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[研究ノート] 明治三~四年葛飾県鬼越村見張所記録の分析と紹介

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173

明治三~四年葛飾県鬼越村見張所記録の分析と紹介

Re

se

ar

ch

N

ot

es

研究ノート

池田真由美

はじめ

 

稿

は、

た、

件・

八四一八人強の通行に関する複数点数の記録である

(( (

。当該史料群からは

当時の旅人の動態や番所業務の実態などの

か、移行期特有の問題や東

京の町方経営その他の様々な興味深い事象が明らかになる。以下にその

分析によって知り得た情報を紹介してゆくが、なかでも旅人に関するか

つてない規模の膨大なデータによって「旅」の具体像を提示できる意義

は大きいと考える。論者は先にその二日分の通行記録の分析を発表して

いるが

(( (

、今回は残された全記録の分析と紹介を試みたいと思う。

 

従来、旅に関しては多くの研究が蓄積されてきた。戦後盛んにおこな

われた構造把握の問題としての制度史研究から、さらに一九七〇年代の

国家史的視点にもとづく交通体系研究へと研究が進展するなかで、その

アンチテーゼとして一九五〇年代に萌芽した私的交通研究が、一九八〇

年代に具体的・実証的個別の問題へと多様化するにあたり、本格的に研

究が始められた分野である。特に国家に対する個人としての旅人に注目

し、それまで雑史料としてとりあげられなかった紀行文・道中記の分析

がおこなわれるようになった点は画期的であったと言えるだろう

(( (

。その

結果として、旅行ルートの比定、年代の推移にともなう旅の目的や様子

の変化、身分の別による旅の特徴、道中の費用

かの実態、女性旅の存

在など多くのすぐれた成果が次々と明らかにされてきた

(( (

 

しかし一方で、紀行文や道中記は個人が書き記したものであり、旅そ

のものの意義や全容を明らかにするためには分析対象として限界がある

と言わざるを得ないだろう。幸運にも偶然収集することができたそれら

の史料は、年代・地域・身分・旅の目的がそれぞれ異なる筆者によるも

ので、限られた事例だけでは同時代の旅の全体像、それに対する記録さ

れた旅の特徴や位置付けはわからない。また、旅人にとって自明の事象

は記録されないものであり、さらに移動距離や目的の関係その

かの理

由から全ての旅人が記録を残していたとも考えられない。非日常的な旅

の記念としての記録から欠落してしまった部分に、ある種の旅の普遍的

な側面があったのではないだろうか。

 

ば、

何らかの強制力にもとづき統一的に情報収集をして作成された資料の分

(2)

174

国立歴史民俗博物館研究報告 第155集 2010年3月

析がより有効となる。かつてその試みとして、幕府の強制力によって関

所に提出された手形の分析や

(( (

、本陣休泊者を記録した経営帳簿としての

宿帳の分析がおこなわれた

(( (

。しかし、前者は大半が女性・鉄砲・僧など

の限られた通行に関するものであり、後者についても休泊者の身分に制

約があり、旅人の全体像を把握することはできない。

 

このような課題が残されてきたなかで、今回紹介する史料は地域・期

の、

した、無差別の五二七二件・八四一八人強の通行の様子を示す事例とし

て注目できると考えている。自ら記録を残さなかった旅人にとってのあ

たりまえの旅とは何だったのか、時代背景も照らし合わせながらこの史

料の記録を分析することによって考察したい。

 

なお、本文および表に職業

身分的差別にもとづく名称がみられるが、

差別の史実を認識し、差別と差別意識の根絶を望むため、あえてそのま

ま記載した。ただし、小字名と人名の並記により地域や個人が詳しく特

定できる場合は伏せ字にした。

「見張所」

の機能と位置

 

る「

は、

(】

部分の表記を検討することによってある程度明らかになってくる。

まず、

調

」「

」「

表題が散見されることから、通過者の姓名をはじめとする情報を確認し

て書き控えていた場所であったということがわかる。つまり江戸時代以

来明治二年(一八六九)まで存在した関所機能の流れをくむ役割を果た

した施設であったと考えれば理解しやすいだろう。しかし、関所と大き

く異なる点として、やはり他の多くの表紙に「葛飾県見張所」などと記

ら、

と、

そこで「御用」すなわち改めをおこなったのは派遣されてきた役人では

なく周辺の村から調達された人材であったこと、改めの内容は女性や特

く、

る。

番人については表題に作成者として九村の名が交代で記され、なかには

「番」

「当番」と冠している村名があることから、各村が順番に勤めてい

たことがわかる。

 

に、

も、

(】

通り一冊の表紙に

「葛飾県宦

(マヽ(

轄所鬼越村見張所御改帳」

とあることから、

村(

る。

さらに当該史料が伝存され、

同村の名主職を勤めたこともある松澤家が、

日光道中付属水戸道中の脇道で成田道とも呼ばれ成田山への参詣道でも

あった佐倉道と、利根川と江戸川を結ぶ物資流通路であった木下道の交

ば、

であったこの交差点付近に設置されていたのではないかと推測できる

(( (

 

この「見張所」周辺地域ではそれ以前に「見張所」が設置されたこと

があった

(( (

。万延元年(一八六〇)十一月に関東取締出役の指示で、組合

村々取締のために組合村が費用を負担し適当な場所に「見張番所」を設

置して手先道案内を昼夜詰めさせ、合わせて海岸・川沿いの見回りをお

こなっていた。しかし、その見張番所は文久元年(一八六一)七月十八

日に一旦廃止され、改めて関東取締出役が巡検し、新たな見張番所建設

【写真 1】 

松澤家文書M② 25bより

(3)

