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Kyushu University Institutional Repository
On the I-shih-chung-chêng (御史中丞) in the Wei (魏), the Jin (晋) , and the Nan-chao (南朝) Period
越智, 重明
https://doi.org/10.15017/2230717
出版情報:史淵. 120, pp.121-150, 1983-03-31. Faculty of Literature, Kyushu University バージョン:
権利関係:
貌 晋 南 朝
の 御 史 中 丞
越 智 重 明
は し が き
﹁六朝﹂という︶において︑御史中丞が天子の側に立ってその支配権力体制をささえたものの一
つであったのは殆んど自明の乙とである︒と乙ろで︑﹁六朝﹂はいわゆる貴族制が次第に出現し︑隆盛を見︑さらに
は衰退した時代である︒﹁六朝﹂の御史中丞のもつ特性の一つは乙うした貴族制との関連性にある︒
本稿は﹁六朝﹂における御史中丞を︑貴族制との関連面を考慮しつつ︑制度史的にとりあげるものである︒なお︑
御史中丞は宮正などとよばれた時期もあるが︑本稿では御史中丞の名称に統一して述べる︒
説晋
南朝
ハ以
下︑
第一節通典に見える観晋の御史中丞
論を進めるに先立ち︑主として桜井芳朗氏の研究によって︑後漢時代の御史台の制度を簡単に述べておし
U
当時
御
史台の長官は御史中丞で︑その下に治書御史︑侍御史︑蘭台令史がいた︒御史台は監察官庁としての旗峨を頗る明瞭
にした︒御史中丞はその職掌が前漢のそれと大差なく︑百官を糾察し︑察挙廻避するところなしという職権を有し
た︒その地位は前漢よりさらに高く︑後漢書詮宣乗伝に︑
貌晋
南朝
の御
史中
丞ハ
越智
﹀
貌普
南駒
の御
史中
日出
︵越
智︶
一 一 一 一 一
光武特詔︑御史中丞与司隷校尉・尚書令︑会同並専席而坐︒故京師号日三独坐︒
とあるように︑朝会において重きをなしていた︒それには職掌上当然のことながら峻厳な人物が選ばれている︒太平
御覧
ヰ仁
田職
官部
二十
三御
史中
丞上
に︑
続漢書目︑馬厳︑字威卿︑拝御史中丞0
・:
厳挙
劾案
章︑
申明
旧典
︒奉
法按
挙︑
無所
廻避
︒百
寮揮
之︒
とあるのはその一例である︒また︑御史中丞は︑前漢にそのことが少しく見られたが︑度々地方に出ている︒それは 主として地方の反乱鎮定のためである︒
さて︑﹁六朝﹂における御史中丞の職掌とくに百官の弾劾についてであるが︑通典暗転棚官六︵御史︶中丞にその概 観がある︒本節はそのなかの貌晋の部分をとりあげる︒貌の場合︑
説初
改中
丞為
宮正
︒挙
飽助
為之
︒百
僚厳
揮︒
跡一
一抑
制一
︒慨
後復
為中
丞︒
とあ
る︒
貌志
吋一
一一
胞助
伝に
は︑
乙れ
に関
し︑
︵前略︶︵文︶帝怒作色︑罷還︒即出助為右中郎持︒黄初四年︵西紀二二三年︶︑向書令陳群僕射司馬宣王並挙助 為宮正︒宮正即御史中丞也︒帝不得己而用之︒百寮厳陣︑間不粛然︒
とある︒飽助は毅然たる人物であり︑それを見込んで陳群と司馬麓とが推挙したものと思われる︒現時代の宮正|御 史中丞の職分の全体的具体像は必らずしも明かでないが︑その職分の一つとして百僚
l
百官の不法を奏弾することがあっ
たの
は間
違い
ない
とこ
ろで
あろ
う︒
強志
世ハ
口紅
恕伝
に︑
明帝
のと
きの
乙と
とし
︑て
︵前略︶恕上疏極諌日︑:・自陛下践昨以来︑司練校尉御史中進︑寧有挙綱維以督好先︑使朝廷粛然者邪︒︵下略︶
とあるのは︑少なくとも制度上そうしたことのあったのを裏から察せしめよう︒晋書博酬石壁伝に︑貌時代︵尚書左 丞︑︶御史中丞となった石壁について︑
多所
糾正
︒朝
廷俸
之︒
とあ
るが
︑
乙の記事も亦右を察せしめるととろがあろう︒
さて
︑通
典に
は︑
続い
て︑
ー
l
i l
i
−−
−
−
−
l i
l i
−
− 凶
晋亦因漢︑以中丞為台主︒奥司隷分督百僚︒自皇太子以下︑無所不糾︒初不得糾尚書︒後亦糾之︒中丞専糾行馬
11
11
11
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11
Il
il
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−
−
−
州
1剖剰朝州制劇州︒難制如是︑然亦更奏衆官︑実無其限︒とあ
り︑
その
割注
に︑
晋侍成奏云︑司線中丞得糾太子︑而不得糾尚書︒臣所卓禽吃朝廷無以易之︒又劉殿︑字長叔︒兼中丞︒奏免尚書僕
射等十余人︒朝廷嘉之︑遂以即員︒晋元帝即尊号︑省司直︑置中丞︒皇太子以下悉得糾劾之︒
とある︒凶は主として侍成の上奏により︑同は主として劉敬の奏弾や東耳目の元帝のときのととによっているとすべき
であろう︒なお︑東晋時代にあっては︑元帝の在位中以降︑御史中丞は向書を奏弾しているハ晋書詮司馬休之伝︑
晋書博寸熊遠伝︶︒さて︑凶には侍成の上奏の読み誤りによって生じたと考えられるところがある︒以下それをとりあ
げる
晋書博畑山侍戚伝の該当上奏記事は︑さきに御史中丞であった司隷校尉停戚が尚書僕射王戎を奏弾したが︑ ︒
解結が︑戚がその分でないととをしたとして成を恵帝に奏弾し︑免官を請うた︒詔が出てその免官は許されなかった
が︑成がそれに対し上奏したものである︒その上奏は︑御史中丞と司隷校尉とは皇太子以下︑内外の百官を奏弾しえ
る︒行馬内︵つまり宮内︶の禁防については外司の力が及ばないが︑御史中丞はそれについても奏弾しえる︒御史中
丞が専ら行馬内の百官︑司隷校尉が専ら行馬外の百官を奏弾するといった乙とはない︒御史中丞と司隷校尉とは行馬
御史
中丞
内にある皇太子をも奏弾しえる︒それだけに︑行馬内にある尚書を奏弾しえるのは明かである︑とするものである︒
︿成は︑凶に見えるような︑もと御史中丞と司隷校尉とが向書を奏弾しえなかった︑といったととは言っていない︒︶
きて︑成は故事を引いて︑司隷校尉が向書の官を奏弾できないとする乙との誤りなるべきを説いている︒成のとの点
貌晋
南朝
の御
史中
丞ハ
越智
﹀
一 一
一 一 一
