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On the Fang 坊 system of Zhang-an 長安 and itsorganization of the public peace in the TangPeriod

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

On the Fang 坊 system of Zhang-an 長安 and its organization of the public peace in the Tang Period

室永, 芳三

https://doi.org/10.15017/24509

出版情報:九州大学東洋史論集. 4, pp.1-19, 1975-10-31. The Association of Oriental History, Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

二 坊制の動揺と治安機構

 長.安城の都市的発展は︑唐中期︑玄宗時代に入ってから目覚ましいものがあった︒城邑民の大膨張︑それと相並行していた商

工庶民階級の経済的台頭は︑この時代を彩る顕著な社会現象である○つまり︑長安城は政治都市消費都市としての性格に︑新た

に経済都市としての要素が加味されてきたのである︒日野博士は﹁唐代邸店の研究﹂の中で︑長安城のこうした発展過程を克明

に論証せられている○これによれば︑長安が建国百余年を経た玄宗時代に至って︑急速液発展をみせるのは︑これまで最大の悩

みとなっていた関内の食糧事情が︑開元二十︸年の斐耀卿の転搬漕法によって一挙に解決されたこと︑更には大運河の輸送能力

の拡大が遠距離間商業の発展をもたらしたためであるとされる︒そして商工庶民階級の目覚しい経済的台頭の経過を考察され︑

強い官僚統制の枠の中に︑久しく沈滞してきた市民生活が︑新たな生気を息吹かせ︑旧体制の殻を下から突破すべき革新のエネ

ルギーを蓄積していったことを明らかにされた︒      .       ︐

 こうした新たな時代の趨勢は︑治安本位に徹した土木構造としての城坊制を動揺させ︑また︑厳格な法禁による城邑生活の強

い規制を弛緩せしめることとなった︒これらについては︑宮崎博士が︑向街門戸の特権者の増加による坊の構造形態の変質化を

指摘され︑坊の封鎖性が大きく弛み始めたことに言及された⑭oまた︑日野博士は︑坊内の商業活動の実体を究明され︑その発

展が城邑生活の規制を弛緩せしめていったことを指摘されている@︒長い伝統に立つ城坊制は︑この両面が深くかかわり合って

崩壊の方向に進んで行くのである︒

 では︑城坊制の上に組織されていた長安の治安機構は︑これにどう対応したのであろうか︒京兆府は︑まず城邑人口の急速な

膨脹化によって︑秩序体制をその足下で脅かされることとなった︒それは入口増加が経済的発展に大きく支えられていたため︑

商工業に依存する浮寄流寓の労働者や無頼・乞食など都市下層民が里民中に大きな比重を占めるに至り︑秩序体制が犯され始め

一一@1一

唐都長安城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶

唐 都 長

と 安 機 構 安 城

坊 制

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下 治

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永 坊 制 の 動 揺 と 治 安 機 構 長安城の都市的発展は︑唐中期︑玄宗時代

K

入ってから目覚ましいものがあった︒城邑民の大膨張︑それと相並行していた商 工庶民階級の経済的台頭は︑この時代を彩る顕著左社会現象である︒つまり︑長安城は政治都市消費都市としての性格

K︑新たK

経済都市としての要素が加味されてきたのである︒日野博士は﹁唐代邸庖の研究﹂の中で︑長安城のこうした発展過程を克明

K

論証せられている︒とれ

K

よれば︑長安が建国百余年を経た玄宗時代

K

至って︑急速左発展をみせるのは︑とれまで最大の悩 みと左っていた関内の食糧事情が︑開元二十一年の蓑耀卿の転搬漕法

Kよって一挙K

解決されたとと︑更

K

は大運河の輸送能力 の拡大が遠距離間商業の発展をもたらしたためであるとされる︒そして商工庶民階級の目覚しい経済的台頭の経過を考察され︑

強い官僚統制の枠の中

K︑久じく沈滞してきた市民生活が︑新た左生気を息吹かせ︑旧体制の殻を下から突破すべき革新のエネ ルギーを蓄積していったととを明らか

K

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た︒

とうした新たま時代の趨勢は︑治安本位

K徹した土木構造としての城坊制を動揺させ︑また︑厳格左法禁

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よる城邑生活の強 い規制を弛緩せしめるととと左った︒とれら

K

ついては︑宮崎博士が︑向街門戸の特権者の増加

K

よる坊の構造形態の変質化を 指摘され︑坊の封鎖性が大きく弛み始めたとと

K言及された③︒また︑日野博士は︑坊内の商業活動の実体を究明され︑その発 展が城邑生活の規制を弛緩せしめていったととを指摘されている@︒長い伝統

K立つ城坊制は︑との両面が深くかかわり合って 崩壊の方向

K進んで行くのである︒

では︑城坊制の上

K組織されていた長安の治安機構は︑とれ

K

どう対応したのであろうか︒京兆府は︑まず城邑人口の急速ま 膨脹化

K

よって︑秩序体制をその足下で脅かされるととと左った︒それは人口増加が経済的発展

K大きく支えられていたため︑

商工業

K

依存する浮寄流寓の労働者や無頼・乞食左ど都市下層民が城民中

K

大き左比重を占める

K至

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︑秩序体制が犯され始め

唐都長安城の坊制と治安機構(下)

(室

永)

(3)

唐都長安城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶

たからである︒いま︑長安城内に流入した浮寄流寓の実数は明らかでないが︑長安志巻十西市の条の註に︑街西五十四坊と

西市とを管轄する長安県の戸数を挙げて︑

  長安県︒所領四万余戸︒比万年為多︒浮寄流寓不可勝計︒

とあbノ︑長安県の所領は四万全戸で︑万年県より多かったこと︑そして四万余戸の中には︑おびただしい浮寄流寓は入っていな

いことを記している︒ここにいう浮寄流寓とは︑郷村からの浮逃の徒を含む都市下層民のことであろう︒彼等は自己の土地や家

屋をもたない無産戸で︑所謂︑富戸といわれるものである︒一般に客戸の戸数は︑土戸数の六七割以上に達しているとされるか

ら︑長安県内の客戸数は二万五千以上あったと思われる︒これらの他︑玄翁に漏れた早漏土戸もかなりいたことは疑いない︒い

ま︑これも含めると︑計上の四万余とほぼ匹敵していたかもしれない⑳oとすれば︑= 当り五人として︑掛戸は約十二万五千

人以上︑これに隠漏土戸を加えれば︑二十万人前後となる︒こうした状況は︑万年県に噴いても︑相似たものであったとみなけ

ればならない︒この長安志に記すところは︑玄宗の開元十年頃の状態である︒当時の長安の戸口総数は︑土客合して約十五万乃

至二十万とされている︒ほぼ百万人に近い人口総数である︒佐藤武敏教授は︑その内容を土戸は約八万戸で約四十万人置兵士約

十万入︑僧侶約五万人︑残り四十五万人は客戸と賎民階級などであると推定している⑭︒開元二十一年を過ぎると︑先述した如

く︑長安は充実躍増の大発好期に入る︒そして天仁三年には︑戸数が二十万を越していたことが確められ︑憲宗の元和に入ると︑

三十万級に達していたという︒人口総数百五十万人以上である⑳︒ともあれ︑開元十年頃︑既におびただしい数の浮寄流寓の徒

が存在していたのであるから︑その後の急速な増大も推察せられよう︒

 これら浮.寄流寓者の生活様態について︑日野博士は︑乞食・遊侠・無頼の徒食から︑役者・大道芸人や荷負い・車力・屠殺の

雇傭生活者など雑多な生活を過していたが︑その居住形態は︑一ケ所に集り住む傾向を持っていたとして︑客意坊の存在を指摘

されている⑱︒面戸坊とは︑浮言流寓者の集住していた坊の俗称で︑スラム街的な所であったという︒客戸坊の名は︑当時の小

説類にかなり見出される⑭oその事例の多くは︑唐後半期のものであるが︑時代的に蘇ると︑武后時代からみられる︒太平広記

巻二六三 無頼部・飛騎席入の項に︑朝野食載に出ずとして︑

  則天之廃盧陵也︒飛騎十余人︒於客戸坊同飲︒

とあるのが︑それである︒資治通馬巻二〇三では︑これを武后の光宅元年二月のこととし︑客乙張を﹁坊曲﹂と記すだけで︑そ

一2一

唐都長安城の坊制と治安機構(下)

