宗教団体の内部紛争と司法権 : 教義判断の禁止と 裁判所の権限との関係という視点から
著者 田中 謙太
雑誌名 同志社法學
巻 68
号 8
ページ 3387‑3493
発行年 2017‑03‑31
権利 同志社法學會
URL http://doi.org/10.14988/pa.2019.0000000406
( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号六九三三八七
宗 教 団 体 の 内 部 紛 争 と 司 法 権
︱︱教義判断の禁止と裁判所の権限との関係という視点から︱︱
田 中 謙 太
︻
目 次︼はじめにⅠ 問題の所在
1 宗教団体の内部紛争に関する判例法理
2
﹁教紛部内の体団宗法と﹂訟争の上律争
⑴ 司法権の意義と﹁法律上の争訟﹂
⑵
﹁終意の件要性局の法﹂訟争の上律義
3 従来の学説とその限界
⑴ 従来の学説の視点
⑵ 従来の学説の限界
( )同志社法学 六八巻八号七〇宗教団体の内部紛争と司法権三三八八
4 本稿の問題意識及び検討対象Ⅱ 宗教団体の内部紛争に関するわが国の判例
1 判例法理の基礎の形成
⑴ 第一の判例法理
⑵ 第二の判例法理
⑶ 小括
2 判例法理の展開
⑴
﹁板まんだら﹂判決
⑵ 蓮華寺判決
⑶ 小括Ⅲ 連邦最高裁判例における教義判断禁止の根拠
1 初期の傾向と判例の展開
⑴ 教会財産紛争に関する初期の裁判例の傾向
⑵ 連邦最高裁判例の展開
2 教会内部問題に関する自律権の承認
⑴ Watson判決(一八七一年)
⑵ Kedroff判決(一九五二年)
⑶ 小括
3 自律権の尊重から中立性の強調へ
⑴ Presbyterian Church判決(一九六九年)
⑵ Milivojevich判決(一九七六年)
( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号七一三三八九 ⑶ Wolf判決(一九七九年)
4 教会財産紛争以外の判例の展開との関係
⑴ 国教樹立禁止条項に関する判例法理との関係
⑵ 信教の自由条項に関する判例法理との関係
5 教義判断の禁止と裁判所の管轄権
⑴ 教義判断禁止の根拠
⑵ 教会財産紛争における裁判所の管轄権
⑶ 教会財産以外に関する紛争における裁判所の管轄権
6
﹁と轄管の所判裁理聖法﹂外例者職権
⑴
﹁聖職者例外﹂法理
⑵
﹁の性の上法訟訴理聖法﹂外例者職質
⑶ Hosanna-Tabor判決(二〇一二年)
⑷ 小括
7 アメリカにおける議論から見えるものⅣ 日本法への示唆
1 信教の自由及び政教分離原則と教義判断の禁止
2 内在的限界としての教義判断の禁止結びに代えて
( )同志社法学 六八巻八号七二宗教団体の内部紛争と司法権三三九〇
はじめに
宗教団体の内部における紛争が裁判所に持ち込まれたとき、当該紛争の孕む宗教性故に、これが裁判によって解決され得るものであるかがしばしば問題となる。とりわけその問題は、具体的な法的紛争を解決する前提として、当該宗教団体の教義や信仰の解釈に関わる判断が必要となる場合に深刻なものとなる。従来の判例は、このような事例につき、裁判所法三条一項が裁判所による判断の対象とする﹁法律上の争訟﹂に当たらないとして、訴えを却下すべきであると判示してきた
)1
(。訴えが却下されると、宗教団体の内部における法的紛争は未解決のまま放置されることとなるため
)2
(、多くの学説は、当事者の裁判を受ける権利の保障の観点から判例の立場を強く批判してきた )3
(。しかしながら、教義問題が関わる事件における具体的な審理・判決のあり方については学説の間でも対立があり、学説は判例の立場を変えるには至っていない )4
(。
本稿は、このように膠着状態にある宗教団体の内部紛争に関する問題について、従来とはやや異なる観点からの考察を試みるものである。具体的には、そもそも裁判所が教義に関する判断を行ってはならないこと(以下、これを教義判断の禁止と呼ぶ)の根拠は何に求められるのかを明らかにし、その上で、教義判断が禁止されているということから、教義問題が関わる事件について訴えを却下すべきとする判例法理の妥当性を検討する。
以下、まずは、宗教団体の内部紛争に関する判例法理、及びそれと関係する司法権の概念についての基本的な議論を確認しつつ、本稿の問題関心と検討対象とをより明確に示す(Ⅰ)。次いで、教義判断の禁止の根拠について、従来の判例がどのように考えていたのかを確認する(Ⅱ)。その後、アメリカ合衆国における教会財産紛争(
ch ur ch p ro pe rty dis pu te
)に関する連邦最高裁判例を参照し、教義判断禁止の根拠に関する連邦最高裁の理解の変遷を辿る(Ⅲ)。ここ( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号七三三三九一 では、連邦最高裁において、教義判断の禁止は、合衆国憲法修正第一条の信教の自由条項(
fre e ex er cis e cla us e
)や国教樹立禁止条項(es ta bli sh m en t c la us e
