青年訓練所反対運動の論理と実践←)
(39)青年訓練所反対運動の
論理と実践(一)
大 串 隆 吉
1. 青年訓練所の本質
1916年に設立された青年訓練所は,青年教育機i関の中で完全な軍国主義教育 の機関であった。それは,軍国主義のイデオロギー教化と同時に軍事教練の機 関であることによってそうであった。第一次世界大戦は,日本の軍部に大きな 影響を与えた。第一次世界大戦の特徴の一つは,戦争が国家総力戦という新し い形態をとると共に,戦車,飛行機という近代兵器が登場したことであり,他 の一つは,ロシア革命やドイツ革命の際の兵士の反乱にみられる国民皆兵制度 の矛盾の爆発であった。エソゲルスが「プロイセソ軍とどう闘うべきか」で指 摘していたように,侵略のためには国民皆兵制度をとるのが有利であるが,皆 兵の故に軍隊外の政治の動向が軍隊に反映しやすく,国内の治安対策のための 軍隊には不適当であるという矛盾を,国民皆兵制度は持っていた。国内の治安 対策のためには,長期にしこんだ思想強固な軍隊でなけれぽならないのであ
る。こうした第一次世界大戦にあちわれた特徴を日本の軍部は敏感に受けとめ
た。
そのあらわれとしての政策は,第一に,1912年4ケ師団を削減し装備の近代 化を計ったこと(航空部隊と戦車部隊の創設)。第二に,軍部が政治・経済・
教育の分野で主導権を確立する努力をはじめたことであり,第三に,戦時にお
いて動員可能な兵力の養成を計ったことである。その具体化は,特に第二以下
にかかわるのだが,「国軍の要素をなし,戦時には充員のため召集せられて軍
隊に復帰する」在郷軍人会の強化であり,壮丁までの青年の予備軍事教育であ
る。在郷軍人会は,組織が町村にまであったから,「良兵」=「良民」という 位置づけで軍部の先兵として市町村に影響力を持つよう位置づけられていた。
1915年の在郷軍人会規約の改正は,こうした第一次大戦後の状況に見合うため の大改正であった。すなわち, 「従来本会ノ規約ヲ改正セシコト前後五回二及 ビタリト難モ固ヨリ小局部ノ修正二過キスシテ未タ現在ノ如キ規模ノ拡大ト時 運ノ推移トヲ商量考慮セシモノニ非サルヲ以テ能クコレニ適応シ得ル如ク規約 (1
ヲ改正スルハ更始一新ヲ斯スル」ものであった。 「時運ノ推移」とは,次のよ うなことである。
「韓近文化大二普及シテ国民自治ノ精神ヲ向上シ加フルニ大戦後世界思潮ノ余波ヲ受 ケテ内外ノ状勢ハ異常ナル変化ヲ来シ国家社会二対スル本会ノ責務ヲ重大ナラシメン コト倍徒モ留ナラス其ノ施設如何ハ直接国運ノ消長二関スルコトトナリタルヲ以テ之 二順応スヘクー面二於テ世界大戦ノ経験ハ益々吾人二国民皆兵ノ必要ヲ教へ国防ハ国 民全体ノ連帯ナリトノ自覚心ヲ与へ戦闘ノ原則モ亦戦闘群戦法二移リ戦場二於ケル勝
敗・主因…二瀦舶・醗二勘儀牲心二依,レモ,ト深轍訓シ91
軍部が第一次世界大戦を思想・軍事の面で如何にとらえていたか明瞭にあら われている。戦闘群戦法に変化した事は,自覚的に働き,兵士を統率する優秀 な下士官を必要とする。この要求は,国民皆兵をより実質化するねらいと重さ なって青少年の軍事教練を具体化させた。この規約改正に際し,青年の軍事教 練が翌1916年からおこなわれるのを見越して一「将来実現セントスル青少年訓 練ヲ予期シテ」一その事業に「青年団ノ誘抜指導二関スル事業」を加えたの は,その表われである。そして青年訓練所令の公布と共に1928年の規約改正に おいて「青年訓練所ノ訓練ヲ智助」することが,事業に加わった。こうして軍 部は在郷軍人会を通じて青年訓練所の教育に指導権をにぎろうとしたのだが,
1915年の規約改正が青年訓練についての諮詞第7号として文政審議会に提案さ
れる以前におこなわれたことは,文部省とは別に軍部独自に青年教育の支配を
進めようとしたことを物語っている。
青年訓練所反対運動の論理と実践(一)
(41)青年訓練所が予備軍事教育機関であり,軍部の要求で作られた事は,文政審 (3)
