• 検索結果がありません。

パーリ学仏教文化学 (26) - 006那須 円照「『倶舎論』における言語観」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "パーリ学仏教文化学 (26) - 006那須 円照「『倶舎論』における言語観」"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

[rmag]

r{R,

t(ilii

Pmu

eC

ts

et

6

:

ge.

en

Sts

fi

Fi]

ll.

The

Philosophy

ofLanguage

in

the

Abhid]zannakos'abhasya

Nasu,

Ensho

This

essay examines the characteristics of the

philosophy

of

language

of

the

Vi}ibhasikas

and

Sautrantikas

(i.e,,

of

Vasubandhu)

discussed

in

the

AbhictharmakoSabhjsya

by

consulting

the

SPhu(dirthdi

AbhidharmakoSazyakhyj

by

YaSomitra

and the

7lrttvdrthanjma

AbhictharmakoSabhdisyaeikii of

Sthirarnati,

thetwo major

Indian

commentaries tothe text,

The

Vaibhfisika

scholars claim

that

njma

(name),

pado

(phrase)

and

vyaby'ana

(syllable),

which are cittaviprayuktasamsharas

(conditioned

forces

dissociated

from

mind), are real

linguistic

existents.

They

maintain thatthese

three

linguistic

elements exist as

independent

dharmas.

The

Vaibhasikas

understand

that

the

linguistic

elements

in

mind

(njma,

pacia

and ilyabjana)

have

one-to-one correspondence with a certain object or a certain

phenomenon,

and express a

fixed

meaning.

The

Sautrantika

scholars, on the other

hand,

only admit

physical

sounds as real existentsof

the

linguistic

elements.

There

is

no need toadmit the existence

of i{yaig'ana

(syllable)

separate

from

sounds, and njma and

pado

are temporary

mental constructions that exist only as a continuum of

physical

sounds.

Therefore,

in

order to understand

the

meaning of a certain object or a certain

phenomenon,

there must

be

limitations

on sounds

determined

by

linguistic

conventlons.

The

Vaibhasika

and the

Sautrantika

scholars engaged

in

contentious

disputes

over the

process

how

linguistic

activitiesthatallow us

to

know

external objects.

How

the scholars of

these

two schools analyzed

the

working of

language

is

considered to

be

the climax of the

development

of

Abhidharrna

Buddhism

in

the

Indian

Buddhist

scholastic world.

(2)

42

パ ーリ学 仏 教文化 学

1

   

 

本論

攷で は, 『倶 舎 論

AbhidharmakoSabhasya

, 以下

AKBh

と略 記

に お ける, 有

量 部

ヴ ァ ス バ ン ドゥ

の 言 語 観の

色に つ い て

舎 論

友 釈

Sphutdrtha

 

AbhidharmakoSa

yakhyd , 以 下

SA

と略 記

倶 舎論 安

Tattvarthandma

 

A

 

bhidhar

〃iakoSabhasyalika , 以下

TA

と略 記

を参照 し な が ら,検 討す る。 なお本 稿に おい て 「 」 とい う表 記は, 原則 とし て,

質 的な もの 音声= 音響= 語

と精 神 的な もの (名,句,文

)両

方を

む と理解され たい 。 両 者の

内容説

明は以下に な さ れ て い る。

 

西

暦 400 年

前 後か ら

5

世 紀

中葉

頃まで のイ ン グ プ

朝 期

に お い て パ ー リ

で はブ ッ ダゴ ーサ

AD

5C

.前 半,

1984

p

. 

451] 参

が 『

清浄

Visuddhimagga)

を始め と して , 仏 陀の 言 葉 の 集

で あ る五つ の ニ カーヤ に対 す る諸 註 釈を

す。 そ の

, 一

で は, サン ス クリッ トで ア ビダル マ の

教 教 義 を論じ解 釈 し て, 「法」

ダル マ

の 体 系化が 図 られ て い た。 その

代表

的 学 匠が, ヴァ ス バ ン ドゥ

A

D

350

430

加 藤

1989

pp

58

68

Deleanu

 

2006

pp

186

196

]参

で あ る。 い ずれ も伝 承 さ れ て き た 聖 言 として の ブ ッ ダの 「言 語」 に つ い て, パ ー 語 圏 あ れ サ ク リッ ト圏で あれ, 古 代イ ン ドの

仏教徒

た ちが

も注 目した時代で あっ た。 本

攷が

う,

AKBh

で は, ブッ ダの 「

言語

」 に 対 す る直 接 的 言 及 はない が ,最

かれ る有 部の , すべ て の 「法」

ダル マ )は論理 的理解を 超 え た もの で あ り,

言葉

も論 理 的理 解を

えて い る とい う表 現 は, 一 」 は凡 夫の理

を超えた仏 語の 対 象で あ る とい うこ とが前 提 となろ う。 こ れ は,註

3

る よ うに, 『 ・デ ーパ

Abhidharmadipa

 with ”

bhdsaprabhlivrtti

に も

踏襲

されて い こ れに対 して,

の ヴァ ス バ ン ドゥ は,仏 陀の心 不相 応 行 として の言 語

別性

定す る慣 習論に基づ い て物 質的 な有 漏な る言葉 と対 象の 関係を説き ,仏 語の

を認めない 味 論 を説 く。 こ れ はt

註(

3

に 述べ る ように, 勝 義 法 も

世間

的な言 葉で表さ れ, 言 葉は勝 義 と して非存 在で あ る, とす るス リ ラ ン カ

出身

の註釈 家 マ ハ ー

(3)

      『

』 に お ける言 語 観       43

ナ ーマ

お よ そ

A

D

5C

.の

四 ・ 四半 期か ら

6C

.の

一 ・四半 期に か けて の

頃, [森

1984

p

554]

参照

の 『

解道

註釈

SaddhammappaktZsini

= commentat  

y

 on 

the

 

Patisambhi

imagga

の 立場に通

る。

本 論

攷は, パ

学仏教文化学

会が 目指 し うるパ ー リ

語圏

にお け る

釈 文

の さ ら なる

査に よる聖

典言語観

の 解 明の ための 比較思 想 的予 備研究 ともい え るで あろ う。 そ こ で 上の よ うな

有部

量 部の対照的言 語

が 以下の 論 述理 解され よ う。       み ょう

 

有 部 は, 実 在 す る言 語 的 要 素 と し て , 心 不相 応 行 法 と して の ,

 

        く       もん

ntima

句 (

pada )

