指定研究
龍谷大学図書館蔵
﹃
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の研究
研 究 員端
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明
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南北穀類の内乱を題材として措いた﹃太平記﹄全四O
巻は、歴史文学として最も長編で島り、それだけに同じ軍記物の﹃平家物語﹄と比較する と作者の視点に一貫性が欠けているといった指掠や、文学作品としての完成度が未成熟であるといった指摘がこれまでなされてきた。しかし、南 北朝期という混沌とした流動的な時代の時代状況をみごとに表現していたり、登場人物を生き生きと描いている点などは﹃太平記﹄のすぐれた特 徴である。加えて後世に与えた影響は甚大であり'、それは以後の軍記物にだけではなく、仏教説話集や謡曲、幸若舞、調伽草子、浄瑠璃などにも正 俊 吉 誠 真
幸
} 乱 分 之 潔 文 希 強 宏 男
及 ん で い る 。 この﹃太平記﹄の諸本についての研究は、現存する写本約五
O
本、抜本三O
種の伝本を、巻二十二の有無やその取り扱いをめぐって、甲類・乙 類・丙類・7
類の四類に分類する方法がとられている。龍谷大学図書舘所蔵の﹃太平記﹄は、室町時代末期の写本で、巻一i
巻十こまでの十二部 本であるが、現在の分類では丙類の天王本系統に分類され、その中でも国立回出会密書館蔵義輝本と毘じ祖本をもっ伝本であるという位置付けがな されている。しかし﹃太平記﹄は、その分量も多く、結部に一旦って比較検討することはいまだ出来ていないのが現状である。しかも、近年学界で は、従来の研究を見直し、新たな分類を立てて研究すべきであるという提唱もなされている。そのためにも各機関に所蔵する貴重な伝本について は、それを影印乃至は翻刻をして公刊し、各資料を提供する必要に迫られている。そういった要請に本学も近々に応えるべくその準舗をしている が、本稿では本学関書館蔵の﹃太平記﹄の書誌及び伝本の泣置を再検討すると共に、 ﹃太平記﹄の新出の古筆切について報告することにする。 ( 大 取 馬 ﹀龍谷大学大宮図書館寓字重文庫蔵﹃太平記﹄解題
書
号土 Eおじ、 龍谷大学大宮図書賠寓字蓋文庫蔵﹃太平記﹂ 一二巻の書誌は以下の通りである。請求番号O
一二・三七0
・一二、縦二八・八糎、横一二・六糎、 袋毅本一二冊、表紙は無地の紺表紙、表紙中央の題祭に﹁太平記ご (数字は巻数により変わる﹀とある。 一 一 捕 に 一 巻 で 、 一 二 巻 、 一 二 一 端 で あ る 。 各部昌次(第一一捕はなし、第五罰・第十二一樹は本文冒頭の丁)の右下に﹁寓字蓋之議書﹂の精円形朱印がある。 ﹁寓字蓋文意﹂は本顕寺第二十世 広如(一七九八 j 一八七一﹀が整理させた、歴代宗主収集の蔵書で為る。了数は左表に示す。 龍 谷 大 学 密 書 館 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 七龍谷大学園書語意﹃太平記﹄の研究 /¥
草壁冊草冊史実冊宅実豊冊
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二 一冊 冊 帝 脅 骨 骨 冊
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奥 書 は な く 、 一 一 面 有 数 は 一 一 行 、 一 行 二 五 字 J 三二字の漢字片仮名交じり文の一筆書写で、胃筆の付訓がある。字体は、漢字が大きく、片復名 は漢文の送ち仮名とほぼ再程度の大ききであり、同系統の義輝本や野毘本に比べると、漢文体に近い。虫食いは本文判読に支障のない程度である。 本文の各章段名の上には朱点ハム﹀があり、人名、地名、官職名、書名、他文献よりの引用漢文等に、朱線が引かれている。 一 冊 目 の 目 録 に よ り 、 全四O
巻であったことがうかがえるが、 一 三 巻 以 降 は 欠 け て い る 。二、天正本系諸本との比較
龍谷大学本は、高構貞一氏の﹁太平記諸本の研究﹄において﹁西本願寺本﹂とされているものであり、先学の諸氏によって、 彰考館蔵天正本(巻一 J 巻四0
・ 天 正 二O
年︹一五九二︺書写の奥書﹀ 国会図書館蔵義輝本(巻二、巻四O
欠・室町末期写) 内閣文庫蔵野尻本(巻一 J 巻四二、巻三欠・天王六年︹一五七八︺書写の奥書﹀ と共に天王本系統の一本に位震づけられている。天王本系諸本は太平記諸本において、最も特異な本文を持つものとされてお号、昨今その性揺が 明らかにされつつある。調えば長坂成行氏は従来の、 主として巻数などの外形による藷本分類ではなく、表現や帯想、思想による分類をするとな ると、天正本系と流布本系という二つに大加できるのではないかとされている。そうした天正本系諸本のなかで、最も遅くに紹介された龍谷大学 本 は 、 ﹃新編日本古典文学全集 太 平 記 ﹄ ( 小 学 館 ) や長谷肝端氏翻刻﹃天正本太平記﹄ ( 一 ﹀ J 合 一 ﹀ ( 中 京 大 学 ﹃ 文 学 部 紀 要 ﹄ 第 三 七 巻 一 号 、 第 三 七巻三号四号合併号、第三八巻一号、平成一四年J一五年)において校合に使用されているが、 巻二ニ以降を欠くためか、 積極的に論じられたものは見 あたらず、長谷別端氏が西本のうち、龍谷大学本と義揮本とが近い関係にあるとされ、共通の祖本を想定できるとされているにとどまる。以下、 その他の天正本系三本との比較を中心に、龍谷大学本の特設をみていきたい。義輝本は、高橋貞一 ﹃ 義 輝 本 太 平 記 ﹄ ( 一 ﹀ j ( 五 ) ( 勉 該 在 ) を 、 野尻本は内麗文庫蔵(整理番号特一O
O
i
一 一 ) の 紙 焼 き を 、 天正本は﹃新一編日本古典文学全集﹄(各巻末む校異表により本文を特定した)を使用する。異 体字・旧字は適宜改めた。 争龍谷大学本・義輝本・野見本と天正本 四本を対照したとき、龍谷大学本と近いのは義輝本・野尻本であり、最も遠いのは天正本であると言える。例えば巻第四﹁復興産来襲参内事﹂ (九丁ウ・五行自 j 八行吾﹀の一文を表にすると左のようになる。 龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 九龍谷大学国書館蔵﹃太平記﹄の研究 二
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厳セ 守禦 頓4:コ 恥ナ 是朝吾 徴々 套苧乍与 ノレ参内 リ ノ 金蘭台イ仕卿公九出 ル ナ 龍 谷 大 学 本 セ 程 、 備 ベ ノ ラ ラ エ ヲ ニ ニ ヲ シ ム 儀式ノ ノレ及待懸列産レ奏シ 馬 ト ハ 、 テ 楽 モ ノ テ タ シ ヲ 粧 P テ ヲ 禅 既 参内 夜深ノレ 師ノ 文堂上人 伶倫階下l
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備蘭馬金台 公卿九仕出 ベ ノ ラ / フ一 ニ =ブコ ニ ーー プロ キy γ,、 ,ム 儀式 輝 ノ レ 及 待懸 列産 レ奏シ 、 テ 楽ヲ モ ノ テ 本 タ シ 粧 リ テ ヲ 禅 既参内 夜深ノレ 師ノ 文上人堂 下伶倫階 厳セリ 守禦ノ 刷蘭金台二