(室

永)

た か ら で あ る

︒ い ま

︑ 長 安 城

内K

流入した浮寄流寓の実数は明らかでまいが︑長安志 西市とを管轄する長安県の戸数を挙げて︑

長安県︒所領四万余戸︒比万年為多︒浮寄流寓不可勝計︒

と あ り

︑ 長 安 県 の 所 領 は 四 万 余 戸 で

︑ 万 年 県 よ り 多 か っ た と と

︑ そ し て 四 万 余 戸 の

中K

は︑台びただしい浮寄流寓は入ってい左 いととを記している︒とと

K

いう浮寄流寓とは︑郷村からの浮逃の徒を含む都市下層民のととであろう︒彼等は自己の土地や家 屋 を も た 左 い 無 産 戸 で

︑ 所 謂

︑ 客 戸 と い わ れ る も の で あ る

︒ 一

般K

客戸の戸数は︑土戸数の六七割以上

K

達しているとされるか ら

︑ 長 安 県 内 の 客 戸 数 は 二 万 五 千 以 上 あ っ た と 思 わ れ る

︒ こ れ ら の 他

︑ 籍

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いたととは疑い左い︒い ま

︑ と れ も 含 め る と

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︒ と す れ ば

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五人として︑客戸は約十二万五千

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0

とうした状況は︑万年県

k bいても︑相似たものであったとみ左け れ ば ま ら 左 い o と の 長 安

志K

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ζ

ろは︑玄宗の開元十年頃の状態であるo当時の長安の戸口総数は︑土客合して約十五万乃 至 二 十 万 と さ れ て い る

︒ ほ ほ 百 万

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近い人口総数である︒佐藤武敏教授は︑その内容を土戸は約八万戸で約四十万人︑兵士約 十 万 人

︑ 僧 侶 約 五 万 人

︑ 残

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四十五万人は客戸と賎民階級左どであると推定している@o開元二十一年を過ぎると︑先述した如 く

︑ 長 安 は 充 実 躍 増 の 大 発 展

期K

入るoそして天宝三年

K

は︑戸数が二十万を越していたととが確められ︑憲宗の元和

K

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と︑

三 十 万

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達していたというo人口総数百五十万人以上である@oともあれ︑開元十年頃︑既

k bび た だ し い 数 の 浮 寄 流 寓 の 徒 が存在していたのであるから︑その後の急速左増大も推察せられよう︒

とれら浮寄流寓者の生活様態

K

ついて︑日野博士は︑乞食・遊侠・無頼の徒食から︑役者・大道芸人や荷負い・車力・屠殺の 雇 傭 生 活 者 左 ど 雑 多 左 生 活 を 過 し て い た が

︑ そ の 居 住 形 態 は

︑ 一 ク 所hyK集住む傾向を持っていたとして︑客戸坊の存在を指摘 さ れ て い る

⑧ o 客 戸 坊 と は

︑ 浮 寄 流 寓 者 の 集 住 し て い た 坊 の 俗 称 で

︑ ス ラ ム 街 的 左 所 で あ っ た と い う o 客 戸 坊 の 名 は

︑ 当 時 の 小 説類

K

か左り見出される③oその事例の多くは︑唐後半期のものであるが︑時代的忙瀕ると︑武后時代からみられるo太平広記 巻 二 六 三 無 頼 部

・ 飛 騎 席 人 の

項K

︑ 朝 野 余

K載出ずとして︑

則天之廃虚陵也︒飛騎十余人︒於客戸坊同飲︒

と あ る の が

︑ そ れ で あ る o 資 治 通 鑑 巻

O

三では︑とれを武后の光宅元年二月の

ζ

ととし︑客戸坊を﹁坊曲﹂と記すだけで︑そ

巻十

西市の条の註

K

︑街西五十四坊と

4

(4)

の正式の事事が何であったかは明らかでない@︒だが︑武后のこの頃は︑未だ遠位の延期は居民空疎の地であったというから︑

近市の坊のいつれかであったろう︒また︑浮寄流寓はたとえ寄合って居住しても︑特定の一つの坊に固定されたものとは考えら

れない○恐らく多くの坊内に分散していたと思われる︒こうした客戸坊の発生とともに︑坊内の浮図流寓の増加によって︑坊の

官製的な自治組織がどれだけ機能したかは疑問であろう○新唐書 巻一八九・高仁厚伝に︑

  先是︒京師有不肖子O皆著畳研磨持挺︒壁心里︒号閑子︒京兆サ始為事︒轍殺尤者︒豊富轟轟︒里言治京兆︒至嘱数十百人︒

  梢梢揮哉︒

とあり︑また︑同書巻一九七・醇元賞伝に︑

  会昌中︒中略︒拝京兆サ︒都市三盛少年︒以側溝鋸膚︒脊金力剥劫奮闘︒元生到府三日︒収出漁︒杖死三十余輩︒陳諸市︒

  余党擢︒

とあって︑京兆サが任務につく時︑まず坊聞を脅かしていた不肖子・閑子・侠少年などの無頼を殺し︑或いは弾圧したことがみ

えている︒これは坊の自治的な治安⁝機能が弱体化したことを認識した京適合が︑弾圧政策なしには安定した秩序維持は覚束左い

という危機感を持ったためであろう○三会要 巻七二・軍雑録及び宣下元亀 巻六四・帝王部・発号令には︑代宗の大暦十二年

十月︑京畿内で武器を持して狩猟することを禁じ︑ついで徳宗の貞元八年六月︑京城内の士庶の家にある武器を没収し︑その所

蔵を禁じたことがみえる︒また︑憲宗の元和元年三月には︑再び京城内で武器を持して歩行することを禁じ︑同六年三月には︑

その禁令を禁軍将卒にまで及ぼすとともに︑王公貴族の狩猟具も禁断している○更に文宗の太和元三十﹂月には︑坊曲に語いて

習射することを禁じ︑宣宗の大中六年九月には︑坊市の尼坊・客院に武器を置くことを禁じて︑これを没収したことがみえる︒

このような新たな治安政策の展開は︑その前提として︑長安城の治安体制の変質化を物語るものであろう︒

一一@3一

 1 巡使・街使の機構

 玄宗時代における治安機構の強化策は︑二つの側面からなされたといえよう〇一つは坊内の秩序体制の補強であり︑いま一つ

は野外の街路への警備強化であった︒そしてそのために創置された機構が巡使と牛使である︒資治通鑑 巻雲三九・黒道・憲宗

・元和十一年十一月庚子の条に︑京兆サ柳公緯が置据軍の小将を杖殺した件について︑憲宗が詰問したことを述べ︑︑

 唐都長衷城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶ の正式の坊名が何であったかは明らかでまい@︒だが︑武后のとの頃は︑未だ遠市の諸坊は居民空疎の地であったというから︑近市の坊のいづれかであったろう︒また︑浮寄流寓はたとえ寄合って居住しても︑特定の一つの坊に固定されたものとは考えられまい︒恐らく多くの坊内

K

分散していたと思われる

0とうした客戸坊の発生とともK

︑坊内の浮寄流寓の増加

Kよって︑坊の

官製的ま自治組織がどれだけ機能したかは疑問であろう︒新唐書巻一八九・高仁厚伝

K︑

先是︒京師有不向円子︒皆著畳帯冒持挺︒剰闘里︒号関子︒京兆手始視事︒轍殺尤者︒以怖其余︒賓清治京兆︒至殺数十百人︒

精精揮戟︒

と あ り

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︑ 同 書 巻 一 九 七

・ 蒔 元 賞 伝

K︑

会畠中︒中略︒拝京兆手︒都市多侠少年︒以黛墨鋒膚︒苓誌力剰劫坊問︒元賞到府三日︒収悪少︒杖死三十余輩︒陳諸市︒

余党懐︒

とあって︑京兆ヰアが任務Kつ︿時︑まず坊闘を脅かしていた不出円子・関子・侠少年左どの無頼を殺し︑或いは弾圧したととがみ

えている︒とれは坊の自治的ま治安機能が弱体化した

ζ

とを認識した京兆府が︑弾圧政策左し

K

は安定した秩序維持は覚束左い という危機感を持ったためであろう︒唐会要巻七二・軍雑録及び冊府元亀巻六四・帝王部・発号令

K

は︑代宗の大暦十二年 十月︑京畿内で武器を持して狩猟するととを禁じ︑ついで徳宗の貞元八年六月︑京城内の士庶の家

K

ある武器を没収し︑その所 蔵を禁じたととがみえる︒また︑憲宗の元和元年三月

K

は︑再び京城内で武器を持して歩行することを禁じ︑同六年三月

K

は ︑ その禁令を禁軍将卒

Kまで及ぼすとともK

︑王公貴族の狩猟具も禁断している︒更

K

文宗の太和元年十一月

Kは︑坊曲K沿いて

習射することを禁じ︑宣宗の大中六年九月

K

は︑坊市の車坊・客院

K武器を置くととを禁じて︑とれを没収したととがみえる︒

このようま新た左治安政策の展開は︑その前提として︑長安城の治安体制の変質化を物語るものであるう︒

‑3一 巡使・街使の機構

玄宗時代

k bける治安機構の強化策は︑二つの側面から左されたといえよう︒一つは坊内の秩序体制の補強であ

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︑いま一つ は坊外の街路への警備強化であった︒そしてそのため