・文

四吻 砌 α

の三 つ を認め る。 これ ら は

々独 立 し た ダル マ とし て

在す 有 部は主 張す る。

本論攷

を読む に あ た り注 意 し て ほ しい こ とは, 名 とは名 称の こ とであ り,

とは, 一般 的

に お 、 句 と節 と

文章

む もの の こ とで あ り,文 とは 古 典や現 代に お ける文 章を 指 すの で は な く,

音節

の意 味 を有 す るとい うこ とで あ る。 経 量 部は, 有部 と異 な り,実

す る言語 的 要 素は, 物 質的音 声

Sabda )

の みで あ り,文を

音声

とは別に

め る必

はな く, 名 ・ 物 質

継 起 的 集合 物

さ れた もの と され る。 また, 対象の 意 味を理

す るた め に は, 言語

約に よ る音声に対す る限定が不 可 欠と さ れ る。

 

論 攷で は,

音声 (

Sabda

, 音

響 (

ghosa )

, 語 (vac ) とい う言

が ,

質 的

な もの と して ほぼ 同 じ意

使

用さ れ るこ とに注 意 さ れ たい 。 一般 的 に, 有

と もに,

Sabda

は 諏

64

α噂の ・α

伝 統 的用 語で は 「

声境

で あ り,

Sirotrendriya

伝統

的 用 語で は 「耳 根

の 対 象 として 物 質 的な もの と理 解 され る。 こ こ で, 有 部 ・ 経 量部に と て の

質 的 音 声 と呼ば れ るもの は,色蘊 ・声処 ・声界 ・声境に含め ら れ,聴 覚器官 (耳感 官 )と し て の 同 じ く色 蘊に含め られ る

処 ・耳 界 ・耳根の対

と して の粗 雑な もの で あ り, そ れ だ けで は

言葉

の精神 的要 素で ある

意味

た ない もの で あ り, 有部 に とっ て の心 不相 応 行 と して の 名 ・句 ・文は ,行

・法 処 ・法 界 ・法

め ら れ, 思

と して の識蘊 ・処 ・意意 根意識 界 ( = 意界 =意 根 は, 現

意識界

に とっ て , 一

在世

た が過 去 世 ぎ去

(4)

 44        パ ーリ学 仏 教 文 化学 い る一瞬前の 意識 界 と同 じ もの

と して の精 細な もの で あ り, そ れ だ けで

言葉

の 精

要素

で あ る意味を

つ もので あ ると理 解さ れ る。 先ほ ど も 述べ た よ うに,

は, 物 質 的 音 声に対す る

精神

的な もの によ る限定 に よっ て , 物 質 的 音 声が意 味を持つ もの と なる と理解で きる。

本論攷

で は, 物

と して の色蘊 に包

さ れ る耳に聞 こ える もの としての

Sabda

を ,便 宜 的に

物質

声と

現 す る。

 

しか し, 音 声 も,有 部や経量部 に とっ て,

神 的な耳 識 の 対 象で もあ る の で はない か と も考え られ る が ,前五識

眼識 ・耳識 ・鼻 識 ・

舌識

・身 識 ) に は

自性

分 別 (現 在

直 面

してい る客観 的 対

し も推 測を 加 える こ とな く無 分 別に覚 知す る こ と

しか な く, 意

想 する こ とがで き ない 。 よっ て ,

精 神

的な 意味を捉え るの は, 計 度 分別

過 去 ・現 在未 来 り,

々 に 思考す る観 念 連 合の作 用

や随

分 別

過 去を追想 し,

々注 意 し,分 別す る こ と)の ある意識だ け なの で ある。

える範 囲

での

音声

は, 意

を持た ず, 意識で

え る名 ・

意 味

つ の で あ る。 有 部に とっ て も,

音声

も意識の 計

別の 対 象な ら, 意 味 を持つ で あ ろ うが, そ れ は粗

な音声

体の

性質

に よ るの で はな く,意

の 主

的分 別 構 想の 所産で あ ろ う。 以 上か ら分か るこ と は, 有 部は耳の対 象 と して, あ るい は,

意識

別の対 象 として の 音声 と, 意

の 認 識 対 象 と して の心不

応 行 と して の 名 ・句 ・文 とい う多様 な言

めて い るが ,

は,意

の 分 別の対 象と しての

の み に言 語を集

す る。 経 量 部の 方が合 理 的 ・現代 的な 理論を有す ると も

え よう。

 

以下, 有部 と経量部は,言

が対 象を知 らせ るプ ロ セ ス につ い て,互い に

らず独 特の 議

を す る。 以下の議 論で, ア ビダル マ の 最 盛 期の イ ン ド

教 学 界に おい て , どの よ うに言

的現 象 を説 明してい た か を 理解し て い た だ き たい 。

2

実 在 性 を め ぐ

経量 部

有部

論争

以下, 経 量 部の 立場 と有

の 立 場の 主 張を 区

し て

議論

討 して い る

(5)

      『倶 舎 論 』 に おけ る 言 語 観       

45

が, こ の 区

は, 筆 者の現在 まで の北伝ア ビダル マ 研 究に基づ く総 合 的 知

か ら と, 先 学の 研 究によ る

示 に基づ く。 註 釈 文献に お い て も, これ は

有部

説, これは経 量

部説

とは明

されて い ない 場 合が 多い とい うこ とを

っ て お く。

 

以下,個別 的 な有 部 と経 量 部の

検 討

す る

に, こ の 議 論の 背 景 に 基づ く全

的な見 通 しを 立て て お く。 『倶

論』 に お い て は, 以下の 個 別 的 議 論の 前 に章 第四十七偈 前 半句 (「集 ま り等 と は,名称 (5α砌 と

辞句 (

vakya

音 節

akSara

諸集 合

で あ る」

に対 し, 「名 称 諸 集

」 とは, 「

」 「声」 「香」 「味」 「触」 な どで あ り, 「辞

の 諸 集 合」 と は, 「諸 行無常 」 「諸 法は無我 で ある」 「涅 槃は寂 静である」 な どで あ り, 「

音節

諸集

」 とは,

ka

, 

kha

, 

ga

, 

gha

, 

ha

な どで ある, と記述 され る。 こ れ らの

実 例が まず挙 げられ て, 基

本 的

釈論 (

bhdSya

が終え ら れ た後に, これ らの 実 在

drarya)

