はじめに
鎌倉期に廃絶した平安京内裏跡は、やがて内野と呼ばれるよ うになり、北野や平野などとともに﹁洛外七野﹂とされたこと はよく知られている。この洛外の七野は、貴族たちが遊猟する 地として、あるいはまた別業が営まれる地として、さらにはま た京郊の葬送地となっていったが、それら野については、これ までさして研究の対象とはされてこなかった。もちろん貴族ら の行動を検討するに際して、彼らの活動場所の一つとして取り 上げられることはあったとしても、七野自体は、洛中で生活す る人々にとっては日常的な場所ではなく、洛中および洛中に生 活する人々に視点を置く限り、その周囲に広がる野に焦点が向 けられなかったのは当然ともいえる。 本稿は、そうした洛外七野の一つである内野のありようを考 えることにある。とりわけ中世の内野は、 北野社の南に位置し、 西は同社の門前所領たる西京に隣接することから、筆者がこれ まで考察を進めてきた中世の西京を考える上でも重要と考えら れる。 これまで進めてきた西京についての考察は、洛中の周囲に広 がる地域の特性を考えるねらいのもと、北野社による西京支配 を含めその実態を検討しようとしたものであった。それらの検 討により、 ﹁寛永十四年洛中絵図﹂に描かれた景観などから、 同 地域一帯は広く畠地が広がる状況とともに西京が戦国期には武 家被官など雑多な人々が居住する半ば雑居地的な性格を帯びる ようになり、洛中に近接しながらも未だ十分な都市的発達をみ ない部分も看取されるという、同地域が有する都市周辺部特有 の特徴について、明らかにしてきた。しかしその一方で、西京 地域についての理解を、一層理解を深化させるためには、西京 を含む周辺の地域へと目を広げ検討していくことが課題として 残されている ︵ 1︶ 。中世後期北野門前と内野
貝
英
幸
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一四八 こうした視点にもとづき、今一度、西京周辺に目を移してみ ると、西京と洛中市街との間には、大きな空間を呈する内野の 存在に気づかざるをえない。西京は北野社の門前とはいえ、同 社の南は大将軍︵村︶が東西にひろがり、西京はその南側にひ ろがる集落で、 その東には内野が位置している。西京の実態を、 地域的な特性を明らかにするという観点で考察するためには 、 隣接する大将軍︵村︶や西京の東にひろがる内野のありように ついても考察する必要がある。 そこで本稿では、西京の東側に位置する内野について検討を 行うこととしたい。しかしながら内野についての史料は断片的 であり 、その歴史的変容が十分に明らかとなるわけではない 。 まずは内野の歴史的な変容を把握したうえで、北野社と内野の 関わりについて考えることとする。
第一章
内野の成立と変容
宮城から野へ 平安京内裏は、 天徳四年︵九六〇︶九月二十三日の焼亡以降、 度重なる火災と再建を繰り返したが 、後堀河天皇の安貞元年 ︵一二二七︶ の焼亡以後は再建されることもなく廃絶した。しか し実際には 、王宮およびそれに付随する政庁としての内裏は 、 廃絶以前既に十世紀の段階には機能しなくなりはじめており 、 十世紀末頃に堀河院・一条院などに代表される里内裏が営まれ るようになると衰退に拍車がかかった。こうした状況のもと内 裏は、 例えば建久二年 ︵一一九一︶ 三月二十八日に出された ﹁宣 旨﹂の﹁可停止以宮城内為車右馬路并放雑畜閑牛馬事 ︵ 2︶ ﹂が伝え るように、雑畜の放し飼いがなされるような有様であったこと が知られているが、それは内裏が衰退し徐々に宮城跡へと変貌 していく過程であったといえよう。 やがて鎌倉期にはいると、宮城の旧跡は﹁内野﹂と呼称され るようになっていった。 ﹁内野﹂ という呼称がいつ頃から用いら れたかは明確ではないが、内裏跡が野へと変貌していく様子は 当時の説話に題材としても用いられるようになっていった点か らもうかがえる。 ﹁今昔物語集﹂には、 説話の舞台として内野が登場するものが いくつかある。そのうち﹁長谷観音に仕りし貧男、金の死人を 得たる語 ︵ 3︶ ﹂は、三年間の長谷寺への月参りを結願した男が、帰 る途中で放免に捕らわれ宮殿跡に放置されていた死骸を河原に 運ぶよう命ぜられるものの、放免は長谷寺観音の変じた姿であ り、死骸の内には黄金が詰まっていたという話である。この話 において、 男が放免に捕らわれ引きずられて行った先は八省 ︵朝 堂院︶であったが、運ぶよう命ぜられた亡骸は﹁内野ニ有ケル中世後期北野門前と内野 貝 英幸 一四九 十歳許ナル死人﹂であった。 次に﹁西京人、応天門の上に光る物を見る語 ︵ 4︶ ﹂は、西京に母 と三人で住む兄弟が応天門の楼上に不思議な光をみるという話 である。この話では夜半に危篤となった母のため、三条京極に 出かけた弟を呼びに行こうとする兄が、西京から三条京極に行 く途中で内野を通っている様子が描かれているが、 そこでは ﹁夜 打深更テ、冬比ノ事ナレバ、風打吹テ怖シキ事無限リ。暗ノ比 ニテ、何ニモ物不見エズ﹂とあり、内野は人通りの途絶えた暗 闇の場所であったことがわかる。もっとも兄がこの時通った内 野とは﹁応天門ト会昌門トノ間﹂であり、 ﹁真サヲニ光ル物﹂を 見たのは﹁応天門ノ上ノ層﹂であった。朝堂院の南側に位置す る応天門や会昌門など内裏を構成する建造物の一部が未だ残っ ている一方で、人が自由に通行できる状態であったように描か れていることがわかる。 さらに ﹁ 狐 、 人に託きて取られし玉を乞返して恩を報ずる 語 ︵ 5︶ ﹂は、狐の玉を手に入れた男が自身の守護と引き替えに狐に 玉を返し、以後狐に守られるという話であるが、この話のなか では、男が太秦︵広隆寺︶に参詣した帰りに内野を通った際の 様子が描かれている。