)によって司法権に対して課される限界であるとされ )5(、教会財産紛争を処理する裁判所の権限自体については当然に認められてきたことを確認する。加えて、教義判断禁止の根拠に関する理解の変遷が教会財産紛争以外の事件に対して与えた影響を確認するために、宗教団体と聖職者との間の雇用関係を巡る事件類型についても検討を加える。最後に、アメリカでの議論から得た示唆を踏まえて、わが国における宗教団体の内部紛争につき、教義判断の禁止を理由として訴えを却下することは正当化できるのかを検討する(Ⅳ)。
Ⅰ 問題の所在
1 宗 教 団 体 の 内 部 紛 争 に 関 す る 判 例 法 理
宗教団体が関係する訴訟においては、﹁訴訟物が何であるかによるチェックと、訴訟物は法律上の争訟であるとしても前提問題として裁判所が審判できるところはどこまでかのチェック、の二段階において宗教と裁判所の関係が問題となる﹂と言われる )6
(。具体例を挙げれば、前者は、教義の内容や、聖職者たる地位の存否といった宗教上の事項そのものの確認を訴訟物に掲げるような訴えがそれにあたる。これに対し後者は、訴訟物は寄付金の返還や建物明渡し等の世俗的権利義務に関する請求ではあるが、訴訟物につき判決を下す前提として、教義・信仰に関する判断が必要となるような事件である。本稿の検討の対象となるのは後者であり、本稿で﹁宗教団体の内部紛争﹂という場合も、基本的にはこちらの類型を指す。
後者の類型については、多くの判例・裁判例が存在するが )7
(、その多くが、日蓮正宗内部における大規模な宗教紛争に
( )同志社法学 六八巻八号七四宗教団体の内部紛争と司法権三三九二
端を発する一連の訴訟(いわゆる正信会訴訟)を通じて下されたものであった。一九八〇年ごろから、日蓮正宗の信徒団体であった創価学会の処遇を巡って、創価学会に批判的な僧侶らによる正信会と、創価学会との対立を避け、僧俗和合協調路線を採る宗門指導部との間で対立が生じ、ついには当時の日蓮正宗の法主・管長の地位の正統性を否定した多数の僧侶に対し、擯斥処分(僧籍剥奪処分)が下されるに至った )8
(。こうして提起された正信会訴訟においては、擯斥処分(僧籍剥奪処分)を受けて末寺である宗教法人における代表役員の地位を失った元住職と
)9
(、これに代わって代表役員に就任した新住職を長とする末寺宗教法人との間で、寺院建物等の占有権限が争われた。そして、この擯斥処分の効力に関して、元住職の言説が擯斥処分の対象である﹁異説﹂に該当するか、懲戒権者である管長が前任者から﹁血脈相承﹂なる宗教上の儀式によってその地位を承継したか、といった教義上の問題が争点となったのである。
このような事件について、リーディングケースである蓮華寺判決は、﹁宗教団体における宗教上の教義、信仰に関する事項については、裁判所は、⋮⋮一切の審判権を有しない﹂ことを前提に、そうした事項に関する判断が﹁訴訟の帰趨を左右する必要不可欠なものである場合﹂には、当該﹁訴訟は、その実質において法令の適用による終局的解決に適しないものとして、裁判所法三条にいう﹃法律上の争訟﹄に当たらないというべきである﹂と判示して、訴えを却下すべきとした原審の判断を是認した )₁₀
(。蓮華寺判決によれば、宗教法人法上の地位の存否や、寺院建物の所有権といった法律上の権利ないし地位を巡る請求が訴訟物に掲げられている場合であっても、当該請求の当否に関する判断を下すために宗教上の教義や信仰の内容に関わる判断が必要となる場合には、当該訴えは、法律の適用による終局的な解決に適さないものとして却下されることとなる。﹁宗教問題の法理﹂とでも呼ぶべきこの判例法理は )₁₁
(、本案について判断を下すための前提問題における宗教性を理由に、当該事件が﹁法律上の争訟﹂(裁判所法三条一項)であることを否定するものである。この点は本稿の関心とも関係しているため、次に、この﹁法律上の争訟﹂という概念について確認する。
( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号七五三三九三
2 と 司 法 権 の 意 義 」 1 法 律 上 の 争 訟 「 「 法 と 律 上 の 争 訟 」 宗 紛 教 団 体 の 内 部 争
日本国憲法七六条一項は、﹁すべて司法権は、最高裁判所及び法律の定めるところにより設置する下級裁判所に属する﹂と規定し、国家作用のひとつである司法権を裁判所に委ねている。しかしながら、裁判所に与えられる﹁司法権﹂がどのような権限であるかについて、憲法自体は明らかにしていないため、その意義が問われてきた。従来の通説的見解は、司法を、﹁具体的な争訟について、法を適用し、宣言することによって、これを裁定する国家の作用﹂であると説く )₁₂(。最高裁もまた、﹁司法権が発動するためには具体的な争訟事件が提起されることを必要﹂とする、と判示している )₁₃
(。ここで司法作用の対象とされている﹁具体的争訟﹂は、一般に、裁判所法三条一項のいう﹁法律上の争訟﹂と同義であるとされている )₁₄
(。裁判所法三条一項は、﹁裁判所は、日本国憲法に特別の定のある場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判し、その他法律において特に定める権限を有する﹂と規定している。ある紛争が﹁法律上の争訟﹂と認められるためには、①﹁当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって﹂(事件性要件又は狭義の事件性要件と呼ばれる)、かつ②﹁それが法律の適用によって終局的に解決し得べきもの﹂(終局性要件又は法律性要件と呼ばれる)である必要がある )₁₅
