旧奈良県庁舎建設と古都のゲニウス・ロキ : 長野 宇平治の可及的建築
著者 清瀬 みさを
雑誌名 人文學
号 193
ページ 1‑37
発行年 2014‑03‑15
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013656
旧 奈 良 県 庁 舎 建 設 と 古 都 の ゲ ニ ウ ス
・ ロ キ
│
│ 長野 宇 平 治の 可 及 的建 築
│
│
清 瀬
み さ を
は じ め に 一 可 及 的 日 本 風 ノ 趣 味 ア ル 建 築 二
﹁ 甚 小 額 な る
﹂ 工 費 と 和 風 三 過 去 の 國 大 和 四 我 国 美 術 の 粋 と も 称 す べ き 古 建 築 の 淵 叢 五 世 人 既 に 似 而 非 西 洋 建 築 に 嫌 厭 す お わ り に
は じ め に
・
・・ 設計 を為 すに 付 て 一個 の 要 求 あり 曰 く 奈良 の 地 は 我国 美 術 の粋 と も 称す べ き 古 建築 の 淵 叢た り 世 人既 に似 而非 西洋 建築 に嫌 厭す 宜し く本 邦建 築の 優点 を採 るべ しと 言う に在 り此 の如 き大 なる 要求 の下 に甚 小額 なる
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奈 良 県 庁 舎 建 設 と 古 都 の ゲ ニ ウ ス
・ ロ キ
︵ 寧ろ 最小 限と 謂う も可 なる
︶工 費を 供せ られ た り 設計 者 の 苦心 知 る 人ぞ 知 ら ん・
・・ 唯 此前 例 な き建 築 に 付て は識 者の 批評 を聞 き得 んこ と予 の切 望に 堪へ ざる 所な り・
・・
⑴
こ れは
︑明 治二 八︵ 一八 九五
︶年 十二 月十 五日
︑新 築移 庁 式 が執 り 行 わ れた 奈 良 県庁 舎⑵
︵図 1︑ 図2
︶の 建 物に つい て︑ 設計 者が 後述 した 言葉 であ る︒ この 県庁 舎は
︑奈 良近 代最 初の 大建 築と 位置 づけ られ る︒ 設計 を担 当し た県 技師 は︑ 二年 前に 工部 大学 校造 家学 科︵ 現・ 東京 大学 工学 部建 築学 科︶ を卒 業し たば かり の建 築家
・長 野宇 平治
︵慶 応 三﹇ 一 八 六 七
﹈〜 昭 和 十 二﹇ 一九 三七
﹈年
︶で あっ た︒ 奈 良県 庁舎 の建 設は
︑廃 藩置 県後 に設 置さ れた 都道 府県 が仮 庁舎 から 本建 築の 新庁 舎に 移行 した 時期 にあ たる
︒奈 良県 庁舎 は︑ 土地 にふ さわ しく 日本 的趣 味を 示さ なけ れば なら ない
︑と いう 県の 強い 意向 を反 映し
図2 奈良県庁舎全景
奈良公園史編集委員会編『奈良公園史』本編 1982 年、172頁所載
図1 奈良県庁舎
長野宇平治設計 施工・直営 明治28(1895)年 木造2階建
建築学会編『明治大正建築写真聚覧』1936年、77 頁所載
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た木 造の 和洋 折衷 であ った
︒日 本近 代化 が西 欧化 を意 味し た時 代の ただ なか にあ って も︑ 古都 そし て︑ 景勝 の奈 良に は和 風を
︑と いう 県の 要請 は自 然に 思え る︒ しか し︑ 同じ 古都 と並 び称 せら れる 京都 では 本格 的な 西洋 建築 が待 望さ れた 結果
︑ネ オ・ ルネ サン ス様 式の 府庁 舎︵ 図3
︶が 明治 三七
︵一 九○ 四︶ 年に 竣工 して いる
︒ 奈 良県 庁舎 本館 は︑ 昭和 四〇
︵一 九六 五︶ 年︑ 鉄筋 コン クリ ート 造地 上六 階建 の現 庁舎 新築 にと もな い︑ 天理 市に 移築 され
﹁天 理教 一れ つ会 館﹂ 時代 を経 て現 在は 解体 保存 され てい る︒ 奈良 では
︑こ の県 庁舎 が姿 を消 した 後も
︑建 物の 機能 にか かわ らず
︑さ らに は奈 良公 園の ベン チや 街灯 にい たる まで 一貫 して 日本 的な かた ちが 求め られ た︒ 奈良 県庁 舎は
︑近 代的 な建 築家 教 育を 受け
︑西 洋建 築に 習熟 し た建 築家 によ る和 洋折 衷の 先 駆け とな り︑ 明治 四二
︵一 九
〇九
︶年 に竣 工し た奈 良ホ テ ル︵ 図4
│1
︑4
│2
︶を 通 じて 和風
︑あ るい は日 本趣 味 とい う奈 良独 自の 縛り を後 世 まで 伝え た︒ 小 論で は︑ 冒頭 に引 いた 設 計 者 の 言 か ら︑
﹁ 本 邦 建 築 の
図3 京都府庁舎
松室重光設計 明治37(1904)年 煉瓦造2階建 建築学会編『明治大正建築写真聚覧』1936年、93 頁所載
図4−1 奈良ホテル(荒池側から見た)
辰野金吾・片岡安設計 明治42(1879)年 木造2 階建
奈良ホテル企画部編『奈良ホテル物語 その90年 の歩み』2001年所載
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優 点を
﹂採 っ た
﹁前 例 のな い
﹂建 築 物の か た ち︑
﹁ 甚 小 額 な る﹂ 工 費︑ 京 都と は異 なり
﹁似 而非 西洋 建築 を倦 厭﹂ する
﹁奈 良の 地﹂ とい う文 言を 糸 口に 本建 築の 成立 事情 を検 証す る︒ そし て︑ そこ に凝 縮し た奈 良固 有の 歴 史的
・文 化的 特質
︑い わば ゲ ニ ウス
・ロ キ⑶
の様 相 を 浮 き彫 り に する こ と を目 的と する
︒ 一
可及 的 日 本風 ノ 趣 味ア ル 建 築 可及
的日 本風 ノ趣 味ア ル建 築
・・ 木 造 ノ架 構 ハ 前述 ノ 如 ク骨 組 全 ク 西 洋 流 ノ 長 所 ヲ 採 リ 且 ツ 耐 震 ノ点 ニ留 意シ 之ヲ 覆フ ニ日 本流 ノ装 飾ヲ 以テ シタ リ内 部・ 骨組 全ク 西 洋流 ヲ以 テス ルニ 拘ハ ラズ 外形 ハ日 本流 ノ装 飾ヲ 以テ 被フ ニ些 ノ不 都合 ナキ ヲ見 ルニ 足ラ ン此 クノ 如キ 方法 ヲ以 テ後 来木 造ノ 建築 ニ応 用ス ルハ 予輩 建築 家ノ 希望 スル 所ニ シテ 或ハ 此建 物ハ 他日 ノ一 標本 トナ ルコ ト無 キニ シモ 非ラ ザル ヘシ
・・
・ 長 野は
︑奈 良県 庁移 庁式 典に おけ る工 事報 告に おい て︑ この よう に設 計方 針を 説明 した
⑷
︒ こ の庁 舎は
︑現
・奈 良県 庁舎 の北 西︑ 奈良 文化 会館 の位 置に あた る登 大路 町の 敷地 四八
〇〇 坪を 立地 とし
︑中 庭を ロの 字型 に取 り囲 むよ うに 庁舎 が建 てら れた
︒全 体の 建築 構成 は︑ 和瓦 葺き 屋根 を冠 する 木造 二階 建の 本館 と議
事堂 図4−2 奈良ホテル 正面玄関
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およ び付 属建 造物 から なる
︵図 2︶
︒ 本館 正面 は︑ 鴟尾 を戴 く 入 母屋 造 の 屋根 と 平 入り で 車 寄 のあ る 正 面玄 関 を 中心 に左 右対 称の 構成 をと り︑ 妻破 風屋 根を 戴く 両端 部が わず かに 手前 にせ り出 して いる
︒外 壁は 漆喰 塗の 真壁 造り で二 層と も化 粧柱 と長 押が 作り 出す 垂直
︑水 平線 の枠 組み 内に 同じ 矩形 の長 窓が 整然 と並 んで いる
︒ 長 野は
︑小 論冒 頭に 引い た図 面説 明⑸
と 同じ く︑ この 建物 を奈 良公 園の 美 観 を損 じ な い ため の
﹁可 及 的日 本 風 ノ趣 味ア ル建 築﹂ と形 容し てい る︒
﹁ 前例 のな い﹂
﹁可 及的
﹂⑹