ここでも先の二つの話と同様、 内野は ﹁応 天門ノ程ヲ過ムト為ルニ、極ク物怖シク思エケレバ﹂と記され ているほか、男の呼びかけに応じて姿を現した狐によって、盗 人から身を守る様子が描かれている。 こうして見てみると﹁今昔物語集﹂に描かれた内野は、廃墟 と化した内裏の施設のみが残った場所として描かれており、そ こは死者の亡骸が放置されたり、人通りが途絶え盗人や狐が現 れるような場所であった点で共通している。またいずれの話に おいても内野の描写には応天門が登場しており、内野が同門周 辺を指していることには注意しておきたい。 他方 、文書や記録で宮城跡を内野と称する早い例は 、﹁名月 記﹂承元元年︵一二〇七︶六月の記事がある。これによれば六 月一日には後鳥羽上皇が内野に行幸した ︵ 6︶ ことが知られるほか 、 同十日には内野で行われた犬追物を女房たちが見物したとあ る ︵ 7︶ 。また、同じ時期には北条泰時が﹁在京の武士共、物を射る とて内野を馬場に定め﹂と述べ、在京の御家人らが内野を馬場 として使用していることを問題視し、 ﹁六波羅方より内野へ出ん ことは殊に然るべからず﹂と六波羅から内野へでかけることを 厳禁している例 ︵ 8︶ も見られる。 これらの例をみると、文書や記録にみえる内野は、内裏を構 成していた政庁の建造物群は既になく、馬場として犬追物が行 われたりする場へと変貌をとげていたことがわかる 。その点 、 朽ち果てつつあるとはいえ未だ建造物が残るように描かれてい た説話における内野の姿とは多少異なっている 。説話と文書 ・
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一五〇 記録という性格の違いを考慮すれば、両者を単純に比較するこ とは困難であるが、その違いを時間的な経過と理解すれば、文 書や記録が伝える内野の姿は﹁今昔物語集﹂の段階を経た後の 内野の姿と理解できよう。 明徳の乱と内野 前節では主には平安・鎌倉期の内野の様子を確認したが、南 北朝内乱期になると、内野は戦場として史料に現れる。 去ホトニ五月七日卯刻将軍ノ御勢嵯峨ヨリ内野ニ充満ス 。 先陳ハ神祇官ヲ前ニアテゝ東向キニ控ヘ、六波羅勢ハ白河 ヲ上リニ経テ、 二条大宮ヲ隔テ西向キニヒカヘタリシカバ、 辰ノトキ計リニ両陳互ニ進ミ合テ上矢ノ鏑響キ渡リ、鬨声 聞コユルホド有リシ ︵ 9︶ 。 元弘三年︵一三三三︶五月七日、鎌倉幕府の追討を目指した 足利尊氏は洛中西方から六波羅に向け進軍するが、その際六波 羅から繰り出してきた幕府軍との間で、内野で合戦が行われて いる。 次いで、内野が戦場となるのは、明徳二年︵一三九一︶十二 月の明徳の乱である。明徳の乱は、山名氏の幕府に対する反抗 の結果として生じた軍事動乱であり、乱の直接的な原因は、足 利義満の山名氏に対する処遇への反抗であったことはよく知ら れている。その背景には南北両朝の対立にも概ねめどがついた なか、幕府の政治体制の確立と将軍権力の安定化を目指した足 利義満が山名氏一族内の対立を利用することにより、当時肥大 化しつつあった山名氏の勢力を削減しようとしたことがあげら れるが 、ここでは明徳の乱の原因の検討が目的ではないため 、 これ以上の言及は行なわない。 さて、明徳の乱そのものは、同年十二月末、山名満幸が叔父 にあたる和泉守護の氏清や紀伊守護の義理らとともに京都に進 攻するかたちで推移する。十二月三十日、幕府軍は進攻してき た山名軍と大規模な戦闘を繰り広げるが、その中心となったの が二条大宮および内野であった。一般には﹁内野の戦い﹂とし て知られるが、その様子は﹁明徳記﹂が具体的な状況を伝えて いる。 ﹁明徳記﹂は、保元物語 ・ 平治物語 ・ 平家物語および太平記に 代表される戦記文学に分類されるもので、 史料的には ﹁所謂 ﹁末 代記録﹂として事実を記し止める意図の下に筆を執られている ゐることは確かであるが、その﹁末代記録﹂の意味は決して単 に歴史事実の記録といふ意味ではなく、それは寧ろ事実に即し つゝ筆をとりつゝも、その執筆の態度は飽く迄も語物としての 立場に立つたもの ︵ 10︶ ﹂と評価されるように、事実と物語が融合し た軍記物であり、史料として用いるには注意を要することはい
中世後期北野門前と内野 貝 英幸 一五一 うまでもない。 とはいえその一方で、 ﹁明徳記﹂はその奥書から、 乱の五年後 にあたる応永三年 ︵一三九六︶には既に成立していたとされ ︵ 11︶ 、 室町期の日記にも 、﹁内裏依仰明徳記三帖 、堺記一帖進之 ︵ 12︶ ﹂と あることなどから、 その存在が確認される。また﹁明徳記﹂は、 そうした公家層を中心とした書写による広がりに加え、成立直 後より物語僧による伝播が指摘 ︵ 13︶ されている 。 こうした ﹁明徳 記﹂の特徴を考えると、物語中に登場する地名等は、その記録 性から平安京の古地名が用いられたというよりは、むしろ物語 として語られる際に現実味を付加するものとして取り扱われた と考えるべきだろう。すなわち﹁明徳記﹂に見える地名は、同 記が執筆された時点で、まさに人々の間で現に用いられていた ものと理解する方が自然であろう。 さて、 ﹁明徳記﹂にみえる内野は、十二月二十八日、幕府 ・ 山 名両軍の決戦を控えた状況のなか、八幡に構えた陣営から京へ 攻め上る山名勢を迎え撃つ幕府軍の配置を述べた箇所で詳細に 記されている。 其外ノ諸軍勢ハ皆ヒタ甲ニテ一勢︵偏︶々々打出、内野ニ 陣ヲゾ取タリケル。先細川武州入道常久、舎弟右京大夫頼 元、淡路守、相共ニ都合其勢二千余騎、中ノ御門ノ西大宮 右近ノ馬場ヲ前ニ当テ、峯ノ堂ヨリヲリ下リ、上梅津ヲ責 入ト聞シ︵山名︶播磨守勢ニ相向フ、赤松ノ上総介ハ其勢 一千三百余騎、冷泉ノ西大宮ノ雀森ニ陣ヲ取。