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こぺる No.100(2001)

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NO. 100

部落のいまを考える⑪ 住吉・フィラデルフィア C2) 私はそこで生きてきた すみだいくこ

乙ぺる刊行会

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来 年 三 月 三 日 、 部 落 解 放 運 動 は 全 国 水 平 社 創 立 八 十 周 年 目 を 迎 え ま す 。 創 立 大 会 の 宣 言 は 日 本 の 人 権 宣 言 と も い わ れ 、 各 種 集 会 冒 頭 の セ レ モ ニ ー で は か な ら ず と い っ て よ い ほ ど 読 み 上 げ ら れ て い る 。 し か し 、 運 動 は 宣 言 に い う 「 人 間 」 の 意 味 、 内 容 を 豊 か に し て き た と い え る か ど う か 。 運 動 の な か で 語 ら れ る 紋 切 り 型 の 、 薄 っ ぺ ら で 荒 っ ぽ い 人 問 観 に 違 和 感 をおぼえている人は多いはず。貧しい人間観からは、貧しい関係しか生まれないのです。 い 件 ち 「人聞を冒涜する」とはどういうことか。「人聞を勅る」とはどういうことか。それらが意 味 す る と こ ろ を 、 自 分 の こ と ば で 考 え 、 表 現 す る こ と に 怠 惰 で な か っ た か ど う か 、 正 面 切 って問われていいのではないでしょうか。 交 流 会 は 「 誰 か が 隠 し 持 っ て い る 正 し い 答 え を 間 違 い な く 、 速 く 見 つ け る 」 た め の 場 で は あ り ま せ ん し 、 小 ざ か し い 議 論 と も 無 縁 で す 。 「 人 間 と 差 別 」 に つ い て 関 心 を 寄 せ る 人 び との参加をお待ちしています。 講 演 : 長 田 弘 ( 詩 人 ) 「 人 間 に つ い て 」 全体討論のテーマ:「部落のいまと〈解放〉のイメージ」 話 題 提 供 者 : 山 下 力(奈良県部落解放同盟支部連合会理事長) パ ネ ラ ー : 住 田 一 郎 山 目 安 弘 山 本 尚 友 司 会 : 藤 田 敬 一 日程/9月8日出 14時 開 会 18時 夕 食 19時 再 会 21時 懇 親 会 9月9日(日) 9時 再 会 12時 解 散

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信 唱 の 開

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一人間と差別をめぐって−

日 時 /9月 8日 出 午 後2時 ∼ 9日(日)正午 場 所 / 大 谷 婦 人 会 館 〔 大 谷 ホ ー ル 〕 ( 京 都 ・ 東 本 願 寺 の 北 側 ) 京都市下京区諏訪町通り六条下ル上柳町215 TEL (075) 371 6181 交 通 /JR京 都 駅 か ら 徒 歩8分 、 地 下 鉄 烏 丸 線 五 条 駅 か ら 徒 歩2分 、 市 バ ス 烏 丸 六 条 か ら 徒 歩2分 費 用 / A 8,000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み) B 4,000円(夕食・参加費込み) ご注意/※会場にはなるべく公共の交通機関をご利用のうえ、お越しください。 ※宿泊の方は洗面用具をご用意ください。 ※参加l費は当日受付にてお支払いください。 申込み/ハガキ・FAXま た は イ ン タ ー ネ ッ ト で 、 住 所 ・ 氏 名 ( ふ り が な ) ・ 宿 泊 の 方 は性別・電話番号・参加形式(A・ Bの い ず れ か ) を 書 い て 下 記 あ て に お 申 込 みください。 阿ll'f:社 干602-0017 京 都 市 上 京 区 上 木 ノ 下 町73-9

TEL (075)414-8951 FAX (075)414-8952 E-mail: [email protected]

締 切 り / 8月31日制 五条通

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七条通 京都ヲワー0 .各地で発行されたビラ・パン フ・通信・新聞などを多数ご 持参ください。また第1日目 の夜には恒例の懇親会を開き ます。各地の名産・特産の持 ち込み大歓迎ですので、よろ

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部落のいまを考え る ⑩

すみだいくこ

住吉・フィラデルフィア ︵

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私はそこで生きてきた

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︶ ﹁ 卑 し い 身 分 の ル

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ツから日本の首相候補に﹂ 最 近 、 日本に住む友人が ﹃ タ イ ム ・ ア ジ ア 版 ﹂ ︵ 英 語 ・ 二

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一 年 四 月 二 日 号 ︶ の 記 事 を

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ル で 送 っ て く れ た 。 ﹁ 卑 し い 身 分 の ル

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ツ ︵ 同 戸 田

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印 ︶ か ら 日 本の最高責任者の最有力候補に。出 HHO 自 民

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の 長 い道のり﹂という見出しがついていた。小測首相の後、 次期首相と目された被差別部落出身の政治家

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氏 の足跡を実名で報道した記事だが、お読みになった人も いると思う。この記事によると

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氏は﹁国会議員 時代の初期におこなった演説の中で巧妙に自分をクロゼ ットから出した﹂そうである。﹁クロゼットから出す﹂ と い う 英 語 は ﹁ カ ム ア ウ ト ﹂ の 意 味 な の で 、 ア メ リ カ 人 に読ませたら案の定、﹁

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同はすでに演説の中でカ ム ア ウ ト し て い る ﹂ と 理 解 し た 。 私はその演説の中身を知らないので推測するだけだが、 彼のクロゼットからの出方は、﹃こぺる﹄誌上で議論さ れてきたカムアウトとは大分ニュアンスが違うと感じて い る 。

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氏はこの記事のための取材に応じること を拒否したそうだが、弟の同日ロ呂さんは被差別部落と の関連を聞かれ、﹁まったく本題からはずれている﹂と 怒りをあらわにしたと書いてある。彼の怒りは﹁部落出 身かどうかが政治家としてのキャリアにどう関係するの か。関係ないではないか﹂ということだと思う。しかし

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氏も弟も、部落問題が政治家としての実績とい こぺる う本題からはずれていると考えたわけではないだろうし、 ﹁同対審答申﹂や﹁同和対策事業特別措置法﹂を無視し 1