議会の分析によってあきらかにされているが,法的にみると軍部との関係はよ り明瞭になる。1926年9月に勅令第312号として改正された陸軍省官制に徴募 課が設けられ,徴募課は「学校教練及青年訓練二関スル事項」の事務を掌握す ることになった。この事は,青年訓練所が予備軍事教育を主目的にしていた事 を明確にするものであるが,「陸軍大臣ハ現役将校ヲシテ青年訓練所令二依リ 設置シタル青年訓練所二於ケル教練ヲ査閲セシムルコトヲ得」という勅令第87
号に基づいた「青年訓練所教練査閲規程」(1916年6.月),「青年訓練修了者検 定規程」(同年11月)によって,軍部の青年訓練所に対する支配が具体化され た。「査閲規程」は,陸軍省が直接各地青年訓練所の状況を把握すると共に,
(4)
青年訓練所管理者に対し意見を述べることを可能にし, 「検定規程」は,青年 (5)
訓練所修了者の兵士としての資質の評価を軍隊が持った事を意味した。又,教 育内容に関して言えば,青年訓練所令において,青年訓練所の教育内容に関し
て文部省ぶ決定できるのは, 「普通学科及職業学科ノ科目」 (青年訓練所令,
第5条)であって,教練の内容の決定は注意深く文部大臣の権限から除いてい たのである。教練の内容は,陸軍省が決定する事だったのであり,それは「検 (6)
定規程」の「附表第一,教練程度表」によって基本が作られていた。したがっ て教練に関するかぎり,その内容の決定と実行程度の如何を調査する事は,陸 軍省の権限だったのである。
以上のように,青年訓練所は,予備軍事教育機関として陸軍省の管轄下にも あったのであり,青年訓練所令では文部省の管轄下にありながら,他の法律に
よって陸軍省がその権限の一部を握ったのである。その意味で,軍部は,青年 大衆の軍事訓練に関する権限をつかむことに成功したのである。この事は,予 備軍事教育機関としての青年訓練所の独自性から見れぽ,決定的な事であっ
た。
2.反対運動の方針をめぐって
青年訓練所の設置に対し,全日本無産青年同盟,日本農民組合青年部,水平 社青年同盟等の青年団体は,ただちに反対運動にたちあがった。ここでは,後 にのべる実践との関係から全日本無産青年同盟と日本農民組合青年部の線に限 ってのべるQ
全日本無産青年同盟は,青年訓練所は公民教育の機関であるという政府の宣 伝にもかかわらずその本質を見抜いていた。第2回大会の方針書(1927年)は,
「支配階級のあらゆる弁明にもかかわらず青年訓練所4ケ年の課程の中その大 半が軍事教練に費されている」ことを指摘し,「青少年の軍事的教練を青年訓練 所に於て行なはなんとしている」と述べた。軍事教練の目的は,「来るべき国 (7)
際戦争の為にそして又更に国内無産階級の拾頭に備えんため」であると指摘し た。すなわち,第二次世界大戦に備える兵力の養成機関であり,又そのことに よって拾頭する労働。農民運動から青年を切り灘し,それに敵対させるという 2つの目的をもった軍事的教練機関と青年訓練所を規定したのである。それ は,まさに青年訓練所の本質を見抜いたものであり,歴史の進展はその正しさ を証明したのだった。
青年訓練所反対の運動は,軍国主義反対運動の…環として位置づけられた。
「この軍国主義に対する闘争,無産青年運動の努力の大半を傾注しなけれぽな (8)
らぬ所の反軍国主義運動こそ……我同盟の当面の任務でなければならぬ。」も ともと国際的には,プロレタリア青年運動発生の重要な要因の1つは,反軍国 主義運動であった。軍国主義は,多量な青年を優良な兵士として,肉弾として 組織することを要求したからである。特に中国侵略と国際戦争の危機という状 勢に応じて,我が国の青年の反軍国主義運動は緊急さを要求されていたのであ
る。
だが以上とは異なった位置づけもみられるのである。すなわち青年訓練所に
対する闘いは,反軍国主義運動の中で「ファシ・的運動に対する闘争」とも位
青年訓練所反対運動の論理と実践e)
(43)置づけられていた。全日本無産青年同盟第2回大会で決定された方針の他の部 分によれば,反軍国主義運動は「軍国主義に対する直接の闘争と,その補助的
