• 検索結果がありません。

16.Lettre d,Andr占Gide,nOn dat由,Cit占e par Yvonne Davet,Op.Cit・p・18・

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "16.Lettre d,Andr占Gide,nOn dat由,Cit占e par Yvonne Davet,Op.Cit・p・18・"

Copied!
19
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

16.Lettre d,Andr占Gide,nOn dat由,Cit占e par Yvonne Davet,Op.Cit・p・18・

17.bttre a PaulValさry,26janvier1891,Correspondance Andr占Gide−

PaulVal占ry,Gallimard,1955,p・46・

18.Pr fβ∬fβ∫,Mercure de France,1963,p・119・

19.Voir note n05.

20.HenriMassis:∫坤〟e〝Cβdg〃・』〃dr∠Gfdg,Revue tJniverselle,15nov・

1921.

21.On voit ainsidansleノ〃〟r〃αJ,1e18r f占Ⅴ.1916,JournalI,Pl iade,p.534:

J,aspireardemment a占crirecelivre de m卓ditations,Ou d

占1

vations,

quifasse pendant auxⅣ0 rrff〟re∫,et quise confond parendroitsavec les Co那e∫J∫∂〃〃∫e祝乃βEcr∫りβわ,que je pr占pare.Puissと−je‥.

22.La derni主re moiti占de feuillets de1928−1929,eSt pr占c d占e d unein・

dication del auteur(JournalI,Pl占iade,p.p.899−900): Les feuillets suivants ont占t占占crits entre1922et1928.Je pensais alors,je ne sais trop pourquoi,n en avoir plus pourlongtemps a vivre et consid rais volontiersエeJⅣ0〟りeJJe∫」Vo〟rr∫f祝re∫ dont ces feuillets devaient faire partie,COmme une SOrte de testament qui,dansmonprojet,devaitfaire un pendant tardif a mesⅣ0〟rr血re∫7七rγg∫如∫.

23.Ⅳ〟∽ヴ〟才de土地,ノ0〟r〝dJe亡ぶ0肌e〃わ・∫,Plさiade,p.594.

24.Voirla note21.

25.エ gゆαCβエ如∠rdfrβ,COl.id占es,Gallimard,1968,p.20.

ネルヴァルと古代インド思想の幻(Ⅱ)*

−『オーレリア』と『ウパニシャッド』−

稲 生  永

*《ネルヴァルと古代インド思想の幻(Ⅰ)》 目次1)

1.Versl Orientト東方の誘惑 2.決定的瞬間

3.ブラフマの穴《1e trou de Brabma〉〉

4.アンクテイル・デュ・ベロソ『ウプネカット』Otゆ乃e鳥

如f

本論文第1部においては,ジュラール・ド・ネルヴァルG占rardDENERVAL の遺作『オーレリア,またほ夢と人生』血r

Jiα〃〟Jβ月βueg=αF∫β(1855)

をとりあげ,そこに認められる古代インド神秘思想の影響を指摘した。女神イ シスIsis崇拝を祖型とし,諸教混清の過程を経て形成される《オーレリア神 話》の基本的構造を解明しようというのが本論考の究極的な狙いである。第1 論文において明らかにした問題点を要約すれば,概ね次のようになる。

ブラフマの穴 《1e troⅦde BraIlma〉〉(1841年2月の体験をもとに)

『オーレリア』第1部の第2章と第3章には,作者ネルヴァルの最初 の精神踏乱時の体験が塗りこめられている。より正確に言うならば,自己 の精神踏乱時の休験を素材として,文学的体験にまで高められた,主人公

「私」の異様な体験が語られている。それらの中から古代インドの神秘思 想に極めて密接な関連を有すると思われる個所を次に列挙しよう:

1)《(.‥)ひとりになった私は,苦心して立ち上がり,絶えず視線を

そらさずにいた例の星に向かって,また歩きはじめた。歩きながら私は 神秘的な讃美歌を歌ったのだが,その歌ほまるで他界で聞いたことがあ るかのように思い起こされ,名状し難いよろこびが体内にみなぎって行 くのであった。それと共に,私ほ身にまとっていた俗世の衣服を脱ぎ捨 て,まわりにまき散らしていった。道ほ絶えずたかさを増して行き,星

* Nervaletla vision del,Inde antique(2)一月〟r

giαet【旬β〃如de∫,Hisashi INOH

17

(2)

はますますその大きさを増して行くように思われた。そのあと,私は腕 を大きくひろげたまま,霊魂が星の光を浴びて,磁気カで吸いよせられ るように,肉体から離れて行こうとする瞬間を待った。その時休内に戦 慄が走った。地上に対する愛惜の念と,そこで私が愛したひとびとに対 する愛惜の情とが,私の心を捉えたのであった。そこで私は,自分を惹 きつけているく精霊〉に向かって,心の申で熱心に祈った。その結果,

私ほ再びひとびとの間に降りて行くことができるように感じたのであっ た。》(Ⅰ,

3

.(ガ.∫

5

・,

pp

363

4

.)

2

)《何時間もの間,私は−種の痴呆状態でそこにいた。ようやく,先 刻私が見たと思いこんでいたふたりの友人が,馬車に乗って迎えにやっ てきた。私は彼らに一部始終を話したのだが,ふたりはその夜ほやって 来なかったといって,それを否定したのである。私ほかなり落ち着いて 彼らと夕食を共にしたのだが,宵闇が近づくにつれて,前夜すんでのこ とに致命的なものになりそうだった時刻そのものを怖れねばならないよ うな気がしてきた。そこで,友人のひとりが指にはめていた指環が昔の 護符のように思われたので,それをくれるように頼んだ。スカーフを手 にとった私は,指環のトルコ玉を注意深くひっくり返し,痛みを覚えて いるうなじの一点にそれが当たるようにして,首のまわりに巻きつけた。

私の考えでは,この一点こそ,前夜私の目撃した星から発する特定の光 線が,私を天頂とを結んで一致させるその瞬間,霊魂が立ち去るという 点なのであった。偶然か,あるいほ極端な気苦労のせいか,私は前夜と 同じ時刻に,雷で打たれたように倒れた。》(『オーレリア』第1部第3 章。(万.ヂ.,p.365.)

3)《ストーヴで衣服を乾かLている問,私は簡易ベッドに寝かされ

た。その時私ほ或る幻影を見た。眼前で天空が光り輝くように開かれ,

舌代の神々が私の前に姿を現わしたのである。神々のきらめく天空の上 に,私ほブラフマの七天が輝くのを目にした。朝になってようやく,こ の夢に終止符が打たれたのであった。》(『オーレリア』自筆草稿その2・

(E・∫5・,p.419.)

