1872年における日本政府の琉球政策

全文

(1)

はじめに

 『国史大辞典』によると,「琉球処分」とは「明 治5年(1872)の島治改革伝達,琉球藩王冊封 から同12年の沖縄県設置までの一連の施策」を 指している。

 1872(明治5)年(1)明治政府は鹿児島県を通 じ,琉球使節を上京させ,藩王の「冊封」(2)を 行った。いわゆる琉球藩の設置である。日本側 の行動に対し,清国側は全く反応を表面化にし なかった。1873年副島外務卿が条約批准書交換 のため,渡清した際にも,清国側から問題提起 があった形跡はないと西里喜行[1990

:

20]は 指摘している。清国は日本の琉球藩設置を知ら なかったようである。

 外務省外交史料館に所蔵されている鄭永寧

(外務少丞)編纂の「副島大使適清概略」には,

以下のように記録している。

九月,琉球ノ使臣入京シテ方物ヲ貢キ,朝覲ヲ 請フ。皇上因テ尚泰ヲ策封シテ琉球藩王ト為シ,

叙シテ華族ニ列シ,命シテ曰ク,咨爾尚泰其レ 藩屏ノ任ヲ重ンシテ永ク皇室ニ輔タレト。尤モ 賚賜ヲ厚クシテ之ヲ遺ス。尚泰上表謝恩シ,以 テ冊命ヲ奉セリ。事皆陳福勲ヲシテ聞見セシ4 4 4 4 4 4 4 4 4 44(3)(傍点 筆者)

 陳福勲は清国から派遣された使節である。こ の史料を読めば,明治天皇が琉球国王尚泰を琉 球藩王に「冊封」することを,清国使節陳福勲 に見せたことがあきらかである。つまり,琉球 処分の一環として,明治5年の琉球藩王「冊封」

一件を,陳福勲は知っていたのである。

 安岡[2002

:

185]は「この琉球藩は内政施策 として清国に通知しなかったが,折からマリア ルス号清国難民引取りに来日中の特使陳福勲に 尚泰冊封の次第を聞見させている。この年琉球 から隔年の進貢使が派遣されており,清国はと くに動きを示していない」と指摘している。こ の指摘は多分,鄭永寧の前掲した史料を参考し たものと考える。

 一方,『華工出国史料汇編』(第3冊)にある 陳福勲の報告には,琉球藩王「冊封」の事につ いて一言も触れていない。

 いったい,清国使節陳は東京でどのように接 待されたのか,維新慶賀使と邂逅したのか,陳 は琉球藩王の「冊封」を見せられたのか,も し,陳が見聞したとするならば,何故清国政府 に報告をしなかったのか,などの問題が浮かび 上がってくる。管見の限りでは,この問題点に 関する分析はいまだない状態である。本稿は使

*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程3年(指導教員 島 善髙)

研究ノート

1872年における日本政府の琉球政策

― 清国使節と維新慶賀使の邂逅をてがかりにして ―

白   春 岩

(2)

節陳福勲の日本での見聞を追いながら,以上の 問題を明らかにしたい。

 このような作業を通して,明治初期における 日清両国の琉球に対する異なる政策,態度を明 らかにすることができる。さらに,琉球処分の 一環として,明らかにする必要性があると考え る。

1 「副島大使適清概略」にある記録  日清両国の間には,1871(明治4 同治10)

年に対等な「日清修好条規」が締結された。そ の翌年,マリア・ルス号事件を処理するため,

清国から使節を派遣したのである。

1.1 マリア・ルス号事件と陳福勲

 1872年7月9日(明治5年6月4日)ペルー 船マリア・ルス号(

THE MARIA LUS

)はマ カオからペルーへ向かう途中,台風に遭った。

船体を修理するため横浜に入港した。同船に は約230名の清国人が乗船していた。7月13日

(6月8日)マリア・ルス号から一人の清国人 が脱走し,イギリス船に救助された。調べた結 果,マリア・ルス号は人身売買の船であること が明らかになった。イギリス,アメリカ公使の 勧告を受けた日本外務卿副島種臣は色々な難題 を抱えながら,大江卓に指示し,マリア・ルス 号を日本の裁判にかけ,清国人を解放させた。