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てきたはずもない。となると、彼らにとって部落は単に ﹁出自の問題﹂にす、ぎず、彼らの生き方と結びつけて考 えられるべきものではないという意味になる。この記事 によると、出

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氏は﹁小さな町の町議選に出たとき から、部落民との係わりを否定しなかった﹂というから、 隠そうとはしなかったのであろう。﹃こぺる﹄誌上の議 論などで、部落出身を隠しはしない、しかし、こだわり も し な い 、 つまり自分の生き方と出自は無関係であると いう考え方があることを知って以来、ますます﹁出自の 呪縛﹂について考えるようになった。 部落出身の住田一郎と結婚して被差別部落に住むよう になってから、私にとって部落問題は自の前にある現実 そのものだった。なぜそこまでこだわるのかとよく聞か れたが、﹁私はそこで生きているから﹂としか答えられ なかった。生きる営みの場である住吉だったが、住吉の 人たち︵出身者︶と部落問題を話していると、﹁よそから 来た人はいいよな。逃げられるから﹂とポツッと言われ たりした。﹁逃げる﹂というイメージがまず湧かなかっ た。しかし、知り合いのいない所に引っ越して、新しい 土地で部落出身に触れずに生きていくという意味なら、 その気になれば誰にでもできるのではないかという気が していた。現に若いころ住吉を出て、めったにもどらず、 部落出身かどうか聞かれることもない暮らしを送ってい る出身者はたくさんいる。 あるとき、﹁ほんとにやりたかったら、あなただって できるじゃないの﹂と反論した。彼女は勤勉で誠実な人 柄だったから、どこでも生きていけると本気で思ったの だ。しばらく考えてから彼女は﹁で込わたしら、 つ い て ま わ る や ろ 、 一生﹂とつぶやいたのである。その一言に は胸をつかれるものがあって、﹁ついてまわるって、何 が?﹂と聞き返すことはできなかった。 外の男性と再婚して、関西地方の新興住宅地に建売住 宅を買って住吉を出ていった人がいた。相手は安定した 仕事をもち、子どもは新しい父親になついていた。彼女 は家事の好きな働き者だったから、きっとそこで落ちつ けるだろうとみんなで祝福して送り出した。しかしまも !なく離婚して住吉にもどってきた。引越し先で近所の主 婦と立ち話しをしていたら、そのなかの一人が﹁このあ たりも最近、ガラ悪くなったから﹂ともらしたという。 とっさに、誰かが自分の出身に気がついたのだと思った

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彼女は、それ以後、隣人たちの視線ゃあいさつや笑顔の さげす 裏にいつも﹁部落ではないか﹂という蔑みを感じるよ うになったという。夫は﹁そんなこと知る方法もないし、 最近この近くは暴走族がふえてたしかに物騒になったじ ゃないか﹂となだめたが、彼女の気持ちは変わらず、 ﹁そんなこと気にするな﹂という夫の励ましもうとまし くなり離婚を決意したのである。 この話しを聞いた部落外の誰もが、部落民のわが子ま でが﹁そんなことまで一々部落と関連づけて悩んでいた ら、外ではとても生きていかれへん﹂と唖然とする。私 達の子ども八人のうち何人が住吉にとどまるのかわから ない。外で生きることを選ぶ子どももいるだろう。﹁と ても外では生きていけない﹂という言葉の先に見えてき た も の は ﹁ で も わ た し ら 、 ついてまわるやろ﹂という彼 女のあのつぶやきだった。部落で生まれ育ったことの呪 縛は一生ついてまわるという意味だったのかと、いま思 う よ う に な っ た 。 外の男性と結婚して地区内に住んでいる人は多いが、 よく聞くのが夫の実家との確執である。実家で家事を手 伝うと﹁いいのよ。気にしないで﹂と言いながらさりげ なくやりなおしている姑や小姑の態度は、部落出身の嫁 には侮辱としかうつらない。夫の母親の手料理は、それ まで食べたこともない凝った洋風料理だったそうだが、 何種類もあるドレッシングに面くらって聞くこともでき ず、ろくろく食べなかったと苦い経験を話す人もいた。 それ以後は﹁ハシの上げ下ろしにも気をつかうので、実家 には夫と子どもだけで帰ってもらっている﹂そうである。 部落外同士でも嫁と姑の関係はラクではないのに、その たびに部落出身を思い知らされるのはかなわないという のが本音であろう。部落のなかでは軽妙酒脱な言葉がぽ んぽん出る人たちが、外に行くと何ともいいようのない 居心地の悪さから萎縮してしまい、本領を発揮できない というのは何と残念なことだろうといつも思ってきた。 ︵

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︶外の世界で感じる居心地の悪さ 外の世界に行くと感じる部落民の﹁居心地の悪さ﹂、 この根は私が想像していたよりはるかに深いということ がだんだんわかってきた。黒人大学であるチェイニ

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に こべる 来る若い学部生の気持ちも同じである。この大学に来た 3

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のは﹁カンフアタブルだから︵気持ちが落ちつく、居心 地がいいとだと言う若い彼らの思いに、住吉をなるべ くなら出たくないという部落の人の思いが重なってくる。 部落の人たちが外に出たときに直面する心理的な問題 には、あながち彼らの思い過ごしばかりではないという 部分がある。娘や息子が部落出身者と結婚したのに、部 落問題にはけっして触れようとしない人たちが非常に多 い。﹁結婚に反対できなかった悔しさを真綿にくるんで、 ことあるごとに出してくる﹂と評した出身者もいる。私 は﹁それでも、彼らは反対できなかったという事実はと ても大事なことだ﹂と言ったが、﹁夫の実家に行くと針 のムシロ﹂と言う彼女にはなんの気休めにもならなかっ ただろう。カムアウトした出身者は、部落に触れたくな いという世間の常識を知ったとき、よけい居心地の悪さ を 感 じ る の で あ ろ う 。 もう一つは、外の人間との意識のボキャップである。世 間の人間の真意を測りかねて、それ以後話しをつづける 意欲を失ってしまうことがあるのだ。これも住吉の女性 の体験だが、外で就職した彼女は、昼一休み、同僚と談笑 しているとき、話題になっていたテレビ・ドラマの人気 俳優を指して﹁でもあいつ、ケツ青いで﹂とつい日頃の 口調がでてしまったという。同僚はマユをひそめ﹁まあ、 お里が知れるわよ!﹂とたしなめたそうである。彼女は 職場で出身を明らかにしている。﹁出身を言っといた方 があとでラクだと思ったけど、世間は甘くない、知った ら知ったで露骨やで﹂と彼女はしみじみ言った。しかし、 同僚が部落民宣言を聞いた事実はあっても、部落出身を 意識してそこまで露骨に言えるだろうかという疑問が私 にはあった。その同僚は出身のことを聞いた覚えがあっ ても、それを言ったときには意識していなかったのでは な い か と 私 は 言 っ た 。 しかし、その話しを聞いた部落の人たちの反応は﹁露 骨に当てつけるつもりはなかったかも知れない。しかし どこかで意識

