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G.v. Le FortのDie Letzte am Schafottにおける救 済の意味について

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G.v. Le FortのDie Letzte am Schafottにおける救 済の意味について

その他のタイトル Uber den Sinn der Erlosung in Die Letzte am Schafott von G. v. Le Fort

著者 新谷 浩堆

雑誌名 独逸文学

巻 19

ページ 223‑246

発行年 1974‑04‑30

URL http://hdl.handle.net/10112/00017839

(2)

G . v .  Le F o r t

D i eL e t z t e  am  S c h a f o t t

における救済の意味について

新 谷 浩

フランス革命の最中,行列して歌いながら断頭台にのぼっていった16 のカルメル会修道女たち1を取り扱ったル・フォール (Gertrudvon Le  Fort 1876‑1971)の小説『断頭台下の最後の女』(DieLetzte am Scfott, Novene 1931)は,歴史的素材を扱ってはいるが,時代史的な意味を問題

にしているのではないことは,作者自身の次の言葉から明らかであろう.

「私の作品の出発点となったのは,まず第一にコンビェーニュのカル メル会の16名の修道女たちの運命ではなく,か弱いプランシュの姿であ った.彼女は歴史的な意味では全く実在しなかった.彼女はそのふるえ おののく存在の息吹きを専ら私自身の内部から受け取ったのであって,

この誕生の由来から切り離されることはできない.来たるべき運命の切 迫した予感によって,当時ドイツに暗い影を落していた時代の深い恐怖 感から生まれたこのプランシュの姿は,いわば<終末に向かう時代全体 の死の不安の具現>として,私の眼前に浮かび上ってきたのである.」2

こうして作者は,創作上の「いつもの好みに従って,アクチュアルな問題 や人物をあまりに息苦しい近さから解き放して,より純粋に,より平静に 組み立てることができるように,過去へと投影した」3 のである.

この作品が何よりも先ずアクチュアルな問題や人物を描こうとしている ことは,これが手紙形式で書かれていることからも明らかである.「パリ,

179410月」と日付けされた宛名も署名もないこの手紙は,フランスのお

‑223‑

(3)

そらくは貴族姿が,亡命先のある婦人に宛てた返信であって, 「ルソーのお 弟子さん/」と呼ばれているこの女性と同じ精神世界に住んでいた差出人 が, この手紙の中で出来事を報告し, これを解釈し,それによって自分の

考えの変化したことを訴え,相手もこの変化に従わせようとする姿勢が問 題であることが, この手紙形式の意味5なのである.従って, 自然的・合 理的・啓蒙主義的な精神態度の相手(少くともこの態度と同じである限り,

読者)に対する,手紙の差出人(作者)の個人的な呼びかけである. この 手紙は「あなたが口をお開きになる番です/」で終っているが, この最後 の要請が読者の心に「呼びかけ」としての余韻を残すことによって, この 作品における作者の主張がまさにアクチュアルであり,tuaresagiturで あることを示している.

手紙の差出人と受取人との対立的な人間像・世界像は, この手紙の導入 の部分ですでに明らかになる. 16名の修道女たちの殉教という同一の出来 事が,両者の間で全く別な解釈がなされる.すなわち,受取人の女性は殉 教女たちの態度に「人間性の品位,冒し難い気高さ」が守り通されたこと を確信しており, この女性の手紙から引用された修飾語は, edel,k6nig‑

1ich,herrlich,heldenmiitig,verehrungsmiitigのように,英雄的な人 間の尊厳を表わす価値世界を示している.それに対して,差出人にとって 人間は本来多義的価値を有するものなのである.すなわち「……カオスも また自然であり,あなたのおっしゃる女性たちの刑吏も,人間のうちの野 獣性も,それにまた恐怖や戦懐も自然なのです.」 (9f)従って,差出人の 気持は「……これら毎日の犠牲者の心を打つ平静さの中に人間性の品位を 見るよりも,崩壊する文化の最後のあがきを見ること……つまり, この戦 懐に対してさえもまだ文化の命じる厳しい作法か,ある少数の人たちの場 合には−それとは全く別なものを見ること」 (10)に傾いている.

こうしてここから本来の出来事が語られるのであるが, この「それとは 全く別なもの」(etwasganzanderes)は,何かを言い表わしているよう

−224−

(4)

であり同時にまた何も言い表わしていないけれども,導入部の最後に置か れた位置によって,作品全体のテーマを忍ばせている.そして極めて芸術 的な展開(比愉・象徴,対立・相応・上昇・転換などの文体原理6)によ って明確なイメージが与えられ,手紙の最後で差出人の明白な認識とな る.すなわち「……あなたは英雄の勝利を期待されていたのに,か弱い女 に行われた奇蹟を経験なさったのです……人間的なものだけでは足りない のです. また一革命前に−お互いにあんなに感激した>美しい人間性

<ですら十分ではないのです.」(89)死の不安に対する人間の勝利ではな く,それに対する恩寵の勝利というこの作品のテーマを, 「終末に向かう 時代全体の死の不安の具現」としての主人公ブランシュ(Blanchedela Force)におけ・る不安のモチーフにしぼって考察しようとするのがこの小 論の目的である.

2

すでに述べたように, この手紙の語り手の意図は,啓蒙主義的・自然的 な世界に住んでいる人間を超越的・超自然的な生命に触れさせて,改心さ せようとすることである.従って語り手にとって肝要なことは,人物や出 来事を象徴的に扱うことによって,つまり超時間的関連を与えることによ って, 自然と超自然との対照を示すことである.それ故に,相手を納得さ せるために,人物や出来事の自然的・合理的・心理学的な説明のあらゆる 可能性を汲み上げ, しかもその場合にまだ説明し難い謎が残るという決定 的な証拠を突きつけることである.

この語り手の態度を如実に示しているのは,たとえば,物語全体の出発 点となっている冒頭の,ルイ16世の成婚式の日に起きた花火事件の描写で ある. 「ルイ15世広場でのあの悲しむべき災難を惹き起した責は,警察官 の不注意にあった」(12)とするのは, 自然的・合理的な側からの説明であ って, 「啓蒙された世代には謎ということは最も堪え難いもの」(12)だか

1

−225−

(5)

ら,「群衆の不安の突然の爆発の謎」 (12)をこれによって紛らそうとした からである.