(。
以上のことから、わが国の司法権については一般に、﹁司法権=具体的争訟の裁判=法律上の争訟の裁判﹂=①事件性要件及び②終局性要件を満たす争訟の裁判、という等式が、判例及び学説によって受け入れられているとされる )₁₆
(。つまり、裁判所法三条一項の﹁法律上の争訟﹂は、憲法上の司法権の範囲を画定する役割を担わされているのである )₁₇
(。憲法上の司法権概念を、法律上の争訟という裁判所法上の概念によって定義することには批判もあるが )₁₈
(、これに対しては有力な立場からの反論がある )₁₉
(。
( )同志社法学 六八巻八号七六宗教団体の内部紛争と司法権三三九四
事件性と終局性の両要件を満たす﹁法律上の争訟﹂である限り、裁判所は当該訴えを受理し、本案判決を下すことができる )₂₀
(。更に、憲法三二条によって裁判を受ける権利が保障されていることをも踏まえると、裁判所が﹁法律上の争訟﹂に対する審判を拒絶することは、原則的に許されないと言うこともできよう )₂₁
(。事件性と終局性のいずれかひとつでも満たさない訴えは、裁判所の審判権の対象外であるとして、却下されることとなる。
このような、司法権の定義それ自体からくる裁判所の権限の限界は、司法権の﹁内在的限界﹂と呼ばれる )₂₂
(。これは、憲法が想定する司法権の概念そのものに由来する限界であり、司法権に本来的に備わる権限の範囲を意味する )₂₃
(。この点で、他の憲法上の規定との衡量・調整のうえで、司法権に対して課される﹁外在的限界﹂とは区別される )₂₄
(。
2 「
法 律 上 の 争 訟 」 の 終 局 性 要 件 の 意 義
終さ局性要件をも満たなにいといわれている当然 ₂₅) よ用適の律法、は訟訴いなさた満を件要に問っ件、らかるあで題いてなきで決解ら何は性事通普に対反、れさとるあで、 ﹁、はてい件つに係関の﹂要のつたふの件訟争の上律事法性局がのすた満もを件要性終要に時同、は訟すた満を件訴
(。最高裁が﹁法律上の争訟﹂のふたつの要件を初めて示した、いわゆる教育勅語判決は )₂₆
(、訴えが事件性要件を欠く以上、当該訴えは当然に終局性要件をも欠いているという場合の典型的な事例であるとされる )₂₇
(。
このように、事件性要件の充足性は、終局性要件の充足性と密接に関連している )₂₈
(。そこで、﹁法律上の争訟﹂の要件として、事件性に加えて終局性をも求めることに特別の意味があるのはどのような争いの場合か、換言すれば、終局性要件が持つ固有の意義とはなにか、ということが問題となる。この点について述べたとされる判例として、いわゆる技術士国家試験判決がある )₂₉
(。本判決は、﹁法令の適用によって解決するに適さない単なる政治的または経済的問題や技術
( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号七七三三九五 上または学問上に関する争は、裁判所の裁判を受けうべき事柄ではない﹂としたうえで、﹁国家試験における合格、不合格の判定も学問または技術上の知識、能力、意見等の優劣、当否の判断を内容とする行為であるから、その試験実施機関の最終判断に委せられるべきものであって、その判断の当否を審査し具体的に法令を適用して、その争を解決調整できるものとはいえない﹂として、国家試験の不合格判定の変更又は損害賠償を求める原告の訴えを却下すべきとした原判決を支持した )₃₀
(。
本判決は、原告の請求の当否を判断するための前提問題であった﹁国家試験における合格、不合格の判定﹂について、これが﹁法令の適用によって解決するに適さない単なる⋮⋮技術上または学問上﹂の争いであることを理由に、本件訴えが終局性要件を満たさず、﹁法律上の争訟﹂には当たらないと判断した。このことから、判例は、事件性要件に加えて終局性要件の充足をも求めることに特別の意義がある事件の類型として、﹁形の上では当事者間の具体的な権利義務に関する争いを目的(訴訟物)とする﹃法律上の争訟﹄ではあっても、その争点の核心の問題がたとえば学問上の論争そのものや統治行為に属する事項であり、それらの問題が裁判所の判断の前提問題とならざるを得ない争いである場合﹂を想定している、とみることができよう )₃₁
(。また、﹁①︹事件性要件︺と②︹終局性要件︺とをわけて考える意味は、①を満たす、つまり一見具体的な権利義務または法律関係の存否に関する紛争といえるとしても、②を満たさない、つまりそれを解決する基準に問題があるという点﹂にある、とするものもある )₃₂
(。いずれにせよ、終局性要件の充足性は、事件性要件を満たす紛争を解決するための前提となる問題に関して、何らかの理由で裁判所が判断を下すことができない場合に否定される、と考えられていると言える )₃₃
(。
本稿が扱う宗教団体の内部紛争について言えば、ある言説が﹁異説﹂にあたるか、といった本案判決のために必要となる宗教的判断を裁判所が下すことができない結果、当該事件の﹁法律の適用による終局的解決﹂が実質的に不可能と
( )同志社法学 六八巻八号七八宗教団体の内部紛争と司法権三三九六
