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『農政全書』に見える水稲作

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Academic year: 2021

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『農政全書』に見える水稲作

「歳易」の理解を中心として 林   良 育

The Cultivation of Rice Using a Paddy Described in Nongzheng Quanshu The Comprehension of the Word “Suiyi”

HAYASHI, Kazuyasu

In Qimin Yaoshu (斉民要術), which is one of the most famous books on agriculture, we can see a paddy used for the cultivation of rice using a method called “suiyi”

(歳易) meaning (changing of the planting place every year). This method is quoted in other important books on agriculture, one of which is Nongzheng Quanshu (農政全書), written by Xu Guangqi (徐光啓).

In this paper, I consider how Xu Guangqi used the paddy method for the cultivation of rice written in Qimin Yaoshu through an analysis of the quota- tions used to describe the method.

As a concrete analysis method, at first I compare the quotation in Nongzheng Quanshu with that of other main books on agriculture (e.g. Nonsang Jiyao (農桑 輯要) and Wang Zhen Nongshu (王禎農書)), and clarify its characteristics. As a result I clarified the following:

1. Editors of Nonsang Jiyao picked and quoted the part which described directly work about rice paddy products from a description in Qimin Yaoshu.

2. Wang Zhen, the writer of Wang Zhen Nongshu, picked and quoted the part which was applicable to the paddy method for rice cultivation in Southern China.

3. Xu Guangqi, the writer of Nongzheng Quanshu, quoted most parts of the description in Qimin Yaoshu whereas the abovementioned two books stopped at partial quotation.

4. The paddy method for the cultivation of rice, “suiyi” is quoted in Nonsang Jiyao and Nongzheng Quanshu, but is not quoted in Wang Zhen Nongshu. Because, it is the measure corresponding to products from paddy-cultivated rice in Northern China, and is not suitable for rice paddy products that Wang Zhen Nongshu discussed as a model case in Southern China.

Secondly, I analyzed the way Xu Guangqi used quotations in detail and clarified the following:

Keywords: Qimin Yaoshu, suiyi, Nonsang Jiyao, Wang Zhen Nongshu, Nongzheng Quanshu

キーワード : 『斉民要術』,歳易,『農桑輯要』,王禎『農書』,『農政全書』

(2)

はじめに

筆者は先に『斉民要術』に見える「歳易」

を伴う水稲作についての記述を分析し,それ が泗水水系の上流域(湧水などの水源地帯を 含む)でその地域周辺(現在の山東省)の気 候条件に対応する形で行われていた灌漑用水 の配分調整を伴う局地的な性格の稲作であっ たとの結論を得た(林2015)。その上で,次 なる課題として,この『斉民要術』(以下,『要 術』と略記)に記された水稲作が後世の農書

にどのように理解・継承されていったかの分 析を提起したのであるが,本稿はそうした分 析例の一つに当たる。

後世の主要農書の中でも特に徐光啓の『農 政全書』を取り上げた所以は,①その水稲作 についての記述が『要術』の記述を引用しつ つ徐光啓自身が注を施すなど,その解釈(理 解度)が示されている,②『農政全書』が明 代までの農書の集大成として,時に『要術』・

王禎『農書』(『東魯王氏農書』とも,以下,『農 書』と略記)と並称されながら,水稲作につ 1. In Nongzheng Quanshu, the quotation from a description in Qimin Yaoshu is divided in the text and an explanatory note and opinion is given by Xu Guangqi.

2. Among the quotation from a description in Qimin Yaoshu, a part included in the explanatory note was a description not related to cultivation of rice using a paddy.

3. The part included in the text was a description related to cultivation of rice using a paddy directly, but the order of sentences was rearranged to be easy to use it as a guide for farming.

4. For the description on the cultivation method of rice using a paddy with

“suiyi”, Xu Guangqi added an explanatory note. In this explanatory note, he supplements a local example suitable for a rice paddy product and raises the versatility of the theory of the production of rice using a paddy written in Qimin Yaoshu.

After considering the research described in this paper, it may be said that people who cultivated rice using the paddy method called “suiyi” thought of it as a practical agricultural method, which existed until the last years of Min dynasty in which Xu Guangqi served, and that it is clear that the quotation from Qimin Yaoshu had enough significance that it was not used just for formal classic quotation.

はじめに

1. 先行研究の検討

2. 『農政全書』と先行諸農書との関係  (1)『農桑輯要』・王禎『農書』における『斉

民要術』の引用

  ①『農桑輯要』における引用   ②王禎『農書』における引用

 (2)『農政全書』における『斉民要術』の 引用

 (3)小結

3. 『農政全書』のレイアウト及び注釈  (1)レイアウトについて

 (2)注釈について  (3)小結

おわりに

(3)

いては先行する二書に比して研究蓄積が少な いとされていることに加え1),③宮崎安貞の

『農業全書』に影響を与えたとされることか ら2),日本前近代の水稲作を考える上でも重 要な農書であるといった点も挙げられるとい えよう。

1. 先行研究の検討

先述のごとく,徐光啓の『農政全書』は『要 術』及び『農書』と並称される大部の総合的 な農書であり,日本の農書にも影響を及ぼし たとされる重要な農書の一つである。しかし ながら,国内の研究を見る限りでは,『要術』

や『農書』に比して水稲作に関する論考(専 論)の数が少ない印象を受ける。こうした背 景には,先学の関心が専ら農業技術史上の進 歩乃至変化に集められていたのに対し,『農 政全書』の記述スタイルが先行する農書類な どの諸典籍の関連記事を博捜・引用すること を主体としていたこともあって,日本の研究 者間で評価が分かれていることも影響してい ると思われる3)。その結果として,『農政全 書』を高く評価する天野元之助氏にしても書 籍解題的なものを含めて数点の論考を残すに 止まっていたが4),水稲作に関しては,近年 になって伊崎真紀氏・内田和義氏により専論

「徐光啓の稲作論―『農政全書』の考察を中 心に―」(伊崎・内田2008)が発表された。

伊崎・内田両氏は農学系の研究者であり,中 国農業史研究が人文・社会科学系研究者を中 心に為されてきた中,自然科学系の研究者の 知見が加えられたことは非常に喜ばしいこと といえる。しかしながら,自然科学系の研究 者であるため,中国の典籍の扱いに対する不 慣れさが目に付く。例えば,伊崎・内田両 氏は,

稲の栽培方法については,まず「崔寔曰」

として「種稲,美田欲稀」と,述べる.こ れは崔寔が著した『四民月令』(2世紀中 期成立)の一部であると思われるが,確認 したところ,それにあたる部分が見つから なかった.類似の文章としては,「可種植 禾(美田欲稠,薄田欲稀)があるが,これ は美田(肥えた田)では厚蒔きを行い,薄 田(地味に乏しい田)では薄蒔きを行う,

という意味である.徐光啓の引いた文章で は,美田に簿蒔きを行うという意味となっ ている.引用時に間違えたのだろうと思わ れる。

と述べているが,崔寔の『四民月令』は散佚 した書籍であり,現在伝わる版本は『要術』

などにあった逸文を集めた輯佚本であって,

この「種稲,美田欲稀」という記述も『要術』

に採録された逸文の引用である。従って,出 典確認としては,まず直接の引用元である

『要術』巻二水稲の条(以下,『要術』水稲の 条)を確認する必要があるが,その該当部分 を見ると,

崔寔曰「…稲,美田欲稀,薄田欲稠」

崔寔が言うことには「…稲は,肥えた田で は薄蒔き,痩せた田では厚蒔きが望ましい」

と。

となっており,引用に特に間違いはない。ま た現在の中国の輯佚本の版本として定評のあ る石声漢校注『四民月令校注』(中華書局,

第二版,2013年)でも該当部(三月の補本注)

は『要術』と同様の記述となっている。ここ から,実は引用の間違いはなく,「肥えた田 への薄蒔き」というのも,前代以来の伝統的 な農法であったことが分かるのであって,漢 1) この点については後述の伊崎・内田2008に既に指摘されている。

2) 古島1975など参照。

3) 例えば西山武一氏などは『農政全書』及びその撰者徐光啓をあまり評価していない(西山1978)。 4) 天野1964,1975cなど参照。

(4)

文典籍に対する不慣れさから誤解が生じてし まっていることが見て取れる。

また,先行研究を踏まえて,

『斉民要術』は6世紀に成立した本である.

