[rmag]
r{R,
t(iliiPmu
eC
ts
et
6
:
ge.
en
Sts
fi
Fi]
ll.
The
Philosophy
ofLanguagein
theAbhid]zannakos'abhasya
Nasu,
Ensho
This
essay examines the characteristics of thephilosophy
oflanguage
of
the
Vi}ibhasikas
andSautrantikas
(i.e,,
ofVasubandhu)
discussed
in
theAbhictharmakoSabhjsya
by
consultingthe
SPhu(dirthdi
AbhidharmakoSazyakhyj
by
YaSomitra
and the7lrttvdrthanjma
AbhictharmakoSabhdisyaeikii ofSthirarnati,
thetwo majorIndian
commentaries tothe text,The
Vaibhfisika
scholars claimthat
njma(name),
pado
(phrase)
andvyaby'ana
(syllable),
which are cittaviprayuktasamsharas(conditioned
forces
dissociated
from
mind), are reallinguistic
existents.They
maintain thatthesethree
linguistic
elements exist asindependent
dharmas.
The
Vaibhasikas
understand
that
thelinguistic
elementsin
mind(njma,
pacia
and ilyabjana)have
one-to-one correspondence with a certain object or a certainphenomenon,
and express a
fixed
meaning.The
Sautrantika
scholars, on the otherhand,
only admitphysical
sounds as real existentsofthe
linguistic
elements.There
is
no need toadmit the existenceof i{yaig'ana
(syllable)
separatefrom
sounds, and njma andpado
are temporarymental constructions that exist only as a continuum of
physical
sounds.Therefore,
in
order to understandthe
meaning of a certain object or a certainphenomenon,
there mustbe
limitations
on soundsdetermined
by
linguistic
conventlons.
The
Vaibhasika
and theSautrantika
scholars engagedin
contentiousdisputes
over the
process
how
linguistic
activitiesthatallow usto
know
external objects.How
the scholars ofthese
two schools analyzedthe
working oflanguage
is
considered to
be
the climax of thedevelopment
ofAbhidharrna
Buddhism
in
the
Indian
Buddhist
scholastic world.42
パ ーリ学 仏 教文化 学1
.序
論
本論
攷で は, 『倶 舎 論』(
AbhidharmakoSabhasya
, 以下AKBh
と略 記)
に お ける, 有部
と経
量 部(
ヴ ァ ス バ ン ドゥ[
世
親]
)
の 言 語 観の特
色に つ い て, 『倶舎 論
称友 釈
』(
Sphutdrtha
AbhidharmakoSa
){yakhyd , 以 下SA
と略 記)
と『倶 舎論 安
慧
釈』(
Tattvarthandma
A
bhidhar
〃iakoSabhasyalika , 以下TA
と略 記〉
を参照 し な が ら,検 討す る。 なお本 稿に おい て 「言語 」 とい う表 記は, 原則 とし て,物
質 的な もの (音声= 音響= 語)
と精 神 的な もの (名,句,文)両
方を含
む と理解され たい 。 両 者の内容説
明は以下に な さ れ て い る。西
暦 400 年
前 後か ら5
世 紀中葉
頃まで のイ ン ド・グ プタ朝 期
に お い て , パ ー リ語
圏 で はブ ッ ダゴ ーサ(
AD
.5C
.前 半,[
森1984
;p
.451] 参
照)
が 『清浄
道論
』(
Visuddhimagga)
を始め と して , 仏 陀の 言 葉 の 集成
で あ る五つ の ニ カーヤ に対 す る諸 註 釈を著
す。 そ の頃
, 一方
で は, サン ス クリッ トで ア ビダル マ の仏
教 教 義 を論じ解 釈 し て, 「法」(
ダル マ)
の 体 系化が 図 られ て い た。 その代表
的 学 匠が, ヴァ ス バ ン ドゥ(
A
.D
.350
−430
,[
加 藤1989
:pp
,58
−68
]
,[
Deleanu
2006
:pp
.186
−196
]参
照)
で あ る。 い ずれ も伝 承 さ れ て き た 聖 言 として の ブ ッ ダの 「言 語」 に つ い て, パ ー リ語 圏で あ れ サ ン ス ク リッ ト圏で あれ, 古 代イ ン ドの仏教徒
た ちが最
も注 目した時代で あっ た。 本論
攷が扱
う,AKBh
で は, ブッ ダの 「言語
」 に 対 す る直 接 的 言 及 はない が ,最後
に 説かれ る有 部の , すべ て の 「法」(
ダル マ )は論理 的理解を 超 え た もの で あ り,言葉
も論 理 的理 解を超
えて い る とい う表 現 は, 一切 「法 」 は凡 夫の理解
を超えた仏 語の 対 象で あ る とい うこ とが前 提 となろ う。 こ れ は,註(
3
)
に 述べ る よ うに, 『ア ビダル マ ・デ ィ ーパ 』(
Abhidharmadipa
with ”bhdsaprabhlivrtti