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政策としてのファシ・的運動に対する闘争」に分けられていて,青年訓練所に 対する闘いは後者として位置づけられていた。「軍国主義に対する直接の闘争
」とは,兵役短縮,兵卒の人格権確立等の闘いと中国侵略反対運動であり,
「ファシ・的運動に対する闘争」とは「政府の軍国主義政策と不可分一切の反 動予備軍結成政策に対する闘争」である。こうして青年訓練所は,「ファシ・
的施設」と性格づけられる。ここでいう「ファシ。」とは,「必然に専制と官 僚的支配を現わさずにはおかない」という意味である。又青年訓練所は,「ブ ルジ・ア的青年組織体」とも呼ばれており,青年団と同じ位置におかれていた
。青年訓練所では専制と官僚的支配が生じるのであるから,そこでの闘いは「
e
当面所員の自由的要求,並びに主事,指導員等によって現わるる専制的官僚支
配に対する反抗」(傍点筆者)を課題にすることになる。このような把え方は,
先に述べた軍事的教練機関というとらえ方とは異なっていたのであって,同じ 文書の中でちがいがあったのである。
このちがい一後者のような把握が,最も端的にあらわれていたのは,「政治 批判』1929年9月号に載っf5高橋春二論文「青年訓練所に於て如何に闘争すべ
きか」である。高橋論文は,青年訓練所のねらいを次のようにのべている。少 し長いが引用してみる。
「我々は如何に彼等,支配的ブルジョアジーが口を極めて弁明これに努めようとも,
青年訓練所の施設が,青年教育に対する専制的軍国主義的進出であることを否定せん とする試みをも許容するものではない。
併し乍ら,而も,彼等の言辞の中に,この青年訓練所の施設が決して単なる軍部の
専制的軍閥の意図のみより出つるものでなく,より以上に,帝国主義ブルジョアジー一
の遠大なる政策より由来するものなることを見逃すことも出来ない。一中略一かくし
て青年訓練所は,先づ第一に,「国家秩序」を維持せんがために,r国家公民』として
の青年の資質を向上せしめんとするものであるが,第二には,それは,r一国産業に 及ぼす影響』を考慮し,産業能率の増進に努め主従の関係を明らかにして,労資の協 調を説かんとする点に於て,完全に大ブルジョアジーの要求を遂行するものである。
試みに見よ,如何に彼等が青年の一般的訓練をr公民としての教育』を,軍隊的に
遂行せんとしているかを。而も,このr教練』が青年訓練所に於て行なわれる所以は
■ コ e e ■ e e ■ e
さきにみた通り,わが青年各人を,国外の敵に向うべき有能なる軍人を仕立て上げよ
の の ■ e の ■ e
うとするのではなく,所謂r国家公民としての資質を向上せしむる』r青年の一般的
■
訓練のため』に資せんとするものである。1
この論交では,青年。川練所は軍事的教練機関ではなく,公民教育の機関として とらえられ,しかも「大ブルジョアジー」の「専制的支配」をその管理の特徴と するから,青年訓練所に対する闘いは「民主主義獲得の闘争」としてのみ考え
られた。したがって「青年訓練所の自治化」を方針とすることになった。高橋 論文における青年訓練所の把握と全日本無産青年同盟の方針書における「ブル
ジ。ア的青年組織体」という把握の類似を指摘することは容易である。高橋論 文の把握は,青年訓練所を規定した政治権力の分析において福本和雄の分析に
(11)
依拠したものだった。全日本無産青年同盟第2回大会の開かれた1927年の11月 という時期は,「左翼労働運動」が福本イズムの克服をめざしていた時期だっ たから,2つの把握のちがいがあらわれたのである。このように考察してみる (12)
と,宮原誠一・宮坂広作「青年期教育の歴史」の如く青年訓練所反対運動にお いて高橋論文をその代表的なものとしてあつかい,無条件的に高く評価しした のに対し疑問を持たざるをえない。
しかし,いずれにしろ青年訓練所自主化が方針であった。すなわち「自主権 (13)