恥ノナレ 是朝吾 徴々ナ 套事乍与 野 セ 程 参 内 、 備 仕公九卿出 ベ ノ ラ ラ ニ ヲ ニ ニ ヲ 馬 シム長
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一 日食登臨 ニ ノ ハ 義 フ/、 花 無 テ 月 内 関 賛 イ ヲ ニ ニ 輝 ヲ キ ハ 酔 ? 携 雲 興 緊 ン 時 フ ヲ シ 本 ア 方 、 分 給 ソ ニ ー へ 無 段 雰 軒 濁 夏 輩蕗 キ 望眺 輿ニ 軒ノ 半窓 或時 ニ ノ 代 夜一
一 登臨 関 ノ ハ 野 フ ハ 花 無 日食 ニ 内 関 、 登 テ ニ 月 ニ ニ 尻 ヲ キ ヱミ ヲ 雲 興 家 ン触時 携 ヲ シ 本 ア 方 分 給 ソ テ へ ナ ニ 乗レ ー 燭 夏 月 Iて 春i│ 輩路なき望、登臨 月 雲 給 あ に の な 履 の 携を を へ る 代 夜 き 議 日 に 喰 」 分け ば 持 天 ふ は は、花なき へ ふ 、 は は て 時 。 半 関 正 蟹 し、麗麿 云 に 興 一 家を は 触 に 軒 窓 か 本 宮 行 を│i│ 方んぞ る 乗 じ の の に め 埋 眺る 関 内 興 て に み て に に じ 巻第四の﹁呉越戦ノ事﹂ (二九丁オ・五行自 j 七行自﹀で、旦︿王夫差が西施と遊興にふける様を叙述した記事であるが、天正本の鋳隷の笛所が 上三本にはない。路に﹁花﹂がないので﹁壁﹂を以て﹁濁﹂に代えるとする上三本法不自然である。天正本にあるように、 ﹁ 花 ﹂ は ﹁ 春 のE
﹂の こ と で あ り 、 ﹁震廃﹂を以て花の香、つに代えたとするのが自然であろう。そして、登は﹁月﹂ の光の代わちということになる。本来は天王本のよ うな形であったのではないかと推挺されるが、少なくとも、 上三本が共通の担本から分かれたもので怠ることは指掃できる。その他随所にこうし 龍谷大学図書館蔵﹃太平記﹄の研究龍谷大学菌書舘議﹃太平記﹄の研究 た笛一所が見え、龍谷大学本の本文は義輝本・野尻本と近く、天正本とは遠いと判定される。 ②義輝本との関係 龍谷大学本と義輝本、野尻本は近い関保にあるが、 さらに分類すると、義輝本が最も近い。例えば巻第五﹁光厳読御却金事﹂(三了オ・四行自﹀ に﹁関廿八
E
改一克ノ定有テ正慶元年ト号セラル、是ハ左大弁三月ハ什U
鄭 ﹂ と し て 、 ﹁三位﹂と﹁麹﹂の関に密字分の空白があり、義輝本も関 様である。対して野尻本は﹁三位ノ購﹂、 天王本はご二位冬鶏﹂とし、 空白は見られない。 ﹃弁官構任﹄によると、一克弘二年(二三三一﹀三月の 時点での左大弁は正四位上藤原長光であり、三位ではない。天正本は﹁冬﹂としており、三位左大弁で﹁冬﹂に該当する最も近い人物は藤原冬定 であるが、在任は嘉賢二年(一三二七﹀と離れており、未詳と言わねばならない。龍谷大学本と義輝本の空白に記述されるべき本文は不明だが、 いずれにしてもこの空白は、再本の親本から受け継いだものと判定される。龍谷大学本と義輝本の兄弟性を示す事例立多数克えるが、次に示すの はその親本の性諮をうかがわせるものである。巻第 ﹁東夷調伏事﹂冒頭部分(一八ウ・二行自)であるが、 @ 一 克 亨 二 年 ノ 春 ノ 比 ヨ ワ 秩宮御壊娃ノ錦析 ト テ 、 ③ 一 克 亨 二 年 ノ 春 ノ 比 ヨ ワ 秋宮御懐妊ノ御摂 ト テ 、 争元亨二年 春ノ比ヨリ 萩宮御懐妊ノ御祈 ト 一 ア 、 品 。 一 克 亨 二 年 、 春 の 比 よ り 、 中 宮 御 壊 妊 の 御 祈 り と て 、 とある。龍谷大学本と義輝本は一致している。後襲翻天皇の中宮語子の安産を祈る記事だが、百本法﹁秩宮﹂とする。東宮の﹁春宮﹂に対して中 宮を﹁秩宮﹂と呼ぶことは﹁清轄集﹄ ( 私 家 集 大 成 2 ﹀ の 一 四 六 番 歌 に 、 二条院御時、中宮のおほんかたへ、夏もすふしきは秋の宮のちかきしるしにや といふ心のうたさしをかせ給へりける返を如一房にかはりて、 むかしよりきよくすふしきゃとのうちに秋の宮ゆへと思ふへしやは とある。他系統の神田本、玄玖本、 西源院本ないずれも天王本と詞じく﹁中宮﹂とする。どちらの表現が先行するのかは不明だが、野尻本の﹁萩宮﹂は﹁秋宮﹂から展開したものだとすると、 天正本系統の祖本の当該箇所は﹁秋宮﹂で告のった可龍性が高い。天正本系諸本の地の文に和歌表現 が多用されていること辻販に指摘されていることだが、龍谷大学本と義輝本の親本はそうした領向を残していたと考えることができる。同様の到 として、巻第四﹁一宮妙法毘配流事﹂ 龍学大谷本 サレトモ都ヲ御出ノ 日ヨリ千百ノ護摩ヲ 始テ一人ノ御祈一一 哲 言 サ セ 給ケルトカヤ、 特苑花田ノ玉ノ砲ヲ立 給 ヒ 、 浅猿敷キ蔑量一一遷住セ 結ヘハサコソ御意ヲ傷 シメサセ 給ラント 推 量 レ テ 哀 ・ 也 、 ( 八 ウ ・ 二 一 行 自 j 密 行 自 ) を 挙 、 げ る 。 義 輝 本 サレトモ蔀ヲ御出ノ 日ヨリ千 E ノ護摩ヲ 始テ一人ノ御祈ニ 封 一 五 同 サ セ 給ケルトカヤ、 特苑花照時ノ玉ノ碍ヲ立 ハナレサセ 給 ヒ 、 浅猿敷キ惑星一一遷往セ 結ヘハサコソ街意ヲ傷 シメサセ 給ラント 推量レテ友也、 龍谷大学図書舘蔵﹃太平記﹄の研究 野 尻 本 サレトモ蔀ヲ御出ノ 日ヨヲ千 E ノ護摩ヲ 始テ一人ノ御析-一 者 百 サ セ 給 ヒ 、 浅猿敷キ蔑屋一一遷住セ 給ヘハサコソ御意ヲ毎 シメサセ 給ラント 推量レテ哀也、 天 正 本 されども、都を御出の E より、千呂の護摩を 始て一人の御析に 誓はれさせ 痛はしきかな 竹苑花宮の玉の磁を立 ちはなれさせ 給ふらんと 推し量られて哀れなり、
一
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龍谷大学図書館議﹃太平記﹄の訴究 二回 涜罪となった妙法院宮が備前田ヘ向う擦に千
E
の護摩を行ったという記述である。龍谷大学本と義輝本は一致しているが、野尻本は傍線の笛所 が抜けており、天正本は二重傍様の箆所が抜けている。玄玖本、西源院本の該当箇所には千百の護摩の記事自体がない。野尻本や天正本の形から 見て、都(接線部)と配流地(二重傍隷部﹀の形容を対句仕立てにしている龍谷大学本や義輝本のような形が、天正本系統の祖本に近いので誌ないか と考えられる。天正本系統の特色として、地の文に和歌表現が多いと言うことは既に述べたが、こうした文飾もそうした性諮に沿うものである。 龍谷大学本と義輝本には窺本を想定しうる。その窺本が、天正本系統の祖本の形なのか、そしてその本文が、位二本に先行するのかどうか誌襲 重に判断しなくてはならないが、龍谷大学本の存在は、天正本系統の分類を進める一坊となると考えられる。天正本系西本の詳しい比較、考察は 後考に侯ちたい。 参考文献 ①高構貞一﹃太平記諸本の研究﹄(忌文語出張・昭和五五年)、 記﹄一;五(勉議社・昭和五六年﹀ ②加藤宏﹁太平記享受史論考﹄(桜楓社・昭和六O
年) ③長坂成行﹁天正本太平記成立試論﹂(﹃園語と園文学﹄昭和五一年三月号﹀、 ﹁天正本太平記の性格﹂令奈良大学紀要﹄第七号・昭和五三年)、﹁天正本 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 巻 頭 記 事l
巻二・巻五をめぐってl
﹂ ( ﹃ 奈 良 大 学 紀 要 ﹂ 第 一O