175

[明治三~四年葛飾県鬼越村見張所記録の分析と紹介]……池田真由美 記録年月日 表紙年月日 表 題 作 成 者 出典史料目録番号 ( (明治三年十一月廿七日) 明治三午十一月廿七日  見張帳 鬼越邑 松澤家文書M② (a ( (明治参年霜月((日) 明治参年霜月吉日 見張所御改扣帳 (北方村・高石神村) 松澤家文書M② ( ( (明治三年)十一月廿九日 明治三年午十一月廿九日 見張帳 小栗原村・中山村 松澤家文書 M ② ( ( (明治 ( 年十一月晦日) 十一月晦日 見張帳 二子村・若宮村 松澤家文書M② (9 ( (明治 ( 年十二月朔日) 十二月朔日 見張帳 本郷村 松澤家文書M② (( ( (明治三年十二月二日) 明治三午歳十二月二日 見張帳 寺内邑・印内邑 松澤家文書M② ( ( (明治 ( 年)十二月三日 十二月三日 見張帳 山野村・古作村 松澤家文書M② (( ( (明治三年十二月四日) 明治三午十二月四日 見張帳 鬼越邑 松澤家文書M② (b 9 (明治参年)十二月五日 明治参年霜月吉日 見張所御改扣帳 (北方村・高石神村) 松澤家文書M② ( (0 (明治 ( 年 (( 月(日) 明治三年午十一月廿九日 見張帳 小栗村・中山村 松澤家文書M②1 (( (明治 ( 年)十二月七日 十一月晦日 見張帳 二子村・若宮村 松澤家文書M② (9 (( (明治 ( 年)十二月八日 十二月朔日 見張帳 本郷村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)正月十一日 明治四未年 御見張帳 葛飾縣支配所鬼越村 十二ヶ村 松澤家文書M② (( (( ①(明治四年)正月十二日 明治四未年 御見張帳 葛飾縣支配所鬼越村 十二ヶ村 松澤家文書M② (( (( ②(明治四年正月十二日) 明治四未正月十二日 見張所御改扣帳 高石神村・北方村 松澤家文書M② (a (( (明治四年正月十三日) 明治四未正月十三日 往還旅人姓名取調帳 当番小栗原村・中山村 松澤家文書M② ( (( (明治 ( 年)正月十四日 葛飾縣御見張所 二子村・若宮村 松澤家文書M② ((a (( (明治 ( 年 ( 月((日) 葛飾縣御見張所 本郷村 松澤家文書M② (( (( (明治四年正月十六日) 明治四年正月十六日 葛飾縣見張帳 印内村・寺内村 松澤家文書M② ( (9 (明治四年正月十七日) 明治四年正月十七日 葛飾縣見張帳 古作村・山野村 松澤家文書M② ( (0 (明治四年)正月十九日 明治四辛未年正月十八日 見張御改帳 葛飾縣管轄所高石神村・北方村 松澤家文書M② (b (( (明治四年正月)廿日 明治四未正月十三日 往還旅人姓名取調帳 当番小栗原村・中山村 松澤家文書M② ( (( (明治四年)正月廿一日 明治四辛未年正月廿一日 葛飾縣宦(マヽ)轄所 鬼越村見張所御改帳 二子邨・若宮村 松澤家文書M② ((b (( (明治 ( 年)正月廿二日 葛飾縣御見張所 本郷村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)正月廿三日 明治四年正月十六日 葛飾縣見張帳 印内村・寺内村 松澤家文書M② ( (( (明治四年)正月廿四日 明治四年正月十七日 葛飾縣見張帳 古作村・山野村 松澤家文書M② ( (( (明治四年)正月廿五日 明治四未年 御見張帳 葛飾縣支配所鬼越村 十二ヶ村 松澤家文書M② (( (( ①(明治四年)正月廿六日 明治四未年 御見張帳 葛飾縣支配所鬼越村 十二ヶ村 松澤家文書M② (( (( ②(明治四年正月)廿六日 明治四辛未年正月十八日 見張御改帳  高石神村・北方村 松澤家文書M② (b (( (明治四年)正月廿七日 明治四未正月十三日 往還旅人姓名取調帳 当番小栗原村・中山村 松澤家文書M② ( (9 (明治四年正月廿八日) 明治四年正月廿八日 葛飾縣見張帳 若宮邑・二子邑 松澤家文書M② 9 (0 (明治四年正月廿九日) 未正月廿九日 葛飾縣見張所 本郷村 松澤家文書M② (0a (( (明治四年正月晦日) 未正月晦日 葛飾縣見張所 寺内・印内村 松澤家文書M② (( (( (明治四年二月朔日) 明治四年二月朔日 葛飾縣見張帳 山野村・古作村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)二月二日 明治四未年 御見張帳 葛飾縣支配所鬼越村 十二ヶ村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)二月三日 未ノ二月三日 葛飾縣見張帳 高石神村・千足村 松澤家文書M② (( (( (明治四年二月四日) 未二月四日 葛飾縣見張帳 中山村・小栗原村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)二月五日 明治四年二月五日 葛飾縣見張帳 二子・若宮村 松澤家文書M② (( (( (明治四年二月六日) 未二月六日 葛飾縣見張帳 本郷村 松澤家文書M② (0b (( (明治四年)二月七日 未正月晦日 葛飾縣見張所 寺内・印内村 松澤家文書M② (( (9 (明治四年二月(日) 明治四年二月朔日 葛飾縣見張帳 山野村・古作村 松澤家文書M② (( (0 (明治四年二月九日) 明治四未二月九日 葛飾縣管轄所御用見張所改扣帳 鬼越村番 松澤家文書M② (( (( (明治四年)二月十日 未ノ二月三日 葛飾縣見張帳 高石神村・千足村 松澤家文書M② (( (( (明治四年二月((日) 未二月四日 葛飾縣見張帳 中山村・小栗原村 松澤家文書M② (( (( (明治 ( 年 ( 月((日) 明治四年二月五日 葛飾縣見張帳 二子・若宮村 松澤家文書M② (( (( (明治四年二月((日) 未二月六日 葛飾縣見張帳 本郷村 松澤家文書M② (0b (( (明治四年)二月十四日 未正月晦日  葛飾縣見張所 寺内・印内村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)二月十五日 明治四年二月朔日 葛飾縣見張帳 山野村・古作村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)未二月十六日 明治四未二月九日 葛飾縣管轄所御用見張所改扣帳 鬼越村番 松澤家文書M② (( (( (明治四年二月十七日) 明治四年辛未二月十七日 葛飾縣見張帳 北方村・高石神村 松澤家文書M② (( (9 (明治四年二月十八日) 明治四年辛未二月十八日 往来旅人性名取調帳 小栗原村・中山村 松澤家文書M② (( (0 (明治 ( 年 ( 月(9日以前) 葛飾縣管轄所見張所御改帳 二子邨・若宮村 松澤家文書M② ((a (( (明治四年)二月十九日 明治四年辛未二月十九日 葛飾縣管轄所見張帳 (二子村・若宮村) 松澤家文書M② ((b (( (明治四年二月廿日) 明治四年未二月廿日 往来旅人見張改帳 本郷邑 松澤家文書M② (9 (( (明治四年二月((か((日)明治四年辛未二月 往来旅人性名取調帳  寺内村・印内村 松澤家文書M② (( (( (明治四年二月廿二日) 明治四年未二月廿二日  見張帳 古作村・山野村 松澤家文書M② (0 (( (明治 ( 年 ( 月((日) 葛飾縣管轄所見張帳 鬼越村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)二月廿四日 明治四年辛未二月十七日 葛飾縣見張帳 北方村・高石神村 松澤家文書M② (( (( (明治四年二月)廿五日 明治四年辛未二月十八日 往来旅人性名取調帳 小栗原村・中山村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)二月廿六日 明治四年辛未二月十九 葛飾縣管轄所見張 (二子村・若宮村) 松澤家文書M② ((b (9 (明治 ( 年 ( 月((日) 明治四年未二月廿日 往来旅人見張改帳 本郷邑 松澤家文書M② (9 (0 (明治四年)二月廿九日 明治四年未二月廿二日 見張帳 古作村・山野村 松澤家文書M② (0 (( (明治 ( 年)二月晦日 葛飾縣管轄所見張帳 鬼越村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)三月朔日 明治四年辛未二月十七日 葛飾縣見張帳 北方村・高石神村 松澤家文書M② (( (( (明治四年)三月二日 明治四年辛未二月十八日 往来旅人性名取調帳 小栗原村・中山村 松澤家文書M② (( 注)(,松澤家文書M②「見張帳」全 (9 件 (( 冊(『市川市資料目録第一集』市川歴史博物館,(9(( 年)より作成した    (,表記は史料の原表記によった    (,( )は推定を示す    (,( )内の漢数字は表紙表記からの推定を示す    (,アラビア数字は,二冊合綴・綴の前後関係・改頁・書体の変化・月日の後記と ( 日周期の村の組合せからの論者の推定を示す

