時は草鞋を履くが板敷きに履は必要なくこれは土間の文化のものだと考える。これは成立時代の違いを意味するもので現在の御影供の二箇法要は複数の時代の法要を集めたものである可能性がある。「散華」には「普回向」がある。「散華」の歴史は古く初
智山学報第六十九輯
期声明の頃から存在し「散華」が付く法要では草鞋を履く事が多く土間の文化の頃からの南都以来の顕教の法要系統が多いと考えるが、我、道場にありと願い「教主の段」の次に回向では何を教わったのか不完全燃焼という感じがする。「散華」の前には必ず「云何唄」があるが「云わく、如何にして長寿の金剛不壊心を得たのか。また、何の因縁を以て大堅固力を得たのか」とは疑問文である。これらは次に何かが解決する前座の様なもので「願我在道場」とは教主の説法の場にいたいと願うものと考える。この際の二箇法要はその教主の経を講讃するための前座の法要であり「散華」の「普回向」は二箇法要の終わりというよりも次に始まる講讃の功徳を称える様な講讃の始まりを示すものでその意味では「散華」は講師と論議が付く法要、つまり顕教立に相応しいと考える。これを密教立に用いるには「對揚」を付け加える様である。『密教大辞典』に「對揚」について以下の記述がある。
密立二箇法用の時、散花の儀式を畢へて引き続き教主に帰命し仏法世法の常住安穏を祈る )11
(
「對揚」は密立二箇法要に用いるとしている。「散華」は教主のみだが「對揚」では「教主句」に加えて「対告句」が加わる。簡単にいえば教主とは先生の事で対告衆とは教主が告げる対象、つまり生徒の事であると考える。更に「證誠句」とは証明人の事でその伝授が正しく行われた事を証明する。「経典句」では読誦する経かその法要の主旨を示す。「経典句」が示すのがその法要の目的である。現在の智山では伝法潅頂の三昧耶戒法要の様な「唄」、「散華」、「對揚」のみの二箇法要は密立二箇法要の最小単位であり竪儀の前講法要の様な「唄」、「散華」のみの二箇法要は顕立二箇法要の最小単位であると考える。密立二箇法要では「散華附對揚」と「散華」に「對揚」を付けるとする。散華師とは呼ぶが對揚師はない。「對揚」は経典によって「教主句」と「対告句」を入れ替える。魚山や『大典』にはその雛形があるが現在智山では「教主句」は入れ替えるが「対告句」は金剛手菩薩に統一している。通常、密教では教主は誰でもその本質は大日と考えるが対告衆は密教では常に金剛手菩薩にするためと考える。折角「對揚」を付け加えても対告衆が金剛手菩薩以外では顕教立となってしまい密教立にはならないという立場であると考える。「大般若」は顕立でも二箇法要に「對揚」が付くが智山では行法が付き密立の要素もある。「散華」の「普回向」は顕立二箇法要の終わり、つまり講讃の始
智山声明の「理趣経」と「五悔」から見る中曲旋法について(我妻)
まりを示すが「理趣経」の「回向」は「理趣経」の終わりを示す。やはり運敞能化の「合殺」の仰せの通り「理趣経」(調声)の必要性は行道にあり単独の演劇的要素が目的で作られたものであると考える。『大典』の「地音博士」に「この所にて諸衆行道を始む )11
(」とあるから「地音」は行道が目的である。「理趣経」の添加句は経典の要旨とはあまり関係なく理趣経を学習する上では必ずしも必要ない。これは法要の演出や勤行の要素であると考える。添加句を加えたのが寛朝僧正かそれとも他の誰かが加えたものに寛朝僧正が旋律を付けたのかは分からないが寛朝僧正も添加句を加えた候補の一人ではあると思う。しかし添加句の「勧請」と「回向」は同系統の旋律といって良いと考えるが「合殺」には中曲特有の節回しがない。「合殺」は「善哉」と同系統の旋律である。一つの可能性として寛朝僧正は勿論、「理趣経」全曲を作曲したのだろうが、その後、編曲されているのかも知れない。「善哉」は典型的な反音旋の平調反音曲の特徴であるから現行の最初の反音曲であると考える。それ以降、諸讃の多くは唯呂唯律から中曲旋法の反音曲に書き替えられたと考える。寛朝僧正の「理趣経」の作曲から或る程度の期間を経て平安末期から鎌倉初期にかけて中曲は完成し『長恵魚山』の前に概ね現行の旋律が調ったとすれば丁度良い。
