空洞化をめざす風刺劇 ‑フィールディングの 『落 首』 についての一考察
著者 圓月 優子
雑誌名 言語文化
巻 2
号 1
ページ 1‑20
発行年 1999‑07‑30
権利 同志社大学言語文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004314
空洞化をめざす風刺劇
――フィールディング の『落首』についての一考察
圓 月 優 子
序
1 7 3 7年の演劇検閲令 (the Licensing Act) 発令にいたるまで、ヘンリー・フ ィールディング (Henry Fielding) が書き続けた劇のうち、最後の5作 ――
『落首』(Pasquin)、『ひょろひょろディック』(Tamble-Down Dick)、『エウリデ ィケ』(Eurydice)、『1736年の歴史的記録』(The Historical Register for the Year
1 7 3 6)、 『野次り倒されたエウリディケ』(Eurydice Hiss’d) ―― は、すべて
いわゆるリハーサル劇 (rehearsal play) である。リハーサル劇とは、バッキン ガム公 (George Villiers, 2nd duke of Buckingham) らによる劇『舞台稽古』(The
R e h e a r s a l ,1671) あたりから注目を集め、十八世紀イギリスにおいて隆盛を
みた劇形式で、本来は演劇や劇作家に対する風刺、バーレスクを主眼とした ものである。フィールディングのリハーサル劇の場合、風刺の対象は当時の 演劇というに留まらず、社会・政治に大きく範囲を広げた複合的なものであ ることが特徴である。特に政治風刺の面で、彼のリハーサル劇こそがウォル ポール (Robert Walpole) 内閣の不興をかって、検閲令を呼び込んだ元凶のひ とつであるといっても過言ではない。
本論では、“A Dramatick Satire on the Times”という副題を持つ『落首』 を とりあげ、ジョン・ゲイ (John Gay) の『乞食オペラ』(The Beggar’s Opera) 以来と言われる大当りをとったこの劇にみられる風刺の形について考察す る。『落首』 にみられる“a dramatick satire on the times”は、当然ながら「風 刺するもの」と「風刺されるもの」の対峙を設定するのであるが、その対峙 関係は必ずしも固定的なものでない。ここには何かひとつの価値基準・路線
「言語文化」2-1:1−20ページ 1999.
同志社大学言語文化学会©圓月優子
に対して単純に一辺倒になってしまうことを牽制するような仕組みがみられ るのである。劇全体としての風刺感覚は、単に鋭く攻撃的であることに終始 するのではなく、むしろ風刺する主体と風刺される対象の相互浸透の上に成 立しているという点に留意したい。『落首』 における風刺の入子構造、リハ ーサルという劇形式とそこにみられるさまざまなレベルでの二項対立の図 式、さらにその対立の空洞化、この劇の風刺モードがはらむポリフォニック な効果について検討する。
I
『落首』 が風刺劇だと言う場合、まずは風刺の主体と対象が何であるか を明確に整理する必要があるだろう。そのためにはふたつの劇中劇 ――ト ラップウィット (Trapwit) 作の喜劇「選挙」(“The Election”) とファスティア ン (Fustian) 作の英雄悲劇「良識一代記」(“The Life and Death of Common- S e n s e ”) ―― がどのような形に位置づけられ、『落首』 全体がどのような構 造になっているのかを検討し、リハーサルという仕組みが 『落首』 の風刺 のありように対してどのような意味を持っているのかを考えなければならな い。
劇中劇そのものに注目すると、「選挙」 と 「良識一代記」 は、ともにそ れ自体が風刺的側面を強く持っていることがわかる。トラップウィットが喜 劇「選挙」で描き出すのは、買収とごまかしに満ちた当時の腐敗した選挙の 諸相、さらに上流社会の虚飾に満ちた生活習慣の退廃ぶりである。トラップ ウィットが口癖のように“Sir, this Play is an exact Representation of Nature”1 “I keep exactly up to Nature”(p. 13) と言ったりするのも、あながち出鱈目ではな い。この喜劇は 1734 年に実際おこなわれた選挙を下敷きとしており、ここ に描かれた選挙の諸相には当時の世相を活写しているところが多いのだろう ということは、ホガース (William Hogarth) の版画“the Election series”(1754) に似たような選挙の情景が描かれていることからも推察される。買収のシー ンなどでは、もっと金銭の授受をみえみえにするようにと役者たちに指示を だして、トラップウィットは自分の風刺精神にご満悦である。
しかしながら『落首』全体の大枠から見ると、トラップウィットの「選挙」
そのものが当時の喜劇のバーレスクとして、風刺の対象になっていることが わかる。
Fust. . . . But pray, Sir, what is the Action of this Play?
Trap. The Action, Sir?
Fust. Yes, Sir, the Fable, the Design?
Trap. Oh! you ask who is to be married! Why, Sir, I have a Marriage; I hope you think I understand the Laws of Comedy, better than to write without marrying somebody.
Fust. But is that the main Design to which every thing conduces?
Trap. Yes, Sir.