K

創置された機構が巡使と街使である︒資治通鑑巻二三九・唐紀・憲宗

・元和十一年十一月庚子の条K

︑京兆予柳公縛が神策軍の小将を杖殺した件

Kついて︑憲宗が詰問したととを述べ︑

唐都長安城の坊制と治安機構(下)

(室

永)

(5)

 唐都長安城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶

  上半︒切痔奏︒対日ゆ臣職当杖之︒不当奏︒上家︒層誰当奏者︒β対日ゆ本軍日干︒若死於街衝︒金吾街心当奏︒在坊内心右下

  使当奏9

とあり︑街使と巡使の別を述べ︑早使は専ら域外の街路上の警察を担当し︑駅使が坊津に対する責任者で㊧つたという︒摘使は

金吾衛の武官より出で︑巡使は御史台の御史が任じられたもので︑ともに政府に所属する機構であった︒

 ④ 巡使の機構と機能

 御史台は︑主として官吏に対する弾劾糾療の機関として設けられたものであ喝ゆ唐初は一台であったが︑武后以後︑台院.殿

院・察院の三院組織をとった〇三院には︑︑それぞれ︑侍御史・殿中侍御史・監察御史が属し︑御史大夫がこれを統轄七たのであるO

このうち︑地方官の監察のため︑朝廷から外部に派遣されるのが監察御史である⑳︒濫察御史榔京兆府管轄下の諸県を巡察する

とき弦︑これを左右巡に回ったようであるっ新唐書 巻四八︒百官志.御史台の条によれぜ︑ビ

  監察御史ゆ中略︒分左右巡︒糾察違失︒焼亡知京城内︒右巡知京城外︒尽雍洛二州之境︒月一代︒云云︒

とあって︑左回が京城内を︑右巡が京城外を管掌したとするρ通商 巻二四・職官・御史台・監察御史の条によれば︑

  分為左右巡︒電髪楽曲O以承天・・朱雀街宣界O毎月一代O将晦即巡刑部・大理・漕東西徒坊・金吾及斜影︒.若蒐肉瘤監査O察

  断絶失禽者○三三劾奏︒開元初回O以殿中掌左右巡0監察或権掌之O非本任也9

とあり︑左右巡は京城内の承天・朱雀街を以って分ったことがみえている○しかしこれは刑部・大理事・金吾・当直のみならず︑

東西徒坊に至るまでを査察の対象としたことからみて庵︑時期的には︑殿中侍御史に左右巡が移っ−た開元初年に近い頃の職掌で

あったと思われる︒元来︑監察御史の職掌は︑一般庶民を糾察するのではなく︑内外官僚を監察するのが本来の任務であったの

である⑰︒︑

 さて︑御史台の左右巡の出仕に大きな改革が加えられたのは︑玄宗の調元初年のことである︒それな開泥以後︑殿中侍御史が

左右巡を漏するとととなリハ監察御史のこの職が廃せられたという点に集中的にあちわれている○殿中侍御史は殿廷供奉の儀式

を糾すことを掌るものであっ允⑬︒それが玄宗の開元初年︑殿中から外に出ることとなったのである︒恩典・巻二四.職官.御

史台・殿中侍御史の条によれば︑

  初廊廟出於歯簿︒内廓察非違ρ余同侍御史○唯不判事︒威亨以前︒遷転及職事二者御史相亜○自開元初以来○粛粛侍御史O

一4 一一

唐都長安城の坊制と治安機構(下)

(

)

上目︒何不奏︒対日︒臣職当杖之o不当奏︒上回o誰当奏者︒対日︒本軍当奏︒悲死於街衛

O

金吾街使当奏︒在坊内左右巡

使当奏︒

とあり︑街使と巡使の別を述べ︑荷使は専ら坊外の街路上の警察を担当し︑巡使が坊内

K対する責任者であったという︒街使は 金吾衛の武官よタ出で︑巡使は御史台の御史が任じられたもので︑とも

K政府K所属する機構であった︒

的 巡 使 の 機 構 と 機 能 御史台は︑主として官吏

K

対する弾劾糾察の機関として設けられたものである

O

唐初は一台であったが︑武后以後︑台院・殿

院・察院の三院組織をとった︒一二院Kは︑それぞれ侍御史・殿中侍御史・監察御史が属し︑御史大夫がとれを統轄したのである︒

このうち︑地方官の監察のため︑朝廷から外部

K

派遣されるのが監察御史である⑪︒監察御史が京兆府管轄下の諸県を巡察する ときは︑とれを左右巡

K

分ったようである︒新唐書巻四八・百官志・御史台の条

K

よれ

ば︑

監察御史︒中略︒分左右巡︒糾察違失︒左巡知京城内︒右巡知京城外︒尽潅洛ニ州之境︒月一代︒云云︒

とあって︑左巡が京城内を︑右巡が京城外を管掌したとする︒通典巻二四・職官・御史台・監察御史の条

K

よれ

ば︑

AM

為左右巡︒糾察違失︒以承天・朱雀街為界︒毎月一代︒将晦即巡刑部・大理・東西徒坊・金吾及県獄︒若蒐狩則監因︒察 断絶失禽者︒旦一旦宜劾奏︒開元初革︒以殿中掌左右巡︒監察或権掌之︒非本任也J

とあり︑左右巡は京城内の承天・朱雀街を以って分ったととがみえている︒しかしとれは刑部・大理寺・金吾・県獄のみ左らず︑

東西徒坊

K

至るまでを査察の対象としたことからみても︑時期的

K

は︑殿中侍御史

K

左右巡が移った開元初年

K近い頃の職掌で

あったと思われる︒元来︑監察御史の職掌は︑一般庶民を糾察するのでは左く︑内外官僚を監察するのが本来の任務であったの

である⑫︒

きて︑御史台の左右巡の出使

K大きま改革が加えられたのは︑玄宗の開一冗初年のととである︒それは開元以後︑殿中侍御史が

左右巡を知するととと左

hy

︑監察御史のとの職が廃せられたという点

K集中的

K

あらわれている︒殿中侍御史は殿廷供奉の儀式 を糾すことを掌るものであった@︒それが玄宗の開元初年︑殿中から外

K

出ることとまったのである︒通典・巻二四・職官・御 史台・殿中侍御史の条

K

よれ

ば︑

初掌駕出於歯簿︒内糾察非違︒余同侍御史︒唯不判事︒威亨以前︒遷転及職事与侍御史相亜︒自開元初以来︒権帰侍御史︒

‑4‑

(6)

  而遷転猶同0兼知庫蔵出納及宮門内事︒知左右巡分︒京畿諸豊沼衛兵皇霊焉O弾挙白失O号為厳重O

とあり︑殿中侍御史は︑初め宮廷・歯簿・禁衛についての非違を糾察する外は侍御史と同じであったが︑刑獄は推寵しなかった︒

それが開元初より︑侍御史の権限の拡大とともに︑庫蔵の出納から京城内の巡察︑更には京畿諸州の禁軍も管轄下に置き︑刑獄

をも分掌して争端とも称せられたという○これによれば︑開元初年︑殿中侍御史が左右巡に任じられたことにより︑左右巡その

ものの職権にも伸張があったことに左る○

 開元初は︑玄宗が意欲的に政治の刷新を図った時期である︒地方行政の督察のため︑巡察使や照察使が多く派遣されている︒

殊に︑京畿地域については︑開元十年に京都両畿按察使︵二十二年に採訪使︶が置かれた⑫oこれには御史中丞が充てられ︑ ﹁

京畿采訪使︒治西京城内﹂④とみえ︑御史中丞が長安城内の秩序体制を総轄したのである○資治通鑑 巻二三九・唐紀・憲宗・.