是ハ丹波口 ヨリ上総介、小林上野守ガ寄スルト聞シニ相向。畠山ノ右 衛門佐ハ八百余騎ニテ神祇官ノ北、大庭ノ椋ノ木ヲ南ニ見 テ土御門ノ末ニ陣ヲ取。敵東口ヨリ責入テ一条ヲ西ヘ懸出 バ、猪熊ノ返橋ノ辺ヘ馳向テ支ヨト也。大内左京権大夫義 弘ハ︵手勢︶五百余騎、神祇官ノ森ヲ背ニ当テ二条大宮ニ 陣ヲ取。是ハ大宮ヲ登リニ寄来ルト聞シ山名奥州ノ勢ニ相 当ル 。一色左京大夫詮範ハ三百余騎 、春日猪熊ニ陣ヲ取 。 是ハ猪熊ヲ上ル敵アラバ二条辺ニ馳向テ支ヘヨト也。勘解 由小路ノ治部大夫義重ハ五百余騎ニテ中ノ御門油小路ニ陣 ヲ取。 是ハ東口ヨリ責入テ御所御陣近ク寄来ラム敵アラバ、 西洞院ヘ馳向支テ勝負ヲ決セヨト也。佐々木ノ治部少輔高 詮ハ七百余騎ニテ一条ノ大路ヲ前ヘ当テ、北野ノ森ヲ背ニ シテ大嘗会畠ニ陣ヲ取ル。是ハ播磨守丹波路ヨリ二手ニ押 分テ長坂口ヨリ責入ラムト聞エシカバ、千本船岡山辺ニ相 支テ南ヘ敵ヲ通スナト也。 其外ノ人々ハ皆々御馬廻ニシテ、 中御門、猪熊、大宮ヲ前ニ当テ一条辺マデ陣ヲ取。都合其 勢三千余騎 ︵ 14︶ 。︵下略︶ ︵波線筆者︶ 右の軍勢の配置は、合戦の三日前、二十五日の夜に行なわれ た評定にて決したものとするが、 それによれば幕府方の軍勢は、
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一五二 一条通の北方﹁大嘗会畠﹂に配置された佐々木高詮を除き、ほ とんどの軍勢が一条から二条にかけての大宮大路および西大宮 大路、さらには大宮大路の東側にあたる猪熊小路・油小路に配 置されていることがわかる。すなわち軍勢は旧内裏の東西の外 郭にあたる大宮大路・西大宮大路の外側、つまりは旧内裏を取 り囲むように配置されたことになる。この軍勢配置は、個々の 配置を示す記述に続き﹁陣ヲ四方ヘ取ヒロゲテ態ト内野ノ中ヲ 広クアケテ、若敵一方ヲ責破テ裏ヘ切テ入ラバ、諸方ノ陣ヨリ 真中ニオッ取籠テ、一人モモラサズ打トノ巧ナリ ︵ 15︶ ﹂とあること により、攻め上ってくる山名方を軍勢の内側に誘引しようとす る幕府軍の戦略に基づいたものであることがわかる。 幕府や御所の防衛に際して、軍勢がどう配置されたのかが具 体的に判明する点から、幕府の合戦の仕方を具体的に知る上で 興味深いが 、それ以上に重要なのは 、これらの記述から 、﹁ 内 野﹂がまさに宮城跡のことを指しているとともに、戦場にふさ わしい状況にあったことが判明する点であろう。内野は鎌倉期 には馬場として利用され、そこでは武士達によって犬追物など が行われていたことは先述した通りである。幕府軍は当初から そうした﹁内野﹂を戦場にすることを企図し、軍勢を内野の周 囲に配置したのである。 加えて、それら軍勢の配置された場所が平安京の街路名で示 されている点も興味深い。平安京が建設からしばらくした段階 で衰退し、とりわけ都の西半分にあたる右京部分は棄都された といってもよい状態であったことは良く知られている。ここで 検討を行っている﹁内野﹂も、まさにそうした平安京衰退の結 果として生じたものであり、平安京の変遷の一環として位置づ けられるものである。しかし﹁明徳記﹂において平安京の街路 名がなお用いられているということは、右京部分の衰退から約 五百年ほどが経過した明徳年間においても、平安京の街路名が 意味を持っていたことを示している。それは平安京に由来する 街路の名称がただ単に用いられたということではなく、街路の 一部が残っていたことを示唆しているよう。とはいえ、街路お よびその周辺の様子が建設当初のままでないこともまた当然で あり、それらは﹁冷泉ノ西大宮ノ雀森﹂ 、﹁神祇官ノ北、大庭ノ 椋ノ木ヲ南ニ見テ土御門ノ末﹂ 、﹁神祇官ノ森﹂など、古い名称 に加えて周辺の地理的・景観的な指標を示すことにより補われ ている。内裏の跡地がただ漠然と﹁内野﹂と呼称されたのとは 対照的でさえある ︵ 16︶ といえよう。 さて、明徳の乱はわずか一日の合戦で雌雄が決した。二条大 宮における大内義弘との戦闘を経て、幕府のねらい通り内野に 誘引された山名軍は、山名氏清・義数が敗死したほか、満幸は 丹波に落ち延びるなど一族は大きな打撃をこうむった。以後幕
中世後期北野門前と内野 貝 英幸 一五三 府では山名氏の領国を大きく削減する処置がとられていくが 、 その一方で山名氏の菩提を追善するため、内野では万部経会が 創出される。 万部経会については、梅澤亜希子氏による詳細な言及がある が ︵ 17︶ 、その成果に従えば、万部経会は﹁明徳記﹂下巻に 去程ニ去年十二月晦日ノ合戦ニ人馬多ク下世シテ、内野大 宮ノ戦場ニハ夜々ニ修羅闘諍ノ声聞ヘテ、時々合戦死亡ノ 苦ヲイダク 、 音ノミ人ノ夢ニモ幻ニモ見聞ケル間 ︵中略︶ 不儀ノ反逆ヲ誡テ已ニ誅戮シヌル上、一乗八軸ノ妙経ヲ毎 日ニ一部、七日ニ七部頓写シ給ヒテ、無二亦無三ノ妙理ヲ 演、供具ヲ珍備シテ、五山ノ清衆一千人ヲ以大施餓鬼ヲ行 セ玉ヒ ︵ 18︶ と示されており、 応永二年には﹁請一千人僧 補闕分百人 相加云々、 十ケ日間、 令 読誦一万部法花経 ︵ 19︶ ﹂といった様子であった。同記の成立を応永 三年頃とするならば、執筆時にはすでに万部経会は催されてい たことになる。 ところで、 この万部経会は、 ﹃大日本史料﹄が明徳三年十二月 是月条において ﹁是月 、義満 、始メテ萬部經會ヲ内野ニ修ス﹂ との綱文に続いて、 ﹁假名年代記﹂ 、﹁重撰倭漢皇統編年合運図﹂ 、 ﹁翰林葫蘆集﹂ 、﹁ 後太平記﹂ 、および ﹁明徳記﹂を引いており 、 それらはいずれも万部経会の催行された場所を﹁内野﹂として いる。