Fust. Faith, Sir, I can't for the Soul of me see, how what has hitherto past can conduce at all to that End. (p. 11)
劇作家として確固とした理念も創意も持ち合わせず、筋書が結婚で締めくく られさえすれば喜劇の体裁はすべて整う、といったお手軽な考えを持つトラ ップウィットは、途中経過を全く無視して必然性どころか蓋然性もないまま に突然プロミス大佐 (Colonel Promise) と市長令嬢 (Miss Mayoress) を平気で 結び付けてしまったりするのである。そういった無責任でちゃらんぽらんな 筋の運び、特に市長夫妻やその令嬢が“out of character”つまり人物設定にふ さわしくない言動をみせるといったことにファスティアンが呆れ果てるのも もっともで、『トム・ジョウンズ』のナレーターならばここに “ m o n s t r o u s
Change and Incongruity”を見い出さずにはおれなかったであろう。2 かくし
てこの劇は、当時の安作り喜劇のバーレスクとなっているわけである。選挙 の買収で金銭の授受をおこなう場面では、もっとあからさまにお金をちらつ かせるようにとトラップウィットは指示を出すのだが、役者たちは手に模造 貨幣ですら実際には用意していないありさまで、ファスティアンの失笑を招 くばかりとなる:“. . . the Actor has out-done the Author; this Bribing with an empty Hand is quite in the Character of a Courtier.”(p. 8) トラップウィットは空 手形というところまでは意図していなかったわけで、ここでも彼の風刺精神 の底の浅さが露呈してしまうのである。
一方、後半に演じられるファスティアンの悲劇 「良識一代記」 はどうだ
ろう。まず幕開けに登場するのはファイアブランド( F i r e b r a n d)、ロー ( L a w )、フィジック (Physick) の三人で、良識女王 (Queen Common-Sense) に 不満を抱き、造反を企てる輩たちである。ファイアブランド は聖職者、ロ ーは法律家、フィジックは医師として、そのそれぞれの職業の腐敗ぶりを体 現している。ローを演ずる役者がひょんなことから裁判所に召喚されてしま い、リハーサルの続行が危ぶまれる際に ファスティアンは言う: “I must get somebody else to rehearse the Part. Pox take all Warrants for me; if I had known this before, I would have satirized the Law ten times more than I have”(p. 41). こ の言葉からもファスティアンの風刺の意志は明白である。ここには良識を軽 んじ無知をもてはやすような世相に対する風刺があるのだが、そういった世 相を象徴するものとして、他の種類の演劇(娯楽だしもの)が特に風刺の矢 面に立っているのは興味深い。ファスティアンは言う:
. . . I have often wond’red how it was possible for any Creature of human Understanding, after having been diverted for three Hours with the Productions of a great Genius [e.g. Shakespeare, Johnson, Vanbrugh, and others], to sit for three more, and see a Set of People running about the Stage after one another, without speaking one Syllable, and playing several Juggling Tricks, which are done at Fawks’s after a much better manner; and for this, Sir, the Town does not only pay additional Prices, but lose several fine Parts of their best Authors, which are cut out to make room for the said Farces. (pp. 47-8)
フ ァ ス テ ィ ア ン の こ の 言 葉 、 お よ び 彼 が 案 出 し た 無 知 女 王 ( Q u e e n I g n o r a n c e )3は外国から歌手やバイオリン弾き、軽業師などをひきつれて良識 女王の国(イギリス)へ攻め込んでくるという設定であることを考えあわせ ると、当時のイギリス演劇界で、綱渡りとか軽業・パントマイムといった娯 楽だしものが大流行であったことがよく理解でき、そういった流行に対する いらだちをファスティアンに見ることができるのである。
当時の劇場で大当りであった娯楽だしものを風刺するファスティアンであ るが、『落首』全体 の大枠で見ると、彼の「良識一代記」自体も英雄悲劇の バーレスクとして風刺の対象となっていることがわかる。筋書としては、支 配力の衰えた良識女王の領土を無知女王が侵略し両女王のあいだに戦いが起
こり、良識女王 が敗れて殺されることになるのだが、最終的には彼女の亡 霊がたち現れて無知女王 たちを追い払うというものである。悲劇は悲劇で も、リロの『命取りの好奇心』( The Fatal Curiosity) のような家庭悲劇 (domestic tragedy) とは全く趣きを異として、無韻詩で書かれた「良識一代記」
の登場人物たちの台詞回しは大仰で、崇高な緊張感を目指している。4 筋の 展開にあたっては、雷・稲妻・幽霊などといったおどろおどろしい仕掛けが、
必ずしも必然性なく散りばめられてもいて、英雄悲劇としての道具立ては一 応そろっている。しかしとにかくリハーサル中とのこと、それらがなかなか スムーズに機能しないがために、滑稽さが高まるのである。例えば、幽霊な しにこの劇はありえないのであるが、最初のうちこの幽霊役の役者がひどい 風邪をひいてリハーサルにまにあわないという場面。代役を立てるか、いっ そのこと幽霊抜きにしたらという周りの意見に対し、作者ファスティアンは 早くも(彼自身は大真面目ながら)滑稽きわまりない反論をするのである:
“Sir, he was born a Ghost: He was made for the Part, and the Part writ for him. . . . my Ghost being Ill, Sir, cannot get up without Danger, and I would not Risque the Life of my Ghost on any Account.” (p. 4) また良識女王役の役者は、まだ自分 が死ぬシーンが終わっていないのに、勘違いして早くも顔を白塗りにして幽 霊として登場してしまったりもするのである。ファスティアンは従来の悲劇 の型を踏襲して、大真面目に悲劇を書いているつもりなのだが、そのリハー サルは滑稽以外のなにものでもないのだ。
例えば批評家ウィルバー・L・クロス (Wilbur L. Cross) は、“The scene of
‘Pasquin’ is a playhouse. The poet Trapwit first puts into rehearsal a burlesque of comedy, and Fustian follows with a mock-tragedy“5と述べているが、こういっ た言い方は正確とは言えない。トラップウィットの書いた 「選挙」 は確か に結果として喜劇のバーレスクになってはいるが、それは彼自身の意図する ところではない。トラップウィット は喜劇そのものを書いたつもりなのだ。
ファスティアン にしても同じことで、彼は 「良識一代記」 と題した英雄悲 劇を大真面目に書いたのであって、これを mock-tragedy と捉えるのは観客
(読者)なのである。そのずれこそがリハーサル劇の妙味といえよう。「選挙」
も 「良識一代記」 も、それぞれに世相や演劇に対する風刺を展開している
のだが、リハーサルという形態にはめこまれることによって、『落首』全体 の大枠から見るとこのふたつの劇自体もが風刺の対象になっているのであ る。風刺の中に風刺がある ―― 『落首』 はこういった風刺の入子構造を持 つ、あるいは風刺を風刺する風刺である。
II
前章では『落首』 のリハーサル形式を「風刺の入子構造」を持つものと して検証した。それによって『落首』が一番に前景化しているは、風刺がは らむ偏狭な独善性とその危険性である。そこにはひとつの風刺一辺倒で突き 進むことに躊躇する、フィールディング特有のバランス感覚が見られよう。
本章ではそのバランス感覚について、さらなる考察を加えたい。特に注目し たいのは、さまざまなレベルの要素に関して二項対立の図式を設定し、しか もそのパターンを最終的には空洞化してしまうという『落首』の傾向である。
例えば劇中劇の「選挙」 では、トーリー (Tory) と ホイッグ (Whig) がそれ ぞれ党のカラーを反映した階層・キャラクターの候補者を擁立し、それぞれ の陣営がそれぞれのやりかたで支持者にアピールしようと対立しているし、
立候補者と選挙人も対峙する位置に置かれている。トラップウィットは “ I distinguish Bribery into two Kinds, the direct, and the indirect” (p. 8)と言ってもっ ともらしく買収を区別したりもする。しかしながら、直接的な買収も間接的 な買収も立候補者の節操のなさを示すということでは何ら変わるものではな い。選挙人にしても筋のとおった信条など何もなく、どちらの陣営を支援す るかは私利私欲によって決めるといった点で節操なき立候補者たちと変わり ないことがわかる。あちらの陣営もこちらの陣営も、被選挙人も選挙人も、
すべからく腐敗しているという状況である。選挙の結果は一応トーリー側の 勝利となるのだが、市長夫妻の裏工作によってその選挙結果はねじまげられ、
ホイッグの勝利に変えられるとすれば、そもそも選挙というものがおこなわ れる意味など何もないのだ。トラップウィットは喜劇の結末として常套の
「結婚」という仕掛けをでっちあげるために、そこにいたるまでのプロセス も何も見せることなく、突然 市長令嬢とプロミス大佐を結びつけるのだが、
批評家ピーター・ルイス (Peter Lewis) は、この結婚が “the incredible
reconciliation of the rival political factions” を導くところの “ s e n t i m e n t a l
r e s o l u t i o n ”であると指摘している。6 対立しているとはいっても結局のとこ
ろ同じ穴のむじなであるふたつの陣営を和解させるといったことに、どれほ どの意味があるのだろうか。このふたりの結婚が示す馬鹿馬鹿しさが、いか にも生産的な意味あいを持つかのように扱われることによって、筋書全体の 馬鹿馬鹿しさが一層強調されるところである。
もう一方の劇中劇「良識一代記」に見られる対立関係の中軸は良識女王と 無知女王の争いであろうが、良識女王は如何にも脆弱で魅力に乏しく、無知 女王との間に名称が示すほどの違いを本当に表わしているかどうかは疑問で ある。良識女王に取り入ろうとするが、失意の女王にすげなくされた詩人 (Poet) が次のように述べる言葉は意味深長である:
. . . since you dare
Contemn me thus, I’ll dedicate my Play To Ignorance, and call her Common-Sense:
Yes, I will dress her in your Pomp, and swear
That Ignorance knows more than all the World. (pp. 48-9)
良識女王と彼女の幽霊が示すはずの生と死の段差にしても、単におしろいを 塗るか塗らないかということにつきてしまうありさまである。最終的にファ スティアンは良識女王を勝利させるのだが、スニアウェル (Sneerwell) は皮 肉なコメントをする :“I am glad you make Common-Sense get the better at last; I was under terrible Apprehensions for your Moral.” それに答えてファスティアン は“Faith, Sir, this is almost the only Play where she has got the better lately” (p. 51) と胸をはるのであるが、ではファスティアンの悲劇が本当に「良識」に満ち たものであったのかどうかというと、スニアウェルが図らずも言っていると おり、モラルなどあるのかどうか、あったとして一体どんなモラルだったの か、疑わしい限りなのである。ファスティアンは豪語する:
Now, Mr. Sneerwell, we shall begin my Third and last Act; and I believe I may defy all the Poets who have ever writ, or ever will write, to produce its Equal: It is, Sir, so cram’d with Drums and Trumpets, Thunder and Lightning, Battles and Ghosts, that I believe the Audience will want no Entertainment after it; it is as full