につ い て の対 論が な さ れ る。 現 代 的 常 識で は, どち らか とい えぼ,

音節

まっ て , 名称 や, 辞

が で きる とい の が通 常のえ方であろ う。 その よ うな要 素 還元 主義 的立場か ら,経量部は有部を批判す る。 しか し,言

を精神 的な もの と考えれ ば, 空 間に位置を 占め な い か ら,

有部

の よ うに , 空 間 的で な く精 神 的に 大 きな

も, 空

間的

で な く

神 的に小さな 文も同

分割

され ない

存在性

を持ち

有部

の説も妥 当 するであ ろ う。 し か し,有

対 象現 象 一 対一対

説に は限界が あ り,

音声

に対 する言 語 協 約に よ る

慣習的意

論の が 妥 当 する面を

す る と もい え る で あろ う。 ともか く, 経量

の ヴ ァ ス バ ン ドゥ は, 「心 不 相 」 の実 在性を一貫 し て 拒 斥す る論を展 開 す るが, その 脈 絡が長 くな る と, 正

有部

の 立場を

明する こ とで , 議 論を

結させ るの が常で ある。 今 回の 議論の場 合は,

理 を 実在す る とい う有部議 論め く く られてい る。 これは,名 ・ ル マ を表 現す 言葉で あ り,

仏語

で あっ たの で あ り, その 凡夫の 理解を 超 え た

有部 的表

現なの で あろ う。

(6)

 46      パ ーリ学仏 教 文 化 学

1

〕 名 ・句 ・文は ,物

音声

なの か ,心不相 応 行 なのか

AKBh

. 

Pradhan

1st

, 

p

80

ll

22

24

 

Shastri

. 

pp

271

.a.

L12

272

.a.

1

1

, 

Peking

96

b

6

8

, 

Derge

84

b

4

6

,玄

1998

p

206

.下 段.

ll

4

7

, 真 諦

同:

p

206

.上段.

IL4

9

])

nanu  ca 

te

 v

ksvabh5vatv

c chabd tmak2  

iti

 rttpasvabh v

bhavanti

, 

kasm

巨c

cittaviprayukt …

l

 

ity

 ucyante ?

naite  v5ksvabh5v 巨

h

 

ghoSo

 

hi

 v互

k

 na  ca  

gho

am 互tre頭rthipratiyante/ 

kim

 tarhi?

vah’ nami  

pravarttate

 n盃ma  artharVarP  

dyotayati

経 量 部

ま た , そ れ ら

ま り

, 語 を 自性 として い るか ら, 音声を本 体 とす る もの で あ るか ら, 色 を 自性 とす る もの で は な い の か。 ど う して , 心不 相応 と説かれ るの か。

有 部

こ れ ら

ま り

は,

を 自

としない 。 語は実に, 音響で ある。 し か し,

音響

だ けで は,

は 理解され ない 。 そ れで は どう か。 語は名に おい て はた らく。

が,

]対象性

す」。 (解 説 )

AKBh

に お い て,

部 (

ヴァ ス バ ン ドゥ)は, 名 ・ 句 ・文 集 ま りの 本 体は,物 質 的な語, す な わ ち

音声

で あ り, 心不 相応 行 と し ての別の 実 体で は ない と主 張 する。

TA

に よれ ば,

物質的

な どの

合に基づ き, a 等の 音 節の 本 体 と し ての

声に対して

ばれ,

の 集 ま り等 と

性が異な らない この音 声 と異な ら ないの集ま り等は, 色蘊に含ま れ, 耳 感官に よっ て 把 捉され る。 よっ て, 名 等は心不相 応

で はない と経量 部は主

す る。

 

AKBh

に お い て,有部は反 論す る。経量 部の う語 と は音 響で あ り,音

だ けで は意

が理

されない

ま りは

自性

と しない 心 不

応 行であ る。

TA

に よ れ ば, 有

に よれば,

は,

相続

で,

を 顕 現 させ , その 名と句に依存 して, 意 味を構 想す るの で ある。 よっ て,語 と

ま り

とは区別 さ れ, 語によっ て 直 接 対 象を

示す るこ とはない の で あ る。

 

SA

を参 照す ると, 

AKBh

に お い て,語 は名に お い て は た ら き,

(7)

      『 』 に お ける言語 観      

47

依 存 して対 象性 を現 す と説かれて い る。 三

世実有論

に よれ ば,語が未 来世か ら まず生じ, そ れ が

因となっ て ,

名等

が結 果 として 未 来 世か ら生 じ, その 名が, 対 応す る

対象

性質

を現し,

意味

想す る とい う構 造に なっ て い るの で あ るω。

 

 

の主張一

1

特定

物質

音声

み が

味 を理 解 さ

AKBh

. 

Pradhan

1st

. 

p

80

11

24

25

, 

Shastri

. 

p

272

.a.

1

2

, 

Peking

96

b

8

, 

Derge

84

b

6

,玄 奘,

1998

p

206

段.

ll

7

8]

真諦

同 :

p

206

.上

段 IL9

11])

na vai  

gho

$arn5trarp  v互

k

, 

yena

 tu 

gho

爭e箪函眈

ha

pratiyate

 sa 

gho

串o vEk  

1

経 量部 ]実 ,語は音 響の みでは ない 。 しか し, その音 響に よっ て, 意味 が 理

さ れ る, その音 響が 語で ある」。

解説)

SA

, 

TA

に よ れ ば, 

AKBh

に お い て は, ヴ ァ ス バ ン ドゥはす べ て の語 が

音響

で はな く, ま た , すべ 音 響 は な , 意 味が音 響に よっ て 理

される

特定

音響

が語に含 まれる, と主 張 する (2) 。 〔

3

) 有 部 と経 量 部の対 論

経量

に よ れば, 対

に関して 限 定さ れ た

音声

   

が,

意味

構想

する

AKBh

. 

Pradhan

1st

. 

pp

80

1

25

81

1

3

, 

Shastri

. 

p

272

.a.

ll

3

6

, 

Peking

96

b

8

97

a.

2

Derge

84

b

6

7

,玄 奘.[平川

1998

pp

206

.下段

1

8

207

.下 段.

L2

同: 

pp

. 