解放された清国人たちは清国から派遣された使 節陳福勲に連れて,帰国した。簡略に言えば,

陳はマリア・ルス号事件を処理し,清国人を迎 えにきた使節である。

 陳福勲は近代に入った以後,清国から日本に 派遣された初めての使節である(4)。にもかかわ らず,今までの研究では陳福勲に関する記述は

非常に少ない。陳福勲を対象とする研究もない ようである。『清史稿』や『清国史』などでは 名前が出てくるだけである(5)。具体的な史料が ないため,陳福勲の人物像を描くことは困難で ある。そこで,まず,陳福勲を簡単に紹介した い。

 『上海名人辞典』には陳福勲について次のよ うに書いている。

陳福勲:清朝浙江銭塘(現在の杭州)人,字は 宝渠である。初めて上海に来たとき洋務に関心 をもっていた。咸豊帝末年,会防局を補佐し,

海防同知に抜擢された。同治帝初年,機械鉄工 場を取り扱った。1868(同治7)年,初等審 判官に任命され,上海公共租界新建理事衙門に 駐在し,外国との交渉事件を処理する。後に娼 妓,賭博の取り締まりに取り組んだ。1872(同 治11)年,マリア・ルス号事件を審理するため,

日本に行き,苦力を清国に連れ戻した。1875(光 緒元)年,湖広総督李瀚章と共にマーガリー事 件を処理した。1877(光緒3)年命令に奉じ,

褚兰生とイギリス領事館へお金を払い,淞滬鉄 道を回収した。1879(光緒5)年滬北栖流公所 の建設に参与し,失業,貧乏,病気にかかる流 民を収容した。1880(光緒6)年知府に任命さ れた。1883(光緒9)年アメリカ副領事と共に 上海英租界の報復殺人事件を裁判にかけて,租 界での役所で予審手続きを行う先例であった。(6)

 以上,マリア・ルス号事件と清国使節陳福勲 を紹介した。

1.2 陳福勲の日本見聞

 陳福勲は日本でどのように接待されたのか,

どのように自分の任務を成し遂げたのか。『明 治文化全集』[11巻

:

64]の中では次のように 述べている。

(3)

副島即チ柳原等ニ令シテ陳ヲ横濱ニ接シ,海路 同載シテ京ニ入レ,延遼館ニ舎テ欵待シ,日ニ 馬車ヲ馳セ都下ノ勝麗ヲ遊觀セシム。凡ソ官衙 市廛ヨリ人文衣食ニ至ル,概子外國ヲ摸シタル ヲ見テ,陳乍チ驚キ乍チ羨ミテ曰ク,我國政府 ハ夢想ニモ未タ到リ及ハサルナリト

この史料を読めば,陳福勲が日本で親切なもて なしをされたことが分かる。陳はいかに日本の 開化を認識したのか。

副島延遼館ニ宴シテ,陳ヲ餞シ,送ルニ,金漆 和錦ヲ以テシ,大ニ,我国開化ノ進歩ヲ誇リ,

彼カ中国ノ大ナルヲ以テ,今猶ホ外人ノ侮慢ヲ 喫シ,其民ヲ豕販セラルヽヲ諷シ,慨嘆シテ已 マス。陳曰ク,貴国皇上,時々龍車ニ駕シテ親 ラ羽林ヲ閲ス,福勲以為ヘラク兵強ケレハ民安 シ,民安ケレハ国饒カナリ。貴国ノ雄謨,蓋シ 之ヲ取ルナラン。我国廟堂ノ輔臣誠ニ寡君ヲシ テ亦能ク之ヲ行ハシメバ,何ソ外侮ヲ憂ヘン哉。

福勲幸ニ闕下ヲ窺ヒ,貴国開化ノ大体ヲ観ルコ トヲ得タリ。帰ラハ,具サニ,大憲ニ面述シテ,

必ス憤啓スル処有ラシメントス(7)

陳は日本の開化を褒め称え,自国のいい手本で あると感嘆した。一方,陳福勲はどのように自 国に報告したのか。

 『華工出国史料汇編』によると,陳福勲が清 国に帰ったあと,次のように報告をした。

この事件を裁判にかけるきっかけは,実は副島 大臣の誠意によるものである。小職は鄭少記と 共に調査しに行った,副島大臣は大喜びだった。

小職は横浜に着いた後,副島はすぐに柳原大丞 らを派遣し,小職を誘い東京にて接見してくれ た。上客だと見なした。そして,外務衙門の各 位に小職が皇帝に派遣されたという身分を紹介 し,使節身分の接待で対応するべきと伝えた。

小職を延遼館に泊まらせ,7日間泊まったが,

往復6回接見してくれた。一切の対応は至れり

尽くせりであった。(8)

