九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
Communication Among Edo Hantei. Tsushima Clan Regarding, and the Tokugawa Shogunate So
Yoshiaki's Successor in Late Edo Period: A reassessment about the Document, "The Records of Chakushinari" of 1861
守友, 隆
九州大学大学院比較社会文化学府
https://doi.org/10.15017/4494697
出版情報:比較社会文化研究. 29, pp.1-20, 2011-03-01. Graduate School of Social and Cultural Studies, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
幕末期︑対馬藩におい
て藩主宗義和の後継藩主の座をめぐって御家騒動が勃発し たことは諸文献に記されている
︒
最終的に義
和の跡は︑義和三男︵公的には次男︶︑
善之允改め義達が継ぐ︵
︻宗家関係系図
︼参
照︶
︒しかしそれま
でには紆余曲折があっ た︒二人の兄︵彦七郎.勝千代︶の夭折によ
って彼が後継候補に再浮上し︑﹁嫡子成﹂
を済ませ公的に対馬藩の嫡子
と
認められる
ま
でのことを記した史料が長崎県立対馬
(2)
歴史民俗資料館にある︵
︻図版︼
参照
︶
︒様i月
御
様允之7 I
〗男氏
︐ 斧 御 表
.羨オ^
和 録 義 記
I
御年 成 酉 子 辛 嫡
二御
延 養 万
一
御
一 .
.
二版図L
. .
︑ 心 だ はじめに
﹁比較社会文 化 研 究
j
第二九号
(2
010)1ー
頁2 0
So ci
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o.
29 (2010), pp. 1
20
幕末期対馬藩主宗義達︵善之允︶の﹁嫡子成﹂における江戸藩邸・国元藩庁と幕府との折衝・情報伝達
ー 宗
家文庫︑万延二辛酉年﹁義和様御
二 男 善 之允様御前様御
養
御嫡子成御記
録 ﹂の分析を中心に
1本稿で
は ︑ 近世社会︑とりわけ藩︵大 名家︶において最も重要であったといっ
て過
言でない家督相続︑その過程の一っ
(3) である﹁
嫡子成﹂に注目し︑それを済
ませ
るま
での藩と幕府との折衝を詳らかにす
ることにより︑
そのなかで遣り取りされ
た
情報とその伝達経路を明らかにする
︒
そして︑
幕末期に限らず近世期全般にお いて行われたであろう藩と幕府︑言い換 えるならば為政者層の一般的な情報ネッ
(4) トワー
クについて述べたい
︒
︵守 友 隆
︶
︵ 宗
肘馬守︹発和
︺ ︶
御 名
ー.義和の後継問題について—義和長男彦七郎の死から次男勝千代「嫡子成
」請願までー 弘化四年(‑八四七︶一月十一日︑対馬藩主宗義和の長男彦七郎が亡くな
った
︒し
かし︑表向きは生存の体がとられ︑同年五月二十三日に
﹁丈夫成﹂の届け出がなされ
た︒
同年六月十二日︑次男勝千代が
︑
同十一月六日三男善之允が生まれた
︒勝千代
は側室碧の︑善之允は彦千代と同じく側室勝井タミの産んだ子であ
った
︒当初︑藩
主義和は三男善之允を彦七郎の身代わりとすることとしたが
︑
一変して次男勝千代
(6 )
を彦七郎の身代わりとし︑安政三年(‑八五六︶十一月六日︑公儀には生存の体がと られている彦七郎が勝千代と改名する旨の届書︵﹁聞置届書﹂︶を出し辻棲を合せよう
とし
た︵
︻史料①︼
傍線
部︶
︒
その経緯がわかるのが次の史料である
︒
︻史料
①︼
安政三丙辰年
より同五戊午年迄﹁公義被仰上﹂︑安政三年(‑八五六︶十一
(8)
月六日条︵※傍線は筆者による
︒︶
丙辰十一月六日
去未年五月廿三日 御 妾 腹 彦 七 郎 様 御 事
︑ 此 度 勝 千 代 様 と 被 成 御 改 名 候 処
︑ 御丈夫成御届被仰上置 右之御届向此方様二御例無之
︑其筋御役家及御問合
︑猶諸家様御例等相考候上︑
︵ 信
親︶
右之御届書今日御用番内藤紀伊守様江御留守居引切手代中庭弥七郎持参︑御取 次中島権六掛合差出候処被成御落手︑
私妾腹之男子彦七郎︑
此
度勝千代と改名仕候︑兼而御届仕置候者之儀二付︑
此
段御聞置可被下候︑以上︑
八月廿三日
幕末期対馬藩主宗義達︵善之允︶の﹁嫡子成﹂における江戸藩邸
・国元藩庁と幕府との折衝・情報伝達ーよ
示家
文庫︑万延
二辛酉年﹁義和様御二男善之允様御前様御養御嫡子成御記録﹂の分析を中心にーー
r モ
寸 リ
友 i
タカシ各
"
生ー
安芸広島藩浅野家
浅野斉賢
越中宮山藩
前田家
前田利謙栄子︵
党寿
於民
︱ ︱
伊勢
免山活石川家石川総禄
︵ 主
殿頭
︶ 佼佐伯藩毛利家毛利高泰
︵安
房守
︶I毛利高謙︵伊
勢守
︶
︱ ︱
於 定
幕末期対馬藩主宗義達(善之允)
の「嫡子成」における江戸藩邸
•国元藩庁と幕府との折衝・情報伝達
1―示家文庫、万延二辛酉年「義和様御一_男善之允様御前様御養
御嫡子成御記録」の分析を中心にー_
毛利斉元
且
﹂ 利
[ 9
子
︵慈 芳院