【表 1】 「見張帳」一覧

(4)

176

国立歴史民俗博物館研究報告 第155集 2010年3月

地を指定した。その際に指定されたことが確認できる見張所所在

地は、下総国葛飾郡の八幡町・市川村・下妙典村(上記はいずれ

)・

村(

で、

徳村では見張所は設置せずに明六ツ半(午前五時頃)に交代する

(9 (

て、

「 佐

」 、

は「

ことがあげられており、その他は特に明記はないが本行徳村は江

戸への長渡船の発着場があり、下妙典村は「重キ関所」の市川関

所を通らずに船橋宿へ通じる成田道上の本行徳村の次の町場であ

り、本行徳村に設置しなかったので設置されたと考えられ、鎌ケ

谷村は佐倉道と木下道が分岐した後の最初の継場で、いずれも鬼

越村同様交通の要所と言えるだろう。この時の見張所の運営費用

の記録があるが、蝋燭・油・薪・茶代があげられ、紙・墨・筆の

記録がないことから、主に番人の詰所として利用されていた可能

性が高く、今回紹介する明治期の見張所では通行人に関する記録

が主要な業務だった点とは大きく性格が異なっていた

((1 (

 

が、

明治三年十一月の年記がある史料から八幡町・市川村・下妙典村

のいずれにも見張所があり、特に市川には「新見張所」が設けら

れ十月十六日から稼動していたことがわかる

((( (

。そしてこの際の支

出項目のなかに紙代があがっていることは、今回紹介する史料が

同月から記録が始まっており、鬼越村の見張所の業務が記録中心

であったことと符合する。ただしこの三見張所の諸入用は「郡内

」(

り、

九村で運営されていた点とは異なっている。さらに市川村の新見

は「

」(

((1 (

り、

この時期の見張所は設置・運営主体がまちまちであった様子がう

[鬼越村見張所周辺図]