陳はこの報告書の中で,自分が貴賓として扱わ れ,行き届いた配慮をされたことに対し,感謝 の気持ちを表し,副島外務卿を高く評価をし た。

1.3 琉球藩王「冊封」と陳福勲

 清国から派遣した使節は9月29日(8月27 日)に横浜に到着した。日本側はすでに,9月 26日(8月24日)にマリア・ルス号事件の裁 判を終結させた。それゆえ,陳は日本に到着し た後,具体的な審判ではなく,当時の裁判記録 を中国語に訳すなどの仕事をしていた(9)。  鄭永寧は「副島大使適清概略」の中で,日本 側が清国使節に琉球藩王「冊封」を見せたと記 録している。しかし,陳の報告書にはこのこと について,一言も触れていなかった。はたして,

鄭永寧の記録したとおり,陳は明治政府の琉球 藩王の「冊封」を経験したのか。この問題を解 明するためには,陳福勲の来日関連事件を見な ければならない。

 表1から,陳福勲が清国人を連れて帰国した のは,10月15日(9月13日)であることが明ら かである。

 同じく,『大日本外交文書』[第5巻

:

524]

には「清国難民貳百貳拾九人,今十三日朝十字 於当県庁,清国同知陳福勲え引渡,其後邏卒為 附添,小船を以て米国郵船迄輸送致し候」(読 点 筆者)と記録している。清国使節は解放さ れた清国人をつれて,15日(13日)に帰途につ いた。

 一方,『大日本外交文書』[第5巻

:

379]に よれば,明治政府が琉球藩王を「冊封」したの

(4)

は10月16日(9月14日)である。つまり,藩 王「冊封」を行ったのは陳一行が帰国した翌日 であった。それゆえ,鄭永寧が「副島大使適清 概略」で,陳が琉球藩王「冊封」を見聞したと 記述しているのは辻褄があわない。鄭のこの記 録の信憑性を問わなければならない。

2 大隈重信の回顧記録

 『大隈重信關係文書』には「大隈重信談話」

(台湾征伐の思ひ出)が収録されている。大隈 は以下のように述べている。

明治五年京浜間に鉄道が始めて開設されたの で,琉球王をも招待した,王様は来ないで親戚 の者が来たのだが,丁度支那及び欧米の全権公 使も同席で,其前で我国は琉球王を沖縄藩王に 封ずと下命したするとだらう,支那は自国の所 有だと抗議を申込んだ,此時既に琉球問題が起 つて居たのだ(10)

 大隈の回顧によると,「支那」から琉球問題 に対する抗議があった。一体,この「支那」と は誰を指しているのか。当時,駐日の清国全権 公使はいなかった。欧米の全権公使と同席した のは陳福勲なのだろう。

 一方,清国の史料には,陳は鉄道開業式の ことについて,一切触れていなかった。た だ,9月30日(8月28日)の報告書には「往 復百四十里の距離で,途中は只一時間のみであ る」(11)と鉄道の利便に言及したのである。客観 的に鉄道開業式当日を復元するためには,当時 琉球側の史料を参考する必要があると思う。

2.1 維新慶賀使の派遣

 琉球と中国との関係は1372(洪武2)年に遡 ることができる。その後,琉球は中国の明,清 との間,朝貢関係を持たれていた。一方,1609

(慶長14)年,島津家久は3

,

000人の兵隊を率い,

琉球を征討した。その後,琉球は薩摩の支配下 にも置かれた。長い間にわたり,琉球は中国

(明,清)と,日本との「両属」状態を維持し ていた。実際,中国の場合は形式上の朝貢関係 に過ぎず,薩摩藩の支配は実質的であることが 周知のとおりである。

 日本側は明治維新を迎え,変革が日本全土で 行われた。版籍奉還,廃藩置県により,薩摩藩 は鹿児島県にかえた。当然,琉球は鹿児島県の 管下になった。明治6年,岩倉使節団が海外に 表1.陳福勲来日関係年表

新暦 旧暦 関連事件

9月14日 8月12日 鄭永寧が上海に到着,マリア・ルス号事件を清国に報知する 9月17日 8月15日 清国通商大臣より陳福勲を委任する

9月21日 8月19日 陳福勲は鄭永寧,アメリカ通訳と同行し,アメリカ船に乗り,上海より日本へ向う 9月24日 8月22日 陳福勲は長崎に到着する

9月26日 8月24日 陳福勲は神戸に到着する(この日にマリア・ルス号事件結審)