︑ つま り過 渡期 ある いは 移行 期の 折衷 様式 とは
︑筋 交 い を入 れて 耐震 補強 をし た西 洋建 築の 構造 を和 風の 意匠 で破 綻な く覆 った こと を意 味す る︒ 具体 的に は︑ 小屋 組が クイ ン・ ポス ト︑ キン グ・ ポス トを 併用 した トラ ス構 造の 洋小 屋組 とい う西 洋的 構造 であ り︑ 漆喰 塗り の真 壁造 と見 える 間柱 や樌
︑長 押は 構造 的部 材で はな く︑ 偽り の︑ 薄い 板を 用い た装 飾部 材に ほか なら ない
︒ ま た︑ 内部 も︑ 講堂 こそ は和 風の 格天 井で ある もの の︑ その 他は 漆喰 塗り 天井 を採 用し
︑窓 も外 開き と引 違の 和洋 両方 の形 式を 場所 に応 じて 併用 して いる
︒外 観は
︑左 右非 相称 を好 む日 本建 築と は異 なり
︑完 全な 左右 相称 で︑ 矩形 の長 窓と 二層 を貫 く間 柱︑ 長押 など の部 材が 立面 を明 晰に 分割 し︑ 勾配 の少 ない 直線 的な 輪郭 の屋 根︑ 浅い 軒の 出と 相ま って
︑す らり と腰 高な 西洋 的プ ロポ ーシ ョン を構 成し てい る︒ また
︑和 瓦葺 きで
︑曲 線を 描く 重厚 な屋 根を 特色 とす る和 風建 築と は異 なり
︑明 るく 軽快 な印 象を 与え てい る︒ 屋 根の かた ちは
︑建 築物 の構 成要 素の うち で︑ 最も 強 く 地 域性 を 表 し建 物 の 印象 を 決 定 する
︒洋 の 東 西を 問 わ ず︑ 北 国 で は 屋 根 が 急 勾 配 で 深 く︑ 南 国 で は 屋 根 が 浅 い
︒長 野 は 屋 根 に 関 す る 論 考⑺
を 著 し︑ 屋 根 の か た ち が 建 築 の
﹁ 美﹂ に関 わる と断 じて いる
︒そ して
︑日 本建 築に 特徴 的 で 格式 の 高 い屋 根 の 形式 と し て 入母 屋 造 を挙 げ
︑ま た 西洋 建築 と比 較し た東 洋建 築一 般の 特色 とし て屋 根の 勾配 に曲 線を 用い るこ とを 指摘 して いる
︒従 って ここ では 東洋 建築
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に固 有の
︑格 の高 い入 母屋 造を 建物 正面 の中 央部 分に 採用 しな がら
︑東 洋的 な屋 根の 曲線 を意 識的 に避 けて 東西 の折 衷を 図っ たと 考え られ る︒ 長野 の自 負す る﹁ 前例 のな い﹂ この 庁舎 は︑ 確か に︑ 地元 の建 材を 用い
︑和 風の 意匠 と西 洋の 骨格
︑プ ロポ ーシ ョン を組 み合 わせ た︑ 明治 前半 の擬 洋風 建築 とも 異人 館と も区 別さ れる 建築 物で あっ た︒ 工部 大学 校卒 の日 本人 建築 家に よる 最初 の和 洋折 衷で ある
⑻
︒ 日本
近代 建築 史に おけ る明 治二 十八 年 こ の庁 舎は
︑ち ょう ど工 部大 学校 造家 学科 を卒 業し た日 本人 建築 家第 一世 代⑼
が
︑初 めて 本格 的な 西洋 建 築 への 習 熟 を 世に 示 し た時 期 に あた る︒ 事例 とし ては
︑辰 野金 吾︵ 嘉永 七﹇ 一八 五四
﹈〜 大 正八
﹇一 九一 九﹈ 年︶ の日 本銀 行本 店︵ 明治 二十 九年
︶︑ 片 山東 熊︵ 嘉永 六﹇ 一八 五四
﹈〜 大 正六
﹇一 九 一 七﹈ 年︶ に よる 奈 良 帝国 博 物 館︵ 現・ 奈良 国 立 博 物 館︑ 明 治二 十 七 年 竣工
︶︵ 図 5︶ およ び 京 都帝 国 博 物 館︵ 現・ 京都 国 立 博 物 館︑ 明 治二 十 八 年 竣工
︶︵ 図 6︶ が挙 げ ら れる
︒明 治 日 本 にお け る 近 代 化は 西欧 化を 意味 した 時代 であ り︑ 第一 世代 の建 築家 たち の使 命は 新し い文 化の 器を
︑堅 牢か つ不 燃の 建材 でも って 威風 堂々 とし た円 蓋や 列柱 で飾 られ たル ネサ ンス やバ ロッ クな ど古 典的 な歴 史様 式の 西洋 建築 で象 るこ とで あっ た︒
図5 奈良帝国博物館
片山東熊設計 明治27(1894)年 煉瓦造平屋 建築学会編『明治大正建築写真聚覧』1936年、74 頁所載
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辰 野は 日銀 本店 にお いて
︑西 洋の 古典 系建 築を 飾る 円柱 や外 壁の 白大 理 石に 代わ る日 本の 石と して 白い 御影 石︵ 花崗 岩︶ で外 壁を 覆い
︑そ れが 以 降 の﹁ 白亜 の 殿 堂
﹂と 形 容 さ れ る 最 も 格 式 の 高 い 西 洋 建 築 の 定 石 と な っ た︒ 例 え ば
︑片 山 東 熊 設 計 の 東 宮 御 所
︵現
・赤 坂 離 宮 迎 賓 館
︑明 治 四 二 年︶ をは じめ とす る宮 家や 財閥 の迎 賓館 とし ての 宮殿 建築
︑辰 野金 吾︑ 葛 西万 治︵ 文久 三﹇ 一八 六三
﹈〜 昭 和十 七﹇ 一九 四二
﹈年
︶︑ 長野 宇平 治設 計 にな る日 銀大 阪支 店︵ 明治 三六 年︶
︑ 京都 府庁 舎を はじ めと する 庁舎 建築
︑ 野口 孫市
︵明 治二
﹇一 八六 九﹈
〜 大正 四﹇ 一九 一五
﹈年
︶︑ 日高 胖︵ 明治 八
﹇ 一八 七五
﹈〜 昭和 二七
﹇一 九五 二﹈ 年︶ 設計 にな る中 之島 図書 館︵ 明治 三 七年
︶な どが 挙げ られ る⑽
︒ 建築
家・ 長野 宇平 治と 和洋 折衷 従 っ て︑ 和 瓦 屋根
・木 造 和 洋折 衷 庁 舎設 計 は 工 部大 学 校 卒業 生 の エリ ー ト 建 築家 が 手 がけ る 種 類の 建 築 物 で は な く︑ 明治 二〇 年代 末の 建築 文化 の趨 勢か らし ても 異質 であ った とい える
︒明 治四 三︵ 一九 一〇
︶年 に建 築学 会で
﹁我 國将 来の 建築 様式 は如 何に すべ きや
﹂と 題し た討 論会 の場 で︑ 長野 は︑ すで に日 本は 西洋 模倣 の時 代を 終え
︑応 用の 時代 であ り︑ 折衷 ある いは
︑日 本の 新様 式は 時代 遅れ であ る
︑と 自 説を 展 開 し てい る⑾
︒事 実︑ 明 治︑ 大正 期 を 代表 する 建築 家の なか でも 時代 の流 行を 追わ ず︑ 生涯
︑銀 行建 築を 中心 に西 洋の 古典 系歴 史様 式を 探求 し続 けた 一徹 を貫
図6 京都帝国博物館
片山東熊設計 明治28(1895)年 煉瓦造平屋 建築学会編『明治大正建築写真聚覧』1936年、76 頁所載
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いて いる
︒ ま た︑ 奈良 県庁 舎の 工事 報告 に述 べて いる よう に︑ 職人 の手 抜き 工事 を許 さず
︑逆 恨み され 身の 危険 に瀕 して も方 針は 曲げ ない とい う屈 強な 意志 の持 ち主 であ った
⑿
︒ま た
︑明 治 四一
︵一 九
〇 八︶ 年 には
︑日 本 統 治時 代 に︑ 台 湾で 初め て行 われ た台 湾総 督府 の競 技設 計に 応募 し︑ 最高 点を 獲 得 し たが 一 等 なし の 二 等当 選 と い う評 価 を 承服 で き ず︑ 審査 員の 辰野
︑妻 木頼 黄︵ 安政 六﹇ 一八 五 九﹈
〜 大 正五
﹇一 九 一 六﹈ 年︶ とい う 大 権威 に 一 等 を主 張 し て譲 ら な かっ たと いう 自負 心と 妥協 のな さも 知ら れる
⒀
︒ そ のよ うな 長野 は︑ この 県庁 舎で 大抜 擢さ れ︑ 引き 続き 奈良 県師 範学 校 の設 計を 委託 され たに もか かわ らず