)
に も踏襲
されて い る。 こ れに対 して,経
量部
の ヴァ ス バ ン ドゥ は,仏 陀の心 不相 応 行 として の言 語の 特別性
を否
定す る慣 習論に基づ い て物 質的 な有 漏な る言葉 と対 象の 関係を説き ,仏 語の特
別性
を認めない 意 味 論 を説 く。 こ れ はt註(
3
)
に 述べ る ように, 勝 義 法 も世間
的な言 葉で表さ れ, 言 葉は勝 義 と して非存 在で あ る, とす るス リ ラ ン カ出身
の註釈 家 マ ハ ー『倶舎論
』 に お ける言 語 観 43
ナ ーマ
(
お よ そA
.D
.5C
.の第
四 ・ 四半 期か ら6C
.の第
一 ・四半 期に か けて の頃, [森
1984
:p
,554]
参照)
の 『無
碍解道
の註釈
』(
SaddhammappaktZsini
= commentaty
onthe
Patisambhi
∂imagga
)
の 立場に通ず
る。本 論
攷は, パー リ
学仏教文化学
会が 目指 し うるパ ー リ語圏
にお け る註
釈 文献
の さ ら なる精
査に よる聖典言語観
の 解 明の ための 比較思 想 的予 備研究 ともい え るで あろ う。 そ こ で , 以上の よ うな有部
と経
量 部の対照的言 語観
が 以下の 論 述で 理 解され よ う。 み ょう有 部 は, 実 在 す る言 語 的 要 素 と し て , 心 不相 応 行 法 と して の ,
名
く もん(
ntima)
・句 (
pada )
・文(
四吻 砌 α)
の三 つ を認め る。 これ ら は各
々独 立 し た ダル マ とし て実
在す る と, 有 部は主 張す る。本論攷
を読む に あ た り注 意 し て ほ しい こ とは, 名 とは名 称の こ とであ り,句
とは, 一般 的表
現に お け る 、 句 と節 と文章
を含
む もの の こ とで あ り,文 とは 古 典や現 代に お ける文 章を 指 すの で は な く,音節
の意 味 を有 す るとい うこ とで あ る。 経 量 部は, 有部 と異 な り,実在
す る言語 的 要 素は, 物 質的音 声(
Sabda )
の みで あ り,文を音声
とは別に認
め る必要
はな く, 名 ・句 は物 質的音
声の 継 起 的 集合 物 とされ仮構
さ れた もの と され る。 また, 対象の 意 味を理解
す るた め に は, 言語協
約に よ る音声に対す る限定が不 可 欠と さ れ る。本
論 攷で は,音声 (
Sabda
)
, 音響 (
ghosa )
, 語 (vac ) とい う言葉
が ,物
質 的
な もの と して ほぼ 同 じ意味
で使
用さ れ るこ とに注 意 さ れ たい 。 一般 的 に, 有部
・経
量部
と もに,Sabda
は 諏64
α噂の ・α(
伝 統 的用 語で は 「声境
」)
で あ り,Sirotrendriya
(
伝統
的 用 語で は 「耳 根 」)
の 対 象 として 物 質 的な もの と理 解 され る。 こ こ で, 有 部 ・ 経 量部に とっ て の物
質 的 音 声 と呼ば れ るもの は,色蘊 ・声処 ・声界 ・声境に含め ら れ,聴 覚器官 (耳感 官 )と し て の 同 じ く色 蘊に含め られ る耳
処 ・耳 界 ・耳根の対象
と して の粗 雑な もの で あ り, そ れ だ けで は言葉
の精神 的要 素で ある意味
を持
た ない もの で あ り, 有部 に とっ て の心 不相 応 行 と して の 名 ・句 ・文は ,行蘊
・法 処 ・法 界 ・法境
に含
め ら れ, 思考
器官
と して の識蘊 ・意処 ・意界 ・意 根 ・意識 界 (意処 = 意界 =意 根 は, 現在
の意識界
に とっ て , 一瞬前
に現在世
にあっ た が過 去 世に過 ぎ去っ て44 パ ーリ学 仏 教 文 化学 い る一瞬前の 意識 界 と同 じ もの )の 対
象
と して の精 細な もの で あ り, そ れ だ けで言葉
の 精神
的要素
で あ る意味を持
つ もので あ ると理 解さ れ る。 先ほ ど も 述べ た よ うに,経
量部
は, 物 質 的 音 声に対す る精神
的な もの によ る限定 に よっ て , 物 質 的 音 声が意 味を持つ もの と なる と理解で きる。本論攷
で は, 物質
と して の色蘊 に包摂
さ れ る耳に聞 こ える もの としてのSabda
を ,便 宜 的に物質
的音
声と表
現 す る。しか し, 音 声 も,有 部や経量部 に とっ て,
精
神 的な耳 識 の 対 象で もあ る の で はない か と も考え られ る が ,前五識(
眼識 ・耳識 ・鼻 識 ・舌識
・身 識 ) に は自性
分 別 (現 在直 面
してい る客観 的 対象
を少
し も推 測を 加 える こ とな く無 分 別に覚 知す る こ と)
しか な く, 意味
を分
別構
想 する こ とがで き ない 。 よっ て ,精 神
的な 意味を捉え るの は, 計 度 分別(
過 去 ・現 在 ・未 来 にわた り,種
々 に 思考す る観 念 連 合の作 用)
や随念
分 別(
過 去を追想 し,種
々注 意 し,分 別す る こ と)の ある意識だ け なの で ある。耳
で捉
える範 囲内
での音声
は, 意味
を持た ず, 意識で捉
え る名 ・句 ・文が有部
に とっ て意 味を持
つ の で あ る。 有 部に とっ て も,音声
も意識の 計度
分別
や随
念分
別の 対 象な ら, 意 味 を持つ で あ ろ うが, そ れ は粗雑
な音声自
体の性質
に よ るの で はな く,意識
の 主観
的分 別 構 想の 所産で あ ろ う。 以 上か ら分か るこ と は, 有 部は耳の対 象 と して, あ るい は,意識
の分
別の対 象 として の 音声 と, 意識
の 認 識 対 象 と して の心不相
応 行 と して の 名 ・句 ・文 とい う多様 な言語
を認
めて い るが ,経
量部
は,意識
の 分 別の対 象と しての音
声の み に言 語を集約
す る。 経 量 部の 方が合 理 的 ・現代 的な 理論を有す ると も言
え よう。以下, 有部 と経量部は,言
語
が対 象を知 らせ るプ ロ セ ス につ い て,互い に譲
らず独 特の 議論
を す る。 以下の議 論で, ア ビダル マ の 最 盛 期の イ ン ド仏
教 学 界に おい て , どの よ うに言語
的現 象 を説 明してい た か を 理解し て い た だ き たい 。2