︶
宗 家 関 係 系 図
︼︵
※対馬藩
主は
□
︶I毛利艇親(敬親・大膳大夫)11毛利定広(元徳•長門守)
一長門長府藩毛利家都
美 子 毛
利元運I銀姫
前 田 利 幹 ー 利 保 利 友
利
声 前
田槻松︵
利同
︶
r l
̲ ︳
久
美︵ 行寿 院
︶
喜代姫︵正
室﹁ 御前 様﹂
︶
︱ ︱
義和︵
対馬 守・ 播磨 守二
彦七郎︵
長 男︶
文作
︵ 卵良
知早使︶
/ 口
口 達
︹ 韮
正 ︺ 対 塁
︶
L
J I
重望
勝井五誓
□
—勝井五八郎
(貝 周 )
※﹁藩史大事典﹂第三︑四︑六︑七
巻(
‑
九八九
年︑
一 九八 九年
︑
一九
九
0年 ︑
一九九三年︑雄山閣出版︶一三九頁︑ 四三八頁、三五0頁、二六三頁•四四九頁、鈴木棠三編集「対馬叢書宗氏家譜略」(-九七五年、村田書店)―二
‑1 ー ニ
九頁︑川本達﹁対馬遺事対馬御家騒動
﹂(‑九二六年︶六O・六一頁︑宗家本/
宗家
一
/
八 五 四 安 政 七
庚申年二月中︑表御書札方
﹁御
在國
毎 日記
﹂
二月朔日条︑宗家文庫/日記類/
A b,1/四
二二
︑
安政七庚申年従
正月閏三月二至︑奥御書札方﹁毎日記﹂閏三月十八日条より箪者作成︒
︵朱 書頭 注︶ 彦七郎様御事︑実者去丁未正月十一日御卒去之処︑公邊向者御在世之形二相 成居︑其後善之允様を以彦七郎様江御見替可被遊旨被仰出
置候
処︑猶又此節 勝千代様を以彦七郎様江御見替被遊︑公邊江者彦七郎様御事︑勝千代様と御 改名被遊候段御届被仰上方︑於御国被仰出候段申来候次第委細去月十八日之
日帳
二有
之︑
それにしても︑朱
書
頭注の記述はなまなましい
︒弘化四年
( ‑
八四七︶に亡くなっ
ている長男彦七郎の身代わりに次男勝千代がなっていることがは
っきり記されてい
る︒
これは幕府を欺く行為であった
︒
また︑このことにより公的には勝千代の存在 は抹殺され︑勝千代は兄彦七郎が改名した﹁勝千代﹂として生きることになる
︒それ
ゆえ︑後年善之允は公的には﹁義和様御二男﹂として扱われる
︒
ところで︑この届け出については︑江戸留守居役志賀鼎次郎の手代である中庭弥 七郎が届書を月番老中内藤信親の屋敷に持参し︑同家取次の中島権六を介して提出
(9)
した
︒この史料中で注目すべきは︑﹁其筋御役家及御問合﹂という箇所である
︒
つま
り︑
対馬藩宗家においては藩主の子息の改名願
書
を幕府に提出した先例がなかったの で︑遺漏なきを期し幕府の役職を務める者と事前調整を行っている
︒その情報の流
れはつぎのようになる
︒
︵受理の可否︶︵届行案文︶①江戸留守居役
‑
‑
﹁其
筋御
役家
﹂
②江戸留守居役︵手代・中
庭弥
七郎
︶
l l
ヽ月番老中内藤信親︵取次・中
島権
六︶
つま
り︑
①・②の二
段階があり︑まず
①
で事前調整を内々に行った上で︑
②
で正 式に届書を提出したというわけである
︒①
の段階で届書が受理されるか否かという 情報が﹁其筋御役家﹂から留守居役に伝えられたことは想像に難くない
︒事前調整を
経た上での届けであるので︑﹁聞置届書﹂の体裁がとられたのであろう
︒(1 0)
翌安政四年(‑八五七︶二月晦日︑勝千代は義和正室の﹁御養﹂とされ︑幕府に対 して︵安政三年︹一八五六︺︶十二月廿六日付け︑藩主義和の名による﹁御嫡子様成﹂
(1 1
) の届書︵﹁聞置届書﹂︶が提出された︒
︻史料②︼
安政三丙辰年より同五戊午年迄﹁公義被仰上﹂︑安政四年
(‑
八五
七
︶二
月
(1 2 )
晦日条︵※傍線は筆者による︒︶
丁巳二月晦日
勝千代様御事
︑
御前様御養被進御嫡子様成御届被仰上方被仰出之御旨二依︑
︵守 友 隆
︶
二月晦日 右料紙日向半切︑上ハ包半紙︑
﹁御嫡子様成﹂届書の提出の事前工作としては︑まず藩主父子が共に在国している 状況での請願の先例調査から始まった
︒
参考となる先例が土佐高知藩山内家にあっ たので︑同家に照会して内々に指南を受けた
︒
その上で︑留守居役志賀鼎次郎は︑
二月二 十八日に﹁御内用御頼御老中﹂阿部正弘の︑同二十九日に月番老中久世広周の 屋敷を訪問し︑事前に内意を伺い
︑異存のない旨を確認した上で︑
二月晦日︑正式
に久世の屋敷を訪問し︑届書︵﹁聞置届書﹂︹傍線部︺︶を提出した
︒
この案件は史料の
︵頭書︶
にある通り︑即日﹁附札﹂が添付され許可された
︒
この
﹁附
札﹂
の回
答︵
傍線
部︶
幕末 期
対馬
藩 主宗 義達
︵善 之 允
︶の
﹁嫡
子成
﹂に
おけ
る江
戸藩
邸・
国元
藩庁
と 幕 府
との
折衝
・情
報伝
達ー
宗家 文庫
︑万
延二 辛
酉年
﹁義
和様
御
二男
善之 允様 御前 様御 養御 嫡子 成御 記録
﹂の 分析 を中 心に ー
御名内
志賀鼎次郎
御先例及吟味候慮︑御父子様共御在園二而御届被仰上候御例御家二無之︑松
︵土佐高知藩主山内R
信 ︶
平土佐守様江御準例有之候付︑猶又其筋江御内意申込︑御内教を請候上︑御
︵ 正
弘︶
届書取調一昨廿八日御内用御頼御老中阿部伊勢守様︑昨廿九日御用番久世大
︵ 広 周 ︶ 和守様御勝手江御留守居志賀鼎次郎参上︑御内慮相伺候慮︑御両所様共御別 慮無之︑久世様より者勝手次第表江差出候様と之儀二付︑今日就吉辰御届被 仰上度︑左之御届書久世様江鼎次郎持参︑御取次懸合差出候慮︑被成御落手