徐光啓の時代においては,もはや陳腐なも のとなった技術も説かれている.例えば,

水田は「歳易」とされている。

として,「歳易」を「陳腐なもの」の具体例 として挙げ,にも関わらず徐光啓が『要術』

の記述を引用したことを,

古典からの引用というのが中国の伝統的な 学問方法であるのは周知のことであるが,

その伝統に則りながら,古農書の学問的な 権威をかりて稲作の重要性を説くことに,

徐光啓の主眼はあったのである。

と結論付けているが,実は「歳易」について は『農書』と並ぶ元代の代表的な農書であ る『農桑輯要』にも引用されている。『農桑 輯要』の水稲の条がほぼ『要術』の引用で占 められることについては,先行する諸典籍の 関連記事を引用するのは中国典籍の伝統的な 記述スタイルではあるが,完全に実情から乖 離した農法を記した農書を,官撰の公的な指 導書として王朝一代を通じて頒布したとは考 え難く,また後節でも詳述するが『要術』か らの引用の仕方も具体的な農作業と直接には 関わらないような部分は省略されている点か ら見て,少なくとも編纂者たちが具体的な水 稲の栽培法を描こうとしていると考えざるを 得ない。であるとすれば,『農桑輯要』は13 世紀後半から14世紀中葉まで元朝一代を通 じて頒布された官撰農書であったから,少な くとも主な対象とされる華北においては14 世紀中葉までは,『要術』から引かれた水稲 作は実用的な農法と考えられていたことに なる。徐光啓の活動年代は元末より更に250 年余り後になるのであるが,それでも伊崎・

内田両氏が考えた6世紀ほど時代は離れてい ない。また,この点も後節で詳述するが,徐 光啓は『要術』水稲の条を引用する際に,引 用書を紹介する順序を入れ替え,一部を注に 繰り入れ,必要に応じてなど自身の注釈を付 して説明を補足しており,『要術』の水稲作 を依然として実用的な農法として捉え,徐光 啓なりの理解のもとに改編していると考えら れるので,現実から乖離した前代の旧式農法 を単に「古農書の学問的な権威」を借りる目 的で引用したとする点も妥当さを欠くように 思われる。

そこで,本稿では『要術』についての拙稿 の結論を踏まえた上で,徐光啓が『要術』の 水稲作,特に「歳易」を伴うそれをどのよう に理解し,自身の時代に適応可能な形で消化 しようとしていたかを,『要術』からの引用 の仕方に着目しつつ分析することを通じて明 らかにしてみたい。

2. 『農政全書』と先行諸農書との関係

『農政全書』は明代までの農書の集大成と されるが,その記述スタイルは既述のごとく,

各作物に対して農書をはじめとする先行する 諸典籍に見える関連記述を引用・参照しつ つ,新たに記述を書き足すというものとなっ ている。こうした記述スタイルは『要術』及 び『農書』といった先行する主要農書におい ても基本的には同様であり,時代的に『要術』

と『農政全書』の中間に位置する『農書』は

『農政全書』においては『要術』とともに先 行する農書の一つとして引用されているが,

一方で『要術』を先行する農書の一つとして 参照・引用している。ところが,同じ『要術』

を参照しているとはいえ,『農書』と『農政 全書』とでは『要術』からの引用の仕方がか なり異なっている。こうした引用の差異は,

上述した『農書』と並ぶ元代を代表する農書 である『農桑輯要』と『農書』との間にも確 認できるので,先行する主要農書の『要術』

(5)

からの引用の仕方と『農政全書』のそれとを 比較対照していくことで,『農政全書』の引 用の仕方を相対化し,その特徴を浮かび上が らせることが可能となる5)。そして,その特 徴こそが徐光啓の『要術』の水稲作に対する 理解の仕方を知る有力な手がかりとなるとい えるので,まずは『農政全書』に先行する主 要な農書(先行する農書を集成する形で編纂 された大部の農書の意)にして,かつ『要術』

からの引用や影響の確認できる『農桑輯要』

及び『農書』を取り上げ,その引用の仕方か ら分析を始めてみたい。

1)『農桑輯要』・王禎『農書』における『斉 民要術』の引用

上述のごとく,水稲作についてみると,『農 桑輯要』と『農書』との間では,『要術』か らの引用の仕方に顕著な差異が確認できる。

すなわち,『農桑輯要』が『要術』の水稲の 条の水稲作に関する主要部分を部分的に省略 しつつほぼ原貌のまま引き写しているのに対 し,『農書』の方は『要術』の水稲の条の必 要な個所を部分引用しつつも,「歳易」に関 する記述は引用せず,北土高原の移植法に関 する記述は,「百穀譜」集一の水稲の条(以 下,「百穀譜」水稲の条)ではなく,「農桑通 訣」集二播種篇(以下,「農桑通訣」播種篇) に引用している。しかしながら,仔細に見て

いくと,そうした大きな違い以外にも引用の 仕方,記事の取捨の仕方などを通じて,両書 の編纂者の思考や意図の違いが見えてくるよ うに思えるので,以下,『農桑輯要』,『農書』

の順で『要術』からの引用部を更に掘り下げ て検討してみたい。

①『農桑輯要』における引用

まず『農桑輯要』について簡略に説明して おくと,元代初期に世祖(フビライ)の命で 司農司において編纂された官撰農書であり,

元一代を通じて頒布された。完成年代につい ては説が分かれるが6),初稿完成時の領土の 中核が華北であったこともあって『要術』な ど主に華北系の農書を参照して編まれたた め,水稲の条も『要術』からの節録に止まる ことが先学により指摘されている7)

次に水稲の条について『要術』からの引用 の仕方を細かく分析すると,大半は巻二播種 の水稲の条にまとめられているが,一部が播 種の冒頭の総論の部分に引用されている。水 稲の条で『要術』から引用されなかった部分 は,(a)『爾雅』など字書類の稲に対する解説,

(b)「雜陰陽書」(漢代の陰陽家の著書)8)・「孝 経援神契」(緯書)9)などの思想系の典籍から の引用(但し,前者は播種の冒頭の総論に他の 作物の分とまとめて引用されている)10),(c) ヒエの除草を説明した『淮南子』からの引用

(=水稲作の農作業自体ではない農作業)11)

