● 小谷古墳
牽牛子塚古墳 ● ●
岩屋山古墳
越滉
● 都塚 古 境 阪 日
栗原寺番
年 トラ台境
0 阿 部 山
日g刊
高松塚古墳 と飛鳥・藤原京周辺の遺跡
カナヴカ
♂膀 Dぜ 途
0 1 km
rEI
1 発掘 調査 に至 る経緯
昭和47年に発見 された高松塚古墳壁画は、昭和49年に 国宝 に指定 され、壁画の現状保存 を原則 に、発見時の看 室環境 の維持 と安定 を 目的 とした保存施設が建設 され、
壁画の修理 と保存の努力が積み重ね られて きた。
しか しなが ら平成14年に至 り、壁画 を汚損する可能性 のある黒色の徹 の発生や、石室内への大量の虫の侵入が 観察 されるな ど、高松塚 をとりまく環境 の急激 な変化が 認め られるようになった。 このため、平成15年 3月 に美 術 史学、保存科 学、考古学 な どの専 門家 で構成 され る
「国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会」(以下、緊急 保存対策検討会と略記
)が
文化庁長官決定 によって設置 さ れ、壁画の保存管理方法の緊急かつ抜本的な対策の検討 に着手することになった。緊急保存対策検討会の諸調査
壁画の保存環境 に関する 調査研究は、緊急保存対策検討会内に置かれた作業部会 が担当 し、石室内の徹の調査や壁面調査、赤外線水分計 測、温度分布測定、蛍光
X線
分析、墳丘部の植生調査や 電気探査、水分分布 の計測、土質調査 な どを実施 した。その結果、石室壁面の赤外線水分計測 により、東壁中 央部お よび北側下方、北壁下方、西壁中央部下方の含水 率が一貫 して他 よりも高 く、 この部分 に徹が発生 しやす くなっていることが判明 した。 こうした石室壁面の不均
― な水分分布 は、①墳丘北東部の竹 の生育状況が悪 く、
土壌含水率が高いことが予測 される。②墳頂部北東 に位 置す るモチノキの大木の根が版築 を損傷 し、枯死後 に根 が腐朽 してアリなどが石室へ侵入す る経路 となっている 可能性がある。③墳丘北側で土中含水率 と降雨の関係 を 調査 した結果、多量の雨水 によって含水率が影響 を受け ている。④石室東側か ら北側底部 にかけて含水率の高い 土壊 が分布 してお り、版築構 造 の損傷 が疑 われ る。⑤ 墳頂部 において も、電気抵抗 に差異があ り、墳丘への雨 水の浸透 に関与 している可能性が高い、 といった墳丘部 の一連の調査結果 と符合 し、墳丘北東部の土壌含水率の 高 さや墳丘版築の損傷 な どが、壁画の保存環境 に重大 な 影響 を及ぼ している可能性が浮上 した。
以上 の作業部会報告 を受 けた緊急保存対 策検 討会 で は、石室への雨水の浸透や虫の侵入 を防止す るための応 急対策 を検討す るとともに、墳丘版築の損傷の有無や土 壌含水率の不均―な状況 を発掘調査 によって確認す る必 要性が議論 された。
緊急保存対策の提言
緊急保存対策検討会の調査検討結 果 は、 平 成 15年 6月 26日 に緊急 保 存 対 策検 討 会 報告
(「国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策について」
)と
して まと め られ、文化庁長官に提 出された。その内容 は、緊急 に 実施すべ き保存対策 として、①墳丘全体を断熱シー トで 覆い、降雨 による雨水の浸透 を防 ぐこと。②墳丘の北 側・東側に排水溝 を設置 し、墳丘部への雨水の直接の流 入を防 ぐこと。③墳丘部及びその周辺の土層構造、水分 量等をより的確に把握するため、必要な調査を実施する こと。④壁面試料の作製、徹除去方法の選定等の作業を 継続 し、早い時期に壁面の処置を施すこと。⑤取 り合い 部の効果的な防徹措置を実施すること。⑥虫類の侵入を 防 ぐため、通気性を保持 した素材で石室内の間隙部を閉 塞すること。さらに墳丘北東部の枯木に対 しては、アリ 等の駆除処置をおこなうこと、が提言された。文化庁はこの提言に沿い、平成15年度中に墳丘上の竹 の伐採、防水断熱シー トによる墳丘の被覆、墳丘周囲の 排水溝の設置、取 り合い部の防徹工事、石室内間隙部の 充填作業、モチノキ周囲のアリの駆除などを実施 した。
緊急保存対策検討会報告 には、 さらに引 き続 き検討す べ き事項 として、早期 に墳丘部の封土について抜本的な 措置 をとるとともに、墳丘の整備計画 を策定す ることが 提言 されてお り、そのための基礎資料の収集 を目的 とし
た発掘調査 の実施が緊要の課題 となった。
恒久保存対策検討に伴 う発掘調査の実施
こうした緊急 保存対策検討会の提言 を踏 まえ、平成16年 4月 に設置 さ れた「国宝高松塚古墳壁画恒久保存対 策検討会」 の第 1回 検討会 (6月 4日開催
)に
おいて、発掘調査 の実施が 了承 され、恒久朱存対策検討会作業部会 に発掘調査計画 の立案が委ね られた。作業部会 は、 これまでの検討内容 をもとに、①墳丘の 現況 (木根による版築の損傷、墳丘の変形状況
)が
壁画保存 にどう影響 を及ぼ しているか、それ らの相 関関係 を追求 す る。②築造当初の古墳の規模、形態、構造 を明 らかに し、古墳の埋没状況が壁画保存 に与 える影響 を究明する。③ 丘 陵 を開削 して どの ように古墳 が構 築 されてい るの か、古墳 の築造方法 を解明 し、築造時の排水処理計画 を 明 らかにす ることを主要 な調査課題 とし、発掘調査方法 や調査工程、調査後の埋め戻 し、復旧方法 な どを検討 し た。
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作業部会が立案 した発掘調査計画案 は、8月 10日開催 の第 2回 恒久保存対策検討会で了承 され、発掘調査 に必 要 な諸手続や覆屋 の建設 を9月中にお こない、10月 1日 か ら発掘調査 を実施す ることが決 まった。発掘調査 は、
文化庁の委託 を受 けた (独
)文
化財研究所奈 良文化財研 究所 (飛鳥藤原宮跡発掘調査部)が