206

.上 段

1

11

207

.上 段

1

2])

kena

 

punar

 

gho

erpdrthah 

pratiyate

yo

rthe§u 

kpt5vadhir

 vaktrbhib  tadyath五一

gaur

 

ity

 e 串a 

Sabdo

 navasv  artheSu

k

;t五vadhih −

‘‘

vagdigbhiiraSmivaije §u 

paSvak5isvargav

ri5u

!navasv  arthe u medhAvi  

goSabdam

upadhdrayet ”

11

 

iti

」 「

有部

そ れで は, い か な る

音響

に よっ て意

が 理

さ れ るの か。

経 量 部

語る者た ちに よっ て , 諸 対 象に関 して , 限定が な されて い る。 例 えば,

go

とい うこ の

音声

は, 九つ の 対

して , 限定が な さ れて い る。

(8)

 48        パ ーリ学 仏 教 文 化 学

 

智者

は,

go

とい

音声

を ,

方角

と地 と

と金

と獣 と眼 と天 と水 と い つ の 意 味で, 理解す る で あろ う, と」。 (解 説 )

TA

照す る と,

実在

す る

名等

ま りで ない

響で も どん な

定の もの に よっ て 意 味が理 解 さ れ るの か とい う有

の 問に

して,

部 (

ヴ ァス バ ン ドゥ

え る。

 AKBh

で は,

た ち に よっ て

して 限 定が な さ れ て い る音 響 = 音 声が 意 味 を 理 解 させ る と主 張され る 。

SA

に よ れ ぼ ,限定 さ れ た, つ ま り, 領 域が 定め られ た音 響 = 音 声が語 あ り, そ 限定 に よ る言 語 協

safiketa

に依 存 し て , 対 象を表 示す る の で あ る。 

TA

によ れ ば, 例 えばa 等 の 音が順 番に起 こ り対 象を表示す るの で ある。 そ れ に伴 う言

語協約

依存

し て , 音 声は意 味を構 想 して 理解 さ せ る。 音声が 存在す るだ けで は意 味は理解 されず,

きか け

= 言

協 約

が必 要な で ある 。 言 語 協約 とは 約

と も理

さ れ る(3)。

 

こ こ で私が 「限定が な さ れてい る」 と訳 した, “

krt

∂vadhi ” は重 要な用 語で あ り,

先 学に よ り さ まざまに現 代 語訳さ れ て い る ω 。

 

また,

go

とい う言

に九っ の 意 味があ るこ と が説かれ る が, これ は,ヴァ ス バ ン ドゥが , 有 部 に とっ て

go

は音 節で も あ り名で も あ る例で ある か ら,

音節

が独立 した実体 と して確立で きない を暗に揶

して い る と も言え る で あろ う。

の ヴ ァ ス バ ン ドゥ に とっ ては,

go

質 的

声 = 語 と して整

的に理

さ れ る の で あ る。

4

) 経

の主 張一

2

音声

は不 要

AKBh

. 

Pradhan

. 

l

 st. 

p

81

1L4

5

, 

Shastri

. 

p

272

.a.

IL7

9

, 

Peking

97

.a.

2

3

, 

Derge

84

b

7

85

.a.

1

, 玄

[平

1998

p207

.下段」

1

3

5

, 真

同 :

p

207

.上 段.

ll

3

6])

ye

 ’

pi

 

hi

 manyate −namfirtham  

dyotayatiti

?ten五

py

 etad avaSyam  abhyqpagantavyarp

yadi

 

pratitapad5rthaka

bhavatiti

!tac caitac cabdam 巨trfid eva 

pratitapaddrthak

巨t

(9)

      『倶 舎 論 』 にお け る言 語 観      

49

対象

を現す と

える人が ある が, その 人に よっ て も, も し, 対 象が 理

さ れ る こ とが あ るな ら, こ れ

限 定

は, 必 ず

め られ るべ きで あ る, と。 そ れ 故に, こ れ (名 )は, 音 声の み に よっ て対象が 理

さ れ るこ とに基 づ い て成立 する か ら,名 とい の対 象を構 想 して も何にな ろ うか」。

)AKBh

に お い て , ヴァ ス バ ン ドゥ は, 言

語協約

定さ れ た

音 声

の みで,

対象

を現す には十 分で あ り,

声以

に , 同

な限定を受 ける名とい う心 不相 応 行を想 定す る必

はない と主張す る。

SA

に よれ ば, 名が 対 象を 現す とす る必 要はな く,

な しの

音声

によっ て,対 象が類 と して も言 表さ れ うる。

TA

に お い て も,名を離れ て も言 語 協 約を仮 構す る こ とによ り, 音 声 が 生起 して , 対 象を理 解さ せ る, と説か れ る。

 

経量部に よ れ ば, 心 不

と して の

とい う もの は,

に 想

されて も よい が, な くて も よい もの で あ り,

在 しない の である (6) 。

   

経量

の主張 一

3

語は

を生じ さ せ も しない し,顕 現させ も しない

AKBh

. 

Pradhan

1st

. 

p

81

IL5

11

 

Shastri

. 

pp

272

.a,

LlO

273

.a.

1

3

, 

Peking

97

.a3 −

7

, 

Derge

85

.a.

1

4

, 玄 奘 .

平川

1998

p

207

.下段.

11

5

10

, 真

同 :

p

207

.上

段 IL6

16])

idam

 capi na 

jfiayate

katham

 vah  n5mni  

pravartata

 

iti

kirp

 t巨vad  utpadayati ?

Ehosvit

 

prak

iSayati

yady

 utp5dayati  

gho

asvabhfivarvEd  v巨cab  sarva

ghoSam

盃trarp n巨motp 巨

dayi

yati

y

d

o(7)v盃

ghoSaviSe

a 

i

yate

 nimna  utp 互

dakab

, sa evarthasya  

dyotako

bhavi

yati

!atha 

prak5Sayati

, 

ghoSasvabh

盃vatv 盃

d

 v 互cah  sarvarp  

gho

爭amatrarp  nama

prak

蘭ayi5yati !

yad1So

〔8)v巨

gho5aviSe

a 

i

yate

 nEmnah  

prak

Sakah

 sa evtirthasya

dyotako

 

bhavi

yati

na  

khalv

 api 

Sabd5natp

 s5magryam  asti 

k

arpaikamilanam  

1

na  caikasya  

bh

gaSa

 utp互

do

 

yukta

iti

 

katham

 utp五

dayanti

 vi洫 n互motp 互

dayet

!」

(10)

 50      パ ーリ学 仏教 文 化 学 い て, はた ら くの か, とい うこ とが。

 

まず,

生じ させ るの か, あ るい は顕 現さ せ るの か。

 

