助郷をめぐって
著者 宇佐美 ミサ子
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 42
ページ 60‑83
発行年 1990‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011052
周知のように助郷とは宿の常備人馬では継立が賄い切れない場合に周辺農村に課する交通夫役のことである。助郷は定助郷・加助郷・代助郷。当分助郷とに大別されるが宿の人馬不足の補填としてもっとも多く使役されるのが定助郷で、距離的に近接している村々がその役を果たしている。加助郷は定助郷の過重な負担を軽減する目的をもって追加された助郷で、定助郷と同様領内外を問わず周辺農村に課せられている助郷である。
●●●●と一」ろが、当分助郷とは「御用御多端二付当分之間」助(1)郷を「仰付る」というもので臨時の大通行などに暫時課せられた期限つぎ助郷のことで、主として幕末から明治維新 法政史学第四十二号
はじめに
幕末における助郷負担の展開
l甲斐国都留郡当分助郷をめぐってI前後の軍事輸送に関して多く見られ、本稿で取りあげる当分助郷も幕末の長征進発御用役に徴発された人馬役のことである。幕末から明治初年にかけての街道における交通量は、将軍の上洛、和官降嫁、長征進発、御東幸などによる人馬継立は膨大なものであった。特に軍事輸送の負担は街道の宿農民を窮地に追いやり、役負担の重圧は極致に達した。本稿では、甲斐国周辺に課せられた小田原宿への当分助郷役負担の実態を明らかにし、助郷課役に甲斐国の農民がいかにかかわり、役負担を成し得たのかを検討するものである。殊に、都留郡地域の村落の経済構造に視点を据え貨幣代納の形態について探ることを目途としたい。
宇佐美ミサ子
六○まず本節では、小田原宿の定助郷村一三一一か村が「助郷(2)夫役難渋之事実」を訴陰え、「当分増助郷」の「願書」を提出、助成を願い出たことに対し、甲斐国都留郡、山梨郡の村女が拒否をした事実について述べ、拒否の背景についてみていくものである。小田原宿定助郷村が「助郷役」の「難渋」を理由に「当分助郷御願」を訴えたのは慶応元年(一八六五)九月である。「難渋」の「事実」とは次のようなことであった。①通行量の増加。②京都警衛、軍夫役、人足役の負担過多。③漬人馬・弱人馬の続発。④拝借金の利足、諸雑費の経費拡大。⑤助郷の過重。(以下略)等々であった。小田原宿定助郷村の「願書」は幕府によってただちに取り上げられ、二か月後の十一月に甲州都留郡・山梨郡両郡の村落に「長征御進発御用」のための小田原(3)宿臨時助郷役が課せられた。それによると「近来、御用諸通行共、差添人馬多入侯」につぎ、「諸引高除之、残高五 ニ当分助郷嘆願の背景 幕末における助郷負担の展開(宇佐美) 分通ヲ以、当十一月汐小田原宿当分助郷御申付間、右宿役人汐相触次第、人馬無滞差出シ可相勤」ようとの厳命であった。課役の対象となったのは都留郡四八か村、山梨郡二七か村、計七五か村であった。これら助郷役徴発の対象となった村女への「触当」は至急廻状し、即承知の旨「請書」を小田原宿問屋へ提出するよう達している。なお小田原宿の人足肝煎徳太郎、同吉兵衛、問屋半左衛門、同伴十郎より、「当分助郷人馬勤方御打合申度、最寄村々御申合御惣代衆中、当十二月十五日迄一一当宿江御出張相成、且其節村々高帳御認御持参可成候」と添書ぎされている。そしてこの件については承知して欲しいので「御請印帳」を「巡達シ留村汐、早々一一御返却」するよう触れている。半強制的な「人馬触達」に対し、都留郡の一部の村落は、小田原宿の宿役人の一方的で強引な方法に「宿方汐触当次第人馬差出可相勤旨之御文一一一豆同驚入り」と戸惑の様相さえ見せている。そして助郷役は不可能であることを訴え「嘆願書」(4)を提出した。役負担勤難渋の理由は、(略)当村々之儀者、富士山北裾野附一一而、東南一一高山ヲ請、雪颪冷気甚敷悪地一一両外村方と運ひ、春者陽気三十日ヲ後し秋者冷気壱ヶ月余モ早、年分気候外
一ハー
レ相成、諸作共自実法不宣殊二富士山焼砂交リ至而悪地二付、田作之分ヲ柴秣苅入耕転共二寄取実増減有之候間、悉手数相懸リ侯へ共一毛取之場所二面麦作之儀者富士山汐湧出シ候水ヲ以仕付、水掛畑冬春と引分ヶ麦作蒔付汐実法候迄、数日之間昼夜無怠水懸致シ為実法候義二而、片時も水絶相成候而者一時一一凍候儀二付、余村之麦作仕付と違、莫大之人夫相掛候得素女惣地之義、其甲斐無之一同免之御取箇弁納仕候義二面元来農間之稼簿ク、前女沙蚕養稼ヲ以御年貢上納之足合一一致来且夫食乏土地二付、往古汐米穀者隣国汐附送り候分、買入士地之雑穀ヲ受漸話計罷在候処、山地人家等も掛隔候故、作物実法之時節、猿鹿出、作毛喰荒折角丹誠いたし候分皆無同様成候義一一両近郷無類之難村二御座候(以下略)とあって不動の第一の理由として、自然的・地理的条件の劣悪さがもたらす弊害を挙げている。嘆願の理由を要約すれば次のようである。①富士山の山麓地に位置していること。②冷気甚しい悪地であること。③富士山の火山灰により作物の収量が乏しいこと。④耕作労働に手間がかかること。 法政史学第四十二号
⑤山峡の地ゆえ、農間稼ぎも僅少であること。⑥米穀は不足し近隣から購入していること。⑦富士山の流雪により田畑が荒廃していること。等々である。さらに第二の理由として次のように訴えてい
る。(略)去ル天保度連作以来、追々潰退転之者出来御支配御役所〈歎願相続拝借仕、漸々取竣罷在候処、年々山崩等有之、去ル三十弐ヶ年間午年、中沢、沢ノ雪代水押シ田畑鯵敷居屋敷迄も押流レ損地多分出来之村方も有之、其上大門明見村者去女亥年中出火一一而家数七百拾軒余之処、六拾四軒類焼いたし難渋仕且又道中大月宿ず駿豆相一一一州江之脇往還継場一一而諸家様御通行之節、人馬差出御継立御相勤罷在候二付、既二文政明和両度道中黒野田宿外弐ヶ宿る当村女其外増助郷差村柄御見分被為在候間、前書之始未申上御免除御歎願奉申上候処、事実極難之土地柄御賢察被成下候哉、其後前同様差村相成御見分被為候得共、御免除相成候儀二御座候処、引続違作一一而相続出来兼、御支配御役所江奉歎願御拝借相願、其余種女仕法相立取続罷在候村々一一有之且又御料所以来、谷村御陳屋御用籾蔵詰替人足御用向御修復廻り囲ひ垣廉朶抗木等、村役一一而木品伐出し、 一ハーー