一
貌晋
南朝
の御
史中
丞ハ
越智
﹀
一二
四
の主張は朝廷にあって認められ︑人々もそれを正しいとしていたと考えられる︒とのように見てくると︑凶の記述は
正確さを欠いでいる乙とになろう︒なお︑凶の﹁後亦糾之﹂は劉敬の尚書の奏弾をもふまえているのであろう︒
御史中丞劉敏が尚書僕射東安公訴ら十余人を奏弾したのは︑同じく恵帝の在位中であるけれども︑停成が王戎を奏
弾してよりものちのととである︒凶の﹁初不得糾尚書︒後亦糾之︒﹂は成の上奏の内容の誤読ととの劉醸の奏弾とか
ら組
み立
てら
れた
もの
であ
ろう
︒
さて
︑南
斉書
鳩十
百官
志に
は︑
晋江左︑中丞司隷分督百僚︒停成所云︑行馬内外是也︒今中丞則職無不察︒
とある︒との﹁晋江左﹂は﹁今︑斉時代︑﹂より前の西晋東晋宋の乙と︑あるいは東晋の乙とと考えるべきである︒
ととろで︑東晋南朝に司隷校尉はいない︒それが置かれていたのは西晋時代である︒それだけに百官志の﹁晋江左﹂
の﹁江左﹂は桁で︑その﹁晋﹂は事実上西晋の乙とである︑とすべきである︒要するに︑百官志の本来の記述は︑停
成の述べているととろを正しく理解しているとされよう︒なお︑西晋時代︑石統を御史中丞と司隷校尉とがともに奏
弾し
たと
とが
ある
︵晋
書伸
一一
石崇
伝︶
︒
いままで見てきたととろから︑晋の御史中丞が皇太子以下︑百官を奏弾しえたが︑斉にあっても同様なるべきが察
せられる︒通典御史中丞によると梁︑陳にあっても同様であったのがわかる︒宋にあっても︑諸例から帰納して︑少
なくとも百官を奏弾しえたととが考えられる︒
第二節御史中丞の奏弾の制度史的考察付
本節と次節とは御史中丞の奏弾の具体相を純制度史的に考察する︒ただし︑御史台の構成などは周知のととである
ので
︑そ
の金
一般
的通
説的
記述
はし
ない
ζと
とす
る︒
御史台の長官たる御史中丞は官人が罪を犯したと判断した際︑それを天子に奏弾して天子の判決を求める︒ただし
例外的に天子が最初に官人を有罪であると決定し︑それを御史中丞が有罪であると判断した形をとって奏弾させる乙
とが
ある
︒南
斉書
博一
一一
江論
伝に
︑
︵前
略︶
上使
御史
中丞
洗沖
奏︵
江︶
強前
後罪
︒目
︑・
:請
免官
削爵
土︑
収送
廷尉
獄︑
治罪
︒詔
︑賜
死︒
とあるのはその一例である︒御史中丞の奏弾といった際後者を含めるのが通例ではないかと思われるが︑本稿の考察
﹁御史中丞の奏弾﹂に後者を含めてみるのが必要な乙ともある︒よって以下︑差支えない限り御史中丞
にあ
って
も︑
の奏
弾に
それ
を含
める
こと
とす
る︒
御史中丞の名において天子に上奏される有罪の判断は︑その判断に至るまでに一連の手続きを経るととを必要とす
る︒それは御史台の調査に始まる︒その調査の基因は︑文選博二弾事奏弾曹景宗︑任彦升に見えるような︑御史台
の自
らの
知見
によ
る場
合︑
文選
品川
一一
弾事
奏弾
劉整
︑任
彦升
に︑
御史中丞臣任肪稽首言︒:・謹案︑斉故西陽内史劉寅妻沼︑詣台訴︑列称︒︵下略︶
とあるが︑訴人の御史台への告発による場合︑文選博一一弾事奏弾王源︑出休文に︑
給事黄門侍郎兼御史中丞呉興邑中正臣枕約稽首言︒:::風間︑東海王源︑嫁女興富腸満氏︒︵下略︶
とあ
るが
︑風
聞に
基く
場合
があ
る︒
また
︑梁
書怜
一一
一張
率伝
に︑
張率
につ
いて
︑
其父侍技数十人︒善枢者︑有色貌︒邑子儀曹郎顧玩之求熔蒋︒枢者不願︒遂出家為尼︒嘗因斎会率宅︒玩之乃飛書︑
言輿
率姦
︒南
司以
事奏
聞︒
とあるが︑御史中丞が飛書をとりあげる場合もあったと考えられる︒
御史台の取調べは︑文選奏弾王源の場合︑
源人身在遠︑純摂媒人劉嗣之︑到台排問︒嗣之列稿︑・:如其所列︑則与風間符問︒
貌晋
南朝
の御
史中
丞︿
越智
︶
一二
五
貌晋
南朝
の御
史中
丞︿
越智
﹀
﹈ ニ ム ハ
とあるが︑御史台で事情を知る証人に事情を聞くこともある︒文選奏弾劉整の場A
間に
あっ
ても
︑御
史中
丞任
肪が
御史
台に事情を知る証人を召して劉寅の妻誼氏の訴えの正当なととを確かめている︒
なお︑御史台における取調べの際︑本人を文書によって取調べるζとがある︒とのときは答えの期日が十日を過ぎ
乙の起算となる日は明かでない︒︶もしその答えが十日を過ぎたときは︑本人の刑の﹁加
重﹂
の原
因と
なる
︵宋
書鵬
十札
志一
︶︒
また︑御史中丞が奏弾文を上奏したとき︑犯罪者の部下などとしてその犯罪行為にかかわったものを御史中丞の部
下である治書侍御史に︑それ以後の時点において奏弾させるといった場合もある︒文選博二弾事
升に
︑
ては
なら
ない
︒
︵た
だし
︑
奏弾嘗景宗︑任彦
御史中丞臣任肪稽首言︒:・臣謹以劾︒請以見事︑免景宗所居官︑下太常︑削爵土︑収付廷尉法獄︑治罪︒其軍佐職
僚︑偏稗将帥︑桂諸応乃答者︑別捕︑治書侍御史随違績奏︒臣謹奉白筒︑以問︒
とあ
る︒
乙れ
はそ
の一
例と
なる
︒
もっとも︑その性格上いわゆる証拠がためが困難でしかも奏弾を必要とする場合︑風間だけによって奏弾するとと
もあ
る︒
南斉
書博
四日
出文
季伝
には
それ
が見
える
︒陳
書博
記一
徐陵
伝に
︑徐
陵に
つい
て︑
出為上虞令︒御史中丞劉孝儀与陵︑先有隙︒風間劾陵︑在麻臓汗︒因坐免︒
とあ
るの
もそ
の例
であ
る︒
附言すると︑現実には御史中丞が自らの怒意的な意思を決定的に働らかせて奏弾するζともあったであろう︒右の
陳書徐陵伝の記事はその一例とされよう︒しかしその際もできる限り御史台での調査をなすべきであるという建前は
崩れるべきでなかったであろう︒また︑天子がまず宮人を有罪と決定し︑それを御史中丞自らの判断によるとして奏
弾させた際も︑御史台において有罪の線にそってできる限りの調査をなしたととであろう︒
御史中丞の奏弾は文書を以て行われる︒つまり奏弾文によって行われる︒ζれは周知の通りである︒その文の起草
は恐らく御史中丞自らあるいはその下僚が行ったものであろう︒ただし︑梁書博四劉之議伝に︑
御史中丞楽務︑即之溢男︒憲台奏弾︑皆之溢草鷲︒
とある記事が見える︒しかし︑同伝に︑
時張稜新除尚書僕射︒託︵任︶肪為譲表︒肪令︵太学博士劉︶之溢代作︒操筆立成︒肪目︑荊南秀気︑果有異才︒
