一
日 本 古 代 氏 族 系 譜 の 分 析 視 角
重視して﹁氏族系譜﹂と言う場合もある︒ また︑氏族が作成・共有したという点を ﹁系譜﹂の語を用いる︒ 特に断らない限り︑広義の意味で 用いないものも考察対象としているため︑ しかし本稿では︑系線を用いるものも ﹁系図﹂としてきた︒ 特に系線によって図化されたものを なお︑従来の研究では︑﹁系譜﹂の中でも 史資料の総称を指す︒ 何らかの継承関係を伝える たとえば政治的地位や血縁など︑ 1本稿における﹁系譜﹂とは︑
など︒ 同﹃家系系図の入門﹄︵人物往来社︑一九六七年︶ 同﹃姓氏と家系﹄︵想元社︑一九四一年︶︑ ﹃系譜と紋章の研究法﹄雄山閣︑一九三九年︶︑ 同﹁系図研究法概論﹂︵雄山閣編集部編 同﹃姓氏家系大辞典﹄︵角川書店︑一九三六年︶︑ ︵岩波書店︑一九三四年︶︑ 同﹃岩波講座日本歴史系図と系譜﹄ ︵立命館大学出版部︑一九三〇年︶︑ 同﹃家系系図の合理的研究法﹄ ︵磯部甲陽堂︑一九二〇年︶︑ 2太田亮﹃姓氏家系辞書﹄ 滋賀大学経済学部特任准教授 Masanobu Suzuki 鈴木正信論文
I
はじめに 古代氏族の系譜︵1︶には︑彼らの祖先がいつの時代︑いか
なる職掌をもって王権に奉仕したのか︑その祖先からいかな
る世系を経て現在の人物に至るのかが記されている︒その内容は単なる過去の記憶・記録ではなく︑当該氏族の王権内における政治的地位や︑地域支配の正統性を示すものと
して︑極めて現実的な役割を担っていた︒それは王権の支配論理と密接な関連をもちながらも︑本来的には古代氏族が独自に構築し︑相互に共有した﹁世界観﹂の表象である︒こ
うした系譜を読み解くことによって我々は︑﹃古事記﹄や﹃日本書紀﹄など古代史研究の基本史料からは知り得なかった古代氏族の実態や︑古代国家形成の新たな一側面を明らか
にすることができる︒また︑上記の手続きを経て描き出され
た古代氏族の姿をフィードバックすることにより︑系譜が持 つ史料としての特質を照らし出すことも可能になると思わ
れる︒そこで本稿では︑古代の氏族系譜に関する研究史を整理した上で︑先行研究の成果を発展的に継承するための分析視角を提示してみたい︒
II
研究史 系譜に関する近代以降の研究は︑第一期︵一九三〇〜四〇年代︶︑第二期︵一九五〇〜七〇年代︶︑第三期︵一九八〇〜二〇〇〇年代︶に︑大きく区分することができる︒第一期の代表的な研究としては︑太田亮氏の業績が挙げ
られる︵
﹃姓氏家系辞書﹄︵全一巻︶・﹃姓氏家系大辞典﹄︵全三巻︶ 録し︑その起源・系統・地域分布などについて説明を加えた 2︶︒太田氏は日本全国の姓氏・家系を網羅的に収
を著した︒そして︑これらの編纂作業を通じて収集した︑古
二
あわせて﹁系線系図﹂と総称する場合もある ﹁竪系図﹂・﹁横系図﹂・﹁車系図﹂を︑ などもある︒また︑系線を使用する 3上記の他に﹁車系図︵円形系図︶﹂
引き続きつくられていたと理解したい︒ その要素を引き継ぐ系譜は 竪系図が完全に姿を消したわけではなく︑ 横系図がつくられるようになった後でも︑ 一五︑二〇〇九年︶︒よって︑ ﹃和歌山県立博物館研究紀要﹄ ︵拙稿﹁﹃紀伊国造系図﹄の成立と伝来過程﹂ 竪系図に通じるものがある 紙面を縦方向に使用している点において︑ 典型的な竪系図とは形態を異にするものの︑ ただし︑たとえば﹃紀伊国造系図﹄は︑ 二〇〇〇年︶︒ ︵﹃日本古代系譜様式論﹄吉川弘文館︑ はっきりと時代差による﹂と述べている 横系図への変化は本質的変化であって︑ 4義江明子氏は﹁竪系図から 系譜は﹁口承系譜﹂であり︑やがて﹁文章系譜﹂が現れ︑さ 代から近世に至る系譜を分析することで︑最も古い段階の