9月29日 8月27日 陳福勲は横浜に到着する 9月29日,

30日  

8月27日,

28日   陳福勲は英米領事官等を訪ねる

10月1日 8月29日 陳福勲は副島に謁見し,招待を受けた。大江卓,林道三,鄭永寧らとマリア・ルス 号事件の裁判について会談する

10月15日 9月13日 陳は清国人を連れて,清国へ帰る

(5)

渡航した後,留守政府は一系列の改革を行っ た。その中に,琉球問題が取り上げられたので ある。

 8月28日(7月25日)正使伊江王子(尚健),

副使宜野湾親方朝保(向有恒),賛議官喜屋武 親雲上朝扶(向維新)からなる「王政御一新」

を祝う使節団が那覇を出航した。いわゆる,維 新慶賀使である。10月5日(9月3日)に使 節 は 東 京 に 到 着 し た。10月16日(9 月14日 ) に正使伊江王子,副使,賛議官は参上し,尚泰 の藩王「冊封」が行われた。

2.2 維新慶賀使日記

 前掲した大隈の回顧録には鉄道開業式を取上 げている。維新慶賀使はどのように当日の状況 を記録したのか。

 眞境名安興の『沖繩一千年史』には,「当時 の日記抄録」を以下のように引用している。

九月十二日,本日鉄道開業式に付 主上出御あ らせらるゝを以て三使臣も罷在べき旨兼て指令 相成たれば,午前第八時三使伊地知貞馨同車,

礼服著用新橋ステーションに到り 天顔を拝し 奉り,継で副車に供奉横浜に赴く。式終り午後 第一時帰館。再浜離宮へ相越し,園地拜見,延 遼館に於て茶菓を賜はり第四時帰館,堀江小録 同伴(12)

この史料は『琉球使臣上京書類』(13)から引用さ れたものと考えられる。しかし,日記の作者は 明らかではない。ちなみに,この日記には清国 使節に関しては,一切触れていない。

 那覇市立博物館には琉球処分関係の書類が所 蔵されており,その中には,同治拾壱年壬申,

明治五年『東京江御使者日記』(以下日記A)

と『正使伊江王子参京日記』(使参翁長里之子

親雲上明治五壬申七月廿七日より翌正月廿五日 迄)(以下日記B)がある。この二つの日記を 通して,鉄道開業式当日の状況をみてみよう。

日記A 同十二日

一鉄道御開業ニ付為御祝儀,正使副使賛議官罷 出候様,兼而外務省ヨリ御達有之候付,いつ 連茂琉冠服ニ而,伊地知貞馨殿一同新橋鉄道 寮参上

主上御光臨之砌,華族衆勅使衆御同列ニ而美御 迎仕

主 上蒸気車江被為召候付,御車下連之御後車 乗リ,横浜鉄道察着,於同所茂美御迎仕最前 之通御後車ヨリ新橋鉄道寮帰り

主上御帰城被遊候付,帰服猶右着替而延遼館 罷出煙火見物候事

 附役々士従色衣着下供者旅館諸之官員衆同伴 ニ而,新橋鉄道寮罷出

  御開車拝見被仰付候也 日記B

同十二日

一横濱江之鉄道開業付,外務省被仰ニ依,今日 五ツ半時分,王子副使賛議官琉御冠服ニ而伊 地知状之丞殿御一同,新橋鉄道館御越 主上御光臨之砌勅任衆御同列ニ而美御迎追付 主 上蒸気車御乗被遊候付,猶又勅任衆御一同

御跡之蒸気車江御乗被成,横濱鉄道館御着,

一刻御休息ニ而 還御之砌最前之通美御迎被 御勤新橋鉄道館御帰

主上御帰城被遊,七ツ時分御帰館御着替而,猶 又延遼館御出煙火御覧,早速御帰被成候事   附役々末々江者色衣着ニ而新橋鉄道館

越致拝見候也(読点 筆者)

 以上,維新慶賀使の日記を引用した。二通の 日記の記述は大体同じである。残念ながら基本 な情報しか記録しておらず,外国使節に関する 記録は見当たらない。

(6)

2.3 鉄道開業式と使節の邂逅

 10月11日(9月9日)に予定された新橋― 横浜間鉄道開業式は天候のため,10月14日(9 月12日)に延期された。この日,列車は10時に 新橋から発車し,片道53分で目的地の横浜に到 着した。そこで開業式が行われた。12時に横浜 から発車し,午後1時にまた新橋で開業式が開 かれた。