三、 『聲實抄』の中曲
岩原師は寛朝僧正について次の様に述べている。
僧正は音楽および声明の達人で、理趣経および大阿闍梨声明の作曲等、偉大なる業跡をのこ された。実に声明界における古今独歩の巨匠にましまして、雅楽から新たに中曲旋法を声明に 取り入れて作曲されたことは日本声明の鼻祖と称すべきである )11
(。この記述から中曲には雅楽の影響があると考える。『聲實抄』に以下の記述がある。
一、五調子事 壹(羽律)、平(宮律)、雙(商呂)、黄(角半呂半律)、盤(徴律)。大食調を加えて六調子と云う。位は平調の如し(半
智山学報第六十九輯 呂半律曲)。これは呂に音を取りて律の楽を吹くなり。また黄鐘調は律に音を取りて呂の楽を吹くなり。故に半律半呂の曲と云うなり )11
(。楽を吹くとあるからこれは雅楽の吹奏の記述であると考える。この文は平調は呂の音を律の楽曲に吹奏し黄鐘調は律の音を呂の楽曲に吹奏するとしている。この文意は一曲中に呂と律の反音を繰り返す旋法ではなく最初から最後まで呂律は変わらず呂の曲を律に吹奏し律の曲を呂に吹奏するといった奏法の様である。呂律について『大典』には
又調子は一なるも其由里は一ならず。例令ば一越(呂)の宮と盤涉(律)の商とは横笛の六の穴にして同位なれども息の吹込み強弱に依て呂律一位の不同を生ずるが如し )11
(。とあり不同とは音高を指すのか音色を指すのか微妙な記述ではあるが由里は違う様である。音は同位で由里が違うという事は曲調が違うという事だと考える。この事から呂律の違いは必ずしも音高の違いだけではなく由里で区別する事もある様である。東儀秀樹氏は次の様に述べている。
西洋音楽的に考えると、同じ曲での「移調」なら、メロディは変わらず、全体的な高さだけが変わると思う人が多いだろうが、この平調と盤涉調の「越殿楽」はメロディも雰囲気もまったく違う曲になっている。雅楽では「渡物」といって、独自の「移調」の方法があり、曲のメロディを雅楽特有の動かし方で置き換えるからだ。曲の長さや形式は変わらないのだが、メロディは違うものになるのである )11
(。メロディが違うという様に最初の中曲とは呂律の交代の旋法ではなく「渡物」の様な奏法や曲調(曲の印象)の事だと考える。大食調とは「位は平調の如し」とあるから平調音階である。田辺尚雄氏は大食調は平調呂としている )11
(。「五調子事」から半呂半律、半律半呂は平調調と黄鐘調である事が分かる。現行では半呂半律は黄鐘調で半律半呂は平調調だからこの記述とは逆だが一越反音曲の様に一越呂が原調であれば黄鐘調が半呂半律となり平調調を律とすれば平調調が半律半呂となる。黄鐘は半律半呂の曲としているが黄(角半呂半律)ともしている。また、平(宮律)とはこの文では雅楽は平調律を基準にしている様である。『密教大辞典』に中曲について以下の記述がある。
智山声明の「理趣経」と「五悔」から見る中曲旋法について(我妻)
声明道四曲の一。声明の呂にも偏せず、律にも局せざる中間の曲に名づく。進流にては中曲と名づけ、醍醐流には半呂半律と称す。中曲に二種あり。謂わく大食調。黄鐘調これなり。大食調は律を表とする半律半呂にして、黄鐘調は呂を表とする半呂半律なり )1(
(。声明道四曲とは呂曲、律曲、反音曲、中曲の事だろう。中曲は呂でもなく律でもなく大食調と黄鐘調だとしている。一方、『正徳版』には
黄鐘調を中曲と云う。呂律相交を呂の中にも律の曲、律の中にも呂の曲を交えれば中曲とも云うか。また半呂半律とも云うなり。ただし黄鐘調は呂を面として律あり。すなわち半呂半律と云うなり。大食調は半律半呂とつかまつるなり。律を面として呂の音あるが故なり )11