らに﹁竪系図﹂︑﹁横系図﹂の順に新しい形態が生まれていっ
たとを論じた︒
ここで議論の前提として︑太田氏が示した系譜の形態変遷について確認しておこう︒まず﹁口承系譜﹂については︑﹃古事記﹄崇神段に見えるいわゆる三輪山伝説において︑天皇か
ら出自を問われた意富多多泥古が︑僕者︑大物主大神︑娶陶津耳命之女活玉依毘売生子︑名櫛御方命之子︑飯肩巣見命之子︑建甕槌命之子︑僕意富多多泥古白︒
と答えていることが注目される︒この記事からは︑文字が使用されていない段階の系譜が︑口頭で伝えられていたことが
うかがえる︒次に﹁文章系譜﹂は︑﹃釈日本紀﹄所引﹁上宮記﹂逸文︵以下︑﹁上宮記逸文系譜﹂と略記︶に︑伊久牟尼利比古大王︑生児伊波都久和希︑児伊波智和希︑児伊波己里和気︑児麻和加介 児阿加波智君︑児乎波智君︑娶余奴臣祖名阿那爾比彌︑生児都奴牟斯君︑妹布利比彌命也︒
とあるような︑文章の形で伝えられた系譜である︒これは﹁口承系譜﹂をそのまま文章化したものとされている︒そし
て次の段階では︑系譜は系線をもって図化されるようになる︒﹁竪系図﹂は︑料紙を縦に長くつなぎ︑人名と人名を縦方向に記して系線で結んだものである︒具体例としては︑﹃籠 名神社祝部氏系図︵海部氏系図︶﹄や﹃円珍俗姓系図︵和気氏系図︶﹄がある︒これらは﹁文章系譜﹂の続柄記載に従って︑その内容を図化したものと見られる︒最後に﹁横系図﹂は︑いわゆる家系図の形態である︒料紙を横に長くつな
ぎ︑改行を繰り返しながら左方向へと筆を進めていく︒これ
は巻子や冊子を縦方向に見なければならない不便さを解消するため︑﹁竪系図﹂から展開した形態と言われている︵
3︶︒ 従来︑系譜の形態変遷については︑﹁口承系譜﹂↓﹁文章系譜﹂↓﹁竪系図﹂↓﹁横系図﹂と表記されることが多かっ
た︒これは大田氏の提言以来︑系譜が筆記される以前は口承で伝えられ︑それが後に文字化・文章化され︑さらに視覚的効果を考慮して図化されていったという流れを踏まえた
ものであった︒しかし︑これではたとえば﹁竪系図﹂が作られ
るようになると﹁文章系図﹂は作られなくなるように見え
てしまうが︑実際のところは︑新しい形態が生まれても︑古
い形態も必要に応じて作られ続けている︵
縦・横方向に使用するようになっても︑必ずしも系線を用い 4︶︒また︑料紙を
るとは限らない︒よって︑系線を用いているものと︑用いてい
ないものを総称する場合は︑﹁竪系譜﹂・﹁横系譜﹂とするの
が適切である︒これらのことを踏まえるならば︑系譜の形態変遷は︻図
1︼のように理解しておくのが穏当であろう︒ さて︑太田氏の業績でもう一点特筆すべきは︑﹁系譜学﹂を提唱した点である︒具体的な活動としては﹁系譜学会﹂を設立し︑機関誌﹃系譜と伝記﹄・﹃国史と系譜﹄を刊行した
三
ことである︵
5︶︒この機関誌には︑系譜に関する多くの論考
が寄せられており︑この時期に﹁系譜学﹂に対する関心が高
まったことは間違いない︒しかし後年︑佐伯有清氏が﹁日本
において系図学︵系譜学︶は︑いまだに体系づけられていな
い﹂と述べたように︵
6︶
︑残念ながら︑この動きは十分に成功
することなく終息した︒それには時代背景など様々な理由
が想定されるが︑何より大きかったのは︑系譜に対する史料
としての位置づけの問題であろう︒
そもそも系譜は︑家系や祖先の顕彰を目的として編纂さ
れることが多いため︑歴史研究においては︑後世の人々による改変や造作を多分に含む︑信憑性の乏しい参考資料として