.名
・句
・文
の実 在 性 を め ぐ
る経量 部
と
有部
の論争
以下, 経 量 部の 立場 と有部
の 立 場の 主 張を 区別
し て議論
を検
討 して い る『倶 舎 論 』 に おけ る 言 語 観
45
が, こ の 区別
は, 筆 者の現在 まで の北伝ア ビダル マ 研 究に基づ く総 合 的 知識
か ら と, 先 学の 研 究によ る指
示 に基づ く。 註 釈 文献に お い て も, これ は有部
説, これは経 量部説
とは明記
されて い ない 場 合が 多い とい うこ とを断
っ て お く。以下,個別 的 な有 部 と経 量 部の 対
論
を検 討
す る前
に, こ の 議 論の 背 景 に 基づ く全体
的な見 通 しを 立て て お く。 『倶舎
論』 に お い て は, 以下の 個 別 的 議 論の 前 に,第二 章 第四十七偈 前 半句 (「名の集 ま り等 と は,名称 (5α吻砌 と辞句 (
vakya)
と音 節(
akSara)
の諸集 合
で あ る」)
に対 し, 「名 称の 諸 集合
」 とは, 「色
」 「声」 「香」 「味」 「触」 な どで あ り, 「辞句
の 諸 集 合」 と は, 「諸 行は無常で ある 」 「諸 法は無我 で ある」 「涅 槃は寂 静である」 な どで あ り, 「音節
の諸集
合 」 とは,ka
,kha
,ga
,gha
,ha
な どで ある, と記述 され る。 こ れ らの名
・句
・文の 実 例が まず挙 げられ て, 基本 的
な釈論 (
bhdSya
)
が終え ら れ た後に, これ らの 名 ・句 ・文の 実 在(
drarya)
性につ い て の対 論が な さ れ る。 現 代 的 常 識で は, どち らか とい えぼ,音節
が集
まっ て , 名称 や, 辞句
が で きる とい うの が通 常の考え方であろ う。 その よ うな要 素 還元 主義 的立場か ら,経量部は有部を批判す る。 しか し,言葉
を精神 的な もの と考えれ ば, 空 間に位置を 占め な い か ら,有部
の よ うに , 空 間 的で な く精 神 的に 大 きな名
も句
も, 空間的
で な く精
神 的に小さな 文も同等
の分割
され ない存在性
を持ち,有部
の説も妥 当 するであ ろ う。 し か し,有部
の名
・句 ・文と対 象 ・現 象の 一 対一対応
説に は限界が あ り,経
量部
の音声
に対 する言 語 協 約に よ る慣習的意
味
論の 方が 妥 当 する面を有
す る と もい え る で あろ う。 ともか く, 経量部
の ヴ ァ ス バ ン ドゥ は, 「心 不 相応行 」 の実 在性を一貫 し て 拒 斥す る論を展 開 す るが, その 脈 絡が長 くな る と, 正当
な有部
の 立場を表
明する こ とで , 議 論を終
結させ るの が常で ある。 今 回の 議論の場 合は,名
・句
・文
は論
理 を超えて 実在す る とい う有部の 議 論で 締め く く られてい る。 これは,名 ・旬 ・文は ダ ル マ を表 現す る言葉で あ り,元
々仏語
で あっ たの で あ り, その 凡夫の 理解を 超 え た特
別性
の有部 的表
現なの で あろ う。46 パ ーリ学仏 教 文 化 学
(
1
〕 名 ・句 ・文は ,物質
的音声
なの か ,心不相 応 行 なのか(
AKBh
.Pradhan
,1st
,p
.80
.ll
.22
−24
,Shastri
.pp
.271
.a.L12
−272
.a.1
.1
,Peking
,96
.b
.6
−8
,Derge
.84
.b
.4
−6
,玄奘
.[
平
川1998
:p
.206
.下 段.ll
.4
−7
]
, 真 諦[
同:p
.206
.上段.IL4
−9
])「nanu ca
te
v互ksvabh5vatv
巨c chabd 五tmak2iti
rttpasvabh 訌v盃bhavanti
,
kasm
巨ccittaviprayukt …
l
ity
ucyante ?naite v5ksvabh5v 巨
h
ghoSo
hi
v互k
, na cagho
爭am 互tre頭rthi海pratiyante/kim
tarhi?vah’ nami
pravarttate
n盃ma artharVarPdyotayati
!」「
[
経 量 部]
ま た , そ れ ら(
名
・句
・文の集ま り)
は , 語 を 自性 として い るか ら, 音声を本 体 とす る もの で あ るか ら, 色 を 自性 とす る もの で は な い の か。 ど う して , 心不 相応 と説かれ るの か。[
有 部]
こ れ ら(
名
・句
・文
の集
ま り)
は,語
を 自性
としない 。 語は実に, 音響で ある。 し か し,音響
だ けで は,諸
意味
は 理解され ない 。 そ れで は どう か。 語は名に おい て はた らく。名
が,[
語
の]対象性
を現
す」。 (解 説 )AKBh
に お い て,経
量部 (
ヴァ ス バ ン ドゥ)は, 名 ・ 句 ・文の 集 ま りの 本 体は,物 質 的な語, す な わ ち音声
で あ り, 心不 相応 行 と し ての別の 実 体で は ない と主 張 する。TA
に よれ ば,物質的
な語
は喉
な どの結
合に基づ き, a 等の 音 節の 本 体 と し ての音
声に対して語
と呼
ばれ,語
は名
の 集 ま り等 と自
性が異な らない 。 この音 声 と異な ら ない名の集ま り等は, 色蘊に含ま れ, 耳 感官に よっ て 把 捉され る。 よっ て, 名 等は心不相 応行
で はない と経量 部は主張
す る。AKBh
に お い て,有部は反 論す る。経量 部の 言う語 と は音 響で あ り,音響
だ けで は意味
が理解
されない 。名
・句
・文
の集
ま りは語
を自性
と しない 心 不相
応 行であ る。TA
に よ れ ば, 有部
に よれば,語
は,相続
の中
で,名
と句
を 顕 現 させ , その 名と句に依存 して, 意 味を構 想す るの で ある。 よっ て,語 と名
の集
ま り等
とは区別 さ れ, 語によっ て 直 接 対 象を表
示す るこ とはない の で あ る。SA
を参 照す ると,AKBh
に お い て,語 は名に お い て は た ら き,名
が語
に『倶舎論 』 に お ける言語 観
47
依 存 して対 象性 を現 す と説かれて い る。 三世実有論
に よれ ば,語が未 来世か ら まず生じ, そ れ が原
因となっ て ,名等