垣結人足五節句掃除等之人足年分差出相勤候、且新屋松山両村之義者、山中ロ留御番所致弥兵衛井囲ひ垣結等之役向被仰付相勤候、組合六ヶ村内一一両近来悪党共枇行弥候間、弥兵衛方厳重被仰付、加番人数相増候一一付、是以年分二而多分之勤方二而甲州道中助郷相勤候村柄二御座侯(以下略)すなわち、①潰れ退転百姓か続出していること。②出水による窮乏が激しいこと。③宿・往還・緋立場の人馬役が過重であること。④口留番所、その他の賦役で手いっぱいであること。⑤甲州道中の助郷役を賦課されていること。等ぺここでは主として諸役負担の重層性を不動の理由として挙げている。そして五か村の代表である大明見村の百姓代間右衛門は訴状を左のように結んでいる。(略)先般、御進発二付、今般当分助郷被仰付候小田原宿江御日割中助郷勤方被仰付候処、同宿江者、里数又力相隔候、□嶮岨之山路相越候二而、正人馬差出難相勤左候辿不容易御時節一一付、無余儀、右宿方江申談多分賃銭差出雇替相勤候処、莫大之勤賃一一而極難之村有今以他借罷在仕合一一御座候折柄当又今般同宿江当分助郷
幕末における助郷負担の展開(宇佐美) 被仰付、一統当惑難渋仕候義二面既二脇往還御用近来追女相嵩、其上悪党共折女押歩行候一一付、御支配御役所汐御取締として強壮人付添御廻村有之村々共、非常備別段手当仕候義之前々と運自作共御用相嵩候折柄、十四五里相隔候小田原宿江当分助郷相勤候而者、素女山地極貧之村女其上脇往還御用其外役向相勤(ママ)候村方二有之候以難立行自然退転歴之義、誠以当惑至極仕候間、御免除之儀幾重一一も御歎願奉申上度旨、村々大小之百姓挙而愁歎罷在候間奉恐入侯得共、五ケ村以惣代此段奉申上候、何卒格別之以御慈悲前件村々極難之次第井二脇往還御用口留番所役向共被聞右訳小田原宿当分助郷之儀者御免除被下置候様、幾重一一も奉願上候右、願之通御聞済被成下置候〈〈村々大小之百姓一同相助外御用筋無難一一相勤広大之御仁恵と難有仕合二奉存候以上増田安兵衛当分御預所甲州都留郡下吉田村新屋村
一ハ一一一
各図A 甲斐国
牛
法政史学第四十二号jIJDUiJILLljJil
武蔵国信濃国
都留郡
相模国
M1湖
〃’
n
WMm
遠江国
六四慶応元丑十二月大明見村小明見村道中御奉行所様右五ヶ村惣代大明見村百姓代岡右衛門極難の理由を綿々と認めたこの種の「嘆願書」は形式こそ異なるが他地域の諸村でも多く見られ、助郷役を忌避する農民の唯一の自衛手段でもあった。では、かような「嘆願書」が提出された背景は何か。この年の初頭すでに小田原宿では、長征進発のための軍事輸送に莫大な出人馬を要請され、周辺農村(5)一帯に当分助郷役の出役を促した。当甲斐国都留郡他にも小田原宿定助郷村より窮乏を理由に差村指定がなされ、当分助郷出役要請があった。ところが「正人馬差出難相勤」を理由に.雇替」賃銭を支払うことによって役遂行をなしたが、借金が累積している事実を加何ようにもしがたく物価騰貴と相まつ(6)て深刻な影響を与騨えていたのである。すなわち、地理的・自然的条件にくわえて経済的条件がその背景にあった。以下、若干の考察をしよ
アハノ○先ず文化一一年(一八○五)から一同十一年(一八一四)にかげて編さんされた『甲斐国志」から甲州都留郡の概況に(庁l)ついて触れることにする。印‐斐国は略図Aに一示したように山梨・八代・巨摩・都留の四郡に区分され、日本列島の中央部「日本の屋根」と一一一一口われる山岳地の南東部に位置し、笹子峠・御坂峠を境に西側(山梨・八代・巨摩)の三郡と、東側の都留郡とに分割されている。そのうち都留郡はわが国第一位の高山である富士山の北山麓の山峡の地で、北は武蔵国と境をなし秩父山地に連なり、南は富士山の裾野に拡がり河口湖・西湖・山中湖が点在し中央に桂川が東流する。東は相模国・南は駿河国と国境を隔て八代郡に隣接する。この地は三○○○メートル余の富士山を除いては一○○○メートル前後の海抜高度を有する丘陵性山地でその起伏度は激しく、前出『甲斐国志」によれば「地味(土色黒焼士五分~六分、焼而五分、赤土砂交リ士質宣シカラス」と記されているように、火山灰の堆積地というきわめて悪質な土質であった。この地域は気候的にも、太平洋性気候地域に属しているものの秋から冬にかげて低温となり、特に冬期の寒冷は顕著で一月の平均気温は氷点下である。一方、七月、八月の盛夏の時期でも富士山麓を中心と
幕末における助郷負担の展開(宇佐美) した周辺の地域は、平均気温二○度前後という冷夏で気象の特異状況にある。(8)次に支配状況を承ると、天正十年(一五八二)の武田氏滅亡後は徳川家康五か国支配下にあったが同十八年(一五九○)、家康の関東転封により豊臣氏の領有となった。慶長五年(一六○○)関ヶ原の役後、幕領となる(寛永九~一○)。続いて秋元氏(泰明・富朝・喬朝)の支配下にあったが、宝永元年(一七○四)喬朝が武蔵国川越に移封となってから再び直轄地となり以後明治に至るまで変ることがなかった。さて、支配状況とともに土地の保有状況に触れよう。(9)まず浅野氏によって実施された「文禄検地」では村数が八一か村、村高は一万八○○○石余であった。慶長六年(一六(、)○一)、大久保長安が行なった「慶長検地」によると同じく村数は八一か村、村高は一万八四一四石とさしたる変化はない。寛文九年(一六六九)、領主秋元喬朝の実施したいわゆ(、)る「寛文検地」では、村数、石一同ともに急増し、それぞれ一一一か村、二万九二石となり、村切り・開発による地(、)積の増加が伺われる。ところが『天保郷帳』によると村数一○七か村、村高二万一○○○石余とあって増加率はきわめて緩慢で郡域の拡大はふられない。耕地面積の狭少並びに生産力の低劣さが指摘できよう。やや具体的に村況につ
六五