の扱いに留まることが多かった︒大平聡氏は︑こうした状況
を振り返って︑﹁記載内容の﹁事実﹂判定に対する客観的判断基準の未確立︑即ち系譜史料の史料化の不十分さか
ら︑その研究はごく一部の研究者に︑特殊専門分野として預
けられたような観を呈してきた﹂と述べている︵
系譜を研究素材に用いるか否かは︑個々の研究者のスタンス 7︶︒たしかに︑
によって大きく異なっているのが現状である︒
こうした評価の淵源を辿るならば︑近代歴史学における史料批判のあり方に行き着くであろう︒改めて述べるまで
もないが︑近代歴史学では歴史上の人物が日常生活の中で記したものを一次史料︑歴史を後世に伝えるために編纂され
た記録を二次史料として区別した︒そして︑厳密な史料批判によって選別された価値の高い史料を虚心に読むことに 図 1・系譜の形態変遷
︵﹃日本史研究﹄四七四︑二〇〇二年︶︒ 7大平聡﹁﹁系譜様式論﹂と王権論﹂
復刻されている︒ ︵近藤出版社︑一九八八年︶として これらは﹃系譜と伝記・国史と系譜﹄一〜三 それぞれ発刊された︒ ﹃国史と系譜﹄は一九二七〜二八年に 5﹃系譜と伝記﹄は一九二一〜二七年︑
︵学生社︑一九七五年︶︒ 6佐伯有清﹃古代氏族の系図﹄
四 より︑読み手の解釈が入り込む余地のない︑客観的な歴史像を描き出すことができると考えられてきた︒このような方法論による限り︑系譜は他の史料群と同列に扱うことを許されず︑学問とは一線を画したところで︑個人の家系や祖先を調査する﹁ルーツ探し﹂の道具に留まらざるを得なかっ
たのである︒ここに︑戦前における系譜研究の限界があった︒
つまり︑第一期は︑系譜に対する関心の高まりは見られたも
のの︑それが歴史史料としての地位を獲得するまでには至
らなかった段階と位置づけることができる︒
第二期︵一九五〇〜七〇年代︶における主な研究としては︑田中卓︵
8︶・佐伯有清︵
9︶
両氏の業績が挙げられる︒この時期の氏族系譜研究は︑いわゆる大化改新詔の信憑性をめ
ぐる﹁郡評論争﹂の影響を受けて出発したと言える︒それ
まで﹁ルーツ探し﹂の道具に過ぎなかった系譜であったが︑そ
の中に﹁評﹂に関する記述を含むものがあることから︑一躍注目されるようになったのである︒
その先駆けとなったのが︑田中氏の研究である︒田中氏は﹁評﹂の存在を示す史料として︑﹃和気氏系図﹄﹃和珥部氏系図﹄﹃阿蘇氏系図﹄﹃伊福部臣古志﹄﹃尾張宿禰田島家家譜﹄﹃古屋家家譜﹄など︑多数の氏族系譜を紹介し︑その歴史研究における重要性を積極的に説いた︒また﹁上宮記逸文系譜﹂﹃海部氏系図﹄﹃粟鹿大明神元記﹄﹃天孫本紀﹄な
どに関する個別事例研究を進め︑これらを取り上げて正確
な翻刻・校訂を示した︒こうした田中氏の研究および史料 紹介によって︑研究者に対する利用の便がはかられ︑氏族系譜研究の素地が整えられた︒
一方︑佐伯氏は﹃新撰姓氏録の研究﹄において︑古代氏族
に関する史資料を網羅的に収集し︑それらの比較検討を通
じて︑各氏族の始祖・出自・職掌などを詳細に論じた︒その過程では多数の氏族系譜を取り上げており︑また個別の論考においても︑既知の系譜に関する研究を深化させると同時に︑新出の系譜の﹁発掘﹂につとめ︑それらを綿密な分析
とともに広く世に知らしめた︒佐伯氏の研究は︑﹁系図を歴史研究における史料として尊重する﹂という立場から︑﹁古代氏族の系図が︑なにを語っているのか︑どのようなところに系図としての価値があるのか﹂を明らかにするところに重点
が置かれている︵
