ミラレーパの止と観について
渡 邊 温 子
1.はじめに
チベットのカギュー派の祖師の一人であるミラレーパ(Mi la ras pa bzhad pa’i rdo
rje, 1040–1123)は,6 年 7 ヶ月無言の行に入るなど,仏教の実践修行を重んじた行
者であった.それは弟子のレーチュンパに,長年修行し続けたために猿の尻のよ うに硬くなった自分の尻を見せて,「これよりも深いものはない」と示したことか らもよくわかる1).本稿では,ミラレーパの伝記である『甚深伝』(rJe btsun chen po
mid la ras pa’i rnam thar zab mo)を用いながら,ミラレーパが止観をどのように修し
たのかを明らかにしたい.
2.止と観の説明の欠如
チベット仏教ゲルク派の開祖であるツォンカパ(Tsong kha pa blo bzang grags pa, 1357–1419)は『菩提道次第論』(sKyes bu gsum gyi nyams su blang ba’i byang chub lam gyi
rim pa)などの著作において,止と観について順序だて仔細に説明を行っている. しかしミラレーパはというと,そもそも著作を残していないため,まず彼の弟子 たちが書き残した伝記などを参照する他ない.ミラレーパの直弟子であるゲンゾ ンレーパなど 12 人の高弟たちによって書かれた『甚深伝』を一見すると,不思議 なことに止観の説明はほとんどみられず止は 4 回,観は 3 回しか登場しない.そ れどころか,以下の金剛歌(mgur)に見られるように,むしろ止に対する否定的 な言葉が見られる.
zhi gnas kyi rtsi la ma zhen par/ /
lhag mthong gis2) me tog ’khrungs par shog/ /(『甚深伝』p. 35)
止の蜜に執着することなく 観の花が咲きますように ここでミラレーパは,止に執着することを否定している.他にも, その論拠の多くを本書に負っている. 6)代表的な民謡を[吉崎 2002: 109–116]に 和訳紹介した. 7)邦訳に[大橋・樋口・柚口 2008]がある.三人の訳者がそれぞ れに独自の和訳を提示する. 8)ちなみに『チベットからの声』第六版の発行部数 は一千,『燃え残った手紙』は原著に記載が無いために発行部数不明であるが,第二版は 刊行されておらず,初版は稀覯本の扱いを受けている. 9)彼の視線は西欧にも向 かっている.『燃え残った手紙』の執筆は,ステファン・ツヴァイクの小説『見知らぬ女 性からの手紙』(Brief einer Unbekannten, 1922)のネワール語訳原稿(Tīrtha rāj Tulādhar,
Mhamasyūmha Misāyā Pau, 1966:筆者未見)に着想を得た.彼はまた本書が西欧の諸言語
に翻訳されるよう切望した([“Hṛdaya” N.S. 1088: ii]). 10)ラサ商人たちは,カト マンズ盆地を経由地としてインドからチベットに達する国際交易の最前線に立っていた. テーラヴァーダ仏教と西欧の近代思想は,カリンポン・ルートが確立されるまで,カト マンズ盆地を経てチベットに伝えられていた. 〈参考文献〉 大橋美子・樋口妙子・柚口豈夫訳 2008『ムナーとマダン』日本ネパール協会. 吉崎一美 2002「チベットに旅立つ男とネパールに残される女――阿尼哥の結婚から『ム ナ・マダン』まで」『東洋学研究』39: 101–123. ――― 2005「パーラー(チベットのネワール商人結社)のヴァジュラーチャールヤたち ――チッタダル・“フリダヤ” の小説『燃え残った手紙』をもとにして」『密教文化』 215: (5)–(28). ――― 2008「ネパールに帰る男とチベットに残される女」『印度学仏教学研究』57 (1): (102)–(107). ――― 2012「河口慧海に梵語文法を教授したクルマン博士」『印度学仏教学研究』61 (1): (11)–(15).
Devakoṭā, Lakṣmī prasād. V.S. 2054. Munāmadan. Kāṭhamāḍauṃ: Sājhā Prakāśan.