いて触れておこう。表1は甲斐国四郡の村数・村高・戸口(四)の状況をふたものであるが、一村平均の村一同は山梨郡の五四四石、巨摩郡の四二七石、八代郡の一一一七七石、都留郡の二○一石となり、都留郡の低位は典型的な山峡の地域の特色が如実に現出されている。一軒当りの平均持高も山梨郡の六石五斗余に比し都留郡のそれは三斗一升余と両郡の格差は著しい。しかし、石高の低位に対して人口が多いのが特徴的でこれは農業以外の生産への依存度の高いことを表示しているものと考えられる。小田原宿への当分助郷役の該当村についてさらに具体的に検討を加えておこう。(u)表2.3を参照したい。左側から反別・村一同・一戸数.人口p馬数・平均家族構成二軒当りの平均特高の順に整理したものであるが順を追って村落の特徴を抄出してふたい。郡内領は耕地が狭少であることは既に触れたが、田方と畑方の占める割合を表2で承ると、総じて田方より畑方の割合が多いことが知れる。水田の皆無の村落は十三か村にものぼる。畑方より水田の割合が多いという村落は小沼村を筆頭に、境・倉見・夏狩・下暮地・上谷・下谷・殿上の各村ぐらいであろう。水田の全くない村落は畑方に依拠しているため農業生産の主体は雑穀でそれも「縄二粟。 法政史学第四十二号
稗・大豆・蕎麦等」を少女という程度で、米は「往古汐隣国が買付」るという状況にあった。村高の多い村は下吉田村の八九八石余、下谷村の八一七石余、夏狩村の六九六石余であり低位は平野村の二四石、山中村の二六石、極端に低いのは長池村の三石余である。もっとも長池村は平野村の枝村であり、寛文以後村切りされている。一軒当りの平均持高も非常に低く極零細である。五斗以下が一○か村、五斗以上~一石未満が六か村、一石以上~一一石未満が一一一か村、三石以上は一か村という結果で、五斗以下という村が全休の三分の一を占めている
表1 甲斐国四郡村況概覧
人 ロ 一り均 村の村 当平高 一の高 軒平 当均 り持 郡 名|村数|村 高 戸数
男 女 計
八代郡'180ケ村’6万7867石'13,8墓'2M念 28,1会'56,5命 3再'4
石斗・8.升合9.7 一ハーハ巨摩郡’335ケ村’14万3208石’28,227158,128159,3541117,482 42715.0.7.3 山梨郡’146ケ村’7万9515石’’2,091122,345122,436144,781 54416.5.7.6 都留郡|]07ケ村’2万1568石’67,9221141,0421140,7731281,815 201 3.1.7 註『甲斐国誌」より作成
(表3は都留郡と山梨郡の一村の石高平均である。参照されたい)。これらの村落は富士山麓に近接し、山中湖・河口湖の湖水周辺に散居し、海抜一○○○メートルの山地の山間狭少地域に位置している。では人口はどうだろうか。前述したように土地の狭少、石高の低位に対して人口が多いのがこの地域の特色を示していると思われる。一○○○人以上を擁する村落は夏狩村・小沼村・小立村・川口村・下吉田村・上吉田村・上谷村・道志村・秋山村・丹波山村・下谷村の二か村で、これらの村落の一人当りの平均土地保有状況は、四畝~五畝という程度で実に貧弱である。これでは村民生活の維持は不可能である。しかし、人口の集中は労働力の必要性を意味するもので、村落の経済を支えるためになんらかの方法で労働力の放出がなされたものと考えられる。つまり都留郡の村落は村民の再生産を維持していく上で当然農業外の副業によって収入を得ていたということが容易に頷けるのである。またそのことを証明する手懸りとして馬頭数が多いということも見逃すわけにはいかないだろう。さて、以上のような村落の状況を踏まえて次節ではこれらの村落に課せられた当分助郷役がどのような方法でいかなる経緯を経て役遂行が果たされていったのかを検討した
幕末における助郷負担の展開(宇佐美) ①三九か村差村助郷村の実態この年、慶応元年(一八六五)は長征進発御用として小田原宿より周辺農村に膨大な人馬出役が厳命された。同年五月、甲斐国都留郡三九か村には小田原宿役人より当分助郷出役の人馬触れがなされた。これは小田原宿定助郷村からの差村指定であった。この当分助郷の強権発動に対して都留郡三九か村下谷村の代表組頭文左衛門は左のような請(巧)書を提出している。今般御進発被為有候二付、御用物継立人馬多く御入用一一両東海道小田原宿江右御継立一一限、当分助郷被仰出候一一付而、人足御触当次第罷出、御用御差懸不相成候様、五人組頭か組下江御通罷出可申侯、価而御請印形差出申侯、如件慶応元年丑五月五人組頭文左衛門(以下略)
い
三当分助郷役負担の構造 ◎
六七
表2都留郡村況一覧
反別
#㈲|家数'す片|馬数|室騨窒|蒔鯏
法政史学第四十二号村名 田 畑
小金|F灘冨 40噸iil20璽嚇M1調壽'21M'5企'10全|霧
夏狩村
21.8.5.24123.2.6.121372.2.0.9122214531409186217213.8811.6.7.6
鹿留村
U・…|…Jl41205L43115013111336164713014.311川.7.6
境村
13ルル191…・nll98イO2192119612011397128143112ル59
倉見村
4…2111ル7心lOl607…l349167118Ull48212514251…1
小沼村
12…5110…21191…'10312581246150415514891ル…
下暮地村
12…|l…141185…'201137813531731162136310…
上暮地村
 ̄'87ル川'201…|l70145014471897165152811L86
舟津村
一一'6…111218…|l91159115851U7614216U61し川
小立村
 ̄'260…|U…mllO312701208147813014601ル109
勝山村
一一一’24.8.2.27156.8.5.114016816511331813.3211.4.2.1
大嵐村  ̄
---13…J916…・912381482149019721801403102.7石
成沢村
 ̄|…1136…’581160115613161201…|…3
長浜村
--133.4ルllll9…lll4113011300160114114261L4L5
大石村
川口村 2.8.0.7147.1.3.53147.1.4.4127115681560,112812214.1311.2.8.0
46…O’7…l21898L36150811045198012025160139811…
下吉田村
…28116…2762…11335167316311130412613.8911…