が結 果 として 未 来 世か ら生 じ, その 名が, 対 応す る表
示対象
の性質
を現し,意味
を構
想す る とい う構 造に なっ て い るの で あ るω。経
量部
の主張一1
(
特定
の物質
的音声
=音
響の み が意
味 を理 解 させ る)(
AKBh
.Pradhan
.1st
.p
.80
.11
.24
−25
,Shastri
.p
.272
.a.1
.2
,Peking
.96
.b
.8
,Derge
.84
.b
.6
,玄 奘,[
平
川1998
:p
,206
.下
段.ll
.7
−
8]
,
真諦
.[
同 :p
.206
.上段 IL9
−
11])
「na vai
gho
$arn5trarp v互k
,yena
tugho
爭e箪函眈ha
れpratiyate
sagho
串o vEk1
」「[経 量部 ]実に ,語は音 響の みでは ない 。 しか し, その音 響に よっ て, 意味 が 理
解
さ れ る, その音 響が 語で ある」。(
解説)
SA
,TA
に よ れ ば,AKBh
に お い て は, ヴ ァ ス バ ン ドゥはす べ て の語 が音響
で はな く, ま た , すべ て の 音 響が語で は な く , 意 味が音 響に よっ て 理解
される特定
の音響
が語に含 まれる, と主 張 する (2) 。 〔3
) 有 部 と経 量 部の対 論(
経量部
に よ れば, 対象
に関して 限 定さ れ た音声
が,
意味
を構想
する)
(
AKBh
.Pradhan
.1st
.pp
.80
.1
.25
−81
.1
.3
,Shastri
.p
.272
.a.ll
.3
−
6
,Peking
.96
.b
.8
−97
. a.2
,Derge
.84
.b
.6
−7
,玄 奘.[平川1998
:pp
.206
.下段1
.8
−207
.下 段.L2
]
, 真諦
[
同:pp
.206
.上 段1
.11
−207
.上 段1
.2])
「kena
punar
gho
串erpdrthahpratiyate
?yo
’rthe§u
kpt5vadhir
vaktrbhib , tadyath五一gaur
ity
e 串aSabdo
navasv artheSuk
;t五vadhih −‘‘
vagdigbhiiraSmivaije §u
paSvak5isvargav
巨ri5u
!navasv arthe $u medhAvigoSabdam
upadhdrayet ”
11
iti
」 「[
有部]
そ れで は, い か な る音響
に よっ て意味
が 理解
さ れ るの か。[
経 量 部]
語る者た ちに よっ て , 諸 対 象に関 して , 限定が な されて い る。 例 えば,go
とい うこ の音声
は, 九つ の 対象
に関
して , 限定が な さ れて い る。48 パ ーリ学 仏 教 文 化 学
智者
は,go
とい う音声
を ,語
と方角
と地 と光
と金剛
と獣 と眼 と天 と水 と い う九つ の 意 味で, 理解す る で あろ う, と」。 (解 説 )TA
を参
照す る と,実在
す る名等
の集
ま りで ない音
響は音
響で も どん な特
定の もの に よっ て 意 味が理 解 さ れ るの か とい う有部
の 問に対
して,経
量部 (
ヴ ァス バ ン ドゥ)
は答
え る。AKBh
で は,語
る者
た ち に よっ て諸
対象
に関
して 限 定が な さ れ て い る音 響 = 音 声が 意 味 を 理 解 させ る と主 張され る 。SA
に よ れ ぼ ,限定 さ れ た, つ ま り, 領 域が 定め られ た音 響 = 音 声が語で あ り, その 限定 に よ る言 語 協約
(
safiketa)
に依 存 し て , 対 象を表 示す る の で あ る。TA
によ れ ば, 例 えばa 等 の 音が順 番に起 こ り対 象を表示す るの で ある。 そ れ に伴 う言語協約
に依存
し て , 音 声は意 味を構 想 して 理解 さ せ る。 音声が 存在す るだ けで は意 味は理解 されず,語
る者
の働
きか け(
= 言語
協 約)
が必 要な の で ある 。 言 語 協約 とは 約束
と も理解
さ れ る(3)。こ こ で私が 「限定が な さ れてい る」 と訳 した, “
krt
∂vadhi ” は重 要な用 語で あ り,諸
先 学に よ り さ まざまに現 代 語訳さ れ て い る ω 。また,
go
とい う言葉
に九っ の 意 味があ るこ と が説かれ る が, これ は,ヴァ ス バ ン ドゥが , 有 部 に とっ てgo
は音 節で も あ り名で も あ る例で ある か ら,音節
や名
が独立 した実体 と して確立で きない 点を暗に揶揄
して い る と も言え る で あろ う。経
量部
の ヴ ァ ス バ ン ドゥ に とっ ては,go
は物
質 的音
声 = 語 と して整合
的に理解
さ れ る の で あ る。(
4
) 経
量部
の主 張一2
(
音声
以外
に名
は不 要)
(
AKBh
.Pradhan
.l
st.p
.81
,1L4
−5
,Shastri
.p
.272
.a.IL7
−
9
,Peking
.97
.a.2
−3
,Derge
.84
.b
.7
−85
.a.1
, 玄奘
.[平
川1998
:p207
.下段」1
.3
−5
]
, 真諦
.[
同 :p
.207
.上 段.ll
.3
−6])
「ye
’pi
hi
manyate −namfirthamdyotayatiti
?ten五py
etad avaSyam abhyqpagantavyarpyadi
pratitapad5rthaka
叩bhavatiti
!tac caitac cabdam 巨trfid evapratitapaddrthak
巨t『倶 舎 論 』 にお け る言 語 観
49
「名
が対象
を現す と考
える人が ある が, その 人に よっ て も, も し, 対 象が 理解
さ れ る こ とが あ るな ら, こ れ(
限 定)
は, 必 ず認
め られ るべ きで あ る, と。 そ れ 故に, こ れ (名 )は, 音 声の み に よっ て対象が 理解
さ れ るこ とに基 づ い て成立 する か ら,名 とい う別の対 象を構 想 して も何にな ろ うか」。(
解
説)AKBh
に お い て , ヴァ ス バ ン ドゥ は, 言語協約
で限
定さ れ た音 声
の みで,対象
を現す には十 分で あ り,音
声以外
に , 同様