﹃ 義 輝 本 太 平 号・昭和五六年﹀、﹁天正本﹃太平記﹂の特質(﹃新編日本古典文学全集﹄ 1 月報・平成六年)、ヨ太平記﹄誇本研究の現在﹂(﹃軍記と語り物﹄第三三 号・平成九年﹀、﹁天王本﹃太平記﹄の或立i
和歌的表現をめぐってi
L
②長谷別靖氏翻刻﹃天正本太平記﹄(一﹀ J 2 0 ・ 中 京 大 学 ﹃ 文 学 部 紀 要 ﹄ 第三七巻一号、第七三巻三号四号合批判号、第三八巻一号(平成十四年 j 十 五 年 ﹀ 浜 問 問 ' t h ド 圭 五 ロ ﹀太平記の古筆切について
t土じ
め 古筆切研究の範酉が、学書の対象となり得る﹁平安時代の仮名﹂の遺品に一舗在していた時点で、 いち早く、学書の対象としては見向きもされなかった中世期書写の仮名散文の古筆切資料の重要性に着百されたのは藤井隆氏であった。 藤井氏は﹁物語系古筆切について(一﹀ j ( 三 ど ( ﹃ 名 古 屋 大 学 習 語 国 文 学 ﹄ 七 ・ 八 ・ 一 四 、 昭 和 三 五 年 一 二 月 ・ 昭 和 三 六 年 三 月 ・ 昭 和 三 九 年 二 一 月 ) に お い て 、 睦続と中世期書写の訳名散文の古筆切資料の体系 的整理の努力を継続されており、その後それらは断片的に留別論の次元に昇華するに至っている。更に、藤井氏は本稿の主題である﹁太平記﹂と は最も密接な関連が想定される﹁戦記物語の古筆切について﹂ ( ﹃ 名 吉 墨 書 立 大 学 教 養 部 紀 要 人 文 社 会 研 究 ﹄ 一五、昭和四六年三克)も発表しておられる が、そこには太平記の古筆切は含まれておらず、稿者の管見の範囲では、現時点では古筆切研究の立場からの太平記の古筆切に関する言及は皆無 で あ り 、 わずかに、太平記の本文研究の立場からの、 ー長谷川端氏の﹁管見記・太平記断簡﹂ ( 矢 野 貫 一 氏 他 編 ﹃ E 本 文 学 説 林 ﹄ 和 泉 書 院 、 昭 和 六 一 年 九見合太平記 創 造 と 成 長 ﹄ 三 弥 井 書 宮 、 平 成 一 五 年 三 月 ﹀ に 再 録 ) の 紹 介 と 、
E
長坂成行氏の﹁﹃太平記﹄諸本研究の現在﹂付属の﹁伝存﹃太平記﹄写 本 一 覧 ﹂ ︿﹃軍記と語ち物﹄三三、乎或九年三月﹀の﹁八ごに存在が示愛されている﹁天理国書館吉田 抄出本断簡一枚、廷蜜寺由来等﹂と、車問じ く長坂氏の﹁管見﹃太平記﹂写本二、 一 一 一 i 伝 存 写 本 一 一 覧 、 ﹁出羽家文書﹂の中の巻一六末尾の最終7
の断簡などの存在を知り得たのみで為る。 議遺i
﹂ ( ﹃ 設 古 ﹄ 四 六 、 平 成 二 ハ 年 一 一 一 見 ﹀ の 第 四 節 で 言 及 さ れ て い る 山 口 県 文 書 館 蔵 の しかしながら、これらのliE
に つ い て は 、 ﹁ 零 本 ( 零 巻 ) ﹂ より狭義に﹁手鑑などに収載するために古写本が分割されて、それぞれに ( 3 ) 古筆話称が付加された﹂との条件下に派生した一般的な﹁古筆切﹂とは性格を異にしているとの惑は否めない。また、詮こでも示唆した通り1
璽 よりも徴少な単位としての﹁断簡﹂と称することは許容されるものの、 の長衷誌の試み自体には積者も多大な意義を認めているものの、現時点で稿者がその存在に気付いている二種二棄の太平記の古筆切については長 坂氏の捨遺の網から漏れている。以上の事実は、長塚氏の調査の不備を意味するものではなく、寧ろ、各作品の本文研究に対して官報を提供すベ き立場にある古筆努研究の傑にこそ責任が存しており、本稿では、遅れ馳せながら、それらの紹介を試みるとともに、太平記以外の軍記物語関連 の古筆切についても、稿末第V
第に﹁軍記物語関連古筆切一覧稿﹂として情報提供を試みることとしたい。太平記の古筆切の意義に関する見通し
まず、稿末第V
節に掲げた﹁軍記物語関連吉筆切一覧稿﹂を参照して、太平記をも含む軍記物語関連の古筆切の伝存状況を傍敵すると、龍掲の 龍 谷 大 学 図 書 館 議 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 二 五龍 谷 大 学 図 書 揺 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 一 一 六 藤井氏の論文以降に紹介された古筆切も散見するものの、その形状から﹁絵詞切﹂であると推定される﹁長門切﹂を除けば、各軍記物語の古筆切 の存在自体が稀欝に属する点が了解されよう(但し、稿者の調査自体が﹁室町軍記﹂については精査に及んでおらず、実際に、﹁室時軍記らしい﹂ と 感 じ つ つ も 、 ﹁出典不明﹂のまま﹁一覧稿﹂に登録するに至らなかった例も若干残されており、 今後の課題としておきたい)。 以上の結果につ いて辻、古筆切資料自体が鑑御堂錨値と法不可避の事在であり、文献資料史の構成要素の中でも所謂﹁上質写本﹂のみを供給源としているとの観点 か ら は 、 予め想定し得る必然の婦結に倍ならない。 ﹁片仮名本﹂で占められているとの現状からは、最古写本に位置する﹁、京和本﹂の散侠蓄や、 と す る と 、 本一稿の主題である太平記の場合においても、 ﹁神田本﹂や﹁西源院本﹂に代表される古態本系統 その古写本の殆どが鑑賓揺値の劣る な﹁平板名本﹂であり、 の欠巻部である﹁巻一ゴごなどが、今後古筆切として新たに発見されるのではとの希望的観測は厨難であり(但し、流布本系統以外では極めて稀 加証奥書に﹁永一禄三年件冬下旬﹂との明確な時間軸を具有している﹁神宮徴古館材一の欠 本奥に﹁弘治元年強月中旬﹂、 巻部に相当する﹁巻一
O
、 一 五 、 ・ a t a 、二回﹂について辻、 ﹁零本﹂としての発克の可能性が最たるものである点は言をまたないものの、或いは、 古筆切の状態での発見の可能性もあろうかと積者は患量している)、 現時点で稽者が確認し得ている太平記の吉筆切が、 いずれも﹁乎仮名本﹂に 属するとの事実をも勘案すると、恐らく、太平記の本文研究に対して、吉筆場資料が貢献し得る可能性としては、より吉態の本文の蔀分的復元で は な く 、 ﹁片仮名本﹂が寸平仮名本﹂ へと和文化されてゆく過程の具体的徴証の提示、 つまり、太平記の本文の享受史的側面が中心となるものと の見通しを稿者は抱いている。 互伝浄通足筆切について
( 一 ﹀ 平成一四年七月に京王新宿庄で催された第五二回東西老舘大古書市の出品E
録抄の一六八番には、 ﹁浄遥尼筆、古筆琴山極札、浄通i
足利幕府 第十三代将軍、義輝の母。 M A 儲﹀八日佃﹂とのキャプションが付されて以下のような古筆切(軸装﹀が搭載されている。 ︹ 図 版l
翻 刻 ︺ 立てんかの大ちしきにておはするうへことさら記された法量以外は不明とせざるを得ないが、 そ こ に 司 記 さ れ た 歯版i たうきむのこくしとしてふけのそうきゃう たくひなかりしかはさりともかれかいのちは かりは申なためんする物をとおもはれければ さま/¥に中されけるをたふよしの島っそん 事ゆるにおこなふてはきゃうこうのせき しうたるへしとてつゐによりとををめ しいたして六てうかわらにてそかうヘをはね られけるそのおとふにしゅさいはうとて 図版
i