上吉田村
…611…1115…311351271125815291301391104ル8
新屋村
 ̄|…412…9176119411661360175147310…
山中村
 ̄’6.0.3.9124.6.L516211321118125013014.0310.3.9.7
平野村
内野村’ L…|川73168…’9213321320165219017.081…5
…・28116ルル3Ⅲ…’'2312291200142917913“|O…
忍草村
l……'1…20115…9114913041300160415214051L…
大明見村
161…'3…伽'20…O8124914411430187117113491…7
小明見村
3…Sl2L…1162…91285168116651134613014721…8
上谷村 六八
…・'7121.…4110…317311731171134414014.711ル…
小野村
5処528123.7.2.71153…'10212241224144813614391ル508
法能村 菅野村
----
熊井戸村
3…|‘…’353I918011881218140614015071…1
…20132…’136…'34218631867117351280150710…
道志村
#&'家数|舅〒妄下帯〒|馬数|室騨窒|弄熱。
反別 幕末における助郷負担の展開(宇佐美) 畑
田
5聯壱l56W1Zliiil;’23醐毫'3釘|,〈iMMl霊’4曇先|示謝倉
一263Ul704ml6…9137179164114311513.861L…
2.5.6.2419.3.1.9
230016115…21180147314501923110015121…1 l…1315…511671427138418111651546510…
 ̄|I…1916…7120815481482110301501249512…
4…13121…’81…ll242178517691155415216u213…
3.1.0.4134188184117213015.0510.0.6.1
平野村に含まれる(平 野村の枝村)
0…3131…813…611Ul23012211451i25140610…
 ̄l72Il61168…l66114Sll401288121143612…
3.2.9.17112.5.9.211103.6.1.2110112111211142212314.1711.0.2.5 7.2.2.1816.7.7.261131.0.5.515511121109122111514.0112.3.8.2 164.1.7.4110412321256148814014.6911.5.7.8
 ̄
l4L4 23131.8.2.21
6111311162129311014.801…・1
178.8.3.9
34196195119111315.6111.2.6.1 15.7.4.4155.9.9.23 42.9.0.2
7811961184138013314.8712.1.9.5 171.2.3.0
15.3.5.8 2.6.8.2
出一用
囿一圏
’3.8.6.16
 ̄ 7.4.1.15 93.5.5.9 7511921205139713115.2911.2.4.7 註『甲斐国志」より作成。
1村の石高平均 表3
都留郡村落名 山梨郡村落名
石高
.上阿原村・田半村・里吉村 20石以上
--
19.9石
~15石 ・向村・蓬沢村・小瀬村・上村
・七沢村・琳坪村・下今井村・坂井村
・保中村・下小河原村・落合村 14.9石
~10石
・上今中村・西傷川村・西高橋村.三日 市場材.七日市場付・上井尻村(東方)・
下井尻村・赤尾村・万力村・下萩野村 9石~5石
9
村舟村見・上沢留・石明村殿シ鹿村大大井か八
・境村・倉見村・小 津村・小立村・勝山
・川口村・下吉田村 村・上谷村・法能村 丹波山村・下谷村・
村・上露嶋村・下露島 村・上新田村・下新田
沼村:浅村村
・上井尻村(西方)・下塩後村・塔岩村
『副付僖禎
六九 金
乏』
村小秋村
尺・旧誉冒肘・充
§ ・明山
註『甲斐国志』より作成。
つまり、御進発御用に限定して小田原宿の当分助郷役を勤役するということで「触当次第」「差懸」のないよう五人組を通して各村に浸透きせ村民を徴集するという主旨である。末尾には品川宿の助郷惣代問屋和田源兵衛の署名があり五月三日の日付が打ってある。さらに左のように記されている。高四万弐千什五石八斗五升小田原宿定加助郷高八千四百石当分助郷都留郡村有高三千石同断山梨郡拾三ヶ村合高五万三千四百性五石八斗五升すなわち、小田原宿への課役助郷高五万三千四百什五石八斗五升のうち、都留郡に差村された助郷高は八四○○石でこれを三九か村が負担するということであ 法政史学第四十二号
表4小田原宿当分助郷高割当表
村高 185.3.5.9石斗升合 191.6.5.0 696.3.2.7 362.9.0.6 372.2.0.9 205.1.4.3 198.7.0.2 607.7.2.9 村名 助郷高
村名 助郷高 村 高
185.3.5.9石斗升合 191.6.5.0 696.3.2.7 362.9.0.6 372.2.0.9 205.1.4.3 198.7.0.2 607.7.2.9 26.5.4.9石斗升合
24.6.1.5 68.5.9.8 30.2.3.6 26.5.4.9石斗升合
24.6.1.5 68.5.9.8 39.2.3.6
上暮地村下暮地村 夏狩村古市場村 鹿留村境村 倉見村小沼村 平野村山中村
忍草村内野村
計4か村 149.9.9.8 大明見村
小明見村 松山村新屋村 下吉田村新倉村
155.8.2.9 205.9.7.0.8 56.4.8.3 35.8.8.6 898.1.8.6 285.7.5.5 155.8.2.5
210.1.4.8 56.4.8.3 35.8.8.6 910.6.5.9 285.7.5.5
計8か村'2820.0.0.2.5 下谷村
法能村熊井戸村 小野村 道志村秋山村
817.7.8.1 153.8.5.4 35.3.1.9 104.9.0.3 136.9.9.6 239.9.0.8 817.7.8.1