注)( )は地域の通称を示す。

皇居 千住 新宿 松戸 市川 八幡 鬼越 中山 船橋 二和 初富 鎌ヶ谷 三咲 行徳 下妙典 日本橋 水 戸 道 中 日光道中 中 道 山 東 道海 小名木川 隅田川 中川 江戸川 新 岩 槻 道 佐 道倉 (成田道) 木 道下 還 往 総 房 成 へ田 佐 道倉 小網町

(5)

177

[明治三~四年葛飾県鬼越村見張所記録の分析と紹介]……池田真由美

かがわれる。しかしこれらの史料によっても明治三年の見張所が万延元

年・文久元年の見張所を引き継いだものなのかはわからない。少なくと

も設置主体は関東取締出役を元締めていた幕府から変わり、鬼越村の見

張所は葛飾県が設置主体となっていたことはわかっているのだが、現在

のところ残されている数少ない葛飾県発行文書のなかに見張所設置を命

じた文言は確認できない。

 

幕末から明治期に新たに設置された見張番所については渡邊和敏氏に

よる先行研究がある

((1 (

。それによれば安政の開港以降、幕府が従来の関所

が、

田、

辺、

摩川

相模川

鶴見川の渡船場、文久元(一八六一)~三年の江戸四宿、

元治元年(一八六四)の青山道出入口の渋谷宮益町以外に設置された関

門・見張番所とその特色は不明であると述べている。つまり、この時期

の見張番所については、他に設置の事例があることは予想されるものの

史料が未発掘の状態にあり、今後さらに史料発掘をおこなって研究を深

化させる必要があるということになるだろう。しかしそれ以降新たな史

料を提示した主な成果はみられない。

 

渡邊氏の研究で明らかにされている幕末~明治の見張番所設置の動き

と当該地域の見張所設置の動向を対比すると、まず見張所設置について

は、文久元年に江戸近郊の治安対策として幕府が江戸市中各出入口の見

張番所設置を計画するが、農村側の反対運動で中止された経緯が明らか

にされている。一方、

当該地域では既に同じ目的で万延元年(一八六〇)

に見張所が設置され、なおかつ農民が反対したはずの文久元年に関東取

締出役の指示を受け入れて見張所の再設置さえおこなっている。次に見

も、

年(

所は撤廃され、関門は維新政府に引き継がれたと述べているが、当該地

域では後述するように明治三年に設置された見張所すらあり、四年まで

その存在が確認できる。これらの結果からみても当該史料の分析と紹介

は新たな事例として意義あることと考えられる。

「見張帳」

の概要

 

松澤家文書の見張所記録は目録では二九件となっているが、実際には

件(

(・

(・

(0・

((・

(()

り、

全三四冊を数える。形態は全て横帳で、法量は約一二、

×三四、

の史料である。

【表

(】にみられる通りその表題は統一されていないが、

め、

便

は「

張帳」と呼称を統一することにしたい。

 

まず、表紙の記述をみてゆくと【写真

(】にみられるように、記録さ

れているのは年月日・表題・記録者としての村名の三点である。表題が

無いものは存在せず、この記述から見張所の設置主体や位置・機能が推

測できることは先に述べた通りである。年月日表記は様々であり、全く

の未記載が四点、月日の記載がないものが二点、日付の記載がないもの

が二点ある。また、村名表記については二点がない。表記は一村の場合

と二村並記の場合があり、一村表記は本郷村か鬼越村に限られ、その他

方・

神、

原・

山、

子・

宮、

内・

内、

野・

古作の組み合わせで二村並記になっている。これらの村の村高をみてゆ

と、

村・

二の村であることがわかる。

これらのわかっている情報をカレンダー

形式に仕立てて書き込んでゆくと、九村が先の七組に分かれて七日毎に

順番で記録しているということに気付く。つまり、毎日交代で七組毎に

め、

を「

る。

ちなみに前項で触れた文久元年(一八六一)の本行徳村での不寝の見張

番も、周辺二二村が二村一組一一日交代で順番に勤めていた

((1 (

 

と、

(】

(6)

178

国立歴史民俗博物館研究報告 第155集 2010年3月

くの場合書きはじめに月日の記録があり、一点を除いてその書きはじめ

の月日は表紙の記載と合致している

((1 (

。また、しばらく丁を繰ってゆくと

れ、

り、

(】

たり、そこに付箋が添付されている冊もある。この同じ冊に書かれた月

((1 (

ら、

じ冊子に何回分かまとめて記入していたことがわかる。そしてこの法則

によって、表紙に年月日の記載がない冊や記録部分の年および書きはじ

めに月日記載がない場合もその年月日を推定することができる。このよ

うにして村名と年月日を組み合わせながら統計を取り直してみると、明

治三年十一月二十七日~同四年三月二日の

ぼ毎日の旅人の通過状況を示す史料であるこ

とが判明する。ただし、明治三年十二月九日

~同四年一月十日の記録は完全に欠落してお

り、理由は不明だがこの間に当番の順番が変

更されたようである。また、特定の一日に当

てはめられない記録が二日分あるが、そのう

で、

もう一点は合綴の他の一冊の月日記載の二月

十九日より前のものである可能性が高い。さ

に、

て、

回、

し、

日・

同二十六日は本来北方・高石神村の組が担当

する日であるが鬼越村も別に帳面を仕立てて

見張をおこなっている

((1 (

。これらの例外はある

程度理由が推測できるが、このことについて

は後述したい。

 