「実際には,警察官は抜かりなくその部署についていて,このような場 合の普通の予防処置は模範的なまでに講ぜられていました.貴族の馬車 は,群衆から丁重に挨拶されながら……歩行者の雑踏から離れて,万一 の用心のために, これも模範的なまでに几帳面に用意された消防用重 ポンプ車と並んでいました.……十字路には,群衆整理の警官や役目の 人が立っていました.群衆は,当時すでに>非常時くという言葉が流行 していたにも拘らず,衣服も立派で栄養もよさそうでした.だれもが裕 福な市民のように行儀のよい態度を示していました.祭典を喜んで待ち ながら,警官の合図に素直に従っていて,それから半時間後に,彼らが あのような大混乱を捲き起そうなどとは,およそ想像もつきませんでし (12f.)

語り手はすぐに続けて,この混乱の裏に潜む説明し難い,底知れないもの の実在に,読み手の注意を向けさせる.

「つまり,この不幸の勃発は,実際突然であり,不可解でありました.

というのもこの勃発こそひとつの Fanal(発火信号,前兆)だったから です.なんのことはない一寸した燃え差しが花火の貯蔵庫に落ちて,そ れでだれも傷ついたわけではなかったのですが,恐慌が閃光のように爆 発して,それからはもう何もかも無茶苦茶でした.街角の警官は腕をあ げることも忽ちのうちにできなくなり,というのも彼らはもはやそこに 存在しなかったのです.今まで嬉々としていた実直な善男善女はもはや そこに存在しなかったのです.そこにはもう自分自身の死の不安に押し ひしがれた一塊りの人間の潮のほかは,何も存在していなかったからで す.つまり,永遠にものの奥底に眠っているカオスが,良俗の一見硬い 殻の下から突発したのでした」 (13)

Ordnungsbehorde,  V orsichtsmaBregel,  respektvoll,  musterhafte 

(6)

Gewissenhaftigkeit,6ffenticheOrdnung,wohlhabend, anstandige Gesinnung,Wohlerzogenheit,Ordnungsbeamteといった言葉で市民 的健全さが述べられる一方, そのあとすぐにHereinbruch, plOtzlich, unbegreiflich,blitzartig,auSbrechendePanikといった言葉でカオス

が勃発する. これらのイメージは18世紀の革命前の雰囲気を伝えるだけで なく,世界の不透明さに投げ出されている現代の実存的状況にも通じるも のがある.詩人の予見的な眼には, 「自然」の中に隠れているカオスが実 在するものとなる.秩序と文化の見せかけの安定の中で不安感が常にひそ かに呼吸をつづけ,その安定が欺臓であるとわかったとき, カオスとして 燃え上るのである.伝統や風習,秩序や良俗はただごまかしの上辺を形成 するにすぎない.秩序はそれ故にカオスの中で消えてしまう,丁度個人が 群衆の中では「もはや存在しなくなる(nichtmehrda)」ように.語り 手は,花火事件にまきこまれるド・ラ・フォルス候爵夫人(Marquisede laForce)のことを報告する.桟のかかる儀装馬車の中にいた彼女は,

「多少興奮はしていたけれど,全く安全だと思って」 (13)いた. ところ が馬が辺りの叫声に驚いたのか,馬車が突然走り出し,群衆の中に突込ん でしまう. 「忽ち馬が止められ,扉がこじあけられ,煮え立つカオスが押 し寄せました……候爵夫人には,それ自体恐怖に満たされたぞっとするよ うな怪物の顔が見えました.次の瞬間には馬車から引きずり出され, ご自 分の顔もこの群衆の反映の一つにすぎなくなっていました」 (14)そこに はもう 「死の不安に押しひしがれた一塊りの人間の潮」, つまり顔のない 人間のほかは何もなくなってしまうのである.

合理的解釈の可能性の限界をはるかに越える現象が, ここでは詩人の言 語形成の力によって,結局心理学的な謎として残るのである. このことは また, ものの本質の二重構造に対する語り手(作者)の基本的態度を表わ しているように思われる.

それでは一体語り手は, ものの本質の不可解さに対して,どこに救いを

−227−

(7)

|

見出そうとしているのであろうか.それを解明する手がかりとして,ブラ ンシュにおける不安のモチーフを辿ってみよう.

3

本題に入る前に,不安のモチーフはこの作品の根本モチーフであること を指摘しておきたい.花火事件が一般にルイ6世とマリー・アントワネッ トの運命の不吉な前兆だと見られることに対して,語り手はそればかり かその象徴であると見る. 「革命とは本来,終末に向かう時代の死の不安 の爆発です.そしてこの点に私の言う象徴的なものがあるのです.」 ('2)

象徴とは,ル・フォールが言うように, 目に見えぬものを, 目に見えるも のによって語る言葉である.7従って, ブランシュにおける不安は,人間 一般の死の不安の象徴なのである.

幼いときから,はるかに度を越して臆病な態度を見せていたブランシュ の不安は,その象徴的意義のわからない父親ド・ラ・フォルス候爵(Mar‑

quisdelaForce)の口癖という形で, まず自然的な立場から理由づけ られる.つまり,出産間際の候爵夫人が花火事件にまきこまれ,恐怖のあ まり早産したという誕生の悲劇である. 「いわば母親の恐怖から早産され たブランシュは,丁度この恐怖よりほか何の持参金もつけられなかったよ うなものでした」 (14f.) 「この階段滑らないかしら,この壁崩れやしなく って」(15) こんな質問を絶えず口から漏らしていた彼女に, しかしある 日実際に不思議なことが起こる.家庭教師に促されてしぶしぶつかまった 階段の丈夫な手摺の桟が折れてしまうのである. ('9) 「……その不安に脅 えた大きな目は,安定して存在するものの堅固な仕組みをすかして, どこ にでも恐ろしい脆さを見通してでもいるようでした.」 (15)

ブランシュはその誕生からカオスとの出会いによって特徴づけられ, かも常に崩壊する世界という不安に駆り立てられており,その不安を克服 しようとする彼女のあらゆる努力は結局,後に述べるように,決定的に不

−228−

(8)

安の中に埋没することで終わる. この彼女の生き方においてわれわれは,

不安の象徴的意義を理解するのである.

その経過を語り手は,父親の候爵の話や,修道院長の執務日誌や,ただ 一人処刑を免れたカルメル会のマリー童貞の話やその回想記によって実証

あかし

的に話をすすめ,そして最後に自分自身が目撃したことを,相手の女性に証 するのである.