なり、終局性要件の充足性が否定されるのである。そうであるとすると、判例が宗教団体の内部紛争について終局性要件の充足性を否定しているのは、結局のところ、裁判所が教義に関する判断を下すことができないからである、と言うことができる。もっとも、判決の前提問題について何らかの理由で裁判所が判断できない場合にも本案判決を下すのが判例の一般的な傾向であるとされ )₃₄
(、宗教団体の内部紛争について終局性要件の充足性を否定する判例の立場は、このような一般的傾向からは外れるものである。
3 従 来 の 学 説 と そ の 限 界
1 従 来 の 学 説 の 視 点
正信会訴訟において、占有権限の存否に関する紛争の対象となった寺院は合計で一〇〇以上に及ぶとされるが、それらのいずれについても、蓮華寺判決に従って、終局性要件を満たさないことを理由に却下判決が下されたという )₃₅
(。その結果、だれが寺院の占有権者であるかが法的に定まらず、寺院の運営は極めて不安定な状況に陥ることとなった。擯斥処分を受けた僧侶らは、法的に当該寺院の代表役員と認められたわけではなく、単に事実上寺院を占拠していても明渡しを請求されないという不安定な立場にあるに過ぎない。そのため、多くの僧侶は、別途寺院を建設するなどして拠点を移し、訴訟の対象となった寺院を管理する者がいなくなる、という状況が生じた。他方の新たに選任された住職の側も、登記簿上で当該寺院の代表役員とされているのみで、当該寺院に立ち入ることはできず、寺院の修復や、寺宝等の管理のための試みも自力救済として禁じられた )₃₆
(。結果的に、多くの寺院が荒廃したとされている )₃₇
(。
宗教団体の内部紛争について審判を拒む判例の立場は、このような結果の重大性も相まって、多くの学説からの批判を浴びた。学説は、寺院建物の使用権や宗教法人法上の地位のような法的権利・地位を巡る紛争について裁判所が審判
( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号七九三三九七 を拒むことは、当事者の裁判を受ける権利の否定につながるとして判例を強く批判し、教義等が前提問題となる場合でも本案判決を下すべきであると主張してきた )₃₈
(。そして、民事訴訟法学を中心に、教義等の解釈に立ち入らずに本案判決を下すための審理のあり方が模索された )₃₉
(。代表的な学説として、自律結果尊重説と主張立証責任説のふたつが挙げられる。自律結果尊重説は、教義問題に関する判断が必要となる場合には、そうした問題につき当該団体内部で一般に承認されている決定があれば、当該決定を団体の自律的決定とみなし、これを前提に判決を下すべきであるとする )₄₀
(。これに対し、主張立証責任説は、教義問題についての団体内での決定が、実体的・手続的要件を具備しているかどうかにつき、主張責任・立証責任を適用して本案判決を下すべきであるとする )₄₁
(。
2 従 来 の 学 説 の 限 界
従来の学説の中には、いくつかの下級審判決に影響を与えたものもあったが )₄₂
(、最高裁は、教義判断を伴う宗教団体の内部紛争について訴えを却下すべきとする立場を貫いており、それは現在も維持されている )₄₃
(。判例が、学説の示すアプローチの採用に消極的である原因は、いずれの学説にも難点が存在し、いずれの手法が妥当かについて学説の間でも大きく見解が分かれている点に、ある程度求めることができるだろう )₄₄
(。
更に、従来の学説の問題点は、判例を批判する際の、より一般的な着眼点にもあったように思われる。そもそも判例は、教義判断が本案判決の前提となる事件について、審理方法の如何にかかわらず、一般に終局性要件を満たさないと考えていたのではないだろうか。これは、立証責任の分配などの、訴訟法上のルールの適用による紛争解決の可能性についての考慮が、一切見られない点からもうかがえる )₄₅
(。先にも指摘したとおり、判決の前提問題につき判断不能な場合にも本案判決を下すのが判例の一般的な傾向であり、宗教団体の内部紛争に関する判例の立場は、こうした傾向からは
( )同志社法学 六八巻八号八〇宗教団体の内部紛争と司法権三三九八
外れている。また、近年下された玉龍寺判決が、教義上の判断を必要としない別の形での争点形成があり得ることを示し、それがなされてさえいれば法律上の争訟性が否定されることはなかった旨述べているのも、このような判例の読み方を支えるであろう。この部分は、判例としては、教義上の判断が必要となる主張がなされている限り、それを回避できるような審理方法を採用することはない、という立場を示していると読むこともできるからである。
そうであるとすれば、判例の立場では裁判を受ける権利の保障が十分になされない、という従来の学説の批判は、判例法理を否定するには充分ではなかったのではないか、という疑問が生じる。裁判所の審判を求めることができるかどうかは、当該事件に裁判所の権限が及ぶかどうかにかかっていることからすると、事件に裁判所の権限が及ばない以上、裁判を受ける権利によって救済を求めることもできない、と言うことも可能であるからである )₄₆