上記の一連の記述には,古代インドの神秘思想を収めた『ウパニシャッ ド』の影響が強く認められる。つまり 2)の文章中で,《この一点こそ,

前夜私の目撃した星から発する特定の光線が,私と天頂とを結んで一致さ

18

ネルヴァルと古代インド思想の幻(Ⅱ)

せるその瞬間,霊魂が立ち去るという点なのであった。(…)

cepoint

tait

celuipar o血l ame rlSquerait de sortir au moment oa un certain rayon,partidel

卓toile quej

avai$Vuela veille,COinciderait re・

1ativement a moiavecle z占nith.》と規定されているもの,1)の文章

で,《霊魂が星の光を浴びて,磁力で吸いよせられるように,肉体から離 れて》行こうとする点こそほ,『ゥ′くニシャツド』の中で《スシュムナ・

ナーディスSu早mna頭dis》とよばれているもの,すなわち《ブラフマ の穴》に相当すると考えられる。しからば,ネルヴァルが典拠としたもの ほ何であったか。《秘密の教義》を意味する『ウパニシャッド』という名 称を冠した文献の総数は200篇にのぼるといわれているが,−般にほ108 篇が正統的な『ウパニシャッド』文献とされている。これほ西暦紀元前8,

7世紀から西暦紀元16世紀ごろまでに書かれている。さらにこれらのう

ち14篇(場合によっては新たに発見された3篇を加えることもある)が,

西暦紀元前8,7世紀から西暦200年ごろまでに書かれた,いわゆる《古 ウパニシャッド》とよばれるものである。これらの主要な『ウパニシャッ ド』に於て,上記の《スシュムナ・ナーディス》 あるいはそれと密接な 関連を有する事項がどのように描かれているであろうか。古い順に追って みよう。之)

1)『プリハド≠アーラヤヌカ・ウパニシャッド』βrゐαd−∂rd軍γα如 こや−

〃〝才子βd(《古ウパニシャッド》初期第1期の散文『ゥ′ミニシャツド』)第4 葦,第2ブラーフマニヤ,帯3節:

《(…)athainayor e亭豆Srtib sa血carapiyai亭豆hrday豆dかdhv豆

n豆¢y uccarati・yath豆keぬh sahasradh畠bhinnab evam asyait豆

hita n豆ma n豆¢yo ntar−hrdaye prati亭匝it豆bhavanti;(‥.)〉〉(ⅠⅤ.2.

3.)【(…)Their path for movingis that channelwhich goes

upward from the heart;1ike ahairdividedathousandfold,SO are the channels called財拍which are established within the

heart.(‥,)Trad.Radhakrishnan,乃eprf乃Cゆαg L如乃如ゐ,1953,

p.253】

ここでは心臓から上へ向かう通路と 《S印ih》しての派管《na¢y》の こと,心臓内にある《hit豆na蛮S》のことが語られている。さらに同『ウ パニシャッド』第4童,第4ブラーフマニヤ,第8

9節には

《8.tad ete畠lokえbhavanti:

19

(3)

apub panth急 Vitatab pur軸aわ;m豆血 sp持tO nuvitto

mayalVa

tena dh

aplyantibrahmavidab svarga

lokamita屯rdhva血vimukt豆h.

[Onthistherearethefollowi喝VerSeS:

Thenarrowancient pathwhichstretchesfaraway,hasbeentouchedbyme,has beenrealisedbyme.Byit,thewise,the knowers ofβγαゐ㈹α柁 gouptotheheavenlyworldafterthefalloftbisbody,being

freed.】

9.tasmin昌uklam uta nilam豆dutl,piflgalam,

haritam,lohita血ca

e亭apanth豆brahma頭hえnuvittatltenaiti brahmavitpupyakrttaijasa畠ca

Onthatpaththeysaythereis white,blue,yellow,green

andred.That path wasfound by aBr豆hm叩aandbyitgoes the knower of Brahman,the doer of right and the shining

One.

という記述がある。このほか『プリハド=アーラヤヌカ・ウ/ミニシャツド凸 では,第2章第1ブラーフマニャ,第19〜20節,第4茸第3ブラーフ

マニヤ,第20節などでも,毛髪より細い微細な脈管《bitえna¢yis》に 関連がある。つまり心臓から白,青,黄,緑,赤色を呈する72000本の脾 管が出ていて,これらにより人間の心臓は太陽と結ばれている。そして人 が死ぬ時,霊魂ほ,これらの脈管を通り,太陽光線に運ばれて天界に達す る。ただしこうした経路ほブラフマンを知る者にのみひらかれているとい うのである。

2)『チャーソドーギャ・ウパニシャッド』Cゐ∂乃ゐ幻′αこゆα 如d(西暦

紀元前600年ごろに書かれた古散文『ウパニシャッド』)第8章,第6節,

第1〜6項:

《1・Athay豆et豆hrdayasya n豆dyas t軸p沌galasya叩imnas・

tisthanti,Guklasyanilasyapitasyalohitasyaiti.Asauv豆豆dityab p拍galab,e苧a Guklab,e亭a nilab,e亭a p王tab,e等alohitab.【Les、

Veines quisortentduc(ヱur COnSistent enune substance subtile・

brune,blanche,bleue,jaune,rOuge.En v丘rit占,1e soleil,1a−

haut,eStbrun,ilestblanc,ile$t bleu,ilestjaune,ilestrouge、

20

ネルヴァルと古代インド思想の幻(Ⅱ)

−Trad.par Emile SENART,C鞄融(わgγα−L砂α〃如d,《Les Belles

Lettres》,1971.】

2.Tadyath豆m豆ha−patha豆tataubhaugr豆maugacchatiima甲 Ca amuIp Ca,eVam eVa eta 豆dityasya racmaya ubhaulokau gacchantiimaIp Ca amu甲Ca.Amu亭madえdity豆t prat豆yante ta

豆Su n豆郎早u Srpt豆h,豆bhyo n豆dibhyab pratゑyante te

mu亭minn

ゑditye srpt豆h.【Comme une routeるtablie entre deux villages

va al un al autre,de m合meles rayons du soleilvont a deux

mondes:Celuidici−bas et celuidela−haut.Du soleilquleSt

la・hautilsse propagent dans ces veines en sy glissant;de ces

veinesils se propagent,en Sy glissant,dansle soleil.】

3.Tad yatra etat suptaわSamaStah samprasannah svapヱ1a】11

na vij云n豆ti,aSu tada n粥痔u srpto bhavati・Ta叩na kaぢCana p豆pm豆SprCati,tejas豆hitaぬsampanno bhavati.[Ainsiquand

on est endormitout entier dans uu calme totalsansrさve,C est qu,on s est gliss丘dans ces veines.Onるchappe alors a toute souillure;Car OエーeSt en pOSSeSSion du tejas.J

4.Atha yatra etad a−balim豆n叩1nito bhavati,tam abhita

豆Sin豆 豆hub:Jan畠Sim豆m,j豆n豆sim豆miti.Sa y豆vad asm畠C ぢarirad an−utkranto bhavati,tえvaj j豆n豆d.【Quand un malade

est alapproche du coma,CeuXquilentourentluidisent:《Me

reconnaissez

VOuSP Mereconnaissez

VOuSP

》 

Et

ui

auSSiiong

temps qu iln apas quitt岳1e corps,illesreconnait.】

5.Atha yatra etad asm畠C Garir豆d utkr豆mati,atha etair eva

raGmibhir融dhvam亘kramate・Saomitiva畠ha,血dhvamiyate.

Sa y豆vat k芋ipyen manab,t豆vad adityaIp gaCChati.Etad vai khaluloka−dvaraヱp Vidu字えm prapadanam,nirodho

−Vidu亭畠m.