︑西 洋建 築と 疎遠 にな るこ とを 嫌い 二 年足 らず で奈 良県 庁を 辞 し︑ 早々 と 東 京に 戻 っ た ので あ る⒁
︒ 結 果的 に こ の県 庁舎 は課 題に 対し て自 負で きる もの であ り︑ また 出世 作と なる が︑ 可 及的 和洋 折衷 はけ っし て長 野の 本意 であ った わけ では なか ろう
︒ 長 野は 奈良 を辞 した 後︑ 大正 末年 まで 辰野 の傘 下に 日本 銀行 技師 とし て 働 き
︑大 阪︑ 京 都
︵現
・京 都 文 化 博 物 館 別 館
︑明 治 三 九
﹇一 九
〇 六
﹈ 年︶
︑ 小 樽︵ 現・ 日 本 銀 行 旧 小 樽 支 店 金 融 資 料 館
︑明 治 四 五
﹇一 九 一 二
﹈ 年︶ をは じめ 全国 の日 銀支 店設 計に 携わ った
︒大 正初 年に 台湾 総督 府嘱 託 と して 台 北 の 台湾 総 督 府庁 舎
︵現
・中 華 民国 総 統 府 庁舎
︑大 正 八 年
︶︵ 図 7︶ の設 計を 手が けた 後の 大正 二年 に独 立し 設計 事務 所を 開設 した
︒そ れ
図7 台湾総督府庁舎(現・中華民国総統府庁舎)
長野宇平治・台湾総督府営繕課(森山松之助)設計 台北市 大正8(1919)年 煉瓦造4階建
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以降 も︑ 横浜 正金 銀行
︑三 井銀 行︑ 東京 銀行
︑第 一勧 業銀 行な どの 荘重 な銀 行建 築を 多数 手が けて いる
︒奈 良に は︑ 奈良 公園 地外 の商 店街 にイ オニ ア式 列柱 の正 面玄 関が 印象 的な 六十 八銀 行奈 良支 店︵ 現・ 南都 銀行 本 店︑ 大 正 一 五﹇ 一 九 二 六﹈ 年︶
︵ 図8
︶を 残 し て いる
︒ 一標
本と して の可 及的 建築 長 野は
︑こ の県 庁舎 の﹁ 可及 的﹂ 建築 は︑ いず れ﹁ 一標 本﹂ とし て時 代・ 社会 の需 要に 適す ると 自負 した が︑ その 言葉 は時 を移 さず 現実 とな った
︒こ の県 庁舎 の形 式は
︑ま ず明 治三 十二
︵一 八九 九︶ 年︑ 東京 日比 谷に 竣工 した 妻木 頼黄
︑武 田五 一︵ 明治 五﹇ 一八 七二
﹈〜 昭 和十 三﹇ 一八 三八
﹈年
︶設 計 の 日本 勧 業 銀 行本 店 別 棟︵ 図9
︶⒂
の 着 想 源と な った
︒設 計 者
・武 田 自身 が
﹁此 様 式に 大 い に刺 激 さ れ てや っ た もの で あ る﹂⒃
と 後 述し た よ うに
︑全 体 の プロ ポ ー
図8 六十八銀行奈良支店(現・南都銀行本店)
長野宇平治設計 大正15(1926)年 鉄筋コンクリート造地上4階地下1階建
図9 日本勧業銀行本店別棟 妻木頼黄、武田五一設計 明治32(1899)年 建築学会編『明治大正建築写真聚覧』1936年、85 頁所載
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ショ ン︑ 屋根 の形
︑二 階部 分の 真壁 造な どに 明ら かな 影響 関係 が見 て取 れる
︒銀 行総 裁自 身の
﹁可 及的 日本 風﹂ とい う要 望に 応え
︑首 都に 立ち 上が った 木造
︑和 洋折 衷二 階建 の︑ しか も和 風屋 根を スレ ート で覆 った 大銀 行の 本店 は大 いに 注目 を集 めた
︒曽 根達 蔵は
︑こ の建 物を 妻木 の 代 表 作と 位 置 付け
︑﹁ 日 本 風七 分 に 洋 風三 分
﹂で 優 雅に 纏 め られ てい る︑ しか し﹁ 洋風 模写 直写 の時 代﹂ の当 時は 奇妙 で不 快で あっ たと 評 し てい る⒄
︒度 重 な る移 築 を 経た 現 在 も千 葉ト ヨペ ット 本社 とし て機 能を 続け
︑平 成九 年に は国 の有 形文 化財 に登 録さ れて いる
︒ 時 代の 趨勢 は西 洋一 辺倒 であ った ため に︑ 勧業 銀行 本店 の和 洋折 衷は 東京 で奇 異と 捉え られ た︒ しか し︑ こと 奈良 に限 って は︑ 奈良 公園 地に 相次 いで 和洋 折衷 の公 共建 築が 立ち 上が る︒ 明治 四一 年︑ 奈良 県技 師・ 橋本 卯平 衛に よる 奈良 県 立 奈良 戦 捷 記 念図 書 館︵ 現・ 大 和郡 山 市 民会 館
︶⒅
︑ そ し て翌 明 治 四十 二 年 には 長 野 の 後任 に 就 いた 奈 良 県技 師・ 関 野貞
︵慶 応 三
〜昭 和 十年
︶の 奈 良 県物 産 陳 列所
︵現
・仏 教 美 術 資料 研 究 セン タ ー︶⒆ で あ る
︒い ず れ も が 洋 小 屋組 の木 造二 階建 で︑ 和風 の外 観を もつ 和洋 折衷 建築 とい う構 想は 県庁 舎と 共通 する
︒し かし
︑大 きな 瓦屋 根を 戴く 建物 の輪 郭は 県庁 舎に 比べ て和 風に より 近く
︑建 築各 部の 意匠 につ いて も共 通す ると ころ は少 ない
︒ そ して
︑同 時期 の明 治四 二年 に︑ 明ら かに 県庁 舎を 継承 する 奈良 ホテ ル︵ 図4
│1
︑4
│2
︶が 竣工 する
︒こ のホ テル は︑ 政府 の肝 いり で興 福寺 塔頭 大乗 院跡 地に 皇族 や国 賓を 招く 奈良 の迎 賓館 とし て開 業し た︒ 設計 には 辰野 金吾 およ び片 岡安
︵明 治九
﹇一 八 七六
﹈〜 昭 和 二 十一 年
︶︑ 工 事管 理 に は建 築 家・ 河 合 浩蔵
︵安 政 三﹇ 一 八五 六
﹈〜 昭 和九
﹇ 一九 三四
﹈年
︶と いう 明治 期西 洋建 築界 きっ ての 大 御 所が 勢 揃 いし
︑三 五 万 円の 巨 費 で 鉄道 院 が 施工 し た︑ 国 家的 大事 業で あっ た⒇
︒ 西洋 木造 建築 の構 造と プロ ポー ショ ンに
︑和 風意 匠を 組 み 合わ せ た 和 洋折 衷 で あり
︑巨 費 に ふさ わ しい 堂 々 と した 入 母 屋造 り
︑和 瓦 葺き で 鴟 尾 を載 せ
︑桁 行 きを 支 え る 船肘 木
︑化 粧棰 を あし ら う 漆 喰 塗 り の 真 壁
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造︑ 豪壮 な玄 関に 和風 の意 匠が 認め られ る︒ 館 内も 設備
︑構 造は 洋風 であ るが
︑惜 しみ なく 素材 と意 匠に 和風 の贅 を尽 くし てい る︒ 館内 はふ んだ んに 檜材 をも ちい
︑玄 関ホ ール の鳥 居型 マン トル ピー スや
︑大 階段 の手 摺り に擬 宝珠 を載 せた 和風 の欄 干を
︑ま た一 階ベ ラン ダ手 摺り にも 刎高 欄を 採用 する など
︑意 匠は 外国 から の賓 客を 意識 しこ とさ ら誇 張し た和 風の 趣味 を凝 らし てい る︒ この 和洋 折衷 選択 は︑ 純洋 風の 奈良 帝国 博物 館が 古都 奈良 の景 観に そぐ わな いと 不評 であ った ため 県の 指導 方針 に従 った と奈 良ホ テル に伝 わる
︒ 県 の意 向は
︑県 庁舎 への 条件 から して も︑ その 通り であ った ろう
︒し かし
︑県 の権 限を 凌ぐ 政府 の鉄 道院 が︑ しか も建 築界 の巨 頭で ある 辰野
・片 岡が 長野 の県 庁舎 の構 想︑ つま り屋 根が 軽い
︑西 洋的 なプ ロポ ーシ ョン で真 壁造 を摸 した 木造 建築 を採 用し たこ とは
︑奈 良に おけ る建 築様 式の 正統 と見 なさ れた と考 えて よい ので はな いか
︒奈 良ホ テル は︑ 県庁 舎︑ 妻木