Durgā lāl Śreṣṭha, trans. V.S. 2068. Lhāsā Bolche. Kāṭhamāḍauṃ: Mūlyāṅkana Prakāśana Gṛha. Hilker, Deb Shova Kansakar. 2005. Syamukapu: The Lhasa Newars of Kalimpong and
Kathmandu. Kathmandu: Vajra Publications.
“Hṛdaya,” Citta dhar. N.S. 1088. Miṃ Manaḥ Pau. Kāntipur: privately printed.
Kesar Lall, trans. 2002. Letter from a Lhasa Merchant to His Wife (Mim manah pau). New Delhi: Robin Books.
Śānta harṣa Vajrācārya. N.S. 1108. “Saṃdeyā Lisaḥ” (khaṇḍakāvya) yā Nhyasaḥyā Lisaḥ. Yeṃ: Sāhitya-kyabaḥ.
“Yami,” Dharma ratna. N.S. 1122 (khukvaḥgu pithanāḥ). Saṃdeyā Lisaḥ (khaṇḍakāvya). Yeṃ: Cvasā-pāsā.
〈キーワード〉 Dharma ratna “Yami”,Citta dhar “Hṛdaya”,Lakṣmī prasād Devakoṭā,ラサ・ ネワール,ネワール仏教,チベット仏教
修習するようにシバウーに促した.また,次のミラレーパの言葉からは,修習よ りも学問を重んじる者たちに対する痛烈な批判が見て取れる.
shad tshad kyi kha nang du bltas nas nyams len byed dgos/ bshad sgom gnyis gcig la ma dril na/ dang por shes par byas nas bsgom dgos bsam ste/ shes bya’i mtha’ la chod dus med/ lar jo bo chos phyug po zhig dang bla bo byas na/ mi dgos pa bya ba gcig kyang med de/ gdams ngag gang zab zab po mang na/ gang bsgrub ngo ma shes/ bsgrub kyang ’di la rtags ma byung bas/ gzhan yang e drag bsam pas ’grub dus med pas/ so ma zhig slob ring la de gong shes pa de brjed nas/ byis pa’i lag gi me tog dang ’dra/(『甚深伝』pp. 405–406)
「知った限りのことを口の中に見て実践しなければならない」,「語ることと修習の 2 つは 1 つだが,一緒にならないならば,まずは知ってから修習しよう」と思っても,所知は際 限ない.そもそも豊かで尊き法と語らえば,不要なものは何一つない.教誨の甚深な法 が多ければおおいほど,何を成すべきかわからない.成しても,これに兆しが生じない ので,「他も優れているかもしれない」と思って,成す時がない.新しいことを学ぶ時 は,前に知ったことを忘れて,描かれた手の花のようなものだ. 学問した上で実践修行をしなければならないと言えども,学ぶべきことは際限が ない.しかも,その教えは全て甚深であり,優劣をつけることができないため, 一体何を学べばよいかわからない.また,実践しても悟りの兆候らしきものが見 えないために他の法を探し求める.そして極め付けは,新しいことを学べば前に 学んだことを忘れてしまうという,学問を重んじる者たちに対するミラレーパの 酷評である4).ミラレーパは「修習せず語る法は倣慢である」と述べているよう に,修習することなく知識を詰め込むことを戒めた.このような彼の態度は結局 のところ文字による説明の否定となり,文章として自らの思想を書き残さなかっ た.これが,今日ミラレーパの思想を研究することが困難となった要因でもある.