手続きを踏まえていると言っても過言ではない︒その意味に 佐伯氏以降の系譜研究では︑そのほとんどがこれに準じた 続する個別事例研究に多大な影響を与えている︒むしろ︑ 背景を明らかにするというものである︒こうした手法は︑後 上で︑当該氏族の存在形態や︑その系譜が編纂された時代 代・編者の割り出しなど︑様々な書誌学的考察を踏まえた 刻・校訂︑他史料との比較による記載内容の吟味︑成立年 緯と伝世過程の確認︑関連する写本の書写系統の検討︑翻 10︶︒具体的には︑その系譜が発見された経
おいて佐伯氏の研究は︑系譜に対する分析手法を鍛え上げ︑
そのスタンダードを確立したものとして高く評価することが
できよう︒
︵国書刊行会︑一九八六年︶︒ 同﹃田中卓著作集六律令制の諸問題﹄ ︵国書刊行会︑一九八六年︶︑ 日本国家の成立と諸氏族﹄ 8田中卓﹃田中卓著作集二 10佐伯有清﹃古代氏族の系図﹄︵前掲︶︒
︵吉川弘文館︑一九八五年︶︒ 同﹃日本古代氏族の研究﹄ 同﹃古代氏族の系図﹄︵前掲︶︑ ﹃同﹄拾遺篇︵同︑二〇〇一年︶︑ ﹃同﹄索引・論考篇︵同︑一九八四年︶︑ 六︵同︑一九八一〜八三年︶︑ ﹃同﹄考証編一〜 ﹃同﹄研究篇︵同︑一九六三年︶︑ 本文篇︵吉川弘文館︑一九六二年︶︑ 9佐伯有清﹃新撰姓氏録の研究﹄
五
さらに︑この時期には田中・佐伯両氏以外にも︑井上光貞氏の﹃河合神職鴨県主系図︵下鴨系図︶﹄に関する研究や
︵
11︶︑是沢恭三氏による﹃粟鹿大明神元記﹄の研究︵
藤四郎氏による﹃海部氏系図﹄の研究︵ 12︶︑後
13︶などをはじめと
して︑優れた個別事例研究が相次いで発表された︒こうした背景には︑系譜に対する評価の変化があったと考えられる︒
前述したように︑近代歴史学では確実な史料を手がかり
として歴史を描いたため︑残存史料の豊富な政治史・国家史が中心であった︒それに対して︑日本では特に一九七〇年代
に至って︑社会的集団の諸関係を研究対象とする︑いわゆる社会史・家族史・女性史などが注目されるようになってきた
ことは︑周知の通りである︒史料論の分野においても︑それ
まで利用されていなかった史資料が︑積極的に取り上げられ
ることとなり︑系譜にも改めて目が向けられるようになった︒佐々木哲氏は﹁系図も歴史の中から生まれてきたものであ
る以上︑系図を資料から排除すれば︑当然抜け落ちる史実
がある︒逆に系図を資料として使用できれば︑そのような史実をすくうことができる﹂と述べている︵
行研究が見落としてきた部分にスポットを当て得るものと 14︶︒このように先
して︑系譜の史料的価値が再評価され︑これを古代史研究
の有力な素材として位置づけようとする動きへとつながった
のである︒田中・佐伯両氏に代表される個別事例研究の進展は︑まさにこうした系譜に対する意識の変化に後押しされ
たものであった︒したがって第二期は︑人々の﹁ルーツ探し﹂の 道具に過ぎなかった系譜が︑古代氏族研究を中心とする歴史研究の素材へと大きな飛躍を遂げた時期であったと捉え
ることができよう︒
第三期︵一九八〇〜二〇〇〇年代︶における主な研究と
しては︑溝口睦子︵
15︶・義江明子︵
16︶
両氏による一連の研究
が挙げられる︒この時期に︑系譜研究が新たな段階を迎え
るに至った背景として︑埼玉県稲荷山古墳出土鉄剣銘系譜︵以下﹁稲荷山鉄剣銘系譜﹂と略称︶の発見に言及しない
わけにはいかない︒
一九七八年︑埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣に金象嵌の文字が刻まれていることが確認され︑解読の結果︑それが﹁意冨比垝﹂から﹁乎獲居臣﹂に至る日本最古の系譜を伝えたものであることが明らかとなった︒この銘文が古代史学界に与えた影響は計り知れないものがある