・武 田の 日本 勧業 銀行 本店 の 直 接 的な 系 譜 上に 位 置 づけ ら れ る︒ そ して
︑奈 良 で は以 降
︑﹁ 奈 良ホ テル に準 ずる よう に﹂ とい う建 築申 請に 対す る県 の指 針が 定着 した
︒長 野 の 可及 的 建 築 は︑ 実に 奈 良 にふ さ わ しい
﹁ 一標 本﹂ とな り︑ 更に は大 正末 期か ら昭 和初 期に 流行 する 近代 和風 建築 の原 点と なっ た
︒ 二
﹁ 甚小 額 な る﹂ 工 費 と和 風 次
いで
︑こ の章 では
︑和 洋折 衷選 択の 重要 な要 因と して 予算 問題 を取 り上 げて おき たい
︒手 がか りと して
︑明 治二 八年 十二 月十 五日 の移 庁式 典 に お ける 奈 良 県知 事
・古 沢 滋︵ 弘化 四
﹇一 八 四 七﹈
〜明 治 四 四﹇ 一九 一 一﹈ 年︶ に よる
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奈 良 県 庁 舎 建 設 と 古 都 の ゲ ニ ウ ス
・ ロ キ
祝辞
︑建 築家
・長 野宇 平治 の工 事報 告︑ 図面 説明 およ び晩 年の 回顧 談︑ そし て県 会議 員の 発言 など を検 証す る︒ 県知
事・ 古沢 滋の 祝辞 奈 良県 庁舎 移庁 式前 日か ら町 はお 祭り 騒ぎ で賑 わい
︑晴 れや かな 式典 後 には 奈 良 倶楽 部 で 鳴り 物 入 りの 盛 大 な祝 宴が 催さ れた
︒奈 良近 代に とっ て県 庁舎 落成 は︑ 特別 な意 味を もっ て い たか ら で あ る︒ 知事 は 移 庁式 に お いて
︑苦 難の 果て の県 庁舎 落成 とい う歴 史を 振り 返り
︑感 慨を 込め て祝 辞を 述べ て い る
︒ 新築 の 経 緯 につ い て は後 の 章 に譲 り︑ ここ では 工費 の問 題に 焦点 をあ てる
︒ 古 沢は
︑こ の祝 辞に
﹁経 費限 りあ りて 未だ 輪奐 の美 を盡 さざ るも 督工 意を 致し て堅 牢の 実に 於て は庶 くは 愧る 事無 から ん﹂ と述 べ︑ 旧都 とし て天 皇を お迎 えす る施 設が で き た こと を 嘉 して い る︒ 県 議会 に お け る新 庁 舎 建設 計 画 は︑ 明治 二三
︵一 八九
〇︶ 年に 浮上 した もの の︑ 建設 地の 選択
︑財 源の 問題 で難 航し
︑二 七年 七月 の臨 時議 会で よう やく 議決 され た経 緯が ある
︒明 治一 四︵ 一八 八一
︶年 以降
︑府 県 庁 舎 建設 費 は 国庫 か ら 地方 税 支 弁 に移 管 さ れた た め に︑ どの 自治 体も 多か れ少 なか れ庁 舎建 設費 用の 捻出 に苦 労を 強い られ てい た︒ し かし
︑ほ ぼ同 時期 に建 設さ れた 木造 二階 建庁 舎の 工費 を比 較す ると
︑明 治二 七年 竣工 の香 川県 庁舎 の場 合︑ 木造 二階 建庁 舎の べ六 五〇 坪の 総工 費が 三万 三二
〇円 に対 し︑ 奈良 県庁 舎は 二階 建て 主屋
︑平 屋の 県会 議事 堂︑ 付属 屋併 せて 建坪 が一
〇四 七坪 余り で総 工費 は二 万三 一〇 二円
︒こ の数 字を 鑑み ると
︑奈 良県 庁舎 建設 の予 算が 極め て厳 しか った こと がう かが える
︒京 都府 庁舎 につ いて は︑ 構造
︑建 材︑ 工法 が違 う た めに 単 純 な 比較 は で きな い が︑ 建 坪八 三九 坪︑ 工期 三年 余の 本館 建設 工費 だけ でも 三一 万九 二一 九円 と巨 費を 投じ てい る︒ この 庁舎 は現 役最 古の 都道 府県
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庁舎 とな り︑ 意匠 的に 優秀 なも の︑ そし て歴 史的 価値 の高 いも のと いう 基準 で国 の重 要文 化財 に指 定さ れて いる
︒ 長野
宇平 治の 証言 設 計者
・長 野は
︑知 事の 祝辞 に続 く工 事報 告︑ 小論 冒頭 に引 いた 図 面説 明 のい ず れ に おい て も︑ 過 大な 要 請 に対 して 工費 が最 低限 であ った こと を述 べて いる
︒さ らに
︑昭 和 三︵ 一九 二 八︶ 年 の回 顧 談 にお い て は︑ 庁舎 建 築 の和 洋 折衷 に つ い て工 費 と の関 係 で︑ 多 少裏 話 の よ うな 事 情 を証 言 し て いる
︒曰 く
︑奈 良 県議 会 と 官僚 が 要 求 し た 条 件 は︑ 既 に述 べ た よ うな 古 建 築の 淵 叢︑ 風 致が 美 し い とい う 立 地に は
︑﹁ 安 物の 西 洋 建 築 で は 移 り︵ マ マ︶ が 悪 る い︑ いず れ安 物に は相 違な いが 和風 を折 衷し た洋 館た るべ し﹂ と言 うこ とで あっ た︒ 確か に県 庁舎 新築 計画 が初 めて 審議 の対 象と なっ た明 治二 三年 十一 月の 県会 議事 録に も︑ 和風 の建 築で あれ ば安 上が りで ある とい う発 言が 記録 され てい る し ︒ かし
︑素 材や 工法
︑様 式に よっ ては
︑木 造和 風建 築が 必 ず し も煉 瓦 造 石貼 り 建 築よ り 安 価 であ る と は限 ら な い︒ 事実
︑奈 良帝 国博 物館 建 設 時 に︑ 奈良 県 知 事・ 小牧 昌 業︵ 天 保一 四
﹇一 八 四 三﹈
〜大 正 一 一﹇ 一九 二 二﹈ 年︶ が 奈良 にふ さわ しく 和風 にと いう 上申 に対 して
︑美 術学 校校 長の 岡倉 覚三
︵天 心︑ 文久 二﹇ 一八 六三
﹈〜 大 正二
﹇一 九一 三﹈ 年︶ が純 粋な 日本 建築 にし たい が︑ 高く なる こと を理 由に 拒否 した と 伝 えら れ る
︒ い ず れに し て も︑ 知事 が 祝 辞に 述べ るよ うに
︑最 低限 の予 算に 対し て長 野が 意を 尽く し堅 牢か つ外 観に 和風 をま じえ た可 及的 折衷 建築 を実 現し た︒ 和 風と いう 選択 の理 由に は︑ 小論 冒頭 に引 用し たよ うに 奈良 の風 致が ある が︑ 長野 はこ の回 顧録 にお いて
︑工 費に よる 選択 肢で もあ った こと に加 えて
︑内 務省 が国 家風 致上 の危 機意 識か ら国 費で 奈良
・京 都の 古社 寺修 復を 始め た時
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期と 重な るこ とに 触れ てい る
︒ つま り︑ 奈良 の和 風へ の固 執を 考え る場 合
︑ひ と り古 都 の 矜 恃が な せ る意 識 の 裏に は︑ 廃仏 毀釈 で荒 廃し た奈 良・ 京都 を放 置で きず 古社 寺や 風致 保存 に乗 り出 した 政府 の動 きが 外圧 とし て作 用し てい た可 能性 につ いて も検 討し なけ れば なら ない であ ろう
︒ 三
過去 の 國 大和 こ
の章 では
︑奈 良近 代の 歴史 的情 況を 政府 の奈 良運 営の あり かた
︑つ まり 興福 寺の 存亡
︑奈 良の 自治 権︑ 寧楽 書院 を軸 に考 察し
︑県 庁舎 新築 にい たる 時代 背景 を検 証す る︒ 大 和を 歩く たび ご と︑ あ の絢 爛 を 極 めた 仏 教 美術 の 精 華 と古 い 土 地に 対 す る追 憶 を 除 いて い っ たい 何 が ある のか とお もふ
︒陵 墓と 寺院 の國 大和
︒い ま急 激な 時代 の潮 流に 彩ら れて
︑そ の追 憶を 売物 にし なけ れば なら なく なっ た︑ 過去 の國 大和
︒ こ れは
︑昭 和五 年に
︑フ ォト
・ジ ャー ナリ スト 北尾 鐐之 助︵ 明治 十七