も し,

生 じ させ る な らば,

音響

を自

とす る か ら, すべ て の

音響

の み が

を 生 じさせ る で あ ろ う。 あ るい は, どの よ うな もの で あ れ, 特 定の 音 響が名を 生 じさせ る もの で ある と認め られ るな らば, その 同 じ もの

定の

音響 )

が対

を現 す もの となるで ろ う。 ま た,

語が

顕現 さ せ る な らば, 語は音響を 自性 と す る か ら, すべ ての

音響

の みが

を顕 現させ る であろ う。 あ るい は, どの よ うな もの で あ れ, 特定の 音 響が名を顕 現させ るもの で ある と認め られ る な らば, その 同 じ もの

定の 音 響

が対

を現す もの と なる であろ う。

 

ま た,実に, もろもろ の

声の集 合

が あ り,一刹 那に合 体す る こ と も な い 。

 

また,一つ の もの の

と し て生 じ る こ と も不

理で ある。

 

故に, どうして 生 じ さ せ る もの とし て の 語が名を 生 じ させ よ うか」。 (解 説 )

AKBh

に お い て, ヴ ァ ス バ ン ドゥ は,

有部

が主

する

語 (

音響)

と 名 (心不 相 応 行 法)の 関係か ら名が生 じ るの か, あるい は

か ら

現す るの か 」 にっ い て,有部に質 問す る。

 

まず,語が名を生 じ さ せ る とい う場 合につ い て

検討

さ れ る。

 

AKBh

, 

SA

に よれ ば, その 場 合,

音響

自性

と す るか ら,

極 微

か ら な る物 質 的な もの で あ り,

すべ て の

声が

を 生 じ させ るこ とにな るが , 雄 牛の 咆 哮 などは, 名 を生 じ させ ない か ら, こ の理 論は都 合が悪 くな る。

 

また,

AKBh

, 

SA

に よれ ば, 特 定の 音 響が 名を生 じ さ せ る とい う な ら,

別に名を介在 さ せ る必要は な く, その 特 定音 響が 対 象を現す とい っ て も差 し支えない で は ない か と反 論される。 また,

TA

に よれば, こ の よ うな場 合,

定の

音声 (

音響)

と名 と は区別 され ない と主 張さ れ る。

 AKBh

によ れば, 語が名を顕現 させ る とい う場 合 も, 同様の 論 法で批 判 さ れ る。

TA

で は, さ らに

議論

さ れ る。 こ こ で は,

音声 (

心不 相 応行

とい う もの に頼 ら な くて も,

心的

] [

言語

協 約に も とつ く

(11)

      『 』 に お け る 言 語 観      51 知 識が対象 を現す こ と がで き る とい う立場が述べ られる。 これ は, 対 象が実

, 知

識 内

対象

影像

を知

認識対象

とする とい う唯

の立 場に っ なが る であろ う。

 

次 に,

AKBh

に おい て, ヴ ァ ス バ ン ドゥ は,

音声 (

に と

有部

音 節 と区別されない もの

集 合物は,線 状 的で あ り,一刹 那に集合 とし て同時に存 在 し得 ない と主張 する。 よ っ て, 音 声の 集 合 物 と しての 名は ひ と ま と ま りと し て 対象を現 し得ない と, ヴァ ス バ ン ドゥ は考えるの で あろ う。

 

さ らに,

AKBh

で は, 名の 部 分が音 声で あ る とい う考えも ある が, 有

に とっ て 名は ひ とまとま りの ダル マ として の心 不 相 応 行で あるか ら 部 分はあ り えず, 名の 諸 部 分が生 じ る こ とも あ り得な い と, ヴ ァ ス バ ン ドゥ は考え る。

 

以上の 考 察か ら, 有部 と経 量 部の 立場の 違い が 明らか にな る。 有 部は,音

声 (

音響)

とい う

物質

的 ダル マ あ り , 音節 と名 と は心不 相 応 行 とい う 心的な ダル マ とす る。 そ して , 名 ・ 句 ・ 文 と う心 的 ダル は空 間に位 置す るこ とがで きず 分割 さ れ ない一 な るダル マ あ り, そ れ ら じ ら れ る

多様性

は, 心 の

別に過 ぎず, 実 在の 区別で は な い とい う立場で ある。 ま た,時 間的観点 か ら も, こ の 名 ・

に とっ て は

状的で な く, い つ の 刹那 に も単 一な も 認 識さ れ る か どか はに し て, 心 的な

一 な もの と して

し う る と考え られる。

 

そ れに対 して,

は , あ らゆ る言葉を, 物 質 的な音 声 (声 ) とい うダ ル マ の極 微か ら なる もの と し,名 ・句 ・文 ・音 声

= 語 ・音 響 ) 区別を否

し た。 よっ て , 口 か ら

せ ら れ る究 極 的要 素 と し て の 音 声の 複数 の極 微 は, 同時に

存在

ない の で あ る。 こ の た め , わ れ わ れ が

を 理

す る の は,

最後

音 声に そ れ まで の 音声が熏 習されて い るか らで あ る, とい う理

採用

せ ざる を

ない の で る(9)。

6

の反 論

表の

存在

音声

の認

の比

較)

AKBh

. 

Pradhan

. 

l

 st. 

p

81

ll

12

13

, 

Shastri

. 

p

273

,a,

ll

4

5

, 

Peking

97

.a.

7

8

(12)

  52      パ ーリ学 仏 教 文 化学

Derge

85

.a.

4

1998

pp

207

.下段

LIO

208

.下段.

L2

同 ;

pp

207

.上

1

16

208

.上段

1

2

])

katham

 

tavad

 atitapekSab  

paScimo

 vijfiaptikSarPa utpadayaty  avijfiaptim ?evam

tarhi 

paScima

 

gabde

 eva  n巨ma  utpad 巨

d

 

yo

pi

 tam evaika

pti

 so ’

py

 artha

pratipadyeta

 

1

」 「有 部 ] 実 , どう して , 過去

の 表

に依 存す る最後の刹 那の

が ,無

を生 じ させ るの か 。 その よ う な場合, 最後の 音 声の みに お い て ,

が 生 じる か ら, そ の

最 後の

音 声

だ け を

も,

を理

る で う」。 (解 説

AKBh

に お い て

有部

う。

の 現

在有体

未 無体論

に 立 て ば , あ る連 続 して 発声され る諸

声の

の 一つ を聞 くだ けで, その 最 後の 音 声の み か ら生 じ た名を聞い た者が意 味を 理解で きるこ とに なろ うが ,

習 理論を認めない 有 部に とっ て は そ れ は

不合

理 で あ る

TA

に よれ ば 有 部 に とっ て は 過 去の

声に依 存す る

と して の すべ て の音 声が名を 生 じ さ せ る, と説明 さ れ る。 あ る連 続す る音声 で最後に発 せ られ た音声 は 過 去世に 落謝 して い る 以