(。また、判例が学説の示す紛争解決の手法の採用に消極的なのも、このような紛争類型を丸ごと司法権の対象外とし、裁判を受ける権利によっても審判を求めることができない事件であると考えているためではないかと思われる。従来の学説による紛争処理の手法の提示は、法令の適用による終局的な解決の可能性の判断において、本案判断を可能にするほどの効果を、それのみでは持たないのかもしれない。結局のところ、教義判断を回避して本案判決を下す手法の考察に力点を置き、教義判断を伴う紛争に司法権が及ばないということはできない、ということを示し切ることができなかった点に、従来の学説の限界があったのではないだろうか。
4 本 稿 の 問 題 意 識 及 び 検 討 対 象
以上のような状況を踏まえると、判例法理を否定し、宗教団体の内部紛争についても本案判決を下すべきであるということを示すためには、従来の学説による批判に加えて、教義判断を伴うことを理由に、当該紛争を司法権による判断
( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号八一三三九九 の対象外とすることはできない、という批判も同時に示される必要があるのではないかと思われる。これは、より具体的には、教義判断が禁止されているということは、教義判断を伴う事件の解決が司法権の権限の範囲外であるということまでをも意味しないのではないか、という批判になろう。こうした批判は、教義判断の禁止は、裁判所の権限の限界ではなく、憲法二〇条の定める信教の自由の保障や、政教分離原則により求められるものであり、しかも、これらは宗教団体の内部紛争に対する審判を拒絶することまで求めていないのではないか、という疑問に基づくものである。加えて、教義判断の禁止が、信教の自由の保障や、政教分離原則に基づくものであるとすれば、教義判断の禁止を根拠に、当該事件の﹁法律上の争訟﹂性を否定する判例法理に対しては、司法権の﹁内在的限界﹂と﹁外在的限界﹂とを混同している、という批判も加え得るであろう )₄₇
(。司法権の内在的限界と外在的限界との混同は、司法権が及ぶ範囲を憲法が本来予定していたものよりも縮減することにつながり、司法権概念に関する考察に混乱をもたらすとされている )₄₈
(。
これらの批判の妥当性を評価するに際しては、教義判断の禁止の根拠に関する考察が有益となる。そこで、本稿では、裁判所が教義に関する判断を下すことができないことの根拠を、アメリカ合衆国における議論も参照しつつ問い直すこととする。アメリカ合衆国においては、一八七二年の
W at so n
判決以来の豊富な判例・学説の蓄積があり )₄₉(、教義判断が禁止される根拠に関しても十分な考察が見られるためである。アメリカにおける議論の検討に移る前に、次のⅡで、宗教団体の内部紛争に関する従来のわが国の判例において、教義判断の禁止の根拠についてどのように考えらえていたのかを確認しておく。
( )同志社法学 六八巻八号八二宗教団体の内部紛争と司法権三四〇〇
Ⅱ 宗教団体の内部紛争に関するわが国の判例 わが国における宗教団体の内部紛争に関する判例の展開は、﹁板まんだら﹂判決を境に大きくふたつに分けることができる。﹁板まんだら﹂判決以前の判例は、宗教団体の内部紛争に対して比較的積極的な介入の姿勢を示していたのに対し、﹁板まんだら﹂判決とそれ以降の判例は、消極的な姿勢へと転向したと指摘されている )₅₀
(。このふたつの流れの間の相違は、更に、教義判断の禁止を、当該事件に対して司法権が及ぶかという問題と結びつけるかどうか、という点にも求めることができる。後で見るように、﹁板まんだら﹂判決以前の判例である種徳寺判決や本門寺判決でも、裁判所による教義判断は制限されるべきことが示されていたが、それが事件に対する審判権の存否との関係でどのような意義を有するかについては明らかにされていなかった。これに対し、﹁板まんだら﹂判決以後は、争点の宗教性が、法適用による終局的解決を不可能とすることを理由に、裁判所の審判権を否定することが通常となっている )₅₁
(。また、教義判断の禁止の根拠については、各判決間で理解を異にしているかのようにも読める判示が見られ、本稿の関心からは興味深い。
以下では、まず﹁板まんだら﹂判決以前の判例が、裁判所の権限との関係で宗教上の事項に関する判断をどのように捉えていたのかを簡単に確認した後で、﹁板まんだら﹂判決及び蓮華寺判決における教義判断の禁止の根拠に関する判示を取り上げて検討する。
1 判 例 法 理 の 基 礎 の 形 成
﹁判決判寺照慈、はてしと例裁板高最の前以決判﹂らだんま ₅₂)
(、種徳寺判決 )₅₃
(、及び本門寺判決が挙げられる )₅₄
(。いずれの
( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号八三三四〇一 事例でも、寺院の代表役員及び住職たる地位の存否が争点となり、住職という宗教上の地位の存否について裁判所が判断を下すことができるかが問題となった。これら三つの判例により、最高裁は、宗教団体の内部紛争に関する基礎的な判例法理を形成したとされている )₅₅
(。
1 第 一 の 判 例 法 理
判例法理の第一は、宗教上の地位自体の確認を訴訟物に掲げる訴えは不適法である、というものである。これは、慈照寺判決と種徳寺判決によって確立された )₅₆
