水牛供犠からの解放?
―ラオス・モン・クメール系マコンの祖先供養ラプッの事例から―
1Liberation from Buffalo Sacrifice:
Ancestor Worship, Rapeut in Mon Khmer Group people of Makong, Laos
Akiko Hirata 平田 晶子
In Mon Khmer villages in the Savannakhet prefecture, Central Laos, the buffalo sacrifice (called Rapuet) takes places between January and February of the lunar calendar. It is an expression of the ultimate memorial service for their ancestors’ spirit, where meat of the sacrificed buffalo and other livestock is to be shared with all participants. Rapuet seems to be a custom handed down—along with some differences of purpose, ritual procedure, and appellations—amongst Mon Khmer ethnic groups such the Makong, Katang, Khmu, and Nge. It is also perceived to be a part of customary conformation behavior, called hit in the native expression. Although such buffalo sacrifices decreased during the past decades, influenced by the adoption of Buddhist-style memorial services, there has been a resurgence of Rapuet in recent years due to a belief adoption of the Buddhist style by the villagers has brought down the wrath of ancestors for having abandoned the traditional memorial service. However, the Rapuet ritual was determined to be performed in places after a half century.
This paper examines the fact that the Makong villagers still seek the revival of Rapuet despite preferring the Buddhist style of memorial service, under economic and social pressure. The introduction provides an overview of the origin of buffalo sacrifice in Laos, describing the relation between gods and people living in the present day Mon Khmer society. Secondly, I provide an overview of the target village. Thirdly, the procedures of preparation are described; it brings to light the role of the son-in-law, called khuey, in each scene of the ritual activities of Rapuet. Fourthly, the meaning of Rapeut in the Mekong society as a creator of social order, strengthening and clarifying patrilineal lineages through the process of the rites, would be addressed. In conclusion, I consider the revival of ancestor worship with buffalo sacrifice, rooted in the Mekong society since ages.
All the data were collected and recorded during the anthropological field research in Lao PDR between April 2009 and March 2011.
Abstract
1.はじめに
本稿の調査地であるラオス中部サワンナケート県2 モン・クメール系集団マコンmakong3の村では、個人 の家で祀る祖霊への供養を意味する、ラプッrapuet がみられる。ラプッは、祖霊に対する最大の供養行為 であり、水牛を生贄とする動物供犠や共食が行われる。
その目的、儀式の順序、呼称、規模の大小などは、地 域によって異なるものの、マコンの人々の社会秩序を 保つための規律、ないし慣習hitとして遵守され続け てきた。農村社会において水牛は、人間と共に労働で きる価値ある役畜として重宝されている。そのため、
水牛の命を奪い、生贄として祖霊に捧げるラプッは、
霊験あらたかで、厳粛な行事としてしばしば現地の人 びとの間で語られる。
水牛を供犠する儀礼現象については、これまでラオ ス国内外の研究者たちの関心を集めてきた。たとえば、
フランス人類学者シャルル・アルシャンボーによれば、
その起源は6世紀の真臘の時代、聖域ワット・プー寺 院に祀られるヴァドレーシュヴァラ神への人間の生贄 の供犠行為に始まるという(Archaimbault 1956 : 156)4。 ラオスの供犠では、かつて人間が周辺地域に住む守護 霊への捧げものとして生贄に使われており、後に動物 の血でも人間の血と同等の価値があると考えられ、水 牛が使われていた(Archaimbault 1956 : 156-157)。こ のようなラオスの水牛供犠に関する初期の研究は、人 間が超自然的存在である守護霊との共食による、霊的 交流もしくは社会的信仰の行為として記述されてきた。
スミスによるセム族の動物供犠研究では、神に捧げら
れる貢物の共食の行動に焦点をあてて神と人とが神聖 な生贄の肉と血とを共に食べることによって、両者が 結合するという人神交流説を主張している(Smith 1943 : 22)。
これに対して、水牛供犠の意味や機能に関心を寄せ た研究もいくつか挙げることができる。レヴィによれ ば、ラオスの水牛供犠は、モン・クメール系住民だけ でなく、ラオ系住民による豊作祈願のための守護霊へ の供物であり、農業集団社会にとって重要なもので あった(Levy 1956 : 162-165)。これは、近隣地域のベ トナム農村社会においても、同様にみられる。病気治 癒の成功に対する儀式的な御礼行為として受け継が れ、その他にも、雨乞い、病疫退散、戦勝祈願、新築 や屋根の吹き替えなど村落共同体における平安や秩序 を維持する社会的機能として表現されている(杉野 1999:46-47)。つまり、ラオスやベトナムの水牛供犠 は、不可視的で超自然的存在である守護霊や神などへ の捧げものであるだけでなく、社会的秩序ないし安寧 を保つための社会的な意味ももち、個人レベルに留ま るだけではなく集団レベルにおいて様々な目的に使わ れている。