﹇一 八八 四年
﹈〜 昭 和四 十五
﹇一 九七 十﹈ 年︶ によ る﹃ 近畿 景観
大 和河 内﹄ の第 一章
﹁現 代大 和風 景﹂ のさ わり であ る︒ 北尾 は︑ 風景 漫歩 を生 活上 の一 慰業 であ ると 自認 し︑ 煤煙 に燻 る近 代都 市も 山岳 風景 や歴 史的 な名 跡も
︑斬 新な カメ ラ・ アイ と鋭 敏な ジャ ーナ リス トの 筆で 活写 した こと で知 られ る︒ 大正 元年 に名 古屋 から 転勤 した 北尾 の目 には
︑奈 良は
﹁追 憶を 売物 にし なけ れば なら なく な った 過 去 の 国﹂ と映 っ て いる
︒し か し︑ 果 たし て 奈 良 は過 去 に 対す る 受 動 的な 追 憶 だけ で 永 らえ て き た で あ ろ う か︒ また
︑何 時か ら追 憶を 売り 物に でき るよ うに なっ たの であ ろう か︒ ここ で維 新後 の奈 良の 置か れた 状況 を歴 史的
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にた どっ てお きた い︒ 奈良
近代 の葛 藤 大 和 の 國 は︑ 慶応 三 年 の神 仏 分 離令
︑翌 年 の 神 仏判 然 令 によ っ て 落剥 し た 興 福寺 境 内 の 堂 坊 に
︑明 治 元
︵一 八 六 八︶ 年︑ 政府 が官 軍の 拠点 を据 えた とき に終 焉を 迎え た︒ 幕末 の戦 乱で 焼け 野原 にな った とは いえ
︑昨 日ま では 都で あ った 京 都 と は異 な り︑ 平 城京 の 位 置も い ま だ 定か な ら ぬ 奈 良 に と っ て︑ 旧 都 は す で に 遥 か な 過 去 の 記 憶 で あ っ た︒ しか し︑ 都が 京に 移っ て行 った 後も
︑依 然と して 大和 の國 は︑ 神仏 の聖 地で あり 続け
︑そ の中 心に あっ たの が千 二百 年の 歴史 と巨 大な 知行
︑そ して 守護 不入 の権 を誇 る藤 原氏 の氏 寺・ 興福 寺お よび 春日 神社 にほ かな らな い︒ そこ は︑ 平城 京の 東に 張り 出し た外 京部 分に あた る︒ 官 軍は 明治 元年 に奈 良入 りし
︑行 政府 であ る奈 良奉 行所 を廃 して 興福 寺摩 尼殊 院に 大和 の天 領︑ 社寺 領を 所管 する 大和 鎮台 を設 置し た︒ 後に 現在 の奈 良女 子大 学の 位 置 に ある 大 和 奉行 所 に 移転 し た︒ 大 和 鎮台 は
︑奈 良 巡撫 総 督 府︑ 市政 裁判 所︑ 奈良 府と 改称 した
︒政 府は 興福 寺境 内に 官軍 を駐 屯さ せ︑ 坊舎 を庁 舎に 転用 した
︒奈 良巡 撫総 督府 は興 福 寺東 室 に 文 武館
︑さ ら に 宝蔵 院 に 県の 学 校 を 開設 し た︒ 金 堂は
︑医 局 や 警 察な ど の 庁 舎 と 化 す
︒明 治 四
︵一 八 七 四︶ 年の 廃藩 置県 で設 置さ れた 奈良 県は
︑興 福寺 一乗 院門 跡を 庁舎 とし た
︒ 興 福寺 は明 治四 年に 東大 寺と とも に寺 領上 知を 賜り
︑翌 年に 廃寺 とな った
︒廃 仏毀 釈の 荒波 は全 国に 及び
︑名 刹古 寺た りと も容 赦な く廃 絶に 追い 込ん だ︒ 跡形 もな く消 滅し た寺 院は 数知 れな い︒ 仏教 寺院 の僧 侶が 還俗 し︑ 平等 院の よう な名 跡も 売り に出 され
︑仏 像は 無残 に薪 にく べら れ︑ 宝物 は散 逸し
︑あ るも のは 海外 に流 出し た逸 話に は事 欠か
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ない
︒そ の中 でも 新政 府に よる 最大 標的 とな った 興福 寺へ の官 軍侵 入は
︑廃 仏毀 釈の 象徴 的な 出来 事で あっ た︒ 広大 無比 な敷 地と 栄華 を誇 った 名刹 は︑ 寺領 没収
︑土 塀︑ 門の 撤去
︑諸 院・ 諸坊 の民 間売 却︑ ある いは 解体
︑建 築部 材の 転売 とい う運 命を 辿り
︑僧 侶は 春日 神社 の神 官に 転じ た︒ 南大 門跡 には 御真 影の 遥拝 所が 設け られ
︑若 草山 には 牛が 放牧 され た︒ 新 生奈 良県 は︑ 明治 九年 には 堺県 に合 併︑ 次い で明 治一 四年 に堺 県も ろと も大 阪府 に併 呑さ れた
︒明 治二
〇︵ 一八 八七
︶年
︑よ うや く奈 良県 とし て自 治権 を回 復し たも のの
︑庁 舎は 仮住 まい を続 けて いた
︒明 治二 八年 の県 庁新 築移 庁式 の祝 辞に おい て︑ 知事 は︑ 旧県 庁の 建物 が狭 くて 不 自 由 なう え に︑
﹁ 外観 に お いて も 常 に 位置 不 定 の感 あ ら しめ たり
﹂ と述 べて いる
︒庁 舎の 外観 が場 所に ふさ わし くな いと いう ので ある
︒ こ の旧 県庁 舎は 興福 寺境 内伽 藍の うち 僅か に残 され てい た東 金堂 の北
︑現 在の 国宝 館の 位置 に描 かれ てい る︒ かつ ての 食堂 およ び細 殿 跡 に 位 置 す る
︒宝 永 六︵ 一 七
〇 九︶ 年 頃 の
﹇奈 良 町 絵 図﹈
︵図 10︶
およ び 明治 二 三 年の
﹇奈 良 明 細 全図
﹈︵ 図 11︶ に 興福 寺 築 地内 の寺 地を 比較 する と︑ 明治 中期 には 伽藍 が虫 食い 状態 で︑ 金堂
︑南 円堂
︑北 円堂
︑東 金堂
︑五 重塔 など 僅か な部 分が 残る のみ で︑ 東西 の門 を結 ぶ現 在の 登大 路通 り以 北の 諸院
︑諸 坊は 県関 連の 建物 にす げか わっ てい るこ とが 分か る︒ この 図版 中央 に確 認さ れる 塔屋 を戴 く旧 県庁 舎の 前身 は︑ 明治 十年 に興 福寺 の食 堂お よび 細殿 跡地 に開
図10 [奈良町絵図]部分
宝永6(1709)年頃 天理図書館蔵
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設さ れた 小学 校教 員伝 習所
・寧 楽︵ なら
︶書 院で あっ た
︒ その 庁舎 を興 福 寺 所蔵 の
﹇大 和 国 添上 郡 奈 良興 福 寺 境内 現今 之図
﹈︵ 明 治九 年︶ に確 認す ると
︑﹁ 西洋 造建 物﹂
︵ 12図
︶と 添え 書き があ る︒ 寧楽
書院 と擬 洋風 寧 楽書 院は
︑春 日神 社お よび 興福 寺の 大工 方・ 春日 座の 木奥 弥三 郎高 徳が 設計 し︑ 食堂
・細 殿の 部材 を利 用し た和 小屋 組の 寄棟 造り
︑木 造二 階建 の施 設で ある
︒そ の図 面の 一葉
︵図 13︶ が示 すよ うに
︑二 層と も建 物四 周に トス カナ 式様 の円 柱に 画さ れた ベラ ンダ をま わし
︑二 階の 窓は 半円 形長 窓︑ 玄関 には アー チの 車寄
︑屋 根の 上に は高 欄付 き方 形の 塔屋 を戴 く︒ 典型 的な 明治 初期 の擬 洋風 建築 であ る
︒ 奈良 にと って 否応 な し に政 府 の 近 代化 政 策 を突 き つ けら
図11 金澤昇平作成[奈良明細 全 図]
部分
明治23(1890)年 奈良県立図書館所
蔵
図12 [大和国添上郡奈良興福寺境内 現今之図]部分
明治9年 興福寺所蔵
清水重敦『日本の美術七 擬洋風建築』
446号 至文堂、2003年、18頁所載
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れた 最初 の建 物で あっ た︒ た だ し︑
﹁ 西 洋造
﹂と い う 添え 書 に もか か わ ら ず︑ 当初 か ら 本 物 の 西 洋建 築 で は な い と い う 認 識 が あ っ た