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ていたから、やっぱり育ちが悪いと思っ てとっさにその言葉がでた﹂というものだった。﹁お里 が知れる﹂は部落内でも一種のブラック・ユーモアとし て使われる。﹁お里が知れるで!﹂とあきれた人に﹁そ うや部落や。なにかい、皇室から来たとでも思うたん か﹂とひらきなおるのである。しかし外で、それも非出 身者ばかりのところで、。ピシャリとこの言葉を言われた

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部落の人のギヨツとした気持ちは十分想像できる。私は ﹁お里が知れる﹂という表現が部落差別になるとは思わ ないが、この日本語にこめられた意味の多様さを思うと、 それを言われて傷つく部落民の複雑な感情を﹁思い過ご し﹂とは言えなくなっている。 ﹃ タ イ ム ・ ア ジ ア ﹄ の記事にもどるが、書きだしは、 首相候補にまで上りつめた

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氏の過去である。出 身に触れずに大阪で就職した彼は、上司の覚えめでたく 管理職に昇進したが同僚の陰口に動転して退職、故郷の 園部に帰り、政治活動のスタートを切ったとある。その 陰口は﹁

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さんは大阪ではいい所にいるが、園部 に帰れば即日品回目白じゃないか﹂というものだった。 外国人読者を引きつけるインパクトとして、﹁部落民﹂ という言葉がもっ不可解さは効果的である。知られたた めに動転し退職するほどの衝撃というのはなかなか理解 できないと思う。この記事では、情報提供者の同

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同 町

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氏が強調する﹁日本のタブ

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﹂としての部落問 題が縦糸であり、横糸として編み込まれているのは、目 的のためには手段を選ばず、政界の汚れ役をあえて引き 受けた

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氏のパーソナリティと部落出身とのつな が り で あ る 。 友人のアメリカ人も﹁ノナカさんの政治家としての動 き方がまるで部落出身と関係しているように印象づける 書き方だが、これは黒人、アジア系、アラブ系、ユダヤ 系などマイノリテイの記事をまとめるときの白人アメリ カ人記者の常套手段﹂という感想だった。とくに私が気 になったのは、﹁

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氏のマヌ

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パーぶりを怖れる 人たちが彼を権力者にしている﹂という記事の指摘であ る心私の狭い経験から言っても、これはまさに部落の権 力者の姿である。﹁気イつけや、何されるかわからんで﹂ と私もよく部落の人から注意された。ムラのなかの集会 で批判的意見を言ったからといって何をされるというの か、ここまで言われる部落のリーダーもつらいとむしろ 同情したが、部落大衆のその怖れは実際にメチヤクチヤ が通ってきた現実を知っているからである。 何をするかわからないという恐怖感によって人々を黙 らせてきたのは、ギャングや政界をふくめた﹁閉鎖的な 共同体のボス支配の特徴﹂として指摘しているだけとも 読める。しかし、目的のためには手段を選、はない強引さ こベる で人々を怖がらせてきた

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氏のやり口を、部落民 5

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というあまりにも日本的でわかりにくい出自と結びつけ ていると感じるのは、けっして私の思い過ごしではない という経験をアメリカでもした。 来たばかりの頃、保育労働者の認定講座で多文化理解 教育の一環として日本文化の紹介を頼まれた。民間の幼 児教育研究所の主催だったが、代表者は共和党大会の代 議員をしたこともある女性である。善意の押し付けを絵 に描いたような人だが、色々親切にしてもらったので恩 返しのつもりで承諾した。彼女は﹁私はあなたから聞い てブラクのことをよく理解しているし、あなたを非常に 尊敬している。でもブラクの問題はアメリカ人にはとて もわかりにくい。わけのわからない不可解なところから 来た人というイメージはアメリカでは一番損をする。こ れはアラブ人も一緒。この保育講座では、日本のすばら しい文化の紹介が目的。折り紙、書道、お茶、生け花、 昔ぱなしなどを日本人として話してほしい。だから今日 はブラクのことには触れないほうがいい﹂と言った。 そこまで言われたら講師を引き受けないという方法も あった。来たばかりの頃の英語では︵今でも︶折り紙や 書道の実演をしたほうがラクである。しかし、私は﹁ブ ラクに触れないで﹂という彼女の頼みにその場ではイエ スともノ!とも言わずに、当日、日本の部落から来たと 自己紹介した。それについて質問がでなかったら折り紙 や書道に移るつもりだった。しかし質問があいついで活 発な議論がおこった。﹁エタとはあなたたちのことだっ たんですね! 会えてよかったです﹂などと言う人もあ つ 士 た 勾 ノ

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てきたが、理解できないというイメージが人種的、民 族的なステレオタイプと否定的に重なったとき、必ず偏 見を生むアメリカの社会状況を甘くは見ていない。あの 記事が伝える

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氏の政治家としてのやり方が、日 本における不可解な部落問題とオーバーラップして行く ストーリーに私はいい印象をもてなかった。 ︵

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︶部落出身を結婚相手にどう告げたか ﹂の記事によってあらためて興味がわいたのは、

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氏や弟さんの﹁出自﹂ への係わり方である。

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﹁隠す必要も告げる必要もない出自﹂はこと被差別部落 に関してはまだよくわからないでいる。私が住吉で一緒 に生きてきた人たちは、告げることにも隠すことにも非 常に遼巡してきた。外の人との結婚も増えていたので、 相手に出身をどう話したのか、どう告げられたのかは、 部落の中での大きな話題だった。何度目かのデ