音声

同して,最後の 刹那に,単一で 区別の ない と い うダル マ 生 起させ , そ れ を認識 を理 。 名が部 分 的に生起す るこ と は ない の で ある。 この

声の プ P セ ス の同類 例 と し て, 有 部は, 表か ら無

が生 じ る とい う

業論

挙 げ

る。

SA

で は,

声 と名の場 合 と同様 に,身と語の 諸 表は連 続的 ・

状的であ り,集 合 しない が ,過 去世 に 落 謝 し た身 と語の に依 存す る最

が, 協 同 的に, 別 解 脱 律

と しての 無 表を 生 じ させ る と

明す る。

TA

で は, さ らに詳 し く説 明 さ れ る。 経 量部の現在

有体

体論

と心 的種 子 熏 習理 論によ れば, 無 表が生 じ る最

刹 那におい て, その

無表 (

別 解 脱 律儀

を生 じ させ る前

刹那

実在

, ま た, その 最 後の 刹那の 心が乱 心

= 悪心

あ っ た り,無心 で あ る場合,善なる戒 体は その 最 後の 刹那 に あ り

ない の で ある。 しか し,有

よ れ ば ,時 間が空間 的に解 釈 され る た め,

最後

那に おい て,同時に 過 去世に

が存在 し (潜在で はな く実 在 し

)得

て, 無

を生 じさせ うる。 ま

(13)

       『倶 舎 論 』 にお け る言 語 観      

53

た,

最後

那が乱 心で も, 無心 で も, 善の 無

とい う色

= 物質 )は , 心 の状 態 とは無関係に存 在 し うる の で あ る。 経 量 部に とっ て,仮 有な る表は現 れて い る もの で あ るか ら,

義上潜 在 し得 ず, 乱心 ・無心 の とき に, 表は心 で も

で もない

な もの で 子 と し

有部

っ て の 無 表の 代わ りに は な り得 ない (10)。

7

> 経

の反論一

1

文と

の非 実 在性 )

AKBh

P

・adhan ・

1

・t.・

P

. 

81

IL13

14

 

Sh

・・t・

i

, 

PP

273

.a.

1

6

274

a

1

1

, 

P

ki

g

97

.a.

8

b

1

Derge

85

.a.

4

5

,玄

平川

1998

p

208

.下 段,

ll

2

4

],真諦 [同 :

p

208

.上 段 .

II

2

4

) 「athapy

 evam  

kalpyeta

−v五

g

 

Vyafijanam

 

janayati

, 

Vyafijanam

 tu nameti ?atrZpi  sa eva

prasahgah

Vyafijan

亘n巨rp s亘magry 五

bhtiv

t

 

1

を 生 じ させ ,実に文が名を

生じ させ る

とい よ うに

え るな ら ば, こ の 場合に も その同 じ過 失が あ る。

諸文

が集 合 するこ とは な い か らである」。

AKBh

に よれ ば, 

SA

 

TA

を参 照す る と, ヴ ァス バ ン ドゥ は, 語以

そ れ か ら生 じる心 不相 応

法 と しての 文を想 定す る必

はな く, 有部の

うよ うに名が心 不相 応 行 法 と して

一 な もの な らば, 文が集 合 して生 じ た も の で は あり得ない と反

す る(11)。

8

) 経 量

の反

2

語 以 外に名や文は不 要

AKBh

, 

Pradhan

1st

. 

p

81

IL

 

l4

16

, 

Shastri

. 

p

274

.a,

ll

2

4

, 

Peking

97

b

1

3

Derge

85

.a.

5

6

, 玄 奘.

平川

1998

p

208

.下 段

ll

4

6]

, 真 諦.

同 :

p

208

.上 段.

IL4

7])

e

爭a eva  ca 

prasafigo

 n盃mnah  

praktiliakave

 v巨cah  ! 

Vyafijanam

 capi v亘

gviSiStaprajfifi

apy  avahitacetask 亘

lak

aatah (lz)

paricchettu

notsahanta  

iti

 vyaffjanasyapi  v亘血

naivotpEdik 五, na 

prak5Sik

yLljyate

/」

ま た, 顕 現

(14)

 

54

      パ ー仏 教 文 化 学

と別で あ る とす る

智者

が心 を注い で も [文の

特徴に つ い て 決 定す る こ とはで き ない 。 故に, 語が

を生 じ させ る とい うこ と も顕現させ る と い うこ とも

不合

理で あ る」。 (解 説 )

AKBh

によ れ ぼ, ヴ ァ ス バ ン ドゥは さ らに 前 項 と同様に,

に 心 不相 応 行 法 と して の や文 は不 要で あ る こ と を強 調す る。

SA

に よ れ ば, 諸

音声

が 同

集合

しない か ら, 名は音声の

集合

で も な く, 名とい うダル マ (= 法)が あ る と して も, そ れ が 部 分的 に生 じる こ と も, 名の

とい ダル マ の 定 義か ら不 合理で あ る。

TA

で も 同様の 説が説か れ る。 ま た ,語以 外に

め る

積極

的理 由は ない と,

SA

, 

TA

.で

かれ る。 以上 は

有部

に対 す る批 判で あ る。

SA

で は, 経 量 部に よれ ぼ,

初の 音 節 を聞い て も,

不可

分離の 法 則 によ り, 残りの 音 節の 記 憶に よ っ て, 意味を受 容で きる と説 明さ れ る。

TA

で は,

量 部に よれ ぼ, 一

仕 方で ,

文を耳 識で知覚 し,

で 諸所縁を 耳識の 知 覚 し,すべ て の

自性

の対 象 と して , 言

語協約

が 生 じて, 意 味を理 解 する と説 明さ れ る。 こ の 時に意識が は た ら く と

え ら れ る。

諸文

有部

的 な過 去世に お ける

存在

だ けか らは意

は理解さ れ な い

 

経 量部 は記

念 ・言語 協 約 とい う点

重視

す る。

在 刹 那の 心に お け る過 去 的要

理論が背景に あるの で あろ う。 こ こ で の 議 論で は,経量 部で も

とい う

を使うが, これ は有部の 立場を

前提

と した場 合の議 論で あ ろう(13)。

 

 

批判

1

名 は対 象と ともに

じ な い 二 去 ・

来の名の 問 題

  

と ,固

有名

の 問 題 と

為 法の

の 問題

AKBh

. 