【Mais quandilquittele corps,Cest au moyen de ces rayons

qu,ils,61とve;1e temps de direo椚!etilestemport6versles

′ ●

reglOnS SuperleureS;auSSlprOmpt quela pens6eilatteintle

SOleil,Carla estla porte du monde;elle souvre a ceux qul

SaVent et Se ferme pour ceux quine savent pas.】

6.Tad e亭aぢlokah:

21

(4)

Gata巧1Caek豆Cahrdayasyan豆¢yab,

T豆Sゑ甲m加dh紬amabhinibsrtaek豆,

Tay豆むdhvam孟yann a・mrtatVam etl,

Visva旭 any豆 utkrama耶 bhavanti,utkramape bhavantf・

【C,e$ta quOis

appliquecettestance:《Ilyacentuneveines

auco巳ur;danslenombreuneseules

岳1eveversla t釦e;Celui

qulmOnte par Celle−1a va畠1 immortalit卓;parlesautreson sortdanstoutesles directions−On SOrt dans toutesles direc−

tions.》1

ここでは心臓に褐色,白色,青色,黄色,赤色の微細な脈管《頭dyah》

が走っている。そしてこの脈管を通じて太陽と心臓が堅く結ばれている。

人間がその肉体から離れる場合,止、脇から出ている101本の脈管のうち頭 頂に通じている唯一の脈管から出て行って,不死となるというのである。

この派管こそ,小宇宙と大宇宙,現世と彼岸とを結ぶものに他ならない。

3)『ァイクレア・ウパニシャッド』∠厨〝りⅥ乙勿釧顛鋸(古顔文『ウパ

ニシャッド』初期第2期に属するもの),第1部,第3章,欝12節:

《12.Sa etam eva simana血vid豆ryaitaya dv豆ra prapadyata,

saisえvidrtir n豆ma dv弛,tad etan nandanam;taSya traya豆va−

Sath豆Strayabsvapn祖ayam急vasatho yam豆vasatl10 yam象vasatba iti.【Ilfendit alorsla・Suture,etp血丘traparcetteporte:Cette

丘ssure,Onl

appelle《pOrte》;Le paradis,C est elle.Ilposs色de

trois demeures,qulSOnt trOis songes!Cette demeure−Ci,Cette

demeure−Ci,Cette demeure−1a.−Trad.par Patrik LEBAIL,ぶ玩

こ㊥d乃ゐゐαゐ,1971】

パトリック・ルバイユの新訳では《丘ssure〉〉 あるいほく(pOrte》 とな っている個所,つまり《Vidrti》ほ,ラーダクリシュナソの英訳でほ《the

Very end(Of the head)》 と解釈されている。ここでほさらに三種の夢

の主題にも注目すべきであろう。

4)『ヵータ・ウ′ミニシャツド』助rゐαL如ガダざαd(焔享ゐα烏α乙砂.とも

記す。『ヤジェル・ヴューダ』に属する,古『ウパニシャッド』中期の韻

文),第2部,第3章,第16節:

《16・ぬta血caik豆Ca hrdayasya n粥yas t畠Sam m加dh豆nam

abhinihsrtaik豆:

tayordhvam豆yann amrtatvam eti,Vi亭Vaf血any豆utkramape bhavanti.

【A hundred and one are the arteries ofthe heart;One Ofthem

leads up to the crown of the head.Going upward through

that,One becomesimmortal;the other$ SerVe for goingln Various other directions.1

心臓にある101本の脆管《n豆¢ays》のうち,頭頂に通じている1本を 介して,ひとほ不死に到ると説いている。

5

)『ムソダカ・ウパニシャッド』掴加ゎ転

U

如両虎(『ァタルダ・ヴ ューダ』に属する中期古韻文『ウパニシャッド』),第

2

部,第

2

章,第

6

節:

《6・arえivaratha−nabhausa止血at豆yatra n豆¢yab sa e亭0

nta昌 Carate babudhajayam象nab,

aumlty eva血dhy畠yath豆tm云血am,SVa$tivab pゑrゑya tamasah parast豆t.

【Where the arteries of tbe body are brought togetherlike the

SpOkesinthe centre of a wheel

Withinitbecommingmanifold

Meditateon

α弘別

aStheself

Mayyoube successfulincrossing OVertO thefatber shore of darkness

.】

ここで語られているのもまた 《na¢yab》 つまり脈管である。オムOM について瞑想すろことによって,ひとほ暗黒の間を通り抜けることができ ると説いている。

6

)『ブラシ′ユナ・ウパニシャッド』乃・α血α【車β頑α

d

(『ァタルダ・ヴ ューダ』に属する,西暦紀元前350〜300年頃の古散文『ウパニシャッド』),

3

問答,欝

6

7

節:

《6.brdy hy e芋a豆tmゑ,atraitad ekaぬta血n豆郎n畠m,tゑs豆血 畠ata血 ゐtam ekaikasy云血 dv豆Saptatir dv孟Saptatib prati論k旭

n豆dトSahasr豆nibhavanti,畠Su Vy畠na≦carati.

【In the heartis this self.Here are these hundred and one ar・

teries

To each one ofthe

ebelongahundredsmallerarteries

Withinthemmovesthedはusedbreath.】

7.athaikayordhva ud豆nab,p叩y印a pupyaloka血 nayati,

p豆pena p畠pam,udhえbhy岳m evamanu卑ya・lokam.【Now,rising

(5)

upwardthroughoneofthesetheup・breathleads,inconsequence of good to the goodworld,inconsequence ofeviltothe evil

world,inconsequenceofboth′tothe world ofmen.】

心臓に

101

本の沢管《

nadis

》があり,そのそれぞれに

100

本の小沢管 が付随している。そのうちの1本を通って,上に向う生気が昇って行き,

善行を行ったものは善の世界へ,悪行を犯したものほ悪の世界へ,その双 方を行ったものは人の世へと赴く。

7

)『マイトリー・ウ′ミニシャツド』ルね如

i

こ加乃如

d

(黒『ヤジュル・

ヴューダ』に属する後期の新鶴文古『ウパニシャッド』),第

6

章,第

21

節:

《21.athえnyatr豆py・uktam:血dhvag豆n豆disu亨mnえkhyえpr豆pa−

SanCゑrinitalvantarvicchinn畠,tay豆pr軸0血臨ra−manO−yukta−yOrd−

hvamutkramet,t豆tvadhyagra血parivartyaindriy叫yasamyoJya mahim豆mahim畠na血nirikseta,tatO nirえtmakatvam eti,nirえt−

makatv豆n na sukha−duhkha−bhえg bhavati,kevalatva血1abhat云 ity eva血hy豆ha:

parab pむvam prati亭匝豆pya nigrhitanila血tatah.

tirtv豆pえram ap豆r印a pa言c豆d yu和ita m凸rdhvani.〉〉

【Andthusishasbeensaid elsewhere:

The cbannelcalles

ざ呵祝椚〝∂1eadingupward,SerVlngaS the passage for tllebreatil,

is divided within the palate.Thoughit,Whenitisjoined by

the breatb,tbe syllabeα貼朋and by the mind,1et him proceed upwards.By causlngthetip ofthe tongue to turnbackonthe palate,by binding together the senses,1et greatness perceive greatness.Thence he goes to se用essness.= On account of

Seはessness,beis not an experiencer of pleasureandpain.He

Obtains aloneness.For tbus hasit been said: Having点rst

負Ⅹed the breath that has been restrained,havlngorossed the

limit,1ethimjointhelimitlessinthe head.

ここでは 《Su早umna n負dis》 とよばれる脈管がとりあげられ,OMをと なえることにより,生気はそれを通って上昇し,自己からの脱却が可能と なるのである。

以上が,ネルヴァルと古代インドの『ウパニシャッド』との関係を考究

24

ネルヴァルと古代インド思想の幻(Ⅱ)

する上で,重要な鍵となる《スシュムナ・ナーディス》あるいほ《ブラ フマの穴》に関する個所である。これを見てもわかるように,小宇宙と大 宇宙を結ぶ極めて重要な脈管に関する叙述も,時代により,またそれぞれ の『ウパニシャッド』により,若干表現や取扱いが異なる。さらに『ウパ ニシャッド』のそれぞれの記述とネルヴァルの『オーレリア』およびその 草稿に描かれた《ブラフマの穴》に相当する記述との問に,かなりのズレ も目立つ。しかし,ネルヴ7ルの記述を見ると,あやふやな伝聞に基づく ものとも思えない。やはりこれには何らかの典拠となるべき資料があった と考えるのが妥当であると思われる。そこで上に挙げた引用文などを手掛 りとして,『ウパニシャッド』に見られる《スシ′ユムナ・ナーディス》あ るいは《ブラフマの穴》の思想が,いつどこで,どのような形でネルヴァ ルの知るところとなったかを探るのが,次の目的となる。すでに本論文の 第1部において,アンクテイル・デュ・ベロソのラテン語訳『ゥプネカッ ト』0‡ゆ乃eゐ ゐαf(全2巻,Strasbourg,1801−1802年刊)の第1巻に