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トのあ と住吉の青年から﹁家でこれ読んで﹂と島崎藤村の﹃破 戒﹄を渡されたと言った人もいる。﹁そのときどう思っ た?﹂というみんなからの質問に﹁覚悟しました﹂と彼 女は答えたが、実家との断絶を知っている私たちは言葉 がでなかった。朝、出勤前に﹁お父さん、私が結婚した い人のことを書いたから後で読んで﹂と手紙を渡した人 もいた。部落の外で生まれ育った彼女は住吉の若者と恋 におちたが、父親に面と向かって言う勇気がなかったの で手紙に書いたのである。父親は﹁お前が決めた相手な ら誰でも構わんよ。部落以外ならな﹂とうれしそうに手 紙を受け取ったそうである。当時の彼女はそれ以上話せ な か っ た 。 一方、部落の外の人と恋愛した住吉の女性は、相手の 親の承諾を会うたびに確かめたという。相手は﹁うちの 親は大丈夫﹂と言いつづけたが、 一抹の不安もあったの で、ある日﹁今すぐ家に帰って確かめてきて!﹂と強く 言うと彼は﹁ょっしゃ﹂と走り去り、小一時間しでもど り、﹁問題なかったわ﹂と汗びっしょりになって報告し たそうである。﹁その話し、ぜったいに子どもたちにし てやってね﹂と私は懇願した。別の青年︵部落外︶はい くら家まで送ると言っても大きな道路で降りてしまう相 手に不安を感じて問いつめたら、翌日手紙が来て﹁私は 生まれたくてこの家に生まれてきたのではありません。 これは私にはどうしょうもないことです﹂と書いてあっ た。てっきりヤクザの組長の娘かと思い、おそるおそる 電話したら部落の子とわかって安心しましたとみんなを 笑 わ せ た 。 部落出身者との結婚を職場で隠しつ守つけている人もい たし、子どもの縁談が起るまでに外へ引っ越したいと言 ぃ、実際にそうした人もいる。保育所保護者会の非出身 者の親が亡くなり、会則に沿って花輪を送ることになっ たとき、花輪につける団体名に気をつかうのも部落の人 だった。私は﹁花輪は欲しい、部落解放や同和の言葉は 困るという人には送る必要はない﹂という意見を出した こぺる 7

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が、﹁花輪はこちらの気持ち、受け取るのは向こう、葬 式という一族再会の場を混乱させることは絶対によくな い﹂とみんなにいさめられた。フラストレーションをた めて役員会から帰宅した私が﹁お葬式の場を混乱させる ことも必要。波紋を起こさないと世間はぜんぜん変わら ない﹂と住田にこぼすと﹁それはちがう。︿部落解放保 育守る会﹀からの花輪は一種の部落民宣言になる。親戚 へのカムアウトは彼女が時期を見て自主的にやるべきも ので、花輪によって強制されるものではない﹂という意 一緒に活動した当時の役員たちは、部 見 が 返 っ て き た 。 落差別を知らないということは、ここまで無神経になる ものなのかと、私の姿勢にあきれていたことだろう。 しかし出身を告げずに結婚したという人も少なくなか った。婚約中、住吉の同和住宅にまで訪ねてきたのに、 少しも気がつかなかったという女性もいた。相手にした ら家に呼ぶことがすでに部落民宣言だと思ったのかもし れない。結婚後、娘の新居を訪ねてきた父親が同和住宅 に下がる﹁狭山事件﹂の垂れ幕を見て﹁ここは同和じゃ ないか!﹂と驚博したそうである。彼女は部落に隣接し た差別意識の強い地域で育ったが、大阪市内には部落が ないと聞いていたので、同和地区との関連を少しも疑わ なかったのである。彼女は﹁あのときのお父さんの姿は 忘れられない。私が妊娠していたから何も言わないで一 晩泊まって帰ってくれた。でも、部落問題を知れば知る ほど、そんな大事なことをどうして話してくれなかった のか悔しくなる﹂と言った。その直後ならともかく、な ぜ話してくれなかったのかと今さら聞くことはできない と い う 。 私の狭い経験では、出身を告げられずに結婚した人ほ ど、その後の結婚生活でこだわりを引きずっているよう である。告げなかった人に気持ちを聞くと﹁どちらも同 じ日本人、身分制度もなくなった日本でそんなことにこ ちらからこだわること自体おかしい﹂と言った。しかし、 外で住むならともかく、同和住宅にはいって生活するか ぎり、部落は昔の話しとは言えないのである。 わが家の子どもたちが人を好きになったとき、出身を どう告げて、どう悩んで、どうあきらめ、どう成就する のか、親として無関心ではいられない。今のところ出身 の問題が深刻になった子はいないようで、﹁部落だから あかん言うなら、そうですか、じゃあ、別れましょう、

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と言うよりしょうがない、ほんま、それだけの関係だっ たと思わな﹂と言うが、果たしてそう簡単にあきらめら れるのだろうかという思いもある。私の両親がなぜ反対 しなかったのかと子どもたちに聞かれるが、早く家を出 て自活していた私は、自分にとって大切な決断を両親に 相談する習慣をとうの昔になくしていた。反対しても無 駄だという苦い経験を親子の確執のなかでイヤというほ ど味わったのが私の親である。もちろん、相手が部落出 身かどうかで私自身悩まなかったことは大きい。義父の 住田利雄は﹁教育、仕事、住環境の問題が解決しても、 結婚に関してはまだ百年かかる。私からご両親に説明で きることがあれば、神奈川に出向いて話しをしたい﹂と 言ってくれたが、その必要は全くなかった。父は私の結 婚をきっかけにまず野間宏の﹃狭山裁判﹄︵岩波新書︶ を買い求め、読み終わるや、神奈川県連の青年部を訪ね て議論を求めるという好奇心の強い行動力の人だった。 ︵

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︶ ルーツを拒否するのか、引き受けるのか アメリカの人種問題、とくに黒人問題は外見上の問題 が大きいので、部落問題と性格がちがうと思っていたが、 生き方の問題としてル

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ツを拒否するのか引き受けるの かという選択があるという点ではよく似ている。﹃プイ ラデルフイア・インクワイアラ