候付
退去
︑ 但︑御先手様を以被差出候御先例二候処︑嘗節者土州様御例を以其筋江茂打
合置︑如本文取計候事︑
先年於國許妾腹出生之男子勝千代︑去未年丈夫御届仕候慮︑此度妻致養嫡子 仕候︑就而者可為致出府之虞︑嘗辰十四歳罷成候得共︑小用繁罷在︑長途之 旅行無覚束御座候故︑暫國許差置養生為仕度︑此段御聞置可被下候︑以上︑
十 二 月 廿 六 日 御 名 右料紙中廣奉書半切︑上ハ包美濃紙︑
︵頭
書︶
即日御附札令承知候︑︵
北 弘
︶
﹂就右御用頼大御目付井戸封馬守様江左之御届書御留守居持参之格を以御用人中
迄手紙添頼遣︑︵
義 和
正産︶
先年於園許封馬守妾腹出生之男子勝千代︑去未年丈夫御届申上候虚︑此度妻 致養嫡子仕候︑就而者可為致出府之虞︑常巳十五歳罷成候得共︑小用繁罷在
︵久 世 広
周 ︶
長途之旅行無覚束御座候故︑暫圃許差置養生為仕度段︑今日御用番御老中様
︵ 宗
義 和
︶
江封馬守御届申上候付︑此段申上候︑以上︑
︵ 守 友 隆
︶
からもわかる通り︑これは特殊な﹁聞置届書﹂で︑実態は出顆ー許可の届
書であった︒
(1 3
)
それは嫡子届けが通常は単に届け出ればすむという性質のものであるが︑この場合 は嫡子願いと合わせて︑届
書
の後半で勝千代の出府延期を願い出ているためである
︒
また︑その理由が﹁小用繁罷在長途之旅行無覚束﹂というのも興味深い
︒ただその内
実
は長男彦七郎を次男勝千代にすり
替えたことに
よ
って公的年齢︵官年︶と実年齢の
(1 4
)
麒齢が生じたためである
︒
すなわち︑恐らく長男彦千代の﹁丈夫届﹂の際︑年齢の水 増しがなされたため︑官年では十五歳となるが︑実年齢は十一オであ
った︒
この安政四年(‑八五七︶二
月晦日条には注目すべき点がある
︒まず︑この当時の
対馬藩の﹁御内用御頼﹂老中が阿部正弘であ
ったことである
︒
また
﹁御
先手
﹂︵
先手
頭
︶
の存在である
︒
先手頭は武官であるが︑諸大名の公儀への届提出においてその取次
(1 5
)
を行っていた
︒
しかし︑今回は土佐高知藩の先例を引き合いに出して︑
事
前に月番 老中久世と調整をしておいたので︑御先手を介して提出をしなかった
︒この件での
情報の流れはつぎのようになる
︒
①江戸留守居役二 ︵先 例 教
示 ︶ ︵ 先 例眸会︶
t土佐高知藩山内
家
︵ 回
笞︶ ︵ 内 意 伺
い︶②
江戸留守居役(志賀鼎次郎)•-「御内用御頼」老中阿部正弘
︵ 回
笞︶ ︵ 内 意
伺
い︶③
江 戸 留 守 居 役
︵ 志 賀 鼎 次 郎
︶
.
: 月 番 老 中 久 世 広 周
④江戸留守居役(志賀鼎次郎)||~月番老中久世広周(取次の者
)
⑤
江戸留守居役格の者│←﹁御用頼﹂大目付井戸覚弘︵井戸家用人︶
右の
ように四段階を経て届
書は提出され
︑また﹁御用
頼﹂大目付井戸覚弘にも事後 報告の届書を提出している
︒このことか
ら日頃から情報交換を行っていたであろう
ことがわかる︒
安政六年(‑八五九︶になると︑勝千代の官年は十七歳となっていたので︑出府の 問題が再燃した
︒
しかし勝千代の実年齢は十
三歳であった︒
そのため︑前回と同様
﹁平日小用繁有之︑長途之旅行無覚束﹂という理由で出府延期の届書を提出している
︒
そのことについて記されているのが次の史料である
︒
︻史
料
③
︼安政六己未年より同七
庚申年迄﹁公義被仰上
﹂︑
安政
六年(‑八五九︶十二
(1 6
) 月三日条 己未十二月
三日
若殿様御事︑実者御十
三歳
二被成御座候得共︑公邊向嘗未御十七歳被為成候付︑
御出府之上御目見可被成御顧候虞︑未御幼年様之御事二付嘗
三年者
御在國被成
︵ 信
親︶
度︑依之御目見御願御延引之段左之届
書
取調︑昨
二
日御用番内藤紀伊守様御勝 手江御留守居山崎東介持参︑明朝御封客前御先手様を以差出度︑御差支被為在
3
間敷哉之旨申述候虞︑御差支無之と之儀二付︑今日御同所様江御先手内藤十郎
兵衛様を以御届書御進達被成候慮︑無御滞御請取相成委細別記録二有之︑
私嫡子勝千代儀︑嘗未十七歳罷成候付︑為致出府御目見可奉願之慮︑平日小
用繁有之︑長途之旅行無覚束御座候故︑今暫國許江差置養生為仕度奉存候間︑
御目見奉願候儀延引仕候︑此段御届申上候︑以上︑
十 月 十 三 日 御 名
右料紙中廣半切︑上ハ包美濃紙︑上ハ書御名︑
︵ 正
典︶﹂就右御用頼大御目付久貝因幡守様江左之御届書御留守居持参之格を以御用人中
迄手紙添頼遣︑
封馬守嫡子勝千代儀︑嘗未十七歳罷成候付︑為致出府御目見可奉願之虞︑平
日小用繁有之︑長途之旅行無覚束御座候故︑今暫国許江差置養生為仕度段︑
今日御用番御老中様江封馬守御届申上候付︑此段申上候︑以上︑
御名内
志賀鼎次郎 幕
末期
対馬
主藩 宗義
達︵
善 之 允
︶の﹁
嫡子
成﹂
にお
ける
江
戸藩 邸
・国
元藩
庁と
幕府
との
折衝
・情
伝報
達ー
宗 家
文庫
︑万
延 二 辛
酉 年 ﹁
義和様御二男善
之允
様御
前様
御養
御 嫡
子成 御
記 録
﹂の
分析
を中
心に
ー
は︑安政七年
( 1 1
万延
元年
︹一
八六
〇︺
︶
二月二十五日︑幕府に﹁丈夫成﹂の届が提出さ
︻史
料
④
︼安
政
六己未年より同七庚申年迄﹁公義被仰上﹂安政七年(
八‑
六 0)
二月二
十五日条