4.ミラレーパの修習法
単なる知識の蓄積に陥ってしまった学問を否定したミラレーパは,言葉を使い 段階的に説明するのではなく,修行の中で起こってくる弟子たちの間違いの核心 を正し,直に己の心を悟らせるための修行方法をとった.du ma ro gcig ma rtogs na/ /stong nyid bsgom pa chad lta yin/ /cir snang sgom du ma shes na/ /mi rtogs bsgom pa log rtog lags/ /tha mal thugs phrad ma rtogs na/ /gnyis med bsgom pa bcos ma yin/ /rang sems skye med ma rtogs na/ /mi dmigs bsgom pa rtsol sgrub lags/ /zhen pa rang ’og ma byung na/ /spros med spyod pa blang dor lags/ /dgag sgrub med par ma shes na/ /dge ba sbyang pas mi dger ’gyur/ /skye ’chi med par ma rtogs na/ /rtsol sgrub byas pas ’khor ba’i rgyu/ /(『甚深 thams cad sems su ma shes na/ /tshangs pa’i ’jig rten dbang bsgyur yang/ /de la bden pa yod ma
yin/ /mnyam bzhag bzhi yi bsam gtan la/ /bskal par gnas kyang dman pa’i lam/ /thams cad mkhyen pa thob mi srid/ /(『甚深伝』p. 377)
一切は心であると知らねば 初禅天に自在になろうとも そこに真はありはしない 四禅の禅定に 劫住そうとも,劣った道であり 一切智者とはなり得ない このように,禅定である止を体得するよりも,心それ自体を悟ることが重要で あると語っている.何よりも瞑想修行を重んじていたはずのミラレーパが,なぜ 止観について説かなかったのか.
3.修行と学問
ここで一つ問題となるのは,瞑想修行を行う前に学問をすべきかという点であ る3).この点に関してミラレーパがどのように考えていたかの答えとして,ミラ レーパとシバウー(Zhi ba ’od)とのやり取りを確認する. ミラレーパは弟子のシバウーに,「話をするよりも修習する方がためになる」と 語り聞かせた.それに対してシバウーが,「『まず学んでから修習しなければ違え る』と言うものがいます」と言ったため,ミラレーパは次の金剛歌をうたった.de bzhin thams cad gol tshabs che/ /bu snyan brgyud mkha’ ’gro’i kha rlangs la/ /gol sa yod snyam bdud yin te/ /ras chen drung du zhi ba ’od/ /gegs la shor na bslus pa yin/ /dmar khrid lag len mngon sum la/ /gol sa byung na bden pa med/ /bu gol sa’i slob gnyer ma sems par/ /rtse gcig tu sgoms dang myur du gsal/ /(『甚深伝』pp. 261–262)
如此,全ては間違う力が強い 息子よ,口伝ダーキニーの吐息に 間違いがあると思うのは魔である レーチェン〔=ミラレーパ〕の前でシバウーは 否定したならば騙されたのである 直接伝授,実践,そのものに 間違いが生ずれば真実でない 息子よ,間違いの学問を考えず 専一に修習しなさい,迅速に現前となろう ここでミラレーパは,そもそも師マルパ翻訳師から受け継いだ教えは間違いの無 い法であるので,勉強云々ではなく,その教誨自体について疑いを抱くことなく
修習するようにシバウーに促した.また,次のミラレーパの言葉からは,修習よ りも学問を重んじる者たちに対する痛烈な批判が見て取れる.
shad tshad kyi kha nang du bltas nas nyams len byed dgos/ bshad sgom gnyis gcig la ma dril na/ dang por shes par byas nas bsgom dgos bsam ste/ shes bya’i mtha’ la chod dus med/ lar jo bo chos phyug po zhig dang bla bo byas na/ mi dgos pa bya ba gcig kyang med de/ gdams ngag gang zab zab po mang na/ gang bsgrub ngo ma shes/ bsgrub kyang ’di la rtags ma byung bas/ gzhan yang e drag bsam pas ’grub dus med pas/ so ma zhig slob ring la de gong shes pa de brjed nas/ byis pa’i lag gi me tog dang ’dra/(『甚深伝』pp. 405–406)
「知った限りのことを口の中に見て実践しなければならない」,「語ることと修習の 2 つは 1 つだが,一緒にならないならば,まずは知ってから修習しよう」と思っても,所知は際 限ない.そもそも豊かで尊き法と語らえば,不要なものは何一つない.教誨の甚深な法 が多ければおおいほど,何を成すべきかわからない.成しても,これに兆しが生じない ので,「他も優れているかもしれない」と思って,成す時がない.新しいことを学ぶ時 は,前に知ったことを忘れて,描かれた手の花のようなものだ. 学問した上で実践修行をしなければならないと言えども,学ぶべきことは際限が ない.しかも,その教えは全て甚深であり,優劣をつけることができないため, 一体何を学べばよいかわからない.また,実践しても悟りの兆候らしきものが見 えないために他の法を探し求める.そして極め付けは,新しいことを学べば前に 学んだことを忘れてしまうという,学問を重んじる者たちに対するミラレーパの 酷評である4).ミラレーパは「修習せず語る法は倣慢である」と述べているよう に,修習することなく知識を詰め込むことを戒めた.このような彼の態度は結局 のところ文字による説明の否定となり,文章として自らの思想を書き残さなかっ た.これが,今日ミラレーパの思想を研究することが困難となった要因でもある.