、奈 良県教育 委員会(奈良県立橿原考古学研究所)、 明 日香村教育委員会の協力 を得て共同調査 を実施す ることにな り、壁画保存施設の 建設 に伴 う昭和49年の墓道部の発掘調査以来、30年ぶ り
に高松塚古墳 の発掘調査が実施 される運 び となった。
鞠 日
92
発掘調査用仮設覆屋発掘調査用仮設覆屋の建設
発掘調査 は、緊急保存対策 で敷設 した防水断熟 シー トを除去 してお こなうため、 日 照や降雨が壁画の保存環境 に影響 を与 えぬ ように、墳丘 を覆 う仮設建物 を建設 してその内部で実施す ることとし た。発掘調査用仮設覆屋 は、全 国の建設事例 を参考 に、
指定地 を囲む フェ ンス沿 いに南北177m、 東西26.4m、
高 さ11.8mの 規模 で、建設用枠組足場 を使用 して建設 し た。屋根 は トタン波板張 りで、一部 に採光用の透明 ビニ ール波板 を用いた。 また壁面 は通気性 を確保す るために メッシュシー ト張 りとした。 (松村 恵 司)
高松塚古墳周辺地形測量図
(平成17年2月沢I量
世界測地系
第Ⅵ系)
2 高松塚 古 墳 を と りま く歴 史 的環境
明 日香村 は、龍 門山地が東か ら南へ と連 なる懐の中に 位置 し、多武峰の御破裂 山、高取 山か ら派生 した樹枝状 に伸 びた丘陵の ひ とつ に高松塚古墳がある。
明 日香村内 を流 れる主要河川は、飛鳥川 と高取川であ り、村 の東か ら中央 を貫通す るように流れる飛鳥川 は芋 ケ峠、竜在峠付近 に源 を発 し、祝戸で冬野川 と合流す る。
その後甘樫丘 を大 きく迂 回 し、北西へ と流下す る。 また 村の西部では、檜前盆地の中央 を流れる檜隈川が平 田川
と合流 し、高取川 となって畝傍 山の西 を北流す る。
檜前盆地 は明 日香村西部 に位置 し、標高
100mの
等高 線 に囲 まれたl km四方の小氾濫原の支谷 に形成 されてお り、 ここには高松塚古墳 をは じめキ トラ古墳、天武持統 陵、中尾 山古墳 な どの終末期古墳が数多 く築かれている。飛鳥時代 前 史
縄文時代
明 日香村 内で確認 された最 も古い遺物 は、桧 前脇 田遺跡 と飛鳥池遺跡で出土 した縄文時代草創期 の有 舌先尖器である。 この発見 によって、飛鳥地域 にはこの 頃か ら人々の営 みがあったことがわかる。 この他 に、縄 文時代 の遺跡 としては、飛鳥川流域 に位置す る稲淵ムカ ンダ遺跡・島庄遺跡 ・伝飛鳥板蓋宮跡下層遺跡 。大官大 寺跡下層遺跡 な どがあ り、中期か ら後期 にかけての集石 遺構 や竪穴住居跡 な どが確認 されている。
弥生時代
弥生時代 になると、石神追跡・水落遺跡・飛 鳥寺跡 と伝飛′鳥板蓋宮跡周辺で前期の土器が出土 してい るが、明確 な遺構 は確認 されていない① しか し中期 に入 ると、奥 山久米寺跡 と島庄遺跡で竪穴住居跡 などが確認 されてお り、その間の飛鳥寺跡か ら伝飛鳥板蓋宮跡周辺 にも遺物の散布がみ られるので、当該期の遺跡 の広範 な 広が りが想定 され る。飛鳥川下流部 には橿原市 四分遺跡 や橿原遺跡 な どの拠点的な集落遺跡があ り、 これ らとの 関係が注 目され る。 さらに高取川流域の微高地 には、中 期 の土坑 を検 出 した御 園チ シヤイ・ア リイ遺跡があ り、
小規模 なが ら高取川流域 にも中期の集落が展 開す るよう である。弥生時代後期 になると、遺跡数 は増加 し村 内全 域で土器の出土がみ られるようになる。特 に大官大寺跡 下層遺跡 では、方形周溝墓 も検出されている。
古墳時代
飛鳥地域では古墳時代前期の遺跡 はあ ま り知 られていない。 わずかに坂 田寺跡や上 ノ井手遺跡で古式 の布留式土器が出土 している。おそ らくこの地域 の開発 は、渡来人の入植 によって行われた と推測 され、約500
m間
隔に並ぶ島庄遺跡、伝飛鳥板蓋宮跡下層遺跡、飛鳥 寺跡下層遺跡では、韓式土器 を伴 う竪穴住居跡が見つか っている。 これ らの遺跡のある地域 は、日本書紀 に記 さ れる「上桃原」「下桃原」「真神原」 に該 当するのであろ う。 これ らは続 く飛´烏時代 の繁栄の基盤 となる集落遺跡 群である。
一方、槍前地域で も御園アリイ遺跡で竪穴住居跡 な ど が確認 されているが、隣接す る高取 町観覚寺遺跡では大 壁住居やオ ン ドル遺構が発見 されてお り、古代檜限地域
と渡来人の深 い結びつ きを象徴 している。
古墳 に 目を向けると、村 内には前期か ら中期の古墳 は み られないが、甘樫丘 にある平吉遺跡 や雷丘東方遺跡、
上 ノ井手遺跡 か ら5〜
6世
紀 の埴輪 が 多 く出土 してお り、既 に削平 された古墳の存在 を示唆 している。同様 に 伝飛鳥板蓋官跡・飛´烏寺跡・酒船石追跡 ,大官大寺西方 で も埴輪 の出土がみ られる。飛鳥 時代
古代寺院
6世
紀末になる と真神原 に突如 として飛鳥寺 の伽藍が出現す る。その造営の経緯 は 『 日本書紀』に詳 しく記録 されている。 この伽藍 は、塔 を中心 に北側 と東 西 に3棟の金堂 を配置 し、それを回廊 が取 り囲む とい う 国内では他 に例 をみない特異 な伽藍配置 を採 ってい る。これに似 た伽藍配置は高句麗清岩里廃寺 にみ られ、 また 軒瓦 の文様が百済の瓦 に酷似す るな ど、5日本書紀』 に 記 されたように、我が国初の寺院造営 に際 して朝鮮半島 か ら「寺工・鑢盤博士・瓦博士 。画工
Jな
どの直接的な 技術指導があったことがわかる。以降、各氏族 によって 豊浦寺・坂 田寺・奥 山久米寺・山田寺 な どの古代寺院が 次 々と造営 され、飛鳥で甍 を争 うようになる。舒 明
H年
(639)に は初 めての天皇家 の寺 であ る百済 大寺 (吉備池廃寺)を
、それ まで にない 巨大 な伽藍で建 設 した。百済大寺 はその後、高市大寺、大官大寺、そ し て奈良大安寺へ と変遷 してい く。続 く天皇家 の寺 には、川原宮の故地 に斉明天皇の書提 を弔 うため に建立 された 川原寺や、持統皇后の病気祈願のため に建立 された本薬 師寺がある。 この ように狭 い飛鳥 に数多 くの寺院が建 ち 並ぶ様子 は、『 日本書紀』天武9年 (680)に「京 内二十 四寺」 と記 され、飛鳥は華麗 な仏教文化 で彩 られた。