な限定を受 ける名とい う心 不相 応 行を想 定す る必要
はない と主張す る。SA
に よれ ば, 名が 対 象を 現す とす る必 要はな く,名
な しの音声
によっ て,対 象が類 と して も言 表さ れ うる。TA
に お い て も,名を離れ て も言 語 協 約を仮 構す る こ とによ り, 音 声 が 生起 して , 対 象を理 解さ せ る, と説か れ る。経量部に よ れ ば, 心 不
相
応行
と して の名
とい う もの は,仮
に 想定
されて も よい が, な くて も よい もの で あ り,実
在 しない の である (6) 。経量
部
の主張 一3
(
語は名
を生じ さ せ も しない し,顕 現させ も しない )(
AKBh
.Pradhan
.1st
.p
.81
.IL5
−11
,Shastri
.pp
.272
.a,LlO
−273
.a.1
,3
,Peking
.97
.a3 −7
,Derge
.85
.a.1
−4
, 玄 奘 .[
平川1998
:p
.207
.下段.11
.5
−10
]
, 真諦
[
同 :p
.207
.上段 IL6
−16])
「
idam
capi najfiayate
−katham
vah n5mnipravartata
iti
,
kirp
t巨vad utpadayati ?Ehosvit
prak
…iSayati
?yady
utp5dayati ,gho
爭asvabhfivarvEd v巨cab sarva 叩ghoSam
盃trarp n巨motp 巨dayi
寧yati
/
y
亘d
埒o(7)v盃ghoSaviSe
爭ai
寧yate
nimna utp 互dakab
, sa evarthasyadyotako
bhavi
$yati
!athaprak5Sayati
,
ghoSasvabh
盃vatv 盃d
v 互cah sarvarpgho
爭amatrarp namaprak
蘭ayi5yati !yad1So
〔8)v巨gho5aviSe
爭ai
$yate
nEmnahprak
且Sakah
, sa evtirthasyadyotako
bhavi
爭yati
!na
khalv
apiSabd5natp
s5magryam astik
寧arpaikamilanam1
na caikasya
bh
盃gaSa
utp互do
yukta
iti
katham
utp五dayanti
vi洫 n互motp 互dayet
!」「
50 パ ーリ学 仏教 文 化 学 い て, はた ら くの か, とい うこ とが。
まず,
[
語
は名
を]
生じ させ るの か, あ るい は顕 現さ せ るの か。も し,
[
語
が名
を]
生 じ させ る な らば,語
は音響
を自性
とす る か ら, すべ て の音響
の み が名
を 生 じさせ る で あ ろ う。 あ るい は, どの よ うな もの で あ れ, 特 定の 音 響が名を 生 じさせ る もの で ある と認め られ るな らば, その 同 じ もの(
特
定の音響 )
が対象
を現 す もの となるで あろ う。 ま た,[
語が名
を]
顕現 さ せ る な らば, 語は音響を 自性 と す る か ら, すべ ての音響
の みが名
を顕 現させ る であろ う。 あ るい は, どの よ うな もの で あ れ, 特定の 音 響が名を顕 現させ るもの で ある と認め られ る な らば, その 同 じ もの(
特
定の 音 響)
が対象
を現す もの と なる であろ う。ま た,実に, もろもろ の
音
声の集 合物
が あ り,一刹 那に合 体す る こ と も な い 。また,一つ の もの の
部
分 と し て生 じ る こ と も不合
理で ある。故に, どうして 生 じ さ せ る もの とし て の 語が名を 生 じ させ よ うか」。 (解 説 )
AKBh
に お い て, ヴ ァ ス バ ン ドゥ は,有部
が主張
する語 (
音響)
と 名 (心不 相 応 行 法)の 関係 「語か ら名が生 じ るの か, あるい は語
か ら名
が顕
現す るの か 」 にっ い て,有部に質 問す る。まず,語が名を生 じ さ せ る とい う場 合につ い て
検討
さ れ る。AKBh
,SA
に よれ ば, その 場 合,語
は音響
を自性
と す るか ら,[
極 微
か ら な る物 質 的な もの で あ り,]
すべ て の音
声が名
を 生 じ させ るこ とにな るが , 雄 牛の 咆 哮 などは, 名 を生 じ させ ない か ら, こ の理 論は都 合が悪 くな る。また,
AKBh
,SA
に よれ ば, 特 定の 音 響が 名を生 じ さ せ る とい う な ら,特
別に名を介在 さ せ る必要は な く, その 特 定の 音 響が 対 象を現す とい っ て も差 し支えない で は ない か と反 論される。 また,TA
に よれば, こ の よ うな場 合,特
定の音声 (
音響)
と名 と は区別 され ない と主 張さ れ る。AKBh
によ れば, 語が名を顕現 させ る とい う場 合 も, 同様の 論 法で批 判 さ れ る。TA
で は, さ らに深
く議論
さ れ る。 こ こ で は,音声 (
語
・音
響)
や名(
心不 相 応行)
とい う もの に頼 ら な くて も,[
心的] [
言語]
協 約に も とつ く『倶舎論 』 に お け る 言 語 観 51 知 識が対象 を現す こ と がで き る とい う立場が述べ られる。 これ は, 対 象が実
在
せず
, 知識 内
の対象
の影像
を知識
が認識対象
とする とい う唯識
の立 場に っ なが る であろ う。次 に,
AKBh
に おい て, ヴ ァ ス バ ン ドゥ は,音声 (
=経
量部
に とっ て有部
の 音 節 と区別されない もの)
の 集 合物は,線 状 的で あ り,一刹 那に集合 とし て同時に存 在 し得 ない と主張 する。 よ っ て, 音 声の 集 合 物 と しての 名は ひ と ま と ま りと し て 対象を現 し得ない と, ヴァ ス バ ン ドゥ は考えるの で あろ う。さ らに,
AKBh
で は, 名の 部 分が音 声で あ る とい う考えも ある が, 有部
に とっ て 名は ひ とまとま りの ダル マ として の心 不 相 応 行で あるか ら, 部 分はあ り えず, 名の 諸 部 分が生 じ る こ とも あ り得な い と, ヴ ァ ス バ ン ドゥ は考え る。以上の 考 察か ら, 有部 と経 量 部の 立場の 違い が 明らか にな る。 有 部は,音