どの人間もそうであるように,ブランシュも勿論自分の臆病さと戦い,

それを克服しようとする.彼女は最も単純なやり方で,つまり,恐怖を惹 き起こすものをすべて避けようと努めることによって始める. 自分の臆病 を恥ずべき欠点と考え, この欠点を隠す方策を見つける. 「この階段滑ら ないかしら, この舟沈みやしなくって, とかはもう言わなくなって,突然 疲れたり気分が悪くなったり,何かを取って来ることを忘れたり,要する に,舟に乗ったり階段をのぼったりする必要のなくなるような何らかの理 由が起こるのでした.」(16)戦いというよりはむしろ逃亡と同じこの努力 は,彼女の態度を決定する.家庭教師シャレー夫人(MadamedeCha‑

lais)の宗教教育の結果,彼女は次に神の全能の下で唯一の安らぎを見出 す.シャレー夫人がこの教え子に特に幼いイエズスを示したことは,心理的 に確かに正しいことであった.ブランシュは初めて, クリスマスの頃聖堂 に顕示されるコンピェーニュのカルメル修道女会の蝋製のイエズス像,ル・

プティット ・ロワ・ド・グロワール(LepetitRoideGloire)を目にす る. シャレ一夫人によれば, この像には金の王冠と王笏とがあって,両方 とも,天地の支配者たる印としてフランス国王から贈られたものであっ て,幼きイエズスはこの贈り物のお礼として,国王とその国民とをお守りに なった.だからただ国王のように,この幼きイエズスのために何かと心掛け さえすれば,それには何も王冠や王笏を捧げる必要はなく,つまり,祈り

や愛の一寸した行為や尊敬や従順の信心さえすればよいのであって, これ を誠心こめて果せば, フランス国王と全く同じように十分この幼きイエズ

−229−

(9)

スの守護を期待できるというのである.Cl7f.) 

こうしてプランシュは神のもとに逃亡する.彼女の逃亡は,世間との結 びつきを一切もたない厳格なカルメル修道女会に入るほどの極端さであっ た.シャレー夫人の教育による最初の宗教的な魂の高揚においても,「か っての小心を自分でも嘲笑う」 (20)までになっていたが,修道院の門を 跨いでからは「その少ししゃくれた小さな顔に確かに隠し切れない喜び」

(22)を現わしていて,その頃始まった革命の騒がしさが修道院の壁越しに 聞えてきたときも, 「それはもう私たちのところまで参りませんわ. ここ ではそんなことにもう安心しておれます」 (23)と声に出すほどであった.

しかし,修練女長マリー・ド・ランカルナ・.ノオン (Nov1zenme1sterin Marie de 1'Incarnation)はプランシュの欠点を見抜いていて, 彼女の 弱さを次のように特徴づけている. 「院長さま,この娘はいじらしいと思 います.丁度小鳥が巣にもぐりこみますように,このカルメル会の院内に 羽を休めに参ったようなものですから.弱いだけに一層この子がいとおし いと思えます.ただ,いとおしいと思うからこそー一院長さま,こうした 小っぽけな信心は幾千となくございます.こうした取るに足りぬ信仰の炎 も幾百となくございます.毎日パリの多くの祭壇の前には無数のこうした 信心の炎が燃え,そのまた無数のものが世間の荒波によって吹き消されて おります.こうした燃えさしはカルメル会に運びこまれるものではないと 存じます. カルメル修道女会は隅々まで力に満ちたものでございます.」

(28.)この言葉はまた,マリー童貞(強さ,偉大さ) とプランシュ(弱 さ,卑小さ)との対照的な性格を示している.

ブランシュがもぐりこめた仮の安心立命の世界から彼女を追い出すのは,

キリスト教的パラドックスともいえる神の摂理である.すなわち,それを 惹き起こすのは,クロワシイ院長 (PriorinCroissy)の苦痛に満ちた死 である. 「院長のご臨終は外目にも大変お苦しそうで,その呻吟は幾時間 もの間修道院中に聞えていたほどでした.プランシュはおどおどして,一

‑230‑

(10)

1

体このような聖女に天主様がこんな苦痛をお与えになるなんてどうしたわ けでしょうかと尋ね廻り,修道院でも呆れるほどの戦懐に身を震わせてい ました.」 (23)ブランシュは突然,神がその選ばれた者を必ずしも疵護す るとは限らないことに気付く. そこからまたもや不安が突発する. つま り,逃避の宗教性が臆病の宗教性であったことに今や気付かねばならなか ったのである.

しかし,マリー童貞の異議にも拘わらずブランシュの着衣式が執り行わ れ,新しい呼び名一園におけるご心痛のイエズス(Jesusaujardinde l'Agonie)−を得て大きな喜びを感じたブランシュからは, この反動も 消えてしまったかのように思われた. 「マリー童貞でさえも満足するほど 顕著な進歩」 (32)を示していた.それだけに第二の反動は一層ひどいもの であった.革命委員会の委員が修道院を訪れ,新しい権力者に熱心に奉仕 する無裳な下廻りの小男が,ブランシュの庵室のドアを荒々しく開ける.

彼女は「その後革命の最も血腫いときでも,二度とこんな叫び声を聞いた ことがない」 (34)ほどの悲鳴をあげる. しかしこのショック状態は今度の 場合,疲れを知らぬ看護婦のように,ブランシュの側につききりで慰めを 与えたマリー童貞によって回復する. 「そうしてブランシュは数日後には 再び童貞方の間に交わり,あの委員の前で演じた事件の悪印象を改めよう

と努力していることがわかりました.」 (40)

しかし第三の出来事は決定的なものとなる. クリスマスの夜修道女会の 恒例に従って各庵室に持ち廻られるル・プティット・ロワの像,−それは 国民議会の布告によりすでに王冠や王笏が取られていたので,マリー童貞 にとってはまだキリストの地上の力の印であるが,ブランシュにとっては その弱さの表現である−この像が,そのとき聞えてきたカルマニョルの 歌声に驚いたブランシュの両手から離れ,むき出しの頭が床にぶつかり,

もげてしまう. 「ブランシュはきやっと叫んで,その途端彼女の顔{ま殆ん

ど聖痕を受けた者の顔のようになりました.」 (47)この決定的な夜以来,

−231−

(11)

T

仲間の修道女たちにとって理解できない,否,箪豊となるような態度をと る. 「………最悪のこと−そしてこれこそ本当の蹟きだったのですが

−それは,ブランシュが急にもう以前のようにその弱点と戦おうとはし なくなったという印象を,人に与えたことです.」 (48)

ブランシュは自分の不安に対するあらゆる抵抗を放棄してしまう. こう してブランシュは常に逃げていた不安を身に引き受け,彼女の修道名に,

すなわち,ゲッセマネの園におけるイエズスの死の不安に従うのである.