153.8.5.3 39.1.9.1 104.9.0.3 136.9.9.6 239.7.0.8 計6か村 1654.7.6.8
上吉田村 628.5.1.1 628.5.1.1 計1か村 628.5.1.1 628.5.1.1
計6か村 1492.4.3.2
村村村村村村村村津立山嵐沢浜石口舟小勝大成長大川
201.7.6.5 218.3.8.5 114.2.4.1 56.8.5.1 65.8.4.9 36.7.2.7 199.6.3.1 347.1.4.4 201.7.6.5
218.3.8.5 114.2.4.1 56.8.5.1 65.8.4.9 36.7.2.7 199.6.3.1 347.1.4.4
68.9.7.9 金井村
吉ケ窪村
68.9.7.9 84.9.3.9 計2か村 153.9.3.8 西原村
小管村丹波山村
156.7.8.2 59.5.7.5 69.6.3.7 156.7.8.2
59.5.7.5 67.6.3.7
七○
計3か村 285.9.9.4 計8か村 1244.5.9.3
差村分8426石2斗4升1合8勺。
差村以外675石7斗3升9合
註上谷村を含めて39か村。上谷村(629石4斗7升9合)浅川村(41石0斗5升6合)の二か村は差付な し。「東海道小田原宿之助郷二付請印帳」より作成。
替人馬」に一(Ⅳ)に決着した。史料① (咽)った。各村の割当配分を一示したのが表4である。表4によって個別村落に課せられた状況が知れるが、注目したいのは各村に課せられた助郷高が村高と同等という厳酷な役負担となっていることである。本来、助郷課役は村高に課せられるが諸引高を除き、残高が助郷高となるのが通例であるが、有無にかかわらず村高イコール助郷高という事実は、増大する交通量に最早宿駅及び宿駅のヒンターランドの村落の人馬では対応し切れないという状況を示してい》CO
ところで、当分助郷課役の義務を負った三九か村は小田原宿より遠距離に位置し、現実には「労役」発動は不可能であることは周知である。結局、発動形態としては。雇替」による人馬負担、つまり「役金」を支払い宿か定助郷村に請負ってもらうという方法をとらざるを得ないのである。そこで上吉田村の駿河屋伝兵衛、下谷村名主軽三郎を代表とする一一一九か村の名主たちは小田原宿の宿役人に.雇替人馬」について、たびたび談合を持ちその結果左のよう
幕末における助郷負担の展開(宇佐美) 対談一札之事一、今般、御進発二付、当郡下谷村外三拾八ヶ村御宿 東海道小田原宿問屋伴十郎殿同伴左衛門殿 方江当分助郷被仰付侯処、遠路、農繁等一一而正人馬間一一合兼候二付、右人馬雇替御用御頼申入候処、御宿方助郷共御相談之上一層替御引請御示談行届致安心候、尤、今般被下候賃銀江前書之村々汐金千九拾弐両此度余荷として差出、□月五日汐其五月二日迄御印状之通、御進発御用務御継立之人馬不残御宿方一一而御引誼雇替、耶御差支無之様取斗可被下候、万一御用中人夫仕落手違等一一両御察当有之候節者御宿方一一而引受可被下候筈取極侯、為後日対談一札差出申処如件甲州都留郡十日市場村外三拾八ヶ村下谷村名主軽三郎上谷村
七
一 名主三郎左衛 法能村 名主三右衛門 夏狩村 名主孝平
史料②対談一札之事「今般、御進発二付、其御村方汐当宿当分助郷被仰付侯処、遠路農繁期二而正人馬間一一合兼候ヲ以、右人馬当宿一一而一雇替御用差支不相成様被成度趣御頼ミニ付、当宿井二助郷共一同相談之上、無余儀場合御察申、右一展替引請候処相違無之候、然上者今般被下候賃銀江前書村々汐金千九拾弐両此度余荷として差出、当月五日汐其五月二日迄御出立御印状之通、御進発御用務継立人馬不残当宿江引請、|雇替川御差支無之様取斗可申候、万一人夫仕落手運等一一而御察当有之節者宿方一一而引請、其御村々江決而御苦難相掛ヶ申間敷候、為後日対談一札差川申候処、如件慶応元年五月
東海道小田原宿 法政史学第四十二号
同助同人郷足 肝肝一二--コエー
Nl1Hlj
六大治吉兵治郎兵 衛兵兵衛殿衛衛殿
殿殿
川口村名主和泉倉見村境村年寄矢野武助
十日市場村外三拾八ヶ村下谷村名主軽三郎殿(以下略)史料①②によって八四○○石余の当分助郷役を一○九二両で宿方が一雇替代勤をするという経緯が明らかである。かくて五月御進発御用の当分助郷徴発については結着したが一○九二両という金額は莫大である。かような一雇替のための役銭を果たして農民個人の支出によって賄うことが可能であったのだろうか、村や農民は当分助郷役負担にどう対応したのか、また彼らを支える経済的埜盤は何かについて以下、逐一ゑていきたい。②買上入用金の動向ここでは共休的に「|雇替」の役金はどのような形態で支払われるのかをみることにする。まず次の「覚」に注目したい。この史料は『御進発御用物継立一件諸入用帳』に記 問屋伊十郎同半左衛門人足肝煎吉兵衛助郷肝煎治郎兵衛同六兵衛甲州都留郡
七
一 一
(旧)載された宿方入用の一部である。これによると当分助郷一厘替に関する諸経費にかなりの費用が計上されていることがわかる。
覚金千九拾弐両①宿方渡宿方諸入用金拾両也②宿方治郎兵衛礼金五両也③同六助礼金五両也④同庄助礼金五両也⑤問屋弐人礼金拾両也⑥問屋其外小役拾人礼金弐両弐分⑦穴部村直右衛門礼金弐両弐分⑧みのや礼金五両也⑨忠次郎礼金壱両壱分⑪金不参村々飛脚賃金九両三分⑪福住や宿払五百三拾八文金五両⑫同人茶代金弐両壱分⑬同家、下女下男六人払
幕末における助郷負担の展開(宇佐美) 金弐両弐分⑭青木吉左衛門宿払金弐両弐分⑮同人茶代一、五貫文⑯六右衛門宿払金弐両弐分⑰同人茶代一、拾三賃八百文⑬大和や宿払金弐朱⑲同断六貢三百文金弐両壱朱⑳同人茶代外一一湯元一一而金四両三分壱朱、勘定入用三百五拾八文(ママ)合金八拾両壱分これを大別すると、当分助郷一雇替代金①一○九二両礼金②③④⑤⑥⑦③⑨四五両飛脚賃⑩一両一分宿泊代⑪⑭⑯⑬⑲一二両一分二朱二五〆六一一一八文茶菓子代⑫⑮⑰⑳一二両一朱使用人雑費⑬二両一分雑費⑪四両三分一朱
七=
 ̄