獲i得のための闘争,その生徒による管理権確立要求の闘争」である。この方針 について,後に「『所謂』自主化のスローガソも,青年の日常利益の問題と結 びついて,役立ちうるのであり,また自主化した後の運用をうまくしなければ (14)
ならぬ。そうでないと,自主化の後に消滅してしまったりする。」という指摘
青年訓練所反対運動の論理と実践(→
(45)がなされた。これは,自主化方針の弱点を指摘した事を意味する。すなわち,青 年訓練所を自主化し,その軍国主義的教育内容をなくした時,実業補習学校に (15
対しても「補習学校職業学校の増設と之が生徒による管理権の確立」をかかげ ていたのだから,同じような青年の教育機関が二つ存在することになる。した がって,一方をなくすか,統合しなけれぽならなくなると考えられるのである が,いずれにしろ青年訓練所と実業補習学校との関係が,政府で問題になった と逆の意味で問題にされねばならなかったのである。青年大衆の民主的な教育 機関の確立の問題である。だが青年訓練所自主化方針の弱点を感じながらも,
そこまでつっこんで問題にされなかったのであるQ
次に日本農民組合青年部の方針について述べる。日本農民組合青年部は,青 年訓練所を第一に軍備充実を計るための軍事教育の機関であり,第二に軍国主 義思想を教えこむことによって農民運動の進展を阻止するものだと把握した。
この点では,全日本無産青年同盟と同様である。そして,入所して軍国主義思 (16)
想と闘い,未組織青年を組合に組織することを決めた。
しかし,執行委員会内部でボイコットと入所賛成の意見が対立し,1926年9月 19日の拡大執行委員会で再討議がおこなわれ,入所するよう再指令を出すこと
が決められてし蹴そ塒のボィコ。ト賛成理齢源則として入所するに反
対しないが,入所して何等活動出来ざるのみか,却ってミイラとりがミイラに なる危険があり,先づボイコットして教育運動を進め,然る後入所するのが可 と思う。」ということだった。また入所賛成理由は,「ボイコットして教育運動 は出来ない。訓練所へ這入って,それを批判し闘争することによってのみ教育 は可能である。危険のみ考えて運動の精神を忘れるのはよくない。そして入所 するのはぶっこわすのでなく,無産青年のための訓練所にするためだ。(自主 権獲得),ボイコットするのは闘争を忌暉しようとする農村青年の傾向から発 する声であることを注意しなけれぽならぬ。農村青年の非活動的なるを見て,
これをうまく指導しなければならぬ。」ということであった。要するに戦術論
をめぐる問題だったと言える。
1927年2月,大阪で日本農民組合青年部第2回全国大会が開かれた。そこ で,先に述べた青年訓練所の把握に基づいて青年訓練所廃止を綱領に入れる事 を決定した。何故,廃止の方針をとったかわからないが,実業補習学校との関 係からみると「補習教育の無産階級化」という方針をとっていたから,全日本 無産青年同盟のようなあいまいさはない。
1928年4月,全日本無産青年同盟は,労農党,労働組合評議会と共に解散を 命ぜられ,その後非合法組織として日本共産青年同盟が再建された。共産青年 同盟は,青年訓練所廃止を方針とした。その理由は,同盟の合法機関紙「無産 青年」昭和4年3月15日一号に掲載されたt「青訓自主化」のスローガンに就い
て.という投稿によってわかる。「無産青年」編集部は,これを討論に計るた め載せたが,これに対する批判はないので,これを共産青年同盟の見解とみな
してよいo
この投稿は,「従来吾々は,r青年訓練所』(また在郷軍人会)に対してr自主 化』のスロ ・一ガソを掲げてr獲得』の方向で闘って来た。しかし,これは確か
に誤りである」とのべ,その理由をあげている。青年訓練所は,第一に「参謀 本部や陸軍省の将軍連の命令下にあるブルジ・ア的軍事教練機関」であり,第 二に「対外的に戦争準備のための対内的に反労働者(ストライキ破り等々)の 機関,即ち国家の抑圧機関の一部」だからである。すなわち,青年訓練所は,