彼女の魂のこれ以後の展開は,結局合理的な説明のあらゆる可能性を乗り 越えてしまう.彼女は人間の自然な具体的状況から,神の十字架への道を 歩むのである.

このことを予感的に理解しているように思われるのはリドワンヌ院長 (PriorinLidoine)だけである.ブランシュに還俗をすすめる場面,あ の不思議なほど詩人的予感の透明さにあふれている場面で,院長はこの理 解を許される. 「彼女(ブランシュ)は何故呼ばれたのか察しがついてい たふうで,彼女には罰せられる子供のようなところがあり, しかし同時 に,不思議に自信たっぷりな最後のとっておきの平静さと従順さとが窺 われました.」 (49)彼女は黙って院長の前に立ち,一言も口をきかない.

そこで院長は,還俗をすすめることカミそんなにひどい仕打ちなのかどう か,彼女に答えるように命じる. 「ブランシュは院長の足下に脆いて,両 手で顔を覆いました. 『院長さま,話せというご命令です』と彼女は低い 声で口を開きました. 『ええそうですとも,それはひどいお仕打ちです.』

『それではあなたの修練長(マリー童貞)のお考え違いで−あなたはご 自分の弱さにまだ打ち克てる望みがおありなのね.』『いいえ,院長さま.』

全く絶望的なその声音は, しかし同時に何か奇妙に自信たつぶりに響きま した.院長は突然, ものの標準がみんな壊されて行くように感じました.

『私の顔をごらんなさい』と鋭く命じました.ブランシュはその小さなし やくれた顔から両手を離しました.その顔に浮んだ表情は,いわばある唯

−232−

(12)

一のものに凝集されたようでしたが,不思議にも驚くべきほどの巾が現わ れていました.院長さえ, これがブランシュだとは信じられないほどでし た.院長の心眼には,突然全く関連のない多くの姿が浮かびました−瀕 死の小鳥,戦場の負傷兵,絞首台の死刑囚一もはやブランシュの不安で はなく,不安そのものを見たように思いました. 『でも全世界の死の不安 をあなた力ざ−』院長は度を失いこう言いかけて, はたと口を閉じまし た・短かい沈黙が来ました.それからおずおずとリドワンヌ院長は言い添 えました. 『ではあなたの恐怖が−宗教的なものだとお考えなのね.』

ブランシュは深いため息をつきました. 『院長さま』畷くように彼女は言 うのでした. 『私の名の玄義のことをお考え下さいませ.』」 (50f.)

この時点での院長の日誌は, 「大抵は無味乾燥なこの記録がほとんど異 常なまでに宗教的な声明になっている」 (51) ことを語り手は報告し, 誌の数頁から引用している.ブランシュの臆病,死に対する恐怖,つまり 魂のprofanな不安が,彼女のこの諦念によってreligi6sなgeistlich なものとなる.それはもはや地上の苦しみを免れさせる救済ではなく,人 類のすべての不安を救済するための,ゲッセマネの園におけるイエズスの 死の不安との一致である.それによって彼女はまさに,アヴィラの聖テレ

ジア8の完徳の道に達したのである.

院長の決断によって,ブランシュはひとまず修道院に止まることになる が, もの事をまだ深く理解し得ないひとびとの,修道院においても,その 軽蔑に会わねばならない.聖職者市民組織法に対して王室が反対し,マリ

ー童貞が王室を支持するために,皆の生命を賭することを迫ったとき,院 長はこれに対して,修道院の中に弱気の者がいるかもしれないという理由 で同意をためらう.そのときマリ一童貞は激しく次のように叫ぶ. 「院長 さま,あの子の弱気のために,なぜ他の童貞方の勇気をお挫きになるので ございますか.あの子はド・ラ・フォルス(強者)という名を持ってはお りますが,実際はド・ラ・フェブレス(delaFaiblesse弱者)と呼ぶべ

II

−233−

(13)

T

きでございましよう.」 (57f.)

この頃のブランシュの様子について, リドワンヌ院長は「少しも心理的 説明を残してはいない」 (54)し, 「院長の日誌には,ただ次のような実際 的な一寸した指示が見られるだけです.すなわち,私はこの可哀そうな子 に,不安そのものの中に自己の安らぎを求め続けるように忠告しました…

…」 (54)

死の不安に忠実であること,神へのこの窮極の献身は,哀れなブランシ ュにとって今始まる.院長の留守にマリー童貞のヒロイズムによって,禁 止された終身誓願が実行される.恐怖政治の差し迫った状況において, も はや避けられない事態であった.いつものように逃避によって救われるこ とができるように,ブランシュは除外されるべきであるというのがマリー 童貞の考えであった.勿論これは軽蔑からでなく,純粋の同情からであ る. しかしそれにも拘わらず,ブランシュは誓願の仲間に加わる.マリー 童貞は再度彼女に思いとどまることをすすめるが, 「童貞さま,私は不実 者にはなりたくございません」(65)というのがブランシュの答であった.

この様子を語り手は,他の童貞たちの顔には「完全な献身,最後の余すと ころなき溢れるばかりの熱意のこの上ない幸福」 (66)が刻みつけられて いたのに対して,ブランシュについては, 「私はこの汗にまみれた小さな しやくれた顔,その戦櫟−フランス全体の戦懐一否,永遠なる愛その ものの戦懐で押しひしがれたこの顔を見るに忍びない気カヌV,たします」

(66)と書いている.