三五八文となる。つまり助郷一履替代金一○九二両以外に約八○両余が宿方諸入用として支出されていることが明らかである。このうち、礼金が支出の大半を占めている。この中に治郎兵衛。六肋・庄助らの個人名が記され相当の大金が支払われていることが知られる。治郎兵衛・直右衛門は小田原宿定加助郷の肝煎であることは明白だが、六肋・庄助については定かではない。恐らく宿に滞留する交通請負人と考えられるが推測の域を出ない。次に多いのが宿泊費である。宿泊代とともに宿への茶菓子代、奉公人への費用を含めると宿泊雑費にかなりの支出をしていることがわかる。また「湯元一一而勘定入用」として四両一一一分余が計上されているが、下吉田村年寄の「メモ」から恕像すると、草履五足分、前夜酒代、呑喰費用等、日用雑貨並びに宿泊時の遊興費として使途されていたものと思われる。つまり、一○九二両の助郷役雇替納金の他に、不必要と思われる諸々の出費がかなり含まれていることが指摘できるのである。そしてこれらの諸雑費を含めた金額が雇替代金として宿に支払われること
になる。次に当分助郷出役のための諸経費の、各村への配分がど 法政史学第四十二号
のようになっているのかをゑておきたい。分析の対象としたのは図Bに示した六か村である。表5に六か村の助郷高・村高・人馬買揚ヶ諸入用を明示したのでこれによって検(四)討したい。見られるように、六か村の人馬買揚ヶ費用は合計二一五両二朱と銭八七文である。つまり六か村の当分助郷役雇替代金は一二五両余でこれが宿へ納金される役金である。ところが、末尾に次のように記されている。金弐百弐拾両入残金四両三分銭三百弐拾壱文すなわち、二一五両一一朱と銭八七文の買揚代金のうち六か村は「余荷」として一一二○両納入したので残金四両一一一分余は「余時入用」である。この「余時入用」の使途は不明だが、宿方と差村助郷村とが雇替負担のことで、しばしば談合しているところから、双方の話合に散財する飲食費用に充当したものと思われる。つまり個人的な支出まで村入用に載せられるわけである。さて、前述したように助郷役は農民個人の負担である。「役」負担義務を果たすためには借金をせざるを得ないことが多々ある。『人馬買上入用借(卯)用帳』には農民個人の借金が次のように記載されている。 七四
幕末における助郷負担の展開(宇佐美) :図B
WF、ゴ
府石和
Ijlj
)州三二二二L-
T聯 下聯出 街…=〕LL〕 大川 」2m}DK
甲斐
〃 相
模
●新腺材
諺
Y□弧走髄坂峠
I 足柄●矢介沢
竹
の 1、.
●関本
ぐ
 ̄P
C勺L
尺 。。~N匂川
小[[IDI(
し
束
し
海 jiVl膜糠
道
DBC●<0、
弐二
m I-LUJ 伊豆
駿河湾
表5六か村助郷高・村高・役金一覧
村名’助郷高’村 局 割当役金
155.8.2.5石斗升合
,基.毛.禰|金20両,分銭,00文
大明見村
小明見村’210.1.4.81205.9.7.0.81金27両1分銭525文 56.4.8.31金7両1分銭630文
新屋村 56.4.8.3
七五 35.8.8.61金4両2分2朱銭274文松山村 35.8.8.6
下吉田村’910.6.5.91898.1.8.61金118両1分2朱銭368文 新倉村’285.7.5.51285.7.5.51金37両2朱銭246文
計6か村’1654.7.6.8 金215両2朱銭87文
註「六ケ村人馬買揚帳」より作成。
表6役金納入個月 定
法政史学第四十二号
日時|役金|上納|日時|慧上|名前|未進|日時|役金|上納|日時|薫上|名前
0000両ll0ll000000・・000・0000000000002000000000・0000022222 分り08DJ82222Jnn1JjmJJJJ1121JJ1j朱J8JJJJJ1JmJJJJ1朱朱朱朱朱22222200000020朱1220朱2000000323220022
■■■■■21264222222]臼292222111111 分りD2D22DDDD288222J222222222222J222222222822222JJJJ1河22122111110000001000000000000001000000000000000000 分DD8D162222JnnJJJ翠JJ11JJJJ1J1朱J8JJJJ1J両31011000000・・000.00000000000200000000000
2200分●●●●両nEu857565755455544444644432232
両分5.2 3.2 6.0 4.0 2.2 3.2 2.2 3.0 2.2 2.2 2.2 2.2 2.1 2.2 2.2 2.2 2.0 2.0
2.0 2.0 3.0 2.0 2.0 2.0 1.2 1.0 1.1 1.2 1.0 2分2朱 1.1 0.2 0.2 1.0 2分2朱 1.2 1.0 1.0 1.0 1.0 1.0 0.3 1.0 1.0 0.3 1.7 0.3 1.2
炉姉兵睡政兵彫兵舶兵鈩紘鈩炉炉炉睡兵
ヱ左忠伝多源小六丈文弥柳六七与平茂善清宗雀曾市彦和和半武 10月22日 11月5日 10月晦 10月晦 11月4日 11月朔 11月朔 11月朔 11月4日 11月6日 11月5日 11月4日 11月4日 10月27日 11月4日 11月29日 11月27日 10月27日 11月4日 11月26日 11月5日 11月5日 11月晩 11月1日 12月19日 11月25日 11月5日 9月3日9月3日 9月朔 8月晦日 8月29日 11月3日
10月28日 11月6日 10月27日 10月26日 10月26日 11月6日 10月29日 10月晦 10月27日 10月28日 11月2日 11月4日 11月3日 10月晦 10月晦 11月2日 11月5日 10月晦
N1門門門11門門蔵門11門門門1門威門蔵門門リヱ用ヱ丘二〈
右左雌
■■〈郎左物し郎右右人■■■善大嘉冶弥嘉筆同伊桂太五金金r女庄伊九七rM与五甚嘉文忠大作半亥械 ・・ 晦晦晦晦月月月月888811月晦 8月晦
0000000000000J0JJJ
8月29日 8月25月 8月晦日 9月3日
8月晦 8月晦 晦 晦 9月3日
9月2日
9月朔 8月晦
8月29日 9月朔 9月朔 8月晦
9月朔 8月29日 9月2日 8月28日 8月晦日 8月25日
10月28日 10月22日 10月27日 10月27日 12月?