宮殿 と関連施設
飛鳥地域 の宮殿 は、推 古 天皇が崇峻5 年 (592)に豊浦宮 に即位 したことに始 ま り、約 1世 紀 に
わたる飛鳥時代が幕明ける。推古天皇 は小墾田官 に新官 殿 を建設 して遷 ったが、 ここは遠 く隋や新羅か らの使者
も訪れた飛蔦の表玄関で もあった。
次の舒 明天皇 は宮 を飛鳥寺南方 の飛鳥岡本官 に遷す① これ以降、飛鳥の宮殿 は伝飛鳥板蓋宮跡の地域 に継続 し て営 まれることになる。
皇極天皇の飛′烏板蓋官 は乙巳の変の舞台 とな り、孝徳
・天智朝 には一時的に官殿が飛鳥 を離れることもあった が、斉明天皇の後飛鳥岡本宮、天武天皇の飛鳥浄御原宮 な ど、宮 は基本的に飛鳥 に営 まれた。 また飛鳥宮 を支 え る離宮が、北の小墾 田宮 と南の嶋宮 に存在 した。小墾 田 宮 は推古朝の宮殿 を離宮や兵庫 として継続的に利用 して お り、嶋宮 も蘇我馬子の家 を利用 した東宮 とされている。
これ らの宮域 の中には、各種官行 や苑池が存在 した。
特 に飛鳥浄御原宮の内郭の北西で発見 された広大 な苑池 は、F日本書紀』天武14年 (685)11月 条 に見 える「白錦 後苑
Jと
み られ、そこには噴水石造物や中島な どがみ ら れた。官衛 と考 え られる遺跡 は飛鳥宮 内に もあるが、 さ らにその周辺 に遺構群が展 開す る。飛鳥宮東外郭に接 し た東側では、宮殿 に関連 した役所 や漆保管施設な どが発 見 されている。 また飛′烏寺の北西 には、漏刻施設が置か れた水落遺跡や、噴水石造物 を備 えた迎賓館、石神遺跡 が存在 した。一方、飛鳥の東方丘陵上 には謎の石造物 と呼ばれる酒 船石があ り、丘陵 を取 り巻 くように石垣が巡る。 この北 側の谷底 には亀形石槽 の導水施設があ り、天皇祭祀の場 と推測 されている。 またその北方 に隣接す る飛鳥池工房 遺跡 は、富本銭 をは じめ金・銀 ・銅 ・鉄・ガラス・玉・
瓦 ・漆 な ど、各種 の製品を生産 した飛′烏時代最大の総合 工房跡である。
宅地空間
この ように飛鳥〜 岡〜島庄地域 にかけては、
宮殿 ・寺院やその関連施設が密 に配置 され、政治文化の 中心地 として整備 されるが、それを支 える人々の居住空 間 もその周 囲に形成 されてい く。明 日香村 内ではまとま った調査 は少ないが、飛鳥の東方丘陵部の小規模 な平坦 面 に立地す る東 山マキ ド遺跡・小原宮 ノウシロ遺跡・竹 田遺跡 な どでは、掘立柱建物や塀が重複 して営 まれてお
り、宅地 として継続的に使用 されたことがわかる。
また飛′烏東南の阪田 ミヤ ノロ下遺跡では、石組溝が検 出されてお り、近辺 に皇子級 あ るいは高位高官の邸宅の
存在が推定 される。
一方、飛鳥西方地域では甘樫丘東麓遺跡や西橘遺跡 で 掘立柱建物跡 などが検 出 されてお り、小 山田遺跡 には邸 宅跡 と推測 される
60m四
方の方形の地形が遺存す る。 当 時の邸宅の建物配置 を端的 に示すのは、 さらに西方 にあ たる橿 原市五条野向イ遺跡 ・五条野内垣 内遺跡 であ り、正殿 を中心 として整然 と配置 された建物群や区画塀 を伴 う邸宅が確認 されている。
飛鳥北方では、天武朝か ら新城の条坊 区画の建設が始 まるが、持統8年 (694)の 藤原京遷都以前か ら、 この条 坊 区画 を利用 した宅地が認め られる。最 も顕者 な例 は雷 丘北方遺跡 (藤原京左京十一条三坊
)で
あ り、四面庇 の正 殿 を取 り囲む ように長殿が東西南の三方 に配置 されてい る。その敷 地 は少 な くとも南北2町に及ぶ広大 な面積 を もってい る。一方、藤原京左京六条三坊 では1/4町 の宅 地 も発見 されている。また、檜前地域で も御 園チ シヤイ遺跡・御園ア リイ遺 跡で建物群が、桧前門田遺跡で区画塀が確認 されてい る。
終末期古墳
飛鳥地域 は、これ らの寺院 。宮殿 のほか に、
特色ある古墳が多 く築かれた地域で もある。 この地域 の 群集墳 としては飛鳥南東の細川谷古墳群がある。横 穴式 石室 を主体 とす る総数200基 の古墳群 である。 この 中で は打上古墳 や上5号墳、組合式石棺 をもった堂の前塚古 墳 な どが注 目される。この古墳群の西端 にあたる一郭 に、
巨石 を用 いた横穴式石室で者名な石舞台古墳 や都塚古墳 な どが位置す る。 これ らは6世紀後半か ら7世紀初頭 に か けての終 末期前半の古墳 であるが、7世紀 中頃か ら8 世紀初頭 にかけての終末期後半の古墳 は飛′烏南西地域 に 集 中す る。 それは天武持統天皇 陵 (野口王墓
)を
北 東 の 隅 として、その南西 に広が る。天武持統陵は欽 明天皇 陵(梅山古墳)・ カナヅカ古墳 ・鬼の俎雪隠古墳 と東西 に並 び、飛蔦の皇統譜 との位置付 けもなされている。
梅 山古墳 は飛鳥地域 で は唯―の前方後 円墳 であ るが 、 東西尾根 の南側 に築かれてお り、大和最後の前方後 円墳 が終末期古墳 の立地 を色濃 く反映す る点 は興味深 い。 カ ナ ヅカ古墳 は岩屋 山式 の横 穴式石室 をもつ と考 え られ、
一辺
60mの
段上 にのる。鬼の俎雪隠古墳 は石英閃緑 岩 を 判 り抜 いた石棒【で、東側 に隣接 して同2号墳があつた と 推測 されている。天武・持統天皇合葬陵 に比定 される野口王墓 は、人角
形の墳形 を もち、文暦2年 (1235)に 盗掘 された際 の実 検記 (『阿不幾乃山陵記』)1こよる と、石室内に爽締棺 と金 銅製の骨蔵器が あ った とされ、その内容が 『 日本書紀』
や F続日本紀』の記述 と合致す るため、その比定の正 し さが指摘 されている。その南方 には同 じ人角形墳 である 中尾 山古墳があ る。主体部は一辺90cmの石移卜で、内部 に は骨蔵器が納 め られていた と考 え られ、文武天皇陵の有 力 な候補地 となっている。
この中尾 山古墳 の南の尾根 の南斜面 に、凝灰岩切石 を 組み合 わせ た横 口式石棒卜をもち、内部 に四神 。人物像 な どの壁画の描かれた高松塚古墳が存在する。 さらに南方 1,2kmには同構 造 で壁画 のあるキ トラ古墳 が存在す る。