4.ミラレーパの修習法
単なる知識の蓄積に陥ってしまった学問を否定したミラレーパは,言葉を使い 段階的に説明するのではなく,修行の中で起こってくる弟子たちの間違いの核心 を正し,直に己の心を悟らせるための修行方法をとった.du ma ro gcig ma rtogs na/ /stong nyid bsgom pa chad lta yin/ /cir snang sgom du ma shes na/ /mi rtogs bsgom pa log rtog lags/ /tha mal thugs phrad ma rtogs na/ /gnyis med bsgom pa bcos ma yin/ /rang sems skye med ma rtogs na/ /mi dmigs bsgom pa rtsol sgrub lags/ /zhen pa rang ’og ma byung na/ /spros med spyod pa blang dor lags/ /dgag sgrub med par ma shes na/ /dge ba sbyang pas mi dger ’gyur/ /skye ’chi med par ma rtogs na/ /rtsol sgrub byas pas ’khor ba’i rgyu/ /(『甚深 thams cad sems su ma shes na/ /tshangs pa’i ’jig rten dbang bsgyur yang/ /de la bden pa yod ma
yin/ /mnyam bzhag bzhi yi bsam gtan la/ /bskal par gnas kyang dman pa’i lam/ /thams cad mkhyen pa thob mi srid/ /(『甚深伝』p. 377)
一切は心であると知らねば 初禅天に自在になろうとも そこに真はありはしない 四禅の禅定に 劫住そうとも,劣った道であり 一切智者とはなり得ない このように,禅定である止を体得するよりも,心それ自体を悟ることが重要で あると語っている.何よりも瞑想修行を重んじていたはずのミラレーパが,なぜ 止観について説かなかったのか.
3.修行と学問
ここで一つ問題となるのは,瞑想修行を行う前に学問をすべきかという点であ る3).この点に関してミラレーパがどのように考えていたかの答えとして,ミラ レーパとシバウー(Zhi ba ’od)とのやり取りを確認する. ミラレーパは弟子のシバウーに,「話をするよりも修習する方がためになる」と 語り聞かせた.それに対してシバウーが,「『まず学んでから修習しなければ違え る』と言うものがいます」と言ったため,ミラレーパは次の金剛歌をうたった.de bzhin thams cad gol tshabs che/ /bu snyan brgyud mkha’ ’gro’i kha rlangs la/ /gol sa yod snyam bdud yin te/ /ras chen drung du zhi ba ’od/ /gegs la shor na bslus pa yin/ /dmar khrid lag len mngon sum la/ /gol sa byung na bden pa med/ /bu gol sa’i slob gnyer ma sems par/ /rtse gcig tu sgoms dang myur du gsal/ /(『甚深伝』pp. 261–262)
如此,全ては間違う力が強い 息子よ,口伝ダーキニーの吐息に 間違いがあると思うのは魔である レーチェン〔=ミラレーパ〕の前でシバウーは 否定したならば騙されたのである 直接伝授,実践,そのものに 間違いが生ずれば真実でない 息子よ,間違いの学問を考えず 専一に修習しなさい,迅速に現前となろう ここでミラレーパは,そもそも師マルパ翻訳師から受け継いだ教えは間違いの無 い法であるので,勉強云々ではなく,その教誨自体について疑いを抱くことなく
える弟子に対して,
rang sems bsgom du btub lags na/ /rnam rtog sems kyi cho ’phrul yin/ /da rung rnam rtog gdar sha chod/ /da rung sems nyid gtan la phob/ /(『甚深伝』p. 268)
己の心が修習に適しているならば 妄分別は心の変化である 再び妄分別が磨きあげられる 再び心が解決する と説いた.本来所断であるはずの妄分別も,本来は空である心から生まれた.そ のような心の核心をミラレーパは悟らせようとしたのである.