が︵
17︶︑その記載内容と直接的に関係する系譜研究にとって
は︑とりわけ大きな起爆剤となった︒すなわち︑この最古の系譜に込められた意味を読み解く方法の一つとして︑それま
で知られていた系譜との精緻な比較検討が行われ︑それが古代氏族の系譜を広く見渡すことにつながり︑研究の体系化をもたらしたのである︒
まず︑溝口氏は﹃粟鹿大明神元記﹄や﹃古屋家家譜﹄に関する個別事例研究に加えて︑﹃新撰姓氏録﹄における各氏族の﹁出自構造﹂の分析から︑氏族系譜に共通する要素
について論じた︒すなわち︑古代氏族の系譜は︑神話・伝説
岩波書店︑一九八五年︑初出一九六五年︶︒ ︵﹃井上光貞著作集一日本古代国家の研究﹄ 11井上光貞﹁カモ県主の研究﹂
︵﹃書陵部紀要﹄九︑一九五八年︶︒ 同﹁粟鹿大明神元記について﹂ 一五︱一︑一九五六・五七年︶︑ ()二﹂︵﹃日本学士院紀要﹄一四︱三・ 同﹁粟鹿大明神元記の研究﹂︵一︶・ ︵﹃神道宗教﹄一〇︑一九五五年︶︑ 12是沢恭三﹁粟鹿神社祭神の新発見﹂
︵﹃日本歴史﹄三二九︑一九七五年︶︒ 一九七二年︶︑同﹁海部直の系譜について﹂ ﹃続日本古代史論集﹄上︑吉川弘文館︑ ︵坂本太郎博士古希記念会編 13後藤四郎﹁海部に関する若干の考察﹂
︵思文閣出版︑二〇〇七年︶︒ 14佐々木哲﹃系譜伝承論﹄
﹃日本古代氏族系譜の成立﹄による︒ 以下︑特に断らない限り︑溝口氏の所説は ︵﹃十文字国文﹄一〇︑二〇〇四年︶など︒ 同﹁系譜論からみた﹃上宮記﹄逸文﹂ 鉄剣銘文﹂︵﹃十文字国文﹄九︑二〇〇三年︶︑ 同﹁系譜論からみた稲荷山古墳出土 同﹃古代氏族の系譜﹄︵吉川弘文館︑一九八七年︶︑ ︵学習院学術研究叢書︑一九八二年︶︑ 15溝口睦子﹃日本古代氏族系譜の成立﹄
六 上の人物と現実の人物とを結ぶため︑必然的に﹁擬制血縁
の要素﹂が含まれており︑さらにその中には他氏族と共通
する部分と︑当該氏族独自の系譜部分からなる﹁重層的構造﹂︵
大明神元記﹄に即して図式化すれば︻図 18︶が存在していることを指摘した︒このことを﹃粟鹿
2︼のようになる︒
この系譜は次の五つの部分によって構成されている︒︵
︵ 1︶イザナキ・イザナミ〜スサノヲ︵開闢神話︶の部分
︵ 2︶スサノヲ〜オオクニヌシ︵神代︶の部分
︵ 3︶オオクニヌシ〜オオタタネコ︵神武〜崇神︶の部分
︵ 4︶オオタタネコ〜神部直忍︵崇神〜応神︶の部分 5︶神
部直忍〜神部直根マロ︵応神〜天智︶の部分
このうち︵
5︶は神部直氏だけに伝えられた独自の系譜
であるのに対し︑︵
系譜︑︵ 4︶は各地の神部氏・神人部氏との共通 譜であり︑さらに︵ 3︶は大神氏・賀茂氏・宗像氏など各氏との共通系
2︶は広く﹁イズモ氏等の神統譜﹂︑そし
て︵
1︶は﹁人類共通の始祖神として記紀神話に記されて
いる﹂内容であるという︒このように︵
5︶から︵ 1︶へと遡
るにつれて︑より多くの氏族が共通する系譜となっていくと
いう﹁重層的構造﹂の存在を︑溝口氏は﹁古代における氏族系譜の全体に共通する特色﹂として明確に提示したので
ある︒溝口氏の問題関心は︑﹁氏族系譜とは何か︒現在文献
に見られるような氏族系譜が成立したのはいつか︒これらの系譜の中︑比較的信用できるものはどれで︑信用できないの
はどれか︒神話に属するのはどこからで︑史実はどこからか﹂ 図
2・氏 族系譜の重層的構造溝口睦子﹃日本古代氏族系譜の成立﹄︵学習院︑1982年︶より転載