11月4日
□6日 10月晦 11月4日 11月朔 12月25日
晦晦日晦日日日晦晦3322月月月月月月月8989998
8月晦
8月29日 清友藤喜藤仁市斉治小甚利権半又茂利五清新宗嘉茂
鈩炉炉兵疎兵平掠睡兵餓炉睡睡睡睡睡岬揮馴治兵兵
8月晦 11月3日
10月27日 11月4日 11月12日 11月12日 10月28日 11月25日 10月28日 11月朔 10月27日
晦晦日晦晦晦晦日日9羽22月月月月月月月月月888888889 00000000・00001・000000J
1200010000002002020●●●●●●●●●●●●●●●●●●●1211213222221221313
8月29日 8月海 8月29日 8月晦 9月2日
10月22日 11月6日 11月6日 11月26日
888899998988 月月月月月月月月月月月月 朗豹羽”22頭3 日日日日日日朔朔日日晦晦 11月朔
10月26日 10月26日 11月4日 11月朔 10月28日 11月27日 11月5日 11月2日 10月26日 11月4日 10月23日 11月朔 11月5日 10月晦
10月26日 11月4日 11月4日 11月1日
0.12 0.1 0.1 0.1 8月晦
六七
晦晦晦晦日晦92月月月月月月898888 朱朱朱朱朱22222
12月25日 11月4日 11月4日 11月2日 11月4日 8月晦
日時|役金|上納|日時|蒙上|名前|未進|日時|役金|王wilTi=~i;i工F~託~Fミ蓬
幕末における助郷負担の展開(宇佐美) 分JJJJJJJJJJ111JJJ1JJ111JJ1JJJJ八J111112両0000000000000000000000000000000000000
耐珠珠珠珠昧珠 耐珠珠珠珠珠珠昧珠 耐00000000朱朱朱0000000000000000000朱町朱朱朱朱00
2222中2⑫恒咽〃〃 21J朱 』11111111lrl100000000001002 分1朱朱j朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱1朱朱朱両0220222222222220222市郎左ヱ門 両分
藤左ヱ門賀蔵後家 嘉兵治与惣左ヱ門 庄三郎 戸右ヱ門 七郎兵ヱ市郎左ヱ門 久右ヱ門八郎治 甚兵ヱ吉兵ヱ 吉左ヱ門市右ヱ門
軍 治
市郎右ヱ門 佐兵ヱ源五兵ヱ 半右ヱ門彦三郎 孫右ヱ門 惣太郎 源兵ヱ 治左ヱ門 六兵ヱ 卯右ヱ門 角左ヱ門 佐右ヱ門六右ヱ門 久右ヱ門 又右ヱ門
杢 八
与五兵ヱ 11月2日
11月4日 10月25日 11月27日 10月朔 11月28日
田1朱朱000朱朱0町000000田0000町朱0村00ん0村0ん0村朱新0烟旧〃〃〃烟⑫〃中〃〃〃〃〃新〃〃〃西2〃中〃しや中しや中2
8月朔 茂多清元玄治清忠十国与太市甚宗庄一一一一一一金久彦久善金源利杢
齢五炉順五紘鵬鈩澤腔鈩兵兵五雌左右左兵炉睡兵炸
ヱヱヱヱ 門助郎門蔵ヱ郎門ヱ門門門門ヱ助ヱ郎門門門門平ヱ門門ヱ門晦晦
10月25日 11月5日 11月12日 8月19日
9月9日
0.1 2朱
芽|蝋:
2朱晦日晦晦朔晦朔朔日朔日晦晦890222月月月月月月月月月月月月月8888989988888 日晦晦朔日朔朔朔朔晦2月月月月月月月月8899998910月26日朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱1222222222222222222222222222220
10月27日 11月4日 11月朔 10月25日 11月7日 11月5日 11月27日 11月5日 10月4日 10月25日 11月5日
朱朱朱朱朱朱朱1朱朱朱22222220222
朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱朱2222222222222222222
11月2日 11月5日 11月5日 11月朔 11月朔 11月朔 11月朔 11月朔 10月27日 11月1日 11月朔 11月朔 11月4日 11月4日 11月4日 11月26日 11月朔 11月5日 10月28日
8月晦 999 月月月 朔朔朔 20022022朱11朱朱1朱朱 200220 朱J1朱朱1
2211211
●●●●●●●0000000
9月朔
朔日日日日日日2222羽2月月月月月月月9999989
2朱
定之丈舸
甚右臺門|蓬
10月26日
2朱|惣右ヱ門
。,屡雷望
11月5日
10月26日 0.1 2朱
註「御進発御入用御差加上納金請軽帳」より作成。
七七
覚一、金弐拾両也名主喜左衛門五月二十七日返金内金四両也閏五月一日市兵衛へ金六両渡ス金拾両也かり九月什四日内金拾壱両也四百文返済すなわち、下吉田村名主喜左衛門は人馬買揚ヶ代として二○両を借金し、五月二十七日に四両返金した。続いて市兵衛へ残金六両を返金し、十両は借金として据置いたまま九月まで持ち越している。九月の十一両と四○○文は元金が一○両で利息が一両と四○○文で九月末に完済したことになる。続く百姓代の弥五郎の場合は、.、金弐拾両也」、これは借金。九月二十四日に二両と四○○文が返済とある。したがって一両四○○文が利息で、未進が一○両ということになろう。伊兵衛は、金一○両を五月に借金し、末日返金。九月二十九日には利息のみ一貫文を返金。五か月後には借金は完済している。 法政史学第四十二号
以下、次のようである。|、金三拾五両也年寄益左衛門内五両五月二十七日返ス二拾両五月二十九日返ス拾壱両一分と二百四拾文九月二十四日返済「金拾両也庄左衛門九月二十四日金拾壱両返済末尾に「不残返金相済申侯」とある。結局五月に借金しても九月には利息ともども大方返済していることがわか
る。(Ⅲ)表6は下士ロ田村の村民の役金上納一覧である。役金上納が最も多いのが名主級の大学、続いて嘉右衛門、名主善次郎の順となるが一両以下が圧倒的に多く一○四人で約七○.ハーセントを占めている。上納方法としては二回に分割している。まず当初、割当金額の半額を納め、残りの半額は早いもので三日。平均一一 七八