『チェアンドゥク・ウプネカット』0之¢彫烏 カβg 乃成功α〃ゐzJ点 すなわち

『チャソドーギャ・ウパニシャッド』の要約が収められており,その終り のあたりに,第8章第6節第6項の頒歌に対応するつぎのような記述が あることを指摘した:

《Et unum centum et una vena,quOd cum corde(α机茄)con−

tiguum est,1n medio carum una vena est,qu記admembranam

Cerebripervenit:eteXillavi急抄〝ゐβ〝Cりオα椚)さsole transgressus

(如∽0)cum(αd)Brahmalokpervenit.》(Ⅰ,p・86)

《そして百と一の脈管があり,心臓に結ばれている。その中央に一本 の脈管があるが,それは頭脳の方に向かっている。この道を通り,太陽 を横切って行くと,ひとはブラフマの場所にたどりつくのである。》

ショーベンハウアーも愛読したこの書物は,/ミリ王立院冨錨Bibiiothト

que Royale(現在のパり国立図書館)にもおさめられており,ルイ・ジエ

ラールLouisG孟RARDという名前で閲覧証の交付をうけていたネルヴァル の削こ触れた可能性は十分ある。しかし典拠として必ずしも十分でないよ うに思われる。以下ほこの点に関する

1976

年夏の第

2

次調査の結果の中 間報告である。

5.インドの紹介−18世紀後半から19世紀前半にかけての状況

(6)

ネルヴァルが《ブラフマの穴

1etroudeIirahma

》の主題を何によっ て知ったかを詮索するに先立って,

18

世紀後半から

19

世紀前半に至る期 間の,インド紹介の実情を調べてみる必要があるだろう。さ)それ以前にも インドを含む東洋諸国の状況は宣教師達の報告や商業活動を介してヨーロ ッパに伝えられていた。ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマ(

1469

頃−

1524

1497

年に喜望峰を回る航路を発見し,

1498

年インド西岸のカリカット に達した頃,イソドはムガール帝国による統一が完成せず,各地に群雄が 割拠していた。

16

世紀にほ主にポルトガルとスペインが東洋で活躍して いたが,17世紀に入ると,これらの国に代ってオランダ,イギリス,フラ ンスなどの進出が目立つようになる。イギリスほ1600年に東インド会社 を設立,陸海軍カを擁して植民地を支配した。一方のフランスは1664年 にコルべ−ルが東インド会社

Compagnie deslndesorientale

$を設立,

イソド洋の通商を推し進めると共に,沿岸部にフランス領インドを確立し た。1719年p− Lawは束インド会社とセネガル,シナ両会社とを併合 し,投資と貿易を目的とするフラソス・インド会社CompagniefranGaise

desIndes

を設立した。同社ほ

1721

年に消滅したが,翌

1722

年に再建 され,デュプレ Dupleixらの活躍でめざましい発展を遂げるに至った。

18世紀中葉ヨーロッパでオーストリア継承戦争(1740−1748)が起ると共

に,インドにおける英仏両国の抗争は激しさを加え,英仏海外植民地をめ ぐる七年戦争(1756−63)にまで発展した。戦況は1757年英人Pノべ−ト・

クライヴがプラヅシーでインド土侯とフランスの援軍とを破ってから,イ ギリスの勝利へと傾いていった。1763年のパリ条約でフランスほシャン デルナゴール,ボンデイシュリ,カーリカール,マーエ,ヤナオンの

5

市を除き,仏領インドの支配権を失うことになる。

1778年から1814年にかけて,フランスほ,インド南部ミゾールMysore

のサルタン,ハイダル・アリの息子ティッポ・サイブ Tippoo SAHI丑

(TippuあるいほTippou SA董Bとも書く,1749年頃−1799)と組んで,

英国に対抗。1784年ティッポ・サイブほその領土から英国人を放逐,サル タンとなり,

1789

年には英国と連合したトラヴアンコール王を攻めたが,

1792

年セリソガ′くタム

Seringapatam

の戦に破れて領土の

3

分の

1

失った。ボナ′くルトの援助を当てにした彼はなおも英国人たちに戦いを挑 み,ウエルスレーの率いる英軍ほ

1798

年ミゾールに侵入,ティッポ・サ イブほ

1799

年セリソガパタムで戦死した。彼はインドの回教徒たちに殉

26

ネルヴァルと古代インド思想の幻(Ⅱ)

教者として崇められているが,その英雄的行為ほ,1804年Gobert−Dubois の7物∂0助カブろ,1813年Jouyの7号抄β0ぶαカブムなどの作品に描かれ,

諸家の注目を浴びた。ネルヴァルも18亜年の東方旅行覚書の第3ページ に《メディチ家。マリー・ド・メディシス(サン=ドニ)サイブ型》と記し ている。

フラソスがインドの沿岸恥こ確保していた5っの都市は,1778年から

79年にかけて英国の手に落ちたが,1783年のヴェルサイユ条約で再びフ

ランスに戻った。しかしそれも束の間,フランス大革命が勃発すると,英 国の占拠するところとなり,1814年と1815年のパリ条約でフランスに返 還,1817年に再占領とめまぐるしい変遷をとげた。この間1794年にはイ ンド会社が廃止され,インドにおけるフランスの権益は政府の直轄下に置 かれることとなった。

このような状況下に,インドがどのような形でヨーロッパに紹介された かを次の略年譜で示した。もちろんこれ以前にもさまざまな形で,インド の紹介がなされていることも無視してほならない。たとえば1665年から

1745年にかけてほ,トルコ,ペルシャ,インド,シナ,シャムに関する 150繰返い施行記が刊行されているし,1697年にほユルプ中HもRⅧLOTが

『東洋文庫』β動‰仏独〝の有価戒をあらわし,それまでの東方学を集成 している。

1755 月如0みβ椚0滋r〃g血Cぁわzoゐ,ノ(ゆ0〝αゐ,∫〃ゐ乃J,伽∫α乃∫,7もr亡ぶ

…(nouvelle岳dition,1755−1776,30vol.).

1756 エβ∂0乃ゐ0∽椚eC那馴成℃α既」元由(戯曲)。

1761Voltaire,肋f〃わ・e d

〟〃 ろ8〝∂rd椚わ‡(小説)。/De Bou負ers,

』タグ〝e,reわ7eゐGoJco〝鹿(小説)。

1766 Voltaire,』りe〃紬reわ‡dわ〝〃g.

1768 インドの舞姫bayad主re(バヤデール)ほじめて′ミリを訪問。/【A.

Dow,7協e月ブ∫fo仰げ月才〝do∫f仇】

1770 Antoine Lemierre(1723−1793)の戯曲『マラバールの未亡人』

エαF創りe滋脇Jαみαr初演。

1771Anquetil・Duperron,エαreJαfわ乃ゐり叩喝e…ノエβZb〃ふ』be∫fα

(仏訳)。/Sinner,血∫αダJ〟rJβ∫dog〝7e∫滋Jα椚∠fα∽0ゆゐoJeβfゐ♪〟r−

gαね毎.‥.