一方、意味や社会的紐帯の強化、社会秩序の再調整 などの社会機能主義的視点とは異なり、儀礼を村落共 同体のなかで象徴的な創造のプロセスとして捉える、
近年の水牛供犠儀礼に関する中田の論考は極めて興味 深い。中田は、ラオス南部チャンパーサック県のモ ン・クメール系ンゲッの父系社会の水牛供犠について 調査を行い、村の守護霊への信仰と個人レベルで行わ れる祖霊への供犠の関係を描きながら、現地語の「連 目次
1.はじめに 2.調査地の概況 3.ラプッの流れ
3−1.儀礼の開催 ―前日準備、儀礼の周辺 3−2.儀式にみるクーイの働き
3−2−1.祖霊の迎え
3−2−2.酒壷の共飲 3−2−3.寸劇 3−2−4.水牛供犠
4.マコン社会の秩序の再秩序化 1.異なるリネージ間の交流
2.帰郷の場を通して成されるリネージの再認識 5.おわりに
帯saːmakkhiː」の象徴的な創造という観点から考察を 行った(中田2004)。村の守護霊に対して、年に一度、
水牛を殺して捧げる儀礼・祭祀(「酒壺を作る」とい う意味のターク・サパーイ)は、村が主体となって行 う儀礼・祭祀が個々の家単位を超越して村全体の繁栄 とそれに基づく連帯を象徴的に創り出そうとする意図 を少なからず示唆しているという(中田2004:292)。
さらに、近年の観光化という国家政策のコンテクスト と結びつけて考えてみると、現地住民たちが水牛供犠 を社会的に強力な価値をもつ社会資本として利用して おり、水牛供犠自体が客体化される様相を呈している
(中田2003)。しかし、他方で、本稿が取り上げる村
のラプッは、中田の調査地で見られる儀礼とは異なる 点も見受けられる。それは、むしろ、村レベルではな く、より小単位である個人レベルで行われるものであ り、祖先の霊に対する供養行為として理解されるもの だからである。
対象のマコンの人々は、森、川、山などの自然に住 む超自然的存在を信仰する人々であり、家や木々に棲 むと言われる精霊に続いて、村の守護霊phiː maheasak に対する信仰心も篤い。同時に、マコン社会では祖 霊信仰が根強く残っている。そのため、なかには家 の中に祖先を祀る祖霊舎を設置する家も散見される
(LFNC 2008:171)。日々の日常の中で行う彼らの祖 先崇拝という宗教実践は、祖霊とのつながりを通して、
あらゆる規律や規則から成るマコンの社会秩序を保ち 続けるための重要な役割を担っている。ラプッという 祖先への供養行為も、その秩序を保つための重要な装 置として働いている。もしある家族が個人の祖先の霊 に対してラプッを行っていなかった場合は、たとえ身 内の者が結婚しても、その結婚は規律上正式に認めら れず、また家を新築・改築したときですらその家の建 築後の平和や安寧は約束されないなどである(LFNC 2008 : 171-172)。
このように規律として守られるべきとされていたラ プッは、従来、祖先への最大の弔いを表す一形態であ り、葬儀のなかに組み込まれた一儀礼であった。マコ ンの葬儀は、基本的に土葬である。村で死者がでると、
遺体を白布もしくは黒布で包み、棺の中に入れて土葬 する。地面の下に埋葬する前に、遺族は死者の霊魂を 供養し、家の祖霊として迎い入れ、承認するという形 式上の儀式を行う。このプロセスを経た後、翌朝、森 の中にある墓場に棺を埋葬する。そして準備が間に合 えば、2日目に水牛供犠を伴うラプッを主催し、祖先 に対する最大の供養を行う。間に合わなければ、別の 時期に機会を設けてラプッを開催すれば問題はない。
以上が、従来のマコン式の葬儀および供養の仕方であ る。
しかし、近年、このような従来のマコン式の供養で あるラプッは、仏教式の法事bun jeak khaoへと切り 替えられ、減少していく傾向にある。この背景には、
1940年代以降から、国内では王国政府やパテート・
ラオの宗教政策によって緩やかな上座部仏教化が進 められてきたことがある。特に1975年末の革命以降、
仏教思想が全国各地方に広まり、仏教的な建造物(仏 教寺院など)が村落社会においても建てられるように なってきた。仏教化の方向へ向かうマコン社会におい て、本稿が取り上げる村の事例は、半世紀ぶりに再び ラプッを復活する、言い換えるならば慣習に立ち戻ろ うとする事例である。
2010年1月下旬、サワンナケート県ウトゥンポー ン郡にある筆者の調査村P村の村人たちの間で「も うすぐアッサパントーン郡のとある村(K村のこと)
でラプッを食べるkin rapuet(ラプッの開催を意味す る)そうだ」という話が話題に上がった。調査村P村は、
半世紀以上前に数十頭の水牛を用意してラプッを開催 したことがあったが、1960年代に仏教寺院が村内に 設立され、祖先供養の行事を仏教式の法事に切り替え たため、ラプッを開催することはなくなった。それゆ えに、筆者は、K村のラプッの参与観察が貴重な機会 と判断し、早速P村から約60キロ離れたところにあ るK村へと向かうことにした。
K村に到着すると、前夜に村の長老や男たちが主宰 者の家に集まり、何やらラプッの開催をめぐって話 し合いを行っている。ある村人は、「祖先の怒りに触 れることがないように、今回ラプッを行うことにし
た。これはK村の家の遵守すべき規律、慣習hitである。
行えば、それなりに徳を積むhet bunことになる。ラ プッに僧侶は参加しないし、僧侶はいないけれども」
と、ラプッの開催について肯定的に話した。一方、一 部の男たちのなかには「しかし、今回のラプッでもう 最後にしよう。(人手もお金もかかり)経済的に負担 であり、無駄遣い、浪費sin puan fum fuayである。ラプッ を解放するjaː rapuet pot pohːy」と、表現する者もいた。
つまり、この話し合いではラプッ自体の廃止の是非 について問われていたのである。後日おこなったこの 周辺隣村での聞き取りにおいても、ラプッの開催に対 して消極的な姿勢を示す村人たちの考えを知ることが できた。このような供養の方法をラプッから仏教式の 法事に切り替えていこうとする話は、調査村P村だ けではなく、K村でも同様に起きていた。また、その 周辺地域や、ラオス南部のサラワン県、チャンパーサッ ク県のモン・クメール系社会においても、同じような ことが起きていると、政府行政レベルの役職につく関 係者たちからも聞いた。
ラプッという供養について賛否両論があり、K村の 住民たちが廃止したがっているにもかかわらず、なぜ K村でラプッを復活することになったのであろうか。
このようなK村の状況を踏まえて、本稿は次の二 つのことを明らかにする。第一に、近年、上座部仏教 化が進むラオスのモン・クメール系マコン社会の状況 において一見仏教化とは逆行するような慣習的な祖先 供養であるラプッが半世紀ぶりに復活した事例をとり あげ、ラプッの儀礼分析を中心に儀礼に参加する人々 の儀礼的実践が社会の再秩序化のプロセスとどのよう にかかわっているのかを明らかにする。とくに、この 儀礼を通して、父系制の夫方居住婚をとるマコン社会 において、供養に妻方/母方のリネージの長が登場す るというラプッの儀礼について論じていく。第二に、
近年、仏教式の法事が採用され、宗教の合理的思考が 優先されていくなかで、ラプッを廃止していこうとす る意見があるにもかかわらず、ラプッが存続されてい くことから、宗教の合理化を象徴する仏教式の法事と 水牛供犠をともなうラプッという二つの選択で揺れる