庚申二月廿五日善之允様•徳之輔様御丈夫成之儀、今日御先手内藤十郎兵衛様を以御用番安藤
︵ 信 正 ︶
封馬守様御封客二付︑御登城前︑左之御届書御進達被成候虞︑無滞御落手被成︑
委細別記録二記︑
私儀︑固許妾腹之二男善之允嘗未拾三歳︑同三男徳之輔同拾壱歳罷成候︑出
生之糊より虚弱二御座候付御届不仕候︑此節丈夫罷成候付御届申上候︑以上︑
十 二 月 日 付 な し 御 名
右料紙︑大奉書半切︑上ハ包美濃紙・奉書包御名︑
右の届書の提出ルートは次の通り︒
0
対馬
藩︵
留守
居役
︶ 頃直
は︶先手頭内藤十郎兵衛 ︵ぽ
ぽ且 正
月番老中安藤信正この届書によって善之允•徳之輔は正式に対馬藩宗家の男子と公的に認められる
こととなった︒ただ︑この届書は﹁聞置届書﹂ではない︒笠谷和比古氏は﹁﹃丈夫届け﹄
には﹃聞置届書﹄の様式の文書が用いられた﹂とされるが必ずしもそうではないよう
である︒ この記述から︑対馬藩の公俄への届書の提出経路が明らかである︒すなわち︑月
番老中内藤信親の屋敷に対馬藩江戸留守居役山崎東介が届書を持参︑老中内藤信親
の﹁封客﹂前に対馬藩の御用頼御先手︵先手頭︶内藤十郎兵衛から届書を渡してもら
(1 7
) う︑といった手順であった︒また︑﹁明朝御封客前﹂とあるが︑これは老中が定めて
(1 8
) おいた対客の日で︑その日には何人にも面会した︒そのため︑老中の対客前いち早
く留守居役山崎は届書を︑御先手内藤十郎兵衛を通じて提出したのであろう︒さら
に︑対馬藩﹁御用頼﹂大目付久貝正典にも月番老中内藤信親へ届書を提出した旨を事
後報告している︒これを図にすると次のようになる︒︵提出承
認 ︶ ︵ 届 苔 案 文
︶①
江 戸 留 守 居 役 山 崎 東 介
‑ 丘 月 番 老 中 内 藤 信 親
扁書提出
依 雙
②江戸留守居役山崎東介││←先手頭内藤十郎兵衛ほげ且︶月番老中内藤信親
③江戸留守居役格の者
1 1
﹁御用頼﹂大目付久貝正典︵久貝家用人︶
また︑ここで重要なのは十七歳という年齢である︒大森映子氏によると︑大名が
参勤交代を開始する年齢は十七歳がひとつのめどであった︑とされ︑さらに︑同時
にこれは相続の上でも大きな転換点であった︑とされる︒つまり︑末期養子の認可
(1 9
) は十七歳から五十歳までに制限されていたということである︒
ところで︑実際の対馬藩主義和の三男善之允︵のちの義達︶︑ 十二月三日
右料紙日向半切︑上ハ包半紙︑
四男徳之輔について またこれ以前の安政六年(‑八五九︶正月︑善之允には﹁御城より桟原中屋敷に徒
(2 4
) る︑八人の侍女皆従ふ﹂という動きがあった︒一方︑﹁嫡子成﹂を済ませた義和の次
男勝千代は安政六年(‑八五九︶十二月二十九日に疱癒のため亡くなっていた︒
しか
し公儀との﹁駈引﹂のためその死は暫く伏せられた︒このことを決定したのは藩主義
和や国元の家老達ではなく︑江戸家老佐須伊織︑江戸留守居役志賀鼎次郎・山崎東
介などを中心とする江戸詰の重役達であったようである︒万延元年(‑八六
0) +‑
月二十九日を公的な死去日と定め︑藩主義和の﹁御名﹂で公儀に届が出されたのは翌
年正月十九日のことであった︒
ところで︑勝千代死去の対応について国元対馬府中藩庁から江戸藩邸への伝達で
あるが︑﹁無番附﹂の十二月二十九日付けの書状が国元藩庁から江戸藩邸に出された
(2 6
) が︑その書状が届いたのは翌月二十四日のことであった︒国元から江戸への伝達に
{2 7
) 二十五日を要した︒また若殿死去という非常時であるため小姓の賀島均が国元から
(2 8
) 江戸に派遣され︑その到着は二月一日であった︒
結局︑約一年後の万延二年(‑八六一︶正月十九日︑
︵万
延元
年︶
十一
月
二十九日付
︵守 友 隆 ︶
けの藩主義和の名による届書を江戸留守居役山崎東介が月番老中安藤信正へ提出し
た︒
以上は次の史料に拠る
︒
︻史料
⑤︼
萬延二辛酉年
E
文久二壬戌年迄﹁公義被仰上﹂︑万延二年(‑八六一︶正月十
(2 9
)
九日条 萬延二辛酉年正月十九日 若殿様御事︑一昨未十二月十八日より御疱癒之処︑御養生不被為叶︑同廿九日
︵将軍家茂
︶
御逝去被遊候段︑無番附即日之書状を以申来︑正月廿四日相達︑且上々様江御 注進として御小姓賀嶋均被召仕︑二月朔日令着候付︑御凶変之次第早速公邊江 御届可被仰上之処︑御駈引之品二依︑御届向之儀暫御猶豫︑嘗分御在世之形二 而御隠密被成置候様致治定︑其段御匿同列中方江急飛を以申遣置候処︑漸此節 御留守居山崎東介江御打出方等之儀委細含来候付︑旧冬十一月廿九日御逝去二 被相立︑今十九日御届被仰上候付︑左之御届書被成下之例書をも相添︑御用番
︵ 信 正 ︶ 安藤封馬守江御留守居山崎東介持参︑御忌掛之御家門様︑御留守居同然御門前 江落合︑一同表江罷出︑御取次懸合差出候処︑何れも御落手被成と之儀二付退 去 ︑
︵ 一 七 九 五
︶
但︑御忌明御届之儀︑最早御忌之日数相立居候付︑寛政七卯年十一月廿一
︵ 一 八
五 三 ︶ 日︑嘉永六丑年正月十六日之例二依嘗節茂御忌明御届不被差出候事︑
同姓勝千代疱癒之慮養生不相叶︑今廿九日死去仕候︑此段御届申上候︑以上︑
十 一 月 廿 九 日 御 名 同姓勝千代死去仕候付︑忌服之覚