5.おわりに
ミラレーパの金剛歌の中には止観の説明は全くと言ってよい程見られなかった. 修習することなく学問のみを行うことを否定していたミラレーパは,実践的こそ を修行の中心に据えていた.そのためその指導方法は,心が空であることを直接 悟る頓悟を目指し,段階的な止と観をそもそも超越しようとするものであった. 1)15 世紀にツァンニョン・へールカによって編纂された『ミラレーパの十万歌』では, この教えはレーチュンパではなくガムポパに伝えられたことに書き換えられている. 2)具格助字だが属格助字の間違いの可能性について,日本印度学仏教学会第 67 回学術 大会において,広島大学の根本裕史先生よりご指摘いただいた.ここでは属格助字で 訳す. 3)『チベットの密教ヨーガ』序文 pp. 28–31 参照. 4)「一切智者となるためには,まずはそこに至る道を知らなければならない」という考 え方は,現在のゲルク派の僧侶たちの口上に度々登る議論である. 〈一次文献〉『甚深伝』 rJe btsun chen po mid la ras pa’i rnam thar zab mo. In rJe btsun mi la ras pa’i gsung ’bum. Vol. 1. Beijing: Krung go’i bod rig pa dpe
skrun khang, 2011. 『チベットの密教ヨーガ』ツォンカパ『チベットの密教ヨーガ――深い道であるナーロー の六法の点から導く次第 三信具足』ツルティム・ケサン,山田 哲也訳,文栄堂書店,1999. 〈キーワード〉 ミラレーパ,止観,カギュー派 (大谷大学任期制助教) 伝』p. 322) 多を一味と理解しなければ 空性の修習は断見である 現れ全てが修習とならなければ 無分別の修習は誤りである 日常の心の執着を理解しなければ 不二の修習は紛い物である 己の心が不生であると理解しなければ 無縁の修習は骨である 執着が自分の下に生じなければ 無戯論の行いは取捨である 否定と肯定は無いと知らなければ 善を行い不善へと変わる 生死はないと理解しなければ 骨を折っても輪廻の原因である ここでは,「空性の修習」「無分別の修習」「不二の修習」「無縁の修習」という, 本来行うべき修習において陥る恐れのある間違いについて正している.「無縁の修 習」という言葉が見えるが,他の箇所でも修習に関して,「修習対象のない修習を 行え」(sgom rgyu med pa’i sgom zhig gyis)「何が浮かんでも追いかけないまま守れ」
(gang shar rjes med ngang la skyongs)というように,無所縁の修習が何度も説かれる.
sems nyid ’od gsal stong pa la/ /bsgom bya sgom byed ma mchis pas/ /myam rjes med par gnas pa snyam/ /khyod rnams tshul bzhin bsgrub pa na/ /dran pa’i sems la yengs med bya/ /(『甚深伝』 p. 324) 光明であり空である心性に 修習されるもの修習するものも存在しないので 等至も後得もなく住することを想え 汝らはそのように成就したならば 念の心に不放逸になれ ここにもあるように,重要なことは心が空であると悟ることである.心自体が空 であるために,修習する本体は本来空であり,修習される対象も空である.その ことをミラレーパは段階的にではなく直接的に悟らせるために,修習対象を置く なとうたったのである.