の努の書誌的事項については、自録のキャ。フションに 数少ない情報の中でも、当該切が古筆本家某により﹁浄通尼﹂ と鑑定されたという点は詮目されよう(但し、 極札の図版が掲げられておらず議却である可能性も残されるが)。 稿者の管昆の範囲では、 ﹁ 浄 通 尼﹂の缶称切は龍には一切確認出来ておらず(但し、 色紙類については精査に及んでいない)、 ﹁ 古 筆 名 葉 集 ﹂ 類 や 、 小松茂美氏の﹃自本書流全 史﹄に網羅されている﹁書涜系譜﹂類、 古筆本家初代了佐の門人である藤本了国が麗纂した古筆見の備忘録的存在である ﹃ 顕 伝 明 名 録 ﹄ ( B 本吉 典全集所収本による﹀などにも未登録であり、古筆の世界では全くの無名の伝称筆者ということとなる。 額向一として、このような無名の伝称筆者が宛てられる場合には、鑑定に際して何らかの摂拠が存したのではないかと想定するのが﹁常道﹂であり、 とすると、古筆伝称に対する判断の一般的 まず誌当該切の伝称の当否に関する検証が要請されよう。 ︹ 園 販 立 翻 刻 ︺ 春残 の こ る5
をかそへ出れは二季草 一 一 巨 咲かけさへにおしき春かな 浄通 龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 二 七龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 表 A 版 図 考 参 裏 二 八 ﹁ 思 文 盟 結 一 新 筆 蹟 一 短 冊
E
録﹂九号(平成三年一一月﹀の八番に搭載され 菌販E
に 掲 、 げ た 短 冊 は 、 たもので、目録のキャプションには、短冊の翻刻 や法量とともに﹁古筆了拝極、神田道祥箱書﹂と の古筆伝称に関する需報も併記されている。残念 図版互 ながら、了律の橿札については図版が揚載されて いないが、上蓋表と籍内底に一記された神田道伴の 箱書の方は図版が掲げられており、それぞれ﹁誇 通 尼 集 外 寄 仙 作 者 之 内 ﹂ 、 ﹁自詠短冊有題名 の こ る日を 道 伴 詮 之 一 神 田 道 主 ( 印 ) ﹂ と判読し得る (図該では前掲の印文末の﹁伴﹂の部分は影で蕗 れており不読であるが、捺された印自体が通常極 札の裏陪として使用されているものと同じである と思われ推読しておいた﹀。なお、箱書の記主につ ﹁道伴﹂との署名及び﹁神田道伴﹂印の 使用から﹁四代﹂か﹁七代﹂かに絞られるが、現 い て は 、 存する再者の鑑定結果の多寡には懸隔が存してお り(管見の範屈では﹁四代﹂が圧倒的に多く、小 林了可の養子である小林了安が、師家である神田 家の断絶の危機により争議後継となった﹁七会江 謹 め て 少 な い ﹀ 、 一抹の不安は残るものの、 ( S ) そのやや窮患な書試は、現時点で唯一確認し得ている﹁参考園版 A ﹂に引用した小林了安の極札と 一志﹁七代神罰道洋﹂の鑑定であろうと推定しておきたい。次に箱書の内容酉に着目すると、上蓋表の﹁集外寄仏制作 逼塞しているものと思われ、 が窺われ興味深いものがある。屑知の通り、 ﹁集外寄他﹂は﹁集外三十六歌仙﹂の異称の一つで、あり、 者之内﹂との注記などは、前述のように古筆関連の諸資料との接点が見出せなかった﹁静通尼﹂に対する、古筆見(神田家﹀の側の認識の具体椙 ﹁ 新 一 編 国 歌 大 観 ﹄ 一
O
巻にも島津忠夫氏の 龍谷大学図書蕗蔵﹃太平記﹄の研究 詳細な解題が付され収載されている 撰者については﹁後西読﹂と ﹁後水尾院﹂との荷説が存しており、 カl 成立時期も未詳であるなど問題の残 る資料でもある。但し、その現存す る写本数は多く、寛文九年には版本 も上梓されており、 かなり享受の範 参考陸寂B 酉が広かったことが窺われ、古筆見 にとって男知の資料であったとして も全く不都合は生じない。たまさか に、稿者も﹁新続女歌仙﹂と合写さ れた﹁集外歌仙﹂の写本を一本架蔵 しているので、 参考までに ﹁ 浄 通 是﹂の一詠作が存する部分の密寂を掲 げ て お き た い ハ 翻 刻 は 省 略 す る ) 。 次に、前掲の﹁図版1
﹂の伝浄通 二 九龍 谷 大 学 図 書 舘 議 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究
。
尼筆切と﹁図版E
﹂ の ﹁ 浄 通 ﹂ との署名を有する短冊との筆跡を比較すると、 同一字母の仮名の用例として ﹁ お ( 於 ﹀ ﹂ ・ ﹁ そ ︿ 曽 ) ﹂ ・ ﹁ け ( 希 ) ﹂ などが確認されるが、両者の結構には懸隠が存しているように感じられ、経年変容の範曙に収まるとの可能性もあろうが、稿者の判断としては、 ﹁ 図 版I
﹂の側の伝称の当否については﹁否﹂との見通しを抱かざるを得ない。 しかしながら、以上の点は﹁図販I
﹂と﹁図販E
﹂とが加筆であ ることを意味しているに過ぎず、厳密には、 ﹁ 菌 販i
﹂の鑑定結果である﹁浄通尼﹂と、 ﹁ 函 抜2
﹂の﹁浄通﹂と署名する人物とが同一であると は 確 定 し づ ら く 、 より根本的な問題として、 ﹁浄通尼﹂なる人物の素性昌体が分明ではなく問題が残されているのである。そこで、改めて﹁浄通 尼﹂に関する情報の整理を試みると、詰引の﹁図版1
﹂のキャプションには﹁義輝の母﹂とあり、 ﹁ 図 版E
﹂の筆者に関する注記にも﹁足利義輝 の母。天文九年頃(一五五O
﹀残﹂と見えるものの、森繁夫氏の﹃名家伝記資料集成﹂には﹁義晴の母﹂とあり、 ﹃新編国歌大観﹄の島津氏の解 題には﹁浄通尼(光源説義輝御室どとあるなど、 都合三種類の人物比定が混在していることとなるが、 いずれもが同一人物の異伝の範轄に収ま っており、同名異人の可能性については、 ﹁持通﹂との号を有する人物は管見の範酉では他には一切確認出来ておらず、前述の﹁園版I
L
の鑑定 結果と﹁留寂2
﹂の署名短冊とは同一人物である可龍牲が高いものとの見通しだけは得られたこととなる。なお、以上の三種類の人物比定につい て 、 ﹃国史大辞典﹄などを参照してより具体的に示すと、 ﹁ 義 輝 母 ﹂ は ﹁ 近 寄 尚 通 女 ﹂ 、 ﹁ 義 晴 母 ﹂ は 未 詳 、 ﹁義輝室﹂は﹁近衛種家女﹂となる が、いずれも﹁浄通﹂なる法名との接点は確認出来ない。更に、古筆切研究の立場からは、それぞれの父の真跡と﹁匿版E
L
との類向性の検証を も試みたものの決定打とはなり得ず、少なくとも、何らかの学問的根拠に基づいていることが想定される島津氏の比定結果の背景も追尋するに至 らない点試遺様であるが、識者のご示教をお願い申し上げることとして今後の課題としておきたば日 稲 川 出伝浄通尼筆切について
( 一 一 ) それでは、本節ではいよいよ伝浄通尼筆切の本文の性格についての検証を試みることとするが、龍節の﹁図版I
﹂に掲げた伝浄通尼筆坊は、太 平記の巻二三の﹁土岐頼遠参合御幸致狼籍事付雲客下車事﹂ (流布本系統に罵する慶長八年古活字本をま本とする岩技回大系本による﹀の一部に 相 当 す る 。 複製・翻刻が公刊されている諸伝本の本文を叡集しつつ伝浄通是筆切の本文との比較を試みたところ、 古語本系統に嵩する ﹁ 酉 謀 説本﹂及び﹁玄玖本﹂などの本文と近い関係にあることが判明した。そこで、便宜上まず﹁西諒院本﹂及び﹁玄玖