元和十一年十一月庚子の条の胡弓に︑

  元和八年O ︵御史中丞︶最南山導︒古言巡御史状○以承平O旧制O両法本属台司○其所由毎月衙集︒動静申報○如所報差回︒

  挙勘悉在台中〇       一

とあり︑御史中丞は京師の治安の動静を掌握するため︑藤蔓御史を統轄しており︑更には両君使をも管轄していたことがみえて略

いる︒左右巡の職権は︑こうした御史中丞の治安行政への介入と深くかかわり合っている意味で特に重視しなければならない︒

左右巡使の職掌は︑前引用文に引続いて︑

  坊皆有垣有門O随昼夜鼓声︒以行啓閉○巡使掌左右街百坊之内O謹啓墓標濡者也O

とあり︑左右街百坊の内部を掌ったもので︑坊門の開閉もまたその責任であったという︒唐六典 巻=二・御史台・殿中侍御史

の条には︑

  虚説京城内O則分知左右巡○各察其所巡之内O有不法論罪0謂左降雷干・停匿不去・及妖説宿宥・蒲博・盗窃・言誤・・冤濫

  ・諸州綱典貿易・隠盗・賦敏不如法式O三三之類︒威諺語而奏之O云云O

とあり︑京城内を各々左街と寒湿とに分れて巡察し︑道内居民の生活に不法の事があれば賢察したのである︒査察の対象となっ

たのは︑流降人の停匿不去︑妖説・賭博・窃盗の風俗取締︑京府県の鐙摺・冤濫の糾察︑贈品の綱典貿易や賦敷の違法の督察に

まで至り︑︐その警察取締権は相当広範囲に及ぶものであった︒ここで注意すべきは︑左右巡使の職権が治安対策上から︑各室内

 唐都長安城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶ 而選転猶向︒兼知庫蔵出納及宮門内事︒知左右巡分︒京畿諸州諸衛兵禁隷罵︒弾挙違失︒号為副端︒

とあり︑殿中侍御史は︑初め宮廷・歯簿・禁衛Kついての非違を糾察する外は侍御史と同じであったが︑刑獄は推鞠し左かった︒

それが開元初より︑侍御史の権限の拡大とともK︑庫蔵の出納から京城内の巡察︑更Kは京畿諸州の禁軍も管轄下K置き︑刑獄

をも分掌して副端とも称せられたという︒これKよれば︑開元初年︑殿中侍御史が左右巡K任じられたととKよ夕︑左右巡その

ものの職権忙も伸張があったとと忙なる︒

開元初は︑玄宗が意欲的K政治の刷新を図った時期である︒地方行政の督察のため︑巡察使や按察使が多く派遣されている︒

殊医︑京畿地域Kついては︑開元十年K京都両畿按察使(一一十二年K採訪使)が置かれた@︒とれKは御史中丞が充てられ︑﹁

京畿采訪使︒治西京城内﹂@とみえ︑御史中丞が長安城内の秩序体制を総轄したのである︒資治通鑑巻二三九・唐紀・憲宗・

元和十一年十一月庚子の条の胡註K︑

元和八年︒(御史中丞)醇存誠奏︒得両巡御史状︒以承平︒旧制︒両街本属台司︒其所由毎月街集︒動静申報︒如所報差謬︒

挙勘悉在台中︒

とあり︑御史中丞は京師の治安の動静を掌握するため︑両巡御史を統轄してなb

︑更

Kは両街使をも管轄していたととがみえて

いる︒左右巡の職権は︑こうした御史中丞の治安行政への介入と深くかかわり合っている意味で特K重視し左ければまらない︒

左右巡使の職掌は︑前引用文K

引続

いて

坊皆有垣有門︒随昼夜鼓声︒以行啓閉︒巡使掌左右街百坊之内︒謹啓閉徴巡者也︒

とあb

︑左右街百坊の内部を掌ったもので︑坊門の開閉もまたその責任であったという︒唐六典巻一三・御史台・殿中侍御史

の条

K

は ︑

凡両京城内︒則分知左右巡︒各察其所巡之内︒有不法之事︒謂左降流移・停匿不去・及妖批宿脊・蒲博・盗窃・獄訟・・策濫

・諸州綱典貿易・隠盗・賦赦不知法式︒諸此之類︒威挙按而奏之︒云云︒

とあ

hy︑京域内を各々左街と右街とK分れて巡察し︑坊内居民の生活K不法の事があれば糾察したのである︒査察の対象と左っ

たのは︑流降人の停匿不去︑妖批・賭博・窃盗の風俗取締︑京府県の獄訟・賓濫の糾察︑諸州の綱典貿易や賦数の違法の督察K

まで至

hy︑その警察取締権は相当広範囲に及ぶものであった︒ととで注意すべきは︑左右巡使の職権が治安対策上から︑各坊内

‑5‑

唐都長安城の訪制と治安機構(下)

(室

永)

(7)

唐都長安城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶

の庶民層にまで及ぶようになった点である︒こうした警察業務は京府県の任務である︒とすれば︑必然的に呈上府との関連が問

題となる︒この点を明らかにするため︑次に左右巡使の機構と機能を検討してみたい︒

 左右巡使の官司である左右巡使院は︑御史台の中に置かれていた︒唐両京城坊考 巻一・西京・大明宮・御史台の註に︑

  由東入院門O首為中丞院︒次西雑事院0書置左右巡見院︒皆北向○故日御史北台O

とある○この左右国使院に殿中思量十二名が出向したのである︒殿中侍御史は︑知東推として太倉の出納を達する者一名︑知西

推として左筆の出納を監する者一名︑廊下筆使二名︑知左右巡二名の計六名からなり︑そのうち室名は供奉を兼ねていた@︒左

右巡は︑職掌身分からいえば︑東上・西推の推事㊨下で︑新人が当てられていた︒因話録巻五・単身・御史台の項に︑

  御史台子院︒中略〇二日殿院︒其僚日殿中侍御史︒連呼為侍御O中略︒最新入知中綿Q己早知左巡O十両駅使O塾主繁劇O

  及遷向上○則又入推︒益為労屑︒云云︒

とあり︑最新入者は蝶理を知し︑ついで左巡へと外廻りの両隣使を経験して︑推事へ移ったという︒推事の班位が高いのは︑推

鞠のような重大事には︑それなりの経験が必要とされたからであろう︒.新聖書 巻四八・百官志・御史台・侍御史の条によると︑

  前略︒以殿中掌左右巡︒尋以務劇︒選用京畿︵赤県︶㊨県尉︒

とみえ︑左右巡は劇務であって︑その任用には赤県︑即ち万年・長安両県尉から抜擢したというから︑これら抜擢された新人に

よって左右夕風院が運営されたのであろう○赤々の県尉の登用は︑有能な者が多いうえ︑京師内の治安体制に精通しているとい

う極めて実利的な点もあったと思われるが@︑これは制度的関連の一環聾して生じたともいえよう︒それは左右早使の機能が︑

御史台と京兆府の関連を密接ならしめるため︑或いはそれを具体化するためのものとも考えられるかちである︒唐会要 巻六二

・御史台・雑録の条に︑

  至︵開元︶二十一年三月十九日勅︒中略O左右巡御史O亦土定一人O︸季一替○並不得心換及早使O

とあり︑また︑.同書・同巻の旧事の条に︑

  天宝四載十二月十六日勅︒東西両推O及左右巡使O軽米司重務O比来墨差新人○耳翼改易︒既不経久O頗紫章程︒鄭重択的

  然公正精練者ρ令始末専知○不得軌替換○云云︒

とあるように︑左右出潮の職務の重要性は論ぜられるものの︑その実体は新人が転差される慣例のため︑任期中にも︑しばしば

一一U一

唐都長安城の坊制と治安機構(下)