十 一 月 廿 九 日 よ り 十 一 月 廿 九 日 よ り 忌 二 十 日 服 九 十 日 十 二 月 十 八 日 迄 二 月 廿 九 日 迄 右之通定式之忌服請申候︑以上︑
十 一 月 廿 九 日 御 名 右料紙いつれも大奉書半切︑上ハ包美濃紙︑上ハ書御名︑
例書︵
宗 発 方
︶
︵ 一
七二
二 ︶ 十代前封馬守嫡子彦千代儀︑正徳三癸巳年八月六日於圏許死去仕候節︑封馬
︵ 正
店︶
守在囲罷在︑同廿八日死去之段御届申上候虐︑同廿九日御用番阿部豊後守様 より留守居之者被召呼︑左之御奉書一通白木文箱入二して豊後守様御目通被 仰付︑嫡子死去二付︑御奉書被成下候旨被仰渡︑御直二被成御渡候︑
同氏彦千代死去之段及上聞候虞︑可為愁傷と被思召候︑此由可相達旨依上意 如此候︑恐々謹言
八月廿九日
︵守友隆︶
宗封馬守殿 右料紙相小奉書半切︑上ハ包岩城︑上ハ書例書と認︑
︵勝
足
︶
:右二付︑御用頼大御目付平賀駿河守様江左之御届書御留守居持参之格を以御 用人中迄手紙添二而頼遣︑
封馬守嫡子勝千代於国許旧冬十一月廿九日死去︑
十 一 月 廿 九 日 よ り 十 一 月 廿 九 日 よ り 忌 三 十 日 服 九 十 日 十 二 月 十 八 日 迄 二 月 廿 九 日 迄 右之通忌服請申候段︑封馬守御老中様江御届仕候付︑此段申上候︑以上︑
御名内 志賀鼎次郎 正月十九日 右料紙日向半切︑上包半紙︑
右の史料からわかる情報の流れは次のように図示できる
︒
①
国元藩庁
l i
江戸藩邸
︵小 姓
打 灼 均 派 遺
︶
︵
死 亡
届け出
さ ず
︶②
国元藩庁
" 江戸藩邸⁝
・:・:
・:←幕府
③
江戸藩邸
︵死
亡 届 の 延 期 を 伝 え る
︶二
国元藩庁
④
江戸留守居役山崎東介
︵勝 千
代 死 去 の 届廿﹁例 笞
f月番老中安藤信正
⑤
対馬藩江戸留守居役格の者
l i
﹁御用頼﹂大目付平賀勝足︵平賀家用人
︶
ところで︑記されている老中奉書は九州国立博物館所蔵﹁対馬宗家文書﹂群のなか
(3 0
)
に見出すことができる
︒
すなわち︑対馬藩五代藩主宗義方の嫡子彦千代は正徳
三年
(3 1
)
︵一七︱︱︱‑︶八月六日に亡くなり︑公儀には同二十八日に届が出された
︒
それに対す る返答が右の老中連署奉書である
︒
この先例は︑藩主と世嗣である若殿が共に在国 しているものであり︑今回もそのようなケースであったので︑その先例を持ち出す
(3 2
)
ことにより届の正当化を図ろうとしたのである
︒
2
.善之允︵宗義達︶﹁嫡子成﹂請願から嫡子となるまでの折衝と情報伝達
万延元年(‑八六
0)
十一月二十五日︑善之允は藩主義和正室喜代姫の養子分と
なった。
その後、善之允の「嫡子成」について、初子の場合は一門•他家へも知らせ
幕末期対馬藩主宗義達︵善之允︶の﹁嫡子成﹂における江戸藩邸・国元藩庁と幕府との折衝・情
報 伝 達 ー幸か家文庫︑万延二辛
酉年
﹁ 義和様御二男善
之允様御前様御
養御嫡子成御記録﹂の
分析を中心にー
御在判 正 ︵ 御在判
#︶
井上河内守 阿部豊後守
5
幕末 期対 馬溜 主宗 義達
︵善 之允
︶の
﹁嫡 子成
﹂に おけ る江 戸藩 邸
・国
元藩
庁と
幕府 との 折衝
・情
報伝 達ー 宗家 文庫
︑万 延
二辛
酉年
﹁義
和様
御
二男
善之 允様 御前 様御 養御 嫡子 成御 記録
﹂の 分析 を中 心に
1
るが︑次男の場合はどのようにするべきかが問題となった
︒
対馬藩宗家にそのよう
な先例がなかったのである︒ところが︑弘化五年(‑八四八︶肥後細川家において次
男の﹁嫡子成﹂の願いを提出していたため同家に照会した︒また︑対馬藩においては︑
享保十五年︵一七三
0)
宗方熙の代に弥一︵義如︶を嫡子にと願い出た節
︑父子とも
ども登城するよう命ぜられたが︑簡略に済ませた先例がないか︑と江戸留守居役志 賀鼎次郎は︑﹁御内用御頼﹂奥右筆組頭早川庄次郎に内々に伺いを立てたところ︑﹁ど
( 33
)
の大名家︵藩︶においても同様であろうから︑先例を調査する﹂との返答があった
︒
その後留守居役志賀が早川を訪ねたところ︑﹁御他席においても同様に父子とも ども登城しているので︑善之允が江戸に出向かねば﹃嫡子成﹄の願い出は叶わないで
(3 4) あろう﹂との回答を受けた︒
これは対馬藩宗家より格上の大廊下︑溜の間を詰所と する藩︵大名家︶においても﹁嫡子成﹂届け出の際は︑藩主父子ともども登城してい
たためと推測できる︒
さらに︑﹁安永三年︵一七七四︶陸奥中村藩相馬家の先例もあり︑やはり善之允が 対馬在国のままでは叶わない﹂と言い聞かされた志賀は︑願書
・達の写とともに書取
を渡され︑﹁この春に善之允が参府するはずとのことなので︑到着の上で﹃嫡子成﹄
(3 5
)
を願い出るように﹂との奥右筆組頭早川からの回答があった
︒
そこで江戸藩邸では
善之允が参府の上で﹁嫡子成
﹂を願い出ることを決定し︑対馬府中藩庁の家老達にも
書状でその旨を伝えた︵︻史料編︼万延二年︹一八六一︺正月八日条︶︒以上の折衝・情
報の流れを図式化すると次のようになる
︒
︵先例照会︶①江戸留守居役山崎東介
j
肥後熊本藩細川家︵
留守
居役
?︶
②江戸留守居役志賀鼎次郎
︵ ﹁御内用御頼﹂奥右筆組頭早川庄次郎︵久丈︶
l i )
応 笞 ︑ 願 害 ・ 達 の 写 ・ 打 取
︶③留守居役志賀鼎次郎・﹁御内用御頼﹂奥右筆組頭早川庄次郎︵久丈︶