of Shew as Merlin’s Cave itself, and for Wit––no Rope-Dancing or Tumbling can come near it. Come, begin. (p. 44)
綱渡りや軽業といった当代人気の娯楽だしものに対抗するものとしてファス ティアンが用意したものは、太鼓やトランペット、雷・稲妻、戦争に幽霊と いったこれまた娯楽的要素盛り沢山の陳腐な悲劇に過ぎないのである。批評 家デイン・ファーンズワース・スミス (Dane Farnsworth Smith) はトラップウ ィットのことを『舞台稽古』のメイン・キャラクターに擬して “ a conventional Bayes”とみなし、ファスティアンのことを“more like Luckless in
The Author’s Farce”7と呼んで区別しているが、ファスティアン の中にもト
ラップウィット 的要素、つまり “a conventional Bayes”的要素があるのを見 逃してはならず、ここでも二項対立の図式は空洞化しているのである。
『落首』 にみられる二項対立の構造をさらに検討するならば、リハーサ ル劇という形式そのものがこの構造の極めつけと言える。言うまでもなくリ ハーサル劇は本編の劇(frame play)と劇中劇との対比、あるいは役者と作 者、作者と批評家(観客)の対峙を生むものである。そこで「演じる」とか
「劇を作る」ということにまつわる繁雑さといい加減さが如実に表現される わけで、メタ・フィクション的面白さが備わったものといえる。本編の劇と 劇中劇に関して、「風刺の入子構造」という観点での考察は既に前章でおこ なったが、このふたつの劇は一応の二項対立の形をとりながら、妙な具合に 混じりあっている。まず本編の劇が始まってしばらくするとプロローグが目 につくのだが、これは 『落首』 のではなく、劇中劇たる 「選挙」 のプロロ ーグであるし、最後につけられたエピローグも 『落首』 ではなく劇中劇
「良識一代記」 のエピローグである。印刷されたテクストのページをパラパ ラとめくると、一見していかにもプロローグとエピローグが本編の劇に備わ ったような形に見えるのだが、ここにはある種のすりかえの趣があるのだ。
しかもこのプロローグとエピローグはそれぞれの内容からすると、別に本編 の劇に付されたものとみなしても支障ないようなものであり、その点からす ると図らずも『舞台稽古』のベイズが言っていたまさにそのとおり8、プロ ローグ、エピローグなどというもの自体が、結局のところはあまり意味をな すものではないことを印象づけるものとなっている。
本編の劇と劇中劇との間の区別は厳然とあるはずなのだが、実際にはちょ っとした言葉づかいなどが勘違いを招きかねない状態もみられる。例えば次 のようなシーンでは、劇中劇の台詞と本編の劇の台詞の交錯を見ることがで きる:
Trap. Now, Sir, you shall see some Scenes of Politeness and fine Conversation amongst the Ladies. Come, my Lord, come, begin.
L. Place. Pray, Mrs. Mayoress, what do you think this Lace cost a Yard?
Fust. A very pretty Beginning of a polite Conversation truly.
Trap. Sir, in this Play I keep exactly up to Nature: Nor is there any thing said in this Scene, that I have not heard come out of the Mouths of the finest People of the Age. Sir, this Scene has cost me Ten Shillings in Chair-hire, to keep the best Company, as it is call’d.
Mrs. May. Indeed, my Lord, I cannot guess it at less than Ten Pounds a Yard.
(p. 13)
引用中、プレイス卿 (Lord Place) と市長夫人 (Mrs. Mayoress) の言葉は劇中劇 の台詞であって、プレイス卿が自分の衣装の豪華さを自慢し、市長夫人がお 追従で答えているところである。一方トラップウィットとファスティアンの 言葉は本編の劇の台詞であり、トラップウィットが上流の人達を描くために は彼らと実際につきあう必要があり、そのために経費がかかることを苦労話 めかして得意げに語るところである。本編の劇と劇中劇の、本質的にはレベ ルも異なり、内容としても関係ない話が妙な絡みかたをして混じっているの であるが、しかしまた整理して考えなおしてみると、お金でもってものごと の値うちを評価するという点ではトラップウィットと市長夫人らの話は通じ る話でもあるのだ。
登場人物に関して言えば、『落首』 初演の際の配役表によるとトラップウ ィットと劇中劇の中の登場人物ファイアブランドは同じ役者(Mr. Roberts) によって演じられているし、市長夫人と良識女王も同じ役者(Mrs. Egerton) が演じている。ひとりの役者が二役を演じるというのは決して珍しいことで はないのだが、市長夫人と良識女王など、性格の点で随分異なるようにも思 えるふたつの役柄、それも重要な役どころを同じ役者が演じることによって、
観客としては当然意外な感じを持つと同時に、両者に何かしら相通じるもの を想定することにもなろう。また批評家ジル・キャンベル (Jill Campbell) が cross-gender casting の一例としてあげているように、9 無知女王の役は M r . Strensham という男性が演じているのであるが、これなども、男性が女性の 役を演じているということに対する意外性と同時に、それはそれで案外違和 感がないことをも印象づけるのである。
このように、『落首』 ではまずは二項対立の枠組みが構築されるのだが、
その二極は交錯する要素を露呈して、結局のところ同工異曲の趣を呈するこ ととなり、構築したはずの枠組みはあっけなく空洞化してしまうのである。