﹃日本古代系譜様式論﹄による︒ 以下︑特に断らない限り︑義江氏の所説は ︵岩波書店︑二〇一一年︶など︒ 二〇〇九年︶︑同﹃古代王権論﹄ ︵﹃国立歴史民俗博物館研究報告﹄一五二︑ 二〇〇六年︶︑同﹁鉄剣銘﹁上祖﹂考﹂ ︵﹃列島の古代史6言語と文字﹄岩波書店︑ 同﹁神話・系譜と歴史﹂ ︵﹃宮城歴史研究﹄五四・五五︑二〇〇三年︶︑ 同﹁系譜を図形で読む﹂ ︵﹃日本史研究﹄四七四︑二〇〇二年︶︑ 同﹁系譜様式論からみた大王と氏﹂ 同﹃日本古代系譜様式論﹄︵前掲︶︑ ︵吉川弘文館︑一九八六年︶︑ 16義江明子﹃日本古代の氏の構造﹄ など参照︒ ︵﹃史学雑誌﹄八八︱五︑一九七九年︶ 歴史学会︱回顧と展望︱古代一﹂ 17新野直吉執筆﹁一九七八年の
本稿では﹁重層的構造﹂としておく︒ 意味があると考えるため︑ しかし︑筆者はやはりその重層性にこそ 稲荷山古墳出土鉄剣銘文﹂前掲︶︒ 変更している︵﹁系譜論からみた のちに﹁同祖構造﹂という表現に 18溝口氏は﹁重層的構造﹂について︑
七
を解明するところにあり︑それは前述した佐伯氏の姿勢に通じるものがある︒こうした溝口氏の研究は︑佐伯氏によっ
て蓄積された個別事例研究の手法を踏まえた上で︑それを
さらに一歩進めて︑古代氏族の系譜に共通する﹁重層的構造﹂という要素を抽出した点で︑極めて大きな意味を持つも
のであった︒
一方︑義江氏の研究は︑それまでの方向性とは少しく異な
る構想のもとに展開された︒第一期において︑太田氏が系譜
の形態変遷の存在を論じたことは︑すでに述べた通りである︒当時︑宮地直一・石村吉甫両氏も︑系譜の形態に注目してい
た︵
19︶︒しかし︑義江氏によれば︑先行研究では形態の変遷
に関して﹁技術的実際的側面からの説明﹂に留まっていた
という︒そこで︑義江氏は﹁﹁形式﹂は時代を映す鏡であり︑
その意味では︑系譜はまぎれもなくかけがえのない一級史料
なのである﹂と位置づけ︑﹁系譜形式そのものの研究﹂の重要性を喚起した︒そして﹁形態変化の背後にどういった系譜意識の変化︑さらには社会組織・親族組織の変化があっ
たのか﹂という視点から︑﹁﹁娶生﹂の有無︑兄弟︵姉妹︶記載の有無︑奉仕文言の有無︑の三要素の組み合わせ﹂によっ
て︑古代氏族の系譜を﹁地位継承次第﹂︵
﹁父系出自系譜﹂に分類し︑その時系列的な変遷過程の中 20︶・﹁娶生系譜﹂・
に︑氏族集団や系譜観念のあり方の反映を読み取ろうとし
た︒その内容を簡潔にまとめるならば︑次のようになる︒ ・﹁稲荷山鉄剣銘系譜﹂や﹃海部氏系図﹄に見られる﹁コ︵児・子︶﹂は︑一見すると血縁による親子関係のように見えるが︑実際は政治的地位︵あるいは族長位︶の継承者を表している︒こうした﹁地位継承次第﹂は︑奉仕文言
をもち︑一人の始祖︵上祖︶から自己までを一系列につなぐ点に特徴があり︑五世紀後半から九世紀半ばまで継続し
て作成された︒・﹁天寿国繍帳銘系譜﹂を典型とする﹁娶生系譜﹂は︑﹁娶生﹂という文言によって父系・母系の両方を記載し︑兄弟姉妹の記載を含み︑複数の始祖から﹁逆三角形﹂の形で自己に収斂する︒これは実際の婚姻・親子関係の連鎖に
よって個人の政治的位置を示したものであると同時に︑二
つの集団の同盟・結合関係を支える政治的機能をも有
している︒この﹁娶生系譜﹂は六世紀前半からつくられ始
め︑七世紀末には消滅した︒・﹁父系出自系譜﹂は︑一人の始祖を起点として﹁裾広がり﹂
に︑かつ父系で自己の世代まで記載するものであり︑一部
の人物に﹁奉仕﹂の文言を注記し︑兄弟姉妹の記載を含