1772【A.Dow,7Ⅵβゐ如のγゲ月わ!ゐざf朗.】

(7)

1773 Voltaire,舟αgI〝e励 ∫〟rJ,九滋./Charpentier,助〃fJβ ef

βdJαC∫〃(小説)。

1775 Abb岳deMarcy,助ねかβ血C屁血痕,あノ

ゆ0〝αi∫,あ血・

ゐ〃∫,あ乃r∫α〃∫./D

Anville,』 壇〟ざf∂gゐgγ申ゐね〟e滋J

血滋・

1778 Anquetil−Duperron,エ毎g∫J8fわ〃8rゐ肋Je…・/エ

且冨0〃γ・拘血∽

0祝d乃Cfe乃CO椚椚β〃ね如血拘(ね椚,2vol.,Ⅰverdon(『ヴューダ』註解)。/

Cardonne,Cβ〝ねJgf.わあわぶグ〃ゐ″〃β∫./【T.Habed,Grβ∽∽βγげfカe

占e喝αgJd乃g〟喝β,Bengal・り・G・Herder,ぶfあ∽〝あmJ烏〝エわあ・れ

(『諸民族の声』・古バラモソ文芸,バルトリハリの詩などを引用。ゲーテに 影響を与える)。】

1780

 エβ〃γβ∫わ‡ゐ乃〃

e

∫.

1782 Sonnerat,れγ喝edα〟∫詔あOrわ〝ねJeg‥‥

1784【1月15日英国人ウイリヤム・ジョーンズWilliamJones(1746

−1794),カルカッタに第1期アジア協会(ベンガル王立)AsiaticSociety を設立。サンスクリット語原典の翻訳を目指す。

1

LaHarpe

,エ

e

∫β用∽

e

(戯曲)。

1785【CharlesWilkins(1749?一1836),7Ⅵββゐαgα℃αf−Geeね,London.

(『バガヴアット=ギータ』の英訳)。/』Co〝ゆαrαfゐeuねひげfゐe d乃Cオe乃f

〝拍肋棚醸げ∫〃(払‡.】

1786 AnquetiトDuperron(1731−1805),月ecゐ〝Cゐe∫ 紘才0γね〃e∫ eJ

gゐgr(ゆゐね〟e∫g〟γJ

∫乃ゐ,Berlin(

1789).

1787 Anquetil−Duperron,月ecあαCゐegゐ如orね〟どぶefg∂ogγ(ゆぁざヴ〟e∫∫〟γ J

∫〃ゐ に 4編の『ウパニシャッド』(0哩嘲朋融∴机勘助,0壬ゆ〝e崩df ね威u,0ゆ〝e肋αf』fゐr占∫αr,0ゆ〃e肋df&ゐαf)の仏訳を発表。/rCh.

Wilkins,乃e月旨ef坤αあげ】花eぶぁれ00一助珊叶

17舶 風−gαりα血∽,trad.enfran∈aisparM.Pouille(『バガヴァッド』

の仏訳)。

17細【カルカッタのアジア協会より,『シャクソタラ』のサンスクリッ

ト原典に基く英訳▲‰ど〃〝fαJα♂γJゐβ.わねJr吻(W.Jones訳)が刊行さ れる。/Riem,肋〃〟椚e醸ダ〝ゐcゐ〝Gβ∫Cぁゎ加β〟〃dぬ〝g才,Berlin.】

1790 BernardindeSaint−Pierre,エαCゐα〟∽オ∂re才〃ゐ〃乃g./東洋学

者Louis−MathieuLanglさs(1763−1824),国民議会に対し青年外国語学 枚EcoledesJeunesdelangues(1669年設立)の改革を進言。【上根e比ゐe∫

28

ネルヴァルと古代イソド思想の幻(Ⅱ)

d東砂り扇成功gね乙如月太助ワq′月払血雨脚,London】・

1791【GeorgFosterにより,W・Jones訳『シャタンタラ』に依るド

イツ語重訳刊行。】

1795 3月30日(共和暦3年芽月10 日)の法律政令により,パリに

現代東洋語特別学校Ecolesp丘cialedesLanguesOrientalesVivantes が設立された。

1798 Anquetil・Duperron,エ,J〝滋β〃γ(ゆク0γfαUgCJ甥〟γ坤e.

1799【W.Jones,∫ゐ【々α〃∫ざαd(英訳)。】

1801−1802 Anquetil−Duperron,0雀ゆ乃e烏,ゐαま(ペルシャ語訳『ウパニ

シャッド』50編のラテン語訳)。

1803『シャクソタラ』の最初の仏訳 ぶαCO,伽Jα 0〟J,α〃〃eα祝 ノbfdJ

(Jonesの英訳による仏語重訳。訳者Brugi色re de Sorsum.)

1805【英国の東洋学者Henry−Thomas Colebrooke(1765−1837)の

『ヴューダ』論。】

1808【FriedrichScblegel(1772−1829),『インドの言語と叡智』U古〝

ゐ鞄rdCゐβ〟乃dI偉才∫ゐeff血ゞ血滋γ.】

1810 8月8日オペラ座でPバヤデールたち』初演(〜1828)。rMoor,

撒鋸〃ゐ〃劫〝fゐe∽.】

1814 著名な東洋学者Sylvestre de Sacy(1758−1838)により,パリ

大学にサンスクリット語正教授のポストが創設される。

1818【W■ilhelm Schlegel(1767−1845),ボン大学でドイツ最初のサソ

スクリット語教授に就任。J

1823Jean−Denis Lanjuinais,エα 月e物言o乃 鹿∫ んdo〟∫ ∫eわ〃Jeざ

椛血ゐ,0〃』乃α妙∫gゐJ,0ゆ眠た,ゐαf,♪‡JみJf∂♪αγ〃.A叩舶沼−かゆe〝0乃

e乃柑02.【Wilbelm Scblegel,『バガヴアット=ギ一夕ー』のサンスクリ

ット語原文とそのラテン語訳を刊行。】

1825 Philalさte Chasles,エdガね〃C∠edeβ∂乃αγ〜g,〝混ざfgオ〃威g乃〃β∫.

1826

Horace

HaymanWilson

,ふね

cfed

gcf

e

g

f

ゐβ乃

ed

好古毎月加ゐ〟∫(一

1827

)仏訳

1828

】。

1828『子供の小車』エeCゐαγわf d e7巾乃£(Barond Ecksteinの仏訳)。

ノ1830 De Ch6zy(1773−1832),エdγβCO乃〃dオ∫ざα〃Ce滋助co〟乃fαJα./オ ペラ座で『神とバヤデール』初演(一1866)。

1832『バガヴァッド=ギーター』βゐ喝αりαd−G言f∂のLangulnaisによる

29

(8)

仏訳(W.Schlegel刊行の原本に基くもの)。/【MohanRoyによる『ウ パニシャッド』の英訳。】

1833 De Salle,&血伽軌巌㍍=物流./Henry−Thomas Colebrooke,

瓜ざαf5祝γJd♪ん言わ5坤ぁわ滋g月7乃血祝ぶ(仏訳)。

1836 エα 属お朋【々α〃f∫カαd,エα 肋刀(ね如 こゆα乃fgゐαd,trad.en fran;alS parPoley.