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更に、﹁玄玖本﹂と同系統で しかも、流布本系統以外では極めて諦な﹁平長名本﹂である﹁神宮徴古館本﹂とも同系統で、 庫議﹁松井本﹂について、それぞれの伝浄通足筆切に対応する蔀分の本文を掲、げることとしたい。 あ れ ソ 、 その欠巻部の補嘆に夜用されている静嘉堂文 ︹ 西 源 院 本 議 第 ︺ (夢窓﹀者天下之大知識一一テヲハスル上殊更嘗今之園師ト y 武家 之崇敬類ヒ無ロシカハサリ共彼ヵ命計ヲハ申宥メンスル物ヲト患ハレケレハ様々申 サレケルヲ重義朝呈事緩-一行テハ向後之積習タルへシトテ遂-一額遠ヲ召出メ 六 篠 湾 原 ニ テ 首 ヲ 倒 ラ ル 其 弟 -一 員 済 一 房 ト テ ︹玄玖本鶴湾(匡有名誌に擁された朱筆による線引や句読などは省略した)︺ ( 彼 和 尚 ﹀ ハ 天 下 ノ 大 知 識 -ご ア 御坐スル上殊更嘗今ノ菌師トメ武家ノ崇敬類無リ シカハサリノトモ彼カ命計ヲハ申宥スル者ヲト被思ケレハ様 ミニ設中ケルヲ宣義朝臣緩ルミニ行テハ向後ノ積キ習タルヘシ ト テ 終 -一 頼 遠 ヲ 召 出 シ 六 条 河 原 ニ テ 言 ヘ ヲ 被 例 ケ リ 其 弟 -一 周済房トテ ︹ 松 井 本 本 文 引 用 ︺ (夢窓﹀は天下の大知識にて御坐する上、殊更当今の国師として、武家の崇敬王山ブリ類しかば、さりとも彼か命計をは申し宥ずる物をと被思け れは、様々に被申けるを、重義覇軍事援に行ては、{間後の積、き習たるへしと、経に頼遠を召出し、六条河原にて首へを被レ例ける、 其弟に男済 一 房 と て ﹁ 図 版l
﹂と右記の三種の本文とを比較すると、伝浄通尼筆切との関にはそれぞれに徴結な異間が存するものの、全体的にはかなり近い関係に 龍谷大学図書館議﹁太平記﹄の研究龍谷大学図書館蔵﹃太平記﹄の研究 あることは首肯されよう。積者が謂査を試みた範囲では、その倍にも﹁中京大学蔵本﹂が謡揚の三種に次いで類似した本文を宥しており、 ﹁ 神 田 本 ﹂ 、 ﹁ 天 正 本 ﹂ 、 ﹁ 義 輝 本 ﹂ 、 ﹁ 党 舜 本 ﹂ 、 ﹁ 竹 中 本 ﹂ 、 ﹁ 土 井 本 ﹂ 、 ﹁慶長八年古活字本﹂などとの関係は疎遠で応ることが確認された(但し、未 公刊の缶本については調査が及んでおらず、或いは、それらの中にも伝浄通尼筆切との近似性を認め得る伝本があろうかと思われるが、 よ り 一 一 層 の広範囲な調査については、 太平記の諸本研究の側に委ねたい)。 そ こ で 、 ﹁西源院本﹂と﹁玄玖本﹂について、伝浄通是筆切との距離を確認す る と 、
1
切五宥E
﹁ さ まy t
に﹂よ玄玖本に近い、耳切六行言﹁事ゆるに L ょ西源院本に近い、亜切七i
八行自﹁めしいたして L ←酉源読本に近 い、百坊八 j 九行自﹁はねられける﹂よ玄玖本に近い、 との結果が得られた。但し、以上の内の﹁E
﹂については、稿者は﹁玄玖本 L の 当 該 箆 一 段 の 現 状 を ﹁ 緩 ル ミ -一 ﹂ と 削 判 読 し て 、 ﹁ ル ﹂ を ﹁ 捨 て 仮 名 ﹂ 、 ﹁ニ﹂を﹁送り仮名 L と解して、全体を﹁緩ミに(ゆるゆるにどと理解したが、 ﹁ 玄 玖 本系統 L に属する﹁松井本﹂では﹁事緩に﹂との本文を有しており、 ﹁玄玖本﹂の﹁踊り字 L の 部 分 が 、 ﹁ごとの字形の類似に起因する劣化異 文であり、それと連動して﹁ごとの﹁送り仮名﹂が什加されたとの可龍性も考憲すると、I
E
u
n
はいずれも教組な異同に過ぎないものの、若干 ﹁玄玖本﹂との霊離の方が近いこととなろう。更に、 ﹁玄玖本系統﹂には実際に和文化された平仮名本の﹁神宮徴古館本﹂が衰存している点も、 伝浄通尼筆切が﹁玄玖本系統﹂の伝本に基づいて和文化されたことの間接的な傍註とはなろうが、古筆切研究の最大の泣き所である構報量の絶対 的不足が橋しているとの感は否めず、 ﹁玄玖本系統﹂と﹁西源院本﹂との開に顕著な異同が存する箇所に相当する伝浄通尼筆努のツレの発見が鶴 首 さ れ よ う 。 前述の通りノ、現持点では、確言しづらいが、伝浄通尼筆切が和文化される際に依拠した伝本として辻、 ﹁玄玖本系統﹂の片仮名本の存在が想定 さ れ る が 、 ﹁玄玖本系統﹂の片長名の部分を機械的に平板名に置換したのでは、到察長浄通是筆切へと亘結するとは考えられない点に問題が残さ れ る 。 つまり、伝浄通尼筆切の和文化の度合は、謀本に付誤の存在を想定し得る難読箆所を中心とした限定的なものではなく、寧ろ、漢字で表記 した方が文意を理解し易いのではと判断される部分にまで及んでおり、仮に、 ﹁玄玖本﹂よりも漢字の付読が詳細な伝本を想定したとしても、そ こに﹁書写者(伝浄通尼筆切の本文の作成者﹀﹂ のさらなる平仮名表記への置換作業なくしては、 親本から伝浄通尼筆切の本文へとは繋がり得な いのである。とすると、 ﹁玄玖本系統﹂の片板名本から、亘接伝浄通尼筆切が派生したと考えるよりも、その中間に﹁神宮徴古館本﹂のような伝 本 を 介 在 さ せ て 、 ﹁玄玖本系片袈名本←機械的量換型平復名本ハ神宮徴古舘本)←伝浄通尼筆切﹂のように段搭的に和文化の度合いが偽徹底されていったと推定しておくのが穏当で誌なかろうか。そして﹁より一一層の平仮名表記化﹂を試みた﹁書写者﹂の意図としては、 ﹁写本﹂としての﹁視 覚的印象﹂を重視したとの可能性が想起されるが、改めて伝誇通尼筆切の書写面を一覧すると、視覚的印象としては、 一般的な物語の写本と荷ら 遜 色 な く 、 ﹁大ちしき﹂や﹁六てうかわら﹂といった一見不自然に感じる表記についても、それが太平記に蔓延する﹁漢語臭﹂をカモフラ!ジュ するための処量であると考えると、前述の﹁書写者 L の意図の理解としても整合性を有しており、それらは﹁不信然﹂ではなく、寧ろ﹁巧妙﹂な 処置として穣極的に評価出来るのではなかろうか。 以上、前節及び本節では、主に古筆切研究の問題意識に立脚して伝浄通尼筆切の考察を試みた。伝浄通尼筆切の最大の意義が、 ﹁ 玄 玖 本 系 統 ﹂ の本文の享受史の一山簡を具現化する物理的徴証の提示に存することは言をまたない。とすると、福田秀一誌が先鞭を付けられ、加美宏誌も太平記 より一一震の詳細な検証を覆み重ねておられる﹁太平記の中世の享受史﹂の中に、伝浄通是筆切をどのように詮置 の専門研究者としての観点から、 付けるかが真っ先に関われなければならないであろう。しかしながら、議第で検討を試みた通ち、古筆切の推定書写時期の最大の巨安として機能 するはずの古筆見による鑑定結果が、人物比定の段階で既に疑問が残されており、伝浄遥尼筆拐を確居たる時間斡に基づいて、 ﹁ 太 平 記 の 中 世 の 享受史年表﹂の中に定位することは圏難であると言わざるを得ない(伝浄通尼筆切の本文系統が﹁流布本系統﹂ではない点から推して、所謂﹁嫁 入本﹂であったとの可能性は低いものと考えられよう)。 更 に 、 伝浄通尼筆切の現蔵者も不明であり、その料紙の雰囲気などから推定書写時期の 下設の呂安を探ることも不可能である。そこで、改めて﹁図版
I