5)『農政全書』と先行する先行する農書(『要術』『農書』)との比較対照については,游1986があるが,

各書の体裁・内容などを概観・比較するに止まり,水稲作の記述に焦点を当て分析したものではな い。

6) 完成年については1273年と1286年の両説があり,天野元之助氏は前者を初稿の,後者を修訂版 の完成年として1286年を完成年としたが(天野1965,1975a),宮紀子氏は1273年時点で既に現 在見られる形で完成していたとする説を提出している(宮2006)。

7) 天野元之助氏は「『農桑輯要』(1286)2播種 水稲の条は,後魏の賈思勰『齊民要術』を摘録した だけだから,…」と述べている(天野1979: 257)。また天野1965,及び天野1975a: 130なども参照。

8) 馬2008: 37の「雑陰陽書」の注〔27〕による。

9) 繆2009b: 56の「孝経援神契」の注⑲による。

10)「雑陰陽書」の記述が播種冒頭の総論に回されたのは,稲と他の作物とを一文にまとめてあるため,

水稲の条より総論に引用する方が位置的に適切であると判断したからであると思われる。

11)参考までに本文のみ引用しておくと,下記のようになる。

   『淮南子』曰「蘺,先稻熟,而農夫薅之者,不以小利害大穫。」

   『淮南子』が言うことには「稗は稲に先んじて熟すが,農夫がこれを除草するのは,蘺(稗,ヒエ) の穀実(小利)を理由に稲の収穫(大穫)を損なわないためである」と。 ↗

(6)

夏季の降雨を利用した除草を論じる『礼記』

月令からの引用(=水稲作との直接の関連性 の有無の判断が困難な記述)12)などである。

これに対し,引用された部分は二つの水稲作 を述べた『要術』本文・注釈(賈思勰自身の 記述,以下同様)及び『周礼』地官・稲人条

(以下,『周礼』稲人条)本文・注釈,『四民 月令』『氾勝之書』からの引用であるが,『周

礼』稲人条は水稲造成のための水利施設の整 備や除草作業13),『四民月令』からの引用は 上述の肥えた田での薄蒔きを述べた部分14)

『氾勝之書』の引用は水田のしつらえ方や播 種,季節により取・排水口の位置を変えて灌 漑水の水温調整を図る作業なども含まれてお り15),水稲作に直接関連することが明瞭な作 業が述べられている。更に『要術』本文・注

↗ 稗を除草する理由を説明しているものだが,稗を「小利」と比喩しているところを見ると,完全な 雑草,所謂ノビエではなく,雑穀の一種としてのヒエの方を指していると思われる。そう解した場 合,雑穀のヒエまでノビエと同じように除去してしまう理由を詳しく説明したヒエの作物学的な解 説のような記述となるので,水稲作に直接関わる一連の農作業の中に盛り込んでしまうとやや違和 感が残る内容となるといえよう。

12)参考までに本文のみ引用しておくと,下記のようになる。

   『禮記』月令云「季夏…中略…大雨時行,乃燒、薙、行水,利以殺草,如以熱湯。可以糞田疇,

可以美土彊」

   『礼記』月令に言う「季夏(旧暦の六月)…大雨が降る時期なので,そこで雑草を焼き,薙ぎ刈り,

水を注いで浸し,それによって雑草を除去すること熱湯を注ぐようにする。田地に養分を与え ることができ,堅い土を肥沃にすることができる」と。

説明を補足すると,この記述は季夏の大雨の時期を利用した除草と一種の施肥を述べたものだが,

降雨で冠水するような低地(低湿地)での播種前の準備作業の様子が読み取れるだけで,作付けさ れる作物名までは述べられていない。しかしながら,実は『要術』では小麦や旱稲も降雨で水が滞 留するような低地(下田)に播種されているので,厳密には水稲作用の農地の準備作業に限定でき るか判断し難いといえる。

13)概要を示すために本文のみ引用しておくと,下記のようになる。

   『周官』曰,「稻人,掌稼下地。以豬畜水,以防止水,以溝蕩水,以遂均水,以列舍水,以澮寫 水,以涉揚其芟,作田。凡稼澤,夏以水殄草而芟夷之。澤草所生,種之芒種。」

   『周礼』に言うことには,「稲人は低湿地での耕稼を管掌し,ため池で水を貯え,堤防で水を止 め,溝(田間のみぞ)で水を流し,遂(給水用のみぞ)で水を分配し,列(田のあぜ)で水を 留め,澮(排水用のみぞ)で水を流して,よって田中をわたって芟(刈った草)を揚げ捨てて 水田を設える。およそ沢地で耕稼する際は,夏に水で草を絶やし刈り取る。沢地で草の生える ところには芒種(稲・麦)を植える」と。

14)『要術』に引かれた『四民月令』は以下のようになるが,

   「崔寔」曰、「三月,可種稉稻.稻,美田欲稀,薄田欲稠。五月,可別稻及藍,盡夏至後二十日止。

   崔寔(の『四民月令』)が言うことには,「三月には粳稲を蒔くことがきできる。稲は肥えた田 では薄蒔きが望ましく,痩せた田では厚蒔きが望ましい。五月には稲と藍を移植することがで きるが,夏至の後20日後には止める」と。

『農桑輯要』は「五月…」以下を省略している。これについては,①稲以外に「藍」の移植が述べ られていることに加え移植時期の説明であることから,『要術』の北土高原の移植法との整合性を 考えて省略された,②版本によっては「稻」が「種」となっているために稲作以外の記述として省 略された,という二つの理由が考えられる。

15)『氾勝之書』の該当部分を引用すると以下のようになる。

   『氾勝之書』曰、「種稻,春凍解,耕反其土。種稻,區不欲大。大則水深淺不適.冬至後 一百一十日可種稻。稻地美,用種畝四升。始種稻欲溫,溫者缺其塍,令水道相直。夏至後大熱,

令水道錯。」

   『氾勝之書』に言うことには,「稲を植えるには,春に凍土がとけたら,土を耕し掘り返す。稲 を植えるには,水田に区画は大きくしないようにする。大きくすると湛水時に水の深浅がほど よくならない。冬至から110日経ったら稲を植えることができる。稲は農地が肥えていたら,

一畝に四升の種子を蒔く。はじめ稲を播種した頃は温かくしておくことが望ましく,温かくす るには(田中の水の流れが小さくなるように)あぜを欠いて作る水の出入り口(入水口と排水 口)を(最短距離の)真向いにくるようにする。夏至の後,高温になってきたら,(水温が高 くなり過ぎないように田中の水の流れを大きくするため)水の出入り口を斜め向かいなる ↗

(7)

釈に至っては,短いが注釈が加えられたほ か,版本によっては播種量の単位を「升」か らより実数値に近いと思われる「斗」に補 正・引用されている事例が確認されているの で16,こうした引用時の取捨選択の姿勢や引 用の仕方から見ると,『要術』の二つの水稲 作についても,少なくとも現実離れした旧式 農法を権威づけのために敢えて引用したとは 考え難い。『農桑輯要』は主に華北を対象と する諸農書を参照して編纂されたものとされ るが,『要術』が「上流」という立地条件は 和田保氏の研究にあるごとく民国時代まで山 東省を含む華北の水稲作の立地に適用し得る ものであったし17),直播水稲作についても,

天野元之助氏は民国時代(解放前)の水稲作 について「中國の水稻栽培は,稻秧移植法が

支配的であるが,それでも華北の諸地方で直 播法が行われ,南の方でも解放前まで直播の 実施されていたところが,かなりあった。」18)