これは、北野万部経会を述べる上で一般的な理解である ﹁山名氏清依返 反 逆、義満起兵、戦於内野、得氏清首、凱歌而帰、 然氏清天下勇士、是故為彼霊及一族追福、始万部経于内野、為 其道場所建立也 ︵ 20︶ ﹂との記述に基づくものなのであろう 。一方 で、初期の万部経会の様子を伝えた﹁荒暦﹂は、同会が催され た場所を﹁自今日於北野南馬場﹂と記しているほか、 ﹁東寺王代 記﹂は﹁於北野馬場﹂と記している。これは、応永七年の万部 経会を記した﹁枝葉抄﹂が﹁於北野右近馬場假屋﹂と記すのに 続いて、同十年の様子を伝えた﹁吉田日次記﹂が﹁右近馬場新 御堂﹂と記していると符合する。いうまでもなくこの﹁假屋﹂ 、 ﹁新御堂﹂は経王堂のことを指しているから、 万部経会の催され る内野は、 北野社のすぐ南にあった右近馬場ということになる。 ただし右近馬場は、先の明徳の乱の際の内野の合戦では、細 川常久・頼元が陣を構えてはいたものの、同合戦の中心であっ たわけではない。その意味では、なぜ﹁右近馬場﹂が万部経会 が催行される場所として選ばれ、またそのための施設として経 王堂が建立されるのかという点については検討する必要があ る ︵ 21︶ 。 万部経会が催行された場所について 、岩波文庫本 ﹃明徳記﹄ には、次のように記されている。 不儀の反逆を戒めてすでに誅戮しぬる上は、かれが遺跡に
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一五四 誰残て菩提をも訪べきと 、 不便におぼしめしされければ 、 ﹁あたをば恩を以て報ずべし。 ﹂とて、相国寺に於いて、一 乗八軸の妙経を ︵ 22︶ ︵下略︶ わざわざ解説するまでもなく、大施餓鬼が内野ではなく相国 寺で催行されたと記されていることがわかろう。これを先に引 用掲出した群書類従本﹁明徳記﹂の記述と比較してみると、群 書類従本からは右に示した傍線部分が欠落していることが判明 する。記述内容からみても、傍線部分を加えた岩波文庫本の記 述の方が妥当と考えられ、本来の記述であったと考えざるをえ ない。 とすれば、万部経会は最初から北野門前で催行されたのでは なく、 当初は相国寺で行われ、 後に内野で催行されるようになっ たことになる。したがって万部経会が催行された北野社門前の 右近馬場は、あくまでも﹁内野とみなされ﹂催行場所として選 ばれただけなのではないだろうか。
第二章
北野社と内野
内野の寄進 先章で確認したように、内野は明徳の乱によって戦場となる 一方で、戦後は合戦で命を落とした者たちの菩提を弔うための 万部経会が開かれる場となった 。この後内野での万部経会は 、 法会の盛衰はあるにせよ、おおよそ天文年間までその開催が確 認されるが、内野はそうした法会の場所としての姿以外に、北 野社の門前所領としても開発が進められていったようである。 永享五年︵一四三三︶五月十八日に出されたと思われる﹁足 利義教御判御教書写 ︵ 23︶ ﹂には次のようにある。 北野宮寺領 〃 和泉国大鳥郷、美濃国日野郷、越前得光保、内 野畠等事 、密乗院今 〃 〃 〃 内野慶雅 ・妙蔵院祐縁相共致奉行 、 可 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 〃 致奉行既各可抽奉行可抽造功之状如件、 永享五年五月十八日 御判 右の文書は、和泉国大鳥郷以下の所領を北野社の造営の費用 に充て、密乗院慶雅および妙蔵院祐縁の二名を奉行に任じたも のだが、この文書が北野社の所領として内野が見える最初の文 書である。文書には﹁可抽造功﹂とあるだけで、これ以後造営 料所に関する文書にみえる ﹁造営料所﹂ との文言はないものの、 宝徳三年︵一四五一︶三月の﹁室町幕府下知状﹂に、本文書と 同じく和泉国大鳥郷、美濃国日野郷、越前国得光保とともに内 野畠が北野宮寺造営料所とされている ︵ 24︶ ことからも、内野畠が造 営費用に充当する所領に組み入れられていたことは間違いな い。 しかし 、内野畠がいつの時点で北野社領および造営料所と中世後期北野門前と内野 貝 英幸 一五五 なったのかという点については判然としない。 北野社造営料所については、 長享元年︵一四八七︶ 、 松梅院主 となった禅豫によって﹁当宮造営料所御寄付年預﹂なる記録が 作成されており、それらによれば造営料所を構成する所領各々 は康応元年︵一三八九︶から応永二十五年にかけて個別に寄進 をうけ成立していったように記されている ︵ 25︶ 。しかしこの記録 は、前松梅院主禅椿の追放により同院主となった禅豫が、必要 に迫られ十分な史料のないままに作成したと考えられ、記載さ れた内容は正確とはいえない ︵ 26︶ 例えば、 造営料所のうち越前国得光保は、 ﹁当宮造営料所御寄 付年預﹂では応永二十三年︵一四一六︶十二月晦日に﹁勝定院 殿︵足利義持︶ ﹂により寄進されたとするものの、 得光保は既に 貞和二年︵一三四六︶には﹁北野社修理﹂のために寄進されて いる ︵ 27︶ ほか 、観応二年 ︵一三五一︶七月には ﹁北野社造営料所﹂ として安堵されている ︵ 28︶ 。 また、 ﹁当宮造営料所御寄付年預﹂が作成されたのは長享元年 であるが、禅豫はこの記録に先立ち、初めて松梅院院主に就任 した寛正年間から文正年間にかけても所領目録を作成してい る ︵ 29︶ 。そのうちの不知行の所領を列挙した﹁北野社領 松梅院不 知行所々事﹂ ︵以下 ﹁不知行注文﹂ と略す︶ には ﹁宮城内野畠新 開右馬料 事﹂が、不知行の所領のより詳細な支証を記した﹁北 野社領 御師松梅院不知行分御判注文事﹂ ︵以下 ﹁御判注文﹂ と 略す︶には ﹁宮城内野新開寮大明神﹂がそれぞれ確認される 。 