(。とある。大食調とは平調呂の事である。これらの記述と今までの考察から中曲とは黄鐘調と平調調の二つに集約される。黄鐘調には一越調が関わり平調調は独立している。つまり中曲旋法には黄鐘中曲旋法と平調中曲旋法がある。「理趣経」は黄鐘中曲旋法と平調中曲旋法で構成される中曲旋法であると考える。その内、平調調は反音曲とされ中曲は黄鐘調が代名詞となり「黄鐘中曲」となったと考える。平調調も中曲だがこちらは平調中曲とは呼ばずに平調反音曲と呼んでいると考える。一方、反音曲では黄鐘反音曲とは呼ばずに原調の一越唯呂に即して一越反音曲と呼んでいると考える。少なくとも旋法上はそうなっているといった方が正確だろうか。ただし、中曲以前に存在した一越反音曲の「唄」、「散華」はこの中曲旋法からは一応除く。平調反音曲と黄鐘中曲の旋法としての違いは黄鐘調に対する唯呂旋の有無である。中曲旋法とは呂律の交代だが呂と律を持つ旋法、つまり呂律を持つ反音旋か反音旋と更に唯呂旋を持つ旋法を中曲と呼んでいる様である。更に、『密教大辞典』には以下の記述がある。
中曲旋法を図表すれば左の如し。
十二律 上 神 盤 鸞 黄 鳧 双 下 勝 平 断 一 中曲旋法 宮 羽 羽 徴 徴 角 角 商 商 宮
智山学報第六十九輯 反 揚 反 律 呂 揚 而して此曲の旋法を以て一段の声明に全体を一時に応用するには非ずして、随時必要に応じてそれらの幾程かを用い、以て中曲たるの妙曲を顕すものなり )11
(。
【図五】 ◎は核音 上は上主音、主は主音、導は導音、属は属音
前稿で述べた筆者の説の中曲音階を約せば【図五】の通りである。これが反音旋でこの音階が智山声明の基本の旋法音階である。これは平調反音曲の旋法で二重に唯呂旋を含めれば「四智」、「大日」、「不動」の一越反音曲にもなる。旋 旋法の三重(三重呂 商調) 旋法の初重(呂 宮調)
上 主 導 属 上 主 導 属 旋法の二重(律、或いは唯呂旋 徴調)
上 主 導 属 ○ ○ ◎ ○ ○ ○ ○ ◎ ○ ○ ○ ○ ◎ ○ ○ ○ ○ ◎ 商 宮 羽 羽 徴 角 角 商 宮 羽 揚 律 呂 レ ド ラ ラ ソ ファミ レ ド ラ ♯
三重 二重 初重
智山声明の「理趣経」と「五悔」から見る中曲旋法について(我妻)
法の各重は下から属音、導音、主音、上主音で構成される。主音と属音が核音である。主音は二重商、二重徴、三重宮の三つである。核音は初重羽、二重商、二重徴、三重宮の四つでそれぞれ四度の間隔である。四度の音程差は覚意師の博士では直角となる。他派ではこれを直角の博士と呼ぶらしい。この「旋法の初重」、「旋法の二重」、「旋法の三重」を移動する旋法が中曲旋法であると考える。前々稿で述べた呂律の旋律構造と中曲旋法は同じである。呂(宮調)、律(徴調)、三重呂(商調)の交代は反音で呂、律、三重呂を持つ旋律が反音旋で呂、律、三重呂を交代する旋法が中曲旋法である。反音に約せば呂律であり旋法に約せば呂律を交える中曲旋法である。呼び方が違うだけで実質の旋法は同じである。『密教大辞典』掲載の中曲音階は筆者の中曲音階に比べて揚商、反徴、反宮の三音が多いが中曲旋法とは音階構成音を一度に用いるのではなく随時必要に応じてそれらの幾程かを用いるとありまったく同感である。一曲中に呂、律、三重呂をすべて使う必要はなくその曲に合わせて随時用いるのである。
律であった訳ではないと考える。平安期に現在の様な明確な旋法があったとは考えにくい。 律で旋法は構成音も少なく素朴でむしろ節回しの技術が高度であったと考える。中曲も初めから現在の様な規則的な旋 法は構成音も多く明確な規則性があり高度である。それに対しおそらく平安期の唱歌は和歌を詠む様な抑揚が中心の旋 は呂律を交える中曲旋法を中曲というと考える。この中曲旋法を本考察では仮に「旋法の中曲」と呼ぶ。近代音楽の旋 『聲實抄』の記述と『正徳版』の記述の半呂半律は意味合いが違い『聲實抄』では「曲調の中曲」を中曲といい魚山で も呂の曲を交えれば中曲とも云うか」とは大分意味合いが違ってくる。呂律相交とは呂律を交える旋法を指すと考える。 は律の曲を呂の曲調に唱える中曲を本考察では仮に「曲調の中曲」と呼ぶ。「呂律相交を呂の中にも律の曲、律の中に 「呂に音を取りて律の楽を吹くなり」と「律に音を取りて呂の楽を吹くなり」という様に呂の曲を律の曲調に、或い さて、「勧請」には中曲独特の節回しがある。これは雅楽の旋律を模したものではないかと考える。前述の通り岩原師は寛朝僧正は雅楽から中曲旋法を声明に取り入れたとしている。この事から中曲独特の特殊な節回しには雅楽の影響があると考える。「理趣経勧請」の博士はどことなく雅楽の旋律に似ている。「毘」の博士の様に緩やかに下行して末を