︒﹁ 擬 洋 風﹂ と い う 用 語 の 初 出 は 昭和 五年 であ り︑ そ れま で は︑ 石 や煉 瓦 を 木 で摸 し た とい う 建 材 の模 造 性 を も含 め て︑
﹁ 似而 非 西 洋建 築
﹂﹁ 洋 風 家 屋﹂
︑﹁ 洋 風 模 造
﹂ など と呼 ばれ てい た︒ 幕末 から 明治 二〇 年頃 まで
︑西 洋建 築を 学ん だ 日本 人 建築 家 が 活 躍す る ま での 時 限 的建 築 様 式 で︑ 現存 例 と して は
︑ 明治 二年 の旧 新潟 税関 庁舎
︑明 治八 年の 尾山 神社 神門
︵金 沢市
︑津 田 吉 之助 設 計
︶︑ 明 治九 年 の 開智 学 校︵ 松 本市
︑立 石 清 重 設 計 施 工︶ が 挙げ られ る︒ 開智 学校 に典 型を 見る よう に︑ 土地 の日 本人 大工 棟梁 が 西洋 を摸 した 建物 を指 す︒ 大工 棟梁 が伝 統的 な日 本建 築の 技術 を用 い つつ
︑西 洋に 対す る好 奇心 や想 像力 をも って アー チの 開口 部や 高欄 付き の塔 屋︑ ガラ ス窓
︑ベ ラン ダ︑ 円柱
︑ペ ンキ な ど西 洋 建 築 をイ メ ー ジす る 意 匠や 建 築 素 材︑ 時に は 東 洋的 な 高 欄 や海 鼠 壁 など も 自 由に 組 み 込 んだ 事 を 特色 と す る︒ 西洋 に準 えた つも りで あっ ても 西洋 建築 のプ ロポ ーシ ョン や様 式と いっ た文 法か ら外 れる
︒し かし
︑文 明開 化の 雰囲 気を 伝え る活 力と 棟梁 の個 性が みな ぎっ てい る︒ 寧 楽書 院は
︑開 智学 校の よう に文 明開 化の 象徴 とし て地 元の 人々 から 歓迎 され るこ とは なか った
︒寧 楽書 院は 政府 が廃 寺と なし た興 福寺 の堂 坊を さら に破 壊し
︑そ の部 材を 用い て︑ 中世 以来 興福 寺専 属の 大工 方を 勤め てき た一 族に
図13 寧楽書院立面図 木奥弥三郎高徳作成 明治9(1876)年
清水重敦『日本の美術七 擬洋風建築』446号 至 文堂、2003年、19頁所載
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小学 校教 員伝 習所 とい う新 たな 文化 を︑ しか も西 洋的 なか たち を視 覚化 させ た最 初の 象徴 的な 建築 物に ほか なら ない から であ る︒ そこ に新 政府 の︑ 旧体 制を 破壊 する 政治 的な 意図 を読 み 取 るこ と も 可 能で あ ろ う
︒ 奈良 に と って
︑そ れを 県政 回復 の庁 舎と する こと は屈 辱的 であ った に違 いな い︒ 県 庁舎 はよ うや く﹁ 外観 にお いて も常 に位 置不 定の 感あ らし めた り﹂ とい う不 如意 から 脱し
︑登 大路 を隔 てた 北側 の現 在地 に移 転を 果た した
︒か つて は興 福寺 の諸 坊︑ 諸院
︑そ の後 は書 記官 官舎 があ った 場所 であ る︒ 四
我国 美 術 の粋 と も 称す べ き 古建 築 の 淵叢 こ
の章 では
︑再 び小 論冒 頭に 引用 した
﹁奈 良の 地は 我国 美術 の粋 とも 称す べき 古建 築の 淵叢 たり 世人 既に 似而 非西 洋建 築に 嫌厭 す﹂ とい う文 言に 立ち 戻り
︑前 章に 見た よう に荒 廃し た興 福寺 一帯 がど のよ うに
﹁古 建築 の淵 叢﹂ を自 負す る機 運に 至っ たの か︑ そし てそ の根 拠は 何か とい う問 題を 奈良 公園 の成 立事 情︑ そし て興 福寺 の復 興︑ フェ ノロ サの 講演 の影 響力 に検 証し たい
︒ 万人
偕楽 ノ地
・奈 良公 園の 成立 長 野は
︑県 庁舎 新築 移庁 式の 工事 報告 にお いて
︑も と寧 楽書 院の 旧庁 舎が
﹁狭 隘ニ シテ 不便 ヲ極 メ且 ツ其 位置 ハ風 光 ノ勝 地 タ ル 奈良 公 園 ノ中 ニ シ テ其 ノ 美 観 ヲ損 ス ル ノ 故﹂
﹁奈 良 公 園 ノ 美 観 ヲ 害 セ サ ル 為﹂ と 立 地 条 件 を 述 べ て い る︒ また
﹁奈 良の 地は 我国 美術 の粋 とも 称す べき 古建 築の 淵叢 たり 世人 既に 似而 非西 洋建 築に 嫌厭 す﹂ とい う﹁ 図案
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説明
﹂の 言と 併せ ると
︑奈 良 公園 の美 観や 日本 の建 築文 化の 源が 絶対 的な 立地 の縛 りと して 自明 の如 く語 られ てい る︒ そ の転 換の 要因 は︑ 明治 政府 が巨 大寺 院の 興福 寺を 廃絶 し︑ 領地 を上 知す る一 方で
︑文 化の 近代 化政 策の ひと つと して 公園 の設 置︑ 今ひ とつ は廃 仏毀 釈の 行き 過ぎ を食 い止 める ため に太 政官 布告 によ り文 化財 の調 査・ 保存 を目 的と する 古器 物保 存方
を定 め︑ さら には 保存 金を 支出 する 方針 を打 ち出 し た こと で あ る︒ 興 福寺 を 没 収し
︑前 章 で 述べ たよ うに 官衙 街と なし
︑次 いで そこ を西 洋に 倣う
﹁公 園﹂ にす げ替 える とい う近 代化 が行 われ たこ とに なる
︒ 明 治六 年︑ 政府 は︑ 太政 官布 告十 六号 によ って
﹁万 人偕 楽ノ 地﹂ とな す公 園制 度の 発足 と適 切な 用地 選定 を促 すよ う府 県に 布達 した
︒こ の布 達を 受け
︑奈 良公 園は
︑堺 県時 代の 明治 十 三︵ 一 八八
〇
︶年 に 興 福寺 境 内 地十 四 ヘ クタ ール の敷 地に 開園 した
︒現 在︑ 都市 公園 法 に 基 づ く﹁ 奈良 公 園﹂ は 猿 沢池
︑荒 池
︑若 草 山︑ 春日 山
︑芳 山︑ 春 日野 など 山林 一帯 を含 む五
〇二 ヘク ター ルで ある が社 寺︑ 博物 館は 含 まな い
︒文 化 財保 護 法 によ っ て 指定 さ れ た﹁ 名勝 奈良 公園
﹂は 興福 寺︑ 東大 寺︑ さら に登 大路 に面 した 民間 地ま で含 む五 二四 ヘク ター ルで ある
︒さ らに 広義 での 奈良 公園 は上 記の ふた つの 公園 地に 国立 博物 館︑ 春日 神社 を含 めた エリ アを 意味 する
︒ こ のよ うに
﹁奈 良公 園﹂ が指 す空 間は
︑枠 組み によ って 異な るが
︑風 致の 保存 とい う奈 良復 活の 生命 線と なっ たの は︑ 明治 十三 年二 月十 四日 付︑ 内務 卿・ 伊藤 博文 によ る奈 良公 園認 可書 中に 朱書 で記 され た文 言で ある
︒曰 く︑
・・ 今般 公園 ニ相 成候 上ハ
︑他 日学 校地 ニ充 候ト モ︑ 園地 之儀 ニ付
︑地 景変 更︑ 且樹 木伐 採等 ノ儀 ハ総 テ不 相成 儀ト 相心 得事
・・
・ こ の文 言が
︑以 降︑ 奈良 公園 地の 風致
・自 然の 保護
︑官 有地 であ って も公 園内 には 学校 建設 も許 され ない とい う金 科玉 条の 盾と なっ た︒ 以降
︑奈 良公 園運 営の 方針 は︑ 植物
︑街 灯︑ ベン チに いた るま で︑ 和風 に統 制さ れた
︒そ れゆ
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え擬 洋風 建築 の寧 楽書 院・ 旧庁 舎が
﹁狭 隘ニ シテ 不便 ヲ極 メ且 ツ其 位置 ハ風 光ノ 勝地 タル 奈良 公園 ノ中 ニシ テ其 ノ美 観ヲ 損ス ルノ 故﹂ に︑ 県政 回復 した 奈良 にと って 新築 移転 が至 上命 令で あっ たわ けで ある