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﹄紙︵五月一四日付 け︶に有名な野球選手ベ

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ツに関する コラムが掲載された。﹁ベ

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スは本当に黒人だ ったのか。そうだとしたら、何が変わるのか?﹂という 見出しだが、﹁本当に黒人だったのか﹂という問いかけ はもちろん肌の色のことではなく、彼の数代前までの家 系に黒人がいたのかどうかを指している。 一 九 二

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年代に活躍したベ

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スに黒人の血が はいっているという噂は当時からあり、彼の大活躍に腹 を立てた対戦相手のファンが﹁ニガ

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、引っ込め!﹂と いう最悪のヤジを飛ばしたことも知られている。ル

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ス の広がった鼻と大きな唇はまぎれもなくアフリカ系の容 貌を受け継いでいるというのだ。しかしル

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ス自身は黒 人の先祖の存在をきっぱり否定していた。当時はその事 実があってもとても認めるわけにはいかなかったであろ うが、このコラムニストが

DNA

鑑定でいまハツキリさ せるべきだというのは、歴史的事実の問題としてである。 こぺる 9

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スの時代は白人による黒人へのリンチがまだあり、 黒人選手は﹁ニグロ・リ

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グ﹂にしかはいれなかったの で、もしル

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スに少しでも黒人の血がはいっていたら、 メジャー−リーグで打ち立てた輝かしい記録には今後※ 印がつき、﹁その後、黒入であったことが判明したので、 正確にはメジャー・リ

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グの記録ではない﹂というよう な説明が必要になる。この註こそ人種差別の歴史そのも のとしてコラムニストは歓迎しているのである。 私が学ぶチェイニ

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大学の前身は一八三七年に建てら れたアメリカ合衆国で一番古い黒人のための教員養成学 校だが、現在でも学生のほとんどがアフリカ系であるの は人種分離政策︵セグレゲイシヨン︶の名ごりと言える だろう。そこでの最初の修士は﹁マイノリティ・コミュ ニティにおける成人教育﹂だったが、毎年二月にフィラ デルフィアで聞かれる﹃ブラック・ライティング﹄︵黒 人にとって書くということは?︶ のパネル・デイスカツ シヨンに参加してレポートを提出する課題があった。小 説、詩、戯曲、評論、ジャーナリズム、児童文学などの 分野で活躍する黒人を招き、彼らにとって書くというこ とは何かを語ってもらうのだが、﹁なぜ書くのか﹂は、 ﹁黒人である状況をどうとらえているのか﹂という視点 の問題であることがわかってきた。 一九九九年のパネラ

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のひとりはシャロン・

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・ ワ イ エスという児童文学者だった。壇上に座る彼女の真っ白 な肌と栗色の髪は﹁ブラック・ライティング﹂のタイト ルにいかにもそぐわなかった。聴衆はほとんど黒人だっ たが、﹁なぜ彼女があそこにいるの?﹂とささやく声も 聞こえた。女優の経験もあるというその美

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い 女 性 は 、 澄んだ力強い声で﹁アフリカの娘﹂という詩を朗読した。 肌が白くヨーロッパ系の容貌をもっワイエスが、パネ ラーのなかでもとくに自分のアフリカ系のル

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ツ を 誇 つ たことに違和感を覚えた聴衆が多かったと思う。クラス メートの一人は﹁黒人であることを誇ると彼女に言われ たら、ボクはいい気持ちがしませんね﹂とハツキリ言っ た。﹁彼女を黒人として認めないということ?﹂と聞く と彼は強くうなずいた。認めるも認めないも、彼女自身 が自分は黒人だと言っているではないかと反発したかっ たが、日頃から考え深い彼の言動を思うと、とっさの反 発 は 控 え た か っ た 。 私は白人そのものに見える彼女が黒人であることを自

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覚するまでの成長のプロセスに関心があったので、午後 は彼女の児童文学ワ

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ク・ショップに参加した。その ワ

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ク・ショップは彼女が書いた本や絵本を手にした黒 人の参加者でいっぱいだった。シャロン・ワイエスの話 しを聞いているうちに、小さい頃に両親が離婚して黒人 の母親に引き取られ、母方の祖父母をはじめ母親につな がる人たちのあふれるような愛のなかで成長した少女が 自分をアフリカ系と自覚するのはきわめて自然なことに 思われた。彼女は︿正真正銘の﹀黒人としては生まれな かったかもしれないが、確実に黒人として成長したので ある。つまり作家の創作意欲にとって最も重要な心理的、 精神的な領域として彼女は黒人であることを引き受けた と言えよう。彼女の新作は南部から逃亡してきた奴隷た ちの自由を求める旅を主題にしたものだが、その命がけ アフリカの大地がはぐくんだ自由な人間 としての証しだったと著者は解説した。私は﹁人間とし ての証しの追求に、あなたの黒人としての生き方が関係 の 逃 避 行 こ そ 、 しますか﹂と質問した。するとワイエスは﹁もちろんで す。私にはそれ以外何もありません。さらに言えば黒人 の女としてです。聞いてくださってありがとう﹂とこぼ れるような笑顔で答えた。彼女の作品には、黒人の子ど もが希望を捨てずにみずから生活を創造する視点が貫か れているが、彼女の作家としての資質や児童文学という 分野とも関係しているかもしれない。 黒人が何を書くのかということでは、ノーベル賞作家 のトニ・モリソンは全く対称的である。彼女は藤本和子 さんの秀逸なインタビューの中で、自分たちの人種であ る黒人を美化するために書いたり、自分たちのところに はどれほどすばらしいものがあるかを書いてみせたりす ることは、きわめて陳腐でつまらないことだと言い切っ ている。黒人のイメージを傷つけ、異様で否定的な面ば かり描いているという一般的な批判にたいしては、イ メージなんてそもそも紙ツベラで実質がない、自分の娘 をレイプする最悪の男でもその時点では実体的なひとり の人間として理解できる、それは家へ給料を運ぶ当たり 前のいい父親を書くよりずっと重要なことだ、すばらし い黒人の父親は無数にいるが、それは私の関心事ではな い、私は人種差別がどのような影響をおよぼすものか、 人間の内面を殺す破壊力を発揮するものかを描き・たかっ こベる た、と答えている︵インタビューは朝日新聞社刊﹃青い 11