(。慈照寺判決は、仏教寺院の住職たる地位の確認を求める訴えにつき、次のように判示している。すなわち、﹁住職たる地位は、元来⋮⋮宗教的な活動における主宰者たる地位であって、同寺︹慈照寺︺の管理機関としての法律上の地位ではないというのであるから、住職たる地位に与えられる代表役員としての法律上の地位ならびにその他の権利義務(たとえば報酬請求権や寺院建物の使用権など)のすべてを包含するいみにおいて、権利関係の確認を訴求する趣旨であれば格別、⋮⋮法律上の地位の確認請求をすると共に、これとは別個にその前提条件としての住職たる地位の確認を求めるというのは、単に宗教上の地位の確認を求めるにすぎないものであつて、法律上の権利関係の確認を求めるものとはいえず、したがつて、このような訴は、その利益を欠くものとして却下を免れない﹂ )₅₇
(。
もっとも、本判決は、確認の対象である住職たる地位が、宗教上の地位であったことよりも、むしろこの地位が法律上の地位でなかったことを問題視しているように思われる )₅₈
(。このことは、判旨が、﹁住職たる地位に与えられる種々の法律上の権利義務の総体の確認請求﹂については訴えの利益が認められる旨述べていることからも読み取ることができる )₅₉
(。下級審ではあるが、カトリック教会の主任司祭の地位や )₆₀
(、仏教寺院における﹁法中﹂(単独で葬儀、法事、法要な
( )同志社法学 六八巻八号八四宗教団体の内部紛争と司法権三四〇二
どの活動を行う地位)の地位の確認を適法とする裁判例の存在も )₆₁
(、上記のような判例の読み方を裏付けるものであると思われる。いずれも法人法上の地位ではなかったが、前者については、司祭館内に居住する利益、生活費や恩給を受ける権利が、後者については、お布施を門徒から受ける経済的地位ないし財産的権利が、それぞれの地位に付随することが着目され、適法な訴えであると判断された。
このように、宗教上の地位自体の確認を求める訴えについては、裁判所が判決を下すべきものではないとされた。このことから、宗教上の地位の存否が、具体的な権利義務ないし法的地位の存否を巡る紛争の解決のために必要となる場合に、裁判所は宗教上の地位の存否につき判断を下すことができるのか、ということが問題となった。第二の判例法理は、この点に関係するものである。
2 第 二 の 判 例 法 理
第二の判例法理は、具体的事件を解決する前提として、宗教上の地位の存否が問題となる場合であれば、裁判所は当該地位の存否について判断を下すことができる、というものである。これは、種徳寺判決で初めて示された。本判決は、本山である曹洞宗の管長により罷免された種徳寺の元住職と、新住職を長とする種徳寺とが寺院建物等の占有権限を争った事件に関するものである。最高裁は、種徳寺側の建物明渡請求を認容したが、そのための前提として、元住職が罷免され、建物の使用権限を失ったかどうかの判断、すなわち住職たる地位の存否の判断が必要であるため、先の慈照寺判決との関係で、このような判断の可否が問題となった。判旨は﹁他に具体的な権利又は法律関係をめぐる紛争があり、その当否を判定する前提問題として特定人につき住職たる地位の存否を判断する必要がある場合には、その判断の内容が宗教上の教義にわたるものであるような場合には格別、そうでない限り、その地位の存否、すなわち選任ないし罷免
( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号八五三四〇三 の適否について裁判所が審判権を有するものと解すべき﹂であると判示した。
ここでは、宗教上の教義にわたらないような宗教事項についての判断は裁判所の審判権の範囲内である、という最高裁の理解が、特段の理由の提示も無く示されている。これは、具体的な権利義務ないし法律関係についての判断の前提としての宗教事項についての判断は、通常の事件で行なわれている事実認定及びこれに基づく判断と異なるところはないと考えられたためであるとされる )₆₂
(。しかしながら、完全に同一視されていたというわけでもなく、裁判所による﹁判断の内容が宗教上の教義にわたるものであるような場合には格別﹂という留保が付されている )₆₃
(。これは、本件における住職罷免の要件であった﹁檀信徒の大多数からの不信任の表示﹂(曹洞宗委員住職任免規定一一条)などのような、単なる事実の存否の判断と、それとは異なる宗教上の教義の解釈等を区別する趣旨である。この部分は、最高裁として初めて裁判所による教義判断の禁止に関する判示をしたものと思われるが、しかし、このような例外が置かれる理由については種徳寺判決では明らかにされていない。
この点につき、本判決に続いて下された本門寺判決では、より詳細な判示がなされている。すなわち、﹁宗教法人は宗教活動を目的とする団体であり、宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されているものであるから、かかる団体の内部関係に関する事項については原則として当該団体の自治権を尊重すべく、本来その自治によって決定すべき事項、殊に宗教上の教義にわたる事項のごときものについては、国の機関である裁判所がこれに立ち入って実体的な審理、判断を施すべきものではないが、右のような宗教上の自由ないし自治に対する介入にわたらない限り、前記のような問題につき審理、判断することは、なんら差し支えのないところというべきである﹂ )₆₄
(。