声 (
音響)
は声
とい う物質
的 ダル マ で あ り , 音節 と名 と は心不 相 応 行 とい う 心的な ダル マ とす る。 そ して , 名 ・ 句 ・ 文 とい う心 的 ダルマ は空 間に位 置す るこ とがで きず 分割 さ れ ない単一 な るダル マ で あ り, そ れ らか ら感 じ ら れ る多様性
は, 心 の分
別に過 ぎず, 実 在の 区別で は な い とい う立場で ある。 ま た,時 間的観点 か ら も, こ の 名 ・句 ・文とい うダル マ は,有部
に とっ て は線
状的で な く, い つ の 刹那 に も単 一な もの と して 認 識さ れ る か どうか は別に し て, 心 的な単
一 な もの と して存
在し う る と考え られる。そ れに対 して,
経
量部
は , あ らゆ る言葉を, 物 質 的な音 声 (声 ) とい うダ ル マ の極 微か ら なる もの と し,名 ・句 ・文 ・音 声(
= 語 ・音 響 )の 区別を否定
し た。 よっ て , 口 か ら発
せ ら れ る究 極 的要 素 と し て の 音 声の 複数 の極 微 は, 同時に存在
し得
ない の で あ る。 こ の た め , わ れ わ れ が名
や句
を 理解
す る の は,最後
の 音 声に そ れ まで の 音声が熏 習されて い るか らで あ る, とい う理論
を採用
せ ざる を得
ない の で ある(9)。(
6
)
有部
の反 論(
無
表の存在
と音声
の認識
の比較)
(
AKBh
.Pradhan
.l
st.p
,81
.ll
.12
−13
,Shastri
.p
.273
,a,ll
.4
−5
,Peking
.97
.a.7
−8
,52 パ ーリ学 仏 教 文 化学
Derge
.85
.a.4
, 玄奘.[
平川1998
:pp
.207
.下段LIO
−208
.下段.L2
]
, 真諦
[
同 ;pp
.207
.上段
.1
.16
−208
.上段1
.2
])
「
katham
tavad
atitapekSabpaScimo
vijfiaptikSarPa utpadayaty avijfiaptim ?evamtarhi
paScima
gabde
eva n巨ma utpad 巨d
yo
’pi
tam evaika 卑 帥pti
so ’py
artha叩pratipadyeta
1
」 「[有 部 ] 実に , どう して , 過去[
の 表]
に依 存す る最後の刹 那の表
が ,無表
を生 じ させ るの か 。 その よ う な場合, 最後の 音 声の みに お い て ,名
が 生 じる か ら, そ の[
最 後の]
一[
音 声]
だ け を聞
く者で も,意味
を理解
す る で あろ う」。 (解 説)
AKBh
に お い て ,有部
は問
う。経
量部
の 現在有体
過未 無体論
に 立 て ば , あ る連 続 して 発声され る諸音
声の 最後
の 一つ を聞 くだ けで, その 最 後の 音 声の み か ら生 じ た名を聞い た者が意 味を 理解で きるこ とに なろ うが ,熏
習 理論を認めない 有 部に とっ て は, そ れ は不合
理 で あ る。TA
に よれ ば, 有 部 に とっ て は, 過 去の音
声に依 存す る語
と して の すべ て の音 声が名を 生 じ さ せ る, と説明 さ れ る。 あ る連 続す る音声 で最後に発 せ られ た音声 は, 過 去世に 落謝 して い る 以前の音声
と協
同して,最後の 刹那に,単一で 区別の ない 名と い うダル マ を生 起させ , そ れ を認識して意 味を理解す るの で ある 。 名が部 分 的に生起す るこ と は ない の で ある。 この音
声の プ P セ ス の同類 例 と し て, 有 部は, 表か ら無表
が生 じ る とい う業論
を挙 げ
る。SA
で は,音
声 と名の場 合 と同様 に,身と語の 諸 表は連 続的 ・線
状的であ り,集 合 しない が ,過 去世 に 落 謝 し た身 と語の 表に依 存す る最後
の刹
那の表
が, 協 同 的に, 別 解 脱 律儀
と しての 無 表を 生 じ させ る と説
明す る。TA
で は, さ らに詳 し く説 明 さ れ る。 経 量部の現在有体
過未
無体論
と心 的種 子 熏 習理 論によ れば, 無 表が生 じ る最後
の 刹 那におい て, その無表 (
別 解 脱 律儀)
を生 じ させ る前刹那
以前
の表
は実在
せず
, ま た, その 最 後の 刹那の 心が乱 心(
= 悪心)
であ っ た り,無心 で あ る場合,善なる戒 体は その 最 後の 刹那 に あ り得
ない の で ある。 しか し,有部
に よ れ ば ,時 間が空間 的に解 釈 され る た め,最後
の刹
那に おい て,同時に 過 去世に表
が存在 し (潜在で はな く実 在 し)得
て, 無表
を生 じさせ うる。 ま『倶 舎 論 』 にお け る言 語 観
53
た,最後
の刹
那が乱 心で も, 無心 で も, 善の 無表
とい う色(
= 物質 )は , 心 の状 態 とは無関係に存 在 し うる の で あ る。 経 量 部に とっ て,仮 有な る表は現 れて い る もの で あ るか ら,定
義上潜 在 し得 ず, 乱心 ・無心 の とき に, 表は心 で も物
で もない 仮有
な もの で ,種子 と して有部
に と っ て の 無 表の 代わ りに は な り得 ない (10)。(
7
> 経
量部
の反論一1
(
文と名
の非 実 在性 )(
AKBh
・P
・adhan ・1
・t.・P
.81
.IL13
−14
,Sh
・・t・i
,PP
,273
.a.1
.6
−274
.a.1
.1
,
P
・ki
・g
.97
.a.8
−b
.1
,Derge
.85
.a.4
−5
,玄奘
.[
平川1998
:p
.208
.下 段,ll
,2
−4
],真諦 [同 :p
.208
.上 段 .II
.2
−4
]
) 「athapyevam
kalpyeta
−v五g
Vyafijanam
janayati
,
Vyafijanam
tu nameti ?atrZpi sa evaprasahgah
;Vyafijan
亘n巨rp s亘magry 五bhtiv
巨t
1
」「も しまた,語が 文 を 生 じ させ ,実に文が名を
[
生じ させ る]
とい うよ うに考
え るな ら ば, こ の 場合に も その同 じ過 失が あ る。諸文