誓願遂行の奉献式の最中,聖体拝領Kommunionを受ける直前,ブラ ンシュの姿が見えなくなる.死の不安に忠実であることを示すかのよう に'彼女は修道院から逃亡する. 「ところで, この瞬間にブランシュの神 経がはち切れてしまったのだと申しても,確かに誰も反対はいたしますま い. しかしまた他の解釈もできましょう. 『可哀そうな子』とリドワンヌ 院長は書いておられます. 『あのときあの子ひとり,死の不安の主のそば

−234−

(14)

に辛棒していたいと思っていたのです.そしてその力も砕けてしまったと き,いわばこの不安の真只中にくずれ落ちてしまったのです.』」 (66)

自然的な解釈ではここでもまだ「自分の娘が本当に嘆かわしい有様で,

パリの自分のところに辿りつき,そのまま病床についてしまった」(67) いう院長に宛てた父親ド・ラ・フォルス候爵からの便りが報告される.し かしブランシュが逃亡したのは死の不安の真只中へであった.この絶対的 な不安への参加は,人間の自然的な意識によってではなく,宗教的な意識 によってゆだねた不安によるものであった.

しかしやはり聖体拝領は受けねばならない.それを先取りするのは,パ リの獄舎でのあの有名なソンブルール嬢 (Frauleinvon Sombreul) 事件である. 彼女は「国民万オ/」の叫びの中で, 父親の命を救うため に,仲間の貴族の血で満たされた盃を飲み干す.同じ獄舎の庭で手紙の筆 者は,地上に横たわる処刑されたド・ラ・フォルス侯爵の死骸と,その背 後の壁にもたれているプランシュの姿を認める.彼女の前に赤帽をかぶっ た男がいて,彼女が元修道女であることを見抜き,盃を手に持ち,その上 で十字を切り,「おい娘っ子,ご聖体でもいただくがいいや/」 (71)と叫 びながら,その盃をむりやり彼女の唇に押し当てる.死の不安の聖体拝領 はこうして,自然的な解釈では何の代償もなく何の意味もない行為で終っ たのである.

完全な自己喪失,今はもう自己以外のものによってしか満たされること のない,つまり容器にすぎないこの状態は次のように表現される. 「その 顔は全く無表情で,ソンプルール嬢の顔のように霊化されずに,いわば自 分の中に埋まり一ーもはやそこには存在しなかったのです.その短かい頭

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

髪は乱れ放題にその顔にまつわりつき,彼女の人格の完全な破産の象徴の ように,私には見えたのです.」(71f.傍点筆者)再びここでnichtmehr da  という,カオスの突然の侵入(花火事件)に現われた表現が用いられてい る.こうしてまたプランシュは,その成立を不安によっているカオスの中

‑235‑

(15)

に姿を消すのである.そしてまさにこの変化の重要性を際立たせるため に,語り手は次のようなマリー童貞による目撃をつけ加えている.すなわ ち,訴訟のために院長と同行してパリに出てきたマリー童貞が,女たちの 一団にまじってプランシュが,囚人たちを断頭台に運ぶ馬車のあとを追っ ていたというのである.それがプランシュであったかどうか彼女には自信 のなかったことは意義深いことのように思われる.何故なら「カオスの中 ではひとは自分の顔というものを全く持ち合わせません.プランシュの小 さな無表情な顔はもう識別できなかった……」 (80)からである.(マリー 童貞はその囚人馬車のあとを追って姿を消し,コンビェーニュ行きの駅馬 車に乗り遅れて,結局は自ら熱烈に志願していた殉教から除外されてしま

プランシュの個性の完全な喪失のこの印象的な二つの報告は,プランシ ュの犠牲的行為において「英雄の勝利」を認めるような,あの自然的見解 の誤謬をはっきりさせているばかりか,この犠牲の本来の超自然的意義も 明らかになる.それはまさに,プランシュが不安にあくまでも忠実に留ま り,修道名によって下された呼びかけに対して,自己解体にまで死の不安 に身をさらすことで成就されるのである.プランシュは自分を譲り渡し,

群衆の中に没し(自分たちの間で生活していたというかっての九月党員の 報告 (73f.)),群衆の不安を引き受けることによって, 彼らのために贖う

のである.

ブランシュは不安の中に没落し,そして上昇する.修道女たちの処刑の 場面で,彼女は一つの声で満たされる容器となる.彼女はそれによって別 の者の,つまり創造者の声が響き渡る道具となる.もはや人間が行為する のではなく,神が創造者として再来し,カオスから再び人格を創造するの である.

修道女たちの歌声がこれを先取りする.その歌声以外には,彼女たちが

‑236‑

(16)

どのような態度でひとりひとり断頭台に登って行くのかは,読者に知らさ れないし,処刑の様子も報告されない.殉教女たちの詳細な報告がもはや 重要でないのは,彼女たちがただ犠牲となる道具でしかなく,英雄ではな いからである.彼女たちはただ聖歌Creatorspiritusの声でしかない.

その場に現存し,ただひとり行為する神のイメージとして,感覚的に認め られるこの声だけが報告されるのである.

「..….この歌声は時間の感覚を全くなくさせてしまい−また空間を も消してしまいました−広い血腫い革命広場をも消し,断頭台をも消 し,それは……カオスの感じをも消してしまいました.私は突然, 自分 が人間の中にいるのだという感じを取り戻しました……聖歌は今はもう ただ二人の声だけで続けられていました.一瞬の間その歌声は輝く虹の ように革命広場の上に漂よい,それからふと一方が消え失せたかと思う と, もう一方がまだ続けられました. しかし,前者の色あせた光はもう 第二のものに受けとめられていました.−それはごくか弱い, きれい な,子供っぽい声でした.私はそれが,断頭台の上から聞えてくるので はなくて,群衆自ら答えでもするように,人混みの中から聞えてくるよ うに感じました−」 (87f.)

.N.Heinenはこの箇所を, 旧約の詩篇的特色(意味と旋律と均斉との パラレリスムス)が全頁を形成していると指摘し,詩篇のように各行を区 切りながら, この出来事の中で行為し,密かに秩序をもたらす形而上的世 界の諸力が,各行に反映していると述べている.9

ブランシュにおいて, カオスに代ってコスモスが実現される.神の声の 響き(per‑sonare)の中で,単なる存在が人格Personとなるのである.10

「私は見たのです……すさまじい女達の渦中に紛れもないブランシュ・ ド

・ラ・フォルスを認めました.彼女の青ざめた,小さなしやくれ顔はその 周囲から浮き上って,何かヴェールでもはぎ取ったようでした−私はこ の顔のあらゆる特徴を再認しました.しかも以前とは打って変っていたの

−237−

(17)

FIll︲lIIIIIlll

です−それは少しも怖ろしげのない顔でした.彼女は歌っていたので す.彼女はその小さな,か弱い子供っぽい声で,少しも憶することなく,

いいえ,小鳥のように嬉々と歌っていたのです.」(88)彼女において新し い秩序がカオスを変え始める.彼女の顔は「周囲から浮き上って」見え,

昔の不安の顔を「ヴェールのようにはぎ取って」いた.それは紛れもなく ブランシュであり,今や再び彼女自身の顔として認められる.ブランシュ は「不安」を忠実にわが身に引き受け,今や「復活」を体験することが許 される.すべての恐怖は彼女から取り去られたのである.