﹂ に 掲 げ た 伝 浄 通 尼 筆 切 の 全 体 的 な 量 一 一 回 き ぶ り に 注 目 す る と 、 { 子 関 及 び 行 間 に 辻 あ る程度の余裕が認められ、それと連動して、連綿も短く単体の文字が頻出しており、 かなりの﹁癖字﹂ではあるものの﹁蕩意の書﹂であろうとの 向 印 象 を 抱 い た 。 つまり、伝浄通尼筆切は、前述の﹁一般的な物語の写本と何ら遜色なく﹂との次元を超えて、 より﹁浄書本﹂的な雰毘気を有して おり、或いは、貴顕の女性のために調製されたのではないかとさえ想定してみたくなる。そして、これまで明記することを避けて引き延ばしてい た稿者自身の缶浄通是筆切の誰定書写時期に関する判断についても、その書試が、古筆伝称の示唆する﹁義靖・義輝﹂の周辺である﹁室町後期﹂ と考えても全く違和惑を覚えないとの、消撞的な見解を提示するに留まらざるを得ないというのが正室なところである。 龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究龍谷大学密書館議﹃太平記﹄の研究
N
伝一条兼冬筆切について
久曽神昇氏の﹃物語古筆断笥集成﹂(設吉書誌、平成一四年一月﹀の第 一部の第七O
図 に は 、 ﹁伝一条兼冬筆平家物語、 一 一 ・ コ 一 種 × 一 四 ・ 五糎﹂とのキャプションが付されて以下のような古筆切が掲載されて い る 。 ︹ 図 版E
翻 刻 ︺ 南 一 部 採 は 殿 此 兼 比 冬 世 公 に 電欝?苦
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王正 一一一ー の 蓄基? 有けるか只一騎室へ四方を敵 に受て戦ひけるに左衛門佐 の兵とも馬の足を立堪たり 愛に左衛門佐の兵に言葉 と 誉 助 左 自 の 定 衛 く 大 基 門 は 開 西 五 せ の 塔 郎 し 者 の 兄 て あ 金 ; 弟 南 札 乗3
後 部 互t
と 藤 に に 』 て 掃 組 ご 位 ご 名 部 む と相近く南部からy
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、 と う ち わ らひ物ふしの人々やとう切て太 四 国版E
万の金の程を見せんとて五 尺六寸の太万を持て関て 塔 片 の 手 金 打 乗 に 苧 う の た 鉢三む を と 打 す れ 西 て懸抜たり是をみて首藤 龍掲の久曽神氏の著書が刊行されるや否や、稿者は当然のごとく、 同書の収載切を私に作成していた﹁出典判明仮名散文古筆切一覧稿﹂ ( 拙 稿 ﹁ 源 氏 物 語 関 係 古 筆 切 資 料 集 成 稿 ﹂ ︿ ﹃ 本 文 研 究 ﹄ 第 六 集 、 和 泉 書 院 、 平 成 一 六 年 五 月 ﹀ の ﹁ 凡 餌 ① ﹂ で は 同 誌 の 次 号 で の 掲 載 を 予 告 し た が 、 同 誌 が ﹁ 第 六 集 ﹂ を も っ て 終 刊 と な っ た た め 、 現 詩 点 で は 未 発 表 の ま ま で あ る V に 登 録 す べ く 、 書写内容の確認及び解明に着手した。久曽神氏の著書では、国抜亜の伝兼冬筆 切の出典を﹁平家物語﹂と認定した上で、参賠本文として平家物語巻五の﹁奈良炎上の事﹂の冒頭部以下が﹁中略﹂を挟んで引用されておわソ、軍 記物語の内外漢である稿者にとっては、久曽神氏が揚出された参照本文と伝兼冬筆切の本文との懸障に当惑しつつも、伝兼冬筆努の本文も、移し い異本が乱立する平家物語のいずれかの伝本との近似を確認し得るものと期待しつつ調査を進めていた。 しかしながら、以上の安易な巨論みに反 して、伝兼冬筆切の本文の書写内容が﹁平家物語﹂であることを担保するに足る伝本には逢着せず、自力ではその出血︿が解明出来、ずにいた。その 折、ふと﹁耕は餅墨﹂との格言を思い出して、当時龍谷大学大学院移士課程(現在は博士課程﹀在学中で﹁義経記﹂を専攻している勝亦智之氏に 缶兼冬筆切の複写を提示して、その書写内容の解拐に協力を依頼したところ、勝亦氏誌立ち所に当該切が﹁太平記﹂巻三三の﹁京軍事﹂の一部に 担当することを看破され、幸いにも本稽で温上に載せることが可態となった次第である。璃者の不明を恥じるとともに、何よりも勝志氏への諾意 を特記しておきたい。 伝兼冬筆切の書誌的事項については、前掲の法量以外は不明であるが、消息の一部かと推定される文字が随所に裏写りしており、料紙が拷紙系 である点と、治患の紙背が当該写本の書写料紙に供されていたことが窺われる。付属する垣札の記主は、筆跡から推して﹁四代神田道梓﹂である と思われるが、極札では切の書き出しの文字を﹁南部﹂と誤読しており、缶称の当否についても、兼冬の自筆短冊と比較すると明らかに別筆であ る。また、当該切の紙霊は、一所謂﹁二ツ切本﹂に近いものと推定されるが(但し、当該拐の下部及び左端に若干の裁断が想定されることから、厳 龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 五
龍 谷 大 学 密 書 館 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 一.L.. /、 密には一紙分の紙型を復元し得ない﹀、古筆切としては極めて珍しい紙重であり、前述の濡患の紙背の再科用との関連が注目されるところである。 なお、当該坊の推定書写時期については、兼冬の生存期間(一五二九
i
五回﹀である﹁室町後期頃﹂であろうが、更に幾分下るのではないかとの 印象も拭えない。 異 本 ﹂ 次に、伝兼冬筆切の本文の性務についての検証を試みることとするが、当該切の場合は幸いなことに太平記の諸本の中でも﹁最も特徴の顕著な (長塚誌の弓太平記﹄藷本研究の現在﹂中の文言を信用した)との評価を与えられている﹁天王本系統﹂との近似が際立っていることが判判明した ( 認 ) まず当該系統の諸本の中でも影印本が公刊されている﹁義輝本﹂の伝兼冬筆切に対応する部分の本文を掲げることとしたい。 の で 、 便 宜 上 、 ︹義輝本翻刻(固有名詩に施された朱筆による線引や匂読などは省略した﹀︺ 甫 部 ハ 北 比 世 ニ 勝 レ タ ル 丘 ハ ノ 塞 有 ケルカ只一詩整へ四方ヲ歎ニ受テ戦ヒケルニ左諾門佐ノ兵共 罵 ノ 足 ヲ 立 堪 タ リ ノ 愛 -一 左 衛 門 佐 ノ 丘 ハ ニ 首 藤 左 禽 門 五 蕗 兄弟後藤掃部助定基西塔ノ金乗トテ名誉ノ大関ノ者 アリ互ニ吃ト自クハエシテ南部-一組ント相近ク南部カラノ¥ト打 笑ヒ物々シノ人々ヤトウ切テ太万ノ金ノ謹ヲ見セントテ五尺六寸ノ 太 万 ヲ 持 テ 毘 テ 片 手 打 -一 打 ジ ト ス 西 塔 ノ 金 乗 甲 ノ 鉢 ヲ 打 レ テ 懸抜タリ是ヲ見テ首藤 ﹁ 図 版E
﹂ の伝兼冬筆切と ﹁ 義 輝 本 ﹂ との本文を比較すると、 ﹁ 略 校 合 ﹂ の次一克で異間と認められる笛所は ﹁ 義 輝 本 ﹂ の傑の誤写に起因する ﹁ 白 グ ハ エ シ テ ﹂ の ﹁ エ ﹂ の部分のみである点が確認される ハ ﹁ 天 正 本 系 統 ﹂ との呼称の典拠となった彰考館蔵本を底本とする﹁新編E