む︒これは八世紀頃より﹁地位継承次第﹂と﹁娶生系譜﹂
の要素を吸収しながら作成されるようになり︑九世紀に至って本格的に成立し︑中世以降のいわゆる家系図に引
き継がれていくこととなった︒・系譜に見られるこうした﹁地位継承次第﹂・﹁娶生系譜﹂
から﹁父系出自系譜﹂への変容は︑政治的地位の継承者
︵﹃歴史公論﹄八︱一︑一九三九年︶︒ 石村吉甫﹁系図形態の変遷﹂ ︵﹃系譜と伝記﹄二︱一︑一九二三年︶︑ 同﹁系譜学の建設︵承前︶﹂ ︵﹃系譜と伝記﹄一︱九︑一九二三年︶︑ 同﹁系譜学の建設︵承前︶﹂ ︵﹃系譜と伝記﹄一︱八︑一九二二年︶︑ 19宮地直一﹁系譜学の建設﹂ ここでは後者にしたがう︒ ﹁地位継承次第﹂と改めている︒ ﹃日本古代系譜様式論﹄︵前掲︶では 呼称していたが︑ 構造﹄︵前掲︶では﹁一系系譜﹂と 20義江氏は﹃日本古代の氏の
八 をも﹁コ︵児・子︶﹂とする系譜観念から︑それを親子関係に限定する系譜観念への展開を示す︒すなわち﹁父系出自系譜﹂の登場は︑八世紀末から九世紀前半にかけて︑氏︵ウヂ︶が実質的に父系出自集団となる社会背景を反映したものである︒
義江氏の研究における最大の特徴は︑﹁形式﹂︵系線・続柄用語・省略記号など︶︑﹁形態﹂︵文章系譜・竪系図・横系図など︶︑﹁類型﹂︵地位継承次第・娶生系譜・父系出自系譜︶という客観的な基準を設定し︑これらを総合的に分析する手法を提唱した点にある︒その主眼はあくまでも氏︵ウヂ︶や家︵イヘ︶といった社会的集団の成り立ちを探る
ところに置かれており︑系譜はこの問題を解決するためのい
わば手段であったと言える︒その点で︑古代の氏族や系譜そ
のものを考察対象とする先行研究とは︑出発点を異にして
いた︒しかし︑それゆえに系譜研究に対する新しい視点の獲得に繋がったのである︒
このように︑溝口・義江両氏を中心とする第三期の系譜研究は︑第二期における個別事例研究の蓄積を基盤としな
がら︑古代氏族の系譜を複数取り上げて比較検討を行う
ことで︑それらが持つ共通性と相違性を明らかにするなど︑系譜研究の体系化を推し進めた段階と位置付けることが
できよう︒
以上︑近代以降の系譜に関する研究史を三期に分けて概観してきた︒そこには︑第一期における﹁系譜に対する関心の 高まり﹂︑第二期における﹁個別事例研究の蓄積﹂︑第三期
における﹁研究の体系化﹂という大きな流れを読み取るこ
とができる︒特に第二期には︑系譜の記載内容の信憑性を吟味することで︑基本的には個々の古代氏族の実態を描き出そうとする︑氏族系譜研究のスタンダードとでも言うべ
き方向性が︑佐伯氏の研究によって示された︒これはその後
の研究に少なからず影響を与えている︒そして︑第三期には︑溝口氏による氏族系譜の﹁重層的構造﹂に着目する視点と︑義江氏による系譜の﹁様式﹂に着目する視点︵義江氏の言葉にしたがって︑以下﹁様式論﹂とする︶が明確に打ち出さ
れた︒今後の系譜研究は︑これら二つの視点を踏まえた上で︑個々の氏族や系譜を扱った事例研究の蓄積と︑古代の系譜
を広く見渡す総括的な議論を︑相互に連関させながら展開
していく必要があると考えられる︒
III
分析視覚 溝口・義江両氏は︑その後も継続的に論考を発表しているが︑ひとまず上記のように把握することとして︑我々はそ
の成果をいかなる方法で︑批判的かつ発展的に継承していく
ことができるであろうか︒そこで以下では︑三つの分析視角
を提示したい︒
第一に︑義江氏の﹁様式論﹂を検証するために︑その分析
の俎上に載せられなかった系譜を取り上げることである︒
九