ブランシュの歌声は明らかに三位一体への信仰告白で終わる.彼女の仲 間の修道女たちの犠牲が,群衆が再び人間となることincarnatioを可能 にしたとすれば, まずブランシュにおいて救済が告げられるのである.新 たな人間としての出発は, また人間的な行為によって示される.つまりブ ランシュは, 自分たちのしていることが分らない女たちの手で殴り殺され る. しかし彼女は人間の手によって殺されるのであって, 「カオスに適わ しい道具」 (86)であるギロチンによってではない.ユユそれは「区別せず,

責任を負わず,何物にもたじろがず,感動せず,そこにあてがわれるすべ てを,最も聖なる者をも,最も忌むべき犯罪者をも,冷やかに粉砕する.」

(86)それこそ魂を失った群衆の興奮にになわれていたものだからである.

しかしこのまだ残酷な人間の行為にも拘わらず,創造と救済は続けられ る.すなわち, 「実際この恐怖政治は,それから十日後に壊えてしまった」

(88)のである.

4

この作品のテーマー死の不安に対する英雄的な人間の勝利ではなく,

それに対する神の恩寵の勝利一における救済の意味を,ブランシュの不 安のモチーフにしぼって考察してきたが,最後にブランシュをめぐる登場 人物について簡単に述べ,ル・フォールの言う,いわゆる「神的な秩序」'2

−238−

(18)

について言及しておこう.

ブランシュの父親として登場するド・ラフォルス候爵は,登場人物カヌす べてそうであるように,個人としてでなく,彼が所属している精神的・身 分的世界に結びつけられているように思われる. 「パレー・ロワイヤルの カフェーで友人たちと自由平等を論じていた」 (11)この啓蒙主義者は,

生の「理性的」な意味のみを信じ,宗教を「天国とその住人との甘い幻 想」 (21)と見なし,教会は「過去の遺物」 (20)であり,修道院を「宗教 の牢獄」 (11)と呼んでいた. しかし宗教に対する彼の見解は,革命がま すます恐ろしい様相を帯びてくるにつれて, 「驚くべき変化」 (67)を遂げ る.つまり, 「宗教,特に教会の必要を広く認めること」 (67)で自分も驚 き,周囲をも驚かす.勿論それは「宗教界が秩序や風紀の維持のために大 変価値のあるもの」 (67)という宗教を道徳の目付役とするような全く理性 的根拠からである. こうして彼自身の最後はただそっけなく,つけ足しの ように報告される.

候爵と違って,敬虐で宗教的志向の持主であるシャレー夫人の信念も,

「自然的」な根拠に基いていて,人間の窮極の事柄は神の恩寵ではなく,

人間の意志によるものだという,つまり,敬虐さの積み重ねが地上の幸福 に対する確かな保証を示すというしろものである.彼女の信仰は,神に反 対給付を強請する商人的行為である. このような態度を具体的に表わして いるのが,彼女の「鯨骨でできた少し窮屈そうなコルセット」 (18)であ る.彼女の安心感をゆり動かす傾向のあるすべての不愉快な質問は, この コルセットに当ってはね返される(18). しかし彼女の信じていた王家の安 泰が危ふくなり,事態が「防ぎようもなく恐ろしい無秩序に落ちてゆく」

(62)と,彼女の敬虐な安心感もまやかしであることが分かる. 「それはま るで彼女の敬虚さがすべて忽ちのうちに終ってしまったかのよう」(62)

であった. この内心の崩壊と一致するのは彼女の外観である.すなわち,

「彼女の窮屈なコルセットは口が開いてしまって,その鯨骨でできたほれ

−239−

(19)

1

が椅子に倒れたときに折れてしまい,見るも無残に寸断された絹張りから 頭を出していました.」 (62)彼女の最後も,候爵のときと同じように,つ け足し的に極めて簡単に報告される. 「私は後になって,彼女はやっと間 に合って国境に無事に辿りついたものの,それから三日後にブリュッセル で死んだということを聞きました.」 (63)

ブランシュの弱さに対して,英雄的な強さを示すのはマリー童貞であ る. フランスのある王家の落し胤として,彼女は修道院に入会することに よって, 自分が生まれた「宮廷の罪過を償いたいという熱望」 (26)に駆 られている.手紙の筆者は彼女の特徴を「極めて印象深い人柄」 (26)「堂 々とした顔の彫り」 (28) 「偉大な気高い修道女」 (81)と述べ, 「彼女は聖 后の肖像画,いやそれどころか聖王の肖像画のモデルにもおなりになれた でしょう.」 (26)とその印象を語っている.彼女の王候のような態度はあ くまでも気高く,その犠牲の覚悟は,断じて自分自身の魂の救いなどでは なく,専らフランスの王国とその教会を救うことにある. しかし彼女は,

自然の生命の力強い犠牲によって,超自然的な恩寵の働きを強要すること ができると信じている.それがよく現われているのは,修道院にやって来 たあの革命委員の前での態度である. 「自分に無縁な信仰告白を容れるだ けの雅量を持たない」 (37)下端役人が, 「つい先頃のバスティーユのよう に,修道院や教会がたたき壊される日がそのうちに来るだろう. しかしそ の居住者たちは一一バスティーユの総監がどうなったか,あんたは知って いるんだろうな」 (37f.)と言ったとき, 「彼女は暫くの間じっと身動きも せず,全く音も立てずにいました……それから次第に嬉しそうな濃い赤味 が彼女の顔色にさしてきました. 『知っています.』ごく低い声で彼女は答 えました. 『知っていますとも,ようく存じております.』その声音は,何 か不思議な仕合わせに圧倒されて,低く抑えつけられたようでした.」(38)

まさにこの場面で,彼女が「崩壊する文化の最後のあがき」に属している ことが明かになる.それは恐怖にはまだ「厳しい作法」で抵抗を示すが,

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(20)

カオスを克服することはできない.つまり「それとは全く別なもの」では ないのである.マリー童貞によってまさに,最後の人間的努力も,その信 仰すらも誤りであることが示される.彼女もやはり人間的.自然的可能性 の範囲に留まっているからであり,従って最も高貴な者でも,救済が拒絶 されるのである. 「あなたも私も,どんなにか人類のこの新たな日を歓迎 したことでしょう・そしてわれわれの幻滅の何と無残だったことでしょう.