本古典文 学全集﹂では、当該箇所は﹁自くはせして﹂となっており長兼冬筆切と一致するが、逆に、切及び義輝本の一行自の﹁此比﹂の﹁比﹂を脱してい る ﹀ 。 更 に 、 その和文化の方法自体も、先に検証を試みた﹁伝浄通是筆弱﹂の場合と比較すると、現ちかに親本との距離が近く、機械的に﹁漢字 片仮名交じち本﹂の﹁片仮名﹂の部分を﹁平仮名﹂ へと置換したに過ぎないとの印象を抱かされる。 つ ま り 、 ﹁ 伝 浄 通 尼 筆 切 ﹂ よ れ ノ も 誰 定 書 写 時期が下る伝兼冬筆切の方が、寧ろ、始原的かつ標準的な和文化の産物であるものと推定され、伝兼冬筆切が伎拠した親本の姿も、他ならぬ伝兼冬 筆切の本文に基づいて復元し得ることが想定されよう。とすると、本文辻較の方法としても、 ﹁完全校合﹂の次元での検-証が要請されるが、 ﹁ 義 輝本﹂及び﹁彰考舘蔵本﹂のいずれもが、 ﹁漢字・仮名﹂の黒字や﹁送り仮名﹂の分量などでも伝兼冬筆切との間に徴差が生じており、以上の数 差を過大評僅するのは危険であるが、伝兼冬筆拐の存在自体が、現存が荏認されていない﹁天正本系統﹂の伝本の存在を示唆しているのではなか ろうか(なお、現在その存在が確認されている﹁天正木系統﹂の他の伝本について付言すると、龍谷大学蔵本は、伝兼冬筆切担当巻を欠いており、 内閣文庫歳本︿野尻本﹀も、他系統本との取り合せ以降に泣宜しており、 いずれも本文比較の対象とし得ないのは残念である)。 ま た 、 ﹁天正本系統﹂の和文化の物理的徴証として看過し得ない存在としては、本稿の﹁はじめに﹂でも引用した長谷剤端氏の﹁管見記・太平 記断笥﹂で翻刻・紹介されている宮内庁書陵部議﹃管見記﹄ 一
O
五巻中の第一OO
巻に担当する一軸が挙げられよう。当該断欝の書誌的援要につ いて、長谷川氏の解題から橋記すると﹁もと冊子本袋綴の八葉の紙を継いだもので、第四紙と第六紙を除く六葉の一面に太平記が書写され、位の 天正本系諸本の中でも天正本と用字に至るまで一致している (中略﹀外題・内題ともなく、 端裏書に =百 太 平 記 切 か さ し た る 事 『 な 太 し2
平 b '-'記 と 』 あ の る 本 ( 文 中 は 面には平治物語が記されている。現状では﹃太平記﹄を書写した面を表とし、平治物語を書写した面に裏打が施されている c 略﹀書写者は不明であり、書写年代は室町中期、十六世紀初頭の永正・大永年間を下らないと推測される﹂とのことであり、当該断簡の存在は、 ﹁天王本﹂を底本とした﹁新一編日本古典文学全集﹂の同氏の解説でも﹁天王本系の伝本が室可中期には既に存在していたこと﹂の援拠として援用 されるに至っている。更に、長谷川川氏の論文の議末では﹁天正本との校異﹂が掲出されており、出引き続き﹁播注﹂として、鈴木登美恵氏の﹁佐々 木道誉をめぐる太平記の本文異国﹂(﹃軍記と語り物﹄二、昭和三九年一二月﹀の﹁註一八﹂の全文を引用されて、 弓管見記﹄が天正本系誇本と共通す ﹃手越河原﹄﹃名越﹄﹃引越して﹄﹃腰越﹄などのように、 見記﹂の本文が天正本系諸本のさきにあると考え得る可能性の一端を示しているといえよう﹂との見解が提示されている。圏点が持されている部 る本文を持ちながら、 ﹃超﹄の字ではなく、終始﹃越﹄の字を用いていることは、 =苦 件均 日 分の文意がやや付麦しづらいが、現行の天王本系諸本よちも前段搭に泣置する古態の罰系統の伝本亭在の可能性が示唆されているものと理解され、 ﹁管見記断篇﹂の学問的橿鐘を左右する最重要論点に抱ならない。ちなみに、本稿で取り上げた伝兼冬筆切と現行の天正本系諸本との距離が、長 谷川氏が掲出されている﹁管見記断簡﹂と﹁天王本﹂との距離よりも格段に近接している点も、長谷川川氏の示唆された可龍性の間接的な傍証とし 龍 谷 大 学 園 書 館 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 七龍 谷 大 学 菌 書 館 蔵 ﹁ 太 平 記 ﹄ の 研 究 J¥ て機能するものと思われ、門外漢の稿者の立場からは、 ﹁管見記断簡﹂が依拠した﹁片仮名本﹂の時間斡がどこまで遡及し得るのかについての見 解を提示することは不可能であり、長谷川氏の問題提起に対する、ご自身をも含めての太平記の諸本研究の備のより一一層の厳密な検証を期待して おきたい(なお、古筆切研究の立場としては、太平記の諸本研究の割にも吉筆切資料に対する意識を喚起しようとの意閣が存するが、 ﹁ 流 布 本 系 統﹂以外の二種類の﹁平仮名本﹂の太平記の古筆切を組上に載せたこと昌体に誌ある程度の満足惑を覚えるものの、それらの二種類の古筆切の学 間 的 意 義 が 、 ﹁管見記断簡﹂には及ばないであろうとの現実は頭の痛いところである)。
V
軍記物語関連古筆切一覧稿
︹軍記物語関連古筆切一覧稿︺ ︽ 凡 例 ︾ 本一覧稿は、薦者が現時点でその存在を認識している﹁軍記物語﹂の古筆切について、各作品の通称の五十音顕に基づき配列して、伝称筆者 ごとに一覧したものである。 百 本一覧稿の収載範圏については、内容上、軍記物語との密接な関連を有する﹁幸若舞曲﹂をも一括して掲げ、更に、古筆切研究の立場から、 特筆すべき或果であると考えられる落合博士山氏の﹁十二類合戦絵巻詞書﹂ の発見についても付加するなどの若干の ﹁ 椙 ﹂ をもたせた(なお、本 一 橋 で 言 及 し た ﹁ 太 平 記 ﹂ 試 省 略 し た ﹀ 。 荷 山 山 原賠として、各作品名に引き続き各古筆切の内容を示す典誕の基準に患いた資料名を-記したが、同一作品内での典挺が複数になる場合には、 伝称筆者の次に二重山括弧を付して特記した。N
現刊の手鑑類の解説でその書写内容が解明されていないものには﹁古﹂を、古筆切の図版を稿者が確認するに至っていないものには﹁肯﹂を 付 し た 。V
各古筆切の本文の系統については、管見に及んだ先行研究の成果を反映させるべく努めたが、 いまだ、十分に検討するに至っていないものも残存しており、今後の課題としておきたい。 ︹幸若舞曲(岩波新吉典文学大系﹃舞の本﹄所坂本の頁数﹀︺ -遠患(十市﹀;佐々木孝浩氏蔑(富窪・三八五夏四行;一一行・ 一 面 一 三 行 ) 、 佐々木孝浩氏蔵(富撞・三八五頁一一一行 J 三八六頁一行・一面 一三行・龍掲切に後援)、佐々木孝浩氏蔵(富罷・一ニ八六頁西行
i
七行・一一面八行、右五行分欠を隔てて龍掲切に後援﹀ -元 信 ( 武 田 ﹀i
女披香殿二九七(和田酒盛・四八四頁一七行 J 四八五頁三行)、古藁叢(人﹀五(和田酒盛・四八六頁一行 J 三 行 ﹀ -不 明 ーω
某氏蔵ハ新曲・五七九頁六行 J 九行・高城弘一氏のご教示による﹀ω
︽縦型奈良絵本切︾石川透氏蔵(徳田和夫氏編﹁お伽草子事典﹄口絵に図版掲載・烏靖子折、 ﹁幸若舞曲研究﹄第七巻の京都大学付属 図書謹蔑﹁幸若亘熊本﹂叡載本の本文に誌ぼ一致、前掲書三六六真一九行;コ一六七頁五行﹀ 的︽絵巻残巻︾昭和三七年度三都吉典連合会結成記念﹁古典籍展観大入札会出品吉録﹂i
二九(思文語古書資料言録一一九号i
六三・烏 帽子折・三二九頁九行 J 一回行・まで図版掲載あり)、 平成一五年度東京古典会古典籍展観大入札会巨録 i 六九(烏帽子折・一二三六頁 四 行i
一 三 行 ﹀ 川 W ︽離型奈良絵本切︾思文関墨蹟資料自録一二八号 i 一二(大織冠・﹃幸若舞曲研究﹄第六巻の甘木市秋月郷土館黒田文庫蔵﹁舞の本﹂ -収載本の本文にほぼ一致、前揚書三一六頁七行;一一行﹀ 防︽奈良絵本切︾平成七年度東京古典会古典籍下見展観大入札会目録i
二二九(忠文関古書資料巨録一六七号i
一 二 ・ 屋 島 ・ 前 後 錯 筈 あ り 、 ﹃在外奈良絵本﹂収載のニュ i ヨ i ク ス ベ ン サ i-コレクション蔵﹁屋島尼公物語(仮題)﹂ の本文にほぼ一致、龍掲書釈文 頁下段九行 J 一 六 行 ( 継 目 ﹀ 一二三頁中段二ニ行 J 一九行、当該坊の出典の解明は三浦俊介氏のご教示による﹀ ︹ 十 二 類 合 戦 絵 巻 詞 書 ︺ -尭仁(妙法院﹀︽堂本家自蔵絵巻侠失部︾ i 落合薄志民議(平成二ハ年一一月国文学研究資料館秋季特別展﹁古筆と和歌﹂展示言録 i 六 七 ・ ﹃ 吉 筆 へ の 誘 い ﹂ i 五一・下巻第四段﹀ -後 山 宗 光 院i