二極化の提示は「どちらに理があるのか」といった二者択一を迫って筋道を 一本化する、あるいは弁証法的に合一の方向へ向かって二極を収斂させるの ではなく、「どっちもどっち」という一刀両断の結末に導くためのものとな るのである。二項対立の空洞化が高じると、最終的には劇そのものの空洞化 さえ招きかねない。「選挙」のリハーサルに遅刻してきて最終幕になってよ うやく姿を見せたスニアウェルのことをトラップウィットはなじるが、その 時仲裁に入るファスティアンの理屈は面白い:“You [Trapwit] have too mean an Opinion of Mr. Sneerwell’s Capacity; I’ll engage he shall understand as much of it [“The Election”] as I, who have heard the other four [acts]” (p. 23). 観ても観な くてもたいして変わりはない劇だとの皮肉である。「良識一代記」の戦闘シ ーンを観たスニアウェルは、次のような感想を述べている:“I cannot profess my self the greatest Admirer of this Part of Tragedy; and I own my Imagination can better conceive the Idea of a Battle from a skilful Relation of it, than from such a
Representation . . . ” (p. 47). 実際この戦闘シーンは如何にもお粗末なもので、
スニアウェルの感想は無理もないところがあるが、“ R e p r e s e n t a t i o n ”よりも
“ R e l a t i o n ”の方がましだということになると、劇の劇たるゆえんもなくなる
のである。
III
『落首』 は、風刺性に富んだ劇中劇を『落首』全体の大枠が風刺の対象 とするといった入子構造を持ち、しかもその入子構造も含めて色々なレベル
で示される二項対立の図式は、最終的には空洞化されるといったことを考察 してきたが、そのことを本章ではポリフォニックな効果の点で検証しなおし たい。『落首』 には色々なレベルの声が重なり、混じりあっている。そもそ もリハーサル形式の劇のみどころとしては、単に劇中劇の筋書が進展するだ けでなく、それにいちいち作者や批評家によるコメントが多声的に加わると いう点があげられる。しかもここではふたりの作者によるふたつの劇のリハ ーサルがおこなわれ、作者と批評家に加えて、時には役者もが自分の意見を 差し挟もうとするのだから、全体としての多声効果はいやましにつのるので ある。とにかくおにぎやかな劇なのだが、そこに主調音といったものはなし、
主調音というものを牽制するような仕組みさえ感じられるのである。
登場人物ひとりの台詞をとってみても、表向きの発言以外にわきぜりふ (Aside) も多く混じっていて、発言者の本音の濃淡が露骨に現れもする。次 の引用は、トラップウィットが自分の劇のリハーサルが終わるやいなや、続 くファスティアンの悲劇を見ようともせずに、何かと言い訳をして雲隠れし ようとしているシーンである:
Fust. You’ll stay and see the Tragedy rehears’d, I hope.
Trap. Faith, Sir, it is my great Misfortune that I can’t; I deny myself a great Pleasure, but cannot possibly stay–to hear such damn’d Stuff as I know it must be.
[Aside.
Sneer. Nay, dear Trapwit, you shall not go–Consider your Advice may be of some Service to Mr. Fustian, beside he has stay'd the Rehearsal of your Play–
Fust. Yes, I have–and kept my self awake with much Difficulty. [Aside.
Trap. Nay, nay, you know I can’t refuse you–tho’ I shall certainly fall asleep in
the first Act. [Aside. (pp. 28-9)
同一人物が発するひとつのセンテンスの中で、明らかにトーンが変わってい るはずの箇所があるのを観客(読者)はしっかりと見極める必要があるので ある。
それぞれの場面でそれぞれの思惑をもった声、あるいはレベルの異なる声 が響く一方で、そういったポリフォニックな状態に対する反動のような要素 も見い出せる。次のシーンは「選挙」 の中で、プロミス大佐 と 市長令嬢 が
全く何のプロセスもなく、いきなり恋人同志として向き合うところである。
Trap. I must desire a strict Silence through this whole Scene. Colonel, stand you still on this side of the Stage; and Miss, do you stand on the opposite.
–There, now look at each other.
[A long Silence here.
Fust. Pray, Mr. Trapwit, is no body ever to speak again?
Trap. Oh! the Devil! You have interrupted the Scene; after all my Precautions the Scene’s destroy’d; the best Scene of Silence that ever was pen’d by Man.
Come, come, you may speak now; you may speak as fast as you please.
Col. Madam, the Army is very much obliged to you for the Zeal you shew for it: Me it has made your Slave for ever; nor can I ever think of being happy, unless you consent to Marry me.
Miss. Ha! and can you be so generous to forgive all my ill Usage of you?
Fust. What ill Usage, Mr. Trapwit? For if I mistake not, this is the first time these Lovers spoke to one another.
Trap. What ill Usage, Sir? a great deal, Sir.
Fust. When, Sir? Where, Sir?