軍部の支配下にある国家機関の一部であるから,自主化して青年のものにする ことはできないので廃止する以外にはないと言うのである。全日本無産青年同 盟の時とのちがいは,青年訓練所を支配している者を明らかにした事であっ た。全日本無産青年同盟は,確かに(混乱はあったが)青年訓練所の本質を鋭
く把握したが,軍部の支配下にあることを明らかにできなかった。
こうした方針転換をもたらしたものは,福本イズムの克服と,青年訓練所の
実態に対する認識だったとおもわれる。後に述べるように青年訓練所は,軍隊
青年訓練所反対運動の論理と実践←う
(47)との合同演習等をおこなっており,「吾々は訓練所全体が,このr自主化』に 賛成して自分達の指導員を選んだ例を知っている。この時,在郷軍人会の顔役
とか連隊司令官はすぐブッ潰しにとりかかった」(前掲)ような状態だったか ら,青年訓練所を直接支配しているのは誰か,明らかにする必要があったと考 えられる。廃止のための行動は,どのように考えられていたのだろうか。それ は (1)入所している青年が受ける様々な負担の要求をとりあげて闘い,(2)青年 訓練所に反対する青年の全国的組織を作り,(3)組合青年部や共産青年同盟のお こなう反軍国主義運動に参加させ,④同盟の組織を拡げるという方法で,青年
(18
訓練所を廃止させることであった。しかし,後に述べる実践例からわかるとお り,こううまくはいかなかった。 /
さて,青年訓練所廃止の方針をとることによって実業補習学校は,どのよう に考えられていたのだろうか。共産青年同盟が,全国農民組合青年部結成(1929 (19
年)に際し,参考のため提案した全国農民組合青年部綱領によって知ることが できる。この綱領は,義務教育の延長等,相当突っこんだ教育に関する要求をし ているが,実業補習学校に限ってのべてみる。まず現在ある実業補習学校は廃 止して,貧農青年,農業労働者を中心とする補習学校を作る。財政は,国庫,
地方公共団体,地主の負担とする。内容は,近代的技術教育と理論教育をおこ なう。学生には,教育時間に相当する手当・生活費を支給するか,労働時間に 教育時間を加算する。生徒委員会及び組合による学校管理権を獲得する,とい う要求だった。ただし,青年訓練所の年限が20才までだったからそれを廃止し た場合,20才までの青年の大衆的教育機関をどう構想するか,例えぽ補習学校 のような青年教育機関の年限延長の要求はない。
全国農民組合は,1928年5月に日本農民組合と全日本農民組合が合同して結 成された。この組織も,青年訓練所廃止の方針をとった。
3。青年訓練所の実際と反対運動
青年訓練所設立当初,その設置は,国民からあまり歓迎されなかった。富山
県では,県下260余ケ町村のうち3分の1以上が反対し,町村長総会において
反対決議をしたといわれ,反対決議までしなくとも地方自治体ではその設置に 躊躇したところがあった。例えば,新潟県の状態について新潟時事新聞は,
「寺田郡視学縮み上りの幕」と次のように伝えている。
「来る七月一日から県下各地に開所される青年訓練所について具体的設立方針を協議 するを主題として郡市視学会議は夕刊所報の如く秘密会として開かれたが席上,寺田 中蒲原郡視学より青年訓練所を出た者の在営短縮期間がはっきりしていない現在に於 いて地方町村費の負担を過重ならしむるに過ぎぬ青年訓練所はよし設置されたにして も入所希望者がないのではないか,と半ぽ拒否的意見の開陳ありこれに対し古賀新潟 医大軍事教官は割鐘のような大声で,そんな事はないツ,現在,医大でも昨年十八名 軍事教育を受け,その中一名しか入営しなかったがそれでも生徒は喜んでいる国家危 急存亡の秋ぢゃッ,と怒鳴りつけ会集のみならず庁内に執務していた一同をビックリ
(20)仰天させた。」
東京府では,応募する青年が少なく,青年団に協力を依頼してかきあつめ,
(21)
開所日にまにあわせるという状態だったし,埼玉県下の一青年訓練所では,制 (22)
服のおしつけに反対する動きがあった。