マコン社会の状況、依然として復活を求められるラ プッ原理そのものを明らかにしたい。
なお、本稿は、2009年12月から2011年3月まで の16ヶ月間、ラオス人民民主共和国サワンナケート 県内での現地調査で収集した一次資料を用いて執筆し た。
2.調査地の概況
もともと国内のマコンは、数世紀前に現ビルマのホ ンサワディー国5と現在のタイのロッブリー周辺を通 過してラオスのサワンナケート県ノーン郡の周辺に移 住してきた人々であった(LFNC 2008:175)。その後、
人口増加やそれによる社会的圧力が生じたため、人々 は徐々にサワンナケート県やカンムアン県の各地域一 帯に散住するようになっていった(LFNC 2008:175)。
K村が現在の場所に造られたのは1890〜1910年頃 のことである。村の長老の話によれば、K村は7つの 家族から始まったと語られ、現時点では人口116人(男 60人、女56人)、20世帯から成る。この地域は、長 きに亘って戦争や内紛の影響を受けた場所であった。
なかでも、県域の西側はベトナム戦争下でB52の爆 撃を受けた地域であったため、この地域周辺は戦火を 逃れるために山地から逃げてきたモン・クメール系住 民の定住先として選ばれた避難先であった。また国家 統一を目指していた内戦の最中、K村周辺の村人たち は反政府組織パテート・ラオ6の側についていた。
K村の住民は、オーストロアジア語族のモン ・ ク メール言語集団のカトゥイック語系集団に属するマコ ンの人々である。さらに、2009年の民族宗教研究所 が発行した2005年センサスに関する説明書によれば、
マコンの人々にはさらにトロイ、プア、マロイ、タ ロンなどのサブグループが存在している。マコンの 人々は地域ごとによって異なるものの、「ブルーマコ ン」「トルゥイ」「プア」「マロイ」「トロン」などの 複数の呼称をもつ(Sathaːban khon khwaː sonphaw lae saːsanaː 2009:61)。
2005年の国勢調査および民族調査の結果によれば、
マコンはラオス中部のカンムアン県とサワンナケート 県に住んでいて、国内人口は117,842 人と記録されて いる(SCCPH 2005:15)。サワンナケート県内のマコ ンの人口は74,381 人であることから、総人口の半数 以上がサワンナケート県内に集住していることが判 る(LFNC 2008:175、SCCPH 2007 : 21、Schliesinger 2000:122)。サワンナケート県は多数の民族を擁する 県として知られており、K村の近隣村にはマコンの他、
同じオーストロアジア語族のモン・クメール言語集団 に属するカタン、ラヴェ、ポン、ソーなどが混住して いる。
このような多民族混住の地域であることから、K村 の住民は、日常生活において相手に応じて複数の言語 を使い分ける。具体的には、マコン語とラオス語であ るが、年齢層によって使用言語に相違がみられる。村 の高齢者や中高年の世代はマコン語を話すことも聞く こともできる。マコン語で話される慣習的な行事や儀 式の内容は全て判るという。ただし、中高年の世代は、
出稼ぎによる移動や仏教行事を通してラオス語に触れ ることも多いため、日常生活ではラオス語を話すよう になっている。一方、幼児や若者の世代は、教育の機 会を通して、子どもや若者世代を中心にラオス語の使 用が中心であり、家庭でもラオス語を話すようになっ ている。したがって、世代によっては、マコン語が解 らない世代もあるということである。
しかし、これら二つの言語とは別に、マコンの人々 は周辺に住んでいるモン・クメール系住民の異民族 の人々と話すとき、より広域的に通用するブルー語 phaːsaː brouを共通語Lingua francaとして用いる。現 地の人々の中には、仏植民地期に作られた居住地の高 低による民族分類を用いた「ラオ・トゥン語phaːsaː lao thueng」と形容したりもするが、実際、この地域 の人々の共通語として知られるのは、ブルー語である。
ここで言うブルーbrouとは、カンボジアにいるブルー brouやブラオbraoとは区別されており、主にインド シナ地域に住む山地民を指す(Vargyas 2000 : 13)。ま た、先にも述べたように、マコンはもともと「ブルー・
マコン」という呼称ももっており、2005年センサス
調査に記載する名称を、マコンにするかブルー・マコ ンにするかで議論になったことがあった。結局、「ブ ルー」に含意された差別的・侮蔑的意味合いに対して 異議を唱える声があがったことで退けられ、正式名称 はマコンとなってしまった。しかし、ブルー・マコン という呼称は、マコンの人々にとって一つの自称であ ると同時に、人々の認識下において複数のモン・クメー ル系住民を包括する民族指標でもある。現地のモン・
クメール系言語話者の間では、タイ・カダイ諸語話者 でもなく、クメール語話者でもない、オーストロアジ ア語族モン ・ クメール語派に属する言語話者を総称し て「クワイ・ブルーkhwai brou(ブルーの民)」と形 容する。
水牛供犠をともなうラプッは、ラオス暦2月から3 月ごろ(西暦1月から2月ごろ)になると、マコンの 村だけでなく、モン・クメール系集団カタン、カム、
ンゲッなどの村々で行われる。決して連日連夜、どこ の村でも見られるというわけではなく、数年ないし数 十年に一回一つの村であるかないかという程度の希少 な儀礼である。そのため、ひとたびどこかの村でラプッ が開催された、また、近々開催されるという知らせが あると、村人たちの間で「先日、ある村でラプッを見 てきたぞ」、「今度、ラプッがあるらしいな」と話題に 上がることも珍しいことではない。このように村人た ちに注目されるのは、近年、モン・クメール系社会の 村では、仏教寺院の建設にともない、祖霊の供養を仏 教式の法事に取って替えて行うようになっているため、
ラプッを見る機会が減っていることもあるだろう。
この背景には、緩やかに進められてきた仏教化と 長きに亘る内戦という経験があげられる。歴史的に 見ればラオスの仏教は8世紀にはじまり、14世紀半 ば頃までにラーンサーン王国を統治していたファーグ ム王によって広まっていった。以降、16世紀のセー タティラート王、17世紀のスリヤウォンサー王、19世 紀のアヌ・ウォン王など、各時代の王権の庇護のもと に繁栄し、各地に建立された寺院が教育や社交、社会 福祉の諸機能を果たしてきた(Stuart-Fox 2008:33-34、
林2003:215、吉田2009:9)。その後、1945年から
1975年までの30年間でラオス王国政府と革命政府組 織パテート・ラオはサンガと政治的な忠誠関係を結ん でいき、仏教そのものを政治の駒として利用していっ た(Stuart-Fox 2008:33)。たとえば、1947年、王国政 府は王国憲法を制定し、仏教の国教化をおこなった。
1951年には、サンガ規則を制定する勅令が発布され ており、これがラオス国内で初めて作られたサンガ法 として歴史に残る。一方、1954年から56年までの間、
パテート・ラオは、ラオス仏教教会を創設し、事実上 の第一回全国仏教僧代表者大会が行われた。
この仏教化の方向に進んでいく流れと共に、各地方 の精霊祭祀や水牛供犠などの儀礼行為に対して批判的 な声もあがっていた。たとえば、1950年代にはルア ンパバーン周辺村に守護霊祭祀を禁じる頭蛇行僧が現 れ、仏暦2500年にあたる1957年には同地域で僧侶に よる水牛供犠の禁止に関する説法などが行われている
(林2003:214)。これについては、アショーカ王によっ