と述べており,田中耕司氏の作成した1960 年代までの様子を反映させた資料(表)でも なお直播(湛水直播)の水稲作が「華北に少 しある」とされている19)。また,現在でもア ジア・アフリカ諸国の天水田での水稲作の一 つの傾向として堀江武氏は「旱ばつや冠水の 危険度の低いところでは移植が,高いところ では直播が卓越するというようにとらえるこ とができる」とした上で,例外として雑草の 繁茂が激しい海岸部低湿地では移植法が行わ れているとの見解を述べているので20),水田 用の灌漑用水の確保が難しい華北においては,

元代に至ってもなお直播水稲作が,例外とし

↗   ようにする。(岡島・志田訳1986を参照)

波線を施した箇所が本文で述べた『農桑輯要』では省略された部分である。『四民月令』の「肥え た農地では薄蒔き」という記述を引用しながら,『要術』本文の一畝に「三升」より多い「四升」

とすると記述に統一感を欠くことになるので省略されたものと思われるが,下の注16)で述べる ごとく,版本によっては『要術』の引用を「三斗」としているので,美田でも「四升」では少なす ぎると考え省略された可能性も考えられる。

なお,日本語訳作成に当たっては,岡島・志田: 31-32などを参照した。

16)『要術』本文には「一畝三升擲(=一畝に三升種を蒔く)」とあるが,『元刻農桑輯要校釋』(上海図 書館本が底本)では「三升」を「三斗」としている(同書: 84)。「升」が「斗」の誤りである可能 性については,西山・熊代両氏も指摘しており(西山・熊代1984,上巻107頁,注二五参照),同 じような事例は『晋書』食貨志でも確認されているので(西嶋・窪添2007: 75,渡辺2010: 214), 実際の播種量としては「三斗」の方が適正であった可能性が高い。繆啟愉氏によれば『要術』の諸 版本のうち金澤文庫本(鈔本)は「三斗」とするが他の版本は「三升」としているので,繆氏の述 べるごとく『要術』からの引用としては「三升」が正しいのであるが(繆1988: 87,注⑥),『要術』

の記述を下敷きにしたとされる『四時纂要』の三月では「三斗」とされているほか(繆1981: 84,

注⑲,渡部1982: 68),『農書』の明・嘉靖本でも『要術』からの引用を「三斗」としていることが 確認されているので(王毓瑚校『王禎農書』: 81,校記〔三〕),引用の際に単位を補正する事例が 皆無ではなかったことが分かる。従って,『農桑輯要』においても編纂,乃至修訂に際して,播種 量が現実的な数値となるよう単位の補正がなされた可能性があるが,とすればこの単位の補正も

『要術』に描かれた水稲作が,元代においてなお実用的な水稲の栽培法と考えられていた一証左と なるといえる。なお,度量衡は異説も多いが一例として,1斗は北魏・北斉3.963ℓ,宋代6.641ℓ,

元代9.488ℓ,1畝は240歩(方歩),1歩=5尺(唐以後)乃至6尺(唐以前)で1尺は北魏〜

宋元の間30 cm前後で推移するので(梁1980: 542-543, 545),北魏〜隋以前の方が約1.4倍広く,

宋元代の方がやや厚蒔きとなるが,この点については後考を待ちたい。

また『農桑輯要』は『要術』からの引用「畦㽟(あぜ)」に対し「音劣,堤厓也(〔㽟の〕音は劣で,

堤のきわのことである)。」というように注釈を施しているが,ごく短く内容も語釈なので,ここか ら編纂者の『要術』に対する考え方や理解度を読み取るのは難しい。

17)和田1942: 76参照。

18)天野1979: 392参照。

19)田中1996: 240参照。

20)堀江2015: 56参照。また山本由徳氏も環境条件のうち,直播法か移植法かを決定付けるものを,

水利条件とし,降雨に恵まれたことを移植法成立の環境要因としている(山本1997: 24, 29)。

(8)

て雑草の繁茂の激しい低湿地では雑草対策と して北土高原型の移植法が行われていたとし ても何ら違和感はない。「歳易」の継続につ いても,『要術』の「歳易」を考究した拙稿

(林2015)で論じたごとく降水量の不安定さ から農業用水を確保することが困難な条件の 中で,農業用水の使用量調整を主たる目的と して連作が回避されていたとすれば,時代遅 れの旧式な農法とはいえないであろう。

しかしながら,『要術』の「歳易」を伴う 水稲作に対する編纂者の考え方を知る上で更 に注目すべきなのは,「孝経援神契」が引用 されていない点である。上述のごとくこの典 籍は緯書であり,内容的に水稲作の農作業自 体を述べたものではないが,『農桑輯要』の 他の作物の条(種穀・大小麥・黍穄・大豆) には引用例が確認できる。従って,「孝経援 神契」が水稲の条から省略されたのは単に緯 書である,或いは作物栽培(ここでは水稲) に直接関わる農作業の記述ではないといった 理由ではなく,別な理由があったと思われる。

そこで取捨の差を検討すると,『農桑輯要』

が採録した「孝経援神契」からの引用は栽培 適地(土壌)に関するものであったが,省略 した水稲の方は栽培に適した水質(・立地)

に関する記述であった。作物にとって栽培地 域の土壌も水質もともに重要なのはいうまで もないが,水稲の場合,『要術』本文の注に「水 清則稻美(水が清ければ稲は良いものになる)」 と見え,水質は清い水(清水)がよいとされ ているのに対し,「孝経援神契」は「汙、泉 宜稻(汙水〔汚水〕と泉水(の周辺の土地) が稲の栽培にほどよい)」として汙水(=た

まり水,濁り水)と泉水(湧水,清水の一つ)

の二種類を挙げており,『要術』とは一部記 述が対立する。この場合,ことを華北での水 稲作に限れば,夙に西山武一氏らが述べてい るように湧水などの清水(甜水)が非アルカ リ性の水質故に水稲作に適するとされている ので21),『要術』の注の方が妥当な水質となる。

であるとすれば,『農桑輯要』の編纂者も『要 術』の記述の方を妥当と判断(理解)した上 で,「孝経援神契」の方を省略したものと考 えられるので,『要術』の二つの水稲作の部 分に実用的な栽培法として十分な信を置いて いたことが読み取れることになる訳である22

②王禎『農書』における引用

次の『農書』についても簡略に説明してお こう。『農書』は元代に王禎に編纂された大 部の農書であり,主に農作業について述べた

「農桑通訣」,農作物ごとの栽培法をまとめた

「百穀譜」,農業施設や農具の図版付き解説で ある「農器図譜」の三部から構成されている。

記述のスタイルは先行する農書類などの諸典 籍の関連記事を引用しつつ新たな情報や自身 の考えなどを書き加えるという伝統的なもの であるが,図版データを付した「農器図譜」

は『要術』や『農桑輯要』には見えない新機 軸であり,「農桑通訣」や「百穀譜」に見え る王禎の手になる新たな記述と相まって,『農 書』の史料的価値を高いものとし,多くの研 究者の関心を集めてきた23)

水稲作について見ると,主に「百穀譜」水 稲の条及び「農桑通訣」に記されており,『要 術』の水稲の条からの引用も「百穀譜」水稲 21)西山・熊代1984: 上巻104-105,注五参照。