また,「己の心を見て,妄分別のない修習をせよ」(rang sems ’di la tsur ltos la/ /rnam rtog med pa’i sgom zhig gyis)とミラレーパは弟子に命令したが,それが出来ないと訴
える弟子に対して,
rang sems bsgom du btub lags na/ /rnam rtog sems kyi cho ’phrul yin/ /da rung rnam rtog gdar sha chod/ /da rung sems nyid gtan la phob/ /(『甚深伝』p. 268)
己の心が修習に適しているならば 妄分別は心の変化である 再び妄分別が磨きあげられる 再び心が解決する と説いた.本来所断であるはずの妄分別も,本来は空である心から生まれた.そ のような心の核心をミラレーパは悟らせようとしたのである.
5.おわりに
ミラレーパの金剛歌の中には止観の説明は全くと言ってよい程見られなかった. 修習することなく学問のみを行うことを否定していたミラレーパは,実践的こそ を修行の中心に据えていた.そのためその指導方法は,心が空であることを直接 悟る頓悟を目指し,段階的な止と観をそもそも超越しようとするものであった. 1)15 世紀にツァンニョン・へールカによって編纂された『ミラレーパの十万歌』では, この教えはレーチュンパではなくガムポパに伝えられたことに書き換えられている. 2)具格助字だが属格助字の間違いの可能性について,日本印度学仏教学会第 67 回学術 大会において,広島大学の根本裕史先生よりご指摘いただいた.ここでは属格助字で 訳す. 3)『チベットの密教ヨーガ』序文 pp. 28–31 参照. 4)「一切智者となるためには,まずはそこに至る道を知らなければならない」という考 え方は,現在のゲルク派の僧侶たちの口上に度々登る議論である. 〈一次文献〉『甚深伝』 rJe btsun chen po mid la ras pa’i rnam thar zab mo. In rJe btsun mi la ras pa’i gsung ’bum. Vol. 1. Beijing: Krung go’i bod rig pa dpe
skrun khang, 2011. 『チベットの密教ヨーガ』ツォンカパ『チベットの密教ヨーガ――深い道であるナーロー の六法の点から導く次第 三信具足』ツルティム・ケサン,山田 哲也訳,文栄堂書店,1999. 〈キーワード〉 ミラレーパ,止観,カギュー派 (大谷大学任期制助教) 伝』p. 322) 多を一味と理解しなければ 空性の修習は断見である 現れ全てが修習とならなければ 無分別の修習は誤りである 日常の心の執着を理解しなければ 不二の修習は紛い物である 己の心が不生であると理解しなければ 無縁の修習は骨である 執着が自分の下に生じなければ 無戯論の行いは取捨である 否定と肯定は無いと知らなければ 善を行い不善へと変わる 生死はないと理解しなければ 骨を折っても輪廻の原因である ここでは,「空性の修習」「無分別の修習」「不二の修習」「無縁の修習」という, 本来行うべき修習において陥る恐れのある間違いについて正している.「無縁の修 習」という言葉が見えるが,他の箇所でも修習に関して,「修習対象のない修習を 行え」(sgom rgyu med pa’i sgom zhig gyis)「何が浮かんでも追いかけないまま守れ」
(gang shar rjes med ngang la skyongs)というように,無所縁の修習が何度も説かれる.
sems nyid ’od gsal stong pa la/ /bsgom bya sgom byed ma mchis pas/ /myam rjes med par gnas pa snyam/ /khyod rnams tshul bzhin bsgrub pa na/ /dran pa’i sems la yengs med bya/ /(『甚深伝』 p. 324) 光明であり空である心性に 修習されるもの修習するものも存在しないので 等至も後得もなく住することを想え 汝らはそのように成就したならば 念の心に不放逸になれ ここにもあるように,重要なことは心が空であると悟ることである.心自体が空 であるために,修習する本体は本来空であり,修習される対象も空である.その ことをミラレーパは段階的にではなく直接的に悟らせるために,修習対象を置く なとうたったのである.
また,「己の心を見て,妄分別のない修習をせよ」(rang sems ’di la tsur ltos la/ /rnam rtog med pa’i sgom zhig gyis)とミラレーパは弟子に命令したが,それが出来ないと訴