一方、高取川の左 岸 には、疑灰岩の割 り抜 き式石梅卜を も つ牽牛子塚古墳や、高松塚古墳 。キ トラ古墳 と同構造の 石室 を もつマル コ山古墳 、樽積石室 をもつ カプマヤマ古 墳 な どが存在す る。牽牛子塚古墳 は、斉明天皇陵の有力 な候補 で、爽絆棺や七宝亀 甲形座金具、玉類が出土 して いる。マ ルコ山古墳 の石室 には壁画は描かれていないが、
飛鳥地域 で初めて確認 された六角形の墳形 をもつ点が特 筆 される。マル コ山古墳 の南方 には凝灰岩の切石 を家型 に組 み上 げた石室 をもつ人角形墳 の東明神古墳 があ り、
さらに南 には骨蔵器 を埋納 した とみ られる出口山古墳が 存在す る。
飛鳥 の石 造 物
飛 鳥地域 の文化財 でひ ときわ 目立 つ の は、猿石 ・亀石 ・酒船石 などとよばれる数多 くの石造物 群である。 これ らは斉明朝 に製作 された と推定 されてい るが、その性格 については不明な ものが多 く、その性格 を特定で きるのは、飛鳥京跡苑池か ら出土 した庭園の噴 水施設や、迎賓館 の噴水施設 とみ られる石神遺跡の須弥 山石 ・石 人像、祭祀空間の導水施設 とみ られる酒船石遺 跡の亀形石槽 な どにす ぎない。
新益 京 (藤原京
)の
時代持統
8年
(694)、 都 は飛鳥の北西一体 に広が る藤原京へ と遷 る。それは中国都城制 を導入 した我が国初の計画 的な人工都市 であった。その範囲は大和三山をも含 み こ む10里 (5 3km)四方 と推定 され、街区が条坊道路 によっ て碁盤 目状 に整然 と区画 されていた。その中央部l km四 方の大垣 に囲 まれた中に、内裏 。大極殿 ・朝堂院・官衛 群が配置 され、周 囲の条坊 区画 は皇族や官人の宅地 とし て班給 され るとともに、京内官衛や寺院が計画的に配置
されていた。飛鳥地域の寺院や関連施設 の一部 は存続す るが、飛鳥宮の跡地は厳重 に管理 され、利用 はされなか ったようである。
その後 の飛 鳥
奈良時代
都が藤原京か ら平城京へ と遷 る と、飛鳥周辺 の施設 も減少す るが、未だ飛鳥の各寺院の伽藍 は饗 えて お り、飛′烏古京の土地利用 も継続 した ようである。雷丘 東方遺跡か らは760年 頃に伐採 された材 で作 られた井戸 が検 出され、そ こか ら「小治田宮」 と記 された墨書土器 が多数 出土 した。天平神護元年 (765)に1よ称徳天皇の 小治田宮行幸記事がみえ、小治田宮が奈 良時代 にも維持 管理 されていたことを示す資料 である。
平安時代〜中世
都が平城京か ら長岡・平安京へ と遷 る と、飛鳥 は寺院を除いて急速に活気が薄れてい く① これ に追い打 ちをかけるように、久安
4年
(1148)に 橋寺の 塔 が焼 失 し、建 久2年 (H91)に
は川 原 寺 、建 久6年
(■
95)に
は飛鳥寺の堂塔 が相次 いで落 雷 で焼 失 し、本 尊 も損傷 を受けた。 これ以降、各寺院で は大規模 な堂塔 の復興 は叶わず、飛農の景観 は大 きく変貌 を遂げた。室町時代 の飛鳥周辺では越智氏が越智城 を構 え、貝吹 山城や佐 田城が築かれる。 さらに越智氏 は逃城 として高 取城 を築城、飛鳥に も小 山城・雷城 ・飛鳥城 ・岡城 な ど の砦が築かれる。そ して、現集落の母胎 となる中世集落 も、現在の集落 と重複 してみ られるようになる。つ ま り 現在み られる水 田・里 山景観 はこの頃に形成 されたこと がわかる。
高松塚古墳 と飛鳥
以上概観 した飛′専地域 の歴史的環境 の中 に高松塚古墳 は位置 している。
天武・持統天皇合葬陵をは じめ、高松 塚古墳、中尾 山 古墳、キ トラ古墳が藤原京の中軸線のほぼ延長上 に位置 することか ら、一般 に「聖 なるライ ン」 とよばれ、飛鳥 の奥津城 を象徴す る言葉 として使用 されている。 また終 末期古墳が集中す る高松塚古墳 の周辺一帯 に、中国の葬 制の影響下 に、死後の都 である陵園が置 かれた との説 も あるが、藤原京 と終末期古墳 の関係 には さ らなる検討が 必要 となろう。 さらに古代檜限地域 は、渡来人が集住 し たことで知 られてお り、渡来人 と壁画古墳 の関係 を究明 す る視点 も不可欠である。
(相原嘉 之)
3 高松塚 古 墳 の沿 革
近世 に盛んに行 われた天皇陵の治定、あるいは地誌 な どの書物の中で、高松塚古墳 は天皇陵の候補 として、 し ば しば俎上 に上 る。ただ し近世 を通 して一定の説 を保 っ ていたわけではな く、治定 には紆余 曲折がみ られた。本 節では、その経緯 を年代順 に概観す ることに したい。
元禄の陵墓補修事業
元禄年 間に陵墓 の大規模 な修補が 行われた。その発端 は、当時郡 山藩士 であった細井知名 が、大和の歴代皇陵の荒廃 を嘆 き、その所在 を明 らかに して補修す ることを志 し、 自ら実地調査 したことに始 ま る (「「元禄十一年諸陵周垣成就記」解説」高野和入編『天皇 陵絵図史料集』青潮社、1999年)。 知名 は皇陵の荒廃 の状況 を、川越藩士 として柳 沢吉保 に仕 えていた弟知慎 を介 し、
側用人柳沢吉保 に訴 えた。 この知名の嘆願 は、五代将軍 徳川綱吉 に伝 わ り、元禄 10年 (1697)に 陵墓 の周垣工事 の勅許が降 りることとなった。
その経緯 は、細井知慎編『元禄十一年諸陵周垣成就記』
(以下『成就記」と略記
)に
詳 しい。『成就記』 は、元禄 の 陵墓探索 ・周垣工事 の内容 か らなる報告書一冊 と一紙、政、追加、又か らな り、全体 の編集本 としては、享保5 年 (1720)8月 1日に成立 した。
細井知慎
知名の弟知慎 は細井廣澤 ともいい、万治元年 (1658)に 遠州で生 まれた。 11歳 で江戸 に出、20歳 で書 家で有名 な北島雪 山に弟子入 りした。その後、林家 に就 いて儒学 を学 び、大学頭林信 篤 に師事す る。元禄
4年
(1691)に は、柳 沢邸 で将軍綱吉 に講釈 を し、元禄6年