 鉄道開業式が順調に挙行されるため,日本政 府は前もって次のように布達した。

外国諸公使ヲ本日同所ニ招請ノ書翰ヲ外務卿ヨ リ贈ル事。(公使ニ列スル官位ノ外国人居合サ ハ同様招請ノ事)(14)

 ちょうど清国からやってきた使節陳福勲もそ の招請の対象になったのであろう。

 9両編成の列車の「列立次第」(15)を参考すれ ば分かるように,天皇,山尾庸三工部少輔,井 上勝鉄道頭以下百官,各国公使,維新慶賀使が 乗車した。乗車した維新慶賀使は琉球正使伊江 王子,副使と賛議官からなっており,7号車に 席があった。ちなみに,この「列立次第」には 清国使節が入っていないことが分かる。

 開業式当日に双方使節が出会った可能性は十 分考えられる。陳は乗車の一員になっていな かったが,開業式に出席した確率が高い。ちな みに,開業式の日に太政官通達により,諸官員 は休暇を与えられた。陳福勲はこの重要な行事 に顔を出す可能性が高い。日本政府は当時,清 国側の態度を探るため,清国使節と琉球の維新 慶賀使を出会わせることとしたことも十分想像 できる。

3 日本の琉球政策と清国の琉球に対す る態度

 鉄道開業式の日に,清国使節と維新慶賀使と 邂逅したのは十分可能であると筆者は判断して いる。このことにより,どのような琉球政策を 見出すことができるのか。

 まず,日本政府は清国の存在を十分配慮して いる。

 6月22日,琉球側の三司官宜野湾親方等は琉 球派遣中の伊地知貞馨,奈良原幸五郎等と会見 し,その場で,明治政府からの維新慶賀使派遣 という内容の内訓を知らされた。達文の中には

「東京は,外國及支那人入組御懸念有之筈候得 共雑沓の場所柄外々え不相響様の仕向は,如何 様共可相調候間,其段は御安心可有之候」(16)と いう内容が書かれている。つまり,日本政府は 琉球と清国との関係を配慮し,琉球を不利な状 況に置かないように約束した。

 さらに,慎重な取り扱いをした日本政府は,

清国使節が日本を去る翌日に,琉球藩王の「冊 封」を行ったのである。維新慶賀使が上京して から13日までの間には,日本政府は「参上」の ことについて一切通達をしなかったようであ る。15日に,維新慶賀使に「翌日参上」という  (東京横浜間鉄道開業式写真 

宮内庁宮内公文書館所蔵 識別番号 32235) 

(7)

内容の勅令が下された。15日はちょうど「冊封」

の前日であり,清国使節の帰国する日である。

「冊封」の日にちから,日本政府が清国の存在 を十分配慮し,さらに急いで「藩王冊封」を現 実化させたいという気持ちであったことを窺う ことができよう。

 つぎに,日本政府は西洋使節の前で,琉球の 所有をアピールした。日本は鉄道開業式を上手 に利用し,維新慶賀使を登場させた。

 一方,清国側は琉球問題に対し,どのような 政策,態度を表したのか。

 まず,陳は報告書には琉球に関する報告を書 かなかった。陳はこの事件が自分の役目と関係 はないと考えたのであろう。

 次に,清国側が周辺地域を守る意識は薄い。

横浜ジャパン・ヘラルド新聞は10月16日(9 月14日)に,琉球藩王「冊封」について,以下 のように報道した。「今度琉球ノ使節東京ニ来 リシニ因リ,其国主数百年前ヨリ保有セシ琉球 国王ノ名号ヲ廃シテ,華族即チ日本世襲ノ貴族 ノ名号ヲ得ヘシ,蓋シ此儀ハ右使節既ニ承諾シ タレトモ猶其国主ノ承諾シタル上ニ非レハ,確 定ナル可カラス」(17)。この新聞は上海で流通し ていた。清国側この情報を見落としたのだろう か。さらに,その後,日本使節と交渉した際,

琉球のことについて,積極的に問い合わせをし なかった。清国側は琉球藩王「冊封」の情報を 入手できたにもかかわらず,重要視をしなかっ たようである。清国は琉球問題処理について,