て作られた石柱法勅11番の条文において、国などの 政治体を統治し発展させていく原理が 「生贄の祭祀の 廃止」 にあることや(ポー・オー・パユット2013:
25,32-33)、在家信者のために用意された五戒の「不 殺生戒」などの仏教的思想が反映しているものと考え られる。
その後、1975年末の革命以降、サンガは、共産主 義政府によって宗教活動の規制をかけられたものの、
1980年以降には緩和されていき、仏教はラオス国内 で正式に 「宗教」 として認知されていった(Stuart-Fox 2008:33)。特に各年代の仏教寺院総数についてみて みると、1964年2174、1970年1833、1985年2812と 増加傾向にある(林 2003:214)。サワンナケート県 には、戦争や人の移動などから廃寺となった仏教寺院 も散見されるが、1990年以降、サンガや敬虔な在家 信者による寄付金などで各村落に仏教寺院が創設され ている。政府関係者の話によれば、なかでもアニミズ ムを信仰するモン・クメール系住民の村々への仏教寺 院の建設計画が進められているようである。このよう な上座部仏教化の流れのなかで、K村も、1990年代 に仏教寺院が設立された。これ以降、初めて、人々は
この仏教寺院に集まり、仏教儀礼に参加するように なっていった。もともとアニミズム、祖先崇拝を信仰 するマコンの人々の村々に、過去半世紀の年月を経て、
後から仏教信仰が入ってきたため、必然的に従来の祖 先供養も仏教式の法事を採用してきた。
しかし、今年に入ってから、K村では、主宰者L(男 性、75歳)の家族の身内のうち2名(主宰者Lの兄 姉2人)が連日で突然死亡するという不吉な事件が起 きた。Lは、家の祖霊の怒りに触れたのではないかと いう恐怖心を拭い去ることができず、村の長老や祈祷 師に相談した。話し合いの結果、彼らの理解では、「祖 霊が慣習を食べたいため、実施すべきである」と判断 し、約60年ぶりに7、ラプッを開催することに決めた。
さらに、村人の語りによれば、「ラプッでは、現世に 生きる家族・親族が、従来の伝統的なマコン式の祖先 供養を祖霊のために主宰してこなかったため、祖霊の 怒りを鎮めなければならない」、また、村の祈禱師か らは「ラプッを再開したほうがいい」、と遺族に告げ られたという。その後、主宰者の家族は、村内外の家 族・親族に声をかけ合い、協力を求めて準備を開始し ていった。
3.ラプッの流れ 3-1.儀礼の開催
―前日準備、儀礼の周辺
本節では、祖霊の迎え、酒壺の共飲、供犠された水 牛の解体作業などを通して、婿クーイkhuey(以下、クー イで統一)の働きを記述していく。クーイとは、婚姻 によって家のなかに入ってきた人物、つまり同居して いる娘の夫のことを指す。
K村では、ラプッの開催に向けて、3ヶ月前から準 備が進められた。主宰者となる家族は地方にいる親族 から運営資金を徴集していった。ラプッの開催に向け て、重要となるのは主宰者家族のクーイの存在である。
父系リネージ・夫方居住が規範的な村落において、通 常、娘は婚出し、異なる父系リネージの家族のなかに 入る。K村のラプッの主宰者夫婦には、娘5人、息子
1人がいた。娘5人は既に結婚し、K村以外の他村や 他郡に居住していて、このラプッ開催にあたり、主宰 者家族にとってはクーイである自分の夫をつれて、サ ワンナケート県の実家に戻ってきた。
クーイたちは、このラプッで祖霊に捧げる水牛を一 人一頭用意することが求められる。村人の回顧録によ れば、かつては一回のラプッの開催で10頭から20頭 の水牛が供犠された。つまり、当時は十数人のクーイ たちが、水牛を各自用意してこなければならず、負担 も大きかった訳である。
K村の隣村に住む老婆の話によれば、ブルーbrou の家に息子が生まれると3頭の水牛を準備するという 慣しがある。それは、彼らにとって、一人の人間の生 涯において、婚姻、祖先供養のラプッ、離婚時という 水牛を必要とする3つの出来事に備えてである。結婚 時は、必要な婚資および宴の場でのご馳走として水牛 が使用される。祖先供養であるラプッでは、水牛が生 贄として必要になる。そして、万が一の時に備えてで はあるが、男女の婚姻関係に終止符が打たれた時には、
女性側への慰謝料として男性側から水牛一頭を渡され なければならない。また、ある女性の村人は、「息子 が沢山いる家族ほど、より多くの水牛を飼い、ラプッ の儀礼に動員されて、沢山の水牛が殺されるのさ」と
話した。
しかし、この数年、ラオス農村社会の水牛の数は年々 減少傾向にあり、ラプッで使用される水牛の数も減少 している。その原因は、商品作物の栽培に使用される 土地の増加、放し飼い適地の減少、水田の耕起で導入 された耕耘機の利用、それによる水牛の需要の低下な どが挙げられる(高井2008)。このような社会的・経 済的な変化の影響をK村は受けている。K村のラプッ で使用される供犠用の水牛の数も1頭だけであった。
その代り、牛、豚、鶏などが供犠されており、クーイ の経済的負担は軽減されていく。
前日の朝、村の男たちは、カポックの木(パンヤ科 パンヤノキ属の落葉高木)と竹の筒状の部分を利用し て儀礼中に使用する祖霊が祀られる小型の家を拵えて いった(写真①)。その他には、祖霊たちに供養する ライター、マッチ箱、長柄しゃもじ、煙草、棺桶、小 動物(黒羽をもつオウチョウ、ホエジカ)8、リンガに 模られた遊び道具なども続々と作られていく9。また、
客人に料理をもてなすときに使用する高杯も藤の木を 編み込みながら40台ほど準備した。作業する男は、
先に述べた主宰者家族と親族関係にあるクーイたちで ある。さらに、クーイたちは、主催者家族と協力し合 い、儀礼用の小道具のほかに、祖霊を迎え3晩4日親
ᐓ⪅ / ࡢᐙ⣔ᅗ
族と共に過ごすための儀礼小屋を作っていった。ラ プッの開催についてはマコン語で「ジャー・ラプッ
jaː rapuet」という。「ジャーjaː」とはマコン語で「食
べる」、「ラプッrapuet」とはラオス語で「サーラー saːlaː(儀礼小屋)」を意味する。直訳すれば「儀礼小 屋を食べる」である。つまり、ラプッでは祖霊を儀礼 小屋のなかに迎え入れ、祖霊とともに共食する行為自 体を意味していることから、現地の人々は上記のよう に表現する。
午後2時頃、村の住民とは別に、ラプッの司祭であ る祈禱師モー・アロイmoː aroyと、彼が率いる一座 がK村に到着した。祈禱師は、同県チャンポン郡出 身のトゥンという名前の男であり、彼は既に過去62 回のラプッの祭司を務めたことがある。祈禱師の一座 は、チャンポン郡の各村から2名ずつ、合計12名の モン ・ クメール語族の末裔の男たちで構成される。男 たちは、赤色や黒色のベレー帽をかぶり、黒色のパイ ロットサングラス、ミリタリージャケットなどを着て いる。このような彼らの風貌は、この地域一帯が内戦 に巻き込まれていたことを物語っている。村まで同行 したCPによれば、この地域の住民はネーオ・ラーオ・
ハック・サート(ラオス愛国戦線)側についていたは ずが、その戦闘部隊パテート・ラオから脱走していっ た者が多くいると話す。過去に起きた詳細な出来事つ いて村人たちは話さないものの、彼らが身につける軍 服はラオス愛国戦線側の兵士たちが身につけていたよ うな軍服とは全く異なるものであったため、内部事情 が解る者にとっては一目瞭然であった。
祈禱師一座が到着すると、村人は祈禱師と一座を食 事でもてなした。ラプッ前日の夕方には、祈禱師、一 座の成員数名、そして主宰者の家族が、鶏料理、布、
米を白布に包んで墓地まで持っていき、「明日、迎え に来る」と祖霊に告げる。そして、また主宰者の家に 戻って、食事を食べ終わると、明日のラプッ本番に備 えて早めに就寝した。