22)但し,実用性に関する農書編纂サイドの判断が常に適正であったかはまた別の問題であり,特に広 域を対象とする農書の場合,各地域の実情との乖離の危険性が絶えず伴ったと思われる。例えば金 元代に王朝主導で導入が推進された区田法(『氾勝之書』に見える農法が原型)を論じた井黒忍氏 は,『務本新書』に記された金代の区田法を基礎として考案・実施されたモンゴル時代の区田法に ついて,適性を欠く地域での実効性には否定的な見解を提示している(井黒2013: 403-404)。 23)例えば王禎『農書』の総合的な研究として「元の王禎『農書』の研究」(天野1967)を残した天

野元之助は「私は中国古農書のなかで,王禎『農書』に最も魅力をおぼえた。」(天野1975a: 141) としており,西山武一氏は自身が評価した王禎『農書』を酷評した徐光啓を批判している(西山 1978: 427-428)。

(9)

の条と「農桑通訣」播種篇などに分記されて いるが,引用を分記するのは『農桑輯要』に も見られたスタイルである。水稲の条に関し ては,『農桑輯要』が『要術』からの節録に 止まるのに対し,『農書』は「百穀譜」で江 南の移植法を紹介するなど,王禎の手になる 記述に注目すべき情報が盛り込まれている点 が特徴であるが,一方で『要術』からの引用 は部分的な上に,内容も限られており,ほぼ 原貌を留める形で節録している『農桑輯要』

とは引用の仕方がかなり異なっている。

次に引用の仕方を「百穀譜」水稲の条を中 心に細かく分析してみると,大別して①『要 術』からほぼそのまま引用している部分,②

『要術』の記述を踏まえつつ自身の表現に言 い換えている部分,③「農桑通訣」播種篇な ど他所に引用した部分となり,④として引用 に際して省略された部分がこれらに加わるこ とになる。全体として『農桑輯要』に比して

①のタイプの引用が少なく,「歳易」や水質 に関する注釈「水清則稻美也」など『要術』

の水稲作を特徴付けるような記述は引用され ていない部分,すなわち④に区分される。こ うした引用の仕方は,『農桑輯要』の引用の 仕方と異なるだけでなく,同じ稲でも「百穀 譜」旱稲の条が『要術』からの引用を基調と し,その後ろに占城稲に関する情報を書き足

しているのとも対照的である。

『農書』が『農桑輯要』に比して『要術』

からの引用量を少なく抑えている事由は,直 接的には水稲の条に見える王禎の主張,すな わち水稲作の中心を江南など南方に求め,水 稲を南方の代表的な作物に位置づけている点 に求められると思われる24)。それは①〜④を 検討していくとより明瞭となる。まず①に該 当するのは直播水稲作の播種から水田管理ま での部分であり,多少の節略や農具の「陸軸」

を「碌碡」にするなどの語句の書き換えはあ るものの概ね『要術』の記述がほぼ原貌のま ま引用されているが,この直播法は周藤吉之 氏が夙に指摘しているように,宋代において も江淮以南での事例が確認されている25)。一 方,①と②のどちらに区分するかが微妙なの が『周礼』稲人条からの引用であり,

治稻者,蓄陂塘以瀦之,置隄閘以止之。故

『周官』制典,「稻人,掌稼下地,以瀦蓄水,

以防止水。」

水稲を栽培する者は,陂塘(ため池)を作っ て水を貯え,堤防と水門(閘)を設置して 水を止める。それ故『周礼』は官制を定め て,「稲人は低湿地での耕稼を管掌し,た め池で水を貯え,堤防で水を止める」と述 べているのである。

24)『農書』の水稲の条には,

   『淮南子』亦曰「江水肥而宜稻。」南方下土塗泥,皆宜水種。…中略… 大抵稻,穀之美種。江 淮以南,直徹海外,皆宜此稼。

   『淮南子』もまた言うことには「江水は養分に富み稲の栽培によい」と。南方の低地の泥土は みな水稲を栽培するのによい。…中略…およそ稲は穀物の中でも優れたものである。江淮以南 から海外に至るまで,みなこの作物の栽培に適している。

と『淮南子』からの引用を交えるなどして,水稲が江淮以南など南方で栽培するのに適した作物で あることが述べられている。

25)周藤1962b: 81-82参照。但し,注16)でも述べたごとく,『要術』の一畝ごとの播種量「三升」

は単位の誤りの可能性も指摘されており,また畝・升とも時代ごとに変動するので,播種量が適正 であったかは疑問が残る。『農書』や『農政全書』など大部農書は技術指導用の実用書でありながら,

古典引用は原典に忠実にするという作法が優先される傾向にあり,畝ごとの播種量では実態との乖 離が目に付く。この点は撰者が農政に明るいとはいえ官僚であるという身分的な制約の大きさを感 じざるを得ない。しかしながら,畝ごとの適正な播種量は地域や稲の品種,更には農地ごとにも多 様化するので,広域を対象に想定する農書であれば,その性格上,古典引用以外の記述には具体的 な数値を示さないようにするという配慮がなされているとも考えられ,水稲の条においては,王禎 は自筆部分では一畝当りの目安となる播種量を記しておらず,徐光啓も批判対象として「畝一斗以 上」という数値を挙げるに止まっている。

(10)

といように,持論の一部として『周礼』稲人 条を踏まえた記述をした直後に『周礼』稲人 条からの引用を続けている。『周礼』は成立 年代を含めて史料としての扱いが難しい典籍 であり,そこに描かれた水稲作についても地 域を特定するのが難しいのであるが,引用部 の水田に灌水するための水利施設の建設に関 する記述は,後述の王禎がモデルケースに想 定した江南の高田での水稲作とマッチするも のである。次に②の類型に相当するのは水田 立地について述べた「宜選在上流出水(選ん で上流の水の流出する地域にあるようにする とよい)」の部分だが,これは『要術』の「選 地欲近上流(水田用地を選ぶ際は上流に近い ようにするのがよい)」を踏まえた表現であ る26)。「上流」を水田適地とする点は,『要術』

の場合とも共通するが,上流が好ましい理由 を述べた『要術』の注釈「水清則稻美也」を 省略しているところを見ると,王禎が主に想 定したのは足立啓二氏らが南宋の『陳旉農 書』の再検討により明らかにした南宋までの 水稲作の中心となった江南の河谷平野や扇状 地,すなわち相対的に水源に近い上流に位置 する地域(高田)であると思われる27)。従っ て,①と②は南方での水稲作にも適用できる ような内容の記述となっているといえる。

これに対し,③には「農桑通訣」播種篇に 引用された北土高原での水稲作(移植法)の 記述,「雑陰陽書」「孝経援神契」などの思想 系の典籍類が該当する。北土高原での水稲作 については移植法という南方の水稲作との共 通点があるものの,華北の水稲作であること から,地域的に親和性を欠く内容である。一 方,思想系の典籍については,「百穀譜」水 稲の条にも緯書の「春秋説題辞」28)からの引 用が見えるなど,『要術』以来の緯書であっ ても必要と判断すれば引用するという伝統を 継承しているように見受けられるので,「雑 陰陽書」「孝経援神契」からの引用の場合も 陰陽家や緯書の思想を嫌ったということでは なく,ともに『要術』や『農桑輯要』が作物 ごとに引いていた逸文を一所にまとめた形に なっているので29),水稲の条に引用するより 穀物全般を論じる播種篇に引用する方が内容 的に相応しいものとなっていることが水稲の 条に引用されなかった理由であると思われ る。更に④については,『要術』の水質に関 する注釈が華北に特徴的なものであることは 既に前項で言及したが30),「歳易」の方は多 少説明を要する。というのも,『要術』の「歳 易」も拙稿で明らかにしたごとく灌漑用水の 確保が難しい山東省を中心とする地域の気候 26)やや表現は異なるが,旱稲の条では「水稻宜近上流(水稲〔の栽培〕は上流に近い方がよい)」と