何故なら,無節制な衝動が無秩序な状態に導いたり,誤まった思想が逆上 や犯罪を激発させたりすることは,そんなに恐るべきことではなくて,本 当に人間の恐るべき悲劇とは,その極めて高貴な理想でさえも(そして自 由とか友愛とかもこうしたものではなかったでしょうか), ある瞬間には 痴行に堕し,それとは全く反対なものに変ってしまうこともあり得ること なのですから.だからといって,われわれの理想はすべて嘘だと言うので 'は勿論ありませんが,ただおそらく,それだけでは足りないであろうと言

いたいのです.」 (58f.)

しかしマリー童貞と前二者との違いは,その自然的な態度から超自然的 な態度への変化である.ブランシュの苦難の道を理解した(女たちの一団 に混ってブランシュが囚人馬車のあとを追っているのを見かけたとき,彼 女は「お畠イエズス・キリスト様,私には今あなたの死の不安がよく判り

ました」 (79)と叫ぶ)とき,彼女の確かに超人的であったが, 自然的な領 域に留まっていた死の覚悟は,ブランシュの謙虚なそれ故に超自然的な決 定に屈して, 「恐怖や憶病は蹟きにきまったものでしょうか. それは−

少くとも初めは−勇気よりはるかに深いもので, ものの現実,つまり世 間の恐ろしさにずっと適し, また−私たちの弱さにもずっと適ったもの ではないでしょうか」 (26f.)という認識に至り,生が死よりも困難である

こと,生きのびることが義務であるという洞察に至る. 「しかしここにも ある決死の覚悟が潜んでいます.つまりそれは,生涯を通じて一生の意義 と認めていたものの黙殺であり,すなわち犠牲そのものの犠牲なのです.」

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(21)

(82)'3

マリー童貞の自然的な犠牲の意志に対して徹底的な抵抗を果すのは,勿 論ブランシュではなく, リドワンヌ院長である. 「その外見もその信心生 活も極めて目立たない」 (29)彼女は, 「修道女たちの英雄的な心の準備に 不思議なほど冷淡をよそおう」(43)のである.そして日誌に「うちの娘た ちはまた殉教ごっこを始めています」 (43)とこの誤まった英雄主義を皮肉 る. 自然な日常的なものをすべてむりやり捨てることを,たとえそれがど んなに高貴な意図でなされようとも,彼女は斥ける.、不安をむりに抑える ことも,むりな犠牲をもである.何故なら,それらは超自然よりもむしろ 反自然へと向くからである. 「大切なことは,たとえ至高のものであって も私共自身の目的を実現することではなくて,天主のみ旨が実現されるこ とです.」 (46)勿論犠牲が避けられなくなったとき,あいまいな宿命の甘 受とか,あるいは「カオスに抗う突撃」(75)とかではなく,彼女の口癖の

「神の摂理による犠牲」 (75)を,つまり,神の測り知れない計らいに対す る無限の信頼において犠牲を捧げるのである.彼女のそれは, 日誌に度々 記されているように, 「希望なき犠牲, ただ天主のためにする犠牲, ヒロ イズムなき犠牲,ただ天主を通じてのみ行われる犠牲,暗夜の犠牲, カオ スの真只中への犠牲」 (75)なのである.

登場人物がそれぞれの象徴を担っていること(例えば,プランシュの肉 体性はその霊魂の不安の象徴であり,その魂の不安はゲツセマネにおける キリストの不安の象徴である), またそれぞれの存在の段階が, 自然的な ものと超自然的なものとの弁証法的対立でなく,調和的統一を成立させて いること(例えば,端的にはリドワンヌ院長の場合)とは, この作品の内 実と同時に形態の根拠になっている. この作品に屡々現れる比愉が,出来 事の報告の最後を締めくくっている. 「そのとき私は,幼時におけるよう に,存在のあらゆる段階を経て,それが神的なものであるが故に永遠な,

あのものの真底にまで沈んでいったのでした.」 (89)存在の段階づけられ

−242−

(22)

た秩序と似姿的なものとしての存在の象徴性とが,ル・フォールの世界観 を形成しているように思われる.あの美しく類いまれなエッセイ『永遠の 女性」の序文でル・フォールは, 「象徴とは, 究極の形而上的現実と使命 とを,抽象的にではなく,比喩的に直観し得る符号または像である」と述 「この前提となるのは, すべての存在と事物の意味深い秩序に対する 確信であり, この秩序は, すべての存在と事物そのものを通じ, すなわ ち,まさにそれらの象徴の言葉を通じて,神的な秩序として示される.従 って,象徴はそれを担う個々の者を結びつける.しかし,たとえ個々の者 がもはやその意味を認めず,あるいはそれを更に否定したり,棄て去ると しても,象徴は損われることなく,また損われ得ないものとして個々の者 を超えて存在するのである.それ故に,象徴はその都度の担い手の経験的 な性格や状態を示すのではなく,その形而上的な意味を言い表わしている のである.象徴の担い手が象徴から脱落することはあり得ても,そのため に象徴が壊れてしまうことはない」14と書いている.

いずれにしてもこの「断頭台下の最後の女」は,過去の一回限りの奇異 な出来事に重点を置く従来の Novelle的な見方ではなく,「瞬間の出来事 が,同時にいわば永遠の中で起きた」15事件を描くものとして,新しい共 同体の形式と秩序を提供している作品と見ることが肝要であろう.

(本稿は, 14号に発表予定の原稿に基いている)

テキスト:Gertrud von le Fort : Erztihlende Schriften. Dritter Band. Munchen  /Wiesbaden, 1956 Seite 990. 

(本文の括弧内の数字はテキストの引用頁をあらわす.なお訳文については,現代カ トリック文芸叢書V『断頭台下の最後の女』 (昭和17年甲鳥書林)の小林珍雄訳を参 照した)

1)コンピエーニュのカルメル会の16名の修道女は, 1906527日にピオ10世によ

‑243‑

(23)

って列福された. これらの殉教女たちは1792年9月14日修道院から追放され,そ れからほぼ2年間コンピェーニュの町に散り散りに住んでいたが,禁令に反して まだ祈祷やミサに集まったので, 94年6月22日に逮捕され, 3週間後パリのコン シエルジユリーの牢獄に放りこまれ, 7月17日法廷審理の後断頭台に送られた.