④江戸留守居役志賀
・山 崎ー
││
*
江戸家老
⑤江戸家老 ︵善 之
允 出 府 を 促 す 暫 状
‑ )国元藩庁の家老
文久元年(‑八六一︶二月二十六日︑江戸留守居役志賀鼎次郎は﹁御内用御頼﹂奥右
筆組頭早川庄次郎から呼び出された︒それ以前︑志賀は︑﹁善之允の出府は対馬藩宗
家家臣の参府という体裁なので
︑出府の届け出には及ばないと心得ているが︑到
着
次第﹃嫡子成﹄を願い出る手はずなので︑万が一の不都合はないだろうか
︒
その
ため
︑
当代細
川侯の次男長岡訓三郎が参府した際に届けを出したかどうか﹂と考え︑早川 に細川家の届け出の有無を問い合わせた
︒
早川からは﹁細川家からの届け出はあっ
た﹂とのことだった︒
また︑志賀は︑善之允の出府届け出は必要か否かを早川に﹁御
(3 6
) 内教﹂︑すなわち内々の指南を願い出ていた︒それに対して早川は︑﹁次男であって
も﹃嫡子成﹄を願い出る方は出府の届け出をするので︑必ず届けなければならない
︒
昨年︵安政七年︹一八六〇︺二
月二十五日︶の丈夫届の際︑善之允は国元にいるとの 届け出があったので︑︵善之允の出府届け出をしなければ︶辻悽が合わなくなってし まうので届け出をなさるように
︒ただ︑︵対馬藩宗家内部での善之允の︶地盤を固め
るという理由などがあれば︑江戸到着の上で届け出をされても特段差し支えはない
︒
あれこれと問い質すこともないだろうか
ら ︑
ここは貴家︵対馬藩宗家︶の考え次第で
あるので︑私早川からは何とも言えない﹂との回答であった
︒その結果︑善之允の
文久元年(‑八六一︶春中の出府が決定した︵︻史料編︼文久元年
︹ 一
八六
一︺
二月廿六
日条
︶
︒以上の折衝・情報の流れを図式化すると次のようになる
︒
①﹁御内用御頼﹂奥右筆早川庄次郎→ーー←江戸留守居役志賀鼎次郎②江戸留守居役志賀鼎次郎↑—|—こ御応〗用御頼」奥右筆組頭早川庄次郎
︵報告︶③江戸留守居役志賀鼎次郎
l
江戸家老︵折 街 の 結 果 を 記 し た 書 状
︶④
江 戸 藩 邸 こ 国 元 藩 庁
(3 7
) 同年三月晦日︑国元藩庁の家老達から﹁御左右﹂︵書状︶が江戸藩邸に届いた︒
それ
には善之允が二
月中旬︑対馬府中において出発式を行い︑上方に向けて出帆する予
定との旨が記されていた︒また︑道中において善之允は﹁根緒岩次郎﹂の変名を使う
(3 8
)
とのことであったが︑苗字
・名ともに変名では不都合ということで︑月番老中久世 広周への届書には︑善之允の出府とした︵
︻史料編︼文久元年︹一八六一︺四月十五日
条 ︶
︒ここで注目すべきは︑﹁営節之御出府者御内許相済居候訳二付表立差出候方宜と 之脇坂様御様子二付直二被差出候段委細記有之候間︑嘗節者御勝手二而公用人入内
見候様取計候事﹂という箇所である︒この記述から﹁表立差出﹂ものとそうでないも
のがあり︑その選択は﹁脇坂様﹂すなわち脇坂安宅の考えによるものということがわ
(3 9
) かる︒また︑この助
言をした当時︑彼は老中ではなかった
︒しかし︑役職を離れて
も幕府内部の事情に精通し︑かつ﹁外國御用﹂を担当した経験もある脇坂と対馬藩江
(4 0
) 戸家老・
留守居役が懇ろであったと推測される
︒
また︑﹁御前様・寛寿院様・慈芳院様﹂︑すなわち藩主義和正室喜代姫・先々代藩主
義質正室・
先代藩主義章正室の三人にも善之允出府について伝えられている
︒以上
の折衝・
情報の流れを図式化すると次のようになる
︒
︵ 善 之 允 出 府 を 伝 え る
﹁御 左 右
﹂ ︶
①
国 元 藩 庁 の 家 老 こ 江 戸 家 老
②脇坂安宅︵元老中)│←江戸留守居役?
③
留守居引切手代中庭弥七郎
3 ︵ 届
行 落 手
︶
︵ 届 む 持 参
︶"
月番老中久世広周︵公用人︶
︵守
友
隆︶
④ 江戸留守居役格の者
はじに﹁御用頼﹂大目付平賀勝足︵用人︶︵
手 紙
︶⑤
江戸留守居役?
•|↓
御前様(藩主義和正室)
・寛寿院様(宗義質正室)
・慈芳
院様(
宗義章正室)博役
||—▼御前様・
寛寿院・慈芳院 同年五月九日︑善之允は江戸に到着し︑翌十日江戸留守居役山崎東介が月番老中 久世広周の屋敷を訪問し
︑善之允江戸到着の旨を記した届
書を提出した︒
また
︑﹁
御 用頼﹂大目付平賀勝足にも同様届書を提出している
︒一
方︑江戸藩邸内では家老古
川治右
衛門が義和正室喜代姫・寛寿院・慈芳院のもとに参上し
︑善
之允嫡子成のこと について同意を得ている
︒
さらに︑藩主義和の妹の嫁ぎ先を含む
他大名家︵他
藩︶
に
留守居
役が使者として奉札を持参した
︵︻史料編︼
文久元年︹一八六一︺五月十日条
︶︒
以上の情報の流れを図式化すると次の
ようになる︒
①江戸
留守居役山崎東介
;月番老中久世広周︵取次
︶扁行・
手 紙
︶②
留守居格の者
ーー←﹁御用頼﹂大目付平賀勝足︵用人︶
︵ 了
承︶ ︵
参 殿
・報
告
︶③江戸家
老古川治右衛門
︳
︳ 義和正室喜代姫
・寛寿院・慈芳院︵
参 殿
・報
④ 告 ︶
用人平田俊左衛門
||~「亀山御奥様」(藩主義和妹・
伊勢亀山藩主石川総禄
正室
︶ 用人児嶋平左衛門
│̲
│二
'佐
久間
小路
御新
造様
﹂︵藩主義和養妹・豊後佐伯藩
世子毛利伊勢守︹高謙︺室︶
⑤江戸
留守居役万