このように、本門寺判決では、宗教上の教義等について裁判所が審理・判断を行うべきではない理由として、宗教活動が憲法により国家の干渉からの自由を保障される結果、教義等の内部事項に関する宗教団体の自治権が尊重されるべ
( )同志社法学 六八巻八号八六宗教団体の内部紛争と司法権三四〇四
きであることが挙げられている。種徳寺判決の前記留保部分も、同様の理解に立って付されたものであると考えられる )₆₅
(。もっとも、訴訟物について判断を下すために、宗教上の教義等に関する審理・判断が必要であるような場合に、裁判所としてどのような対応をとることが求められるかについては、両判決では明らかにされなかった。
3 小 括
以上見てきた慈照寺、種徳寺及び本門寺の三つの判決によって、最高裁は、宗教関係訴訟に関する判例理論の基礎を形成した )₆₆
(。改めて確認すると、それは、①宗教上の地位の確認自体を訴訟物に掲げる訴えは不適法である、②宗教上の地位の存否に関する判断が、具体的な権利義務・法律関係を巡る紛争の当否を判断する前提として必要となるならば、その内容が宗教上の教義の解釈にわたるものでない限り、裁判所は審判権を有する、というものである。そして、先にみたとおり、裁判所による宗教上の教義に関する判断が許されない理由として、本門寺判決は、宗教団体の自律権の尊重を挙げている。
これらの法理、特に②は、その後の判例でも繰り返し援用されてきた )₆₇
(。そこでは、判例法理②の﹁宗教上の教義の解釈にわたるものでない限り﹂という留保は、﹁法律上の争訟﹂の終局性要件と結びつくことで更に発展し、宗教団体の内部紛争に対する裁判所の審判権を限定し、訴えの却下を導く役割を果たすこととなる )₆₈
(。もっとも、種徳寺判決及び本門寺判決の時点では、訴訟物に関する判断の前提問題が持つ宗教性がどのような法的意味を有するのか、そのような訴訟はどのように処理されるのか、という点については明らかではなかった。以下では、判例法理②を上記のような形で発展させた、﹁板まんだら﹂判決及び蓮華寺判決を取り上げ、教義判断の禁止の根拠に関する両判決の判示を確認したい。
( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号八七三四〇五
2 判 例 法 理 の 展 開 1
ⅰ事案と判旨「 板 ま ん だ ら 」 判 決
本件は、日蓮正宗の信徒団体である創価学会(Y)が、その会員らから供養金を募り、日蓮正宗総本山に、本尊である﹁板まんだら﹂を安置するための﹁正本堂﹂を建立寄進したところ、Yの元会員であったXら十数名から錯誤を理由とする供養金の返還請求がなされた、という事案である )₆₉
(。訴訟物自体は錯誤を理由とする金銭返還請求であったが、Xらは錯誤の内容として、日蓮正宗の教義に関わる事項を挙げていた。そのため、本件では、Xらの請求の当否を判断するための前提問題として、日蓮正宗の教義に立ち入って錯誤の有無を判断しなければならないのか、そうであるとして、本件事案をどのように処理すべきか、ということが問題となった。
判旨は、まず﹁法律上の争訟﹂について、技術士国家試験判決を引用し、次のような定義を示す )₇₀
(。すなわち、裁判所による審判の対象となる﹁法律上の争訟﹂とは、﹁当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する争いであって、かつ、それが法令の適用により終局的に解決することができるものに限られる﹂。さらに、このうちの終局性要件に関して、﹁具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であっても、法令の適用により解決するに適しないものは裁判所の審判の対象となりえない﹂という一般論を示した。そしてXらが主張する錯誤の内容については、その宗教性を指摘し、﹁いずれもことがらの性質上、法令を適用することによっては解決することのできない問題である﹂と評価する。そのうえで、﹁本件訴訟は、具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴えの形式をとっており、その結果信仰の対象の価値又は宗教上の教義に関する判断は請求の当否を決するについての前提問題にとどまるものとされてはいるが、本件訴訟の帰すうを左右する必要不可欠なものと認められ、また、記録にあらわれた本件訴訟の経過に徴する
( )同志社法学 六八巻八号八八宗教団体の内部紛争と司法権三四〇六
と、本件訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となっていると認められることからすれば、結局本件訴訟は、その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なものであって、裁判所法三条にいう法律上の争訟にあたらないものといわなければならない﹂と結論付けた。
ⅱ 検討 本件は、訴訟物につき判断を下す前提として宗教上の教義等に関する判断が必要となる場合に、裁判所はどのように事案を処理すべきか、という問題について最高裁が初めて見解を示したものである。本件第一審と最高裁は、共に、裁判所が審理できない宗教上の教義に関する事項が、請求の当否に関する判断の前提問題にとどまる場合であっても、紛争全体の法律の適用による終局的な解決の可能性が否定される場合があり得ることを指摘する。第一審判決は、このような﹁全体的波及効﹂を認めるための﹁一応の基準﹂として、内心の信仰に直接かかわる面に紛争の重点があるか否か、ということを挙げていた )₇₁