宮内庁書陵部蔵(粉河寺縁起紙背・石塚一雄氏﹁後山宗光院展筆物語説話断簡について L 令書陵部紀要﹄ 一七﹀及び梅津次郎氏﹁十二 龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 九龍谷大学密書舘蔑﹃太平記﹄の訴究 図
。
類 合 戦 絵 巻 ﹂ ︿ ﹃ 鎗 巻 物 叢 誌 ﹄ ﹀ 参 照 ・ 上 巻 巻 首 部 ﹀ ︹曽我物語(岩波古典文学大系﹁曽我物語﹄の頁数)︺ -鯖庵(梶井宮﹀│八木書庖古書目録五一号(平成一O
年一二月﹀!二八五(巻一・八八頁八行?﹀ -後伏見読︽穂久通文庫本系統・﹁日本古典文学影印叢刊二五﹂の頁数︾i
貴久曽神昇氏蔵(巻四・四七九 J 四 八O
頁 、 関長﹁十一巻末曾我物語 と 穏 久 遺 文 庫 本 ﹂ ︿﹃国語と国文学﹄昭和二九年二一月号﹀参照) ︹ 平 家 物 語 ( 源 平 盛 衰 記 ﹀ ︺ (松尾葦江氏﹃軍記物語論究﹄ ︿ 若 草 書 一 房 ・ 平 成 八 年 六 月 ﹀ 参 照 。 な お 、 厳島神社蔵及び大鵠奥津鳴神社由蔵の各 連の断簡については省略した。また、系統が判興する場合でも、章段の名称は、便宜的に、岩波古典文学大系﹁平家物語上下﹄収載の﹁覚一本﹂ のものを捷用した) 堆房(万里小路﹀ ︽岩波古典文学大系﹃平家物語上下﹄の頁数・系統不明︾ i 久曽神昇氏﹃物語古筆断簡集成﹄第一部;七一一凶(巻三・大臣流 罪・上二五七真一五行 j ﹀ -慶 運 ( 和 歌 四 天 主 ﹀ ︽絵巻詩書切か・岩波古典文学大系﹃平家物語上下﹄の頁数・系統不明︾i
村上列氏歳手鑑時代不同和歌結(巻八・山門調 幸・下一一八頁九行J
﹀ -兼 成 ( 水 無 瀬 ﹀ ︽岩波古典文学大系﹃平家物語上下﹄の頁数・系統不明︾!第五二回東西老舗大古書市出品目録抄│一七五 (巻二・大納言流 罪・上一七九頁﹀ -行 凌 ( 堂 尊 寺 ﹀ ︽長円切・菌民文章﹃源平盛衰記 全﹄の頁数・盛衰記系統吉本・便宜的に、松尾葦江氏の﹃軍記物語論究﹄ ︿ 若 草 書 一 房 ・ 平 成 八年六月﹀に揚出されている、長円切と対応する﹁源平盛衰記﹂の本文の頁数に従った。なお、左記論文に未摂取の切には﹁O
﹂ を 付 し た ︾i
古筆学大成二四巻i
一四一一凶(蓬左七六・巻一一・二七八頁一五行110
披香殿一八五(巻一一・二八O
頁六行 J ) 、O
﹃平成新修古筆資料集 第 一 集 ﹄ l 四九(巻一五・三五六頁三行 J ) 、 。日比野浩信氏蔵(切上半分が裁断された六半型・紙背あり、 幽碩の極札裏書に﹁上ノ文字切候 端切﹂とあり、日比野氏﹁﹁平家物語﹃長門切の一伝存形態 L ︿﹃汲古﹄四五﹀参照・巻一五・三六三頁二一行J
V
古筆学大成二回巻 l 一 四 二 図 ( 彊 人 麗 手 鑑 も し の 関 ・ 巻 一 五 ・ 三 七 一 一 員 八 行 ; ) 、O
﹃阪急古書のまち古書E
録﹄︿平成一七年六月﹀中尾松泉堂書庖カラ i 寂!五古筆切五謹ー四ハ巻一六・三九二一具二ニ行 J ・ 天 地 無 界 ﹀ 、 。﹃鶴見大学図書館蔵貴重書八
O
選 和 歌 と 物 語 ﹄i
一 一 一 イ ( 巻 二 ハ ・ コ 一 九 四 頁 四 行lv
﹁ 鶴 見大学蔵貴重書展解説国録 古典籍と古筆切﹄ i 一O
七イ(﹃鵠見大学図書結蔵貴重書八O
選 和 歌 と 物 語 ﹂ 1 一一一ロ・巻一七・四二六頁三行 ?)、古筆学大或二回巻i
一回三留(藻塩草二ハ0
・巻一八・四四四頁二一行 j ) 、国文学古筆切入門九四左側(春日井市道鼠記念館﹃国文学と 古 筆 ﹄ ︿ 平 或 二 八 年 一O
月 ﹀i
一二回・巻一八・四四五頁一行 j ) 、安乾氏蔵手鑑(藤井隆氏﹁平家物語異本﹃平家切﹄管見﹂ ︿ ﹃ 松 村 薄 司 先 生 喜 寿記念国語国文学論集﹂﹀参照・巻一八 e 四回六頁六行i
)
、﹁鶴見大学蔵貴重書展解説図録 古典籍と古筆切﹄i
一O
七ロ令鶴見大学図書館蔵 貴重書八O
選 和 歌 と 物 語 ﹂ i 二一ハ・巻一八・四回八頁五行 J ) 、古筆学大成二回巻 l 一四四図(根津美術館蔵一号手鑑・巻一八・四四八頁七 行i
・ 前 謁 切 に 後 援 ) 、 ﹃鶴見大学蔵貴重書展解説図議 古典籍と古筆切﹄ l 一O
七リ(﹃鶴見大学図書蕗蔵貴重書八O
選 和歌と物語﹄! ヌ・巻一九・酉六O
頁七行 J ) 、-R
某家裁(藤井軽氏﹁平家物語異本﹁平家切﹂管晃﹂ ︿﹃松村博司先生喜寿記念国語国文学論集﹄﹀参照・巻二 六 ・ ナ シ ﹀ 、 ﹃鶴見大学蔵貴重書展解説図録 古典籍と吉筆切﹄i
一O
七 ハ (﹃鶴見大学図書舘蔵貴重書八O
選 和 歌 と 物 語 ﹄i
二て一・橋本栄 三氏恒蔵・平成五年度東京古車ハ会古典籍下見展観大入札会E
録 i 四八・巻二六・六三三頁五行 J ) 、古筆学大成二回巻 i 一回六図(世々の友八 三・巻二六・六三三頁二二行 J ) 、 安田中塊堂氏蔵(藤井隆氏﹁平家物語異本﹃平家切﹄管見﹂ ︿﹁松村博可先生喜寿記念国語国文学論集﹄﹀参 照・巻二六・六三五頁二一行J
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0
第 五O
回東西老舗大古書市出品自録抄!一五六ハ巻二六・六三八真三行 j ・ 切 前 半 右 三 行 分 は 不 明 ) 、O
思 文閤古書資料自録一七六号 i 一二古筆手鑑(巻二六・ナシか・覚一本巻六﹁祇圏女御﹂末︿吉典文学大系四二五頁一一行以下﹀に類叡、 一 応 用 巻と対応する盛衰記巻二六に配当しておく)、安某寺蔵小昇鼠(藤井隆氏﹁平家物語異本﹃平家切﹄管見﹂ ︿﹃松村博司先生喜寿記念国語国文学 論集﹄﹀参照・巻二七・六百四頁回行;﹀、 。大垣博氏議(平成二ハ年一一晃国文学研究資料館秋季特別展﹁古筆と和歌﹂展示目録i
五0
・ ﹃ 古 筆 へ の 誘 い ﹄i
五0
・巻二七・六四九頁三行 j ) 、古筆学大成二四巻i
一四五図(東京国立博物館蔵十二号手鑑・巻二七・六五二頁二行 J ) 、O
女宝畠寺蔵吉筆手鑑(小島孝之氏﹁治承二年右大臣家百首の歌人、 その地(稀観の古筆切﹀ について l 古筆切拾塵抄紛 l ﹂ ︿ ﹃ 立 教 大 学 日 本 文 学﹄七八﹀参照・巻二七・六五五頁六行 j ﹀、金万比羅宮蔵手鐙古今筆諌(巻二七・六五五頁二一行 J ﹀ 、O
安東京某家蔵古筆手鑑(小島孝之弐 ﹁治承二年右大臣家百言。歌人、その能(稀譲の吉筆切)についてi
古筆切拾謹抄紛i
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︿ ﹁ 立 教 大 学E
本文学﹄七八﹀参照・巻二七・六五六頁 一行;・語掲切に後援﹀、﹃鶴見大学蔵貴重書展解説図録 古典籍と言筆切﹂i
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七 -一 ( ﹁ 鶴 見 大 学 図 書 館 蔵 貴 重 書 八O
選 和 歌 と 物 語 ﹄i
龍 谷 大 学 図 書 館 蔵 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 研 究 四龍谷大学図書嬉蔵﹃太平記﹄の研究 四 ホ・巻二七・六五八頁二行 J ﹀、古筆学大成二回巻!一四七図(翰墨域二三