翌日、主宰者家族の親族・姻族が各地方から寄り集 まった。クーイたちは、牛、豚、鶏のいずれかを持参 して、妻の父親であり、今回のラプッの主宰者家族に 供物として贈った。これらは、客人にもてなされる料 理として使われた。
ラプッが開催される儀礼小屋から離れたところで作 業を仕切るのは、女性ではなく主宰者家族にとって姻 族・親戚関係の立場にあるクーイたちである。家の裏 側には、高さ1.6メートルの高台が用意され(写真②)、
クーイを含めた男たちだけがその高台に上がって肉の 解体作業をすることが許される。クーイは、各自持参 した牛肉、豚肉、鶏の皮などをこの高台の上でみるみ るうちに剥ぎ、解体する。この高台から少し離れた ところに、高さ60センチ程の床机が設置されていて、
ここがラプッで使用される調理場である。クーイたち は、肉を解体した後、調理場へと運んでいき、代わって、
親戚一同の女性たちが中心となって調理し、客人をも てなした。ちなみに、K村のラプッでは、12人のクー イたちがラプッに動員され、彼らは水牛1頭、牛1頭、
豚7匹、鶏17羽を持ち寄った。水牛は、高額である ため、クーイ全員が用意することはなかった。これら 写真①
写真②
は、3晩4日のラプッの儀礼中、もち米、ラープ・カ イ(鶏のひき肉のハーブ和え)、豚の蒸焼き、スープ などの料理となって客人たち一人一人にふるまわれた。
3-2.儀式にみるクーイの働き 3-2-1.祖霊の迎え
当日の朝、ラプッは、主宰者家族の男たちが祖霊を 迎えに行くところから始まった。主宰者家族・親族で つくられた行列の先頭には祈禱師の姿がある。祈禱師 は、カウボーイの帽子をかぶり、モン・クメール系民 族を表す基本色と言われる黄・緑・赤の3色が施され た襷を肩にかけている。村の男や女は、木綿生地を藍 染めして作った上着をまとっている。この藍染めの木 綿生地の上着は悪霊から身を守ると村人たちは話す。
祈禱師と親族たちは、祖霊が眠ると信じられている 墓場へと向かった。図1で示したように埋葬場は、村 の中心部から離れたところに位置し、焼畑のある森の 中の特定の場所が選ばれる。埋葬場は、歩道から更に 奥へと道なき茂みのなかを進んでいったところにある。
祈祷師と親族たちは、雑草に覆われて見えにくくなっ た石版が地面に埋め込まれている場所を茂みのなかか
ら見つけ出すと、祖霊が眠る墓の前で輪になって座り 込んだ。彼らは、眠る祖霊に挨拶をし、昨日から調理 場で作られた料理をお供え物として捧げた。その周辺 には、土まみれた白い茶碗の破片が落ちており、彼ら はこれらを拾い集めて祖先の遺骨とみなした。図1で 示した通り、供養した後、先導人である祈禱師と一行 は、家から約120メートル離れた墓地から、家の前の 儀礼小屋に遺骨とみなして包んだ白い袋を持って帰っ てきた。クーイの数人と彼らの妻である女たちは、墓 場と儀礼小屋の中間地点で待機し、祖霊の到来を待つ
(写真③)。祖霊を迎えに行き、連れて帰ってきたと いう祈禱師と主宰者家族の一行が、墓場と家を一直線 で結んだ中間地点に差し掛かる。すると、待機してい たクーイたちは竹篭の中に用意していた子豚の両足を 掴んで逆様の状態にした。子豚は「ギーッ」という泣 き声を挙げた。祖霊が墓から家に戻ってきて歓迎を意 味する音だと村人たちは理解している。
午前8時、祈禱師と主宰者家族は、祖霊の遺骨を家 の敷地内に持ち帰ると儀礼小屋を中心にして反時計回 りに3周して歩き回る。男たちは、静寂を保ったまま、
音を立てず、集団歩行を始めた。3周した後、主宰者 家族は、白い布で包んでいた遺骨を丁寧に取り出し、
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祖霊を儀礼小屋の中に入れるような動作をして、それ を準備された木箱の中に入れ直した。ご飯、小額のお 金(1000キープを2,3枚)10を前日クーイたちが作っ ておいた小さな祖霊の家に祀る。祖霊と共に儀礼参加 者一同が朝食をとった後、数名のクーイはラオ式米倉 の下部で2ヶ月間発酵させて寝かしておいた5つの酒 壷を竹の筒を板状に薄く切り、長形を数枚重ね合わせ て作った長さ2メートルの薄板の上に一つずつのせ、
酒壷が倒れないようにゆっくり儀礼小屋まで運んだ。
午前9時、祖霊への挨拶が始まった。2つに割った 竹の筒状を皿の替わりに使用し、ラープ、ご飯を盛っ て、手作りの高杯の上に準備した。葉にもち米を包み、
人数分用意する。食後には、家族、親族および祈禱師 一団で、儀礼中の安全無事の祈願をして、プーク・ケー
ンphuːk khaen(木綿糸を手首に巻きつけながら精霊
を呼び寄せ、安全、繁栄を願う儀式)を行った。
食事を済ませた後、先導人となって祈禱師は、彼自 身のモン ・ クメール系の言語で儀式の幕開けを告げ た11。まず、祈禱師は、参加者たちとともに、儀礼中 の安全を祈願するため、儀礼小屋の周りに集まった。
その後、小屋を中心にして20mほど離れた地点の各 四方と、小屋自体の各四方を順々と回り、竹で作られ た横長の皿に少量ずつ載せられたお供え台の前に座り 込んで結界を敷いていった。村人によれば、この所作 について「祖霊を運び入れた儀礼小屋の内側と外側と の間に境界を引くことで儀礼が実施される領域内での 呪術の掛け合い合戦や外敵と見做される動物からの攻 撃を防ぐ」といわれる。これについては、林がサラワ
ン県のモン・クメール系社会の水牛供養の事例を挙げ て、外界と儀礼空間の線引きを村の門を閉じることで、
他の村落との間で境界を強調し、外部からの精霊を排 除して内なる儀礼空間を完結させていると報告してい
る(林2003:224-225)。K村の場合、国道9号線か
ら1kmほど雑木林を突っ切った所に位置していたた め、村の入り口に門は見られなかったが、儀礼小屋周 辺に結界を張った。また、村人の話によれば、「ラプッ の参加者のなかには、憎悪に満ち溢れた部族同士がい て、呪術を利用して殺人を遂行するための格好の機会 とラプッを捉えている者もいた。そのため、祈禱師が 願掛けを行っていたことは、魔除けとともに呪術から 身を守っていたとも考えられる。こうした呪術的合戦 が行われる空間を恐れ、儀礼が実施される領域に近寄 らないようにする者もいる。
願掛けが終わると、ようやく祈禱師一座は、銅鑼と 木太鼓の音に合わせて儀礼小屋の周りを反時計回りに ゆっくりと歩きだし、軽やかなステップを踏みながら 踊り、小屋の周りを3周した。祈禱師によれば、かつ て太鼓と銅鑼は、社会的権威、地位を示す物品であっ た。同時に、儀礼が行われている聖域への悪霊、邪霊 の侵入を防ぐ効力をもつとも信じられていた。実際、
こうした銅鑼や太鼓で音を出すことは、虎や蛇など猛 獣動物からの攻撃や侵入を防ぐという、一種の護身具 としても使用されている。
銅鑼と木太鼓は男たちによって力強く叩かれ始めた。
耳を劈くような音が村中に響き渡る。楽器の音ととも に、男たちは踊りはじめ、雄叫びを上げた。儀礼小屋 を3周した後、銅鑼と木太鼓と男たちの雄叫びはピタ リと止み、会場は一瞬にして厳格な雰囲気に一変した。
祈禱師は、祖霊を供養するための祈禱文を祖霊たちに ゆっくり語りかけるようにマコンの言葉で唱えながら、
儀礼小屋の周りを歩き続けた。一座の男たちも祈禱師 の後に続いて歩き始め、祈禱師の詠唱が終わると、反 復して同じ呪文を繰り返す。以下の文章は、記録した 祈禱文の内容である。
ついにあなた(祖霊)が到着しました。子孫た ちよ、祖霊の怒りに触れるようなことは言っては 写真③
いけません。徳を共に積み、食を共にしよう。待 ちに待った今日、決して止めろと言ってはなりま せん。あなたがゆっくり休養できる寝室、埋葬し ていた骨を取り出して来ました。儀礼小屋の前 で9周して家に上がって頂くことになっています。