述べているので,『要術』の「欲近上流」を踏まえたものであろう。

27)足立啓二氏は「高田は相対的に河川の上流に近い,一定の傾斜をもつ地域に造られた耕地群であり,

そこでは乾田化が実現している反面,旱害の危険があり,陂塘灌漑が行われている。」(足立2012:

90)とし,こうした地域を「河谷平野」(同: 91)という語で表現した上で,「従来陳旉の『農書』

の進んだ技術とされてきたものは,両耕地のうち,河谷平野部にのみ妥当することも明らかとなっ た。」(同: 95)としている。またこの点については大澤1996a: 239-240も参照。

28)「春秋説題辞」が緯書である点については,繆2009b: 160,注①参照。

29)該当部分を引用すると,以下のようになる。

   「雜陰陽書」曰「禾生於棗或楊,太麥生於杏,小麥生於桃,稻生於柳或楊,黍生於榆,大豆生於槐,

小豆生於李,麻生於楊或荊。」

   「雑陰陽書」に言うことには,「穀(アワ)は棗或いは楊に生じ,大麦は杏に生じ,小麦は桃に 生じ,稲は柳或いは楊に生じ,黍は楡に生じ,大豆は槐に生じ,小豆は李に生じ,麻は楊或い は荊に生ずる」と。

   「孝經援神契」曰「黃白土宜禾。黑墳宜麥與黍。赤土宜菽。汙泉宜稻。」

   「孝経援神契」に言うことには,「黄白の土は禾(アワ)の栽培によく,黒墳(黒い肥えた土) は麦と黍の栽培によく,赤土は菽(マメ)の栽培によく,たまり水と泉水(周辺の地)が稲の 栽培によい」と。

30)この点については注21)参照。

(11)

に対応して生まれた措置であって,南方の水 稲作とは縁が遠いものであるが,実は宋代の 淮江以南の地域でも「歳易」のように高い頻 度で連作回避を伴う水稲作が存在していたか らである。この点については足立啓二氏の研 究に詳しいのであるが,江南の中でも宋代に はなお水稲作の後進地域であったデルタ部で は水害でしばしば水没する農地が存在したた め,回避策として「一易,再易」と表現され るような高い頻度の休閑を挟んだ水稲作が行 われていた31)。それ故,「歳易」は基本的に は華北の水稲作での措置として省略されたと 考えてよいと思われるのであるが,「歳易」

という字句が開発の遅れた江南デルタで行わ れた易田,すなわち王禎の想定した河谷平野 や扇状地でのモデルケースではない措置を連 想させるという意味においても引用を避ける 必要があったと考えられるであろう。従って,

③と④に該当する部分は,他の編目に分記し た方がよさそうな内容か,南方の水稲作への 適用が難しい,乃至は措置として適切ではな い内容となっているといえよう。

以上,①〜④の分析の結果を整理すると,

引用の取捨選択の基準は基本的に南方の稲作 への適用の可否に置かれており,王禎は『要 術』水稲の条から引用するに際し,江淮流域 以南を水稲作の適地とする主張を踏まえて,

南方の水稲作との親和性が保てる汎用性の高 い部分(水田立地〔上流〕や直播水稲作)を 最小限引用,乃至は言及するに止め,華北の 水稲作の色合いが濃厚で文脈的にも馴染まな い「歳易」や水質(清水)に関する記述は省 略したと考えることができるだろう。一方,

北土高原の水稲作の方は,移植法という点で は南方系の水稲作と共通するが,南方に適す

るという王禎の主張との整合性を欠いており,

思想系の典籍もその引用文の体裁・内容が水 田の条に引用するには不適なので,「農桑通訣」

播種篇の方に回したものと考えておきたい。

2)『農政全書』における『斉民要術』の引用 では『農政全書』における『要術』の引用 の仕方はどのようなものであったのだろう か。『農政全書』の基本的な性格については,

本稿冒頭以来少しく言及してきたが,ここで も簡略に論じておくと,明の徐光啓の撰修し た大部の農書であり,先行する諸農書の集大 成と評されるように,『農書』の「農器図譜」

から採用された文章+図版データという体裁 を継承しているほか,特徴とされる西洋の農 法に関する情報についても,イタリア人宣教 師サバティーノ=デ=ウルシスの『泰西水 法』の編訳を「泰西水法」として水利の部に 採録するなど,他書からの引用を主体とする 記述スタイルをとっている32)

但し,稲の取り上げ方には多少の変化も 生じており,『農書』までは「水稲」で一条 が立てられていたのに対し,『農政全書』で は巻二十五種芸の稲の条(以下,『農政全書』

稲の条)として旱稲と一緒にまとめられてお り,水稲は旱稲と並んで稲の下位区分として 扱われている。『農書』までは水稲と別の条 で扱われた旱稲が,水稲と一括されるように なった点については,『農書』で旱稲の一種 として取り上げられるようになった占城稲の 普及が大きく寄与していると思われるが,明 代中〜後期には華北での稲作が拡大傾向を見 せたとの説もあり33),華北での栽培に適した 耐乾性の高さが関心を集めていたことも一要 因となっているものと思われる。

31)足立2012: 97参照。

32)『農政全書』の書籍解題的研究については,注4)参照。また『農政全書』が先行する農書をはじ めとする諸典籍からの引用を中心に編纂されている点について,西山武一氏は徐光啓自身の記述の 占める比率を,天野元之助氏が挙げた「全巻六十巻,五十余万字,うち徐光啓の筆になるところが 約六万一千四百字」(天野1975c: 284)という数字をもとに12%という数値を算出している(西山 1978: 418)。

33)葛等2011: 542参照。

(12)

水稲に関する記述について見ると,『要術』

水稲の条に描かれた二つの水稲作のうち,北 土高原の水稲作を「農桑通訣」播種篇に分記 した上で「歳易」を省略した『農書』とは異 なり,『農桑輯要』と同じように『要術』の「歳 易」を伴う水稲作は北土高原の移植法ととも に同じ巻にまとめて本文として引用されてい る。『農政全書』が先学の説くごとく,先行 する諸農書や諸典籍中の農業関係の記述の集 大成であったとすれば,ある意味当然ではあ るが,それは単に先行する『農桑輯要』『農 書』ら主要農書の記述を過去の栽培例として 引用・集成しようとしたということでもな い。というのも,『要術』の直播水稲作及び 雑草対策としての移植法という二つの水稲作 は,前節で『農桑輯要』を分析した際にも述 べたごとく,後代まで存続していてもおかし くない農法であったし,『農政全書』は『農 桑輯要』とも『要術』の引用の仕方が異なる からである。