︒昭 和五 七年 に奈 良県 は五 五〇 頁余 の本 編と 自然 編︑ 附図 から なる 大部 な
﹃奈 良 公 園史
﹄を 刊 行 した
︒そ こ に 仔細 収 録 さ れて い る 膨大 な 史 料︑ 記録 から
︑公 園管 理の 主体 は堺 県︑ 大阪 府︑ 奈良 県と 移行 した が︑ 奈良 公園 の成 立と 整備 に賭 した 膨大 なエ ネル ギー こそ が︑ 奈良 近代 のア イデ ンテ ィテ ィ形 成の 主軸 とし て機 能し
︑時 代を 追っ て拡 大す る奈 良公 園の 空間 がそ の装 置で あっ たこ とが 理解 され る︒ 興福
寺の 復興 と古 社寺 保存
︑フ ェノ ロサ の講 演 奈 良復 興へ のい まひ とつ の要 因は 奈良 公園 設置
︑整 備と 並行 して 展開 した 古社 寺の 保存 運動 であ る︒ 政府 は奈 良公 園設 置と 同じ 明治 十三 年に 興福 寺︑ 法隆 寺に 保存 金を 支給 し︑ 翌年 に興 福寺 再興 を認 可し た︒ 明治 十六 年に 奈良 郡役 所の 新築 にと もな い金 堂が 返還 され
︑県 政回 復の 翌二 十一 年に 公園 地の うち 一八 四二 五坪 余の 無償 借用 が県 から 認可 され た︒ 古 社寺 およ び古 美術 の保 存運 動︑ 博物 館設 立 を 主 導し た の は宮 内 省 図書 頭 の 九 鬼隆 一
︵嘉 永 三﹇ 一八 五
〇﹈
〜 昭和 六﹇ 一九 三一
﹈年
︶で あっ た︒ 九鬼 は古 社寺 保存 法制 定に むけ て︑ 明治 一〇 年代 末か らブ レー ンで ある アメ リカ 人美 術 史家 フ ェ ノ ロサ
︵
Ernest Francisco F enollosa, 1853
〜
1908
︶お よ び 岡倉 天 心︵ 文 久二
〜大 正 二 年︶
︑と と も に 奈 良︑ 京都 の古 美術 の調 査を 行い
︑明 治三
〇年 に文 化財 保護 を目 的と する 古社 寺保 存法
の制 定に 導い た︒ 九 鬼 一 行 は︑ 明治 二 十 一︵ 一八 八 八︶ 年 五月 か ら 古 美術 調 査 のた め に 関西 を 訪 れ て い た が
︑奈 良 県 知 事
・税 所 篤
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奈 良 県 庁 舎 建 設 と 古 都 の ゲ ニ ウ ス
・ ロ キ
︵ 文政 十﹇ 一八 二七
﹈〜 明治 四三 年︶ をは じめ とす る地 元有 識者 の要 請を 受け
︑六 月五 日に フェ ノロ サが 知事 主催 の講 演会 を浄 教寺 で行 った
︒﹁ 奈 良の 古美 術﹂ と題 した 講演
では
︑古 代ロ ーマ の 繁 栄と 没 落 の 歴史
︑そ し て キリ ス ト 教︑ とり わけ 教皇 庁 の 所在 に よ る 復興 の 経 緯を 例 に 引き
︑過 去 の 美 術の 再 認 識が 国 家 開明 の 原 動 力と な る こと を 説 く
︒ そし て奈 良を ロー マに 譬え
︑﹁ 美 術の 淵叢
﹂で ある ゆ え に︑ その 調 査・ 保 存に 努 め るな ら ば ロ ーマ の よ うに 復 興 して アジ アの 模範 とな る︑ と奈 良の プラ イド とア イデ ンテ ィテ ィを 鼓舞 して いる
︒ま た︑ その ため の博 物館 設立 の必 要を 論じ
︑さ らに は宗 教に よっ てこ そ文 化の 開明 が可 能と なる とい う自 説を 展開 し︑ 奈良 にお ける 宗教
︵仏 教︶ の興 起を 説い てい る︒ 有 識者 約五 百名 が聴 講し
︑新 聞第 一面 に掲 載さ れた こ と︑ そ れ も政 府 の ブレ ー ン であ る 外 国 人美 術 史 家の 講 演 は︑ 県政 回復 直後 の奈 良に 大い なる 刺激 を与 え︑ 奈良 の国 粋称 揚を 県内 外に 喧伝 する 機運 を導 いた であ ろう こと は想 像に 難く ない
︒事 実︑ フェ ノロ サの 講演 以降
︑奈 良を
﹁羅 馬﹂
︵ 新聞 記事 の表 記︶ に譬 える こと が︑
﹁美 術の 淵叢
﹂と いう 表現 とと もに 散見 され るよ うに なる
︒と りわ け奈 良公 園整 備そ して 県庁 舎新 築を めぐ る議 論に おい て︑ 長野 が﹁ 古建 築の 淵叢
﹂と 借用 した よう に︑ 多少 の言 い回 しに 違い があ るに せよ
︑奈 良の アイ デン ティ ティ を表 す標 語と して 繰り 返し 語ら れる
︒ 五
世人 既 に 似而 非 西 洋建 築 に 嫌厭 す 前
章で は︑ 新政 府に よる 興福 寺の 破壊
︑そ して 同じ 政府 の指 導に よっ て成 立し た奈 良公 園が 奈良 復興 の象 徴的 な場
旧 奈 良 県 庁 舎 建 設 と 古 都 の ゲ ニ ウ ス
・ ロ キ
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とな った こと
︑そ して
︑県 庁舎 建設 に先 立つ 明治 二〇 年頃 には 古社 寺保 存の 機運 が高 まり
︑フ ェノ ロサ の講 演に よっ て︑ それ が奈 良の アイ デン ティ ティ 顕在 化に 寄与 した こと を見 てき た︒ この 章で は︑ 小論 冒頭 に引 用し た﹁ 世人 既に 似而 非西 洋建 築に 嫌厭 す﹂ とい う表 現の 実相 を奈 良県 庁舎 新築 をめ ぐる 県議 会の 議論 に検 証し てお きた い︒ 菊水
楼を めぐ る言 説 新 庁舎 建築 議案 可決 を要 求す る議 員た ちは 口々 に擬 洋風 に対 する
﹁倦 厭﹂ を述 べ立 て庁 舎新 築を 要求 する
︒中 山平 八郎
︵弘 化二
﹇一 八四 五﹈
〜 昭和 五﹇ 一九 三〇
﹈年
︶議 員 曰 く﹁ 第一 ニ 此 県庁 舎 ヲ 以テ 長 ク 維 持ス ル 事 難シ ト ス ルニ アリ テ又 第二 ハ奈 良公 園ハ 日本 ノ一 大公 園ニ シテ 斯カ ル優 美壮 麗ノ 公園 中ニ 不都 合ナ ル建 築物 アル ハ公 園ノ 風致 上頗 ル 差支 ア リ 公園 其 ノ モ ノノ 体 面 ヲ汚 ス ト 言フ コ ニ ア リ﹂ と 述べ て い る︒ ここ で は︑ 擬 洋 風建 築 の 寧楽 書 院・ 県 庁舎 は風 致上 不都 合で ある と非 難さ れて いる
︒ 擬 洋 風 建 築に 対 す る議 会 の 批判 発 言 の 中で
︑権 威 と して の
﹁外 国 人﹂ や有 識 者 に 嘲笑 さ れ たこ と を 引 き 合 い に 出 し︑ 執拗 なほ ど繰 り返 し論 われ た建 物が ある
︒議 事録 を辿 ると
︑明 治二 十五
﹇一 八九 二﹈ 年に 風致 を害 する ため 風景 に 調和 す る よ う改 築 が 望ま れ る 建 築 物 の 一 例 と し て﹁ 菊 水 ナ ル 一 楼﹂ が 登 場 す る
︒翌 二 十 六 年 に は
︑こ の
﹁菊 水 楼﹂ が 批判 を 浴 び て和 風 に 改築 を 余 儀な く さ れ た︑ とあ る
︒こ の﹁ 菊 水ナ ル 一 楼﹂
﹁菊 水 楼
﹂が 擬 洋風 建 築 の 象 徴 とし て繰 り返 し引 用さ れる 余り に︑ また 改築 以前 の姿 が知 られ ない ため に︑ いつ しか 奈良 帝国 博物 館が
﹁菊 花楼 ノ如 ク擬 似西 洋風 デ世 人ニ 嘲笑
﹂さ れた
︑と 曲解 され るよ うに なっ た︒
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奈 良 県 庁 舎 建 設 と 古 都 の ゲ ニ ウ ス
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奈良 帝国 博物 館 し かし