(

の庶民層

Kまで及ぶようK在った点である︒こうした警察業務は京府県の任務である︒とすれば︑必然的K京兆府との関連が問 題と在る︒との点を明らか

Kするため︑次K左右巡使の機構と機能を検討してみたい︒

左右巡使の官司である左右巡使院は︑御史台の中

K

置かれていた︒唐両京城坊考巻一・西京・大明宮・御史台の註

K︑

由東入院門︒首為中丞院︒次西雑事院︒叉西左右巡使院︒皆北向︒故臼御史北台︒

とある︒との左右巡使院

K殿中侍御史二名が出向したのである︒殿中侍御史は︑知東推として太倉の出納を監する者一名︑知西

推として左蔵の出納を監する者一名︑廊下食使二名︑知左右巡二名の計六名から左hy︑そのうち三名は供奉を兼ねていた@︒左 右巡は︑職掌身分からいえば︑東推・西推の推事の下で︑新人が当てられていた︒因話録巻五・徴部・御史台の項

K ︑

御史台三院︒中略︒二日殿院︒其僚日殿中侍御史︒衆呼為侍御︒中略︒最新入知右巡︒己次知左巡︒号両巡使︒所主繁劇︒

及遷向上︒則叉入推︒益為労屑︒云云︒

とあり︑最新入者は右巡を知し︑ついで左巡へと外廻りの両巡使を経験して︑推事へ移ったという︒推事の班位が高いのは︑推

鞠のよう左重大事

K

は︑それ左りの経験が必要とされたからであろう︒新唐書巻四八・百官志・御史台・侍御史の条

K

よる

と︑

円 ︒

一 前 略

︒ 以 殿 中 掌 左 右 巡

︒ 尋 以 務 劇

︒ 選 用 京 畿 ( 赤 県 )

⑪ 県 尉

︒ 一 とみえ︑左右巡は劇務であって︑その任用

Kは赤県︑即ち万年・長安両県尉から抜擢したというから︑これら抜擢された新人K

よって左右巡使院が運営されたのであろう︒赤県の県尉の登用は︑有能走者が多いうえ︑京師内の治安体制K精通しているとい

う極めて実利的左点もあったと思われるが⑬︑とれは制度的関連の一環として生じたともいえよう︒それは左右巡使の機能が︑

御史台と京兆府の関連を密接左らしめるため︑或いはそれを具体化するためのものとも考えられるからである︒唐会要巻六二

.御史台・雑録の条K︑

歪(開元﹀二十一年三月十九日勅︒中略︒左右巡御史︒亦各定一人︒一季一替︒並不得改換及差使︒

とあり︑また︑同書・同巻の推事の条

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天宝四載十二月十六日勅︒東西両推︒及左右巡使︒皆台司重務︒比来転差新人︒数有改易︒既不経久︒頗素章程︒宜簡択的

然公正精練者︒令始末専知︒不得統替換︒云云︒

とあるようK︑左右巡使の職務の重要性は論ぜられるものの︑その実体は新人が転差される慣例のため︑任期中Kも︑しばしば

(8)

交替が行なわれて陥り︑果してどれだけの実効を得たかは疑問である︒忠良要 巻六〇・御史台・殿中侍御史の項に︑

  貞元十年四月勅○準六典O殿中侍御史O凡出京城内O分知左右巡O愚書法之事O中略O盛者因循O務求細事0下立煩砕O頗

  失大猶O宜令自今以後︒拠六典合爵商事O所司有隠蔽者︒即具状奏聞O其余常務O不善更聞︒

とあり︑徳宗の貞元十年頃には︑左右影干の任務が大猷を失してしまっているとし︑六典に準じて行うべきであるとみえている︒

つまり︑左右巡使が各坊の内部に入って督察することが容易でなく︑また御史のよくするところではなかったと思われる︒いま︑

左右巡使の機能に関する具体例をいくつか挙げてみると︑唐会要 巻八六・街巷・太和五年七月置条に︑  左右巡使奏○中略O非三品以上O及面内三絶O不合軌向街開門O各逐便宜O無所帯限O因循既記O約勒甚難O或鼓未動即先

  開︒或夜己字書閉︒致使吉言巡検︒人力難平︒亦令妊盗之徒︒易世説匿︒伏見諸司所有熱意︒多是雑賃︒得得整斉︒如三三

  絶者O請勒坊内開門O向街門戸︒悉令閉塞O云云O

とあり︑また︑同書は引続いて︑大中三年六月の条に︑

  右巡使奏︒義成軍節度使牽譲︒前任宮苑三日O故違勅文O干懐真坊西南害鳥子西O侵罫線聖母間︒勅旨O章譲侵街造舎O頗 一

とあって︑坊の構造を崩す不法な向街門戸の邸宅を検察して上奏したもの︒また︑全唐文・巻七〇一・李徳裕の﹁論喪葬蹄制疏﹂

の項に︑百姓の厚葬を取締るべきことを奏請して︑

  前略○凡喪皆有害第O恐或無知之人︒妄士官秩O自今以後︒除升朝早見任官亡捜外︒議官去事前五日︒須登霞告語臨界牒O

  於本案使言過O判押文状︒中略︒今後令両巡羽島拠官秩品級与判状︒其余一物以上︒不得増加︒兼勒駆使官与金吾司併門司

  同三三鈴︒如有三段蹄越︒即請拠罪科断︒云云︒

とある如く︑喪葬の査察に関与したものがみえる︒これらの業務の直接の責任者は京府県であろう︒例えば︑唐会要 巻八六・

街巷の項に︑

  大暦二年五月勅︒諸坊市街曲○有侵街打培O接客造二等︒先処分一切不許O並令毅折O宜委︵京兆サ︶⑭李勉常設勾当O如

  有犯者︒科違勅罪○兼須重罰︒

とある如くである︒更にはまた︑冊府元亀・巻一五三・帝王部・明罰・元和四年五月の条に︑

 唐都長安城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶ 交替が行まわれて

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︑果してどれだけの実効を得たかは疑問である︒唐会要巻六

0

・御史台・殿中侍御史の項K︑

貞元十年四月勅︒準六典︒殿中侍御史︒凡両京城内

o A H知左右巡︒其不法之事︒中略︒比者因循︒務求細事︒既甚煩砕︒頗

失大猶︒宜令自今以後︒拠六典合挙之事︒所司有隠蔽者︒即具状奏問︒其余常務︒不須更開︒

とあり︑徳宗の貞元十年頃Kは︑左右巡使の任務が大僻酬を失してしまっているとし︑六典K準じて行うべきであるとみえている︒

つまり︑左右巡使が各坊の内部K入って督察することが容易でまく︑また御史のよくするととろではまかったと思われる︒いま︑

左右巡使の機能K

関する具体例をいくつか挙げてみると︑唐会要巻八六・街巷・太和五年七月の条

K︑

左右巡使奏︒中略︒非三品以上︒及坊内三絶︒不合瓢向街開門︒各逐便宜︒無所拘限︒因循既久︒約勅甚難︒或鼓未動即先

開︒或夜己深未閉︒致使街司巡検︒人力難周︒亦令好盗之徒︒易為逃匿︒伏見諸司所有官宅︒多是雑賃︒尤要整斉︒如非三

絶者︒請動坊内開門︒向街門戸︒悉令閉塞︒云云︒

とあり︑また︑同書は引続いて︑大中三年六月の条K︑

右巡使奏︒義成軍節度使章譲︒前任宮苑使日︒故違勅文︒子懐真坊西南角亭子西︒侵街造舎九問︒勅旨o

意 譲 侵 街 造 舎

︒ 頗 一 越 旧 章

︒ 宜 令 致 折

︒ 寸 とあって︑坊の構造を崩す不法左向街門戸の邸宅を検察して上奏したもの︒また︑全唐文・巻七

O

一・李徳裕の﹁論喪葬輸制疏﹂

の項

K︑百姓の厚葬を取締るべきととを奏請して︑

前略︒凡喪皆有品第︒恐或無知之人︒妄称官秩︒自今以後︒除升朝官見任官亡残外︒余官去事前五日︒須除将告語或勅牒︒

於本巡使呈過︒判押文状︒中略︒今後令両巡使祇拠官秩品級与判状︒其余一物以上︒不得増加︒兼勅駆使官与金吾司併門司

同力轄鈴︒如有大段愉越︒即請拠罪科断︒云云︒

とある如く︑喪葬の査察K

関与したものがみえる︒とれらの業務の直接の責任者は京府県であろう︒例えば︑唐会要巻八六・

街巷の項K︑

大暦二年五月勅︒諸坊市街曲︒有侵街打塘︒接篇造舎等︒先処分一切不許︒並令致折︒宜委(京兆手)@李勉常加勾当︒如

有犯者︒科違勅罪︒兼須重罰︒

とある如くである︒更Kはまた︑冊府元亀・巻一五三・帝王部・明罰・元和四年五月の条K ︑

唐都長安城の坊制と治安機構(下)