(1693)に は、儒者 として柳 沢家 に召 し抱 え られて川越 藩士 となった。知慎が 『成就記』 を著 したの も、 こうし た登用が深 く関係 している。知慎 は、書道や儒学 だけで な く、軍術 。撃剣 。柔術 ・槍術・弓術 。馬術、天文測量、和歌 ・謡 曲な どの学問技芸 に精通 し、当時の著名人 とも 広 く交友関係 をもつ など、並 はずれた人物であった。
元禄 の調査結果 大和 の皇 陵補修事業 の成果が記 されて いる『成就記』 には、「文武
同国同郡 (大和国高市郡) 檜隈安古 ノ岡ノ上二葬ル
/安
古 の岡 と申所不相知候同郡 檜 前村 二 陵有 之 候 」(高野和 人編前掲書所収の文久 2年(1862)魚住源次兵衛書写本。括弧内は筆者注。
/は
改行)と
あ り、 とくに高松塚 の名 は出て こない。高市郡の「檜限安古ノ岡ノ上」 というのは、『延喜式』巻
21諸陵寮の記 載に基づ くもので、「安古の岡と申所不相知候」以下が、
元禄の調査結果である。しかしそこには「檜前村」とあ
るの で 、文 武 陵 には高松 塚 以外 の別 の古墳 を想 定 して い た可 能性 もあ る。
高松塚の名称
調査結果 に至 る具体的な経緯 を探 ってみ よう。魚住源次兵衛書写本では、畿内については、元禄 12年 (1699)4月付 の京都所 司代松平紀伊守か ら阿部 豊 後守以下四老 中に宛てた報告書一冊があるだけで、記載 も簡略であ る。 しか し、実際の京都所司代 にあが る まで の各報告 には、具体的な考証の過程が窺 える。
大和 国では、奈良奉行所が京都所司代か ら調査命令 を 受 け、元禄 10年 (1697)9月 10日、大和 国の各村 に向 け て廻状 を発給 した。それ をうけた17日付の高市郡平 田村 か らの回答 の中で、陵墓 に掲 げ られていたのは高松塚 で あった。(「元禄十丁丑年山陵記録」〔『玉井家文書』「庁中漫録J
巻第53〕。本史料はマイクロフイルム版を参照。以下『山陵記 録』と略記)。 これが高松塚古墳 の初見史料 である。 そ こ に記 された古墳 の現況は、東西四間、南北三間、高 さ五 間の芝山で、「高松 山」 とも呼ばれていた。
文武陵の比定
しか し奈良奉行所 は、9月末の段 階で、に わか に判 断がつかなか った らしく、「大和 国御 陵不分 明 覚」(『山陵記録』
)の
中に、高松塚 を文武陵 として載せ て いる。おそ らく「何 ノ申伝 モ無御座 由村人 申候」 とされ る ものの、「此外 ニハ高市郡 ノ内二文武天皇 ノ御 陵無御 座候」 と判 断 し、不分明なが らも文武陵 としての可能性 を報告 したのである。そ して10月 2日 に、 この覚 と絵 図 を京都所 司代 の もとへ送 った。その後、奈良奉行所 は、周垣工事 のための実地検分 を行 うことにな り、文武陵 な ど11帝については、与力三井与左衛門 。中條甚五左衛 門 らが担 当 し、12月9日か ら12月 14日 まで検分 を実施 した。
12日付 の検分結果報告 によると、高松塚 については、以 前村 か ら文武陵であるとい う報告 を受けたが、実際 にそ
うであろ うとの見解 を示 している。
しか しなが ら、 こうした見解 は、『成就記』 に まった く反映 されていない。F成就記』の一冊 (京都所司代か ら 老中宛
)が
元禄12年 4月付 であるか ら、 日付 の前後 関係 か らす る と、高松塚 の記載があって然 るべ きであ るが、それが ない。おそ らく伝写の過程 における追加記載の散 逸・省略、あ るいは京都所司代 における見解の否定 の ど ち らかがその要因であろ うと思われる。 この うち元禄12 年 (1699)5月 に細井知慎が正式 な報告書 (完本
)を
写 し てい る こ と (『成就記』の叙)、 元禄11年 (1698)4月21日には、実 際 に高松塚 の周垣 工事 が行 われてい るこ と
(『山陵記録』の「試拾帝御陵竹垣拾九ヶ所御普請之覚」
)な
ど か ら前者であったと推定される。元禄 に続 き、享保年間にも陵墓の修補が行われている。
その時の絵図の写 しである『日嗣御子
御陵』所収の絵 図には、平田村の中に「御陵山字高松塚」 とあ り、既に この時期には、高松塚が文武陵であるという認識が定着 していたと考えてよいだろう。
文武陵比定の端緒
細井知慎が F成就記』を著す以前の 元禄
9年
(1696)に、松下見林が 『前王廟陵記」を撰 し ている。兄の知名は、この『前王廟陵記』に多大な影響 を受けていたと言われている。F前王廟陵記』巻之上には、「桧前安古岡上陵。藤原宮 御宇文武天皇。在二大和 国高市郡 。兆域東西三町。南 北三町。陵戸五姻」 という F延喜式』の記載に対 して、
「今按。安古岡未レ詳。或云。在=平 田村一」(文学博士物 集高見編『新註皇学叢書』第五巻、広文庫刊行会、1927年)
という注が付けられている。見林 は、文武陵のある安古 岡の地を未詳 としつつ も、平田村 にあるという説を紹介 している。平田村 には中尾山・高松塚 。栗原塚穴 (現文 武陵
)が
存在するが、同時期の調査 において陵墓の候補 にあがるのは中尾山と高松塚のみで、そのうえ中尾山を 文武陵 とする説が皆無であった点を考慮すると、見林は 文武陵を高松塚 と推測 していた可能性があ り、こうした 見林の F前王廟陵記Jの
記述が、高松塚文武陵説の誕生 に影響 を及ぼした可能性 を考慮すべ きか もしれない。地誌類の見解
江戸中期以降、地誌 。名所記など、多 く の書物が出版 された。中でも享保21年 (1736)に刊行 さ れた並河誠所の F五畿内志』は、広 く人々に親 しまれた 地誌である。並河は、享保 8年 (1723)に幕府の密命 を うけ、古書籍の採訪旅行 を始め、享保14年 (1729)に地 誌編纂に着手 した (武藤誠「並河誠所の学問と実践―史蹟踏 査 と建碑の事蹟について一」『回史学論叢』魚澄先生古稀記念 会、1959年)。 そ して五畿 内 を実 地調 査 し、畿 内の部61巻 を
6年