後仕
必嘗
過僕
︒
とあるが︑右は劉之遜がとくに文筆の才があった乙とに基くもので︑それはあくまで御史中丞の奏弾文の代筆という
ととになろう︒なお︑御史中丞の奏弾文が天子に対し御史中丞によって直接読まれたととがある︵陳書徐陵伝﹀︒
制度上御史中丞が近親を奏弾するととはできなかった︒乙のときは御史中丞が治書侍御史をして代ってそれを奏弾
させ
た︒
宋書
拾お
蝉鮮
之伝
に︑
御史
中丞
鄭鮮
之に
関し
︑
性剛直︑不阿強貴︒明憲直縄︑甚得司直之体︒外甥劉毅権重当時︒朝野莫不帰附︒鮮之童心高組︒独不屈意於毅︒
毅甚恨露︒義烈六年︵西紀四一
O
年︶︑鮮之使治書侍御史丘痘奏弾毅︑目︑:・中丞鮮之於毅男甥︒制不相札︒臣請免毅
官︒
とあ
るの
はそ
の例
であ
る︒
ところで︑当時御史中丞と同様天子に対し百官の奏弾を行うべき任をもっ諸官があった︒その奏弾の対象とする事
項と人物とは大体において御史中丞の奏弾のそれと一致する︒従って御史中丞とそうした諸官との重奏もありえるわ
けである︒︵さきにふれた晋書石崇伝の記事はその一例である︒︶
なお︑御史中丞が他の監察官を奏弾したものとして︑晋書埼惇玄伝に見える司隷校尉の奏弾︑宋書笠裳浪伝や梁
書鳩
十王
亮伝
に見
える
尚書
左丞
の奏
弾な
どが
ある
︒
貌晋
南朝
の御
史中
丞︵
越智
︶
七
貌晋
南朝
の御
史中
丞︵
越智
︶
一二
八
さて︑御史中丞の奏弾文中においては奏弾決定に与ったものが複数の形をとっているととがある︒御史中丞が治書
侍御史の意見を聞いたのはいうまでもなかろう︒また︑御史台には代々法憲の乙とを専門とする法令史などがいた︒
文選
奏弾
劉整
に︑
︵前
略︶
以事
訴︑
法令
史播
僧向
議︒
:・
如法
所称
︑整
即︵
罪︶
主︒
とあるが︑この弾奏文において法令史濡僧尚の意見が大きくとりあげられている︒そζ
にそ
の一
端が
窺わ
れる
よう
に︑
御史中丞は通常それらの意見をも大きくとりあげている︒その故に︑奏弾文は通常﹁臣等参議︑請:・﹂として複数の
ものの︑参議した結果を上奏する形をとったのであろう︒しかしそのことは御史台の長官としての御史中丞がその責
任において奏弾文を上つったことを否定しない︒なお︑右の際も︑
︵下
略︶
御史
中丞
任肪
稽首
言︒
とあって︑その奏弾文の冒頭に御史中丞一人が奏弾する旨が明示されている︒
第三節御史中丞の奏弾の制度史的考察白
つぎに御史中丞の奏弾文の記載事項とその内容とについてであるが︑奏弾文にはほぼ一定の様式がある︒そこで
は︑まず︑付奏弾を行う御史中丞の職官名とその氏名とが︑文選奏弾王源に︑
給事黄門侍郎兼御史中丞呉興邑中正臣出約稽首言︒
とあ
り︑
文選
奏弾
劉整
に︑
御史
中丞
臣任
肪稽
首言
︒
とあるような形で記され︑同つぎに︑犯罪の内容が記され︑国つぎに︑被奏弾者︵H
﹁罪
主﹂
︶な
どの
人名
︑同
最後
に御史中丞が適用すべきであるとする刑罰が記されている︒以下︑同以下について検討する︒
まず犯罪の内容についてであるが︑いまそれを内容的に分類し︑その例をあげてみよう︒
ハ一
︶京
師の
文官
とし
ての
職務
怠慢
乃至
職務
不遂
行が
ある
︒晋
書誌
一王
群伝
に︑
御史中丞侯史光︑以︿太保王︶鮮久疾︑閥朝会礼︑請免鮮官︒
とあり︑宋書党J
徐湛
之伝
に︑
時尚書令何尚之以︵尚書右僕射領護軍将軍徐﹀湛之国戚任遇隆童︑欲以朝政推之︒凡諸辞訴一不料省︒港之亦以職
官記及令文︑尚書令敷奏出内︑事無不徳︑令歓則僕射線任︒又以事帰尚之︒互相推委︒御史中丞裳淑挫奏免官︒
とあるのはその例である︒他に宋書笠謝景仁伝︑梁書時十江掩伝︑梁書立何胤伝などにもその例が見える︒
合一
﹀地
方の
文官
とし
ての
職務
怠慢
乃至
職務
不遂
行が
ある
︒南
斉書
博一
一一
王僧
度伝
に︑
︵庇﹀佃夫言於宋明帝︑使御史中丞孫箆奏僧度︑前夜呉興︑多有謬命︒・:又聴民何係先等一百十家為旧
︵前
略︶
門︑
委州
検削
︒
とあるのはその例である︒
︿三
﹀宮
人と
して
の越
権が
ある
︒宋
書博
駄何
承天
伝に
︑
︵御史中丞何︶承天奥尚書左丞謝元︑素不相善︑二人競伺二台之違︑累相糾奏︒太尉江夏王義恭︑歳給資費︑銭三
千万︑布五万匹︑米七万餅︒義恭素蒼修︑用常不充︒︵元嘉︶二十一年︵西紀四四一年﹀︑逆就向書︑換明年資費︒
市旧制︑出銭二十万︑布五百匹以上︑並応奏問︒元紙命議︑以銭二百万給太尉︒事発覚︒元乃使令史取僕射孟額
命︑元時新除太尉諮議参軍︒未拝︒為承天所糾︒
とあ
るの
はそ
の例
であ
る︒
臨
海 白太 己
守 官法 人
昭 と
護 主
私 の
正 義
遠 が依 あ
事 る 劾
奏 南。 斉
高 書
長Z 十巻
;;:.:.三四
者 舗 王
3
思及 遠
思 伝
遠 宍 覧 御
勢 車 : I
懇 量 書 支 著 二 去 三
思
遠不
従
案事
如 故
貌晋
南朝
の御
史中
丞ハ
越智
﹀
一二
九
貌晋
南朝
の御
史中
丞ハ
越智
﹀
一 三
O
とあるのは︑その例である︒他に︑南斉書博r一
柳世
隆伝
︑梁
書鵬
十江
掩伝
︑梁
書博
記陸
果伝
︑陳
書鵬
+南
康感
王曇
朗伝
附
方泰伝などにもその例が見える︒
︵五
﹀軍
事上
の失
敗が
ある
︒晋
書世
一司
馬休
之伝
に︑
御史中丞王禎之奏休之失成︑免官︒
とあ
るの
はそ
の例
であ
る︒
他に
︑宋
書博
一世
沈慶
之伝
︑南
斉書
博記
陳顕
達伝
︑梁
書一
一曹
景宋
伝な
どに
もそ
の例
が見
える
︒
全ハ
︶名
教の
素乱
があ
る︒
乙れ
につ
いて
は第
五節
でと
りあ
げる
︒
︵七
﹀官
人間
で紛
糾が
起き
た際
︑そ
の紛
糾の
原因
をつ
くっ
たこ
とが
ある
︒晋
書博
一世
馬隆
伝に
︑馬
隆に
つい
て︑
︵前略︶因請自至武庫︑選杖︒武庫令与隆念字︒御史中丞奏劾隆︒
とあるのはその例である︒
︵八
︶天
子が
官に
召命
しよ
うと
した
際︑
すみ
やか
にそ
れに
応じ
ない
こと
があ
る︒
陳書
博一
一一
謝蝦
伝に
︑ 又︑度嶺之晋安︑依陳宝応︒世組前後頗召之︒披崎枢寵虜︑不能自抜︒及宝応平︑椴方詣闘︒為御史中丞江徳藻所
謝蝦
につ
いて
︑
挙劾
︒
とあ
るの
はそ
の例
であ