(室

永﹀

(9)

唐都長安城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶

  長安県令鄭易○以檀於永平坊開渠O疑対州刺史O瑞兆サ立前O︐以不当奏︒﹂罰≒月俸料︒左巡使殿中御史最前O不覚察0罰両

  月俸料︒

とあって︑永平坊内に許可なく水路を開いた長安県令の行為が轡められ︑京兆サと左毒忌が処罰を受けている︒左軸使の処罰が

京兆﹃アより重いのは︑坊内の不法行為を覚察する職務を怠ったことが問題だったのであろう○また︑旧唐書辱巻一一八・元秘伝

に︑      ﹁     ︑−  ︵大曲︶八年七月○晋州男子郁誤O以麻弁髪O持竹筐及葺席O突於東市0中略O京兆府怯弱O上即召見O中略O殿中御史楊

  護︒職居回巡回︒郁三三市︒護旧聞奏︒上以為蔽匿︒財連州桂陽県丞員外置︒

とあり︑東市での事件を島々府が上聞したのに︑左巡使が奏聞しなかったとして︑左遷させられた例などがある︒こうし害いく

つかの具体例からも明らかなように︑左右嘉詩の機能は︑単に一般的な治安警察上の必要とか︑司法警察権の創置に理由づけら

れるものではない︒左右巡使の特質は︑朝廷の京兆府に対する治安行政介入の一環として生じた点にあり︑朝廷と京遠忌の制度

的関連の媒介者たる存在に過ぎなかったとみるべきであろう︒資治通町 巻こ三九・唐紀・憲宗・元和十一年十一月庚子の条の胡註に︑       ︐      一

  広徳二年九月︒命御史中丞兼戸部侍郎王延昌充左巡使︒御史中丞源町鳶右巡使︒辛亥︒源筋書都左右巡使︒

とあり︑代宗の広徳二年には御史中丞が左右それぞれの巡使に充てられ︑都左右巡使も置かれている︒この年は︑その前年十月︑

吐蕃の侵憲を避けた肥溜が京師に還ったときであるO当時の長安は︑ ﹁良説府庫古里︒焚閻舎O長安中︒蒲然一空﹂といわれる

有様であったから︑秩序回復に朝廷の強権を必要としたときである︒こうした左右巡使の性格こそ︑前の特質を最も明白に証明

しているといえよう︒従って︑左右巡使の司法警察権が最も機能したのは︑宮城及び皇城内に漂いてであった︒いま︑その例を

一・二挙げれば︑冊府元亀・三五=二・憲三部・公忠の項に︑

  趙漏︒永泰初︒為監察御史︒時禁中失火O焚屋室数十間︒火発処与東宮稽近O代宗深疑之︒漏為誤認0檸令即訊︒漏周歴嬬

  圃O按拠亦状︒乃上直中官遣火回三三○推三明審O頗尽事情O

とあり︑禁中の失火調査に当ったことがみえ⑭︑また︑唐単磁 巻六五・衛尉寺・天宝八載十一月の条に︑

  勅O衛尉慢警護泊賃○所由多淫人○非理損汚O因循日久O為笠懸深O中略O今後其慢響町褥等○漆黒一事借人O並同風三庫

一一@8 一一

唐都長安城の坊制と治安機構(下﹀

︿室

永)

長安県令鄭易︒以撞於永平坊開渠︒吃作州刺史︒京兆ヰア楊態︒以不問奏︒ー罰一月俸料︒左巡使殿中御史李建︒不覚察︒罰両

月俸料︒

とあって︑永平坊内

K

許可まく水路を開いた長安県令の行為が各められ︑京兆手と左巡使が処罰を受けている︒左巡使の処罰が 京兆手よ

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重いのは︑坊内の不法行為を覚察する職務を怠ったととが問題だったのであろう︒また︑旧唐書巻一一八・元載伝

K

(大暦﹀八年七月︒晋州男子部謀︒以麻弁髪︒持竹僅及葺席︒突於東市︒中略︒京兆府以開︒上即召見︒中略︒殿中御史楊 護︒職居左巡使︒邸誤央市︒護不問奏︒上以為蔽匿︒庭連州桂陽県丞員外置︒

とあ夕︑東市での事件を京兆府が上聞したの

K

︑左巡使が奏聞しまかったとして︑左選させられた例まどがある

0とうしたいく

つかの具体例からも明らか左ょう

K

︑左右巡使の機能は︑単

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一般的左治安警察上の必要とか︑司法警察権の創置陀理由づけら れるものでは左い︒左右巡使の特質は︑朝廷の京兆府

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︑朝廷と京兆府の制度 的関連の媒介者たる存在比過ぎまかったとみるべきであろう︒資治通鑑巻二三九・唐紀・憲宗・元和十一年十一月庚子の条の 胡註

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広徳二年九月︒命御史中丞兼戸部侍郎王延昌充左巡使︒御史中丞源休充右巡使︒辛亥︒源休充都左右巡使︒

とあ夕︑代宗の広徳二年

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は御史中丞が左右それぞれの巡使

K

充てられ︑都左右巡使も置かれている︒との年は︑その前年十月︑

吐蕃の侵寵を避けた代宗が京師

K

還ったときである︒当時の長安は︑﹁剰掠府庫市里︒焚閤舎︒長安中︒粛然一空﹂といわれる 有様であったから︑秩序回復

K朝廷の強権を必要としたときである︒こうした左右巡使の性格とそ︑前の特質を最も明白

K証明

しているといえよう︒従って︑左右巡使の司法警察権が最も機能したのは︑宮城及び皇城内

K

沿いてであった︒いま︑その例を 一・二挙げれば︑冊府元亀・巻五二ニ・憲宮部・公忠の項

K︑

越滑︒永泰初︒為監察御史︒時禁中失火︒焚屋室数十問︒火発処与東宮精近︒代宗深疑之︒滑為巡使︒停令即訊︒潤周歴嬬 園︒按拠亦状︒乃上直中官遺火所致也︒推鞠明審︒頗尽事情︒

とあ夕︑禁中の失火調査

K

当 っ た と と が み え

@

︑ ま た

︑ 唐 会 要 巻 六 五

・ 衛 尉 寺

・ 天 宝 八 載 十 一 月 の

条K︑

勅︒衛尉慢幕艶祷等︒所由多借入︒非理損汚︒因循日久︒為弊頗深︒中略︒今後其帳幕盤祷等︒腕将一事借入︒並同盗三庫

‑8

(10)

  物科罪︒中略O伍委左右巡使O常加糾察0

とあって︑衛尉寺の物品貸し出を糾察したことがみえるのである︒・

 ⑭ 街使の機構と機能

 金吾衛は聾児十二衛の一つである○金吾衛をのぞく他衛は︑それぞれ官司を皇城内に置き︑天子の儀侯及び宮城の警備に当っ

た︒金吾衛の官司は︑京城の左右街に一︑つずつあり︑.左街の永興坊に左金吾衛︑・右街の布政坊に右金吾衛と︑皇城をはさんで置

かれた⑤o左右金吾衛が皇城の外側に官司を置いたのは︑唐六典 巻二五・諸衛府・左右金吾衛の条に︑

  左右金吾衛大将軍O将軍三三O掌宮中及京城昼夜巡警之法O雷撃禦非違O

とある如く︑宮中及び京城の警察を掌ったためである︒左右金吾衛の組織は︑大将軍各一名︑将軍各二名以下︑長史︑.録事参軍︑

倉・兵・騎・冑四曹埋土︑司階︑中野︑司才︑執戟の官職が設けられ︑翔衛・蜴府・同軌・宝町等五十府の折衝府を管轄してい

た⑫o旧唐書・巻一八五・田三会伝に︑.

  麟徳二年目転右金吾将軍︒中略︒仁会強力軽量︒昼夜巡警︒自宮城至善路っ綜毫越法︒無不再発︒毎日庭引百余人︒躬自蘭二

  罰︒三無寛者︒京城貴賎︒威畏揮之︒       刃.