彼女らは断頭台にのぼりながら,LaudateDominium, omnesgentesを歌っ たと言われる. (GeorgBernanos:D"6gg"α"オgA"邸オ(Herder‑Biicherei Band48)の訳者EckartPeterichの後記(S.133)より)

2)G、v・LeFort:Z〃GgoγgFs比γ"α"os' ,,D"6g剛αcMeA"gs#" In:A"/L zg允加""gg〃〃"dEγ伽"gγ""ge"Einsiedeln, 1951S.93.

3)ibid.S.93f

4)文中に一カ所,手紙の筆者に対する呼びかけとしてHerrvonVilleroi という 名が見える.

5)GerdaBrenningはEγ〃"gγ""ge"z"Geγ〃〃o〃んFbγオsD"L"z"

α"@ 、R"α/b"D彪助"so〃オaD@sG""""sMee7'es. (Dr.Wilhelm K6nigsErlauterungenzu」enKlassikern・Band286Hollfeld/Obfr.)の中 で(S.8), この手紙が訴えと情報と信仰告白の三つの性格を持っていると述べて いる.

6)これらの概念はGisbertKranz:Ggγ〃"d〃0〃んFbゾオa"K""s地γ伽.Ge‑

zgα〃〃γ肋〃e"e,,D"Le吃オgqf7z 、Sb肱がオ"(Paderborn)による.

7)G、v.LeFort:DjgE"z配乃α"・Mfinchen, 1960S、5.

8)TeresadeJesds(1515‑1582)スペインの神秘思想家. カルメル会を改革し,

カルメル女子修道会を1563年に創立した.Q""伽Odgpe なわ〃(『完徳の道』)

と題する著書がある.

9)NicolasHeinen:Geγオγ"α〃o〃んFbγオ副ク戒j〃""g"Lebe",K""s#〃"a Ge〔わ"舵"z"e〃伽γD允〃gγ伽. 2.vollstandigerneuerteAufi.Luxemburg, 1960S.131ff.

10)IngeborgEhringhaus:Ggγ""α〃o"LeFbγ#: ,,D"Le""α加S℃"α/b"'' In:D"De"sc〃"#gγγ"〃.Heft6(1952)S.97.

11)ibid.

12)D/e&"垣gルα".S.5.

13)N.Heinenは上掲書の中で「断頭台下の最後の女は,不注意な読者にとっては,

最後の者として死の断頭台にのぼるブランシュ・ド・ラ・フオルスであるが,注 意深い読者にとっては,最後の女とは処刑台から除外された者である筈である.

すなわち,ただ一人の生き残りとして,生の断頭台に赴くことになる最後の女で あるマリー・ド・ランカルナシオンである」 (S.116)と指摘している. しかし Heinenがマリー童貞を主人公と見ているならば,それはおそらく従来の小説観 からの見方であって,ル・フォールがこの作品で示している新しい秩序の世界に

−244−

(24)

おいては,やはりプランシュを主人公と見るのが順当であろう.

14) Die Ewige Frau. S. sf. 

15) G. v.  le  Fort : Die Consolata. Erzlihlung In : Erzt.ihlende Schrifi Dritter Band S.243. 

参 考 文 献 ( 註 に 挙 げ た も の を 除 く )

Christliche Dichter im 20. Jahrhundert. hersg. von Otto Mann  Bern/  Miinchen  2.  veriinderte und erweiterte Aufl. 1968 

Johannes Klein: Geschichte der deutscnNovelle. Wiesbaden,  4. verbes

serte und erweiterte Aufl. 1960 

Alfred Focke : Gertrud van le  Fort Gesamtschau und Grundlagen ihrer  Dichtung. Graz, 1960 

Werner Zimmermann: Deutsche Prosadichtungen der Gegenwart. Teil  IT 

sseldorf,6.  Aufl. 1960 

Uber den S i n n  d e r  E r l o s u n g  i n   D i e  L e t z t e   am Schaf  o t t  

von G .  v .   Le F o r t  

Hirotaka Shintani 

In  dieser  Briefform‑Novelle  schildert  Le  Fort  nicht  die  bloBen geschichtlichen Situationen in der Franzoschen Revolution,  sondern das Wunder in  der kleinen Blanche als  ,,Verkorperung  der Todesangst einer ganzen zu Ende gehenden Epoche". Durch  das  Angst‑Motiv  in  Blanche will  dieser  Versuch  das  Thema  erklaren, das nicht der Sieg des Menschen fiber  die  Todesangst,  sondern der Sieg der Gnade fiber diese ist. 

Blanche ist  ein bestiindig bangendes Kind. Angst ist zutiefst in 

‑245‑

(25)

ihrer Natur verwurzelt, z. T. als Folge ihrer tragischen Geburt.

Dieses junge Mädchen tritt aus Weltangst in ein Kloster und sucht sein religiöses Leben dort in der mystischen Verbindung mit der Todesangst Christi in Gethsemane zu gestalten. Sie bleibt durchweg ihrer Angst getreu und muß denselben furchtbaren Kelch leeren wie das berühmte Fräulein von Sombreul- sie ist eine bis ins Letzte zerstörte Persönlichkeit. In diese schwache hilf- lose Blanche greift aber die fast unbegreifliche Gnade Gottes ein.

Blanche ist ein Symbol. So ist ihre Körperlichkeit Symbol ihrer Seelenangst, ihre Seelenangst Symbol der Todesangst Christi in Gethsemane.

Um Blanche herum läßt Le Fort die Personen auftreten, wie ihren Vater Marquis de la Force, die Hauslehrerin Madame de Chalais, die Novizenmeisterin Marie de l'Incarnation und die Pri- orin Lidoine ; damit zeigt sie die Stufung des Seins. Diese Novelle kann also betrachtet werden nicht als eine, in der es um ein besonderes und einmaliges Ereignis in seiner Einmaligkeit geht, sondern als eine neue Art, die eine neue Gemeinschaftsform und ihre Ordnung anbietet. Denn hier wird „anschaulich" das Ereignis dargestellt: alles, was im Augenblick geschah, geschah gleich- zeitig bereits in der Ewigkeit.

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参照

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