が集 合 するこ とは な い か らである」。(
解
説)
AKBh
に よれ ば,SA
,TA
を参 照す る と, ヴ ァス バ ン ドゥ は, 語以外
に そ れ か ら生 じる心 不相 応行
法 と しての 文を想 定す る必要
はな く, 有部の言
うよ うに名が心 不相 応 行 法 と して単
一 な もの な らば, 文が集 合 して生 じ た も の で は あり得ない と反論
す る(11)。(
8
) 経 量部
の反論
一2
(
語 以 外に名や文は不 要)
(
AKBh
,Pradhan
.1st
.p
.81
.IL
l4
−16
,Shastri
.p
.274
.a,ll
.2
−
4
,Peking
.97
.b
.1
−3
,Derge
.85
.a.5
−6
, 玄 奘.[
平川1998
:p
.208
.下 段ll
,4
−6]
, 真 諦.[
同 :p
.208
.上 段.IL4
−7])
「e爭a eva ca
prasafigo
n盃mnahpraktiliakave
v巨cah !Vyafijanam
capi v亘gviSiStaprajfifi
apy avahitacetask 亘
lak
爭a口atah (lz)paricchettu
卑 notsahantaiti
vyaffjanasyapi v亘血naivotpEdik 五, na
prak5Sik
五yLljyate
/」「ま た,語が 名を顕 現させ るこ とに つ い
54
パ ーリ学仏 教 文 化 学 も語
と別で あ る とす る智者
が心 を注い で も [文の]
特徴に つ い て 決 定す る こ とはで き ない 。 故に, 語が文
を生 じ させ る とい うこ と も顕現させ る と い うこ とも不合
理で あ る」。 (解 説 )AKBh
によ れ ぼ, ヴ ァ ス バ ン ドゥは さ らに 前 項 と同様に,語
以外
に 心 不相 応 行 法 と して の 名や文 は不 要で あ る こ と を強 調す る。SA
に よ れ ば, 諸音声
が 同時
に集合
しない か ら, 名は音声の集合
で も な く, 名とい うダル マ (= 法)が あ る と して も, そ れ が 部 分的 に生 じる こ と も, 名の 単一性
とい う ダル マ の 定 義か ら不 合理で あ る。TA
で も 同様の 説が説か れ る。 ま た ,語以 外に文
を認
め る積極
的理 由は ない と,SA
,TA
.で説
かれ る。 以上 は有部
に対 す る批 判で あ る。SA
で は, 経 量 部に よれ ぼ,最
初の 音 節 を聞い て も,不可
分離の 法 則 によ り, 残りの 音 節の 記 憶に よ っ て, 意味を受 容で きる と説 明さ れ る。TA
で は,経
量 部に よれ ぼ, 一定
の 仕 方で ,各
文を耳 識で知覚 し,後
で 諸所縁を 耳識の 力で 知 覚 し,すべ て の自性
を憶
念の対 象 と して , 言語協約
が 生 じて, 意 味を理 解 する と説 明さ れ る。 こ の 時に意識が は た ら く と考
え ら れ る。諸文
の有部
的 な過 去世に お ける存在
だ けか らは意味
は理解さ れ な い 。経 量部 は記
憶
・憶
念 ・言語 協 約 とい う点を重視
す る。現
在 刹 那の 心に お け る過 去 的要素
の熏
習理論が背景に あるの で あろ う。 こ こ で の 議 論で は,経量 部で も文
とい う語
を使うが, これ は有部の 立場を前提
と した場 合の議 論で あ ろう(13)。経
量部
の批判
一1
(
名 は対 象と ともに生
じ な い 二過 去 ・未
来の名の 問 題と ,固
有名
の 問 題 と,無
為 法の名
の 問題)
(
AKBh
.Pradhan
.1st
.p
.81JL
17
−19
,Shastri
.pp
.274
.a.1
.5
−275
.a.1
.3
,Peking
.97
.b
.3
−5
,Derge
.85
.a.6
−
b
.1
, 玄
奘
.[
平
川1998
:p
,208
.下 段.11
.6
−
9]
,真諦
.[
同 :p
.208
.上段IL7
−ll
]
)
「athipy arthasahaj arp nama
j
5ty5divad
i
$
yeta
? evalp saty atit盃n5gatasyErthasyavarttam5napP n巨ma na sy巨
d
1
『倶舎論
』 に おける言 語 観 55
asarpskl;tfin百Tp ca
dharmapttrp
kena
sahajarp nEma sy 互t
ity
ani寧tir
eVeyam /」「 また も し, 「生 」 等の よ うに, 名は対 象 と と もに生 じる と認め られ る な ら ば, その よ う な場
合
,過 去 と未来
の 対象
に は現 在の名が [用い られ るこ と は]
ない で あろ う。子 供たちの
名
は父親
た ちに よ っ て,思 うが ま まに考 え ら れるか ら, どの 名 がそ れ(
対象 )
と と もに生 じ るで あろ うか。また, 諸 無 為 法の
名
は,何 と と もに生 じ るで あ ろ うか。故に , この こ と
(
名が 対 象 と ともに 生 じるこ と)
は,全 く認め られ ない 」。(
解
説 )AKBh
に よれ ば, ヴ ァ ス バ ン ドゥ は, 名が対 象 と と もに生 じ る と す る と,過 去 ・未 来の対 象は, 現在にない か ら, そ れ らの名
が現在
に生 じて認
識
される こ とは ない とす る 。また, 父親に よっ て付け ら れ る子 供 の 名は, 恣 意 的で あ り,
SA
,TA
に よ れば, 対応 し うる名
が多
数で あ り得 る か ら, あ る特定
の 名が特定の 子 供に定 まっ ては対応 し ない 。ま た, 無 為法 は現在 世に生 じ るこ とが ない 不 生 法で あるか ら, そ れ の 名 と ともに生 じない 。
よっ て, 常に は,
厳 密
に は名は そ れが指す対 象 と と もに生 じ る こ と はな い 〔皿4)。しか し,
有部
に とっ て みれ ば, 対 象 と名が 同時
に 生 じる とい う説を とら な け れば, 単体 (
ダルマ)
として の現在の 名が, 過 去 ・未 来の 対 象や ,無 為 法 を, 時 空を 超 えて表 示 しうる し, 固 有 名 詞 も, ある人 が あ る と きに 決め れ ば, 一つ に 決めて対象を特 定で きる と い う主張が成
り立っ で あろ う。ao