二丁以降からみられる旅人の情報の記載状況は【写真

(・

(】のよう

になっており、①旅人の起点の地名、②支配名主や家主など旅人の居所

を証明できる人物名、③旅人の肩書、④旅人の名前、⑤旅人の目的地名

や訪問先、⑥参詣・商用などの通行理由、⑦行きか帰りかの別、⑧同行

者の名、

⑨同行者の肩書、

⑩同行者の人数が順に記録されている。地名

人名は誤字の

か当て字の数が大変多い。旅人の肩書については、最も

多いのが百姓で、これにつぐのは東京の店子である。旧武士の通行では

行き先や通行理由が記入されていない場合が多く、これらの事項につい

て特に追求されることはなかったのであろう。その代わり通行証明であ

【写真 4】 松澤家文書 M ② 3より

【写真 3】 松澤家文書 M ② 5bより

【写真 2】 松澤家文書 M ② 5bより

(7)

179

[明治三~四年葛飾県鬼越村見張所記録の分析と紹介]……池田真由美

る「

り、

い「

く、

印鑑提示の際にはそのことを見張帳に明記し、名刺が提出された際には

これを受け取って【写真

(】の通り記録日の末尾に貼付していた。名刺

を提出していたのは旧武士だけでなく、神主・僧侶・公家・県役人・医

師・問屋・町用掛・塾生といった特定の身分や役職に就いていた人々で

あった。

 

これらの情報すべてを日次に分けて一覧にしたものが末尾の【鬼越村

見張所見張帳記載内容一覧表】であり、以下この内容を俯瞰して分析し

た結果判明した事項について述べてゆく。

「見張帳」

みる旅の実像

1)

見張所の通行件数と旅人の行動範囲

  「

【表

(】である。まず、通行件数について分析すると、総計五二七二件、

記録日数全六三日、一日平均約八四件となる。日毎の通行件数の傾向に

と、

が、

特に法則性は見出せない。

五〇件未満の少ない日は十二月八日の三八件、

三月二日の二九件、二月十九日以前の一三件で、これについても特に理

由は考えられない。逆に一月十二日は突出して多く、平均値の約三倍の

二四〇件を数える。この日の通行では寺社参詣の通行が一〇三件で通行

の四三

を占めており、

これが通行増の要因であったことは明白である。

後で詳しく述べるが、参詣のなかでも特に成田山新勝寺、正中山法華経

寺・東京金毘羅社を訪れる通行が多く、一月十二日はそのいずれの寺社

への参詣も各々最多件数を記録した日にあたっている。その結果、先に

述べた通り見張所では通常の北方・高石神村組の当番に鬼越村が加勢し

たわけである。なお、一月二十六日の鬼越村の加勢理由については不明

である。

 

次に旅人の行動範囲について分析すると、佐倉道と木下道の交差点で

ある旧下総国葛飾郡鬼越村を通過する旅人は、

とんどが旧関八州内で

移動していたことが指摘できる。その数は四四五九件にのぼり、なかで

も連日最も多かったのが東京と旧下総国間の移動で一七八二件、全通行

件数の三四

を占めていた。以下、下総―武蔵八八六件・一七

、上総

―東京七七二件・一五

、常陸―東京四四六件・八

と続いている。こ

の結果については、後に詳しく述べる参詣の様子が如実にあらわれてお

り、東京・武蔵からの下総成田山・正中山への参詣と、下総・常陸から

の東京金毘羅社・武蔵三峯神社への参詣が互いに入れかわるようなかた

ちで盛んにおこなわれたことを示している。そして旧国別の傾向は、下

総との往返が三二四二件、以下、東京三二〇九件、武蔵一一一七件、上

総一〇九九件、常陸五九八件、下野七一件、上野六五件、安房四四件の

る。

お、

城・

総(

)・

京(

も旧関八州地域内の通行の延長として考えることができよう。

 

このような状況のなかで、越後

越中との通行が多い点が注目できる。

越後との通行については、上総(三九件)

下総(二五件)

東京(四件)

武蔵(一件)の順に多く、上総・下総との往返の際にはその主な通行理

由に

「酒造渡世」

「酒屋稼」

とみられる。これは越後杜氏が農閑期に上総

下総方面で酒造の出稼ぎをおこなっていた様子をよく示している。越中

との通行については、上総(七件)

下総(五件)

東京(五件)

常陸(一

件)の順で、薬・小間物の売用渡世が目立つ。前者は一般に「越中の薬

売り」としてよく知られた新川郡から、後者は鋳物で著名な射水郡から

の通行に

ぼ集約される。その他通行数は少ないが、集計をすることに

より越中の事例同様行商を積極的におこなっていた地域を知ることがで

る。

へ(

)、

本拠地から下総(三件)

・上総(一件)

・常陸(一件)へ、藍で名高い阿

(8)

180

国立歴史民俗博物館研究報告 第155集 2010年3月

総(

)・

へ(

一件。これらの著名な行商地域との通行の

か、諏訪・伊那両郡をはじ

めとする信濃から下総(一二件)

・常陸(二件)

・安房(一件)へ鋸・薬

売用などの通行、甲斐都留郡から下総(八件)

・上総(六件)

・常陸(一

件)へ売用などの通行、越中と接して位置する加賀からも上総(二件)

下総(一件)

・常陸(一件)

・東京(一件)へ商用で通行している事例が

みられ、地方都市間の日常的な商取引慣行を示すデータとして注目でき

る。

 