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眼 が ほ し い ﹄ 一 九 八 一 年 に 収 録 ︶ 。 部落解放運動が、差別によって傷つき、損なわれたも のを直視することをやめたのは、いつからなのだろうと 私は今でもこだわっている。部落差別の現実を雄弁に語 ることは歓迎されても、差別がおよぼす心理的な影響や 共同体の矛盾を指摘することが非難されるようになった のはなぜ、だろう。部落の普通の父や母を日本一の親とし て美化したり、共同体の暖かさだけを強調する風潮はど こからでてきたのだろう。江戸時代の飢謹でも部落では 赤子を間引かず人口減がなかったのは、部落民が崇高だ ったからだという一方的な歴史観がなぜつくられたのだ ろう︵重税に苦しんで赤子を間引いた農民は人間性が低 かったのだろうか︶。解放教育の研究集会報告書を検閲 し、親や共同体の課題追求から眼をそらさせるようにな ったのはなぜなのだろう。すべてのなぜから眼をそむけ ず、部落差別が人の心に及ぼす陰を明らかにしていくこ とは、被差別部落というたぐいまれな共同体で生きるこ とができた私の人間としての証しである。 ︵

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︶ マイノリティの共同体で生きること 外からマイノリティの課題を指摘する場合、正論であ っても内部の状況とズレている経験を何度もしてきた。 このズレはマイノリテイ共同体の課題を共に考えるとき に一番むずかしい問題かもしれない。アメリカには﹃エ ボ ニ

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﹄という黒人読者を対象にした人気雑誌があるが、 黒人ばかりのコミュニティに住み、黒人が多い公立高校 に通う黒人の少女から悩みごとの相談が載った︵一九九 六 年 一

O

月号︶。﹁私は肌の色が薄く学校での成績も悪く ない。しかし、学校でもコミュニティでも黒人の仲間か らオレオと軽蔑される、どうしたらみんなのいじめはな くなるだろうか﹂という相談だった。﹁オレオ﹂はまわ りがチョコレートで白いクリームが中にはいったケ

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キ 、 外見は黒人でも中身は白人という侮辱であり、同じよう にアジア系にはバナナ、ネイティブ・アメリカンにはリ ン ゴ と い う 侮 辱 が あ る 。 回答は﹁あなたがいじめられるのは、肌の色が薄いか らでも、勉強がよくできるからでもない。あなたは肌の

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色が薄くて成績がいいから、仲間より上だとどこかで思 っているのではないか。学校やコミュニティでのあなた の態度を振り返ってみると問題は解決する﹂というもの だった。この回答ではいま苦しんでいる少女になんの救 いにもならないどころか、仲間はずれを肯定していると もとれる書き方ではないかと私は憤慨した。白人の友人 に読ませるとまったく同じ反応だった。 その後チェイニ

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の大学院にはいってから、 ク ラ ス メ

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トに意見を聞く機会があった。彼らの反応は﹁あな たたち非白人の反発もよくわかる。しかし私は黒人とし てこの回答者の指摘の正しさを感じている。単純な相談 に見えるかもしれないが、これはコミュニティで生きる 思春期の黒人にとって非常に根の深い問題。孤立してい る少女も排除している子どもたちも、いま必死で人種的 な自覚と闘っている。自分は何?という個人としての アイデンティティと黒人であるという人種的なアイデン ティティの葛藤に苦しむ生徒を教員としてたくさん見て きた。私だったら、無理に友達に受け入れられようと思 一人ぼっちでもいいと考えることが大切なと わ な い で 、 きもあるとアドバイスしたい﹂というものだった。 しかし、﹁私だったら、それがあなたの兄弟。黒人は いつも仲間の足を引っ張るものです。ハツキリ言う﹂と 一言った人もいる。彼女は黒人の隣人が多い北フイラデル フィアの一角に住んでいるが、知り合ったばかりの頃、 彼女が住むコミュニティについて聞いたら﹁隣人の誰か がちょっとお金をかけて家を改造すると、次の日から、 道路のゴミや落ち葉をみんながその家に向かって掃くの。 それが私のコミュニティ﹂とニコニコしながら言った人 だ。﹁そこまで言うの﹂と言いたそうな顔をしている私 に﹁白人や東洋系が改築してもそんなことはしないと思 ぅ。彼らの家がきれいになってもどうということはない。 第一彼らは仲間ではないし、近所に住んでいること自体 もともと面白くないんだから﹂と付け加えた。 チ エ イ ニ

l

の大学院は黒人の住民が多い西フイラデル フィアにあるが、そこに通ううちに人種問題はつくづく コミュニティ︵共同体︶の問題と関係していると思うよ うになった。黒人コミュニティのなかを走る時、黒人以 外のドライバーはどこか遠慮したようなところがある。 信号無視、無理な割り込み、二重駐車などアフリカ系ド こベる ライパ!のマナ

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の悪さに迷惑しても、誰もクラクショ 13

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ンを鳴らさない。そこが黒人の居住地区で相手が黒人だ からであろう。ウッカリ鳴らしてすごまれたら困る ιし 、 最悪の場合、発砲されるかもしれないという気持ちもあ ると思う。私も一度だけ、道路でふざけていた若い黒人 の女性グループにクラクションを鳴らした。もちろん短 く控えめに鳴らしたが、それを聞いた一人が運転席の私 を見るなり大声でののしり、肩一にかけていたリュックサ ツクで思いきり運転席の窓ガラスをたたき、だした。別の 女性二人は私の車のボンネットをパンパンたたいて奇声 を上げている。ドライバーが黒人だったらそんなことは アジア系に対する反発がと くに強かったのかもしれない。しかし若い彼女たちに ﹁ここは私たちの領域。ここを通る時はそっちが遠慮す しなかったかもしれないし、 るべきだ﹂という気持ちがあったことはたしかだろう。 ︵