両者は名称に違いはあるものの、おそらくは同一の所領を指し ていると思われるものの、所領の由緒を示す支証として﹁不知 行注文﹂は﹁院宣﹂をあげ、 ﹁御判注文﹂は﹁綸旨・院宣三通、 御奉書三通﹂をあげている。ただし、現在残る﹃北野天満宮史 料﹄および﹃北野神社文書﹄には、 該当する文書は見当たらず、 これ以上の詳細は判然としない。 ちなみに禅豫は、上記二点の注文作成とほぼ同じ時期に、当 知行の所領についても目録を作成しており、その目録にも﹁内 野畠﹂の名はみえている。つまり、内野畠は当知行の目録にも 不知行注文にも同時に記載されていることになるが、これは北 野社に寄進された内野畠が、二カ所以上に分かれていた可能性 を示唆していると思われる。すなわち、不知行と記載された内 野畠は、 ﹁新開右馬料 寮 ﹂あるいは﹁新開寮大明神﹂と記載されて いるように、内野のなかでももとは右馬寮があった場所、つま りは宮城跡の南西角一帯を指していると思われる。一方、知行 注文に記された内野畠は、内野畠と記されるのみで具体的な場 所は示されていないものの、慶長年間には﹁内野一条道下通 ︵ 30︶ ﹂ 、 ﹁経堂ノ下一条道限 、内野ノ出松原 ︵ 31︶ ﹂などとあるところからみ て 、おそらくは北野社の南一帯を指しているものと思われる 。
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一五六 これを宮城跡に当てはめれば、北野社の南側は宮城跡の西北部 ということになり、北野社のいう内野は、宮城跡西側を指して いることになる。ただし、長享から延徳年間にかけて開発が確 認される当知行の箇所は三町余りの面積しかなく、連続した耕 地というよりは、宮城跡の一部と理解すべきだろう。なお、内 野の開発については後述する。 ともあれ、上記の諸点から考えれば、各造営料所の成立年代 は不明とせざるをえないものの、内野に限っていえば、禅豫が ﹁当宮造営料所御寄付年預﹂において記した応永二十年七月 二十五日、および応永二十三年︵一四一六︶八月の北野宮寺領 に対する永代諸役を免除した文書に﹁洛中辺土敷地﹂とある ︵ 32︶ こ となどから、明徳の乱後から応永年間までの時期ということに なるだろう。 内野と造営奉行職 ところで、北野社領の具体的な管轄については、室町期のほ とんどの期間にわたり御師職および宮寺領奉行職を勤めた松梅 院の存在があまりにも大きい。北野社は、公的には曼殊院門跡 が寺主を兼ねる宮寺であったが、将軍御師職を通じて将軍権力 と直接に結びついた松梅院が、社内の実質的な権限を握ってい たことに加え、日常の神社運営の経済的基盤という点からいえ ば宮寺領奉行職が重要な意味を持っていた。 しかしながら、こと造営料所に関して、とりわけ内野の支配 についていえば、 松梅院の関与は一貫しては確認できるものの、 その一方で他の祇官の姿も見え隠れしている。造営奉行職につ いては、米村直之氏による先稿 ︵ 33︶ がある。米村氏は、北野社の造 営事業は、貞治五年︵一三六六︶以前には社家組織外部の僧侶 が主導して行う体制がとられていたが 、やがて造営奉行職は 、 社内における松梅院の権力増大に伴い、同院が補任される御師 職と兼帯されるようになっていったと述べる。以下、米村氏の 成果を参考にしながら、近年刊行された﹁社家記録﹂の内容を 補足しながら再度検討 ︵ 34︶ してみよう。 内野の管轄は、先述したように内野の名がみえる最も早い永 享五年の文書では、密乗院慶雅および妙蔵院祐縁の二名の手に 委ねられていた。次いで、内野が造営料所としてみえる宝徳三 年の文書、康正元年︵一四五五︶の文書では、内野は宝成院明 憲に預け置かれているほか、翌康正二年には管轄者の名として 宝成院明範が確認される ︵ 35︶ 。造営料所と松梅院との関係は、長禄 二年︵一四五八︶四月に、内野を含む造営料所四カ所の奉行職 が法眼禅親に附されて ︵ 36︶ 以降であり、それまで造営料所に関する 文書に松梅院の名は確認できない。 これ以後、宮寺領奉行職および造営料所奉行職は、文正元年
中世後期北野門前と内野 貝 英幸 一五七 には︵松梅院︶阿賀丸に、また長享二年には松梅院禅豫に安堵 され、松梅院院主の交替に合わせて安堵の文書が発給されてお り、松梅院が社中の諸職を手中に収めていくのと軌を一にして いるといえよう。 しかし、長享二年十二月の禅豫への﹁北野宮寺造営料所﹂の 安堵 ︵ 37︶ は、禅豫の松梅院主が、前松梅院主禅椿の追放という特殊 な状況のもとで成立した ︵ 38︶ ことに加え、妙蔵院祐繁が造営料所に 対する訴訟を企てたことにより、長享元年十月に北野宮寺奉行 職が安堵 ︵ 39︶ されてから一年以上も間隔があくこととなった。妙蔵 院は、内野が北野社領となった初期の段階では造営に関わる地 位にあったことから、その後も内野に対し何らかの権利を有し ていたものと推測される。 さらに、永正十五年︵一五一八︶六月二十六日付﹁室町幕府 奉行人連署奉書 ︵ 40︶ ﹂によって 、﹁北野宮寺造営料所﹂が松梅院禅 光に還付されたことが知られる。これはこの時期、松梅院と共 に造営奉行職に補任されていた宝成院の﹁造営無沙汰﹂が問題 となったことに伴い、造営に関わる権限を松梅院に集約するた めの措置であったようで、同日には内野畠と同じく造営料所で あった和泉国大鳥荘が松梅院禅光に返付されている ︵ 41︶ 。造営奉行 職を松梅院へ集約するという措置は、造営の実質的な推進とい うねらいがあったことはいうまでもないが、当然その背景には 松梅院による北野社内での権力掌握の進行が想定されるだろ う。 しかしながら造営奉行職をめぐる松梅院と宝成院の対立は、 これで決着するわけではなく、この後も継続して問題となって いる。 