智山学報第六十九輯
少し上げる進行。「那」の博士の様に下行して末を少し上げ何度か突く様な進行。これは『私案記』には五重とあり )11
(角で五つばかり突くという事だろう。因みに早重とは五ッ色を早く圧縮して勢一つになったものと考える。角で突くのは表白甲の博士や「五悔」の「帰命頂禮大悲毘盧舎那佛」の「佛」にも見られる中曲の特徴である。「佛」はまだ唯呂で中曲ではないが節が入り交じっている。「着」の「色ユの如し」の様に回す旋律、「生」の様に「次第に早く四ッユル」の様な進行なども雅楽の旋律に似ている。勿論、証明はできないがこういった箇所の博士は雅楽の旋律を模している可能性が考えられる。「勧請」は宮で起止するが雅楽には音取、止手というものがあり必ず宮で起止する様である。また、「勧請」の節回しの特徴は「勧請」と「アクセント系の中曲」にのみ見られそれ以前からあった諸讃や「唄」、「散華」にはほとんど見られない。これは声明曲では訓読の曲を除き「理趣経勧請」が一番最後に成立した事を示すと考える。そうでなければその後の旋律に或る程度の影響があるはずである。諸讃の多くは唯呂唯律から反音曲に変化したが原曲は「勧請」以前からあったので博士の音高や旋 【図六】『法要次第 )11
(』
智山声明の「理趣経」と「五悔」から見る中曲旋法について(我妻)
法の変化はあっても節回しは旧態のままで中曲の節回しは入らなかった考える。ただ、まったく中曲の影響がない訳ではない。「竪精」のフリ由は「心略漢語」、「文殊讃」、「阿弥陀讃」、「錫杖」に見え、ユリキリが「錫杖」に見える。岩原師は
錫杖の終わりに仏名が添加されていて、それが中曲で作曲されてある等から考えあわせると、 九条錫杖は寛朝僧正晩年頃の作かと考えられる )11
(。と述べている。岩原師は「九条錫杖」は寛朝僧正の作曲としているがそれ以外の中曲以前の曲にも多少の影響はある様である。一方、「アクセント系の中曲」は「勧請」の後に成立したから「勧請」の節回しが多く使われる。以上の事から「曲調の中曲」と「旋法の中曲」は少し異質なものである。中曲は最初は「曲調の中曲」だったと考えるが「曲調の中曲」は旋法が曖昧であったため次第に呂と律を交互に使い分ける規則的な反音旋の「旋法の中曲」に進化した可能性がある。
以上、「理趣経」の旋律を観察すると「理趣経」は一度に成立したのではない可能性がある。寛朝僧正が作曲したのは雅楽を模した「曲調の中曲」でそれが次第に規則的な旋律の「旋法の中曲」に変化して節回しだけが残った可能性である。「勧請」も節回しは中曲の特徴だが旋律構造は反音旋である。博士はそのままで旋法だけが反音旋に同化している。現行の「理趣経」は「勧請」は節回しを特徴とする反音旋、「地音」は宮角を核音とする旋律、「善哉」、「合殺」は平調反音曲、「拾い回向」は「両界勧請」に似ている。それぞれ旋律の特徴がバラバラである。また、「拾い回向」と「五悔」の「勧請」、「五大願」は「理趣経勧請」に比して更に単純な博士になっている事から「理趣経」よりは近代的で少し後の時代に成立したと考える。勿論、現在の「理趣経」は全曲を通して寛朝僧正の作である可能性も否定しない。「勧請」、「回向」と「地音」と「善哉」、「合殺」をそれぞれ違う曲調で作曲したとも考えられる。「勧請」、「地音」と作曲して思い煩い反音旋を作曲した可能性である。
智山学報第六十九輯
四、 『大典』の「五悔」
次に「五悔」について考察する。『略頌』の記述では「理趣勧請亦復同」とあり「理趣経勧請」は「両界勧請」に準じる様な記述であるがこれは目次順の事で成立は「理趣経勧請」が先だろう。岩原師は次の様に述べている。