笞使者笞の奉札)(使者奉札
二「御家門様方」・
「両敬」•その他大名家(藩)
(4 2
) 右で注目すべきは︑⑤
の﹁
御家
門様
方﹂
・﹁両敬﹂との遣り取りである︒対馬藩宗家
では他家との親密さに応じて右の
ような呼び習わしがあったことがわかる
︒とりわ
け﹁
御
家
門﹂とは頻繁に情報交換が行われたであろうことは想像に難くない
︒
同年五月十三日︑善之允の
﹁嫡子成﹂について近々幕府に願い出るので︑﹁御用頼﹂
御先手
内藤十郎兵衛のもとを留守居役が訪問し︑内藤十郎兵衛の用人に﹁嫡子成﹂願
書
のことを依頼した
︒
用人からそのことを聞いた十郎兵衛は直ぐに了承した
︒︵︻史
料編︼文久元年︹一八六一
︺五
月十
三日条︶︒
0
江戸留守居役一了 承 ︶ ︵ 頻 行 進 違 依 頻
二﹁御用頼﹂
先手頭内藤十郎兵衛
︵用人︶
同年
五月十七日︑江戸留守居役山崎東介は翌十八日提出予定の
善之允﹁嫡子成﹂の
(4 3
) 願書
を月番老中久世広周宅に持参した
︒久世家の公用人
三宅甚平が応対︑翌朝の﹁御
封容
﹂前に御先手内藤十郎兵衛を介して持参して
よいか伺いを立て︑三宅が願書な
ら
びに山崎の口上を取り次いだところ︑久世は了承した︵
︻史料編︼文久元年︹一八六
一 ︺
五月十七日条︶︒
0
江戸留守居役
山崎東介1
︵ 了 承 ︶
︵ 願 害 の 是 非 伺 い
︶
t月番老中久世広周︵公用人
三
宅甚
平︶
︵守 友 隆
︶ 翌
十八日︑手はず通り︑対馬藩は御先手内藤十郎兵衛を介して
善之允﹁嫡子成
﹂の
願書
を月番老中久世広周に提出した
︒
そして︑藩主義和正室
喜
代姫を始めとする
宗
家
一門の女性︑国元対馬府中藩庁の
家老達に幕
府への提出を終えたことを伝えた
︒
また︑頻書
を提出した上は︑近日中に
登
城の命が下るであろうことか
ら︑藩主義
和の名代依頼のため︑留守
居役山崎東介は豊後佐伯藩世子毛利高謙のもとを訪
ねた
︒
そして佐伯藩毛利家留守居にその旨を申し入れると︑高謙の了
承を取り付けること
ができた︒さら
に︑名代の控えは近江水口藩
主加藤
明軌に依頼した
︵︻史料編ー文久
元年︹一八六一︺五月十八日条︶︒
毛利高謙が藩
主名代を依頼されたのは︑高謙の正
(4 4
) 室が藩
主義
和の養妹だっ
たためであろう
︒
以上の折衝
・情報の流れは
次
の通
りであ
る︒
①対馬藩
││││:
内藤十郎兵衛︵御先手︶
ーー
ーー
: 月番老中久世広周
②
江戸留守居役山崎東介苔
久世 落
手 の 旨 を 伝 え る
︶
︵ 辞
儀︶:
内藤十郎兵衛
︵御先手︶︵
挨
③留守居 拶 ︶
役山崎東介
│ │ :
月番
老中久世広周
︵取次︶︵
挨 拶
・御
礼
︶④
留守居役
山
崎 東 介
ー│ │;
先手頭内藤十郎兵衛
︵用人︶
⑤
留守居格の者
l i
﹁御用頼﹂大目付平賀勝足︵用人︶
⑥留守居役?
l i
偲役・守役
l i
藩主義和正室・寛壽院・慈芳
院 ・
善之允
留守居役?け
じ 附
役
l j
伊勢亀山藩主石川総禄正室︵藩主義和妹︶・豊後佐
伯藩
世子毛利高謙正室
︵藩
主義
和養妹︶
⑦江戸家老
H
じ 国 元
藩庁の家老︵
了 承
︶ ︵ 藩
主 義 和 の 名 代 依 顆
︶⑧江戸
留守居役山崎東介
•こ豊後
佐伯藩世子毛利
高謙(留守居役)︵
了 承
︶ ︵ 毛 利 嵩 謙 の 代 役 依 碩
︶江戸
留守居役山崎東介
こ
近江水口藩主加藤明軌︵用人︶
同二十日未の刻
︵午後二時前後︶
過ぎ月番老中久世広周か
ら江戸留守居役に呼び出
しがあり︑手代の中庭弥七郎が久世の
屋敷に参上した︒
そして久世の公用人か
ら︑
翌二 十一日四ツ時
︵午前十時︶に藩主義和の名代一名が善之允を同道して登城するよ
うに︑と記された
書付を渡された︒
しか
し︑
善
之允は風邪のため
藩主名代のみが登
城することとな
った︒
そのことは﹁御用頼﹂大目付平賀を始めとする大目付
一同 ︑
﹁御
用頼﹂目付︑﹁御出入﹂坊主にまで︑翌
日の
登城において遺
漏なきを期し心添えを
頼
んでいる︒加えて︑安芸広島藩主浅野茂長︑長門萩藩主毛利慶
親など対馬
藩宗家の
親族にも知
らせている︵︻史料編︼文久元年︹一八
六 一
︺五月廿日
条 ︶
︒以上の折衝・情 報の流れは次の通り
︒
①江戸
留守居役引切手代中庭弥七郎
` ︵ 呼 出
野 付 渡
︶ ︵ 参 上 ︶
こ月番老中久世広周︵公用人︶
②
江戸留守居役山崎東介
l
月番老中久世広周
︵取次︶
幕末期対馬藩主宗義達︵善之允
︶ の
﹁ 嫡
子成﹂における江戸滞
邸 ・ 国元藩庁と幕府との折衝・情報伝達ー宗家文庫︑万延二辛酉年﹁義和様御二男善之允様御
前様御養御嫡子成
御記録﹂の分析を中心
にー
7
幕末 期対 馬藩 主宗 義達
︵善 之允
︶の
﹁嫡 子成
﹂に おけ る江 戸藩 邸・ 国元 藩庁 と幕 府と の折 衝・ 情報 伝達 ー宗 家文 庫︑ 万延
二辛
酉年
﹁義
和様
御
二男
善之 允様 御前 様御 養御 嫡子 成御 記録
﹂の 分析 を中 心に ー
︵承
知
︶ ︵ 名 代 勤 の 詳 細 ︶
③江戸留守居役山崎東介
‑
;
豊後佐伯藩世子毛利高謙︵留守居役︶︵
承 知
︶ ︵ 名 代 控 え の 詳 細 ︶
④江戸留守居役山崎東介•こ江江水口藩主加藤明軌(用人?)