あなたが戻ってくるのを待ちわび、これだけ準備 をしましたよ。クーイたちよ、一人のクーイが疲 れたら、次のクーイを呼び、交替で仕事をしなさ い。いいですね…。
祈禱師は、このような文言を繰り返し、ゆっくりと 祈禱文を唱え、3周した後、彼らは再び銅鑼と太鼓を 叩き始めて、儀礼小屋の周りを3周ほど練り歩いた。
この一連の動きが、約1時間の間隔を置きながら、儀 式終了まで何度も繰り返された。
祖霊が到着しましたよ。兄弟、親戚、来客の皆 さん、祖霊が戻ってきて、お腹いっぱい食べても らうので、責めたり、忠告したりしないでくださ いね。骨を掘り出しました。男性の祖霊の骨は白 い布に包みました。女性の祖霊の骨は紺色の布に 包みました。小さく一つ一つ丁寧に包みました。
一番上のクーイは、祖霊の迎えにいって、遺骨を 探しに行きました。真ん中のクーイはウコンを洗 い、用意しました。下のクーイは木々を採集しに 行きました。もうひとりのクーイは、祖父母のた めに供物を用意しています。お腹いっぱいになる まで召し上がってください。(2回目―10:15AM)
たくさんのクーイがきました。孫たちもやって きました。南北から皆がやってきました。あのクー イは、豚を持参しました。本当にたくさんの人た ちがやってきいていますよ。徐々に人が増えてい てきますが、驚いたり、警告したりしないでくだ さいね。(3回目―11:20AM)
・・・中略・・・
本日、供養します。息子、娘、老若男女問わず、
一番目のクーイ、二番目のクーイ、みんながあな たのための供養をします。竹ちまき12を用意しま した。クーイ、孫、子どもたち皆が捧げ物を持ち 寄り、今回の儀式の中で共に一緒に食事します。(4 回目―12:40PM)
時は満ちて、今日という日がやってきました。
あなたの子孫たちはようやく供養することができ るようになりました。これで一つの徳bunを積め たことになります。もしかすると、遅れて来る方 もいるかもしれません。どうか怒らないでくださ いね。ここに集まる皆さんは、ご拝聴をお願いい たします。おしゃべりしたりしないで、しっかり 聴いてくださいね。(5回目―13:35PM)
上記のような祈禱文が静かに詠唱され続けた。この 一連の合間では、クーイが持参した供物の肉などが儀 礼小屋のなかに持ち込まれ、祖霊に捧げられた(写真
④)。昼時になると、牛肉料理、もち米、牛の内臓炒 めなどがもてなされた。しばらくすると、村の長老組 の一人が雑木林の方に歩いて行き、茣蓙を敷いて、そ の上に盆に盛った供え物の食べ物を置いた。彼は、マ コン語で隣村にあるマヘーサックmaheːsak13に向かっ て話しかけ、この村の全祖霊および守護霊に食べても らうようにお願いした。昼食後、再び、祈禱師は、祖 霊に対して祈りを捧げながら踊り続けた。祖霊への弔 いは2晩3日続いた。
写真④
3-2-2.酒壷の共飲
2日目の夕刻、ラプッで最も重要とされる一場面が 始まる。それは、主宰者の家族と姻族・親族関係にあ る全てのクーイが酒壷を共飲する儀式である。クーイ たちは、儀礼小屋の支柱の下部に酒壷を移動させ、大 壷を中央に置き、それを囲むように小壷を並べていく。
酒壷は、全部で12壷準備され、参加したクーイと同 じ数量用意される(図1参照)。
酒壷の儀式が始まると、総勢25名の婿たちが儀礼 小屋の下に座り込んだ。この一団をまとめたのは、K 村出身で学校に勤務した後、2010年から郡長に選ば れた隣村の婿KM氏であった。KM氏は、儀礼小屋の 中央に建てられた支柱の周りに座る12人のクーイの 前で、今日のラプッでかかった総額、クーイが持参し てきた供犠用の動物、その合計数を報告する。そして
「互いに憎しみ合うことなく、呪術を使いながら殺し 合うこともなく、互いに誠実であり、連帯し合いな がら助け合うような、家族・親族でありますように」、
と述べてスピーチを締め括り、酒壺に突き刺さった竹 細工の長ストローを吸いながら、酒を飲んだ。続いて 年功序列で男たちが数本の竹を吸いながら、次から次 へと酒を飲んでいった。
KM氏の話や村人たちの理解では、ラプッという場 は「何か不吉なことが起こり得る場」として、緊張感 が張りつめた場でもある。具体的には、呪術を掛け合っ たり、酒壷に毒を盛って暗殺を企てられることもあり 得ることから、村人たちはこの酒壺の儀式の場面を畏 れている。仮に、中央の大壷に酒が注がれ、毒を盛る 暗殺が企てられたならば、その者は重い処罰を受ける ことになる。毒を盛られる危険性のある酒壷の儀式で は、親族一同が憎しみ合うことなく、主宰者家族に対 して穢れなき忠誠心を示す機会である。言い換えれば、
複数の異なる父系リネージの子孫たちであるクーイた ちが、別の父系リネージの長に対して敬意を払う機会 でもある。つまり、異なる父兄リネージをより上位の ブルーのもとに再統合するという意味をもつとも言い 換えることができるだろう。
KM氏の報告後、酒壷は、3つの小屋の中で右手に 位置するクーイの小屋に移された。小屋には、茣蓙が 敷かれ、4つの酒壷が並べられる。そこで主宰者家族 の父親を含めたK村の長老たちは、竹で作られた盆 の上にクーイによって持ち寄られた、酒、茣蓙、白布、
粽の4点を用意して、若年のクーイたちを歓迎する。
しかし、12人のクーイは酒壷を飲んだ後、この4点セッ トの贈り物を受け取ろうとせず、それどころか、むし ろ「小さな粽一口だけ頂きます」と、その場で遠慮が ちに食しただけであった。また長老からの贈呈品につ いては、全品の受取を丁重に断り、クーイたちは供物 の一部として再度贈呈をくり返し、その場を辞去した。
ここで示されたクーイたちによる自己のより低い立場 を考慮した上で謙遜するという行為を通して、妻の実 家に対する長老への忠誠心、服従、妻の家族への敬意 を示すと同時に、妻方の父系リネージの長老からの信 頼を獲得するに至る。
3-2-3.寸劇
酒壺の共飲の儀式のほか、ラプッには妻方の親族に 対してクーイが忠誠の態度を示すという、重要な儀式 がある。それは、水牛の供犠が始まる前に現地語でゴッ
クハークkok haːk14と呼ばれる父系、および母方のリ
ネージの長が登場する寸劇の場面である。この寸劇は、
夜12時過ぎから3時過ぎの深夜の時間帯に、祈禱師 一座の男たちと、主宰者家族に関係するクーイたちに よって即興的に行われる。一見、彼ら自身が寸劇を演 じ、興じながら、ラプッの参加者たちに対する娯楽提 供の時間だと考えられるが、この寸劇のプロットには 日常では決して起こり得ない非現実を再現するという 非日常性が埋め込まれている。
寸劇のプロットは、クーイが生き抜くために必要な 知恵や技術を妻方の家族・親族の長老ゴックハークの もとに頭を下げて教えを請いに行くというものであ る15。従来、マコン社会は、父方の数世代前までの祖 先を辿る父系リネージ集団から成る。婚姻後は、夫方 居住の形態をとる。多くの場合、遠地に嫁いだ女性は、
夫側の家に仕える身となり、自分の実家を頻繁に訪れ る機会は減ってしまう。同時に夫も妻方の家族・親族 の実家には余程の私用や用事がない限り行くことはな い。言い換えれば、ラプッの開催は、普段、顔を合わ すことのできない人たちが顔を合わせる格好の機会で ある。たとえば、娘婿であるクーイたちが妻方の家族・