とあるは︑金吾衛将軍が宮城より京城内に及ぶ昼夜の巡警を行った例であるが︑専ら京城内の巡警へ出動していたのは︑翔府の・

中郎将であろた︒新回書︐巻四九上・百官志・十六衛・左右金吾衛の条に︑

  左右颯中郎将府︒・中郎将掌領府属︒督京城左右六街鋪巡警0以果毅二人助巡探O

とある︒この中郎将は︑先述した左右金吾衛管轄下の折衝解官である︒左右翔府の構成は︑中郎将各一名出左右郎将各一名の下

に︑兵曹皆紅一名︑校尉筆名︑旅帥十名︑隊正二十名︑副隊正二十名が論った︒左右六十の巡警のために︑これに果毅都尉二・名

が加えられたのは︑三三の三三三年八月のことである@o

 所で︑玄宗時代に入り︑︑長安城内の王民の膨脹化が進むと︑冊府元亀 巻﹁四・帝王部・都邑・開元十九年六月置条に︑

  詔日︒京洛両都○是惟帝宅O中心坊市0固須修整○比聞O取土穿掘O因作田汚坑暫︒中略︒県令所司露里前章O更不得於街

  巷穿坑及取土O其旧溝渠O令当界乗閑整頓O決培宇橋道O心当界漸修O云云0

とある如く︑街路に穴を掘り土を取るもの・が生じ︑或いは堵宇・報道の破損が目立つようになり︑街坊はかなり乱れたようであ

 唐都長安城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶︐ 物科罪︒中略︒の委左右巡使︒常加糾察︒

とあって︑衛尉寺の物品貸し出を糾察したζとがみえるのである︒

約 街 使 の 機 構 と 機 能

金吾衛は南街十二衛の一つである︒金吾衛をのぞく他衛は︑それぞれ宮司を皇域内K置き︑天子の儀役及び宮城の警備K

当っ

た︒金吾衛の官司は︑京城の左右街K一つずつあb︑左衛の永興坊K左金吾衛︑右街の布政坊K右金吾衛と︑皇城をはさんで置

かれた⑪︒左右金吾衛が皇城の外側K

官司を置いたのは︑唐六典巻二五・諸衛府・左右金吾衛の条

K︑

左右金吾衛大将軍︒将軍之職︒掌宮中及京城昼夜巡警之法︒以執禦非違︒

とある如く︑宮中及び京城の警察を掌ったためである︒左右金吾衛の組織は︑大将軍各一名︑将軍各二名以下︑長史︑録事参軍︑

倉・兵・騎・胃四曹参軍︑司階︑中候︑司才︑執戟の官職が設けられ︑吻衛・吻府・同軌・宝図等五十府の折衝府を管轄してい

た@︒旧唐書・巻一八五・田仁会伝K︑

麟徳ご年︒転右金吾将軍︒中略︒仁会強力疾悪o昼夜巡警o自宮城至街路︒総蓮越法o無不立発︒毎日庭引百余人o

朗自閲

罰︒略無寛者︒京城貴賎︒威畏俸之︒

とあるは︑金吾衛将軍が宮城より京城内K及ぶ昼夜の巡警を行った例であるが︑専ら京城内の巡警へ出動していたのは︑胡府の

中郎将であった︒新唐書巻四九上・百官志・十六衛・左右金吾衛の条

K︑

左右胡中郎将府︒中郎将掌領府属︒督京城左右六街鋪巡響︒以果毅二人助巡探︒

とある︒との中郎将は︑先述した左右金吾衛管轄下の折衝府官である︒左右吻府の構成は︑中郎将各一名︑左右郎将各一名の下K︑兵曹参軍一名︑校尉五名︑旅帥十名︑隊正二十名︑副隊正二十名がなった︒左右六街の巡警のためK︑とれK

果毅都尉二名

が加えられたのは中宗の神龍三年八月のととである@︒

所で︑玄宗時代K入b

︑長安城内の居民の膨脹化が進むと︑冊府元亀巻一四・帝王部・都邑・関元十九年六月の条

K︑

詔日︒京洛両都︒是惟帝宅︒街骨坊市︒固須修整︒比問︒取土穿掘︒因作穣汚坑藍︒中略︒宜令所司申明前勅︒更不得於街

巷穿坑及取土︒其旧溝渠︒令当界乗関整頓︒決塘宇橋道︒亦当界漸修︒云云︒

とある知く︑街路K穴を掘hy土を取るものが生じ︑或いは塘宇・橋道の破損が目立つようK左b︑街坊はかまhy乱れたようであ

唐都長安城の坊制と治安機構(下)

‑9‑

(室

永)

(11)

 唐都長安城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶.

る︒これに対応して︑中郎華府に新たに創置された使職が街使であった︒資治通鑑 三二〇九・唐紀・容宗・景雲元年六月壬午

の条に︑胡三省が説明して︑︑

  長安城中左右六街︒金吾街使主之︒左右金吾将軍︒掌昼夜巡警之法︒以執禦非違︒

とみえ︑金吾街使が長安城中の左右六型を掌り︑左右金吾将軍は昼夜巡警の法を掌ったとある︒街使の機構については︑唐⊥ハ典

巻二五には︑左右颯中郎将府の項目に続いて︑ ﹁左右街使各一人・判官二人・典二人@﹂とみえるが︑本文にその解説はない︒

そめ創置時期は明らかでないが︑管見の限りでは︑利府元亀・巻一五九・帝王部・骨壷の項に︑

  開元二十九年正月丁寧○詔臼︒古之送終︒所尚書倹︒比来習俗O漸至於奢O中略︒自今己後O其縁葬事0有半依礼法者O委

  所由州県併左右街使O厳加捉搦O一切禁断O云云︒

とあり︑葬儀の奢修化の取締りに当った左右学卒を初見とする︒従って︑少くとも玄宗の開元二十九年以前には︑左右街使は設

置されていたわけである︒

 さて︑新唐書 巻四九上・百官志・左右金吾衛の項によれば︑

  左右街使︒掌十三六輝微巡︒凡城門・坊角有田候鋪︒衛士・弦騎分守つ大城門百人︒大鋪三十人O小城門二十人O小母五人︒

  日暮鼓八百声而門閉︒乙夜街使以騎卒循行叫呼︒武官暗探︒

とあり︑左右街使が京城内の左右六街の警察を掌り︑諸城門及び坊角の武候鋪を管轄していたことが知られる︒武庫鋪の武候は︑

金吾衛の旧名で︑諸城門の鋪を助鋪︑回報の鋪は街鋪と呼んで︐いた︒唐会要 巻八六・城郭・開元二十三年七月の勅文に︑

  両京城・皇城及諸書併助鋪︒引取城守把捉兵之処︒有城培若門楼織屋破壊須修理者︒皆与所司相知︒併量抽当処職掌衛士Q

  以漸修営︒

とあって︑長安城の諸城門には︑みな門楼があり︑助鋪が附属していたことがみえる︒街鋪は皇城内にもあったが㊧︑ここでは

三角とするから︑左右六街のもののみを管轄したのであろう⑭o鋪は交番所のようなものである︒ここに金吾衛の衛士・即事が

詰めていて︑警戒に当ったのである︒金吾衛の兵は︑初め府兵役で上番した衛士のみであったが︑武后以後︑府兵役丁男の逃亡

によって兵員を確保しえなぐなったため︑玄宗の開元十一年︑拡騎が新たに採用されたのである⑰︒しかし︑この拡騎も容易に

欠員を補充できなくなり︑間もなく崩壊に瀕してしまうのである︒資治通鑑 巻二一六・唐紀・玄宗・天三八載五月の条に︑

一 10 一

唐都長安城の坊制と治安機構(下)