る︒
︵九
︶思
賞に
与ら
なか
った
乙と
に対
し怨
言を
発し
たと
とが
ある
︒南
斉書
品目
一王
倹伝
に︑
倹 弟 遜
︑ 不 蒙 封 賞
︒ 建 元
︵ 西 紀 四 七 九
1八二年︶初為晋陵太昇明︵西紀四七七
1
九年
﹀中
為丹
陽丞
︒
告劉
乗事
︒
守︒有怨言︒倹慮為禍︒因楕淵啓問︒中丞陸澄依事挙奏︒
とあ
るの
はそ
の例
であ
る︒
︵十
﹀殺
人未
遂が
ある
︒晋
書博
記烈
王無
忌伝
に︑
︵烈王無忌︶累遷屯騎校尉中書黄門侍郎︒江州刺史椿哀当之鎖︒無忌及丹陽弔ア桓景等︑銭於版橋︒時王庚子丹陽承一 烈王無忌はその父が王廃に殺されているが
者之在坐︒無忌志欲復鋭︑
罪 ︒
抜万持手刃之︒裏景命左右︑
救拝︒獲免︒御史中丞車濃奏︒無忌欲専殺人︒付廷尉科 とあるのはその例である︒これから見て殺人も亦当然郵劾の対象となったとされよう︒
ハ十
一︶
連坐
があ
る︒
陳書
鳩十
察景
歴伝
に︑
察景
歴に
つい
て︑
高粗受禅︑遷秘書監中書通事舎人︑掌詔詰︒永定二年︵西紀五五八年︶︑坐妻弟劉掩詐受周宝安鏑馬︑為御史中丞
枕畑
所劾
︒ とあるのはその例である︒他に︑陳書博正案憲伝にもその例が見える︒
︿十
ニ﹀
反謀
があ
る︒
晋害
対比
南頓
王宗
伝に
︑南
頓王
宗に
つい
て︑
︵前略︶帝以宗戚属︑毎容之︒:・成和︵西紀三二六
1
三四年﹀初御史中丞錨雅劾宗謀反︒之︒宗以兵距戦︑為胤所殺︒毘其族為馬氏︑従妻子千耳目安︒既而原之︒
庚亮使右衛将軍組胤収
とあるのはその例である︒
右より他のものとして︑疾のため常規を逸した行動をしたとと︵晋書詮彰域王紘伝︶︑軍事によって不和のものを 殺害したこと・朋党をつくったとと︵具体的には有力者への誼事︶・詐冒︵何れも晋書博六張輔伝︶︑反乱が起った
とき
それ
に関
して
辞旨
に激
揚が
あっ
た乙
と︵
南斉
書立
一張
緒伝
︶︑
軍旅
の際
の不
穏当
な行
動︑
南斉
書一
江戸
粛頴
胃伝
﹀︑
寺
に就いて天子からの下賜品を贈ったζ
と︵
南斉
書博
一−
一橋
澄伝
︶な
どが
あげ
られ
る︒
とう
した
際︑
あと
でと
りあ
げる
が︑
付のなかに︑名教の維持に任ずべき宮人がその職務につとめないのが入っているのがとくに注目される︒
つぎに︑被奏弾者の人名であるが︑一人が単独で犯罪をなしている場合は別に問題はない︒数人で同一犯罪をなし ている場合︑ニ通りの様式がある︒その一は︑文選奏覇王源に︑
︵王︶源即罪主︒:・臣等参議︑請以見事︑免源所居官︑禁鋼終身︒駆下禁止嗣事如故︒源官品応責紙︒臣純奉白簡
貌晋
南朝
の御
史中
丞︵
越智
︶
一 一
一 一
貌晋
南朝
の御
史中
丞ハ
越智
︶
一 一 一 一 一
一
以問
︒
︵下
略︶
とあるように︑﹁罪主﹂だけをあげて奏弾する様式である︒﹁罪主﹂は正犯の概念にほぼ近いもので︑宋書時十礼志一 に見える︑被奏弾者として並記されている人々は︑正犯がそれだけいたからと解して大過ないようである︒そのこ は︑一応︑共同正犯的性格をもつけれども︑正犯とは区別されているもの︵以下︑かりに﹁正犯﹂という︶をもあわ
せて奏弾するものである︒文選奏弾曹景宗に︑
臣謹以劾︒請以見事︑免景宗所居官︑下太常︑削爵土︑収付廷尉法獄︑治罪︒其軍佐職僚︑偏稗将帥︑経諸応及答
者別摂︑治書侍御史随違続奏︒臣謹奉白筒︑以問︒
とあって︑﹁罪主﹂より外の﹁正犯﹂の奏弾を治書侍御史に続いて行わせている︒乙うした場合もあるわけである︒ま
た︑
梁書
鳩十
王亮
伝に
︑活
繰に
つい
て︑
御史中丞任肪因奏日︑:::臣等参議︑請以見事︑免綴所居官︑純勅外︑収付廷尉法獄︑
官︑以法制従事︒線位応黄紙︒臣概奉白簡︒
とあるが︑乙の連逮するものは︑恐らく治書侍御史が奏弾したのであろう︒
治罪︒応諸連逮︑委之獄
︵宋の治書侍御史は第六品官以上を奏弾
する
︒︶
最後に刑罰の決定についてであるが︑御史中丞の奏弾には︑天子に被奏弾者の免官︑免官削爵︑免官の上での︵以 玉還第を含む﹀以爵還第︑棄市を請う︑といったような形式と︑天子に被奏弾者の免宮︵︑削爵︶などを詰切っての ち︑廷尉の結罪を請う︑といったような形式とが見られる︒文選奏弾王源︑宋書一
34
孔琳之伝︑梁書博爾穎達伝︑梁書
鳩十王亮伝︑梁書法一何敬容伝︑陳書坤十薬景歴伝︑陳書博心武陵王伯礼伝などに見えるのは前者の形式である︒一方︑
文選奏弾曹景宗︑文選奏掠劉整︑晋書博七下壷伝︑梁書購十王亮伝︵前引のものとは別の記事︶などに見えるのは後者の 形式である︒なお︑右の結罪は罪を決定することと考えられる︵貌書博司刑罰志︶
右のような奏請に対して天子の判決が下されるわけであるが︑それにはさまざまの様態が見える︒乙の点は周知の 通りであるので乙とでの論述は省略するが︑それをゆるすといった決定︵梁書粛頴達伝︶︑﹁上可其奏﹂︵陳書南康懸
︵晋書烈王無忌伝︶といった決定もあるし︑宋書詮王僧達伝に︑
王曇朗伝附方泰伝︶といった決定や﹁煩論﹂
御史中丞劉璃奏請︑収治︒上不許︒
とあって︑その処罰を許さないことや︑晋書王鮮伝に︑
御史中丞侯史光︑以︵王︶鮮久疾︑闘朝会礼︑請免鮮官︒詔目︑太保元老高行︑朕所枇侍︑以隆政道者也︒前後遜 譲不従︒所執︑此非有司所得議也︒遂寝光奏︒
とあるが︑御史中丞の論議の対象外であるとするものもある︒
︵廷尉の結罪のときにも︑天子がそれを確定する乙と
が必要であったのであろう︒︶
第四節御史中丞の職務遂行
御史中丞の奏弾も亦時の流れと相応ずる︒陳書博院補掛伝に︑太建十二年︵西紀五八
O
年︶御
史中
丞と
なっ
た緒
川町
につ
いて
︑ 及為御史中丞︑甚有直縄之称︒自梁末喪乱︑朝章廃弛︒司憲因循︑守而勿革︒卦方欲改張大為僚例︒綱維略挙︑而
編次
未詑
︒
︵下
略︶
とある︒乙とに見えるのは梁末以来御史中丞などの司憲が朝章の廃弛をそのままにしていたが椿鈴がそれを改めよう としたととである︒その聞に少くとも梁末のように国力が極端に衰え︑天子の支配力が殆んど消滅した時期には︑他の 時期に比較して十分な奏弾が事実上不可能であったのが察せられよう︒また︑御史中丞の職務の遂行が時の政治権力 に左右されたこともあり︵宋書立徐語伝﹀︑御史中丞が時の権勢者に迎合した乙ともある︵梁書立孫謙伝︶︒
乙と
ろ
晋貌
南朝
の御
史中