で 完 成 させ 、幕 府 に献 上 した 。F日本 輿 地 通 志 』 畿内部 とい う正式な書名か ら、当初 は全 国地誌 を目標 としていた と考え られている。
並河誠所 は、伊藤仁斎 に学 び、掛 川、川越の城主 を歴 任 し、兵法・和歌・文武の諸技 に精通 し、儒者 として知 られた人物である (池田末則「解題」奈良県史料干1行会編奈
良県史料第3巻 『大和名所和歌集・大和志 。日本惣国風上記大 和国』豊住書店、1978年)。
その『日本興地通志」畿内部巻第二十四、大和国之十 四、高市郡、檜限安古 岡上陵の項 に、「文武天皇○在二 平田村 ノ西ニー俗二呼三中尾ノ石墓 」という記載がある。
この並河の記載が もとで、後に高松塚 と中尾山を混同す るようになった とする意見 もあるが、上の史料か らは、
中尾山を文武陵に比定 していた という点 しか読み取れな い。それは檜隈墓の項に「吉備姫ノ王○在二文武帝ノ陵 ノ南六十歩許ニー俗二呼三高松塚 トー」 とあ り、高松塚 を 吉備姫王の墓 とし、高松塚 。中尾山を明確に区別 してい ることか らも言 え、『日本興地通志』がこの
2古
墳 の混 同を招 く原因になったとは考えに くい。次に秋里籠島が著 した寛政 3年 (1791)刊行の『大和 国名所図絵』 を見 ると、巻 5の 文武天皇陵の項 に、「平 田村の西 にあ り。俗 に中尾の石墓 といふ。〔陵図考〕に 曰 く、字 は高松 山、高 さ二間二尺、廻二十間」 とある
(秋里籠島『大和国名所図絵』日本資料干J行会、1976年)。
文武陵 については、『五畿 内志 』の引用であ るこ とは 一 目瞭然であるが、難 しいのは、 ここで字高松 山 とした
『陵図考』 を引用 して、文武 陵の参照 に してい るこ とで あ る。『明 日香村 史』(上巻、1974年
)な
どは、 これ を中 尾 山 と高松塚 の混 同 とみ るが、 ここで引用 されてい る『陵図考』が、一体 どの 『陵図考』 に相 当す るのか は定 かでない。 また、 中尾 山 と高松塚 を混同する説 は、 これ までの皇陵調査 にみ られない こ とか ら、F大和 国名所 図 絵』の記載 は、高松塚 と中尾 山を混同す るような時代背 景が存在 したのではな く、おそ らく秋里の単 なる誤認で
はないか と考 え られる。
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『諸陵考』にみる元禄年間の高松塚(奈良県立図書情報館蔵)なお、 同時期 の安永
9年
(1780)に 写 された『 日嗣御 子御 陵』(本文は元禄年間の調査、絵図は享保年間の調査 の写 し
)で
は、高松塚 は文武陵 に比定 され、中尾 山陵 は 未考 と位置づ け られている (高野和人編前掲書)。F山陵志』『山陵志』の著者である蒲生君平 は、寛政8年 (1796)か ら9年、寛政 12年 (1800)の 2回にわたって皇 陵の実地調査 を行 ってい る (「解説 蒲生君平と山陵志」遠 藤鎮雄訳編 『史料 天皇陵―山陵志・前王廟陵記・山陵図絵』
新人物往来社、1974年)。 ほ とん ど単独の探索で、『山陵志』
の稿 は、寛政末年 にほぼ完成 していたが、資金難のため、
文化5年 (1808)に ようや く刊行 に至 った。
『山陵志』の文武陵の項 目をみると、「【按】以二陵上狐 松茂霧一。今呼三高松 山一一名二美賛佐伊 。」(遠藤鎮雄訳 編前掲書
)と
ある。「按」以下が蒲生君平の注記であ り、「高松 山」 を文武陵としている。「高松山」 とは紛れもな く高松塚のことであ り (『山陵記録』)、 ここでは高い狐松 の茂った高松山を高松塚の由来としている。ただし、奈 良奉行所 による元禄10年 (1697)12月12日付の実地検分 報告 には「塚之上松拾五本御座候」 とい う記述がみえ
(『山陵記録』)、 この象徴的な孤松が当初 よりの景観であ ったかについては、なお検討が必要であろう。
高松塚
=文
武陵否定説幕末になると、高松塚古墳
=文
武陵 を踏襲す る『山陵図絵J(遠
藤鎮雄訳編前掲書)や
属廟陵記』(末永雅雄 皇陵古図集成第8巻『廟陵記』青潮社、1982年
)な
どが著 される一方で、それを否定するような 見解 も出されるようになった。嘉永元年 (1848)に刊行 された北浦定政の『打墨縄』(霊亀亭蔵版を参照)が
その 代表である。定政は「平田村 ノ東南二字高松塚 トヨフ文 武陵 卜云アレ トソハ帝陵ノ形ナシ」 とし、文武陵を野口 王墓に比定 した。安政年間の御陵改めにおいて、定政は 御陵考証方 となるが、以後 も同 じ説を掲げている。尊王論が高揚する中、文久 2年 (1862)関 8月 に宇都 宮藩主戸田忠恕が F山陵御4多補建 白書』を提出し、天皇 か らも勅許が下 りて文久の修陵が始まった。朝廷は、幕 府側の統括者である戸田忠至 (ママ
)を
山陵奉行に任命 し、調方 として主に大和で活動 していた山陵研究家の谷森善 臣 。砂川健次郎 。平塚瓢斉・北浦定政・絵師岡本桃里 ら がこれに参画 した (戸原純―「幕末の修陵について
JF書
陵 部紀要』第16号、1964年)。中で も谷森善臣は、文献・実地の考証をもとに『山陵
考』 を著 し、高松塚 を「当昔の陵制 に叶 ひがた くやあ ら む」 と陵墓不相応 と判断 し、地名か ら推定 して、文武陵 を栗 原塚 穴 (現文武陵
)に
比定 した。 こうした幕 末 の公 的な見解が、その後の治定の主流 となってい く。その後 の治定
明治13年 (1880)、 『阿不幾乃 山陵記』の 発見 によって、宮内省 によ り野口王墓が天武・持統 陵に 治定 され直す と、文武陵は栗原塚穴 (現陵
)に
定着 した。大正
4年
(1915)干U行の『奈良縣高市郡志料』(名著出版、1971年覆刻版
)文
武天皇檜前安古岡上陵の項で は、「阪合 村大字栗原字塚穴 にあ りて」 とあるので、その見解 は踏 襲 されている。高松 塚 の盗掘穴 『奈 良縣高市郡志料』 にお け る高松塚 の記述 は、「東西二 間
南北三間
高一 間半
根 廻 十 間 石室露 出せす。篠竹密生す頂上 に発掘 を試み し孔 あ り」