系譜の﹁様式﹂を論じる前提として義江氏は︑﹁作成時その
ままの原本ないし作成時の原型を色濃く残す良質の個別古系譜﹂に考察対象を限定した︒具体的には︑①
② ﹃和気氏系図﹄ ﹁稲荷山鉄剣銘系譜﹂﹁山ノ上碑系譜﹂﹃海部氏系図﹄ ﹁作成時の原本そのものが残る﹂もの 残す﹂もの ﹁原本そのものではないが作成時の原型をほぼ正確に ﹁
上宮記逸文系譜﹂﹁天寿国繍帳銘系譜﹂③
北島氏系譜﹄ ﹃伊福部臣古志﹄﹃粟鹿大神元記﹄﹃下鴨系図﹄﹃国造 実にうかがえる﹂もの ﹁後代に再編された系図の一部に古系譜のおもかげが確
これらの系譜を取り上げ︑﹁まとまった形で厳密な分析にた
えうる古系譜は︑管見の限りではほぼ以上につきる﹂とした上で︑そこに残された﹁様式﹂に分析を加えていったのである︒
ただし︑義江氏による一連の研究では︑特に成立年代や伝世過程など︑その系譜がいかなる史料的性格を有している
かという点については︑先行研究の成果に依拠するところが少なくない︒つまり︑﹁厳密な分析にたえうる﹂か否かの線引きは︑あくまでも﹁様式﹂を分析するために暫定的に設定
されたものであり︑逆に言えば﹁様式﹂の分析に適さなけれ
ば︑古代に遡る内容を持つ系譜であっても︑考察対象からは外れてしまう危険性がある︒このことに関しては︑大平氏も ﹁現存する古系譜・古系図の︑限られた範囲の分析は︑果
たしてそれを一般化し得るものか疑問のもたれるところでは
ある﹂とした上で︑﹁分析から漏れた︑古代に遡る内容を有
する系図史料について︑義江氏の仮説が適用できるかどうか
の検証も必要である﹂と述べている︵
21︶︒ これに該当する系譜として︑たとえば﹃国造次第﹄︵
22︶が
ある︒これは古代において紀伊国造を輩出し︑延喜式内社
である日前神宮・国懸神宮を奉祭した︑紀直氏︵のち紀宿禰・紀朝臣︶の系譜である︒巻首書入によれば︑その原本は貞観十六年︵八七四︶以前から存在しており︑それが損傷
を受けたため同年に書写され︑書き継ぎが行われたのち︑天正年間︵一五七三〜九二年︶に改めて一括して書き写されたも
のである︒この﹃国造次第﹄に関して義江氏は︑﹁中〜近世以降に作成された通常の横系図形式の父系出自系譜︵家系図︶の古い部分が︑実は親子関係ならざる地位継承次第
そのままと推定される︑という例﹂の一つとして挙げるのみで︑
それ以上の言及はしていない︵
再編された系図の一部に古系譜のおもかげが確実にうかがえ 氏が考察対象として分類したもののうち︑上記③﹁後代に 年以前より存在していたことからするならば︑これは義江 23︶︒しかし︑原本が貞観十六
るもの﹂に含まれるであろう︒
ほかにも管見に入った限りでは︑延喜七年︵九〇七︶に神祇官に提出された﹃伊勢天照皇太神宮禰宜譜図帳﹄︵
24︶な
どがある︒これは伊勢神宮︵内宮︶の禰宜を列記したもの
21大平聡﹁﹁系譜様式論﹂と王権論﹂︵前掲︶︒
などに︑全文の翻刻が掲載されている︒ ︵﹃香川県立文書館紀要﹄十五︑二〇一一年︶ 拙稿﹁﹃紀伊国造次第﹄の書写方針と注記﹂ 二〇〇三年︶︑ ︵﹃和歌山市立博物館研究紀要﹄十七︑ 寺西貞弘﹁紀伊国造次第について﹂ 22紀俊行氏所蔵︒和歌山市立博物館寄託︒
︵﹃早実研究紀要﹄四〇︑二〇〇六年︶参照︒ 拙稿﹁﹃紀伊国造系譜﹄の編纂と書き継ぎ﹂ 書名の史料も別に存在する︒ なお︑﹃紀伊国造系譜﹄という ﹃国造次第﹄を指しているものと思われる︒ 記しているが︑これはおそらく 23義江氏は﹁紀伊国造系譜﹂と
︵神道大系編纂会︑一九八五年︶所収︒ 太神宮補任集成・下﹄ 24﹃神道大系神宮編五