丞︵
越智
︶
一 一 一
一 一 一
一
貌晋
南朝
の御
史中
丞ハ
越智
︶
一 一 ニ 四
で︑
南斉
書諮
一劉
休伝
に︑
︵御
史中
丞劉
︶休
啓目
︑:
・臣
矯尋
︑宋
世載
把六
十︒
歴職
新任
者︑
五十
有三
︒校
其年
月︑
不過
盈歳
︒ とあり︑宋時代︑御史中丞の在任期聞が平均一年であった乙とが示されているが︑御史中丞の頗繁な交代は﹁六朝﹂
を通じてのことと思われる︒従って数多い御史中丞のなかには︑右にあげたような権勢者への迎合者がいるだけでな
︵下
略︶
く︑御史中丞として不適任のものもいる︒
さて
︑梁
書時
十江
掩伝
に︑
江掩
につ
いて
︑
︵斉︶少帝初︑以本官兼御史中丞︒時明帝作相︒・:内外粛然︒明帝調掩目︑宋世以来不復有厳明中丞︒君今日可謂
近世
独歩
︒ とある︒のちの斉の明帝の言は︑宋以来御史中丞の奏弾が緩やかであったとしている︒しかしこれは江掩の御史中丞 としての厳明さを称賛すると乙ろに重点があるのであって︑一般的にいうと宋時代以来御史中丞その他の奏弾を任と する諸官の奏弾が緩やかであったわけでは決してない︒それはいままであげた史料からも窺われるが︑いま︑宋斉持 代御史中丞や︵御史中丞を含む︶有司の奏弾を受けたもので︑いままでにとりあげなかったもの若干をあげるとつぎ のようである︒孔霊符︑股道払町︑謝霊運︑減質︑王僧達︑抗懐文︑素顔︑到掃︑劉子晋︑劉彪︑劉俊︑王秀之︒
何れにしても︑大きくとりあげた際︑﹁六朝﹂において御史中丞は奏弾という職務を遂行している︒乙の点は改め
て論ずるまでもないが︑本節はそれをめぐる若干の点をとりあげる︒
まず︑御史中丞が奏弾の職務を遂行するのが︑天子の大いに期待すると乙ろであった点についてであるが︑晋書措一
侯史
光伝
に︑
其年
詔日
︑
︵城門校尉侯史︶光忠亮篤索︒有居正執義之心︒歴職内外︑俗動在公︒其以光為御史中丞︒雄屈其列校 之位︑亦所以伸其司直之才︒光在職寛市不縦︒太保玉砕久疾廃朝︒光奏請免之︒詔︑優群︑而寝光奏︒
とあり︑宋書詮察廓伝に︑
世子左衛率謝露運臨殺人︒御史中丞王准之︑坐不糾︑免官︒高組以廓剛直︑不容邪桓補御史中丞︒多所糾奏︒百僚
震粛
︒
とあ
り︑
梁書
誌一
張緬
伝に
︑張
緬に
つい
て︑
俄遷御史中丞︒坐収捕入︑輿外国使閥︑左降黄門郎︑粂領先職︒俄復為真︒緬居憲司︑推縄無所顧望︒号為勤直︒
高祖乃遺重工︑図其形於台省︑以勘当官︒
とあ
り︑
陳書
博記
徐倹
伝に
︑徐
倹に
つい
て︑
入為御史中丞︒倹性公平︑無所阿附︒尚書令江総望重一時︒亦為倹所糾劾︒後主深委任意︒
とあるのはその一端を物語っている︒
一方︑御史中丞が不奏弾によって処罰された史料は南斉書博記陸澄伝に見える尚書令椿淵の上奏にいくつも列挙さ れている︒ところで︑その上表において王准之と停隆とが不奏弾によって免官されたとしているが︑王准之について
は︑
宋書
博六
王准
之伝
に︑
宋台建︑除御史中丞︒為僚友所陣︒准之父前之祖臨之曽祖彪之︒至准之︑四世︑居此職︒准之嘗作五言︒活泰調之︑
日︑卿唯解弾事耳︒准之正色答︑猶差卿世載雄狐︒坐世子右衛率謝霊運殺人不挙︑免官︒
とある︒また︑侍隆については︑宋書詮侍隆伝に︑
遷御史中丞︒当官而行︑甚得司直之体︒
とある︒乙うしたととは御史中丞としてたとえ司直の体をえていたにしても︑もし一
E
一小奏
弾が
あれ
ば直
ちに
奏弾
さ れ処罰される可能性をもっていたのを察せしめる︒また︑南斉書清一家象伝に︑実家について︑
又以中書︑兼御史中丞︒転黄門郎︒粂中丞如故︑坐弾謝超宗︑簡奏依違︑免官︒
貌晋
南朝
の御
史中
︵丞
越智
︶
一三
五
貌晋
南朝
の御
史中
丞︵
越智
﹀
ごニ
六
とあるが︑御史中丞の奏弾はたとえ行われたにしてもその依違も亦責められるべきであった︒
また
︑宋
書博
町一
孔規
伝に
︑御
史中
丞孔
規に
つい
て︑
坐鞭
令史
︑為
有司
所糾
︒
とあ
り︑
宋書
博六
泡泰
伝に
︑御
史中
丞沼
泰に
つい
て︑
坐議
股洞
事謬
︑白
衣領
職︒
とあ
り︑
南斉
書博
記到
擬伝
に︑
御史
中丞
到捕
につ
いて
︑
寧駕宰丹陽郡︑宴飲︒捕侍旧︑酒後押侮同列︒言笑過度︒矯左丞庚果之所糾︒臆論︒
とあり︑梁書埼劉覧伝に︑尚書左丞劉覧について︑
姉夫御史中丞格浬︑従兄吏部郎孝綿︑在職頗通臓貨︒覧劾奏︑並免官︒
とあるが︑それらやそれよりほかの数多くの史料から御史中丞が︑不奏弾より外の官人としての非途︑職務上の失
敗︑職務怠慢とか官人としての欠格とかによっても容易に糾弾された乙とがわかる︒それは御史中丞にそれとしての
十分な能力と人格とが要求されているのを物語っているが︑乙れは天子が御史中丞に大いに期待したととの裏がえし
とい
えよ
う︒
つぎに︑御史中丞に何らかの欠陥があった際それを奏弾したもの︵より正確には奏弾すべき義務のあったもの︶が
いた点についてであるが︑それに該当するのは︑尚書左丞︑尚書僕射と︑︵それが存在していた西晋時代の︶司隷校
尉とである︒向書左丞の御史中丞奏弾の事例はすでにあげた︒ところで︑南斉書拾一陸澄伝を見ると︑御史中丞陸澄
につ
いて
︑
建元元年︵西紀四七九年︶︑腰騎諮議洗憲等坐家奴客為劫︑子弟被劾︒憲等憂然︒左丞任還奏澄不糾︒請免澄官︒
とある︒陸澄はそれに対し︑上表して自理し︑
伏尋晋宋左丞案奏︑不乏於時︑其及中丞者︑従来殆無︒︵下略﹀
としている︒しかし︑尚書令格淵の上奏に見えるように︑澄の上表には誤りが多く︑結局澄は免官の上︑白衣領職と されている︒澄のあげた事例のうちどれとどれが誤りであるか不明であるが︑とにかく盟国宋において向書左丞が御史 中丞の不糾を糾弾すべきであり︑かつそれがほぼ実行されていたと断じてよかろう︒
ちなみに︑尚書左丞については︑初学記4十︵向書︶左右丞第七に︑
:・
貌晋
以来
︑左
丞得
弾奏
八座
︒
絞事と
あり
︑ま
た︑
王隠晋書目︑侍成為尚書左丞︒時尚書郭︑突成故将也︒累辞疾病不起︒復不上朝︒
聴許︒成挙奏之︒又日︑仰帥説為尚書左丞︒推奏吏部尚書雀洪︒供日︑挙説丞︑而還奏我︒此謂挽努自射︒説日:・雀 侯為国挙才︒我以才見挙︒唯官是税︒各明至公︒何故其言乃至於此也︒洪聞市悦服之︒