1β3β 8 9月,インドの舞姫バヤデール,/くり公演。

1840 エej娩毎αりαfα♪〟r∂〝α0〟月ねfoみg卯∂壇‡〟鹿めダcゐ〃α(Eugとne Burnouf

訳)。

1842

M

ry

,月ゐα(戯曲)。

1844 M占ry,エα」叩〃rダ壷(戯曲),エαG〃e〝β血Ⅳねd椚.

1848 Prince Soltyko庁,エビJ如∫∫〟r g

血滋./月な一打娩β〟Jオu柁鹿∫

砂∽〃β∫(サンスクリット語原典より Langloisが仏訳−1851。)。

1849

1849

年から

1853

年にかけて,

Eduard Roer

によりカルカッタ において《BibliothecaIndica》叢書10巻が順次刊行された。1849年

には,7職eβγオゐαdαγαり′d良αLや朗ねゐdd,《Bibl.Indica,2〉ゝが刊行され た。】

1850 M6ry,Nerval合作,『子供の小童』エビCゐdγオofd eゆ扉,オデ

オン座で初演。/【乃eCゐゐα〃ゐ幻′α【々α〝f∫ゐαd,岳d.Roer,《Bibl.Indica,

3二》;乃eTbオ助γかαα〃d』加αγ町α〔布α乃オ∫ゐαゐ,6d.Roer,《Bibl.Indica,

7》;乃e呑

α,属読闇,励≠ゐα,Pれび〃α,肋〃ゐ,ルねゲゐ砂αこやα〝ゐ血‡ゐ,

るd.Roer,《Bibl.Indica,8》.】

1851DuCamp,7七g8ノわγ.

1852 Leconte de Lisle,fわざ椚β∫α拙守〟e∫,Paris.

1853 Du Camp,逓∽0かど∫d,〟〃ざ〟オcム〟./【【々α〃fJゐdゐ,6d,Roer,

《Bibl.Indica,15》(me乃血γオンα,助αγみα,ふ諭血Ⅷ融和,磁乃α,

ムd烏αf毎,魚α5乃α,朗頑み鮎α戚ル仏ゆ拘昭り如加融通).】

1854 Cirque・Napoほon のサーカスに象登場。/H.Fauche 仏訳,

月α∽呼α〃α,♪0∂研β∫α乃∫ゐrダf滋Valmiki./【ふ娩扉厄,月rβg〃α,肋〃ゐ良α

d〃d脇〃戯良γα【加乃f血広,餌.Roer,《Bibl.Indica,5》.】

上記の略年譜から本論文に関連のある問題点を選び出して,若干の考察 を加えることにしよう。

6

.東方学の囁

ネルヴァルと古代インド思想の幻(Ⅱ)

17世紀から18世紀にかけて,フラソスの作家たちにとって,異国情緒

豊かなアジアの国といえば,まずトルコであった。ところがインドをめぐ る英仏両国間の抗争が深刻化するにつれて,ひとびとの間にインドに対す る関心が急速な昂りを見せるに至った。

1664年に設立されたフランスの束インド会社は,幾多の変遷を経た後,

デュプレの時代にその最盛期を迎えた。しかし七年戦争で英国の勢力に敗 北を喫すると共に,インド大陸におけるフランスの支配力は急速に衰えて 行った。このような状況下に起ったティッポ・サイプの飯乱は,フランス 人の関心を惹き,ボナパルトほ彼に援助を与えた。ティッポ・サイブの敗 北によって,昔日の栄光の回復は夢と消えたが,インドに対する関心の深 まりまでも抑えることはできなかった。

1755年から76年にかけて,30巻にのぼる,シナ,日本,インド,ペ

ルシャ,トルコ等々に関する近代史が刊行され,また1755年から58年 にかけてインドに旅をしたフランスの東方学者アンクテイル≦デュベロソ

(1731−1805)は,『インド旅行記』(1771),『ゼソド=アヴュスタ』(1771),

伊東方の法制』(1778),『インドに関する歴史的・地理的論考』(1787,4篇の

『ウパニシャッド』仏訳を含む),『イソドとヨーロッパとの関係』(1798),

・『ウプネカット』(1801−2,50篇の『ウパニシャッド』ラテン語訳を収録)

を相次いで刊行し,ヨーロブ/くにおける近代東方学,特にインド研究の基 礎を築いた。この他,ヴォルテールをはじめとする諸家の小説や戯曲にも インドの素材が用いられ,ド・マルシ神父の『シナ,日本,インド,ペル

シャ史』(1775),ダソヴィルの『イソドの古代地理』(1775),あるいは1778 年の『ユズル=ヴュダム』,ソヌラの『束インド紀行』(1782),プイユの『パ ガパッド=ギ一夕ー』仏訳(1788)などによって,インドの姿が次第にほっ きりと浮かびあがってくるのである。

一方,インド大陸に支配権を確立した英国人のインド研究も活流化し,

1784年英国人ウイリヤム・ジョーンズを中心としてカルカッタに「アジア

協会」が設立され,サンスクリット語原典の翻訳紹介の活動に当った。そ の最初の成果は,1789年刊行の『シャクソタラ』英訳であった。この間英 国でも,1768年にほドゥの『ヒソドスタソ史』,チャールズ・ウィルキソ スの『バガヴァッド=ギーター』英訳(1785),などが刊行されている。

このような機運をふまえて,1795年′くりに東洋語学校が生まれた。こ れほ東方学者ラングレや政治家のジョゼフ・ラカナルJoseph LAKANAL

31

(9)

(1762−1845)の提唱に基き,旧来の青年外国語学校(1669年設立)を改組 したものであるが,それによって東方研究が公的に認知されることになっ たといえる。こうして

19

世紀初頭には,フランスは東方学の中心となり,

のちにフランス・ロマソ派に影響を及ぼすことになるドイツ・ロマン派の 指導者フリードリヒ・シュレーゲル(

1772

1829

)も,

1802

年パリに留学 してインドの言語と文学について学び,その成果を『インドの言語と英知 について』(1808)と題して刊行したのである(これははじめてドイツで刊 行されたインドに関する学問的研究とされている)。またフリードリヒの兄 のヴィルヘルム・シュレーゲル(

1767

1845

)もまた,パリでサンスクリッ ト語を学び,1818年帰国して,ボン大学にドイツ最初のインド学講座を開 設,1823年には『バガヴアットギ一夕ー』の原文とラテン語訳を刊行し ている。4)

アンクテイル=デふベロソの後を継ぐ,フランスの東方学者達の中で注昌 に値するのほ,サンスクリット語の教授をつとめたアントワーヌ=レオナー ル・ド・シュジAntoine・L由nard deCH義zY(1773−1832,『シャクソタ ラ』の仏訳のほか,ペルシャの詩の仏訳等がある),ウージェーヌ・ビュル ヌフEugさne BIJRNOW(1801−52,1832年コレージュ・ド・フランスの サンスクリット語教授,1829−33年『ゼソダ=アヴュスタ』の仏訳・註解,

1840年『ノミ−ガグァタ=プラーナ』仏訳,1845年『仏教史序説』九如血√−

め〃∂J ゐダJねわ・e血み0〟d(娩才J椚eを刊行)などである。1816年9月に複 刊され1817年12月で終刊した♪〟γ〝αJ滋∫5buα扉∫のシリーズには,

シルヴュストル・ド・サシや,シナ学者のレミュザJean−PierretAbel

R貞MUSAT(1788−1832)らの東方の文学に関する16篇の記事が収録されて

いる。1821年にほ「パリ・アジア協会」Soci6t岳asiatique de Parisが

発足,1822年4月1日に総会がひらかれ,翌1823年に機関誌 《エe

わ祝r乃dJ』∫ダα 句〟e》が創刊された。また,1848年から1851年にかけて 刊行されたラングロワの『リグ=ヴューダあるいは讃歌の書』仏訳ほ,サン スクリット原典から訳出されたヨーロッパ最初のものである。1854年には フォーシュによりヴアールミーキのサンスクリット詩『ラーマーヤナ』の

仏訳が刊行されている。このようにして,時には英訳からの重訳を行ない ながら,フランスにおける東方学は19世紀の前半に急速な発展を遂げた のである。その結果,広大な神秘の国インドの思想・宗教・文芸が徐々に ヴェールをはがされて,フランス人の前に明らかにされて行った。つぎ