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︶外の世界と部落の中の﹁落差﹂

一 九 七

0

年代の中頃、被差別部落に住み始めてまもな くのことだ。大阪市から補助金がでる部落の銭湯は安く て設備もいい。毎日そこを利用したらずいぶん家計の節 約になるので、線路の向こうからはるばる入りにくる人 が何人もいた。銭湯に来るまでけっして部落の中に足を 踏み入れようとしなかった人たちなので、彼らの差別的 な態度を昔から知っている部落のお年寄りは﹁よりによ って風日に来るとはなあ﹂としみじみ言った。ある日、 ムラの者があとから来る身内のために場所を取っておい たのを知らずに、そこに腰掛けて水道を使いだした外の 住民がいた。浴槽から上がってきた若い女性はそれに気 がつくと大声でどなり、﹁銭湯で場所取りはおかしい﹂ と抵抗したその人になぐりかかったのである。番台やま わりの人が止めてひとまず収まったが、私はショックで 口も聞けなかった。当時は誰がムラの者で誰がよその者 かわからなかったので、仲の悪い部落の人同士のケンカ だと思い込んだのである。いくら仲が悪くても子どもも いる銭湯であんなケンカをするとは、ここは何というと ころなのとふさぎこんで帰ったが、夫に聞いて事情がの みこめた。お湯をかけてなぐりかかった若い女性は部落 のなかでもトラブル・メーカーだったが、︿差別的な態 度で﹀銭湯だけ利用するよそ者に日頃からむかついてい たのである。彼女が殴りかかる前に﹁なんやねん!

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の目っき!﹂とどなる声を私もハッキリ聞いていた。住 田 は ﹁ あ の 子 が 変 わ る と き 、 部 落 は 解 放 さ れ る ﹂ と 言 っ た 。 地区外の人は﹁目つきが気に入らない﹂と言われでも 日頃から﹁部落ばかりなぜ良くなるの 困 る だ ろ う が 、 か﹂という反発はあったかもしれない。人情の機微に関 して非常に敏感な部落の人たちがパ外の人間の言葉や態 度を侮辱と受け止める心理には今でも面くらうことがあ る。同和保育所の保護者組織の役員会で総会の議案書づ くりの分担を決めていたとき、高校も卒業しきれいな字 を書く役員が、どうまとめたらいいのかわからないと言 いだした。私は﹁議案書は総会での議論が目的。要点が わかればいいから、簡単にまとめたほうがいい﹂と言つ て、時間もなかったので紙に要点の例を書いて示した。 間もなく彼女が﹁みんなの前で恥じをかかされ、簡単な ことでもできないかのように言われた﹂と泣きながら訴 えたことが聞こえてきた。その人は日頃、子育てのこと などでほかの母親に自信をもってアドバイスをしていた ので、そういう人の前で﹁簡単でいいのよ﹂とアッサリ 言われたことでプライドを傷つけられたのだろうか。 ﹁そう、あなたは簡単なことができなかった。まとめ方 を学ぶいい機会になったと感謝したらどうか﹂などとい う 正 論 は 通 ら な い 。 外部の人のささいな言動が、たとえ常識や良識のレベ ルであっても、部落の人の怒りをかう場所に何度もいあ わせた。もちろん私自身もいくどか当事者になった。そ れはほとんど、外の世界と部落の中の﹁落差﹂が原因に なっていたと思う。外では常識かもしれないが、ここで は通用しない、部落の実態も知らないでそっちのモノサ シでものを言、つなという怒りである。ある同和保育の大 会で出身者ではない研究者が﹁保育所にブランドものの 服を着せてきて、汚したといっては保母さんに文句を言 ぃ、子どもをどなりつけるようなことは考え直さなけれ ばいけない﹂という当たり前の助言をした。しかし、部 落の母親が立ち上がり﹁私達は子どもの頃、みすぼらし い身なりをしていたためにどれほど差別されたかわから ない。そのことが忘れられないから、子どもにはいいも のを着せてやりたいのだ。先生はそこをわかつて今の発 言をしたのか﹂と泣きながら問い詰めた。﹁ああ、また か﹂と私はうんざりしたが、助言者は﹁とくに部落だけ 指して言ったわけではない。日本中そういう傾向にある こベる 15

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一般論として言ったまでだ﹂と当惑しながら説明 した。すると、待ってましたとばかりに﹁部落問題を一 か ら 、 般論で片付けられたら困る﹂﹁子どもにいい物を着せて やりたいという部落の親の気持ちは、一般地区の親とは ちがう﹂と次々に怒りの声が続き、その研究者は﹁そう いう気はなかったが、皆さんを傷つけたことは深くお詫 び し ま す ﹂ と 謝 罪 し た 。 当時私は、部落の親はどう自己変革するのかという危 機感にとらわれていたので﹁なぜ謝るのか。同和保育の 研究会の助言者に呼ばれたあなたは部落の同和保育所の 実態を知ってその発言をしたはず。幼児教育のプロとし て子どもの立場で言ったのだから譲れないとなぜがんば らないのか﹂と前の母親たちと同じような激しさで聞い 詰めてしまった。︿もう一人の﹀部落の親からまったく 違う怒りをぶつけられて、彼女はさぞかし当惑したこと だろう。,そこに参加していた教員からあとで﹁でも、あ そこで彼女が謝らなかったら、前に進めないでしょう﹂ と言われたことが忘れられない。しかし彼女が謝って何 か前進したのか、私は今でも確信がない。司会をしてい た部落申身の女性活動家は﹁部落の実態を知らないで評 論家風に発言することは慎もう﹂としめくくった。 住吉の女性部の先輩たちと泊りがけの研修に行った時、 私はその経験を話した。ひどい差別を受け、字の読み書 きを習う機会のなかった人も多い。﹁子どもに高い服着 せて保育所に行かせるなんでもってのほか。保育所には 決められた遊び着がある。自分たちが服で差別されたか ら子どもにいい服着せたい一言うなら、ムラの中の同和保 育所で誰が差別する。アホな親の競争心に迷惑してるの は子どもじゃ﹂とみんな口々に言った。しかし自分が買 ってやった孫の服のことだったら、ここまで冷静に言え るだろうかという疑問はある。問題が身内にかかわると、 とつぜん態度が変わる人たちをたくさん見てきたからで ある。コミュニティの課題を考える上で非常に重要な部 の問題だが、次の機会に譲り 落 民 の 身 が ち ︵ 身 び い き ︶ 事 − 、 ‘ 。 ナ 人 ・ ν 誰も私を部落民とは認めていない。しかし、生きるた めの新しい視点、部落差別について書くための新しい言 語をそこで獲得した私の再生の旅は、部落民と呼ばれる 人が住むその地に向かっていることはたしかである。