⑤江戸留守居役山崎東介
ー ー
:
月番老中久世広周︵取次︶
︵ ﹁ 書 面
﹂・
手 紙
︶⑥
留 守 居 役 格 の 者 二
' 御 用 頼
﹂大目付平賀勝足︵用人︶︵
手 紙 ︶
⑦留守居役ー←
﹁御
用頼
御目
付﹂
︵用
人︶
⑧留守居役│←﹁御出入御坊主﹂︵
召 呼
.申
達
︶
︵
報告
︶
⑨留守居役?j守役—↓善之允︵
手 紙
︶
︵ 披 符
︶⑩留守居役?ー博役
l
藩主義和正室・寛壽院・慈芳院云奉札︶︵披 冗
︶
留守
居役
?・
│←附役│←伊勢亀山藩主石川総禄正室︵藩主義和妹︶・豊後佐
伯藩世子毛利高謙正室︵藩主義和養妹︶︵
呑 札
︶⑪留守居役?•|↓「御近親」(広島藩主浅野茂長・萩藩主毛利慶親・富山藩主前
桐田
松︵
利同
︶
・亀山藩主石川総禄・佐伯藩主毛利高泰︶
ここで注目すべきは︑﹁御家門様﹂よりさらに親密な関係の大名家︵藩︶を示す表現
として﹁御近親﹂という言葉が使われていることである︒文久元年(‑八六一︶当時︑
対馬藩宗家にとって最も親密だった大名家︵藩︶は広島藩浅野家・萩藩毛利家・富山
藩前田家・亀山藩石川家・佐伯藩毛利家の五家であった︒
翌二十一日︑対馬藩主義和の名代毛利高謙は辰の刻︵午前八時前後︶登城した︒江
戸留守居役山崎東介は高謙より先に登城し︑御坊主を介して当番の目付に︑藩主義
和の名代として毛利高謙が登城する旨を記した書付を提出︒その後︑登城して来た
高謙を玄関にて出迎えた︒そして江戸城白書院において老中列座のなか月番久世広
(4 5
) 周から︑願い出の通り善之允を義和嫡子と認めることが申し渡された︒儀式を終え
た高謙は老中・側用人の屋敷を廻勤︒山崎を始めとする留守居役も若年寄のもとに
使者として赴いた︒さらに︑この日︑﹁御用頼﹂目付松平正之に﹁嫡子成﹂を終えたこ
とを記した手紙を出している︒
この
﹁嫡子成﹂を終えた後に留守居役山崎東介が改めて使者として参上した人物に「御間柄」老中久世広周•安藤信正、「御間柄」側用人水野忠寛がいる。この「御間柄」
という表現は親戚付き合いのような極めて親密な関係性を想起させる︒さらに︑今
(4 6) 回は断りを入れているが︑﹁御出入﹂坊主入来の先例も見逃すことができない︒
また同日︑善之允﹁嫡子願﹂が認められたことに対する御礼をどのように取り計ら
えばよいか︑江戸留守居役山崎東介が月番老中久世広周に問い合わせている︵︻
史料
編︼文久元年︹一八六一︺五月廿一日条︶︒翌二十二日︑月番老中久世広周から﹁
飛札
﹂
を出すようにとの回答があり︑嫡子成記録の二十一日条に頭書をした︑とある︵︻史 料絹︼文久元年︹一八六一︺五月廿二日条︶︒その折衝は次の通りである︒
①江戸留守居役引切手代土田種右衛門1 ︵落 手
︶ ︵
伺 苔 提 出
︶:月番老中久世広周︵取次︶
︵ 呼 出 ︶ ︵ 参 上 ︶
②江戸留守居役引切手代土田種右衛門
・
:
月番老中久世広周公用人︵
附 札 付 伺 書 返 却
︶③江戸留守居役引切手代土田種右衛門‑
月 番 老 中 久 世 広 周 公 用 人
三宅
甚平
そして︑嫡子成記録の五月二十三日条は︑伊勢亀山藩主石川総禄とその正室︵宗︵行︶
義和
妹︶
︑豊後佐伯藩世子毛利高謙とその正室︵宗義和養妹︶︑長門萩藩主毛利慶親︑
近江水口藩主加藤明軌からの返礼の品の記述であり︑それで同記録は終わる︵︻史料
編︼文久元年︹一八六一︺五月廿三日条︶︒
(4 8
) 文久二年(‑八六二︶十二月二十五日︑藩主義和は隠居︒翌三年二月五日︑義達は
侍従に任ぜられ︑また同時に対馬守を名乗ることとなった︒隠居の義和は播磨守と
(4 9
) 名乗りを改めることとなった︒この義達の藩主就任の情報は文久三年二月六日付け
(5 0
) の江戸からの﹁御左右﹂によって国元対馬府中に知らされたが︑それが国元に届くの
(5 1) には三十三日を要した︒藩主就任の最重要情報でも江戸・対馬間は天候などによっ
てはこれくらい伝達日数を要したのである︒
以上︑近世の藩︵大名家︶において最重要といっても過言でない家督相続における
過程の一っ﹁嫡子成﹂について︑対馬藩江戸藩邸・国元藩庁と幕府との折衝の経緯・
情報の流れを詳述した︒以上からもいかに頻繁に情報が交換されたかが看取できる︒
安政期には対馬藩にとって幕府に働きかける窓口としては﹁御内用御頼﹂老中︵阿部正弘)、「御用頼」大目付(井戸覚弘・久貝正典•平賀勝足)が挙げられる。
また︑万延・文久期になると﹁御用番﹂としか表現がされていなかった老中久世広周•安藤信睦(信正)を「御間柄御老中」と表現するようになる変化は注目すべきであ
ろう
︵
︻表︼
参照
︶
︒それは対馬府中藩庁の毎日記に︑︵安政七年
1 1万延元年︹一八六〇︺
正月十五日︶﹁御老中安藤封馬守様外国御用御取扱被仰付候間︑
朝鮮御用之儀︑諸
事脇坂中務大輔様御同様御談可被成旨御同人様
5
御留守居御呼出左之御書取被成御(5 2
)︵
渡︑﹂︑万延元年(‑八六 ) 5 3
0)
十二月一日︑﹁御老中久世大和守様外國御用御取扱被蒙
(5 4
)︵
仰候付朝鮮御用之儀被成御談候様﹂とあるように︑安藤や久世は﹁外國御用﹂の関︑ ) 5 5
係で対馬藩とともに朝鮮外交を担うことになったため︑﹁御間柄御老中﹂と表現する
までに親密になったと考えられる︒
お わ り に
︵守 友
隆︶