とある︒乙れらは尚書左丞が尚書令以下の尚書省の要官を奏弾できたとと︑及びかつて自らを察挙してくれた旧君を も奏弾できた乙とを示している︒こうした乙とは恐らく﹁六朝﹂を通じて存在したのであろう︒ところで︑宋書話 羊玄保伝を見ると︑向書令が尚書左丞に官人の名教に欠げる行為を奏弾させた記事がある︒乙の際は長官の意図がそ の下僚で奏弾権をもつものによって発現した乙とになる︒とうしたこと自体は官界の上下関係において別に不自然で
又自
表妹
葬︑
乞出臨喪︒詔書
ない︒しかしさきに見たと乙ろは︑尚書省という同一官街において︑部下が制度として上官を瞭劾できる乙とを示し ている︒乙れは官の綱紀の乱れとしてでなく︑天子の支配権力が官界に浸透しようとする︑という観点から理解すべ きである︒こ乙で晋書埼淳威伝を見ると︑司徒府の次官がその職務上のととで︑不当なととをしようとする長官と 意見が合わなかったとき︑長官を差しおいて単独上奏できたのが察せられる︒こうしたことも亦右の線にそって理解
すべ
・き
であ
ろう
︒
貌晋
南朝
の御
史中
丞︵
越智
︶
一 一 ニ 七
貌晋
南朝
の御
史中
丞︵
越智
︶
ごニ
八
尚書
僕射
つに
いて
は︑
宋書
一一
十礼
志三
に︑
︵前略︶御史中丞泡泰議︒・:︵白衣領尚書左僕射孔︶安国又啓︑・:泰為憲司︒自応明審是非︒若臣所啓不允︑即
当=
責一
レ失
︑奏
ニ弾
而低
−︒
慢堕
稽停
︑遂
非忘
旧︒
請免
泰︵
太常
劉︶
瑳官
︒
とあ
る︒
西晋時代の司隷校尉については︑すでに第一節でふれた︒なお︑漢官儀に︑
司隷校尉糾皇太子三公以下及芳州郡園︑無不統︒
とあって︑漢時代司隷校尉が皇太子三公以下を奏弾すべきであったのがわかる︒それには当然御史系統官が入ってい
たで
あろ
う︒
つぎに︑御史中丞の秦弾が百官に恐怖を与えた点についてである︒晋書博
4李
慧伝
に︑
御史
中丞
李慧
につ
いて
︑
当官正色︑不悌強禦︒百僚震粛意︒
とあ
る︒
また
︑宋
書一
品一
劉穆
之伝
に︑
御史
中丞
劉璃
につ
いて
︑ 弾王僧達云︑蔭籍高筆︑人品冗末︒朝士莫不畏其筆端︒
とある︒御史中丞劉璃の王僧達の奏弾は結局天子が認めなかったのであるが︑右はそうした結果の場合を含め︑その 奏弾が官人に恐怖を与えたのを察せしめよう︒
とζ
ろで
︑宋
書博
旭孔
琳之
伝に
︑宋
初御
史中
丞と
なっ
た孔
琳之
につ
いて
︑ 明憲直法︑無所屈棟︒奏劾尚書令徐羨之:::羨之任居朝端︑不欲以犯憲示物︒時羨之領揚州刺史︒琳之弟喋之為治 中︒羨之使壊之解釈琳之︑停寝其事︒琳之不許︒喋之固陳︒琳之謂目︑我鯛杵宰相︒正当罪止一身商︒汝必不応従 坐︒何須勤勤邪︒自是百僚震粛︑莫敢犯禁︒
とあ
り︑
南斉
書諮
一枕
沖伝
に︑
枕淡
︑出
淵︑
出沖
の三
兄弟
につ
いて
︑
淡淵詑歴御史中丞︒兄弟三人皆為司直︒晋宋未有也︒中丞案栽之職︑被憲者︑多結怨︒淵永明︵西紀四八三|九三
年︶中弾呉興太守家象︒建武︵西紀四九四1
八年︶中象従弟昂為中丞︒到官数日︒奏弾淵子績父在倣白憾車︒免官 禁鋼︒沖母孔氏在束︒隣家失火︒疑為入所焚蕪︒大呼目︑我三児皆作御史中丞︒与人宣有善者︒
とあり︑南斉書劉休伝に︑劉休について︑すでに一部を引用したが︑
建元︵西紀四七九|八二年︶初︑為御史中丞︒頃之休啓目︑臣自塵栄南憲︑星唇交春︑謬聞弱奏︑劾無空月︒・:怨 之所楽︑務難久堪︑議之所裁︑敦懐其允︒臣籍尋︑宋世載租六十︑歴職斯任者︑五十有三︑校其年月︑不過盈歳︒
於臣
切濫
︑宜
請骸
骨︒
とある︒これらから御史中丞が被奏弾者から嫌われ︑往々その一身に災の及ぶべきが察せられるが︑それは御史中丞 の奏弾が人々に恐怖を与えたのと相応ずるところがあろう︒なお︑宋書時叫顧深伝に︑顧深︑顧宝先父子に関するこ
とと
して
︑
宝先︑大明︵西紀四五七1
六四年︶中為尚書水部郎︒先是︑諜為左丞有寓秋所劾︒及宝先為郎︑万秋猶在職︒自陳
円い まし む︾
不昇︒世租詔日︑救違︑糾慢︑憲司之職︒若理有不公︑自当更有麓正︒而自頃劾無軽重︑概致私絶︒此風難長︒主
者般為其科︒宝先蓋依附世准︒不足問︒
とある︒乙れは直接的には尚書左丞についての乙とであるが︑右の憲司の職の弾劾が私絶を致す︑という際その憲司
には
当然
御史
中丞
が含
まれ
よう
︒ ちなみに︑貌志川曹爽伝の注に︑視の嘉平元年︵西紀二四九年︶︑司馬誌がクーデターによって曹爽を倒した乙と
に関
し︑
世語目︑初爽出︑司馬魯芝留在府︒間有事︒終営騎︑研津門︑出赴爽︒爽諒︑擢為御史中丞︒及爽解印緩︑持出︑
主簿楊綜止之日︑公挟主握権︒捨此以至東市乎︒爽不従︒有司奏︑綜導爽友︒宣王目︑各為其主也︒宥之︒以為尚
貌普
南朝
の御
史中
丞︵
越智
︶
=ニ
九
貌晋
南朝
の御
史中
丞︿
越智
﹀
一回
O
書郎
︒
とあ
り︑
さら
に︑
臣松之案︑夏侯湛為芝銘及千宝晋紀︑並云︑爽既珠︑宣王即擢芝為井州刺史︑以綜為安東参軍︒輿世語不問︒
とある︒いま前者によって考えるに︑魯芝が司馬鵠︵右に宣王とあるもの︶によって御史中丞に任ぜられたのは︑楊
綜が尚書郎に任ぜられたのと同様︑その主曹爽のため尽したからである︒その乙とは司馬麓がまどとろある人物を御
史中丞に任ずべきであるとしていたのを察せしめ
m w
司馬艶は西晋王朝の基礎がためをした人物であるが︑乙うした
理解は必らずや晋王朝にもち乙まれた乙とであろう︒また︑もし後者が正しいとしても︑右の風潮自体を否定する乙
とに
はな
らぬ
であ
ろう
︒
第五節
﹁六
朝﹂
貴族
制と
御史
中丞
﹁六朝﹂にあっては︑天子の支配権力の行使に二面性があり︑一面ではその独自性を示し︑他面では郷論との同質
性を示している︒それらは決して互に寧離しているのではなくて︑それなりの一体性をもっている︒後者の郷論にさ
さえられる形で天子の支配権力と関連するものは︑士人層とくにその上層の貴族層である︒ところで︑︵その独自性
をも含む︶天子の支配権力と郷論なり士人層なり貴族層なりとの関連は︑名教を紐帯とする︒﹁六朝﹂貴族制は右の
ような政治社会構造のなかにおける︑貴族層を中心とする政治社会体制であ匂本節はこうした﹁六朝﹂貴族制と御
史中丞との関連性をとりあげる︒
第一に︑御史中丞の出身についてであるが︑現時代の御史中丞には石墨のような寒素出身のものもいた︵晋害論一