両界勧請は前記理趣三昧発達の歴史とその曲が中曲である点等から考えて、これもおそらく(寛朝)僧正晩年の作であろう )11
(。
旋法を知るにはその旋律の構成音(音階)を観察する事が重要である。前々稿で詳しく述べたが智山声明の場合は呂音階(宮調)はドレミソラでこれは反音旋の呂旋。律音階(徴調)はドレファソラでこれは律旋か唯呂旋である。三重の呂音階(商調)はドレファソラ♯である。呂音階商旋法では呂音階(宮調)をドから並べればドレミソラであるが実際の旋律の音階音を下から並べればソラドレミである。律音階(徴調)はそのままドレファソラ。三重の呂旋(商調)はファソラ♯ドレである。しかし音階は通常長音階はドから表記する。この三つの階名調の相対関係は何れも同じである。また、何れも最低音、つまり下属音にあたる呂ならソ、律ならド、三重呂ならファは五音音階として一応表記はするが使わない。智山声明の呂音階商旋法では属音は主音の下方にある。旋法の主音は三連続音の中心で、呂はレ、律はその四度上のソ、三重呂はその四度上のドである。
徴一越(D)、羽平調(E)の双調五音呂音階である 11) の唯呂旋である。『大典』の規定では先ずは『略頌』の「五悔」は双調唯呂。宮双調(G)、商黄鐘(A)、角盤涉(B)、 「五悔」は発音の「一切恭敬敬禮常住三寶」は「三礼如来唄」同様に徴に片由合が付きメリスマ的旋律と自下が特徴
(。更に冠註に
師云。双調の徴は一越に発音するはずなれども古来より前の口伝を重んじて今は老僧の役として殊に低く発音するなり。その低き程度は徴の位を宮に降ろして唱う。宮は大日尊の音声とす。今、双調の宮は即、双調なり )11
(。とある。本来ならば双調音階の徴は一越(D)なのだが徴を宮音の双調(G)で発音するとする。徴を双調に持つ音階
智山声明の「理趣経」と「五悔」から見る中曲旋法について(我妻)
は神仙音階だから神仙調という事になる。神仙音階なのだが前述の如くこの場合の双調は音階の主音ではなく旋法の主音としての双調調の意味として扱う。発音から「淨三業」の「娑縛婆縛秫駄」の「娑」の羽で上行する。「一切恭敬敬禮常住三寶」の徴を低い双調(G)で発音するとこの羽は実際の旋律では一越(D)だが魚山や『大典』の記述の双調音階では平調(E)であり「淨三業」、「普禮」と「長音の頭」は羽と徴が同音である。この場合、この羽を一越(D)とするか平調(E)とするか羽とするか徴とするかで四通りの解釈が考えられる。「淨三業」、「普禮」と「長音の頭」は同じ旋法である。「長音」は頭と助の旋法が違うので本考察では「長音の助」の事を魚山や『大典』でいう「楽調子」と呼ぶ。
実際の旋律では「一切恭敬敬禮常住三寶」の徴を低い双調(G)で発音すると「淨三業」の「娑縛婆縛秫駄」の「娑」の羽の実唱音は上の一越(D)である。
㈠「淨三業」の「娑縛婆縛秫駄」の「娑」の羽を一越(D)として羽と扱った場合は神仙調から一越を羽に持つ勝絶調への転調となる。「淨三業」、「普禮」と「長音の頭」は勝絶唯呂音階で「楽調子」は勝絶呂音階で「帰命頂禮大悲毘盧舎那佛」の「大」で勝絶律音階に反音して「五大願」で終止するまで勝絶律音階である。
㈡「淨三業」の「娑縛婆縛秫駄」の「娑」の羽を一越(D)として徴と扱った場合は神仙調から一越を徴に持つ双調調への転調となる。「淨三業」、「普禮」と「長音の頭」は双調唯呂音階で「淨三業」、「普禮」と「長音の頭」の徴は「楽調子」の羽と同音だから「楽調子」で一越を羽に持つ勝絶呂音階に転調する事になる。「帰命頂禮大悲毘盧舎那佛」の「大」で勝絶律音階に反音して「五大願」で終止するまで勝絶律音階である。
次に『略頌』規定の双調調とすれば「一切恭敬敬禮常住三寶」の徴を低い双調(G)とすれば「淨三業」の「娑縛婆縛秫駄」の「娑」の羽は上の平調(E)である。
㈢「淨三業」の「娑縛婆縛秫駄」の「娑」の羽を平調(E)として羽と扱った場合は神仙調から平調を羽に持つ双調調への転調となる。「淨三業」、「普禮」と「長音の頭」は双調唯呂音階で「楽調子」は双調呂音階で「帰命頂禮大悲毘