32

ネルヴァルと古代インド思想の幻(Ⅱ)

に,ネルヴァルに強い影響を与えたと思われる主題をいくつかとりあげて みる。

7

.『シヤクンタラー』の系譜

『シャタンタラーまたはアビジュニヤーナ・シャクソタラー』′5b烏〟〃fdJ∂

orノ4摘むカ∂gα烏む乃fαJαほ,カーリダーサの代表作である7幕の戯曲である。

狩に出たドゥフシャンタ王は,獲物を追ってカソヴァ仙の苦行林に入り,

シャタンタラーを見染める。苦行林に彿梱する悪魔を退散させるためにふ みとどまった王は,シャクソタラーも自分を愛していることを知ってよろ こぶ。しかし怒りの権化ともいうべきドゥルヴアーサス仙がやってくるの に気がつかなかったため,彼は呪いにかかり,シャタンタラーのことを全 く忘れてしまう。やがて王は宮殿に去り,シャクソタラーは苦行林を発っ て王宮に赴き,王に謁見するが,王は何も思い出すことができない。ふた りの思い出の品である指環を見せれば呪いが解けるのだが,シャクンタラ ーはそれを途中水に落してしまったので,見せることができないのである。

ひとりのこされた彼女に対し,王宮付きの司祭が,転輪聖王の吉相ある子 が生まれれば,後宮に迎えられるだろうという。しかしこの時天空から光 り輝く女形が現われ,シャクソタラーを掠って行く。やがて漁師がとらえ た魚の腹から宝石をはめこみ王の名を刻んだ指環を発見,王はこれによっ て忘却の呪いを解かれる。シャクンタラーを失って,憂愁に苦しむ王を,

イソドラ神の御者が天上に連れて行き,悪魔退治をさせる。その帰途へ−

マクータ山でひとりの勇敢な少年に会う。つまりそれが王とシャクンタラ ーとの問に生まれた子供のサルヴァダマナである。シャクソタラーとも再 会した王ほ,彼女と息子を伴って地上の王宮にめでたく帰還する,という のがこの戯曲の粗筋である。

この作品ほ,1789年ウイリヤム・ジョーンズがサンスクリット原典か ら,はじめて英語に訳出して,カルカッタのアジア協会から刊行した。そ の後1807年までの間に5版も重ねたことを見ても,いかに好評であった かがわかる。1791年にほジョーンズの英訳からのドイツ語重訳版がゲオル ク・フォスターによって出版され,1803年にほ同じくジョーンズの英訳

本をもとにプルギエール・ド・ソルサンが仏訳版助co〃fαJd O〟J

d

乃eα〟

ノbfdJ(『サコンタラ,あるいは運命の指環』)を刊行した。さらに1815年 には仏訳本をもとにイタリア語訳が刊行され,『シャクンタラー』の名は,

−躍全ヨーロッパにひろまったのである。ヘルダー Herder は,フォス

33

(10)

ターの独訳第2版に序文を寄せて絶課し,ゲーテもまたこれに着想を得て 詩を書き,さらにその脚色を企てている。1826年から1827年にかけて,

ホーレス・へイマソ・ウイルソソが2巻本の『インド戯曲選集』を出版 し,『シャクソタラー』の新しい英訳を試みている。フランスでは1833年,

サンスクリット学者のシュジが王室図書館所蔵の『シャクソタラー』のサ ソスクリット語テクストとその仏訳を刊行した。ネルヴァルの親友テオフ ィル・ゴーチエは『シャクソタラー』のバレー化を試み,1858年に完成。

同年7月14日にオペラ座で初演している。このように『シャタンタラー』

は,神秘の国インドの幻を鮮やかに示し,人々の心にインドへの憧れを植 えつけインド・ブームとでもいうべきものを誘ったものとして注目に値す る作品であった。ネルヴァルにとっては,おそらく神秘の指環の主題の典 拠の−つとなったものと思われる。l〉

8.インドの舞姫バヤデールBayad色re7)

1810年,パリのオペラ座はド・ジュイDEJouYの三幕物のオペラ『バ

ヤデール(インドの舞姫)たち』エg∫βの′dd〜re∫を上演,ナポレオンも観 劇した。このオペラは1828年まで上演された。インドに関心を寄せてい たこの作者は1813年には悲劇『ティッポ・サイブ』7抄0−助カブ占を書き 上げている。

1825年,フィラレート・シヤールPhilar如e CHASLESはトマス・ムー

Thomas MooRE

の『天使たちの恋』(仏訳,

1823

年)の第三歌にヒン トを得,さらに東方学者たちの著述を参考にして,小説『ベナレスの許嫁』

エα

j

町α〃

C e

滋β 〃α

r

〜∫を発表,前記のド・ジュイにこれを献げた。この 小説の末尾にほバヤデールに関する短い論考が付されている。

1833年,スクリーブScR柑Eの台本,オーべ−ルAt7BERの作曲になる

オペラ『神とバヤデール』♪わ〟e=αあの′αd∂γβが発表され,ダンスの場 面の振付をフィリップ・タリヨーニ Philippe TAGLIONIが担当,娘のバ レリーナ,マリーMarie TAGLIONIがゾロエZoloるの役を踊った。『神 とバヤデール』という表題を見れば,すぐさまゲーテの詩『神と舞姫』か〝

G¢ff〟〝dゐ句わゐreが想起される。ゲーテはフランス人ソヌラの『東

インドおよびシナ紀行』(1782;独訳1783)を典拠として,この詩と「バ リア」月〝ね(1821−23)と題する詩とを書いている。実ほこれらの詩が,

前記のド・ジュイならびにスクリープのオペラの素材となっているのであ る。

34

1835年5月23日,ネルヴァルは祖父の遺産を元手に週刊の雑誌「演劇

界」エビ肋〝ゐあα椚8均〝eを創刊した。ゴーチエ,アルフォンス・カー ル,ヂさ・マ,ベルリオーズ,ロジェ・ド・ボーグォワール,プーシャルデ ィ,ギきスタヴ・プランシ′ユ,アルポワーズ,H・エグモソらが協力した。

この雑誌は1糾1年まで合計16巻が刊行されることになるが,資金難の ため翌年

6

月には早くも人手に渡ってしまったものである。従ってネルヴ

7

ルの手によって出版さたのほ第

1

巻(

1835

)と第

2

巻(

1835

)だけという ことになる。ところでこの「演劇界」の第1巻に《『子供の小事』エgCゐαr−

r

如【∫ゐ】

d

坤〝

f

》(

pp

80

83

416

418

)と「インドの踊り子たち」

bs Danseuses del Inde(pp.161−163)という,ふたつの無署名記事

がおさめられている。

前者,つまり 《『子供の小寺』》 と題する記事ほ,エックスタイソ男爵

barond Eckstein

1790

1861

)が,自らが創刊した雑誌「ル・カトリッ ク」エβ(勘助萌坪の第

11

巻(

1828

7

9

月号,

pp

80

132

360

405

)に発表した,スードラカ王作『ムリチチャカテイ,あるいほ子供の小 卓』の二つの断章を収録したものである。

後者は,無署名であるが,おそらくネルヴァルの手になるものと考えら れる。その中で彼は,オランダの探険家ハーフナー 

HAAFNER

の恋人で,

彼を救うため自ら溺死したイソドの踊り子(バヤデール)マミア 

Mamia

と,スーダラカ王作『子供の小車』の女主人公ヴァサンタセーナーとの問 に似通った点のあることを指摘している。ただしこの記述にほ若干の誤り があり,ハーフナーの『インド西部半島およびセイロン島紀行』れγαge