石盤伝︶︒ととろで︑御史中丞は﹁六朝﹂を通じて第四品官であり︑とくに梁にあっては︑天監の改革以後流内十八
班制の第十一斑の筆頭の清官である︒図式的にいうと︑︵文官の︶第四品官はもともと郷品四品以上の士人の就く官
であったが︑家格が固定化してくると︑第四品官は︑通貴として︑上級士人層︵甲族層︶だけの就くものとなり︑そ れだけに︵大勢として︶御史中丞も亦上級士人層が就くものとなっ勺ととろで︑とくに東晋南朝の士人は家門によ って官途を歩むべく︑危険をともなう官人としての活躍はこれを忌むことが多かった︒それだけに御央中丞に第一流
の上
級士
人が
就く
こと
は殆
んど
なか
った
︒さ
て︑
南斉
書博
四一
徐孝
嗣伝
に︑
尚書令王倹謂人目︑徐孝嗣将来必為宰相︒転充御史中丞︒世相問倹目︑誰可継卿者︒倹目︑臣東都之目︑其在徐孝
嗣乎
︒ とある︒王倹は当時士人の最高峰たるものである︒それだけに︑右は士人が御史中丞となることが︑士人間の評価を
必らずしも下げるものではなかったのを察せしめる︒
第二に︑御史中丞の職分が天子の側にあって礼|名教の維持に任ずるものであったことについてであるが︑御史中 丞の職務遂行は天子への忠誠心に基くべきであり︑そ乙に士人層|貴族層の利益代表的なととは存在していない︒こ
の点はいままで述べてきたととろに自ら明かであろうが︑初学記持十晋侍成御史中丞簸はその一端を察せしめるとこ
ろが
ある
︒
さて
︑後
漢末
﹁六
朝﹂
Kは王法が盛んに出てくる︒もともと王法は王者の法の意味で︑いわば上から下を律するも
のである︒そ乙では父子親属聞の情誼︑貴賎といったことはとりあげられるべきではなかった︒ところで︑司馬氏が
説中期に設けた州大中正の制は︑家門内の孝を中心とする私情と官界における宮人の地位とに関連性をもたせている︒
そこでは王法は自ら︵一部︶私情を包みこむべきものとなる︒すなわち︑通典博六礼二十周喪不司嫁女姿婦議に︑晋 の恵帝のとき名教を掌る司徒の王海が︑喪中に婚要して教化を窃け礼にもとったものを全国の中正にあげさせた︒さ すがに父の喪中に婚要したものはないが︑兄弟の喪のときの嫁婆の事例は数多くあがっている︒玉揮は上奏のなか で ︑
貌晋
南朝
の御
史中
丞︵
越智
﹀
四
貌晋
南朝
の御
史中
丞︵
越智
﹀
四
宜加毘期︑以粛王法︒請台免官︑以正清議︒
とし
てい
る︒
ζの立場は基本的に天子によって認められたが︑
でい
る︒
ことに見える王法は家族道徳に関する私情を包み乙ん
こ乙
で晋
書博
七鐘
雅伝
を見
ると
︑御
史中
丞鐘
雅に
つい
て︑
時国喪末春︒而尚書梅陶私奏女技︒雅劾奏目︑・:宜加放靴︑以整王憲︒請下司徒︑論正清議︒
とある︒とれは王憲H王法を整え維持するのが︑同時に清議を正すべきであるのを察せしめる︒乙うした清議はまさ
に士人閣の名教に基く秩序維持のためのものである︒それだけに御史中丞が王憲
H
王法の維持に任ずることは︑同時に士人層の家族道徳を中心とする正しいありかたの維持に連なることになる︒その際︑御史中丞と士人層との関連の
紐帯となるのは礼|名教である︒また︑晋書博七下査伝に︑
是時王導稽疾︑不朝︒市私送車騎将軍都襲︒査奏︑以︑導防法従私︒無大臣之節︒御史中丞鍾雅︑阿揖王典︑不加
準縄︒並請免官︒難事寝不行︑挙朝震粛︒壷断裁切直︑不畏彊禦皆此類也︒
とある︒この王典は王法の乙とである︒また︑晋書博七下壷伝には︑准南小中正王式が家族道徳にそむいたが︑その 上司である司徒︑揚州大中正︑准南大中正がそれを正さなかったとして︑御史中丞下壷がそれらを奏弾した文をのせ
てい
る︒
そ
ζに ︑
壷奏目︑・:腐損世教︑不可以居人倫詮正之任︒案侍中司徒臨頴公組︑敷宣五教︑実在任人︒而含容違礼︑曽不毘 則︑揚州大中正侍中平望亭侯嘩・准南大中正散騎侍郎弘︑顕執邦論︑朝野取信︒曽不能率礼正造︑崇孝敬之教︒
並為不勝其任︒請以見事︑免組嘩弘官︑大鴻臆削爵土︑廷尉結罪︒疏奏︒詔︑特原組等︑式付郷巴清議︑廃棄終 身 とある︒元来中正は郷論|地域社会の士人層の輿論を正し︑かっそれをとって官人のありかたを規制すべきものであ
とうした際︑すでに見たように洗約が御史中丞で同時に呉輿中正を兼ねているζと︑及び孔失が御史中丞で同
時に揖州大中正を兼ねている乙と︵陳書竺枕失伝︶が改めて注目されよう︒
ζ乙で文選奏弾劉整の記事をとりあげてみよう︒とれは劉寅の妻浩氏が︑夫の死後夫の弟劉整と争って御史台に訴
えたいくつかのととが︑御史中丞によって劉聾の宮人としての﹁欠格﹂H
︵罪
﹀と
して
奏弾
され
たも
ので
ある
が︑
そ
の紛糾の内容は︑奴舛の所有と使用とをめぐる争いと︑劉寅の子劉師利が︑劉整のもとにあったときの賄料米六斗を
劉整が菰氏に要求したが︑その米を送らなかったので︑整が沼氏の住居にきて︑車惟を取り米の代償としてそれを持
ち去った乙ととの二つに関するものである︒後者は本来経済上の事件なのであるが︑ζの際前者も亦経済上の問題に
属する︒ところが御史中丞は︑﹁臣謹んで案ず忍に︑新除の中軍参軍臣劉整は閲閣の闘茸︵刈﹀名教の絶つ所なり︒
タダ直︑前代の外戚なるを以て︑仕へて紘袴に因る︒悪積み雰稔りて親旧日を側つ︒理︑通聞を絶つ︒而も妄に醜辞を嫌
にす︒:・背人親に睦しき︑衣に常主なし︒整の姪を撫する︑食に故人あり︒何ぞ其の鍾庚に折契するとと能はずし
同う んぬ ん
M
て︑
槍惟
交質
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︒﹂
とし
てい
る︒
ζの記事は︑経済上の問題さえも御史中丞の奏弾においては官人の礼|名教上の問題につつまれてしまう
ととのあるのを物語っているが︑それは同時に御史中丞の礼|名教に関する奏弾が広く宮人たる士人層の社会秩序に
関するものに及んだのを物語るとされよう︒なお︑乙うした考察は御史中丞が︵政治体制の維持に直接合致するもの
としての︶社会体制つまり士人︵日士︶庶民︿H庶︶体制の維持を目的とする奏弾をなすべきを暗示する︒とうした
奏弾は実在する︒文選奏弾王源における御史中丞杭約の奏劾は︑官人間の士庶体制の維持という観点に立つものであ
るが
︑そ
の一
例と
なる
︒
るが
乙のように見てくると︑御史中丞が士人である乙とは現実問題として︑右のような天子の支配に不可欠の条件とさ ︑