こうした青年訓練所の評判がよくない状態の下で,各無産青年団体はどのよ うな運動をしたのか。時期は2期に区分できる。前期は,青年訓練所が設置さ れた1926年7月から1928年4月の全日本無産青年同盟の解散まで。後期は,
1928年5月の全国農民組合結成以後である。
前期で最も有名なのは,長野県下伊那地方におけるそれであるが,紹介され
(23)
分析されているのではぶかせてもらい,この時期では新潟県本崎村をとりあげ る。その他,例えぽ全日本無産青年同盟がかかわった反対運動では,この時期 宮城県と青森県でおこっている。第2回大会の活動報告書によれば,
「宮城県支部に於いては原町青年訓練所教官,庄司教官は非常に専制的でそれに対す
? マ
る排撃の運動。主至(自主化?)運動を展開している。 、
青森に於いては県の反動計画として秋の演習に全訓練所を動員しこの成績さえよけれ
ぽ,全県下に渡って施行しようとした県当局に対し大衆的抗議運動と訓練所内部の自
青年訓練所反対運動の論理と実践(→ (49)
(24)
主化運動を続けつつある。」 1
しかしながら,全国的闘争になっていないとこの報告書は述べ,その理由と して (1)青年訓練所が不成績であることからくる軽視,(2)同盟が「揺藍期」だ ったので力量が不足していたことをあげている。
後期は,長野,三重,大阪,青森,山梨,北海道でとりくまれたが,ここで は青森県をとりあげてみる。
(1) 新潟県木崎村の場合
①新潟県における青年訓練所
青年訓練所令公布以前,新潟県は中等学校の軍事教練に熱心であった。一般 教練だけでは不充分なので,各校に射撃場を作るよう指示したり,銃器の予算 に116,000円余り計上したり(銃器の中には軽機関銃,重機関銃が含まれてい る),新発田練兵場で中等学校生徒,在郷軍人会,現役兵の連合模擬戦をおこ なったりしている。しかし,先述したように青年訓練所の設置に際しては,財 政の負担増大から危倶を持ったものもあり,結局次のようなことに落ち着いた。
「国庫配当の,三万一千円一ケ村当り七十余円では独立した青年訓練所を置くことは 財政的に既に至難であり,又独立新設しても入所する青年は多く既に補習学校に入っ ているので問題にならず,結局県下の現状に鑑み青年訓練所は兎に角新設し,将来は 補習学校を基礎としてそれに併置するに決,尚公民教育を徹底せしむる為,従来の補 習学校の教授課程を一部変更し四ケ年間に四百時間の軍事訓練を在郷軍人団と連絡を (25)
とって行なふことに意見一致を見」
実際,単独設置の訓練所は申し訳程度にしかなく,圧倒的多数は小学校また は実業補習学校併置であり,実業補習学校充用のものが増える傾向にあった。
新潟県公立青年訓練所統計
轟鰭雀鑛灘習単独設置鑛灘習 計
大正15年 452 62 2 36 552
昭和 2年 421 42 0 100 563
(新潟県統計書 昭和2年度)
こうした事情について,昭和2年5月30日付新潟時事新聞朝刊は次のように
のべている◎
「本県に於ける青年訓練所は五百を算し全国有数の成績を誇っていたが,その後訓練 の実施に伴なひ補習学校の設備と重なる事が種々発見され,一面町村としては補習学 校と青年訓練所と両校の負担に堪へ兼ねるものが出ずる反面に,青年としても補習学 校の研究科に在学するものは青年訓練所の入所年齢に該当し,1人で双方に籍を置く 事の無益なことが判明したので続々青年訓練所を廃止し,補習学校の学則の一部を改 正して充用せんとするものが出で……この結果,補習学校を青年訓練所に充用するも のは四五ケ町村となったが,この風はやがて全県下に及ぶものとみられ,近き将来に於 て恐らく補習学校を有する町村は全部独立の青年訓練所を廃するに至るべくみられて いる。」(「補習学校を訓練所に充当,併立は経費の点で困難県でも認可する方針」)
青年訓練所の実業補習学校充用を促進した理由は,町村の財政難が青年訓練 所が本来持っていた矛盾に拍手をかけたものであると言える。
青年訓練所はどのような事をやっていたかというと,陸軍省が決めた訓練内 容だけでなく,実弾射撃訓練,行軍演習,合同演習をおこなった。合同演習で (26)