) 経
量部
の批 判一2
(音 声と名と偈(
= 文章)
の関係)
(
AKBh
.Pradhan
.1st
.p
.81
.IL
l
9
−22
,Shastri
.p
.275
.a.IL4
−
8
,Peking
.97
.b5
−7
,Derge
.85
.b
.1
−2
,玄 奘.[
平川1998
:pp
.208
.下 段⊥9
−209
.下 段1
.2
]
,真 諦 [同 :pp
.208
.上段Ll1
−209
.上段L2
]
)
56 パ ーリ学 仏教 文 化 学
「
yad
apy ukta 甲bhagavat5
−“
n五masanniSrit5
gfithfi
(15)g
巨th5n巨m
kavir
59rayah
”iti
!tatr
且rthe串ukptEvadhih
Sabdo
n亘ma , n5mnEip ca racan 巨viSe§og
巨theti ntimasanniSritabhavati
!racan 互viSeSaS cadravy
亘ntararp nopapadyate ,paTpktivat
, citt5nup 亘rvyavac ca1
」 「次 の こ と も世 尊に よっ て説かれて い る。「 偈は名に依 存す る。 諸 偈の 依 り所は詩人で ある」 と。
その
中
で , 名 とは, もろ もろ の意味
に関
して限
定がなされ た音声
の こ とで あ る。諸
名の特 定の 配列 さ れた もの が偈で あるか ら,[
偈は]
名に依存
する もの である。 しか し,特
定の 配 列された もの は, ある実体
で あ ると は認め ら れ ない 。行
列の よ うに。 ま た, 心の 連 続 した もの の よ うに」。 (解 説 )SA
,TA
を参
照 す る と,AKBh
に お い て , ヴ ァ ス バ ン ドゥ に は, 偈(
; 文 章)
は名
か らな り,名
は音
声か らな ると さ れ ,音声
の み が実 在で あ り, そ れの集合体
とし て の名
や偈
は実在 しない とい う要 素還元 主義
的傾
向が 見ら れ る。 諸 音 声に 意味
に関
す る限定がな されて, 名が 成立 す る。 その 言語
表現 は線
状 的な もの で あ るか ら, 時間 的な心の連 続に喩え られて い る。 連 続す る 個々 の現在
の心 だ けが実
在で, 心相 続は仮構され た もの であ るよ うに, 現在 の諸 音 声の みが実在
で , ま だ生じない 未 来の 音声や , すで に滅 した 過去の 音 声は実 在せず,名や偈は仮構
され た もの なの であ る〔16)。al
) 経量部の批判一3
(
文の みが実在な ら,名等は構 想で ある)(
AKBh
.Pradhan
.l
st.p
,81
」122
−23
,Shastri
.p
.275
.a.IL9
−10
,Peking
.97
.b
.7
,Derge
.85
.b
.2
−3
, 玄奘
.[
平
川1998
:p
.209
.下段lL2
−
3
]
,真諦
[
同 :p
.209
土段
lL2
−4
])「astu v5 vyafijanamatrasya
dravyantarabhsvaparikalpana
!tatsamrthfi eva namak 亘y
盃dayo
bhaviSyantity
ap5rthik 亘tatPrakl
寝)tih
!」「あ るい は
, 文の みが, あ る実 体で ある と考えて み よ。
名
の 集ま り等は, そ『倶 舎 論 』 に おける言 語 観
57
構 想す るこ とは無 用の こ とで あ る」。(
解 説)
AKBh
で, ヴ ァ ス バ ン ドゥ は, 有部
の肯
定す る文の み が 実 体で あ れ ば, 名や句を構
想す る こ と は無 用であ る と言
い切 る。TA
に よれ ば, サ ン ガ バ ドラ(
衆賢)
は , 「諸
文は単一 と して匚
意 味の あ る もの と して]
把 握さ れ ず (一音 節で意味
が あ れば, そ れ は名で あ る)
,刹
那性
で あ り, 集 合す れ ば特徴
を失い , 諸文
の集合
は名
の 集 合等
とは異なる」, と主 張 する( 17) 。3
、有
部
の主 張
(
名
・句
・文
は
論
理 を
超
え
て実在
す る
)
(
AKBh
.Pradhan
.1st
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,Shastri
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平
川1998
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.下 段IL3
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] , 真 諦 [同 :p
.209
.上段IL4
−6
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/」「しか し , ヴ ァ イ バ ー シ カた ちは言 う 。 [心] 不相
応
行を本
質 とす る名の集ま り等
は,実 体 と し て存在
す る, と。 なぜ な ら, すべ ての法
は論
理 に よっ て理解
され え ない か らで ある, と」。(
解
説)AKBh
に お い て,SA
,TA
を参 照す る と,有 部に よ れ ば, 名 ・句 ・文 は, 論理 的 理解を超えて お り, われわ れ に とっ て は信 解の 対象
で あ り, 如 来 の 智の領域
と され る〈18>。4
.結
論
以上の
議
論か ら分か る有部 と経
量 部の 対 照 的な言語
理論を整理 し て お く。有部
は, 言 語に関して物 質的 言語 と精 神的言語 を 認 める。 前 者は耳の対象
で あり,後者
は心 の 対 象で あ る。 以上の 議 論で は,後者
は前者か ら生 じる も の と して, 主に後
者が論 じられ た。精
神 的言 語は, 心不相
応 行 として の名
・ 句 ・文で あ り, そ れ ぞれ, 独立 して単 一 な るダルマ と して存在
し,言 語機 能 を果
た す。 名や句は,音
の集 合物
の よ うに も思わ れるが,精神
的で あ り, 空間
に位置せず分割さ れない実 在す る究極の ダル マ の 一つ であ る。 多様 性が あ る と思わ れるの は, それを捉え る主観
の 問題で あろ う。経
量 部は, 言語に関
58 パ ーリ学仏教 文 化 学 して