T r a p . Why, behind the Scenes, Sir. What, would you have every Thing brought upon the Stage? I intend to bring ours to the Dignity of the French Stage;
and I have H o r a c e ’ s Advice of my Side; we have many Things both said and done in our Comedies, which might be better perform’d behind the Scenes . . . (p.
26)
プロセスのなさは“Silence”なり“behind the Scenes”なりによって平気で補お うとするトラップウィットであるが、台詞や動作によってこそ成立する喜劇 について、その肝心な部分を最も重要な場面で省略してしまうのである。1 0
「選挙」 にエピローグがないことについてのトラップウィットの説明も興味 深い。彼によるとエピローグを書くには書いたのだが、女優たちはその出来 が物足りないとして読んではくれなかった、そこで劇の出版者のところへ行 ってありったけの劇を借り出し、あらゆる劇のエピローグをできるだけ借用 し 「選挙」 のエピローグに盛り込めるだけ盛り込んだのだが、今度は盛り
込みすぎて“I can get no one to speak it” (p. 28)という状態になったのだとい う。1 1 盛り沢山のポリフォニー状態とは裏腹に、ここでも語りの欠落、つ
まり“Silence”が生じているのである。
一方ファスティアンはと言うと、自作につけた献辞を披露するにあたり、
お世辞やこび・へつらいに満ちた一般の献辞のさまに対する強い嫌悪を表明 し、毅然として“I shall be silent” (p. 29) と自分なりの見識をみせるのだが、
実際の彼の献辞はしらけるほどに内容を欠いたお世辞満載となっている。そ の一方で、無知女王の来襲を迎かえ撃たんと勇ましく軍隊の召集を命じる良 識女王が、直後のシーンでは何故かのんきに昼寝をしているという矛盾を批 評家スニアウェルに指摘され、ファスティアンが答えるに、劇にとって最も 重要なのは“Protraction, or the Art of Spinning” (p. 38)だというのである。こ こでもポリフォニー状態が “ S i l e n c e ”なり意味の欠如した長引かし・引き伸 ばしなどと二項対立の形になり、その相乗効果でもって内容の空洞化を一層 際立たせることになっているのである。
ポリフォニー状態にせよ “ S i l e n c e ” にせよ、主調音の欠落こそが『落首』
の鍵といえる。劇中劇が展開するに際して、その劇の作者や批評家がコメン トを加えるというのは、『ジョウゼフ・アンドリューズ』(Joseph Andrews) や
『トム・ジョウンズ』などフィールディングの小説におけるナレーターの存 在に一脈通じるものであるのだが、小説のナレーターのような単一で一貫し 安定して信頼できる ( r e l i a b l eな) 声を『落首』 に見い出すことはできないの だ。その結果、フィールディングの声そのものが多声的に響くことになるの である。
先に、『落首』は「風刺を風刺する風刺である」と述べたが、その意味す るところは、トラップウィットが劇中劇「選挙」において政治・社会に対す る風刺を展開し、ファスティアンが「良識一代記」において軽業などの娯楽 演目に対する風刺を展開しているのだが、大枠の『落首』は前者を安作りの 喜劇のバーレスクとなし、後者を大仰な英雄悲劇のバーレスクとすることに よって、このふたりの作者の狭量で独善的な風刺姿勢を嘲笑しているという ことであった。しかしより複雑なことには、フィールディングはこのふたつ の劇中劇を嘲笑するだけでなく、それが内包する風刺精神に対する共感も多
分ににおわせているのである。批評家リチャード・ベヴィス (Richard Bevis) などがファスティアンのことを“at times nearly Fielding’s mouthpiece”12と呼ん でいるのもその意味ではもっともで、例えばファスティアンがトラップウィ ットの喜劇のいい加減さに疑問を投げかけるところや、当時のイギリス演劇 界における軽業とかパントマイムといった娯楽だしものの流行などを揶揄す るところ1 3、第四幕の冒頭で彼が劇作家の苦労についてとうとうと述べるく だりなどには、フィールディングの声そのものが共鳴していると言えそうだ。
トラップウィットの風刺精神などは非常に浅薄なものであるが、そこにもフ ィールディングの声が奇妙な形でオーバーラップしている場合がある。「選 挙」 において立候補者のひとり プレイス卿 は、全く詩など書けないと言っ ている選挙人にとりいろうと、彼を“ P o e t - L a u r e a t ”にしてやると約束するの だが、これなどは当時すでに桂冠詩人として確固たる地位を得ていたコリ ー・シバー (Colley Cibber) に対するあてこすりとしか考えられない。しかし トラップウィットは『エジプトのシーザー』 (Caesar in Aegypt)の作者(シバ ー)が各幕の最初に道徳的な訓示を置いたことに習って、自分の劇の各幕の 最後を陳腐な道徳的フレーズで締めくくってご満悦の様子であるところから みても、彼自身にシバーを風刺しようという意志があるとは思えないのだ。
つまりこのシバー風刺などは、トラップウィットの意識などは擦り抜けて、
直接フィールディングが発している風刺と考えるべきであろう。14
批評家 アルバート J. リベロ (Albert J. Rivero) が 「選挙」 と 「良識一代記」
について、“neither play is the primary object of Fielding’s satire in Pasquin”と主 張しているのには必ずしも賛同できないが、彼が “Fielding discovers in Fustian and Trapwit two unlikely allies in his war against the pleasures of the
town”15と述べるのには十分な説得力がある。“unlikely allies”とは言いえて妙
である。トラップウィットやファスティアンの発言の裏でそれを嘲笑するフ ィールディングの声が響いている場合と、彼らの声(トラップウィットが展 開する社会・政治風刺やファスティアンが展開する軽業などの娯楽演目に対 する風刺)にフィールディングの声がさまざまな程度に、さまざまな形で重 なって共鳴している場合があるのである。