とあ り、盗掘穴の ことが記 されている。盗掘穴 につ いて は、安政2年 (1855)の 『大和 国帝陵図』 に「頂 上窪み 南ヘ ヒキク、東西一間半、南北二間」 とい う窪みがそれ で、 これが文献 にあが る盗掘の最下限の年代 と考 え られ ているが (末永雅雄・井上光貞編『朝日シンポジウム 高松塚 壁画古墳』朝日新聞社、1972年)、 窪みその ものの記載 は、
文政4年 〜天保
H年
(1821〜1840)に成立 した と され る『陵図考』(石田茂輔「きょうほうねんかんさんりょうし」『国 史大辞典』第4巻、吉川弘文館、1984年
)に
も記 され ている ので、盗掘穴の記録 は もう少 し遡 ることになるだ ろ う。いずれ にせ よ19世紀 中頃には、墳頂部の盗掘穴が埋 没 し きらず に窪んだ状態で残 っていたことがわかる。
藤の本が茂 る高松塚
以上の ように、高松塚古墳 は近世 には文武陵 として注 目されたが、皇陵治定か ら外 れ る と、
古墳 の存在 は次第に忘れ去 られていった ようであ る。
昭和14年 (1939)に 末永雅雄氏が宮内省諸陵頭 宛 に出 した高松 塚古墳 の現状報告 による と、「い ま上部 に凹み ある も未 だ発掘せ られ さる もの と思 はれ、墳上殊 に老齢 の藤多 くしてこの藤のみにて もその保護 を加ふべ きもの と思惟す」(『社寺兵事課昭和14年度第18号 古墳墓一件』社兵 第1348号
)と
あ り、昭和初期 の高松塚 の墳 上 には藤 が多 く生 えていたようであ り、末永氏 はその保護 を訴 えてい る。松 の木が生い茂 っていた元禄の頃 と比べ る と、高松 塚の景観 もずいぶん変化 した様子が窺い知れる。 その後 の壁画発見 に至 る経練 については、次節 に譲 る。‑12‑
(竹本 晃)
4 高松 塚 古 墳 の これ までの調 査
高松塚古墳 に対す る調査 は、
I:江
戸時代元禄期 の陵 墓探索、 Ⅱ :昭 和47年の石室お よび墳丘調査、 Ⅲ:昭和 49年 の保存施設設置 に伴 う墳丘調査、Ⅳ :近 年 の緊急・恒久保存封策以後の4期に分かつ ことがで きる。
I:江
戸時代元禄期の陵墓探索元禄年 間の陵墓の探索 ・修理事業は、高松塚古墳 の存 在 を認識 し、保存顕彰 を 目的 とした最初 の調査 であ る。
この事業 は前節 に詳述 されているように、細井知慎が亡 兄細井知名 の遺志 に基づ き、柳沢吉保 に上 申 し、吉保が 徳川綱吉 に進言 した ことか ら始 め られた とい う (広吉寿 彦「明日香村高松塚の元禄調査」『青陵』20号、奈良県立橿原考 古学研究所、1972年)。
大和 にお ける実際の作業 は、奈良奉行内田伝左衛 門の もとで与力玉井与左衛 門等が踏査 をお こない、廷喜式等 を基礎資料 として陵墓の所在 を明 らかに しようとした も のであ った。その結果、陵墓 は所在の判 明 した分 明陵、
不確 定 の不分明陵、そ して不 明の未定陵に区分 され た。
その中で高松塚古墳 は、高市郡内に同古墳以外 には文武 天皇 陵 としてふ さわ しい古墳が ないことか ら、不分 明で あ りなが らも文武天皇陵 に比定 され、その後 の150年 間 にわたって陵墓 として管理 されることになった。 しか し 安政
2年
(1855)の 御 陵改 で野 口村領王墓 山が文武 陵 と な り、 さ らに文久の修陵で栗原村塚穴が文武陵 とされた 結 果 、 高松 塚古墳 は忘 れ去 られ、大正4年
(1915)の F奈良縣高市郡志料』 を除けば、省み られ るこ とはなか った (秋山日出雄「元禄の皇陵探索と高松塚古墳」『高松塚古 墳 と飛鳥』中央公論社、1972年)。I:昭
和47年の石室および墳丘調査昭和47年3月の墳丘・石室調査 は、昭和45年9月 に表 面化 した飛鳥地域の遺跡保存活用のための遊歩道計画 を 端 緒 と した もの で あ る (末永雅雄・秋山日出雄・網千善 教・伊達宗泰『壁画古墳高松塚調査中間報告』奈良県立橿原考 古学研究所編、1972年)。 同事業 を明 日香村 史跡観光課長 山本幸夫氏か ら聞いた藤井利章氏等が周辺踏査 をお こな い、高松塚古墳 の存在 を再確認す るとともに、墳丘南側 に貯蔵穴 を掘 った際 に切石があったことを地元か ら聞 き 取 りした。同 じ話 は網千善教氏 も聞 き知 るところ とな り、
昭和45年10月 21日か ら24日にか けて、秋 山 日出雄 ・網 千 ・藤井氏 を中心 とし、関西大学・龍谷大学生の参加 を えて測量調査が実施 された。その結果、高松塚古墳 は直
径約18m・ 高 さ約
5mの
規模 を有す る円墳である と考え られた (Fig 5)。その後、高松塚古墳 に姑す る監視・保護 を継続す るな かで、明 日香村 は三村合併事業である『明 日香村 史』の 刊行 にあわせ て、内容不祥 な遺跡である高松塚古墳 の発 掘 について予算措置 を講 じた。そ して明 日香村 か ら委嘱 を受 けた奈良県立橿 原考古学研 究所が、昭和47年3月 1 日か ら発掘調査 を実施 した。
調査 は、貯蔵穴の切石 の状態 を明確 にす ることか ら始 め られた。切石が埋葬施設の一部ではな く、単独 で存在 す ることが半U明 した後 には、その位置か ら墳頂 に向けて 南北方向に幅
2mの
試掘溝 を掘 り、墳頂部で盗掘坑 を検 出 した。盗掘坑 の埋 土 に漆 片等が包含 されることか ら、下部 に埋葬施設が存在す ることを確信 し、盗掘坑 を掘 り 下げて石室 を検 出 した。そ して3月 21日 に、石室南面の 盗掘坑か らの観察 によって壁画の存在 を確認 し、21日 よ り25日 まで石室内部の調査 をお こなった。 また墳丘東側
Fig 5 墳丘 実測 図 (F壁画古墳高松塚調査中間報告』1972年より)
裾 に2本の試掘溝 (東第1ト レンチ,東第2ト レンチ
)を
設 け、 この部分のみ5月 7日まで調査 を継続 した。この調査 によ り以下 の所見が得 られた。埋葬施設 は凝 灰岩の切石15石を組み合 わせ た家形石棺様の横 口式石棒【