最初から手が遅れたと言わせざるをえない。

 以上,日清両国が琉球に対する異なる政策,

対応をしていたことをまとめた。この異なる政 策,対応から,琉球の運命を示唆することがで きよう。さらに,清国側がその後の台湾出兵,

琉球処分問題の解決において,「受身の立場」

に置かれることになることも推測できよう。

むすびにかえて

 本稿は1872年における清国使節と琉球維新慶 賀使の東京での邂逅を土台にし,明治初期にお ける日清両国の琉球問題に関する異なる態度,

政策の一面を検討した。しかし,史料不足のた め,1872年清国使節と維新慶賀使との邂逅をよ り鮮明に再現することはできなかった。

 日本側は琉球問題を処理するには慎重で,清 国の立場を配慮していたわけである。琉球問題 を処理する際,欧米列国の存在を上手に扱おう としている。つまり,鉄道開業式を絶好の機会 だと考え,琉球が自国の一部分であることを各 国の前で宣伝した。

 一方,陳はマリア・ルス号事件を処理するた め,来日した。10月15日(9月13日)に清国 人難民を連れて帰国したため,藩王「冊封」の 儀式を見聞することはできなかった。しかし,

鉄道開業式の当日,陳は維新慶賀使に出会った 可能性がある。換言すれば,日本政府の戦略と して,意識的に両方を邂逅させ,陳の反応を窺 おうとしたのであろう。

 日本側は清国の反応を探りながら,着々と琉 球問題を処理していたが,清国は依然として,

「天朝大国」の夢から覚めようとはしなかった。

その後,日本側は着々と琉球処分を行った。清 国はこれに対していかに反応し,対応したの か,稿を改めて論じていきたい。

〔投稿受理日2011. 6. 18 /掲載決定日2011. 6. 30〕

⑴ 本稿では便宜上,新暦を用いる。必要に応じて は括弧中でそれぞれ旧暦を付け加える。なお,中

(8)

国語の訳文は筆者の訳したものであり,史料を引 用する際,旧字を新字に変換し,適宜に句読点を つけた。

⑵ 1872年,明治政府が尚泰を琉球藩王に封じる「冊 封」は中国の周辺地域に対する冊封とは違う。本 稿では「 」をつけて,それを区別する。

⑶ 「副島大使適清概略」外務省外交史料館 文書番 号A03030099200 同じ史料は『副島明治文化全集』

(11巻: 64頁)にも収録している。

⑷ 『華工出国史料汇编』第1辑 中国官文书选辑

(三)の中で南洋大臣何璟は陳福勲が「中国官員到 日本之第一次」だと述べた。同じような表現が総 理衙門の返事でも見られる。

⑸ 『清史稿』巻160 志135。

⑹ 『上海名人辞典』295頁。

⑺ 『明治文化全集』64頁。

⑻ 「南洋大臣何璟为派员往日查办秘轮华工事业已 办竣领回华人到沪致总署咨文」同治11年10月9日

『華工出国史料汇编』(三) 993頁。

⑼ 『華工出国史料汇編』987頁。

⑽ 『大隈重信關係文書』469頁。

⑾ 『華工出国史料汇編』988頁。

⑿ 『沖繩一千年史』620頁。

⒀ 『琉球関係雑件・琉球使臣上京書類』外務省外交 史料館 文書番号B03041137400。

⒁ 『法令類纂』巻之71 鉄道部 東京都公文書館所 蔵「鉄道開行ニ付御布達ノ事」画像番号148。

⒂ 『日本国有鉄道百年史』第1巻 1969年 日本国 有鉄道大日本印刷株式会社 96頁。

⒃ 『尚泰候実録』195頁。

⒄ 早稲田大学古典籍 琉球国王称号廃止等ノ記 事[書写資料]/ジャパン・ヘラルド新聞 明治5

[1872]。

参考文献

西里喜行 1990「冊封体制の解体と清末知識人の東 アジア認識―台湾・琉球・越南・朝鮮問題を通し て―」研究成果報告書

『明治文化全集』第11巻外交篇 1928 明治文化研究 会 日本評論新社

『大隈重信關係文書』第2巻 1933 日本史籍協會

『華工出国史料汇編』第3冊 陈翰苼主编 中国第一 歴史档案馆

『大日本外交文書』第5巻 外務省調査部編纂 1939

日本国際協会

『幕末維新の領土と外交』安岡昭男 2002 清文堂

『沖繩一千年史』眞境名安興 1923 栄光出版社

『尚泰候実録』東恩納寛惇著 1971年 原書房

『法令類纂』巻之71 鉄道部 東京都公文書館所蔵史 料番号 632. B3. 21

『東京江御使者日記』那覇市立博物館 638号

『正使伊江王子参京日記』那覇市立博物館 640号

『上海名人辞典』呉成平 2001 上海辞书出版社

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参照

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