結び
そもそも風刺というのは、ただひとつの絶対的な認識主体が、固定した視 点から他者を一方的に客体化することによって成り立つものである。つまり
「風刺するもの」と「風刺されるもの」が確実に二極化して対峙するところ から出発するわけである。『落首』は一般に「風刺劇」とみなされ、 “ A
Dramatick Satire on the Times”という副題を持つのだが、その風刺のありよう
は非常に複雑である。リハーサル劇という枠組みをとることで、風刺の中に 風刺があるといった風刺の入子構造を備えることとなり、「風刺するもの」
が「風刺されるもの」にもなり得るという「風刺の相対化現象」が観察でき るのである。
そういった相対化は、さまざまなレベルで構築される二項対立の図式に反 映している。いったん構築された図式は、二者択一あるいは弁証法的な合一 の方向を目指すのではなく、最終的には空洞化してしまうのである。その背 景となるのは、絶対的な視座というものに対する牽制であろう。このおにぎ やかな劇では、誰の声も主調音として響き続けることはないのだ。フィール ディングは、劇中劇の作者トラップウィットとファスティアンを時には自分 のマウスピースとして分身扱いしながらも、彼らの独善的かつ間の抜けた風 刺精神を茶化すことによって自分とその分身との不一致を示さずにはいられ ない。その不一致なり、“A Dramatick Satire on the Times”という副題を掲げ て時勢風刺を展開する『落首』自体もまたこの時代の産物であり、この時代 を形づくるもののひとつであるという矛盾なりの上に、『落首』は成立して いるのである。ここでは、リハーサル劇という枠組みが可能にしたさまざま なレベルで拮抗する複数の声が、中軸あるいは安定した足場を欠いたまま相 対性をダイナミックに主張して、陽気なカーニヴァルを現出しているのであ る。
注
1 Henry Fielding, P a s q u i n, eds. O. M. Brack, Jr., William Kupersmith and Curt A.
Zomansky (Iowa City: University of Iowa Press, 1973), p. 8. 以下、この作品の引用は この版からとし、ページ数を本文中の括弧内に示すこととする。
2 『トム・ジョウンズ』のナレーターは、第七巻の序章で人生を舞台に例えている が、続く第八巻の序章では次のように述べている。
Our modern Authors of Comedy have fallen almost universally into the Error here hinted at: Their Heroes generally are notorious Rogues, and their Heroines abandoned Jades, during the first four Acts; but in the fifth, the former become very worthy Gentlemen, and the latter, Women of Virtue and Discretion: Nor is the Writer often so kind as to give himself the least Trouble, to reconcile or account for this monstrous Change and Incongruity. There is, indeed, no other Reason to be assigned for it, than because the Play is drawing to a Conclusion . . .
(Henry Fielding, The History of Tom Jones a Foundling, eds. Martin C. Battestin and Fredson Bowers [“The Wesleyan Edition of the Works of Henry Fielding”; Middletown, Conn.: Wesleyan University Press, 1975], p. 406. )
3 フィールディング はすでに『作者の笑劇』 (The Author’s Farce, 1730) において、
Goddess of Nonsense なるキャラクターを生み出しているが、ウォルポール 政権下 のイングランドにおける芸術の退廃をこういったキャラクターに体現させるとい うのは、フィールディング の独創ではない。 ジョン・ロフティスによると、チ ャールズ・ギルドン(Charles Gildon) なるものの作という説がある『作者の戦い』
(The Battle of the Authors, 1720) にも『落首』 の場合と同じ趣旨で Queen Ignorance なるキャラクターが登場するし、ポープ (Alexander Pope) の『ダンシアッド』
(Dunciad, 1728) のDulness なども、同じ趣旨のものである。(John Loftis, Comedy and Society from Congreve to Fielding[Stanford: Stanford University Press, 1959], p. 37.) 4 検閲令発令前夜の1 7 3 6年にヘイマーケット (Haymarket) の リトル・シアター
(The Little Theatre) のマネージャーに就任したフィールディングは、3月に上演第 一作として自らの 『落首』 を舞台にのせ、その2ヵ月後には『命取りの好奇心』
をこの劇場で上演させている。劇作家として『落首』 のような風刺劇をものした フィールディングが、劇場マネージャーの立場に立って全く性格の異なる家庭悲 劇『命取りの好奇心』を評価したというのも興味深いところである。『チャンピ オン誌』(第4 5号)などにも、フィールディングの高いリロ評価がみられるが、
『命取りの好奇心』のプロローグもフィールディングが自らが書いて寄せたもの で、この劇が英雄悲劇とは異質であることを強調している:
The Tragic Muse has long forgot to please
With Shakespeare’s nature, or with Fletcher’s ease.
No passion moved, through five long acts you sit, Charmed with the poet's language, or his wit.