この

か、

下総との往返では伊豆六件、

大坂五件、

駿河

遠江四件、

陸前

前・

件、

」・

後・

前・

件、

都・

奥・

張・

伊・

岐・

件、

駿

件、

件、

伊・

和泉

讃岐

筑後

伊豆一件、常陸との往返では駿河

讃岐二件、

「四国」

備中一件、東京との往返では陸前三件、和泉

陸奥

陸中一件があった。

また、複数国を回国する場合もあり、全体で二三件みられた。

 

このように、約三ヶ月の間に鬼越村には実に様々な地域の旅人が出入

りしたのである。

2)

同行者数からみた旅の傾向

 

を「

で、通行の総人数はこの同行者数を加算しなくてはならない。

「見張帳」

における同行者の表記は、人数を書いた場合、名前を連記した場合、別

に立項しているが前後して連記され目的地が同じことから同行者とみな

る。

が【

(】

る。

と、

八四一八人+

α

という通行者総数がはじめて導き出される。完全な実数

で示すことができないのは、十二月六日の記録のなかに供の人数を明記

していない通行が一件あるためであるが、恐らく一〇人は変わらないだ

ろうと思われる。なお、

【表

(】

【鬼越村見張所見張帳記載内容一覧表】

と総件数が五件異なるのは、同一起点か同一目的地の二件並記を同行と

考えた通行が五組あったことによっている。

 

て、

と、

く、

全体の六六

を占め、以下二人・二一

、三人・七

、四人・二

、五

人と六人はともに一

と、人数が少ない順に続く。これを、目的との関

係でみると、最も多いのは目的表記のない一人旅で、同二人旅がこれに

続くが、目的明記の通行では、参詣の一人旅が最も多く一一

、これに

同目的の二人旅、三人旅が続いている。一般に参詣は集団旅行の印象が

強いが、実際には一人ないし二人の少人数で行動することが多かった様

子がわかる。

 

しかし、逆に大人数での旅の理由についてみると、これもまた参詣に

よる通行が多い。四人・五人の集団通行は参詣・商用・貢納・その他通

行いずれもまんべんなくみられるが、六人以上では参詣と特殊な目的に

よる通行に限定されてくる。最も多人数の通行は

「ごま講」

の三二人

(一

月十一日)であった。これに続き二〇人代の通行が四件、うち参詣関係

が三件(二月八日・二五人、一月十七日・二三人、二月十八日二一人)

残りの一件(二月十七日・二三人)は通行理由が不明である。一〇人代

についても、越後杜氏が上総の酒屋から国許へ集団帰国した一〇人の通

行(一月二十一日)の

か、九件中七件(一月二十五日・一七人、一月

十二日と二月四日・一二人、一月二十四日と二月二十四日・一一人、一

月十七日と二月十一日・一〇人、残り二件は一月十六日と二月二十九日

で、

件(

日、二月十一日、二月二十四日)は講中の通行であることが明記されて

いる。以下四人以上九人以下の団体通行件数については数が多いので取

り上げないが、各同行人数とも参詣理由による団体行動が多い。これら

の点が「参詣旅行は団体行動が多い」と考えられる所以であろう。ただ

(9)

181

[明治三~四年葛飾県鬼越村見張所記録の分析と紹介]……池田真由美

し、参詣通行のうち一〇人以上の団体行動について言えば、下総から武

蔵堀之内妙法寺へ参詣した一例以外はすべて成田山新勝寺への参詣であ

り、うち一例のみが上野から、残る八例はいずれも武蔵からの参詣であ

る。成田山への通行は下総や東京からの参詣も多いのだが、こちらは少

人数での参詣となり、どうやら同行人数は目的地への距離に比例する傾

向があったことがわかってくる。

 

この

か団体行動が目立つのは、先にもあげたが越後杜氏の通行であ

る。集団での出稼ぎの実態を反映し、一〇人の上総からの帰国の例以外

では、多い方から七人

一件(一月二十二日

目的不明)

、六人

一件(一

月二十八日

上総酒屋から帰国)

、四人

一件(二月二十一か二十八日

上総酒屋から帰国)があり、三人の通行では上総の酒屋との往返が四件

日、

日、

日、

)、

件(

)、

件(

)、

件(

日、

十四日)となっている。なお、杜氏か否かの記述はないが、越後と上総

の往返では、六人・一件(一月二十四日)

、五人・二件(一月二十八日、

同三十日)の団体通行があった。

 

一方、

大人数ではないが複数人数の同行事例が確認できる通行があり、

大きくは①供立てによる通行、②団体行動に分けることができる。①で

はⓐ旧武士、ⓑ役人、ⓒ寺社関係者、ⓓ特殊技能者の通行を、②ではⓔ

既に述べた寺社参詣、ⓕ越後杜氏にみられる職能者の団体移動、ⓖ旧武

士・役所への訪問の各通行が指摘できる。

 

ⓐで最も同行者が多かったのは旧水戸藩士が九人連れ立って通行した

り(

日、

)、

下総国中山法華経寺へ参詣した一件(一月二十六日)

、三人連れが淀藩

一件(一月十二日)

、水戸藩・一件(一月二十七日)

、伊那藩・一件(一

で、

く、

藩・

件(

)、

一件(十一月二十七日)

、斗南藩

一件(十一月三十日)

、一ツ橋藩

一件(同上)

、水戸藩・一件(一月二十五日)

、加知山藩・一件(十二月

)、

藩・

件(

)、

藩・

件(

)、

藩・

件(

日、

)、

藩・

件(

日、

)、

藩・

件(

日、

日、

十二日)となっている。ⓑでは、東京府属の通行が五人同行で最多事例

となっており(一月十七日)