か月~三か月後に完納している。未進も僅かながら存在する。しかし史料にしばしばふえるように「自力無之」ゆえ借金によって完納しているということを付記しておく。ところで、当分助郷役は具体的にどの程度の人馬を徴発したのだろうか。五月の進発時の人馬の日割配分を明示し(皿)たのが表7である。五月五日から約一か月間の触当人足数が一一万八八五人、出役馬が二一一四五疋である。もっとも多い触当は、人足では五月十六日の四九○○人、馬では十九日の一一三○疋である。しかし指定人馬を一○○.ハーセント出役したわけではなく十一一百を例外として七○.〈-セント内外となっている。五月六日の糸指定馬以上の役馬が出役している。結局、正人馬は小田原宿で請負うことになるが、六○○○人余の未出役人足、三○○疋余の未出役馬をいかに処理したのだろうか。これについては次のようなことが考えられる。第一は都留郡の農民が「労役」として小田原宿へ出向し勤役する。第二は、勤役せず未進。第三は、|雇替代金を上納し、助郷役を完済する。これについては正確な史料を欠くため不確定であるが、出役日割日程表から推測可能である。つまり、史料には出
幕末における助郷負担の展開(宇佐美)
表7 当分助郷出役日割当一覧
出役日 出役人足|出役馬|正人足|正馬|未進人足|朱進馬|宿泊日
人
100疋’1119人’65疋’400
人 疋5月5日 1519 35 5月9日
6日 2200 25115621831638 +58 10日
9日 827 180152711071300 73 13日
11日 2025 2251132711711698 54 15日
3日 1764 4111764141
15日 2250 125116731811577 44 19日
16日 4900 22013872115911028 61 20日
19日 1500 320161012501890 70 23日
23日 50 511011140 4 27日
七九 25日 50 411611134 3 29日
27日 1200 101600131600 71閏5月1日
閏5月2日 2600 90117801411820 49 6日
慶応元年5月計 20885 13451148601100316025 342 註慶応元年5月「御進発御用物御継立人馬賃銀割合帳」より作成。
役した人足が小田原城下周辺に宿泊していることが確認されるのである。五月五日の出役した人足が五月九日に小田原城下に宿泊している。出役日より四日後に宿泊したと記載されている。以下、次のようである。出役日宿泊日五月十日五月九日五月十三日五月十一日五月十五日五月十五日五月十九日五月十六日五月二十日五月十九日五月一一十三日五月二十一一一日五月二十七日五月二十五日五月二十九日五月二十七日閏五月一日閏五月二日〃五月六日(五月十三日は正人馬の不足無のため労役に出役せず)。すなわち、正人馬以外のものについての発動形態として多少なりとも「労役出役」ということも考えられる。以上、当分助郷役負担の実態をぷてきたが土地保有が貧 法政史学第四十二号
弱で、自村の作徳では夫食さえも賄うことの出来ない山峡地域の村落が助郷役を勤役するため、いかなる方法で貨幣収入を得たのか、村落を支える経済的基盤は何か、次項で探ることにしたい。③都留郡村落の経済基盤都留郡の村落は、前述したように、「水田少ナク、麦豆ヲノミ耕ス所多シ、食量乏シク、米穀〈毎一一八代・山梨ョ(羽)リ入ル、又相模・駿河両国ヨリ入ル」とあるように自国の農業生産は低調である。したがって他地域への「出稼ぎ」によって村民の再生産がはかられた。一例として天保九年(趾)(一八一一一八)の下士ロ田村の『明細帳』をゑてゑたい。一、男者耕作之間一署薪・秣等ヲ採、其外縄・農道具等栫、稼二仕侯一、女者蚕飼致シ年中絹、紬、木綿等ヲ稼二仕候、外一一稼無御座候一、農業之間一一者、木綿・大物之類商売二仕候者茂少々御座候一、薬草者、白木・黄蒸・五味子・桔梗・苛薬等之類、富士山入会之場汐出申侯(以下略)すなわち、薪・秣・柴・薬草などを富士山の入会地より採取して稼ぎ渡世を送っていたことが知られよう。したが 八○
ってこれらの地域にとって「山稼ぎ」は現金収入の唯一の道であった。また女は蚕飼いにその労働力を投入した。絹・紬・木綿の織出しによって稼いだということが記録されている。
一一、三例を挙げよう。新屋村の場合、左のように記されている。「樅・栂・唐松等ノ材木ヲ出シ、或〈板一一換キ割り、近国へ売り出ス、此山役トシテ、永一貫七百五十文年々上納三女〈蚕ヲ養上絹ヲ織り、其余農事ヲ業トス」とある。山中村は「農業ノ余男女馬ヲ使上、須走・吉田ノ間へ往還シ駿相ヨリノ荷物ヲ送り、或〈忍草ヲ経テ谷村一一送り其賃銭ヲ得テ家産一一備フ或〈木換・杣取ヲ業トシテ他邦へ出テ産業トスル者アリ、女〈賃馬ノ余薪ヲ採り秣ヲ刈ルヲ業トス」とあり、ここでも「出稼ぎ」の状況が理解される。(お)太田氏の研究に依拠すれば富士山麓の村落は富士山裾野より秣・薪を採取し、家道具・換板などの木材は富士山内より採出し、沼津・三島・小田原・須走などの所々に附け出して商売をしているとある。かように都留郡の山峡村落では「出稼ぎ」「養蚕」によって貨幣を得た。また当該地域には東海道三島宿より大月宿へと北上する脇往還が走り、この往還は古くから鎌倉往還と称し駿河国と甲斐国とを結
幕末における助郷負担の展開(宇佐美) 以上、小田原宿の当分助郷課役についてゑてきたが、以下簡単にまとめておこう。慶応元年は当初より長征進発のために膨大な人馬徴発が宿周辺農村に課せられた。小田原宿でもこの年、広い範囲 (妬)ぶ物資輸送の重要な経路であった。』Cらに籠坂峠を経て足柄峠へ至り、相模国小田原宿へ通じる矢倉沢往還があり、いずれも領主経済に支えられた商品流通路である。そしてこれらの往還を中心に、農民は馬の背に物資を乗せて、甲府、沼津、小田原へと継送る仕事に従事し、「駄賃稼ぎ」を行なっていた。すなわち、郡内村落の農民は農業外の副業として「山稼ぎ」「養蚕」に加えて往還の「駄賃稼ぎ」で辛うじて生活を支えていたのである。かような軟弱な経済的基鵬に立脚する村落に、慶応元年(一八六五)当初より、次々に長征進発のための助郷役が課せられていった。しかしながら、過重な役負担を農民は決して黙止し、従事したわけではなく「不動」「拒否」を自己の正当性として表明しながらも、結果的には「借金」という形態をとりつつ、役負担に応じていかざるを得なかったのである。
四おわりに
八
一