血〃ざJα〆〃ど乃∫〟Jeoccブ滋〝fdJe滋J 血滋efdα〃∫J,言ね壷CセfJα〃(2vol.,

trad・enfrancais,1811)でほ,この踊り子は難破した時にハーフナーの

命を救ったが,死んだのはそのあとのことだと書かれている。しかしここ でほインドの踊り子と『子供の小革』の女主人公とが混然一体となって把 握されていることに注目すべきであろう。−方

1835

年の「演劇界」第

2

勤こは女優ジェニー・コロン評が掲載されている(

pp

345

6

,無署名)。

彼女はこの頃すでにヴァリュテ座,ヴォードゲィル座,ジムナーズ座など で活躍しており,翌年にはオペラ=コミックの晴れの舞台をふむことにな る。ネルヴァルはおそらく

1833

年,ジェニー・コロンがヴァリュテ座で 喜劇『ユダモソ夫人または彼女はふたりか?』に出演している時に,彼女 に注目したものと思われるのであるが,この時期に彼女を主人公とするオ

(11)

ベラ『シバの女王』Jα月βJ〝e鹿▲鮎∂αの構想を練り,王立図書館など で資料漁りに熱中していた。結局この作品ほこの時実を結ばなかったが,

1855年ネルヴァルが死の直前にしたためた自筆全集案の中に《『シバの女

王』5幕,アレヴィ》とあるように,その構想は終生彼の心をとらえて離 れることはなかった。ここにもまた東方の女王という主題がみられ,1830 年代の中頃,ネルヴァルがいかに強く東方に惹かれていたかがよくわかる のである。

1837年11月27日の「プレス」紙に,G・Gの署名入りでオペラ座の

『神とバヤデール』評を発表。

1838年8月,憧れのインドの舞姫《バヤデール》たちがパリにやって

来る。おそらく当時ヨーロッパを風廃していたインド・ブームに乗って,

パリ・ヴァリュテ座での公演が実現したのであろう。一行は計8名。年の 頃18歳位と思われる舞姫アマニAmaniを筆頭に,14歳位の少女2名,

実際には30歳位と思われるが50歳に見える女性1名,6歳の少女1名,

都合5名の踊り子と,男の楽師3名。公演は短期間で,9月5日までに 僅か6回しか行なわれなかったが,大成功を博した。なお公掛こ先立っ て,彼女たちの滞在したシャンゼリゼのアレー・デ・グーヴ23番地の宿 舎で,ジャーナリストを対象にデモンストレーションが行なわれた。ゴー チエらと一緒に招かれたネルヴァルほ,早速「メサジェ」脇∫∫αgeγ紙の

8月12 日号にG−Dの署名入りで《パリのバヤデールたち》LesBa−

yadとresaParisと題する記事を発表。その中でつぎのように述べている:

《Dansla piとce voisine rるsonne un doux carillon m釦allique

qulrappelle anotre pens丘eles clochettes d or delacourtisane

Vasantasena,1,hるroinedudrameindienpubli岳derniとrementpar

W・Jones:《Vousfuyez,Vasantasena!s

丘crie《1

amiduprince》

Shamぬkaquilapoursuitdanslanuit;VOuSfuyez!maisl odeur

de votre guirlande,etle bruitdesclochettesdorsuspendues

auxchevillesdevospiedstrahissentvotrefuite,SOngeZ−ybien!》

Nou$penSOn$auSSiacetteravissanteMamia,dontles aventures

Ont釦岳cont卓esparlevoyageurHammer(Sic),′Mamiala滋ue−

ゐ∫∫e壬qulSenOyaSitristementensauvantlesJOurSd,uno伍cier

anglais qu,elle aimait!Nous pensions encorealaZundov主re 36

ネルヴァルと古代インド思想の幻(Ⅱ)

de Thomas Moore,a Lalla Roukh,Cet ange tranSform岳,tOuteS les腰地e亡 び〃e肋オね nous revenaient dans ce quart d heure

d,attente…》8)

《隣室で快い金属製の鈴の音が鳴りひびいたが,それほ私に,最近W・

ジョーンズが刊行したインドの戯曲の女主人公であるヴァサンタセーナ ーの黄金の鈴を思い起こさせた。「ヴァサンタセーナー!お逃げなさい」

と,シャムスタカ王の友人が叫ぶ。彼ほ宵闇の中彼女の後を追ってきた のである。「逃げるのです!でもあなたの花飾りの香りと,あなたが踵 につけている黄金の鈴の音とで,あなたが逃げて行くのがわかります。

そのことをよく考えて下さい!」われわれほまた,探険宏のハンマーが 語っているあの素晒しいマミアに患いを馳せる。あの 《舞姫》のマミ アのことを。彼女ほ自分の愛していた英国の士官の命を救うため悲しく も溺れて果てたのである!われわれほさらに,トーマス・ムーアがうた ったゾンドヴェールや,姿を変えた天使ララ・ルークに想いを馳せてい たのであった。つまり待っている

15

分ほどの問に『千一夜』の全体が われわれの脳裡に建ってくるのであった。》

この文章にも前述の「演劇界」誌の記事(1835)にみられたいくつかの 思い違いが認められる。9)第1に《最近W.ジョーンズが刊行したイン ドの戯曲》 というのは,1789年にジョーンズがサンスクリットの原典に 基いて英訳したカーリダサの『シャクソタラーあるいほ運命の指環』のこ とであって,文中の《遊女ヴァサンセーナー》は,シュドラカ王の作と 伝えられる10幕物の戯曲『ムリッチャカテイカーあるいは土の小藩』(『子 供の小車』とよばれることもある)の女主人公である。『子供の小車』の方 は,

1826

年から

1827

年にかけて英国のホーレス…へイマン・ウィルソソ が刊行した『インド戯曲選集』で紹介され,翌28年これをラングロワが

仏訳して出版(Cゐ¢−d,α肌γe血fゐ占占師オ〝ゐ〝,1828,pp.1−184),エッ クスタイソ男爵も1828年の「ル・カトリック」誌で仏訳を発表している。

乳2の思い違いは,舞姫マミアが命を助けたのはオランダの探険家ハーフ ナーであって,英国士官ハンマーではない。文中のハンマーは,オースト リアの宮中顧問官を勤めたヨーゼフ・フォン・ハンマー=プルクシュタール

Joseph von HAMMER−PuRGSTALL(1774−1856)のことで,彼はフランス

人のガラン月こよって発表された『千一夜物語』の仏訳(1704−17)のあと を引き継いで未訳の物語と逸話の仏訳紹介に当り,1828年に 町千一夜」

37

参照

関連したドキュメント

     ー コネクテッド・ドライブ・サービス      ー Apple CarPlay プレパレーション * 2 BMW サービス・インクルーシブ・プラス(

(It is a standard convention to denote the unique line on two distinct collinear points x and y of a partial linear space by the symbol xy.) A linear space ðP ; LÞ with all lines

Linares; A higher order nonlinear Schr¨ odinger equation with variable coeffi- cients, Differential Integral Equations, 16 (2003), pp.. Meyer; Au dela des

The construction of homogeneous statistical solutions in [VF1], [VF2] is based on Galerkin approximations of measures that are supported by divergence free periodic vector fields

OFFI CI AL SCORE CERTI FI CATE GTEC (4技能) (CBT可). Test Repor t For m I ELTS™(Academi c

Dans la section 3, on montre que pour toute condition initiale dans X , la solution de notre probl`eme converge fortement dans X vers un point d’´equilibre qui d´epend de

Comme en 2, G 0 est un sous-groupe connexe compact du groupe des automor- phismes lin´ eaires d’un espace vectoriel r´ eel de dimension finie et g est le com- plexifi´ e de l’alg`

Q is contained in the graph of a