既述のごとく,『農桑輯要』は『要術』水 稲の条の本文を節録しつつも,ほぼ原貌を留 めた形で引用しているが,『農政全書』は『農 桑輯要』が省略した記述(諸書からの引用) も含めて『要術』水稲の条を,『周礼』稲人 条の注釈及び『礼記』月令(本文・注釈)か らの引用などを除いて,ほぼ全文を何らかの 形で引用をしている。しかしながら,それは

『農桑輯要』より『要術』の記述を忠実に引き 写したということでもない。『農政全書』では,

『要術』の記述は本文と注釈とに再区分され た上で,記述される順序も徐光啓によりレイ アウトし直されており,例えば『要術』で本 文と並べて引用され,『農桑輯要』でも引用さ れている『周礼』稲人条の本文は『農政全書』

では注釈に繰り込まれている。従って,集大 成とはいっても,それは類書のように先行す る諸典籍,関連記事を博捜し時系列に従い並 べていったのではなく,編者である徐光啓が 自身の理解をもとに(それが適切であるか否 かは別として),改編されていることになるか

ら,厳密に言えば一見過去の諸典籍の集成の ように見えて,実は徐光啓というフィルター を経て再編された別の書籍であるともいえる。

であるとすれば,『農政全書』の水稲に関する 記述を正確に理解するのは,先にフィルター 部分の分析が求められることになるが,この 点についての詳細は節を改めて論じたい

3)小結

以上,本節では『農桑輯要』『農書』と『農 政全書』の『要術』からの引用の仕方を,各 書の違いに着目しつつ概観してみた。その結 果を総括するとすれば,以下のようになる。

すなわち,『農桑輯要』は『要術』水稲の条 の記述を理解した上で,水稲栽培の際の農作 業に直接関わらないと判断した部分を省略,

乃至は水稲の条以外のところに分記するなど して節録するという形で記述の簡明化を図っ ているが,こうした方向性は『農書』にも継 承されており,江南に代表される南方での水 稲作との内容の統一感を持たせるために,「百 穀譜」水稲の条での『要術』からの引用を更 に簡略化し,整合性を欠くような内容は省略,

乃至は「農桑通訣」播種篇に分記する方向へ と進んでいった。これに対し,『農政全書』

は記述の簡明化,統一感の重視といった方向 性は基本的には継承しているが,そのスタイ ルは『農桑輯要』『農書』までの簡略化とは 異なり,『要術』の記述を,一部を除きほぼ 全文を稲の条の水稲の項一所に何らかの形で 引用しながら,それを徐光啓自身の考え方に 従い本文・注釈に区分し直し,文章の順序を 入れ替えるなどの編集を加えた上で,更に自 身の注釈により説明を補足するなどしてより 理解しやすい記述とするという形となってい るといえよう。

3. 『農政全書』のレイアウト及び注釈 それでは『要術』水稲の条からの引用の仕 方の本格的な分析に移ろう。『要術』からの

(13)

引用の仕方の形式上の特徴は,前節まででも 少しく論じてきたごとく,徐光啓による『要 術』からの引用(本文・注釈)の再レイアウ トとそれに付された徐光啓自身の注釈に特徴 付けられているので,稲の条の水稲の項の記 述をレイアウト→注釈の順に分析してみたい。

1)レイアウトについて

まず,レイアウトについてだが,前節でも 述べたごとく,『要術』水稲の条からは『周 礼』稲人条の注釈や『礼記』月令(本文・注 釈)からの引用など一部を除いてほぼ全文が 引用されている。引用された『要術』の本文 と注釈は,徐光啓自身の判断により本文と注 釈に振り分けられており,更に記述する順序 についても,例えば本文部分で『要術』では

『要術』本文→『氾勝之書』→『四民月令』で あったものを,『四民月令』→『氾勝之書』→『要 術』本文のように前後を入れ替えている。引 用されなかった部分については,『礼記』月 令は『農桑輯要』を論じた際にも述べたごと く,その記述が水稲作に関わるか否かが判じ 難い内容であるため省略されたものと思われ る。一方,『周礼』稲人条の注釈は,訓詁学 者鄭玄の施した字義解釈中心のものである が,『農政全書』では『周礼』稲人条を注釈 に回した上で,徐光啓自身が注釈を加えてい るので,鄭注を自身の注釈に差し替える形で 記述を簡明化したのであろう。また『四民月 令』は冒頭でも挙げた「「崔寔」曰、「稻,美 田欲稀,薄田欲稠。」という部分以外省略さ れているが,「五月…」の部分は稲以外の作 物を含んでおり,また「稻」を「種」とする 版本もあるため省略された可能性が高く(注 14参照),「三月…」という播種時期につい ての記述は『要術』本文と内容が重複し,か つ『要術』の方が詳しいので省略されたもの と思われる。

次に本文と注釈の振り分け方について見る と,『爾雅』などの『要術』段階からその多 くが注釈であった字義解釈に加え,『要術』

では本文と並べて引用されていた「雑陰陽 書」・『周礼』稲人条(本文のみ)・「孝経援神 契」などが条目名である「稻」の注釈として

『要術』での順序通り冒頭に並べられている。

これらの諸書からの引用が「稻」の注釈とし て冒頭に集められたのは,全てが直接には水 稲栽培の農作業に関わらない内容であるため だと思われる。すなわち,『爾雅』などの字 書類の記述の内容は「稻」の字義解釈であり,

「雑陰陽書」も稲の植物学的な解説で字書類 に近い内容である。一方,『周礼』稲人条は

『農桑輯要』だけでなく『農書』でも本文に 引用されているので,水稲作を述べた典籍と して『要術』以降も重視されていたことが分 かる。これに対し,徐光啓が引用を注に繰り 入れたのは,農作業に対する考え方の違いの ようである。というのも,『周礼』稲人条は,

水稲作に関わる記述であることは明瞭である が,内容は主に灌排水による農地(水田)の 造成・整備を述べたものであり,水稲作の前 提となる作業ではあるが,水稲栽培に直接関 わる農作業ではない。また,徐光啓は『農政 全書』でも数巻を割く程に水利を重視してお り,注釈に回した『周礼』稲人条からの引用 に対しても自身の注釈を付している程に造詣 が深かったので(或いは造詣が深いと自負し ていたので),その内容が水稲作の農作業そ のものの一部ではなく,水田造成に先立つ水 利に関するものであることを十分に理解して いたと思われる。従って,これを本文に入れ るとすると,具体的な水稲作の農作業を説明 する記述としては内容的にやや違和感がある が,『農桑輯要』『農書』で本文に引用してい る記述を省略することもできないと判断して 注に回したものと思われる。残る「孝経援神 契」はたびたび述べてきたごとく,水稲作に 適した水質(・立地)について述べているが,

本文で『要術』の注にあった「水清則稻美」

を引用しているので,水質面での矛盾が無い よう注釈に回されたのであろう。

次に本文での『要術』の記述の順序の入れ

(14)

替えについて見ると,農作業の順に並べ替え ているものと思われる。そもそも『要術』の 記述スタイルは,賈思勰自身の筆に成る本 文・注釈と先行する農書などの諸典籍から博 捜された水稲作関連の記述の引用とから成っ ているが34),本文の後ろに諸書からの引用を 書き連ねてあり,本文を含めて相互の関連性 に乏しい。水稲作に限らず,農業は地域性が 大きいので,諸種の典籍にある様々な関連記 事を博捜し,個別分散的に羅列するというス タイルは,対応範囲を広げるという意味では 理に適っているともいえなくはないが,農作 業の手引書として使用する場合,文章に統 一感が乏しいと分かり難いところがある。こ れに対し,『農政全書』では播種(『四民月 令』)→水田造成〜灌漑用水の水温管理(『氾 勝之書』)→播種から収穫までの一連の農作業