最も代表的なものは,「長岡市戦場化す三千名の青年が」と報じられた合同演 習であろう。これには長岡市内の中等学校生徒,在郷軍人会,青年訓練所生 に,新発田連隊から多数の将校,兵士が機関銃,大砲を持って参加し,2日間 にわたっておこなわれた。これは,陸軍演習のミニ版のようなものだった。ま た青年訓練所指導員の講習は,各連隊区毎(新潟県は,高田連隊区,新発田連 隊区の2つに分かれていた)に分かれておこなわれ,連隊の担当士官があたっ た。こうして,青年訓練所の予備軍事教育機関としての本質は,新潟県で実行
されていた。
②木崎村における反対運動
日本農民組合(略称・日農…)機関紙r土地と自由』大正15年8月10日号は,
こ新潟県青年部青年訓練所入所に反対決議すミという記事を載せた。それによ
青年訓練所反対運動の論理と実践←)
(51)ると,7月1日木崎村で新潟県連各支部長,青年部,各種委員からなる連合会 議が開かれた。そこで日農青年部の決定に反して,青年訓練所反対のため入所 に反対してボイコットすることを決議した。その理由は,第一に「折からの木 崎村の争議に,諸税の滞納,学童の盟休等,官設の諸機関に対してボイコット するテウ戦術の波におされ」たこと,第二に「農村青年は都市の無産青年と違
って思想の水準能力低く」入所しても「到底活動にたえない」ということだっ た。第二の理由は,先述した日農青年部執行委員会内部のボイコット支持の理 由と同じである。したがって,この記事も「入所する青年部員の能力が低いと いふなら,同じく入所する他の農村青年の能力も低いわけだ」と批判してい
る。
この会議における青年訓練所に関する決定は,「青年訓練所は,農民運動を 抑圧せんとする支配階級の手段であるから吾々は絶対に反対し吾々の子弟は決 (27)
してこれを参加せしめないこと」というものだった。新潟県連の青年訓練所の 把握は,一面的だったと言える。
1926年7月は,木崎争議が最高潮に達した時期であり,また地主側,県当局 の巻き返しが始まった時期である。木崎争議の経過は様々な所で述べられてい るので省略し,26年7月前後の事実をあげる。26年2月4日,新潟県連百支部 突破祝賀新年宴会,4月14日,8件の訴訟について地主側勝訴,5月5日,地 主側仮執行,5.月18日,小作人子弟小学校児童同盟休校,5月21日,農民小学 校開設を決定,5月22日〜6月5日,小学校では盟休児童の父兄を訪ね出席勧 誘,5月28日,農民小学校授業開始,6月1日婦人部代表上京,6月11日東京
で無産農…民学校後援会発会式,6月27日,農民学校校舎建設開始,7月19日,
争議相手真島桂次郎の郡教育会長就任に反対する同盟休校,3,000余人参加,
7月25日,無産農民学校上棟式,久平橋事件発生,組合幹部多数逮補,7月27
日,木崎村在郷軍人会,組合に対抗する事を決定,8月27日,県当局盟休解除
に百方手をつくし,組合硬軟二派に分れる。9月10日,盟休解除,農民小学校
解散式,農民小学校教師送別会を在郷軍人会員30余名襲撃,傷害事件を起す。
これでわかるように無産農民学校の建設で組合の力は最高潮に達するが,これ と前後して組合への切りくずしがはじまる。村内においてその先頭に立ったの は,青年訓練所と強く結びついていた在郷軍人会であった。7月29日在郷軍人 会は, 「近時小作争議が愈々悪化し遂に収容すべからざるに至らぽ同村を始め 農村は滅亡の他なく国家の為にも憂ふ可しと為し断然奪起して在郷軍人会が (28
先づ率先して同地方のため最善を尽さん」ことを決議し,警備隊を警察と連 絡して作ったのである。また,1.月17日には,新潟県所在の歩兵第15旅団長を 呼び,「君主政体の破壊運動と国民覚悟」という講習会を開き,600名余りの聴 衆を集めたのである。歩兵第15旅団は,新潟県の連隊区を管轄していたから,
在郷軍人会,青年訓練所もその管轄下にあった。在郷軍人会が,このような方 針を木崎争議に対し示したから,青年訓練所の役割もおのずと明らかになる。