、以下三人

四件(十二月七日

宮谷県役所、

日・

り、

日・

方、

日・

民部省馬喰)

、二人

七件(東京府貫属

三件、宮谷県

二件、若森県

一件、土御門田原役所・一件)となっている。ⓒでは、上総東金町世尊

寺の僧が東京愛宕新福寺へ向かった通行(二月二十二日)が同行人数最

多の事例で五人、以下三人

一件(一月十七日

佐倉新町正園寺)

、二人

件(

件、

寺・

寺・

寺・

下総六所神社・鹿島神社・伊勢神宮・東正寺・

か不明一件)となって

いる。ⓓの件数は多くはないがいずれも二人連れで、検校(一月二十一

日)

・勾当(十二月二日)

、太夫(十二月五日)の事例がある。ⓖについ

ては【表

(】にみえる貢納をはじめ、後に詳しく述べるが旧領主邸を訪

ねる通行が多く、このような旧武家を訪問した事例は五人

一件、四人

一件、三人・八件、二人・三二件、県などの役所を訪問した事例は、民

件(

)、

宿

所・

行(

)、

谷県役所へ三件(一月二十二日、

二月三日、

同七日)

太政官へ一件(一

月二十九日)

、民部省へ一件(二月九日)

、加村(葛飾県)役所へ一件(二

月三十日)があった。なお、商用通行でも小人数での通行事例がよくみ

られるが、供立と同行が混在しているのでここでは詳しくは述べない。

 

また、同行者がある通行を集計すると、開拓・開墾関係者の通行が多

いことに気付く。時代背景をよくあらわした現象として注目でき、これ

182

国立歴史民俗博物館研究報告 第155集 2010年3月 通行範囲 ((/(( ((/(( ((/(9 ((/(0 ((/( ((/( ((/( ((/( ((/( ((/( ((/( ((/( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(9 (/(0 (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(9 (/(0 (/( (/( 下 総-東 京 ( (( (( (( (( (( (0 (( (( (( (( (( (( (9 (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (9 (( (9 (( (( 下 総-武 蔵 ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( ( ( (( (( (( ( (( (( (( (( (( 9 (( (( (( (9 (9 (( (( (( (( (( 下 総-相 模 ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下 総-下 総 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下 総-上 総 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下 総-安 房 下 総-常 陸 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下 総-上 野 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下 総-下 野 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下 総 -そ の 他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下 総-不 明 ( (( ( ( ( (( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 上 総-東 京 ( (9 (( (( (( (( (( (( (( (( (( 9 ( (( ( (0 ( ( (( ( (( ( ( (( (0 (( (( (( (( 9 (( (( (( 上 総-武 蔵 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 上 総-相 模 上 総-上 野 ( ( ( ( 上 総-下 野 ( ( ( ( ( 上 総 -そ の 他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 上 総-不 明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 安 房-東 京 ( ( ( ( ( ( ( ( 安 房-武 蔵 ( 安 房-相 模 安 房-上 野 安 房-下 野 安 房 -そ の 他 安 房-不 明 ( ( ( 常 陸-東 京 ( ( (( 9 9 ( (0 (( (( (( (( ( ( (( 9 ( ( (0 9 ( (( (0 ( ( 9 ( (( ( ( ( ( ( ( 常 陸-武 蔵 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 常 陸-相 模 ( 常 陸-上 野 ( ( ( ( 常 陸-下 野 常 陸 -そ の 他 ( ( ( ( ( 常 陸-不 明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 相 模-上 野 相 模-下 野 相 模 -そ の 他 相 模-不 明 ( ( ( ( 上 野-東 京 ( ( 上 野 -そ の 他 ( 上 野-不 明 ( ( 下 野-東 京 ( ( ( ( ( ( ( ( 下 野 -そ の 他 下 野-不 明 ( ( ( ( 東 京 -そ の 他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 東 京-不 明 9 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 9 ( ( ( ( ( 9 ( ( ( ( ( ( ( ( 武 蔵 -そ の 他 ( ( ( ( ( 武 蔵-不 明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( その 他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 不明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 合計件数 (( (00 (0( (( (( ((( (0( (0( 99 (0( (( (( (( ((0 (( 9( (0 (( (0( (( ((( 9( (( 9( (0( (09 (( (( (09 (9 9( (9 (0( % (.0 (.9 (.0 (.( (.( (.( (.0 (.0 (.9 (.9 (.( 0.( (.( (.( (.( (.( 0.9 (.( (.0 (.0 (.( (.( (.( (.( (.9 (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.0

【表

2】

 「見張帳」

にみえる通行範囲一覧

(10)