であ り、床石3石・東側壁3石・西側壁3石・南北小 口 各1石・ 天丼石4石か らなる。 内法 は幅103.5cm・ 奥行 265 5cm・ 高 さ113.4cmを測 り、石室内面 に漆喰 を塗 りこ めた上で、や は り内面 に漆喰 を塗 った南閉塞石 を嵌め合 わせ て閉塞 した ものであ る (Fig 6)。
北壁 。東壁 。西壁・天丼の漆喰上 には壁画が描かれて お り、東壁 には南 よ り男子群像・青龍 と日象・女子群像、
西壁 には南 よ り男子群像 。白虎 と月象・女子群像、北壁 は中央 に玄武、天丼 には星宿がある。床面やその上部の 堆積層 内か らは、人骨 (熟年男性)。 漆塗木棺片 。金銅 製飾 金具・ 海獣 葡萄 鏡 ・大刀外装 具 ・装 身具 (ガラス 製・琥珀製玉
)等
が 出土 し、その多 くは盗掘 に よって原 位置 を失 った状態であった。石室南狽Jの試掘溝底面か らは、葬送 もしくは石室築造 にか か わ る もの と推 定 され る
2条
の溝状 施 設 を確 認 し た。 同施設 は各 々平均幅25cm・ 深 さ5 cmを測 る。45cmの 間隔で平行 に並 んでお り、石室下面か ら南 に向けて続い ているが、石室の南295mに
ある幅約90cm・ 深 さ約35cm を測 る東西溝で途切れていた。さ らに墳丘の東裾 に開け られた2本の試掘溝 の成果 を 加 えて、墳丘築造法 を復元 した。その概要 は、①7世紀 第3四半期 を下限 とす る須恵器の包含層の上 に、直径約
20mの
円形台状の基底部 を造成、②基底部の中心 に石室 を築 き、南 に墓道の開いた直径10m。 高 さ3mの
円墳状の第
1次墳丘を造成、③それを覆うように直径16m乃 至
18m。高さ 5mの 第
2次墳丘を築 く、というものであっ た。
壁 画確認後、文化庁 は高松塚古墳応急保存対策調査会 を設置 し、昭和47年4月 6日 に奈良県立橿 原考古 学研究 所か ら管理 を引 き継 いだ。
ヽ Ψ
F咆
6
石室実測図 (『壁画古墳高松塚調査中間報告』1972年より)○数字は版築次数
Ⅲ :昭 和49年 の保存施設設置 に伴 う墳丘調査
その後、高松塚古墳保存対策調査会 によって壁画保存 施設設置の必要性が結論付 けられ、それを受けた文化庁 は、奈 良国立文化財研 究所 ・奈 良県立橿 原考古学研 究 所 。明 日香村 の協力 を得て、高松塚古墳保存施設設置の ための発掘調査 を昭和49年 に実施 した (猪熊兼勝「特別 史跡 高松塚古墳保存施設設置に伴う発掘調査概要」『月刊文化 財』第143号、第一法規出版、1975年 )(Fig 7)。
この調査 は2次に分かれ、昭和49年8月か ら機械室設 置箇所 に対す る第 1次 調査が、同年11月か らは前室・準 備室設置箇所 に対す る第2次調査がお こなわれた。第1
次調査調査区の南北長 は、石室奥壁か ら南へ
9mの
地点 より18mの
地点 までの9mで
あ り、幅 は石室中軸線 を中 心 とす る4.4m、 深 さは調査 区の南端で石室床面か ら3.5m下
位 まで とし、墳丘 を構成す る版築層 とその下位の造 成土、 ならびに基盤層 を確認 した。第2次調査 の調査区は、昭和47年度石室調査区を東西 に約50cm掘 り広げた もので、墓道東壁 を検出 した。 また これ とは別に、冷却施設・配電設備の設置のため、墳丘 北側裾 にL字形の調査 区を設 けて、版築の広が りと基盤 層 を確認 した。
この一連 の調査 に よ り、昭和47年 度 の調査成果 を補 足・4多正する以下の所見が得 られた。
墳丘は、石室位置 を中心 に丘陵斜面 を掘削 し、 また南 斜面下半 には盛土造成 をして、水平 な基盤 を造 りだ した 上 に築造 されている。その築造の手順 は、基盤面の中央 に石室床石 を据 えて第 1次 版築 をお こない、その作業途 中に石室南面 に角材 を4列 に埋 め込んで石材搬入用 の道 板 とす る。次 に、石室側石 を立て第2次版築 をお こない、
天丼石 をのせて第3次版築で石室 を封 じ込める。続いて、
この第3次版築 を石室天丼石南端 よ リオー プ ンカ ッ ト し、墓道 を形成す る。墓道の規模 は、石室南端 よ り南ヘ
Πg 7 壁画保存施設建設に伴 う墓道部の調査遺構図 (F月刊文化財』第143号より)
5.5m、 幅は石室前面で2.4m、 南の出口で約
3mを
測 る。次 に、石室扉石 をはず して石室内面 に漆喰 を塗 り、壁 画 を描 き、納棺後 に扉石で再び閉塞す る。石室前面には、
葬送儀礼 に関連す ると思われる 2個 の穴が、道板 を抜 き 取 った後 に穿 たれている。その後 に墓道 を版築 によって 埋め戻 し、 さらに上部の墳丘 を築 き、古墳の完成に至 る。
なお昭和47年 の F壁画古墳高松塚調査 中間報告』では、
石室前方約
3mで
確認 した東西溝 を版築 に伴 う堰板痕跡 と推測 していたが、それは土層の断層状陥没であ り、墓 道 を埋め戻 した版築層にも縦方向の亀裂が存在す ること が新たに報告 された。Vi近
年の緊急・恒久保存対策以後平成14年 秋 に壁画 を汚損す る恐 れのある黒徴 が発生 し、石室内への虫の侵入が顕著 になるなど、壁画の保存 環境の劣化が深刻 な問題 になった。 このため文化庁 は平 成15年に国宝高松塚古墳壁画緊急保存対策検討会 を設置
し、気存対策の検討 を開始 した。
同年、検討会の調査検討報告 (国宝高松塚古墳壁画緊急 保存対策検討会報告『回宝高松塚古墳壁画緊急保存対策につい て』2003年
)を
受 けた文化庁 は、史跡地北側 ・西狽Jの外 周 に沿 って排水溝 を敷設 し、墳丘部へ の雨水の流入 を防 ぐ工事 を実施 した。 この工事 に伴 う立会調査 は、明 日香 村教育委員会が担 当 し、U字
溝敷設のために掘 られた溝 の断面調査 によって、周囲の基盤層や土層堆積状況が明 らかになった。緊急保存対策検討会 に引 き続 き平成16年に設置 された 国宝高松塚古墳壁画恒久保存姑策検討会 は、壁画保存の ための抜本的な検討 に着手 した。その中で、壁画の劣化 と保存環境の関係性の解明に向けて、今 回報告す る発掘 調査の実施が決定 された。その経緯 については本書
I章
1節に詳 しい。
(豊岡卓之)