事実,組合側がボイコットしている間に,青年訓練所に「穏和派」の青年が続 々と参加し,その数は176名にのぼった。そのため,「県社会課では……無産農 民子弟の青年訓練所不入所の声明に一時狼狽したが昨今は案外の成績を見て安
(29)
心するに至った」という。したがって,組合のとらえた「青年訓練所は農民運 動を抑圧せんとする支配階級の手段である」という事は,一面において正しか ったが,入所に反対した事は,組合側と「穏和派」の間をひろげ,組合の影響 力を弱めるだけであった。
1927年4月3日,新発田で開かれた日農新潟県連青年部第3回大会におい
て,先の方針を撤回して本部の決定どおり青年訓練所廃止の方針をとった。警
察は,この方針を「軍隊内に於ける兵卒の自由の獲得及人格の尊重」「法律上
に於ける封建的君主制度の打破」と共に撤回を命じた。この事は,国家が青年
訓練所を軍隊及び家族制度と共に国家の基盤として重要な位置づけをしていた
ことを示した。この大会に先立つ,1926年12月,日農の中の日本労農党を支持
する組合員は,日農を脱退した。その中には,木崎争議に日農本部からオルグ
青年訓練所反対運動の論理と実践O
(53)として派遣され,中心的指導者だった三宅正一が含まれていた。地主,県当局 の巻き返しが始まっていた時,この日農の分裂は,木崎の農民組合に打撃を与 えた。一方,日農に留まった組合員には,1928年の「3・15事件」の弾圧が加 えられた。そして,「北蒲葛塚地区,葛塚,木崎方面,佐藤治君が,三・一五でや
られてから殆んど大衆的な活動なく……青年分子にいいのがあるが,組織的な 活動なじ1°)という状態になったのである。こうして木崎村における青年訓練所 く
反対運動は,争議が終ると共に終ったのである。先述した青年訓練所把握の一 面性はどこに起因するのであろうか。それは,青年の学習会の内容を分析する 事によって明らかになると考えるが,他の機会にゆずりたい。
(2)青森県五郷村・車力村の場合 ① 青森県の青年訓練所
先に述べたように軍部は,青年訓練所設置以前から勤労青年に軍事教練をお こなわせる準備をしていたため,青森県在郷軍人会(帝国在郷軍人会青森県支 部)では,在郷軍人会員に対し,青年訓練所の必要を宣伝し,その軍事教練に 積極的に参加するよう求めていた。そして,青年訓練所が設置されると,指導 員となる在郷軍人のため「青年訓練教練指導指針」,「青年訓練所教練指導心 得」を作製した。「指導指針」は,軍隊教育との差異を「軍事技術ノ成果ノ多カ
ラソ事」を期待しないことに求め,教育勅語を基本とし国民精神作興の詔勅・
戊申詔書,軍人勅諭の精神に基づいて教育することを青年訓練所の目的だとし た。言いかえれぽ,1軍隊教育の一部をそのまま青少年に課そうと云うのでは なく……青少年の紀律節制協同忍耐と云ふやうな諸徳を滴養し団体的観念を体
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得させ且つその体駆を鍛へ」ることが主な目的だと云うのである。しかし,次 のように述べて,一応青年訓練所が文部省の主な管轄下にあるため,また軍事 教育批判を考慮して,文部省を尊重するポーズをとりながらも,たくみに軍部
の意図を貫くよう会員にむかって示唆している。
「然らぽ(青年訓練所は社会教育であって,文部大臣の主管に属するのだが一筆者)
軍部は本訓練事業に関して関係がないかと云うと決してさうではない,何故ならぽ本 訓練の主目的とする道徳のli養体力の増進は延いて国民の国防能力と大なる関係があ り,又以上の目的達成の為に用ふる所の兵式教練演習は単なる訓練上の手段たらしめ るのみに止めず之れと同時に国民皆兵の本義に稽へ挙国的近代戦の特色に鑑み国民一 マ マ
般の嗜として必要な程度に軍事を体得せしめる副目的にも之を必要のするが有利であ りやかて在営年限の問題とも密接の関係を有して居るのであるから随って軍部として
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