まず 、永正十八年三月には ﹁後柏原天皇綸旨﹂が発給され 、 造営奉行職をめぐる両祇官の対立が再燃する。 北野宮造営奉行職事、譜代相続之処、祠官宝成院一方向 掠 領之云々、殊乍送数年 神殿半作而令無沙汰、剰汚損之體 言語道断次第也、或依不存旧儀、背社例之間、条々叵測 神慮候哉、因茲為武家如元被還補畢、仍拝殿等儀、早速造 立無比類者也 、次宮城内野畠事 、対 帯 御寄付 院宣異之他 、 知行子細在之、 然宝成院以下動稱由緒掠申儀、 太以無其謂、 所詮、云理運、云忠節、旁以於彼訴訟者、永不可有御許容 上者、全当知行、弥可被専修造之由、天気所候也、仍執達 如件、 永正十八年三月廿一日 右 勧修寺尹豊 少弁︵花押︶ 松梅院律師御房 ︵ 42︶ 右の綸旨によれば、北野社造営職をめぐる問題は、それまで 譜代が相続していた北野社造営職を宝成院が﹁掠領﹂したこと を発端とするものであったが、ともかくも宝成院による造営は 進められていた。しかし数年にわたる作業もその内実は﹁半作
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一五八 而令無沙汰、剰汚損之體﹂のような状態であり、十分な成果は 残せていなかったようである。その結果、綸旨は造営作業の遅 延を問題とし、 造営奉行職は松梅院へ仰せ付けられたのである。 あわせて、造営料所の一つである﹁内野畠﹂についても、幕府 の決定と同様に松梅院の知行とする決定が下されている。それ までの松梅院と宝成院の関係を考えれば、この綸旨で﹁譜代相 続﹂とされたのが松梅院であることは明らかであろうが、何よ りも重要なのは 、造営奉行職をめぐる宝成院の一連の動きが 、 奉行職の﹁掠領﹂ 、あるいは内野畠に対する﹁稱由緒掠申﹂した 結果とされた点であり、文言も相当に厳しく宝成院の造営奉行 職に関する動きを諫めている。 ところが、天文年間頃になると、これとは全く逆の動きが確 認できる。 北野宮寺造営奉行職事、至于今不事行之条、太不可然、所 詮、致折中之、於一方奉行職被仰付宝成院明延畢、早内野 畠半分、充明延、相互全領知、可被専造営、次当所務半分 儀、可被返付之由、被仰出候也、仍執達如件、 □□[ ] 長 諏訪 俊︵花押 ︵ 43︶ ︶ ︵以下欠︶ 文書は年紀および後半分を欠くため、詳細な発給年代は不明 なものの、 発給者の一人である奉行人諏訪長俊の在籍期間から、 永正年間から天文年間にかけてのものであると推定される。文 書の内容は、 先にみた永正年間の決定の内容を覆すものであり、 従前の通り造営奉行職を折中し、その一方を宝成院明延に仰せ つけるというもので、併せて内野畠も二分割され、その半分が 明延に宛行われている。 荘園経営による造営費用の捻出という、 中世においては一般的な手法も、荘園経営そのものが限界を迎 えつつある状況のもと、十分な成果が見込めなくなるであろう ことは容易に想像される。北野社が同様の方法を採用し続ける 限り 、誰が奉行職を勤めようと造営の十分な進捗は見込めず 、 社内の祇官による造営は限界を迎えていたといえよう。米村氏 が指摘 ︵ 44︶ をしたように、天文年間には十穀聖堯淳主導による経王 堂の修造が行われ、祠官による造営奉行職は終焉を迎える。 このように造営奉行職が、松梅院と宝成院に代表される複数 の祇官に分かたれている状況をみると、造営料所の管轄につい ても、室町幕府草創期における足利尊氏・直義による同社に対 する祈祷命令を発端とした祇官の対立と全く同様の傾向であっ たことわかる。尊氏・直義二人による祈祷命令は、その後、松 梅院と光薗院との確執を生じさせ、その後は光薗院の権利を引 き継いだ宝成院と松梅院の対立という形へと変化しながら、室 町期を通じて継続する ︵ 45︶ が、造営料所についても全く同じ状況の 対立が生じていたのである。
中世後期北野門前と内野 貝 英幸 一五九 門前所領としての内野 これまで、北野社造営領所として寄進された内野の支配権の 変遷についてみてきたが、最後に門前所領としての内野の姿を 確認しておこう。 先述したように、北野社に寄進された内野は、一部が不知行 となってはいたものの、当知行が行なわれ、門前所領として機 能していていた。 ﹁社家引付﹂には、 少ないながらもそうした内 野の当知行の様子をうかがえる記事がみえる。 内野本帳事申付候処、今日六 小畠六郎 郎持来也 ︵ 46︶ 、 内野未進帳六郎孫衛門注出之也、同社家西京未進分、重可 注出由、以前出候帳を出候て申付也、使局也 ︵ 47︶ 、 右は、 長享三年︵一四八九︶五月、 延徳元年︵一四八九︶十二 月の﹁引付﹂の記事であるが、それらからは、内野を管轄する 松梅院は、内野の﹁本帳﹂および﹁未進帳﹂を作成させ、所領 の管理および年貢徴収の基礎としていたことがわかる。ここに みえる﹁本帳﹂は、おそらくは次に掲げる年貢帳を指している のであろう。 合反別壱石参斗也、 壱石 反 芝弥四郎 壱反半 同弥次郎 壱反小 三条坊門烏丸車屋 壱反大 同東洞院五郎 壱反 同作人 壱反大 西京次郎 弐反 今少路四郎 壱反小 千本四郎次郎 弐反半 犬馬場三郎次郎 壱反大 三条坊門刑部 壱反 今少路次郎衛門 壱反 かい川三郎次郎 弐反 馬場林方 弐反大 西京孫六 壱反小 西京孫四郎 弐反小 西京太郎次郎 壱反小 西京孫三郎 壱反 西京小三郎 大 西京だん方 壱反小 西京彦左衛門方 壱反 五辻大宮与三 壱反半 かい川源五郎 壱反 西京四郎次郎