︑奈 良帝 国博 物館 の洋 風が 奈良 では 歓迎 され なか った こと は事 実で ある とし ても
︑菊 水楼 批判 は︑ 博物 館の 建物 が全 貌を 顕す 以前 の明 治二 十五 年九 月の 議事 録に 登場 して いる
︒ま た改 築前 後の 経緯 も議 事録 に確 認さ れた
︒さ らに 奈良 帝国 博物 館は
︑木 骨煉 瓦構 造の 平屋 で花 崗岩 と砂 岩で 外壁 を覆 った ネオ
・バ ロッ ク様 式の
︑奈 良で は初 めて の本 格的 な西 洋建 築で ある
︒寧 楽書 院の ころ から 擬洋 風と 洋風 の区 別は 認識 され てい た︒ 従っ て建 築史 の中 に散 見さ れる
︑奈 良帝 国博 物館 の建 物が 花街 の楼 閣に 譬え て非 難さ れた
︑と いう 言説 は曲 解で ある
︒ 問 題と なっ たの は︑ 春日 神社 鳥居 前︑ 興福 寺の 宿坊
・興 善院 跡地 を立 地と する 実在 の﹁ 菊水 楼﹂ であ り架 空の
﹁菊 花楼
﹂で はな い︒ それ は︑ 廃寺 とな った 興福 寺の 建築 部材 を組 み込 んで 建て られ
︑明 治二 四︵ 一八 九一
︶年 に創 業し た老 舗料 理旅 館で ある
︒明 治二 四年 築の 旧本 館は 平成 一二 年に 奈良 県の 有 形 文化 財 に 登 録さ れ て いる
︒そ の 旧 本館 は︑ 和 風 の 木 造 二 階 建
︑入 母 屋 造 桟 瓦 葺 の 伝 統 的 な 和 風 建 築 で あ り︑ 似 而 非 西 洋 的 な 要 素 を 認 め る こ と は で き な い 奈 ︒ 良帝 国博 物館 は明 治二 五年 に起 工し
︑竣 工は 二七 年十 二月 であ るた めに
︑先 に引 いた 中山 議員 の発 言時
︑明 治二 十六 年に は︑ まだ 全貌 を顕 して はい なか った はず であ る︒ 明治 初期 の開 智学 校竣 工の おり に︑ すで に西 洋を 摸し てい ると いう 認識 があ った こと と併 せて
︑博 物館 が﹁ 西洋 建築
﹂と いう のな ら理 解で きる が︑ 似而 非西 洋建 築と して 批判 され るに はあ たら ない
︒ い ずれ にし ても
︑県 庁建 設期 の奈 良で は︑ 奈良 公園 に天 然自 然の 美を 誇り
︑そ の風 致を 害す る擬 洋風 建築 は排 除す べき であ り︑ そも そも 西洋 に倣 うこ と自 体を 断固 拒否 する 世論 が形 成さ れて いた
︒注
に 引用 した よう に︑ 建設 前に
旧 奈 良 県 庁 舎 建 設 と 古 都 の ゲ ニ ウ ス
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和風 にと いう 県の 要望 にも かか わら ず奈 良公 園の 真ん 中に 立ち 上が った 奈良 博物 館の ネオ
・バ ロッ ク建 築が 歓迎 され なか った こと は確 かで あろ う︒ 純粋
な西 洋建 築を 標目 とす る 小 論で はこ こま で︑ 奈良 が興 福寺 旧境 内地 に形 成し た奈 良公 園を 奈良 国粋 化の 装置 とし
︑天 然自 然の 美と 古建 築を 拠 り所 に し
︑県 庁 舎に 和 風 を求 め た 経緯 を 検 証 して き た︒ 奈 良が 和 風 に アイ デ ン ティ テ ィ を求 め 欧 化 を拒 絶 す る の は︑ 古都 であ った とい う理 由だ けで はな く︑ 固有 の志 向で ある こと を確 認す るた めに 円山 公園 と京 都府 庁舎 の例 を比 較参 照し てお きた い︒ 京 の都 は︑ 幕末 の戦 火に 灰燼 に帰 し︑ 帝と とも に千 年以 上謳 歌し た権 威も 利権 も失 い︑ 寂れ た一 地方 都市 に転 落し た︒ 廃仏 毀釈 の嵐 は︑ 旧都 にも 容赦 なく 落剥 した 街を さら に荒 廃さ せた
︒し かし
︑京 都は
︑天 皇か ら下 され た産 業基 立金 を原 資に
︑近 代化 への 命運 を賭 けて 琵琶 湖疏 水建 設を 敢行 した
︒明 治 二 十三 年
︑総 工 費 一二 五 万 円を も っ て東 山を 貫通 した トン ネル は︑ 安定 した 豊か な水 源と なり
︑京 都は 都市 基盤 整備 を行 いつ つ産 業︑ 文教
︑観 光を 主軸 に近 代化 を図 った
︒ 万人
偕楽 ノ地
・円 山公 園
﹁万 人偕 楽ノ 地﹂ すな わち 公園 の設 置を 表明 する 明治 六年 の太 政官 布告 十六 号は
︑﹁ 京都 ニ於 テハ 八坂 社清 水ノ 境内 嵐山 ノ類
﹂︵ 脚 45注
︶と 場所 の指 定を 行っ てい た︒ 京 都 府は
︑明 治 十 九年 と 奈 良公 園 に 遅 れて
︑神 仏 分 離令 で 廃 絶し
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奈 良 県 庁 舎 建 設 と 古 都 の ゲ ニ ウ ス
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た東 山山 麓の 祇園 感神 院坊 舎跡 地︑ 祇園 の三 院三 坊の 寺領
︑円 山安 養寺 六坊 の総 計二 六千 坪余 りを 立地 に︑ 安養 寺の 山号 に因 み﹁ 円山 公園
﹂を 開設 し た︒ 東 山︑ 知 恩院
︑八 坂 神 社︑ 高台 寺 に 囲ま れ た 円 山公 園 は︑ そ の後
︑市 に 移 管︑ 拡張 整備 され 現在 の姿 にな った
︒琵 琶湖 疏水 の水 を引 き︑ まる で東 山か ら渓 流が せせ らぐ よう な自 然景 観を 特色 とす るが
︑造 園家
・七 代目 小川 治 平︵ 万 延 元﹇ 一八 六
〇﹈
〜 昭和 八
﹇一 九 三三
﹈年
︶と 建 築 家・ 武 田五 一 と の合 作 に より 人工 的に 造ら れた 自然 景観 であ る︒ 公園 内に は明 治十 二年 に安 養寺 塔頭 を 洋風 に 改 造し て 開 業 した 也 阿 弥ホ テ ル が 存在 し︑ 明治 四三 年に は地 元の 企業 家が ネオ
・バ ロッ ク様 式の 迎 賓 館兼 別 邸・ 長 楽 館を 建 造 した
︒さ ら に︑ 京 都市 によ る野 外音 楽堂
︵昭 和三 年︶ も設 置さ れ︑ 夜桜 のお りは 鹿な らぬ 酔客 が浮 かれ 騒ぐ
︑異 文化 混合 の行 楽地 とな って いる
︒市 民に も観 光客 にも 親し まれ てい る︑ まさ に万 人偕 楽地 であ り︑ そこ には 奈良 公園 のよ うな 突き 詰め た都 市の アイ デン ティ ティ は求 めら れて いな い︒ 京都
府庁 舎新 築 明 治元 年に 発足 した 京都 府も
︑当 初は 仮庁 舎を 転々 とし
︑明 治十 八︵ 一八 八六
︶年 に︑ 京都 守護 職本 邸跡 の現 在地 に居 を定 めた
︒庁 舎は 奈良 と同 じく 中学 校舎 を転 用し た建 物で
︑手 狭で ある ため に増 築や 他所 に間 借り の不 自由 を囲 って いた
︒山 紫水 明の 京都 にふ さわ しい 新庁 舎建 設が 急が れた が︑ よう やく 府議 会が 庁舎 新築 を可 決し たの は明 治三 十 三年 の こ と であ る
︒こ の 時︑ 新庁 舎 の 形式 に 対 す る世 論 も︑ 同 じ旧 都 と 並 び称 せ ら れる 奈 良 とは 全 く 異 な っ て い た︒ 明 治 三 十 年の 京 都 には
︑新 た な 文化 の 器 が 盆地 景 の 中に 乱 立 し︑ 街並 は 変 貌 を遂 げ て いた
︒明 治 初 期 の 擬 洋 風 建
旧 奈 良 県 庁 舎 建 設 と 古 都 の ゲ ニ ウ ス
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