Pradhan

1st

. 

p

81JL

 

17

19

, 

Shastri

. 

pp

274

.a.

1

5

275

.a.

1

3

, 

Peking

97

b

3

5

, 

Derge

85

.a.

6

b

1

, 玄

1998

p

208

.下 段.

11

6

9]

真諦

p

. 

208

.上段

IL7

ll

athipy  arthasahaj  arp nama  

j

 

5ty5divad

 

i

yeta

? evalp  saty atit盃n5gatasyErthasya

varttam5napP  n巨ma  na sy巨

d

 

1

(15)

      『

』 に おける言 語 観      55

asarpskl;tfin百Tp ca 

dharmapttrp

 

kena

 sahajarp  nEma  sy 互

t

ity

 ani

tir

 eVeyam /

「 また も し, 「 」 等の よ うに, 名は対 象 と と もに生 じる と認め られ る な ら ば, その よ う な場

,過 去 と未

の 対

に は現 在の名が [用い られ るこ と は

ない で あろ う。

 

子 供たちの

は父

た ちに よ っ て,思 うが ま まに考 え ら れか ら, どの がそ れ

象 )

と と もに生 じ るで あろ うか。

 

また, 諸 無 為 法の

は,何 と と もに生 じ るで あ ろ うか。

 

故に この こ と

名が 対 象 と ともに 生 じるこ と

は,全 く認め られ ない

説 )

AKBh

に よれ ば, ヴ ァ ス バ ン ドゥ は, 名が対 象 と と もに生 じ る と す る と,過 去 ・未 来の対 象は, 現在にない か ら, そ れ らの

現在

に生 じて

される こ とは ない とす

 

また, 父親に よっ て付け ら れ る子 供 の 名は, 恣 意 的で あ り,

SA

,  

TA

に よ れば, 対応 し うる

数で あ り得 る か ら, あ る

特定

の 名が特定の 子 供に定 まっ ては対応 し ない 。

 

ま た, 無 為法 は現在 世に生 じ るこ とが ない 不 生 法で あるか ら そ れ の 名 と ともに生 じない

 

よっ て 常に は,

厳 密

に は名は そ れが指す対 象 と と もじ る と は い 〔皿4)。

 

しか し,

有部

に とっ て みれ ば, 対 象 と名が 同

に 生 じる とい う説を とら な け れば, 単

体 (

ダルマ

として の現在の 名が, 過 去 ・未 来の 対 象や ,無 為 法 を, 時 空を 超 えて表 示 しうる し, 固 有 名 詞 も, ある人 が あ る と きに 決め れ ば, 一 対象特 定 る と い う主張が

り立っ で あろ う。

ao

) 経

の批 判一

2

(音 声と名と偈

= 文

章)

関係

AKBh

. 

Pradhan

1st

. 

p

81

IL

 

l

 

9

22

, 

Shastri

. 

p

275

.a.

IL4

8

, 

Peking

97

b5

7

Derge

85

b

1

2

,玄 奘.

平川

1998

pp

208

.下 段⊥

9

209

.下 段

1

2

,真 諦 [同 :

pp

208

.上段

Ll1

209

.上段

L2

(16)

 56      パ ーリ学 仏教 文 化 学

yad

 apy  ukta

bhagavat5

n五masanniSrit5  

gfithfi

(15)

g

巨th5n巨

m

 

kavir

 

59rayah

iti

tatr

且rtheu 

kptEvadhih

 

Sabdo

 n亘ma , n5mnEip  ca racan 巨viSe§o 

g

巨theti ntimasanniSrita

bhavati

!racan 互viSeSaS  ca 

dravy

亘ntararp nopapadyate , 

paTpktivat

, citt5nup 亘rvyavac ca 

1

の こ と も世 尊に よっ て説かれて い る。

 

「 偈は名に依 存す る。 諸 偈の 依 り所は詩人で ある」 と。

 

その

で , 名 とは, もろ もろ の

意味

して

定がなされ た

音声

の こ とで あ る。

名の特 定の 配列 さ れた もの が偈で あるか ら,

偈は

名に依

する もの である。 しか し,

定の 配 列された もの は, ある

実体

で あ ると は認め ら れ ない

列の よ うに。 ま た, 心の 連 続 した もの の よ うに」。 (解 説 )

SA

, 

TA

照 す る と, 

AKBh

に お い て , ヴ ァ ス バ ン ドゥ に は, 偈

; 文 章

か らな り,

声か らな ると さ れ ,

音声

の み が実 在で あ り, そ れの

集合体

とし て の

は実在 しない とい う要 素還元 主

向が 見ら れ る。 諸 音 声に 意

す る限定がな されて, 名が 成立 す る。 その 言

表現 は

状 的な もの で あ るか ら, 時間 的な心の連 続に喩え られて い る。 連 続す る 個々 の現

の心 だ けが

在で, 心相 続は仮構され た もの であ るよ うに, 現在 の諸 音 声の みが実

で , ま だ生じない 未 来音声や , すで に滅 した 過去の 音 声は実 在せず,名や偈は仮

され た もの なの であ る〔16)。

al

) 経量部の批判一

3

文の みが実在な ら名等は構 想で ある)

AKBh

. 

Pradhan

. 

l

 st. 

p

81

122

23

 

Shastri

. 

p

275

.a.

IL9

10

 

Peking

97

b

7

Derge

85

b

2

3

, 玄

1998

p

209

.下段

lL2

3

p

209

lL2

4

])

astu  v5 vyafijanamatrasya  

dravyantarabhsvaparikalpana

tatsamrthfi eva namak 亘

y

dayo

 

bhaviSyantity

 ap5rthik 亘

tatPrakl

tih

!」

あ る

, 文の みが, あ る実 体で ある と考えて み よ。

の 集ま り等は, そ

(17)

      『倶 舎 論 』 に おける言 語 観                        

57

構 想す るこ とは無 用の こ とで あ る」。

解 説

AKBh

で, ヴ ァ ス バ ン ドゥ は, 有

定す る文の み が 実 体で あ れ ば, 名や句を

想す る こ と は無 用であ る と

る。

TA

に よれ ば, サ ン ガ バ ドラ

衆賢)

は , 「

文は単一 と して

意 味の あ る もの と して

把 握さ れ ず (一音 節で意

が あ れば, そ れ は名で あ る

で あ り, 集 合す れ ば

特徴

を失い

集合

の 集 合

とは異なる」, と主 張 する( 17) 。

3

主 張

理 を

実在

す る

AKBh

. 