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一六〇 壱反半 西京彦次郎 以上、参町五反 此内壱反ハ倉付ニ 百姓中へ引申候、 残而四十四石弐斗定納、 毎年此分云々、但依年損否可相違歟 ︵ 48︶ 、 右は、延徳元年十月、内野の年貢収納に際して記された年貢 帳で、これによれば内野は二十三人の作人によって耕作されて いたことが判明する。その内訳をみてみると、二十三人の作人 の耕地は、 最小が﹁西京だん方﹂の﹁大︵二四〇歩︶ ﹂で、 最大 は﹁犬馬場三郎次郎﹂の二反半とばらつきがあるものの、概ね 一反程度であったことがわかる 。また 、 作人の名前には 、﹁ 西 京﹂ 、﹁かい川︵貝川︶ ﹂など西京地域との関わりを持つ者が確認 でき、作人の半分が西京からの出作であったことが判明するほ か、 ﹁今少路︵今小路︶ ﹂や﹁五辻﹂など、北野社近辺から出作 する作人も確認できる。 こうした出作者を中心とする百姓らの耕作によって、内野は ﹁昨日廿日内野収納也 、小畠六郎注進分 ︵ 49︶ ﹂とあるように 、まが りなりにも年貢収納が行なわれるまでに開発されていたようで ある。しかしその一方で﹁今日内野収納也、珍重々々、但西京 之百姓等 、就今日細河 川 丹波守与伊勢被官三上相論儀不収云々 ︵ 50︶ ﹂ とあるように、出作者中心の開発であるが故の問題も起こって いる。 北野社門前所領である西京について、筆者は以前に領内に住 する武家被官の存在によって、領主である北野社がその権利を 十分に貫徹できない状態にあったことを述べた ︵ 51︶ 。耕作者の半数 にもおよぶ西京からの出作者の動向は、内野の年貢収納に重大 な影響を及ぼす事態でもあり、西京で起こった細川丹波守と伊 勢氏被官三上氏の相論の影響をうけ、西京百姓らの収納が行え ない状況に陥っているのである。この時の細川氏と三上氏の相 論がどのようなものであったのかはわからないが、西京では三 上氏の被官となった西京住人の処分に際して、主人である三上 氏の了承が必要であったことなど考慮すれば、相論の結果が内 野の収納に直接影響を及ぼすものであった可能性も考えられよ う。
おわりに
以上、北野社門前所領である内野を中心に、その成立および 室町期の北野社による内野支配の一端を考えてきた。内野を造 営料所とした北野社では、主として出作者により開発が行われ ていたものの 、その実態は極めて限定的であった 。とはいえ 、 内野で年貢収納が確認された延徳元年には、収納作業と前後し て、内野で収穫されたと思しき﹁蔓草﹂や﹁菜﹂が、諸方へ遣中世後期北野門前と内野 貝 英幸 一六一 わされており、 ﹁社家引付﹂には﹁長生庵へ平茸一折并内野蔓草 十束遣也 ︵ 52︶ ﹂、 ﹁ 今日所々江内野蔓草進入申也 ︵ 53︶ ﹂、 ﹁ 今日飯尾左衛 門大夫方へ内野菜十束、在 勘解由小路 通五束、以人夫遣之 ︵ 54︶ ﹂などの記事が 散見される。 ただし、こうした内野の開発に関する記事も、これ以降は全 く見られなくなり、北野社の主導による内野の開発も、造営料 所の一つとして同社造営を担えるほど大規模なものとはなりえ なかったと理解せざるをえない。 やがて内野には、織豊政権期には、豊臣秀吉によって﹁内野 御構﹂ ・﹁内野殿下御屋敷﹂などと呼ばれた所謂﹁聚楽第﹂が建 設されるが、本稿で取り扱った内野はその西方にあり、場所を 異にしている。そこには聚楽第の西側で下級の武士らが集住し た一番町から七番町が建設されたが、やがて聚楽第の破却の後 は再び荒れ地と化したとされる ︵ 55︶ 。元和三年 ︵一六一七︶ ﹁社家 引付﹂は﹁内野を近年聚楽と申﹂すと記している ︵ 56︶ 。聚楽第の破 格から二〇年が経過し、再び元の姿へと戻っていた内野を聚楽 と称する記述は、偶然とはいえ内野の歴史的なあり方を示唆し ているようである。 註 ︵ 1︶ 拙稿﹁応仁文明乱後における膝下領の支配とその変質︱北野 社領西京を例にして︱﹂ ︵﹃鷹陵史学﹄二九号、 二〇〇三年︶ 、 同 ﹁中世末期村落の変質と祭礼︱西ノ京を中心に︱﹂ ︵﹃京都民俗﹄ 第二〇 ・ 二一号、二〇〇四年︶ ︵ 2︶ 建久二年 ︵一一九一︶ 三月二十八日 ﹁後鳥羽天皇宣旨﹂ ︵鎌倉 一 ・ 三九八頁︶ ︵ 3︶ ﹃今昔物語集﹄ 三 巻一六第二九話 ﹁仕長谷観音貧男得金死人 語﹂ ︵﹃新日本古典文学大系﹄一九九三、岩波書店︶ ︵ 4︶ ﹃今昔物語集﹄五 巻二七第三三話﹁西京人、 見応天門上光物 語﹂ ︵﹃新日本古典文学大系﹄一九九六年、岩波書店︶ ︵ 5︶ ﹃今昔物語集﹄五 巻二七第四〇話﹁狐、 託人被取玉乞返報恩 語﹂ ︵﹃新日本古典文学大系﹄ ︶ ︵ 6︶ ﹁名月記﹂承元元年六月一日条 ︵ 7︶ ﹁名月記﹂承元元年六月十日条 ︵ 8︶ 天福元年︵一二三三︶正月十七日﹁北条泰時書状﹂ ︵鎌倉七 ・ 三三頁︶ ︵ 9︶ ﹁梅松論﹂ ︵ 10︶ 冨倉徳治郎校訂﹃明徳記﹄ ︵岩波文庫本、一九四一年︶解説 ︵ 11︶ 前掲註︵ 10︶﹁解説﹂参照。 ︵ 12︶ ﹁看聞日記﹂永享六年二月九日条 ︵ 13︶ 杉本圭三郎﹁ ﹁明徳記﹂の位置﹂ ︵法政大学国文学会編﹃日本 文學誌要﹄一六号、 一九六六年︶ 、 吉田昭道﹁物語僧についての 一考察﹂ ︵﹃駒澤國文﹄ 創刊号、一九五九年︶ ︵ 14︶ 群書類従本﹁明徳記﹂ ︵ 15︶ 同前 ︵ 16︶ 杉本氏は前掲註︵ 13︶論文において、 ﹁明徳記﹂を﹁軍記が合