(。最高裁もまた、﹁全体的波及効﹂を認めたが、第一審のものよりも厳密な要件を設けている。判旨によれば、信仰・教義に関する判断が﹁訴訟の帰すうを左右する必要不可欠なものと認められ﹂、﹁訴訟の争点及び当事者の主張立証も右の判断に関するものがその核心となっていると認められる﹂場合には、当該紛争は﹁その実質において法令の適用による終局的な解決の不可能なもの﹂となるという。
教義判断の禁止については、本件第一審は、信仰対象の真否や教義の解釈のような問題は、﹁裁判所が法令を適用して終局的に解決できる事柄ではない﹂と判示していたが、最高裁もまた同様に、教義解釈等は、﹁ことがらの性質上、法令を適用することによっては解決することのできない問題である﹂としている。先に見た本門寺判決は、﹁宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されているものである﹂ことから、教義問題につき裁判所が判断を下すべきではな
( )宗教団体の内部紛争と司法権同志社法学 六八巻八号八九三四〇七 いとしていたが、本判決では、教義判断の禁止を基礎づける憲法論は示されていない。そのため、教義判断が禁止される根拠について、本判決がどのように考えていたかは明らかではない )₇₂
(。
この点につき、本判決は、教義問題について裁判所による審理・判断が本来的に不可能な問題であると捉えている、と読むものがある )₇₃
(。また、第一審判決についてであるが、教義判断は本来的に﹁裁判所による解決には適しない﹂と判断したとみて、支持するものもある )₇₄
(。先にみた、教義問題については憲法二〇条により裁判所による判断が制限され得る旨の留保を、本判決を想定して付していたとされる種徳寺判決や本門寺判決が引用されていないことや )₇₅
(、﹁ことがらの性質上﹂裁判所による解決が不可能であるとする判旨の文言などから、こうした読み方も不可能ではないと思われる。
本件は、宗教団体と元構成員との間の紛争であり、純粋な宗教団体内部の紛争ではなかったが、続く蓮華寺判決により、本件で形成された法理が、宗教団体内部の紛争においても適用されることとなる )₇₆
(。ここでもまた、教義判断の禁止について、これまで示されていたものとは異なる根拠が示されることとなる。
2 蓮 華 寺 判 決
ⅰ 事案と判旨本件は、罷免を受けた元住職と、新住職を長とする寺院側との間の寺院建物の占有権を巡る紛争に関するものであり、先に紹介した一連の正信会訴訟に関する最初の最高裁判決でもある。日蓮正宗の被包括宗教法人であるX寺(蓮華寺)の住職兼代表役員であったYは、日蓮正宗の法主・管長であったAが信徒団体である創価学会との和合協調路線をとり始めたことに反発し、Aは前任法主から法主承継の儀式である﹁血脈相承﹂を受けていないなどという言説を発表したため、擯斥処分(僧籍剥奪処分)を受けた。そこで、X寺はYに対しX寺所有建物の明渡しを求めて、YはX寺に対し
( )同志社法学 六八巻八号九〇宗教団体の内部紛争と司法権三四〇八
てX寺の代表役員等の地位確認を求めてそれぞれ出訴した。以下の判旨はX寺による建物明渡の訴えに関するものである。
判旨は、まず本門寺判決と
「
板まんだら」
判決を引用して、﹁宗教上の教義、信仰に関する事項については、憲法上国の干渉からの自由が保障されているのであるから、これらの事項については、裁判所は、その自由に介入すべきではなく、一切の審判権を有しないとともに、これらの事項に関わる紛議については厳に中立を保つべきであることは憲法二〇条のほか、宗教法人法一条二項、八五条の趣旨に鑑み明らかなところである﹂と述べる。そのうえで、前提問題としての宗教団体上の地位の存否の判断にあたって、宗教上の教義・信仰に関する事項をも審理判断しなければならないときには、裁判所が宗教事項に関する一切の審判権を持たない以上、右宗教団体上の地位の存否の判断もすることができない、とした。そして、﹁宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力が請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点をなすとともに、それが宗教上の教義、信仰⋮⋮の内容に立ち入ることなくしてその効力の有無を判断することができず、しかも、その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合には、右訴訟は、その実質において法令の適用による終局的解決に適しない﹂ため、﹁法律上の争訟﹂にあたらない、と説いた。ⅱ 検討 本判決は、﹁宗教団体内部の法律上の紛争と司法審査に関する従来の判例を踏まえつつ、最三小判昭和五六・四・七(板まんだら判決)の射程内において、同判決の趣旨を、宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力が請求の当否を決する前提問題となっている場合にも推し及ぼしたもの﹂とされている )₇₇
(。ここでも、判決を下すために、宗教上の教義に関