Fine things are said, no matter whence they fall;
Each single character might speak them all.
But from this modern fashionable way, Tonight our author begs your leave to stray.
No fustian hero rages here tonight;
No armies fall to fix a tyrant’s right.
From lower life we draw our scene’s distress;
Let not your equals move your pity less!
Virtue distressed in humble state support, Nor think she never lives without the Court. . . .
(Henry Fielding, “Prologue” to Fatal Curiosity, ed. William H. McBurney [“Regents Restoration Drama Series”; Lincoln: University of Nebraska Press, 1966], p. 3.)
5 Wilbur L. Cross, The History of Henry Fielding (New York: Russell & Russell, Inc., 1918), I, 180.
6 Peter Lewis, Fielding’s Burlesque Drama: Its Place in the Tradition ( E d i n b u r g h : Edinburgh University Press, 1987), p. 153.
7 Dane Farnsworth Smith, Plays about the Theatre in England from The Rehearsal in 1671 to the Licensing Act in 1737 or The Self-Conscious Stage and its Burlesque and Satirical Reflections in the Age of Criticism (London: Oxford University Press, 1936), p. 206.
8 ベイズは次のように言う:
Now, Gentlemen, I would fain ask your opinion of one thing. I have made a Prologue and an Epilogue, which may both serve for either: [that is, the Prologue for the Epilogue, or the Epilogue for the Prologue]: (do you mark?) nay, they may both serve too, I gad, for any other Play as well as this. (George Villiers, Duke of Buckingham, The Rehearsal, ed.
D. E. L. Crane [Durham: University of Durham, 1976], I. i, p. 10.)
9 Jill Campbell, Natural Masques: Gender and Identity in Fielding’s Plays and Novels (Stanford: Stanford University Press, 1995), p. 26.キャンベルは『落首』における cross-gender cansting の例として、もうひとつプレイス卿の役をシャーロット・チ ャーク(Charlotte Charke) が演じたこともあげている。
10 『舞台稽古』にも、ベイズがトラップウィットと似たような言い訳をするシー ンがある。トラップウィットの“behind the Scenes”の代わりに、ベイズは“in the
Tyring-room”と言うのであるが。またベイズはトラップウィットの“Silence”と同
じ様な趣向で“whisper”を多用している箇所もある。(The Rehearsal, II. i, pp. 14-6) 11 『舞台稽古』でも“the Players refus’d to act it”とベイズが嘆いて、役者たちのこ
とを“the rudest, uncivilest persons” (II. ii, p. 19)と呼ぶ場面があるが、この箇所につ けられた D. E. L. Crane の注によると、“The insolence of actors was frequently complained of at this time”ということである。(The Rehearsal, p. 87.)
12 Richard Bevis, “Fielding’s Normative Authors: Tom Jones and the Rehearsal Play,” PQ, 69 (1990), 60.
13 『落首』の続編ともいえる『ひょろひょろディック』に付したジョン・リッチ (John Rich) あての献辞の中でも、フィールディングはリッチのことを
“Entertainment”を流行させた張本人として皮肉にあげつらっている:
. . . I fancy you have too strong a head ever to meddle with Common-sense, especially since you have found the way so well to succeed without her, and you are too great and good a Manager, to keep a needless supernumerary in your house. (William Ernest Henley (ed.), Plays and Poems, Vol. V of The Complete Works of Henry Fielding, Esq.
[New York: Barnes & Noble, Inc., 1967], p. 8)
14 プレイス卿 の役は初演時には ロー 役にあたっていた Yates という男優によって 演じられていたのだが、しばらくすると フィールディング のたっての希望で、
コリー・シバー の娘であり、男役を得意としていたシャーロット・チャークが 起用されこのプレイス卿 役を演じることで大成功をおさめることとなり、一層皮 肉なものとなった。そのあたりの事情について、クロスは次のように説明してい る:
She [Mrs. Charlotte Charke] was not on very good terms with either her father or her brother, and she had recently quarrelled with Fleetwood. Fielding knew the situation and made the most of it. “Pasquin” would have had its long run without Mrs. Charke, but her presence contributed to its vast success. The climax in her performance of Lord Place was, of course, the scene from which I have quoted, where she ridicules the odes of her father. There was never an audience able to withstand the jest of that incident. (Wilbur L.
Cross, The History of Henry Fielding, I, 188.)
15 Albert J. Rivero, The Plays of Henry Fielding: A Critical Study of His Dramatic Career (Charlottesville: University Press of Virginia, 1989), p. 130.
The Satirical Comedy Losing Substance:
A Study of Fielding’s Pasquin
Yuko E
NGETSU Key words: Fielding, rehearsal play, satireThe last five plays written by Henry Fielding before the Licensing Act are all so-called rehearsal plays. A rehearsal play is defined as the play which burlesques various kinds of plays as well as their authors and critics.
P a s q u i n (1736), one of Fielding’s rehearsal plays, has the plausible sub-
title, “A Dramatick Satire on the Times”, satirizing not only contemporary plays but social conditions in general. The form of its satire becomes complicated, for the absolutely “correct” standpoint, which is supposedly indispensable in a satire, is not established in this play. Even the distinction between what satirizes and what is satirized tends to be ambiguous.
Pasquin has the “Chinese–boxes” structure: there are plays within a play,