佛教大学総合研究所紀要別冊 洛中周辺地域の歴史的変容に関する総合的研究 一六二 戦の記録として文学的な意図を疎外してゆく方向と、より下層 の聴衆を対象とする古浄瑠璃的語りものへとわかれてゆく、そ の分岐点﹂と位置付ける。同記における地名の問題はまさにこ の点に関係しているといえる。 ︵ 17︶ 梅澤亜希子﹁室町時代の北野万部経会﹂ ︵﹃日本女子大学大学 院文学研究科 紀要﹄第八号、二〇〇一年︶ ︵ 18︶ 註︵ 14︶に同じ。 ︵ 19︶ ﹃荒暦﹄応永二年九月二十二日条。 ︵ 20︶ ﹁大報恩寺縁起﹂ ︵ 21︶ 北野では、万部経会が創出される以前より、菅原道真の追善 を願う法会として一切経会が催行されていた。北野の一切経会 は、 弘安七年︵一二八四︶八月の﹁北野聖廟一切経書写勧進疏﹂ ︵新訂増補国史大系﹃本朝文集﹄ ︶に示されるように、 ﹁天満天神 十二代孫﹂による﹁任正暦御託宣、 書写一切経、 建立経蔵一宇、 奉安置当社﹂という意志に基づくものであり、主には菅家を中 心とする公家層を主たる担い手としたものであった 。しかし 、 ﹃師郷記﹄ 文安三年 ︵一四四六︶ 三月二十一日条に ﹁北野経会无 之﹂とあるように、万部経会が定着する応永から文安年間にか けて行われなくなりつつあった 。北野における二つの法会は 、 おおよそ五十年の期間の間に、一切経会から万部経会へと入れ 替わっていたことになる。なお、一切経会と万部経会の関係に ついては、 先行研究として竹内秀雄 ﹁北野経王堂について﹂ ︵﹃史 蹟と古美術﹄一九巻一号、 一九三七年︶ 、 臼井信義﹁北野社一切 経と経王堂﹂ ︵﹃ 日本佛教﹄ 第三号 、一九五八年︶が言及してい るものの、両法会の関係があいまいなまま扱われており注意を 要する。その詳細については、拙稿﹁高麗版大蔵経と中世の日 本﹂ ︵﹃高麗版大蔵経の研究﹄ 、二〇〇五年、東國大学校出版部︶ 参照されたい。 ︵ 22︶岩波文庫本﹃明徳記﹄ ︵ 23︶ 右の文書︵ ﹁社家記録﹂一三六頁︶は、 北野社の所領に関する 文書のほとんどを収めた﹃北野天満宮史料﹄および﹃北野神社 文書﹄には含まれておらず、長享年間以降、松梅院禅豫がまと めた﹁社家記録﹂でのみ確認される。文言には抹消や挿入の箇 所がみられるものの、翌月六日にはこの御判御教書の発給を承 けた ﹁幕府御教書﹂ ︵﹁社家記録﹂ 一三五頁︶ が発給されるほか、 ﹃北野神社文書﹄ などに収められる関連の文書から考えて内容に は概ね問題はないと思われる。なお、 ﹁社家記録﹂など﹃北野社 家日記﹄七巻からの引用は、該当引付の名前と頁数を記してお く。 ︵ 24︶ 宝徳三年三月八日付﹁室町幕府下知状﹂ ︵ 25︶ ﹁社家記録﹂九〇頁 ︵ 26︶ ﹁社家記録﹂の性格および禅豫の松梅院主就任に関する詳細 は、拙稿﹁松梅院禅予と宮寺領の回復︱所領目録の作成を例に して︱﹂ ︵日次紀事研究会編 ﹃年中行事論叢︱ ﹃日次紀事﹄ から の出発﹄二〇一〇年四月、岩田書店︶を参照されたい。 ︵ 27︶ 貞和二年閏九月二十一日付 ﹁室町将軍家御教書﹂ ﹁北野神社文 書﹂三四号 ︵ 28︶ 観応二年七月三日付 ﹁足利直義安堵状﹂ ﹁北野神社文書﹂ 三五 号 ︵ 29︶ ﹁社家記録﹂一〇四頁 ︵ 30︶ 慶長五年五月三日条 ﹁慶長五年引付﹂ ︵﹃北野社家日記﹄ 五巻︶ ︵ 31︶ 慶長九年十二月二十五日条 ﹁慶長九年引付﹂ ︵﹃北野社家日記﹄ 六巻︶ ︵ 32︶ 応永二十三年八月二十五日付 ﹁足利義持御判御教書﹂ ﹁北野神
中世後期北野門前と内野 貝 英幸 一六三 社文書﹂五五号 ︵ 33︶ 米村直之 ﹁北野社の勧進と造営﹂ ︵﹃ 史学研究集録﹄ 第二五号、 二〇〇〇年︶ ︵ 34︶ 米村氏の論考公刊の後、二〇〇一年に﹃北野社家日記﹄第七 巻が刊行され、そこには﹁社家記録﹂をはじめとする松梅院禅 豫の手になる諸記録が含まれており、とりわけ禅豫が院主をつ とめる寛正から明応年間までの北野社中のあり方については再 度検討する必要が生じている。 ︵ 35︶ ﹁社家記録﹂ ﹁北野神社文書﹂一三五、 一三六頁 ︵ 36︶ 長禄二年四月十六日付 ﹁ 足利義政御判御教書﹂ ﹁北野神社文 書﹂六五号 ︵ 37︶ 長享二年十二月十七日付 ﹁足利義煕 ︵義尚︶ 御判御教書﹂ ﹁北 野神社文書﹂八〇号 ︵ 38︶ 拙稿前掲註︵ 1︶参照 ︵ 39︶ ﹁北野神社文書﹂七八号 ︵ 40︶ ﹁北野神社文書﹂一一六号 ︵ 41︶ ﹁北野神社文書﹂一一四号、一一五号 ︵ 42︶ 永正十八年三月二十一日付 ﹁後柏原天皇綸旨写﹂ ﹁北野神社文 書﹂一一九号 ︵ 43︶ 年未詳 ﹁室町幕府奉行人連署奉書﹂ ﹁北野神社文書﹂ 一四七号 ︵ 44︶ 前掲註︵ 33︶米村論文参照。 ︵ 45︶ 宝成院と松梅院の対立は、宝成院明順が禅椿が松梅院主を勤 めていた長享二年三月に ﹁知行分摂津国榎並下庄東方地頭職 ・ 同四分壱・同国郡戸庄地頭職・越前国社庄等事﹂をめぐり出訴 したことにはじまり ︵﹁長享二年引付﹂ 長享二年三月十二日条︶ 、 禅豫が院主を引き継いで以降も、永正五年︵一五〇八︶三月に は﹁光薗院相伝之古文書﹂を提出し、北野宮寺領丹波国船井荘 十一村半分奉行職についての御判御教書の発給を申請している ︵﹁北野神社文書﹂一〇一号︶ 。なお、 両院の対立については、 小 泉恵子 ﹁松梅院禅能の失脚と北野社御師職﹂ ︵﹃遙かなる中世﹄ 八号、 一九八七年︶ 、 拙稿﹁地域権力と寺社︱陣所を訪ねる人々 ︱ ﹂︵伊藤唯信編 ﹃日本仏教の形成と展開﹄法蔵館 、二〇〇二 年︶を参照されたい。 ︵ 46︶ 長享三年五月二十七日条 ︵ 47︶ 延徳元年十二月七日条 ︵ 48︶ 延徳元年十月二十二日条 ︵ 49︶ 延徳元年十月二十一日条﹃北野社家日記﹄二巻 ︵ 50︶ 延徳元年十月二十日条 ︵ 51︶ 拙稿﹁応仁文明乱後における膝下領の支配とその変質︱北野 社領西京を例にして︱﹂ ︵﹃鷹陵史学﹄二九号、二〇〇三年︶ ︵ 52︶ 延徳元年十一月八日条﹁延徳元年引付﹂ ︵ 53︶ 延徳元年十一月十七日条 ︵ 54︶ 延徳元年十二月六日条 ︵ 55︶ ﹃京都坊目誌﹄ ︵ 56︶ 元和三年十二月五日条﹁元和三年引付﹂ ︵カイ ヒデユキ 研究代表︶