親族と交流すること、妻方の親族であるゴックハーク の数名と対面すること、さらには生きる術となる知恵 や技術について教えを請うという行為自体は、マコン の日常においては決して見ることができない場面であ る。むしろ、現実的に考えてみた場合、クーイたちは 自分の父系リネージの長老や父親たちから、これらの 知識・知恵を学んでいる。妻方の家族・親族であるゴッ クハークに対して、教えを請いながら敬意を示し、寸 劇を演じて娯楽を提供し交流することは社会的な制度 と矛盾する行為である。このような矛盾行為は、ラプッ 儀礼において稀少な場面として注視され、また最も重 要な場面だとして理解されている。制度と矛盾する物 語自体の非現実性のなかにこそ、父系リネージだけで なく、母方リネージへの配慮があるともいえないだろ うか。
言い換えれば、ラプッの供養の場において、遠方か ら遥々出向いてくれたゴックハークと対面できること は、マコンの男たちにとって非日常的であり、父系リ ネージの長だけでなく妻方のリネージに対する敬意を 示す機会であったといえる。とくに、この深夜の寸劇 では、2つの異なるリネージが、年輩者を敬うことで、
異なる生活習慣や技術を身につけながらも、互いに尊 重しあい、信頼を確保し合っているとも考えられる。
また、異なるリネージの長たちが参加するラプッでは、
村人たちは自分とは異なる父系リネージへの最大の敬 意、更に首長同士の繋がりを確認し、クランへの帰属 意識、連帯感を高めており、双方のリネージの均衡を 保っているとも考えられないだろうか。それは、言い 換えれば、父系リネージを基盤としたマコン社会シス テムの秩序を強化させる社会的な意味をもっていると もいえる。
3-2-4.水牛供犠
時計の針は、深夜3時を回っていた。水牛の供犠が 始まる時間である。祈禱師と男たちは、儀礼小屋か ら30メートルほど離れた森の方へ向かった。そこは 木々に囲まれた広場になっており、中央に一本の支柱 が建っている。これは、ベトナムの少数民族の水牛供 犠で見られるような、装飾が施された供犠柱とは異な るもので、簡素な作りをしている。K村の供犠柱には、
水牛一頭と牛一頭が繋がれており、それを中心にして 水牛供犠の儀式が始まる。
広場に集まった祈禱師と男たちは、輪を描くように 水牛の周りを左回りに静かに旋回し始めた。水牛は、
暗闇の中を徘徊する男たちの足音と銅鑼と太鼓の音色 の響きに怯えているようで、足を前後に動かしていて、
どうも落ち着かない様子である。銅鑼を叩き終えた後、
祈禱師は、静寂の中で、供犠前に捧げる祖霊への祈り を唱えはじめた。その後、旋回を終えたクーイたちは、
水牛に近づいていった。心なしか水牛の眼にはうっす らと涙が浮かんでいるようだった。実際に、映像撮影 が許されたのはここまでであった。この後、水牛が茂 みの奥の方へと連れて行かれ、どのように殺されたか については記録していないが、しばらくすると水牛の 最後の鳴き声が聞こえた16。
翌朝、解体された後の水牛と牛の肉が儀礼小屋に運 ばれた。クーイは、母方リネージ側の子孫であるゴッ クハークの前で各部位を分配していった。なかでも、
水牛の脛と脹脛部分は格別の意味をもつ。蹄付の前バ ラ部分から脛までの前足部分の2本は、それぞれ主宰 者と祈禱師に与えられた。一方、後足の外腿から蹄部 分までの2本は、それぞれ祖霊の母方リネージ側の子 孫であるゴックハーク2名に渡された。寸劇にも登場 してきた母方のリネージの長である親族がラプッ儀礼 に参加することは、その儀礼の盛大さと威厳を示して いる、と村人は話す。また、K村のラプッでは、Lの 母親、祖母のリネージ集団の長が遠方から4名参加し た。そのため、K村の住民にとって、このゴックハー クの参加人数こそが、今回のラプッの盛大さや威厳性
を伝えている。
水牛の供犠、解体、分配が終わる頃になると、時刻 は朝4時頃であった。祈禱師をはじめ、他の村人たち は、約2時間仮眠した。それと同時に祖霊も休むこと になるという。
朝6時前になると、夜は明け、朝霧がK村を包み 込んでいた。祖霊への供養に使用される部位の肉は、
調理場へと運ばれていき、村人たちによって調理され 始めた。肉の各部位は、様々な方法で調理され、村人 たちによって食された。調理場では、男たちが水牛の 脊髄、肺、大動脈、すい臓、脳味噌などの部分を細か く刻んでいる。角切りし、焚火で炙ってから、唐辛子、
塩、牛直腸の中身を混ぜて作ったペースト状のタレに つけて食べている。女たちは、ご馳走を手作りの竹細 工で作った高坏に盛り合わせ、来客にもてなした。参 加者全員で共食した後、ラプッはようやく幕を閉じた。
一方、儀礼小屋の前では、祈禱師と一座、そして主 宰者家族やクーイたちは、祖霊を目覚めさせる為の祈 祷を始めた。祈禱師の詠唱のあとに続いて、男たちは 同じように唱い上げ、儀礼小屋を周りながら、銅鑼や 太鼓を叩き、踊った。昨晩、供犠として捧げた水牛の 頭蓋骨は、角の部分を残された状態で白糸につながれ、
クーイたちの手によって引きずられている。水牛だけ でなく、同様に白糸につながれた牛、豚の頭蓋骨も確 認でき、全ては祖霊に対する供物として捧げられた。
次に挙げる文章は、最後の祈禱で唱われた内容である。
目を覚ましてください。荷物をまとめて片付け てください。ようやく家の中に入っていただくこ とができますので、その前にまずご飯を召し上 がってください。夜は豚を召し上がり、朝食には 水牛を用意しました。夜から朝にかけてずっと儀 礼小屋のなかからラプッをご覧になっていただき ました。もう後から(ラプッを)やっていないと どうか叱らないでください。あなたが幸せでいら れるように、子孫たちは一丸となって儀式を行い ました。
その後、ラプッの前日にクーイたちが用意した木材 で作った鳥やリンガも使用され始めた。
祖霊の皆さま、天国へ帰る途中、道に迷わない ように、この鳥たちに訊いてください。どこの道 を通るのが正しいのか、あの世に通ずる道をきち んと聞いてください。
以上、ラプッを通して、娘婿のクーイたちがいかに ラプッの各儀式に動員されているかを述べてきた。各 儀式においてクーイの動員は、マコン社会のラプッに 必要不可欠なものであったことが判った。また、母方 リネージの長が儀礼に加わることで、ラプッは、Lの 家族を中心とした父系リネージの社会的な人間関係の 再秩序化が図られていた。次章では、異なるリネージ 間の交流による人間関係の緊密化と明示化される父系 リネージという観点から、ラプッにみる社会秩序の再 秩序化について明らかにする。
4.マコン社会の秩序の再秩序化 4-1.異なるリネージ間の交流
マコン社会は、父方の血筋にある血縁集団を基盤に 形成される父系社会である。たとえば、子孫に土地を 配分する権利、遺産相続の決定権、家督などは全て父 親にある。特に農民であるマコンの人々にとっては、
父親から譲られる遺産のなかでも、土地の相続と所有 問題が重要である。父親の死後、通常は息子もしくは 末っ子の息子に土地は分け与えられ、息子家族はその 土地を受け継ぐ。また、父親は子に対して絶対的権威 をもつため、子どもが独自に儀礼を行うことは許され ない。同様に、父親自身も祖父に対して常に服従しな ければならない。父親が政治的・社会的指導権を握る 父系リネージ集団は、日常の宗教実践や経済活動の単 位となって行われている。冒頭で述べたように、今回 のラプッの開催についても、主宰者家族の長であるL
(75歳)を中心とした村の長老組や祈禱師との相談 によって決められたことであった。ひとたび、ラプッ
の主催が決定されると、主宰者家族を中心とした関係 者が集まる。一人息子は父親の決意に従い、儀礼のた めに準備をしていかなければならない。ラプッへの参 加者は、政治的・社会的なレベルで父系を軸にした拡 大家族から、数十の拡大家族を包摂する最大リネージ にいたる。
このような父系リネージに属する人々は、ラプッの 各儀式を通して、父方の祖先に対し、敬意と崇拝の気 持ちを表す。また、祖先崇拝の宗教実践そのものを行 うことで、マコン社会の社会秩序そのものを活性化し ていた。このような状況は、アフリカのタレンシにみ る父系社会と類似する(マイヤー1980)。マイヤーに よれば、祖先崇拝そのものが、氏族の社会関係を秩序 づけるという補助的役割を果たしているだけでなく、