Pradhan

1st

. 

p

81

1

23

25

, 

Shastri

. 

p

. 

276

.a.

11

1

2

, 

Peking

97

b

8

, 

Derge

85

b

3

玄奘

1998

p

209

.下 段

IL3

5

, 真 諦 [同 :

p

. 

209

.上段

IL4

6

santy eva  tu viprayuktasarpsk 亘rabhivana  nmakfiy

dayo

 

draVyata

 

iti

 vaibh5 爭

ik5h

na 

hi

 sarve 

dharrn2s

 

tarkagamy

 

bhavantiti

/」

しか し , ヴ ァ イ バ ー シ カた ち言 う 。 [心] 不相

行を

質 とす る名の集ま り

は,実 体 と し て

存在

す る, と。 なぜ な ら, すべ ての

理 に よっ て理

され え ない か らで ある, と」。

)AKBh

に お い て,  

SA

, 

TA

を参 照す る と,有 部に よ れ ば, 名 ・ は, 論理 的 理解を超えて お り, われわ れ に とっ て は信 解の 対

で あ り, 如 来 の 智の領

と され る〈18>。

4

  

 

以上の

か ら分か る有部 と

量 部の 対 照 的な

言語

理論を整理 し て お く。

 

有部

は, 言 語に関して物 質的 言語 と精 神的言語 を 認 める。 前 者は耳の対

で あり,後

は心 の 対 象で あ る。 以上の 議 論で は,

後者

は前者か ら生 じる も の と して, 主に

者が論 じられ た。

神 的言 語は, 心

不相

応 行 として の

・ 句 ・文で あ り, そ れ ぞれ, 独立 して単 一 な る と し

存在

し,言 語機 能

た す。 名や句は,

の集 合

の よ うに も思わ れるが,

精神

的で あ り, 空

に位置せず分割さ れない実 在す る究極の ダル マ の 一つ であ る。 多様 性が あ る と思わ れるの は, それを捉え る主

の 問題で あろ う。

量 部は, 言語に

(18)

 58       パ ーリ学仏教 文 化 学 して

物質

的 言

の み を認め る。 彼 らに とっ て は, 実在す るの は, 現在の 音声 (一 語 )の極 微の みで あ る 。 文は

音声

別さ れず, 名 や句 は,

音声

起 的集 合 物で あ り,相

と して構 想され た もの で ある。

 

また, 有

は,

線状

的な

声が対 象の意

す の は, 空 間 的に, 過 去 世 ・現 在 世 ・未 来 世が 同時にあ り得 る独 特の 時間

に よ っ て, 現 在世の

声 が 同

に存 在 し うる過去世の

音声

と協 同して ,文を 生み

し, 名や句 を生み 出 して ,一 定の 概 念 を, 聞 く者 は理解す る, と説 明 す るの で あ る。 経量 部 は,線 状 的な音 声が 対象の 意 味を顕 すの は,現

音声

の連 続の 中で, 過去 に消え る

音声

が ,次に現 在に生 じ る音声に,

象を植 え

けて,

最後

の 音声 を聞 く

は, そ れ らの 記

か ら, ま と まっ た概 念を 理解す る, と説 明す るの で ある。 ま た, 最初の

声を聞い て, 以

験の 潜在 的記 憶か ら,

の 音 声を

測 して ま と ま っ た概 念を理解す るこ と も あ る。

 

有 部は,

精神 的言語 (

・ 文

と対

・現

は一対一 で対 応 して お り 一 意 味す と

え るの で あ ろ う 。 経量

は,

物質

声に間主 観

言語

協 約に よっ て限 定を な して , 対 象 ・現 象 の意 味を理 解 する と 考え るの で あろ う。

 

以上 , ダル マ の と ら え方の い や ,時 間

い ,

物質観 (

潜 在 印象を認 め るか否か

い が, 両 学 派の 言 語 観の違い に 反 映さ れて い る よ うで あ る。

 

以上 ,

AKBh

を 和 訳 し, そ れ に対す る諸 註 釈の

解釈

解説

し, 有 部 と経 量 部の 言 語 観を 明 らか に した。

AKBh

の 和 訳 に は, 先 行研 究 と して ,

櫻 部

1975]

小 谷

2000 ]

の 研 究が あ り,

SA

の 和 訳 に は,

荻 原 ・山 口

1934

], [小 谷

2000

の研 究が あ る。 こ こ で 新た に

AKBh

の 和 訳 を

うの は, 先 行 研 究 との若 干の違い を指 摘 し, 私な りの 理解 を提示 す る とい う意 図が あ り,

SA

につ い て は,

先行研究

との

解釈

い を解 説に反 映 させ る とい う意 図が あ る。 また,

TA

に関 して は, ま だ 国 内外に先 行 研

は な く,

解説

す る こ と は

邦初で あ るとい う意 義が認め られ るで ろ うか らで ある。

参照

関連したドキュメント

We show that local M¨ obius covariant nets B 2 on 2D Minkowski space which contains A as chiral left-right symmetry are in one-to-one correspondence with Morita equivalence classes

In a previous paper [1] we have shown that the Steiner tree problem for 3 points with one point being constrained on a straight line, referred to as two-point-and-one-line Steiner

In [6] we outlined a theory, where certain elements in the Spencer cohomology determine all the complete filtered Lie algebras having a certain graded algebra provided that

We find the criteria for the solvability of the operator equation AX − XB = C, where A, B , and C are unbounded operators, and use the result to show existence and regularity

We present sufficient conditions for the existence of solutions to Neu- mann and periodic boundary-value problems for some class of quasilinear ordinary differential equations.. We

˙Ibrahim C¸anak: Department of Mathematics, Adnan Menderes University, 09010 Aydın, Turkey Email address: [email protected]. Umit Totur: Department of Mathematics, Adnan

The algebra of noncommutative symmetric functions Sym, introduced in [2], is the free associative algebra (over some field of characteristic zero) generated by an infinite sequence (

Local class field theory gives a complete description of all abelian ex- tensions of a p-adic field K by establishing a one-to-one correspondence between the abelian extensions of K