(室

永﹀

る︒とれ忙対応して︑中郎将府

K新たK創置された使職が街使であった︒資治通鑑 の条

K

︑胡三省が説明して︑

長安城中左右六街︒金吾街使主之︒左右金吾将軍︒掌昼夜巡警之法︒以執禦非違︒

とみえ︑金吾街使が長安城中の左右六街を掌

hyK︑左右金吾将軍は昼夜巡警の法を掌ったとある︒街使の機構ついては︑唐六典 巻二五

Kは︑左右吻中郎将府の項目K続いて︑﹁左右街使各一人・判官二人・典二人@﹂とみえるが︑本文Kその解説はまい︒

その創置時期は明らかで左いが︑管見の限

bでは︑冊府元亀・巻一五九・帝王部・草弊の項K︑

開元二十九年正月丁酉︒詔日︒古之送終︒所尚乎倹︒比来習俗︒漸至於奪︒中略︒自今己後︒其縁葬事︒有不依礼法者︒委

所由州県併左右街使︒厳加捉揚︒一切禁断︒一玄云︒

とあ

hy︑葬儀の脊修化の取締

‑ P

K 当った左右街使を初見とする︒従って︑少くとも玄宗の開元二十九年以前Kは︑左右衛使は‑設

置されていたわけである︒

さて︑新唐書巻四九上・百官志・左右金吾衛の項

K

よ れ ば

︑ 一

nU  

左右街使

o掌分察六街徽巡o凡城門・坊角有武候鋪o衛士・拡騎分守o大城門百人︒大鋪三十人︒小城門二十人︒小鋪五人︒寸

日暮鼓八百声而門閉︒乙夜街使以騎卒循行叫呼︒武官暗探︒

とあり︑左右街使が京域内の左右六街の警察を掌り︑諸城門及び坊角の武候舗を管轄していたととが知られる︒武候舗の武候は︑

金吾衛の旧名で︑諸城門の鋪を助鋪︑六街の鋪は街鋪と呼んでいた︒唐会要巻八六・城郭・開元二十三年七月の勅文

K︑

両京城・皇城及諸門併助鋪︒及京城守把捉兵之処︒有城塘若門楼舎屋破壊須修理者︒皆与所司相知︒併量抽当処職掌衛士︒

以漸修営︒

とあっで︑長安城の諸城門忙は︑み左門楼があ

b︑助鋪が附属していたζとがみえる︒街鋪は皇城内Kもあったが⑪︑ととでは 坊角とするから︑左右六街のもののみを管轄したのであろう@︒鋪は交番所のようまものである︒ととに金吾衛の衛士・拡騎が 詰めていて︑警戒

K

当ったのである︒金吾衛の兵は︑初め府兵役で上番した衛士のみであったが︑武后以後︑府兵役丁男の逃亡

Kよって兵員を確保しえな︿まったため︑玄宗の開元十一年︑拡騎が新たK

採用されたのである⑪︒しかし︑との拡騎も容易

K

欠員を補充でき左︿左hy︑間も左く崩壊K

瀕してしまうのである︒資治通鑑巻二二ハ・唐紀・玄宗・天宝八載五月の条

K︑ 巻二

O

九・唐紀・寄宗・景雲元年六月壬午

(12)

  三三騎三法︒三宝以後︒精三三廃O応募者O皆市井負販︒無頼子弟O

とある如く︑天宝以後の弦騎は市人や無頼の徒が兵員となってくるのである︒

 衛士・弦騎上番の制が崩れ︑洋語禁軍が衰微すると︑自ら京師の警備・帝都の防衛体制は変質化せざるを得なくなる︒南衙に

代って宮城の警備・帝都の防衛全般を担うようになったのが北衙禁軍である︒従って︑この頃になると︑左右街使の組織にも変

化がみられるようになった︒資治通鑑 巻二四九・唐紀・宣宗・大中十二年夏四月の条の胡註に︑

  左右街使0与左右金吾将軍O掌分察六街微巡0

とあって︑左右街使が左右金吾将軍とともに︑左右六街の警察に当ったとしている○この左右街使は︑影響書 巻一二〇・郭子

儀伝に︑  舌剣O中略○元和初O為左金吾衛大将軍充左街使O中略︒穆宗即位0郭無為叔舅︒改右金吾衛大将軍兼御史大夫充右街使O

とあり︑また︑同書 巻一五一・高崇文伝に︑

  高承簡︒中略︒入拝右金吾衛大将軍充右街使︒

とあるように︑左右金吾衛大将軍が充てられているのである⑭︒即ち︑金吾衛大将軍の業平兼任により︑金吾衛は京城内の警察

を本務とするに至ったのである︒この左右街使に属する主要な官職としては︑副使・判官などが置かれた︒翠煙元亀 巻一五三

・帝王部・明罰・太和六年五月丙辰の条に︑

  既左衛勲二府中郎将左街副使田鋳濾州県尉︒云云︒

とあり︑中郎将が副使に任じられている︒また︑判官については︑唐会要 巻七一・十二衛・大腸三年十月三日の申文に︑

  左右街使○置判官一人︒並取金吾将軍衛佐充︒

とあり︑金吾将軍衛の佐より充てられているのである︒そしてそれらの下には︑将校︵都知︶・街吏と呼ばれた属吏が論ったの

である︒資治通鑑 巻二三五・唐墨・徳宗・貞元十三年十二月の条に︑三十が宮市と称して農夫の柴薪を奪った話をのせ︑

  農夫日︒我有父母妻子︒待此然後食︒中略︒遂殴囲者︒街吏心墨聞︒云云︒

とあり︑続いて︑同十四年八月の条に︑

  京兆罪主導︒屡里宮市之弊︒宙者言︒湊屡周回市︒皆右金吾都知趙沿・田秀岩心墨也︒丙午○沿・秀露坐流天徳軍︒

 唐都長安城の坊制と治安機構︵下︶ ︵室永︶

一一一@11 一

其拡騎之法

o

天宝以後

o

稀亦変廃

o

応募者︒皆市井負販

o無頼子弟︒

とある如く︑天宝以後の拡騎は市人や無頼の徒が兵員と在ってくるのである︒

衛士・拡騎上番の制が崩れ︑南街禁軍が衰微すると︑自ら京師の警備・帝都の防衛体制は変質化せざるを得左︿左る

o

南街

K

代って宮城の警備・帝都の防衛全般を担うよう

K

在ったのが北街禁軍である

o

従って︑この頃

K

在ると︑左右街使の組織

Kも変

化がみられるよう忙なった︒資治通鑑巻二四九・唐紀・宣宗・大中十二年夏四月の条の胡註

K︑

左右街使︒与左右金吾将軍︒掌分察六街徴巡︒

とあって︑左右街使が左右金吾将軍ととも

K

︑左右六街の警察

K当ったとしている

o

との左右街使は︑旧唐書

巻一二

0

・郭子

儀伝

K︑

郭創

o

中略︒元和初

o

為左金吾衛大将軍充左街使

o

中略︒穆宗即位︒郭鋭為叔輿

o

改右金吾衛大将軍兼御史大夫充右街使︒

とあhy

ま た

︑ 同 書 巻 一 五 一

・ 高 崇 文

伝K︑

高承簡︒中略︒入拝右金吾衛大将軍充右街使︒

とあるよう

K︑左右金吾衛大将軍が充てられているのである@︒即ち︑金吾衛大将軍の街使兼任忙より︑金吾衛は京城内の警察 を本務とする

K至ったのであるo

との左右街使

K属する主要左官職としては︑副使・判官まどが置かれた

o冊府元亀巻一五一一一

.帝王部・明罰・太和六年五月丙辰の条K ︑

疑左衛勲二府中郎将左街副使田璃温州県尉

o云云o

とあり︑中郎将が副使

K

任じられている

o

また︑判官

K

ついては︑唐会要巻七一・十二衛・大歴三年十月三日の勅文

K︑

左右街使︒置判官一人︒並取金吾将軍衛佐充︒

とあhy︑金吾将軍衛の佐より充てられているのである︒そしてそれらの下

K

は︑将校(都知﹀・街更と呼ばれた属更がなったの

であるo

資 治 通 鑑 巻 二 三 五

・ 唐 紀

・ 徳 宗

・ 貞 元 十 三 年 十 二 月 の 条 K︑官官が宮市と称して農夫の柴薪を奪った話をのせ︑

農夫日︒我有父母妻子︒待此然後食︒中略︒遂殴賞者︒街吏檎以問︒云云︒

とあb

︑続いて︑同十四年八月の条

K︑

京兆予呉湊

o

屡言宮市之弊

o

官者言︒湊屡奏宮市

o

皆右金吾都知趨治・田秀岩之謀也

o丙午o

治・秀岩坐流天徳軍

o

‑11‑

唐都長安城の坊制と治安機構(下)

(室

永)

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