その社会にみる社会秩序そのものを宗教という形で表 現している(マイヤー1959:30-31)。すなわち、祖 先崇拝を実践するラプッは、マコン社会のリネージ間 の社会的関係を秩序づけるだけでなく、同時にマコン 社会にみる氏族の社会関係を調整しながら人間関係を 緊密化させていた。たとえば、第3章第2節では、クー イのラプッへの参与の在り方に注目しながら、各儀式、
場面においてリネージ間の交流がおこなわれ、人間関 係の緊密化が図られていたのを見てきた。酒壺の儀式 では、異なる父系リネージに属するクーイたちが、主 宰者家族とクーイの間でみられた供物の贈呈の所作に おいては、主宰者Lの家族と親族に敬意を表し、自 分の妻の父親や親族に忠誠心と服従の態度を示してい た。読み替えてみると、父系リネージの再強化ともい えるだろう。また、水牛の分配の儀式では、父系およ び母方リネージの長に水牛の肉の価値ある部位を提供 することによって、リネージの存在が可視化され、そ の重要性が強調されていた。夫方居住婚をとる父系社 会において、普段はほとんど顔を合わせることなどな い母方リネージの長が儀礼に加わることで、Lの父系 リネージの存在を強化していたとも考えられる。
また、クーイがラプッの各儀式に参加すること自体 は、マコンの父系リネージ自体に対する忠誠と服従を 示すことであると同時に、妻方のリネージとの交流を
通して相互の信頼関係を築き上げるという作用をもっ ていた。クーイは、普段、顔を合わせることのない姻 族・親族関係にある者同士と交流した父系リネージを 再度認識し、リネージの長たちから信頼を得て社会的 関係を再秩序化していた。これは、マコンであるかど うかというよりも、前述したモン・クメール系諸語話 者のなかにいるブルーの民としての同胞意識のほうが 強く働いている。酒壷の儀式では、異なるリネージに 属するクーイたちと顔を合わせ、酒壺を共飲し合わな ければならなかった。そして、クーイは、贈呈の所作 を行う場面において、妻の家族の長に対する忠誠心と 純心さを態度で示すことで、妻方の父系リネージから の優位性を示した。また、酒壺だけでなく寸劇や水牛 供犠および分配の式において、クーイはたとえ異なる 出自をもつ父系リネージ同士であったとしても、主宰 者家族が中心となって集まる長たちとの交流を通して 父系リネージの存続を意識する機会を得たり、母方の リネージも参加することで最大リネージの結束を強化 していたといえる。すなわち、ラプッという父系リネー ジの祖先に対する最大供養であり、祖先崇拝の行為自 体は、家長の権威を高め、同時に父系リネージを基盤 としたマコン社会の秩序を再活性化しているのである。
4-2.帰郷の場を通して成される リネージの再認識
前節では、ラプッの各儀式を通して、リネージへの 帰属意識や異なる複数の父系リネージの間で人間関係 の緊密化が図られていることを指摘した。本節では、
ラプッを機会に帰郷する人々たちが集まることで、親 族・姻族の社会的関係を緊密化させ、リネージ理念の 再認識を促すことについて論じる。
まず、マコン社会は、一般的に、婚姻後、女性が男 性の家に嫁ぐ父方居住婚のかたちをとる。娘は、夫の 家に嫁ぐため、父親の土地の所有、遺産相続に関与で きない。したがって、女性の人数が多い家族は、婚姻 後、出自の家を出て、夫方居住をとるため、後継ぎが 残らず家系が途絶える可能性がある。それは、村の人
口状況に比例して起こることである。たとえば、K村 のラプッ主宰者Lの家族構成員は、娘、孫娘の人数 が男性に比べて多かった17。婚姻後、姉妹や娘たち全 員が家を出て行き、家族構成員の総数は減少した。結 果、家のなかに残っているのは主宰者L夫妻と息子 夫婦2人と子供2人だけである。従来、父系リネージ を基盤として形成されるマコン社会は男性の数が多け れば多いほど、その氏族の存続は無事安泰であったと 考えられるが、父系を継ぐ権利のある男性数が少なけ れば、家族という小単位レベルだけでなく、村の存続 にも影響を与えることになる。
K村のラプッから判ることは、今回の主宰者家族の 構成員は男性の人数が少ないという不安定な状況のな かで、クーイがラプッに参加することでリネージが可 視化されたという利点があったことである。特に、主 宰者Lの家族の場合は、L夫妻と息子家族だけであり、
実際にラプッと儀礼運営のための成功の鍵を握ってい たのは、姻族・親族関係にあるクーイたちの労働奉仕 であった。ラプッの開催において、主宰者Lは、息 子よりも娘の数が多かったため、なおさら、クーイの 労働に期待せざるを得ないものがあったであろう。
クーイたちは、準備の段階から、儀礼中のあらゆる諸 活動に至るまで参加する義務が課され、手伝わなけれ ばならなかった。村人によれば、「婚姻後、婚資が未 納なクーイにとってラプッ儀礼の参加は、ある意味、
妻方家族への労働というかたちで奉仕をおこない、妻 の家族に対する未納の後ろめたさや気恥ずかしさとい う感情を軽減できる」と話す18。このような労働的対 価としてリネージあるいは個人対個人(この場合は、
Lとクーイの関係など)の関係は強化され、深められ ていく。
また、より多くのクーイの労働力を一時的に確保し たことは、Lの父系リネージを再認識することでもあ り、主宰者L家族の社会的な地位や威厳を獲得して いたとも考えられる。これについては、主宰者家族が どのクーイによって何が供物として捧げられていたか、
小動物から酒壺の儀式で使用される日常雑貨まで全て が台帳に記され、名前と供物の内容が読み上げられて
いたことからも判る。
そして、酒壷の儀式では、ラプッを主宰する妻方の 家族に対してクーイが純心と忠誠心を示すという行為 を行わなければならなかった。深夜を過ぎると、祈禱 師一座が先導して数名のクーイを含む寸劇が行われた。
そこでは、未熟なクーイたちが数十以上の生の営みの 知恵と技術を学びに人生の先輩であるゴックハークの もとを訪ね、修行を積んでいくというプロットで寸劇 は展開していった。寸劇では、普段顔を合わせること のない姻族・親族同士と顔を合わせ、人間関係の秩序 づけが行われていた。
さらに、マコン社会にみるラプッにおいて、現地人 すらも他の村ではなかか見ることができないと言って、
筆者に特筆すべきと主張した場面は、主宰者Lの妻 方、母方のリネージも含めたゴックハークが、深夜、
村に到着して、寸劇や水牛分配の場面に登場してきた ことであった。父系の系譜を数世代前まで辿りうるリ ネージに支えられた父系社会では本来であれば父系リ ネージが中心となって儀礼が行われる。しかし、マコ ン社会にみるラプッの特徴は父系リネージの系譜を重 視しながら展開される。一方で異なるリネージの長の 存在を強調することで、最大リネージが明示化されて いった。村人たちは、陰で「あの方はどちらから来た 人?」「○○叔父さんのお姉さん?」「懐かしいね」な ど、訊ね合ったり、声をかけ合う姿は、普段、滅多に 顔を合わせることのない人々が顔を合わせるという価 値ある帰郷の瞬間を伝えているようであった。ラプッ という帰郷の場は、主宰した側と参加した人々との社 会的関係において成員数の不均衡が均衡状態へと戻す 役割を担うと同時に、帰属する社会のリネージ理念を 再認識する機会でもある。
5. おわりに
本稿では、ラプッという祖先供養にみる複数の社会 的な意味について分析してきた。これらに加えて、一 方で、ラプッがもつ精神的充足の側面についても指摘 したい。たとえば、農村社会に生きるマコンの人々に