れるであろう︒との際改めて注目すべきは︑宮人として必らずしもその職にかなわなかった人物が一旦御史中丞とな
貌晋
南朝
の御
史中
丞ハ
越智
︶
一回
三
貌督
南朝
の御
史中
丞︵
越智
︶
一四
四
ると
︑立
派に
その
職を
つと
めた
記事
が往
々存
する
とと
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る︒
宋書
伸一
世鮪
恵開
伝に
︑ 悪開妹嘗適桂腸王休範︒女又嘗適世組子︒発遣之資︑応須二千万︒乃以為予章内史︒聴其捧意衆納︒由是在郡著貧 暴之声︒入為尚書吏部郎︑不拝︒徒御史中丞︒世租輿劉秀之詔日︑今以粛恵閲為憲司︒翼当稿職︒但一往服領巴︒
自殊有所震︒反在任︑百僚畏俸之︒︵大明︶八年︿西紀四六四年︶︑入為侍中︒詔目︑恵閲前在憲司︒奉法直縄︑
不阿権威︒朕甚嘉之︒可更授御史中丞︒
とあ
るこ
と︑
南斉
害時
一徐
孝嗣
伝を
見る
と︑
孝嗣文人︒不顕同異︒名位雄大︑故得未及踊︒
とあるが︑そうした徐孝嗣が風聞によって塩官令粛元蔚らを弾劾したことなどはその一端を物語る︒︵もっとも粛恵 聞はもともと物欲の少かった人物といえようが︑それにしても︑右の食暴はやはり問題となろう︒︶それらは御史中 丞というものが︑その就任者に法の維持者としての一種の使命感をもたせる﹁力﹂をもっていたからと考えられる が︑それは士人秩序|士庶秩序の維持をその任務の一っとする乙とと︑暗々裏にからんでいたとして大過なかろう︒
第六節南朝の御史中丞の専道︑分道
南朝の天子は︑旧来同様郷論を重視している︒そこには天子の支配権力と郷論との同質性といった乙とも存在す る︒しかし即位時などに︑そうした面にあっても天子の一方的な支配力の優越性をうち出してくる︒つまり天子の支
︽6V
配一権力が郷論に優越することをうち出してくる︒本節はそうした新らしい動きが天子の側にたつ御史中丞のありかた にどのように現われているかを︑御史中丞の専道︑分道といった局面を中心に考えることとする︒
まず漢時代であるが︑漢官儀に︑
其三
公列
卿将
五営
校尉
︑行
複道
中︑
遇尚
書僕
射左
右丞
︑皆
廻車
橡避
︑鴨
川法
問開
館櫛
目臥
州一
州市
街士
停不
得梓
台官
︑台
官過
︑
乃得
去︒
鰹齢
計略
.
とあ
り︑
漢官
典職
式儀
選用
に︑
凡三公列卿将大夫五営校尉︑行複道中︑遇尚書僕射左右丞郎御史中丞侍御史︑皆避車務相廻避︑衛士停不得迂台
官︒
台官
過後
乃得
去︒
明一
時注
︒ とある︒乙の漢官儀と漢官典職儀式選用との記事が元来同一︵系統︶のものであったのはいうまでもない︒乙れらは
漢時
代の
尚書
諸官
や御
史中
丞︵
︑侍
御史
︶が
︑三
公列
卿が
大夫
︑五
営校
尉を
帥付
いて
複道
を行
って
いる
のに
遇っ
た際
︑
それ
を避
けさ
せた
のを
示し
てい
る︒
つぎに御史中丞と尚書省諸官との関係であるが︑漢官典職儀式選用に︑
御史中丞︑遇尚書丞郎︑避車︑執板住揖︒丞郎坐車︑挙手礼之︒車過遠︑乃去︒
とあ
り︑
宋書
伸一
山百
官志
上に
︑ 漢制︑公卿御史中丞以下︑遇尚書令僕丞郎︑皆酔車︑激相廻避︑台官過︑乃得去︒今︑
人︑
猶其
制也
︒ とある︒乙れらから漢時代御史中丞が向書省の令僕丞郎の車を避けたのがわかる︒
さて
︑宋
書時
十礼
志二
に︑
尚書
上官
朝及
下︑
禁断
行 宋文帝元嘉十三年︵西紀四三六年︶七月︑有司奏︑御史中丞劉式之議︑毎至出行︑未知制輿何宮分道︒応有旧科︒
法唯称中丞専道︑伝詔荷信詔︑喚衆官︑応詔者行得制令︒無分別他官之文︒既無重然定則︒準承有疑︒調︑皇太子 正議東儲︑不宜興衆同例︒中丞応輿分道︒揚州刺史丹陽罪建康令︑並是京輩土地之主︒或検校非違︑或赴救水火︒
事応
神速
︑不
宜稽
駐︒
亦合
分道
︒
又尋
︑六
門則
行馬
之内
︑且
禁衛
非違
︑誼
由ニ
衛及
軍領
︒未
詳京
安建
康令
門内
之徒
︑及
公事
︑亦
得輿
中丞
分道
興︵
木町
r
貌晋
南朝
の御
史中
丞︵
越智
﹀
一四
五
貌晋
南朝
の御
史中
丞︵
越智
﹀
一 四
六 有其准参旧儀︑告報参詳︑所宜分道︑聴如台所上︒其六門内︑既非州郡県部界︑則不合依門外︒其尚書令二僕射︑
所応
分道
︑亦
悉奥
中丞
同︒
とある︒右は︑御史中丞劉式之が︑御史中丞は専道とされているだけで︑︵伝詔関係を除くと︶どの官と分道すべき か明文がない︒よって詳議していただきたいという議を天子に上奏し︑詔が出て詳議させたが有司がそれに対し︑行馬 内外の皇太子との分道︑行馬外での京都の土地の主である揚州刺史︑丹陽戸︑建康令との分道︑行馬内の分道者︵具体 的なことは不明である︒ただ揚州刺史︑丹陽デ︑建康令とは分道しない︶を上奏し︑あわせて尚書令二僕射が御史中 丞と分道のさまを同じくすべきを上奏したものと解される︒ただし︑その上奏にあっては︑御史中丞が尚書令にあっ
のちに引く南斉書百官志の記事によって︑そのとき以後にあっ
ても︑少くとも行馬外の場合︑御史中丞が尚書令と出会っても専道すべきである︑といった乙とが察せられる︒貌時
代の乙とはわからないし︑かっ右の有司の上奏において行馬内で御史中丞がだれかと分道すべきであるとしたのかど ても専道すべきかどうかは示されていない︒しかし︑
の牙
城で
ある
︶尚
書省
に対
し︑
︵のちに引く史料に百官の元本とされている︑いわば貴族層
︵部分的とはいえ︶天子の支配権力を直接的に担う御史中丞の優位を自ら確認したの
こう
した
乙と
は︑
うかもわからないが︑何れにしても︑
を意
味し
よう
︒ なお︑皇太子との分道であるが︑宋初皇親が宮人として朝堂に立った際︑その班次が現に就いている官職の如何に かかわらず素姓百官に超えるべき新らしい制度が設けられた︒そこでは当然﹁天子!皇太子|︵皇太子を除く︶皇親 ー素姓士人﹂という政治的ヒエラルキーが生ずる︒かくて︑右の有司の上奏において御史中丞が皇太子と分道する︑
といった乙とが明確佑されたのは︑天子の権勢を直接ささえる御史中丞ではあるが︑かえってそれだけに天子の後嗣 としての皇太子のもつ﹁権威﹂を重視すべきである︑といったと
ζろに生じた︑また少くとも右の有司の上奏の皇太
子の分道に関する部分は実現した︵あるいは確証された︶︑と理解してまず誤りあるまい︒