182

国立歴史民俗博物館研究報告 第 155 集  2010 年 3 月 通行範囲 ((/(( ((/(( ((/(9 ((/(0 ((/( ((/( ((/( ((/( ((/( ((/( ((/( ((/( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(9 (/(0 (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(9 (/(0 (/( (/( 下総-東京 ( (( (( (( (( (( (0 (( (( (( (( (( (( (9 (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (9 (( (9 (( (( 下総-武蔵 ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( ( ( (( (( (( ( (( (( (( (( (( 9 (( (( (( (9 (9 (( (( (( (( (( 下総-相模 ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下総-下総 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下総-上総 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下総-安房 下総-常陸 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下総-上野 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下総-下野 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下総-その他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 下総-不明 ( (( ( ( ( (( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 上総-東京 ( (9 (( (( (( (( (( (( (( (( (( 9 ( (( ( (0 ( ( (( ( (( ( ( (( (0 (( (( (( (( 9 (( (( (( 上総-武蔵 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 上総-相模 上総-上野 ( ( ( ( 上総-下野 ( ( ( ( ( 上総-その他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 上総-不明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 安房-東京 ( ( ( ( ( ( ( ( 安房-武蔵 ( 安房-相模 安房-上野 安房-下野 安房-その他 安房-不明 ( ( ( 常陸-東京 ( ( (( 9 9 ( (0 (( (( (( (( ( ( (( 9 ( ( (0 9 ( (( (0 ( ( 9 ( (( ( ( ( ( ( ( 常陸-武蔵 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 常陸-相模 ( 常陸-上野 ( ( ( ( 常陸-下野 常陸-その他 ( ( ( ( ( 常陸-不明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 相模-上野 相模-下野 相模-その他 相模-不明 ( ( ( ( 上野-東京 ( ( 上野-その他 ( 上野-不明 ( ( 下野-東京 ( ( ( ( ( ( ( ( 下野-その他 下野-不明 ( ( ( ( 東京-その他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 東京-不明 9 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 9 ( ( ( ( ( 9 ( ( ( ( ( ( ( ( 武蔵-その他 ( ( ( ( ( 武蔵-不明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( その他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 不明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( 合計件数 (( (00 (0( (( (( ((( (0( (0( 99 (0( (( (( (( ((0 (( 9( (0 (( (0( (( ((( 9( (( 9( (0( (09 (( (( (09 (9 9( (9 (0( % (.0 (.9 (.0 (.( (.( (.( (.0 (.0 (.9 (.9 (.( 0.( (.( (.( (.( (.( 0.9 (.( (.0 (.0 (.( (.( (.( (.( (.9 (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.0

【表 2】 「見張帳」にみえる通行範囲一覧

183

[明治三~四年葛飾県鬼越村見張所記録の分析と紹介] ……池田真由美 注)(,松澤家文書M②「見張帳」全 (9 件 (( 冊(『市川市資料目録第一集』市川歴史博物館,(9(( 年)より作成した    (,横軸最上段の日付は ((~((月は明治 ( 年,(月~ (月は明治 ( 年である    (,(/((・(( は ( 冊の記載を合算した    (,縦軸の%の欄は全体件数((((( 件)に対する日計件数の比率を,横軸の%の欄は全体件数((((( 件)に対する通行範囲の合計件数の比率を示し,小数点以下第二位を四捨五入した 通行範囲 (/( (/( (/( (/( (/( (/( (/9 (/(0 (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(9 前 (/(9 (/(0 (/((ヵ(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(( (/(9 (/(0 (/( (/( 合計 % 下総-東京 (( (( (( (( (( (( (( (( (( (9 (( (( (( (( (( (( ( (( (( (( (9 (( (( (( ( (( ( (( (( (( (((( ((.( 下総-武蔵 (( (9 (9 (( (( (( (( 9 (( (( 9 (( (( (( (( (0 ( (( (( (( (( (( (( (( 9 (( ( (( (0 ( ((( ((.( 下総-相模 ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( 0.( 下総-下総 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ((( (.( 下総-上総 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (9 0.9 下総-安房 ( ( ( ( 0.( 下総-常陸 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( 0.( 下総-上野 ( ( ( ( ( ( ( (( 0.( 下総-下野 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( (.0 下総-その他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (0( (.0 下総-不明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ((0 (.( 上総-東京 ( (( 9 (( (( (( (( (( (( 9 (( (( ( (( (( (( ( (( (( (( (( (( (( ( ( 9 ( ( (( ( ((( ((.( 上総-武蔵 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ((( (.( 上総-相模 ( ( 0.0 上総-上野 ( ( ( ( ( ( ( ( (( 0.( 上総-下野 ( ( ( ( ( ( (( 0.( 上総-その他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( (.( 上総-不明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( (.( 安房-東京 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( 0.( 安房-武蔵 ( ( ( ( ( 0.( 安房-相模 0 0.0 安房-上野 ( ( 0.0 安房-下野 0 0.0 安房-その他 ( ( 0.0 安房-不明 ( ( ( ( 0.( 常陸-東京 ( ( (0 (0 ( (0 ( ( ( ( ( (( ( ( ( ( ( 9 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ((( (.( 常陸-武蔵 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( (.0 常陸-相模 ( 0.0 常陸-上野 ( ( 0.( 常陸-下野 0 0.0 常陸-その他 ( ( ( ( ( ( ( (( 0.( 常陸-不明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( (.0 相模-上野 0 0.0 相模-下野 0 0.0 相模-その他 0 0.0 相模-不明 ( ( 0.( 上野-東京 ( ( ( ( ( 0.( 上野-その他 ( ( 0.0 上野-不明 ( ( ( ( ( 0.( 下野-東京 ( ( ( (( 0.( 下野-その他 ( ( 0.0 下野-不明 ( ( 0.( 東京-その他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( 0.( 東京-不明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ((( (.( 武蔵-その他 ( 0.( 武蔵-不明 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( (.0 その他 ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( ( (( (.( 不明 ( ( ( ( ( ( ( (( 0.( 合計件数 (0( (( 99 99 (( ((9 ((9 90 (9 (( (( (( (( (( (( 9( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (( (9 (((( (00.0 % (.0 (.( (.9 (.9 (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.( 0.( (.( (.( (.( (.( (.( (.( (.( 0.( (.( (.0 (.( (.( 0.( (00.0

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○特定健診・保健指導機関の郵便番号、所在地、名称、電話番号 ○医師の氏名 ○被保険者証の記号 及び番号

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