(『要術』)の順に並び替えられており,重複 部分も適宜省略されているので,水稲作の手 引書としての閲読の便を図っている様子が見 て取れる。

また水稲の記述全般について見ると,『農 書』が江南など南方系の水稲作を中心に論じ ているのに対し,『農政全書』は『要術』以 来の華北系の直播水稲作と『農書』に記され た南方系の移植法のダブルスタンダートと なっている。これは基本的には『要術』→『農 桑輯要』という華北系水稲作の記述と『農書』

の南方系の水稲作の記述を流れとを総合し,

対応地域の拡大を図ったということになるの であろうが,前節でも述べたごとく巨視的に 見ると明代中〜後期に華北で水稲作が発展し たとされることから,華北系の水稲作の重要

性が高まっていたことが,ダブルスタンダー トを採用する背景にあったと思われる35)

2)注釈について

次に水稲の項の注釈を『要術』からの引用 部分を中心に分析してみると,①『要術』の 本文・注釈の一部を注釈として引用した部 分,②黄省曾『理生玉鏡稻品』など『要術』

以外の諸書の水稲作に関する記述の引用部 分,③「玄扈先生曰」として徐光啓自身の考 えを述べた部分に分けられる36)。このうち,

直接的に徐光啓が『要術』の水稲作をどのよ うに理解していたのかを読み取れる史料は③ であり,『要術』からの引用された本文部分 の全てに注釈が付されている訳ではないの で,注釈の内容自体に加えて注釈を付した箇 所の分析からも徐光啓の考え方が推測できる ものと思われる。なお,①もそれを本文では なく注釈に回した点から,徐光啓の考え方を 推し量る手がかりとなるといえるが,既に論 じたのでここでは省略する。

『要術』からの引用部に付された徐光啓の 注釈は,(a)前節でも少しく言及した注釈 に回された『周礼』稲人条からの引用の直 後,(b)『要術』本文冒頭の「歳易」を伴う 水稲作の「水清則稻美」の直後,(c)播種す る種子の淘汰の記述の直後の三箇所である。

このうち,(c)は短く,内容も水に漬けて浮 く穀物や果実の種子についての説明であるか ら37),「浮者不去,秋則生稗(浮くものを除 去しないと,秋になって稗が生じる)」とい う『要術』の分かりにくい記述に対して,作 物学(植物学)的な補足説明を施した体に 34)『要術』の本文・注釈に一部賈思勰以外の筆による記述が含まれている可能性については,梁2002

年及び天野1978など参照。

35)徐光啓自身の天津周辺での実験的な水稲栽培の経験の影響については,胡道静氏の否定的な見解も あるので(胡2011),ここではペンディングとしておく。

36)徐光啓が「玄扈先生」とされているのは,後人が『農政全書』編纂に当たり,徐光啓のことをその 雅号を用いて「玄扈先生」としたことによる。

37)注釈を引くと以下のようになる。

   玄扈先生曰,「凡種子皆宜淘去浮者。穀浮者秕,果浮者油也」

   玄扈先生が言うことには,「そもそも種子はすべて浮くものを淘汰するのがよい。穀物の種子 の浮くものは秕(中身の無いモミ)であり,果実の種子の浮くものの中身は油脂である」と。

(15)

なっており,ある意味で注釈らしい注釈であ るといえよう。これに対し,(a)と(b)は 補足説明というより持論を展開したような思 想性が強い内容となっている。まず,(a)に ついて見ると,

玄扈先生曰、「稻田用水隨地隨時不拘一法。

括之以兩言曰、蓄與泄而己。『周禮』稻人 職曰、『以瀦蓄水,以防止水』、皆言蓄也。

禹之陂九澤,亦蓄也。『以澮寫水』,言泄也。

禹之決九川,亦泄也。『以溝蕩水,以遂均水,

以列舎水』者,上源所蓄,釃諸田間也。禹 盡力溝洫,曁稷播奏庶艱食,則用水之效也。」

玄扈先生が言うことには,「稲田での水の 用い方(治水術)は土地や時に対応してい て一つの方法に拘らない。二語に総括して 言うと貯水と排水であると。『周礼』稲人 の職に言う『瀦(ため池)で貯水し,防(つ つみ)で水をせき止める』とはみな貯水を いっているのである。禹が九沢につつみを 作ったのも,また貯水である。『澮(排水 用のみぞ)で水を流す』,というのは排水 である。禹が九川を疎通させて水を導いた のも,また排水である。『溝(田間のみぞ) で水を流し,遂(給水用のみぞ)で水を分 配し,列(田のあぜ)で水を止める』,と は上流の水源で貯えていた水を,田間に分 け流しているのである。禹は水利事業に尽 力し,后稷とともに作物の栽培を教えるこ とで,庶民で食糧難にあるものを穀食でき るようにした,というのは治水の効果なの である。」

という文章である。前節でも言及したように,

徐光啓は水利を重視した人物であったが,そ の特徴の一つとして排水を重視した点が先学

によって指摘されている38)。ことを水稲作に 限って見た場合も,『農書』でモデルケース とされた宋元時代までの江南の河谷平野や扇 状地などの高田での貯水・灌漑を背景とする 水稲作(『農書』)から一歩進めて,明代以降 に進められた江南デルタ開発における排水に よる水田造成を反映させた注釈であることが 明瞭である39)。但し,例えば明代に水稲作が 試みられた天津周辺も海河下流域の低湿地を 含んでいたので,江南開発に加えて華北での 稲作の拡大という二つの要素を背景に,状況 に応じて灌水・排水を使い分けることを,水 利の基幹と考えたのであろう40

次に(b)についてであるが,この注釈は

「歳易」を伴う水稲作の部分に施されており,

本稿の主題である「歳易」に対する徐光啓の 理解の仕方を知る上で最も重要な手がかりと なっている。ここで徐光啓は,

稻,無所緣,唯歲易爲良。選地欲近上流。

地無良薄,水清則稻美也。

稲には地味や特定の作物の跡地といった特 別な条件は無く,ただ毎年作付け作地を替 える方がよい。水田とする土地は(水源地 を含めた)河川上流の近くが望ましい。地 味の良し悪しを問わず,水が清いと(清水 だと)稲はよいものができるからである。

という部分からの引用の直後に付された

玄扈先生曰,「水田之處,不在水原,則水委。

原欲近泉,委欲近瀦。非泉非瀦,則于溪澗 江河長流不竭之處。」

玄扈先生が言うことには,「水田の所在地 は,水源でなければ下流に位置する。水源 は泉水に近いのが望ましく,下流はため池 38)汪1986: 138参照。

39)明代以降の江南デルタの開発の概要については足立1997など参照。

40)『農政全書』に天津での水稲作など各種作物栽培の経験が反映されたか否かは,研究者間で見解が 分かれるところであるが,天津での水稲作は徐光啓以前から試みられているので,明代の華北にお ける水稲作に関する知見が反映されているものと考えてよいだろう。なお,明代の天津周辺では,

徐光啓が水稲作を試みる以前に保定巡撫の汪応蛟が水田を造成させている(葛等2011: 542)。

参照

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