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直胃レ h ’ 寸 口 店 時 l − ノ 一 言 同 マ熊本地裁のハンセン病判決と政府 の控訴断念をきっかけにして起こっ た洪水のごときハンセン病報道を見 聞きしながら、この国は相変わらず だなあという思いから抜け出せない ままにいます。ハンセン病について 関心を寄せていた人がこれだけ多い とは知らなかった。なにもエエ格好 一 種 の していってるわけではない。 ブーム的な雰囲気に違和感があるの です。ま、しかしわたしもえらそう なことはいえない。二十余年前テレ ビの報道番組で、岡山県邑久町長島 に橋をかけてほしいと訴える元患者 の話を聞いてから、やっとハンセン 患 志 病 者 『 に た 差 関 91 ち 別 心 年 の 者 を 増 苦 の も 補 闘 ボ つ 版 の ク さ ) 言 己 に つ や 時 捧 に 街 二 』 げ な i ;'"'るり 雄 晩 ! 二 聾 | 三 詩 社 ラ 宅 、 イ ー 沌 年 。 趨根在写真﹃ライは長い旅だから﹄ ︵ 陪 星 社 、 目 ・ 7 ︶ を 読 ん だ り し た の ですから。﹁一フイは長い旅だから/ 今日が明日へつながると信じていい /ある詩人は、﹁ライ者は来者﹂と 書いた/もはや失うべくもないボク らにとって、旅は/侵されてもなお 不遜なる実在/やがて祖国が自らを 解き放した日/きっとボクらを見出 差別問題とは、非差別者問題そのも のなのである﹂と書いている。世間 の無関心への著者のいらだちがうか がえます。たしかに熊本地裁の判決 と政府の控訴断念は時代の変化を示 しているといえるでしょう。問題は、 ﹂れまで元患者たちの訴えに心を開 き、心を向けてきたかどうか自らに 問うことでしょう。時流に乗ったり、 ラゲラ笑って、この旅をゆく。﹂ すにちがいない/だからときにはゲ時流に身をまかすだけではつまらん 印と思いますね。 年代から同年代にかけて撮影された モノクロ写真の迫力に息を呑みまし た。三宅一志さんは前掲書の﹁あと がき﹂に﹁私の結論は明確である。 ﹁内なる差別意識を問え﹂というこ とである。共同体の一人一人が自ら の差別者性を自覚し、差別を自分自 身の問題として考えることが、差別 解消の第一歩になるのである。︵略︶ マ第四回部落問題全国交流会の詳細 が決まりました。京都の九月はまだ 暑さが残りますが、ぜひお出かけく Z − L ー ミ o ナ ム ム 己 ・ ν マ﹁人間と差別﹂研究会はしばらく お 休 み に し ま す 。 ︵ 藤 田 敬 こ 編集・発行者 こベる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所京都市上京区衣棚通上御霊前下jレ土木/下町73-9阿昨社 Tel. 075 414 8951 Fax. 075 414 8952 E-mail: [email protected] 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 010107 6141 第100号 2001年7月25日発行

乙べ(~

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佑 藤

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− 部 落史 を読む A 座 談 会 ・ ﹃ 京 都 の 都 港 史 ﹂ を め ぐ っ て ︸

1

歴史の中に自然と人間の営みを考える

網野 善 彦 + 藤田敬 一 + 師 岡 佑 行 部 落 史 絹 纂 の き っ か け / 進 歩 史 観 か ら 落 ち こ ぼ れ た も の | 差 別 史 研 究 の 意 味 / 西日本と東日本 / 近世政治起源説の背景 / 部 落 史 の 本 史 と 前 史 / 郵港史研 究 の 視座/時代区分をめぐって/歴史の中の 自 然 と 人 間 | 既 成 の イ メ ー ジ を 闘 う / 日 本 史 の 常 識 を 疑 う / 近代人の錯覚 / 腹 民 と い う 言 葉 / 人 間 へ の 眼 差 し の 問 題 と し て / 腹 視 と 特 権 / 中 世 か ら 近 世 へ / 政 治 権 力 を ど う 見 る か / 暮 し の 中 の 交 り / 非人とかわた / なぜ町をムラと呼ぶか / 新 し い 部 落 史 像 へ / 叙述への注文

2

豊か

井 上 清 + 藤田敏 一 + 師 岡 佑 行 な ぜ 水 平 社 が 京 都 で 生 ま れ た の か / 都港 H 貧困雛への疑問 / 融 和 事 業 の 重 要 性 / 権 力 を ど う み る か / 素通りした戦争責任 / 知 ら れ ざ る オ l ル ロ マ ン ス 事 件 − 部 落 史 を考えるた め

E

1

日本中世における聖別と賎視の諸相

網野善彦 日 本 と い う 国 号 / 列島における国家と社 会 の せ め ぎ あ い / 触 繊 観 念 の 制 度 化 / 聖なる者の奴縛 / 職能集団の形成 / 神 仏 の 奴 縛 / 亙女と博打 / ﹁ 東 国 国 家 ﹂ の 独自性 / 畏 怖 か ら 忌 避 へ / 鎌倉仏教と ﹁ 悪 人 ﹂

2

誕 生 か ら 葬 送 へ 績 井 清 稀薄化した部落のイメージ / 歴史を揚るという こ と / 産 襲 と 隠 亡 / ﹃ 蘭 学 事始 完成の頗末 / 歴史や文化への豊かな想像 − 歴史と 現 実の狭間

体験的部落史像

部落史の原風 景 / 公認された部蕗史像 / 部 落 史 と の再会/部落史像の転換に向 け て

A5 判 ・ 二 二 八 頁 ・ 定 価 ︵ 本 体 二 四 O O 円 + 説 ︶

阿昨社

京 都 市 上 京 区 衣 舗 通 上 御 霊 前 下 ル 上 木 ノ 下 町 七 三 l 九 百 円 O 七 五 ︶ 四 一 回 1 八 九 五 一 間 ︵ O 七 五 ︶ 四 一 四 l 八 九 五 ニ

OO

号 二 OO 一 年七月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎月 一 回 二 十 五 日 発 行 ︶ 一 九 九 三 年 五 月 二 十七日第 三 種 郵 便 物 認 可 定価 三 百 円 ︵ 本 体 二 八 六 円

参照

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